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狗胆包天

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黑・宵刃

 我に返ったときには遅かった。
 いつもそうだった――と思うのも、夥しい血の香りと断続的な痙攣を繰り返す体を見たときなのだから意味がない。黒い耳と尾を垂らして鼻から悲しげな音を鳴らして見せたところで、眼前にある|もの《・・》が元に戻ったりはしない。
 黑・宵刃(食主犬・h12479)は正気である。
 正気であるから|こう《・・》なる――というべきだ。人間であれば想像するだけでも身震いするほど叩き込まれた躾の鎖を簡単に食い千切ってしまう。興奮が醒めてようやく、眼前の惨状の中に倒れ伏す主人のことを――。
 否。
 |主人であったもの《・・・・・・・・》を思い出す。
 昂りやすいのだ。それを制御するすべは未だに理解出来ない。暴発するような興奮に押されて踏み出した足と爪で、最初に頭を砕いてしまう。
 だから全員初撃で死ぬ。
 従順な宵刃が何故牙を剥いたのかも分かりはせぬだろう。犬自身も覚えてはいない。つい数秒前、何故己が絶対に服従すべき相手に爪を立てたのかを思い出すのは、短期記憶の|保《も》たない犬にとっては不可能に近しいことだった。
 あれほど満ちていた昂りもすぐに忘れる。代わりに仕えるべき執着の矛先を見失った赤い眼差しが孤独と不安に揺れ始める。
 |貌《・》は覚えていない。砕いた途端に忘れてしまうからである。代わりに発達した嗅覚は、噎せ返る鉄錆の、浴び慣れたにおいの向こうに主人の名残を嗅ぎ取った。
 人の顔で舌を近付けて舐めてやった。歴代の主が命じたことは幾らでも思い出せる。しかし|そう《・・》したところで無意味であることは何度繰り返しても覚えられない。生命の名残を湛えていた心臓が虚しく拍動を止める。脳髄の反射が引き起こしていた痙攣もすぐに聞き苦しい水音を弱めて停止した。寄り添う犬だけが、自らの爪を染めているのと同じ色の終焉を受け入れられない。
 豪奢な一室の赤いカーペットに赤黒い体液のにおいを染み着けて、すっかり耳と尾を垂れ下げた犬が一匹、肥大した屋敷を後にする。
 辛うじて原形を留めていた毛根を無造作に引き千切ったものを秘めた小箱が、黑家の主人を満足させる金に変わることはなかった。

