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なまえのないものがたり

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神隠祇・境華
ラデュレ・ディア

●『めでたし』の先へ
 まだ訪れてもいない未来を静かな灯火のように照らし、今日という一日を少しだけやさしいいろへと染めていく。
 あの日『|めでたし、めでたし《Happily ever after》』と結ばれた物語は頁を閉じた訳ではなくて。しろい余白を抱いたまま、『つづき』が綴られる日を待ち望んでいて――そして今日。そのつづきを紡いでいくために、ふたりの少女は現実のせかいで再び巡り会うことが叶ったのだ。

 やわらかな春風が街路樹を揺らし、木漏れ日が石畳の上でやさしく揺れる昼下がりのこと。約束の場所へ、ちいさなうさぎの少女がぱたぱたと駆け寄ってくる。ふわりと揺れる長耳も、翻る裾もどこか弾んでいるようで。神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)は思わずくすりと笑みを溢しながらうさぎの少女――ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)に手を振った。
「境華さま……!」
「ラーレさん」
 朝靄のひとみに陽がさしたよう。きらめいた視線が自分をまっすぐに見詰めていることが分かるから、境華も己の頬に淡く喜色がのぼっていくのを感じていた。
「こうしてお会いすることが叶って嬉しいです。ふふ、お元気でしたか……?」
 気が逸ってしまって、つい早口になってしまいそう。すこし上がった息を整えるように微笑めば、境華は急かすことなくラデュレの喜びを受け止めるように目を細めた。
「私もとても嬉しいです。この時をとても楽しみにしていました」
 静かな言葉たちの奥深くに、隠しきれないほどの喜びがある。それはちいさな燈りのように胸の裡で揺れ、まるでひとつひとつのことのはをやわらかく温めているようだ。これが現実のせかいの出来事であることを確かめるように暫く互いの姿を見つめ合ったなら、なんだかとても擽ったく感じてしまって。はにかむようにふたりで微笑み合えば、ぱちりとてのひらを重ね合わせたラデュレが『そうです』と嬉しげな声を上げる。
「この世界にはブックカフェというお店があるのです」
「ブックカフェ……ですか?」
 曰く。それは書店と喫茶店が融合したちょっぴり変わった店舗であり、珈琲や紅茶を楽しみながら店内に用意された書籍を自由に手に取って読書が出来る場所なのだと言う。気に入った本があればそのまま購入してもいいし、普段読まないジャンルの本を『お店のおすすめ』を頼りに導き出してみても良い。まだ見ぬたくさんの物語との出会いに満ちた場所なのだと聞けば、境華の瞳にもきらきらとひかりが宿っていくよう。
「名前を聞くだけでもわくわくとしそうな場所ですね」
「はい……! もしよければ、そちらでお茶をいたしませんか……?」
 そわそわと躍る胸の鼓動は、きっとふたりとも同じもの。恐る恐るに尋ねるラデュレの仕草に笑みを深め、境華は快く頷いて見せた。
「ぜひご一緒させてください」
 ぱっと花開くように浮かんだ笑顔の、なんて眩しいことだろう。
「ふふ、決まりですね……!」
 歩み出したふたりの軽やかな足音は、まるであたらしい物語の『はじまり』へと向かう序曲のようだった。

●記されていく頁
 マホガニーの扉を押し開けば、からん、からんと鳴ったドアベルと共に焙煎したばかりの珈琲と新品の紙とインクのにおいがふたりを出迎えてくれる。天井まで届く本棚には隙間なくぎっしりと本が収まっていて、一歩足を踏み入れただけで自然と期待が高まっていくようだった。
「ブックカフェには以前訪れたことがあるのですが……こうして本たちに囲まれると、わくわくとしてしまいます」
 やわらかな暖色の照明に頁を捲るちいさな音。ぽこぽことケトルの中で沸騰したお湯が立てる音。誰かが書物をしているのかも、カリカリとペン先が忙しく紙の上を滑る音。静かな時間が流れる穏やかな空間に、ラデュレも境華もちいさな感嘆の息を溢した。
「本に囲まれた場所というのは、それだけで少し落ち着きますね」
 まだ開かれていない物語たちが静かにこの場所で眠っているよう。けれど、物語に楽しげに耽っている人たちが近くに居るのだと知れば静けささえどこか弾んで見えるようだと、微笑む境華にラデュレもちいさく頷いた。
「どのような本に出会えるのでしょうか、ふふ、楽しみですね……!」
 店員に促されるまま窓際のソファ席に腰を下ろせば、やわらかな座面が『いつまでもいていいよ』と囁いてくるよう。なんだか秘密基地みたいですね、なんてことのはを交わし合うのが嬉しくて。くすくすと溢れそうになる笑い声を抑えながら、並んで座ったふたりの顔を木漏れ日がやわらかく照らしている。
「境華さまと語らうためのお伴たち……わたくしは抹茶ティラミスと、ほうじ茶ラテにいたします」
「ふふ、どちらもとても美味しそうです」
 和洋折衷なのです、なんて楽しげに溢したラデュレに倣い、境華も開いたメニューの中からこの物語に似合いのおともを選び出していく。挿絵のひとつひとつが輝いて見えて、本当に迷ってしまうのだけれど。
「私は……和紅茶と、フルーツタルトにします」
 やわらかくあまい余韻を齎す和紅茶は、きっと甘酸っぱいフルーツタルトによく似合う。うつくしい果物の彩りは、たのしい時間にぴったりのはずだから。

