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Open The Door
●でぐちはない
一瞬の出来事だった。
がたんと自転車のフレームが鳴る。やらかした。乗り越えようとした段差に引っかかった。慌てて体勢を整えようとして、地面に手をついた――はずだった。
「……は?」
次に顔を上げたときには、褪せた黄色の世界が広がっていた。頭でも打ったのか、それで視界がおかしくなったのかと目を擦るが、ふいに見えた自分の手の色は正常で、服の色にも変化はない。
部屋がある。黄色い、部屋だ。だだっ広い空間に、彼はぽつんと転がっていた。
「……なん……だよ、ここ」
青年は周囲を見回す。異常性は明らかだ。広がる世界は真っ黄色、どこを見たって人はいない、壁と柱があちらこちら。
……誰も、いない。何もない。起き上がり足元を見れば、乗っていたはずの自転車すらも存在していない。
ここは、どこだ。青年の額に冷や汗が伝う。呼吸が浅くなる。
彼はまだ気付けない。奥の奥から、ぬちゃり、音がしていることに。
●ごきげんよう。
「『ごきげんよう』、皆様。大変ご機嫌の良くないお知らせを」
一礼するはデッドライト・シリル・クールベ(窓・h08786)。無表情。|彼女《彼》は一呼吸置いて、静かに口を開いた。
「バックルームという噂をご存知ですか」
噂話――都市伝説――あるいは誰かが広めた創作の世界。ある日、ある瞬間、人が黄色い部屋に放り出される。そこはバックルーム。本来ならば奥の部屋、文字通り。一般の客などに向けた用途ではない部屋を指す。だが今は前者の……都市伝説のほうが有名か。
「ともあれ。迷い込んだものがいるらしく」
自分のような迷い方ではないようで。|漂流船《メアリー・セレスト》、冗談を言うときも無表情。
「本来誰もいない場合が多いのですが。今回は先客がいます。この空間を利用している者が」
それはぬぢょだとか、べじょだとか、奇妙な音を立ててはヒトのふりをして、蠢き這いずり歩く真似をして――。
「クヴァリフの仔と共に居るようです」
揺れるインビジブルの光。
デッドライトは指を立てる――まずは、黄色い部屋から抜け出す手立てを見つける必要がある。それから、青年の保護と避難。この空間には出口がある。
現実世界への出口。あるいはその他の脅威。または、クヴァリフの仔、そして、その『母』が待つ空間が。
「故に、先手を」
|彼《彼女》は静かに告げる。
「殺し尽くしてきてください」
船霊が導く先は、海水の中ではない。
これまでのお話
第1章 冒険 『怪異バックルーム』
これはゲームだ。北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)の理解は早かった。
「なんとなく見覚えのある光景だよね」
間違い探し、広い空間からの脱出、よくあるホラーゲーム……なにぶん恐怖心と無縁、あまりやったことがない春幸にとって、少々の不安材料。――というか、やったとしてホラー要素を楽しめるか怪しい彼が「正しい」楽しみ方ができるかもわからないところなのだが。
だだっ広い空間だが、だからこそ目立つものがあればマッピングもできるだろう。
ともあれ探索、生体反応を探して歩けや歩け。壁には引っかき傷、僅かに窪んだ壁紙の窪みを押せば、その先に道、と。
「本当にゲームみたいなヒントが多いねえ」
謎ありげに置かれた懐中電灯、明るいこの部屋では役に立たないだろうが、この先には暗い部屋でも存在するのだろうか。と、そのあたりで気づく。臭い。
……春幸はふと足元を見た。一歩二歩と下がった瞬間、横から丸鋸が飛び出てきて、そしてそのまま引っ込んでいく。なるほど、床に残っていた引きずったような痕と機械油の臭いはこれかと顎を揉む。なかなか楽しい。
今のところ怪物の気配はしないが……。
「殺し尽くせと言われたけど、仔は大事に回収しないとね!」
うきうきである。何を殺せばいいのか、敵か仔かの指定はされていないが、ともあれそのように言われたのだから、都合良く解釈するのが一番だ!
