咲き映える幻月花
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朽ち果てた祈りの神殿を冷たい月光が照らしていた。
「此処か……」
青年は吐息を漏らすように静かに呟いて、廃墟の教会を見上げた。
月明かりだけが静かに降り注ぐ丘には幻月花と呼ばれる白花が咲いている。
満月の夜にだけ花開くという幻月花は、絨毯を敷き詰めたかのように仄かに発光しながら咲き映える。
曰く、この花は逢いたいと願った光景を現に映し出す習性を持つのだという。
かつて、逢えぬ人々を思う人々が集い哀しみに暮れる心を慰めていたという話もある。
その人々が遺したのが、丘の中心に聳え立つ教会の廃墟だ。
(此処ならば、もしかして……逢えるのだろうか)
青年――エリアスは拳をきつく握り締める。
何を賭しても叶えたい想いがある。叶うはずもないと嘲り笑われたとしても己はこの|妄執《ねがい》を棄てることは出来ぬだろう。
(それでも、――)
擦り切れた祈りを携えて、何度も願った夢は残骸すら最早無い。
それでも、絶えることのない望みは埋火のように心に燻り、思考を支配している。
祈ったとて望んだものは得られぬかもしれない。必死に伸ばした手で掴み取った夢は幻に過ぎぬかもしれない。
「だけど、俺は諦めるわけにはいかないんだ」
エリアスは己に言い聞かせるように呟いてから、教会廃墟の扉を開けた。
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「昔は、幻月花の丘って呼ばれていたらしい」
集まったEDEN達に水縹・雷火(神解・h07707)が語るのは、とある丘に群生する|怪花《・・》の話だ。
とある山間の村。その外れの丘に満月の夜にだけ花開く幻月花と呼ばれる花がある。
白昼夢のように人々に夢まぼろしを魅せる花は、逢いたいと願った光景を現へと映し出す。
大体はもう逢えぬ人々や記憶との邂逅らしい。だが、喪失を経験した人々は例え幻だと理解していても縋り付きたくなるのが人の心というものだろう。
都合の良い|陶酔《ゆめ》を魅せる花をいつしか信仰対象とする信者すら現れた。だが、元々が片田舎の村はずれに咲く花。
幸いといって良いのか――あまり教えは拡がらずいつの間にか、宗教団体擬きは廃れて彼らが遺した教会の廃墟のみが虚しく存在している。
「まぁ、こんな花がまともな花なわけないよな。一応、歴とした怪異の一種らしい。けど、怪異っていうには力が弱すぎるというか……早い話がほったらかしになっていたんだよ」
もたらす現象は満月の夜の幻のみ。それも人々を夢の世界に陥れたり生命を脅かすようなものではない。
ゆえに、存在は認知されつつも誰も手を出さず放置されていたのだという。
眼前まで迫った黄昏と戦う√汎神解剖機関の人々に、斯様な怪異まで構っていられる余裕はなかったのかもしれない。
「でも、クヴァリフの仔が取り憑いて少々話が変わってくるんだ。クヴァリフの仔が取り憑いた幻月花は√能力者の意識に干渉してくる程に力が強くなっている。まぁ、力が強くなったと言っても白昼夢を見せられるとかそれくらいだな。昏睡状態にされたりとかそんなことはないから其処は安心してほしい……まぁ、今のところは、だけど」
雷火は一度言葉を句切り、改めて息を吸う。
「クヴァリフの仔と幻月花の噂を聞きつけて、襲撃してくる簒奪者がいる。蒼葬のエリアスと呼ばれる男だ」
浄炎を操る熾天使憑きの青年。真面目な性格のようだが、感情の起伏は激しい。
そして、幻月花の教会へと何か思い詰めた表情で訪れている光景が見えた。
「何かを思い詰めているみたいだった。なんでか、まではわからないけど……」
エリアスが抱えている事情も、幻月花に訪れる目的も、何かは現時点では解らない。
だが、目的がクヴァリフの仔だとしても幻月花だとしても悪用されたら厄介だ。
「だから、お前達にはエリアスを退け、クヴァリフの仔を確保してほしい――それが、今回の依頼だ」
エリアスが出現するのは満月の日の夜半。場所は丘の中心部に在る教会廃墟。
今より向かえば、教会へ向かう道中で軽く満月を愛でたり、幻月花を見てまわれる程度の時間はあるだろう。
「うーん、幻月花の咲く光景を例えるのは難しいんだけど強いて言えば芝桜とかネモフィラの花畑みたいな感じが近いのかな? ぼんやりと発光してる白い小さい花が丘一面に咲いているんだ。結構、綺麗だと思う」
幻月花の力が特に強まるのは教会廃墟の中だ。
√能力者であれば、教会廃墟に立ち入るまでほとんど影響を受けないだろう。
「よろしく頼む」
雷火は満月のような金色の双眸で真っ直ぐにEDEN達を見つめた。
第1章 日常 『幻想の花園』
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しずかに降り注ぐ月光が静寂の夜を慰めている。
月明かりだけを頼りに歩き続けた末に辿り着いた幻月花の丘は月光も必要がないように輝きを放っていた。
「すごく綺麗……」
「うん、本当に綺麗」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は満月の下で咲き誇る幻月花の花畑を眺めて瞳を輝かせながら呟く。
彼の背を見つめながら頷いたシスティア・エレノイア(幻月・h10223)。
その呟きは、はたして幻月花に向けたものか。それとも月光の中佇んで光景に瞳を輝かせるクラウスに向けたものなのか。
否、考えるだけ詮無いことだ。システィアはクラウスに気付かれぬように小さく首を振ってから彼の隣に並び立つ。
「不思議で美しくて、夢でも見ているみたいな光景だ」
「うん、夜なのにほんのり明るくて不思議だね」
幻月花はまさに花の盛りを迎えているのだろう。大地に敷き詰められたように花開く幻月花が周囲一帯を埋め尽くしている。
システィアは立ち止まり、そっとしゃがみ込む。
先程よりも近付いた幻月花の輪郭を指でなぞるように触れれば、まるで蛍が舞うように淡い燐光が夜に舞った。
「無害そうなのにね」
「これでも、一応怪異みたいだからね」
蛍のように舞う燐光を眺めながらシスティアが呟けば、隣で同じようにしゃがみこんだクラウスが静かに言葉を返した。
美しい薔薇には毒がある。触れてはならぬほど瞳には輝いて見えると語ったのは一体誰の言葉だったか。
幻月花は美しかれど一応は怪異と呼ばれる存在。魅せるのは所詮はまやかしの|幻想《ゆめ》だ。
かなわぬ|幻想《ゆめ》は見ない方が良いのだろうか――だって、届かぬものは見るだけ虚しくなるだけなのだから。
「……都合のいい夢が見られるらしいけれど」
それでも、システィアは都合の良い夢というものに興味があった。
隣にいるクラウスの蒼眸をみつめて静かに首を傾げた。
「クラウスは、どんな夢を見たい?」
「見たい夢、か」
問われたクラウスは幻月花を指で爪弾きながら思案する。
舞いあがった燐光はやわらかく輝いて夢のようにそっと消える。所詮は夢、ひととき逢える都合の良い幻想であるならば――。
「……親友に、会いたいな」
なんて都合が良いのだろう。だけれど、都合の良い幻を見せて貰えるならば、自分を庇って死んだ|親友《Anker》に逢いたいと希う。
いくら過去を想えど、時は未来へと向かっていく。徐々に遠ざかる過去はゆっくりとセピアへと色褪せる。
(忘れたくないと願っていても、彼が生きていた頃の記憶が徐々に薄れていく……それが、寂しいんだ)
思いとは裏腹に無情な時の流れに、せめて少しくらいは抗うことは赦してもらえるだろうか。
「ティアは?」
「俺は、クラウスと生前の親友さんが会える夢」
クラウスをみつめながら答えたシスティアの双眸に迷いはない。
あまりにも愚直なシスティアの言葉にクラウスは戸惑うように蒼眸を揺らす。
「ティアが見たいもの……俺の幸せで、いいの?」
「うん」
願うのは自分の幸福ではないのか。クラウスが戸惑いながら訊ねた言葉にもシスティアは迷いなく頷く。
(都合が良かろうが、親友さんが亡くなる悪夢ではない優しい幻を見て欲しい)
思い出すことが彼の弔いになるかもしれない。
だけれど、美しい思い出は身を苛み心を蝕むようなものではあってほしくはない。
「花を贈る時に、お顔を思い出せるように……俺も、会いたいんだ」
幻月花が放つ燐光のように柔らかな笑みがシスティアに咲く。
過ぎ去ったものを変えることはできずとも、未だ来ぬ道をともに進むための支えになれたら――|現在《いま》はそう、希うのみだ。
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皎月が夜更けの大地にやわらかな光をもたらして、静寂の夜を慰めていた。
月光を頼りに歩き続け辿り着いた花園は月に負けぬほどの燐光で夜闇を照らしている。
「わぁ……」
見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)が感嘆の声をあげながら、見惚れるように眼前に広がる景色を眺める。
斯様な彼女の様子を微笑ましく眺めながら紫乃坂・蓬生(紫炎の蓮の如く、紅散らす・h08897)は口元に薄く笑みを浮かべる。
「幻月花、かぁ。綺麗な場所やなぁ」
「ええ、本当に、すごくきれいなところですね」
楽しげに跳ねる七三子のポニーテールに蓬生はふふと目尻を緩めれば、次には七三子の瞳に少し複雑そうな色彩が滲む。
「こうやってきれいに咲いてるだけなら、良かったんですけど」
「せやねぇ。でも、きれいに咲いてるだけやったらこの場所を知れんかったのも事実やろ? せっかくやし、少し散策してピクニックせぇへん?」
蓬生の申し出に七三子は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべつつも、すぐにふふりと笑う。
「ふふ、私達はわりと花より|団子《お酒》なので、ちょっともったいなさ過ぎるかも」
「七三子クン、|本音《お酒》が隠せてへんで? 軽くやけど、食べ物とか飲み物持ってきたんよ」
冗談めかして笑いながらも蓬生は持ち込んだバスケットを七三子に見せた。
中身はサンドイッチが数種類にスコーンやカップケーキが彩りよく並べられている。保温水筒の中にも適温を保った珈琲をいれてある。
「わあ! すごい! ……はっ、また餌付けしようとしてませんか……!?」
「いやいや! 餌付けは……ちょっとだけ? それとも餌付けやと嫌か?」
「いえあの、たべます……。紫乃坂さんのごはん、絶対おいしいです。ちょっと抗えませんよう……」
「素直でよろしい。ほら、ちゃんと珈琲もあるさかいな」
「どこまで私をダメにする気ですか?」
冗談めかして言いながらバスケットの中を眺めている七三子は首を傾げる。
「あれ? このカップケーキ、ベーコン入っていませんか? 見間違いとかでいちごか何かですかね?」
「ベーコンであっとるよ。チーズとじゃがいもとベーコンをカップケーキに入れてみたんや。意外な組み合わせやと思うやろうけど、これが案外良い組み合わせなんや」
「しょっぱいパンケーキとかもありますもんね。あんな感じでしょうか? 楽しみです」
蓬生が用意したバスケットの中に意識を持って行かれる七三子。だけれど、すぐに欲望を振り払う。
花より団子といえど、先に撮るものは撮っておかなければならない。
「えへへ、食べる前に先に写真は撮っちゃわないと! 綺麗なこの光景はお月様と一緒に。あと、紫乃坂さんが用意してくれたお弁当も記念に撮っておかないとです」
「なら、バスケットをこっちに置いた方がええ感じに月の光が当たって綺麗かもしれへんなぁ」
スマートフォンを取り出した七三子に気付いた蓬生は丁度よく月光があたる位置に
暗所の撮影は案外難しい。手ぶれと光量調節と戦いながら景色を撮影した後に
蓬生は何気なく幻月花の花園の光景を眺める。幻想的な花園はデートに似つかわしい場所であるなぁとぼんやりと思った後に七三子の方へと向いて冗談めかして笑う。
「ボク相手でゴメンな?」
「いえ、紫乃坂さんと来られたのも嬉しいですよ。これは帰ったら好きな人に見せようと思います! というか、紫乃坂さんこそ、良かったんですか?」
「何が?」
「紫乃坂さんも大切な人と来たかったんじゃないかなぁと思って」
「せやなぁ……じゃあボクも帰ったらこの光景を見せようかな」
薄く笑ってから蓬生もまたスマートフォンに光景を収める。
自分ひとりでは相応しくない場所。だけれど、共に過ごす相手がいればこの時間は心地の良いものへと変わる。
ふたりは皎月と幻月花を愛でながら、月夜のピクニックに興じた。
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月光を受けて燐光を放つ幻月花の花園は、春宵の中で幻想的な美しさを刻む。
シンシア・ファルクラム(歌い、奏でる空の柱・h08344)が歩を進めれば、揺らいだ幻月花が燐光を夜天へと放つ。
(怪異といえど美しく、素晴らしい場所でございますね)
シンシアはしゃがみ込み、幻月花の輪郭を指でなぞる。シンシアの手によって揺らされた幻月花は蛍火のような燐光を夜空へと舞い上がらせる。
「わたしがもう少し幼かったら、きっと魅入られて、この場を離れなかったでしょうね」
静かに呟きながらシンシアは舞い上がっては消えゆく燐光を見守るように眺める。
幼い頃の自分はこの光景に無邪気にはしゃいでいただろうか。それで、綺麗なのだと伝える相手は誰だったのだろうか。
伝えられた相手はどのような言葉を無邪気な自分にかけてくれただろうか。
様々な人々の顔が脳裏に浮かんではしゃぼん玉のように弾けて消える。
(きっと、優しい言葉をかけてくださるのでしょうね)
戻らぬ過去の幻影の中でも柔らかく笑んだ彼らの姿を思えば、懐古の念に感情が熱を持つ。
唯一|聖女《おかあさま》は優しくはしてくださらぬだろうけれど、それもまた良い|記憶《思い出》であるのだろう。
幻月花が都合の良い甘い幻想を見せてくれるのであれば、きっとそれは戻れぬ過去が魅せる優しい日々。
甘い幻想に浸っていられるならば、優しいだけの夢を見られたのならば――きっと安らげるのだろう。
「でも、それは――停滞を生むだけの存在でしかないのです」
シンシアは夜空に投げかけるように、そっとしなやかな白腕を届かぬ皎月へと伸ばす。
「その優しさに身を任せるということは――わたしが守ろうとしている皆様の生きた証を手放すことに等しいのです。だから、わたしは歩き続けなければなりません」
いくら幻影の中で彼らに会えたとて、それはまやかしでしかないのだ。
夢は夢に過ぎず、いくら希おうと祈ろうと現にはならない。シンシアが生きるのは現実で、現在なのだ。
たったひとり遺された世界で、過去を繋いでゆけるのは遺された自分に与えられた役目なのだと信じてただ前を見るしかない。
「今のわたしが欲しいものは――聖女様の檄かもしれませんね」
希望は繋がり、夢を受け継ぐ。
途切れぬ愛を以て、未来へと今はただ進むことを月へと誓った。
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春夜に降り注ぐ月光に、燐光を舞い上がらせながら咲き映える幻月花。
「星詠みくんの言ってた通りの素敵なお花畑だべね〜」
番田・陽葉(はぐれ|熊猫《パンダ》純情派・h10140)は、感嘆の息を漏らしながらつぶらな黒いまなこで花畑を見つけた。
美しいものも可愛いものも、愛でてくれる人がいるからこそ意味をなすのではないか。
(幻を見せるような花じゃなければ、もっと人がたくさん来て人気な映えスポットになってたかもしれねえべ)
ほんの少しの寂しさを感じながらも陽葉はしゃがみ込んで幻月花にそっと触れてみれば、蛍火のような燐光がほわりと夜天へと舞い上がった。
「綺麗で可愛い花だべ。んだ、折角ならば香りも嗅いでみるべ……くんくん――うーん、特に怪しい感じはしねえ気がするべ」
怪異だとはいうけれど、今の時点では怪しい点は見られない。ただの可愛いお花だ。
ひとしきり幻月花の花を楽しんだ陽葉はもっふりと花畑の中で腰を下ろして、ぼんやりと月を見上げる。
春の空気に僅かに霞んだ満月は柔らかく陽葉を見つめている――そんな気がした。
「あの時に見上げたお月様は、もうちょっと遠くに感じたべなぁ」
陽葉の静かな呟きが春の夜にそっととけて消える。そうして、思い出すのは未だ陽葉が悠悠と呼ばれていた頃のこと。
霞がかった月のように、過去となった日々は少しだけ鮮明な輪郭を失いつつある。
手を伸ばしても届かぬ月のように、届かない過去の日々。
能力者というものも、簒奪者なんてものも知らないで、ただ動物園でのんびりと気ままに暮らしていた。
自分の一挙一動で人々が笑顔になっていたんだっけ。
何故だろうと不思議に思うことはあれど、誰かが自分のことで喜んでくれるのであれば悪い気なんてしなかった。
あの頃の自分の周囲には常に沢山の人々の笑顔があった。
楽しくて、穏やかで、懐かしくて、戻れない日々。
幻月花が逢えない人や記憶の幻を見せるというならば、きっと陽葉が見せられるのはあの日々の幻影だろう。
「過去は決して戻らない。でも、あの時に戻れたら――そう思わなかったことは無い、と言えば嘘になるべな」
春の夜は長い。ぼんやりと月を眺めながら陽葉はしばし戻れぬ過去へと思いを馳せた。
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春夜に灯る幻月花は朧月に負けぬ程に皎々と輝いていた。
ひとつひとつはか弱き光なれど、丘一面に群生する様は見る者の目を奪う光景だろう。
「確かに、これは幻想的に美しい光景だね」
レース・アルカーナ(ドラゴンプロトコルのフリークスバスター・h11374)は予め聞いていた星詠みの言葉を思い出しながら花景色を愛でるように呟いた。
美しい花が見られるという話だった。それを楽しみにもしていた。
だけれど、聞いた話から想像していた光景よりも実際の光景はずっと美しく、この双眸に映る。
(何事も実際に見ないと解らないということなのだろうね)
聞くことよりも自分で体験した方がより|記憶《おもいで》に刻まれるのだろう。
レースはしゃがみ込んで幻月花を指で弾けば蛍火が舞い上がるように仄かな燐光が夜天へと舞い上がる。
燐光が舞い上がった先――夜空にて、燐光はまるでしゃぼん玉が弾けるように儚く消えてゆく。
その様子は如何にも弱々しく儚くて、怪異だとしても力が弱く限定的という話に偽りはないように感じた。
(力が弱く限定的――だったら、いくつか摘み取って持ち帰っても問題ないかな?)
レースはひとつひとつが小さな花を見つめながら少し思案する。
そうして暫く考えた後に、幻月花を数本摘み取り美しいモノを収集し一時的に封じる匣へと幻月花を閉じ込めた。
(事が済んだ後でも、この花が残っているようなら、押し花にでもしてみよう)
咲く花はいずれは枯れる。
幻月花も怪異の花なれど満月の夜にだけ咲くという話だから、もしかしたら可惜夜が明けてしまったら春夜の夢幻のように消えてしまうのかもしれない。
だけれど、もしも消えずにこの手の裡に残ってくれるのであれば、今日という日を忘れぬ為の道標にするのもよいだろう。
喩え今宵の花景色のような美しい光を失ったとしても、大切なのは形として残る|美しいもの《おもいで》なのだろうから。
(さて……記憶の無い俺がどんな幻を見せられるのか、少し楽しみだね)
この先に待つのは希望か、絶望か。|真実《まこと》か、|虚構《うそ》か。
いずれにしろ、少なくとも美しきものを得られるならば良いのかもしれない。
レースは口元に薄く微笑みを浮かべながら歩みを進める。
教会の廃墟へと向かうレースの背を春の穏やかな月だけが見守っていた。
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孤夜に降り注ぐ月光は柔らかく、丘一面に咲き映える幻月花の花園は|虚構《フィクション》かと見紛う程に美しい。
嘯・シアン(恣意的思惟・h06837)が歩みを進めれば、揺らいだ幻月花が夜天へと燐光を舞い上がらせた。
「やっと君の「使い方」が分かってきたよ」
「なんですか」
憂・サディスト(蝶々結びで、・h12742)が夜色の眼でじっとりとシアンを見つめれば、いつもと変わらぬ様子でサディストは
「雑用もお供も全部押し付けちゃえばいいんだって」
「使い方も何も端からそういう契約です」
何をいまさら言い出すのか。否、実際のところ何となくそのようなことを言い出される気がしていたから別にサディストは驚いたりなどはしない。
「サディ君、綺麗に花畑を見渡せる場所を探してくれる?」
「あんたにやれと言われれば何でもやりますよ、私情もあるんで」
だから次のシアンのお願いだって、予め予測はしていた。
サディストは空中浮遊でひときわ美しく光景を眺められる場所を探す。
少しの間見渡し続けて見つけたのは遮蔽物もなく、かつ、月の光がより美しく幻月花の花園を照らす様子が眺められる場所であった。
「へぇ、これは中々良い場所だ。じゃ、次はお菓子を出して」
「はい、先生の好きなバターサンドです」
「飲み物も持ってくれたよね?」
「お好みは甘い紅茶でしたよね」
まるで予め用意されていた台本をなぞるかのように完璧な間で言葉を交す。
出された菓子と適温の紅茶を楽しみながら、シアンは光景を見渡す。
花の数。地形。月光が差し込む角度――それらを見渡して判断したシアンはすっと丘の一辺を指さした。
「あとは……そこに立って、動かないで」
端的なシアンの支持でもサディストは彼が何を考えているか察しがついた。
だからこそ、眉を潜めて不満そうな感情を顔に滲ませる。
だが、これも|契約《・・》か――内心で嘆息し言われたまま花畑を背にして棒立ちした。
「うん。そこ、ありがとうね」
シアンはクロッキー帳を取り出して愛用の筆で彼と花の光景を描いていく。
だけれど、どうにもキャンバスに描かれる光景は|不自然《チグハグ》でしかない。
「うーん、君って綺麗な景色が似合わないね」
「先生こそ、こんな景色を描くのは似合いませんよ」
シアンの率直な感想にサディストもまた素直な言葉を返しながら、視線を幻月花へと遣る。
(怪異が綺麗だから、それで?)