 注文をしてからほどなくして。運ばれてきた甘味たちのなんとかわいらしいこと!
「まあ、とても美味しそう……!」
 抹茶の深い緑は雨露を浴びた朝の森にも似て。ふんわりと香るほのかな苦味の下に閉じ込められたマスカルポーネクリームを頬張ったなら、どれほどの幸福に満たされるだろう。
「こういうものは、いただく前から少し嬉しくなってしまいますね」
 ナパージュでめかし込んだベリーやぶどうはつやつやと輝いて、フォークを入れるのを躊躇ってしまうほど。断面に詰まったたっぷりのカスタードにはバニラのつぶが見え隠れしている。ほのかに香るシナモンはタルト生地に練り込まれたものだろうか。
 ずっと見詰めていたいくらいにきれいだけれど、ふたり揃って『いただきます』と口にしたなら、ぱちん、と口の中で『しあわせ』が音を立てて弾けたような気さえした。
「甘くてほろ苦くて、とても美味しい……!」
「……! 爽やかなフルーツと、タルトのしっかりした甘味が調和しています」
 こくりと一口紅茶を含めば、ふくよかな茶葉の香りがぱっと広がってベリーの酸味とうつくしい調和をもたらしていく。本当に美味しいです、と思わず溢れた境華の言葉に、ラデュレも嬉しげに香ばしいほうじ茶ラテを口にした。
 あまい香りが静かな店内に、ゆっくり、ゆっくりと溶けていく。穏やかな空気が満ちる中、ふと過ぎった物語の断片にラデュレは湯気越しにぽつりと境華に問い掛けた。
「和のスイーツをいただいたから、でしょうか。日本に伝わる物語が気になってまいりました」
「日本の物語、ですか」
 静かで、上品で。それでいて穏やかな余韻が心地良い。和の趣を感じながら浮かべる物語は、彼女にとってはどんなものがあるのだろうと。齎された問いに、境華は少しだけ考え込む仕草を挟んだ。――何せ、候補があまりにもたくさんだったから。
「境華さまは、お気に入りの物語などはありますか……?」
「私が惹かれるのは、やはり少し不思議なものや、長い歴史を持つものです」
 境華の瞳がぱちりと瞬く。
 それは愛する物語、本について語るときだけ現れるほんのすこしの静かな熱。
 御伽噺も怪異譚も。誰かの間を巡った末に残ったものだと思うと、それだけで心が動くのだと。胸に刻まれた物語を噛み締めるように紡がれることのはは、目前の少女のこころを動かすに十分なちからを持っていた。
「日本は、八百万の神々という考えがあって、あらゆるものに神様が宿ると捉えるのです」
 それは例えば、ひとつの米粒であったり。長く愛された物品であったり、生涯をたくさんの愛情で満たされた動物の類であったり。天に、地に。火に水、風。ありとあらゆるものに神は宿り、人々は感謝を捧げるのだと知れば、ラデュレは目を丸く見開いて独特の世界観に小首を傾げた。
「やおよろず……日本には数多の神さまがいらっしゃるのですね」
「はい。そうすると、不思議なことに……神様だけでなく怪異もまた、身の回りのあらゆるところに潜むものとして語られるようになったんです」
 静かな声はみなもに落ちる雫のように広がっていく。まるで境華自身が一冊の壮大な物語のようだと、ラデュレは夢中になって耳を傾ける。彼女が心から『物語』を愛しているのだと、その視線や声音、ことばに宿した音の響きの全てから伝わってくるようだった。
「物を大切にすると、神さまが宿るなど……尊くてステキな逸話をわたくしもお聴きしたことがあります」
「ええ。そうした物語が、ただ不思議で恐ろしいだけではなく。祈りや戒め、時にはやさしさまで含んで残ることも、興味深いのです」
 そのルーツを辿っていくと、時を遡った先で生きていた人々が何を畏れ、どんなものを大切にしていたのかまで少しだけ見えてくるような気がして。そんなところがとても惹かれるのだと告げれば、ラデュレがこくこくと何度も頷いてくれることがただ嬉しい。たくさん、たくさん語ってしまっても。彼女ならきっと一生懸命に聞いてくれるから、ついつい話しすぎてしまう。
「ラーレさんは、どのような物語に惹かれます?」
 だから。あなたの愛するせかいも教えて欲しいのだとねだれば、少女の頬がぱっとよろこびのいろに染まっていく。
「ふふ、『めでたし』……ハッピーエンドにて結ばれるお話でしょうか」
 どんなにつらい道のりでも。どんなに苦しい困難が待ち受けていようとも。過酷で危険な冒険譚であろうとも、心が痛むような茨道を歩まされるような話でも。『めでたし』に至るまでの道筋をなぞることが、この上ないさいわいであると。告げられる言葉のあたたかさに、境華はそっと目を細めた。
「めでたし……ハッピーエンド。とても素敵ですね」
 道中がどのようなものであろうとも、駆け抜けた先が『めでたし』であるのなら。頁を捲る緊張感さえひとときの彩りのように思えるのかもしれない。彼女もまたそれを愛しているのだろうと知れば、胸がほのかに温められていくよう。
「それから……旅をする中で出逢う歌たちを集めることも、でしょうか」
 豊穣を、幸福を。
 願い、祈り、約束する言葉たち。口遊む歌たちも、短な物語だと感じるから。
「歌も、物語……そのように捉えることは、私も多い気がします」
「境華さまもですか……?」
 自分は歌の中にある物語を拾い集めることはあっても、歌そのものを持ち歩くことは出来ない。だから。
「どんな物語を歌われるのか、ラーレさんの歌もぜひ聞いてみたいです。……ふふっ、単純にラーレさんの歌声を聞いてみたいという気持ちもありますが」
 その言葉に、ラデュレの長耳がぱたりと揺れる。照れを多分に含ませながらもはにかむ姿に、境華も穏やかに笑みを深めた。
「……ふふ、ちょっぴり照れてしまいますね……!」