そうしてたまにある謎の柱やら穴やら、開けたら壁だったらドアなんてものを見ていけば、この空間が相応に広いことがわかってきた。これはメモの出番だろうか、と考えていると。
「うあ、わ、あ、ああ……!!」
人の声だ。誰かが真似していない限りは。それも逃げられている。こちらを先に目視されたようである。
「あ~待って~! 味方~!」
「……えっ。あ、は、はいぃ……?!」
困惑する青年は暫く走ってからようやく立ち止まった。息を切らして、肩で呼吸しているがまだまだ元気そうである。
さて一応聞いておこう。
「君、脱出系ゲームって得意?」
「……えっ?」
唐突~。
「ま……まあまあかな……って」
「そっか。じゃあ任せた」
肩ぽん。そのまま踵を返す春幸に青年は「えぇ!?」と声を上げる。
「絶対出口あるタイプだから、頑張って。僕はまだこの先のヤツに用があるんだ」
恐怖心のない彼、恐怖心に寄り添うこともちょっと怪しい。肩を叩かれた青年は、不思議なものを見たとばかりに春幸を見送る……。
なんて黄色い。思わず掌をみる。通常だ。壁紙が黄色いだけで他は――僅かにあるドアなどは木製の茶色が見えていたりと、視界ではなく世界がおかしくなっていることをクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は改めて確認する。
一瞬で迷い込んだ世界の中、頼れるのはひとまず己自身と――。
「殺し尽くせ、か。随分と御機嫌な依頼だな」
一足先に踏み込んだであろう、禍神・空悟(万象炎壊の非天・h01729)の姿。秋葉原でもあの船霊は似た星を詠んだ。「殺し尽くせ」。それこそ、空悟の得意とするところである。
「んじゃまぁ、お楽しみの前に面倒事を片付けちまうか。こういう時の為に手数を増やしといて良かったぜ」
――喚群天偵、骨蛇の群れが溢れた。クラウスもその場を動かず、|機械仕掛けの瞳《オートマタ》にてドローンを呼び出す。十八と二人の『視線』が揃った。
散開する群体、知覚を共有しているそれらは分担しながら黄色い部屋を探索していく。
真っ黄色。浅く汚れ、やや黄土色に近い部屋の中を抜けていく。部屋の真ん中にどんと立っている柱だとか、よくわからない場所に開いている穴だとかを観察しながら――数の暴力だ。当然、それはすぐに見つかるも。
「う、わ、あぁーーっ!?」
――空を飛ぶドローンは、青年にとっては異常な存在だ。走り出した青年、彼を逃がすわけにはいかないと、姿を表したぐるりと骨蛇が青年を逃さぬように囲む中。クラウスのドローンは一旦姿を透明化させて目の前から姿を消す。
青年のもとに慌てて駆けつけたクラウスが、青年へと落ち着いた声で話しかける。
「ええと、助けに来ました。一緒に脱出しましょう」
「うっ、うそ、うそだろ、まだ人、いるのかよ!」
「居ねぇ方が良かったか?」
奥から現れた空悟の姿を認めて、青年はまた肩を縮こまらせて後ずさろうとしたが、空悟がさっとそれを脇に抱えて回収する。周囲をぐるりと回る蛇天を見て怯える青年だが、彼らが味方であることはどうにか把握したらしい……。
困ったように眉を寄せる彼にクラウスが優しく「大丈夫だよ」と微笑みかける。
「出口を探してやるから着いて来い」
「は……はいぃ……」
着いて来いと言われども、降ろされてはいないが。脇に抱えられていたほうが速いために。どれだけ常識的な相手でも、相応に消耗している様子である。先程、やや反応速度が遅かったのもあるが。
「怪我はない? 何かと遭遇したりはしたかな」
「えっと……ひとり、男の人を見たくらいで……」
おそらく先行していたEDENだろう。どのようなやりとりをしたのかは定かではないが、どうやら穏やかなやりとりではあったようだ。
彷徨っていたであろう時間からするに、この部屋の敵は少ないか、殆ど居ないか――。
……クラウスが散開させていたドローンが、ひとつの『違和感』を発見する。
「……青い線を引かれたドアがある」
クラウスがやや眉根を寄せながら呟く。
「出口か?」
「わからない、先に行かせてみるよ」
