砂糖漬けの桜は朽ち果てない
玲瓏な月が皎々と輝く夜だった。
白桜がはらりと舞い散る春夜に吹き抜ける風は未だ冷たい。満開に花開く桜を愛でる人もいない川沿いの遊歩道を桃花は足早に歩いていた。
「すっかり、遅くなっちゃったなぁ。美桜、怒ってないといいけど」
誰に聞かせるでもない呟きが静かに夜に溶ける。
今日は年の離れた妹の誕生日。桜の季節に生まれた、桜の名を持つ愛らしい年の離れた妹を桃花は殊更に可愛がっていた。
可愛い妹のため、何ヶ月も前から用意したのは、妹が好きな猫と桜のデコレーションが可愛らしいケーキ。妹もとても楽しみにしてくれていた。
しかし、今日に限って教師に捕まってしまい進路のことを話し合っているうちにすっかり遅くなってしまった。
今すぐに帰って妹にケーキを渡したい。だけれど、走ってしまったら手に持っているケーキを崩してしまうから、桃花は駆けたい気持ちを堪えて普段は通らない|川沿いの遊歩道《ちかみち》を早歩きで歩いていた。
「素直に謝ろう。で、精一杯お祝いしてあげれば許してくれるよ、ね!」
己に言い聞かせるように呟きながら歩いていれば正面から誰かが此方へと歩み寄ってくるのが見えた。
やや不思議に思いながらも特に気にせずすれ違った刹那、噎せ返る程に甘ったるい白櫻の薫香が桃花の鼻腔を擽った。
「え、」
振り返り見れば、街灯に照らされた白月の髪の少女が血のように赤く昏い双眸で桃花のことをじっとりと見つめていた。
其処で桃花の意識は途切れている。
❀
桜が空を舞っている。受け止めようにも手のひらを容易くすり抜けてしまう花びらに少女は軽く溜息を吐いた。
山中の見晴らしの良い高台。此処からは麓の街並みが良く見えて少女にとってはお気に入りの場所ではあった。
街をよく見渡せるこの場所で麓の人々の生活に思いを馳せる。ささやかなこの時は少女にとっては慰めではある。
だが、この場所からはあの街はあまりにも遠すぎて生活や人々の営みの様子を伺い知ることは出来ない。
「街には、どんなことがあるんだろう」
柔らかな春の陽気に少女の憂鬱な溜息が溢れて溶ける。
山中から物憂げに街を眺める少女の名は花篝・桜良と云った。
春に咲く柔らかく|暖かな花《さくら》の名を与えられながらも、春風が踊らせる髪は真冬の凍て付く氷雪のように真白の色彩。
双眸だって鮮血のように真っ赤な色彩だ。桜には程遠い。
「おねえちゃんはいいなぁ」
桜良が思うは姉の|卯梅《うめ》のことだ。姉は自分と違い、麓の街にある女学校へと通うことが許されている。
今よりもずっと幼い頃、母と姉だけが麓の街にお出かけするのをズルいと両親に駄々を捏ねたことがある。
『さらもおでかけしたい! おねえちゃんばっかりずるい!』
何処にでもありふれている幼子の我儘に、両親は心の底から申し訳なさそうな表情をして桜良の頭を撫でた。
『すまないね。これは桜良を護るためでもあるんだよ』
『そうだよ。少しさみしいかもしれないけれど、桜良のためだから――その代わり、お土産を沢山買ってくるからね』
いくら泣いて訴えかけたとて何も変わるわけではない。何より、大好きな両親がとても悲しそうな表情をするから桜良は次第に駄々を捏ねることをやめた。
両親は心の底から桜良のことを愛してくれている。大切にしてくれている。ただ、意地悪で街に連れて行ってくれないのではない――桜良は己にそう言い聞かせることで憧れに蓋をすることにした。
『さらも、おねえちゃんとおなじだったら、おでかけできたのかなぁ』
母に買い与えられた大きなくまのぬいぐるみを抱き締めて、幼い日の桜良はいつもこの高台から麓の街を眺めていた。
姉の卯梅と妹の桜良では大きな違いがある。
ひとつは髪の色彩。父に似た桜良の髪を厳冬の氷雪と喩えるならば、母に似た姉は差詰め春の名残雪だろう。
同じ白色の髪でも、其処に込められている温度が違う。其れは姉妹の間の種族の違いも意味している。
ふたつめは姉妹の間での種族の違い。義理の姉妹ではなく歴とした血の繋がりのある実の姉妹だ。
