惑イ子
にゃーん。
下校時間だから、住宅街は小学生たちの賑やかな声がときおり爆発している。ランドセルの中身がガタゴト音を立てて、ドタバタと元気な足音と、笑い声。
溌剌とした彼らの耳には届かなかったけれど、確かに猫の鳴き声がした。
「ねこちゃん?」
背負っているラベンダー色のランドセルには傷が少ないのは、彼女が小学生になったばかりだからだ。
上級生の男子たちには気づかれなかった、もの悲し気な声に、彼女は気づいた。
ふらりと声のした方へと足を向ける。
にゃあ。
甲高い、どこか苦しそうな、否、親を懸命に呼ぶような寂しい声だ。
心配だから、見に行こう……私も教室でママに会いたくなるし……もし怪我をしていたら可哀想。おばあちゃんに言えば、きっとなんとかしてくれる。だから――
「ねこちゃん、どこ?」
彼女の呼びかける声に、律儀に猫は、にゃーんと応えた。
●
では、県内のニュースです。
小学一年生の女の子が下校途中に行方が分からなくなって、三日が経ちました。
女の子の名前は、|木内《キウチ》・|愛《アイ》さん。
下校時の服装は、赤いチェック柄のシャツ、黒いズボン、ピンクの運動靴、ラベンター色のランドセル、白い制帽、黒猫柄の手提げ袋を持っていました。
学校から帰ってこない愛さんを心配した、同居の祖母からの通報で発覚しました。
警察は事件と事故の両方から捜査を続けていますが、未だ発見には至っていません。
今月に入ってから、県内で行方不明になる児童はこの件で四件目となり、いずれも未解決です。
些細な情報でも構いません。お心当たりのある方は、██警察署、情報提供専用ダイヤル――――まで情報をお寄せください。
続きまして…………――――(その後、地域に即したニュースの読み上げが続いた)
●
ゾディアック・サインに導かれた星詠みは、√能力者に「やほ」なんて快活に挨拶して、春空色の眸を微笑みに染めたままに話を始めた。
「えっとね、手伝ってほしいことがあるんだけど、いい?」
星詠みの彼女――リカ・ルノヴァは、無邪気に、それでも強引に進めていく。
「こどもがいなくなっちゃうんだけど、この事件ね、怪異の仕業なんだ。だから、手を貸してくれないかなーって」
判っていることを教えるねと、リカはタブレットの画面にスイスイと指を滑らせ、端的にまとめてきた文章を読み上げた。
小学生の失踪が続いている。
今回行方不明になりかけている小学生を救い出すことができる。
ただし、過去に失踪した子は救い出すことはもちろん、発見することは出来ない(この怪異が関わっている確証はない)
今回の救出対象の気にしている猫が無事である確認をしないかぎり、彼女は帰路につかない。
猫がたくさんいる。
出会うことになる猫はとても人慣れしている。
猫はものすごく可愛い。
猫に気に入られると|おうち《﹅﹅﹅》に連れて行ってもらえる。
猫はとっても可愛い。
「…………おうち?」
聞き返されて、リカは大きく肯いた。
「猫ちゃんは、おとりなんだよ。猫ちゃんにつられて寄ってきたニンゲンを捕らえてしまうのが、怪異の目的なの」
マイゴをマドワせるような奇妙な様子で、油断ならない。ただの野良猫というわけではなさそうだが、いくら調べようと猫は猫。
怪異の住処――それが、おうちだ。
これ以上放置すると犠牲者は増える一方だろう。
「小学生の子を帰らせることが、大前提だよ。で、|おうち《﹅﹅﹅》に招待してもらえるように、猫ちゃんのゴキゲンをとってほしいの。つまり、ねこねこぱらいだすってやつ!」
猫は好きだろうか。
機嫌を取ってもらいたい猫は、多様だ。好奇心旺盛であったり、やんちゃだったり、おすましさんだったり、警戒心マックスの臆病者、ケンカっ早い子――きっと気の合う猫に出会えるのではないだろうか。
「件の子は、入学したばかりの一年生だよ。まだまだ幼いし、癇癪を起されたら大変だから、ちゃんと寄り添ってあげてね」
リカはずっと持ったままだったタブレットを鞄の中に押し込んで、手を振った。
「じゃ、よろしくね!」
第1章 冒険 『あなたのおうちはどこですか?』

「あ! いた! ねこちゃん!」
停まっていた車の下から、心細そうな猫の鳴き声がしたから覗き込んだら、果たしてそこにいた。茶トラで金目の小さな子だった。
こちらをじっと見つめてから、逃げ出してしまった。
「急に走ったらあぶないんだよ!」
ママからの教えがそのまま口をつく。逃げなくてもいいのに。少女――木内・愛は少しむっと唇を尖らせて、子猫の後を追いかける。ぴんと立った尻尾がやけに誇らしげに見えるのは、気のせいか――そんなことよりも、軽やかな足取りで、子猫は塀と塀の間を抜けていって、ついていくのに必死だった。
家と家の間を抜けてきた。塀に沿って歩いて来た。子猫の震える尻尾を追いかけて、追いかけて、追いかけて。
「ねえ待って! ねこちゃん!」
「にゃ」
小さい返事があって、ちらっと愛を見る。ふたつの金目は何を語りかけているのか分からなかった。
追わなくちゃ。
あの子が心配。
あの子、とっても可愛かったから、撫でてみたいなあ。
触らせてくれるかな。
ほんとは怪我してないかとか、どっか具合悪いとか……ちゃんと元気って、見たいから。
あの子を追わなくちゃ。
ねこだまりのある寂れた公園までもう少し。
◇
春に芽吹いた草はぐんと成長をし続けて、公園を新緑で染め上げた。
コナラの木が枝葉を広げてそよりと影を作る。麗らかな陽気と、穏やかな風が吹き抜ける、管理を忘れられた公園だ。
遊具が設置されていない(あるいはすでに撤去された)から手入れが後回しになっているのだろうか――詳細は不明だが、日当たりも良く、程よく影もある公園だから、猫が屯するのも頷ける。
下校中の子どもたちの喧騒は遠く、警戒をする必要もない。
さて――聞こえるだろうか、穏やかな猫の話し声が……
ぽかぽかした昼下がり。まさに新緑。緊張の解れる緩やかな日差しの注ぐ――校区内の住宅地。通学路の賑わいを背に感じて、斯波・紫遠(くゆる・h03007)は、シガレットケースを弄ぶ。
(「まさか猫さんの案内がないといけない|おうち《﹅﹅﹅》があるとはね」)
それが、一体どういう場所なのか、まったくの情報がない今、猫の機嫌をとるほかあるまい。
シガレットケースを今一度ポケットに押し込んだ。事件が解決してから至福の一本と洒落こもう。
今件に巻き込まれてしまう子が通う、ありふれた公立小学校を中心に、紫遠は聞き込みを開始した。
ねこだまりの場所を知っているか否か、それはどこにあるのか――単刀直入に聞いても教えてもらえる確率は低い。ここは小学校周辺だ――ひときわ|不審者《ヨソモノ》への警戒心は強い。
だからこそ、生業で蓄えた力は真価を閃かせる。人当たりのいい雰囲気で、黄色い旗を持った見守り隊の女に声をかけた。まずは挨拶と世間話。このくらいの年の女性は、実にお話し好きだ。見守り隊の仕事の邪魔にならないように、すれ違っていくこどもたちにも、にこやかに話しかけて――するりと紫遠への警戒を解いていく。
いつも見ている見守り隊の人が話している人は、きっと大丈夫な大人。たぶんおばあちゃんの知り合い。おばあちゃんが笑っているから安全な人。だから――この人とお話ししても良い。
この連鎖を作り上げて、紫遠はねこだまりのある場所を割り出していく。
(「できれば、愛ちゃんと歳が近い子から聞けると良いけど……」)
「おれンちの近くに白いやつがいるぜ!」
「キイね、三毛猫いるよ!」
「ぼくンち、三匹飼ってる! おもちとおはぎとだんご!」
こどもたちが口々に語ってくれるねこ情報はあまりに雑多で、紫遠は苦笑いを隠した。
「この辺りで猫が集まっている空き地をご存知ですか?」
「猫の集まる空き地?」
「ええ……実は、僕の猫が迷子になってまして……もしかしたら、地域猫さんと一緒にいるのかもと思って」
「あらあら心配ね。そこにいるかは分からないけど、あたしが知ってるとこはね――」
◇
野良猫の多い区画は、最寄り駅のさらに向こう側――沿岸の緑地公園へ行くまでの、古い家々の立ち並ぶ居住区だそう。
小学校が近い。大きな病院が近くにある。公園もあって遊び場所にも困らないし、駅も近い――ふた昔前までは栄えていたが、今ではすっかり静まり返っている。
なるほど、高齢世帯が多いのか。野良猫が増えてしまっている原因の一端を担っていそうだ。
下草が自由に成長している小さな公園――近くに広い緑地公園が整備されているから、すっかり忘れ去られてしまったような、ひっそりとした――それでも暖かな小さな場所だった。
ブランコも滑り台も、カラフルなタイヤ跳びもない。あるのは、朽ちかけのベンチと、大きなコナラの木。もしかすると草に覆われて見えていないナニかがあるかもしれないが、今のところ、紫遠は発見に至っていない。
そよっと流れたやわい風が、草先を揺らして、コナラの枝葉をゆすった。
ここが、魅惑のねこだまりだそうだ。
「あ、」
よく見ればいる。ベンチの下に一匹、木の根元に二匹――もしかすると木の上に――やはりいた。
話によると、ここの猫はただの猫。しかし、彼らは、ひとのこを惑わせてしまうという。だから――新たな被害を生まないために。
(「心優しいお嬢さんが安心して、家に帰れるように尽力しましょう」)
そこで取り出したるは、かの有名な、全猫が好きと噂のおやつ!
このおやつを苦手とする猫の話を未だかつて聞いたことがない。すべての猫を虜にするといっても過言ではない魔性のおやつ!
紫遠は、ゆっくりと木とベンチとの中間地点に座って、おやつの封を切る。ふわっと、ねこを惹きつける香りが立つ。じっと紫遠の様子を見ていたベンチ下の猫がのっそと起き上がった。ぐぐっと伸びて、ストレッチをしながら、影から出てくる。
片耳に切れ込みが入っている地域猫だ。穏やかな金目が紫遠を見ている。
「やあ、僕とお揃いだね。おやつ、どうだい?」
紫遠も猫を見返して、おやつを振ってみた。見覚えがあったか、香りにつられたか――どちらにせよ、猫はぺろりと舌なめずりをした。
うにゃうにゃにゃ、にゅあっ。
「おしゃべりだね」
うにゃうにゃとなにやらを話しながらも、がつがつ! なんて擬音語が聞こえてきそうな勢いでがっついて、紫遠を驚かせた。
「キミ、凄い食いしん坊さんだな。他の子にも譲ってあげてよ」
金目の猫のおやつをがっつく様子を首を伸ばして見ている、グレーの猫の青い目に微笑みかけた。驚かせないようおやつを遠ざけて、灰猫の鼻先へと近づけた。
ぺろりとひと舐めしてから、驚いたように食べ始めた。
「このおやつは初めて?」
返事はないけれど、その子の夢中な姿が可愛らしくて、紫遠は目を細めた。
「たくさん持ってきたからね、でもみんなで分けないとね」
ゆったりと、のんびりと、慌てることなく猫たち本位に満足できるよう、確りと奉仕に勤しんだ。
木内・愛。小学一年生。初めての学校、初めての授業、初めての登下校……――小学一年生にとって、冒険の日々だ。
その中でも、下校中となると、その日の最後の冒険だ。
たくさんの刺激を受けて、ようやくつく帰路で出会う猫の特別なこと。
雨深・希海(星繋ぐ剣・h00017)にも覚えのある感覚だった。学校からの帰り道に、たまたま出会った野良猫をぼんやり眺めたりすることのある希海だから、予知された女の子の気持ちはよくわかる。
ねこ。ふいに出会うあの可愛さ。心が跳ねるあの感覚。可愛いだろう。きっと可愛いだろう。絶対に可愛い。どんな子に出会うだろう。
希海の頬はわずかにしか動かないが、鮮やかな青い眸は好奇心に輝いていた。
猫じゃらしも用意した。王道も王道、棒の先に毛玉がついたスタンダードスタイル・猫じゃらしだ。じゃれて追いかけている姿を夢想し、むずっと唇が動いた。
とはいえ、まずは愛を無事に帰宅させることが最優先だ。
猫と遊んで、猫に夢中になって、猫の後を追って――|おうち《﹅﹅﹅》へと連れていかれる。
それが、怪異の狙いだと容易に想像できる。
このねこだまりの猫たちはただの地域猫だろうけれど。
この子たちの先に、脅威があって――それを阻止できるというのであれば。希海は改めて心に決める。
止める。行方不明には絶対にさせない。彼女を待っている家族がいるから。
◇
「猫ちゃんを探しているんであるかな?」
きょろきょろと辺りを見回している女の子がいる。
赤いチェック柄のシャツは長袖だが、すでに腕まくりしている。黒いズボンの膝はたくさん遊んだ跡で白くボケていて、ピンクのリボンのモチーフの運動靴も土汚れでくすんでいた。
ゼグブレイド・ウェイバー(ポイズンサイエンティスト・h01409)の目には、実に活発な少女に映る。
具合が悪いかもしれないと子猫を案じて追いかけてしまうほど、心優しい子なのだろう。
背負っているラベンダー色のランドセルも、被っている制帽も、持っている黒猫柄の手提げ袋も真新しい――聞いていた特徴のすべてを揃えた子だ。
初対面のひとに突然名を呼ばれると怖いだろうから、そうして確かめることまではしなかった。
ゼグブレイドは彼女と視線を合わせるようにゆっくり蹲踞んだ。
「えっと……知ってる? たぶん、こっちにきたの……」
「ふむ……では、お兄ちゃんも一緒に探してあげるであるぞ」
「ほんと?」
「ん、心配であるからな」
言ってあげれば、彼女は大きく目を見開いて、破顔する。
「こういう時はこれを使うであるぞ」
畳みかけるようにじゃーんと取り出したのは、かつおぶしが香ばしいおやつ! そしてカラフルに染められた鳥の羽の猫じゃらし!
一セットを少女にも渡してあげる。おずおずと受け取って、嬉しそうに猫じゃらしを振り始めた。小さな鈴がチリチリと鳴る。これで猫の気もこちらに向けることができるはずだ。
「おにいちゃん、ありがとう」
「かまわないであるぞ。探しているのは、どんな猫ちゃんであるか?」
「ちっちゃくって、ちゃいろくって、金色の目の子!」
彼女と一緒にいれば、猫に惑わされてしまうことも阻止できるだろう。ゼグブレイドの真意には気づいていなくても、構わないのだ。
愛が気にかけている猫の様子が判れば、彼女はきっと納得するだろうから。
小さな公園まで一緒に歩いて、生え放題の草を踏んだ。古いベンチに腰かけているのもまた、愛を事件に巻き込まれないように駆け付けた√能力者――希海だ。彼女の手にある猫じゃらしには、すでに黒猫が釣れている。
「ここにいるの?」
「たぶん、きっと、いや絶対に」
「おーい、ねこちゃーん、おいでー」
その場にちょこっと座ってしまって、猫じゃらしを振って呼ぶ愛。
ぱたぱた、しゅしゅ、チリリン。猫を誘う軽快な羽は、愈々、白猫を釣り上げた!
「うわあ! あははっ、びっくりしちゃった! おっきなねこちゃんだ!」
愛が追いかけてきた子猫ではなかったが、じゃれついてくる姿は可愛い。ゼグブレイドも一緒になって、猫たちと遊ぶ。目を爛々と輝かせて、飛びついてきては、だだっと逃げていく。そして、しとめるように再び飛びついてくるのだ。
目の端にきらりと弾ける光の粒が眩しく、何事かと視線を上げて、「おお……」と思わず感嘆する。
希海の《レイン砲台 Type:N.O.A》の、威力を最小限まで絞ったレーザー粒子だ。弱く弱く、キラっと、前触れなく光る。なんの変哲もない、(おそらく概ね)いつもの公園なのに、なにかが煌くのだ。あまりに不思議な現象に、猫たちも興味津々で、じっと観察しては、飛び出すタイミングをはかり、エネルギーを貯めている。キラっの瞬間、体がびくりと反応する。
(「すごい集中力……可愛い」)
希海の粋なおもちゃに、びょーん! と飛び出してきたのは、茶トラの子猫だった。我慢できなかったように飛び出して、光の粒を追いかけて、見失って探している――無邪気な様子に、成猫たちは背中を丸めて眺め始めた。
「ねこちゃん!」
愛が叫んだ。
「あの子であるか?」
「そうだよ、ねこちゃん! よかった、みつけたあ!」
飛び上がって喜んで、それでも駆け寄って行ったりはしない。子猫を怖がらせないようにしているようで、希海もゼグブレイドも、ほっこりと微笑ましく見た。
子猫が次に目をつけたのは、希海が力なく持っている猫じゃらしだ。
希海の足元に転がって、短い前足でちょんちょん触って、――ゆっくりと愛が近づいてくる。
「また寝転がっちゃったの?」
「そうだね、ちいさい子だからすぐ疲れちゃうのかも」
「……そっかあ」
子猫の毛艶は悪くない。極端に痩せているわけでもない。愛が聞いたという寂し気な声という主観に、心配のバイアスがかかって不安になっているのだろう。
しかし猫はお構いなしだ。ゼグブレイドから渡されたおやつの香りに引き寄せられてきた猫が、人懐っこく愛の足に体当たりする。まっすぐに立てた尻尾がおやつを催促している。
高い声で甘えるように(急かすよう、あるいは文句を言うよう)にゃあと鳴いた。
ゼグブレイドは、愛を促しておやつを与えさせる。満足いったそのキジ猫はせっせと毛繕いを始めた――が、間髪入れず、羽の魅惑に逆らえなかった別の猫が、仕留めるつもりで跳んでくる!
「わあ! びっくりした!」
持っていかれないようにゼグブレイドはそっと手助け。遊んでもらっていると思っているらしい猫は、また体を低くした。
「みんな、元気であるな……」
猫の奔放さに翻弄される。おやつを催促されて、羽は奪われそうになるし、チリリンと鈴は賑やかに鳴り続け。あっという間に時間は溶けていく。
(「若い猫が多いのであるな」)
ゼグブレイドの準備したおやつはすっからかんだが、猫じゃらしに釣られる子は後を絶たなかったのだ。
愛も忙しそうに猫の相手をして、きゃらきゃら笑っていた。
「……さて。そろそろ帰る時間であるぞ」
「もう?」
「早く帰らないとおうちの人が心配するであるからな」
ゼグブレイドの言葉を境に愛の表情は一気に曇る。希海の足元でころんと寝転がって、うとうとしている子猫を見つめて動こうとはしないのだ。
「この子、心配なの?」
「うん。怪我してないかな?」
「うーん……さっき跳んでたし、元気そうだけど……獣医さんに診てもらった方がいいかなあ」
「万が一、猫ちゃんに何かあったらお兄ちゃんとおねえちゃんがちゃんと病院に連れて行ってあげるであるから……安心してほしいであるぞ」
「ほんとに?」
「ほんとである」
ひときわ優しく微笑んで、語る。
安心してもらえれば、帰路につくだろう。だから。
「それに……また明日でもここに来れば猫ちゃんに会えるであるからな、今日はばいばいするである」
「それでも心配なら、大人の人を呼んできてよ。ぼくたちがねこちゃんを見ててあげるから」
希海が最後にひと押しする。
これで帰ってくれると、いい――このまま遊び続けて、もしまた子猫が動き出してしまえば、愛は追いかけて行ってしまうかもしれないから。
(「おうちに連れてくのは、|ぼくら《√能力者》だけで十分でしょ?」)
希海は、うとうと微睡む子猫の小さな鼻がひくりと動くのを見ていた。
眼鏡をかけたお兄さんは優しかった。ねこちゃんのおやつをいっぱいくれて、猫じゃらしも貸してくれた。
静かに話してくれたおねえさんも優しかった。きらきらする猫じゃらしを持ってて、かっこよかった。
ふたりとも優しかった。
ねこちゃんも心配してくれたし、びょういんの先生にみてもらおうって教えてくれた。
でも、愛ね、ねこちゃんの病院、どこにあるかわかんない……おばあちゃんならわかるかな。おばあちゃん……あれ? たいへん……ここがどこかわかんない……!
ねこちゃん、しんぱい。
かえりみち、わかんないかもしれない。
おにいちゃん、おうちまでついてきてくれる?
おねえちゃんは、ねこちゃんみてくれる?
きいても、いいかな……。
(「あいちゃんには、おはなししちゃいけないって、たすくくんがいうから、きょうのねここはフツーのねこのフリするの」)
だって、猫がニンゲンの言葉を話すと、驚いてしまうでしょう?