ドローンがゆっくりとドアノブを回して、開ける。その先に広がるのは――タイル張りの部屋。奥に見えるのは、プールだろうか。そこに見えるのは――。
「……御注文通り、殺し尽くそうじゃねえか」
下準備には塩が必要そうだ。親子丼か他人丼か、恐らくは――後者。ぬぢょりと蠢くそれを視認しつつも、ドアを開けたままドローンは透明化した。
そのドアへ向かう最中、ドアを開けることに――正確には半ば破壊するかのような開け方をしていた空悟の蛇天が、ひとつのドアを捉える。
見えたのは、車の通りがある町並みだった。
「てめぇはこっちだな」
「わ、うわっ!!」
|開けられ《破壊され》たドアの前へ青年をぽんと落とす。冷や汗をかいたままの青年は目の前の現実空間らしきドアの向こうと二人の姿――そして黄色い空間を見て、小さく頭を下げて。
「あ……ありがとうございます」
青年は小さく頭を下げて、ふらふらとした足取りで出口へと向かう。彼がこれからどうするかはわからないが、きっと何かあれば、機関の人間が回収をしてくれることだろう。
……さて、問題は開け放たれた青色の線で囲まれたドアだ。クラウスが先んじて、ゆっくりとドアへと近付いていく。念のためとドアが閉まらないよう確保したまま、ゆっくりと……息を殺しながら、次なる部屋へと進んでいく。カーペットからタイルを踏む音へ、足音が変わった。
この先に待ち受けているものが何なのか。ドローンと蛇天から共有された五感すべてが告げている。
あれらは『殺し尽くすべきもの』だと。
第2章 集団戦 『集蛞蝓』
うぞり。
プールから這ってくる。あるいはどろりと、ぬめりと、蠢いているだけのものもいる。
それは蛞蝓のような何か。現れたEDENに気づいたか、集合体がぬるりべとりとプールサイドに這いずり、立ち上がる。
見ればプールの水の中、沈んでいるのは――クヴァリフの仔の青か?
人の形をゆっくりと――そうすることでしか、動けないのかもしれないが、かたちを取った『怪物』は、頭部に見える|それ《・・》をEDENへと向けた。
静かな空間に響き渡る不気味な水音たち。
――|集蛞蝓《しゅうかつゆ》。
寄り集まった体がEDENへ迫る。
生理的に無理。そして理性を削るもの。
ぬらりと這い上がってはぺとぺと、その小さな手をくっつけあって人の形を取ろうとする『生物』。なまもの。いきもの……。
「うわ……」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)が無理と思うのもマジで無理はない。集合体となった『それら』、各々が蠢きあってヒトを形作り、ありもしない視線をこちらに向けてきているのだから。
先に逃げた彼があれを見なくて良かった。一生物のトラウマを背負って生きるか、最悪、その場で発狂して狂人に至る。それほどまでのおぞましさである。
プールの底で眠るように揺れているクヴァリフの仔。あれを手に入れるため、この蛞蝓どもをまずは片付けなければならない。銃を構えるも正直、気乗りはしないところだろう。相手の外見的に――。
放たれるレイン砲台のレーザー。四散する蛞蝓のような生物。数の多いそれを狙い撃って再度体を形作るのを阻害しながら、二丁拳銃の弾丸で集蛞蝓を撃ち抜いていく。遠距離からで良かった。妙な粘液を放出しながら体を崩壊させていくそれらを見ながら、クラウスは眉をひそめる。
あれに取り込まれてしまえばどうなるか、想像するだけでもおぞましい。肌が粟立つのを感じながら、クラウスは的確に蛞蝓どもを撃っていく。
――うぞり。一匹の……正確には集合体となった一塊の集蛞蝓が胎動を始めた。近づきたくはないが、こうなってしまえば仕方がない! 急ぎ粘液を振りまくそれらの間を走り抜け、その身体を……身体?
「(……身体どこ?)」
どこだかわからないが。ひとまず、集合体の寄り集まった中心をブチ抜けばよかろう! 発動されるルートブレイカー。蠢いていた蛞蝓どもがぴたりと止まり、そしてまたうぞうぞと動き、距離が迫ったことをよいことにクラウスを狙い粘ついた腕らしきものを振り抜く――!
