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#√汎神解剖機関 #ノベル #紙片『形勢逆転』

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五槌・惑

 湿った空気が暗い路地を満たしている。先程まで降っていた雨と、走り続けた末に噴き出した汗。それらによって齎される不快感にすら構ってはいられなかった。既に乱れ切ってしまっている呼吸を無理やりに繰り返し、照明すら満足に無い夜の路地裏をひたすらに走った。辺りを漂う生々しい血のにおいの発生源が自分であると気付いたのは、随分と後になってからだった。

 逃げろ。殺せ。逃げろ。殺される前に喰らい尽くせ。

 己の中に巣食う〝何か〟が、何時からかずっと囁き続けている。その存在を薄ら認識し始めた頃、日常が静かに崩れ始めていたことにどうして気付かなかったのだろう。断片的にしか残らない記憶。身近な人間の失踪。その時点で、もう何もかもが終わっていたのだ。
 仕事帰りにスーツ姿の見知らぬ男達に呼び止められ、何処かへ連行されそうになったのを皮切りにようやくそれを知った。己の中にいる何者かが男達を刺し穿ち、左右に開く大顎で捕食する場面を目の当たりにして、ようやくだ。

「どうして……っ、いつ、こんなことに……ッ!」

 追って来る男達から逃げ続けながらも素直な感情を吐露する。途端、吐き気がした。呼吸もままならない。緊張と混乱と酸素不足による目眩が襲ってきた。誰の気配も無い路地裏で蹲る。吸って、吐いて。単純に繰り返すだけの呼吸が、何故だか今は上手くできなかった。

「おい、そこのアンタ」

 痛いほどの静寂の中、突如鼓膜を叩いた声に思わず肩が跳ねた。直前まで己以外の気配など一切無かったのに、気付けば背後に知らない人間が立っている。男か女かも判別がつかないその人物は、本当に人間なのか疑わしいほどに美しい貌をしていた。

「随分顔色が悪いな」
「あ、ああ……ちょっと、貧血で。大したことじゃないから……」
「さっき表の方で通り魔が出たって話だ。こんな所で休んでたら巻き込まれるぞ」

 声からして男なのであろうその人物は、表情らしいものこそ無いがこちらを案じるような言葉を投げ掛けてくる。通り魔──なるほど、己はそのように呼ばれているのか。苦笑したくなるのを抑え、極力その男と目を合わせないようにしながら何と返答するかを考えた。
 その答えを出したのは己ではなかった。少し落ち着いてきていた心臓が再び強く、不規則に拍動する。思わず呼吸が止まった。己の中の〝何か〟が、今までに無い動きを見せている。暴れていると表現するのが相応しいその動きは、何者かを威嚇しているのだと直感的に理解した。嫌な予感がして、心臓を骨肉の上から抑える。

「だい、大丈夫、だから。だから……放っておい……ッ」

 全く整わない呼吸の中、男を遠ざけようと早口で言うものの、間に合わない。己の中の〝何か〟が喉を無理やり抉じ開けて現れようとして、思わず両手で口を塞いだ。

 逃げろ。殺せ。殺せ。殺せ。|蠍に喰われてしまう前に《・・・・・・・・・・・》!

 そんな叫びを聞くと共に背を破って飛び出したのは、節くれ立った八本の脚だった。昆虫や甲殻類を思わせるそれは、黒々とした爪の全てを目の前の男へ向ける。その動きに、己の意思など一切関係が無かった。
 一秒にも満たない時間の後、鮮血で視界が埋まる。八本の脚は例外無く男の細い体を穿ち、路地を形成するビルの壁へ叩きつけた。先程のスーツの男達を襲った時と同じなのに、己は何もできず、立ち尽くすのみ。

