シナリオ

この温泉宿……やけに猫が多いな?

#√EDEN #√汎神解剖機関

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 √EDEN世界は、数多の世界に狙われているという。
 あちこちからちょっかいを掛けられる、今にも崩壊しかねない世界の均衡を守るため。
 或は、√能力と言うものを知り、その使い方を学ぶため。
 それとも、ただ、幸か不幸か己の身に降りかかった能力を振りかざす欲求の為か。
 とにかく、そういう力ある者たちは、様々な目的を持つからこそ、引かれあう。
 そうして情報交換の場はあちこちにあり、そんな場所には、事件の予兆を見る星詠みがやって来ることもあるのだ。
「いやぁ、寒いねぇ。まだまだ真冬だよ。あ、どもどもー、クレープ屋の古郷ですー。まいどどうもー。耳寄りな事件の話を持ってきたんだよー。どちらさんも寄ってって」
 どこからともなくやってきては、改造ミニバンのクレープ屋台を展開して、揉み手に怪しげな笑みを浮かべるちんちくりんなスイカメットの少女は、こんなでも星詠みの魔術師を自称する古郷エルという、珍人物であった。
 西へ東へ√能力者の集まるところあらば、こうしてクレープ屋の営業をしながら、星詠みによって見た事件の話を持ってくる。
 彼女を知る者は、そのリアクションも様々で、クレープの甘い匂いを嗅いだだけで嫌そうな顔をしたり席を立つ者も居れば、親しげに笑いかけ新メニューの有無やサイドメニューのリクエストなどといった世間話をしたりもする。
 もしかしたら知らない者も、この珍獣の話に興味を持つかもしれない。
「スイカのクレープ? よく言われるんだけどさ、あれ水分が多くてクリームがビッチャビチャになんのさ。じゃなくて、事件の話だよね。オーケーオーケー」
 世間話もそこそこに、エルは平たい胸元をとんと打って咳払い。
 わざとらしく手元をすりすりすり合わせて、今しがた寒くなってきたみたいなジェスチャーをし始める。
「いやぁ、こう寒いとさ、ついつい羽を伸ばしたくなるよねってさ。温泉につかって体の芯から温まりたいよねってんで、そんなみんなにピッタリの、怪しい温泉宿のお話を持ってきたのさ。
 今回の舞台は、とあるさびれかけのトコにある、最近ちょっとネットで話題の温泉旅館だっていうのさ」
 通称、猫の温泉宿。そう呼ばれているらしい。
 いやいや、猫と言えばお風呂ギライで有名じゃないか。そんな意見もちらほら。
 話によると、旅館には放し飼いの猫がいっぱいいるのだとか。無論、彼らのほとんどは水場を嫌うものの、温かい所は好みなので、熱気で温まった旅館のあちこちのお気に入りスポットに居座るようになったのだとか。
 それらが観光客の目に留まるようになり、話題を呼んで、ネットでプチバズりというわけだ。
「あったかい温泉においしいごはん。そんでもって、いっぱいの猫ちゃんに囲まれて、癒しの効果もあるときたもんだ。いいとこなんだろうね。けど……そんなものを予知に見ちゃったって事はさ。居るんだよね、そこに侵略者って奴がさ」
 √EDENの一般人は、忘れる力が強く、たとえその温泉宿で怪奇事件に巻き込まれたとしても、帰る頃には忘れてしまうだろう。
 当の温泉宿も、レビューはなんだかふんわりしており、具体的な事はほとんど書かれていなかったりするようだ。
 ただ、猫の温泉宿から帰還した者たちは、みな一様につやつやしており、言い知れぬ多幸感に包まれていたという。
 それならいいじゃん。で済めばいいのだが、身内の不幸や絶望的な現実すら忘れるほどの多幸感、そして湯あたりでひどく体調を崩してしまっても幸福を覚えるなど、異常な報告もあるようだ。
「てなわけで、ちょっくら温泉の体験レポでも、やってきてくれないかなーってね。
 あたしたちみたいな能力を持つ者なら、敵さんも尻尾を出すかもしれない。
 こいつはもう、立派な怪奇事件さ。そのうち、死人が出るかもしれないからね」
 ちょっともったいないかな。と小首を傾げるように困った風な笑いを浮かべるが、どこから世界が綻び、日常が崩れ、地獄絵図となってしまうかわからない以上、怪奇事件を解決せず放置する訳にも行くまい。
「まあ折角だから、温泉を満喫するって感じでも、いいんじゃない? 色々あるみたいよー。露天に個室に、炭酸温泉、打たせ湯にサウナ……各種アメニティも……まあこれはいいか。まぁまぁ、頑張ってきてよ。温泉で頑張れってのも変かな?」
 どこか他人事のように、エルは自前のチョコレートシェイクをずるずるとストローで啜りつつ、一通りの説明を終えると、現場までのルート案内に移ろうとする。
 どうでもいいが、真冬に半袖短パンにチョコシェイクをしばき倒している彼女の姿こそが、一番季節外れではないのか。

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第1章 日常 『ゆったり温泉旅行』


クラウス・イーザリー

 闘争、憤怒、そして機械油と生物の腐敗した戦場のニオイ。
 人の記憶に残るものは、五感、とくに嗅覚に焼き付くものが色濃いという。
 終わりのない戦い。今朝会ったものが、午後には居なくなっている。
 そんなウォーゾーンのシビアな世界の、シビアな日常が、彼の思い出のほとんどであった。
 もちろん、他に娯楽が無いではない。
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の属する兵士養成学園に、それに類するものが全くないというわけではなく、むしろ人が人らしくあり続けるために最低限必要なケアは充実しているところだろう。
 ただ、言ってしまえば、娯楽とは刺激物だ。
 人の多くは、生まれ持った物と生育環境でいくらでも歪んでいく。
 刺激の強い文化が、直接的に人格形成に寄与しないと言われたとて、そればかりを摂取してしまうと、深刻な思い違いをしてしまいかねない。
 よく言うだろう。どんな美人にも、どんな不愉快にも、人は慣れてしまうものだと。
 ──心中は常に物騒な出身世界の基準があるためか、クラウスの感覚は冷たい金属の様に冷静ではあるものの、乾いているわけではない。
 ただ、空気が冬特有の冷たさをもっているとはいえ、さびれた街並みの通りを歩いてみると、緩い雰囲気に拍子抜けしてしまう。
「猫に温泉、美味しい食事ね……ふぅ」
 基本的には戦闘機械の支配していた、一分の隙も無い武装都市と思うと、情報通りとはいえ竹の柵と常緑樹で整えられている、件の温泉宿の無防備さにかるく頭痛を覚えてしまう。
 客を呼び込むため開きっぱなしの門扉に、のぼりがいくつか。
 人通りはまばらだが、観光業としてやっていけているのだろうか。
 まあ、ここに敵が現れる。もしくはもう現れて何かしらの行動をしているというのだから、世の中解らぬものである。
 厚手のコートの中には、それなりに武装を仕込んでいるとはいえ、クラウスの見てくれは、観光で訪れた若い男の様相からは外れない。
 いくらか注意を払いながら敷地周辺を軽く見て回ったが、少なくとも周囲から見るだけでは温泉宿自体に何かあるようには見えない。
 懸念点があるとすれば、冬の寒空に温泉の湯気があちこちから昇っていて、やや見通しが悪い程度か。
 周囲からの調査には限界があるか。
 真面目に調査する意味はあるのだろうか。などと疑問も浮かぶが、油断は禁物。
「すいません……」
「あらぁ、ご利用ですか? どうぞ、どうぞ。空いてますよ~」
 虎穴に入らずんば虎子を得ずという故事に倣い、クラウスは温泉宿の者に声をかける。
 気のいい中居さんだろうか、朗らかな笑みの似合う中年女性にしか見えないが、油断せずに、案内するその後ろ姿を見るともなく見ながら、付いていく。
 足運びや案内、おススメの湯や世間話に至るまで、自分の判別できる限り、クラウスは気を配り、無表情ながらも旅行客を装って探りを入れてみるも、怪しさは感じなかった。
「あ、あとすいませんね。うちは猫をたくさん放しているので、あちこち締め切らないところがあると思うんです~。お客さんが閉めちゃう分にはいいんですけど、カリカリ物音がしたら、よければ開けてあげてくださいね~」
「はあ……本当に、あちこちいるんですね」
 たしかに、普通に、案内される間にも何匹もの猫とすれ違った。そこはさすがに異常な光景と言える。
 だが、動物の敵意やなんだと言われると、ちょっと難しい。人に慣れていて、警戒の色も薄い気がする。
「うーん……」
 結局、温泉の利用のみに留め、いつの間にかクラウスは、露天風呂に張られた湯の中に肩まで浸かっていた。
 やや硫黄交じりのニオイは、火薬の臭いにも似ていたが、趣がずいぶんと違う。
 それに、冷え込んだ体には、温泉の温かさが染み込んでくる。
「あー……考えがまとまらないな」
 彼なりに、真剣に、そして慎重に周囲を探っていたものの、特別猫が多い以外は、何も奇妙なものは感じない。
 それよりも、足を伸ばしてのんびり湯につかるという贅沢が、心を弛緩させ始める。
 あー、これはよくない。よくないぞー。
 とは思いつつも、ゆっくりとした時間というのは、戦士にとって何よりも貴重だ。
「取り合えず……猫の方を、じっくり調べてみようかな……あー、でも、もう少し、浸かってたい……」
 結局、クラウスは、のぼせてきた雰囲気を感じるくらいまで、温泉を堪能してしまった。
 熱気が頭にまで登ってきて、頭がぼんやりしている感覚は、普段の彼ならば真っ先に危険を感じるべきものだったかもしれない。
 すでに攻撃を受けているのか……?
「いや、そんな素振りは無かった……ごくっ、ごくっ……ぷはァ」
 いったん冷静になるために、コーヒー牛乳を所望し、一本を景気よく開ける。
 今時、ガラスケースに貯金箱めいた料金システムは、レトロが過ぎるところも気になったが、そこはたぶん、敵ではない。
 普段は甘くて一気に行けないくらいのコーヒー牛乳の冷たさを求めて、人目もはばからず喉を鳴らす。
 それでようやく、冷静さを取り戻すクラウスは、手近な畳の敷いてある休憩スペースで、温泉客と一緒にくつろいでいる様子の猫を見やる。
 日当たりのいい場所を陣取って、丸まっていたかと思えば、もう片面が寒いとばかり体位を変えて寝転がる様子すら、貫禄を感じさせるほどの可愛らしさがある。
 声かけるのは気が引けるが……そうだ、と思い出したかのように、クラウスはチチチッと口元を鳴らす。
 そうすると、くつろいでいた猫の耳がピクッと動き、こちらを向いた。
「猫っぽいな。いや、猫なんだけど」
 人差し指を差し出せば、なんやなんやと興味深そうに、ふんふんと指先の臭いを嗅ぎに来る。
 やはり、典型的な猫っぽい反応に違いない。
 十分に引き付けたところで、喉のあたりを擽ってみると、ごろごろと喉を鳴らして身を寄せてくるのは、やはり人懐こい猫を思わせる。
 クラウスがどうしてここまで猫を訝しむかといえば、そのような、いわゆる猫の姿をした怪異の事も聞いたことがあるからだ。
「猫にしては、胴が伸びすぎか? いや、これくらい長いもんな……」
 両脇を抱えて持ち上げてみると、びろーんと長く伸びたようにも見える。
 しっぽをぷらぷらとさせる姿が愛らしく、ついついじっと見ていたくなるが、ふと、なにか違和感のようなものを感じる。
 猫自身は普通だ。今は少なくとも、そう見える。
 しかし、ほんの一瞬だけ、その頭上に、きらきらとしたものが円環を描くように現れたように見えたのは、錯覚だろうか。
「にゃっ」
「おっと、悪い」
 そればかり注視していたせいか、身を捩った猫を思わず手放してしまう。
 次に目で追ったときには、猫の頭上には何もなかった。
 幻覚だろうか。いや、明確に違和感があったのには違いはない。
 手に残るもふっとした感触が名残惜しくないと言えば嘘になるが、もう少しここの猫について調べてみてもいいかもしれない。

明星・暁子
シルバー・ヒューレー

 温泉、それは、温もり。
 冬場のビル風に煽られて、寒い部屋に戻り、冷めた飯を温めなおす現代人にとって忘れがたきもの。
 温泉、それは、癒し。
 足も延ばせず、ひとまず温まれば、明日の事を気にして長湯もできずにいる忙しすぎる現代人が忘れているもの。
 温泉、それは──、
「温泉と宿……それは忙しい日常、現代社会を少し離れ、心を身体を休ませ、癒し、また日常を問題なく過ごす為の場所」
 件の予知にあったという、温泉宿を前に、一人の修道女姿が、寒風に晒されている。
 蝋人形のように血の気が引いたかのような美しいがどこか生気を感じさせない面持ちと、綺麗な立ち姿が相成って、余計に作り物のような雰囲気を纏っているが、その強い眼差しには紛れもなく血が通っている。
 シルバー・ヒューレー(銀色のシスター・h00187)は、おそろしく表情に乏しいことを除けば、美しい妙齢の女性であった。
 風に銀髪を泳がせている姿ですら、絵になる。
 ここを通りかかったものが居たならば、ここがさびれた温泉街の一角であることを忘れてしまいそうである。
 が、生憎と彼女を見つけたもう一人は、どうやらその身に纏う異質を見抜ける√能力者だったようだ。
「眺めているだけでは、解決いたしませんわ」
 声をかけてきたのは、制服姿に黒髪の少女。少女というには、いささか長身ではあるが、学生服に姫カットと呼ばれる丁寧に切りそろえられた髪型はよく似合っていた。
 ただ──、明星・暁子 (鉄十字怪人・h00367)を陰気な目つきの女学生に留めないのは、凄まじく鳩胸に見えるほど突出した胸部であろう。
 声をかけられたシルバーも、思わず相対した瞬間に距離感を見誤ったかのように、一歩引いたり戻ったりしていた。
「それも、そうですね。しかし、宿の中は、相手の居城も同じ筈……」
「ええ、相手の狙いも、今は不透明……ひとまず、体験してみない事には」
「……日常に戻れなくる程の癒しと安らぎとは……あまり良ろしくないですね」
 言い淀むように喉の奥で唸る。しかしながら、外から見る限りでは、やはり何の変哲もない温泉宿なのだ。
 やはり中に入ってみない事には、調査は進められない。
 警戒心を緩めぬまま、宿に入っていく。
 シスターと学生。奇妙な取り合わせだが、しかしそれが様になっていれば風景にとって違和感にはなり得ない。
 それとも接客のプロなのか、温泉利用客として中居さんは笑顔で案内してくれた。
 √能力者として活動する者といえば、その力は多くが戦いに傾いている。
 戦闘に従事し、日常に対する余裕も、誰かに笑いかける心遣いも、いつしか疎かにしていたろうか。そう思ってしまう程に、いざ接客のプロを目の当たりにすると自分たちの表情の乏しさを思ってしまうのであった。
 接客と言えば、あの星詠みの少女は、クレープを売っていると聞いたが、あれが接客をできるのだろうか。
 どちらかと言えばあの笑顔は、人を食ったようなものに近い気もするが……。
「エルさんの仰ったとおり、色んなお湯があるみたいですわね」
 ちょうど、彼女の事を考えていたせいか、シルバーは少しばかり反応が遅れてしまったが、たしかに提供された情報通りに、ここの温泉の種類はなかなか多彩なようだ。
 暁子は、もしかしてそこに違和感を覚えたのだろうか?
「なにか、気になることでも?」
「ええ、どこから先に回るべきか……事件のことは事件として、ゆっくりお湯につかりましょうかと」
「ふむ……」
 相手の懐へ入り込みつつ、尚もこの状況を楽しもうとする。なんと豪気な。
 単純に暁子が鉄十字怪人として凄まじい身体能力を得ているという裏打ちがあるからかもしれないが、場の雰囲気に馴染むことこそ、調査の本質ではないのか。
 緊張した気配を常に発していては、相手も警戒してしまいかねない。
 自分もまだまだ、精進が足りませんね。
 などと、シルバーは勝手に感心して、内心で暁子の豪胆さを称賛する。
 彼女には彼女の視点がある。独自のやり方で双方から調査するほうが、目新しいものが見つかるかもしれない。
「では、手分けしてみるのはどうでしょうか?」
「なるほど、全部回るとなれば、のぼせてしまいますものね。後で落ち合いましょう」
 固い握手。そして、それぞれに温泉に出向く二人。その認識は、ちょっとばかりずれてはいたが。
「はふぅ~……温まりますわぁ」
 ひとまず単身で選んだ温泉に肩まで浸かる暁子。
 普段は怪人の重装甲を身に着けている暁子は、その性別すら定かではない程だが、その肉体は14歳ながら成熟したそれに近く、改造人間の肉体は、生物として最大出力を発揮する肉体を維持しようとでもするのか。
 それはわからないが、だとすれば、動くたびに追従するかのような大きな乳房は、何のために成長しているのか。これがわからない。
 本人はそれを決して望んでいるわけではない。どれだけ怪力を発揮しようと、日常的にぶら下がるそれは、精神的にも視覚的にも重量を覚えるほどのものなのだ。
 だが、温泉に浸かれば、それは浮遊感を持ってくれる。休まるのだ。
「む、また大きくなったでしょうか?」
 ぽよんと存在を主張するそれが、いったい何の役に立つのか思案しつつ、温泉のもたらす幸福な温もりに身を委ねるのだった。
 一方のシルバーは、別の個室温泉に目を付けた。
 個室のいい所は、それなりの広さを確保しつつ、温度をある程度調節出来たり、ここではお好みでジャグジーの様に楽しむことも可能なようだ。
 それに、個室なら、多少妙な動きをしたところで目立つ心配もない。
 シルバーが怪しいと睨んでいるのは、温泉そのものだった。
 何かがあるとすれば、一番の目玉である温泉だろう。もっとも人に触れることが多いなら、仕掛けがあるとすればこれではないか。
 タオルを抱きながら、お湯を矯めつ眇めつしていたシルバーだが、見るだけでは、専門でもない者にはわからない。
 ならば、その正体を掴むべく、√能力を使いながら体験するほかない。
 身を清めるかのように、手桶で湯を浴び、その水質を肌身に感じながら、己自身を失うまいと心に決める。
 【奇跡否定】その右手で触れたならば、√能力を瞬く間に無効化する。
 つまり、何か温泉に仕掛けがあるならば、正体を見る可能性があるというわけだ。
「ふ、う……」
 湯船につかると、白い手足が、見ずとも上気するのがわかる。
 安堵の吐息が洩れてしまうのは、なんだかんだで、歩き回る内に体が冷えていたからだろう。
 全身を揉み解されたかのような解放感が、身体中の筋肉という筋肉を弛緩させようとしているかのような。
 それはそれとして、水質はややぬめりを感じる。温泉には違いなく、恐らく効能もあるのだろう。
「……何かあるかもですが、気持ちいいですね」
 何かされているような気はしない。そのことに違和感を覚えるようなことはあっても、日々の生活で蓄積していたらしい細かな疲れが剥がれ落ちていくような気持ちの良さは言葉にできないものがあった。
 探りは空振りに終わったろうか?
 個室の屋上を何気なく見上げたシルバーは、そこにキラキラとした何かが円を描いては消えていくのを見て、しばらくぼんやりとしていたが、あれはなんだ? と慌てて二度見することになる。
 錯覚だろうか。いくら見つめても、同じ現象は起こらなかった。
「……明星さんは、何か掴んでいるでしょうか」
 敵意の無さに油断していたことを悔いつつ、暁子の方へ望みを託しつつ、湯屋を後にして合流を急ぐ。
 思ったより長湯していたのか、暁子は畳のある休憩所のようなスペースで猫と戯れていた。
 戯れているといっても、ごろごろしている猫のリラックスする姿を和やかに観察しているだけのようだったが。
「こちらでしたか。何か、発見はありましたか?」
「いいお湯でしたわ。それから、猫がいっぱい」
「それは、見たままそうですね」
「生まれ変わったら、お腹いっぱいの猫になりたいという人もいますけど。気持ちがわかりますわね」
「しかしながら、いつまでも満腹なわけもなく、季節は巡り、いずれ日も沈みますよ」
「それはそう……あれ、もう休憩はおしまいですの?」
 穏やかに猫の様子を眺めていた暁子は、畳に背をこすりつけるようにごろごろしていた猫が、全身の毛並みを嘗めて整えると、すたすた場所を移動し始めるのを見送る。
 気まぐれなのか、それとも己を律する一定の緊張感を崩さないシルバーの空気が合わないとでも思ったのか。
 ともあれ、大声で喋る声を厭ったのか、歩き去る猫の尻尾を名残惜しそうに見つめる暁子は、その頭上に一瞬だけキラキラとした円環のようなものを見る。
「なんです、あれ」
「あの光……怪異でしょうか?」
 湯屋で見たあの輝きと似ているように見えるそれは、日常ではあり得ないものだが、今度こそ目の錯覚ではない。