それを避けてもなお、べしゃり。ねばつく飛沫が飛んでくる。やめてくれと言いたいところだが言葉が通じない相手なのだから、徹底的に潰し尽くすしかない……!
「(手を洗いたい……)」
掃除をするのならば、まず自分が汚れるのも仕方がない。とっても嫌な気分。
クヴァリフの仔を回収するついでに、プールの水で洗い流せればよいのだが……『彼ら』が這いずり上がってきた水だ。プールの水まで粘ついていなければよいが、果たして。
「おっ! 集蛞蝓君じゃないか!」
知った顔に挨拶するようなノリであった。軽く手を挙げるは北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)。怪異食に造詣の深い彼は、『それら』が何かをよく――それはもう、よく知っている。
「仔の回収がメインだけど君達も大歓迎だよ!!」
このぐねぐねと寄り集まった怪異。味が、かなりよい方であることを――!
「と言うか君達を繁殖させて安定供給への道を作りたいね! |解剖機関《ウチ》に来ないかい?!」
そう言ったところで相手は意志の薄い存在である。言っていることは理解できないが、目の前の春幸が何か声を発していることはしっかりと理解していた。途端、自分たちをも巻き込んだ粘りつく体液を放出しはじめる集蛞蝓――!
一発一発の威力はさほどでもないが、それが集まれば痛みも走るというものだ。だが恐怖心の欠如したこの男、痛がる素振りは見せても止まったりはしない。
「仔はプールの底? 君達結構仲がいいんだねえ。もしかして共存に向いてる?」
じめっとした場所が好きなだけかもしれない……。粘りつく雨が降り注ぐ中で春幸は独り言のように集蛞蝓たちへ声をかけながら、静かに語りはじめる。
「バックルーム……この先の空間は知ってる? レベルと呼ばれる階層構造になってる。ここはプールルーム……じゃあ次はどこに繋がっているんだろうね?」
そこは――オフィスのような空間、だとか。プールを残したまま、周囲の壁紙が剥がれるようにして、グレーがかった壁紙へと変化する。柱は四角く変化し、現れるはオフィスチェアにデスク、パソコンといった、ハリボテだとしても実にそれらしい構造物たち。
「君を媒体にして仔の力を安全に取り込む方法もあるかもしれないねえ」
そうなれば、クヴァリフの仔と融合して強力になった集蛞蝓の相手をしなければならなくなるのだが、それはそれ、これはこれ。
ウキウキ麻痺弾一斉発射。必中の力とともに放たれるそれらが集蛞蝓の動きを鈍らせ、彼らは身動きを止め、ぼたぼたと床へと落ちていく。
それを手の届く範囲で拾い集める春幸! 何をしているんだ! 何って活け締めですけれど。ぽんぽん投げられて山になり、しかし融合できずにうねるだけになっている集蛞蝓。怪異よりも、彼のほうが、怖い。
ゲテモノもゲテモノである。どこぞの誰かが食材にしようと詰んでいる集蛞蝓を眺め、禍神・空悟(万象炎壊の非天・h01729)はげんなりとした顔をする。
「ありゃホントにイケんのかよ?」
いけるらしいです。見た目に反して淡白で美味しいお味だとか――。
「……まぁ、食わず嫌いは良くねぇよな。少なくとも辛い食い物よりかはマシかもだ」
その気になればどうとでも。構えた空悟へと迫る集蛞蝓。それを前蹴りで往なしながら、空悟は蛞蝓どもから距離を取る。どんな食い物も、基本は火を通しゃなんとかなる。煮るも焼くもご自由に。今回選ばれたのは――炎。
「だからよ、燃え尽きねぇよう気張れよテメェら」
念入りに火を通してしまえ、逆星。広がる炎、じゅうと燃える音、集蛞蝓が放った降り注ぐ体液すらも蒸発させる。
何もかもを燃やし尽くせ。灰も残さず焼却せよ。逃れようとした集蛞蝓、腕を伸ばしてくる寸前、行き倒れてその身体が崩れてぼろぼろと元の寄り集まる前の蛞蝓へと戻っていく。
蠢くそれを踏み潰した空悟は、まだ立っている集蛞蝓を己の炎で焼き尽くしながら飛沫を上げ続けているうごめくものたちを眺めている。