 ◆

 この世に許せないことがあるとすれば、主が主でなくなることだ。
 人とは犬より優れておらねばならぬ。手綱を握る先にいる者は、犬が平伏して唯々諾々と命に従うことの出来る素質を持っていなければならぬ。
 宵刃の知っている程度のことは全て知っていなければならない。宵刃を常に抑圧し、或いは許可して、その行動の全てを縛り得る鎖でなくてはならない。唸りにはすげなく興味を失くし、不機嫌にならねばならない。罷り間違っても――恐怖してはならない。
 犬が人間に耳を伏せってみせるのは、彼らと犬との間に大いなる断絶があるからだ。壇上にいる主を見上げて手を組むのが宵刃の意義なれば、崇拝すべき|壇上《・・》が空になることは許容しえない。
 まして――主が自らの横に|隣り合って《・・・・・》並んだとすれば。
 それは宵刃が服従すべき主ではなくなったということである。
 同じ地平に立ったのであれば、序列付けは力によって起こる。宵刃は己が人間よりも|強い《・・》ことを理解していた。柔らかな皮膚も、鈍臭い足も、すぐに狩り取れることを知っている。
 ならば。
 犬よりも――低位だ。
 家は小さな群れである。金を積んで宵刃を雇う主人との関係性もまた、僅か二人だけの群れに過ぎない。群れの統率者は何者にも|序列《・・》を刻まねばならず、|長らしく《・・・・》あることが求められる。
 眼前の人間より優位になった宵刃の興奮を抑える枷はない。唐突に牙を見せて唸るそぶりに首を傾げるより前に、女の貌は抉り取られていた。
 武強主義の壁を前に相応の位置まで成り上がった肢体はよく鍛え上げられていた。それが何らの防御姿勢も取れぬままに転がる。溢れる鮮血に塗れた女の、よく整えられた爪は藻掻くように空を掻いた。派手に痙攣する体が血を吸ったシーツの上を転がり落ち、赤い絨毯の上でもんどりうつ。
 それで初めて、宵刃は己が|またしても《・・・・・》同じ失態をしたことに気付くのだ。
 殺した主人のものを持ち帰るのは長兄の言いつけを守るためでもあり、同時に尽きせぬ執着の証でもあった。貌も分からぬ主の、においのついたものを引き千切る。耳であることもあれば腕や足であることもあったし、今回のように髪を選ぶこともあった。
 何でも――変わりはないのだが。
 宵刃の一族を|買う《・・》者どもなど所詮は√仙術サイバーにおいては落伍者だ。己の力で武を示すことでこそ頂点へ登り詰められる武強主義の中にあって、己の才覚と研鑽に限界を迎えた者しかいない。さもなくば大金を積む必要などありはしないからである。
 半端に力を持っていたが故に低層階から成り上がったが、それが通用するのも真の上澄みと武を交えるようになるまでのことだ。結局のところは真の上層階に登ることは出来ぬまま、半端な階層で燻る羽目になる。
 しかし停滞とは即ち没落の兆しでもあった。
 血気盛んな者どもが低層階から日々上層階に訪れる。その中にはより上位の階層に至るだけの実力を持つ者が幾らかの比率で混じっているのが常だった。勝利のみが意味を持つ√にあって、僅かながらにも嵩む敗北が何を意味するのかを知らぬ者はない。
 やがて低層階に転がり落ちそうになったとき、その命運を受け入れられぬ者だけが、札束を持って黑家を訪れる。
 そういう性根の誰もが頼る。必然、黑家の犬を買うのは懸賞金の掛かった貌ばかりだった。宵刃が|悪癖《・・》をおしてでも末妹として仕事を回されるのは、殺すのが敵であろうが主人であろうが、黑家にとっては何らの変わりがないからだった。
 だが――。
 犬は些かならず|足りな《・・・》かった。
 常に尾を追い回すように動き回っている。主がいねば情緒の不安定さに拍車がかかる。|離れよ《・・・》と命ぜられない限りは常に後方をついて回り、その視線を求め続ける。人の貌と体でそれをやるものだから、主人たちであってもいずれ表情を引き攣らせることになる。
 何より主だったものを殺すとき、貌を砕いてしまうのだ。
 人間に近しい形の者の本人証明をするとき、最も重要な手掛かりを打ち壊してしまう。容赦を捨てた犬の爪は鋭く食い込んで、柔らかい皮膚と骨を容易に破砕する。我に返ったときには目の前に本人を証明する方法を失った骸が転がっているのである。
 そのせいで、宵刃の主人殺しは金にならない。
 |こうなる《・・・・》たびに長兄に叱られた。そのたびに彼が何故それほどまで怒っているのかを忘れている。何度も言い聞かせられたことを思い出すのは、いつも装った怒りに任せて物が貌にぶつかる瞬間だ。
 断片は証拠にならない。
 証拠にならない――ということにされてしまうという方が正しい。パーツを機械化していようと汎用品であれば何の証左にもならず、体の一部は余程特徴的でもない限りは本人と断定し得る確証には遠い。
 犬には複雑な制度は理解出来ない。調べようと思えば調べられるのだろうそれを|分からない《・・・・・》の一言で受け入れて、掲示された額には到底足りない金銭を持ち帰るばかりである。
 唯一、無価値と判ぜられて持参したものが手許に返されるのだけは、犬にとっては嬉しいことだった。此度の主の髪を引き抜いたのは、彼女がよく触れるように命じて来たからだ。主人との記憶の裡で最もよく残っているものを掴んで執着に身を委ねた犬は、金を受け取るときよりも髪を返却されたときの方が色濃い安堵を零した。
 小箱にしまってなお、鋭敏な鼻にめがけて漂うにおいに足取りを明確にする。どうあれ、こうなった以上は宵刃が戻るべき場所は一つしかない。√を跨がなければ慣れ親しんだにおいを使って歩ける道筋を辿る間、犬は貌の思い出せない主のことを僅かにも思い返していた。
 それも、|家《・》に帰るまでには忘れてしまうのだが。