母は人間で、父は吸血鬼である。つまり、桜良達は|混血児《ハーフ》であり、姉は母に桜良は父の種族特徴を受け継ぎ異なる種族として生を受けた。
種族の違いがあれど花篝家は何処にでもある仲睦まじい家族に他ならなかった。
両親は姉妹平等に愛してくれたし、姉妹仲もとてもよかった。この家族に何の不満もない。
だけれど、どうやら人間社会の中ではそうではないらしい。
人間社会では少しでも異分子と認められる者を排除しようとする者がいる。
ましてや、それが人間よりも優れた力を持ち、人間を襲うかもしれない吸血鬼なのだとしたら――考えることすら恐ろしい。
幼い桜良が悪意に曝されることを危惧した両親が桜良を人目から隠そうと決めたのも、今ならば理解はできる。
(それでも、一度だけでも麓の街をこの目で見てみたいな)
桜が咲く山の中に隠されるように育った桜良。されど、人間世界のことはある程度知っているのは姉が何かと麓の街のことを語り聞かせてくれるからだ。
麓の人々がどういう生活を送っているか。子ども達がどのような遊びに興じているか。どんなものが流行っていて、どんな出来事があったのか。
姉の語り口は生き生きとしていて、その話を聞くだけで桜良は自分が麓の街に遊びに行ったような気になれた。
母と姉に読み書きを習ってからは、姉が買い与えてくれる流行の恋愛小説を読み耽って物語の恋に恋をしてみたりもした。
姉の話は楽しい。恋愛小説は面白い。でも、話を聞いて脳内で想像を膨らませる程に桜良の中の街への憧れも徐々に大きくなってゆく。
「桜良、ただいま!」
背後より聞き慣れた姉の声がして桜良は勢いよく振り返る。
いつも通り穏やかな笑顔を浮かべながら、袴姿の卯梅が手を振っていた。
「おかえり!」
振り返った桜良は卯梅の元へと駆け出す。まるで主人の帰りを待っていた子犬のような桜良に卯梅は笑みながら頭を撫でる。
「ちゃんと良い子にしてた?」
「もちろん!」
「ならばよし――あっ! これ、預かってきたわよ」
「ありがとう!」
頭を撫でていた手を止めた卯梅は荷物の中から一通の便箋を取り出した。
いつもと同じ、白い封筒に季節の花の絵柄――今日は桜が描かれている封筒を桜良は嬉しそうに受け取って愛おしげに暫く見つめる。
「綺麗……」
今回の桜の絵柄の封筒はいつもよりもずっと美しく感じた。
綺麗な桜の絵柄を傷付けてしまわぬように桜良は慎重に開封すれば便箋に見慣れた筆致の言葉が踊る。
話題は他愛のないことだ。身の回りであったささやかな日常の出来事とか、何それの花が咲いただとか――そういった話ばかり。
ただ、流れる言葉の全てが美しい手紙。話はいつもささやかなことばかりなのに、言葉遣いや視点がとても綺麗でどんな小説よりも満足感がある。
「ねぇ、おねえちゃん。この差出人って誰なの?」
「だぁめ。差出人がわからない手紙ってなんだか浪漫があるでしょう? 桜良が自分で手紙から差出人の人物像を当ててみなさい」
「今日も教えてくれないんだぁ」
このやり取りも毎度の恒例である。どうせ、教えてくれないのだろうと解ってはいたけれど、今日も今日とて駄目元で訊ねてみたがやはり返答はいつも通りだった。
桜良は見知らぬ相手と文通をしている。
はじまりはちょうど一年程前。姉が突然誰かからの手紙を預かって帰ってきた。
何故いきなりそのような手紙を預かってきたのか。そもそも、世間から秘されている自分の存在を何故相手が知ったのかも解らない。
ただ、桜良にとってははじめて家族以外の誰かと言葉を交わす貴重な機会となり週に一度程の頻度で交しあう手紙を今は楽しみにしている。
当然、最初から相手は一体誰なのかと姉に尋ねたこともあった。だが、姉は『知らない相手と文通なんて浪漫があるでしょう?』と笑うばかりで全く教えてくれる様子もないまま今日まできてしまった。
手紙の内容も姉との間で何か取り決めでもしているのか、送り主の情報に直接繋がる情報は何も記載がない。
