Forbidden Festival
この世で真に平等たるは、死のみであるから。
無垢なる哀れな卵の殻が白紙の上を転がり落ちる。|あったはず《・・・・・》の己の記憶を手繰る指先は物語を追うが如くして、変えられぬ記述を探して頁を遡り始める。下りるはずだった終幕を喪って、真白の裡に描かれるべきでない足跡を宿した頸の傷を隠したままで、小さな兎の形をした娘は無垢な覚悟を心に灯した。
ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)の前には無明の空隙だけがある。振り返った先にあるはずの過去に手を伸ばすロップイヤーの姿は、やがて仕組まれた記憶の淵に辿り着くだろう。
さながら昏い穴に滑落するように。兎を追って穴に落ち、永き夢から醒めるまで、奇妙な世界に閉じ込められた少女のように――。
◆
ギャベルの音が響く。
「──判決。|死罪《あか》」
虚しい裁判所の中には二人のみが立つ。手錠に繋がれた被告人の前に裁判官は一人しかいない。傍聴席にが空なのは、女王の下す審判が一つしかないことを誰もがとっくのとうに理解しているからだった。
ファーレラプス・ディア・クロニカルの治める国にあって、法とは彼女のことを指す。
気紛れな女王の断罪はいかなる些細な罪も見逃さない。或いはそれが本当のことであるかどうかに拘わらず、誰一人として裁判員のいない、弁護人も検察もなき法廷には関係がない。ファーレラプスの下す決まり切った一言だけが、この世界の住人たちにとって唯一の結末であった。
罪を犯さず生きることの何と難しいことか。何しろ気紛れに無聊を慰める細指が誰かを差したなら、その行為のどれかが法規に書き加えられるのだ。薔薇の木を剪定した罪。居眠りの罪。女王の期待に応じられなかった罪。
今日、ファーレラプスが眼前に引き摺り出したのは、城に忍び込んでチーズを齧った鼠であった。どうやらあまりにひもじいあまり、いけないことだと知りながら食糧庫に忍び込むこと数回、料理番によって捕らえられた――。
という筋書きである。
|再誕と繁栄の祝国《イースター・ワンダーランド》に|有罪《くろ》も|無罪《しろ》もない。ギャベルが女王の手に収まったとき、相対する者に下される審判はただ一つ、首を刎ねられることだけだ。
「オーヴェル。連れて行きなさい」
弁護人も検察も不在の、ただ一人の裁判長だけが権利を手にする茶番が終わる。現れた兎兵――オーヴ=ヴェルネに無遠慮に引き摺られていく鼠の辿り着く先は、傍聴席とはうって変わって賑わいごった返す広場だった。
薄明の揺らぐ紫と虹の色の如く煌めく奇妙な空の色に照らされる不思議の国の日没は遠い。絶えず揺らぎ続ける空が艶やかに赤いドレスを照らす中、女王は静かに足を進めた。
一段と高くなる中央の台座、針のない時計の形をしたそれの上に座らされ、鼠はただ項垂れた。現れる処刑人は長短針の刃を手に、笑んだ裁定のエンブリオが高らかに宣誓する。
「あんたはあたしの城の食糧庫に忍び込み、あまつさえ|大好物《・・・》に口を付けたというのよ。よって、この者を|私罪《あか》に処すわ!」
罪状が追加されようともされなかろうとも関係はない。罪の軽重などこの後に至っては無意味なことなのだ。どうあれファーレラプスの指は刃を手放さぬし、どれほど些細な罪であろうとも首を刎ねられることに変わりはないのである。
誰もが理解していた。静まり返ることもどよめくこともない処刑場にて、オーヴ=ヴェルネを見届け人として、ファーレラプスの刃が迸る。
短針と長針が重なる。〇時の鐘はどこからともなく響き渡り、やがて|時は巻き戻る《・・・・・・》、
落ちた首は同じ軌道を遡り、今しがた死に至った鼠の元へ戻っていった。同時に命は急速に時間を遡上する。目を醒ました|ほんの幼い小さな鼠《・・・・・・・・・》が周囲を見渡す姿を見とめた国民たちが歓声を上げる。