怪異は怪異でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
(美しいだけのものを有り難がれないのは先生も同じだろう……なのに尚も花なんて描く先生がまるで分からない。俺はあんたの描く地獄が見たいのに)
花が揺らぐ。燐光が舞う。月が舞い降りて、夢のような光景を魅せる。
それだけだ、其処に何かを思えることはサディストにはなかった。
ただ無感動に光景を見るだけのサディストの表情をシアンは眺め、ひとつ溜息をついた。
(厭世を謳う彼と、それでも美しい世界――少しは絵になると思ったんだけどやっぱり駄目だねぇ。少しは絵になると思ったんだけどやっぱり駄目だねぇ――そこに何の|物語《みらい》も感じられない)
其処にある光景だけをただ写しとるだけならば、それはただの記録だ。物語も何もない。
やはり自分は|生きてる《・・・・》モノが好きなのだと改めて実感する。
そうして、人物だけが未完成のまま花だけがクロッキー帳に描かれていった。
「ねえ、サディ君は花とか興味ない? この景色を一緒に見たい人とかいないの?」
「ありません、いません」
「あはは。君って本当につまらないね、サディ君」
「俺がつまらなくない人間だったら、あんたを有り難がったりしませんよ」
失笑しながらシアンの謗りのような言葉には思わずサディストも笑ってしまう。
笑みをみせるサディストに再びシアンは薄く微笑みを浮かべる。クロッキー帳の上で走らせる手は止めないままに静かに囁くように呟いた。
「サディ君もたまには良質な物語を楽しむといい。それも、最後には笑顔が溢れるような|結末《おわり》のものがいいね」
「|幸福《ハッピーエンド》だろうと|不幸《バッドエンド》だろうと、|終焉《おわり》であることには変わりないですけどね」
シニカルな言葉に相変わらずだなと呟いてから、シアンは再び光景を描く手に意識を向けた。
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足を踏みいれた先で待っていた光景にブランシュネージュ・クリスタリエ(雪華の慈愛・h06548)は思わず息を呑んだ。
「……うわ、すごいなこれ」
春の夜を優しく照らす朧月。降り注ぐ月の光を浴びて同じように輝く幻月花の丘。
穏やかな風が幻月花を揺らせば蛍火のような燐光が空へと舞い上がり儚く消える。
見惚れるように花を眺めたブランシュネージュはしゃがみ込み、幻月花をそっと覗き込む。
(これが幻を見せる花か――そんな風に見えないけど)
小さな白花は儚く夜風に揺らいでいる。
呆気なく手折ってしまえそうな程に儚くて、思わず触れようと伸ばした指をブランシュネージュは仕舞い込んでそっと笑った。
(まぁ見えないからこそ厄介なんだよな)
こうして自分の目を惹きつけて放さないか弱い花だからこそ、気付いてしまった時には手遅れ――だなんてこともあるのかもしれない。
小さく微笑みを溢したブランシュネージュは立ち上がって小さな花々を踏まないように歩く。
丘一面を埋め尽くして咲き映える幻月花は、まるで春野を覆う雪景色のよう。
(こういう場所、嫌いじゃないよ――静かで落ち着くしな)
美しいハナゲシキに思わず足を止めたブランシュネージュを皎月が優しく見守っている。
頬撫でる夜風に双眸を細めて見上げた皎月はやけに明るく映る。
「……こんな綺麗な夜なら、ちょっとくらい夢を見たくもなるよな」
呟いた言葉は春霞に隠されて、誰にも届くことなく消えてゆく。
否、誰にも届かなくてもいい――少なくとも、今は。
斯様なことを考えてブランシュネージュは思わず肩を竦めて小さく息を吐いた。
(――でも、まぁ、オレはいい。頼るのは、もう少しだけ後にしとくから……)
心の中で静かに幻月花に語りかければ、応えるように揺らいだ幻月花が夜空に燐光を舞い上がらせる。
舞い上がる美しい燐光が夜空に儚く消えてゆく様を眺めながら、ブランシュネージュは記憶に刻みつけるようにそっと双眸を閉じる。
今は斯様な綺麗な光景を見られただけで十分だ。何も、悪くはない。
記憶の中の花畑と今宵の花畑が少しだけ交わったのを感じて、思わず苦笑いをひとつこぼして開かれた双眸は教会を向く。
「さぁ、行こうか」
この先で何が待っていたとしても、今は立ち止まらずに歩を進めよう。
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陽に灼けた茶髪を皎月だけが照らしている。
(信仰、か……)
朝野・潮音(D.E.P.A.S.の警視庁異能捜査官・h12863)の心はさざめきたったままだ。
何を今更になって斯様に心を揺らしてしまっているのだろう。
もしかしたら、皮肉な程に美しく輝く皎月の所為だろうか。
(何もかも、今更だろうに)
走り続けた日々は永く、駆け抜けた道を振り返ってもただ昏い途が続いている。
全ては朧に霞んだ遠い記憶。されど、寄せては返す潮騒のように想い出の景色が蘇る。
幼年期。君と出逢ったあの日。慕情。共に過ごせただけで得られた幸福感。すれ違い。喪失。
無数に繰り返した|たられば《・・・・》話。
「馬鹿馬鹿しいな」
嘲る笑いは未だに過去に囚われたままの己に向けてのものだ。
過去の幻影を魅せる花の話を聞いたからか。だとしても、此処は海に囲まれて子守歌のようにわだつみの音色が響いていた故郷とは似つかない。
いくら思い返せど過去には戻れない。ただ、現実を歩くしかない。
自分に言い聞かせるようにヒールの靴音を高く鳴らし歩く。
満月の夜は嫌いだ。あの日を思い出すから。
思い出しても今更どうしようもないのに、あの月は己が過去から瞳を逸らすことを赦さないのだ。
そうして、満月を眺めるままに潮の香りに混じった血腥い惨劇の記憶が甦る。
もしもあの時、自分が何かを為せていたのであれば結末を変えられたのだろうか。
何度も何度も自答した。無力だった幼い自分の所為で、助けられなかった君のことを何度も何度も想った。
そして――思考に囚われかけた潮音の双眸に美しく映ったのは皎月のように白い花畑だった。
「……っ……」
漏れかけた言葉にならない嗚咽をなんとか飲み込み、呻くようにその場にしゃがみ込む。
月下に咲き映える幻月花は美しい。燐光を舞い上がらせながら揺らぐ花々は潮音が目を逸らすことを赦さないくらいに美しかった。
(ああ……)
息苦しさに喘ぐように、空に救いを求めて仰げばただ、皎月は静かに夜空で輝いている。
人は月を綺麗だと愛でるけれど、恐らく月は何も人のことを思ってはいない。
ただ、其処に存在しているだけなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「ああ……」
記憶の中に白い彼女の姿が過ぎる。
人の心も知らぬように巡る月は、まるで彼女のようだった。
●
朧月が春夜をやわらかく照らしている。
上機嫌そうな様子で元気よく歩くトゥルエノ(coup de foudre・h06535)の姿を緇・カナト(hellhound・h02325)は、ぼんやりと眺めながら並び歩く。
「満月の夜にだけ咲く花とかって、わりと耳にするのは何でだろうねェ」
普遍的な花であれば特に有難がる必要もないのではないか。だが、トゥルエノが行きたがっているならばまぁ――其れでもいいか。
(ま、夜の散歩自体が格別なものだしねェ)
カナトが少しだけスレた考えをしていれば、トゥルエノがちょいちょいと少しだけ遠慮がちにカナトの服の袖を引っ張った。
「主、ほら、綺麗だぞ!」
トゥルエノが指さした先には絶好の花景色が広がっていた。どうやら考え事をしている間に辿り着いていたらしい。
春夜高く燦めく皎月に、丘一面に咲き映える幻月花の花々は仄かな燐光を夜空に舞い上がらせている。
「おー、見事に咲いてる。花を見るならこういう景色がイイよね」
「ふふふー、主は花見は好きだっただろ~! 満月も共に見られてお得|意《・》というヤツだな!」
「ん? 雷獣クン」
「なんだ? 主」
「いや、なんでもない」
雷獣の言葉は態とだろうか。間違いだろうか。あっている気もするし、間違っている気もする。
やや引っかかった気もしたが、カナトは気にしない振りをした。
仄かに春の気配を纏う夜風がゆったりと流れている。
心地良い春の夜風にふかれるままにゆったりと歩み出したカナトをちょこまかとトゥルエノが追いかけて、カナトへと話しかけた。
「人々の花見は青空の印象も強かったが、夜の花畑の空気もまた良きもので〜」
「春空を思わせるネモフィラとはまた違った白い花畑を歩くのは居心地よいね。ああ、ネモフィラっていうのはこうやって地面一面に咲く空色の花で、確か開花時期も春だったはず」
「ほほぅ、ネモフィラは春らしい花ならば次に出かける時の目的地も決まりだなぁ。その時はサンドイッチでも持っていこう。だが、あるじはサンドイッチだけで足りるだろうか」
「そうしたら行きか帰りにでも、何処かの食べ物屋に寄っていけばいいんじゃない?」
「その手があったか……! さすがだな、主!」
他愛のない話をかわして歩くさながら「あ」とトゥルエノが何かを思いだしたかのようにふと歩みを止めた。
「そういえば主、幻月花とやらは夢を見せるそうだが、主はどのような夢まぼろしを望むのだ?」
ふと放たれたトゥルエノの言葉にカナトはふっと目尻を窄めた。
夢。望む都合の良い夢――今更、己に夢を見られる資格などそもそもあるのだろうか。暫く考えても結論は出ない。
「別に、特に望むような夢まぼろしも無いし……というか、月とか花とか、ヒトって願い託すのが好きだよなァ」
「遠くの月も、近くの花もヒトに寄り添うように在ればこそ、想いを聴いて貰いたくなるのではないか?」
「そういうもんかねェ……自然は其処にあるがまま、変わらなさがオレにとっては心地良いかな」
静かに呟きながらカナトは月を見上げる。あの日の月も、今宵の月も変わらず美しいままだ。
其処に人の意思も願いも存在しない。ただ、月は夜空に浮かび続けるだけ。
「まぁ、わたしの考えに過ぎないけれどな〜」
「雷獣クンはちょっとヒトに感化され過ぎじゃないのぅ」
そう冗談めかして言うカナトの横顔をトゥルエノは真っ直ぐ見つめる。
「ふふん。わたしも花を愛でるのは好ましくはあるぞ。それに、好きなものを眺める者の貌はまた輝いて見えたりもするからなぁ」
月光に照らされたカナトのその視線の先――決して手が届かぬ遙か彼方に月がある。
「それに、見上げる月明かりより我々の方が近くにいる……! そうだろう?」
「誰と見ようが景色は変わらないが、そういう感想はお前だけのモノじゃないかな……たぶん」
あの月に手が届かずとも、あの月ほどに美しく輝けずとも――今、傍に居られることが何よりも大切なことだ。
●
皎月の光が穏やかに春の夜を照らしている。
丘一面に咲く幻月花はまるで月の光のように柔らかな燐光を纏いながらゆらりと揺らいでいた。
「わぁあ~……! ほんとうにお花のじゅうたんみたいなのです」
視界いっぱいに広がる花畑に興奮したようにココ・ロロ(よだまり・h09066)はコロコロと転がりまわった。
そんな白い花畑の中で跳ね回るココを追いかけるように幻月花の花園へ足を踏み入れた神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)と夕星・ツィリ(星想・h08667)も見惚れるようにほうっと静かに息を吐いた。
「綺麗……あの教会も、廃墟になる前はきっとこの花畑に相応しい、素敵な建物だったんだろうなぁ」
「ええ、幻想的な風景は、えてして少しの寂しさを帯びるものですが、まさにこの場所はそのような空気ですね」
丘の中央に聳え立つ教会の廃墟。恐らく、かつては白亜の建物だったのだろう。だけれど、雨風に曝された廃教会にかつての面影はなく薄汚れた外壁に、所々崩落した天井はかつて其処にあったであろう神秘性も相まってよりもの悲しさを感じさせる。
静かに教会のかつての姿に思いを馳せるツィリの傍らで境華は持ち込んだ敷物を野原に広げた。
「さて……と、敷物を敷けました。ココさんを呼ばないとですね」
「呼ぶのは任せて! ココくーん! 3人で持ち寄ったものでお茶会にしようー!」
境華に自信満々に応えてツィリは野原で跳ね回るココへと視線を移す。
すぅっと息を吐いてからツィリが思いっきり呼び掛ければ、ココの耳がぴょこっと動いて空色の瞳がツィリへと向く。
「わ~い! そうだったー! えへへ、夜のおちゃかいもたのしみ~!」
弾んだ声でぴょんぴょことやってきたココを出迎えて、敷物の上で輪になれば月下の花見ティータイムの開始だ。
「これお家から持ってきたの!」
まずバスケットからサンドイッチとマフィンをサービングスタンドに並べたのはツィリ。
サンドイッチはたまごやハム、それからたっぷりのお野菜を挟んだ自慢の逸品だ。
マフィンはココアといちごのものを用意した。ほろ苦さとあまずっぱい組み合わせはいくらでもぱくぱくと食べられてしまうだろう。
「ココはバターサンドもってきました!」
ツィリに続いてココがサービングスタンドに並べたのは2種類のバターサンド。
自然の恵みたっぷりのいちごとレーズンのバターサンドはとっておきの品だ。
「わぁ、サンドイッチもマフィンもとても美味しそうですし、バターサンドは、レーズンにいちごも……沢山楽しめますね」
ふたりが持参した食べ物を笑顔で眺める境華にツィリは軽く小首を傾げながら訊ねる。
「ところで境華ちゃんは何を持ってきたの?」
「私は小さな月見団子と……それから、これを」
境華が取り出した小さな小箱には、ころんと草の鞠のようなものがみっつ収められていた。
見慣れぬものに興味を擽られたココはクンクンと匂いを嗅いでみる。
「すんすん……お花のにおいする。お花のたねですか?」
「うーん、お花の種にしてはちょっと大きい気もするなぁ」
匂いを嗅ぎながら首を傾げたココの隣でツィリもまた小首を傾げた。
ふたりの興味津々な様子に境華はくすりと笑ってからその草の鞠らしきものをひとつずつコップに入れる。
そして、保温ボトルからお湯を注ぎ入れれば、カップの中で花がふわりと本物の花さながらに咲いていく様子にココとツィリは思わず目を奪われた。
「わ、きょうかさんのおちゃ……お花さいた? ふしぎだけどかわいいのです」
「ほんとだ……不思議」
黄色い菊や赤い千日紅。それに、白く可憐な茉莉花がゆらゆらとお湯の中で揺らいでいる。
カップの中に咲いた幻想的な花にふたりが見惚れていれば、境華がふたりの前にそれぞれカップを置きながら話す。
「ふふ、仙術サイバーの花の良く見えるお店で選んできた温かい花茶です。どうぞ、お召し上がりください」
「花茶っていうんだ、本当に可愛くて綺麗だし風流! 流石境華ちゃん!」
「さて、お茶が冷めてしまわぬうちに食べてしまいましょうか――いただきます」
「はーい! いただきまーす!」
「ふふ~、いただきま~す!」
三人はちゃんと手をあわせ、月下のお茶会がはじまった。
「おやさいサンドおいし、マフィンはね~……ココアのにする!」
「ふふ、じゃあわたしはいちごのバターサンドを貰おうかな。大好きなの。花の香りのお茶といただくともっと美味しいね」
「はい! あ、ちいさなおつきさまみたいなおだんごもほしいのです。きょうかさん、いただいてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
こてんと首を傾げて聞いてくるココに境華は快く頷いてからお団子を差し出す。
「こういう風に夜に外でお茶をするのは初めてです」
境華の口元から笑みがこぼれたのは、マフィンの甘さでもバターサンドの香ばしさでも、花茶の華やかな香りに誘われたからでもない。
自然と笑顔で過ごせる仲間と一緒に過ごせているからだろう。楽しそうに過ごすココとツィリの様子を眺めながら、境華はふんわりと微笑んだ。
「こうしていると、最初の印象ほど寂しくはない夜だと思えますね」
「えへへ、そうですね。おいしくてたのしいじかんなのです」
斯様に他愛ない話に花を咲かせながら過ごす春夜にさみしさの欠片なんてもうない。
境華の言葉にココも嬉しそうに笑んだ。斯くして、春の夜は穏やかに過ぎてゆく。
心なしか、夜空に浮かぶ月も三人の様子を微笑ましく見守っているかのように優しく燦めいていた。
●
――エリアス。浄炎を操る熾天使憑き。
星詠みが告げた名に聞き覚えがあったのは、己の中にある|彼《・》の記憶に深く刻まれていた名だったからだ。
だが、己の記憶ではない。あくまでも、彼の記憶でしかない。
まるで映画を眺めているかのような他人事。ただ情報として所持しているだけの記憶には懐旧という熱もない。
「綺麗なんでしょうね、きっと」
泉下・洸 (片道切符・h01617)は、赤紫色の双眸でぼんやりと光景を眺める。
穏やかに降り注ぐ月光。夜風に揺らいだ幻月花が蛍火のように燐光を春の夜空へと舞い上がらせる。
きっと、美しい光景なのだろう――|生前の人格《あの男》ならば、この景色に感激して絵の一枚でも描いていただろうと予想が付くくらいには。
(でも、私はあの男とは違うので心を動かされるような感覚はありません。残念ながら、彼はもう居ませんからね)
愚かで心優しい男だった。だからこそ彼は死の運命に負けた。彼が消滅したから、自分が生まれた。
自分と彼は他人だ。ゆえに、エリアスと名乗るあの男のこともどうでもいい。
(正直、ただの|ひやかし《・・・・》のつもりだったのですけどね)
兄と同じ名を持つあの男が何を観に来たのか、気になっただけ。
過去の因縁も彼が弟に抱く執着も今の己には何も関係がない。だから、自分の行動は単なる興味本位でしかなかったはず。
だが、なんとなく魂にこびり付いた彼の記憶の残滓が足を向かせたような気もしてしまう。
「……はぁ、なんて面倒なのでしょうね」
洸は気怠げに呟いて風に揺らぐ幻月花をぼんやりと眺める。
綺麗で弱々しくとも確か怪異の一種のはずで。
「ところで、この花は食べられるのでしょうか?」
気になったら我慢はできない性質だ。好奇心に駆られた洸は幻月花を一輪摘みとって、おもむろに口に運ぶ。
(ふむ、案外味は悪くありませんね)
冷静に味の分析をしながら呟いた。尤も、洸基準の悪くないは一般基準からは随分とかけ離れているから参考にはならないが。
「あ、そうです。この花を持って帰りましょう。せっかくだから見せびらかすのです」
きっと、なんでそんなものを持って帰ってきたんだと怒るだろう。このクソ怨霊と騒ぐ声が今にも聞こえてきそうだ。
すぐに怒る同居人。だが、その豊かな表情が冷たさに凍える自分に炎を灯す。
もしも、今の自分に熱を持たせる想い出があるのだとしたら、それは直ぐ傍にあるぬくもりだろう。
●
おだやかな春夜にやわらかな月光が降り注ぐ。
吹き渡る春の夜風は撫でるように優しくてラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)はうーんと大きく背伸びをした。
「これが幻月花ってやつかぁ」
「月光浴をして輝くお花なのですね、とても綺麗で、お花たちも気持ちよさそうなのです」
並び歩くラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)が穏やかに呟けば、ラナも頷く。
丘一面に咲く幻月花はただ夜風に吹かれるままに揺れて、燐光を夜空へと舞い上がらせている。
ただ美しい花だ。儚くか弱い印象を与える幻月花が誰かを害するようにはどうしても思えなかった。
「これが怪花って呼ばれてるなんて信じられないよね、こんなにもとっても綺麗なのに」
「綺麗なお花には棘があるといいますもの。怪花と呼ばれる逸話、どのような景色を見せてくださるのでしょうね」
ラデュレはまるで見知らぬ御伽話の頁を捲る時のような華やいだ|感情《こころ》を声音にのせて、幻月花が放つ燐光にそっと手を伸ばす。
燐光はラデュレの手のひらの先で触れようとした途端にスッと消える。
まるで春の幻のように儚いその様をラナも見つめながら、幻月花の謂れを思い出す。
「都合のいい夢を見せてくれるらしいけど、ラーレはこんな夢が見たい!とかあったりする?」
「わたくしが見たい夢ですか?」
「うん! ボクはね……」
少し駆けだして、ラナはラデュレの先をゆく。
ラナの脚が揺らした幻月花は蛍のように仄かな燐光を空へと舞い上がらせる。その燐光の行く末を見守るようにラナは春の夜空を見上げた。
「──お魚いーーっぱい、食べる夢がいいなぁ~!!!」
見上げた夜空には大きく眩しいお月様。上を見ていれば、哀しい顔も溢れおちる雫もなかったことにできてしまいそう。
お魚いっぱいの夢よりも、ぽかぽかのお日様のもとでお昼寝をする夢よりも、本当は夢でもいいから|大切な人《あの人》に逢いたい。
だけれど、それは望んではいけない。此処で都合の良い甘い|幻想《ゆめ》を望んでしまえば戻れなくなってしまう気もしていた。
(――今は、やめよう、今、あの人のことを考えるのは)
だから、振り払わないといけないのだ。都合が良い夢を見せてくれても、|現実《ここ》には大切な人はいないのだから。
夜はこれから、夢を見るにはまだ早い。
それなのに、夢へと沈みかけるラナの思考を穏やかなラデュレの笑い声がすくい上げた。
「ふふ、お魚がたくさん、いいですね……! でしたら、わたくしはお茶会でしょうか。大きな円卓を、お友達と囲うのです」
「ラーレの夢はとっても素敵だね。お友達とのお茶会はとっても楽しそう!」
「でしょう? そして、ラナにもご紹介したいですね。わたくしが出逢った方々を――」
何処か寂しげなラナの背中を眺めながら、ラデュレは視線を月へとうつした。
(わたくしの、ラーレの失くした記憶、その断片でも手繰ることが出来たなら――)
心の奥に燻る|本心《しこり》も、少しは晴れ間を見せるだろうか。
斯くしてふたりは届かぬ月を見上げて物思う。黙ったまま月を見上げ思いを馳せるふたりの間に降りしきる沈黙を破ったのはラナだった。
「……ラーレ、あのさ」
「……ラナ?」
軽くかぶりをふって振り返れば、ラデュレの菫色の双眸がまっすぐと自分に向けられている。
言わなきゃ。言うんだ。これは、|未来《おはよう》の約束なんだから。
「ボクがおさかな食べるのに夢中で目を覚ますのが遅かったら……また大きな声でボクの名前を呼んで欲しい、な!」
ラデュレは一瞬だけ驚いたように菫色の瞳を丸めて、だけれどすぐにほんのりと春色の優しい笑顔を灯す。
「もちろん、何度だって手を伸ばしてお呼びします」
「えへへ、約束だよ?」
「ええ。ですから、ラナも、もしもわたくしがお茶会に夢中になってしまっていたら……その時には時間だよ、と教えてくださいませ」
「うん! 任せてよ!」
やわらかな春風がふたりの間を吹き抜ける。
穏やかな春夜は未だ明けず、皎月はふたりを見守るように静かに燦めいていた。
●
満月の夜にだけ花開くなんて、まるで月下美人みたいだ。
(なんて言ったっけ。ああ、そうだ――確か、幻月花っていったっけ)
星詠みの説明を思い出しながら、夢野・きらら(獣妖「紙魚」の古代語魔術師・h00004)は春夜の野道を歩く。
静かで穏やかな夜。高く昇る月が春の潤んだ空気に暈かされながらも皎々と輝いている。
まるで月と同じように己も輝けるのだと言わんばかりに丘一面に咲き映える幻月花も仄かに白月のように光っている。
(幻月花――こんなに綺麗だけど、怪異の一種なんだね)
もっと近くで見るためにきららはしゃがんで幻月花を眺める。
夜風に揺らぐ幻月花は仄かな燐光を空へと舞い上がらせる。
きららは試しに、舞い上がる燐光へと手を伸ばしてみれば指先に触れた途端にしゃぼん玉のように儚く消え去っていった。
現実離れした幻想の花は確かに怪異と言われれば納得が出来るかもしれないが、怪異というには余りにも儚く美しい気もする。
「どうしようかな……」
きららはまるで幻月花の花と睨めっこするように見つめて考える。
写真を撮るだけ撮って、アパートでよくしてもらっているお隣さんに写真をお裾分けする――というのも悪くはないかもしれない。
この幻月花の花園は、写真でも十分に魅力が伝わるだろうし、良い土産話にもなるだろう。
だけれど、そんな文字通りお花畑のようなことを言っている場合じゃないことも理解はしている。
(でも、綺麗なんだよね。こんなに綺麗な花が咲いているんだから、簒奪者が価値を見出すのもわかる気がするかもしれないね)
襲来するという簒奪者のことを思えば、少し歯がゆくも思う。
目的すらも現時点ではよくわからない簒奪者。ただ、抱えている事情は分からずとも、彼が何らかを抱えていることだけは解る。
(襲撃自体は止められないし、予め策を練って対策することもできない。でも、まだ間に合う)
最悪の悲劇を止めることだけはまだ出来るのだから、今は最善を尽くすのみだ。
きららは幻月花へと手を伸ばす。一輪だけ摘んで、手の裡で儚く揺れる花を眺めた。
「どうすればいいかな、こういうときに魔法少女って」
きららの手の中で幻月花がか弱く夜風に揺らぐ。
皎々と輝く春の月は、きららの問いかけに魔法のようなこたえなどをくれるはずもなかった。
●
まるでキャンバスに描いた|絵画だけの世界《ファンタジー》だ。