唯一解るのは姉と手渡しで手紙の交換をしているようだから、麓の街に縁の在る人物だろうということだけだろうか。桜良は相手の名前も、年齢も、性別も知らない状態で文通を続けていた。
「で、今日はなんて書いてあったのかしら?」
「ないしょ!」
卯梅が桜良の便箋を覗き込もうとしてきた。慌てて便箋を隠した桜良を卯梅はからかうように笑っていた。
斯様にじゃれあう姉妹の様子を両親が少し離れた場所から微笑ましく眺めていた。
「はは、ふたりは何の話をしているのやら」
「今日の作業は終わったの?」
「うん。やはり春というのは気持ちがいいね、思ったよりも作業が捗ったよ」
父は人目を避けるように山中に佇む家の中で弦楽器を造る職人をしている。
少し気遣わしげな母に穏やかに笑みながら、父は穏やかに言葉を紡ぐ。
「なんだか、あの子達のことを見ていると幼い頃の君とあの子のことを思い出すな」
「うん。すっかり会えなくなってしまったけれど、今頃どうしているのかな」
母は姉妹の様子を眺めながら、思いを馳せるのは自らの幼い頃。当時は複雑な事情を抱えており、一時期教会の世話になっていた時期があった。
同じ様な境遇の子ども達の中で母が特に仲良くなったのは、るいという名前の子。
陽に透ける|蜂蜜色《ハニーブロンド》の髪が美しい、まるで天使のような少年で、当時は彼の存在を心の支えに過ごしていた記憶がある。
「まだ生きてるなら、逢いたいな」
「そうだね。もし彼が生きていたならパーティーで歓待しよう。チェリーパイでも焼いてさ」
「うん」
幼年の日に寄せる寂寞は春の風が解かしてゆく。父の言葉に頷きながら、母は春風に靡く雪解け色の髪をそっと抑えた。
満開に咲き映えていた桜が花を散らし、夏陽に茂る青々とした葉も枯れ葉となり木枯らしに舞う秋の日。
「お誕生日おめでとう、桜良!」
「ありがとう!」
テーブルに並べられたご馳走と満面の笑顔の家族に囲まれた桜良もまた同じように笑っている。
1915年10月10日。今日は桜良の15歳の誕生日。ひとつ年を取ったというだけで特に何かが変わるわけでもないのだけれど、誕生日というものはそれだけで嬉しく感じるものだ。
ご馳走を眺めながら何から食べようかなぁなんて想いを巡らせていた時に「桜良」と父に名を呼ばれる。
「桜良、これは父さんと母さんからの誕生日プレゼントだ」
「ありがとう。早速あけてもいい?」
「ああ」
穏やかに笑みながらも、何処か緊張した様子で父が差し出したのはとても小さな何かの小箱。
父の了承をとって早速箱をあければ、其処にはシルバーのピアスがあった。
「これは、シルバーのピアス? 可愛いし、なんだか大人っぽいね! うーん、でもピアスってどうやってつければいいのかな……うまくつけられない」
「私がつけてあげるわ。あと、ピアス穴も開けないといけないしね――桜良、椅子に座って」
「うん、お願い。おねえちゃん」
姉に言われた通り席につけば、耳朶を冷たい何かが突き刺さる感覚がした。
ちくりとした痛みの後、なんだか身体が気怠いようなうまく表現できない違和感に襲われる。
困惑をする桜良に穏やかに母が微笑みながら手鏡を差し出してくる。
「無事、うまくいったみたいだね」
母に差し出された手鏡を覗いてみれば、桜良の白雪の髪は見事な桜色へと色彩を変えていた。
「これって、人間の身体?」
桜良の問いかけに頷いたのは父だ。曰く、銀は吸血鬼の力を弱らせるから上手く扱うことで人間のような身体になることが出来るのだという。
「知らなかった。もう、お父さん今まで教えてくれなかったのいじわるー!」
「今まで黙っていたのは、ごめん。でも、桜良が自分で判断して、自分のことを守るだけの力を持つ時まで待っていたんだよ」
「むぅ……そうだよね。ありがとう」
少々複雑ではあれど、両親は心の底から自分のことを想い、桜良が成長するまで待っていてくれたのだ。
そのことに感謝こそすれ怨みはない。桜良が礼を言えば両親は優しく微笑んでふたりで静かに頭を撫でてくれた。
15歳の誕生日を切欠に、桜良は街へと出ることを許された。