「ヘアスタイリングのジェルには向かなそうだな」
何より普通にキメェ。粘度の緩いそれ、腕に被るだけでも気色が悪い、正気を削る。だが勢いは弱く半端なものだ。無差別に、己の仲間にまで波及しているのだから、飛沫ひとつひとつの威力は低い。軽く拭ってやるだけで十分、それ以上は必要ない。
「味以前に|歯応え《手応え》がねぇな」
それは燃え、半端に火を通されたそれの踏み心地はいやに柔らかく、口に放り込んだときの感覚を思い眉をひそめる。さて相当数の減り具合、頭の数は生憎その性質上わからないが、人らしい姿を作ろうとしていたものも黒く燻ぶり、そしてさら、と灰になり、風にさらわれていった。
「あの神サマは母親気どりの癖に飯もちゃんと出せねぇのか?」
仮にも神を気取るなら、もう少しマシなもん寄越せ。女神様のお食事の用意は人間にとってはどうにも『てきとう』だ。そうあるべきという適当か、なんでもいいかという適当かは置いておき。
「おっと、今のご時世こういう物言いはよろしくねぇんだっけか」
もとより、あの水底で眠る『仔』らも、本当に彼女の子どもだとは、誰も知ったところではない――。
「精神衛生に悪そうなものが出てきましたね。さっさと塩漬けにして差し上げましょう」
そうすれば食える存在であることを知ってか知らずか。食品衛生的にも悪そうな外見だ。ヒルデガルド・ガイガー(怪異を喰らう魔女・h02961)は粘液を放出しながら歩く集蛞蝓を見る。
「ここで殲滅します」
さあ、ご丁寧にあしらってやるのはここまでだ。
天をも焦がすものを彼らが味わえばどうなるか? 答えは明白。ばちり、ヒルデガルドから爆ぜたのは――雷。
爆滅せよ。
ぱ、と雷のひかりが奔り、そして――爆発を起こす! 爆風の直撃を受けた集蛞蝓は姿もなく消し飛び、それを逃れた集蛞蝓も無傷では済まない。特大の高圧放電を受けた蛞蝓たちが動きを止めた。
痺れるどころではない。肉が硬直し、寄り集まっていた細い手指が落ち、己の粘液に――そして湿っていた空間へと幅広く伝播し、内部から爆ぜるようにして形が崩れていく!
「テメェらくらいの蛞蝓は塩漬けもまどろっこしくてな、焼いて干上がらせてやろうか?」
二度と戻ってくれるなよ。その呪詛、確かに雷と共に。元より守るものが粘液しかないのだ、それすら干からびるほどの雷霆を受けて立っていられるほど彼らは強靭ではなかった。
なんとか立っている――と、表現してもよいのか。集まったままでいた集蛞蝓が腕らしきものをヒルデガルドへと向けた。
腕らしき部位が群体の中の一匹、それを射出してくる。雷電まで発生させることは敵わないが、その威力は確かなもの。受け流したその背後、べしゃりという音に混ざってタイルの砕ける音がした。背後を見るまでもない。
まだ戦闘を継続できる体力があるであろう集蛞蝓を狙い撃ち、その人型を堅実に崩していく。魔眼が捉えるのは、個々の蛞蝓どもが懸命に、一体ではなく群れとして狩りを続けようとしているその様子。気色が悪いと反吐を吐いてやっても構わないだろう。
「さっさとゴミムシの餌にでもなっちまいな」
電流によって強化された肉体が蛞蝓を焼け焦げた群体を蹴り散らす。ヒルデガルドが巻き起こす爆風が粘液ごと敵を吹き飛ばし、放たれる攻撃を集蛞蝓を盾にして受け止め、崩壊させ――死角から距離を詰め。プールの底まで、叩き落としてやった。
さて邪魔なぬめぬめどもはオサラバだ。
――プールの水が蒼く染まる。潮の匂いが強くなる。ぞわり、肌を粟立たせるほどの悪寒をもってして――『母』が、顕現する。
第3章 ボス戦 『仔産みの女神『クヴァリフ』』
――プールの水が蒼く染まる。潮の匂いが強くなる。ぞわり、肌を粟立たせるほどの悪寒をもってして――『母』が、顕現する。
ざばり。プールの水を派手に溢れさせた仔産みの女神『クヴァリフ』は、その視線をEDENへと向ける。
『妾の集めるものすべて、汝らは気に入らないというのだな』