|再誕《・・》を祝う声の中、今はまだ何が起きたのかも分からず瞬く鼠の首元に、消えぬ罪の|徴《しるし》が唯一の不可逆として残る。舞う紙吹雪と爛漫の春の風の中、紅色のドレスを同じ色の液体に染め上げた女王の真白の指先が、頬に飛び散ったそれを拭った。
つまらなさそうに目を細めた背の高い女の姿は、すぐにも熱狂する住人たちへ背を向けて、庭園の向こうへ消えていく。彼女の住まう居城――イースター・ワンダーランドに聳え立つ女王の城へ。
◆
イースター・ワンダーランドの春が歪み始めたのは、ファーレラプスが玉座に座ったときであった。
或いは彼女がこの世界に生まれ落ちたときに、運命は疾うに定まっていたのやも分からない。|空虚な女王兎《クイーン・オブ・エンプティネス》の裡から欠けて零れた|充足《・・》が、春の祝祭を映した世界に一匙の毒となって零れ落ちた。
爛漫の春が咲き乱れることを約束された国にあって、国民たちに不足はなかった。美しき女神エオストレの加護によって守られた世界には幸福ばかりが降り注ぐ。暖かな春の恵みと祝福を一身に受け取る彼らの裡で、王もまた燦然と輝く象徴として座していた。
やがて鮮やかな光に満ち溢れる世界を長く見守ったエオストレは、己の役を終えたと判じた。
世界には恵みが満ちている。人々は余すことなくそれを受け取って、隣人へと分け与えて笑い合う。エオストレに感謝することを忘れることも、驕り奪い合うこともない――祝祭の国に溢れんばかりに満ち満ちていたのは、彼女の最も望む光景であった。
かくして女神は永き眠りへと身を委ねる。見守り続けた国の永遠の繁栄を願い、時を刻み続ける一つの|時計《・・》へと姿を変えた彼女を、人々は感謝と寂寥の中で見送った。
――本の頁には終わりがある。|物語の世界《√Fairytale》に属するものもまた同じだ。やがて訪れるはずの|終焉《めでたし》は、しかしこの充足した世界で唯一それを忘れた兎の目覚めによって、永久に終端を喪うことになる。
王の一族に生まれ落ちた兎は、傍目にはまったき女王の資質と共に成長するように見えていた。品行方正な笑みの奥に隠す毒に気付く者がなかったことも、ひとえにファーレラプスの恐ろしき側面の一つであったといえようか。どこからともなく拾って来た忌み子に戯れに餌を与える姿に使用人たちが頭を抱えているばかりで、他には何らの瑕疵もない娘であったのだ。
やがて玉座へ就く女王となる女は、幼い頃より短絡な娘ではなかった。まるで無害な少女の顔をして、ファーレラプスは己の煮え立つ無聊を抱えたまま、時の来るのを待っていたのである。
やがて自らが王位継承の権利を得た頃に、兎はその本性で以て初めて牙を剥いた。
時計台の上で最初に首を落とされたのは、当代の王であった。
彼の罪状を覚えている者はもういない。歪み始めた時間の始まりなぞ、イースター・ワンダーランドにはもう意味がないからだ。
「判決、|死罪《あか》」
未だ幼さの残る新たな女王の声に、誰も逆らえはしなかった。|罪《・》というものを誰もが知らなかったからである。それに下される|罰《・》の存在もまた、誰の頭にも存在していなかったからである。
女神の祝福に満ち溢れた世界には、犯されるべきものは何もなかった。誰もと何もを分け合い笑い合うことを是とする幸いの光の中にあって、他者から何かを奪う必要はない。飽きるほどの恵みの中で、より良い地位を渇望する意義がない。何もかもを独り占めする意味を持たない世界の中で、国民たちには――王にさえも――|罪と罰《・・・》は理解のしがたいものであった。
しかし。
新たな女王はまず|法律《・・》を定めた。何らの罪なき祝祭の国に|罪《・》の生まれた始まりだった。罪を犯した者には罰が降り注ぐ。即ちファーレラプスの手にある刃によって首を刎ね飛ばされ、罪なき身へと|再誕《・・》することである。