佐久良・スイ(かぎしっぽの「さくら屋」店主見習い・h04737)は、ふふっとかぎしっぽを揺らした。
子猫に連れていかれないように、愛が自分のおうちに帰れるように、望月・翼(希望の翼・h03077)と打ち合わせをしてきた。
ねこだまりには、ねここさんが一等最適。
スイは普通の猫に徹すると決めたから、合図は瞬き。スイはとととっと軽やかに走り出して、蹲踞んでいる愛の足に、すりっとすり寄った。
「わあっ、ねこさん!」
悲しそうな顔をしていた愛だったがスイのやわい毛並みに、ころりと表情を変える。いままで遊んでいた猫と明らかに違うのは、首にリボンを巻いているということだ。
「かわいいリボンつけてる! わああ、かわいい!」
「にゃぁん」
黒い顔の真ん中で輝く青い目に、愛の笑顔が映る――ああ、さすが。警戒心のまったくない笑顔を引き出した。
「スイちゃん、まって~!」
翼がスイに追いつく体で公園に入った。
「わ! スイちゃん! ごめんね、びっくりさせてないかな?」
「この子のかいぬしさん?」
「そうだよ。オレは、望月・翼」
「あいね、きうちあい」
「そっか、愛ちゃん! ねこさんと遊ぶの上手だね」
愛の相手は翼が。そして、子猫の相手はスイが――ちゃきっと翼が構えたのは、鮮やかなスカイブルーのリボンだった。
「これでも遊んでみる?」
地面にリボンがはらりと落ちる。それがぴくりと動くたびに、狙いを定めた猫の動向がきゅっと狭まる。
「すごーい!」
「えい!」
翼はリボンを引いて動かした瞬間、猫はロケットになってすっ飛んできた。勢い余って翼にぶつかって――そんなことはお構いなしに、リボンにじゃれついている。
「この子ね、さっきまで猫じゃらしで遊ばなかったの」
「そっかあ、ねこさんにも好きと嫌いがあるんだよ」
リボンが好きな子、カシャカシャの音が好きな子、ぶんぶん動く激しいのが好きな子――その好みは多様だ。
◇
翼が愛の相手をしている内に、愛が気を揉んでいる、ちゃとらのきんいろのおめめのこに、スイは歩み寄った。
スイの出番だ。この猫が無事だと、この猫になんの問題もないと解れば、彼女は帰路につくだろう――それもあるし、ねこの|おうち《﹅﹅﹅》に案内されるよりも前に、公園から帰らせなければならない。
「こんにちは。ごきげんいかが?」
「ここまではしったから、ちょっとつかれちゃった」
「あたしは、スイよ」
「なまえがあるんだね、すごいや。ぼくにはなまえはないよ」
それは都合が悪い……
「あっちのニンゲンのこは、あいちゃんよ。いっしょにあそびましょ」
「あのこ、ぼくをおっかけてきたんだよ、ぼくがすきなのかな?」
「そうよ、あいちゃんはねこさんとあそびたくっておいかけてきたの」
「そっかあ。ふふ、ぼくのことすきなんだね」
「すきだからいじわるしてもいいってことじゃないよ、いじわるは、めっ、なの」
「わかってるよ」
ひょいっと立ち上がって、ぐぐぐっと伸びる。ナナシの茶トラは全身じっくり伸ばしてから、ベンチの下から出てきた。
チリチリン。愛が持っている猫じゃらしの鈴を鳴らすように、ペチペチたたく。
「ねこちゃん!」
「やあ、あいちゃん」
通じていないけれど、ナナシはきちんと挨拶をした。それでも、ナナシの嬉しそうに笑う様子に、スイもほっこりする。
愛の安心しきった顔も、好意に酔うナナシも、それを打ち破って、狩猟本能を目覚めさせるリボンが蠢く!
「……うああああ!!! この! この! まて!」
ナナシのはしゃぎっぷりに、愛は驚いてきゃらと笑う。
「うずうずしちゃう……う、う……たのしそ……!」
ナナシがあまりに楽しそうに遊んでいるから、リボンが理想的に動くから――それでも、翼との約束が思い出される。
「スイちゃんは、他の子を押しのけて遊びすぎないでね?」
あのときは自信たっぷりに頷いたから、いまここで遊びすぎるのは、いけない!
はわわ……あ、つかまえたい……!
思わず、にゃにゃっと小さな声が漏れた。
「ふふ、」
翼には決死の我慢が見破られているみたいだったけれど。
◇
ナナシはたっぷり遊んで、大満足。ゴキゲンに尻尾を立てて、にゃあんと鳴いた。いままでの様子とは違う。翼もスイも直感する――猫が|おうち《﹅﹅﹅》へ行こうしている。
それでも、それ以上に、愛へのフォローは手厚くて。
気になるなら、明日また来ればいい。
怪我はなさそうで、元気におやつも食べて、元気そう。
茶トラの金目の子の様子がおかしければ病院へとの気遣いもあった。
「愛ちゃん、この子がね」
この子――スイを示しながら、翼は子猫とお揃いの金瞳を優しく細めた。
「愛ちゃんのおうちまでお見送りしたいって言ってるよ」
「ねこちゃんの言葉、わかるの?!」
「スイちゃんのだけね」
「そっか……」
ここまで猫を追いかけてきてしまった子だ。翼や他の人の言葉を聞き入れることは難しいかもしれないけれど、帰りも猫と一緒なら。
「にゃあ」
スイの後押し。愛の足にすり寄って、おずおずと伸ばされた指先におでこをこすり付けた。小さな掌で頭を撫でられて、それを羨ましがった茶トラの子猫が割り込んでくる。
愛の掌を奪おうとすり寄ってくる子猫に場所を譲って、スイはナナシへも最後のお願いをした。
「ねこのおうちじゃなくって、あいちゃんのおうちへ、いっしょにかえりましょ? てつだって?」
「ん、いいよ。さいごのおさんぽだね!」
猫同士の会話はわからないけれど、ナナシは愛の足にまとわりつく。
歩き出すスイの後を追うように――愛が、ここまで来た道を辿って帰られるように。
「愛ちゃん、気をつけて帰るんだよ」
翼に手を振って、笑みを弾けさせた彼女は、家路についた。
厄介だった人払いは滞ることなく成功し、ひとつの事件が始まる前に食い止めることが出来た。
連続した行方不明事件が、同一の事件のものか否か、それは現状解らない――過去起きたことは変えられない。解決もできない。それは、しかるべき機関が動いている。
見つかればいいけれど。
解決まで祈るほかないだろうが、それでも――未然に防げた失踪事件に、一旦は胸を撫でおろしていいだろう。
さて。
作戦は動いた。
大きな赤い瞳をまあるく見開いて、口元をきゅっと引き絞る。大きな耳が捉えている音は、多くの猫のおしゃべり声だ。
(「へえ……」)
ずいぶんと多くの猫がいる。隠れている子がほとんどだが、コナラの木の上からルナ・エクリプス(盤上の駒・h02474)の様子を見ている子もいた。
なるほど、遊具がなく、人もあまり来ない。小学校が近くにあるとはいえ、下校してくるこどもがいないということは、この辺りに子育て世帯は極端に少ないということだ。こうなると、人目を気にする必要はなくなってくる。追いかけられる心配も少なくなるのだから。
猫にとって居心地のいい条件が揃っているといったところか。
だが。
ルナは小さく鼻を鳴らした。
その条件は、怪異が罠を張って獲物を待ち構える場所としても、十分に都合よく機能してしまうのではないか。
見下ろしてくる白猫に手を振りながらも、その猫の真意を確かめようと観察する。
あの猫も、ベンチの上の猫も、怪異の駒なのか……あるいは単に怪異がこの状況を利用しているだけなのか。いまのこの時点では、ルナには判別できなかった。
それを確かめるためには、接触だ。
接触しないことには、何も始まらない。
木の上で、興味津々にルナを見下ろしている白猫に声をかける。
「こんにちは。――……追いかけっこは好きですか?」
駒としては兎としての性質を与えられているルナだから、本来なら逃げる方が得意だ。本当に狩られてしまうわけではないから、こういう遊びをやってもいいだろう。
「とりあえず、走り回ってみましょうか」
「んなぁ」
「いいじゃないですか。お昼寝も大事なのは否定しませんけど」
「にゃ」
なんとなく文句を言っているようにも聞こえたが、ルナのことが気になっているらしいから、ぴょんと軽快に跳ねてみせた。あそぼう、と誘ってみる。表情が変わった。すかさずもう一度――すると、白猫は、猫らしくしなやかな体捌きで木の上から降りてきた。
しゅっと白猫から逃げて、背の高い下草に隠れてみた。チラチラっと見え隠れするルナに、白猫の狩猟本能が刺激されている。
(「お、のってきましたね」)
最初は猫の方が優位だと思ってもらって、隙を見て反撃――それもやりすぎて逃げられないように慎重に。大きな声で驚かせることも厳禁。
隠れているルナを仕留めようと、じりじり近寄ってきて、全身のばねを如何なく発揮して飛び掛かってきた。が、それはルナも同じ。易々と捕まってやるわけにはいかない。猫の方が優位――? はて?
最初の狩りが空振りに終わったけれど、それは二回戦開幕の合図。
(「……流石に動きが機敏ですね」)
相手は野良猫。地域猫だから、飢餓で死にかけるという経験はないにしろ、野生に生きるケモノだ。自然の摂理に則って生きるハンターだ。
走って跳んで、ルナを捕まえるためにアタックを繰り返す。にゃにゃにゃっ……狙いを定めて、距離を詰めて。詰められた距離を開けて、さらに追いかけられる。
瞬間的に跳び出して、ルナの顔目掛けて跳んできた。
「うわああ」
もっふりした感触が、顔にべったり張り付いて、次の瞬間、蹴られた。
「いたっ」
「にゃっ」
興に乗ってきた猫は、再びルナから距離をとって、下草に隠れる。
ふんふんと鼻息荒く、楽しそうにルナを狙っている白猫は、はやく跳びつきたいと攻めが雑になって、だだだっ駆けてくる。
その速さに、瞬間的に態勢を変えられずに、また体当たりされた――否、背中に乗られた。
「わっ……って、服に爪を引っかけないでくださいよ? だめですよ、爪、ささってますって!」
「にゃ!」
また蹴られて、白猫はルナの背中から飛び降りた。
(「これで、思いっきり体を動かして機嫌が良くなってくれれば良いのですが……服がぼろぼろになる前に」)
白猫が満足するまで、あと少し。
餅は餅屋。馬は馬方。猫のことは猫に頼るに限る。
「――ということで、猫の先輩、大吾をお呼びしたぞ」
「うなァ」
ベンチの上でくありと欠伸をしたキジトラは、半分閉じかかった琥珀色の目で、櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)を見返す。
野良に紹介された月見亭・大吾(芒に月・h00912)は、猫は猫だが、立派な猫又だ。
「人間はどうして猫を追いたがるんだろうね」
「んな」
律儀に合いの手を入れるキジトラは、大吾と湖武丸の様子を見ているようだった。
「猫を追う理由……? ふぅん……知らないね」
逃げられると追いたくなるという狩猟本能がニンゲンにも残っているからだろうか――とはいえ、湖武丸とて、いくらもヒトらしくあるが、真にニンゲンではない。
「犬なら何も言わずとも、向こうから寄ってきて撫でさせてくれるのに」
「……ほお」
「そこんとこどうなんだい、お兄さん?」
小さな黒い前足を上げてみせる。その|前足《て》で犬を撫でるのかい?――喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「どうと聞かれてもな……追われたことのある猫に聞いてみるのはどうだ?」
「ああ、やっこさんかい?」
目の前のキジトラだ。にゃあと一鳴き、大吾はくつくつ器用に笑う。
「そうかいそうかい、そうだろうね。ありゃ、人のサガってやつだねえ」
「本能ってことか」
「んにゃ」
しれっと猫とコミュニケーションをとっている大吾は、やはり楽し気にふたまたの尾を揺らした。
それが羨ましいやら、妬ましいやら。
ここの猫たちに気に入ってもらって、満足させられないと、|おうち《﹅﹅﹅》へ招待してくれないなんて――湖武丸にはずいぶんとハードルが高い。
人間に追われること、可愛いと黄色い声をあげられること、時と場合によるがイヤなことばかりではない。
ただ、こども相手にするように、いつまでも|猫じゃらし《もじゃもじゃ》を追いかけるものと思われるのは、いただけないんだ。
キジトラはゆっくりと話す。
大吾は、うんうんと相槌をうった。その隣で、袂から猫じゃらしを取り出した湖武丸。
「ここの猫が、どんなおもちゃを気に入るか分からないが……こういう一般的なものなら遊んでくれるだろうか」
「……まあ、おもちゃで釣られるのは、若い猫だね」
「こちらは?」
「もうおもちゃを追いかけるようなガキじゃねえってさ」
「そうか……――大吾がいるから、一匹くらい寄ってくれるだろう」
湖武丸は鬼だ。あまり猫に好かれた記憶はない――否、だいたいいつも逃げられる。目の前のキジトラが逃げないのは、隣に大吾がいてくれるからと思っている。
「遊んでもらえないなら大人しくおやつで誘うことをお勧めするよ」
「このおやつは最終手段だ」
ぱたぱた、ぱたぱた、ぶんぶんぶんぶんぶん。じゃらし慣れていない激しい動きの猫じゃらしの勢いについていけなかった猫が、草むらに隠れてしまった。
「おやつはいいぞ。老若男女関係なしだ」
「だって、動物が食い物に惹かれるのは当たり前だろう? なんか、不服」
「……そうかい」
不服とふてる湖武丸は、それでも逃げてしまった猫を追うことはしない。去る者を追うと余計に嫌われるだろうし、新たな出会いに期待する方が、建設的だ。
なんとか猫じゃらしで遊べないかと試行錯誤。
(「そもそも逃げられるんじゃあどっちも難しいけれど……」)
ふむ、と鼻を鳴らして、大吾はキジトラの欠伸を見ていた。
おやつの香りで誘い出すというのが、今の所スマートな近づき方ではないかなあ――と思案を巡らせた。
「なあ、」
「なんだい?」
「大吾は猫と話せたりするんだろう?」
「そうだね、あたしの母国語みたいなもんだからね」
「翻訳してくれ、要望とかさ。ヒントくれないか」
「よぉし、一肌脱いでやろうじゃあないか」
◇
「やあ、気持ちのいい日向だね」
「おいおい、あのおおきなニンゲンはあんたのツレか?」
「そうだよ、あちらのお兄さん、大きいんだが悪い子じゃあないよ」
「へえ……? 大きいだけ?」
「そうさ、大きいだけ。そのお兄さんが猫とコミュニケーションを取りたがっているんだ、どうだろう、なにか要望があれば聞いてくれるって言ってるんでね」
「要望?」
「そうさ、食い物がほしいだとか、痒い所を掻けとか、マッサージしろとか――ああ、多分、なんでもしてくれるんじゃないかな」
「なんでも!! あのニンゲン、ふとっぱらだな!」
「……猫の要望くらい、お兄さんにかかればちょちょいのちょいさ」
多分。
◇
大吾と猫のトークがなされているらしい。内容は全く分からないが、猫の雰囲気から刺々しさがなくなっていくではないか。どんな言葉を交わしたのだろう。興味津々で見学させてもらっていたが、大吾と話をしていたハチワレが近寄ってくる。
ゆっくりと。やや警戒をするような気配だが、距離を取られていた先の様子とはまったく違う。
じりじりと。その後ろを誇らしげな大吾がついてきていた。
「にゃ」
「……お」
地に座り込んだ湖武丸の正面に座り込んで、湖武丸を窺うようにゆっくりと、香箱座りになった。
「…………えっと?」
「やっこさん、お兄さんに撫でてもらいたいんだと」
「撫でる……? 遊ぶではなく?」
こくっと頷いた大吾は、促すように鼻先を突き出した。ためしに撫でてみろ――言外な催促だ。
おずっと指先を伸ばせば、ハチワレは真っ黒の目を閉じて、額にくる撫での感触を待って――額に触れた。瞬間、湖武丸の掌に額が押し付けられた。
あとは、ハチワレのやわい毛並みを堪能するだけだった。
嬉しそうにごろごろと喉を鳴らして、徐々にとけてくる。ふわふわの毛並みを堪能させてくれる小さな猫は、どんどん伸びてくる。
「ほお、うまいもんだ」
「……そうか?」
「しっかり伸びてるじゃあないか」
大吾が斡旋してくれた猫の要望には応えられているらしかった。顎下を擽るように撫でてやると、「にゃぁ」と甘えるような甲高い声で鳴いて。
ごろごろ、ごろごろ……うるさいくらいに、喉を鳴らして、愈々はらをみせるように反転した。
「もっと撫でろってさ」
「わかった」
このままの調子で、と湖武丸は優しく撫で続ける――でれでれにとろけているハチワレの、とんでもなく腑抜けで幸せそうな姿に、大吾はくつくつと喉の奥で笑った。
いざ、ねこねこぱらだいすへ!
暖かな春の陽だまりに、ねこだまり。ほっこりする光景は約束されたも同然!
楽しめそうだなぁ――ほくほくと灰色の双眼を細めて、紙袋をがさりと揺らしたのは、緇・カナト(hellhound・h02325)。そよぐ風に、亜麻色の毛先を揺らされた。
猫大好きな茶治・レモン(魔女代行・h00071)もカナトの隣で、わくわくそわそわ浮足立っている。派手に感情が表に出てこないけれど、猫好きとして、この機会を逃すなんてもったいないことはしない。
「僕、猫用のお菓子、いっぱい持ってきましたよ」
「猫大好きレモン君が準備万端~」
さすがレモン君ぬかりなし――そう褒めるカナトの言葉に、ほんの少しだけ頬を緩ませた。
「カナトさんはご用意できました?」
「オレは猫じゃらしみたいなのと~、お手入れ用の魔法のブラシならあるよぅ」
「念のため、まぐろジャーキーをお渡ししておきますね」
「わぁ、まぐろジャーキーおいしそう」
「……カナトさんは食べちゃダメですよ? 猫用ですからね」
「ん~……ネコ用かぁ……」
こんなに美味しそうなのに、猫用だなんて――なんて惜しい。
「……とりあえず、猫探しに行こ~」
「おー!」
◇
好奇心の塊さん、ムスッとおすましさんも、人慣れしているベッタリさんも、我関せずのマイペースさんも――いろんな子がいて、みんな可愛い。
地に座れば、下草を掻き分けて、興味津々に集まってくる猫たちは、小さな鼻をひくひくさせている。
なるほど、レモンの用意したおやつの香りに誘われてきたようで、口々に、|にゃぁ~ん《おやつほしい》とせっついているみたく聞こえる。
「美味しいご飯はあちらの白い子の方へ~」
「よしよし、おいでー、ささみチップスですよ~」
ささみチップスをふりふり。檸檬色の双つの目がとらえたのは、うにゃあと甘える猫と、カナトが取り出した猫じゃらしを仕留めようと飛び掛かった元気な子だった。
好奇心旺盛で、溌剌とヒットアンドアウェイを繰り返す三毛猫が、みたび跳んできた!
「うああ……持っていかれたよぅ」
ネズミみたいな人形がついているから、狩猟本能に火をつけてしまったのかもしれない。
けれど、まだ猫じゃらしはある! リボンがくくりつけられているものだ。魅惑の動きをするリボンにテンション爆上げのブチ猫がいて、まんまるになった黒い目が実に可愛い。
必死に追いかけて追いかけて、疲れたら少しグルーミング――そんなブチ猫のお手伝いを買って出る。
ちゃきっと構えたのは、ラバーコーム!
「グルーミング屋さんでも開いておこうかなぁ」
さっそくのおきゃくさんは、ブチ猫。驚かせないよう、優しく撫でるようにブラシを使った。
「わ~、すごい毛の抜ける猫~……」
コームがあっという間に抜け毛でびっしりになる。冬毛が残っていたのか疑いたくなるくらいの量に、カナトは素直に驚いた。
そんなグルーミング屋は口コミで順番待ちが出来る――カナトの背にすりっとすり寄って催促を始めていた。
「見て下さいカナトさん、美味しそうに食べてます!」
ささみチップスを喜んで、おかわりを要求している。レモンがひらいたご飯屋さんもまた大盛況。美味しいおやつは老若男女問わず大人気だ。
「ふふふ、可愛いですね――いっぱい食べてまぁるくおなり」
ひとりじめさせないように気を配りながら、レモンはたくさん食べる猫たちの様子を観察する。
ささみチップスの売れ行きは好調。もっとよこせ――なんて言葉が聞こえてくる鳴き声の子たちを甘やかした。くれと言われる限りおやつを渡して、ガツガツ食べる。うにゃうにゃと食べながら、なにやらを話している姿が可愛い。
カナトにお裾分けしたまぐろジャーキーも、にぼしも――ねこそぎ奪われないように、しっかり袋を握り締める。
がんばっている白猫みたいなレモンも、なんだか微笑ましく映るようで、カナトは小さく頷く。
「ところで、ささみチップスは食べても良いヤツ?」
「カナトさんは、食べちゃ、ダメです!」
「……そっか~……こんなに美味しそうなのにね~……」
せっかくだから、カナト用のおやつも用意して来ればよかった。そうすれば、気兼ねなく猫たちとおやつタイムと洒落込めたのに。
せっせとブラシをして、もっふもっふの毛皮の手入れの手伝いをしているから、カナトは役得。猫たちの小さい額も、ぴこぴこの耳も、もこもこの胸も、ゴロゴロならされる喉も――ブラシがあれば、触らせてくれる。
うっとりと目を閉じて、なすがままの黒猫がいて――彼は、どーんと寝転がって、腹を向けていた。
彼の黒い眸がレモンを見ている。ゆっくり閉じられていく瞼、レモンにも聞こえてくる黒猫の喉のゴロゴロ。
「でれっでれだ…!」
「とろけちゃったね」
「にぼし、お食べよ」
そっと鼻先ににぼしを差し出しせば、ひくひくと鼻が動いて、あぐっと食いついた。
ブラシをされながら、おやつを食べさせてもらって、至れり尽くせりの黒猫だった。
ここまでしたのだ。白いヒゲがリラックスしきって垂れているから、無茶な刺激さえしなければ――
「そろそろ、撫でても許されるでしょうか……――」
驚かせないようにゆっくりと、不意打ちをすると嫌われるかもしれないから、今から触るよとアピールしながら、レモンは手を伸ばした。
「しつれいしま、あっ痛」
べしっと猫パンチで手を叩き落とされた。
ううなぁぁ……――今の今までデレデレにとろけていた黒い尻尾が地面をぺしぺし叩いている。
「えぇ……怒った顔も可愛い……!」
とどのつまり、猫はなにをしていても可愛い。
可愛いけれど、触らせてもらえないのは悔しい。
可愛いからこそ、撫でたい!