夜久・椛

 冬の寒風、そしてどこか色褪せたようにも見える、明らかに車通りの少ない町々。
 駅から徒歩数分。その間、ほぼ田畑と宿泊所くらいしか見かけなかったが、件の温泉宿があるという温泉街に差し掛かると、ちょっとした建物が密集し始める。
 さびれかけた風合いを見せながら、なんとか温泉という資源にあやかろうと手を伸ばした形跡があちらこちら。
 その甲斐あってか、人通りなど賑わいが、どこか懐かしい情緒を醸し出している。
 夜久・椛 (御伽の黒猫・h01049)は、道中では鼻がむずむずしていたようだが、温泉街辺りに入ってからは、それも治まってきた。
 低気温、それと乾燥が、鼻の粘膜を弱くしてしまうようだが、この辺りは温泉が通っているためか、あちこちの建物から湯気が上がり、湿度も気温も高いようだ。
「……温泉旅館、謎の怪奇事件、そして猫さん……物語だと、伝奇もの?」
『そうだな。犯人の正体にもよるが』
 周辺でも売り込みの激しいのか、あちこちで無料で配られている観光案内パンフレットを広げつつ、旅行客を装う椛は、パンフの影にこっそり隠れるように伸びるしっぽ……のような蛇、オロチと敵の正体について考えながら現場へと向かっていた。
 鵺と呼ばれる妖怪の血を引く半妖である椛には、猫とヘビの色が強く出ているらしく、しっぽでありながら意思を持つオロチは良き相談相手のようだ。
『あれだな。何か感じるか?』
「ん、わかんない。入ってみないと駄目かも」
『よもや、温泉に入ってみたいだけじゃないだろうな』
「……色々見てまわろっか」
『……』
 表情のわかりにくい椛であるが、決して無感動なわけではない。
 もとより、中に入って調査する必要はあるだろう。そう考えて、オロチはひとまず閉口する。
 ところで、変温動物って温泉大丈夫なんだろうか。
 椛はちらりと考えたのだが、まあ、オロチはたぶん、妖怪なので平気だろう。たぶん。
 件の猫の温泉宿は、はなからそれを売りにしているのか、立て看板もあって目立つ立地にあった。
 劇画調のなんか怖い化け猫めいた絵が描かれているが、それは置いといて、なんというかこう、宿自体はこれと言って言う事は無い。
 趣のあるオレンジめいた木張りと漆喰の、ちょっと古めかしい感じの建物の周囲を、背の高い竹の柵が覆っている。
 全容を見ようとしても、湯気が濃くてよく見えない。
 やはり違和感を覚えるようなことは無いように思える。中から探るしかない。
 それに、暖気があるとはいえ、歩き通しで寒くなってきた。
 中に入ってみると、気のよさそうな中居のおばちゃんが笑顔で迎えてくれた。
 最近、若い子の利用が増えているだとか、どこかで宣伝でもしてくれのかとか、世間話に加えて、宿泊も温泉のみの利用も大歓迎とか、猫ちゃんがいっぱい放し飼いしてるので相手をしてあげてもいいとか、まあまあ、とにかくよく喋る。
 普段からぼんやりしている椛としては、色々説明してくれてありがたい所ではあるが、田舎のおばちゃんってこんなによく喋るのだろうか。
 よく喋るのである。
 田舎のおばちゃんは、良くも悪くも、若者が好きなのである。
『ようやく解放されたな。それで、どこから当たってみる?』
「ん、やっぱり……露天」
『ふむ、広い場所のほうが、色々目につくか』
 ここまで来たからには、と握りこぶしの椛の発言を、オロチは精一杯いい方向に取る。
 ちなみにだが、いくら田舎に珍しい若者とて、自身の尻尾と会話するような珍妙な行動は流石に目立ってしまう。
 それどころか、猫耳に尻尾を生やした少女など、さすがに店員にマークされてしまいかねない。
 ということで、幻影でさりげなく目立たなくしているようだ。
 そして、案内された通りに、椛は目当ての露天風呂へとたどり着く。
 細かい部分は端折っているが、まあ、世の中、あまり細かく書いてはいけない事もあるのである。
 作法に則り、手桶から湯を被り、冷えた手足に痺れにも似た熱を感じつつ、身を清めるように丁寧に身体を洗ってから、椛はその白い肩を湯に沈める。
 じんわりとした熱気が、全身の寒気を追い出して、そして緩やかに揉み解されるかのような解放感に包まれる。
「ん……寒い時期は、のんびり温泉も良いものだね」
 広めの露天風呂。女湯ではあるが、利用客はそれほど多くない。そういう時間に当たったのか。
 ともあれ、石造りの広い湯殿で手足をぐーんと伸ばすのは、心地がいい。
 さすがに外気があるため、冷えやすい鼻先がひんやりとするが、全身浸かっていると、それもあまり気にならない。
『露天風呂から見える、冬の景色も良いものだな』
 宿の裏手には自然の景色。どうやら小さな川に面しているらしく、せせらぎと川向の山というか、森の景色ばかり。
 冬と言っても、全てが枯れ木になるわけでもなく、雪がちらついているわけでもないが、山眠るという季語がある通り、落ち着いた静けさと色合いの落ちた緑というのも趣がある。
 縁に腕を乗せて、景色を見ていると、思わず飲み込まれそうにも感じる。
「なにか、怪しいものあった?」
『わからん。が、空が見えない』
「確かに、すごい湯気」
 違和感と言えば、ずっと真上の空が見えないほど湯気が濃いくらいか。
 天気は悪くなく、日当たりもあった筈なのに、湯気が晴れないのはおかしい気もするが。
 しかし、あまりにいい気分で、幸福に感じるのも無理はないか……?
 予定よりもだいぶ長湯をしてしまったが、幸いにもふらふらになるほどではなく、全身が茹ったかのように熱気を発するほどに温まった椛は、のぼせないように、休憩スペースへと足を運ぶ。
 その道すがら、レトロなガラスケースの冷蔵庫に入ったコーヒー牛乳が販売されているのを見かける。
 罠だ! こんなタイミングでは、買うしかない。
「んー……つめたい。温泉と言えば、コレだね」
 風呂上がりに甘くよく冷えたコーヒー牛乳が喉に心地いい。至福のひと時である。
『噂通り、あちこちで猫を見かけるな』
 一気に半分ほど飲んだところで、オロチが周囲に目を配っているのに気づいた。
 休憩スペースには、猫がたくさんいた。
 畳張りの座れる場所に、いくつも座布団やテーブル、軽食も頼めるようだが、座布団のいくつかは猫に占領されている。
 本当に数が多い。
 丸まって寝こけていたり、スフィンクス像のように座して瞑目していたり、もしくはあられもなくふわ毛のお腹を晒していたりと、その様子は様々だが、いずれも人に慣れているのか、くつろいだ様子だ。
「平和な感じ。日当たりのいい所は、みんな取られちゃってるな」
 猫の感覚はわかるのだろうか。
 一番怪しいと言えば、彼らではある。
 なんでここまでたくさん、放し飼いにする必要があるのか。
 と、そのうちの一匹が、前足をグーッと伸ばして丸まった背筋をピンと反らすと、とことことこの場を去っていくのを目にする。
 どうやら、上の階を目指しているようだ。
 宿泊施設も兼ねているため、上は客間だ。行く必要は無いが。
 なんとなく、露天風呂で気になったことが脳裏をよぎる。
 あの湯気は、ちょっと不自然にも思える。まるで、何かを見えなくしているかのような。
 野性の勘なのだろうか。何とはなしに、その猫を、椛は追ってみたくなった。
「……何が潜んでいるのやら」

矢筒・環
櫻井・ハク

 田舎の温泉宿。
 そして、若い男女。
 何も起こらない訳も……いや、待て、一応、これは仕事の筈では。
 √EDENにおける危機につながる予兆を、星を詠んで感じ取るからには、そこにはおそらく、他の世界から侵略にやってきた能力者が居る筈である。
 危険は付きまとう。
 しかしながら、温泉宿で一服しないことには、敵は尻尾を出さないというならば……。
 実際にその猫の温泉宿とやらを体験せねばなるまい。
 そう、普通に温泉宿を体験することに、何ら問題は無い。
 親しい友人や、もっと親しくなりたい誰かを誘って、心も体も一緒にあったかくなるという貴重な機会、という判断で参戦しても全く問題は無い。
 しかしながら、しかしながら……。
「あ、二人ですー。個室を取ってもらえますか?」
 一組の男女が、件の温泉宿を訪れる。
 気分のはずみ具合が声にも出るほど快活な女性のほうは、黒髪に眼鏡と落ち着いた雰囲気の割にカジュアルな装いが、フランクさを思わせる。
 気安さを思わせるのは、ひとえに伴っている少年との距離感が何だか妙に近いというのもあるだろう。
 矢筒・環 (漆黒に舞う金沙・h01000)は、きっと普段はもうちょっとだけ落ち着いたお姉さんなのかもしれないが、今回ばかりはテンションが高いらしい。
「あらあら、可愛らしいお客さん。最近はお若い方も多くて、元気をもらえますねぇ。うふふ」
 笑い皴が板についた気のいい感じの中居さんがにこやかに迎えてくれるが、含み笑いが妙な気を使っているようで、どうにも居心地が悪い。
 何か勘違いをしていないか?
 猫耳をほんのりフードで覆う少年こと、櫻井・ハク (ディメンションキャット・h02730)は、ちょっと人と話すのが苦手なのか、環に腕を引っ張られるままに個室に案内される。
 風光明媚と言えば聞こえはいいが、田舎に湧き出た温泉効果にあやかろうという努力を集めたような、まあ行ってしまえば古めかしい雰囲気溢れる温泉宿は、それでも客をもてなそうという心遣いのもと、綺麗に清掃が行き届いており……それに、話に聞いた通り、あちこちで猫が出歩いている。
「……暖かい場所を好むのはわかるけど普通の猫は温泉はどうだろう?」
 実はネコ獣人のハク。水場を苦手とする気持ちはわからなくはない。
 人として生活するうちにいくらか慣れてはきたものの、びしょ濡れになるのは、あまり好きじゃない。
 温泉の近くが地熱で温かいのは、宿に入ってから気づいたが、きっと温泉そのものにはあんまり近づかないのではないだろうか。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、あれよあれよと、環の手に引かれて温泉付き個室に到着する。
 宿泊施設でもあるが、温泉利用だけというのも可能。つまりまぁ、ご休憩もできますよという触れ込みである。
 その場合はリーズナブルなお値段で提供してくれるそうだが、ご休憩と書くと、どうにも聞こえが悪いが、きっと気のせいである。
「お部屋の戸は、閉めてもらってもいいけど、宿の者は猫さんの為に少し開けておくこともあるから……ああでも、ここはちゃんと閉めていったほうが良いでしょうかね」
「あっはは、お気遣いなくー」
「……どうも」
 そそくさと去っていく中居さんを手早く見送り、いよいよ個室には二人しかいなくなる。
 この時を、環は待ち望んでいた。
 漆器を扱う工房で今なお修行中の蒔絵師をやっている、いわゆる伝統工芸の職人である彼女は、個人で店を構えるほどの評価を得ているものの、その日常は気楽とは程遠く、作品の制作や営業、その他諸々で、人に作品にと、なかなか忙しい日々を送っている。
 特に、ハクと出会ってからは充実しているのだが、その時に自覚したちょっとした嗜好を満たせる時間はあまり無かった。
「……どうする、環お姉ちゃん。順番にお風呂にする?」
「そんな、もったいない! 折角個室を取ったんだし、混浴ってことにしよっ。こんな機会は早々巡ってこないわ」
「いいけど……さすがに水着とか着ないと駄目だと思うな」
「ええー、ハクくん、お堅いなぁ」
 明らかに落胆する環だが、そんなことは想定済みとばかり、水着を前もって用意していたようだ。
 情熱のお姉さんは、ちょっとやそっとではめげないのである。
 何故か二人分の水着を前もって用意している準備の良さには、さしものハクも困惑するところだったが、水着が必要と言ってしまったため、もはや逃げ場は無さそうだ。
 この後、かなり攻めた感じの赤いビキニに身を包んだ環の姿にさらに面食らう事になるのだが、そこを描写すると長くなってしまうので割愛することにしよう。
「……環お姉ちゃんは赤い水着がよく似合ってるね」
 ハクとしては、その一言に尽きるようであった。
 そして対する環はというと、その一言で十分であったのか……。それとも、ハクの水着姿となったことで露となった華奢な体躯に見惚れたのか、しばし言葉を失っていた。
 そしてややあって、
「いい……中性的で華奢なんだけど、線の細さの中に男の子の節を感じさせる角ばった感じ? それも、育ちかけの丸みもあって……ああ、眼鏡、眼鏡!」
「落ち着いて?」
「そ、そうね……早口になっちゃうところだった。冷えちゃう前に、お背中流しましょう」
 なんだかんだと言いつつ、和気あいあいと背中を流し合うことに。
 しかしながら、この空間は、一つ一つの行動が(主に環にとって)核地雷めいたイベントの連続であった。
 背中を流す。洗いっこ? こは、何事ぞ。
 漆器に精緻な金箔細工を施す蒔絵職人の凄まじい集中力を持つ環をして、思考が一瞬凍り付く。
 それは、理性とのせめぎ合いであった。
 込み上げる血潮が、今にも情熱の押し寄せるままに噴き出してしまいそうなほど、鼻の奥をツンと刺激する。
 無防備な背中を、思わず抱きすくめるようにして、女に生まれたこの身体を最大限に活用して泡塗れにしてやりたい、我ながら低俗極まる欲求に駆られてしまうが、そんなことをすれば、今まで積み上げてきた信頼関係にヒビを作ってしまいかねない。
 我慢だ。我慢。色は即ち是空なり……。そうして、心を落ち着けて、国宝級の彫像でも扱うかのようにハクの背を磨いていく。
 そうして、手の感触でタオル越しに感じる、見た目の細さとは裏腹に、確かに感じる体温。そして、男性として成長しつつある肩肘の固さ、筋肉のしなやかさ。
 眼鏡をはずしているからこそ、手先を通じて感じ取れる、その存在感、返ってくる弾力のぬくもりを感じずにはいられない。
「ハクくん」
「……ん?」
「前も洗ってあげようか?」
「……背中はやってもらったほうが楽だけど前は大丈夫だよ」
「そっか、じゃあ交代ね。よろしく」
 時々変な事を言うが、ハクは、なんだかんだ、この優しい環の事を嫌いになれない。
 女性の扱いというものを、世の男性ほど知らないというのもあるかもしれないが、だからこそ、家族と同じように扱うべきというくらいには、彼にとっては得難い人物の一人なのだろう。
 ハクは環ほどの職人ではないが、個人的な趣味として芸術を鑑賞するという形で楽しむ。
 知識がとりわけ深いというわけではない。ただ、心を動かされるものに出会いたいという欲求から、何かしらの作品に心惹かれるだけなのかもしれない。
 そういった意味で、環の作品へ向かう姿勢は、尊敬に値する。
「……このぐらいの強さで大丈夫かな?」
「気持ちいい。ハクくんの優しい手つきにうっとりだわ。もっと、好きなとこ洗ってもいいんだからね」
「……うーん」
 作品に向けて、鬼気迫るような真剣な眼差しを向ける環の姿は好きだ。
 ただ、最近は、妙に血走ったような、とろんとしたような、妙な視線を向けてくるのは困ってしまう。
 好きなところを洗えと言われても……。腕の筋肉の付き方、広背筋、腹斜筋、大殿筋の付き方、脂肪の乗り方を考えると、やはり座り仕事が長くて凝り固まっているような感じも感じる。
 長く、あの美しい作品たちを作り続けるために、少しでも疲れを取ってあげられたらうれしい。
「そんなところばっかりでいいの?」
「……たまに、腰痛そうにしてるから」
「うっ、いや、ずっと同じ姿勢の事が多いから……」
 ハクの優しい手つきによって、環は今にもアグレッシブビーストモード寸前だったのだが、それを知ってか知らずか、毒気を抜かれてしまったりで、情緒はめちゃくちゃである。
 やはり邪念がいけないのか。
 とはいえ、心配されるのが素直に嬉しい気持ちもあり、やはり無敵なのではと、自らに生じた性癖に謎の優越感を覚えつつ、二人は仲良く湯船につかる。
 入念に洗いあい、そして肩を並べて湯船につかると、色々細かい事とかどうでもよくなってしまいそうになる。
 温泉にはきっと、そういう効能があるに違いない。
「……気持ちいいね。尻尾までリラックスできるよ」
「おねーさんは、このゆらゆらしている尻尾をいじくり回していいかどうか、葛藤しているわ」
「……あんまり強く掴まないでね」
 こんなに肩が触れて、ドキドキ心臓が高鳴っているのに、穏やかな気持ちなるのだから。
 ……などと賢者になったかのような高尚な思惑も、風呂上りに一つしか用意されていないオフトゥンに、再び興奮してしまう環であった。