塗り替えられていく法規はやがて女神の時計にすらも手を伸ばし、規律によって存在を縛り上げる。罪の存在を知らなかったのはエオストレも同じだった。平穏を望み、平和を愛し、そのために惜しみなく祝福を与えた女神にとっても、私利私欲によって人々を害する――|犯してはいけない罪《・・・・・・・・・》の存在は理解の外にあったのである。
かくしてファーレラプスは時間すらも自らの手中に収めた。イースター・ワンダーランドにおいて、法律とは即ち彼女自身を指す言葉である。彼女の望む限りに全てが進むのであるから、それに縛られた時計もまた同じことだ。
女王は手にした時計の力を己が望む形に捻じ曲げて、終わりなき歪んだ時間を作り上げた。
|長短針の刃《・・・・・》は、〇時を告げる瞬間に重なり合うが如くして、罪人の首を斬り落とす。宿したのは|復活《・・》――春の祝祭の宿した意味によく似た権能である。
刃に裂かれた者の時計の針は逆巻く。落とされた頸は元に戻り、体もまた幼く巻き戻っていく。新たな命として|再誕《・・》した者に唯一不可逆の証があるとすれば、その首を一周する消えぬ傷痕だけだった。
狂った世界から死の概念は消え果てた。毎日のように誰かが女王に引っ立てられて、孤独な裁判で判決を言い渡される。誰もが思った通りに首を刎ねられ、そして再び新たな命としてイースター・ワンダーランドを生きるのだ。罪人であったという証だけを背負って。
気紛れに振るう権能が世界を捻じ曲げていく。法規なき世界に罪を齎したファーレラプスこそが、イースター・ワンダーランドの全てを定義する。誰も逆らえはしなかった。逆らおうとすらしなかった――という方が正しいのやもしれない。新たな枠組みは女神さえも縛り上げるものであったのだから、国民たちもまた、その枠組みによって雁字搦めに絡め取られた。
彼女の不興を買った者のみならず、血縁も媚びる者も金を積む者も懇願する者も、誰しもに|平等《・・》に死罪の判決が降り注ぐ。首元に癒えぬ痕を残して|再誕《・・》した罪人の数が増えるたび、過去と現在と未来の入り混じった世界にまた一つ、消えぬ歪みが刻まれる。
然れども、終わりなき断罪と終端を喪った物語がファーレラプスを充足させることはなかった。手慰みの処刑はいつも同じ顛末だ。刃を振るうときばかりは幾らか心の踊ることはあれども、そればかりで心の満ちることはない。
罪状は増える。法規は増える。しかし誰もそれを書き留めはしない。女王の頭の中にすら、全ての法律が完璧に諳んじられているわけではなかったのやもしれない。
罪を犯せば誰もが首を刎ねられる――住人たちにとっての絶え間なき脅威は、死を喪った世界においてなお、祝福すべき再誕の始まりであると湛えられた。
誰しもが充足を知る世界の中で、ただ一人満ちることなき無聊に身を委ね、裁定者は私罪を繰り返す。気儘に振るわれる長短針の権能は、歪みきった春の祝福に|終焉《めでたし》を齎す誰かを待っている。
◆
勝手気儘な残虐なる殺戮劇は、唐突に終わりを迎えた。
ファーレラプスの居城をその日に訪れたのは、一人の男であった。見たことのない姿に僅かに目を瞠った女王は、しかし不遜な格好を崩さぬままで、玉座の上より彼を睥睨する。
「何用かしら? あたしは客人があるとは聞いていないのだけど」
事実だ。
そもアポイントメントなどあってなきようなものである。居城に足を踏み入れたがる者など今やいはしない。彼女の塒に一歩でも立ち入れば、身に覚えのない罪が幾らでも降りかかる余地を生むだけだと、国民全員が理解しているからだ。もはや誰も訪れることのないだろう城に、それでも|無断で立ち入った《・・・・・・・・》と罪を被せられる者すらいるのであるから、当然のことだった。