「ふふ、とても幻想的な光景だ。この花が怪異の一種とは、とても信じられないな」
月光降り注ぐ春の夜。丘一面に咲き映える幻月花は夜風にふかれてか細く揺れている。
アダルヘルム・エーレンライヒ(余花を夢む・h05820)は幻月花の丘の片隅に腰を下ろしぽつりと呟く。
これだけ美しい光景ならば、いつもだったらキャンバスに筆を走らせたい欲望に駆られる。
だが、今は自分の隣でことりと首を傾げるナギ・オルファンジア(宙からの|堕慧仔《オトシゴ》・h05496)の存在の方がアダルヘルムの興味を惹いて止まない。
「ふむ……綺麗な見かけで誘き寄せ、でしょうか? ルル君の誘い寄せに成功していますし」
「ああ、見事に誘き寄せられてしまったな」
ナギの言葉に微かに笑んだアダルヘルムは幻月花に手を伸ばし、一輪摘んでナギの目の前に持っていく。
夜風と僅かなアダルヘルムの揺らぎが幻月花も揺らして、纏う仄かな燐光を夜空を舞い上がらせた。
「白いしちんまいし綺麗だし、何処となくなっちゃんに似ている気がするぞ」
「そう言われますと、何処となく親近感がでますねぇ」
こうして、暗い夜に月明かりのようにそっと光を灯す様子も――なんてことは、今は心の中に仕舞い込む。
そうして、ふたたび何輪か摘んだアダルヘルムはおもむろに摘んだ花々を編み合わせて花冠を作り上げていく。
「うわ」
小さな花々を器用に編み込んでいくアダルヘルムの指にナギは軽く感心したような声をあげた。
「それにしても、器用だなぁ君。何ですか、その複雑な工程」
「友人やその娘に死ぬ程作らされたからなー」
あっという間に編み上げられた花冠をぽふっと乗っけられれば、仕返しとばかりにナギもアダルヘルムの髪に幻月花を挿してゆく。
花冠に花飾り、花束に指輪。アダルヘルムが作り上げていく作品の数だけナギもお返しをしていれば気付けばふたりは花まみれ。
お互いの姿にひとしきり笑ってからアダルヘルムがピクニックの為にシートを敷けば、ナギは待ってましたと言わんばかりにころんと寝そべる。
そんなナギの様子を見守りながらアダルヘルムは持参したバスケットをシートの上に置けば、彼女の身体がぴくりと反応する。
「ピクニック……ごはん!」
「おや、ご飯の気配にニャギが起きたな」
「寝てないですよ、まだ。こうすればルル君がごはん出してくれるかと思ったから戦略的行動です。計算です」
「ほんとか?」
ナギのワクワクとした視線がバスケットに注がれるのを感じながら、アダルヘルムはバスケットの蓋を開ける。
「フルーツサンド、食べるか?」
「食べます。あ、フルーツサンドは手作りですか? フルーツは何でしょう? たくさんあるのかい?」
「桃以外を色々と、だなぁ」
アダルヘルムが開いたバスケットを誇らしげに見せれば、其処にあるの月光に照らされ輝くようなフルーツサンド。
「無論手作りだし、いっぱいあるぞー」
「食べる! まずはイチゴのやつから」
「ああ、紅茶もあるぞ。召し上がれ」
ぴょこんと起きたナギに、アダルヘルムは水筒から注ぎ入れた紅茶を渡す。
ひそやかな月花のティータイム。
紅茶の優しいあたたかさとフルーツサンドの甘酸っぱさを楽しみながら、ふたりは幻月花の花園を眺める。
「それにしても、本当に綺麗な花だよな……」
「そんなに気に入りましたか。でも、お持ち帰りは、星詠みさんに怒られてしまうやも」
「怒られるかねぇ……残念だぞ」
持って帰って庭で育てちゃダメかな――なんて企みがアダルヘルムの表情に滲んでいた。
先んじて怒られるよなんてことを言いながらもナギはもしアダルヘルムの庭に咲いたらどうなるだろうと想像を巡らせる。
理想の夢を見せる怪異の花。それを煎じて飲めば安眠効果バッチリのハーブティーにでもなるだろうか。
「んふふ、楽しそうなので私は反対はしませんがね」
「知ってて止めなかったらなっちゃんも共犯だからな」
春夜にナギの楽しげな笑い声が響く。
アダルヘルムもつられるように冗談の言葉を口にしながら、穏やかに口元を緩めた。
●
「ひゃっほーい! とってもイースターなお花がたくさん咲いてるね!」
ぴょこんと春野を駆ける野うさぎのように幻月花の丘を縦横無尽に駆け回るエオストレ・イースター (桜のソワレ禍津神の仔・h00475)の後を咲樂・祝光 (曙光アルナ・h07945)は追いかける。
皎月が春夜を優しく照らす。丘一面に咲き映える幻月花にテンションブチ上がったエオストレに祝光の制止は通用しない。
永遠に続くかと思われた追いかけっこはエオストレが急停止により唐突に終わる。
「うぶ……っ!?」
懸命にエオストレを追いかけていた祝光は見事に彼の背中へと激突した。地味にそれなりに痛かった。
「この可愛いお花はイースターフラワーと名付けよう。可愛い僕の祝福つきだ!」
「イースターフラワーじゃない、『幻月花』! あと急に立ち止まるな!」
「ふふふー、祝光の熱いタックルはばーっちり受け取ったからね!」
情緒ゼロのイースターうさぎである。祝光は思わず漏らしそうになる溜息を飲み込んだ。
真正面から言ったところでこの暴走兎にはイースターフィルターを通したポジティブハッピーな解釈にしかならないだろう。
エオストレの後頭部に激突した鼻をさすりながら祝光はじっとりとした視線をハッピー兎へと向ける。
「あのさ、もっとしっとりしんみりとか花を愛でるとかってないの?」
「だってイースターは可愛いでしょ? 僕は可愛いものもイースターも大好き! だから愛でてるよ!」
理由がわかるようなわからないような複雑なイースター式三段論法。
祝光がどう受け止めようか悩んでいれば、エオストレがふたたび春のような明るい笑顔を見せた。
「祝光も一緒に走ろう。星空みたいで楽しいよ!」
「走り回ったら花が散るぞ!」
「大丈夫! 僕が通ったところには白い花が再誕するー! やっぱり楽しくハッピーイースターがいい!」
実際に見せてみると言わんばかりにエオストレが周囲を軽く一周すれば言葉の通り散った花々が再生していく。
「……たしかにそうか」
光景を見せられてしまえば納得するしかない。
楽しげに駆け回るエオストレの様子に溜息を吐くがまぁ、それが卯桜らしくもあるし、イースターしなくなったらそれはそれで心配なので良いのかもしれない。
「ほらー! 祝光も! また眉間に皺よってるよ?」
「皺なんてよってないったら!」
エオストレの指が祝光の眉間をぎゅっと伸ばす。
即座に言い返した祝光。エオストレは少しうーんと何かを考えてから良いことを思いついたと言わんばかりの表情で、彼の手を取った。
「え!? 何!?」
「ほら、祝光、踊ろう!」
そして、困惑する祝光を引っ張り回すように月下で繰り広げられたのは月夜のダンス。
いや、完全にエオストレのペースにのせられて引っ張られているだけだからこれをダンスと言えるのか甚だ疑問ではあるが。
「俺はそういうの苦手だって……」
「祝光はダンス苦手なんだっけ? 大丈夫! 僕がエスコートしてあげる」
「エスコート……されなくても踊れるっ」
エオストレの言葉に祝光は少しムッとして、それから無駄に張り合って、そのあとに少し後悔したりした。
(こいつはなんでもできるから――負けたくない)
望む可惜夜に手を伸ばすためには、今のままではきっといけないから。
白い花びらと燐光――それから、桜が春野に舞う。舞い上がる桜はふたりのもの。
楽しくて、綺麗な夜。ずっとずっと、楽しい今だけが続いていけばいい。
「僕は今が最高に楽しいよ! だから祝光もそうなればいい! 刻々と過去になる今が、全て倖なものであるように――その方がとってもイースター!」
繋いだ手からはエオストレの変わらぬぬくもりが伝わる。
随分と簡単に言ってくれるものだ――己の罪はその程度では赦されるようなものではないというのに。
それでもこの幼馴染は純粋に自分の倖せを願ってくれるのだから、今日くらいは幻月花に免じて礼を言ってもいいのかもしれない。
「……ありがとう」
花の中で踊る少年達を、皎月が優しく見守っていた。
●
穏やかな夜だった。春の潤んだ空気が夜空を暈かし、瞬く星は春霞に隠されている。
静かな夜空の中で、朧月だけが彷徨うように夜空の中で浮かんでいた。
「良い夜だな、月が盈ちている」
夜鷹・芥(stray・h00864)は金月の双眸で春夜空を見上げる。
春の気配混じる頬撫でる夜風は案外心地が良い。そよ吹く夜風に揺らいだ木々が奏でる葉擦れの音が孤夜へと響く。
「うーん、実に綺麗な満月だねえ。絶好の花見日和みたいだ」
芥の声に肯定するように雨夜・氷月(壊月・h00493)も静かな呟きを春の夜にこぼした。
今は誰も訪れることのない廃教会に向かうふたりの足をとめたのは、今宵の空に浮かぶ朧月の美しさか。
それとも地を埋め尽くさんとばかりに咲き映える幻月花の夢まぼろしのような光景か。
どちらであろうと些末な問題か――孤月が照らす春野に咲き映える幻月花の光景は美しくふたりの双眸に映ったことだけは真実なのだから。
「夜空に浮かぶあの月があるから花もきっとひかりの恩恵を受けて……綺麗に咲いてるんじゃないか?」
「そうかもねえ……」
氷月は適当に言葉を返しながら宵月色の双眸を天の月から地の花へと落とした。
まるで俯くようだと口元に自嘲を浮かべる氷月の様子などまるで気にする様子もなく、花は咲く。
(満月の夜にだけ咲く花、か――同じ月光の力を持てども、満月には程遠い俺はきっとこの花を咲かすことはできないだろうな)
丘一面を埋め尽くす咲く幻月花はまるで白月を真似るような色彩。穏やかな春の夜風に揺らいだ花は纏う燐光を空へと舞わせ儚く夜に解けて消える。
斯様に儚く消えた燐光の行く末は何処か。己を咲かせた月にでも還るのだろうか。だとしたら、それはそれでもいい。
何かを与えられる者のもとに還ることができるのであれば、それでいい。
(所詮は紛い物――月にも、人にも成れない俺は何だろう)
紛い物という言葉がやたらに重く心へとのし掛かる。物憂いに沈む氷月の思考は中々春夜の幻のように消えてはくれない。
普段であればもっとすぐに霧散するだろうに、何故斯様に過敏に残留してしまうのだろうか――。
「氷月」
だけれど、その思考を霧散させたのは芥の声だった。
氷月が一拍遅れて芥へと宵月の双眸を遣れば、自分で呼び止めたくせに何故か芥は驚いたような表情をしている。
「……ん?」
「……いや、何でもねぇ」
随分と取り繕うことばかりが上手くなったのだと芥は己で思う――否、今はちゃんと取り繕えていたのか己でも解らない。
白く淡く帯びる光に照らされる花と氷月。ただそれだけの光景だというのに、何故かそのまま氷月が月光に溶けて霧散してしまうのではないか――なんて、世迷い言のような不安感に襲われたのだ。
本当におかしいものだ。そのまま夜に溶けるか月へと還るかなんて何処の御伽話なのだと思わず笑ってしまえる。それでも、とても笑えぬ程に何故だか芥は不安に襲われた。
「ナニそれ、変なの」
斯様な本心は夜の奥に隠せたのか氷月には無事隠し通せたようだ。
彼は意味もなく声を掛けたのか――そう言いたげに薄く氷月は笑む。その笑みを見て芥はようやく僅かに不安を拭うことができた。
それでもふとすれば漏らしてしまいそうな僅かな不安感を掻き消すようにおもむろに芥は煙草を取り出せば、何故だか氷月がじっと見てきた。
その視線をに見守られるかのように慣れた手付きで咥えた煙草を肺にまで吸い込む。
燻らせた紫煙は空へと昇る。芥もまたぼんやりと空を見上げたまま、視線を此方へと向ける氷月に指で挟んだ煙草を揺らし見せる。
「吸ってみる?」
「煙草? 勧めるなんて珍しいね?」
今宵は穏やかな夜なれど、不思議なことが起こるものだ。
だけれど、こんな夜だからこそ何か特別なことをするのも悪くないのかもしれない。
氷月は眼前で煙草の火がまるで蛍火のように揺れる様を眺めながらぼんやりと思っていれば、芥の金月の双眸と絡み合う。
「お前普段吸わねぇもんな、偶には良いもんだぞ」
「そうだなあ、普段なら別に要らないって言うところだけど――じゃあ、一本くれる?」
「ああ」
短く頷いた芥は開いたシガレットケースを氷月へと差し出してきた。
氷月はシガレットケースから煙草を1本だけ引っ張り出すと、指に挟んだまま芥を見た。
「ねぇ、火もチョーダイ」
ライターか何かをねだったつもりだけれど、芥は煙草をくわえたまま顔を寄せてきた。
(――ああ、成程)
氷月は直ぐにその意図を理解した。己もくわえた煙草の先を、芥の煙草の先へと近づけて火を受け取る。
ぱちりと僅かに指先から熱が伝われば、紫煙が氷月を満たしてゆく。
そうして、ふたりは言葉もないまま、ただ幻月花をぼんやり眺めながら紫煙で己を満たす。
何でも良い。何かを共有することで落ち着くことができるのだから。ただ、同じ場所で同じ煙を纏うことがふたりの心を落ち着けた。
吸って、吐いて、吸って、吐く。
何度か繰り返して指で挟んだ煙草が僅かに短くなってきた頃、ふと氷月が芥の方を向けば、彼も氷月を見ていたのかふたたび視線が交差した。
「……で、味の感想は?」
「……なんか今日は特別おいしいかも?」
「奇遇だな、俺も」
交わす言葉はそれで十分だ。それ以上の言葉は今は見つからないし、なくてもいい。
それでも氷月は傍らにある|存在《ぬくもり》を確かめるように芥へともたれかかるように身体を寄せる。
芥も其れを拒まない。もたれかかってくる氷月を受け止めるように芥も少し肩の力を抜く。
(重いな)
直ぐ近くに感じる銀月の存在は重たさを感じさせるというのに、不思議とその重みは芥を安心させる。
(もう持たないと決めたのに――まだ、諦められていないんだな)
そう思ってしまえば芥の口元に笑いが浮かぶ。されど、それは決して不快なものなどではなかった。
氷月もまた、拒まれなかったことに安心しながら己の身体を芥へと預ける。
受け入れ、受け止めてくれる。
その|絆《きずな》があるだけで、俺はまだ此処に存在することを赦されているのだと、実感ができる。
月夜に優しく注ぐ赦しは氷月を地へと|絆《ほだ》してくれるようで。
斯くして潤む月光が柔らかくふたりに降り注ぐ。
穏やかな春夜の中で、ふたりは互いの感触を暫く確かめあっていた。
●
柔らかな月明かりが春の夜を優しく照らしている。
降り注ぐ月光を受け止めるように広げた手のひらを、兎沢・深琴(星華夢想・h00008)はぼんやりと眺める。
(もう逢えぬ人々に会える、ね……)
丘一面を埋め尽くすように咲き映える幻月花が春の夜風に揺れている。花が持つ謂れを思いだし、弱々しく溜息を吐いた。
なんとも甘ったるくて都合の良い誘い文句だ。死者が戻らないことは苦しいくらいに理解している。
斯様な話は能力者になってから何度も聞いてきたのだから。否、きっと自分がそうなる前からもそんな話であふれていたのだろう。
だけれど、自分は気にしなかった――だって、その時の自分には必要がなかったのだから。
深琴はぼんやりと視線を月下の花畑へと移ろわせた。
春風に揺らぐ幻月花の花園は夜空に蛍火のような燐光を舞い上がらせている。
かつてこの花に救いを見出した人々の気持ちが今は痛いくらいに理解ができてしまう。
「きっと、忘れてしまいたくなかったのよね。大切な人が生きていた証を、その声を――喩え、夢まぼろしでもいいから、縋り付かなければ立っていられなかったのでしょうね」
そうして思い出すのは過去の事故。大切な人を一瞬で奪った悪夢のような出来事。
平和な日々を壊したあの事故は、当時あれほど大きく取り上げられていたのに今はもう、過去の出来事になった。
そうして、世界は刻々とただ時を刻む。誰かを失い、流した涙もなかったようにただ廻る。
世界はすっかり姉がいない日々に慣れてきていた。
まるで生きていた痕跡を少しずつ拭っていくように周囲の人達も、姉達がいない日常を受け入れて過ごしている。
否、変わっていく日常を過ごしているのは自分だって同じなのだ。如何様に思おうと、自分を取り巻く環境は少しずつ変化していっている。
例えば、新たな出逢いがあった。傍にいる大切な存在もできた。守りたいと願った強さも、想い出も、約束も沢山のものを得た。
時折自分が挫けて倒れそうになっても、その心を支えてくれる仲間もできた。
「前を向いて進むこと、それはきっとお姉ちゃんが望む正しい姿なのでしょうね――でも、それが何よりも怖い」
前を向けること。だけれど、それは忘れること。自分の中の姉が少しずつ色褪せて過去となり、やがて消えていくようで焦燥感に襲われる。
――自分も、周囲の人々と同じように、やがて姉の居ない日々に慣れていってしまうのだろうか。
時折、どうしようもない不安に襲われる。
だって、深琴と優しく名を呼ぶ姉の声は、こんなにも自分の中でも残っているのに。
包み込む手のひらも、優しいあの笑顔も今でも鮮明に覚えている。覚えていられているのに――それが、やがて失われてしまうのが怖くて、苦しい。
(忘れたくない)
人が誰かの記憶を忘却するときに、一番最初に忘れるのは声なのだという。
自分は後どれだけ、姉の声を記憶に留めておけるだろうか。
(――ううん、きっと、忘れてはいけないの。自分だけが置き去りにされたとしても、忘れることはできないわ。姉の死の切っ掛けを作ったのは私の罪なんだから)
忘れてしまえば、それは己の罪を許してしまうことになる。
風に揺らげば消える。巡る時計の針が囁く忘却の甘言に負けてしまわぬように心を奮いたたせる。
だけれど、其れはつまるところは進まぬことの言い訳にしていることと変わりがしないような気もする。
「結局は、私もかつて此処を訪れた人と同じね」
忘れないために、縋り付くために、幻月花が魅せる幻に救いを見出した。
幻なのだと理屈では理解をしていても、心を繋ぎ止めるには縋るしかない――そんな、弱い人間のまま。
春風に幻月花が揺らぐ。舞い上がる燐光の行く末をただ、深琴は眺め続けていた。
●
潤んだ空気に暈かされた月が静かな春の夜を見守っている。
穏やかな春の夜風が吹き抜ける。櫻・舞(桃櫻・h07474)は風に揺らいだ桜色の髪の毛を右手で押さえながら、ふっと春色の双眸を窄めた。
「月夜それも満月だけ咲く花、一夜にして散ってしまう――それはとても儚げで美しく綺麗とも言えましょう」
眼前に広がるのは丘一面に咲き映える幻月花。まるで月の光を真似るように仄かに白く輝く花は風に揺らげば蛍火のように燐光を舞い上がらせる。
儚く揺れる小さな花々に思いを馳せる舞の隣で氷薙月・静琉(想雪・h04167)は紫色の双眸で静かに月と花の光景を眺める。
「儚く、夜に一等映える花という点では、桜と似ているやもしれん」
儚く揺れる幻月花。春風に舞う蛍火のような燐光に静琉はそっと手を伸ばす。
触れられそうな程手を近づけたその時――まるで、しゃぼんだまがぱちんと弾けて消えるかのように儚く霧散する。
「成程。私の知る櫻は散る事なく一年中咲いておりましたが、花のいのちは短いもの――ですものね」
舞も静琉の傍らで燐光と幻月花をぼんやりと眺め続ける。
この花は夜が明ければひとつ残らず散るのだろうか。誰にも知られぬまま花開き、誰にも愛でられぬまま咲いて、誰にも惜しまれることなく花は散る。
満月の夜のみ繰り返されるあまりにも儚い花の一生。その花に意味などあるのだろうか。
喩え人を|幻想《ゆめ》へと誘う魔花であっても、花の行く末に思いを馳せてしまう。
舞はぼんやりとただ花を見つめ続ける。思考の海に深く沈み込むような舞の様子に静琉はふっと安堵させるように少し目元を緩める。
「此の花ひとつひとつには何の罪も無い――純粋に愉しんでも良い、と思う」
「……はい」
考えを読まれてしまったのだろうか。静琉の言葉に舞は少し驚いた様子で目を見開きつつもふわりと花笑むように微笑んだ。
そうして、ふたりは静かな夜を並び歩く。
「肌寒くはないか?」
「はい、大丈夫です。静琉様は大丈夫ですか?」
「……俺も平気だ」
春の夜風はまだ冷えるといえど随分と暖かくはなってきた。
それに、彼のさり気ない心遣いが何よりもあたたかさを感じさせる。
ふたりは暫く静かに散策したすえに、丘の中で丁度よく腰を休められる手頃な石のような何かを見つけた。
恐らくかつては丘の中央に立つあの廃教会に関連した施設か装飾品の跡なのだろう。あきらかに人工物の石のような何かに並んで腰掛ける。
「綺麗、ですね」
「ああ」
短く言葉をかわした後、再び沈黙が降りしきる。ひとしきり花を眺めた後、ふと舞が視線を静琉へとうつす。
彼は遠くを眺めていた。その視線の先にあるのは月なのか、それともまた別のものなのか――いずれにしろ、すごく淋しそうな|表情《かお》をしていた。
(何かあったのでしょうか……)
そう思いながら見つめていれば、彼の紫眸が舞を向く。
静琉は微かに首を傾げて舞にふと訊ねる。
「舞は妹を捜しているんだったな」
「はい、妹が居たという感覚だけですが――記憶が無いのでどんな顔でどんな性格なのかわかりません。魂の片割れ? 私の分身? それくらい身近な存在が居るとこの世界の何処かに居ることだけは感じるのです」
彼の問いかけは少し意外なものだった。
少し驚きながらも舞が素直に応える。ややあやふやな舞の答えに、静琉はそうかと静かに頷いて、瞳に淋しげな色彩を宿らせる。
「……俺にも、弟がいたんだ」
「弟様?」
きょとりと首を傾げた舞に静琉は頷く。
ふたたび視線を天の月へとうつろわせて遙か遠くの記憶を掬い上げ、紡ぐ。
「双子……だったんだ。ぶっきらぼうで俺様で捻くれていて……自分に正直なあいつが、少し羨ましかった」
静かに語る静琉の言葉を聞きながら、舞は双子の弟という彼を想像してみた。
同じ両親から生まれる兄弟よりも、同じ時に生まれた双子は似ることが多いのだという。
物静かで優しい静琉とは正反対の人物像を彼の顔に当て嵌めてみたけれど、上手く想像はできなかった。
「決して仲が良かったとは云えないが、大切な片我月……だった」
過去形で言葉が止まる。舞は彼の表情をじっと眺めれば、彼の表情は今にも壊れてしまいそうな程に痛々しくて。
舞は静琉の手の上にそっと己の両手を添えた。
ぬくもりが、まごころが彼に伝わるように――斯様な舞の想いが静琉の心を軽くする。ぬくもりに勇気付けられるように言葉の先を再び手繰り寄せ、口を開く。
「……片我月……だったんだ。けど……一族のしきたりで、俺が贄とされた時、其の場に居た全てを呑み込んでしまった。俺が神力を制御出来ずに、あいつのことも……」
ようやく紡ぎ出せたといった様相だった。噛み締める唇。握り締める拳。優しく降り注ぐはずの月光はまるで突き刺してくるようで。
世界の全てがまるで己を裁くようだ。儀式で穿いた左胸が疼き、俯く。
「……贄……」
重すぎる、たった二文字の言葉。
舞には想像すらできぬ程の辛さや痛み、悲哀があったのだろう。
添えた両手をぎゅっと握れば、静琉の紫眸が揺らいだ。安心させるように微笑めば、彼も静かな月のような笑みを返してくれた。
「舞は……逢えるといいな」
「逢えるのでしょうか」
「ああ、俺も見てみたいし、な。それに、記憶が無くとも感じるのならきっと確かなものなのだろう。双子あるあるだ。そうなれる様に、俺も尽くそう」
静琉の言葉に舞は何故だかすとんと納得がいった。
根拠がないかもしれない。だけれど、必ず再び逢えるのだと確信めいた気持ちがあった。
「探しましょう、見つかるまで――静琉様も私もきっと逢えます」
「逢えるのだろうか、俺も……また、いつか……」
舞の双子の話をしていたはずなのに、自然に自分も静琉もと言えてしまう彼女は春陽のように眩しい。
けれど、舞の言葉はまるで雪を解かす花のように優しい力強さに満ちている。静琉の心を解かしてゆくようで。
「はい。静琉様、貴方に逢えて私は幸せモノです」
「幸せ者は俺の方だ」
「ほわ!? 私は何もしてません。でも、少しでもそう思って下さるのなら嬉しいです」
いや、そのこころにどれだけ救われているのか――なんて、言葉は朧月の向こう側へと預けて静琉は空を仰ぐ。
感謝も、恩も、底知れぬほどに与えられている。
春の如きこのぬくもりに――依存してはならない。
第2章 冒険 『真の皆の幸いの為に私の体をお使いください』
●
廃教会の扉を開けば、皎月よりもなお明るい光が地表を埋め尽くすように拡がっている。
幻月花だった。まるで絨毯のように幻月花が咲き映えている。
外よりもずっと力強い輝きに見惚れていれば、割れた硝子から吹き込んだ夜風が幻月花を揺らした。
刹那、蛍火のような燐光がふわりと舞って視界を覆う。
そうして、光が已んだ――その先に想い描いた夢まぼろしが来訪者を出迎えた。
●
扉を開ける感覚は思ったよりも重たくて、その重みの分この教会が重ねてきた忘却の年月を思わせた。
そうして、目にうつる幻月花はなお咲き映えて、皎月よりも明るい燐光がEDEN達を出迎える。
「わ、すごい、きれいな場所ですね、紫乃坂さん! 眩しいくらいです」
とても眩しかれど、素直に綺麗な場所だと見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は思った。
この勘当を純粋に同行者につたえたくて、已んだ光の中、隣にいるはずの 紫乃坂・蓬生(紫炎の蓮の如く、紅散らす・h08897)の姿を七三子は探す。
だけれど、彼が居たはずの其処には――。
「……しのざかさん?」