 ◆

 畢竟犬は犬である。どうあれ自らの|縄張り《・・・》を侵されることは好まぬし、主が|かくあれ《・・・・》と声を上げるならば何であれども遂行する。褒められることを予期し、想像通りに手が伸ばされるときだけやけに嬉しそうに笑う。人と同じ言葉で意思疎通が出来るだけの犬は、しかし言語を得たせいで人を余計に錯覚させるらしかった。
 最悪の家――黑家の末の妹は、きょうだいの中で唯一人間の貌を持っている。
 美しく整った人の貌で笑い、人の言葉で喋る|犬《・》を、主たちは矢鱈に重用した。しなやかな長躯と微笑は一礼で人の目を惹く。血を融かすに似た赤い眼差しの向こうに見える忠誠の陶酔が、手綱を握る者の方を狂わせるようだった。
 或いは。
 狂わせているのは、|整いすぎた《・・・・・》容貌であるのかも分からぬが。
 命ずれば何でもする美しい|人間《・・》の貌に、主人らは数多の命を下した。己を狙う全てを殺すこと。己の身を害さんとする者を探ること。部下の粛正に自らの手を汚さぬ者もあった。武強主義蔓延る√仙術サイバーにおいて、弱者を一方的に狩ることに意義を見出さぬ思想は否定されるものでもない。
 元より宵刃は主を|言葉で《・・・》否定したことは一度もないが。
 犬の気質を知った者は、大抵は血に染まるように命ずることが多かった。しかしただ暗殺ばかりを願われるのが常であるわけでもない。手隙のときにも命令――褒賞と実感を望む犬に対し、主が命ずることは千差万別だ。
 言えば何でも熟す便利な道具だ。家の改築を命じられたこともあるし、散歩のついでに周辺の露払いを下されたこともある。殊に女主人が望むのは、宵刃が髪を梳いて結うことだった。
 どうやらこの|髪《・》という体毛には強い意味があるらしい。兄弟姉妹に同じような器官を持っている者が少ないから、人間に対する|毛づくろい《・・・・・》のやり方は知らなかった。
 しかしそれも最初のうちだけだ。教えられれば何でも吸収する犬には都合良く器用な細い五指があり、人の手に合わせて作られた道具を扱うに支障がなかった。長い髪に指を絡ませて鏡を見るとき、主から上機嫌が香るのは誇らしいことだ。綺麗に整えられた――と、女主人はいつも常より調子の高い声で言う――髪型が正しい形になっているのかどうかは、犬にとっては真実よくは分からぬことであったが。
 宵刃が口に出したことは一度もないが、奇妙な習性だとは思っている。
 大抵の場合、よくよく結った髪を解いてめちゃくちゃに振り乱させるのも、同じ宵刃の|仕事《・・》だったからだ。
 犬には人間の規則が理解出来ぬ。命じられれば何でもする。教えられた通りの愛の言葉を囁くことに何らの抵抗もない。人間の複雑に発達した言葉は、そも犬にしてみれば鳴き声とさして変わらぬのである。
 否やはない。主人に対して|否や《・・》を思う機微がない。犬は畢竟犬である。命じられ使われ褒められることで充足し、常に己が従うべき主を求めている。
 だが――。
 人の方は|そう《・・》はあれないものだ。
 愛を囁かれれば真実を錯覚する。犬はより主を満足させようとするのだから当然である。幾つもの主人が宵刃に同じことを望み、そのたびに犬は主の望むものを嗅ぎ取って忠実に振る舞った。積み重なった経験が順化を促すから、|鳴き声《・・・》はより真実味を帯びるようになる。
 それで、先に主が耐えかねる。
 人の貌をした犬が人の言葉を喋り、人のようなことを言う。望む限りいかなる命にも忠実に傅く犬の、恐ろしいほどに均整の取れた顔立ちが、ただ主一人に愛を囁く――。
 大抵の主は、その悍ましさに無意識にも気付いた瞬間に、犬から逃げるようになる。異性の間を渡り歩き家に寄りつかなくなるか、さもなくば手ひどい仕打ちの捌け口にする。それでも宵刃は犬に過ぎぬから、主から与えられるものであれば何でも喜んだ。
 それが余計に人を狂わせるのだ。
 |一度見れば忘れられない《・・・・・・・・・・・》貌がいつでも脳裡に付き纏う。加減を知らぬ犬の吠え声に似た大音声は、聞こえるように名を呼べばどこからでも馳せ参じる。そういう生活に耐えきれなくなった者から先に、主である資格を失う。
 そうでなければ――。
 このところ、宵刃の傅く女主人は、犬との時間をやけに増やしていた。構ってもらえることそのものを否やと思うことはない。用向きもなく呼ばれ、命ぜられる通りにカーテンを閉め、誰もがいずれ下すように与えられた言葉を用いて愛を囁く。
 あまりに夢中になりすぎていた。それを、宵刃も感じ取っていた。
 最後の軛が外れずにいたのは、ひとえに女主人が犬に向ける|それ《・・》が充足していたからだ。だが一度鎌首を擡げた望みが否応なく膨らむのも人間の|性《しょう》なれば、いずれ鎖が千切れることも避け得はしなかったろう。
 全てが終わって体を起こしたときだった。褒め言葉を望む宵刃の頭をいつもの通りに撫でながら、疲れたような表情の女は気怠い声で笑う。
「宵刃」
 鋭敏な鼻が|媚び《・・》を嗅ぎ取った。