もっふもふもやわい腹に顔を埋めて、もふ成分を摂取したい!
「僕は諦めません! カナトさん、あっちのねこだまりに行きましょう!」
「ん。次は撫でたり吸えるとイイよねぇ」
グルーミング屋さんの隣でひらくご飯屋さんは、新天地でも盛況だった。
ぽかぽかの陽だまりが、新緑を鮮やかに煌かせて、そよっと風が流れた。
穏やかな昼下がりは、時の流れを緩やかにしているようだ。しかし、この小さな公園が決戦の舞台――七人の期待が寄せられる、魅惑の公園。
「来たね……!」
花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)の声は、興奮に上擦っているが、それ以上に落ち着けという自己暗示がかかっている。
自分のクセを見事に把握し、同じ轍は踏まないという覚悟だ――猫の可愛さに騒ぎすぎて、近づきすぎて逃げられてしまう――そんな悲しいことがあった。それが、まほろさんとネコさんの若くも苦い思い出。
だからこそ、との思いで踏みとどまっている。
まほろのグリーンの双眼には、すでに猫耳の先が映っているのだから。
「ネコ!」
そんなまほろの視線に気づくアンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)も、息を飲む。
「にゃ~ん! ってかわいい気紛れな生き物だよね。あたしも好きなんだ」
「はいっ、猫さんってとっても可愛いですよね」
「気分屋なところも可愛くて……あと私……おててが好きです」
セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)の放った推しポイントは、猫好きを唸らせ、深い同意を得ることになる。月夜見・洸惺(|北極星《Navigatoria》・h00065)も、こくこくと頷いた。
猫は可愛い。これは覆らない。耳の先の絶妙な柔らかさと、人語がなくとも雄弁なヒゲも、尻尾も――およそ猫を構成するすべてが可愛い。
なかでも、まるっとして、ほわっとやわい毛で覆われた、器用な|前足《おてて》の魅力は悶絶もので。
とても語り尽くせない愛しさが詰まっている。
「私は、可愛いなと思いつつ、あまり触れ合ったことはないな……」
「私もです。見かける度に可愛いなぁって思ってはいたんですが」
結・惟人(桜竜・h06870)とヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)だ。興味はあるが、近づく機会がなかった。せっかくのチャンスが目の前にある。今日はめいっぱい猫と交流したい! いや、交流する! 遊んでもらうのだ。
「僕から触ったことは無かったかもしれない……微睡んでる姿はよく見かけるけど」
詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)の薄桃の眸が公園のベンチの上に跳び乗った猫を見つめる。
「イサもか」
「ん?」
「皆も猫が好きなようだから、接し方を学ばせてもらおう」
「そうだね」
近寄ったらすぐに逃げてしまうし、もしかして嫌われてる?――なんて思わないでもない。
その解消法が判る日になる。
「今日は少しでもお近づきになりたい…!」
きゅっと拳を握ったヴァロも、そっと意気込んだ。
そんな三人の前に広げられたのは、洸惺が準備してきた玩具の数々。
「全力で遊ぼうと思って、たくさん持ってきちゃった!」
ペンライト、猫じゃらし、紙袋も! 猫じゃらしもたくさんの種類があって、より取り見取りだ。
全力で一緒に遊びたいとたくさん持ってきた!
「ご自由に使って下さいっ」
「玩具がたくさん……すごいですね」
「準備万端だ……すごい……!」
公園のそこここにいる猫たちへのみんなの思いを聞いて相槌を打っていたアンジュは、豊富な玩具に瞠目。
セレネも鮮やかな青瞳を丸めて、玩具が入っている袋を覗き込んだ。
「わぁ……こういうのが猫さんお好きなんですね……鈴が入ってます?」
「ボールが好きなのは犬だけじゃないんです」
ひょいとひとつ取り出したヴァロの手の中のボールが、ちりんと音を立てた。
「へぇ……すごいね洸惺。それが猫が好む玩具なのかな」
「猫にも好き嫌いがあるので、遊んでくれるか分かりません……でも、いっぱいあるので、どれか気に入ってくれるかも!」
「……僕もなにか用意して来ればよかったか」
選択肢が多ければ多いほどいいのではあれば、玩具はたくさんあるに越したことはない――しかし、まるごしでも猫はお構いなしだ。
がさがさと袋が鳴るだけで興味を示す子だっているのだから。
「ひとつお借りしても?」
「勿論です。ヴァロさんもぜひ猫さんと遊んでみて下さい」
「ありがとうございます!」
エノコログサみたいな形の猫じゃらしをひとつ借りて、ためしに揺らしてみて、ふわりと沸き立つ期待に頬が緩んだ。
いざ、ねこねこ交流会!
◇
「こんにちは」
コナラの木の下で、セレネたちの様子を見ていたサバトラがいる。アンバーブラウンの猫目でじっと観察されていた。その澄ましたような様子は、セレネの興味を刺激する。
おやつのジュレを指先にのせて、
「おやつはいかがですか? とてもおいしいと噂のものです」
仲良くなれたら触らせてくれるだろうか。仲良くなれますように、気に入ってくれますように。猫好きのする香りのおやつに、セレナが一目惚れしたサバトラの鼻が動く。ヒゲが興味あり気にそわりと動いた。
驚かせないように、警戒を強めないように、ゆっくりと近づいて、手を差し出して――その魅惑的な香りに抗いきれなかったサバトラが、おやつを舐めとった。
「ふふっ、舌がざりざりします」
一度舐めてしまえば、高が外れたようにおやつに夢中になってしまった。指を動かしてみても追いかけてくるから、このまま誘導していくと、セレネの膝にのってくれるかもしれない。
期待はそのままにおやつの追加を指先にもう一度のせた。
おやつ作戦が功を奏しているセレネに続けと、大好きなでぶねこさんを探していたまほろは、お目当てのまんまる猫を発見した。
子猫を自分の尻尾で遊ばせているキジトラだ。
「理想的なねこさん!」
「んな~」
いけない、大きな声を出してはいけない! 落ち着いて、落ち着いて。ゆっくりと懐柔するように、まずは指先を差し出してご挨拶。敵意がないことをわかってもらう。じりじりと、焦りは禁物!
まほろは、その子にロックオン。なんとしても、仲良くなると決めた。
「あたしは、あのあっちの黒猫が気になるんだ。優雅な子」
「黒猫か、綺麗だな」
つやつやの毛並みで座っている姿はスマートに伸びていて気品すら感じられる。余裕のある座り姿だった。
「惟人も気になる子は見つかったかな?」
「……私はあの目つき悪い子が気になる」
下草に半分以上隠れるように惟人を見ているような、気にしていないような、なかなか堂に入ったキジトラ猫がいて、惟人はその風格に惹かれた。
堂に入っていようが相手は猫だ。怯えさせないようにさり気なく近寄っていく。視線も合わさず、無関心を装ってじりっじりっと近寄っていく。
「そそ、ちょっとずつネコさんのデレを待つ……」
惟人の様子にうんうんと頷いて、まほろ。ねこさんのことを考えているからこその行動だ。
距離を詰めて嫌がられなかったら、今度は短い時間、目を合わせてみて――先刻、洸惺から有難く拝借した玩具の力も借りてみる。十分に猫の気を惟人に惹きつけて。
「惟人くん、距離感の詰め方なかなかニャイスだね」
「ニャイスか? ニャンコミュニケーション……上手く出来てるといいのだが」
「おお……これがニャンコミュニケーション!」
このうえないぴったりな表現に、まほろはもう一度「ニャイス!」と(猫たちが驚かないように)拍手した。
「上手く出来てると思いますっ! ニャンコミュニケーション…!」
触れ合い始めて、じわじわと仲が良くなり始める猫たちの溶け具合に、洸惺も嬉しくなってくる。
「結さん、ニャイスなニャンコミュニケーションです」
セレネもぱちんと手を打ち鳴らして、感心した。
「セレネちゃんのおやつ作戦も、洸惺君のおもちゃ作戦もいい感じ!」
この調子でみんながお気に入りの猫と遊べればなにも言うことはない。
「ニャンコミュニケーション……惟人は面白いことを言うね」
言い得て妙で、イサもその表現に異論はない。まさにその通り。
「まほろの猫は、随分と恰幅が良いね……餅みたいだ」
首元を撫でて撫でてデレデレにさせて――まんまるなおなかをまほろに見せつけるように、でろーんとひっくり返った。
「おなか……!」
「わ、すごい……!」
「すごく触り心地良さそう」
「では失礼して……! えへへ、たるたる~!」
(「たるたる?」)
これまた独特な表現に、イサは一瞬首を傾げたが、まほろの喜びようと猫のとろけ方に野暮なことかと頬を緩ませた。
「まほろさんはマッサージの達人なんですね」
褒められてまんざらでもなく、一番大好きなおなかを堪能できて大満足のまほろだった。
「よし……あたしも……まほろみたいに慎重に……慎重に……」
まほろのように、惟人のように慎重にアンジュも近寄っていく。
じりじりと。距離を詰めて。
「あまり見つめすぎたらダメだよね」
どうやって仲良くなろうかな。セレネのようにおやつでつってみるのもアリ。それとも、洸惺のようにおもちゃで釣ってみるか。
「猫じゃらしがお好み?」
「うにゃ」
「お返事…!」
小さく返ってきた声に、じーんと感動。野良がみせる可愛い反応だった。ちょっとだけ――手を差し出してみようかな、優雅な子と仲良くなれるかな……――アンジュはピンクの髪を耳にかけて、決心。掌を見せて、嫌がらないようにゆっくりと、撫でた。
黒猫との距離を着実に縮めているアンジュの背中を見ていたイサは、なるほどなるほどと頷いた。
「……セレネ、おやつ、分けてもらってもいい?」
「残っているので良ければ……気になった子はいましたか?」
「ん……あの小さい白い猫。気品があるけどすばしっこそうなんだ」
「子猫ですね! 頑張ってください…!」
イサの示した猫はちいさくても、つんと澄ました大人びた猫だった。セレネから激励とともに子猫でも食べやすい、ウェットタイプのおやつをもらって、礼を言った。
「ヴァロも、おやつあげてみます?」
「いいんですか! ありがとうございます!」
差し出してもらったおやつをもらって、意中の子猫に一口あげることを目下の目標に決める。惟人に倣って、みんなの様子も見ながら、ふれあいのお勉強スタート!
ヴァロは、まほろがロックオンしたぽちゃねこの尻尾で遊んでいたサバトラの子猫が気になって気になって。ヴァロの毛色と似ているから親近感がわいてしまっていた。
洸惺から借りた猫じゃらしを振って予行練習。
「猫じゃらし…なるものは、こう使う感じでしょうか……?」
「使い方は多分そんな感じだと思う、ヴァロ」
ふりふりっと子猫に気づいてもらえるように振ってみて――はっとこちらを向いた子猫の目が大きく見開かれた。
「…っ!」
「興味持ってくれてるかも」
惟人も気になってヴァロを応援する。
子猫の様子の変化に驚きながらも、猫じゃらしを動かせば、だだっと駆けて跳んでくる!
「わっ! 跳びついてきてくれました!」
ふわふわに抱き着いて噛みついて、棒をけりけり。
猫じゃらしに夢中になっている子猫に手を伸ばして、背中を撫でてみた。
「ふわっ、ちっちゃくて壊れちゃいそうです……ふふっ、可愛い……!」
背を撫でられて、ヴァロを振り返った子猫は、「にゃーっ」と甲高い声で鳴いて――けりけりをやめて、ヴァロの手に額を擦り寄せてきた。こどもならではの、弱々しくもろそうな感触にどきりとした。
「ヴァロちゃんたち、きょうだいみたいだね? かわいい!」
ヴァロにじゃれついているサバトラは、嬉しそうにもう一度「にゃーっ」と鳴いた。まるでまほろの言葉を理解しているようなタイミングで――それが偶然だとしても、子猫のいじらしさにときめきを隠せなかった。
「セレネさんのおやつ、僕も頂いていいでしょうか?」
やんちゃな茶トラは、洸惺の巧みな玩具攻撃によって大興奮。
びっくりさせないように様子を見ながら、茶トラが気に入りそうな玩具を次々と試し、一番くいつきのよかった、ねずみが釣られている猫じゃらしと紙袋で距離を縮め――ついにはすっかり洸惺に気を許した彼は、もっと遊べと紙袋の中(さきほどから出たり入ったりを繰り返していた)から洸惺を狙っている。
快諾したセレネに礼をひとつ、洸惺は落ち着かせようと分けてもらったジャーキーを見せた。瞬間、また別の色になった茶トラの顔に、つられて笑ってしまった。感情がストレートに伝わってくる。
「すぐにはなくなりませんよ、出てきて下さ、わっ」
紙袋を破く勢いで跳び出してきて、ジャーキーを持つ洸惺の手を抱えるように――逃げないように押さえつけて、ジャーキーに夢中になった。
「花牟礼さんの撫でてる子も可愛いですね、ぽっちゃりさんも良いなあ……」
「でぶねこさんからしか得られないたるたるだよ!」
「たるたる……新たな魅力だな。そう、セレネの言う、猫の手も良いよな」
「そうでしょう? ちょこちょこっとした動きが可愛いんです」
「あ、セレネは猫の手に触れた? ぷにぷにだった?」
「触らせてもらいました……! 肉球のぷにぷにも……おててのもふもふも……!」
言いながら、膝の上にいる猫の手をむにむにと堪能するセレネだ。よかったよかった――幸せそうにとけている。
「イサはどう? 仲良くなれそう?」
「ああ……もう少し近寄ってきてくれるといいんだけど――でも、ずいぶんと仲良くなれた」
「その子、可愛いね、おくゆかしくって――っ! みた!? イサ、お辞儀してくれたよ!」
「ああ、本当だ……!」
「イサさんと白猫さん、良い感じですねっ!」
洸惺が喜ぶから、イサも嬉しくなった。
「アンジュさんと黒猫さんは、もう仲良しさんですね」
「いくら撫でても許してくれそうよ。ヴァロも触ってみる?」
「はいっ」
ゴロゴロと喉を鳴らしている黒猫の背を優しく撫でれば、子猫のやわさとは違う、やわいだけでないしなやかさにヴァロは心を弾ませた。
「こうしてみると、イサくんとアンジュちゃんは黒白ネコさんで、優雅さがそっくりで、双子みたいだね」
「ちょうど大きさも同じくらいだし?」
まほろの気づきに、アンジュはヴァロに撫でてもらってご満悦な黒猫と、イサとの距離をはかっている白猫を見比べた。
◇
ヴァロの膝の上から転げて遊んでいるのは、サバトラの子猫。
洸惺と玩具で遊んでいるのは、元気でやんちゃな茶トラの男の子。
惟人は風格ある目つきのキジトラの頭を撫でながら、手のキュートさに気づき。
セレネの膝でお腹いっぱいになったスマートなサバトラは、喉を鳴らしてすっかりリラックスモード。
黒猫を撫で骨抜きにしているアンジュだったが、お互いにデレデレになっていた。
たるたるでぷにぷになお腹に夢中になっているまほろと、撫でてもらえて満足気なぽちゃぽちゃなキジトラ。
そして、じりじりと距離をつめて、穏やかに笑むイサと白猫は、マイペースに仲良くなっていった。
「みなさん仲良しで、なんだかほっこりします」
「そうだね、まほろもなんだかほっこり!」
まほろとヴァロは、互いに笑んで、仲良くなった猫とのふれあいタイムに戻った。
みーんな――デレデレ。
心ゆくまで、撫でて撫でられて、遊んで遊ばれて――心地よく緩やかに流れた。
時は少しだけ遡る――それは、√能力者たちが動き始める前――まだ学校の授業中な時間帯。
偶然は偶然を呼んで、なぜか古い住宅街へと迷い込んだ女がひとり。
まさか、ツーリングを楽しんで(いささか楽しみ過ぎた感はある)いて、こんな素晴らしい公園を見つけてしまうとは!
小娘時代の根古・音々子(街の快速者・h04429)なら、「にゃおーん😻」なんて、またたびを与えられた猫のようにデレデレにとろけて狂喜乱舞してしまっているところであった。
しかし音々子はすでにクールなオトナの女。
人目も憚らずはしゃいだいりはしない――人目がありそうな地区ではないが、いつなんどき住人が通るか分からないから、やはりはしゃぐことはしない。
だが、あの朽ちかけのベンチの上で丸くなって寝ている灰猫のもふもふぐあいは、バイクの上からでも十分にわかる。
あの猫は絶対にやわっこい。それに、バイクの音がしているのに逃げないという豪胆さ。
絶対にもふれる――音々子の勘が言っている。
見つけてしまったし、スルーしていくのも気が引けるというもの。それに、ツーリングには適度な休憩が必要不可欠だ。
「仕方ありませんね。事故を起こすわけにもいきませんし、やっぱりスルーするのもナンですから、五分……いえ、十分だけ遊びましょー」
大義名分は十分。ヘルメットはサイドミラーにかぶせた。エンジンを止めたヴァスティ号から離れた音々子は、常時携帯しているマイ猫じゃらしを取り出す。じゃらす準備は万端――公園に足を踏み入れた瞬間、音々子の猫じゃらし目掛けて飛び掛かってくる猫!
「!」
まずはあの灰猫をもふらせてもらってからと思ったのだが、まさか襲撃されるとは。危うく猫じゃらしを奪われてしまいそうな勢いに、さしもの音々子も驚いた。
手始めに、駆け抜けていった今の一等元気な白猫にロックオン!
音々子愛用の猫じゃらしの真価が発揮されるときがきた!
「ほーら、にゃにゃにゃにゃーん!」
激しく猫じゃらしを振り回して、猫を挑発。目がまんまるになって、狩猟モードに入った白猫が、我慢できずに飛び掛かってきた。
「にゃにゃにゃー!! にょあー!」
|自称《﹅﹅》クールなオトナの女の上げる奇声があがる。かかってきた猫じゃらしを奪われないように、ぶんぶん振り回して躱す!
ううにゃ! にゃ! にゃ!
凄まじくて素晴らしい素早さの攻撃をひらひら躱して躱して――その動きは、まさに怒涛のねこじゃらし。
「あ?」
魅惑の動き――本能を掻き立て、ハンターの血を目覚めさせて、別の子猫が勢い余って音々子の手に激突した。細い爪が立てられて、長袖に食い込む。肌まで到達することはなかったから痛みは感じないが、しっかりと仕留めようと、力が込めらているのを感じる。
音々子にじゃらされたい子が増えた。白黒の子猫がぱやぱやの毛が、春の陽に照らされて、きらきらっと輝いている。子猫は音々子を見上げ、思い出したように手首を蹴って逃げ出した。草の影に隠れたつもりになって、音々子を観察し、今に奔ってきそうな気配を発露させている。
さすがにひとつの猫じゃらしを取り合わせることはできない。
ならば、お見せしよう。
これこそ、常時携帯しているサブ猫じゃらしだ!