まずは姉が付き添ってふたりで街へ行く。それで問題がなければ姉が女学校の授業を受けている間、ひとりで街を散策することも許された。
斯様な日々にも慣れ始めた頃には季節はすっかりと冬へと移り変わっていた。
その日も、いつものように姉と帰路を歩いていた桜良の頬に何か冷たいものが触れた。ふと空を見上げれば、その年はじめての雪がひらひらと降りしきっている。
「わぁ、雪だよ。まるで天使の羽根みたい」
「ええ、そうね。もうすっかり冬なのね」
他愛のない話をしながら山道へと差し掛かったところで、桜良はふと足を止めた。
「あ、ごめん。お母さんからちょっとおつかいを頼まれていたこと忘れていた。すぐに買ってくからお姉ちゃんは先に帰っていて」
「ええ。わかったわ。気をつけるのよ」
「はーい」
姉に手を振って別れる。まさか、それが姉と話した最期の会話になるだなんて思ってもいなかった。
「うそ……」
母から頼まれたものを買って帰宅した桜良が見たものは、燃える我が家だった
思い出の家も、いつも遊んだ大きな桜の大樹も全てが燃えてゆく。
助けようにも火の勢いが凄まじくて、助けを呼ぼうにも山の中で助けてくれる人なんていない。
呆然と立ち尽くしたところで桜良の意識は途切れている。
次に目が醒めた時に目に入ったのは見知らぬ石造りの天井。
「ここ、は」
「目が醒めたのね、よかったわ。災難だったわね。でも、もう大丈夫よ」
自分がどれだけ眠っていたのか解らないけれど痛む頭で周囲を眺めれば、見知らぬシスター服姿の女性が優しい笑顔で語りかけてきた。
「家族は」
「ごめんなさいね。私達が駆け付けた時にはもう……」
シスターが止めた言葉の先は容易に理解できてしまった。
それからシスターは様々なことを説明してくれた。
此処は恵まれない人達に慈悲を与える教会。桜良が保護されたのは、教会の管理人である|るい《・・》が、あなたの母の友人でもあった縁があったから。
一夜にして全てを失ってしまった桜良はその説明を半分以上は聞き流していた。
それからの日々は無情に過ぎていく。その間、桜良は何をするわけでもなくかつて家族と暮らしていた山を眺めていた。
当然、山を眺めても何もない。あったとしても此処からは何も見えなかっただろうけれど、それでも眺めることは止められなかった。
斯くして、いつの間にか迎えた雪解けにも気付けず花開いた桜の色彩も認識できなかった桜良に客が訪れた。
「桜良、気分はどう?」
|蜂蜜色《ハニーブロンド》の髪を豊かに揺らして桜良のもとに来訪した少年は自らをるいと名乗り、母の旧友で今は桜良の保護者になっていると説明をした。
天使のような少年だった。否、彼の背にはステンドグラス越しに差し込む月光に輝く純白の翼が存在していたから、まさに天使という言葉が似つかわしい。
「それにしても可哀想にね。僕も悲しいよ、君のお母さんとまた逢いたかったからね……そんなところ酷なんだけど、あの火事は放火だったんだって。油も撒かれていたって……怖いよね」
今更発覚した事実に桜良は動揺したが、同時に火の勢いに違和感を感じていた桜良は納得する。
弦楽器職人であった父の仕事の関係で家には松脂があった。だからこそ、家族は皆火の取り扱いには気をつけていたのに、なんでと思っていた。
それが外部の人間の仕業だとしたら納得がいく。
「君達家族はただ静かに暮らしていただけだというのに、一体何をしたというのだろう。大人って怖いよね、平気で他人を騙し、裏切るんだから」
淡々と語るるい。もし、桜良に余裕があったのならばその言葉に憎悪がこめられていたことに気が付けたかもしれない。
俯き地面を眺める桜良の視界にるいの影が映る。
「大人は怖いんだ。それに、大人になってしまったら君はもっと沢山のものとの|別離《わかれ》を経験しなければいけないだろう。なんて、悲しいことなんだろうね。僕は、君にはそんな悲しく汚い大人になってほしくはない。君|こそ《・・》永遠に子どもでいるべきなんだよ」
るいの白い指先が桜良の顎をそっとすくい上げる。
(目を、逸らせない……)
