汚穢に塗れた都市の底で
√仙術サイバー、とある積層都市の最下層。
インビジブルなき見捨てられた地は、廃墟と呼ぶのさえおこがましい荒れ果てた環境にあった。
雨風を凌ぐことは意外にも簡単だ。なぜなら最初から空なんて見えない。
逆に注意しなければいけないのは、上層から落ちてくるゴミと得体の知れない廃液。
上層の人間が下層の住人を思いやってくれるなど、天地がひっくり返ってもありえない。
寝床の見定めに失敗したが最後、上から降ってくる不法投棄物に押し潰され非業の死を遂げるのだ。
脅威は上だけではなく同じ地平にも無数に存在する。
「よぉ~。ここは俺らの縄張りだぜ。落ちてきたならショバ代出してもらわんとなぁ」
武侠崩れの|古惑仔《チンピラ》が徒党を組み、我が物顔で一領域を支配する。
厄介なことにこの手の手合いはそれなりに腕が立つ。本気で上を目指せば中層に手が届くだろう。
……だがそこまでだ。しかも「手が届く」とは誰かの下につくことを前提にしたもの。
ならばあえて最下層へ降り、勝ち目のない貧民を相手に瓦礫の山の王様を気取ればいい。
少なくとも弱者を虐げ横柄に振る舞うことは出来るし、それを妨げる者も居ない。
中途半端な強さだけを身につけ、世界の壁の高さに心折れた落伍者――なんとも情けない話だが、最下層で暮らさざるを得ない無辜の民にとっては生命を脅かす重大な危機だった。
そう。今日までは。
「へえ……期待通りじゃねえか」
その男は何処からかふらりと現れた。
濃密な血の匂いを香水のように纏った明らかに危険な輩。誰も目を合わせようとはしない。
怯え震える弱者どもには一瞥すら向けず、青年はチンピラどもの塒へまっすぐ向かう。
「なあ。ここらで幅利かせてんのはお前らなのか?」
ドアの外れた廃墟の入口、壊れたネオン看板の残骸が明滅して男の影法師を伸ばした。
「あ? 誰だテメェ」
「その態度、最近|最下層《ここ》に来たクチか?」
やることもなく屯していたならず者どもが、殺気立って立ち上がる。
「そうなんだよ。ここなら命の奪い合いがいつでも楽しめると思ってな」
突き刺すような殺気をいくつも向けられながら、青年は涼やかな足取りで中へ。
「で、来てみりゃ早速お前らだ。分かりやすくて結構なことだぜ」
「テメェ……口の利き方も知らねえのか? あぁ!?」
立ちはだかった武侠崩れの背丈は大きく、青年の頭を遥かに越えている。
見上げる形になりながらも、青年はあるかなしかの笑みを口元にたたえていた。
「まあ待てよ。少しぐらいここの情報を仕入れておきたいんだ」
「るせぇ! そんなに知りたきゃ教えてやるぜ、俺たちの流儀をなぁ!」
武侠崩れは無造作に拳を繰り出した。
堕ちたチンピラとて功夫の一端を嗜んではいる。仙力を乗せた一撃は鉄をも砕く!
――はず、だった。
「「「へ?」」」
仲間の暴虐を眺めていた徒党は、猛スピードで何かが頭上を吹っ飛ぶのを感じた。
遅れて猛烈な衝撃が背後から吹き付け、積もった埃が煙のように立ち込めた。
呆然としたまま振り返る――壁に巨大な罅。中心にはクレーターじみた陥没が生じ、そこにさっきまで前に居たはずの武侠崩れが|埋まって《・・・・》いた。
「「「え?」」」
間の抜けた声を漏らし、再び前を見る。
「見ろよ碧流、間抜け面が並んでひよこの群れみたいだぜ」
凶悪な笑みを浮かべた青年が呟いた。
徒党へ向けたものではない。独り言のようだが、誰か別の人物に語りかけている。
「こいつらぶちのめしたらどんな面するんだろうなぁ? 見てみたいだろ? 今見せてやる」
左腕が異形に変じている。禍々しい影、いや、真っ赤に染まった棘の鞭。
それでもって仲間をはたき、一撃で吹っ飛ばしたのだと理解する。
「なあ、教えてくれんだろ? お前らの流儀ってやつをよぉ!」
その日を最後に、最下層を恐怖に陥れた賊集団は姿を消した。
●
|天霧《あまぎり》・|碧流《あおる》がいつになくワクワクしていた。
正直言って歯応えがない奴ばかりだが、今はいい。向かってくる奴らはどのみち殺す。
あれは撒き餌だ。事実、碧流を狙って襲ってくる敵の強さは徐々に上がっている。
それでも足りなければ上層を訪れればいい。Ⅱ層も治安は似たり寄ったりだ。
。
「ああ、やっぱいいなあ……わざわざ越してきた甲斐があったぜ」
廃墟の一角はあちこちの壁が崩れ、建物の体をなしていない。
ここが今の碧流の塒だ。ほっつき歩いて目についた敵を転がし、飽きたらここへ戻ってくる。
√EDENの住まいは引き払ってきた。今の碧流にはここが性に合っている。
「どいつもこいつも飢えた犬みたいな面して、ぶち殺すための敵を探してやがる」
罅の入った壁に背を預けた碧流は、両目に危険な光を宿した。
気が休まる瞬間など一秒たりとも存在しない、治安度最悪の最下層。
素晴らしい。まさに理想郷だ。
少なくともここには敵が掃いて捨てるほどいる。殺しても脅かしても明日には新顔が来る。
さらに時々妖魔がどこからともなく溢れ出し暴れまわるときた。大変好都合。
戦いを、命を賭けた無慈悲な殺し合いを心から愛する碧流にとって、此処こそが楽園だ。
緊張を強いられる環境。堪らなく愉快だった。生きている実感が無限に湧いてくる。
「きっとまだまだ楽しくなるぜ。ここで暴れりゃ暴れるだけ噂は広まるだろうからな。
そうすりゃ腕っ節のある奴らが虫のように寄ってきて……ククク、楽しみだろ碧流ぅ?」
罪から目を逸らし嫌悪する主人格を嘲り、やがて彼はうなだれるように眠りについた。
……もっとも碧流の知らないところで、彼の想定とは別の変化も起きている。
戦いを求めてあらゆる悪党・妖魔に勝負を挑み、手当たり次第に叩き潰す。それは逆に言えば最下層を脅かす不埒な輩の一掃と同義だ。
皮肉にも快楽殺人鬼じみた破綻者の自己満足行為が、荒廃した最下層にわずかながらの秩序を齎している。
無論、碧流にそんなつもりは毛頭ない――彼は弱者に心底興味を持たないし認識さえしない。
力なき人々も同じだ。碧流は荒ぶる神や制御不能の天災に等しく、誰も近づこうとしなかった。
それでも横柄に振る舞い金や物資を上納させようとする支配者気取りに比べれば、思うがままに殺し弱者を放置する碧流の方が何億倍も有り難かった。
きっといずれ、碧流はこのドブじみた最下層の暮らしにも飽きてしまうだろう。
度し難い快楽殺人鬼の歪んだ欲求に限りはない。刺激に慣れてしまえばまた何処か闘争で満ちた地獄のような場所を探して彷徨うはずだ。
だが少なくとも今は、武強主義という極限思想が性に合っていた。
上層? そんなものはどうでもいい。きらびやかな暮らしでは何も満たされない。
ただ強者とのひりつくような殺し合いを――めくるめくような血腥い日々を妄想し、座睡する青年の口元に裂けたような笑みが浮かんでいた。