チリリンと小さな鈴を鳴らした。
「二刀流でお相手します!」
「にゃー!」
甲高い声で鳴いた子が、大騒ぎしながら音々子の操る猫じゃらしへ走ってきた。
「そーれ、にゃにゃにゃにゃにゃにゃーん!」
音々子の興奮は冷めない。左右の手に持った猫じゃらしをぶんぶん振って、クールなおねえさんの奇声は、この上なく楽しそうに弾んだ。
しかし楽しい時間は有限だ。ピリリリリ――携帯電話のアラーム音がタイムリミットを告げる。
この天国には、時間を忘れて居続けることができる。いくら気ままなツーリングの最中とはいえ、さすがにここで油を売り続けるわけにもいくまい。それに、ここに入る前に、「十分だけ」と決めたから。
「ふぅー。手名残惜しいけど、クールに去りましょー……っ、」
常時携帯の猫じゃらしを懐に納めて、スマートに立ち上がる。
野良猫との触れ合いは、引き際が肝心なのだ。未練がましくしてはいけない。出会いは突然、別れは潔く。音々子はクールに愛車を振り返って、悲鳴を上げかけた。
まさか――まさか、バイクのシートでお昼寝を始めている子がいるなんて思いもしないではないか! お昼寝している猫ちゃんは、音々子が最初に見つけた丸くなっていたもふもふの、あの灰猫ではないか。
さすがに、気持ちよさそうに眠る猫ちゃんを追い払って出発するのは気がひける――というか、そんな非道なことはできない。
バイクに乗ることができない以上、ここにいるしかない。
「しょうがないですね。十分……いえ、十五分だけ延長しまーす」
しょうがないのだ。こればかりは仕方がない。帰れないのだから。無駄に時間を潰すくらいなら、有意義に過ごした方がいい。時は金なり。猫の気分もころころ変わる。ゴキゲンな猫ちゃんがたくさんいるうちに――納めたばかりの猫じゃらしをもう一度取り出して、両手に構え、俊敏に動き回る猫ちゃんたちの元へと戻る。
しゅばばっ! と猫じゃらしを振れば、ぱやぱやの毛の子猫が走ってきて、音々子の目の前で腹を出してひっくり返った。
通りすがりの一般人の悲鳴が上がったとか、それは奇声だったとか――およそクールなオトナとは思えない、歓喜に満ちた悶絶級の声をあげた。
木内・愛――新一年生のささやかな大冒険は、終わりを迎えた。
愛が気にかけた子猫と一緒に、猫の能力者に連れられて、公園を離れていく。彼女らを見守るように――愛の通学路まで戻って、彼女がもう戻ってくることのないようにしっかりと見送る。
祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は、少女を放っておけなかった。
(「……放っておけるわけない」)
子猫が愛を|おうち《﹅﹅﹅》に連れていくような、不審な動きを見せるようならば、護らなければならない。そのときはきちんと寄り添ってあげられるように。愛の家――祖母の待つ家まで帰してやりたい。
ラムネは施設で育ち、あの子らの兄であったからなおのこと。無邪気な弟妹を思い出させる。助けられるのなら絶対に助けたいとも思うラムネの心は決まっている。
これ以上の被害者を増やしたくはないのだ。
愛と子猫の仲を邪魔しないように、それでも何が起きてもしっかりと護れるように、気を張り続けた。
心配していた子猫は元気な様子で愛の通学路を歩いているのだろう――愛の足取りはとても軽く、よく知った道という心の余裕のようなものが、全身から漏れているようだ。
「あ! おばあちゃん!」
普段より帰宅時間が遅くなったから、心配して迎えに出てきたのだろう。祖母と再会したところで、子猫は驚いて走り去った――怪異に繋がるような子猫との縁が切れた。しっかりと祖母と手を繋いで、興奮しながら猫とのひと時の話をしている愛の様子に、ラムネは微笑む。
祖母と手を繋ぐ愛の心配は、もう必要ないだろう。
最後まで細やかなフォローをいれ、愛の背を見送ったラムネは、踵を返した。
◇
もう一度公園へと戻ってきた。
相も変わらずぽかぽかで、穏やかな公園だ。
この公園には、思うよりはるかに多くの猫が住み着いている。
ラムネは、猫だけではなく犬の魅力も知っている。犬の無邪気な従順さも可愛くて好きだが、気まぐれな猫も好きだ。
コナラの木の根元の猫は毛繕いの最中、その木の上にいるのは、ラムネを見ているようで見ていない子がいた。
(「……それにしても、本当に猫がたくさんいるな」)
いたるところから感じられる猫の気配は、ラムネの頬を緩ませる。猫同士でじゃれ合っている子たちも、グルーミングされて気持ちよさげに目を閉じている子もいた。
そんな猫たちの中でも、ラムネの青い眸を惹きつけた一匹が居た。
朽ちかけたベンチの下にいる子猫と不意に目が合ったのだ。怯えているのか、それともただ警戒しているだけなのか――それだけではなく、何か迷っているような気配すら感じ取れた。
「こんにちは」
ラムネはベンチから少し離れた地に座り込んで、子猫に声をかけた。優しい声は風にのって、子猫に届く。それでもじっとして、ラムネの様子を窺っている。
「怖がらなくても、なにもしない。大丈夫だよ」
急に動くことはせず、ゆっくり動く。
「にゃぁ」
小さな声だ。辛うじて聞こえるくらいの声を聞き逃すことはしない。
この子猫を怯えさせないように、ラムネの声音は一層に優しくなる。
しゅわりと爽やかな青い眸を細めて、微笑む――穏やかに話しかけながら、子猫がベンチ下から出てくるのを待った。
「少し眩しいけど、こっちにおいで。ぽかぽかで暖かいよ」
ちっちっと舌を打って、音を弾けさせる。小さな音で気を引きつつも、やわい声で誘った。
おいで。
おいで。
こっちへおいで。
一緒に遊ぼう、今すぐ撫でてあげよう、なにか怖いのなら守ってあげるよ。
ぽつりぽつりと焦ることはせず、根気強く話しかける。
そうすれば、子猫は目を細めながら、うにゃぁっと小さく鳴いた。
「きみの名前はなんだい?」
返事はないかわりに、子猫はベンチ下から出てくる。日に照らされた子猫は、また幼い声で「にゃぁ」と鳴いた。
ラムネに甘えるような――そんな声だった。
「やあ、はじめまして」
差し出した手に、鼻先が触れて、ご挨拶。ラムネの優しさを感じ取ったらしい子猫は、再三「にゃぁあ」とおしゃべりをした。
ラムネの指に顎をすりつけながら、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめたではないか。
小さな頭を優しく撫でれば、子猫は綺麗な琥珀色の目を閉じた。ラムネの撫でる力加減が絶妙なのだろう。うっとりと目を閉じたまま、うにゃうにゃと口の中でなにかを伝えようとしていた。
じりっじりっ。徐々に近づいてくる子猫は、愈々ラムネの腿に足をかけた。喉のゴロゴロは止まらない――脚をふみふみされて、まるで踏み心地を試しているようだった。
やりたいようにやらせた。すべてを受け入れていると、無遠慮によじ登られて、胡坐をかいたその真ん中に、子猫は落ち着く。足の隙間に入り込むようにして、またうっとりと目を閉じてしまった。
子猫を撫でて、指先にすべる毛並みを楽しむ。
そんな穏やかな時間をすごすふたりを、初夏の風がやさしく撫でて流れていった。
第2章 集団戦 『シュレディンガーのねこ』

猫が満足するまで撫でた。遊んだ。食べさせた。
多種多様な方法で、野良猫を懐柔させた――彼らの要望に応え続けた。
だからこそ、猫は能力者を誘い出す。
じっと見つめて、少し歩いて、こちらを振り返る。物言わない視線なのに雄弁に「来い」と語りかけてくる。
そして、決定的な「|こっちにきて《にゃあ》」――明確で、瞭乎たる呼び声だ。
先導する猫は、きちんとついて来ていることを確認しながら、歩いていく――少し遅れようものなら、「|こっちだよ《にゃあ》」と大きな声で呼ぶ。
迷わないように――迷わせないように――必ず連れていくという意志が強く現れていた。
この猫を追いかけていけば、|おうち《﹅﹅﹅》があるのだと直感するに易かった。
何度も角を折れ、壁と壁の間を抜けて、塀を飛び越えられたときは焦ったが猫は置き去りにすることはなかった。
追えるように姿を晒したままに、猫は「|おーい《にゃあ》」と強く呼び続けた。
連れて行かれる不思議な面白さを感じて抱えて。
そして現れたのは、小さな神社――古い鳥居を潜って、急な石段を上がっていく。猫の足取りは軽い。
この神社が|おうち《﹅﹅﹅》か。
階段を上がりきった先の、境内で、しゃがれた猫の鳴き声が響く。先まで聞いていた好意的な彩は消え、挑戦的で好戦的なたくさんの猫が――異形の猫が、姿を現す。
野良猫たちの愛嬌は欠片もない。それらにあるのは、貪欲な食欲に類する殺意。
「いいこ、いいこ、ちゃんとできたね……いいこ、いいこ」
黒い髪の巫女服の少女が賽銭箱の前で、異形の猫を撫でる。
「じょうず……じょうず、さあ、もうちょっと、がんばっておいで」
うにゃあ。
にゃあ。
鳴いて鳴いて、猫があらゆる影から出てくる。たくさんたくさん。猫は巫女の少女の言葉に応えるように、威嚇しながら――あるいは猫らしくない不気味な笑みを浮かべながら、剥き出した敵意を隠さず距離を詰めてくる。
「たくさん、あそんでもらって、おいで」
腰を下ろしたままの少女が、異形の猫どもを嗾ける。
ルナ・エクリプス(盤上の駒・h02474)を案内してきた白猫は、鳥居を潜った瞬間、凄まじいスピードで走り去ってしまった。止める間もなく、白い小さな背を見失う――しかし、ルナはその背を追うことはしなかった。
安全なところまで逃げていてくれることを願う。
神社は本来神聖な場所だ。
祀られる神は石段を登りきった先――本殿にいるのだろう。拝殿はない小さな社だ。
御前に置かれた賽銭箱の前に座っている巫女服姿の少女は、ルナが現れたことを気にも留めずに、奇妙な猫を撫でていた。
鈴緒は擦り切れているが、現役だ。本坪鈴は、どんな音を奏でるだろうか――ずいぶんと古く、埃をかぶって白くなっていた。
長い年月をかけて変質でもしてしまったのか、祟り神も神の内ということか……或いは、怪異にとり憑かれて変えさせられたのかもしれない。
低い唸り声で「にやあああ……」と鳴く異形の猫と、それを嗾けた少女を見遣って――その茫漠たる灰鼠色の目がじっとりとルナを見つめ返してくる――いかようにして、ルナを引きずり込もうかと画策しているかのようだ。
ひとつ、吐息。
「……良いでしょう、遊んであげますよ」
片翼のみの猫、枝分かれした尾の猫、そして、ヒトのように嘲り嗤う猫――そのほかにも、しっかりと殺意をもってじりじりと近寄ってくる異形どもの動向を|聴く《﹅﹅》。
元よりルナは盤上の駒。俯瞰で見られ、意志を反映してきた存在。
|誰《﹅》が|どう《﹅﹅》してほしいか――読み取ることは難くない。
「そう簡単に捕まる気はありませんけどね」
言えば、巫女服の少女の頬はピクリとわずかに動いた。俄かに空気が冷えた。
異形ども威嚇はだんだん激しさを増していった。その長い長い威嚇の音に混じる【シュレディンガーの鳴き声】の気配――禍々しい力が滲みだす。
ルナの耳はそれを聞き分ける。
序盤こそ、優位な位置取りは重要で、勝利へのカギとなるから――ルナの目に見えていた、触腕がドレスのようで美しい|クラゲ《インビジブル》と、【シフトチェンジ】。
「使わせていただいたからには、勝ちましょう」
刹那、両者の位置が入れ替わった。異形の認識がずれる。クラゲは雷の力をその身に纏ってルナがいた場所にいる。なのに、異形はそれをルナと思い込んだ――よかった、成功した。ルナは静かに微笑む。クラゲは雷の精霊だけでなく、ルナの幻影をも纏ったのだ。
静かに漂うカノジョは、猫の声を聞き続ける。
まだ力は放出されていない――異形がクラゲを見ている間に、《精霊銃》へと魔力を溜める。溢れさせ洗練させて充填する。愈々解放された激震を呼ぶ鳴き声――大きく口を開けた異形の頭蓋を撃ち抜いた。
潰れた声を上げて内包された力が霧散していく中、クラゲはまた見えない存在へと戻っていく――何事もなかったかのように、ドレスを翻した。
「うまくいきました」
斃れた仲間に驚いて、それらは死骸から慌てて離れ、混乱している異形たちが、一匹、また一匹と《精霊銃》に撃たれた。
猫好きって、猫と戦える?
月見亭・大吾(芒に月・h00912)の素朴な疑問は、声になることなく飲み込まれた。
金瞳に映る櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)は、敵を敵として割り切れそうな|表情《カオ》をしていたのだが。
「大吾、あれをどう思う?」
低い声音で問われて、|あれ《﹅﹅》を見遣る。
四つも五つもある紅い目を爛々と光らせて、長毛は触手のように伸びていた。その隣には、まんまるに光る目の、いやに黒いモヤのような猫が、「うなあああ……」と低く鳴いていた。
「どうって……」
「俺はめっちゃ可愛いと思う」
「ええ、あれいいの?」
百歩譲って、あの黒いモヤのような猫ならばわかる。あれはスタンダードな姿形をしている。いわゆる、猫らしいから。
「うーん……あたしはもっと淑やかな方が好きかな……華やかな子より落ち着けるようなのがタイプだよ」
最大限の言葉を選んで、大吾は異形の猫たちを貶めることなく、頷いた。
「うんうん、やっぱり猫の好みってあるよな」
それにも増して、湖武丸は首肯した。
猫と一口に言っても、多種多様だ。先の公園でも性格の異なる野良猫がたくさんいた。異形だといえど、多くの姿形があっても不思議ではなく――それも個性だ、と湖武丸。
「あれも猫だ、1匹で何倍もおいしいみたいな集合体してる」
「そうだなあ」
「だがしかし、唯一残念な所が1つある」
「お兄さんでもかい?」
「そう。あれが敵ってことだ」
威嚇は激しくて、牙を剥き、尻尾は膨れ上がっている。
賽銭箱の前に座ったままの巫女服の少女は、傾きかけた陽光に照らされた長い黒髪の奥から、小さな声で囁く。
「さあ、みんな……たくさん、あそんでもらって、おいで」
囁き声はか弱いが、その言葉に隠された真意は、ぞっとするくらいに悍ましい。
「……つまり、戦えってことか」
湖武丸は、ふんと鼻を鳴らす。猫と仲良くなれ――公園での指令の方が、実に難しかった。
野良猫と仲良くなるよりも、敵を成敗する方が、性に合っている。
いくら猫好きといえど、節操はある。《鬼々蒼々》の柄を握って、しゅらりと抜刀。したたる力は、聖性と禍性が混在していた。
俄かに襲い掛かってくるのは、あの少女の発破のせいか――判然としないが、【無限の猫爪】を迂闊にも見舞うわけにはいかない。繰り出される爪撃を弾いて、湖武丸は往なして躱す。
なんにしても数が多い。異形とはいえ猫の方から近寄ってくることが、ほんの少しだけ嬉しかったのは、内緒だ。
「数が多いな、しかたない。ちょっくらお手伝いしよう」
二股に割れた黒い尻尾を揺らして、【妖に火遊び】を教えるように、鬼火がぽわりぽわりと浮かび始める。
「こんな豆鉄砲でも少しは痛いさ。でも真価は豆鉄砲じゃなくてね」
妖の禍々しさが発露された豆鉄砲が、びしびしと異形の額にぶち当たって、地面にもめり込んで、瞬間――鬼火は一斉に燃え盛る。
「お兄さんは戦いが専門だろう。そら、力を分けてやろう」
盛る炎は異形を焼き締め、同時に湧き上がる禍々しき力は、湖武丸を鼓舞する。
「あたしのささやかな助力、持っていくといい」
その助力は余すことなく受け取った。沸き出でる活力を漲らせ、【|神散鬼暴《シンサンキボウ》】の間合いに入るものすべてを斬り伏せんと構える。
閃く斬撃は、淀みなく。繰り出される爪撃の手をも斬り落とした。
「ふぎゃあッ」
「シャーっ!」
耳を劈くような大音声の威嚇が異形から放たれて、戦闘は激化の一途をたどる。
「一撃で仕留めないといけないんだろう?」
「ああ、反撃の隙を与えず仕掛けるぞ」
猫たちに回復させないために一刀のうちに仕留めないといけないのだ。
湖武丸の|膂力《パワー》は衰えを知らない。金瞳は、冷静に戦況を見つめ続ける。追いついて攻撃を当てられる反射神経と速度が強化されることを願いつつ、鬼火に巻かれる猫から目を離さずにいた。
斃れる。伏せる。燃える、斬られる――容赦なく、牙を剥く猫たちの猛攻は止まらないけれど。
湖武丸は、手にした刀で鋭く素早く空を切って、血を払う。
「安心しろ、大吾の分まで働いてやる。さっきの猫と遊べた礼もあるならな!」
なんと義理堅い。大吾はからりと笑って見せた。
「そんな礼なんて張り切らなくていいのに」
「いいや、やる。俺の気が収まらない」
「うーん……そうかい? でもまぁ、もっと大物が出たときに張り切っておくれ」
それはそれで張り切るさ――振り抜いた刃は、猫の狂爪が生える手を斬り落とした。
猫を追いかけてくるなんて釈然としなかった。しかし、あの公園には、音々子がいたような気がしてならない。猫丸堂の|配達《シゴト》が近くであったのか、こんな生活圏でもないところで――いやまさか。音々子のにおいがあったと思ったが……空耳ならぬ空鼻かな?
居候先のにおいだから鼻にくっついていたのかもしれない。
「まあ、どうでもいいや」
今は音々子に構っている場合ではない。目の前にいる敵に集中しないといけない。
猫に負けたとあっては犬の名折れ! ましてやイヌマル・イヌマル
(|地獄の番犬《ケルベロス》・h03500)は、泣く子も黙り恐れ戦く、凛々しくも猛々しく素晴らしくイケてるスーパーバセットハウンドだ。
この垂れた長い耳は、市井の人々の悲鳴を聞きつけるためだけのものにあらず!
「必殺の耳ビンタで一掃してやるー! くらえーい!」
首をぶんぶん振り回し、なにやら近寄ってくる異形の猫の、鋭そうな爪のひっかき攻撃から身を護る。
攻撃は最大の防御だ。ぶんぶん振られる耳がぺちぺちと異形の猫を打った。ぺちぺちの暴力は凄まじく、猫の「ふにゃっ」と潰れたような悲鳴が、そこかしこであがる。
|可愛い《かっこいい》の旋風は衝撃波の様相を呈して、あらゆる猫たちをぺちぺちした。
「どう? ちっちゃな三角耳しか持ってない君らには出来ない芸当でしょ?」
勝ち誇ったイヌマルは、ふふんと鼻を鳴らす。これぞペンダントイヤーの真骨頂(?)――まちの平和を脅かすようなわるいものから、みんなを守るためには必要なことだ。
「うなぁぁあああ……!」
「ふざけるにゃ? 僕はこれっぽちもふざけてないよ!」
犬牙格闘術02式の破壊力によろよろしている異形の猫は、イヌマルへ負け惜しみを放つ。
猫のクセに負け犬みたい――火に油を注ぐようなことは言わないでおく。四つもある紅い目を怒らせて、歪に裂けた口蓋から低く長い【シュレディンガーの鳴き声】が放たれた。
鳴き声がイヌマルを震撼させる――これを避けるはケルベロスとしての矜持が許さない!
避ける術はあえて捨ててきた。ないわけではない、あえて避けないのだ。受けて立つ――ヒーローたるもの、敵の理不尽をも抱えてやる懐の深さも大事だ。
「ふん。言っておくけど、僕には震動なんて効かないぞぞぞぞぞ……ううええ……」
ぐらんぐらん揺らされて、せっかくの長い足を畳んで伏せる。
「……ううう、すっごい揺れる……立っていられないいい……」
地面が揺れているのか、イヌマルが揺れているのか、それとも世界が揺れているのかわからなくなってくる。目が回るような錯覚――これではいけない!