まるで彼の柔らかな若草色の双眸に囚われるように、瞳を彼から逸らすことができない。
不快感も抵抗の意思も沸かぬまま、冷たいはずのるいの指の感触と彼の天使のような声音に思わず桜良は心を委ねてしまった。
「良い子だね、桜良」
るいが優しくもう片方の手で桜良の頭を撫でながら、まるで子守歌を紡ぐように柔らかく囁く。
「醒めない甘い|陶酔《ゆめ》に堕ちて、きみは永遠の少女でいるべきだよ」
るいの声が脳髄に染みれば思考に靄がかかる。
――永遠に15歳を繰り返せば、君は何も失わずに済むんだから。
とろんと微睡む桜良の紅眸は、理想の|幻想《ゆめ》しか映さない。
「君が子どもでいる限り、僕は君の味方でいよう」
❀
胸を締付ける程に寂しい夜。月だけが見守る夜で色彩の失い白桜が静かに生命を散らしている。
夜桜の光景の中で、桜良は誰かが佇んでいることに気付いた。
白月のような髪を夜風に揺らす吸血鬼の女だ。彼女は桜良に背を向けるような状態で夜桜の中で佇んでいる。
何故、彼女は斯様な場所でひとりきりで佇んでいるのだろう。
不思議に思いながら近付けば、まるで彼女は桜良がその場に訪れることを予め解っていたみたいに、まるで歌うように言葉を虚空へと囁いた。
「本当は|理解《わか》ってるの。永遠のしあわせなんてないって――桜は散って、花は枯れるのよ」
虚空に囁いた彼女の声音は寂しげに夜へと消えてゆく。
背を向けた彼女の表情は、桜良からは伺い知れない。だけど、白月の髪を揺らす背中はとても寂しげに見えた。
何故か視線を逸らすことはできなかった。胸が締付けられるような感覚を覚えながら、桜良は背を向ける彼女へと問いかけを投げた。
「あなたは、一体、何をそんなにも悲しんでいるの?」
桜良の問いかけに彼女の肩が微かに震えた。少しだけ間を置いて、彼女は呟きを夜の闇へと放つ。
「花の散り際は忘却の中へと消えて夢境の中にしか残っていない。天使が忘却の|祝福《呪い》をかけた。忘れてしまえることはしあわせなことだけど、寂しいことだって思わない?」
彼女の言葉に、何故だか桜良の胸は痛いくらいに締付けられる。
忘却。幸せ。花の散り際――彼女が紡ぐ言葉はいたく詩的で抽象的で何を言いたいのか理解できないはずなのに、徐々に身を蝕む毒のように静かに心へと降り積もってゆくかのようで。
「怖いことも、悲しいことも夜の奥で眠らせてしまえば傷付かずにいられる――ね、そうでしょう?」
「それは……」
何を言っているか理解できない。否、理解をしたくないのかもしれない。
でも何故か理解できぬ世迷い言なのだと受け流すことはできなかった。
全くの心あたりもないはずなのに、まるで後ろめたい隠し事を言い当てられてしまったような焦燥感に襲われる。
「……桜良は、知らない」
浅い息で、呻くように呟いた言葉を吐くのが精一杯だった。
それ以上は考えるな、思い出すなと本能が告げていた。思い出せば、全てが終焉してしまうのだと直感が告げている。
幸せな|現実《ゆめ》を見られるのは、砂糖漬けのように甘やかな|陶酔《ゆめ》に浸っていられる間だけ。
ひとたび甘い砂糖から出でたものは、朽ちて、腐り堕ちる運命だ。そうして、腐敗したものは二度と元には戻らない。
「そう――だけどね、わたしはこうも思うんだ。花が枯れたのならば、また咲かせればいいの。咲かす花がなければ、何処かで攫ってきてしまえばいいって」
刹那、彼女が振り返る。光に乏しい夜の中でもはっきりと映る双眸は鮮血のように赤く映えているのに、どんな闇よりも昏い色彩をしていた。
彼女の赤く昏い瞳と桜良の赤瞳が交差する。
(あ、――)
桜良の脳裏にまるで蘇るかのように様々な光景が過ぎってゆく。
夜道の中で見知らぬ誰かに襲い掛かっている光景。自分よりも年上の少女。母親のような年齢の女性。父親のような年齢の男性。
知らない人達に襲いかかって――■■する、怖ろしい光景。
《――|家族《・・》をつづけましょう。永遠に醒めぬ夢の中で、しあわせだけを繰り返していればいいの》