西園寺・つぼみ
オフィーリア・ヴェルデ

 田舎のさびれた町の中に、これ見よがしに観光案内パンフレットが配り配られ、ここを訪れた者はだいたいこの辺りに案内される。
 つまりは、この町には、これくらいしか見所がないと言っているようなもので、温泉街から一歩でも外れてしまうと、地味な絵面の田畑と深い自然が顔を出す。
 それはそれで見どころがあるのかもしれないが、今回はそこいらが舞台ではない。
 国道沿いの川に面した一帯だけは、人通りと建造物の賑わいがあった。
 ここを訪れる者たちに、せめて楽しんでもらおうという趣向を凝らされたあちらこちらからは蒸気のような湯気が上がり、サービスエリアめいたお土産屋さんなどの見覚えのあるような出店から、他ではちょっと見かけないような温泉饅頭や卵を売っている。
 ついつい目移りしてしまいそうだが、それもひとまず置いておこう。
 件の温泉宿の場所はすぐにわかった。
 ちょっとリアルタッチの猫の描かれた立て看板が添えてあるのを見れば、宿側もそれを売りにしているのがすぐに見て取れた。
 ただ、傍から見る限りでは、何が怪しいのかはさっぱりわからないので、やはり入ってみるしかないのだろう。
 それにしても、と、西園寺・つぼみ(無貌のモデル・h00957)は考え込む。
 あくまでも星詠みから聞いた情報に過ぎない事だが、いくら猫ちゃんと戯れたとて、いい温泉だからとて、骨抜きになるほど気持ちよくなれるものか……。
「あのう、もし?」
「んん?」
 おっとりとした感じの声に振り向いてみると、やはりというかおっとりした感じの女性がつぼみと視線が合ったのを確認したかのようにほっと息をついた気がした。
 シンパシーのようなものを感じたのは、お互いが即座に√能力者であることに気付いたからだろう。
 オフィーリア・ヴェルデ(新緑の歌姫・h01098)は、√EDENの出身ではないが、その世界における温泉文化、そして猫ちゃんに興味惹かれてやってきたというわけだ。
 地元のルールは地元の方に聞いてみるのが手っ取り早い。
 そう判断して、つぼみに声をかけたようだ。
「なるほど、でも大丈夫? 他のお客さんみたく、へにょんへにょんのアッパラパーになっちゃうかもよ?」
「なった場合は、そういう怪異などが居るという事にもなるわ。それなりの備えはしているつもり」
「わかった。温泉レポなんてのは、こちとら何度も……いや、いいか、この話は。よーし、じゃあこっちの温泉体験と洒落こもうか」
 調査もする。温泉も体験する。両方をこなすべく、二人は宿へ突入するのであった。
 それにしても、つぼみは簒奪者に素顔を奪われているらしく、顔を布で覆っているにもかかわらず、その表情はよくわかるような気がする。
 きっと、顔以上にリアクションや身振りなどの表現が多彩なのだ。
 一見すると奇妙な井出達ではあるが、その物腰は常に自信あるものであり、それであるため周りも面布越しであることをほとんど意識しなくなる。
 現に、彼女たちを迎えた仲居さんも面食らったような顔をしたのも最初だけで、おすすめの温泉を聞いてみれば明るい笑顔ですらすらと話を進めてしまう。
 すごいなぁ。と感心していたオフィーリアの足元を、すそそっと通り抜ける感触に思わず縮み上がってしまう。
 見れば、件の猫ちゃん。本当にあちこちに放し飼いされているらしく、人にも慣れているようだ。
 身を擦り付けてくる猫ちゃんを、屈みこんでわしゃわしゃしたり、喉元をこしょこしょしてみるが、触れてみる限りでは普通の猫と変わりない。
 √能力者なら、違和感があれば気づく筈だが……猫は違うのか?
「おーい、行くわよー。露天が、今はほぼ貸し切りだって」
「まあ、それはいい時間に来たわね」
 つぼみに呼ばれて、物欲しそうな猫の視線を名残惜しそうに振り払い、せめて手を振って温泉へと向かう。
 一応、宿泊施設ではあるが、温泉利用のみの、いわゆるご休憩も承っているそうで、近所からの利用もそこそこあるらしい。
 もっとも、そういう客層は、別の家族湯などが主流だそうだが。
「田舎だと思ってたけど、結構いいロケーションじゃない?」
「ドラゴンファンタジーのほうにも露天の湯はあると聞くけど、雰囲気が違うものね」
 さすがに目玉にしているだけあって、露天からの眺めはなかなかのものだ。
 見える景色は、ほぼ川を挟んだ山というか、森というか、自然の景色でしかないのだが、冬の閉じた山の褪せた緑の景色は、これはこれで見応えがある。まるで、温泉の水面にも木々の緑が写り込んでいるかのようだ。
「温泉も多分、普通の温泉ね。普通って言ったら、失礼かな。あ、髪は纏めといたほうがいいかもね。温泉って、結構髪傷むのもあるから」
「そうなの。よ、よ……よいしょ。これでいいかしら」
 細かくは描写しないが、元モデルと元の世界では歌姫と持て囃されるほどの美貌の持ち主である。
 細かくは描写しないが、それはもう、スゴイのである。
 筆者にもう少し心得があれば事細かに余計な事を書くのだろうが、それはまた別の機会にするとしよう。
 適度に身体を洗い、そして湯船につかれば、これまでの寒風を忘れ去るには十分な極楽であった。
「ふいー……で、なんか妙なものは見かけたかしら?」
「猫さんしかみてないわね。他にどんな猫がいたか、覚えている?」
「猫の種類までは、気にしてなかったな。とにかくいっぱい見かけたけど……ほら、あそこにも」
「ほんとう……でも、さすがにこっちに来たりはしないわね。濡れるのを嫌がるもの」
 猫。それは、考えてもみれば神出鬼没で謎の多い生き物だ。
 考えるまでもない事だが、数が多いことにまず違和感といえば違和感がある。
 そこを気に留める必要は無さそうだが、こうも頻繁に見かけると、何かを見落としている可能性もなくはない。
 周囲の視線を遮る竹の塀をスロープの様に優雅に歩く姿は慣れたものだが、そこはバランスが悪そうだ。
「猫が怪異なのか、それとも猫を操る侵略者がいるのか……どうなのかしらね」
「さあ、どうかな。状況が動くまで、のんびりしてってもいい気がしてきたわ……」
 温泉に浸かって気が緩んでいるのか、手足を伸ばしてくつろいでいると、あっと気づいた時には、スロープを渡っていた猫が足を踏み外すところだった。
 落ちる! と思った次の瞬間には、猫ちゃんは不自然に空中で反転したように柵の上に戻っていた。
 いや、今明らかに落っこちかけていたが……。
 さすがにそれは見過ごせない。と、お互いに顔を見合わせる。
「どうする?」
「ひとまず、温泉を出ましょうか。湯冷めしてしまうわ」
 どうやら、猫ちゃんは尻尾を出した。
 早急に温泉を出て、身体を拭いて、着替えて、猫たちを徹底的に洗うべく、行動に出る……。いや、その前に。
「待って。これを」
「えっ、これは」
 二人の前に立ちはだかる、四角いガラスケース状の冷蔵庫には、瓶入りのコーヒー牛乳とフルーツ牛乳。
 いや、今は、あの猫ちゃんを追うべきか。
 いや、風呂上がりのフルーツ牛乳は、必要。
 紙製の蓋をはずすと、手を腰に、ぐいっと冷たく甘いフルーツ牛乳を喉奥に流し込む。
「んぐ、んぐ……ぷはっ! よし、行くわよ」
「ええっ、ごちそうさま」

ラーレ・レッドフード

 その町の事を知っているわけではなかった。
 ただ、まあ、聞いた感じと見た感じ、大きな違いはなかったな。
 ラーレ・レッドフード(おとぎの暴虐者・h00223)は、その過去を他人に喋りたがらない。
 黙っていれば可憐にも見える顔つきも、飴のような艶やかな金髪も、有名なおとぎ話に出てきそうな赤いフードも、そのいずれもが、彼女の出自を解らなくしている。
 どこからやってきたのか、何を背負うに至ったのか。
 ただまあ、それは今は関係ない。
 彼女はただ普通に、そう、他の√能力者と同じように、どこかしらに欠損を抱えているからこそ、世界の欠落を検分することができる。
 しかしながら、あまりにも少女趣味に近い装いは、田舎の日本にはちょっとだけ浮いてしまいかねない。
 ラーレはそんなことなど気にしないが、もしも本当に、温泉旅館に侵略者が潜んでいるなら、警戒されてしまいかねないか?
 まあ、動きがあるなら、それはそれで役に立つか。
 そんな、取り合えず壁があれば殴ってみるタイプの少女は、件の猫の宿を前にして、しばし考える。
 温泉か……。
「別に風呂ギライってわけじゃねーんだけど……しょーじき、変に幸福まみれで動けねーってのもアレだなー」
 聞いた話では、このさびれた温泉旅館を体験しちまうと、絶望的な気持ちでも幸福でいっぱいになってしまうんだとか。
 どんな気分だか、興味が無いではないが、勝手に気持ちを動かされるなんてのは、ぞっとしない。
 このフードの下、固く結んだ自分の気持ちというものは、誰にも冒されざるものだ。
 面倒くさい。旅館ごとブッ飛ばせれば、さぞ楽ができるだろうに。
 しかし、そんなことをしようとすれば、逃げられる公算が高くなるんだと。
 こちらが予知をすれば、相手も予知ができる。厄介な時代になったものだ。
「かといって、真面目に仕事するって柄でもねぇしなー」
 単純に敵をブッ飛ばすっていうなら、喜んで銃を手に取るところだが、どうやらこの国は、銃を持ってると捕まるらしい。
 なんでだ。要るじゃん、銃。
 選択を迫られ早くも悩むことになったラーレは、ちょうど胃袋が栄養を欲しがっている主張を耳にする。
 腹が減ってはなんとやら。
 いや、温泉は警戒して、メシはいいのか。と言われたとて、空腹で事に当たるのはいいことがない。
 フードファイターですら、試合に臨む前に、消化を促進するため素パスタやおにぎり、野菜ジュースなどといったものを口にするという。
「ま、飯食って変化がありゃ、それはそれで、比較になるだろうしな」
 飯が食いたいだけじゃないのか。などという事を言ってはいけない。
 おそらくは、温泉宿なので、普通に温泉や宿泊を勧められるとは思うが、そこは交渉次第だろう。
「いらっしゃいませぇ。あらあら、可愛らしいお客さんですね」
 出迎えた仲居さんらしきおばちゃんは、笑いジワのあるほど笑顔のよく似合う気のよさそうな雰囲気であった。
 √能力者には見えないが、何かに影響されたような妙な雰囲気も感じない。
 普通にただのいいおばちゃんに見える。
「アーッス……飯ぃ、先に食いたいんすけど」
 どう、した手に出たものか、おばちゃんの明るい雰囲気にわずかに言い淀んだが、当のおばちゃんは呆気にとられた風も一瞬、すぐに親しみを取り戻す。
「あら、そうですかぁ。結構ですよ。食堂にご案内しますね。うふふふ」
 意を汲んでくれたらしい仲居のおばちゃんに案内されるまま、ラーレはどこか手持無沙汰で食堂へ足を運ぶ。
 そこで注文方法などをサラッと聞きつつ、新たな来客に仲居さんがいなくなるのを待ってから、ラーレはあれこれと適当に注文を出しつつ、準備の時間を利用して旅館を散策することにした。
「まーじで猫多いな。食堂に入ってこねーのはいいけど、普通に毛とかやばいだろ。どうなってんだ」
 食堂のすぐ隣は休憩スペースの様になっているらしい。温泉利用の客が、のんびりと過ごすような場所らしく、食堂にも近いので軽く食事もできるのだとか。
 猫が放し飼いされている事情から、仕切りのためドアが付いているものの、こんなの隙を見て侵入してくるかしこい猫も居るんじゃないのか。
「その辺、弁えてんのかねぇ。一度餌付けしちまうと、覚えるんだよなぁ奴ら」
 施しに慣れてしまったどこかの大学の猫は、屋外で学生が袋を開ける音を聞きつけると、図々しくも膝まで登って来るのだとか。
 それを考えると、あまりにも弁えているというか……かしこい猫ちゃんたちですねぇ。
 あやしいなぁ。
 そこまで考えたところで、お腹がぐーと鳴って脱力、うなだれてしまう。
「飯にすっか。そろそろ来てんでしょ」
 どうやら準備はもう整っていたらしい。
 様子を見に来た仲居のおばちゃんが、あれやこれやと世話を焼きたそうにしていたが、
「いやちゃんと食べれるんで。箸とかも使えるんで大丈夫です」
 そこまで頼りない外人のガキに見えるのだろうか。
 もっとたんぱく質を摂るべきか。
 などと気難しげに眉を寄せつつ、箸と椀を手に取る。
 食事はなんというか、普通だ。
 ご飯に|羹《あつもの》に、小鉢と、それから焼き魚に山菜の天ぷら。野菜中心で、あっさりしたものが多めだ。
 それらを静かに食べる。
 おかしい所がないか、色々と調べながら味わうのだが、困ったことがある。
 小さめの川魚を一尾丸々塩焼きしたらしい焼き魚はまあいい。尻尾に飾り塩までされていて、素朴だが丁寧な仕事だ。
 山菜の天ぷらも、それぞれ趣向が凝らしてあって、素朴だが丁寧な仕事だ。これしか言ってねぇな。
 羹も実においしい。透き通った出汁に丁寧な仕事を感じる。
 小鉢には、きんぴらごぼうと海苔の佃煮。こいつらがちょっと問題だ。
 おかずになり過ぎる。
 知らなかった。こんなに、お野菜でご飯がススムなんて……。
 食事の時間は、幸福のひと時だ。
 何かを消費するというのは、楽しい時間なのだ。
 お金を浪費するとき、銃弾を残らずぶっ放すとき、飯を食っているとき。
 そんなとき、人はもしかしたら、消費した分、満たされる。
「んむ、んむ……あん?」
 ご飯を頬張るのに一生懸命になっていたラーレは、ふと頭上、天井付近に、なにか靄にも似たモノを目にする。
 温泉宿だし、湯気かとも思ったが、どうやら違う。
 きらきらとラメでも吹いたかのようにほんのり光を含むそれは、うっすらと天使の円環のようなものを描いては、すぐに消えていった。
 まるで、こちらが何か夢中になった。いや、幸福を感じた瞬間に現れたようにも思えたが……。
「くっそ、メシの味がわかんなくなっちまったじゃねーか」
 ホントに怪しいものを見つけてしまった事に、やや残念な気持ちになってしまうラーレであったが、ごはんはしっかりお代わりするのであった。

黒後家蜘蛛・やつで
白兎束・ましろ

 温泉に猫が出るらしい。
 話半分で聞いた内容には、ちょっと語弊がある。
 放し飼いをしているだけであって、猫は本来、濡れるのが嫌いだそうですよ。
 それはそれとして、少女たちは、件の温泉宿を前に仁王立ちしていた。
 ここに、猫がいる。温泉がある。
 ここに来るまでの道のりは、正直、パッとしない田舎町だったが、件の猫の温泉宿は、入り口の立て看板からして、なかなかのファンキーだ。
 なんといっても、劇画タッチの猫の肖像が目を引く。ちょっとやり過ぎにすら見える。
 黒後家蜘蛛・やつで(|畏き蜘蛛の仔《スペリアー・スパイダー》・h02043)は、猫を尊敬している。
 愛らしい見た目、仕草、計算されつくされたかのようなあの造形を、愛される形として理解している節すらある。
「その不定形ボディで隣人として生活圏にするりと滑り込んで愛される、ふてぶてしき生存戦術なのです。
 ヒトの繁栄を学ぶのがやつでの目的ですが、ネコからも学べることはあるはず」
「あー、はいはい、お嬢様はとーってもかしこくございますねぇー。
 いやー、ネコっすね。ましろちゃんもネコと和解するっす!」
 熱く語るやつでの傍らには、いつもメイドの少女がいる。
 白兎束・ましろ(きらーん♪と|爆破《どっかーん》系メイド・h02900)は、基本的にはやつでの物言いを否定しないし、お嬢様の事が大好きではあるらしいが、話が長くなりそうな時には、適当なところで流すのも素敵な付き合いのコツである。
 こうして二人して腕組みにどーんと並び立ってかっこいい雰囲気を出していては、いくら子供二人といえども、通行の妨げになってしまう。
 よくできたメイドであるましろは、お嬢様を非難の目に晒してはいけない。
 なので、話が長くなる前に、やつでを旅館まで案内するのであった。
「ふ、うちのメイドはまったくせっかちなのです。では、さっそく、調査を……」
「お嬢様、調査よりまずは温泉っすよ、温泉!」
 実に手早く、そして卒なく仲居のおばちゃんにご挨拶と利用の案内などをこなしていく実は有能らしいましろの姿に、いよいよ調査の腕が鳴る。と後方腕組みお嬢様から行動に移そうとした矢先──、ふたたびやつでをお迎えに上がったましろは、頭に折り畳んだバスタオルと、手元には籠に入った入浴セット。
 なんという手際の良さ。
 そこまでお膳立てされてしまっては、吝かではない。
「ましろが休みたいというなら、労をねぎらうのも主人のつとめ……猫の謎を追うのは温泉で休んでからにしましょう」
「おっけーす、そうと決まれば露天へゴーっすよー!」
 是とするやつでを、まるで凧のようにひらひらさせる勢いで引っ張り、ましろは滑るようにして脱衣所へと突入する。
 籠の鳥の如く、甘やかされて育ってきたというやつでと、そしてましろもまた、それなりの仕立てのいい服を身に着けている。
 要するにまぁ、面倒くさいお手入れが必要だったり、着たり脱いだりもちょっと手間な感じなのだが、そこはメイド、素早い手際でぱぱーっと剥ぎ取るかの如く脱がしにかかり、瞬く間に畳んでしまう。
 ましろ自身も、レイヤーを外すかのような早業でパッと脱いで、その傍からきっちり畳んでしまいこむ。
 うりゃーっという具合に準備を済ませて、ちょっと肌寒いままで露天へ挑む。
 その足取り軽く、ほっそり未発達の手足もしゃなりしゃなりと、堂々としたものだ。
 子供だからね!
 そこからの手際も、うりゃーっとしたもので、お嬢様なのでされるがまま基本的にましろ任せのやつでと、ついでに自分もあっという間に全身泡に包まれる勢いで、うりゃーっと洗ってしまう。
 子供だからね! いろいろ、描写しちゃまずいからね!
 あっという間に、湯殿にどーんである。
 話題の露天は、格式高い……訳ではないが、宿の裏手の川向の山々がなかなか美しい、なかなかのロケーションであった。
「ほー……開放的で、いいものなのです」
「やーあったかいっすねー! これが温泉ぱわーっすね」
 全身を揉み解されるかのような、ほんわかとした熱気。
 鼻っ柱はちょっと冷えるけど、身体の芯までゆっくりと温まる心地よさに、思わず相好が緩むのを感じる。
 ちょっぴりせっかち気味なましろも、ふうと息をついた次の瞬間には、まっしろな肌が赤らんで、ともすれば冷たげな魅力に艶やかさすら覚える。
 自分はどうなのだろう、と自分の頬をぺたぺたと触ったりするものの、自分自身をまじまじと見るのは鏡でもない事には。
 どこかに無いかなと、辺りを見回してみると、周囲は黄色味を帯びた竹の柵と、ごつごつとした岩場、そして、猫。
「あっ、ましろ! 猫が温泉にいます!」
「ああ、本当にネコがいるっすね。よほど慣れてるんすかねー」
「これは何を意味してるのでしょう」
 なにやら岩場に鎮座して、瞑目する猫は、一瞬、置物か何かと勘違いするほど微動だにしなかったが、こちらが騒いだためか、ぴくぴくっと耳を動かす。
「もしやお湯のつかりかたに秘密が? 猫から出汁が出てる?」
「いや、お湯には浸かってないっすよ。もしそうだったら、ネコ毛が」
 猫に触るは吝かではない。しかし、ネコの抜け毛は、掃除がめんどい!
 戯れるたびに、お風呂に入らなければならないほど、特に換毛期はスゴイのだ。
 件の猫は、たぶん、温泉が通ってるここいらの岩場があったかいからご休憩しているだけではないのか。
 じぃぃ~っと、相手が人なら失礼に当たるんじゃないかというくらいにまじまじと観察するやつでの視線にいい加減気づいたのか、ちらと猫さんが目を開く。
 なにやらやつでと温泉をちらちら交互に見て、前足を伸ばし、温泉の水面を、ネコパンチ。
 ぱしゃぱしゃと手を濡らす。水場は苦手じゃないのか。
 しばしそうして戯れたかと思えば、ハッと小馬鹿にしたかのようにふいっと視線を外して、とことこ歩き去ろうというところ。
 今の儀式はなんだ。ただの、煽りか?
「ややっ、猫が逃げます追いかけますよ、ましろ!」
「はいはい、オトモしますよーっと、その前に、よく拭かなきゃ、せっかく温まったのに湯冷めしちゃうっすよ!」
 ぺたぺたと素足の音を響かせて、素っ裸のまま追いかけようと夢中になるやつでを、どうにか脱衣所にまで誘導するのに、ましろは機転を利かす羽目になるのであった。
 それにしても、やはりナチュラルに人を一段下に見ている節のある猫さんとはいえ、賢過ぎると思うのは、気のせいだろうか。
 それはやはり、違和感と思っておくべきなのだろうか。