青年の|翠玉《エメラルド》の眼差しは真っ直ぐに女王を見詰めていた。焦げ茶色の髪に宿った目と同じ緑の一房がやけに目障りだ。やはりこの国では一度も見掛けたことがない。殆どの住人を自らの手で処刑して来た女王は、皮肉なことに国民の顔を最もよく知る者でもあったのである。
「分かったわ。あんたは外の世界から来たのね。だからこの国の|法律《・・》を知らないんでしょう」
さもなくばここには来ない。いかにして再誕が成されるとしても、ファーレラプスに望んで首を刎ねられたい者はいなかった。犯した罪咎の証を頸に刻まれた者も、運良く斬首の憂き目に遭わずに息を潜めている者も、一様にして彼女の目に罪と捉えられることのないように生きている。
しかしせせら笑う女王を真っ直ぐに見据えていた青年は、静かに首を横に振った。
「いいや、知っているとも。君がここで何をしていたのかを、僕は見ていた。君が僕を知らなくとも」
「そうかしら。それが本当なら、こんなところに来るなんて余程あたしの裁判を受けたいのね」
立ち上がったファーレラプスの足取りが緩慢に青年へ近付いた。裁判の準備――といっても大したことではないのだが――をせねばなるまいと、どこか厭世的な歩みが不遜に歩む。
青年は暫し押し黙った。翠玉の眼差しが伏せられる。静かに現れたオーヴ=ヴェルネの姿を見とめる前に、目を開いた彼が口を開く。
「君が望むのなら、裁判の形式を取っても構わない。だが裁かれるのは僕ではない」
腰元の得物が銀に煌めいたのを、ファーレラプスの眼が捉えた。
そのときには遅かった。既に眼前に迫っていた青年の姿に瞠目する女王が、オーヴ=ヴェルネの名を呼ぶ隙さえも与えない。戯れに振るわれる|時を戻す刃《・・・・・》などではない、不可逆の死がファーレラプスの|頸《・》に届こうとしている。
「“──判決、死罪”。君はそう告げていた」
静謐なる青年の声は宣告の如くして虚しい玉座に響いている。ちょうど、あの時計の座の上で、女王が高らかに宣言をしていたときと同じように。
「ならば、君も同罪に処そう」
無数の屍を築き上げて来たファーレラプスを、やがて穿つのは彼女自身の罪過であった。塗り重ねて来た数多の再誕の最果てに、女王は自らが他者の定めたる|法律《・・》の元に平伏そうとしている。
「巡って──正しく|還《孵》れ」
それが。
――ひどく面白い。
女王は笑った。凄絶な笑みだった。長らく埋まることのなかった無聊が、眼前に唐突に現れた来訪者によって齎される初めての|異常性《イレギュラー》によって満たされていく。口惜しさよりも、怒りよりも――ファーレラプスの心に満ちていたのは、ただ悍ましき一瞬の|充足《・・》であった。
首筋に死を齎す刃の食い込む僅かなひとときに、女は最期の言葉を零す猶予を得た。聞き飽きた命乞いでも弁明でもない。真っ直ぐに見据えた至近の翠玉が煌々と輝くさまを、自らの目に焼き付けながら、彼女の唇はせせら笑うように最期の吐息を紡いだ。
「あたしが何時かお前を殺すわ」
紅が飛び散る。
頭を失った体が崩れ落ちた。赤いドレスを絶え間なく零れる紅色で重く染め上げるファーレラプスを前にして、猛り狂うオーヴ=ヴェルネに|救世主《・・・》が相対する。僅かに目を細めた彼が再び刃を構えたとき、主を喪った兎兵は声なき咆哮と共に、主の後を追った。
◆
忌み子にとって、女神の祝福など何らの意味も持たぬ戯言に他ならなかった。
イースター・ワンダーランドに罪はない。よって罰が下ることもない。漆黒の体に生まれ持って長い爪、兎とは思えぬ巨大な体――春の祝福には遥か遠い化け物のような姿の仔兎を、誰もが遠ざけて眉を顰めた。