 ◆

 |そう《・・》なるまでの間、宵刃は女主人に実によく尽くした。
 呼ばう声が求めることは何であれど熟した。どうやら彼女には手伝いとでもいうべき存在すら少ないようで、食事を作るほかの家事は全て犬に課された仕事であった。
 キッチンには専属の者があって、珍しく宵刃のためにも残飯で幾らかの食事を用意してくれたが、食卓を共にすることは許されなかった。ナイフやフォークの機微を知らぬ犬が何であっても素手で夢中になって零しながら食べるものだから、主人は早々に自分の前から引き離したのである。
「食欲の失せる食べ方をするんだもの、あの犬」
 吐き捨てるような声で言う口で、美しく整った顔を求める。人間であれば不愉快の一つでも湧き上がろうが、犬には関係のないことだ。|その場で《・・・・》求められる命令に応じているだけである。命そのものの示す状況に矛盾が生じないのであれば、混乱する必要も不愉快に唸る必要もなかった。
 散歩の自由はそれなりに確保されている。どうやら此度の主人は以前に犬――むろん獣の貌で人間の言葉を発しもしない――を飼育したことがあるらしかった。だから散歩の許可は出すことにしていると聞いて、黒く大きな四つ足の獣のにおいを屋敷で感じたことのなかった宵刃が驚きに耳を立てる。
 愛する主の声で自分以外の犬を語られて、しかし唸ることも飛び掛かることもせずにすんだのは、女主人の口ぶりに一切の興味が嗅ぎ取れなかったからだ。人間が悼みと称する罪悪感と愛着と旧懐の入り混じった気配が一つもない。少なくとも、宵刃に向けられている|それ《・・》よりも、総量が少ない。
 であるから――。
 一人で茶を口に運び、犬を地べたに跪かせた主に問う声は穏やかだった。
「その|犬《・》は、どうなさいましたか」
「死んだわよ」
 今より低層の階にいた頃、黑家の|犬《・》を買い付けるほどの金を持ち合わせていなかったときのことであるという。
 いっとう大きく恐ろしい容貌の犬を買った。徹底した躾の末に主には従順で、よく咆え、人に飛び掛かる犬になったという。結局はその性質ゆえに見境なく襲った誰かに逆に叩き殺されてしまったらしい。
 気のない表情だった主の眼差しが初めて犬に戻る。
「あれよりはお前の方が役に立つわね」
 優越感を確かに満たされて、犬は笑った。