この震動を相殺する。
イヌマルはすっくと立ちあがって、体をぶるぶるっと震わせた。
「うーん、あまり意味なかったかももももも……」
ぐわんぐわんと揺れがひどくなって、もう一度地面に伏せた。
「揺れがおさまったら、もう一度耳ビンタをお見舞いしてやる! だから鳴くの、やーめーてー!」
きもちわるーい。
自慢のセイバーテイルもへにゃりと垂れた。
「ふぅ、やっとおいついた……」
その声は凜乎として響く。
ざああ……と雨が降り出したような錯覚。雨深・希海(星繋ぐ剣・h00017)の呟きだった。
言うや否や、希海は【レイン】を展開する。キラキラと傾いた陽光を照らして光る雨粒の砲口が、一斉に異形の猫たちへと向いて――瞬間、幾条もの光線が発射された。
中空に浮かぶ砲台ならば、猫の鳴き声の影響もなかろう――希海の見立てだが、果たして、この異形の猫の声ではレインを止めることはできなかったらしい。
そして、ふたたび一直線に伸びる光条が猫を穿った。
「君達が呼んだんだよね?」
この小さな神社に。ホンモノの猫をエサにして。ここがねこのおうち、ねこの集会所――そういった類のものだとして、そうしてひとをおびき寄せ、どうするつもりなのか。
もし、件の失踪事件の現場がここなら――簒奪者が関わっていたのなら、巻き込まれたひとは――考えても答えは出ない。
ふつりと心は沸いた。
希海は、いくつかのレイン砲台を操作して、《アンブレラ》を広げた。
光束の盾は苦し紛れに近寄ってきた片翼の猫の爪撃を弾き飛ばす。
この多くの猫を相手にするのは骨が折れるから――気を逸らして、一時的に相手にしなければならない数を減らす――キラキラと、チカチカと、魅惑のタイミングで明滅する光が現れて、それを追わせるよう、猫としての本能を掻き立てさせた。
先程、こうして野良猫たちと遊んだのだ。
「猫はかわいいけど、君達はちょっと……ごめんね」
ひとに害を成すのなら、希海は黙っていることはできない。【シュレディンガーの鳴き声】は止まない。ぐらぐらと不安定に揺れ続けていようとも、立っていられないほどの震動であっても、希海が合わせた照準は乱れない。
レーザーで穿ってしまうのは、少しだけ可哀そうだけれど――希海は、鮮やかな青の眸を僅かに曇らせる。
「でも、まぁ……しかたないよね」
猫だとしても、生殺与奪の権を持とうとする簒奪者である以上は。
どさっと崩れ落ちる異形の猫の姿に、希海はそっと目を伏せた。
灰猫の案内は、淀みなく――しかし、鳥居を潜った瞬間に境内を突っ切って、境界線代わりの木々の向こうへ走り去った。
あっという間の出来事だ。
灰猫の代わりと言わんばかりの猫が斯波・紫遠(くゆる・h03007)を出迎える――そうか、そうか――小さく首肯し、金瞳を細めた。
|遊び足りない猫《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》が、まだこんなにいるとは思いもしなかった。
「ここが、君たちの|おうち《﹅﹅﹅》なのかい?」
小さな神社だ。本坪鈴の下にいるのは、巫女服の少女。異形の猫が懐く存在。
「あそんで もらって おいで……」
舌足らずな囁きに、異形の猫の様々な色の目が紫遠に向けられた。なんとも熱烈な歓迎ぶりに、苦笑を禁じえない。殺意を剥き出しにしたまま異形は、じりじりと紫遠へと近づいてくる。
「珍しい経験だよ……少し、わくわくするね」
紫遠に憑く狗神の力のお陰か、動物には嫌われる質らしく、異形と言えど猫の方から近寄ってきたり、ましてや囲まれることなんて、滅多とない。
嬉しいやら、楽しいやら、うんざりするやら、わずかな怒りもあって――胸はざわついた。
|あそんで《﹅﹅﹅﹅》おいで――これは、あの少女が明確に出した、異形たちへの襲撃合図だ。じりじりと、ゆっくりと、紫遠を包囲するように、数の優位を最大に活かして、近づいてくる。
「せっかくだから|あそんで《﹅﹅﹅﹅》もらおうかな」
燻る煙のレーザーが紫遠の背後へと移動していく異形の行く先を遮る。不機嫌そうな低い唸り声をあげて、紫遠の背後へ回るのを諦めた。《煙雨》は細くたなびいて、牽制を続ける。
「うなあああ……! にゃあああ……!!」
息の長い、口々に発せられる【シュレディンガーの鳴き声】が、紫遠を震撼させる。ぐらぐらと揺らされて気分は最悪だが、こんなもので怯むわけがない。
異形とはいえ、猫は猫――動くものに興味をひかれる性質は変えられないだろう。紫遠自身、激しい揺れに耐えながら、動いて見せて注目させる。紫遠に釣られ続けるように《煙霞》も駆使して、散開していた異形の猫がだんだんと集まってくる。
「……コレが噂のねこあつめってやつ?」
少し笑って、《煙雨》から、煙る。幾条にもたなびく紫煙が群がる異形の猫へ、その真価を発揮する。
穿って、穿って、穿って。
まさに一網打尽だった。
「今までいろんな人に遊んでもらってきたんでしょ?」
頻発した失踪事件の、最後がここで、今のように行われていたのなら――表沙汰になった以上の事件が起こっていると仮定すると。
ぞっとしない。
「でもその遊びが|おいた《﹅﹅﹅》だったのはバレてるよ」
冷静に言葉を紡ぐ。くゆる紫煙が禍々しく揺らめいた。
「さて、飼い主の代わりに躾の時間だ」
異形の猫どもを嗾けて、泰然と――否、茫乎としている少女へと、紫遠は鋭い視線を投げた。
本日の出会いは、とてもいいものだった。
ちいさなねこだまりで、グルーミングをし続けた緇・カナト(hellhound・h02325)と、小腹を満たし続けた茶治・レモン(魔女代行・h00071)だ。
ふたりを気に入った野良猫が、しっぽを目印のように立てて、歩き出したのだ。振り返って、「にゃあ」と鳴く。
爽やかなレモンイエローの双眸をきらめかせて、カナトを見上げてくる。
「これって、僕と猫は相思相愛なのでは?」
「そうだね~」
「これはもう、実家へのご挨拶と言っても過言ではないのでは…!?」
「う~ん?」
「……手土産はちくわで許されると思います?」
「それはいいと思う~」
すごく上機嫌に興奮しているレモンだった。
可愛く和ませてくれた癒し系な野良猫たちとの交流は満喫してきたばかり。
そろそろ、かわいいにゃんこにうつつを抜かしていてる場合ではない。
振り返って、カナトとレモンの姿を確認して、またもや「にゃあ」と鳴いて――野良猫の案内は、終わった。
小さな神社――古い鳥居を潜って、いかにもな石階段をあがっていく。
「……神隠しにでも遭わせたいのかなぁ?」
「猫に隠されるなら、神隠しではなく猫隠しでしょうか」
「それなら、なにも問題にならないかもなのにね」
いよいよ、野良としての野生を隠しきれなくなったように、唐突に馴れ合う気のなくなった野良猫がレモンの「行かないで、ちゃんとご両親に挨拶を……!」なんて、冗談めかした言葉もあって。
境内に入る――そこは、すでに異様な空間だった。野生の感覚が鋭ければ鋭いほどに、「離れよう」と思うだろう。
「可愛い猫が居ない……!?」
異形の猫がひしめいていた。
骸骨のような猫、大きく口蓋が裂けてヒトのように笑う猫、蝙蝠を連想させる羽を生やす猫……多岐にわたる見事な異形っぷりに、カナトは二度三度と小さく頷いた。
「いそうにないかも……」
「待って下さい、探せば1匹くらいいるかも」
血の気の多い連中というのは、どこの集団にも紛れ込む。血気盛んな紅い目を複数もつ猫が歪に捏ねられたような口で、低い威嚇音を上げ続ける。
「居そうにないです、諦めましょう」
こんなに敵意のないカナトとレモンだというのに、手あたり次第にキレるような猫とは遊べない――諦めは肝心だ。見目と中身は別とはいえ、第一印象はすごく大事だ。レモンにもカナトにも好意的な猫はいない!
結論付けてからは、早かった。
「……――昏い月夜に御用心、」
口の中で唱えるように、千疋に至る狼の群れを喚ぶ。
「わる~いネコには、ワル~いオオカミさん達が遊んであげようじゃあないか」
カナトの言下、 オクリオオカミが影の中から這い出して来る。
いまにも飛び掛かりそうな影の獣の群れだったが、異形の猫を睨みつけ牽制し、カナトの命令を待つ。
「――いいこ。さあ……お仕事も普通に頑張ろうか~」
それが合図となる。挑発的で好戦的な猫へと血塗られた爪牙による狩りを命じられるがままに、異形の猫へと襲い掛かった。
かたや影狼の群れ、かたやクリーチャーの様相の猫――
「……もふもふ対決…! 、には……ならない、残念……」
どちらかといえば、鳥獣戯画感が強い…!
黒い天鵞絨を思わせる長い毛並みの地這い獣が、カナトの足元でもさもさしている。
「お前は、戦い向きじゃあないだろう? 残念ステイの~」
多い脚も口も、長い黒毛に覆われて見えないが、勢いよく振られる何本もの尻尾は素直だった。
賽銭箱前に座る巫女服を着ている少女が、異形の猫を。
カナトがオオカミを。
ならば、レモンもなにかを――唐突に思いついて、パチンと手を打った。
「っ! では、僕はこのマンドレイクを」
禍々しき異形の戦いの中に投じられたのは、二足歩行の人参――!
「そーれっ、遊んでおいで! 発射!」
すぽぽぽっ、なんて音が出そうな勢いで|人参《マンドレイク》が投じられた。
「猫と犬と人参と……なんででしょう、不思議な世界になりましたね」
「わあ……ほんとう……」
とはいえ、異形は鳴いて、爪撃を繰り返す。
激震を齎す唸り声に、ふわっと奇妙な浮遊感を覚えはしたが、それ以上はなにもない。
「鳴くだけで震動を与えてくるなんて、元気いっぱいだなぁ」
影狼が討ち切れなかった異形が、よろりと立ち上がる――それを見逃してやるカナトではなかった。
《Blitz》が雷鳴が如き轟音で、最期を言い渡す。隙ない追撃に、異形は今度こそ斃れた。
二足歩行の人参は、うろうろと迷いながら異形の方へと突き進む。そんな人参を無視し、まんまるな目を爛々と光らせ、レモンへと突撃してくる異形がいた。
知ってか知らずか――人参が立ちはだかって、異形の邪魔をした。瞬間、異形が爪を突き立てる!
「ああ!」
猫に引っかかれることはご褒美だ。隙を見せた瞬間に、猫パンチとともに、シュッと引っかかれてしまうなんて、最高だ。だが、決定的に違う。今回ばかりは喜べない!
「僕はあなた方を猫とは認めないので、お断りします!」
その言葉を待っていたかのように人参たちの勢いが増して、異形の猫を包んでしまった。
猫と犬の人参と。
混沌とした世界を眺めながら、レモンはカナトの足元にいる地這いの楽々をもふもふした。
「……このちくわ、どうしましょう?」
可愛い猫のために用意した、ちくわだというのに食べてもらう機会に恵まれなかった。
「カナトさん、楽々さん、食べますか?」
「お土産ちくわだけど――食べていいのかい?」
食べてほしかった可愛い猫がいなかったから。
「もらう〜」
「わふっ」
ちくわを一本ずつもらって、不思議と禍々しさが混在するカオスを見つめながら、もっもっと練り物の弾力とお魚の香りを楽しんだ。
|おうち《﹅﹅﹅》への招待券をもぎとった。
公園でのひと時の幸せは、嘘ではなかった――なのに――この裏切り。
可愛がった後に戦う、というのは非常に複雑な気持ちになる。暗雲が犇めくような急転に心はざわめくのは、結・惟人(桜竜・h06870)だけではなかった。
「にゃんと! 悪いネコさんだったの~!?」
案内をしてもらって神社までやってきた花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は手酷い裏切りを受けた。
たくさん可愛がって、喜んでもらえたと思ったのに。
たくさんたくさんおやつも食べたでしょう?――それなのに。
華麗なる掌返しは、猫たらしめる気まぐれな一面であるかもしれない――とはいえ、だ。
埃を被った本坪鈴はがらんとも鳴らない。賽銭箱は悄然としてそこにあって、雨風に晒されて傷んでいるが崩れそうにない。その前に蹲っているのは、巫女服を着た黒髪の少女――まほろたちをここまで連れてきた猫たちは、あっという間に四散した。否、鳥居を潜った瞬間、スイッチが切り替わったように様子が一変した。
神木、境界、防風……いろいろな理由を内包した木々の向こうへと走り去っていって、次に姿を現したときには、異形だった――変容する瞬間を見せたくなかったのか、それとも全く異なる個体なのか、そもそも子猫たちは、実在したのか――詮無い疑問は巡る。
しかし|真実《﹅﹅》を解明している場合ではない。事実、異形の猫は、明確な殺意を噴き上げ、威嚇の唸り声をあげているのだから。
「わわっ、これが本当の猫かぶり……!?」
「よもやまさかだね。きみ、なかなか愉快じゃないか」
月夜見・洸惺(|北極星《Navigatoria》・h00065)は夜闇が溶ける双眸をまるくして、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)の清廉な笑声を聞く。
それを掻き消すような、唸声が響く。
「本家猫さんの猫かぶりは、一枚も二枚も上手ですね」
「そうだね、洸惺」
たった今、狡猾な手口を体感してきた。猫の可愛さを最大級の武器にして、猫好きや、猫を心配するお人好しを誘い出して――。
その現場が今まさに、目の前で繰り広げられた。ヒトの気持ちを弄ぶ悪の所業だ。
「ネコさんが可愛いからって、まほろは手加減しないよ」
我慢が美徳であるシーンは往々にしてあるだろう。だがそれは今ではない。イヤはイヤを伝える、ノーは明確に、怒りは素直にまっすぐと誠実に伝える。それが、まほろの動物たちとの向き合い方だ。
変に取り繕えば、粗が出る。些事に敏感な動物と真に打ち解けることは難しくなるから。駆け引きは必要ないのだ。
実直に向き合うからこそ、受けた裏切りは悲しさが倍増する――それを凌駕して余りある正義感が、を静かに怒らせる。
「人に害なすならば、倒さなくてはいけない」
「そうですね……」
ヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)が、頷いて《Revonrunot》を胸に抱いた。
「このまま見過ごしたら、他の猫さんたちも利用されたりするかもですし」
先の変容がどうあれ、公園にいた猫たちは純粋に日向ぼっこを楽しみ、道行く人の癒しになり、また猫たちはおやつをもらったり餌をもらったりと、大変に充実しているように、ヴァロの目に映っていた。たとえ野良猫であろうが、ささやかな日常であろうが、幸せになる権利は必ずある。
「私も手加減はしない」
もちろんだ。野良猫は野良猫、異形は異形なのだから。
「悪い子なら懲らしめないと!」
「ん、お仕置きしなきゃいけないかな」
言ったイサに、洸惺は「はいっ、イサさん!」と、はきっとした返事をして、
「お仕置きといきましょう」
洸惺は蹄をカツンと鳴らして、異形の猫たちの前に立ちはだかる。
彼の一歩に合わせて、ふう……と唯人は息を吐く。
「まほろ、ヴァロ、一緒に頑張ろう」
「はい! 私も微力ながら頑張ります!」
可愛い一辺倒のねことの触れ合いは終わったから――ここからは、人助けのお時間だ。
◇
「たくさん あそんでもらって くるんだよ……」
「いいこ、いいこ、おまえたちは、いいこ……」
「おまえたちは だれよりもかわいいからね……たくさん たくさん あそんでもらって、おいで」
ぼそぼそと不明瞭に籠った声だったが、巫女服の少女は、異形の猫を嗾ける。猫は気まぐれなはずなのに――その気まぐれさが可愛いのに――従順に少女の言葉通りに、尾を膨らませ、背を丸め、全身を使って威嚇する。
◇
夜闇と溶かしたような天馬は、異形たちの前にさらに進み出る。【|曐導《ホシシルベ》】は、|生命《いのち》を安寧へと導く。銀河の輝きに満ちた霊気の聖性が、玲瓏な空気を齎す。
【シュレディンガーの鳴き声】が長く長くがなるように続いていたが、それをものともせず、凄まじい勢いのままに驀地に突進した。ふぎゃあッという猫の悲鳴があがって、一気に注目を集める。
「僕がお相手します」
こうして異形の気を引きつけ、イサらが自由に動けることができるのならば。敵の攻撃を一手に担うくらい造作もない。
洸惺の作り上げる隙を無駄にはできない。彼が体を張って生み出したチャンスを、イサが潰すわけにはいかない。前線に立って鳴き声によって揺すられる震動に耐えつつ、動けないほどの揺れを感じてしまう前に、ちょこちょこ動きながら――ひゅあっと翼が空を切る。逃れるだけではなく、移動の瞬間すら無駄にすることなく、漆黒の翼はすれ違いざまの異形を薙ぎ払った。
「戦いやすくしてくれありがとう、頼もしいよ」
「こっちこそですよ、イサさん!」
一斉発射される光条がまるで弾幕となって、異形の進行を妨げるのだ。それこそ、異形どもが口をあけたところに、光束し、異形の一部を焼き焦がす。イサによる後方からの一手は心強いのだから、洸惺は素直に声を張った。
溟海からの力が発露する――海鳴りの侵蝕がじわりと始まって、吹かれる潮風が異形の間を流れていく。
「沈めてやるよ」
【鳴海ノ蝕】の弾丸が激しく射出された。
(「死ぬのか死なぬのか――試してみよう――回復してしまうなら、一撃で仕留めておかないと」)
◇
「よ~し、おいで動物さん!」
洸惺が異形の猫の前に立ち塞がったその時、まほろもまた護霊のみなを喚び出していた。まほろが数えきれないほどの動物さんがいて、その一部が来てくれていた。
みなが攻撃しやすいように、牽制や挑発を担う。
「ネコさん、こっちだよ~! 長い尻尾の動物さん、しゅっしゅって誘ってみせて!」
まほろの指示を聞いて、動物たちが異形の猫たちの意識を逸らす。長い尻尾を、ぶんぶんっと振って。
ヴァロは、深く息を吐いて、修直を高めていく。十全に練られた魔力が盾と収斂して、みなの――まほろの動物さんたちも含めて――ヴァロの加護が付与されてから、戦闘を始めようと走り出す惟人に加勢する。
まほろが喚んだ動物たちが異形を抑え込んだ瞬間――
「惟人くん、ヴァロちゃん、今だよ~!」
「はい! 猫さんだろうと怯みませんっ! おいたしちゃ駄目です!」
語気を強めて、盾を作りながら並行して魔力を溜めていたヴァロは、全力でそれを解放する。
ぴこっと狐耳を立てて、魔力を立ち昇らせた。
「お願い、みんな……力を貸してください……!」
言って、霊的存在がヴァロの力を得て、オーロラがふわあっと広がって――日が傾きかけた空だというのに、ゆらゆらと天蓋を垂らした。
鋭く息を吐いた惟人のが花月の舞いを踏むように、凄まじい連撃が始まる。
「流石猫、早いな……っ」
ヒトのように、にたりと嗤う異形が、素早く跳ねながら、惟人を翻弄するが、段々と感覚が研ぎ澄まされていく。今度は命懸けの遊びをしている気分になってしまう。
爪撃が掠めて、フシャーッと鋭い威嚇の音を出した異形を見据える。
「だが、私は負けないぞ――ついてこれるか?」
一撃でもしっかり当てれば、異形の動きを少しは抑えられるだろう――惟人にはその自信があった。
掠るだけではない、強くヒットさせる――前線で抑える。
「ヴァロが魔法をかけてくれたから、安心して戦える」
惟人の言に、狐耳がぴっと立つ。
「私が合わせます!」
まほろが動物さんたちに細かく指示して、異形の群れを押さえつけていた。
オーロラの加護はみなの状況に合わせて、その意味を変えた。
◇
【猫は死ぬのか死なぬのか】――その結果は、やはりすぐに効果はあらわれなかったが、一度発動されてしまえば、生きている限りは傷が塞がってしまった。
「やっぱり、一撃で仕留めないと、かな」
異形が鳴く――片方だけの蝙蝠のような翼をなんとか駆使して飛んでくる。
イサは《dea.THETIS-ABYSS》を素早く振るって、切断していく――薙ぎ払って、致命傷を与える。
降り注ぐテティスの加護は、仲間に降り注ぐ。洸惺は八本の脚で大地を蹴って、肉薄しそのまま容赦ない突進。
吹っ飛んでいった異形の猫は、巫女服の少女の足元へと帰って、うち消えていった。
ヴァロの極光の優しさが、まほろの動物さんたちが、海の女神の加護が――五人を包んで、戦況はもはや覆りようはなかった。
「ホントの猫が可哀想だろ?」
紅い目が何個もついた目玉のひとつを睨め返し、ローズクウォーツのような双眼を眇めて、
「お前みたいなのと間違えられたりしたらさ」
「ええ。本物の猫さんに失礼ですからっ」
洸惺の返事の後に、もふっとした感触が頭の上に乗った。驚いてみたけど、まほろの喚んだ護霊だと気づく。
そして、オーロラがじんわりと輝いた。
「おふたりはどかーんと思いっきりやっちゃってください!」
多様な姿の異形が、束になってかかってくる――地面は揺れ、ひとも揺れて、爪撃は乱れ打たれる――それを裂いて、ヴァロの声が奔った。
明確な同意が声になることはなかったが、その誰もが「どかーん」とやってしまう一手一手が猫たちを追い詰めていく。
そのなかで、やはり護霊たちの可愛さが際立った。
「まほろさんの動物さんたち、可愛い……」
「ああ、確かに、可愛いな……」
愛嬌のある尻尾がぴこぴこっと動いて、異形がその動きを追いかけて。
動物さんたちがあまりにもふもふしているから、そわりと惟人の指先もうずいた。
「後で触っ……――」
「見入っちゃいそうになるけど、我慢、我慢です……!」
「私も我慢だ……」
「あれ? ……え? 触りたい?」
まほろはきょろきょろとヴァロと惟人を見比べて、花が咲いたように笑った。
「よーし、戦いが終わったらみんなと挨拶しようね、動物さん!」
もふもふさせてもらえるだろうか、それを楽しみにして、この混乱を収めるために――もう少し。
「さて……私達のお叱りは通じただろうか」
|木内《キウチ》・|愛《アイ》を送り届けた後、スイは一足先に帰宅した――予め、|そういうつもり《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》だったから、代わりに来た。
春待月・望(春待猫・h02801)は、銀の綺麗な双眼で望月・翼(希望の翼・h03077)を映して、「ああ、そうだ」思い出したと付け加える。
「たすくくんはさみしがりやでひとりだとないちゃうから――とのことだ」
「スイちゃんが怖い思いをせずに済むんだから、……というか、ひとりでも泣かないけどね?」
無事に望と合流できたことに、翼はほっとして微笑んだ。つられて、望の頬もほのかに緩む。
「まあ、猫からすれば翼の方がよっぽど|しんぱい《﹅﹅﹅﹅》らしい」
望は、望んだように姿を白猫へと変えて、翼の隣を歩いていく。猫の警戒を少しでも弱めることができれば――果たして、先を歩く野良猫は途中で案内を放り出すこともせずに歩き続ける。
その子を追いかけて、まるで順路を惑わせるような道案内の仕方にうんざりしながらも、翼と望は、小さな寂れた神社へと辿り着く。
清廉なはずの神社に、汚泥のような空気が垂れこめていた。重苦しい気配に、翼はスイを家に帰して正解だったと、胸を撫でおろす。
石段を上りきってしまった途端、野良猫は走り去っていった。
境内には、巫女服を着た少女が、奇妙な形の猫を撫でている。虚ろな眼差しだが、手つきはゆったりして優しい。
「あそんでもらうんだよ たっぷりね」
一度だけ野良猫を見失った――まるで注意を巫女服の少女へと|逸らされた《﹅﹅﹅﹅﹅》ようだった。少女の言は、優しいような強引なような、奇妙な語気の強さだった。
撫でられていたのは、異形の猫。その尾が、先刻公園で遊んだ子のそれに似ているような気もする。
「うなああ……っ」
低く轟くような威嚇に、攻撃的につり上がった――多くの紅い目が、翼と望を睨み据えていた。
「……スイちゃんはやっぱり、連れてこなくて正解だったね」
猫変身を解いて、ヒトの姿になった望は、乱れた銀髪を撫でつけながら、一歩、また一歩と近寄ってくる異形を睨め返して、鼻を鳴らした。
「なるほど、猫に戦わせたくないわけだ」
「あの子に怖い思いはさせたくないってのもあるけど……同じ猫同士だし、さっきまで遊んでた子達と戦うって辛いだろうなって思うから」
無邪気に仲良くなった野良猫と関係のある異形なのかは、定かではないが――それでも、どうしても、関連付けて考えてしまう。
眼前の異形が、さらに唸り声をあげれば、それを合図としたようにたくさんの異形の猫が沸いて出てきた。
その姿のどこかが、先の野良猫たちの特徴を持ち合わせているようで、翼は唇を引き結んだ。
大きく息を吸い、深く深く、息を吐き出す。
喚ぶ――もう一度息を吸って、護霊を喚ぶのだ。
「おい」
「…………なに?」
「ハァ……――つーか、翼もなに躊躇ってるんだよ。敵は敵だろ」
「いやあ……オレもちょっと辛いかなって……敵だから攻撃しなくちゃってのは……――痛い思いさせちゃうのはなってどうしても考えちゃうよ――でも、」
望の言う通りだ。躊躇えば必ず足元をすくわれる。流すことのなかった血を見ることになりかねない。わかっている。
「大丈夫、ちゃんと覚悟決めるよ」
心をこれ以上、傷めないように。
「さっきまで遊んでたからって一々情を移していたらキリがないだろうが」
「わかってるよ……わかってる……」
「お前後方な、連携とって対応するぞ」
言って望は、《破壊の炎》を《黒鬼》に纏わせた。積極攻勢に出て走り出す望の背を見送って、翼は、もう一度深呼吸をして、
「|珈琲色の獅子《カフェオ》、オレに力を貸して!」
翼の喚び声に応えて、咆哮――コーヒー色をしたライオンが、背に生やしたつばさを羽ばたかせ、ふわんっと中空を駆けた。
カフェオの咆哮を聞きつつ、望は《黒鬼》を振るった。猛然と荒れる炎が、異形の猫を包む。
破壊を齎す縛霊手が、猫を掴んだ瞬間、異形の【無限の猫爪】が抜け落ちる――爪が割れて砕けて、焼滅した。
確実に、一体ずつ、着実に斃す――ただ一人、前線に立ち、小柄な痩躯で異形からの攻撃をすべて受ける心づもりだ。
繰り出される猫爪が望の頬を裂く。びりっと痛みが走った。破壊の炎のあおりを受けて、崩壊しかけているその身が俄かに回復していってしまう――瞬間、頬の痛みも消えていく――翼の護霊だ。
|白の輝き《ミルキー・ライト》に照らされて、癒えた裂傷をひと撫でして、望は驀地に奔り出す。
向かってくる異形の爪撃を、研ぎ澄ました勘で一度二度と躱して、《黒鬼》を叩き込む!