いつでも、せっかくの饗宴を台無しにしてくれる。女神は不機嫌そうに眉をひそめ、それでも笑みを崩さない。青白い肌にぬらり伝うプールの水。彼女から出る触手が、プールの底で眠る『仔』を守ろうと動き出す。
『好い余興であった。では……ご退場は、あちらからだ』
指さす先は開いたドア。だがその先の景色はくらやみである。入ればどうなるか、わかったものではないのだが――。
『開いたドアは閉めるもの。なあに――妾もその程度、手伝ってやろう』
|逆《・》だ。
退場すべきは、女神のほうである。
「相変わらずキレイな吸盤だねえ」
「妾の美しさなど、妾自身がよく知っている」
どろり。溢れる粘液はありとあらゆる場所から。視線は鋭く、どこか甘ったるい雰囲気を纏っていた。青白い肌をしたうつくしく艶めかしい身体。だが彼女をみて北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)が思うことは、その身体のうつくしさを見てのものではない。
「折角だから和解してさ、君の仔を僕らに与えてくれればお互い平和に過ごせると思うんだけどな」
仲良くしてくれるなら、|解剖機関《ウチ》はいつでも大歓迎。両手を広げるその背中、どこか後光すら見えた気がするが。
「……汝の『平和』がそれだと云うのなら、EDENも腐ったものよな?」
それはそう。くつくつと喉の奥で笑うクヴァリフ――彼女の背からうぞり這い出ている触手が、爆ぜるように動いた。
「おっと!」
刺突。素早く動いた触手を避けて、「今回も交渉決裂かあ」と笑う春幸。フラれてばかり、それも仕方のないことである。もとより春幸はEDENの中でも独特な考え方をしているのだから。
「仕方がない――相手をしてやろう……」
「うん。よろしく。……じゃあ」
気怠い表情で指先を動かしたクヴァリフへと。春幸は笑顔で、云う。
「だぁるまさんが、こーろんだ」
――『仔』を産み落とした直後、その身体が、硬直する。メガネの奥の目が笑っている。迫ってきていた触手が――削ぐように切り落とされた。噴き出す青色の血液を浴びながら、春幸の目はクヴァリフをとらえつづけていた。
「うーん、やっぱり切り応えを考えたら、相当に食感が良いと思うんだよね……」
丁寧に削ぎ切りされていくクヴァリフの触手。硬直したままの仔すらも切り刻むメスの切先。このままでは流石にドライアイも真っ青だ。クヴァリフの肌や触手よりも。ぱちり、瞬きをした瞬間に動き出す。
切り刻まれ、麻痺した触手はまともに機能しない。身動きが取れないまま戦闘能力すら削がれた仔もまた、べしょりとプールの中へと沈んでいった。
「お子様は僕らが預かるから、ママは早々にご退場いただけるかな」
「……笑止!」
うぞりぬぞり、プールの中。『仔』らは親の顔も春幸の顔も知らず、揺れている。
「こいつは御丁寧にどうも」
開いたドアを閉める、それだけでも人の品位というものは知れるものだが、彼女はそもそもヒトの倫理・論理で生きてはいない。丁寧さは|お墨付き《・・・・》。
「だが殺し尽くせって注文でな」
禍神・空悟(万象炎壊の非天・h01729)の掌から一瞬、炎が爆ぜる。……空悟の周囲から一瞬、湿気が消えた。
「それにメインを頂かれずに出て行かれちゃ、テメェもホストとして顔が立たねぇだろ?」
「どうであろうなあ。汝らに喰わせるには少々お高くつくものだ、支払いは何で済ませるつもりか?」
目を細めたうつくしい顔。ぎろりと向く視線――。支払いも何も、招いたのは『女神』である。支払う必要などなにひとつない、無効な決済だ。
「さて、タコ女。捌かれる準備は出来たか?」
無数の眼球が空悟を刺す。物理的な痛みすら与えんばかりの視線の数々を空悟が放った黒炎が広く遮った。
「汝も、捻り千切られる準備は十分だろう?」
見えずとも構わないとばかりに空悟へと距離を詰め、そのまま両腕を広げるクヴァリフ。だがそれは空悟の身体を捕らえることなく、僅かに掠めるに留まった。どこへ行ったとばかりに視線を這わせ、そして感覚から捉えたのは――真下!