誰も、いなかった。彼は何処に行ってしまったのだろうか。
蓬生を探すために歩こうとした七三子の視界の端に何かが並んでいるのが見えた。
「……?」
否、何かではない。
懐かしさが七三子の胸を締め付ける。暖かさがかつての思い出とともに込み上げる。
「……あれは、|戦闘員さんたち《家族》? それに、後ろにあるのは、|悪の組織《おうち》……」
積み重なった色んな思い出が駆け巡るように胸の中を過ぎった。
故郷を出てから出会った友達、仲間、それから大事な人。
(おうちの外は、とっても広かったんです)
世界には色んな知らないことがあって、素敵なことと出会って――そんな|現在《いま》の話をきいてくれたなら。
でも、ふと、肩をとんっと叩いた誰かの感触がした。
「わっ、びっくりしました。急に肩たたかないでくださいよ、戦闘員さん! どうしましたか? うん? 紫乃坂さんはあっちですよって? ふふ、ありがとうございます! じゃあ、行きましょうか! 案内お願いしますね!」
そうして歩き出してからも、なんだか戦闘員さんは心配そうな様子を見ていた。
そんな様子に軽く微笑む。
「……ふふ、だいじょうぶ、心配しなくても|幻影のほう《あっち》には捕まらないですよ」
七三子は歩きながら口元に小さな微笑みを浮かべる。
「だって私、今もちゃんと、幸せですから!」
振り返らない。だって、振り返っても後ろに未来はないから。
「……さよなら、またね」
七三子が目指すのはいつだって|未来《まえ》だ。
●
立ち入った廃教会に咲き映える幻月花のなおも明るい様子に蓬生は瞳を丸くした。
「なぁ、ほんま」
綺麗やね――そう、話したい相手は隣にいない。
「……ここは、」
否、教会ですらなかった。気が付けば、周囲の光景は見慣れた自分の|家《組》へと姿を変えていた。
其処には見慣れた|組員《家族》と、その先で堂々と座る親父がいる。病死したはずの、親父がいる。
親父が浮かべる表情も見慣れた気難しい顔。眉間の皺の本数。つり上がる眉の角度。射貫くような眼光。
口を開けば、腹の底に響くような低音できっと小言なんかを言ったりするのだ。
「なんや、説教なら堪忍やで?」
軽薄な口をたたけば親父の眉間の皺が深くなる。こういうときに投げかけてくるであろう小言も解りきっている。
「……分かってる。妹の事も、|家族《組員》ん事も、ボク個人が守りたい人も、全部この手でちゃんと守るさかい」
親父を見据える。親父の姿をした、幻影をまっすぐに受け止めて、誓いを口にする。
「――せやから、安心して眠りや」
幻影に誓いを口にしても、泉下の客となった親父には届かぬだろう。
だから、これは己への誓いであり戒めだった。
(まだ組長としては未熟かもしれん。それでも、覚悟も決意も全て含めてボクの|家《組》を守ると、誓う)
いつか己が親父の居る場所へ辿り着く日がくるなら、あの射貫くような眼光を逸らさずに堂々と胸を張って見られるように覚悟を決めて生きていくのだ。
|親父《先代》から託された|拳銃《チャカ》の重みが、蓬生に現実への帰り道を指し示す。
まるで其れは、親父が背を押してくれているような――そんな、重みがあった。
「七三子クン、大丈夫やろか? 一緒に来たし、ここにおるはずなんやけどな」
そうして蓬生は隣にいたはずの七三子の姿を探し、幻に背をむけて、進み出した。
●
視界が白く染まる。
白い世界は画用紙だった。白い画用紙にクレヨンでひいた線が走り、何かを描いてゆく。
でも、その線は歪んでいたし、不規則に太さも変わっている。とても不格好な線だった。
「夢だ」
夢野・きらら(獣妖「紙魚」の|古代語魔術師《ブラックウィザード》・h00004)はぽつりと呟く。
そう、これは夢だ。
「……わかるよ。何度も見たことがある夢だから」
クレヨンで描かれた線が白い画用紙に|希望《ゆめ》を描く。
滅茶苦茶でも、拙くても、それでも自分の精一杯の気持ちを画用紙に描いていた。
ただ、それだけ。
逢いたい人は、あの絵を描いた人だった。
誰が描いたのかわからない。どんな人なのかもわからない。
ずっと探しているけれど、見つからない。手がかりのかけらすらも掴めずにいる。
(最高傑作だった)
何の変哲もないと、他人に一笑されてしまうかもしれない絵。たぶん、幼い子が描いただろう絵。
(ぼくは、あの絵を超える味に出会えていない)
きららが夢野・きららを演じ、容姿を取って、|魔法少女《やくわり》を全うするのは、すべてその人と、その人の描いた絵に出会うため。
クレヨンで出鱈目に描かれていく光景を見つめながら思う。
その人は今、どんな絵を描いているのだろう。どんな夢を抱いているのだろう。
(きっと、きみはあの頃よりもっと美味しくなってるんだろうな)
でも多分、食べてみたら想像の範疇の味がするのだろう。それでもいい、或いは、それがいい。
きみが紡いできた|人生《ものがたり》を味わいたい。
夢を眺める。所詮幻想でしかなく、己の脳内から再構成されただけに過ぎない光景をきららは眺める。
(この夢を見る前に迷っていたけれど決心がついたよ)
密かな決意。目の前に彼女はいないから、口から出したとて届くはずがない。
ゆえに、きららはまるで己に読み聞かせるかのように内心で呟く。
(もう少し、きみが描いた魔法少女として頑張ってみようと思う、ぼくが困っている人を救っていけばきみの目にとまることを信じて)
その日まで、|魔法少女《やくわり》を続けていく。
「……もう行くよ。コマーシャルはそろそろ終わりだ」
きららが告げると同時、クレヨンで描かれた花は無数の花びらとなって――やがて消えた。
●
重たい扉の向こう側で待ち受けていたのはまるで夢まぼろしのような幻月花の花園。
皎月よりもなお明るい燐光はふわりと舞って、まるで来訪者を歓迎するかのようだ。
視界を埋め尽くすように舞う燐光。システィア・エレノイア(幻月・h10223)は祈るように瞳を閉じて受け入れれば、傍らから息を呑むような音が聞こえた。
「つば、さ……」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)が小さく彼の名を呼んだ。
太陽のように燃え盛る赤色の双眸は決して光を失うことはなく、自信に満ちた表情はいつだって絶望の戦線に刺す希望の灯火でありつづけた。
眼前の彼は、あの日と変わらぬ笑顔でクラウスの眼前に居る。あの日と変わらぬ仕草で、手を差し伸べてくれる。
「翼」
クラウスははっきり名前を呼んで、差し出された手をとろうと伸ばした手は空を切る。
まるで蜃気楼のように目の前にたしかに見えたのに、触れあうことはできなかった。
『幸せになれよ』
あの日と変わらぬ、太陽のような笑みで彼が言ったのはたったひとつだけ。
クラウスは頷いて、月のような静かな声で短く答える。
「うん。お前の分まで、幸せになるよ」
そうしてクラウスがまばたきをひとつすれば、まるで夢まぼろしのように彼の姿は夜へと解けて消える。
刹那の邂逅だった。風ひとつで掻き消えてしまいそうな淡く儚い時間。
(でも、それだけで――十分だ)
クラウスはそう、強く心の中で言ったはずだった。
でも、胸いっぱいに感情が込み上げてくる。此れは喜びと寂しさ。どちらの方が多いのかはわからない。
もしかしたら同じくらいかもしいれない。それとも、別の感情も混じっているのかもしれない。
ただひとこと、言えるのだとしたら――なんだか、どうしようもなくぬくもりが欲しくなった。
「……会えてよかった。ティアが願ってくれたおかげだよ」
ぬくもりを求めて掴んだ手はシスティアの手を掴んだ。
ふたりの再会に水を刺さないよう、彼とクラウスの様子を静かに見守っていたシスティア。
はじめて見る彼の笑顔を見ながら、深々と頭を下げた。
だから、いきなり手を掴んだクラウスに、システィアは一瞬少し驚いたように目を僅かに丸くした。だけれど、手を掴んでくれたことは純粋に嬉しかった。その手をしっかりと握り返して頷く。
「俺も、彼に会えて良かった」
本心だ。花を贈る時に彼の顔を思い出せるように。
そして、大切なひとのこころを未だに強く照らし続ける太陽のような笑顔の色彩をこころに留めておきたかった。
見せられた|幻想《ゆめ》は望んだ通り、春の木漏れ日のようにやさしい形をしていて、本当によかった。
だからこそ、システィアは名を聞きたかった。名を覚えたかった。
でも、今までクラウスがシスティアに教えてくれなかったのは、聞かれなかったかもしれないけれど――もしかしたら、大切だからこそ明かしたくないのかなとも考えた。
だから、システィアは遠慮がち訊ねる。
「……名前を聞いてもいい?」
「なまえ……翼っていうんだ。永瀬、翼。俺の……大切な、生きる理由だ」
そう、微笑みながら言ったクラウスの表情はなんだか少し眩しくて、システィアは僅かに目を窄めた。
「永瀬翼さんか……ありがとう」
教えてくれて。システィアは静かにクラウスの頭へと手を伸ばす。
そして、彼の頭を優しく撫でた。
かならず、彼の分も幸せにする――斯様な優しい誓いを胸に抱いて。
「翼さんのこと、俺も忘れないよ。彼も一緒に生きていこう」
春の夜は優しく更ける。
燐光を踊らせる幻月花がふたりの姿を静かに見守っていた。
●
重たい扉を開けた先に待つ幻月花は目を奪う程に美しい。
外に咲いていたものよりもより密度が高く、輝いていた。
(たしか、クヴァリフの仔で強化されているという話だっけ)
怪異の力は斯様なところにまで及んでいるのか。そう思考を巡らせてから軽くかぶりを振った。
「さて……幻想的で美しい光景だけど――」
レース・アルカーナ(ドラゴンプロトコルのフリークスバスター・h11374)は言葉を句切る。
青色の双眸で真っ直ぐに前を見据えた。
「――俺の中で佇むキミは誰かな」
眼前に立つその人は曖昧に揺らいでいた。
輪郭も、影も、仕草も、表情も、思考も、人物像も何もかも読み取ることはできない。
幻月花が記憶に呼応し|幻想《ゆめ》を見せるならば、記憶を持たぬ自分が見せられる光景は斯様な曖昧な形が似つかわしいのかもしれない。
(まぁ、そんな気はしていたよ)
いくら質の良く鮮明に映像を映し出せる映写機があったとて、|記憶《フィルム》が綻んで毀れてしまっているのであれば意味がない。
恐らくは、そういうことなのだろう――自分の記憶の綻びが、曖昧な形として眼前に投影されている。
顔立ちどころか性別さえもわからない。ただ、なんとなく竜なのだなと直感はできた。
自分自身だろうか。わからない。でも、己にも誰か、忘れ去った記憶の中に逢いたい人がいるのだろうか。
もしくは、昔の自分を識る誰かに逢いたいという願望の表れなのだろうか。
(わからない――でも、幻の正体に触れたら、何かわかるだろうか)
この心にぽかりとあいた空白も、美しいものを蒐集したいという欲求も、逢いたいと想う衝動も。
その答えに辿り着けたのならば、すべて理解できるのだろうか。
(――欲しい、)
曖昧に揺らぐ、その記憶の断片を。
レースは手を伸ばしていた。ほぼ、無意識に。そうして、もう少しで幻に手が触れようとした刹那――誰かの幻影が消えた。
まるではじけるように、無数の燐光となって解けて夜の空へと消えていく。
そうして、光が已んだのち――残されたのは、元居た廃教会の光景だった。
●
夕暮れの空が好きだった。
夜になる前に、ちょっとだけみせる暖かい色。太陽が残してくれる優しい温度の名残。
――夜が来ても寂しくないよ。必ず、また朝になったら逢いにくるからね。
優しい夕暮れの色は、まるで寝物語を読み聞かせる母親の手のように暖かい。
だから、彼の瞳の色も、好きだった。幼い頃に其れを真っ直ぐに伝えたら彼は少し照れ臭そうにしていたけれど、その様子さえも、愛おしかった。
人魚のことも、あの夕暮れ色の瞳のことも――忘れられたら、どれほどよかったか。
「――潮音」
己を呼ぶ声に朝野・潮音(D.E.P.A.S.の警視庁異能捜査官・h12863)は、眩しさに閉じていた瞳を開いた。
やわらかな夕暮れ色の双眸は|幼い《あの》頃と変わらない。
だけど、凶刃に倒れた時よりも少しだけ歳を重ねていた。
「……夕影」
名を呼んだ。久方ぶりに口にする名は、少し不格好な音をしていた。
でも、彼は穏やかに微笑んでいた。その表情だけは、何もあの頃と何も変わらないように見えた。
(――だが、それだけではない)
今はもう、その微笑みに含まれていた別の意味を識ってしまった。
きっと、ずっと、そうだった。
自分が見なかったふりをしていただけで、きっと、彼はずっと前から狂っていた。
「――くだらない幻だ」
掻き消すように潮音は幻を蹴り上げた。だが、夕影の幻影は相変わらず其処にあった。
彼はただ微笑んでいる。何も変わらぬまま、微笑んでいる。
子どもの頃にともに遊んだあの時のように――私を殺した、あの日のように。
潮音は胸を手で押さえた。今はとっくに癒えたはずの傷口が痛んだ――否、痛んでいるのはきっと心だ。
良い。痛め、心よ。それだけ、彼への|感情《ねつ》を記憶しておける。この熱は進む為の大切な原動力となる。
「今度は逃がさない」
潮音は唸るような低い声で言う。相変わらず微笑むあの男を、優しい眼差しで狂気を振りまいているあの男へ。
今きみに抱くこの感情の名は己でもわからない。けれど。
「――君は、私が殺す」
月冴ゆる孤夜。潮音は己の感情を確かめるように、ぽつりと呟いた。
●
重たい廃教会の扉をあけて、幻月花が咲き映える地面を眺めていたはずだった。
でも、いつの間にか舞い上がった燐光が視界すべてを真っ白に覆う。
そして、光が已んだ時、其処にあったのは一面の夜空だった。比喩表現などではなく、天も地もすべてがあまねく星で満たされた不思議な光景だ。
「……此処は……空?」
「……あれ? お花ばたけ……おほしさまになったですか?」
まず周囲の光景の変化に気付いたのは夕星・ツィリ(星想・h08667)だった。
ココ・ロロ(よだまり・h09066)もすぐに気付いて、ぴょこぴょこと好奇心のままに星の野原を駆け巡る。
不思議なことに何処かに落ちてしまったり、流されてしまったりはしないみたい。
「すんすん……お花のにおいするような、しないような……でも、それよりも……あまいにおい?」
星空なのに不思議なことになんだか甘い匂いがしてココはこてんと首を傾げる。
何処からこの匂いがするのだろう。ココは自慢のお鼻で匂いの出所を調べようとするけれど、よくわからない。
きらきらで、あまい匂いがする不思議な星空間。
「……夢、なのでしょうか」
「さっきまで教会にいたはずなのに、いったい……?」
背後から神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)が呟くぽつりとした言葉を聞きながら、ツィリは周囲の光景を見渡す。四方すべてが星に包まれた、何処か懐かしい光景。
それでも光景に夢中になってふたりとはぐれてしまわないように気をつけて進むツィリの視線の隅で何かが流れ落ちた。
「あ」
「きゃっ」
何かが落ちてくるのに気付いたツィリの言葉と、境華の小さな悲鳴はほぼ同時。
「境華ちゃん! 大丈夫?」
「大丈夫です。これが、どうやら額に当たったようでして」
振り返れば境華が小さな星を持っていた。
否、それは星型のクッキー。境華は不思議そうに流れ星の如く降り注いできたクッキーを眺める。
「わ! きょうかさんだいじょぶで……」
心配して文字通りかけつけたココの目の前で、境華は恐る恐るクッキーを口へと運んだ。
「おほしさまたべちゃった……!」
青い目をまんまるくするココの目の前で境華は慎重に味を確かめてから、ほろりと表情を綻ばせた。
「結構、おいしいです。でも、クッキーだけだと何だか喉が渇いてしまいますね」
「それ美味しいの!?」
境華の思いきった行動と感想にツィリは思わず大きな声で叫んでしまった。
(よくわからないけど……おいしいなら、私もちょっと食べてみたいな)
ツィリが願えば、三日月型のフロランタンがぽとりと手に降ってきた。
それと同時に境華の手にも先程願ったためなのか、今度は果実の香りを含んだ雫が目の前に落ちてくる。
「ツィリさんのはおつきさま……? むむ……ココもたべた~い!」
境華とツィリが手にした星空のお菓子があまりにもおいしそうで、ココの喉もごくりとなる。
星空を奔る流れ星にココもおいしいお菓子を|おねがい《おねだり》してみたら、小さな星のマドレーヌがぽっとりと手に落ちてきた。
「ココくんの星のマドレーヌだ!」
「わあ、わあ……! すごいですね! おほしさまがおねがいかなえてくれました」
ツィリが興奮したように言う。
嬉しそうに返事をしたココのマドレーヌはココアの生地にお星様のようなホワイトチョコチップが練り込まれていた。
おいしそうな香りに我慢できずに早速ぱくりと頬張れば、口の中においしい宇宙が咲いた。
「う、ココくんのマドレーヌおいしそう。その表情はずるいよー!」
おいしそうなココの様子を眺めていたら、これもあれももっと色々食べてみたいなという気持ちがむくむく沸いて出てきた。
「どうやら、思い描いた食べ物が現れるようですね。それなら、せっかくですから、星空のお菓子バイキングを楽しみましょうか」
「お菓子バイキング賛成です!」
「えへへ、ココもバイキングさんせ~い!」
境華の提案にツィリとココも元気よく手をあげて大賛成。
「むむむ、あれもこれも食べたくなっちゃって逆に何をお願いすればいいのかわからないよー」
「例えば、マカロンとかどうでしょう? あとは、お星様って金平糖に似ていますよね」
悩むツィリに境華が穏やかに言えばぽんっと光るお月様のマカロンとはじける星屑の金平糖が出てくる。
ココもぽてぽてと両手にお菓子をのせてツィリに自慢げに見せてくる。
「ほしぞらのグミと~こっちのまあるいおつきさまのみはチョコ~! どれもおいしそう!」
「本当だね! じゃあ飲み物ほしいな。あまくて、しゅわしゅわの虹色ソーダ!」
ツィリが呪文のように唱えれば、ぱっと出てきたのは弾ける泡が虹色のソーダとカラフルキャンディの|雨《飴》。
ぱくりと口に放り込めば極上の甘さがツィリを包み込んだ。
「これらすべてどんな味でしょう? 気になりますね」
「ふふ~、ゆめならぜんぶたべられそう?」
境華が集めたお菓子を並べる傍らで、それらのお菓子を眺めたココは上機嫌にもこもこの尻尾を揺らした。
「物語の一幕みたいな体験……! これがいつか覚める夢なのなら……それまでに沢山楽しまないとだね!」
「うん! ゆめからさめても、あれおいしかったね! っておはなしできるように おなかいっぱいたのしも~!」
不思議なお星様のお茶会。夢から醒めてしまう時間まで、三人は沢山想い出を紡ぎながら楽しんだのだった。
●
逢いたい人を問われれば――それは、もう、沢山いるとシンシア・ファルクラム(歌い、奏でる空の柱・h08344)は答えるだろう。
ひとり歩んできた道は気付けば随分と長くなってきた。
振り返っても、もう故郷の街は其処にはない。懐かしい風が頬を撫でることもないし、きっと今呼吸している空気だって全く違うものだろう。
だけれども、空の色だけは何処であろうと変わらなかった。
様々な色彩に映り変わる空は変わらずに綺麗なままで、その空の身許にいたであろう大切な人達の姿を思い浮かべる度に胸が仄かなぬくもりが包む。
ふたたび逢える奇跡に再び巡り逢えるのであれば、あの日散っていった一族の仲間達に出会える奇跡を願うだろう。
そして、その中でも特に強く想うのはお父様と、聖女様。
祈る気持ちを携えて立ち入った廃教会にて咲き映えた幻月花が燐光を巻き上がらせた。視界を奪った白光が已んだ向こう側で待っていたのは、ふたりの人影だった。
「やはり……わたしの前に現れてくださるのは、あなた方なのですね。お父様――聖女様」
願っていた。祈っていた。でも、縋らぬように我慢していた気持ちもあった。
でも、やはり、幻影だと理解していても逢えた気持ちは嬉しくて、シンシアは青色の瞳をゆるりと窄めた。
「お父様、聖女様。あなた方の娘は、ここまで大きくなりました」
いつか、ふたたび逢えたならひとことだけでも伝えたかった。
「立派になったね、シンシア」
父親がシンシアに柔らかく微笑んだ。
だからこそ、再び幻影であることを再確認する。
父はこの手で埋葬した。だからこそ、眼前でもうあの頃のような優しい微笑みを自分に向けてくれるはずがないのだ。
「少し……ほんの一瞬だけ。一族の勤めも、聖女代理の責務も忘れて。ただのシンシアに……一人の娘に、戻ってもよろしいですか……?」
「ああ、勿論だよ。僕の可愛い娘なんだから――よく、頑張ったね」
喩え、都合の良い幻影だとしても――少しくらいは、積もり重ねた思いを吐き出すことは赦されるだろうか。
優しい父は、シンシアの予想通り優しい言葉をかけてくれて慰めてくれた。
父はシンシアの方へと近付いて頭を撫でようと手を伸ばす。だけれど、幻影だからか触れることはできなかった。
ほんの少しの寂しさを感じると同時に、でも、それで良いのだと不思議な幸福感が満ちた。
撫でられずとも、もう、父の温度を感じることが出来るとも――想い出の父は自分の中で生きている。
撫でられた感触は、このこころがしっかり覚えている。
「ありがとうございます、お父様」
だから、シンシアが告げた礼は今までシンシアが歩いていける強さと優しさをくれた父への礼を籠めたものでもあった。
そうしてシンシアは視線を|聖女様《母》の方へと向ける。
この手で埋葬した父と違い、母は未だ行方不明のままだ。僅かに、今も何処かで生きているのではないかと思ってしまう。
いつか、何処かで再び逢える日が来るのではないかと、そんな淡く甘い考えも脳裏を過ぎる。
じっと聖女様の姿を眺めていれば、彼女は顔に少し厳しい表情を浮かばせていった。
「そのままではいけませんよ」
聖女様は自分を叱咤してくださる。でも、厳しい言葉の中にもきちんと愛情があった。
「あなたの中で、立派な光の柱を育てるのですよ。我が娘、シンシア――私の愛しい娘」
「はい」
シンシアは微笑みながら受け入れて、神聖な祈りを捧ぐ。やがて消えゆくふたりの姿を、ただ穏やかに見つめ続けていた。
●
逢えるからといって、都合の良い夢みたいな幻だって、わかってる。
自分の記憶の投影でしかないって――わかってるから。
(それでも、幻だとしても会えたのなら――きっと、)
その時、自分はどのような表情を浮かべてしまうのだろう。もしかしたら、家族に見せられないような情けない表情をしてしまうかもしれない。
(ああ、だったら……まぼろしでよかった、って思えるのかな)
でも、それは半分本当で半分嘘かもしれない。だって、本当は――と、考えかけてルカ・ルチア(プラチナファントム・h12654)は静かに首をふった。
そうしてまっすぐと見据える廃教会。月明かりに照らされた教会は朽ちても美しい。
そっと息を吸い込んでルカが教会へと立ち入れば視界が燐光で真っ白に染まった。そうして、光が已んだ末に見えたのは、見慣れた|我が家《・・・》だった。
「やっぱり、そうだ……見間違えるわけがない」
確かめるようにルカは静かに呟いた。
玄関を入ってすぐの広いダイニング。家族全員分の椅子が並んだ大きなテーブルには、黄色い花が飾られている。
多分きっと、妹あたりが家を囲むように咲いていた花から一輪拝借してきたのだろう。でも、多分、その一輪を選ぶのにもとても悩んだのではないか――なんて考えてしまう。
懐かしいけれど、もう遠い感傷に浸っていれば聞き慣れた――否、忘れられるはずのない声がルカを呼ぶ。
「おかえりなさい、ルカ。今日はお父さんより早かったのね」
カウンターの向こう側で母が穏やかな笑みでルカの帰宅を迎え入れた。
母の声を皮切りに様々な音が甦るように聞こえてくる。
まず聞こえてきた弟達と妹のはしゃぐ声。それから、おばあちゃんの穏やかな声。
(きっと、編み物を教えているのかな)
だって、前に話していたんだ。
『おでかけしても寒くないように、マフラーをあんであげるね』
屈託のない無邪気な笑顔で言った妹に対抗するように、弟がじゃあ自分は手袋をつくると言いだした。そうしたら別の弟が自分は帽子をと言いだした。
あの時、自分はどう答えただろう。嬉しい、待っていると言っただろうか。それとも、気持ちだけ受け取っておくだなんて言っただろうか。
それとも、照れて何も答えられなかっただろうか。
家族の言葉は思い出せるのに、自分の言葉はなんだか曖昧だ。それは、きっと、それだけ自分が家族のことを想っていたからなのだと思う。
母の笑顔と、祖母と弟妹の楽しそうな声。其処には胸を締め付けるほどに愛おしく懐かしい記憶が満ちている。
(――これを聞きたかっただけなんだ、忘れてしまう前にもう一度)
それだけだったのに。
「……だめだなぁ」
自嘲しながら弱々しくルカは呟いた。
ここに|いる《・・》し、また|会えた《・・・》――そう、思えてしまう。
同時に、父が此処にいない理由も気付いてしまった。
きっと自分は、無意識にあわせる顔がないと思ってしまっているからなのだ。
(おれ、自分で思ってたより、ずるいんだな……)
黙ったままのルカに母親は少し心配そうな顔をした後に色々なことを話しかけてきた。
疲れているの? 成果がいまいちだった? それとも、何処か痛いの?