異形の猫が、一体斃れ、もう一体も斃される。
望に並び立ったカフェオは、ばさっとつばさで空気を打った。
「カフェオ、望くんを守ってあげて!」
必要のないお節介だったかもしれないが、翼はそうせずにはいられなかった。
カフェオが望を追いかけていく。
「猫は――」
ひらっと異形の猫の異様に伸びる爪撃を躱して、落ち窪んだ眼窩は空だというのに、しっかりと望を見つめながら、かこっと顎が外れたように――嗤うように、凄まじい威嚇をしてくる。
「時に気まぐれに遊びながら対象殺すって聞いたことある」
躱して、【ルートブレイカー】のオーラを纏わせた拳を叩き込む。
ふぎゃっと声が潰れた。
「けど、生憎と一方的に遊ばれる気はない――……遊ぶなら対等に遊んでやるよ」
啖呵をきって、走る望を堅盾なオーラで守る。
大群の異形の猫に、攻撃の手は鈍った。それは確かだった。だが、しっかり切り離した。翼は、汚泥のような空気を感じながら、護霊へ指示を出す。
|黒の炎《ダークロースト・ファイア》は、雄々しく猛々しく燃え盛って、異形の猫を焼き焦がし。
その炎の煽りを切り裂いて、逆巻いて、望の《破壊の炎》がさらに温度を上げて、髑髏の猫は斃された。
心が痛まないわけではない。
悲鳴らしい断末魔を上げた。
そんなものを聞いてしまって、苦しくないなんて――ウソになるけれど。
「遊んでほしいなら、いくらでも遊んであげるよ――ただ、オレたち以外のひとを傷つけるなんて、許せない」
傾き始めた陽が影を長くさせる。神木か、境界か――社を隠すように植えられた木々が、春風に吹かれてざわめく。
「……さて、と……なるほど、ここが|おうち《﹅﹅﹅》、であるか」
公園で出会った野良猫たちが、仲良くなったと思えたヒトを連れてくるという、|神社《おうち》を見渡して、ゼグブレイド・ウェイバー(ポイズンサイエンティスト・h01409)はぽつりと漏らした。
賽銭箱に背中を預け、足元で少女に額をこすり付けている。
「………ふむ、なるほど、猫ではあるが猫ではない…一般人であればここで食い殺されておしまい、であろうが…あいにくこのまま食われてあげるほど優しくはないであるぞ」
「……へえ?」
少女の小さな声がして、それを遮るように、猫が「にゃあ」と甘えた声で鳴く。
撫でるのをやめるなとでも言いたげな異形の猫を見て、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は、唇を引き結んだ。
ここが、さっきの子猫の|おうち《﹅﹅﹅》だのだろう。あの子には、|安心できる場所《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》として、ここがある。
ここが例え、怪異が巣食う場所であったとしても――だ。ラムネの胸に込み上げてくるのは、僅かな羨望と、躊躇い。
親と呼べるひととはもう縁はない。施設で育ったラムネにとって、そこは、心底安心できる場所ではなかった。
職員は、親ではなかったし、入所している子供の味方というわけでもなかった。どこまでも赤の他人で、気を許すこともできなかった。
だからこそ――|帰る場所《﹅﹅﹅﹅》がある子猫の、自信に満ちた道案内にラムネは、そろりと息を吐くしかなった。
(「施設は、俺にとって、おうちじゃなかった――……けど、あの|猫《子》には、おうちがある……このまま、ここで……――違う、いけない、そうじゃない……」)
湧いてくる思考がぱちりと弾ける。
答えはすでに出ている。ここで躊躇うことはなにもないことも、否、躊躇ってはいけないこともわかっている。
護るべきものは、子猫の|おうち《﹅﹅﹅》ではない。子猫を守りたいから、眼前の諸悪から目を背けることは、言語道断。
(「俺が護らなくちゃならないもの、やらなくちゃいけないこと……ぜんぶ、履き違えちゃいけねえって、ちゃんとわかってるから」)
見定めて、決める。心をかためる。間違えてはいけない。これだけは、間違えてはいけない。
己の手に顕現させるのは、ラムネの魂の欠片――白焔の長槍。
「……あんまり、乱暴はしたくねえんだけど」
職分を放棄して、猫の幸せだけを考えてやることは、ラムネには難しい。
だからせめて、幸いへの架け橋を渡って逝けるように。
「みんな あそんでおいで いいこ、いいこ……」
ラムネの右手に纏うのは、異形の猫の力を奪う覚悟。
瞼を閉じて、心に引っかかる些事をすべてを露と払い――次に瞳を開いたときには、ちゃんと『決めた』色を宿して、【天が咲】いた。異形の猫たちの敵意を誘う蠱惑的な香りが漂う。異形の猫を宥めすかして、無効化して、その中でラムネに近寄らずに威嚇をしてくる猫が、激しく鳴く――長く長く、息の長い威嚇音。ぐらりと揺れを感じ、バランスを崩しかけて、それでも一歩、一歩と異形たちへと迫る。
振るい薙がれて、白い白い焔が舞い狂い、容赦なく異形の猫は焔に巻かれて悲鳴を上げる。
痛々しい姿、憐憫を誘う悲鳴――それがどうした。私情に振り回されるなんて以ての外だろう。こういうことのすべてを鮮やかに飲み込んだ。
「……俺は仕事で来ている」
ラムネはさらに踏み込んで、暗雲を斬り裂くように烈々と穿孔する。
異形の怒号は震動を巻き起こし、伸ばした右手がうねる力を消し去って――切迫した空間が、ラムネの意識を白熱させた。
ゼグブレイドが背負っているバックパックから無数の金属腕が現れたのは、そんなときだった。
現れた金属腕は、ガチンガチンとけたたましく音を立てながら、【機械腕の超高速連打】が始まる――これは、大量にいる異形の猫を怯ませた。これでゼグブレイドを攻撃しようとした異形の猫から、身を護ることができる。
加えて、懐から取り出したのは、試験管――数々の毒を調合しては、アンプル弾へと移し替えていく。
震動の余波が機械腕を刺激して、猫の元へ跳躍、その勢いのままに異形の猫を黙らせてしまう。
「装填完了! それじゃあ一発盛大にぶちかますとするであるか! お待たせしましたすごいやつ~! である~!」
いけない。夢中になりすぎた。ゼグブレイドが今作り上げた|毒《﹅》はすぐさま、懐から抜いた《変形式化学対応銃》へと装填――狙うは、異形の猫たちが重なる、危険なねこだまり。
発射から着弾までは、発砲の破裂音が消える間で終わっていた。着弾の瞬間に弾けたアンプルは爆発する。
「いくら異形のモノといえど……この毒が一番効くであろう?」
種明かしをするように、少しだけゼグブレイドの声は弾む。
「そうなるようにちゃんと調合したであるからな。もちろん吾輩達には毒が効くどころかアドレナリンが分泌され強化されるであるが……言葉がわからぬであろうし説明しても無駄であるかな」
敵には生命を脅かす毒となり、味方にはアドレナリンを分泌させる|毒《﹅》が立ち込めた。
異形の猫は斃れ、這う這うの体で、生死を彷徨いながらなんとか生きようともがいていた。
次弾を装填しながら、ゼグブレイドは異形の観察を止めなかった。
立ち昇る毒の霧が晴れるまで、境内には異形たちの混乱の鳴き声が響いた。不思議な|毒《﹅》は、集中力を増幅させる。視界がいやにクリアになった気さえする。
《アルカンシェル》の柄を握り直し、白焔に斬られた異形の猫を見据え、ラムネの澄んだ青の星眸は、虚然と瞬き茫然と黙り居然と黙する少女を一瞥した。
あの無感動さと、先刻の猫をあやす手つきの優しさの落差があまりに大きく、怪訝に思う――しかし、それに思考を占領されてしまうわけにもいかず、ラムネの意識は、牙を剥いて総身の毛を逆立てる異形の一挙手一投足へと研ぎ澄ました。
爪撃のカウンターの悉くを無効化して、シュレディンガーの猫たちを斃していく。そのなかの一匹――なぜか思い出された、公園で出会った猫の姿を、振るい払う。
「大丈夫…………――雨は、あがるさ」
第3章 ボス戦 『神隠し』

せっかく よんであげた のに
ねこ すきだって だから よんであげた のに
いっしょに ねことあそべるとおもった のに
いっしょに あそんで あたしとも いっしょに あそんで くれない の?
ぼそぼそと。
小さな声で語られるのは、ささやかな――それでいて、根深く、おどろおどろしい恨み言だった。
あたしの おうち に きてくれるんじゃない の?
あたしと あそんでくれるんじゃない の?
ねこ と あたし と あそぶんじゃない の?
悲しく紡がれる恨み言を吐く少女を慰めるように、虚空から|生える手《﹅﹅﹅﹅》が彼女の頭を撫でる。
愛し気に、慈しむように。
そうだね
そうだね――わかった うん うん……
いっしょに あそんで もらう
おうちに つれてって だって ねこが すきな ひと……だもん
虚空から生える手――『かみのて』の一本は少女を撫で続ける。それとは別に、もう一本がぬるりと生えてくる。能力者たちを挑発するような、睨めつけるような、邪悪的な指先が嘲り嗤う。
あたしと いっしょに
あたしと あそんで
いっしょに あそぼ
いっしょに おうちに いこ?
暮れ始めた境内。長くなり始める影を踏んで、雨深・希海(星繋ぐ剣・h00017)は左手に《ストームブリンガー》を構える。
「いっしょに あそぼ?」
「いいよ、遊んであげる」
希海の蒼い双眼は、そっと細められて、にんまりと笑った少女を見続ける。
「うれし そうしたら いっしょに いこう おうちに――」
「けどね、おうちには行けないよ」
少女の言葉を遮って、希海はぴしゃりと言い放つ。瞬間、少女を慰めるように、あやすように多くの手が彼女を撫で始めた。
「知らない人のおうちに行ったらダメってお母さんに教わったからね――……だから、ここで遊びは終わりにしよう」
希海の言葉――真意はどれほど届いただろう。
哀しみを色濃く映した濃鼠の双眼は、茫漠として希海を見返す。
「おうちには行けない。だから、ここで遊ぼう――ほら、かくれんぼしようか」
「おにごっこ じゃ だめ?」
「いいよ……――先におにごっこしよう。捕まえてごらん」
ぞろりと生白い腕が何本も生えてくる。何本も、何人分も――太い腕から、細い腕も、ちいさな手も。希海を捕縛しようと蠢き、【増殖】する。
多い――それでも、それがどういう増え方をしようが、いくら増えようとも、希海を攻撃しにくるタイミングを見逃さなければどうということはない。対処なら出来る。
増えた【かいな】が横薙ぎに振りかぶられる――その機、直感する。
(「来る……!」)
《ストームブリンガー》の射程に入る。その一度の跳躍、着地する間もなく【驟雨霧散】して、夕刻のオレンジを弾き、激しく煌く――驟雨が如き水刃が降り注ぐ。ごあっと空を裂いて奔り、かみのてを滅多刺しにする。凄まじい勢いを削ぐことが出来ずに押し戻されて――巫女服の少女は、哀しげに目を伏せた。
「ぼくを捕まえられなかったね。次はぼくの番――ほら、かくれんぼしよう……見つけられるかな」
ストームブリンガーを解く――プリズムの煌きが激しくなって、顕れるレイン砲台から発せられる細かいミストは光を乱反射し続け、希海を光の奥へと隠してしまう。
「まって まって どうして いなくなるの? まって? ねえ」
見失った希海を探すようにきょろきょろして、ぞろりぞろりと、かみのてが動き回る――増殖する手は、純粋に攻撃できる手数の増加だ――その中でも、純粋な殺意が跳ねあがる。無差別攻撃になるかもしれない蹂躙する手の力が強まらないように、希海は光学迷彩を過信せずにすぐに距離をとる。
「ねこ すき なのに? いっしょに あそべない の?」
「ぼくもねこは好きだよ。けどごめんね、ずっと一緒にはいられない」
「どうして……」
その答えを出してやってもいい。それで彼女が納得するとは到底思えなかった。
詮議をするつもりはなかった。些事と片づけるしかない。怪異に人道を説くほど、暇ではない。せっかく取った距離、アドバンテージを捨ててまですることではないから。
いま彼女の浮かべる哀しみが、本心から成す表情か――希海と遊べなかったことに対する哀しみか、それとも|おうち《﹅﹅﹅》へ連れ帰ることができなかったものか。
「それはそれとして――」
ルナ・エクリプス(盤上の駒・h02474)の落ち着き払った声音がして、巫女服の彼女は声の主を探すように――それでも体を動かすことはしないで、首だけを巡らせた。
じとっとした視線がルナを捕らえて、定まった。
「猫が嫌いとか好きとかではなく、これ以上、あなたのおうちへ連れて行かれる人を増やすわけにはゆきませんので」
ルナの赤瞳は、じっと少女の動向を観察する。小さな口の隙間から、そろりと嘆息。どのような理由があったところで、身勝手極まりないだろうに。ひとの子であれば、なにかしらの理由を慮ってやることができるかもしれないが、ルナの眼前に立つのは、怪異だ。同情の余地はなく、むしろ、憐憫を誘う今の姿ですら、己の欲望を満たすためだけのパフォーマンスかもしれないのだ。
だから、油断は一切してはいけない。
あくまで、ルナは駒としても目的を果たすつもりでいるだけだ。その凛然とした姿に、巫女服の少女は一歩|後退《あとじさ》って、背から生える手の動向を見続ける。
先刻、希海に攻撃していたときも、少女は何もしてこなかった。
攻守ともに期待された|駒《ネコ》は概ね退けた――異形の猫の喧しい声はいまだに境内に響いているように錯覚する。
あとはチェックメイトへの手を間違えず確実に打ち続けるのみ。緩めず、見誤らず。土壇場でひっくり返される危険はまだ内包したままだ。
(「……油断なくいきますよ」)
無数に生えるかみのての動きを俯瞰で見るように、まるで別視点から覗き見しているように、感覚が研ぎ澄まされる。その感覚は【最善手の選択】をただの一度も違えることはないという、とびきりの自信へと変じていく。
ルナに漲る膂力で、脚の回転が跳ねあがる――
「……丸見えですね、すべて見切れます」
迫りくる手刀や握り潰す気しかない掌の軌道を見つめ、跳んで跳ねて躱す。発露させた魔力がルナの足元で固まる――魔力の壁を|踏んで《﹅﹅﹅》、一直線に伸びてくる追撃を躱した。
抜いた《精霊銃》へと、ルナの純真な魔性を流し込む――精製されて、濃縮されて、純度を高めて、力はより一層収斂していく。
トリガーに指をかける。それを引けば、発射の合図となる。
溜め込んだ魔力は小さく雷花を爆ぜさせ、限界値を知らせて悲鳴(あるいは歓喜)を上げているようだ。
「チェックメイト、でしょうか?」
握られた撃鉄――放たれた雷電は、轟音を上げて少女へと落ちた。
どおおっ。
そんな凄まじい落雷に、月見亭・大吾(芒に月・h00912)の金瞳はまんまるに見開かれて――そのあとすぐに眇められた。少女を守るように、幾重もの手が彼女の頭の上で折り重なっていたのだ。
「あたしゃ、子供ってあんまり得意じゃないんだよね」
「へえ?」
「撫で方に遠慮がないからさ」
「ああ……なるほど。俺も甥や姪がいるが……まあ、確かに、大変だな」
櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)は頷いて、相槌を打つ。猫が子供を嫌う理由は多々あるだろう。その中には、予測できない動きをするから――というのがあるらしい。しかしそれでいくと、予測できそうにないのは、猫もまた同じなのではないか。
デレデレの猫はいるだろうが、それでも究極のきまぐれ猫は珍しくはない。
「もっと丁寧に、品よく撫でてくれりゃあ、マシってもんだけどね。何度毛繕いしてもぼさぼさになっちゃって」
「わかる、わかるぞ」
猫と湖武丸――そのどちらも同じような扱いになることはないかもしれないが、子供が遠慮している姿というのは、見ていて違和感しか生まれない。
無遠慮は実に子供らしいといえる。が、それはそれとして、そんなことは差っ引いても、大吾は、得意ではないのだ。
「で、如何に対策を?」
「子供の手が気にならないほど大きくなればいいと思ったわけだよ」
撫でられようが、突かれようが、虫の羽が掠めたくらい瑣末なことと感じられるように。ただ大吾の、ケロリとした言いざまに湖武丸の方が驚いた。
「大きく、なれるのか?」
「なれるとも。三十秒くらいならいける」
「なるほど、時間制か」
「時間制というより、体力次第ってところかな。お兄さん、三十秒で子供を斬れるかい」
「斬れるに決まっているだろう」
少しだけ肩を竦めて笑ってみせた湖武丸は、
「俺を誰だと思っている、悪鬼羅刹の一族だぞ」
「そりゃ頼もしい。鬼も味方になれば心強いね」
ゆらゆらを二又の尾を揺らして、大吾。
「……元だが?」
「頼もしいことに変わりゃあしないだろう」
くつくつ笑って、はっとした――あの少女が、じぃっと大吾を見ていたのだ。
「いいな おしゃべり たのしそう」
少女の声音がそろりと紡がれた。濃鼠の双眼が大吾を覗き込みやすいように、しゃがんだ。虚空から無数に生えてくる手が大吾を捕まえようと伸びてくる。捕らえられるとどうなるか、考えたくもない。
「脅かすだけじゃあ済まないよ――驚いてくれるなら、面白いけどね」
大吾の言下、その身がぞわりと波打つ――大吾の妖力の続くかぎりの大変身――艶やかな黒い獣へ――口の端から漏れ出る気炎が、彩を得る。鬼火は紫の輝きを宿したままに、虚空より襲い来るかみのてを焼き払う。吐き出された鋭い息は、大蛇のようにかみのてを飲み込んでいった。放っておく方が鬱陶しいというもの。
悪鬼の片鱗が垣間見える――仄青く発露し燻る《鬼気》が指の先にまで巡った。差した刀の柄に触れる。纏わせる破魔の力に、抜き放った刀身は妖しく輝く。襲い来るかみのてをいなし、悪鬼が如き膂力を発揮、瞬間、斬り落とす。力が無駄に流れてしまわないよう制しながら、返す刀で追いすがってくる拳を迎え斬る。横薙ぎに迫る手刀を捌き躱して、無尽に駆けた。大吾の鬼火の向こうに見えた掌も、その向こうからまだ生えてくる掌も、力任せに薙ぎ払う。
一閃一閃が大吾の前を明るくさせていく――そうして、漸く再びまみえることとなる。巫女服を着て、茫漠と揺蕩う濃鼠の双眼の少女だ。黒くて長い髪は、いずこかより出てくる手で撫でられて綺麗なものだった。
大吾の疾駆はしなやかに音もなく、弾かれたように繰り出されるのは、神速の猫パンチ!