行く宛のない黒兎はただ独り、愛も春も知らぬままに死ぬはずであった。分け与えるべき祝福は誰からも与えられない。分かち合うべき喜びは誰の目にも見て取れない。静かに目を閉じて、命運の全てを受け入れようとしていた黒兎のような怪物は、自らの前に現れた少女が瞬くのを茫洋と見詰めていた。
美しい身なりの少女だった。きっと王族か、それに近しい身分なのだろう。忌み子とは遠く離れたその姿が眩しかった。きっと物珍しさに見詰めているだけなのだ――と思っていた足が、不意に己に近付いて来たことに、怪物は驚いて身を強張らせた。
何が可笑しいか、少女は笑った。
「あんた、行く宛がないんでしょう。歩けるんならあたしと一緒においでなさい。美味しいものを食べさせてあげるわ」
――それは、ファーレラプスと呼ばれた少女の、ほんの気紛れであった。
誰しもに愛を傾けず、誰しもに平等な娘には、裏返しの憎悪や嫌悪すらも存在しなかったのである。襤褸雑巾のようになって死を待つばかりの忌み子が、抱え続ける無聊の手慰みになると判じてのことだった。幼い頃からずっと、彼女にとってはただ自らの裡に空いた欠落――イースター・ワンダーランドの誰しもが持ちえない欠乏を埋める手段を探していたのである。
忌み子を連れて帰ったことに、最初のうちは王城の誰もが仰天した。しかし王の娘ともなれば不用意な発言は許されない。結局のところ王が許したこともあって、遠巻きに見られながらも王城に居座る許可を得た彼を、ファーレラプスだけがどこか楽しげに見詰めていた。
それからというもの、いずれ女王となる娘は怪物のことを平気で呼ばわって回るようになった。
他の使用人たちと変わらぬ調子で接する彼女は、そのうちに呼ばう名がなければ不便だということに気が付いたようだった。幾らか考えたのち――といっても、それは怪物の目に|考えている《・・・・・》ように映っただけで、実際にはただ名を与えるかどうか迷っていただけなのかもしれない――いつもと同じ調子で、ファーレラプスは彼に指先を向けた。
「あんたは今日からオーヴ=ヴェルネ。オーヴェルよ。あたしが呼んだらいつでもすぐに駆け付けなさい」
有無を言わせぬ口調で与えられたものが、それからオーヴ=ヴェルネを指し示す唯一の呼称になった。忌み子でも化け物でもない呼び名を知って初めて、彼の裡に春が芽吹いた。
ファーレラプスを害する全てをオーヴ=ヴェルネが許すことはなかった。オーヴェル――と呼ばう声があればどこにでも馳せたし、彼女の気紛れが起こすあらゆる物事に忠実に寄り添った。やがて王を処刑して玉座へ就いた彼女の手によって春の国が歪んでも、過去と未来と現在の入り混じった悍ましき再誕の祝福が地に蔓延っても、オーヴ=ヴェルネには何らの関係もないことだった。
彼の春はただ一人、玉座にて咲く鮮烈な赤色だけであったからだ。
朦朧とする意識の中で、彼が最期に聞いたのは、しかしあれほどまでに慕ったファーレラプスの声ではなかった。彼女の首を刎ねて刑を執行した青年の、静かな声だけである。
「君が彼女を導け。正しき方向へ。罪を清算することが、これからの彼女の使命なのだから――」
言われるまでも――。
ないことだ。
返したかどうかも定かではなかった。零れた声が人に分かる形をしていたかも、曖昧な聴覚はぼやけて捉えはしなかった。ただ、痛みが遠ざかっていく強烈な眠気に似た感覚の中で、オーヴ=ヴェルネは己が引き裂かれるのを感じた。
もはやどうでも良いことだった。
これから何が起きようとも成すべきことは変わらない。声が呼ばえばその傍に馳せる。たとえ気紛れであろうとも、芽吹いた唯一の春に寄り添い続ける。彼女の願いに応じ、彼女の前に立ち、その身を助け続けることだけだ。
この身に再誕があるのなら――。
――ただ、ファーレラプスの傍へ。
◆
王子様によってめでたしめでたしで閉じられるはずだった物語は、未だ白紙の上を走り続けている。