暗闇の中で|誰か《自分》の声が、響いた。
「いや……っ!!」
跳ね起きるように飛び起きた。浅い息を繰り返しながら周囲の光景を見渡す。
何の変哲もない|いつも通り《・・・・・》の自分の部屋だ。
「夢……か」
余程自分は魘されていたのだろうか。寝汗にまみれた身体は随分と冷え切ってしまっているように思えた。
酷い有様だ。出掛ける前にまずシャワーを浴びた方がいいかもしれない。
斯様なことを考えていれば、まるで色褪せていくように先程まで魘されていた夢の内容を忘却してゆく。
(とりあえず、みんなのところに行こうかな……)
夢の内容はもう、思い出せない。されど、未だばくばくと動揺に脈打つ鼓動をなんとか沈めようとしながら桜良は|家族《みんな》が待つリビングダイニングへと向かった。
扉を開ければ、其処には|いつも通り《・・・・・》の家族の姿がある。
キッチンで朝ご飯を作る母。今日はスクランブルエッグとベーコンだろうか。バターの芳醇な香りと焼きベーコンの香ばしい香りが桜良の食欲を刺激する。
姉と父はダイニングテーブルに座り、それぞれスマートフォンや新聞に視線を向けていた。なんとなくで付けられたままのテレビのニュースは誰も気になどしていない様子だ。
「あ、桜良おはよ~。ってか、桜良、あんたどうしたの。すごい顔色してるよ?」
桜良に気付いた姉が黒い髪を揺らしながら顔をあげて、ぎょっとした表情をする。
開口早々姉に斯様なことを言われてしまう程に己は酷い顔をしているのだろうか――桜良は己の頬をぺたぺたと触る。少々、肌が荒れてしまっているくらいか。
顔色というものは、触れた感触ではよくわからないらしい。
「う、うーん。よく覚えてない。ね、シャワー浴びてきてもいい?」
「浴びてきな浴びてきな。今の桜良、マジで酷い姿だもん! 特別に私のシャンプー使ってもいいよ。あ、でも、もうすぐご飯だからご飯食べてからの方が良いかも? 冷めちゃうしさ!」
「それもそうだね。ご飯食べてからにする」
姉と会話をしながら桜良はテーブルについた。そうして、何となく誰も気にしていなかったテレビのニュースへと視線をやる。
テレビニュースの中では幼い小学生位の少女が泣きながらインタビューに応えているVTRが流れている。
右上のテロップに視線をやれば「女子高生・倉田桃花さん(17)、失踪から早一週間」との文字が目に入る。VTRの少女は行方不明になっている少女の妹で美桜という名らしい。
『おねえちゃんはあの日、わたしの誕生日ケーキを買いにいってくれた帰り道だった。わたしのわがままも聞いてくれるやさしいおねえちゃんだった。わたしがわがまま言わなきゃおねえちゃんはいなくならなかったのかな』
ひたすらに泣き続ける美桜の声は涙に震えており、字幕がなければ何を言っているかも解らないくらいだった。
家族を大切に想う桜良も、画面の中の少女に思わず同情してしまった。
「かわいそう……」
「え? なにが?」
「あの子、おねえちゃんいなくなっちゃったんだって」
「そっか。それは可哀想。てか、この近くじゃん、怖ッ」
桜良の呟きに返答した姉の言葉はまるで他人事。否、実際|自分達家族《・・・・・》にとっては他人事なのだ。
それもそっか。そう言いながら桜良はチャンネルを変えようとリモコンを手に取った時、丁度できあがった朝ご飯を手にもった母が心配そうな表情を浮かべながら、ふたりに小言を漏らすかのように言う。
「最近色々物騒だもの。ふたりとも気をつけるのよ。ちゃんと遅くなる時はお父さんかお母さんに連絡すること――そしたら、私達が車で迎えに行くわ」
母の小言にはーいと言った姉妹の声は重なって、あまりのタイミングの良さにふたりほぼ同時に噴き出してしまった。
そうして、出来上がったばかりの朝ご飯を前にいただきますと手を合わせ、フォークを手にとった。
一日が始まる。
何も失わない、何も変わらない。不変で不朽のいつも通りの日常が始まる。
とこしえに続く平穏な|虚構《ゆめ》の中で、微睡むまま甘い幻想に浸っていよう。