その言葉どれもが苦しいくらいに懐かしかった。でも、ルカは言葉を返さない。
ただ、首を振った。ただ、違う。そうじゃないという気持ちを込めて、横に振る。
幻には応えない――それだけが、ルカのせめてもの意地だ。
ただ今は、声をきいていたかった。もう少しだけで、いいから。
「おかしいな」
――なんでおれ、こんなに泣いてるんだろう。
幻月花が静かにルカの涙を照らしていた。
●
幻月花が咲き映える丘の中央に聳え立つ廃教会を、皎月の光が穏やかに照らしていた。
朽ちてもなお美しい。否、滅びゆく宿命だからこそ、人は美しく感じるのかもしれない。
廃教会の扉を前にして、ふたりは一度立ち止まった。この扉を開けば、その中には幻影が待っている。
「サディ君はこの花にどんな白昼夢を願うのかな」
「俺の願いが何かなんて知ってる癖に」
嘯・シアン (恣意的思惟・h06837)の言葉に憂・サディスト(蝶々結びで、・h12742)は端的な言葉で返した。
「――ちゃんと、帰ってくるんだよ、それじゃ、いい夢を」
シアンはあえてサディストの言葉には応えない。ちゃんと帰ってくるんだよ、なんて言葉を発言するまでには僅かな間があった。
(――ああ、やっぱり)
瞳をゆっくりと窄めたシアンの表情をみながらサディストは悟る。
解っているなら訊かなければいいのに、本当に酔狂な先生だな――でも、そんなことを口に出したとてもう全ては今更だ。
ゆえにサディストは脳裏に浮かんだ言葉を呑み込んで、皮肉げに口角をあげた。
「……先生も、どうか楽しんで、俺と同じ景色を」
――願わくば、俺が希ってやまない悪夢のような良い夢を。
そうして、幻月花が見せる|幻影《ゆめ》に身を任せてすぐに見えてきたのは、昏い空だった。
重くのし掛かるような暗い空を割るのは稲光。だけど、其れは希望の|光明《ひかり》等ではなく、|破滅の喇叭《オープニング》だった。
灯台の特等席に腰掛け神の如く見下ろすシアンの眼下で荒れ狂う海と燃え盛る対岸の街が見えた。
これは「悪」が完成させた世界の|終焉《おわり》。人々が一様に未来を、希望を、幸福を願った世界。
破壊されていく世界。崩れゆく街並み。逃げ惑う人々。燃え盛る炎。止まぬ地響き。
色濃い終末の気配を肌で感じながらサディストは瓦礫の中で立っていた。
此処は幾度も夢見た先生の作品の再現だ。何処か満足そうな様子でサディストは逃げ惑う人々の流れに逆らうように歩を進める。
(これは"|救い《・・》"だ)
秩序も日常も、過去も未来も何もかもが全て壊れてゆく。
これを為せる者がいたとしたら――それは|神《作者》と呼んでいいだろう。
壊れゆく世界で、ふたりは同じ光景を視ていた。でも、抱く感想は違った。
|作者《シアン》は|幸福な結末《ハッピーエンド》を思い描いていて、|観客《サディスト》は|悲劇と絶望《バッドエンド》を望んだ。
「はは、今見てもどきどきしちゃうな――全てが布石だ、ここから「正義」が世界を救う」
シアンは身体を震わせた。光が強ければより影が深まるように、より昏い夜ならば黎明を告げる曙光がより美しく輝く。
地獄のような絶望から這い上がってこそハッピーエンドが映えるのだ。
今見ても本当に出来が良い物語だ。己にしか描けない最高の地獄にして、ハッピーエンド。
(……昔の作品に囚われすぎても良くないね。そろそろ目覚めようか)
シアンは指先に絡めておいたサディストの黒いリボンをひいて、幻影を断ち切る。
サディストもまた、身体を震わせていた。
破壊と絶望の悪夢。何もかも毀れ続けていく終末。
(ああ、俺の救い。俺の神)
黒い瞳を窄める。なんて素敵な|絶望《すくい》なのだろう。
(――もう一度これを再演してくれたなら、たとえ死ねない体でも、歓びをまた感じることが出来るかも知れない)
そうして、炎の中へと歩みを進めようとしたところでリボンを引かれる感覚に足を止めた。
「……お目覚めが早いことで」
穏やかなシアンの双眸がサディストを見ていた。
|先生《シアン》に呼ばれたら必ず応じる――そういう、契約だ。
あの|物語《ゆめ》の続きが見たかったとしても――折角の悲劇だったけれど、まことに残念なことに今宵もまたお預けらしい。
●
花の眩むような光が已んだ後に待ち受けていたのは夕焼けの紅の色だった。
憧憬を融かしこんだかのような夕焼けは胸を締め付けそうになる程に感傷を引き起こす。
「お前、顔つきが変わったんじゃないか?」
届いた声は記憶の中とちっとも変わらない声。夜鷹・芥(stray・h00864)は振り返る。
遙か遠く、燃え盛る斜陽の先で大きな背が佇んでいる。逆光となって表情はうまく読み取れないものの、金色の髪が夕陽に透けて柔らかく靡いた。
夕陽と同じ色彩を映す金木犀は満開に咲き映えてはいるけれど、何処となく薫香は遠い。芥がどう思おうと、これが夢なのだと実感させてくるような香りの薄さだった。
「倖せなんだろうな」
無言。
「もう立派な警察官だ」
返せない。
人影が投げかけてきた言葉は、どれもこれも言って貰えなかった言葉だ。
(――馬鹿みてえ)
内心で吐き出した言葉は己に向けたものだ。
幻月花は都合の良い|陶酔《ゆめ》を魅せる。喪失を経験した者が溺れ、縋り付きたくなる幻想。
つまりは、これは己の願望なのだろうか。己は、結局ずっと|あの人《・・・》に認められたいのだろうか。
――自分で「 」したのに?
ずきりと、痛みが胸を刺す。
穏やかな様子の彼は、その笑みを崩さないままに芥への心臓へと銃口を向ける。
「……そうですね」
ようやく芥は声を出せた。
その声は何処か諦めたような、それでいて安堵したかのような穏やかで哀愁に満ちた響きだった。
「本当の望みは――あなたの手で俺を消して欲しかったんです」
ようやく言えた。銃口を向けられているというのに僅かに心が軽くなって、フッと安らかな気持ちになる。
だけれど、頭の何処かで警鐘が鳴り響いて気付いてしまう。
(ああ、此れは俺の願望で――あの人じゃない)
気付いてしまえば、簡単なことだった。
遠かったはずの金木犀の香りがふっと強まった。その中で微かに残る煙草の香りに、芥は金色の双眸を見開いた。
この、ぬくもりの――その、名前は。
●
視界を覆い尽くす程の光に思わず目を閉じる。
瞼越しに光が已んだことを確認しながら雨夜・氷月(壊月・h00493)が恐る恐る目を開けば――眼前に、懐かしい人がいた。
「ぁ……」
氷月の口から零れるように言葉にならない声が漏れ出て、静寂の夜にすっと吸い込まれていく。
いつの間にやら氷月は夜にひとり佇んでいる。
夜空には大きな月が浮かんでいるけれど、昏い夜を慰めるには僅かに足りない。
「……」
氷月は黙ったまま眼前に現れた人々を見つめていた。
静寂で、孤独で、曖昧な夜。月光を背に現れたのはかつて氷月に「父」と「母」なんて呼称で呼ばせた人達。
見目も血も何もかも違う、仮初の「|かぞく《・・・》」だ。
でも、その姿は何故かよくわからなかった。それは、世界を照らすにはあまりにも頼りないこの月光の所為だろうか。
それとも、己の輪郭を持たないぼんやりとした思考の所為だろうか。
「ああ、大きくなったね氷月」
曖昧な輪郭のままで父が言う。
「やっぱり美人さんに成長したね。ほら私の言った通りでしょう?」
「本当だなあ、あのまま成長が止まるんじゃないかと思ったけれど」
父と母が目の前で、そんな話をしていた。
懐旧と暖かさで氷月の心が満たされていれば、大きな手が頭にぽんっとのせられた。
懐かしく暖かな感覚に、氷月の頬がほんのり少しだけ緩んだ。
「表情も豊かになって、本当に『人』になったんだね」
「よく頑張ったね、氷月」
ふたりの賞賛の言葉が嬉しい。
「そう、おとうさんとおかあさんみたいになりたくて、がんばった」
たくさん頑張って、学んだ。そうして穏やかに微笑んでいる氷月――すると、ほんのりと少し煙草が香って、一緒に来た存在を思い出した。
「――あのね、ともだちもできたんだ」
氷月は傍らにいた芥に手を伸ばして、その手をとって無邪気に紹介するつもりだった。
けれど、その時気付いた――夕映えの先に佇む男が芥に向けて銃口を向けていたことに。
「ねえ、なんで銃、向けられてるの、アンタが」
氷月は困惑の声をあげるが、次第にそれは焦燥の声へと変化する。
「やめて、芥までつれていかないで……っ」
悲痛な声。抱き締める氷月の体温に芥もようやく動けるようになる。
そして、黄昏の先――夜の世界に佇む歪なふたりの姿に気付いた。きっと、彼らが氷月が求めている大切なもの達の姿なのだろう。
だからこそ、芥の心に炎がつく。
「相棒の頼みなんだ、今はまだ……壊れるわけにはいかねぇだろ。俺はあのふたりとも違う、これ以上傷つけるのは嫌なんだよ」
芥は突き付けられた銃を静かに握る。
「……悪いな、先輩」
芥が呟けば、男の幻影が消えて、ただ静寂が残った。
そして、黄昏に照らされて先程よりも鮮明に見えた両親の姿を改めて氷月は見た。
その姿はツギハギで歪な体。ただ佇んでふたりのことを見守っている。
壊れてしまった氷月の大切なもの。願いはただ、どんな形でもいいから生き返ってほしかった。ただ、また一緒にいたかった。
でも、人間は生き返らないものだと今は知ってしまったから――だからもう、失いたくなかった。
黄昏と月夜の境界。暫くふたりは無言のまま互いの体温を確かめあっていた。
●
――深琴、と。
淡い夜に姉の声が灯る。優しくて、暖かで、包み込むような愛おしい忘れたくない声だった。
(大丈夫……ちゃんと覚えてる)
兎沢・深琴(星華夢想・h00008)は胸をそっと手をあてる。
最後の記憶よりもほんの少しだけ高い声。これはきっと少し若い頃の姉だろう。
噛み締めるように姉の言葉を心に仕舞い込んでから、姉の名を呼び掛ける深琴の声を遮ったのは子どもの声だった。
息を飲んだ隙に幼い深琴が真横を通り過ぎてゆく。
『おかえり、おねえちゃん。ねえ、今日もつづきをかいたの』
無邪気に笑いながら幼い深琴はスケッチブックに色鉛筆で描いた絵物語を自慢げに見せる。
水底から少しずつ浮上するかのように、記憶が徐々に甦ってくる。
(――あれはいつの頃かしら)
正確には思い出せない。だけれど、その時自分は絵本作りに夢中になっていた。
否、絵本作りというと少々大袈裟か。絵本を真似た拙い絵物語を書いていたのだ。
なんてことのない、幼い子どもが大抵一度は白紙に描く他愛のない夢想。絵は拙くて、きっと物語も破綻している部分はあっただろう。
『ふふ、うまく描けてるね、深琴』
『ありがとう! でもね、おねえちゃんの絵のほうが、ずっとすごくてきれいで大好き!』
それでも姉は一度も否定をすることはなかった。えらいね、すごいねと笑って暖かな手で自分を撫でてくれた。
あの頃の深琴の世界の中心には、いつだって大輪の薔薇のように華やかな笑顔を振りまく姉がいた。
それが当たり前でいつまでも不変であることを信じて疑わなかった。
それから次々と場面は映り変わる。どれもこれも、特別な想い出ではなかった。日常の有り触れた一頁。
姉がいた。当たり前に姉がいて、一緒に笑い合えた。姉のことが大好きで、いつまでも世界は優しいままだったのだと信じて疑わなかった。
この記憶の光景がうつろいゆくように、特定の想い出に絞れない程当たり前の幸せだった。
(本当に……全ての瞬間が幸せだったのに、どうして私は……)
懐かしさと後悔が喉元まで溢れてきて、締め付けられる胸が呼吸を妨げる。
痛む胸を両手で押さえながら、深琴はふと疑問に想う。
(姉にとって私はどんな存在だったのかしら)
幻の深琴は、幻の姉をすごいと無邪気に讃えていた。斯様な自分を姉は如何想っていたのだろう。
年の離れた姉は深琴にとって自慢だった。何でも出来て、いつも手を差し伸べてくれた。
誰からも愛される優しく手頼れる自慢のお姉ちゃん。
自慢であると同時に憧れでもあった。自分の理想の先にはいつも姉がいて、当然のようにその背中を追いかけた。
ついぞ、追いつけなかった。
きっと、姉が生きていたとしても追いつける日は永遠に訪れなかった。
それでも無邪気に姉の背中を追いかけていたあの頃は、追いつけない劣等感も寂しさもすべて姉への憧憬や敬愛に掻き消されるくらいに誇らしくて眩しかったのだ。
『おねえちゃん、だいすきだよ』
幼い自分の声が淡い夜に無邪気に響く。
しゃがみこんで幼い深琴に視線をあわせた姉が、頭を撫でながら何かを言っていた。
でもその声は見えない何かに奪われたように、何も聞こえなかった。ただ口を動かす姉の姿しか見えない。
「なんて、言ってるの……?」
幼い自分と姉の許へと深琴は近付く。姉が何を言っているのかききたかったから。
近付いて、姉の肩に手を置こうとしてもすり抜けて余計に幻影が遠ざかっていく。
「ねぇ、教えてよ……」
頼りなくこぼれた呟きは優しい記憶に届かずに、夜に静かに霧散した。
●
静かな藍色の夜空に白い花びらがふんわりと浮かんでいる。
優しい風にふかれてまるで月を目指す様子は夢景色。
(うぅ~ん、ちょっと眠たくなったべ)
夜だというのにまるで小春日和のひだまりで微睡んでいるかのような心地だ。
大きな欠伸をして胸一杯に空気を吸う。春の夜の澄んだ空気が番田・陽葉(はぐれ 熊猫パンダ純情派・h10140)の中に満ちて心地が良い。
陽葉は瞳を閉じて、ちょっとだけうつらうつらをする。そう、少しだけ居眠りを――。
「……ってもしかしてわだすってば寝ちまったべか?! あはばばっ!」
本人基準で慌てて飛び起きればすぐ頭上にあった屋根のような何かに頭をぶつけてしまった。いくらパンダの被毛がふわもこだろうと、ちょっぴり痛い。
でも、その痛みは少しだけ懐かしさがあった。そう、あれは懐かしい場所にあった丸太を組み合わせてつくったようなパンダ用の休憩所。
まだ少しだけぼんやりとする意識の中で懐かしさの正体を探している陽葉を誰かが呼んだ。
『――悠悠……』
ぴこっと耳が反応した。陽葉を呼ぶのはとても懐かしい声だった。
(わだすはこの声のひとを知ってるべ……)
知っているのではない。覚えているのでもない。それは、決して忘れられるはずがない優しい声だった。
陽葉はゆっくりと声のする方を見た。
其処にはあの人がいた。いつもお世話をしてくれた飼育員の人がいた。
そして、簒奪者から陽葉達パンダを守ろうとして亡くなった人――
「陽助さん……」
陽葉は思わず名を口にした。陽助さんがあの頃のまま優しく笑って手を振っている。
否、陽助さんだけではなかった。陽助さんの背の向こうには慣れ親しんだ動物園の光景があり、其処にはかつての仲間パンダたちもたくさんいる。
「母ちゃん! 父ちゃん! それに雲雲おじちゃんも!」
のんびりころころと仲間パンダ達が懐かしい光景の中でマイペースに転がっていたり笹を食べていた。
名を呼ばれた雲雲が「ん?」と言わんばかりに顔をあげた。
そして、愛おしい孫娘への愛情をこめてなのか、自分の近くに溜め込んでいた笹を1本陽葉の方へと差し出してきた。
陽葉の涙腺が思わず緩みそうになる。
此処にいる仲間達は、もう今は傍にはいない。陽葉が子どもの頃に他の動物園に移動した両親や、老衰で亡くなった知り合いもこの光景の中にいたのだから。
(――わだすの大切な思い出)
なんでこんなにも懐かしくて、痛くて――でも、愛おしい思い出なのだろう。
ひなたぼっこのようにじんわりと心の中が暖かくなってくる。でも、まるで氷を注がれたようにひんやりとした鋭い冷たさが胸を刺した。
これが、幻月花が見せるまぼろしなのだ。
いくら願えど、夢みれど、過去は戻らないし死んだ者も生き返らない。
それは理解している。わかっている。
(これはわだすの記憶を投影した夢だべ。現実じゃねえ)
頭ではわかっているのだ。これは、幻影だって。もう仲間はいないし、大切だった人ももうこの世にはいない。
頭ではわかっているはずなのだ。過去は戻らない。死んだ者は生き返らない。
それは、わかっている。わかっているのに。
「でも、でも……!」
今だけはあの頃の夢を見ても許されるだろうか。
堪えきれなかった。陽葉は四つ足で走り出して、両腕を広げて待っているあの人の胸へと飛び込む。
体格差はあるから普通に飛び込んでしまうと陽助さんを傷付けてしまうかもしれない。でも、陽葉はちゃんと力加減も心掛けている。
あの頃と同じ様にもっふりとした体毛で陽助さんの腕の中へと飛び込んだ。優しく陽葉を抱き締めた陽助さんの暖かい手は夢の中の幻とは思えないくらいあの時のままだ。
「陽助さん、お話したいこととがたくさんあるんだべ!」
口では、そう声に出したつもりだった。だけれど、実際に音になるのは子犬のような鳴き声のままだった。
それでも陽助さんはまるで陽葉が何を伝えたいのかわかるように優しく微笑んでいた。
実際に言葉が通じているかはわからない。でも、今だけはそう信じたかった。
抱きついたままの状態で陽助さんの顔を見上げていれば、仲間のパンダたちも続々と集まってくる。
まるで自分も構って、遊んでというようにわらわらと集まってあっという間にパンダの大集会の開催だ。
自分だけ独り占めはどうやら難しいらしい。
(そうだべ……)
優しい人だから、みんな好きだった。優しすぎた人だから、守ろうとして死んでしまった。
ここは、あの頃の動物園だった。
●
相手が望む都合の良い|陶酔《ゆめ》を魅せる幻月花。
魅せるのが喪失した何かや戻れぬ過去だけだと誰が言ったのか――そう、見たいと願えばどのような夢でも見られるのだと、男は身を以て知ることになる。
「ふむ、ここはナギの独壇場で御座いますね?」
ナギ・オルファンジア(宙からの|堕慧仔《オトシゴ》・h05496)の赤い瞳がきらりと光った。
じり、じりと何故だか妖しげな様子のまま躙り寄ってくる。
「な、なっちゃん……?」
何故か異様な雰囲気を察したアダルヘルム・エーレンライヒ(余花を夢む・h05820)が思わず後ずさりをすれば、脚で何かを蹴飛ばしてしまった。
蹴飛ばしたものを確認する為、アダルヘルムが恐る恐る視線を地面へとうつす。
「な、なんだこれ……」
困惑したようにアダルヘルムが呟いた。
先程まで幻月花が咲き誇る花園であったはずの地面は黒と白の格子模様。蹴飛ばしたのは赤いピンヒールのシューズだったらしい。
困惑しながら、顔をあげれば、まるで赤薔薇の女王の|衣装部屋《ドレスルーム》のような赤薔薇色の重厚なカーテンや装飾がされた空間に変貌していた。
ずらっと並べられたハンガーにはそれはもう多種多様な――何処でこんな服装をするのかと思わず叫びたくなるような衣装が所狭しと駆けられていた。
「ルル君が普段お召しにならないものを見ようじゃありませんか」
「……は? はぁっ!!?」
何やら不穏で妖しく目を輝かせながら、ナギはじり、じりと距離を詰めてくる。
――なんだか、すごく、いやなよかんがする。
「そう、なれば異性装ですよ」
「異性装だと!? 誰が着るかよ……!」
話している間にもナギは追い詰めてきて、ついにアダルヘルムは壁際まで追い詰められた。
「さぁ……ルルくん! 新たな扉を開きましょう!」
「あ、ぁぁぁぁ……」
完敗。こうして『なっちゃんプロデュース☆ルルくんファッションショー』などというトンチキ極まりないイベントが開催されたのでした。
色々溢れ出す欲望をナギは抑え込んでまず手に取ったのはシンプルな洋装。
コース料理だってまずは前菜から始まるのだ。メインディッシュに喰らいつきたいのを抑えて、まずはシンプルな洋装から味わうべきだ。
だが、前菜だからといってナギシェフは手を抜かない。此処はコルセットとハイヒールで味付けだ。
「ウエストをみちっと胸筋を強調してね――えい、お胸からごつめの腰骨のラインをガイアに魅せつけていきましょうね」
コルセットをきつめに締められた。
男性の体型でコルセットのフルパワーを引き出せるかは疑問に思うところであろう。だが、それはアダルヘルムの立派な胸筋がいい仕事をした。
ビバ・胸禁。これまでずたぼろになりながらも戦ってきた肉体が役に立ったと思います。よかったですね。
「完全になっちゃんの性癖なだけだろ、何で俺が……な、なっちゃんのヘンタイ……!」
「うんうん! ヒールでよろよろのルル君もなんと愛らしい!」
真っ赤な顔で必死にコルセットを隠しながら尊厳を保つため詰め寄ろうにも不慣れなヒールに足元が覚束ずナギに簡単に逃走されてしまった。
唯一の救いは、ナギが撮影出来そうなサムシングを持っていないことくらいだろうか。幻ゆえに残るかは疑問なところではあるが、撮影されるのはシンプルに何かこう、複雑な気分になってしまうのだ。
「ああでも、シスター姿等もお似合いではないかなぁ」
ナギがふと呟けば、ぽふっと小さく爆発するように煙が出て気付いたら、アダルヘルムの服装がシフター服へと替わっていた。
どうやら物理的に着替えさせられる以外にも想像してしまうだけで駄目らしい。
「へ、変なことを言うから今度はシスター服になったじゃないか……!」
「敬虔貞淑な装いに、血濡れた大剣と軍靴――ん、こちらも素晴らしい。いいですね、布の張り具合が絶妙に艶めかしいです」
「こ、これの何処が敬虔貞淑だ!」
「お写真撮れないのかしら……なんとかなりませんかねぇ」
きいちゃいない。唇を尖らせるナギに負けてしまいそうだ。
「ただの破廉恥な変態じゃないか……!」
「おやまぁ、変態だなんて。欲望に素直と仰っていただきたいものですねぇ」
「君はその欲望に際限が無いから困るんだろう……!」
「涙目の君を眺めるのも楽しいよ楽しいね」
うっとりと眺めるナギにせめてもの抵抗のように大剣を力なく放り投げた。
(なっちゃんはこういうのが好みなのか……? 何をしてもなっちゃんが喜ぶ未来しか見えないぞ……!)