遠慮は一切ない。鋭く研ぎ澄まされた爪を隠すこともせず、鈍重な一閃を見舞う。
「結局、これが一番早いんだよねえ」
いろいろとやってはみるけれど、この使い慣れた一撃が一等しっくりくる。
確かな衝撃が返ってきて、渾身の拳撃だというのに。
大吾の見目が、とても大きな|化猫《ねこ》であるがゆえ。
どうしたって、大きな大きな可愛い黒猫の、|猫パンチ《ごほうび》だ。あの一撃は、猫に傅く下僕垂涎の痛みのはず――それが、とても大きな――普通ならば遭遇しえない大きな猫からのパンチとくれば――
「中途半端にやる方がかわいそうってもんだろ?」
「それには賛成だ」
言って湖武丸は、柄を握る手から、無駄な力を抜いて、最大の膂力でもって振り抜けるように呼吸を整える――刹那、ごあっと風をも斬って、かみのては斬り伏せられた。まだ多くの手がふたりを叩き潰そうと迫り、殴り掛からんと伸びてくる。それを片っ端から湖武丸は斬り捨てた。
先刻は、大きなかみのてに護られた少女だったから、大吾はもう一度、此度の元凶へと向けてパンチを繰り出す!
「うわあっ!」
少女の悲鳴が上がって、猛然とかみのてが殴り掛かってくる――が、それを湖武丸は赦さなかった。攻守ともに展開する手を斬り伏せ、その先の少女へと刃を振り上げ――一瞬後には、一直線に振り下ろす!
手諸共両断し、少女の頬も裂けて、髪が一房落ちた。
そのとき、
「ああ~……もう限界さね」
ふにゃけた声になったのは、体が元の大きさへと戻っていく反動か、妖力を使い果たす直前まで頑張ったからか――せっかくのかわいいデカネコ大吾だったというのに、いつもの黒い猫又へと戻ってしまった。語弊がある。いつもの大吾が嫌なわけではなく、大きな大吾が珍しくて、もふぢからが何倍も増しているのだから、勿体ないと思ってしまっているだけだ。
「ああ、もう元の小さいのに……――」
「あたしが寝ちまったらどうするんだい」
「俺が連れて帰る」
「そうは問屋が卸さないよ。あたしだって、小さくたって逃げられはするからね」
「――そうか……もう少し、いや、もっと堪能したかった……」
仄青く燻る《鬼気》の勢いをやや鎮め、それでも油断なく、《鬼々蒼々》は構えられていた。
「どうして あそんでくれないの……――ねこ すきなひと やさしいのに」
斬られた頬からダラダラと血が流れているが、どうしたって痛そうだというのに、傷口を抉るように爪を突き立てている。
その痛々しい姿を、しっかりと観察して、斯波・紫遠(くゆる・h03007)はふんと鼻を鳴らした。
遊びたくて、寂しくて呼んでしまったか――神隠しが先なのか、猫が先なのか……詮無い問いとは思いながらも、思考はくるくると巡った。
「あそんでほしいだけ なのに おうち いっしょにいこ? いっしょに」
「無垢な願いだけど、これ以上お友達は呼べないよ」
「どうして? おうちにいこ おうちであそぼ ねこ たくさんいるよ? いっしょにあそぼ」
「そうか……でも、出来ないんだ。遊び相手は僕たちだ」
淋しげに伏せられた濃鼠色の眸が、紫遠の言った言葉を反芻するように何度も瞬かれた。
「猫をエサに、たくさんのひとを呼んだんだよね。招待したんだよね」
紫遠は静かに問う。その問いははっきりと理解できたようだ。嬉しげに何度も頷いた。
「そうか、だったら――お仕置きの時間だ」
「どうして……? どうしてどうしてどうして……」
激しく頬の傷を抉り始めて、それを虚空より生えるかみのてが止める。宥める。慰める。
甘やかした結果がこの事態だとでもいうのか。それとも、あの手の思い通りになるように、少女ですら操られているのか――とはいえ、紫遠は《|analysis《タブレット》》に搭載したアシスタントAIの《|Iris《アリス》》を呼んだ。
『なんでしょう?』
「あの【手】を何とかして近づくための道を作って欲しいな、お願い出来る?」
紫遠の囁きは一言一句違えることなく音声入力されて、アリスは否応にも認識せざるを得なかった。
アリスにとって、タブレットとリンクした《煙雨》を操作し、援護射撃することは容易い。なのに。合成音声が溜息をつくとは。
『まあっ、とても面倒くさい。ご自分でやってくださいな』
「まさか。僕のお願いなのに?」
『私には断る余地がありそうでしたが?』
「アリスさん、お願いね、頼んだよ」
優秀な|AI《ヒト》だが、なかなかに辛辣な物言いにドキリとする。それもまた面白くて。
実に優秀な相棒は、不承不承の口ぶり(おそらく態と)で、引き受けてくれた。
「さて……」
無性に煙草をふかしたい気分になる。紫遠は、己の身に狗神の怨念を降ろす――べったりと纏わりつくような宿怨に、怖気と諦念を覚えずにはいられない。怨讐の炎が轟々と盛る熱を内包して、もう|ひとり《﹅﹅﹅》の相棒に伝播する。
《無銘【香煙】》を抜刀する――走勢を上げ、虚空から生えてくる手を躱し、掴まれないように攪乱する。
あの大きな手に掴まれると厄介になることが目に見えていた。向かってくる掌へ刀を一閃させる――刹那、白炎をあげて、かみのては炎に呑まれた。
的が大きくて狙い易く助かる反面、数が多い。紫遠ひとりでは、骨が折れる。
「アリスさん」
紫遠の言下、《Iris》の制御下に置かれた《煙雨》から光閃が放たれた――無数に引かれた糸のような光の全てが凄まじい熱を帯びて、迫りくる手の勢いを削ぐ。
大きく開かれた掌のど真ん中に穴が開いて、消えていく――その残滓を斬り捨て、紫遠は少女に肉薄。
濃鼠色の双眼にうすらと涙が浮かんでいたが、紫遠はすでに抜刀の構えにある。
「遊ぶ時間はおしまい」
「やぁ だ」
踏み込む。靴裏が地面を噛んで、抜き放たれた刀身は、呆気にとられる少女へと奔る。彼女を護るように突如として現れた拳が邪魔をするが、それは白炎を上げ崩れ落ちて――
「いい子は還る時間だよ」
前髪ごと額が斬れて、派手に血が|繁吹《しぶ》いた。
「うう……うう……」
しくしくと泣くような声。
猫を嗾けて、あそんでもらっておいで、なんて。まるで自分より猫たちが楽しめることの方が重要そうだったのに。
「ねことあそぶの いいひとだから いっしょに あそべるって いっしょにおうちにいけるって」
血をたくさん流しているけれど、|おうち《﹅﹅﹅》へ連れて帰ることを諦めていないようだ。
イヌマル・イヌマル(|地獄の番犬《ケルベロス》・h03500)は、さきの異形の猫たちのせいで、気分は最悪だ。
「悪いけど、一緒に遊んであげることはできないんだ。ここで成仏してもらうよ……ううん、まだ揺れてるううう……」
ぐわんぐわんと地面が歪んでいるような感覚。視界もぐわんぐわんしているようで、まともに歩くことも怪しい。
不本意だ。
本当に不本意だが。
背に腹は代えられない。戦えそうにないと判断したのだから、今できる最適の行動を選択をするだけ。
「音々子の力、借りようっと」
【|犬詠大魔術-01式《エクサバークス・マイナスゼロワン》】――これは非常に危険な魔術だ。なぜって、|高貴なる復讐の女神《ノーブル・ネメシス》を喚ぶものだからだ。
あの、|危険な安全運転《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》をする音々子を喚ぶことなのだから。
しかしこれは、いまイヌマルが切れる最善の手札。
「来い、ノーブル・ネメシス!」
「あいたっ!? ……あれ?」
バイクに乗っていた恰好のまま召喚された根古・音々子(街の快速者・h04429)だから、勢い余って地面に落ちた。
「ここは? ん、イヌマル?」
バイクも消えて、なぜかイヌマルが目の前にいて――なーんか前にも似たようなことあったなー――なんて思ったりもして。
猫ちゃん天国の余韻に浸ってツーリングを続行していたのに。ああ、あの幸せの時間を噛み締めて切る風は心地よかったのに。
うようよしている無数の手と、おすわりしているイヌマルと、血まみれなのにしゃんと立っている奇妙な子供を見て、またイヌマルへと視線を戻す。
「あ、わかりましたよ。ようはあの怪しげな女の子をやっつければいいんですよね?」
「説明しなくていいの助かるー」
さすが、僕の大家。その柔軟に受け入れていくスタイルは、やはり好感が持てる。
「君はノーブル・ネメシス! 今こそ君の力を見せるときだ! バイクもあるからね、はい」
音々子の手を甘噛みして、彼女をダークヒーローへと変身させた。
犬とヒトのおしゃべりが興味深かったのか、巫女服の少女は泣くのをやめて、きょとんとふたりを観察していた――が、音々子が変じたことで、はっとした。
砂利を蹴って立ち上がった音々子が、すぐそばにある《|戦闘バイク《ヘイトフル・ハインド》》――いつどうやって現れたのかは、例によって例のごとく謎――に跨ったのだ。フルフェイスヘルメットをかぶり、|危険《アンゼン》運転の準備が整った瞬間――アクセルを全開、唸りエンジンは高回転を始めて――瞬間的にクラッチが繋がる――危険な急発進にも関わらず、音々子は転倒知らずに走りだす。
「うわー」
「|高貴なる復讐の女神《ノーブル・ネメシス》の力を見せてさしあげましょー!」
叫びながら、奇怪な手の攻撃を器用に躱す。凄まじいライドテクニックに、それでもイヌマルは「うわー……」とまた漏らした。
あいかわらずの荒々しい運転で、よくもリアタイアを滑らせて走らせることが出来るものだ。
「どこらへんが『|高貴《ノーブル》』なのか判らないよ……」
それでも、音々子は絶好調にバイクを繰る。躱しきれない掌は、覚悟を決めて突っ込んで撥ね飛ばす。その衝撃は音々子自身にも跳ね返ってくるが、なんのその。排気音は鋭く境内に響き続ける。よく見えていた。迫る手は音々子を掴もうとするが、爆速で逃げ、巧みにUターンを決め、フルスロットル――またもや危険。
「よくこけないなあ……喚んでおいてなんだけど」
手足のようにスムーズにバイクを繰り続ける様子を、イヌマルは却って関心して見ていた。
「今日の私は一味も二味も違いますよー。可愛い猫ちゃんたちのおかげで気力がフルチャージされてますからね!」
「は?」
本当にこけない(超絶テクニックの)危険運転を繰り返している絶好調の音々子だが、今の言葉は、聞き捨てならない。
猫のおかげ?
は?
ふざけるな!
「音々子の気力がフルチャージなのは僕のおかげだけど? 猫とかぜんぜんまったくこれっぽちも関係ないんだけど?」
「ひゃああ! 轢き潰しちゃいましょう! えい!」
イヌマルの言葉なんてひとつも聞いていない音々子はゴキゲンに掌を轢いた。削がれた勢いはすぐさま回復。次なる目標は、巫女服の少女――
「さあさあ、ドーンといきましょう!」
慌てたかみのてが少女を包んで衝撃から守る。が、それでも音々子のフルスピードの突進を耐えきることは出来ず、ちいさな体は吹っ飛ばされる。
車体に伝わるでたらめな力を本能的にいなして、バイクをようやく停める。
しかし、いつでも発車できるよう、排気音は低く鋭く刺さり続けた。
「ねえ、音々子、聞こえた? 今日の君の調子がいいのは僕のおかげだからね!?」
決して猫のおかげではないのだ。
イヌマルのちょっとした矜持だった。
「どうして あそんでくれないの……どうして いっしょに おうちにいってくれないの……」
花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は、さめざめと泣いて、「あそびたいよ」と駄々をこねるような少女をじっと見つめ返した。
「あなたがこの事件の黒幕なんだね」
多くの失踪事件があった。そのほとんどが未解決のままだ。数々の事件に、この少女や猫が関わっているのかは未だに判然としないが、ただの一件――本日の今頃に、この怪異の手に攫われてしまう女の子は無事だった。なによりの救いだ。
少女の髪は散切りにされていても、砂埃と血でどろどろに汚れていても、濃鼠の双眼から流れ出る涙だけは、綺麗だった。
虚空から生える無数の手――無骨な節張った手、ほっそりと白い手、小さく柔そうな手――大勢の手が生えていて、まほろらを威嚇する者から、少女の頭を撫で慰める者もいて、実をいうと――憐憫を誘い、切なくなってくる――結・惟人(桜竜・h06870)だ。子供の恨み言というのは不安を増長させ、哀しみをより濃く伝播させているように感じた。
「寂しそうだとは思うけど、誰かを傷つけていい理由にはならない」
惟人の気持ちを汲んだうえで、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)のピンクの眸はじっと少女を見極める――少女は、指示を出さないのだ。自発的に彼女を護るようにうねる数多の手が動く――それは一貫していた。
「――あの大きな手、」
ぽつりと呟いたまほろの声。
「大きなおにぎりが握りやすそう……」
「大きなおにぎり……!」
狐の尾がぼわりと膨れて、そわりと揺れた――ヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)だ。
「おにぎり、か…………色々な具が詰められるな?」
惟人の深堀の一言で、一気に駆け巡るのは、おいしそうなおにぎりの具――ほかほかの、白いご飯に、塩鮭や梅干し、ツナマヨ、おかか……。
「なんてびっぐどりーむ……!」
白い狐耳がしゃんと立つ。
(「大きなおにぎり――ちょっと食べてみた――…」)
「じゃなくて、」
思いついてしまった呟きを打ち消した、まほろ。誤魔化すように、巫女服の少女に強い視線を投げた。
「いくらネコ友になれそうでも勝手に誘拐したらダメだよ!」
「そ、そうですよ! 一緒に遊びたいなら相手の意思を尊重しなきゃですよっ」
おにぎりに心を奪われかけたヴァロも、慌てて意識を戻す。
「どうして ねことたくさんあそべるんだよ いっしょにずっとあそべるんだよ おうちにいけばずっと いっしょに」
「勝手に連れ去られるのは、猫だって嫌だ」
自由気ままに生きている彼らだからこそ、突然の束縛は願い下げだろうに。まして、ヒトの子ともなれば、易々と拐かしていいはずもない。イサの静かな双眼が少女を無言のままに咎める。
「|おうち《﹅﹅﹅》とやらには行けない」
ぴしゃりと惟人が断って、
「そうですね、おうちには行けません」
月夜見・洸惺(|北極星《Navigatoria》・h00065)も大きく肯いた。
「どうして さみしい――かなしい どうして きてくれない の」
ぽろぽろと大粒の涙が落ちていく。これ以上少女を傷つけないように、かみのてはいよいよ動き出す――できないことをできないと跳ねのけた惟人も、同調した洸惺にも、かみのては敵意を向ける。
それを恐怖だとは思わなかった。
敢然と立つ。背を守ってくれる仲間がいる――足りないところを補い合って余りある仲間がいて、いま、その力は大きな奔流となる。
その最初。
【増殖するかみのて】がイサへと伸びてくる――瞬間、手は斬り刻まれる。
「遅いよ」
【|告海ノ花《アビスフルール》】が咲き乱れ、イサの声が響き渡った。彼を狙う手はしつこくて、それでも深淵へと誘う力は凄まじい。イサは、《dea.THETIS-ABYSS》を起動させる――冥界から降り注ぐような光閃が幾本も奔る――牽制するレーザーに焼かれて、いくつかの手は砕け落ちた。
そんな中、ヴァロの霊的な力は、彼女の展開する盾をより強固なものにしていく。
「洸惺さんも、惟人さんも、イサさんも、まほろさんも……私の大切なお友達は意地でも守護し通してみせます!」
護ることは、ヴァロたらしめる行為だから――矜持にかけて、聖性を発揮する。
「よーし、鳥さん! 一緒にみんなを援護しよう!」
言ったまほろは、【|青い鳥の歌《ハミング・トゥ・ブルー》】を口ずさむ。牽制に徹するまほろと鳥さんたち。小さくとも明確な意思をもって、かみのての行動を阻害するのだから、厄介極まりない。そして、仲間の力を底上げする囀りは、耳に擽ったかった。
《Kuunkehrä》の静謐な輝きは、冷気を帯びて収斂して、弾丸へと姿を変える――【雪煌ノ呼】――撃ち出された弾丸は猛烈な冷気を纏い、かみのてを凍らせ動きを鈍らせる。横薙ぎにされた腕も冷え切って凍り始めてからは、あっという間だった。
危なくて恐ろしい攻撃も避けてしまえば、怖くはない。止めてしまえば、恐れることはない。
「足止めありがとう、ヴァロ!」
「本当に。まほろとヴァロのおかげでやりやすい」
蛇腹剣を振るい、凍りつく腕――その光景を目の当たりにしたイサだったが、機を逃さずに、惟人の背を守りながら、反撃に出る。
イサの背を守ってくれる惟人の背は、イサが護るのは当然だと言わんばかりだった。
「気をつけて」
泡沫のバリアは惟人へと展開されて、そのまま仲間たちへと広がっていく。せっかく来たというのに、怪我をしてしまうわけにはいかないから。
「まほろとヴァロのお陰で動き易い」
口の中で呟く――誰かひとりに攻撃が集中してしまわないように、まほろの喚んだ鳥はかみのてにまとわりついて、ヴァロの冷気にあてられて動きの鈍った腕を叩きのめす。
入り乱れるかみのての猛攻は、少女の落胆と諦念と、思い通りにならない怒りと歯がゆさが発露されて、洸惺らに襲い掛かって――八本脚の黒馬の存在感は、かみのての注意を惹きつけ、惟人の準備の一助となる――その身の裡に立ち込める竜気を研ぎ澄まして、【花霞の衣】を纏った。
惟人が駆ければ花吹雪が舞い、拳を振るえば絢爛に散った。
迫るかみのての攻撃を躱し攪乱する。どこにでもいるインビジブルを身代わりに【黄泉渡り】、彼に祟りの呪力を与えて、手の束縛を受けさせる――途端に、手は腐り砕けていった。
みなの連携が華麗に繋がって、無限に湧いて出てくるような手を退けていくのを、まほろは後方で目の当たりにする。
興奮が押し寄せる。
噫、これだ。
この素晴らしい感覚――まほろは腕組みをして、踏ん反り返った。
「見た見た? かっこいいみんなの姿!」
機嫌よく笑ったまほろと同調するように小鳥たちは囀った。
「皆さんが全力を出せるように……私も……!」
ふうっと細く長く吐息をして、ヴァロ。
「洸惺の引きつけ、頼もしいね」
鬣の間からイサを見返し、洸惺は喜色に瞳を染めて、笑む。
イサはチャンスを見逃さない。
「このまま畳みかけちゃおうか?」
「はいっ、イサさん! 一気にいきましょう!」
その一言。
それが合図となる。ぴくりとヴァロの耳が動く。清らかな冷たさを讃える力が、ぐんと凶悪に冷えていく。
「了解です!」
全力で魔法を解き放つ準備を整える。
「あぁ一気に行こう、イサ」
惟人は拳を握り、構え直しみなと呼吸を合わせる。
洸惺は思い切って突進、その衝撃に揺らめいた手へと容赦なくイサのレーザーは降り注ぎ、猛然と吹き荒れるヴァロの魔法を受けて、惟人は畳みかけ、掌を退けた。そしてその奥――悲しい淋しいと泣いていた少女へと辿り着く――その一瞬――混然一体となって、彼女へと突き刺さり焼いた。
「どうして どうして どうして……! いっしょに あそびたいだけなのに! いっしょに おうちで!」
「悪いけど、お前の家には遊びになんていけないんでね」
悲痛な叫びに、惟人の表情は曇って、イサは小さく嘆息した。