 ◆

 視界には頼らぬが、代わりに嗅覚が全てを伝えてくれる。
 女主人は、宵刃に殊に夜間の警備を手厚くするよう命じた。真っ向から武強をぶつけ合うことを是とする世界には、しかし|強いこと《・・・・》以外の指標はない。強者とは即ち勝った方であるから、女はここに至るまでに幾つもの卑劣な手段を講じて来たようだった。
 しかし密やかで、表沙汰になるべきでない方策を重ねて来たということは、同時に猜疑心を強める。彼女自身が成功させて来たやり方で、今度は己が寝首を掻かれるのではないか――付き纏う不安を晴らすために、女は命ずれば全てを破壊せしめる暴力を護身に使うことに決めたのだ。
 それこそが女の限界であった。自らの保身を捨て、リスクを取ってまでも攻めきれない。染み着いた臆病な根性が、彼女を汚らわしい妖魔の血を深め続ける黑家に頼らせるまでに凋落させたのだ。
 斯様なことを犬が知る由もないが。
 今日も言われた通りに来襲者に備えている。鍵を開ける方法は覚えたが、女主人は未だ宵刃を幾らか不審がっているらしかった。犬に鍵を持たせるなんて――ヒステリックな声で言いつけられてから、夜の間は庭にいることにしている。
 隔てられた|境界《・・》の中に入ることを許されず、漏れる灯りが点いたり消えたりするのを眺めるのは、どこか懐かしい気分もした。違いがあるとすれば、ここには騒々しい同族たちの声がないことか。
 命ぜられればその通りにするが、宵刃は落ち着かない。自身の尾を追い掛けるように回り、小さく寂しげに鳴き声を零し、無意味に庭を歩き回る。朝になって家の鍵が開くまで繰り返される意味のない動きがふと止まったのは、嗅ぎ慣れないにおいを嗅ぎ取ったからだった。
 目を閉じて鼻をひくつかせる。夜風の流れて来る方向から、緊張と敵意と殺意の混じり合った人間のにおいが漂う。
 歴戦の兵法家であれば風上に立つことの愚を説いたやも分からない。研鑽を是とする求道者であれば漏れ出る張り詰めた空気に呆れただろう。
 犬は――。
「噢!」
 笑ったように見えた。
「主を狙いに来たのですね」
 |番犬《・・》が咆えた声に気付いた主たちが起き出して、転がるように準備を整えるまでの間に、全ては終わっていた。
 人間の反射速度は犬からすれば止まっているも同然だ。しなやかな漆黒の身は容易に夜闇に紛れる。宵刃には風を読む力なぞ備わってはいないが、においの流れて来る方がどちらなのかは判別がついた。
 地を蹴るときに腕を使っても、二足の直立のために進化した骨盤が邪魔をする。兄弟姉妹が馳せるとき、犬は体毛に覆われた獣の四つ足を羨ましく思った。二足の回転を速めるよりもずっと簡単に馳せられる。直立のために体幹と尻の筋力が強くなった代わり、脚の筋繊維の強度が低いから、飛び上がるときにも兄弟姉妹のようにはいかない。
 |不便な《・・・》体を補うように、腹に昏く穴が空いた。
 伸びた漆黒の腕には無数の眼が瞬いている。形も大きさも色も異なる数多の眸を混ぜ合わせたような構造物は、獣の爪の形を取って――。
 |家を傷付けるな《・・・・・・・》と言われていたことに気付いて、近くに生えていた木に取り付いた。
「哦、好险!」
 牙を見せて|笑う《・・》宵刃の喉から唸りが漏れる。近付いて来るにおいは木の上に立った犬に気付いていない。生物は高いところから攻撃されるのを厭う――と、講釈は知らずとも、備わる本能と叩き込まれた暗殺者としての資質が最適な行動を教えてくれる。
 においが強まる。壁に手を掛ける幽かな音が耳に届く。迫る足音に向けていた耳をぴくりと一度動かして、宵刃は迷いなく太い枝を蹴った。
 |体の中《・・・》から取り出された匕首が迸る。|混沌《・・》の間から現れた得物に断末魔を上げる間もなく、首を刎ねられた男の体が崩れ落ちた。
 他の者が振り返る間は与えない。
 唐突な変調にたたらを踏んだ一人を蹴り倒す。力加減の利かない一撃に怯んだそれは、しかし未だ生きている。
 追撃が必要だ。眼前にある壁――|こちら側《・・・・》は敷地内ではないから|家《・》でないと判断した――に思い切り叩きつけた。頭蓋がへし折れる厭な音がする。致命傷となったのは頸の骨があらぬ方向に曲がったことだったらしい。鼻から絶えず体液を零して崩れ落ちた体に、宵刃はもう興味がない。
「晚上好!」
 たとえそれを聞く相手が既に脳髄と心臓の連結を断たれていても、挨拶は欠かすなと躾けられているから、その通りに意気揚々と咆えた。
 残った一人が引き攣った声を上げるのを聞いている。恐怖の感情が強く嗅ぎ取れた。体表に汗のにおいが滲んでいる。
「饶命啊! 饶命啊!」
 伏せた女には逃げ出す意志すら残っていないらしい。震えて叫ぶ声は悲鳴じみた色を帯びるが、武強主義の蔓延る世界にあって、悲痛な命乞いなぞ弱者の戯言に過ぎぬ。静まり返った夜の街から義侠心に溢れる誰かが助けに来ることはない。
 犬は首を傾げた。人間とコミュニケーションをとるうちに学んだ、疑問の示し方だった。
 主は犬に|殺せ《・・》と命じた。
 であらば主でない何者かの、それも宵刃よりも格下の相手の言うことを聞かねばならないのか。備わった生存本能のためにそうしているのだとしても――犬にすら思い付く|真似《やりかた》が出来ない人間がいることが、心底信じがたい。
 鳴き声の真意を理解出来ぬまま、犬は是も不是も戻さずに飛び掛かった。無防備な背に鋭い爪を突き立て、脊髄の向こうにある心臓を穿つ。動かなくなったのを確認して、体から現れる犬の形を周辺に放つ。
 気配はなかった。においもない。しかし主に|そうしろ《・・・・》と命じられていた。万一にも取り逃しがいれば責任を取ってもらう――という脅しの意味はよく理解出来ていなかったが、とまれ言われたのであればいかに不要であろうとも逆らうことはしない。
 犬たちが体に戻ってようやく、使用人たちが転がるように現れた。息を切らせて門戸を開いた彼らは、散らばった骸と派手に汚れた壁を見て表情を引き攣らせた。
 遅れて現れた女主人は、褒められようと尻尾を振っている血に塗れた犬を、骸を見るのと同じ目で見詰めた。
 しかしそれから、犬は夜間にも家の中に入れてもらえることになった。