「ちが、ちがう……俺は、俺は何も……ッ!」

 言い訳じみた言葉を零しても、目の前には磔になった死体があるだけだ。怪物じみた己の姿にも構わず、事切れた男の死体から目が離せなかった。殺した弾みに受けた返り血は全身に及び、誰かに見られたのなら言い逃れなどできない。今この場で己にできることなど、逃げる以外に何があるだろう。
 死体から無理やり目を逸らすように踵を返す。どこか、人の気配が無いところへ逃げよう。何に追われているのかも分からないまま。ただ、〝死にたくない〟という出処の分からない感情のままに、走るしか……──。

「──ああ、間違いないな」

 覚えのある声と共に、背後に熱が迫った。振り返った矢先に訪れたのは激痛。燃え盛る炎の中から突出した巨大な針が、己の肩に刺さった痛みだと気付くのに僅かな時間を要した。何が起こったのかも分からぬまま、強い力で体を引き摺られる。そこでようやく、この針が炎の中心から長く伸びてきたものだと理解した。
 炎の中心でようやく針が引き抜かれ、舗装された地面へ放られる。痛みに呻きながら視線を上げれば、そこには鈍く光る琥珀の瞳があった。

「なんで……さっき、死んだ筈じゃ……っ」

 己の中の〝何か〟が殺した筈の男が、そこにいる。体中に空けた傷など無かったもののようだ。貌や服に残る生々しい血の跡だけが、辛うじて直前の出来事が現実だったと物語っている。彼は一度死んで、蘇ったのだ。
 傍らに放り出されていた針がするすると動き、縮んでゆく。細く黒い糸で編み上げられていたそれが解ける。これは目の前の男の髪だ。金と赤が混じる長い黒髪が、意思を持つ生き物のように伸縮している。針で穿たれた肩の傷を庇うように、八本の脚が蠢いた。

「化け物……ッ!」

 口を突いて出た蔑称に、男は眉ひとつ動かさない。

「アンタもそう変わらないだろ」

 無感動な返しに啞然としていると、己の呼吸が随分と浅くなっていることに気付く。苦しい。先程までの、恐怖や緊張によるものとは明らかに異なる息苦しさを覚えると同時に、血の気が引いた。指先の動きがひどく鈍い。そのどれもが、男の血がべったりとついた場所だった。

「無暗に動くなよ。死にたくなかったらな」

 感情のこもっていない声のせいで軽く聞こえる。死が軽いものである筈がないのに、どうして彼がこんなにも平然としているのか分からなかった。
 男の髪が再び寄り集まり、一本の針を形作る。五感を奪う毒を帯びた、巨大な針。首を擡げるようにしてこちらへ向けられるそれは蛇──否、蠍の鈎針そのものだった。

 殺せ。殺せ。殺せ。|蠍に喰われてしまう前に《・・・・・・・・・・・》!

 ああ、お前の言っていることがようやく分かった。捕食者と対峙してしまった小さな蟲。それが己とお前だというのなら。
 鈍くなった感覚の中、八本の脚へ意識を寄せる。まるで心臓を守る肋骨のように構えられたその爪を男へ向けた。直前まで燃え盛っていた炎も今は落ち着いていたが、明らかに戦い慣れているこの男に背を向けて、逃げられるとは到底思えない。斯くなる上は戦って、隙を作るしかなかった。
 男が動き出す。一度死んだとは思えない速さでこちらとの距離を詰めてくる。蠍の尾とは別に、片手に携えた直剣の切先がアスファルトを削り、火花を散らした。抉れた地面から炎が噴き出す。現象の理屈など考える暇は無い。八本脚のうち二本が繰り出した白く細い糸がビル壁に付着すると、まるでゴムのように縮む。その勢いに任せて浮き上がった己の体は、一瞬で壁に張り付く形で退避を終えていた。
 眼下では蠍の男がこちらを見ている。直剣が届かない距離だと判断したのか、いつの間にか持ち替えていた拳銃の銃口をこちらへ向けていた。

「くそっ……どうあっても逃がさないつもりかよ……!」

 思わず零れた悪態すら、全て言葉にする余裕は無い。男が引き金を引く。拳銃にしては静音なそれが放つ弾丸を、人外の跳躍で避けるのが今の己の精一杯だった。

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