「私達にはそれぞれ、本当の|おうち《﹅﹅﹅》があるから、ずっと一緒には居られないんだ」
「……だからあなたも、どうか在るべき場所に」
話している最中も、気を抜かず油断せず、集中を保ったままに、洸惺は呼吸を整える。体当たりをした衝撃はまだ治まっていない――が、きらきらといまだ煌く雪光が、洸惺を優しく包んでいった。ダメージが消えていくのを実感しながら、夜闇色の目は襤褸のようになった巫女服を見つめる。
その場に蹲ってしまった少女を、かみのては介抱していた。
撫でて撫でて、慰めて。
もはや五人の存在は興味の外にあるらしく、こちらを見向きもしない――少女の泣き声だけが遠くに響くようだった。
「よし、……皆、無事か?」
惟人の問いに、それぞれの返事――大事ない、と。
猛攻を躱して、いなして、反撃を繰り返したから、疲れはあるけれど――誰も大きな怪我をすることなく、かすり傷もヴァロの清冷の力が癒し尽くした。
ほっと安堵の息を誰もがついた。
戦意が失せた少女と手――まだ油断はならないけれど、今すぐに反撃してくるということはなさそうだから――息を整える。
「……また、猫が恋しくなってきたな」
「今度は平和に動物さんと触れ合いたいですね」
「またどこかにもふもふしに行きましょう!」
「そうだ、今日の打ち上げはみんなでもふもふ&おにぎりパーティーにしようね!」
言って笑ったまほろは、きゅっと拳を握った。
(「――あの子も、悪いことしなかったら一緒に遊べるのになあ……」)
意気消沈と蹲り、嗚咽を堪えることもしないで、体を震わせる少女に、まほろはグリーンの清廉な眼差しを向けた。
この子も愛ちゃんみたいな子なのかな――しゃくり声をあげて泣く少女は、ずいぶんと傷を負って襤褸のようになってしまった。それでも、大きなかみのては、彼女を見放したりはしなかった。
望月・翼(希望の翼・h03077)は、その様子がどうしても気がかりで。
あの子は助けることが出来た。けれど、あの子の件よりも前からたくさんの失踪事件があった――そのすべてに、この怪異が関わっているのかは、やはり判然としない。だからこそ可能性を考えてしまうのだ。
たくさんのヒトの心が染み出しているのだろうか。犠牲になったヒトの未練が、ああして色濃く出ているのだろうか。寂しくて、帰りたくて、帰れなくて――ずっとマイゴのままで。
(「寂しいから、遊んでくれる人を求めたのかな……」)
だからといって、ヒトを攫っていいわけがない。無理やり連れていってしまうなんて、哀しみの連鎖でしかないから。
珈琲色の獅子――カフェオは、今も翼の隣にいて、彼の言葉を待っているようだった。
翼の視線は彷徨う。少女を慰める手とは別に、明確な敵意を剥き出しにして、無数に生え出してくる――そのすべてが、翼と、春待月・望(春待猫・h02801)へと襲い掛かってくるから――翼は、前線に飛び出した望を護るように防壁を展開した。
ふつりふつりと、望の|臓腑《ハラワタ》が煮え滾り始めていた。蹲って嗚咽し恨み言を吐き出している少女を、睨み据える。
なんて――なんて独りよがりなんだ。
鬼の手を彷彿とさせる漆黒の縛霊手に、《破壊の炎》を発露させる。幻の炎であっても、燃え盛る勢いは本物のそれだ。後方から望の支援に回るという翼の――曇り切った表情を見て、眉間に皺を刻む。彼の護霊は、翼の真意を酌み取ってか、鋭い牙の隙間から漏れ出てくる気炎は黒く黒く立ち昇る。
生えては殴りかかってくる無数の手をいなす――その力を無効にしながら、烈気を噴きながら《黒鬼》で殴りつける。
かみのてが真横から望へと奔る――カフェオの黒炎が掌を焼き締め、その黒い炎勢を逆巻かせ、拳へ宿し、振り抜いた。
確かな感触の後、消えたかみのてを睨み――嗚咽交じりに聞こえてくる言葉を聞いた。
「ねえ どうして あそんでくれないの ねことは あそんでたのに どうして おうちにいっしょにいってくれないの」
悲痛な言葉に、翼の喉は引き攣った。恨み言を吐く姿に同情してしまいそうになる。紡がれる言葉の端々に滲む彩は、翼にも覚えがある。
胸が苦しくなるほどに締め付けられる――あの子のことは判らない。その裏にどんな事情があったかも判らない。けれども、一人が寂しいのは、痛いほど解る。
痛い。苦しい。同調してしまう――殴りかかってくるかみのての動きを念動力で阻害して、それをカフェオが黒炎で追い詰める――それでも、その連携の冴えは翳る。
「お前の都合なんか知るか」
限界だ――容赦なく吐き捨てて、望。
「その|あそび《﹅﹅﹅》でどれだけのやつらの心と命を踏み躙ってきたんだよ」
孕む怒気は静かで、望の眸は冷静そのもの――ぎろりと、翼を一瞥した。
「またごちゃごちゃ考えてるんだろ」
「……えっと……」
図星だった。
無意識だったが、翼の攻撃の手が緩んでいたことを望は見ていた。
「優しい相手の好意に甘えるだけ甘えて、相手の都合も気持ちもお構いなしに攫って閉じ込めていいように扱うのは|あそび《﹅﹅﹅》じゃない、そんなの|あそび《﹅﹅﹅》の名を借りただけの暴力だからな」
「……そう、だよね……そうだね、同情じゃ、なにも解決しない……」
望の言葉に、はっとして、指先にまで血が巡るような感覚――同情だけでは、この子の望みは叶えられないから――だから、彼女の最期を見守る。
「オレも全力で向き合うよ」
翼は、今度こそ思考を切り替える。
怒りで、却って冷静になっている望の《黒鬼》の猛攻は緩まない。無数に湧いて出るような、薄気味悪い手。
「さっきの猫だって、お前の|あそび《﹅﹅﹅》とやらの犠牲だったんだろ――ふざけるな」
あの異形が異形たるゆえん――それを知ることは最早難しい。
燃え盛るかみのての奥で、啼泣するソレの、|裏《﹅》を孕んだ濃鼠の眸が、望を睨んでいた。
いくら泣こうが喚こうが、寂しい哀しいと囁こうが、結局のところ災厄を撒く存在だ。相容れることはない。
「ちがう ちがう……あそびたいの うそじゃない さみしいのだって うそじゃない だから|おうち《﹅﹅﹅》でいっしょに」
泣いているそれを、無条件に慰める手を睨めつけ、唾棄する。
「命を弄ぶなんて、何様のつもりだよ」
そのとき――望は小さなキーホルダーを見つけた。雨傘と黒猫の可愛らしいキーホルダーだ。思わず拾い上げる。これを落とした人の記憶を尋ねる――それは、最期の瞬間だった。
黒い長い髪の少女は白い巫女服で、人好きする優しく細まった濃鼠の眸に、小さな男の子が映った。
「いっしょに あそぼ? ねこといっしょに おうちにきて」
「ん! いいよ! なにして遊ぶ? オレ、ゲーム好きだし、にゃんこも好きだぜ!」
巫女服の少女が、醜悪に嗤った。
【|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》】を垣間見て、望は唇を引き結ぶ。そうだそうだ――過去に成功例があるから、何度もやるのか。
――……怖かったろうな。すごく怖かっただろう……その怖かったの、僕たちが、ちょっとだけかもしれないけど、晴らしてあげる。だから、君の力を貸してほしい。
――だめだよ、だって、あいつだって寂しかったんだもん、オレがあそんでやるんだ。
――違うよ。あの子は、君以外にもずっともっとたくさんのヒトを殺しているんだ。遊ぼうって言って、騙したんだ。嘘をついたんだ。
――ウソ?
――そう、嘘。今日、君みたいに連れ去られるかもしれなかった女の子を見つけた。僕らがなにもしなければ、君みたいにあの子に殺されてた……危なかった。
――それって、ホント?
――ホント。だから、僕、あの子が許せなくって。助けてくれないかな。
――…………オレ、役に立てる?
――たてる。
――わかった。
刹那の攻防だったけれど――手にしたキーホルダーは、望の掌の中で、俄かに温みを帯びる。
サイコメトリック・オーラソードが伸びて、
触れた物品に眠る「過去の所有者の記憶」と交渉できる。交渉に成功すると、記憶から情報提供を受けた後、記憶の因縁の相手に3倍ダメージを与える【サイコメトリック・オーラソード】が出現する。増えた手を両断して刺突して、踏み込んだ望に拳が迫る――が、翼の展開しているオーラが弾き飛ばした。それでもくる衝撃は、気合で切り抜けた。
これで、もはや望を邪魔するものはない。
「お前のその歪んだ無邪気さも、お前をどろどろに甘やかせているその胸糞悪い手も……もううんざりだ」
さらに踏み入る。
「猫達も、猫を愛する馬鹿みたいに人のいい奴らも……これ以上巻き添えになどさせやしない」
振り上げたオーラソードに《破壊の炎》が伝わっていく。咄嗟に少女を護る手が拳をつくった。振り下ろす力は、望の持てる最大のそれを発揮して。
鋭い烈気を吐いて、縦一文字に振り下ろした。
耳を劈く悲鳴に、眉根を寄せる。
心がよじれるような悲痛さで憐憫を誘い、嘆き悲しむ。
だが、もう惑わされない。翼は唇を引き結んで、【忘れようとする力】を発揮させる。
彼の目に映るすべての対象へ、降り注ぐ。
「苦しまないで。君の苦しみも痛みも、全て手放していいんだ――よく、よく頑張ったね」
癒す力は満ち足りて、翼のやわい声が――望と彼の握るキーホルダーを包み込む。護壁があったとはいえ、衝撃のすべてを弾き飛ばすことは出来なかったから、じくじくと痛んでいた傷がゆっくり癒えていく。
いずれその思いは成仏するだろう。
「お前らはお前らだけであるべき場所へ帰りやがれ」
凄まじい斬撃が、巫女服の少女を追い詰めた。消されては生えてくる無数のかみのて――少女を慰撫し護る白い手すら、その斬撃を前に、少女を守り抜くことは難しかった。
どんどんと衰弱していく少女の泣き声は、憐憫を誘う。
同情を誘う姿に、共感することができれば――ゼグブレイド・ウェイバー(ポイズンサイエンティスト・h01409)は嘆息を返す。
「せっかくのお呼ばれなのに、申し訳ないであるが……流石に客人を招いておいて殺しにかかるようなおうちには行けないであるな」
異形の猫の群れが消えていったことを確認して、ゼグブレイドの双眼は、純粋な殺意を発露させたかみの手が、湧き出でてくる様子を見る。
遊んでくれ、一緒に来てくれというのであれば、もっとやりようがあるだろうに。力ずくでどうこうしようなんざ、ナンセンス。
「やっぱり きてくれない……いっしょに おうち かえってくれない……あそぼ? ねこのときみたいに あそぼ?」
「……やれやれ」
遊ぶだけならいい。どうということはない。だが――
「遊ぶだけで済むなら人は消えないであるからな、大方|おうち《﹅﹅﹅》に入ったら最後なんであろう――……」
連れ込まれたら最期――死出の旅といったところか。
「ここで、終わらせるであるぞ」
ゼグブレイドのその一言に反応して、かみのては無尽蔵に生えてくる――隆々な腕は凶悪にゼグブレイドを締め付けんと迫り、手は拳を作り、あるいは手刀となって迫りくる。
これを無防備に受けてやる気は毛頭ない。ゼグブレイドは、冴え渡る思考を巡らせ、《アシッド・ヴェノム》を取り出した。紫色に妖しく揺れる液体は、意志なき毒の生命体――ゼグブレイドはその不気味な命に発破をかける。
「出し惜しみすればわが身が危ないであるからな……融合するであるぞ、ヴェノム!」
フラスコの中がぶるりと震える。あのままの状態で戦えはしないから、ゼグブレイドは覚悟を決めた。
ヴェノムは猛毒だ――総身に纏わせ、ゼグブレイドの装甲となったその時から、夥しい毒に侵される――筋肉は軋み、巡る血潮に小さな針を流し込んだように、激痛が全身を駆け巡った。
あまりの痛みに奥歯を食い締め、喉を搾ったような呻き声が漏れた。融合が終わるまで――否、終わって猶も。しかし、これを乗り越えると、ゼグブレイドの感覚は研ぎ澄まされる。
「っ、……融合完了、……攻撃開始…!」
冴え渡る感覚、研ぎ澄まされて鋭敏になった感覚――この、宙を滑るような全能感を享受して、無策に突っ込むのではなく、まずは間合いをとって素早く道筋を見出す。
|駆け巡る四ツ首の毒蛇《ヴェノム・ヴァイパー》を宿した今、迫ってくる手も、その奥で泣く少女も、よく見える。嗾けたのは、大蛇に擬態する《アシッド・ヴェノム》――猛毒滴る顎を開け、すべてを飲み込んでいく。喰らって喰らって飲み込んで、猛毒で侵しながら、掴もうと伸ばされた指先があっという間に腐っていく。爛れたように崩れる。丸呑みにして、触れたそばから腐らせて。
そこに一切の慈悲はなかった。
「そら、お前様にも食らわせてやるであるぞ」
「いらない!」
金切り声の拒絶。
猫とは遊んだくせに あたしとは遊んでくれない 遊んでくれないひとは嫌い――逆恨みが激化して、ヒステリックに号泣する。
(「まるで、子供の癇癪であるな」)
冷静に見遣って、かみのての指が毒にまみれ、喰われていった瞬間に一瞥をくれてやる――そして、もう一度ゼグブレイドはライフルを構える。
造り出したのは、命を蝕む猛毒のアンプル――ライフルに装填できるようになっている。怪異には劇薬だ。【|死を誘う毒の魔弾《マジックバレットシューター》】は、一直線に火線を引いて発射された。
劇毒の銃弾は、かみのての間を縫って少女の腹へと突き刺さる。耳を劈く悲鳴と、哀しみを叫ぶ少女を護りたかったと駄々を捏ねるようにもどかしさを爆発させて、手が暴れる――しかし、その暴力的な手がどんどん衰弱していく。《|猛毒の生命体《アシッド・ヴェノム》》が作り出す四ツ首の蛇が畳みかけて、彼女の力を根こそぎ猛毒で侵して奪っていった。
「思い通りにならなかったら叫ぶ、か……」
少女の腹からぼとぼとっと血が落ちた。
広がる血溜まりに、かみのての動揺は凄まじかった。
(「過保護であるな……」)
「あそんで ほしかったの いっしょに あそびたかったの……!」
受けた傷の深さに、いよいよ少女はその場に膝をつく。
「その独りよがり、いかがなものであると思うであるな」
ゼグブレイドは鼻を鳴らして、毒に蝕まれて弱っていく少女を見つめた。
巫女服は、擦り切れた。白かったけれど、自分の血で汚れた。潰された腹の中のせいで、血が上がってくるのだろう。咳いて咳いて、そのまま吐いた。
ぺったりと座り込んでしてまって、蹲って丸くなる。小さな背中が震えて、この小さな姿に――祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は、鮮やかな蒼の双眼を曇らせる。
相手は怪異だ。
その事実が覆ることはないし、そこを捻じ曲げるつもりもない。
怪異は怪異として、対処しなければならない。
しかし――切り捨てられない。
(「そんな悲しい声で、そんな悲しい顔をして……なのに、ただ討伐するだけなんて……」)
嫌だと心が叫ぶ。
ラムネは、あの怪異を止めるためにきた。護るものは間違えない。ラムネの役割も履き違えることもしない。
この線引きを違えないようにして、細く長い息をつく。
「……そんなに、泣いてないで。一緒に遊ぼうか」
「え?」
素っ頓狂な音がした――それは、彼女の驚いた音だった。蹲っていた彼女は顔をあげて、しっかりとした視線をラムネに向けた。
「いっしょに あそんでくれるの」
「……ああ、一緒に遊ぼう」
これが最善手なのか、判然としない。
怪異であっても少女の沈み切っていた表情が、晴れやかに笑ったのを見て、ラムネは小さく頷いた。
悲しい顔をしているなら、それがどんな相手だったとしても。
「やった! やった! わあ、うれしい!」
(「――見過ごせねえよ」)
嬉々として、濃鼠色の目を笑みに細めた。
「何をしようか。んー……そうだな、シンプルに鬼ごっことかはどうだ?」
「うんっ」
「逃げる役と捕まえる役、タッチしたら交代な? 最初は、俺が逃げる役」
「わかった!」
少女は頷く――痛々しい傷を抱えながら――それでも、無邪気に笑んでラムネを追いかけてくる。もう走れないのだろうに、それでもひどく楽しそうに、よたよたとついてくる。
「まって!」
弱っているとはいえ、小さな少女然としているとはいえ、怪異に違いないから。感情を移し過ぎないように、背を見せすぎないように油断しないで――それでも、彼女が、楽しいと思ってくれるように。
ラムネにのばされた小さな手は、《かみのて》であって、彼女自身の手でもあって。その手に捕まらないように、触れられるギリギリのところで避けてみせる。
「あっぶない、もう少しで捕まるところだった」
「わああ もうちょっとだったのに! まって」
出てくるかみのては追い縋る。少女も歪に歩いてラムネを追う。晴れ晴れと笑う彼女の、実に楽しそうなこと。待て待ってっと懸命に追ってくる――ラムネは、走ってはいなかった。走らずとも、彼女はラムネに追いつけない。
受けたダメージが大きくて、今にも崩れ落ちてしまいそうで、それでもラムネの「遊ぼう」が嬉しくて。
それが伝わってくるから――飲み込むように、割り切るように、覚悟を決めるように何度も頷いた。
ラムネを捕まえるつもりのかみのてに、【游泳】の一手で受け流しながらタッチされて、攻守交替。かみのてはさらさらと崩れていって、それはだんだんと伝播して、つぎつぎに瓦解していく。
「今度は俺が鬼」
「きゃああ! にげなきゃ!」
くるりと踵を返して、歪な足取りで逃げていく。楽しくて楽しくて仕方ないといったように。今までの落胆をすべて昇華してしまうように。少女は声をあげて笑った――けれど、いよいよ少女は倒れた。
「あれ……あれ……にげなきゃいけない のに……」
そのときは、すぐそこに迫っていた。
「やだ……せっかく あそべるの うれしかったの もっと あそぶの……おにいちゃんと いっしょに」
倒れて動けない少女は砂利を掴む。小さな手が、これ以上傷つかないように、拳を開かせた。
「大丈夫――ちょっと、休もう。俺はここにいるから」
「おにいちゃん……あたしの おうち いっしょに いこ?」
掠れた声は、ずいぶん弱く、絶え絶えに。
「それは、できないんだ……俺には、約束があってね」
「やくそく……?」
「そう。俺は死ねない。大事な弟妹たちや、親友との『死なない』って約束を護りたいから……だからきみのおうちには行けないけれど――最期まで、一緒にいるよ」
もう癒えることはない。彼女は静かに消えていく。独りよがりに寂しさを埋めようとしたのだろう。抱えきれない孤独を埋めようとしたのかもしれない。ただただ帰る|場所《おうち》がわからなくなったマイゴだったのかもしれない。
どんな物語を想像しようとも、彼女は消えていく。ゆっくりと。もう言葉を紡ぐことすら難しそうで、息遣いはどんどん希薄になる。
「おにいちゃ……ねむくなってきた の」
「ん、眠っていいよ」
小さく笑って、その身は透けていく。茜色に染まる陽光を吸い込んで、夕暮れにきらめく。
「――――――」
もう声にならない。唇だけがなにかを言って、微笑む少女は消えた。
ほんの少しでも、悲しみは癒えただろうか。寂しさは和らいだろうか。最期の笑みを、都合よく解釈していいか――答えはもうないけれど。
「おやすみ」
楽しかった思い出を抱いて、眠ってくれたのなら、それだけで。
●
猫が鳴く。
少女の笑う声がする。
甘えた猫の鳴き声と、幸せそうな笑声がしばらくのあいだ響いていたが――やがて春風に吹かれ、夜空にとけていった。