小明見・結

 ほかほかと、まるで出来立ての料理のように、あちこちから湯気が上がる。
 場所で言えばそれなりに辺鄙で、温泉の通う川沿いに構築された温泉街から一歩でも道を逸れると、あっという間に寒村めいた田畑と大自然が顔を出す。
 そんな場所なので、この町に住まうきっと誰もが、この温泉のもたらす利益にしがみ付こうと考えたのだろう。
 意地悪な言い方だが、観光を推進しているだけあって、ここいらの見栄えは悪くない。
 とはいえ、元が田舎なだけあり、野暮ったい雰囲気は拭えないものの、それはそれで、なんというか素朴で居心地の良さを感じなくもない。
 というのが正直な感想であった。
 小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)は、この居心地の良い雰囲気の温泉街に、√能力者が紛れ込んで悪さをしているというのが、ちょっと信じがたいものだった。
「辛いことを忘れるほどの「幸せ」……ねえ」
 果たして、それを悪と断じてよいものか。
 世に俗と言われるものは数あれど、低俗とされているものが高尚な文化と比較されて卑下されることはあっても、決して不必要とされないのは、それを求める者が居るからだ。
 結個人が気に食わぬ、とても正視に堪えぬほどの低俗でニッチな文化だとしても、もしかしたらそれが誰かの絶望を抑制しているかもしれない。
 何かの救いになっているのかもしれない。
 仮にそれが、人に幸福を感じさせるのならば、ひとえに悪とは断じることはできないのではないだろうか。
 何の権利があって、そんな一見すると善行のような侵略を阻む必要があるのか。
 考えたところで、そこに独善以上の答えは出ないのかもしれない。
 そもそものお話をすれば、√能力者が他世界からの侵略を阻む理由は、インビジブルの略奪を防ぐためと言える。
 たとえそれが表向きに善行であったとしても、この√EDENを支えている世界の均衡を崩し、崩壊させてしまうものならば、排除しなくてならない。
 そこに軋轢を感じ始めるのは、個人の善悪感情というものだろうか。
「ちょっと面倒くさいことを考えちゃった。争いが無いに越したことはないけど、被害が出てるんじゃ、解決するしかないものね」
 物事を暗い方向へ考えているのは、疲れている証拠かもしれない。
 心も体も、ひとまずはリフレッシュ。を兼ねて、いざ、温泉宿に調査をしに行こう。
 √能力を使えるようになったことをきっかけに、見える世界が広がったことで色々な技術を学んでいるとはいえ、基本的には普通の学生である結は、その価値観を大きく変えてはいない。
 一人で遠出をして、温泉旅館に小旅行という字面にしてしまうと、ちょっとワクワクしてきた。
 いやいや、あくまでもこれは調査ですよ。
 心の中で罪悪感が育たぬように、小悪魔めいた少女の許す心が注釈を入れる。
 仲居のおばちゃんは、気さくでとてもフレンドリー。いかにも仕事が楽しくてやってますという雰囲気が、顔に刻み込まれた笑いジワに出ているよう見受けられた。
 直感的に、この人はいい人かもしれない。と思うということは、この人は√能力と関係ないのだろうか?
 ぼんやりと考えながらも、温泉利用のために脱衣所で入浴の準備をする結は、彼女なりに周囲を観察してもいた。
 たしかに、猫とすれ違うことが多かった気がする。
 あんなに居たら、しょっちゅう毛だらけになって、入浴が捗ってしまうのではないか。
 温泉宿なので宿泊は当然可能なのだが、温泉だけ利用することも可能で、なんならご飯だけという奇特なお客さんも居なくはないらしい。
 結の訪れた時間も時間で、どうやら入浴客がそれなりにいるタイミングだったようだ。
「ふー……ああ、何も考えられなくなりそう……」
 冷えた身体に、温泉の熱気がじわじわと染み入って、日常生活で生じるあらゆる物理・非物理的な疲れが洗い流されていくような気分だった。
 手足がうんと伸ばせる湯船。ごつごつとした感触。開放的なロケーション。何もかもが、爽快な気持ちにさせる。
 自分を年寄り扱いしたら、数多の先達に怒られそうなものだが、ごくらくごくらくと言ってしまいたくなる気持ちもわからなくもない。
 いや、うん、これは調査。これは調査なんですよ。
 そのまま液状化するまで身も心も緩んでしまいそうになるのを、辛うじて使命感が繋ぎ止める。
 ばしゃっと顔を洗うように頬を軽く打つと、改めて温泉客を見るともなしに見まわしてみる。
 場所が場所なのであんまりじろじろ見るわけにはいかないが、話に聞いていた通りだとすれば、自分が感じていたようなごくらくごくらくが異常事態とも考えられる。
 うーん、見た限りでは、どのお客さんも、自分と同じようにほっと緩んだ印象しかうけないが……。
 中には明らかに赤ら顔で、ぼーっとしている人も居る。
 いやいや、あれはちょっとのぼせているんじゃないだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
「えー……? あー……だ、だいじょ、ぶ……」
 だめっぽい。と思った次の瞬間には、座ったままこちらを見上げる姿勢のままバランスを崩して湯の中に沈み込みそうになっていたので、結は慌ててのぼせた温泉客を引き戻してよいしょっと肩を担ぐ。
 随分体温が高い。どれくらい長湯をしていたんだろう。
 ちょっとした騒ぎになったためか、すぐに仲居のおばちゃんがとんできた。
「この人、湯あたりしてるみたいです」
「あらあら、最近多いんですよねぇ」
「脱衣所の私の荷物の中に、ペットボトルの飲み物とかありますから、よければ使ってください」
「ありがとうございます。では、ちょっと肩をお借りしますねー。お客さんも、湯冷めしないよう、急ぎましょう」
 この状況でもにこやかさを失わないままてきぱきとのぼせたお客を運ぶのは、さすがはプロといったところか。
 十分に温まった結も、介抱するついでにあがることに。
 仲居のおばちゃんは、周りを不安にさせないために終始笑顔のままだったが、ほんとうに最近多いらしく、ちょっと疲れが見え隠れする気もする。
 どうやら、みんな満足はしているし、嬉しそうに体調を崩すお客さんにちょっとだけ参っている様子がうかがえる。
 やはり、妙な事が起こってるのには違いない。
「こうなると、猫さんも調べておかないと、きっとダメね」
 火照った身体を休めるべく、休憩スペースでペットボトルのお茶をゆっくり飲みつつ、あちこちでくつろいでいる猫さんにも目を向ける。
 日の半分くらいを寝て過ごすと噂の猫さんは、それはもう畳敷きの休憩スペースの座布団を、温泉客そっちのけで占領して寝こけている。
 誰よりも我が物顔をしているのは、さすがは猫さんといったところだが、そもそも怪しいと言えば、この数がそうだ。
 こんな放し飼いしていて、あちこち荒れてもいないで、綺麗な旅館を保っているのが奇跡的だ。
 おまけに、行儀もいい。
 野性の猫であっても、一度餌付けしてしまうと、あっという間にその作法を学んで、あっという間に図々しくなるのだ。
 図々しさで言えば、ここの猫さんは自由ではあるけど、おい食べ物寄越せみたいな感じで物欲しげな目を向けてくることはない。
「うーん、お客さんの品位がいいのかしら。それとも、他の猫さんと一味違うのかな?
 どうなの? どうなのー?」
 丸い座布団の上をいっぱいいっぱいに使って、半円状に寝転がる茶白のその緩くカーブする背を控えめに撫でると、耳をぴくぴくさせ、さながらよきにはからえと許容するかのように、ちらと結の顔を見返してくる。
 さながら皿に盛られたカレーライスめいた見事な寝姿には、思わず幼い子供を相手にするみたいな口調になってしまう。
 風呂上がりだろうと、思わず抱きすくめたくなるほど整った毛並みは、グルーミングを欠かさないのだろう。
 多頭飼いながら、生育環境は悪くないのが伺えるし、猫さんたちも人に慣れている様子だ。
 しかし、数が多いのは、やはり気がかりだ。
 そして尋ねる答えは、返ってくる様子がない。
 猫だから仕方ないか。
 これは調査のため。そう思いつつ、柔らかく滑らかな毛並みに、手が吸いつくようになかなか離せない状態で、うーんと考え込んでいると、唐突に猫さんは起き上がる。
 構いすぎたろうか。移動しようという様子を見せた茶白猫さんから所在なさげな手を放そうとしたところ、器用に尻尾を擦り付けてきたので、思わずビックリしてしまう。
「わ、なに? なにか言いたいことがあるの?」
 結を一瞥してしゃなりしゃなり歩き始める姿は、何かを伝えたがっているようにも見えた。
 気のせい。そう片付けてしまえばそれまでだが、どうにも拭えない違和感が、結を行動させる理由を作る。

第2章 集団戦 『シュレディンガーのねこ』


 ざわざわと、ひと気が一気に消え失せる温泉宿二階にもまた、猫が多数いた。
 しかしながら、他の場所にいるような猫たちとは様子が違い、その毛並みは風もないのに波打ち、今にも何かが膨れ上がりそうなほど不安定であった。
 この場所を見出した、或は、導かれたように辿り着いた君たちは、この空間のおおよそすべてに対して違和感を覚えるかもしれない。
 異質であった。
 それは、温泉でにぎわう下の階層と違って静かだからか。
 いや違う。
 すぐに、外や天井などのあちこちに、濃い湯気に隠れて視認しづらくなっていた光輪のような何かを見ることだろう。
 そして√能力者ならば、それが怪異であるらしいことに思い当たる筈だ。
『あーもう、みんな出てきちゃだめじゃーん。どうせ忘れちゃうにしても、キミたちの可能性は、フツーの人にとっては刺激が強いんだぞー』
 落ち着いた内装の中に、明るく若々しい少女の装いは、いっそ目立ち、異質であったが、何よりも異質なのは、彼女の背後に渦巻くように纏う光輪であり、それを全く意に介していないことだろうか。
『あれ、もしかして、キミたちはわかっちゃう人達なのかな? うーん、それは困るなー。ってことはさ、あーしらの幸せが分かんないってことじゃん? 幸せに死ねないって、カワイソーじゃない? そう、思うよね?』
 明るく、快活に笑う少女が君たちを一瞥する。
 フレンドリーに微笑む、その魅力的な表情には、ひどく心を落ち着かせない威圧感を含んでいた。
 そこには、決定的に欠落を覚えずには居られなかった。
 君たちはわかる筈だ。
 それが、自分たちと同じ、欠落を持っているもので、だからこそ、異質な気味の悪さと、有無を言わせぬ頑なさ。
『でもきっと、わかるよ。みんなネコ大好きだよね? こんな子達に殺されるなら、全然、断然、幸せだよね? 幸せに死ねるって、サイコーに幸運だよね? アハハ』
 鈴を転がすように笑うその顔は、喜びを伝播させる類のそれではない。
 背後の光輪が怪しく輝くと、彼女の周囲に潜んでいた獣たちが、その可能性を膨らまして恐ろしく愛らしい獣になるのを感じる。
 それは、猫なのか。いや、猫なのだろう。
 あらゆる猫の可能性を秘めた、それは、紛れもなく怪異なのだ。
 ただし、もはや可愛がる余裕はなさそうだ。
明星・暁子
夜久・椛

 にゃあ、にゃあ。
 温泉宿の二階層の床敷きを軋ませる、それは何者かの足音、そして鳴き声。
 猫、或はそれに類する何か。
 いや、それは紛れもなく猫。その筈だが、だとすれば、あちらこちらから感じるおぞましい気配は、愛らしい獣のそれか?
 いや、猫とて獣。その本質は肉食獣であり、闘争に駆られた猫とは、一説によれば刀剣を手にしてようやく互角とも言わしめるほどの猛獣だ。
 当然、√能力者は違和感を看破している。
 こいつらは、そんな生易しい存在ではないと。
「風呂上がりに、いい気分だったのにな……」
 明星暁子は、尋常ではない気配、その敵意を肌身に感じる。
 慣れ親しんだ、肌を粟立たせるかのような感覚は、そうであるからこそ温泉気分を台無しにさせる。
 湯上りの着流しも、この戦いには邪魔になろう。一息に脱ぎ放つ。
 14歳にしてすでに成熟した女性のグラマラスを余すことなく晒す……かに見えたが、脱ぎ捨てた衣服の下から現れたのは、無骨な鎧姿であった。
 やや陰気に見られる黒髪の少女のその本性は、鋼鉄の装甲を身に纏う怪人。
 あの一瞬で、筋肉や骨格は溢れんばかりに膨張し、鈍い輝きを帯びる重甲が二メートルに届こうという体格の膨張を押し留めるかのように顕現する。
 もはや、少女の面影など欠片もなく、残念そうに目を伏せるその横顔には、その名、鉄十字怪人を表す証が刻み込まれた兜に覆われていた。
「ここは危険だ。さがっていろ」
「……?」
 恐ろしい怪人の姿へと変貌し、すぐ近くにいた年端もいかない少女の盾になるようにして立つが、言われた本人はすぐに自分の事とは気づかなかったようだ。
 しかし、それが自らに施した幻影術が原因であると思い至り、すぐにその必要はもうなくなったと、頭とお尻を覆い隠していた術を解く。
 夜久椛は、鵺の血統。その頭には猫っぽい耳と、尻尾には意思を持つヘビを生やしている。
「ん、大丈夫だよ」
「味方か……!」
 ぼんやりとした表情の読みづらい椛ではあったが、この期に及んで慌てていない姿勢は、むしろ√能力者特有の違和感そのものであった。
 ゆえに、お互いが通じ合える。
『あれあれぇ? よそ見していていいわけ? アハッ』
「むっ!」
 物陰から飛び出す獣の影。それを暁子は両腕を立てて防御の姿勢で咄嗟に受ける。
 ギャウっと布を裂くような鋭い鳴き声と共に通り過ぎたそれが、暁子の手甲に火花を散らし、床板にふわりと着地する。
 それは、猫のような、全身からあらゆる猫のような何かを生やした、異形の獣としか形容ができない、怪異と呼ばれるものだ。
「ん……潜んでたのは、怪異だったか」
「怪異……。いわば化け猫の類であったか。ならば手加減は不要だな」
 おぞましく蠢く、猫の軽やかで完成された魅力とは程遠い怪物を見据え、そしてその奥に控える光輪を背負った女を見やる。
「まっていろ、すぐに片づけてそっちに行く」
『えー、やだ、コワーイ』
 強い視線で睨みつける暁子に、くすくすと含み笑いで躱す少女は、あくまでもまだ高みの見物といった様子だ。
 彼女が黒幕には違いなさそうだが、そのまえにこの怪異をどうにかせねばなるまい。
「……猫さんは好きだけど、殺されたくはないね」
「ただの猫と思わないほうがいい……手は考えているのか?」
『やることは一つだ』
「そのヘビ、喋るの……?」
「ん、可哀そうだけど、やられる前に、やる」
 椛のよき相談相手、オロチの存在にちょっぴり面食らう暁子だが、その隙に椛はスマホをタップ。
「影に潜むは、何者か? ──それは影鰐、影の怪魚」
 御伽図鑑であるそのアプリを開き、記憶を想起、この場に相応しい【御伽術式「影の怪」】により、猫の怪異の足元の影よりサメによく似た怪異を呼び出すと、その足に喰らい付いた。
 影の中を泳ぐ影の怪異、影を食われた者は、同じように身体も食われるとも言われるそれに足を取られ、身動きが取れなくなる。
 その隙に椛は自身の幻影を多数、影から起き上がらせ、自身も影の中に紛れ込むことで、猫の怪異の視界をかく乱。
「お前たちの相手は私だ」
 周囲が影の偶像で溢れると、殊更に暁子の巨体は目立つ。
 ならば、わかりやすいものから攻撃するべきだろう。
 そう判断した猫たちは、まっしぐらに暁子の巨体目掛けて爪を突き立てて飛び込んでいくのだが──、
 ごうっと、その周囲から砲火が舞う。
 彼女の周囲を守るように、「半自律浮遊砲台ゴルディオン」が三基、味方を撃たぬようその周囲を旋回していた。
 加えて、暁子自身も、愛用のブラスターライフルで迎撃を行いつつ、その姿は闇に隠れていく。
 暗闇と影。それに支配された空間は、もはや猫たちに感知できない未知の空間と化していた。
「一斉射を行う。撃ち洩らしを頼む」
「ん」
 浮遊砲台と連携して死角からの攻撃を提案する暁子に合わせ、息を吐くような言葉少なな了承とともに、影鰐が無数の牙で以て、猫たちを抑え込む。
 そこへ火砲が集中的に撃ち込まれ、猫たちは一瞬で消し炭と化す。
「数が多いな……逃げた奴もいる」
「任せて」
 影の中から飛び出した椛が、手にした柄だけの錬成妖刀「朧」から鞭のように撓う電撃の刀身を生やして、逃げた猫の怪異を打ち据える。
 暗雲をはしる雷雲のように唐突に現れた稲妻の鞭による不意打ちはひとたまりも無かったらしく、猫の怪異は全身をピンと伸ばして身体を硬直させたままその場に倒れ伏すしかない。
「さて、まだ居るらしいな……何体潜んでいるやら」
「こっちも、影鰐はいっぱい居る」
 数多くの猫を屠った筈だが、おぞましい気配が消えてくれない。
 しかし、二人は慌てない。
 もとより、怪異がそう簡単に消え失せるとは思ってはいないからだ。