 ◆

「很高兴见到你、主。黑・宵刃と申します」
 与えられたものを覚えるのは得意だった。兄姉に教えられた通りの挨拶は染み着いている。黑家がやっているのはビジネスであって里親探しではない――だとか何だとかと説明されたことは覚えておらずとも、|せねばならない《・・・・・・・》という命令の方はよく覚えている。
 ともあれ犬には主人が必要だ。主に相応しき者から告げられたことは完璧に完遂する。目下、主である間に下された命令の他には、群れの長である長兄のそれこそが宵刃にとって絶対の正義であった。
 眼前にいるのは女である。どうやらこちらに興味を示している様子はない。嗅ぎ取れる心の範疇では、屋敷の使用人たちに連れられて来た最悪の家の一匹に、どこか汚らわしささえ抱いているようだった。
 いつものことである。斯様な一族に金を積んでまでも求める者からは、よく感じ取れる香りだった。
 武強主義の社会にあって、力なき者が最後に頼るべきが何であるのかは明白だった。金よりも武の方がものを言う√にあって、金で買える強力な戦力は貴重だ。黑家が財を得ることに長じているのは、こうして|手段を選ばない《・・・・・・・》者どもにとっての最後の砦であり続けることにも一因があろう。
 成り上がりの|破落戸《ごろつき》どもには金ばかりが余る。低階層で幾度も手に掛けて来たのだろう妖魔の血を引く――それもその血を|より濃く《・・・・》する――家のことなぞ、誰も真っ向から見詰めたくはないのだ。
 ――なぞという理屈は、犬の知るところではないが。
 それでも、宵刃は兄弟姉妹のうちで最も人に似る形をしていた。故にか主人となる女の侮蔑と嫌悪の香りが和らぐ。見るに堪えない外見でなかったことに安堵さえ漂って来た。
「これからよろしく」
 宵刃を一瞥した声は気のないものだった。しかし、つまらなさげな視線は赤い双眸に留まると同時に僅かに見開かれ、次の瞬間に小さく微笑む。
 微笑が人間にとっての親愛の証であることは、|利かない《・・・・》目にも知っている。きっと此度の主とはよくやっていけると、|いつも《・・・》感ずるのと同じ短絡的な確信を胸に抱いて――。
 犬は笑った。

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