奇遇
運命の糸と呼ばれるものがあるのなら、確かに一人と一匹は結びついていたのだろう。
√仙術サイバーと呼ばれる場が発見されて幾らかが経った頃、アネリス・コーネリウス(真紅・h09190)は|ごみごみ《・・・・》とした熱気の中に足を踏み入れた。漂うのは些か殺伐とした気配を孕む活気ばかりで、薄暗い路地にまでも人々の野心の温度が届くようである。
居を置く√ドラゴンファンタジーでも、斯様な気配を感じることはある。それでも冒険に出ようという人々が相手取るのはモンスターだ。冒険に出る直前、或いはギルドの受付へ訪れるときの彼らの、高揚とも殺気ともつかない感触によく似ている。しかしそれが斯様にあらゆる場所に満ちているのは初めてだ。
観光気分で来る人間にもあまり容赦があるとは思えない。そこかしこから聞こえる喧嘩の音は止んでは始まるし、人が店から蹴り出されて転がるのも、この短時間で幾らも見ている。最初こそ物珍しいような感覚がしていたが、それが続けば|中てられる《・・・・・》というに近い状態にも陥ろうというものである。長らく熱に満ちているあまり、他者の物騒な気配が心にまでも這い寄るような感触を避けるため、アネリスは大通りから路地へと足を進めた。
人がいないわけではないだろう。それに、こうした場所であれば、基本的には人目につかないところの方が危険であることは承知している。それでも最近になって目覚めた力にもそれなりに慣れてきた折だ。多少の物騒な事件には対処出来るであろう自覚もあったし――。
何より特別路地が危ないとも思えなかった。
大通りであろうがどこであろうが関係なく喧嘩が始まるのだ。
とはいえ、年頃の娘らしい警戒心は捨てていない。情報に曰くⅤ層は中産階級の集まりで、目に見えた|破落戸《ごろつき》なぞはそう多くないらしいが、それでも危険が迫らないとは限らない。
慎重に一歩を踏みしめながら、やや開けた人のいないエリアへと歩みを進める。ようやく人心地ついて、手近な朽ちかけたベンチの表面を手で拭った。些かざらついてはいるが、棘や逆立つ感覚はない。座るに支障はなさそうだ。
腰を落ち着けて空を見上げてみる。連なるⅥ層とⅦ層によって鎖されつつある|本物の《・・・》空は、比較的上方に近いⅤ層であってもよくは見えなかった。晴れ間が高層建築と柱に遮られるのを見るともなしに見詰めていたアネリスは、ふと隣に小さな気配を感じて視線を落とす。
「――あれ?」
いつの間にやら、濃茶色の動物がそこにいる。
どうやら彼女に興味を持ったらしい。視線がかち合うと同時にベンチの下へと身を隠したそれは、彼女の知る生物のどれとも合致しない見目をしていたように思えた。
覗き込めば、暗がりに小さな姿が見える。そっと手を差し伸べても動く気配はない。攻撃の意志を感じぬ以上はこちらから先手を打つのも憚られるし、さりとて離れていく様子も見せないそれに困って、アネリスは眉尻を下げた。
「出て来てくれませんかー」
極力優しく声を投げても身動ぎするばかりだ。いよいよ窮して視線を落とした彼女は、ふと地面に引かれた細い線に気が付いた。
血――。
だろうか。
人間のものとは幾分色が違う。しかし、どうやら先の動物が通った道を示しているらしいことは分かった。となれば導き出せる答えは一つしかない。
「もしかして、怪我してるんですか?」
くるる、だか、こるる、だか分からぬ弱々しい音が響いた。
どうやら正解であるらしい。同時にかの動物が意思疎通の出来る存在であることも分かった。
出て来てくれなければ出来ることもない。だが一度見付けて――更には気付いてしまったからには放っておくことも出来ない。幾分迷って、彼女は言葉が通じるらしい獣を信頼することに決めた。
「出て来てください、手当てしますから。怖くないですよ」
穏やかで優しい声と共に、ベンチの下へ手を差し伸べてみせる。無防備な掌を噛まれてしまうかもしれないとも考えたが、斯様にして彼女が警戒を捨てられずにいる限り、相手も応えてはくれないだろう。長らく受付でバイトをしていた以上は、その周辺で起きる冒険者同士の揉め事も数え切れぬほど見て来た。そういうとき、大抵の不和は不信から始まるのだとも知っている。
やがて――。
獣はおそるおそる、彼女の手の上に暖かな体を載せた。
両手で持ち上げる感触は、小型犬や猫に似ている。しかし出て来るのはやはり見たことのない姿だ。ロップイヤーの兎のような長い耳、焦げ茶色というに近しい体の色。両手足は小さくとも鋭い爪を持ち、小さな角が生えている。何より尾は栗鼠の如くも見えるように、くるりと丸まっていた。
妖魔――だろうか。
それにしては非力そうだ。アネリスに対して敵意を見せる様子もない。ともあれ推測は後回しに、彼女は約束通り手当をしてやることにした。
漏れ出た傷口を持ち合わせの布で縛ってやる。リボン結びにしておいて、後で簡単に外れるようにした。一仕事終えた彼女に礼を言うように擦り寄る体に笑って、アネリスの眼差しは幾らか思案の色を浮かべた。
「折角会えたんですから、お友達になりたいですよね」
そのためには呼び名が必要だ。検分するように眺めた身体的特徴から連想出来る愛称は幾らもあるが、最もしっくり来たのは――。
「……ココア」
体の色合いだった。
焦げ茶色の毛並みに思い付いた甘いドリンクが、やけに似合っているように思える。愛らしい眸のせいだろうか。それとも、どの動物とも違う特徴を持ちながら、どうにも可愛らしい外見であるからだろうか。
どちらにせよアネリスは己の名付けを気に入った。一つ得意げに頷いて、最後に意志を問う。
「ココアって呼んでも良いですか?」
くるる――と鳴った喉は、確かに肯定の色を刷いているように思えた。
かくして小妖魔は主を得る。アネリスが探してもどこにいるのだか分からぬそれは、己の気紛れに恩人の元を訪れては、自慢の毛並みを触らせる権利を与えようとするだろう。
野生動物に近しいそれは、決して強力なものではない。それでも己の命を助けようとしてくれた彼女の顔も声もにおいも忘れぬまま、彼女が√仙術サイバーを訪れるときには、時折その姿をどこからともなく現すようになっていた。