クラウス・イーザリー
シルバー・ヒューレー

 ざわりざわり、と温泉宿の二階層が騒がしい。
 人混みの騒がしさではない。
 けだものが、軋む床板に爪を突き立てる音。
 毛皮の中に複数の可能性をくぐもらせている異音。
 人でなく、魔でなく、ただ異質な質量を持つ何か。
 その正体を探ろうとすれば怖気が奔るかのような、それを知る者は、怪異と呼ぶ。
「……お宿の方は無関係。ただの素晴らしいお宿でしたか」
 その有様を目の当たりに、シルバー・ヒューレーは嘆息し、しかし落ち着き払った様子で一度だけ瞑目する。
 ぴしっと着なおした修道服に、まっすぐと背筋を伸ばす姿勢は彫像のようであり、表情の油断の無さ機微の無さもまた清廉さを見せるものだが、温泉を堪能した肉体は上気しており、陶器のような横顔もやや赤らんでいて、髪にもやや湿気が残っている。
「……無関係の人、無関係の場所を疑ってしまうとは……まだまだ未熟、修行不足ですね」
 たっぷり体を休め、日々の質素ながら丁寧な暮らしの中で積み重なった疲れが流れ落ちてすっきりしているのを自覚するほどに、彼女は自罰的に背負わなくてもいい罪悪感を覚えてしまう。
 否、己を律すればこそ、日々の気づきを得るのである。
 後ほど謝罪の意味を込めて、再びこの宿を訪れよう。
 今度は純粋に客として、温泉に浸かり、宿を堪能すべきだ。
 その為には、先ず──、
『ねーえ、考え事終わったー? 神サマにお祈りする時間くらいは待ってあげたんだよ? もういっぱい幸せになったんじゃない? 知ってる? インビジブルがあればさ。もっといっぱいの人が幸せになれるんだって。あーしがいっぱい、配ってあげるんだ。死と幸福。幸せの中で、死ねるなんてラッキーでハッピー? アハハ』
 円環の輝きを持つ謎の怪異を従える少女の言葉は歪んでいる。
 その笑みにも罪悪感や疑いは微塵もなく、大きな歪み、或は欠落を帯びているとしか言いようのない、気色の悪さがあった。
 それに合わせて、周囲のざわめき。獣の気配も、その敵意をこちらに向けてきているらしい。
「猫は大好きだけど、殺されたい訳じゃないな」
 少女を見据え立ち尽くすシルバーの前に、青年が立つ。
 クラウス・イーザリーが、この場に不似合いなシスターの姿をどう見たかは定かではない。
 或は、自分と同じようにこの場に派遣された√能力者とも考えたが、細かな事よりも確かなことは……幸せに死ねることが幸運ではないという事。
 √能力者は、欠落がある限り、それを埋め合わせられるアンカーが死なない限り、死を得られないのだという。
 しかしそうでないものは、死ねば終わりだ。
「死に方は自分で選ぶさ。もちろん、ここじゃない。シスター、巻き込まれなくないなら、ここで……」
「いいえ、お心遣いありがとうございます。……そして、私も、申し訳ありませんが、その提案はお受け出来ません」
 戦う心得のできているクラウスだからこその気遣い。それをありがたく思いつつ、やんわりとそれを拒否する。
 即ち、己もまた戦いに身を置く者だと。
 戦う姿勢とともに、その身に湧き上がる炎のような聖なる輝きは、銀の鳥のような形を取り、その手にはいつの間にか銀の拳銃が握られていた。
「敵は多数。少々、騒がしくするかもしれませんが……」
「わかった、近寄るやつは、任せてくれ」
「この後この宿で過ごさせて貰うために――倒させて貰います」
 旅館の中ということもあり、クラウスはその手に武器こそ持たず徒手で接近戦を行うつもりのようだが、より実践的な戦いのメソッドから力まずに構える姿からは、必要に応じた戦闘スタイルに切り替える。つまりは、必要になったら迷わず使う。
 軽いフットワークのクラウスが、先に仕掛けるかと思いきや、そのやや後ろからシルバーの背後に燃え盛るかのような【銀の輝き】が周囲を照らす。
 破魔の輝きは、物陰や通常の視線から逃れることを許さない。
 猫のような要素を詰め込まれ、猫でない何か、猫の可能性というにはあまりに歪んでしまっているそれらが露になって、はじめてクラウスは床板を蹴る。
 身を低くする踏み込みは、屈みこむような上体の姿勢から掬い上げるような拳で、猫のような怪異を殴りつけた。
 感触は毛皮、しかし中にあるのは骨というには硬質な機械のような、空洞のような、奇妙な感触だったが、
「懺悔するとさ。正直、猫っぽい相手を傷つけるのは気が引けるんだよな」
 だからこそ、拳を打ち付けるその瞬間まで、心の中で謝罪していたクラウスだったが、これは、あの休憩スペースで堪能したものとは大きく異なる。
 手加減をする必要はない相手のようだ。
 そう思うが早いか、殴り上げたそれに間髪入れずに抜きつけたナイフで切りつけつつ、もう一度、今度は拳を振り下ろして叩きつけた。
 幾度も積み重ねた実戦訓練から裏打ちされた技と技とを繋ぎ合わせる【猛襲】は、拳闘からあらゆる攻撃に派生する。
 着込んだ装備は伊達ではなく、一手挟めば、ナイフだけでなく、特殊警棒や電撃鞭、拳銃の早撃ちから、ともすれば徒手空拳のまま蹴りにも派生できる。そう教え込まれ、学び、研鑽していった。
「──赦しましょう」
 たん、と軽妙な着弾音とともに、マズルフラッシュも銀色に、刃の付いたシルバーの拳銃が、猫の怪異を撃ち抜く。
 修道女のその技は、王道的なティーカップソーサーではなく、武道の型のように見える流麗さと固さの混在する射撃姿勢であった。
 それはまさに、銃の型。
 初めから相手をその型の中に収めているかのように立ち回ることで、最小の動きで最大限の攻撃力を発揮する。
 そして大仰にすら見えるその動きをフォローする、銀色の鳥にも見える炎が礫を放つことで、必然的にキルゾーンへと追い込まれる形となる。
「シスターが言ってくれるなら、安心だ。心置きなく、殴り飛ばすよ」
「はい、数を減らしていけば、自ずと我々の勝利です」

櫻井・ハク
矢筒・環

 ざわりざわり、と、何者かが動く複数の音。
 個室を取っていた、二人の√能力者たちも、その奇妙でおぞましい気配を察知するに至る。
 何よあの女! と思うのも束の間、ただならぬ気配は、この旅館二階層そのものが異質なる者の巣窟となりかけているのを感じるに十分な数だった。
 確かに、猫の多い温泉宿とは聞いていたし、その通りではあったのだが、ここは、何か、違う。
 物陰から物陰へと移動する黒い影、剥き出しの爪が床板を掻く音ですらも恐怖を煽る。
 あれは猫、猫のような、猫の可能性を詰め込み過ぎて、かえって猫ではない、何か異質で別な何か。
 それは、怪異だ。
『あらら~、気づいちゃったんだぁ。いけないんだ。幸せに、何も気づかないまま、殺されてくれれば楽だったし、みんなハッピーなのにさ。アハッ』
 なにやら光輪のような形状の怪異を従える女ァ……もとい、少女が何か怖い事を言っている。
 矢筒環は、その少女の恐ろしい気配を前に、恐怖の前に脱力感を覚える。
 彼女にしてみればハッピータイムは今からだったのだ。それを、邪魔されたのは、間違いなくハッピーなどではない。
 とはいえ、本物の害意を持つ獣の群れは、常識的な一般人をやっていた人間にはちょっと気圧されるものがある。
 そりゃあ、学生時代から√能力、つまりは、普通の人間が気づかないような側面に出くわすことはあったし、危ないものも見聞きした。普通の人よりかは耐性があるのには間違いないだろう。
 だからといって、荒事に精通しているかと言われると、そこはまあ得手不得手あるわけでしてェ?
 ただ、今はちょっぴりむかっ腹の方が勝っているので、恐怖は薄い。
 そんな現場と知りつつ、二人きり温泉の魅力に負けて飛び込んできた環の自業自得と言われると耳が痛いが、そんな感じで戦闘の空気にほんのちょっぴり尻込みしていると、彼女の前に立つ少年の姿。
 櫻井ハクは、物怖じしない。というか、内向的な傾向があるからこそ、行動に出る時はいつも唐突に見える。
 言って、そういうときは。言って! などと声に出そうとしたが、今は環が思いの丈を綴ってしまえば、声の代わりに鼻血が出てしまいそうだった。
 こ、この子、23歳のいい大人を守るために身を挺してきましたよ。
 いや、言い訳しておくと、√能力者に年齢差による戦闘能力の違いはたぶんあんまりないのかもしれないが。
 それと、重ねて言い訳しておくと、環は、普段は、きっと残念な人などではない。ちょっと、いつもよりテンションが高いだけである。ほんとうだよ。
「……少なくとも死に方を選ぶ事が目的になってる時点で不幸だと思うよ」
 自らの力の使い方を心得ているかのように、或は、その宿命に諦観でもあるかのように、ハクは自らの服のフードを脱ぐ。
 露になるネコ獣人のふかふかの耳。いや、それよりもその身体の周囲に浮かぶ護霊符の一枚を手に取ると、それは変身カード、獅子座とペルセウスに変じ、少年の姿は【レオペルセウスフォーム】へと変貌する。
 光刃を出現させるイージスレオブレードを出現させるその姿は、まさしく臨戦態勢。
 もはや戦う以外に道はない、その選択肢を選んだハクの頼もしい背中を前に、環は寂しいものを見るが、そこは眼鏡に含ませた光に忘れさせて、再び顔を持ち上げた時には力強い笑みになっていた。
「ハクくん、頑張っておねーさんを守ってくださいね!」
 エールを送れば、肩越しに一瞥するその表情……マスク越しで見えない筈のその視線が合ったような気がした。
 猫のように自由であるべき少年は、戦闘スーツに縛り付けられ、奔放であるべきはずのその手には武器を握らせている。
 なんて悪い大人なんだろう。
 いや、胸を痛めている時ではない。
 あの子が進んでこの道を往くというのなら、大人の女性として、付き添ってやる覚悟は疾うにできている。
 それがあまりにも辛すぎるというのならば、自分自身の何もかもを投げ捨ててでも、忘れさせてあげよう。
 √EDENに住まう者は、誰しもが持っている【忘れようとする力】を知覚し、利用する。
 この場所は、侵略を受けるほどにインビジブルが豊富だ。その流れを制御し、環はその潮流を化物目掛けて押し付ける。
「手伝っちゃいますよ~、やれる限りでね」
 虚空を泳ぐ魚群。それらは一般人には目にすることはできずとも、相手は欠落を抱えた獣の群れ。
 目に体に、それらをぶつけられて、目を奪われ、或は自由を奪われる。
 その隙を──、
「……ねこは色々言われるけど殺す為だけに存在しているねこはいないよ」
 イージスレオブレード、その光の刃が、猫のような怪異を切り裂く。
 大波のような牽制から、一気に踏み込んでの一撃は、猫の俊敏性をもってしても回避不能だったらしい。
 猫は肉食動物。弱肉強食の獣でも、殺すことを楽しみとはしない。
 喧嘩をする時ですら、興奮しすぎて我を忘れないようたまにグルーミングで顔を洗って落ち着けようとしたりする猫が、戯れに殺しを愉悦とするだろうか。
 あ、でも、部屋に入った蝉とかを叩き潰して持ってくるのはやめてほしい。
「っ!? 当たってない?」
 考え事をしていたためか、気が付けば猫を生やした奇妙な猫の怪異がその爪を振りかざしていたのが目の前に迫っていた。
 しかし、それは空を切る。
「ハクくん、今ですよ」
「……うんっ」
 それは、環の作り出していた幻影。光の屈折か、それともハクそのものを大きく見せていたのか、とにかく、攻撃を当たりにくくしてくれていたらしい。
「……うまく攻めて行けてるね、環お姉ちゃんのおかげかな。そっちは、だめだ……!」
「ハ、ハクくーん!?」
 ハクの脇を通り抜けようとする化け猫を、空いた手で無理矢理引き倒す。
 獣の如く暴れる、猫から猫を生やす奇妙な怪異のあれやこれがハクのスーツ越しに傷つけてくるが、慌てた環の忘れようとする力が、その傷を見る見る癒していく。
 その隙に、ブレードの切っ先を突き入れていくと、今度こそ猫は動かなくなる。
 急速に命の息吹を失っていく異形の生物に、思わず手が震えそうになるが、ここで手を休めるわけにはいかない。
「……環お姉ちゃんは、傷つけさせないよ」
「ええ、はい。ハクくんには傷一つ付けさせません。私の幸せは、駄猫なんかじゃなくハクくんです」
 ああ、どうか、一人で背負いこまないで。そう願いつつ、お互い、相手が傷つかないことを願わずにはいられない。

小明見・結
ラーレ・レッドフード

 恐ろしい気配がする。
 古来より、人は暗闇や影を恐れる。
 そこに理性があるからこそ、疑いが生まれるのだ。
 疑うからこそ、そこに存在しないものの影を見る。
 だがしかし、そこにもし本当に人ならざる者があるならば。
 いつしかそれを、人は怪異と呼ぶ。
 猫のような、猫でない、しかしながら猫の可能性を詰め込まれた奇妙なる怪異。
 愛らしい猫は、ただそれだけで完成している。何を足しても引いても、それは猫のような何かになるだけなのかもしれない。
 異形と化したおぞましいそれを見ると、それを感じずにはいられない。
 そしてそれを操っているらしい少女は、光輪のような輝きを帯びた別の怪異を従えているように見える。
「あの子が今回の事件の元凶ね。色々思うところはあるし、言いたいこともあるけれど……」
 あまりに異様な存在感に思うところがなくはない、小明見結だが、今はあきらかな敵意を向けてくる猫の怪異を相手にせねば、この場は切り抜けられそうにない。
 敵は多数。周りに助けを求めるのは、むしろ危険だ。
 ここは√能力者でしか解決できない。
 そんな都合のいい仲間が、そう簡単に……、
「そーいや童話じゃ猫が悪者になる話もまぁまぁ聞くけど何でだろうな」
「え、そういえば、なんでだろう。悪戯するから?」
「まぁそうだ。私の好きな架空の猫は鼠と殴って殴られてな奴だよ。怪物はごめんだね」
「あ、それ知ってる。仲良く喧嘩するってあれだね! ……あれ?」
 いつのまにかそこに居たのは、赤いフードの少女、ラーレ・レッドフード。
 こんな赤ずきんがいればすぐにわかりそうなものだが、フランクな話し口調から、ついついノリに付き合ってしまった。
 だが、異質な気配は、あらためて見ただけでわかってしまう。
 ラーレもまた、√能力を使える、欠落を持っている者なのだと。
「チッ、来るぞ姉ちゃん」
「ちょっと、何取り出してるの、お酒!?」
「いや、こいつをお見舞いして、丸焼きにしちまおうかと」
「火炎瓶ッ!? ダメだよっ! 旅館が燃えちゃうよ! 他のお客さんも居るんだよ?」
 目を細めて鋭い目配せでラーレが取り出すのは、指の間にいくつも挟み込んだハートランド……もとい可燃性の香りのする布のねじ込まれた瓶であった。
 温泉宿でそれを使うのは、ちょっとまずい。
 比較的常識的な感覚を持ち合わせている普通の女学生を自称する結としては、ちょっとやることが派手過ぎる。
 そこまでして止められては、ラーレも眉根を寄せざるを得ない。
「チッ……飯で世話になったしな。しゃーない、色々やってみるか」
 必死の説得もあって、思いとどまったらしい。
 しかし、そうか他の客も居るんだったなあと思惑を巡らせたのには、結も気づくのが遅れた。
 次の瞬間には、ラーレは目を見開いて息を吸う、大声を旅館中に響かせる!
「オオカミが来たぞォッ!!」
「いきなり、何言って……!?」
 唐突な大声に思わず身を竦める結。しかしそれこそがラーレの狙い。
 【オオカミにご用心】。その寓話の示すものは、あまりにも教訓として有名だが、最初にその恐怖を煽る少年のような叫び声は、今まさに行動に出ようとしていた猫の怪異たちの動きを止めてしまう。
「怪異つっても、猫がオオカミに勝てるもんかい。ちと動き止まっとけ」
「な、なるほどー!」
 今のうち! とばかりに猟銃を取り出すラーレに遅れじと、結も精霊を呼び出して【ウィザード・フレイム】の行使を行う。
「木造だから、相手だけを焼き尽くして」
「えぇ、さんざん止めといて、ズルくないかそれぇ!」
 猫を相手にするのは、気が引ける。しかし、一般客もたくさんいるような場所で迷っている時間はない。
 精霊を行使し、実に魔法的で都合のいい炎を行使し、動けなくなった猫の怪異を仕留めていくのを横目に、ラーレも猫の怪異を踏みつけ、その頭を固定して猟銃を押し付ける。
 頭がいくつもある猫は見たことがない。
 その一つ潰した後、念入りに銃身に沿える指先で器用に弾くようにして不思議なマッチを灯す。
 一瞬だけラーレの望んだものを映すというマッチの火からは、起き上がって来る猫のビジョンは見えない。
「よし、このまま……?」
 と、作戦が有効にはまったのを確信し始めたあたりで、周囲が唐突に騒がしくなり始める。
 二階は宿泊客が泊っている。
 それが、先ほどのラーレの大声で、何事かと顔を出し始めたのだ。
 これは予想外、いや、それを目論んでいたのか?
「どうしよう、避難誘導を優先させる方がいいかな……」
「はっ、そっちの方はたのまぁ」
 どちらにせよ、呪文詠唱を中断してしまった結は、魔術の炎を維持できない。
 そちらに注意が逸れた時点で、もうそちらに気が行ってしまっているのだ。
「えっ?」
「ふんっ……オラオラ、銃持ってる奴が、暴れてんぞ! 逃げろ逃げろ!」
 煽るように騒ぎ立てるラーレの暴力的な物言いは、狙い通りなのか一般客の動揺を誘う。
 結はそれを治めるべく避難誘導に移行せざるを得ない。
 なんだか、自分で悪者を買って出ているようで、気が重い。
「自分から悪者になるみたいなやり方、よくないよ」
「いいんだよ、うるせーなぁ! スッキリ暴れらんないだろ」
「それと、あんまり残虐なやりかたも、可哀想だよ」
「残虐? 猫が可哀そう? 知らんよ、きっちり恐怖与えた方が教訓にもなるだろ。化け物はしっかり倒されるものってなァ!」
 暴虐、破天荒、しかし倒すべき敵は見定める、一応はプロ意識のようなもので一般人を遠ざけつつ、ラーレは動きを止め続ける猫の怪異に猟銃をぶっ放すのであった。