勝ち筋が全く見えない。涙目の上目遣いで睨もうが、余計に愛でられる予感がする。
「次はミニスカセーラーにでもいきますか? それとも下着が履けない程にスリットの深いチャイナドレスかな?」
「何故ここで下着を履かせてもらえないんだ……! 脱がないからな……!」
さすがにそれは何かが終わってしまいそうだ。
最後の絶対戦線を守ろうとしていたアダルヘルムが足掻きで唱えた。
「そういうなっちゃんだって猫耳メイドになれば良いんだ……! 鈴付き首輪と猫尻尾もオマケしてやる……!」
「アッ、」
ぽふん。ナギの姿が猫耳尻尾つきのクラシカルメイドへと変わった。
「――この姿で君に侍れと? まぁ構いませんけどにゃあ」
鈴を鳴らしながら耳と尻尾を揺らしたナギは目を細めて言う。
破壊力は凄まじかった。アダルヘルムは自分でナギに変身させておきながら、にゃあの破壊力に顔を赤く染めた。
「そ、それは反則だろう……!?」
「成る程、君の趣味はこういう……?」
その瞬間、アダルヘルムは己で墓穴を掘ったことを自覚した。
●
視界を覆う光はまるで春の名残雪だった。
「此処は……」
燐光の白が視界を覆う。その視界を白紙のキャンバスのようにして描かれていく光景をブランシュネージュ・クリスタリエ(雪華の慈愛・h06548)は、ぼんやりと眺めている。
周囲が雪景色に包まれる。されども、足元には幻影の花畑が咲いている。曖昧になる季節の境界で足元触れれば解けてしまいそうな余りにも儚い春の気配が頬を撫でた。
「……兄さん?」
そして、その中心に双子の兄の姿があった。
雪原の幻影の花園の中心で、まるで春の色彩を纏ったような男が佇んでいた。
『――シュネ』
懐かしい声が己の名を呼ぼうと唇を動かした。されど、彼の声は白い雪につつまれて届くことはない。
ただ、双子の勘なのか――それとも、己の願望なのか兄がいつかと同じように己の名を呼んでくれたような気がした。
思わず溢れ出しそうになる感情を、胸に手をあてて押さえ込む。
『ひどい顔をしているな』
そう唇を動かす表情は意地悪い。息を吐くように繰り出される軽口が今は苦しいくらいに懐かしい。
兄はいつも意地悪い軽口を繰り出した。その裏には心配や優しさがあるというのに、素直になれずからかうような言葉でブランシュネージュに言葉を投げかけるのだ。
(――素直じゃないのは、オレも同じか)
ブランシュネージュの口元に呆れたような笑いが浮かぶ。
何を夢見ているのだ。幻影だと理解しているだろう――なのに、どうしようもなく心が揺れる。
だって、兄が今ここにいるはずがない。
頭では解っている。でも、懐かしい空気に少しだけ気が緩んだ。
『その年になってもそんなみっともない顔をするのか? 情けないな、子どもかよ』
素直に泣くなって言えばいいのに。
「ローリエンこそ、意地悪を言って――まるで子どもみたいだ」
他愛のない言葉を交わす。仄かに心が熱を持つ。でもすぐに揺らいで都合の良い幻想に浸りきることができなかった。
「なぁ、ローリエン今どこにいるの……」
不安とかじゃない――なんて強がりを胸の中で唱える。
でも、彼は、勝手にいなくなって――立ち尽くすブランシュネージュを兄が春色の双眸でじっと見つめてくる。
『無理してるだろ、シュネ』
彼の唇がそのようなことを言った。こんな時ばかりは優しい言葉を投げかけてくるのか。それとも、自分をからかっているのか。
見抜かれそうな――否、もしかしたらもう既に見抜かれているかもしれない強がりを視線を逸らして誤魔化そうとする。
でも、図星だった。少し困ったように笑いながら、ブランシュネージュは兄の姿を見た。
兄は、15歳の頃に突然姿を消した。その理由も、何を抱えているかも、ずっと一緒にいたはずの自分はわからない。
(それでも、目の前に居ると昔みたいに接してしまうものなんだな)
胸を抑える手に力が籠もった。弱音は吐かないつもりでいた。
(……でもたまには頼りたくなる時だって……)
手に籠もった力がやわらぐ。そうして、まるで何かにひかれるように伸ばしかけた手は途中で止まった。
「今は、触れられない」
線引きだ。これは、立ち止まらないためのおまじない。
ブランシュネージュはほんの少し困ったような笑いを浮かべた。兄と別れてから、少しだけ大人びた笑い方。
進め。立ち止まるな。そして、いつか追いつく――そんな気持ちを滲ませたまま、前へと進むんだ。
●
皎月が廃教会を静かに照らしている。
重たい扉の向こうで待ち受けていた浮き世離れした光景に氷薙月・静琉(想雪・h04167)は僅かに息をのんだ。
「……実際に、瞳に映すと驚きだ、な」
建造物の中の花畑。屋根は朽ち落ち、窓硝子は割れ、壁には罅が入っているけれど地面を覆い尽くす幻月花の花園は静琉に不思議な感覚を抱かせた。
幻月花に気を取られた一瞬、隣に居た気配を見失った。
「……舞?」
静かなれど声に僅かに焦りが滲む。己の心が焦燥に支配されるのを感じながらも静琉は深く息を吐く。
(……落ち着け)
まじないのように己に言い聞かせる。平静を保て、冷静に周囲を確認しろ。焦燥に支配されていては、見えるものも見えなくなる。
ひとまずは状況確認だ。捜索のために脚を動かそうとしたその時、ふと視界の端を何かの気配を掠めた。
「……?」
気配に手招かれるように振り返った静琉の鼻腔を懐かしい薫りが擽って――一瞬、呼吸の仕方を忘却しそうになった。
鏡合わせのような容貌。髪の長さという僅かな違いはあれど、ほぼ静琉を映し出したような風貌。
性格はまるで似ていなかった。仲がいいとも言えない。
それでも、記憶の底に沈む、大切な存在だと思える。
「喩え、まぼろしだとしても……嬉しいものだ、な」
思ったよりは驚いていなかった。ただ、この眸で見えたことを喜ばしく思った。
いつかの別離を見守る彼岸結びの桜が舞い散る中でみせられたように、これが花々が魅せる夢月だと解っている。
それでも、嬉しかった。
だけれど、胸が痛んだ。
幾時過ぎようとも、罪の意識は消えなかった。
(恨んでいないことは、|理解《わか》っている)
片我月だ。それくらいは解る。解ってしまう。
『何があっても、俺はお前の味方だ』
儀式の前日、彼が自分に遺してくれた其の言葉。
ずっと、ずっと、憶えている。
「……それでも……すまなかった……」
罪悪感に濡れた呟きが孤夜に響く。
「……お前だけは、助かってほしかった」
ぽつり、ぽつりと、言葉が漏れる。
だけれど、流れゆく水を堰き止められぬようにとめどなく|後悔《ことば》が溢れて止まらない。
「つまらぬ一族になぞ縛られず――長く、生きてほしかった」
抱えた想いは、あまりにも苦くて。
「すまな、かった……」
生来奔放な彼の未来を奪ってしまった後悔は拭いきれずに、この心に堆積していく。
彼の幻は何も言わなかった。物言わぬまま、ただ静琉の姿を眺めていた。
そうして、まるで解けるように静かな燐光と昇り消える。静琉はただその姿を見つめていた、その時――光の向こう側から、舞の声が聞こえた気がした。
「舞……何処だ?」
僅かに感じた春の気配へ、縋るように手を伸ばした。
●
心地良い春夜風が頬を撫でる。
月に見守られながら交わした言葉の幸福感がまだ名残のように胸に留まっている。
だから、何があっても大丈夫――そう、思っていた。
「静琉様?」
先程まで隣に居たはずの彼の姿が隣にない。
はぐれてしまったのだろうか。
(それとも……)
櫻・舞(桃櫻・h07474)の胸をひやりと撫でつけるかのように、嫌な予感がふきつけた。
(静琉様を探さなくては……)
不安になって静琉の姿を探そうとすれば、何処か懐かしい気配を感じた。その気配は眼前で姿を結ぶ。
「……っ」
小さく息をのむ。桜の気配が目の前で咲いた。
清らかな水のような色彩を身に纏う少女。見覚えはない。見覚えはないはずなのに。
「蒼……?」
唇から名が零れおちた。憶えていないはずなのに、でも何故か彼女が自分の片割れなのだという確信があった。
彼女も自分が呼んだ名に答えるように軽く微笑んだ。まるで、気付いてくれて嬉しい。逢えて幸せなのだというように。
(一緒に育った、あの美しい櫻……)
無意識に斯様な想いが脳裏を過ぎってふと疑問に想う。何故自分は今、あの庭に咲いた桜のことを思い浮かべたのだろう。
「私は……いったい……」
桜が散って、春がこぼれていくかのように何かの輪郭が曖昧になっていくような気配がする。
戸惑い、立ちすくむ舞に彼女が手を差し伸べる。
『一緒に行こう』
言葉は聞こえなかった。だけれど、何故だか彼女が誘う意図だけははっきりと伝わってきた。
何処か夢に浮かされた様子で差し伸べられた手に、舞は手を伸ばしかけて、止めた。
「貴女はあの子では無い」
言葉を放てば、曖昧になっていた輪郭が急速に形を取り戻す。
そうだ。此れは幻に過ぎない。哀しいくらいに都合が良い幻。きっと、溺れてしまえば楽になれるかもしれない。
でも、所詮幻に縋ったところで、其処に|真実《みらい》はないのだ。
ただ甘く垂らされた救いの蜘蛛の糸に縋っても、其処に未来がないのであれば仮初の救いは縊る縄になるだけに過ぎぬ。
「あの子はきっと何処かに生きてる。だから、貴女の手は取れません」
言い放てば眼前の|彼女《さくら》は哀しそうな色彩をその表情に浮かべる。
その表情が舞の心に僅かばかりに痛みで刺して、ただ立ち尽くしていた時――ふわりと優しい彼の気配が漂ってきた。
「静琉様!!」
名を呼んだ。大切な人の名を。
彼は今何をしているのだろう。己と同じように何かの幻を見ているのだろうか。
切なさと、会いたい気持ちが舞の心にじんわりと満ちてゆき、月明かりの如く帰り道へと導く。
「――そう、わたしが今手を差し伸べて掴むのは彼の方だけ」
確かな決意とともに呟いた舞は幻影の気配を背に感じながらも、僅かにに感じる月の気配へと手を伸ばした。
●
皎月に照らされた廃教会は、まるで誰も訪れない書庫で保管されていた古びた本のようだ。
埃被って、色褪せて、開く者がいなければ忘れたまま朽ちるだけ。誰にも届かずに役目を終える。
何処か寂しげな本の頁を捲るように重たい扉が開かれれば、中には絵本のような光景が待っていた。
「すごい! お花の絨毯みたい。お日様が出てたら、お昼寝しちゃってたかも」
「ええ、とっても綺麗……これが件の景色なのですね」
ラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)とラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は眼前に広がる幻想的な光景に目を奪われる。
朽ち落ちた天井からは静かな月光が降り注いで、割れた窓硝子と罅の入った壁からは穏やかな春の夜風が吹き付けた。
そよぐ風に揺られた幻月花はふわりと燐光を舞い上がらせる。その光景に見惚れていれば、光が強くなり視界を白く染め上げた。
「幻想的な景色、ラナにも見え……」
「……わっ!」
ラナに語りかけようとしたラデュレの耳に届いたのは、ラナの小さな驚いたような声。
「───、ラナ……?」
ただごとではない気配に驚いて、ラデュレは振り返る。
其処にラナの姿はない。
「どちらに行かれたのでしょう」
まるで漣が一瞬にしてラナの姿を攫ってしまったかのように其処には誰もいなかった。
それだけではない。
「クロ、カイ、ルイス……?」
いつも一緒にいるはずの|うさぎ《友人》たちもいない。ラデュレの胸に寂しさが過ぎる。
ひとりぽつんと夜の中。はぐれてしまったのならば、探しにいかなければ――ラデュレはそう思って、歩き出そうとしたその時、僅かな空気の震えを感じた。
ゆっくりと振り返ったラデュレの視線の先にいたのは、鋭い爪を持つ獣の姿だった。
「くろい、おおきな……うさぎ……?」
真っ赤な片の目と視線が交わる。鋭い爪を持ち、苛烈な赤色の双眸を持っている。
(どうして、でしょうか……)
普段ならば怖いと怯えて、心が怯えてしまいそうな相手。
今にも襲い掛かってきそうで、恐ろしい。
もし彼が襲い掛かってきたならば足が竦んで動けなくなるか、もしくは恐れて逃げ出してしまいそうな相手だというのに――ラデュレは、全くこの|子《・》を怖いとは思えなかった。
───ヴ、ヴ……。
『 』
低い唸り声と、恐らくひとが語るであろうことばが同時に聞こえてくる。
されど、そのことばがもたらすであろう言葉はラデュレの耳には届かない。
(この、音は……)
書を抱き締めてラデュレは言葉を逃さぬように真っ直ぐとその子の姿を見た。
でも、言葉を拾い上げるよりも大きく頭の中で時計の音が鳴り響いて、刻む針の音が全てを攫ってしまうかのようだった。
───ヴー……。
唸り声がもたらす大気圧がラデュレのカスタードのような色彩の髪を揺らす。
「あなたは誰なのでしょう」
ラデュレは訊ねてみる。低い唸り声しか返ってこない。彼は何かを伝えようとしているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
今のラデュレには確信を持てるすべは何もない。だけど、何故か何処となく確信がある。
ずっと遠い昔に読んだ絵本のように、なんとなく結末を知っているかのような曖昧さにも似ている。
たとえば、もしかしたら、輪郭を喪失して欠落した|物語《記憶》の頁の先に彼がいるのだとしたら――。
「わたくしの失くした記憶、その過去に、あなたがいるのでしょうか?」
ラデュレの問いかけへの応えはやはり唸り声で、こたえなんてくれそうにない。
それならばと、ラデュレは彼にむけて手を伸ばそうとした――その時、僅かに何処かから誰かが自分を呼ぶ声がした。
一方――光が已んだ隙間から、ラナが見てしまったのは探し求めている人だった。
「……おかしいな。どうしてお魚じゃなくて、貴方が出てきちゃったの?」
ラナは目尻を軽く擦った。
きっと、ちょっと目にゴミが入ってしまっただけなのだ。だから、目を擦っている。
もしくは、多分自分はすごく眠たいのだ。だって、猫は寝る子というのだから、きっと睡眠不足で欠伸の所為。
きっと、目尻がほんのり熱を持つのも、きっと眠たい所為。
「――そんなところにいたのかい、ラナ。おいで」
彼がやわらかな言葉で、あたたかな手のひらをこちらに向けて誘ってくる。
だけれど、ラナは動けないままだった。なんて返せばいいのか、どんな表情をすればいいのかちょこっとだけわからなかった。
「いっしょに、かえろう」
「……どこに?」
誘う言葉に、ラナははじめて返事をした。
ラナの言葉に彼はまるでそんなことも忘れてしまったのかい?と優しくも、少しだけ困った笑いをしながら言葉を続ける。
「|もといたばしょ《楽園》へ。かえったら、ずぅっといっしょにいよう」
彼は一度言葉を句切る。そして、両手を広げて優しく微笑んだ。
「おいでわたしの――|Lana《可愛い子》」
その言葉はあまりにもラナの胸に突き刺さった。
「…………」
ほんとうは、もう一度会って言って欲しかった言葉。あまりにも都合がいい言葉だなって、思わず困ったような笑いがでてきてしまった。
「……にゃは。ダメだよ」
笑ってる。なのに、胸はなんとなく苦い。でも、せっかくほんとうの出会いじゃないとしても貴方に会えたのだから、言いたいことを言わなくちゃ。
「ボクが……ううん。私が恋した貴方には私よりもずっとずっと大切で、手放してはいけないヒトがいる」
彼が何を言っているんだい?というように小首を傾げる。
さりげない仕草さえも本当にあの人のようで、今にもあの胸に飛び込んでしまいたいけれど、でも我慢した。
「|私と《・・》ではダメなんだ……ごめんね」
「ラナ……?」
彼が少しだけ寂しそうな表情をした。
それは自分を求めてなのか――それとも、違う理由なのか。思わず考えてしまいそうになるけれど、ラナは軽く首を振ってその考えを振り払うことにした。
「でも、いつか必ず、|ボクが《・・・》会いに行くよ。貴方が生きてるのか、死んでしまっているのか分からないけど――それでも見つけてみせるから」
この姿ならあなたと話せる。同じ言葉で、歩幅だって同じくらいかな。
もしかしたら、まだちょびっとだけ足りないかもしれないけれど――こうして、同じくらいの目線で、同じ言葉で喋ることが出来ているんだ。
「それでね、伝えたいことがあるんだ」
|ただの猫《あの頃》、言えなかったこと。
伝えたかったこと。伝えなきゃいけないこと。
両手で抱えきれないくらい、大好きな恩人の貴方へ伝えたいことがあるんだ。
「――だから、待ってて」
笑った。笑ったつもりだった。
でも、いつの間にか頬をあたたかな涙が溢れていた。
それでも、ラナは精一杯の笑顔を浮かべた後――大きく、息を吸った。
「ラーーーレーーー!!!!! 時間だよ~~~~!!!!!」
ラデュレの耳元でラナが大きな声で名を呼べば、ラデュレの耳がぴくんっと動いた。
そうして、やや眠たげな菫色の双眸がラナの姿を映した。
「……、……ラナ?」
「おはよ、ラーレ」
ラナの涙跡を残しながらも明るい笑顔にラデュレの胸が熱を持つ。
(ああ。あなたは、ほんとうに……いつもわたくしを示してくださる)
ぼんやりと輪郭を持たぬ記憶が徐々に明瞭になる。
続いて小さな足音が揃ってこちらへとやってくるのが聞こえた。きっと友達が迎えにきてくれたのだろう。
「ラナ、待たせいたしました……! 起こしてくださってありがとうございます」
「えへへ、お友達も帰ってきてよかったね」
「……、はい」
まだ少しだけ眠たそうなラデュレの身体を支えながら、ラナはもう一度先程まで彼らが居た場所を眺める。