「遅ェんだよ!」
プールの飛沫を蹴散らしながら、腹を貫く黒炎の刃。燃え盛る切先が抱擁の勢いを利用し、深く抉る――!
「ぐっ……う!!」
ブチ抜かれた腹部。それを振り払うため、そして強撃を与えるために放たれた触手たち。しかしその強烈な打撃をものともせず、クヴァリフの粘液を干からびさせんとばかりに渦巻く黒い炎。
さらに深く抉られた傷口に青い血液を吐き、クヴァリフは唸りながらもその身体を捻り、空悟の腕からなんとか逃れた。ざばりとぬめるプールの水が波打って飛沫を上げた。
「蛞蝓共と違って見てくれが良いだけで、ぬめりも気にしなくなるってのは我ながらアレだよな」
中身は似たようなモンだったが。ぐちゃぐちゃの肉が、そこにあるだけで。それでも蛞蝓どもよりずいぶんとマシである。
じわりとクヴァリフの身体から汗のように粘液が吹き出す。焦りか、それとも。じろりと空悟を睨みつける視線は鋭く、そして……恨み深い。
「君が一緒に退場してくれるなら考えてもいいよ」
背にしたドアからの退場者は今のところ誰一人いない。開きっぱなしだ。
「応じるわけがなかろう」
「だよね」
ゆえに、当然のやりとりである。残るは戦いで退場者を決めるだけ。だからこその応答。
女神クヴァリフはじっとりと湿った目線で、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)と睨み合う。
傷ついた体を庇うわけでもなく、先陣が切り捨てた触手を自切するようにプールへと落とし、新たな触手を用意するクヴァリフ。プールの波に揺れて濡れるそのさまは、追い詰められた蛸によく似ていた。
「さて、汝も帰る気がないのだろう? ならば……妾がここで潰すのみ!」
ぎろり。女神の無数の視線が、一斉にクラウスへと向けられた。巨大な眼球から放たれる圧。突き刺さる視線に足が僅かにすくむ、だがそれが何だというのだ。
大鎌の形に錬成された魔力――触手と滑る足場に気を使いながら走り抜け、クラウスはクヴァリフのその身体へと肉薄する!
触手がそれを阻もうと伸びてくるが、大鎌の刃で邪魔だとばかりに切り捨てた。クラウスを貫かんと勢いよく放たれた触手の先、それを魔力防御で切先を逸らすように流し、触手の射程を測りながらクヴァリフの元へと着実に進んでいく。
時には引き、そして迫り、触手を一本ずつ着実に切り落としていくクラウス。
「まったく、ちょこまかと!」
――痺れを切らしたように女神が動いた。両腕を広げ、その腕で抱擁しようと迫る彼女。それからなんとか逃れ、追撃として放たれてくる触手たちも大ぶりに振りかぶり切り裂いて、女神のその体に一閃、深い傷を刻み込む――!
「ッ、く、あぁッ!!」
青い鮮血と粘液を撒き散らしながらクヴァリフが声を上げる。触手を盾にし後退する女神……その向こう側に見えるクヴァリフの仔らは、母の奮闘を意識していないのか、未だゆらゆらと揺れているだけだ。
――あれを潰し切るか。持ち帰るか。二択を選ばされ続け、思えば長い付き合いである。だがそれでも彼らは尽きることがない。無限とも思えるほどに生まれ落ち、そしてEDENに『処理』されてきた。
女神の思惑はどうあれ――この|地獄《部屋》には、まだまだ先があるようだ。