オフィーリア・ヴェルデ
西園寺・つぼみ

 寒気がする。
 それは、冬場に隙間風を感じるような、そんな類のものではなく。
 うなじに水滴が落ちたかのような、冷たい敵意であった。
 それもその筈、温泉上がりのホッカホカの身体に、寒気を覚えるなどあってはならない。
 猫の多い温泉宿で見つけた、異様な猫。その追跡の先に待ち受けていたのは、やはり異質な気配を帯びた、この場に似合わぬ少女の姿であった。
 敵意、それというには、悪意のようなものをほとんど伴わないものであったことに、違和感を覚えたかもしれない。
 それは、光の輪のような形状の怪異を従える、その少女が持っていたのは欠落によって歪んだ思想なのか。
 幸福しか見えていないような、それゆえに、なんでもかんでも幸福な結末にしてしまえばいいという極論か。
 あろうことか、幸福さえ与えていれば、全てを奪い取ってもいいかのような、表層より深くを掘り出していくと寒気を覚える、それは、紛うことなく敵であった。
『猫ちゃんはみんな大好きだよね。猫ちゃんと戯れて死ねるなんて、サイコーに幸せだと思わない? 思うよねぇ? アハハッ』
 屈託なく笑う歪んだ少女の思想。そしてそれに伴い、物陰やあちらこちら、旅館の二階とは思えぬほど異質な雰囲気を作り出している異形の気配が、もぞもぞと動き始める。
 こちらに向くのは、やはり敵意。
 猫のような、確実に猫でなく、しかしながらあらゆる猫の可能性を集めてごった煮にしたかのような、それは、怪異という他にないグロテスクな現象と化した何かだった。
「確かに猫さんは好きだけれども、殺されてしまっては幸せじゃないわ。
 猫さんとは共に生きて愛でてこそ、幸せを感じるのだけれども……」
 この期に及んでもおっとりとした調子を崩さないオフィーリア・ヴェルデは、肝が据わっているというのか、敵の数を冷静に見極めつつ、出方を伺う様は、流石は危険なダンジョンが日常的に存在するファンタジー世界出身者である。
「笑わせるわ。それは幸せなんかじゃあない、ただの現実逃避よ。
 渇望も信念も忘れて、気の抜けた炭酸みたいな腑抜けた生き方と最期なんざ、私は、ごめんだわ」
 一方で、蠢く何かの気配たちに向かい、敢然と前に出て言い放つ西園寺つぼみは、その本当の顔をなくしたという顔布越しですら剣幕を感じさせる。
 その顔は、彼女の生き様の一つだったとも言えるだろう。
 他人に生き方を奪われるなどというのは、怒りを覚えずにはいられない。
 怒りにも、幸福にも、数値は存在しない。それこそ、価値観の世界だ。
 誰かに幸福の価値を決められて殺されるなんていうのは、許容してはならないものだ。
 脳髄が痺れるほどの怒り。
 心の揺らぎ、きわめて波長の短い感情は、振動。そのボルテージ、激動こそが、つぼみの原動力。
 マスクドヒーローとしての彼女の異能が、振動を武器にせしめ、それを効率的に攻撃へと用いる銃「シヴァリングハート」を抜かせる。
「音響弾を喰らえっ」
「激しい鼓動、私も感じるわ」
 振動波を銃弾とするつぼみの感情、その波がオフィーリアの感性を刺激する。
 自己肯定感は低いものの、物事をあまり暗くは考えない彼女は、激情に身を焦がすことなどほとんどなかったのだろう。
 期待や好奇心、それが彼女の胸を奮わせることはあっても、空気が痺れるほどの誰かの感情を受けたことなどほとんどなかった。
 身体の弱いところがあるオフィーリアにとって、つぼみの感情のなんとエネルギッシュなことだろうか。
 内燃機関のような激しい感情の炎が、つぼみという女性のエンジンを燃やしている。
 その揺らぎ、さながら炎が自らのエネルギーで身をくゆらせるような、ともすれば前のめりに倒れ込むほどの前向きな感情が、闘争心を助けてくれる気がした。
 戦わねば。
 猫を傷つけるのはちょっと気が引けるが、彼らはもはや、この世にはみ出してはいけない類のものだ。
「おいで、剣」
 祈りの力に呼応するかのように、彼女のディヴァインブレードがその刀身を回転させながら、周囲を旋回する。
「歌いましょう。絶望を寄せ付けない、火のような怒りと、慈しみの温泉を讃える歌を」
 レゾナンスディーヴァたるその歌唱には不可思議な力が宿る。
 【花吹雪の宴】は、その名の通りに美しい花吹雪を魔力で作り出すものだが、歌唱により生み出されたそれらは、水分と植物繊維ではなく、鋼鉄のような鋭さを帯びている。
 だがそれ以上に、ひらひらと羽ばたくそれらに、猫たちは目を奪われる。
 花弁、それは花弁のはず。いや、あの羽ばたき方は、蝶か何かではないか? いや、そうだ、そうに違いない。
 目の前でちょろちょろと動き回るものを、猫は本能から狩猟せずにはいられない。
 まるで好物を見つけたマヌルネコのように目を見開き、鋼鉄のような鋭さを持った花弁に飛び込まずにはいられない。
『ニャッ!?』
 振れればたちまち切り傷を作るそれらに、毛皮を血に染める、猫のような何か。
 深手にこそならないが、狩る側がいつの間にか怪我をしているのは不可解。
 たくさんある頭が、手傷を不思議そうに見つめるが、足を止めれば、それはすかさず、つぼみの放つ音響弾が撃ち込まれ、蓄積した震動が身体を内部から破裂させてしまう。
 それらは、一つ一つは猫の怪異を仕留めるには至らぬものの、少しずつ異形の猫たちの部位を削り、奪い取っていくものだった。
 猫を痛めつけるのは本意ではないが、かといって仕留めきれないほど火力に乏しいかと言われれば、そういうわけでもなく。
「そろそろ溜まったかしら?」
 ディヴァインブレードによる牽制、音響弾、そして鋼鉄の花弁。
 それらは、とっておきの一撃の為の布石に過ぎぬ。
 つぼみの手にしていた結晶は、彼女の異能、振動をチャージする「振動貯蓄性水晶」。
 時間はややかかるものの、振動をチャージしきった時、強力な衝撃波を放つことができる。
 【狂乱怒濤】。その威力、実に18倍。何故18倍かと聞かれれば、そう書いてあるからだ。
「私の怒り、魂の咆哮!喰らうが良いわッ!!」
 うぉん、と空気のうねりが聞こえるほどの振動、衝撃波が、旅館を揺らす。
 さしもの猫の怪異も、その振動に堪え切れる肉体ではなかったらしく、耳が痺れるほどの高圧力が空気をびりびりと張り詰める。
「う、うーん……さすがに、この状況だと、ちょっと歌い難いものだわ……舌を噛まなくて、よかった」
 耳の奥から何か甲高い音が聞こえる、キーンとした状態では、流石にオフィーリアも音がとりにくい。
 だが、だいぶ多くの猫怪異を排除できたのではないだろうか。
 ただ心配があるとすれば、もともと在住の普通猫たちも逃げ出したりはしていまいか……。

黒後家蜘蛛・やつで
白兎束・ましろ

 追いかけた猫は、どこへ行ったのか……。
 黒後家蜘蛛やつでと、白兎束ましろは、温泉宿にいっぱいいる猫の中でも、露天風呂に出現した猫を訝しんだ。
 こんなところに猫がいるのはおかしい。
 それに、あの態度……。怪しい、これは怪しい。どことなく、怪しい。
 子供の直感と言ってしまえばそれまでだが、猫の散歩道が気になって追いかけてしまいたくなるのは仕方のない事。
 しっかりと温泉でホカホカになりながら、ましろの早業で素早く着替えて、二人はジャングルの奥地……もとい、猫の足の向くままに追跡を続けたのだった。
 人通りのあるところ、温泉客がぬくもった身体を休めるような休憩スペース、あちこちを悠々と進んだり休んだり、まるでどこかへ案内するかのように気ままに歩く猫さんの旅路は、やがて人通りの少ない旅館の二階にまで至る。
 あれ、妙だな。と感じ始めた時には、いつの間にか猫の姿を二人そろって見逃していて、それよりも異質な雰囲気のほうに気を取られていた。
 ここは、何か違う。
 √能力者だからこそ感じ取れる、異質な空気。ここはもはや、何かが欠落し始めている。
 いや、そうか? そう感じさせるのは、この二階にたむろしている、無数の何かではないか。
『あれぇ、お子様もきちゃったの~? 仕方ないなぁ。でもいいよね? 猫ちゃんと戯れるのは、みんな大好きだもの。幸せだよね? 幸福の中にうずもれていけるなら、何よりも幸せだと思うよね? アハハッ』
 奇妙な気配の少女。野暮ったい旅館の雰囲気にはちょっと違和感のある、現代的なぎゃるっぽさもあるが、彼女の従えているような円環に輝くような怪異もまた、他とは違う雰囲気を纏っている。
 ああ、きっと、この少女こそが、この温泉宿に巣食う侵略者の黒幕なのだと。
 そう思うと同時に、自分たちが既に囲まれている事にも気づいた。
 ざわざわ、と、奇妙な気配を纏わせた、奇妙な、それは、猫のような、猫でないような、やはり猫の可能性を押し込んで、ギュッとしてなんか違うものになってしまっている、それはなんというか、猫の怪異としか言いようのない奇妙な獣だった。
 それがたくさん。
 じりじりと、本能的に敵意を感じ取った二人は、己の冒険心が見事に絡めとられた事に思い至ったが、そこは同じ√能力者、慌てずに間合いを測る。
「なんか変なのがいっぱいいるっす。これはネコとの和解は中止っすね!」
「これは猫? それとも、猫のような、何か? うーむむ……。ましろ!
 今目の前にいるあの猫たちとやつで、どちらがかわいいですか?」
 この猫たちとの対話は叶いそうにない。そう悟った途端、戦闘準備をするしかないのだが、そこで湧き上がった疑問をひとまず頭の隅へ、やつでは忠実で仲良しの従者の名を呼び問いかけつつ、指をパチン……とはうまく鳴らせず、すかぁっと指をこすらせる。
 その様子に笑いだしていいのか判断に迷ったましろは、半笑いの口元を猫みたいにうにうにさせつつ、姿勢を正す。
「えー、あれもキモカワって言えないもないけど、かわいいさで言えば断然お嬢様っす。
 あっ、もちろんましろちゃんもかわいいっす♪」
 しっかりとウサギのぬいぐるみを抱き寄せつつぴーすぴーすキメる頃には、すっかりいつものましろに戻って、可愛さアピールのスマイルを備えていた。
 その答えに満足したらしいやつでは、
「そうっ!」
 と元気よく開いている客間の一つにまで追いつめられながらも、力強く足元の畳をばしんと叩く。
 子供の力なので畳返し! とまではいかないが、その拍子に発揮した√能力【壁の下の蜘蛛の群れ】により、二次元平面的な蜘蛛の群れがざわざわと畳の隙間から続々と這い出てくる。
 墨汁で描かれたかのような真っ黒な蜘蛛の群れが、染みのように一斉に広がり彼女たちを囲うように様子を伺っていた猫の怪異へと群がる。
 ちょろちょろと動き回る小さなものに、猫は反応しないわけにはいかないが、素早いネコパンチで仕留めたかに思われた蜘蛛は、しかし平面体。鋭い爪の合間を、肉球の隙間をすり抜けて、あっという間にその毛皮を駆け上がり、ちくちくと牙を突き立てる。
 たまらず転げまわる猫の怪異たち……などお構いなしに、やつでは大仰に手を広げ、論じる。
「猫の強さはその可愛らしさ、愛される姿あってのもの。
 それを捨て去り捕食者に立ち戻るなら学ぶことはありません」
 大衆に訴えかけるかのような手つきから、明星を掴み取るかのような儚げな仕草、そして叙情的に胸元へ抱く動作は、実に堂に入っているが、見ている者はましろだけしかいない。
 当のましろも、
「おー、お嬢様がまた難しい言葉を話しているっす。
 それじゃあ、ましろちゃんは今のうちにどかーんする準備を整えて……」
 にっこりと可愛さに振った微笑を浮かべつつ、手元のうさぐるみファミリアセントリーの60秒タイマーをこっそりセットしつつ、インビジブルをチャージ。
 にこやかだが、あんまり話は聞いていない。
 できる従者は1を聞けばだいたい理解して掻い摘んで聞くように、都合よく出来ているのだ。
 ただまぁ、得意になってのびのびと弁舌を振るうやつでの姿は、好ましいものではあった。
「──どちらがより強い捕食者かを決めましょう。お前たちの戯れに牙にかかるだけが我らとは、思わぬことなのです」
 小さな握りこぶしをぷるぷるとさせて、今ぞ断罪の時は訪れた! とばかりにその手を鋭く払う仕草に合わせて、ちょうどタイミングよくタイマーの時間と重なったましろは、うさぐるみを猫怪異の群れへと投げ込んだ。
 【爆弾兎の大花火】。セントリーガンを偽装したうさぐるみは、従者の武器。そして、その愛らしい姿にそぐわず、またセントリーガンのはずだがだいたい自爆装置のほうが数多く使われる傾向にあるようで、今回もその例にもれず、うさぐるみはその決して長くはない生涯に儚げな表情で爆炎を上げることになった。
 ところで、旅館の一室を爆破してもいいのだろうか。
 ……まあ、すべて忘れた頃に直ったりする筈である。たぶんね!
「どっかーん! っす」
 激しい爆発音、そして爆風に綺麗なおべべをばたばたとなびかせつつ、しかし子供たちの顔は晴れやかであった。
「これがどちらが可愛いかの答えなのです!
 もちろんましろも可愛いのですよ?」
「おー、ついでみたいに。でも、嬉しいっすよー」
 さて、残すところは、解釈違いの猫のような何かを遣わした、諸悪の根源に制裁を下すのみである。

第3章 ボス戦 『人間災厄『善意の死滅天使』高天原・あがり』


『うえー、ぺっぺっ……やだなぁ、もー!』
 騒動、激動、最後には爆発物ときたものだ。
 田舎の旅館にはそうそう訪れないトラブルの連続に、光り輝く輪を描く怪異を背負う今回の騒動の黒幕──、人間災厄『善意の死滅天使』高天原・あがりは、もうもうと立ちこめる煙から息苦しそうに退避するべく、窓際へと駆けこむ。
 田舎特有の、ちょっと建付けの悪くなった窓をギュリリリッと勢いよく開けると、迷わずその身を放り投げる。
 大胆な行動だが、一般のお客様は真似をなさらないよう、お願い申し上げます。
 なぜならば、その窓の外は、階下どころか、旅館の裏手に広がる川辺に繋がっているからだ。
 主に露天風呂から覗く景観の為にいくらか整えられている裏手の河原は、川流れに運ばれた丸みのある多くの石や岩塊が連なって足場はよろしくないが、今の季節は水量も少なく、決戦場所としてはいい場所かもしれない。
『よ、と……これ以上、旅館を傷つけられちゃ困るもんね。あそこはまだ、人を呼んでもらわなきゃ』
 そこへ軽々と着地するギャル。いや、高天原あがりは、丹念に育て上げた猫の怪異たちを失いながらも、その顔には変わらず笑顔が浮かんでいる。
『猫はー、まあしゃーないかー。もともとの先住猫と仲悪かったしー。他の方法でインビジブル稼げばいっかなー』
 岩場をちょいちょいっと軽い足取りで歩きながら、誘うように手招きすると、彼女に纏う光の怪異を可愛がるかのように撫でる。
 微笑を絶やさぬ少女の異質さ、その輝きに全ての悲嘆を吸い取られでもしたかのように、優しげなその笑みは、他者の思惑などどうでもいいかのように、ただただ独善的に歪む。
『ねえ、インビジブルってすごいよね。これを自由に扱えればさ。全ての悲しみを、忘れて、みんな笑顔になるんだよ。ねぇ、みんなは、悲しいことはいっぱいあった?
 でもね、心配はいらないよ。最後は笑顔で迎えるべきだもんね?』
 猫の怪異たちとは、比較にならぬほどの威圧。存在感。
 それは、彼女の失った欠落の大きさを物語るかのようでもあり、もはや、この世界に在ってはならぬ歪みであると、
 君たちは感じ取った筈だ。
夜久・椛
クラウス・イーザリー

 光の環、光の蛇、それはまるで、質量を伴って曲がりくねりながら、光を反射する鱗を持つ蛇のような、しかし羽もないのに宙を翔ける様は、奇妙な木漏れ日を思わせる。
 怪異としか言いようのない何者かを従える、それは恐ろしい気配の少女こそ、高天原あがり。
 この温泉宿に隠れて密かな怪奇現象を引き起こしていた存在のようだ。
 彼女は常に楽しげだ。
 そこに悲しみは微塵もなく、まるでどこかに忘れてきたかのようでもあり、見て見ぬふりをしているかのようでもあった。
 絶望の拒絶。それは即ち、話の通用しなさとでも言うべきか。
 だからだろう、幸福をもたらす彼女の望み、行動とは裏腹に、その笑みの渦中にある限り、それはなんとも、息苦しい。
「幸福な結末ね。ご都合的なハッピーエンド。結構な事じゃないか」
『だよね、だよね! やっぱり、みんなが幸せが一番だよ。悲しいことも、苦しいこともぜんぶ、ぜーんぶ、あーしが幸福な結末で終わらせてあげるよ』
 クラウス・イーザリーの乾いた声は、それは皮肉めいたものであった。
 そうして返ってきたあがりの答えも、また、思った通り一つしかなかった。
 こいつの結論は、いつだって一つなのだろう。
 どんな物語にも、同じだけの幸福、結末が用意されていると。それが正しいのだと。
 言葉であれば、物語であれば、それは、正しいのかもしれない。
 だが実際はどうだ。
 彼の友人や、去っていった者たち、失った者たち、クラウス自身が得た思い出。
 楽しいものばかりではなかった。苦しく、悲しい、言葉にするのも恥ずかしいものだってある。
 訓練に費やした、血の滲む努力。それらが実を結んだ際の、充足。
「悲しいことはたくさんあったけど、忘れる気は無いよ」
 酸いも甘いも、舌の裏に残る苦さも、すべて今の自分を作り出している。
 自分の行く先が、幸福にたどり着くとは限らない。もしかしたら、絶望のその先にまで真っ逆さまかもしれない。
 でも、誰かに譲られた答えなんてつまらないものには、決して辿り着けやしない事は確かだ。
『忘れたほうがいいことだってあるよ? この世界の人達は、そうして、幸せそうじゃない? ねえ?』
「……独り善がりの幸福なんて、お断りだよ」
『そうだな。此処に歪んだ厄災は不要だ』
 夜久椛と、その尻尾から顔を覗かせる鵺の蛇、オロチは、一度だけ目を合わせ、そしてあがりを見やる。
 御伽使いの少女は、いくつもの御伽話に触れている。
 独善が功を奏す物語もいくつもあるし、我欲が身を亡ぼす教訓めいた物語だっていくつもある。
 同じルーツを持つ物語でも、派生して結末を分けるものもあれば、悲劇のまま終わる後味の悪い物語だって少なくない。
 悲しい物語、すべてがうまくいく物語、しかし、それらに共通するのは、主人公の物語であるということ。
 物語にとって必要なことは、主人公が為すべきを為したという事実である。
 無論、それに異論はいっぱいあるだろう。
 しかしながら、苦闘の果てに成った物語も、主人公が全く報われなかった物語も、椛の小さな胸を躍らせるのは、幸福か否かよりも、痛みも苦しみも乗り越えて駆け抜けたその生き様であった。
「言いたいことはわかるよ。君がそういう風にしたい気持ちは、優しさからくるのかもしれない。でも、押し付けられるのは困る。
 何より人々に被害が出るなら看過はできない」
『ふーん、何言っても、邪魔するんだねぇ? いいよ、いいよー。何をしたって、最後にはハッピーになるんだからさ』
 クラウスの声色には、相手を慮るものから、徐々に硬質なものへと変じていくものがあった。
 それが決定的になった瞬間、あがりの笑みはより強く、そしてその背後に控える光輪は勢いを上げて空気を裂くような音が聞こえ始める。
 攻撃が来る、というまさにその瞬間──、見計らったかのようにあがりの視界の片隅がちかちかと光る。
 妙に視線を誘導するような明滅に思わず目を向けた先は、光を放つ椛であった。
「迸れ、雷霆」
『わわっ!?』
 眩い雷光がストロボのように輝くと、その瞬間、【御伽術式「雷霆の魔女」】によって、椛の姿は彼女の知る御伽の登場人物、魔法少女のものへと変じ、雷迅爪を手に迸る雷光があがりの視界を奪う。
「ナイス……!」
 目を奪ったと見た瞬間、雷撃に見舞われるあがりから眼を逸らさなかったクラウスは、その隙を逃さず、密かに攻撃の時を伺っていたその時を見出す。
 この状況でもはや隠す必要はない。
 【アクセルオーバー】。それは、全身の身体能力を引き上げる電流を帯びて、加速力を飛躍的に上昇させる。
 全身を貫く電流に痛みを伴わないわけがないのだが、ここで決めるという覚悟が、それをさせる。
 後ろ手に隠していた電撃鞭を、踏み込むとともに翻して打ち付け、密着距離にまで肉薄すれば多機能ガントレットから鋭い爪が伸びて、防御の手を跳ねのけるとともに動きを封じつつその肉をえぐる。
 華奢な少女のようなそれは、肉の感触をしていない。
『いたぁ、痛いのやだよー。困るなぁ?』
「抵抗するなよ。幸せのまま終わるのがいいんだろう?」
『終わる、あーしがぁ? 見えてるモノあってる、それで?』
「くっ!」
 凄絶な微笑み、そしてそれに呼応するかのような光輪が、刃のように鋭く回転して迫りくる。
『苦しみが好きな人なんて、居るはずないよ』
 その光の発露、光輪を手甲で受け止めるクラウスの両腕が重くなる。
 気力など無意味であるかのように、意思を奪うような、神経が麻痺していくような感覚を覚えるが、しかし、光の合間に立ちはだかる人影が、それを遮ることでクラウスは難を逃れる。
 しかし、
「あ、うぅ!!」
 短くあえぎ、全身の自由を奪われ、光にからめとられるのは、魔法少女と化した椛であった。
 あの輝きをもろに受けて、自由を奪われれば、次はあの光輪が椛をずたずたに引き裂いてしまうだろう。
 さしものクラウスも息を呑むが、しかし、妙だ。捕まっている椛には、何かが足りない気がする。
 あの、喋る尻尾が、生えていない。
 無数の光輪が椛の身体を貫き、引き裂き、その手にはめた雷迅爪も取り落としてしまうが、次の瞬間、その姿は血を流すことも無くノイズが奔るように掻き消える。
「ホントはこっち」
『ぐっ!? 後ろォ!?』
「焦った、けど……取っといた甲斐があったな!」
 あがりの背後から飛び蹴りをくらわしたのは、紛れもなく先ほど散った筈の椛本人であった。
 相手の目をくらましたその次の瞬間には、椛は姿を消し、クラウスをかばうように出てきた姿は幻影だったのだ。
 続けざまに二連続で蹴りつけたところに、クラウスは渾身の踏み込みでバトルアックスを一閃させる。
 電流を帯び紫電と化す一閃。それが避けられぬよう、取り落としたはずの雷迅爪が、椛の念動力によって引き寄せられ、あがりの両足を突き刺していた。
『つうっ、しまっ……!!』
 肉を断つ感触とは程遠いが、それが敵を斬った感触であることには違いなく、彼女に纏う光の怪異もいくつか消し飛ばしたような手ごたえもあった。
 だが、相手の存在にまで届いたかというと、怪しいか。
「浅いか……!」
「……ん、でも温泉の為に、出てってもらうよ」
「出て行かせる? いや、ここで逃がしてしまったらきっとまた同じようなことを繰り返す。ここで、仕留めるんだ」
 川奥へと身を翻していく姿を、追いかける。
 ふと、椛の頭の上にぴょこぴょこ動く猫耳を見て、クラウスは、
 温泉で戯れた猫の事を思い出す。
 終わったら、普通の猫と戯れたいな。