其処に、もう彼の姿はなかったけれど腕に抱くラデュレの体温と同じくらいラナの胸の裡は暖かい。
ラデュレはラナに支えられながら、ふたたびそっと菫色の双眸を閉じた。
(――わたくしの旅ははじまったばかり、その先で、あなたの記憶を手繰れますように今は、お待ちくださいませ)
そっと祈るように心の中でとなえた言葉は、柔らかな春の夜へとほどけて溶けた。
第3章 ボス戦 『蒼葬のエリアス』
●
――此処ならば、もしかして……逢えるのだろうか。
予測通り、幻月花は都合の良い|陶酔《ゆめ》を見せた。
彼も自分もまだ|壊れて《・・・》なかった頃の夢。柔らかな陽射しの中で彼がスケッチブックに絵を描いている。
懐かしい|記憶《ゆめ》だった。同時に、ただの|虚構《ゆめ》でもあった。
所詮幻月花が魅せるのは夢まぼろし。陽射しの中で微笑む|男《弟》は現実になどなりやしない。
(だからこそ――)
エリアスは武器を握る手に力を籠める。
何を賭しても叶えたい|妄執《ねがい》があった。成し遂げねばならぬ未来が今も未だこの胸に燻っている。
「……僕は、手に入れなければならない」
インビジブルを集めて儀式を行えば、呪詛に侵され殺すしかなかった弟に再び会えるかも知れないとエリアスは考えている。
儀式のためにクヴァリフの仔も手に入れる必要がある。
其れは所詮、弟を手に掛けた罪悪感が作り上げた破綻した論理。
導く先にエリアスが望む未来などありはしないが――もはや、それすらも解らない。
「必ず、僕が――取り戻す」
●
優しくもほろ苦い夢の残響がまだ心の片隅で燻っている。
穏やかに流れる春の夜風でこの興奮を醒ますにはやや頼りない。
「必ず、僕が――取り戻す」
思い詰めたように紫色の双眸を窄めて吐く簒奪者――蒼葬のエリアスの姿を見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)と紫乃坂・蓬生(紫炎の蓮の如く、紅散らす・h08897)は眺めた。
「……取り戻す。人は、積み上げるものです……そんなことで取り戻せるものなんて、ないと思いますけど」
「せやな、何を取り戻したいんかは知らんけど、放っておいたらアカンそうやな」
手のひらの温度や感触を確かめるように冷静に頷く蓬生の口調に先程まであった軽薄さは見られない。
七三子はエリアスを見つめる。
戻りたいとふと思ってしまう|郷愁《ゆめ》のひとつくらいは誰にでもある。
奪うことで取り戻そうとする。でも、何か違うものを奪ったところで、手に入るのは所詮は紛い物。喪ったものがふたたび手に入ることはない。
「あなたはもしかしたら、偽りの何かを手にしても幸せなのかもしれませんが――私たちはそれでは困るので、邪魔させていただきますね」
「七三子クン、後ろ任せてええか?」
「はいっ! 紫乃坂さん、支援はお任せ下さい」
後ろには七三子がいる。頼もしい仲間がいるなら、堂々と|一仕事《カチコミ》と行ける。
「別にキミの邪魔するつもりは無いけど、こない綺麗なところを荒らして欲しくは無いからな」
冷静に言い放つ蓬生の双眸にはいつもの人の良さそうな気配はない。
「せやから……一切の手加減はしない」
寒蝉を構える手はぶれることなく、照準にも迷いなく。向ける視線は鋭く、表情には組を束ねる長としての覚悟を宿した。
エリアスは憎々しげに蓬生に剣を向ける。
「僕の邪魔をするな」
「させませんよっ!」
浄炎の剣が蓬生を貫こうと動くが、七三子の牽制射撃がエリアスの剣閃を弾く。蒼き煉獄領域の向こう側でエリアスの眉間に皺が深く刻まれる。
更に続けて七三子は目くらましの煙幕を放った。
「鬼さん、こちら! です」
「……君は、随分と厄介な戦い方をするんだね」
煙幕の向こうから、エリアスの低い声が聞こえる。煙幕を穿つように七三子に聖銃を向け、同時に周囲を薙ぎ払うように浄炎の剣を振るう。
視界を奪えどエリアスの攻撃手段は手数が多い。次々と放たれる攻撃を冷静に処理しながら七三子は言う。
「ですが、いいんですかね?」
「こちらばっかり見てると、足元をすくわれちゃいますよ?」
七三子が言い放ったその瞬間――秋野山を彩る錦のように舞う唐紅の紅葉が蒼炎を突き抜けてエリアスの身を灼く。
其れと同時に、蓬生はふらりと蹌踉めきそうになるのを根性で耐える。
「大丈夫ですか? 紫乃坂さん」
「ああ――これくらいで倒れとっちゃ親父が安心して寝てられへんからな。七三子クンの援護射撃のお陰でなんとか大丈夫そうや」
己が鼓動が生み出す|熱炎《錦秋》は発動までに時間を要する。その間に被った負傷は発動と同時に反映される。
前衛としてエリアスと戦っていた蓬生に降り掛かる負傷は蓄積していたものの、屈さずに済んだのは七三子の援護射撃があったゆえだ。
(意地見せんと親父も浮かばれへんからな)
だが、倒れてはいられない。これしきのことで膝を折っているわけにはいかないのだ。
「……こう、普段の温和な雰囲気とはちょっと違って、びっくりしました……」
「いやぁ、怖がらせたらゴメンな?」
「いいえ、びっくりしただけなので大丈夫です。それよりも、無理はしないでくださいね」
心配そうな七三子に「大丈夫や」と軽くウィンクを返す姿はいつもの蓬生の姿に重なった。
●
あまりにも優しい春夜のまぼろしの残響が、今も胸をやさしく暖めている。
それでも漂う寂しさを感じ取った番田・陽葉(はぐれ 熊猫純情派・h10140)の黒いパンダ耳がひょこりと揺れた。
簒奪者とは恐ろしく、そして暴力的な存在なのだと陽葉は思っていた。
破壊衝動の赴くままに弱者を傷付け、悲しみを振りまく存在――優しい人とともに刻まれた哀しい過去の記憶がそう思わせているからなのだろう。
(このお兄さんは少し違う感じがするべ)
耳がぴょこぴょこと動く。ただの勘なのかもしれないが、きっと元は純粋な思いを持っていたのだと感じる。
だけれど――陽葉のつぶらな黒い瞳はエリアスの瞳の奥に宿る昏い炎を見逃さない。
元はどのような願いを抱いていたとしても、あの瞳に宿る昏い炎はきっと破滅をもたらす。
「あんたにホイとクヴァリフの仔を渡すわけにはいかねえべさ。どうしても欲しければわだすを倒すんだべな」
陽葉は宣言をするように中華鍋をばしっとエリアスに突き付けて言い放つ。
今の陽葉は|大好きな人の《いい》夢を見られたから、元気100%なのだ。
「悪い子はわだすがお仕置きするんだべ!」
陽葉はそう言いながら中華鍋を構え、ダッシュ。先程の飼育員さんに飛びついたのとは違う、本気の体当たり。
加速で勢いをつけた重量攻撃――要するに、全力の中華鍋アタックがエリアスを襲う。
苦悶の表情を滲ませたエリアスに陽葉は問う。
「あんたは此処で見たかった夢を見れなかったんだべか?」
「……見られたよ。哀しいくらいにね――もう、戻らないものを見せられたところで、虚しいだけだった」
毀れた正気の向こう側で、僅かに哀しみが揺らいだのが見えた。
期待はしていなかった返ってきた答えは苦いもの――エリアスも陽葉と同じように戻れぬ過去に散った誰かを想って夢を見たのだろうか。
エリアスは紫色の瞳をすっと細めて、息を整え直す。
「だからこそ、僕はかならず取り戻さなければならないんだ」
そう言いながら振るわれた浄炎の剣を陽葉は中華鍋で受け止める。
じんっとした痺れが腕を伝い、浄炎の熱が肌を灼く。そうして耐えて見つけた僅かな隙を突くように陽葉は笹の葉ビンタを食らわせる。
「ハグの代わりに愛の鞭だべよ!」
愛の鞭代わりにしなやかな笹の枝をロープのように用いて捕縛し、竹槍で突く。
幻月花もいいが――やはり、自分には竹がよく馴染む。
●
地上を埋め尽くすように咲く幻月花は、まるで皎月の光をそのまま宿すようだった。
教会へと立ち入った緇・カナト(hellhound・h02325)は手斧の重さを確かめながら、深く息を吐いた。
「――さて、そろそろ……簒奪者の男とやりあう時間だったか」
双眸に戦意の光が宿る。
夢を見ること自体、否定するつもりはない。夢とは己の裡に在る記憶情報の整理をする為に必要となる精神活動でしかないとカナトは考えている。
夢とは虚構。過去という記憶を元にして構成される幻でしかない。
いくら夢の中で過去を見ることが出来ようと過去をやり直すことはできないし、描いた夢を元にして都合よく未来を手招くこともできない。
虚構は虚構でしかなく、幻想は幻想でしかない。現実に何の影響も及ぼせない。
(……夢とは何と、儚い存在か。まさにヒトのゆめって言葉通りだね?)
斯様な思考を巡らせてから、手斧を握る手に力を籠める。
「――此処に至るは魔香の花園、」
静かに呟けば、七蜜馨が手斧に宿る。
そうして、哀れにも妄執に取り憑かれたままの男を見据えたカナトは告げる。
「欲するものが有るなら奪い合おうじゃないか」
「随分と乱暴なお誘いだけれど――是非もなし」
踏み込んだのはほぼ同時。
カナトの振るう七蜜馨の手斧とエリアスの浄炎の剣がぶつかり合い、互いの攻撃を相殺しあう。
手斧が咲かせるベラドンナの花園に、蒼き煉獄が花開く。そのさまだけは異様に幻想的で美しい光景に見える。
次の一手を思案しながら、カナトは口を開く。
「叶った夢や理想しか現実だと呼ばれることはないんだろうし――」
瞬間、踏み出してエリアスの許まで肉薄する。胸に飛び込むように近付いてから、至近距離でエリアスの双眸を見据えた。
「――お前は誰に逢いたかった?」
「答える必要はないよね。それとも、僕が答えれば、退いてくれるの?」
エリアスの返答にカナトはただ黙して口角を歪めた。
――そうだね、関係ない。そう、言うように。そして、手斧を勢いよく振りかぶる。
「結末が幸でも不幸でも、生者であるなら行動すればいい。だが、もう死んでいるなら──現実をみるがいいよ」
ベラドンナの魔香が夜に舞う。
僅かに目を見開いたエリアスの双眸が、苦渋の色彩に染まった。
●
現実に戻ってきた後に感じた春の風はあまりにも優しくて、ひとたび相見えた奇跡の残響が少しだけ名残惜しかった。
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は慎重に息を吸った。意識せずとも自然に行えるはずの呼吸の動作が、今は少し不格好だ。
理由は解っている――喪失に嘆き、喪われたものを取り戻そうと必死に足掻く彼の姿に己の感情が重なるためだろう。
(失ったものを取り戻したい気持ちはわかる。俺だって望んでいるさ……でも、叶わない)
それが自然の摂理だ。失ったものは取り返せないし、過ぎ去った過去に戻ることもできない。
時間の流れは不可逆なものだから、生きている者が受け止めて抱えていくしかないのだ。
「気持ちはわかるよ。だからこそ、止めさせて」
この胸の中にある太陽の光を自ら断ち切ってしまうようなことをしては、きっとならない。
そうして静かに覚悟を決めるクラウスの姿をシスティア・エレノイア(幻月・h10223)は、瞳を少し不安げに揺らして眺めている。
失ったものはどう足掻いてもそのままの形で帰ってこないと思っている――それは、きっとクラウスも同じように思っているだろう。
だからこそ、本当に大切なら、クラウスのように安らかに眠らせる方がきっといい――それは、先程の邂逅を経て改めて思った。
(……けれどクラウスを失ったら、俺も同じことをせずにいられるだろうか)
今は隣に一緒にいられるけれど、もしも共に居られない未来を考えるだけで何だか恐ろしくて――春の夜風は其程冷たくないというのに思わず身震いをしてしまった。
其程に強い喪失感であるならば、システィアにも理解ができる。だからこそ、エリアスの大切な人が悲しむ前に彼の凶行を止めねばならない。
「……申し訳ないね」
システィアが刀を右手に構えれば、クラウスも二丁拳銃を構えて後方に位置取る。
そうして能力を熾すのもほぼ同じ。特にふたりで合図を出し合ったわけではない。ただ、お互いを信頼し、理解しているゆえに自然に身についた連携だった。
「斬らせてもらうよ」
静かに告げてシスティアが呼び起こした|大待雪草《スノーフレーク》の花園に、クラウスの|追憶《リコレクション》の花片が舞う。
追憶の花片が拳銃に張り付いて、銃弾の威力を高める。
システィアはクラウスの援護射撃を受けながら、一気にエリアスのもとまで肉薄して剣閃を振るう。
エリアスの胸に一閃、走った傷からひどく鮮やかな血が舞う。苦しげに顔を歪めつつも、エリアスはすぐに己の剣を握る手に力を籠めた。
「邪魔はさせない」
地獄の底から響くかのような、低い声だった。エリアスの昏い視線がシスティアを射貫く。
罪過と魂を焼く浄炎がシスティアの理性を灼こうとする。本来のシスティアの思考では絶対に向けないはずの切っ先を、震えながらもクラウスへ向けそうになる。
――大丈夫。
クラウスの静かな瞳が、システィアを見つめている。
彼から感じる信頼と、彼を想う己の心が思考を操る炎を断ち切る。行き場を失った切っ先が血を求めて彷徨いそうになるのを、システィアは己の腕を刺すことで耐え抜いた。
(だいじょうぶ。これくらい、痛くない――きみの大好きな人との約束、ちゃんと俺も守れてるかな)
そろそろとクラウスの瞳を見て、システィアは安心したかのようにほわりと微笑む。
「ね……褒めて……?」
「うん、約束、守ってくれてありがとう。偉いね」
クラウスの夜の海のように穏やかで静かな青い瞳が穏やかに窄められた。
彼の言葉とその笑顔に、システィアは喜びはにかんだ。
●
幻月花が目を眩ませてしまいそうな程に力強く輝いて、月下にその輝きを咲き示している。
春の夜風はあまりにも優しくて、先程までこの身のすぐ傍にあったぬくもりを拭い去るにはあまりにも心許ない。
それでも、シンシア・ファルクラム(歌い、奏でる空の柱・h08344)の胸には暖かなぬくもりが満ちている。
「……貴方もまた、喪ったのでございますね」
シンシアはエリアスを真っ直ぐに見据える。
胸の前で組まれた手は、まるで祈りを手向けるかのように。
手向けた先にあるものは、エリアスが想う誰かのことか。それとも、先程まで眼前に居て、変わらずに己の背を押そうとしてくれた両親のことだろうか。
「喪われた命は、戻ることはございません」
大切な人達をこの手で埋めた感触は未だに晴れることもないし、忘却できることでもない。だからこそ、尊くて、忘れてはいけないことなのだとシンシアは想う。
それでも、例外はある。例えば、それは|√能力者《わたし達》。死という条理から外れた存在だ。
「わたし達は理から外れた存在ではありますが……だからといって、踏み越えてはならない境界線はあるのです」
理を外れても人は人だ。起こせる奇跡には限度があるし、それを越えた者を望むのは倫理に反した悪魔の所業だ。
喩え、理を外れた者を材料にしようとも、其れは決して覆ることはない。
「そうか。だけど、それは綺麗事の論理だ。君にだって、取り戻したいもののひとつやふたつくらいはあるのだろう?」
「ええ、外れて戻るならば、そうしたい――その、気持ちはよくわかりますよ。ですが――」
それは、叶わぬ夢まぼろしだから。
気持ちはわかる。だからこそ、覚悟を決める。甘い陶酔に酔ってばかりでは前には進めない。
眼前の男にその理屈が通じるかは正直わからないけれど、此処で迷いを断ち切ることは己の決意を示すことでもあるのだから。
「わたしはあなたを止めさせていただきます――」
シンシアが放つは天淵氷雷の竜鳴。冷たい稲妻が幻月花の花園に降り注ぎ、凍て付いた氷がエリアスの足を地に縫い止めた。
エリアスは冷静に武器を銃に持ち替えてシンシア目掛けて弾を放つ。エネルギーバリアで防ぐものの頬を掠めた銃弾が痛みをもたらした。
それでもシンシアは怯むことなくディヴァインブレイドを飛翔させて神聖攻撃を放つ。
「志しを継ぐ者として、わたしは歩みを止めません」
●
夢の名残は未だ僅かなぬくもりを以て、この胸に残響し続けている。
先程まで眼前にあった夢まぼろしは既にない。されど、ちっとも寂しくはなかった。今も隣には、大切な存在がいるのだから。
ラナ・ラングドシャ(猫舌甘味𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝・h02157)とラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)。お互いを見るタイミングはほぼ同じだった。
「ラーレ、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ラナ――あの方が、例の彼なのですね」
互いを気遣うように話し合っていれば、ふたりの存在にエリアスも気が付いたように視線をやる。
冷たくて、昏くて、深い喪失と絶望に彩られた双眸に見つめられてラデュレが僅かに震えれば、大丈夫だよと言い聞かせるかのようにラナがラデュレの手を握った。
「あなたも、欲しいものがあるのですね――もうその方法しかないという、望みが」
ラナの手の温度に勇気づけられるように迷いながらもラデュレは言葉を紡げた。
ラデュレにもその気持ちは僅かに理解ができる。朧げな感覚ではあるけれど、何かを求めてしまう気持ちは解る。
だけれど。
「その先に待つのはねじ曲げられたもの。あなたが心の底から求めるものではないのだと思うのです」
「……そうだね。君が言っていることは正しいと思うよ」
エリアスは剣を握る手に力を籠めた。
正しいことは大切だ。呪いに侵された弟がこれ以上過ちを重ねてしまわぬように手に掛けたことはきっと正しいことだった。
――だが、その正しさの末に、何が残った?