 物語への愛着を語り合っているうちに、自然と『あの場所』での出来事を思い出す。それをそのまま口にすれば、ほてほてと熱を持った頬を両のてのひらで抑えるラデュレも同じ気持ちだと頷いてくれた。
「あの場所での出来事は、今もとても印象に残っています」
「ふふ、境華さまもですか……? わたくしも、あの時の|物語《せかい》を覚えております」
 まほろばライブラリ。
 それは移ろう二彩のうつくしき階調を宿した、ふたりのはじまりのものがたり。
「『物語』をなぞらうことは多いのですが……真っ白な頁を、自らの言葉たちで埋めてゆく経験ははじめてでした」
 とても新鮮で、不思議な体験をしたと思う。それはもちろん喜ばしいものであり、『めでたし』だけでは終わらない『つづく』物語を、あの時あなたと共に紡ぐことが出来てよかったと。やわらかく目を細めたラデュレの見つめる先にあった境華の顔は、ほんの少しだけ真剣ないろを帯びていた。
「私はこれまで、物語を集めることや、誰かの物語を読むことばかりを考えていて……自分の物語の続きを書くという感覚は、あまり持っていなかったのです」
 けれど。あの場所で言葉を交わしていくうちに、その先があっても良いのかもしれないと――少しだけ思うようになってきた自分が存在している。ああ、こんなことを言ってしまうと、彼女を困らせてしまうかも知れないけれど。
「私の胸の中のどこか欠けているところに、ラーレさんがそっと触れてくださっているような、そんな気がするのです」
「境華さま……。いえ。いいえ、」
 きゅっと握られたラデュレの両のてのひらは、まるで彼女の決意のあらわれのよう。その続きを聞くのがほんのすこしだけ怖くて。俯きかけた境華の顔を上向かせたのもまた、ラデュレの紡いだことのはであった。
「その『つづく』が、今なのです……!」
 こうして現実のせかいでも出会って。ことのはを交わすことが叶って。奇跡のような必然を、どうして喜ばずにいられようか。
「境華さまとのお話は心躍ることばかりなのです」
「ラーレさん……。……ふふ」
 窓の外へ視線を向ける。
 白い雲が、ゆっくり、ゆっくりと流れていた。
「たしかに私の中で何かが少し変わって、そのことをとてもありがたく思っているんです」
 少しだけ伏せた目線。穏やかに息を吐いた後、真っ直ぐにラデュレを見詰め返した。
「そうですね……まさに今、その『つづく』を形にしているところでした。私もラーレさんとお話しする時間は、あとから思い返してもあたたかくて、嬉しい時間です」
 静かな声。けれど、確かな熱を宿した言葉に、ラデュレは花が綻ぶように咲って頷いた。境華の言葉のひとつひとつから、変化の兆しを感じていた。その一歩に自分が携わることが出来たというのなら、こんなにも嬉しいことはない。
「もしよろしければ、なのですが……またこうして、『つづく』を重ねてまいりませんか?」
「もちろんです。そうして……たくさんの物語を綴っていけたら」
 私も嬉しいです、と続く言葉が嬉しくて。『喜んで……!』と返した声は思ったよりも大きく響いてしまって。ぱっと口元をてのひらで押さえたなら、しん、と静まったわずかな時間がおかしくて、ふたりの少女は声を抑えて笑い合った。

 お茶も、お菓子も、お話も。
 ぜんぶぜんぶ堪能したなら、本棚に並ぶ本たちにも目を向けてみよう。まだ知らない物語へ。まだ、名前もついていない未来へ。少女たちが頁を捲る音がちいさく響く。それは風の音にも似て――或いは、新しい約束が生まれた音だったのかもしれない。
 『めでたし』で結ばれる物語はうつくしい。けれど、『つづく』物語には未来へと続く希望が満ちている。今日という一頁もまた、きっとその為にあったものに違いない。

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