ラーレ・レッドフード
オフィーリア・ヴェルデ

 さわさわ、と心地よい川のせせらぎと、心地よい寒風が、冬の川辺を感じさせる。
 しかしながら、そこへと追い詰めたものからは、言い知れぬ異質な気配を感じずにはいられない。
 川の流れに拾われ、流れ着いた丸石が積み重なるこの場所は、多少足場は悪いものの、遮るものは何もない。
 旅館の中とは違い、派手に暴れても問題ないという事でもあるが、それは相手も同じことがいえる。
 周囲を見やるラーレ・レッドフードと、そして目が離せぬほどの異質な存在感を持つ脅威と化したギャル、高天原あがりとの視線が絡む。
『ねえ、”赤ずきん”さん。あなたの事、よくは知らないけど……その童話、実は怖い話って知ってた?』
「そいつを知ってどーなるってんだ」
『ふふ、今だとあんまり知られてないし、それに、みんな幸せなオチしか知らないよね。バッドエンドなんて、みんな欲しがらなかったってことにならない?』
「さあね、なげー話は嫌いだよ」
『世の中に、ひどいオチなんて要らないって話。みんな、みんな、幸せになりましたーって、あーしはそうするのがいいと思ってるんだ。ここには、それができる力がある!』
 清らかな流れをバックに、あがりの後ろに蠢く光輪。そして、川の流れをなぞるようにしてその虚空に、幽鬼の如く群れなす常人には不可視のインビジブルの潮流。
 美しいものなのかもしれない。
 それこそが、護るべきこの世界そのものなのかもしれない。
 しかしながら、ラーレに言える事は一つ。
「いや押し付けんな自分の思想を」
 投げ捨てるようなその言葉は、恐らく彼女に届いてはいまい。
 ハッ、と鼻を鳴らすように息をつくと、それが白い塊となって掻き消える。
 御大層な物語を語るなら、それで結構。
 そんな夢物語に、おとぎ話のような姿をした少女は、興味がない。
 おもむろに取り出したる、小さめな指の間にいくつも挟んで取り出したガラス瓶、可燃性のオイルと布を詰め込んだ特製の火炎瓶を躊躇なく放る。
「笑顔で迎えるエンドは良いが、強制的なハッピーエンドほど実質バッドエンドだろーが」
 甲高い音を立てて砕ける瓶、ラーレのお婆様謹製の火炎瓶は、特別な揮発油でも使用しているのか、砕けた際に放射状に広がる燃料に炎が引火して燃え広がるどころか、縦に火柱が上がる。
 枯れたように色を失う風景の中に、鮮やかなオレンジの火柱が立つ。
 傍から見れば、バーベキューでも失敗したかのようにも伺える光景だが、燃え盛る火柱に照らされる熱い輝き。それは、オフィーリア・ヴェルデにとって馴染みのあるものであった。
 火を囲い、古と変わらぬしきたりを交えて、語り継がれる物語を思い出すように紡ぎ、歌い、踊り、分かち合う。
 懐かしい熱と、明かり。それを思うからこそ、
「困ったわ。あがりさんの言っていることが、私にはわからないの。
 悲しみは忘れずに乗り越えるものじゃないかしら。
 乗り越える為に猫とか、癒しが力になってくれるんじゃないかなって、思うのだけれど……」
 靴越しの足裏にも岩場のごつごつした感触を感じるほどに、ここはオフィーリアが飛んで跳ねたりするには難しそうだったが、それでも、目を瞑れば歴史を感じながら、あの踊りを、歌を紡ぐことができるだろう。
 その度に、彼女は、この世界に一人ではないと安心して息をつけるのだ。
 朝露の湿りも、夜の厳しい寒さも、それがあるからこそ、朝日が暖かく感じる。
 朝日を顧みぬ事を悲しとするわけではない。時にはそれを、煩わしく思うときも来るだろう。
 過程を経ない幸福とは、何の意味があるのだろうか。
『なんで、どうして? 苦しみが好きな人なんて、居るはずないよ!』
 こちらとあちらを隔てるかのような、火柱の向こうで、あがりの叫び声が聞こえる。
 少女のその悲嘆。それは、彼女が失っている何かに通じるものなのか。大声というわけではなかったのに、思わずオフィーリアは肩を竦めて身を固くする。
 怨念のような、言霊か。唇が震えるのは、肉体を動かすことに躊躇を覚えるほどの強制力が働いているのか。
「ッ……うぅ」
「あんな奴に、呑まれるこたあないぜ」
 どんな絶望が、彼女を変えてしまったのか。想像もできないが、共感することも、きっとできない。
 もはや変わってしまった彼女と、意思を通わせることは不可能に思えた。
 言葉が届かぬ事、伝えられない事。それは、歌を愛するものにとっては、無念であった。
「悲しいわ」
 燃え盛る火柱に向かい、飴色のような綺麗な金髪を揺らす赤い頭巾のラーレを見やり、共感の糸を諦めたオフィーリアは新たな歌を紡ぐ。
 【響き合う五線譜】は、容易には触れ得ざる音の繋がりをラーレに接続する。
 それにより、ラーレは火の向こう側に敵を見る。
 目で見るというより、音の発生源、具体的には叫ぶあがりの波紋を見ているようなものだった。
「へぇ、そういうこともできんのか。まあま、向こうの遮蔽切ったままなのは、ありがたいねぇ」
 命中、反応速度を向上させるという√能力の加護を得たが、ラーレが手にするのは、ごっつい猟師のショットガンである。
 掲げるバックショットの大きな銃弾には、ベアリングの代わりに【エレメンタルバレット『雷霆万鈞』】によって精霊を詰め込んでいる。
「いっちょたのむぜ、精霊よォ!! ヒャハァッ!!」
 立ち位置を変え、きっちりと火柱の遮蔽を利用しながら、ラーレは精霊のショットガンをぶっぱなす。
 手ごたえはあった。しかし、相手が常人とは、ハナから思っちゃいない。
「剣よ、彼女を守って」
 火の途切れ目に、その姿がかち合いそうになると、オフィーリアの祈りによって浮遊するディヴァインブレードが飛来し、その合間に割って入り、火柱を突っ切ってまで援護に加わる。
『ぐ、かふっ!?』
「どうよ、まだ叫ぶ元気があるかい? 炎ン中だと、いい加減、息苦しいだろ? それとも、まだハッピーだなんだって、言えるかァ?」
『最後は、絶対、ハッピーになる。ならなきゃいけないの』
「ハッ……!」
 その視線を真っ向から受けたわけではない。
 ただ、火線を通じて向き合ったからこそ、ラーレは彼女が凄絶に笑っているのを感じ取る。
 掟破りのネタバレヤローである点を除けば、見習いたい根性の持ち主らしい。

櫻井・ハク
矢筒・環

 倒すべき敵は、外へ出た。
 誰がやったのか、旅館の中で爆発物を使ったらしい。
 もうもうと煙が立ち込める旅館は騒然となるが、きっと、この騒ぎごと、その損傷ですらも、忘れ去られ元通りになるのだろう。
 一般人は、それでいいだろう。
 しかしながら、それでこの事件の現況を取り逃すようなことがあれば、同じことが、もっと確実にひどい被害を出しかねない。
『あーもー、ひどいよ!』
 旅館の窓を突っ切って……ということはせず、古めの引き窓特有のギュリリリッという小気味いい音を立てて開けた窓から、この騒動の主、高天原あがりは逃走する。
 奇妙な光輪のような怪異を従えている以外は、ちょっと派手めのギャルにしか見えない見た目だが、その存在はやはり人のそれとは違うらしい。
 何しろ、飛び降りた先は、階下どころか、旅館の裏手に流れる河原だったのだ。
 レオペルセウスフォームに変身中の櫻井ハク単身ならばともかく、ときめき小旅行くらいの気分でご一緒してきた矢筒環は、普通の人間の感覚をまだ維持している。
「表に出ますか。その方がまだ気が楽です。でも二階から飛び降りるなんて柄じゃないんだけどなぁ」
 この高さ、ギリかなぁ……。
 欠落を抱える限り、√能力者は死を得ることができないというが、いや、でも、この高さ、地味に怖いぞ。
 ある程度の深さのある川面に飛び込むならいざ知らず、階下に広がるのは、川の流れに削られながら流されてきたような丸みを帯びた石の足場だ。
 着地をミスっただけで、絶対に足首をぐきっとやってしまうだろうし、それで勢いを消しきれなければ全身打撲だ。
 うーわ、絶対痛い。
 ちらと階段の方を見やる環だが、ハクならばひとっ飛びで行ける。
 彼の足を引っ張る様な真似を、したくない。
 ほんのわずかな差ではあるだろう。しかしながら、負けず嫌いというのか、どうにかスマートに乗り越えてこそ、大人の女性というものだろう。
 時に見栄を張らねばならないのが、大人のつらいところである。
 そんな時に、環は無限の集中力を発揮する。かわいい男の子にいい顔をしたい! という、ちょっと残念な理由なのはあれだが、人間、好きな度合いが無限のモチベーションを生むのだ。
 そして、無限にも引き延ばした一瞬の逡巡は、逆光を多分に含ませた環のメガネをきらーんと煌かせる。
 妙案、川の流れに沿うかのように無数に列を成す、一般人には目にすることのない浮遊する魚類のような透ける何か、それはインビジブル。
「これだ! 行ってください。私は大丈夫ですよ、ハクくん」
 ヒーロー姿のまま逡巡するハクの様子を感じ取り、声を投げつける環は、うぬぬとメガネの橋脚をくいっと調整、なるべく視界の向こう側にいるインビジブルの一体へと√能力を発現する。
 【キャスリング】は、視界内のインビジブルと自分の位置とを入れ替える。その名の通りの力だが、単純に短距離ワープとしての使い道のほかに、入れ替えたインビジブルを光らせて攻撃にも使える。
 今回は飛び降りるのを避ける河原へとワープするために使用したが、オマケのように旅館の窓辺でお魚さんが異様に光っている。
 それはまあ、今は放って置こう。
「……環お姉ちゃんは大丈夫……問題ないみたいだね」
 先に飛び降りていたハクとも無事合流。
 待ち受けていたあがりという少女は、不敵な笑みでこちらを見つめている。
『どうして、あーしの邪魔をするの? これだけのインビジブルがあれば、みんなを幸福にできる。辛いことも、何もかも、帳消しにできるくらいの、最後をあげるのに』
 終わり良ければ総て良しという言葉の通りに、幸福を与えるという少女の目に迷いはない。
 しかしながら、それと同時にひどく歪み、欠落を抱えたその瞳の輝きは危うく見える。
「……最後を無理やり笑顔にするのは表情だけで心は満たされないよ」
『誰かの為なら、つらい時でも笑顔をみせるよね? 誰かを看取るときにも、たとえば、君を看取るときにも、あーしは笑顔で看取ってあげるよ?』
「……看取る人が犯人じゃ笑顔でいられないよ」
 イージスレオブレードを構え、ダッシュで踏み込むハクに向けてすら、あがりは凄絶な笑みを崩さない。
 武器を向けられてなお、相手に歪んだ幸福を与えることを考えるそれは、もはや別の知性体である様にすら思えた。
 光刃を放つその残光が、光の怪異に阻まれる。
 あがりの絶対的な意思が、威圧が、今尚も光と共に齎される幸福が、闘争心を奪っているかのように、二人の身体を鈍くさせていた。
「……眠い。この、安らかな気持ち……違う、違うな……!」
 手足に絡みつく光の怪異を斬り落とすと、いくらか気怠い気分が抜ける。
 一肌に温められたぬるま湯にいつまでも使っていたくなるような、それは平穏という名の怠惰。
 恒久的な幸福とはつまり、心の起伏を失う事とも言えるのか。
 それが、最終的な行き着く先であるというのなら、なんと、なんと……退屈な事か。
「人生……ッ!!」
 屈みこむ環が、心に湧いた火に従うかのように、岩場に握りこぶしを打ち付ける。
 痺れるような痛みが、腑抜けかけた気持ちを奮い立たせる。
「……人生、幸せに逝けるかどうかなんて、あなたに決められる謂われはありません。命数が尽きた時、最後によかったと言えれば、それで十分」
 芸術の世界は、結果が全てだ。
 後々に芸術に傾倒した者たちの人生を語ることはあろうが、多くの者たちは芸術品という結果しか見ない。
 しかしながら、そこへ傾倒する者たちの人生を語るのは、何故だろう。
 誰もが見向きもしなかった、彼の者たちの、燦然と輝く情熱の物語を、熱意をもって語るのは、そこに意味があったと、気づく者が居るからだ。
 だが、それは、誰しもに平等に語れるものではなく、語り継がれることで追体験はできるかもしれないが、その物語を謳歌できるのは、己一人しか居ないのだ。
 恒久的なぬるま湯、結構。そういう人生もある。
 だが、苦みも、辛みも、甘いひと時も……自分だけのものだ。それら全てを、忘れてやることはできない。
 まして、誰かに、それを、塗り替えられるなど、屈辱以外の何ものでもない。
「私たちの世界を、勝手に測るんじゃありませぇんっ」
 無意識の、それは環による手近な空間への手刀。
 それがぴしっと空間を叩き割り、ひび割れたような切れ目から、暗闇が広がる。
 環の抱える世界の歪み『|断章世界《ブラックアビス》』を展開させることによる射干玉の闇は、この場に降り注ぐ幸福の光を飲み込む。
 その幻影、暗闇が世界を、ハクの姿をも覆い隠すと、気怠さは完全に遮断させる。
『そんなに、嫌がる? 苦痛が好きな人なんて、いないよ?』
「……少なくとも、ボクも環お姉ちゃんも認めない」
 影から飛び出しての奇襲。さらに、ハクの飛び込みに合わせて、環も小型拳銃で援護を加える。
 光の刃イージスレオブレードの剣閃が、あがりを捉えた。
「……その行為が、自身しか笑顔にできない事に気づくべきだったね」

小明見・結
明星・暁子

 ごごご、と、何やら仰々しい音が聞こえる。
 それは、この場に生じた雰囲気を表す擬音なのか。
 だとすれば実に奇妙な話だが、しかし、それにしては書割ではなく、実際に地響きのように聞こえるではないか。
 誰がやったのか、旅館内で爆発物を用いた騒動はそれなりに大きく、避難誘導を買って出た小明見結は、ようやくそれも一段落といったところで、改めて今回の騒動の原因である高天原あがりの逃げ込んだという河原へと向かう。
 その途中で、地響きのような音を聞きつけて怪訝そうな顔をするのだった。
 普通の学生の感覚を捨てることのない結は、血生臭い戦闘がどちらかというと苦手だ。
 できる事ならば、侵略者と言えども武力を極力用いずに解決できればいいと思うのだが、こうまで騒動が大きくなって、それが可能なのかとも思ってしまう。
 武器は心を荒ませる。それを手にしてしまえば、使わずにはいられなくなる。
 そして荒んだ心に武器は危険である。
 そして、結が現場にようやく駆け付けた時には、全身が武器であるかのような巨人が、河原にてあがりと対峙していた。
 今風にしてもちょっとサイケデリックな感の否めないギャルっぽい女の子は、一見すると普通の観点から外れていないようにも見えるが、彼女従えている光の怪異は、円環を描くように、そして時折蛇ののたうつように鱗のような形状の欠片を光らせる。
 追い詰められてなお、その少女が浮かべるのは笑み。
 相手に幸せな最期を迎えさせることを目的とするという、それしか目に映らない、欠落を帯びた笑みは、可愛らしい少女の顔つきだというのに、ひどく胸の内に不安を抱かせる。
 それに対峙するのは、全身を分厚い金属の装甲に覆い、バケツのような兜に十字のスリットを覗き穴として設けるデザインが印象的な、怪人としか言いようのない200センチメートルもの巨体であった。
 明星暁子は、鉄十字怪人である。
 生まれこそ鎧を纏う怪人だが、ある日なんの切っ掛けか、正義の心に目覚めて、取り合えず悪と聞けば成敗しに出向くことにしているようだ。
 実際のところ、何をしたものか、彼女自身にも明確な行動指針は定まっていない。
『あんた、怪人でしょ? なら、あーし手伝ってよ。その立派なボディで、幸せな最期を、一緒に作って行こうよ。ね? いいと思わない?』
「なっ……!」
 言っていることが無茶苦茶だ。
 自分の与える死が、幸福であると信じて疑わないような、その傲慢と、トチ狂った認識は、理解の範疇をオーバーしているのではないか。
 結は、それを止めるべきと前に出ようとするが、先に行動に出たのは暁子。
 巨大な腕を横に、これ以上前には出ぬようにとするかのように結を制し、マスクの奥で鼻白むかの如くふっと息をつく。
「簒奪者め。お前の言うことはなんの意味もない」
 びしっと言い放ち、腕組みをし、見下すかのように目つきを利かせる。
 ……いや、それだけか。
 それだけらしい。
 あまりの言葉少なに、あがりはおろか、結も、二人を交互に見て、え、会話途切れちゃったよ? と不安げな顔になる。
 相当な無口なのか、それとも何かを待っているのか。
 とにかく、ここは彼……もとい、彼女の言説を借りて、結も自分なりの答えを出す。
「人に幸せを与えるというなら、例えそれが歪んだものであっても受け入れられる。
 けれど幸せに殺すなんて絶対に駄目。それが私の譲れないライン。
 いわゆる安楽死みたいなもので、それに賛否はあるだろうけど、少なくとも他人に与えられるようなものじゃあないわ」
 人は多かれ少なかれ、何かを破壊し、消耗し、そして殺して生きている。
 だがそこには曖昧ながらルールがあり、人を理性の生物たらしめる倫理がある。
 幸福なる死。そんなものは、稀だ。
 物語のような劇的な死も、砂場の中に埋もれた宝石を探すような確率で遭遇するかどうかであろう。
 多くのものが、死を受け入れているなどと嘯き、その次の言葉では、でも今ではないと尻込みする。
 誰もその覚悟などできはしない。
 まして、誰かに与える死が、己にとってもその誰かにとっても幸福であるなど、あってはならない。
 幸福は結果ではなく、その道程すべてを以て、成すものであるべきだ。
 きっと、目の前にいる光を従える少女は、そのいずれかを、どこかで失ってしまったのだろう。
「最後だなんて、言わないで。幸福を与えるというなら、生かすために使おう!」
『命はいずれ、費えるんだよ? だから、幸せなまま終わるほうがエコじゃない?』
「……もはや、問答無用……!」
 この話は、きっと交わらない。
 言葉を尽くしてあがりを説得しようとする結の言葉は前向きだった。
 それを途切れさせる方向にしか結論できないあがりとは、終着点が違う。
 ええい、もう難しい事を話すのはやめにしよう。
 全身を駆動させる暁子の重々しい装甲がうなりを上げる。
 対怪人用兵器を満載した重装甲を、改造手術された肉体は軽々と振り上げる。
 それは動くだけで脅威であったが、しかし、それにしてはその重低音は、あまりにも周囲から響くではないか。
 いや、これは暁子から聞こえるのではない。
 大地の鳴動するようなその音は、上流から流れてくるようではないか。
「こんなこともあろうかと、既に策は練ってある……」
 ほんとにぃ~?
 彼女に集まる視線はやや疑わしいものであったが、実際に、暁子はあらかじめ数日前からこの川の上流にあるらしいダムを占拠し、このタイミングに合わせて放水を行っていたのだ。
 【怪人大作戦】。この話のオープニングから更にさかのぼってやしないか? とか、正義を志すとか言っておきながら立派にダムを占拠してやしないか? とか、些細な問題はともかくとして、その策はなり、遠大な「こんなこともあろうかと」は、濁流となって、押し寄せる。
 当然、この河原に入る誰もがその濁流に巻き込まれてしまうのではないかと思われるかもしれないが、暁子はあらかじめ水位が及ばないような高所を位置取り、後から来た結も、自分より前に出ないようさり気なく立ち回っていた。
「こ、こんな中じゃあ、声も届かない……! お願い、みんなを守って」
 もはや話し合いどころではないが、流木や石流が自分たちに流れ弾として飛んでこないとも限らない。
 【守り風】。それは、精霊を呼び寄せる結の願いにより、風の防護を味方に施す術である。
 この状況では戦闘も何もなさそうだが、それでもあがりには光の怪異がいる。
 彼女はともかくとして、物騒な気配のする怪異からは、護れる術が一つでもあったほうがいい。
「あとは……信念の戦いだ」
 この濁流の激しい音の中でも、低く響く声と共に、愛用のブラスターライフルをよいせっと担ぎ出し、この激しい流れの中でも関係のない、三基の自律浮遊砲台ゴルディオンを伴い、掃討戦に出る。
 あの、温泉宿、すごいことになってませんか。とか、そんな問題は、きっと忘れようとする力が働いたりなんか、その、するはずだ。