「でも、正しさだけでは救われないんだ」
「キミも、会いたい人がいたんだね。それくらい、哀しい目をしてしまうくらいに」
ラナはラデュレの手をぎゅっと握りながら、瞳をやや寂しげに細めて呟く。
「どれだけ願っても想いや手が届かなかった時の気持ちを、ボクは泣きたくなるほど知ってる」
先程あんな夢をみたばかりだ。もしもあれが現実であればと願う気持ちは泣きたいくらいに思い知っている。
「だから、キミがどれだけ、辛いかってことも、わかる」
だからこそ。
「これ以上同じ思いを知るキミにこの先で待つ、あまりにも不釣り合いで虚しい思いはしてほしくないんだ」
「ラナ、彼を止めましょう――彼の悲しみが、これ以上深く刻まれないように」
「ラーレ……うん、そうだね。絶対にボクたちで止めよう!」
ふたりはぱっと手を離して戦闘位置につく。
ラナは被毛竜の姿になってラデュレを護り、エリアスに立ちふさがるように前へ。
ラデュレはトランプ役を冠するうさぎ兵を招く。
戦闘態勢に入ったふたりの姿を見て、エリアスもまた剣を構える。
「虚しくても、哀しいままでも、正しさだけでは救えない者もいるんだ。そのことを、君達にも教えてあげる」
「あなたの哀しみを、止めてみせます。さぁ、兵の皆さま……! 降り注ぐ炎を退けて、道を拓いてくださいませ。その剣で、槍で、彼の中に燻る想いに終止符を打ちましょう」
エリアスが剣を振るえば蒼焔が周囲一帯に燃え盛り、ラデュレとうさぎ兵達を灼こうとする。
だが、それをラナの大きな翼が風を起こして消し去った。
「その妄執の焔は、ボクが消してあげる!」
受け止めることを恐れ、立ち止まっていてはずっと暗くて辛いままだと、|あの人《・・・》が教えてくれたから。
「だから、ボクはいつだって陽の射す方へ進むんだ!」
「わたくしも、前へと進むのです」
ラデュレもラナに頷きながらタクトを握る手に力をこめた。
失くした過去のすべて、真っ黒な兎の姿をした彼のことも、自分自身のこともなにひとつ解らずとも進み続ける。
――その道行きにさいわいがあると、信じて。
●
口の中でふんわりほどけた甘さの余韻が神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)の中に残っている。
佳い夢かと問われれば、間違いなくそうだと答えることができるだろう。
だけれど、どうやら夢は人によっては甘いものだけではないらしい。
「先ほどまでの幻想的な世界も、見るものによっては悲しい幻のように映るようですね」
「そうだね。夢は願いをかたちにしたものが現れることもあるから。楽しかったり、好きだったりすることもあれば、勿論、後悔や未練をかたちにすることだってある……きっと、そういうものだったのかもしれない」
夕星・ツィリ(星想・h08667)は|三叉槍《トリアイナ》を握り締めながら、エリアスの方へと歩を進める。
ツィリの歩みにあわせて揺れる幻月花が蛍火のように虚空に燐光を舞い上がらせた。その様はまるで地上に浮かびあがる星空のように美しい。
だけれど、今はその光の向こうで思い詰めた表情のエリアスから目が離せなかった。
「私にも弟がいるの。幼くて太陽みたいな笑顔で、姉様と呼んでくれる可愛い弟たち」
静かに語りかけながら、瞳を閉じたツィリは瞼の裏に今は会えぬ愛しい家族の姿を描き浮かべる。
逢いたい。逢えるなら――それでも、今は逢わない。修行をして、もっと立派になって、尊敬する存在と同じように夜空に光り輝いて自分を誇れる日までは。
それでも、今でも愛しい家族という認識が揺らぐことはない。だからこそ。
「貴方の気持ちは分からなくはない――でも、それで会えるのは本当に貴方の知る弟なの?」
「どうだろうね。それでも、僕は弟に逢わなければいけないんだよ。それが、僕の過ちで、贖わなければいけない罪だ」
「弟を取り戻したいという願い――その痛みまでは、私も否定できません」
大切な人を取り戻したい。喪われた時間に戻りたい。喪失を痛むことも、その願いも人間として当たり前のことだ。
其れを誰が咎められよう。少なくとも、境華は咎める気にはとてもなれなかった。やり方さえ、間違わなければ。
「ですが、そのために犠牲を生むようなやり方を見過ごすことはできません」
言い放つ境華の声には凛としたしなやかな力強さが籠められていた。小さく息を吸ってから、境華は猫女神の力を宿して一気に肉薄する。
エリアスもすぐさま浄炎の剣で境華を迎え撃つ。勢いをつけて肉薄していた境華は回避行動が遅れた。だが、ツィリの眷属がエリアスの剣と境華の身の間に割り込み、眷属自身の身体を盾にして庇った。
「ありがとうございます。ツィリさん」
「サポートは任せて、境華ちゃん!」
とても力強い。前衛を共に舞う眷属と、後方から感じるツィリの信頼と心遣いが境華に勇気を与えた。
一人で戦っているわけではない。そのことが境華の背中を押して、戦場で舞うように戦う足取りを軽くする。
「前衛は私にお任せを――参ります」
境華は果敢に接近して、攻撃手段を封じるように翼や腕を狙い討つ。
それでも止まぬ攻撃に倒れてしまいそうになってもツィリの眷属や猫女神の加護が境華の身を守った。
また、戦線を支えたのはやや離れた後方の位置から援護をするように詠唱魔法を打ち込み続けていたツィリの功績も大きい。
ツィリの魔法は境華の攻撃の合間を埋めて境華の隙を生ませないように、また、エリアス自身の隙を誘うように緻密に打ち込んでいく。
そうしてふたりの連係攻撃で僅かにエリアスが蹈鞴を踏んだ。境華はその隙を見逃さずにツィリのもとへとエリアスの身を引き寄せた。
「隙! ツィリさん、今です!」
流れ星が地に降る如く。天高く舞い上がったツィリの|三叉槍《トリアイナ》がエリアスを貫いた。
●
まだこの耳に、家族の楽しそうな声がこびり付くように消えていない。
それでも、ひとしきり泣いたせいかルカ・ルチア(プラチナファントム・h12654)の気持ちは不思議な程に軽くなっていた。
「……だめだな。しっかりしろ、おれ」
ぺしっとルカは自分の両頬を叩く。僅かな痛みがルカの意識を現実に押しとどめる。
幻月花は|幻影《ゆめ》を魅せた。泣きたいくらいに懐かしい幻影と|会えた《・・・》。
だからこそ、もう、今のルカが逢えるのは偽物だけなんだということが解った。
逢えたのは幻影だ。もう、過去の記憶の残響。本物はもう何処にもいない。
(――やっと、諦めがついた)
内心で呟いた。またも溢れ落ちてしまいそうな涙はなんとか堪えた。
先程、気持ちを切り替えたばかりだから。泣き虫なばかりの兄ちゃんでいたくはないから。
そのことに気が付くまで、随分と遠回りをしてしまったような気もするけれど――。
「……もう、惑わされない」
愛銃を握る。金属の冷たい感触がルカの心を落ち着けた。
そうしてルカはエリアスに照準を合わせた。多少心が震えていても、この動作だけは身体に染みついていて正確に行うことができた。
「ごめんな、邪魔立てさせてもらうよ」
霧の狐たちの群れを召喚し、エリアスに融合するとその身を縛り付ける。
「僕はこれしきのことでは止まれない」
「……弟にあいたいから、そう、さっき他の人と話しているのをきいた」
エリアスの様子は悲痛で、切実で――その奥に隠されていたものはただ、弟に逢いたいからという事情だった。
そのことを知ってしまった現在、引き金にかけたルカの指は固まる。
喪ったものを取り戻せる方法があったら、失くしたあの頃に戻れる魔法があったのならば――そんな奇跡に縋り付かないなんて綺麗事は今の自分は胸を張って言えるだろうか。
ただ。でも――。
「だけど、今のあなたのやり方は、止める以外の選択肢はない」
静かに決意を固めるように言い放てば、躊躇っていた指をなんとか動かす。
放たれた弾丸は狙い通りエリアスの身を正確に撃ち抜いた。慣れた手付きで次発装填しながら、ルカは呟く。
「――でも、別の方法でいつか、叶うといいな」
それは心からの祈りであり、手向けであった。
そうして、またも思考する。
取り戻すのと、会いに行くのと――まだ、望みがあるのは、どっちなのか、と。
●
憧憬を融かしこんだかのような黄昏と、優しく暖かな月夜。
先程までふたりの視界にあった黄昏と月夜の境界は曖昧にぼやけて、今は春夜の少し潤んだ夜が視界を塗り染めている。
今はもう、優しく見守ってくれる両親だった人も何処か遠かった金木犀の香りもない。
(戻って、きたのか――)
隣にいる彼の手を握る己の手に力を籠めて、夜鷹・芥(stray・h00864)は現実感を確かめた。
甘ったるい薫りは過ぎれば頭痛がする。強く、優しい香りはとても忘れられそうになかった。
(忘れられない――いや、忘れてしまえば、俺ではなくなるから)
ゆえに膝を折るにはまだ早い。軋み続ける胸裡は奥に沈める。
「――平気」
確かめるように呟いたのは傍らにいた雨夜・氷月(壊月・h00493)だ。
己の、人を模した心が失いたくないと願った体温を手放すことを恐れている。
このまま繋いでいたい。このままで在りたいのだと希っている。
だが、無情にも敵の気配を感じ取ってしまった。感じ取ってしまったならば、全ての気持ちに蓋をして力を抜き、あらゆる感情を削ぎ落とした顔を上げる。
「芥」
「氷月」
確かめ合うように視線を絡ませる。そうして、やがて眼前に見えてくる|妄執《ねがい》に取り憑かれた男の姿を見据えた。
「僕は何を賭しても必ず死んだ弟に逢わなければならないんだ。それが、僕の贖罪であり、願いだから」
「ゆめは、ゆめでしかない。死した人に何を願っても叶わない――全部徒労に終わって虚しいだけ」
エリアスの言葉に応えるように、あらゆる感情を削ぎ落としたかのような冷たく平坦な氷月の声が春夜に響く。
喪失を受け入れられなくて、その末で弄んでしまったかつての大切な人々の姿は今は思い浮かべない。
(理解出来ない彼は幸か不幸か――どっちでもいっか)
ただ考えるのは眼前にいる敵の、虚しく、愚かしい行為だ。
だが、氷月の言葉を聞きながら芥はふと思考に沈む。
懐かしいと、あれは良い夢だったとそう思ってしまえば今自分は此処にはいなかっただろう。
「……馬鹿だな」
呟きだけが芥の唇からまろび出る。短い呟きにエリアスと氷月の視線が自分に集まっていることを感じる。
失言だっただろうか。否、|再び《・・》という妄執が痛い程解るからこそ。
「――失ったものは、……もう、戻らないんだ」
芥の言葉はエリアスに語った内容なのか——それとも、己に言い聞かせる言葉なのか。
いや、思考に沈むのは此処までだ。そう、芥は金色の瞳に力を籠めた。其れを見計らっていたかのように氷月が虚ろに笑いかけてくる。
「オシゴトしよっか、芥」
「……ああ、最後まで確りな」
銀片に月光を纏わせた氷月の頬を羽ばたく黒焔の蒼鷹の熱が撫でた。
氷月はその温かさの名残をぼんやりと感じながら軽く駈けだして雨花幻へと手を伸ばす。
手折れば何が起こるかはエリアスにはわからない。だが、恐らくは攻撃の類なのだと読んだエリアスは剣を乱暴に薙いで防ごうとした。
「僕の邪魔をするな!」
「ダァメ」
薄く言うと影から出でた闇で足を絡め取る。
すべては芥の存在を|活かす《生かす》ため。この男にはあげないため。
「あとね、ハズレだよ――壊れちゃえ」
エリアスの視界が歪み、躰が融けゆく錯覚に落ちる幻視に襲われる。
「——此方も忘れて貰っては困るな」
幻視と目眩ましと拘束。それらから抜け出そうとしているエリアスの隙を突くように、不意打ちで肉薄した芥はエリアスの胸元まで飛び込んで無数の夜鷹の幻影を象った黒焔を放った。
●
夢をみたあとに待つのは現実だ。
破壊されていく世界も、崩れゆく街並みも、逃げ狂う人々も、燃え盛る焔も、迫り来る終焉も――まるで本をぱたりと閉じるかのように残響すらない。
何もない、ただ都合の良い現実は虚しいだけだ。憂・サディスト(蝶々結びで、・h12742)が退屈そうに状況を確かめていれば、傍らからふふっと小さな笑い声が聞こえてくる。
「いい夢を見たら気持ち好く目覚めるべきだ。いい明日を迎える為にね」
「また先生お得意の耳障りのいい言葉ですか」
薄く微笑みを浮かべる嘯・シアン (恣意的思惟・h06837)の表情を眺めながらサディストは気怠げに深い息を吐いた。
今更だ。今更彼には何を言っても無駄なことは理解している。
サディストの胸裡では未だに彼が描く|絶望《地獄》を望み続ける希望はあるけれど、思案はいつもひどく楽しげにハッピーエンドを望み続けて物語を嘯き続ける。
今もまた屈んで幻月花に手を伸ばすシアンの姿は悔しいことに絵になっていた。
シアンは幻月花を一輪摘みとって、色鮮やかな幸せの魔法を注ぎ込めば月光の如き色彩を宿す幻月花は青白い雷を纏うレイピアに変わる。
「……よりによって剣ですか? あんた、近接戦が苦手なんだから、いっそグレネードとかにすればいいのに」
「はは、グレネードもいいんだけどねぇ。どうしてもロマン武器を創っちゃうよね。ほら、ここの意匠とかこだわってみたつもり」
見せびらかすかのようにレイピアを掲げるシアンを何処か冷ややかに横目で見ながら、サディストは抜いた拳銃でエリアスに牽制射撃を行う。
牽制攻撃に、エリアスがいかに攻めはじめればよいのかと僅かに躊躇する。斯様なエリアスの姿を見ながらシアンは穏やかに告げる。
「さて、浮かない顔の君――君が向かうべきハッピーエンドはここには無いよ」
柔らかく言いながら少しずつ歩み寄る。レイピアを振るえば、麻痺を誘う雷撃がエリアスの身に炸裂する。
クッと思わず膝をつきかけるエリアス。だが、地面から群がる蛆のように湧き出た黒いリボンがエリアスの身体を縛る。
「……喪った者への強い執着。無意味な事に必死になれるのは、いっそお前が羨ましいよ」
冷たく言い放ち、まるで本能のように蠢く黒いリボンがエリアスの身を蹂躙する。
麻痺で身体の自由を奪われ、黒いリボンが身体を拘束する。なおもその呪縛から逃れようと抵抗の意思を曲げないエリアスの背を硬化したリボンが貫く。
「後は先生のお好きなように」
そうしてサディストがシアンへと視線をやれば、彼はレイピアを観察しながら思案していた。
「えーと、この剣の使い方は……ああ、刺すんだっけ」
ようやく使い方を思いだしたかのように言ってからレイピアを手にエリアスのもとへと近付く。
「無意味な伏線ばかり回収する停滞が、|物語《人生》においては一番つまらないんだから——今は苦しんで踠いて、本当に進むべき道を見つけようね」
エリアスに語りかけるかのように柔らかく言ってからその胸をレイピアで貫く。
「サディ君、他人事って顔してる君もだよ」
刺し貫いて、呻くエリアスの声を背景音楽にやたらと柔らかなシアンの声がサディストに向けられる。
サディストは興味なさそうに適当に視線を逸らして溜息をつく。|先生《シアン》の綺麗事はいつも通り、無視する構えだ。
受け止める義務までは|契約《・・》には含まれてはいない。
「――相変わらずのことで」
銃口に燻る残煙を払うように軽く銃を振りながら、サディストは冷たく言い放つ。
苦しみの先には幸福があると本当に信じ切っているのですね。相変わらずのことで。
――世界はそう、|ご都合主義《ハッピーエンド》ばかりで出来ているわけではないだろうに。
●
ぶるりと背筋が震えたのは春夜が寒かったからではない。
(何やら酷い目にあったような気がするが……いよいよお仕事の時間だな)
アダルヘルム・エーレンライヒ(余花を夢む・h05820)は胸裡で静かに呟いた。
今し方の震えは武者震いなのである。
決して散々白猫に弄ばれて、元々あったかは怪しいところであるが尊厳もいいように加工された挙げ句に最終的に自爆をして弱みを握られてしまったからではない。ない、はずだ。
(俺の白猫を戦闘に巻き込むわけにもいくまい)
さっさと片付けて戻るとしよう。アダルヘルムは静かに頷いてから己の武器を構えた。
慣れた手さばきで、いつものように盛大に暴れたい――が、今日は騎士らしく上品にいこう。
「――と、物騒な品を持っているとはな。あっくん、銃は苦手なんだぞ」
「言われても困る。これは僕の武器だ」
エリアスが冷静に返す。それはそう。呟きが思わず声に出てしまっていたようだが、まぁいい。
苦手は封じるに限るのだ。アダルヘルムは一気に肉薄してエリアスの左腕や肩を重点的に狙い、攻撃する。
エリアスも剣でアダルヘルムの攻撃をいなそうとするものの、その勢いまでは防ぎきれない。
「ぐ……っ、随分と無茶な突っ込み方をするんだね」
「戦場は綺麗事ばかりではないからな」
強打の嵐についにエリアスが銃を取り落とした。
すかさずアダルヘルムはその銃を遠くへと蹴り飛ばして遠ざける。一瞬の動揺を見計らって更にもう一撃を加えてからエリアスと距離を取る。
そして、先程蹴り飛ばした銃を拾い上げてから戦線を離脱する。
本当は両腕ともに封じられたら良かったのだが、片方だけでも上々だろう。
戦線を離脱し、物陰に身を潜めたアダルヘルムはふと視線を幻月花へとうつした。
クヴァリフの仔の強化を受けた幻月花は今もなお強い光を放ち春夜に咲き映えている。
(然し、幻月花とクヴァリフの仔は、こそっと持って帰れないのだろうか……モデルにされるのは少々複雑だが、白にゃんこが喜ぶだろうからなぁ)
ふと脳裏を過ぎる悪い考え。そうして、アダルヘルムは周囲の様子を窺う。
戦闘中の皆は片隅で身を隠すアダルヘルムのことになど気が付いてもいない。
幻月花を一輪程度摘んで帰ることは問題ないだろうか――少々躊躇しながらも、アダルヘルムは花へと手を伸ばした。
●
どのような言葉を尽くしても、ただの綺麗事になってしまうのではないかと思った。
兎沢・深琴(星華夢想・h00008)は投げナイフを握る手に力を籠めた。
深琴もまた、喪失を経験した人間である。焦がれるように今もまだ姉を求めてしまう自分は、エリアスの想いを決して否定はできない。
「貴方のその行動は、純粋に逢いたいからなの? それとも、喪失の苦しみを終わらせたいだけなのかしら」
だからこそ、深琴は自分に重ねるように問いかけた。
エリアスは黙した。答えはない。だけれど、表情がそのどちらでもあるのだと物語っていた。
「答えは、私にも解らないわ――けれど、奪うことでしか叶えられないなら、私は貴方を止める。お願い、星――力を貸して」
《勿論さ。我が愛しき赤薔薇の気高さを彼にも見て貰おう》
護霊の名を呼べば、夜をそのまま切り取るように身体に星空を宿した猫の護霊が気障な台詞とともに現れた。
春夜の中を星猫が駈けてゆく。その道を切り開くかのように深琴の投げナイフが真っ直ぐに飛び、エリアスの行動を阻めば、星の昏き深淵の爪がエリアスの身を裂く。
蹈鞴を踏み、なおも剣を握る力を緩めないエリアスの姿を眺めながら深琴はふと思う。
(運命が少し違っていれば、私もあんな風に、手段を選ばなくなっていたのかしら)
自分ではあのようなことはできない。そう思いながらも、|妄執《ねがい》に取り憑かれた男の姿に何処か自分の姿が重なって見えた。
今もなお、鼓膜にこびり付いた時計の音が消えることはない。
今にも毀れてしまいそうな|旋律《メヌエット》の音色とともに、|想い出《過去》に縋り付いてしまいたくなる弱さは、この胸に残ったままだ。
それでも、道を違えたり迷ったりせずにいられるのは、暗闇に沈みそうな自分の心を照らしてくれる一筋の星光のような護霊の存在が隣にあるからだ。
信じてる。深琴。僕が一緒にいる――そう、優しく語りかけてくれる声があるから、深琴は狂わずに立っていられる。
「もし、貴方が本当にただ、もう一度逢いたいと願うなら」
物語を口ずさむように柔らかく語りかければ、エリアスの|妄執《ねがい》に満ちた双眸が深琴へ向く。
これは、己が言っていいことなのかはわからない。自分も、死者への想いを断ち切れぬまま此処まで来てしまった人間なのだから。
でも、だからこそ、言わなければならない――覚悟を決めて、深琴は口を開く。
「その時は、幻なんかじゃない、心の中にある本物の思い出を抱きしめてあげて」
●
クレヨンででたらめに描かれた光景は、いつの間にか輪郭を取り戻していた。
夢野・きらら(獣妖「紙魚」の|古代語魔術師《ブラックウィザード》・h00004)がハッと気が付けば、周囲はすっかり見慣れた春夜の光景へと変わっている。
割れた天井越しに降り注ぐのは春霞に潤んだ月光。足元で咲き映える幻月花が眩い程に光り輝いて、目を灼く程の燐光を春夜の空へと舞い上がらせている。
燐光に隔たれた向こう側――まるで光に呑まれるかのような、それでも光でも覆えない程の喪失の悲哀を表情に滲ませた男――エリアスの姿があった。
「いい夢を見られたかい?」
口元に薄く微笑みを浮かべながらきららは訊ねる。その声に気が付いたエリアスがそろりと顔をあげるけれど、その双眸は|妄執《ねがい》の焔によって昏く燃え上がっている。
(まったく、ひどい顔をしているものだね)
きららは内心でそのように考えた。
此れがもし|魔法少女《きぼう》の|物語《ストーリー》に出てくるのならば、今更きっと|魔法少女《ヒロイン》が放っておかずきらきらと光る虹色の魔法でも放って笑顔にでもしているだろうか。
きっと、|物語《フィクション》であれば簡単に|ご都合主義《ハッピーエンド》な結末でも紡げるのだろうが、生憎此処は現実世界である。斯様な手段があるのか――己でハッピーエンドに導く方法は未だ見えず随分と悩みそうだ。
ゆえに、きららは対話という方法を選ぶ。
「いい夢を叶える為にクヴァリフの仔を使った儀式を決行しようって、思い詰めた顔をしているよ」
「他人事であればどうとでも言えるものだからね。随分とお気楽そうで羨ましいよ。まぁ実際君達には関係ないことだろうし、他人事だよね――それとも、君も正しさだけで僕に言葉を投げかけてこようとしているの?」
「いやあ。どういう内容か邪推するつもりも、そんなことはさせないなんて説教をするつもりもないさ」
きららの言葉はエリアスの予想を超えたものであった。予想外の言葉に、エリアスの双眸が僅かに揺れる。
「だけど、ぼくも悩んでいたのさ――魔法少女ならどうハッピーエンドにできるのかってね」
「魔法少女としてハッピーエンドか。それは僕にはよくわからないけれど、君達が退いてくれればその道筋にはなるよ。簡単なことだと思うけど」
「生憎だけど、それはできないんだよね。簒奪者とEDENは相容れない。お互い願い事を叶えるには倒すほかない――ビターエンドは嫌いなんだけどなぁ、夢もお菓子も甘い方が好きだからね」
皮肉なものだよね、なんて軽く首を振ってみせてからきららは改めてエリアスの姿を見る。
「それで、ええと……ぼくらは戦うしかないんだけれど、戦いながらでいいからよかったら弟さんのことを教えてよ」
「一体、どうして。何のために?」
「そうだね、きみたちのことを知らないと、どう言葉をかければいいかもわからないからさ。そのためにもきかせてよ。この力が持つ限りは話をきいてあげられるからさ」
きららの申し出に困惑するエリアス。きららはエネルギーバリアを展開しながら言葉を続けた。
誰も傷つけることのない願いを叶えるきららの|神聖神詠唱《マスター・アリア》では残念ながらエリアスの願いを叶えることはできない。
「……そうだね。呆れるくらいに優しかったと思うよ。だからこそ、死なせるしかなかったんだけど」
エリアスは呟きをぽつりと夜へと漏らした。
一度、|インビジブルとなって《死んで》世界に溶けてしまった者は元には戻らないから。
どのような奇跡を重ねても、それは曲げようのない自然が定めた摂理なのだ。
「だから、ぼくがきみに願うことは……きみが本当に望む夢を見て欲しい! だ!」
周囲の幻月花がきららの花弁魔術によって巻き上げられる。
そうして放たれた花弁がエリアスを包み、月光の如き輝きが周囲一帯に拡がった。
●
エリアスの言葉に思わず伏せた視線。頬を撫でる春の夜風だけが場違いに暖かかった。
ブランシュネージュ・クリスタリエ(雪華の慈愛・h06548)は掌を静かに握り締めた。
逢いたい。後悔。戻りたい。戻れない。取り戻したい――だけど、けれど。
「逢いたい人を取り戻したいという気持ちはわかる。失いたくなかったって思う気持ちも、多分……」
解ってしまう。己も傍にいた大切な家族と今は離ればなれの身だからこそ、幻に縋り続けるエリアスの姿は痛々しくて見ていて苦しくなった。
もしかしたら、彼の姿は己にとって鏡映しのような存在であったのかもしれない。
ありえたかもしれない結末。辿ってしまったかもしれない末路。ゆえに、ブランシュネージュが銃口を向けるのは彼だけではなく、その幻影に向けてだ。
「――それで、自分まで壊れたら駄目だろ」
「だけれど、正しいばかりでは取り戻せないものも存在するんだ。だから、僕は進む道が地獄へ続くものであっても、この道をただひたすらに突き進むしかないんだ」
思い詰めたように吐き出すエリアスの言葉を、ブランシュネージュは頭ごなしに否定するつもりはなかった。
ただ、伝えたいのは其れが間違っているということだけ。
「北風よ、運べ――|妄執《ねがい》の熱を醒ます白い季節の始まりを」
ブランシュネージュは|氷結冬来《デビュ・ド・リヴェール》を展開する。
凛烈な冬の気配は、立ちこめる蒼焔の熱を沈めるかのようにしんと周囲へと降りしきった。
春夜に、季節を逆巻くように冬の気配が立ちこめる。凛烈な冬の中で、ブランシュネージュは銃口をエリアスに向けながら問いかける。
「今ここで手を伸ばして掴めるのは、本当にお前が会いたかった相手なのか?」
ブランシュネージュの銃口も、視線も――エリアスから逸れることはない。真っ直ぐに見据えた冬色の双眸にエリアスは僅かに瞳を揺らした。
「そうでなければ、ならない。そのために僕はずっとこの道を突き進んできたのだから」
半ば悲鳴のような情念が蒼い焔となって周囲一帯を焼き尽くさんとばかりに燃え盛る。
ブランシュネージュは浄焔を冷気で打ち消すように対抗する。
「何も間違っていない。正しいだけの人間が裁かれて、命を失って、この世界からいなくなる――なんて|現在《いま》こそが間違いなんだと思う。だから、僕はその間違いを正さなければいけないんだ」
エリアスはなおも浄焔を放ちながら、思い詰めた様相で言葉を続ける。
彼の言葉を聞きながら、ふと、ブランシュネージュの脳裡に兄の姿がよぎった。逢いたくても逢えない。いつか、逢いたいと希ってしまう相手。
弟に逢いたい兄と、兄に逢いたい妹――其の点に於いては、エリアスもブランシュネージュも抱えるものは同じなのだ。
彼の姿をこの双眸で捉え続ける限り、どうしてもブランシュネージュはそのことを意識してしまう。意識してしまえば彼の|妄執《ねがい》に引き摺られるように己にも妄執が燃え移ってしまう。
だけれど、ブランシュネージュは呑まれないように銃を強く握り直す。
「その気持ちはわかるよ。わかってしまう。だって、オレも探している人がいるから、その気持ちは痛い程に解ってしまう」
だからこそ。ブランシュネージュは引き金に指をかける。しっかりと狙いと想いを定めた上で、引き金を爪弾いた。
「――けど、誰かを取り戻したいって気持ちで自分まで壊れるなよ」
|妄執《ねがい》を断ち切り、その焔を冷ますかのように――冬の気配を纏ったブランシュネージュの弾丸がエリアスの想いを穿つ。
「ぼく、は……」
最期にエリアスが遺した言葉は、春風に攫われて聞こえることはなかった。
斯くして、戦いは終わりを迎えた。
幻月花がまるで何も知らないように春の夜風に揺れている。やがて訪れる夜明けにしぼむ花々は、名残をとどめるように一層咲き映えることだろう。
朝を迎え、夢から醒めて、忘れ去られるだろう朽ち果てた祈りの神殿を、今だけは冷たい月光が照らしていた。