再誕は罪を取り除く儀式ではない。
たとえ新たなる命として生まれ変わったからといって、犯した罪そのものが|なかったこと《・・・・・・》になるわけではない――救世主は、己の手の内にある針なき時計に視線を落とした。
逆巻く時計は時を刻まない。さながらイースター・ワンダーランドが時を捻じ曲げられたまま、繰り返すとも巻き戻るとも進むとも分からぬ時間の中に停滞しているように。権能を掌握したファーレラプス自身が針であるのであれば、救世主の手中にあるそれが正しく時を刻む道理もあろうはずがなかった。
罪には罰が必要だ。
しかしそれは、ファーレラプスの言うようなものではない。
三つに分かったオーヴ=ヴェルネ――今はクロノス、カイロス、ルイスと名を携えて|再誕《・・》した兎たちが、毒胚を宿した卵殻に寄り添うだろう。友であり物語の導き手でもある彼らが道行きを示してくれるはずだ。きっと長き迷走の旅路の果てで、やがて彼女は全てを知ることになる。
全ての罪の清算は今より始まる。死が新たな誕生を意味するこの世界にあって、死そのものが咎となることは有り得ない。
これは始まりである。永き贖罪の旅の最果てで、救世主は針なき時計を携えて、導きによって訪れる彼女を待っている。|彼女《ファーレラプス》ではない|彼女《ラデュレ》が彼の前に姿を現したなら、そのときにはきっと、この時計も正しい姿に戻るだろう。
そうでなければ。
――最期に遺されたファーレラプスの声が告げる通りに、再び刃の迸ることになる。今度は、真正面から。
◆
斯くて|逆巻く時計《・・・・・》は二つに分かたれた。
時計盤を手にした救世主は姿を晦ませ、針は女王を包み世界の外へと流れ出る。欠落を抱えた命は死を以てしても永遠の眠りを手にすることなく、やがて|再誕《・・》した彼女が目を醒ます。
いずれ、ラデュレ・ディアと名乗る少女は、己が初めて目を開けた場所が√ドラゴンファンタジーと呼ばれることを知る。眠るたびに訪れる世界が√Failytaleと呼ばれる世界であることも――己が、地続きの世界の数多を巡る力を手にしていることも。
傍に在った三匹の兎と共に、少女は自らの欠片を探して歩き出す。|あったはず《・・・・・》の中身がこの手に帰ることを夢見て、数多の世界を迷走し続ける。物語をなぞり、寓話を捲り、童話に身を投じて――しかし真実、彼女が|辿り着くべき《・・・・・・》世界に辿り着くことだけは出来ぬまま。
十二の欠片、最後の一つは救世主の手に収まった。やがて全ての贖罪を終えるとき、逆巻く時計は針を取り戻すことになるだろう。
だが――或いは全てが成される前に、卵の殻が割れたなら。
ファーレラプスは最期に自らの意志で以て記憶を散逸させた。幼く何らの穢れも知らぬ、彼女ではない少女の殻にて胚となることを定めたのだ。
裡に秘めたる毒の胚、禁忌と罪咎のエンブリオは、殻の柔らかく薄くなるのを待っている。罪を忘れ、己を忘れた無垢なる臆病な少女に耐え難き罪の記憶を手繰らせて、その意識に囁きかけるのだ。
――あんたはあたしの卵殻でしょう。
せせら笑う赤いドレスが記憶の裡に翻る。罪を生み出し、罰を下した女の声は、ラデュレが罪咎に頽れる日を望み、真なる|己《・》の再誕の訪れを待っている。一二の欠片が全て揃い、到底耐えられぬ罪の意識に自壊していく卵殻が全てを思い出したとき、その柔らかく薄くなった外殻を食い破るために。
己の頸に与えられた傷痕の意味も、己が探し求める|逆巻く時計《・・・・・》が本来はいかなるものであるのかも、ラデュレは未だ知らない。十二の欠片がその胸に集まって、時計の針が一回りしたときに、初めて少女の再誕は成る。
それが誰の望む形であろうとも、誰かが永遠に目を閉じることになるに変わりはないのやもしれない。
――この世で真に平等たるは、死のみであるから。