シルバー・ヒューレー

 凄まじい濁流と、轟音が過ぎ去った後。
 旅館裏の河原は、嘘のように穏やかな流れを取り戻していた。
 とても上流のダムから放水した直後とは思えない。というか、ダムがあったのか。
 それはともかくとして、既に激しい戦闘が繰り広げられていた状態で、高天原あがりはいくつか負傷している。
 現代的、というよりもやや未来志向な前衛的ギャルは、なおも明るい表情を崩さず、その身体に無数の傷跡とすす汚れのようなものを残すのみである。
 希望は潰えない。なぜならば、絶望を失って久しいから。
 欠落を持ってしまったものは、容易に死ぬことを許されない。
 その心が満たされぬまま、存在が満たされぬままでは、世界にしこりが残ってしまう。
 それが、世界と己とを繋ぎ止めて、死ぬことすらままならない。
 痛みも絶望も、どこかへ忘れてきた。
 見る間に傷が癒えていく様は、おおよそ人の姿をしていない。
 あがりは死ぬことを許されてはいない。
 そう、まだ、この世界の幸福を最後に看取るまでは、死にきれない。
『すごいよね。インビジブルは、あーしにやることを残してくれている。無限の力があるんだ! この力を使えば、みんなに安心して死ねる場所を用意できるよ。安心の最後だ。きっとみんな、ハッピーだよね?』
「……そうですね。インジビブルを自由に扱えるのであれば、この世の悲しみを減らせて、笑顔溢れる世界に出来るかもしれません」
 川の流れに沿うかのように空中を泳ぐ、薄く透けた魚影。
 インビジブルの群れを見上げるあがりは、希望に満ちている。
 しかし、そこへ、冷徹なる声が降り注ぎ、硬質な足音が河原の石を踏み歩く。
 決して安定するとは言い難いこの河原の足場を、肩を揺らさずに歩む人影。
 シルバー・ヒューレーは、表情の薄い修道女であった。
 話してみれば、その物腰が柔らかい事をすぐに理解するかもしれないが、彼女をガラスの工芸品のように思わせているのは、その立ち居振る舞いであろう。
 透き通るような美貌、いや、射貫くような視線、いや、鉄芯を飲み込んだかのような佇まい、姿勢の良さ……そして、敵を前に退かぬという中世の騎士のような鋼の意志がそう思わせるのだろう。
「――ですが、その目的の為に宿を、猫を、そして安らぎを求めにやってきた宿泊客を利用するというのであれば、それに賛成、受け入れる事は出来ません」
 凄まじく鍛え上げられた体幹が、足場の悪さをものともせず姿勢を維持し、修道女らしく前に組んだ手を解くと、次の瞬間にはもうその手に銀の銃が握られている。
 ナイフ刃を取り付けられた銀の光沢を含む拳銃は、女性の手にはやや大振りに見えるが、それでも一挙動で構え、サイティング、発砲と移行するスムーズさは、熟練の技を思わせる。
 白煙を散らし、あがりの身体の中心を貫く筈の銃弾は、その弾道の半ばで光る鱗のような怪異に阻まれあさっての方向へ跳弾する。
 続けざまに、角度やタイミングを変え、常に最適な射撃姿勢を用いて移動しながら、しかし距離を保ちながら攻撃する姿は、舞踏、あるいは武道の型のようでもあった。
『ダメだよ。そんなの、あーしに届くわけない。この子がいる限り、そんなテッポーも、説教も、届かないよ』
 問答など無用。そう答えるかのように、あがりの周囲に這うような光の怪異は、光輪の形態から、ヘビのように空間をのたうち、自らの鱗を彩光を滲ませるように光り輝かせ、ばらばらに飛来する。
「っ……!」
 その出方、それぞれの動き、あがり本人はほとんど動かないが、光輪を為す鱗が銃弾を弾く音が変わった事にも注力する。
 あれは、容易に物質を両断せしめる。
 空が飛来するということは、高速回転するチップソーが無数に雨の様に降り注ぐようなものだ。
 こちらも銃弾をばらまき、防御に徹するようにそれらを弾き飛ばせば、一時は凌ぐことができるかもしれない。
 しかし、それでは堂々巡り。
 いずれは給弾の隙間を付け込まれて、こちらが押し負ける可能性もある。
 笑顔と真顔。その表情に変化はないものの、その中でシルバーは極めて冷静に、クレバーかつ大胆な手に出る。
「それは貴女の|優しさ《 エゴ 》からくるものでしょう。……そして貴女からだけの一方的|優しさ《 善意 》の押しつけ」
 銃で撃ち抜くのは周囲からくるものだけ。正面は、右手一本をつきだし、シルバーはあろうことか前進する。
 この期に及んで隙の無かったシルバーの、その明らかに誘うような隙だらけの右手に、光輪を為していた光の怪異が殺到する。
 あわれ、その右腕は短冊に刻まれ……なかった。
『うそ、なんで、切れないの……?』
 手に握りしめる、光り輝く鱗のような怪異、そして、腕には無数にそれらが突き刺さり、修道服の黒に染みが浮かぶが、シルバーは眉一つ動かさず、全身も止めない。
 そして握り込んだそれらを握り砕きながら、左手の銃を手放すとともに、その手には新たに、『真実の剣』が握られていた。
 今やシルバーの右手は√能力を無効化する【奇跡否定】の代物。その手はこの世界にあるべきもののみを選別し──、
 そして、もう片手に握られた剣は、鏡のように滑らかな刀身に、真実のみを映し出すという。
「──否定させて貰います。貴女の優しさ、善意を」
 この世界の住人ではない、人間厄災の、在るべきを正すかのように、写り込んだ影を、一刀のもとに斬り伏せた。

白兎束・ましろ
黒後家蜘蛛・やつで

 猫の怪異を粗方片付けたら、敵首魁の少女が飛び降りた!
 無論、人生に悲観して身を投げたなどというものではない。
 どうやら、あの少女にとっても、この温泉宿はそれなりに大事な狩場であったらしい。
 田舎特有のちょっと建付けの悪い窓を、勢いよく開けるあの特有の効果音は、思わず何度も試してみたくなるノスタルジーがあったものの、二回までにしておこう。
 今はとにかく、彼女を追跡し、追い詰めなければ。
「行きますよ、ましろ!」
「いやぁ、ここ結構高いっすよ。歩いて行ってもいいんじゃないっすかね……止めはしませんけどー」
 黒後家蜘蛛やつでと、白兎束ましろの二人組は、自分たちもこの事件の黒幕こと、高天原あがりの取った逃走経路を用いようとするのだが、窓の外は階下……というか、裏手の河原が広がっている。
 川の上流から運ばれる過程で角が取れた丸い石がいくつも転がっている足場は、ちょっと着地場所としてよろしくない。
 √能力者は、ちょっとやそっとでは死なないし、なんなら欠落が満たされない限り蘇るそうだが、普通に怪我はする。
 変なところに着地して、足首をごきっとやってしまいかねないが……。
 やつでのメイドである真白の心配をよそに、やつでは綺麗に着地を決めて見せる。
 盛大にドロワーズを公開していたり、直立して天を仰ぐようなポージングをしたまま、密かに足元を痺れさせていたりもしたが、無事らしい。
 さすがは蜘蛛の子。
 一方のましろも、そつなく着地する。
 こちらは、その手のアグレッシブな挙動に慣れているのか、特にどこか痛めた様子もなく、それどころかめくれ上がりそうになったスカートを貞淑に抑えつつ、屈みこむような着地姿勢に至るまで必要以上に足元を晒さない瀟洒な佇まいすら漂わせる。
 どうでもいい話、やるやつはいないと思うが、良い子も悪い子も、こんな危ない事しちゃだめだぞ。
 ともかく、前置きが長くなってしまったが、これでようやく、あがりに追いつくことができた。
 実を言うと、階段側はそれなりに人混みがあったのである。
 誰がやったのか、宿は現在、ちょっとした騒ぎになっている。
 泊まりの客も含めて、避難誘導が行われている真っ最中だったりで、ちょっと慌ただしいのだ。
 そんな喧騒も後ろに、お子様二人は、明るめサイケデリックファッションめいたギャル……に見えるが、人間厄災と再び対峙する。
『なんだ、来ちゃったんだ。河原に子供だけで遊びに来ちゃ、危ないよ。何が起こるかわからない。……あーでも、君たちはわかっちゃう子供なんだっけ。
 じゃあ仕方ないね。ここでサイコーの最期を迎えてもらおっかな? アハハ』
 深い欠落を抱えるあがりの微笑は、魅力的な少女の弾ける明るさとともに、薄ら寒い気色の悪さを覚えるものであった。
 人としてあるべき何かを、致命的なまでに欠いている。
 そしてそれができる者は、おそらく、この世界に居てはならない。
 √EDENという世界にとっての、それは、違和感という他になかった。
「なるほど!」
 別に、ギャルの偶然から生じたウィットに感心したからではないが、やつではぽんと丸めた手を打ち、異質な敵を見据え、岩場の足元を飛び石でも渡るかのようにてくてくとあちこち歩みながら、合点したように無い胸を反らす。
「あなたは誰かの最後を考えることに夢中なのですね。
 やつでは、種族繁栄を考えることに夢中なのです」
 ましろがすぐ後ろに控えているのをちらと確認しつつ、相手をしっかり見据えて、やつでは丁寧な仕草でカーテシーをして見せる。
 遠大な夢を語って聞かせてくれてありがとう、そして、そのアンチテーゼはこの私!
 とでもいうかのような、それは遠回しな宣戦布告のようでもあった。
 さながらそれは、日本神話の最古のエピソード。曰く、死の女神がたくさんの命を奪うなら、その倍生むわと宣言するかのように。
 それは夢見がちな少女が、無垢な夢を語って聞かせるものではなく、明確な目標を語る、生き様を示す、黒後家蜘蛛やつでの力強い微笑。どや顔であった。
「それはインビシブルがもたらすのではなく、知恵がもたらすのですよ。
 忘れることは知恵の喪失。やつではそれを許しません」
『君がやらなくても、きっと誰かがやるよ。お子様が、痛みや苦しみを求めるなんてさ……ずっと笑って、笑って、可愛がられるべきじゃないかな?』
「ふふん、今のやつではさいしょから笑顔なのです。
 いつも笑顔のましろが傍にいますからね!」
 笑顔をやや収めるあがりの表情には、虚無にも似た薄ら寒さが見え隠れするが、それに臆することも無く、やつでは親友にして最良のメイドを紹介する。
 名指しされたましろは、あ、自分か! という感じに周囲を見回してから、
「ましろちゃんは難しいことは分からないっすけど、きっとお嬢様の言ってる方が正しいっす♪
 にしし、ましろちゃんはいつもニコニコ笑顔っす♪ ぴすぴす♪」
 求められれば即応とばかり、百点満点のスマイルと共にやつでにくっついて見せる。
 そのやり取りが微笑ましく見えたのか。或はそうでなかったのか。
 あがりは一度、空を仰ぎ見るように視線を巡らすと、笑みを深める。何かを覆い隠すかのように。
『ふーん、じゃあ、いいか。もう十分、笑ったよね? もう、痛みなんて、悲しみなんて知らなくてもいいんだよ』
 彼女のその周囲に這うように侍る光の怪異が、怪しい輝きを見せる。
「やつでお嬢様、ましろの後ろに──あ、く……」
 呪いのような言葉に嫌なものを感じたましろが、その視界からやつでを隠すように前に出ると、その足取りが急激に重くなる。
 身体が鉛のように重い。いつもの軽やかさが嘘のように、動けなくなった!
 と言葉を紡ごうにも、舌もうまく回らない。ので、
「ぎゃーッ、っす!」
 ひとまず叫んでおく。
 相手の言葉、そして光の怪異の怪しい輝きは、あがりの視線を通じて金縛りのように、ましろの動きを止めてしまった。
 動く気力がわかない。ひどく億劫で、このまま何も考えない、無限の夢の時間を、貪ってもいいと、誰かに許されたかのような、そんな安心感が、ぼんやりとましろの全身の筋肉を弛緩させていく。
 ああ、このまま終わっても……いいのかもしれない。
 そういう幸福の形だって、なくはない。
 でも、心残りだって多分にある。
 自分が、彼を演じ続けなくて、誰が、覚えていられるのか。
 白兎束ましろは、だからこそ、ここで終われない。
『そうそう、もう休んでいいんだよ。子供だって、大変だもんね。……あれ?』
「にっ……」
 弛緩する身体が言う事を聞かないなら、倒れ込みながら、ましろは手に握り込んだ起爆スイッチを体重で起動させる。
 カチリ、その瞬間、周囲にいつの間にか、具体的にはやつでが長い講釈を垂れていた隙に仕掛けておいた「腹腹時計」が猛烈な勢いで白煙を吹き出した。
 相手が光を介する攻撃をしてくることは読めていた。
 ならば、それを覆う煙幕を事前に仕掛けておいたというわけだ。
 不敵な悪戯笑顔に、表情筋の感覚が戻ってくる頃には、視界が切れて真白は自身の感覚を取り戻していた。
『ちょっと、悪戯やめてよー!』
「ここから先は、悪戯じゃ済みませんよ」
 みりみり、と煙の向こうで何かが張り詰める音と、意気込むやつでの√能力が発現する。
 【見えない蜘蛛の糸を引く】それは、蜘蛛の神の仔ならではの、粘着性の糸をもちいて、周囲の固そうなブツを武器にする技術であった。
 張力、粘着力、その他、コリオリとかいろいろなパワーでもって、その力を開放すれば、河原に転がる丸石や岩塊でも、立派な武器となる。
 煙幕は色濃く、やつではあがりの姿を正確にとらえることはできないが、それでも、お互いの立ち位置は、あらかじめ記憶しておいた。
 そこへ目掛けて、一斉に砲丸ハンマーのように繋いだ岩がポコポコ放られる。
『あたぁっ!? いた、石!? 石やめてよぉー!!』
 確かな手応えと悲鳴。それに安心とともに、ここで逃すものかと、ようやく薄れてきた煙幕の煙の中で、身を起こすましろと目が合い、その意志を言葉をすっ飛ばして伝える。
 言わなくてもわかる。
 言われなくても、わかっている。
 お嬢様が、やれと云っている。
「もう無様は見せらんないっす。ウサちゃんビームっ」
 うさぐるみの中に仕込んだセントリーガン。そこから生じる【爆弾兎の麻痺麻痺光線】が、煙たい河原を引き裂くように光跡を描く。
 あがりはそれを回避できない。
 石や岩塊の礫をくらっていたのもあるが、粘度の高い蜘蛛糸は、投石と共に彼女の身動きを封じていたのだ。
 18日も続くらしいが、そんなにもたせる意味はあるのだろうか。
 ともかく、回避能力を失ったあがりは、ましろの麻痺麻痺光線を甘んじて受けるしかない。
「よし、止まった? 止まったっすね? よーし、ダメ押しにドッカーン! っすよー!!」
 ダメ押しとばかり、ビームのエネルギーを使い果たしたうさぐるみセントリーの追撃自爆モードをオン。
『どうして、あーしを止めるの。幸せになるチャンスなのに』
「ましろちゃん、まだ探してるんすよ。なんで、また今度ってことで!」
 ひときわ大きな騒音。旅館の中でさっきも聞いたような爆音が、爆炎が、河原を轟かせ、今度こそ、人間災厄はその姿をこの世界に保てなくなり、影すらも消え失せた。
 もうもうとけぶる河原には、あちこちに反響する爆破の残響音で、耳がキンキンと痛むが、何やら晴れやかな気分だった。
 とはいえ、屋外で暴れたためか、服も埃まみれなら、そろそろ冷え込んでも来た。
「ふう、一仕事終えたら、どっと疲れが来た気がしますね!
 今度は時間を気にせず、また温泉で一休みしましょう。
 なにしろ従者の労をねぎらうのは主人のつとめですからね!」
 やってやった。みたいな感じで仁王立ちするお嬢様、やつでは、どこか遠くを見ているようなましろを引き戻すかのように呼びつける。
 すると、思い出したように白いメイドは顎を持ち上げ、肩で嘆息したような気配と共に、いつもの無邪気な笑顔を向けてくれる。
「おー、もう一回温泉もいいっすねー。
 今度こそ、ネコと和解して見せるっすよー♪」
 いつしか、白い煙も、爆炎の形跡も、√能力者たちのついでのように巻き起こしたあれこれも、忘れられたかのようにその痕跡を薄れさせていく。
 残ったのは、ちょっぴり硫黄のような匂いの、白い湯気だけだった。

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