リジーのおともだち
●こぼれおちたいのち
六月の雨は水の底に沈んでいくようだった。
空から降る雨は糸ではなく、もっと細かな硝子の粉であるように思われた。それらは風にも逆らうことも急ぐこともなく、ただ世界中に静かなしろい膜を掛けてゆく。煉瓦の壁は赤を忘れて鼠色となり、窓硝子は曇り家の中を決して透かさない。軒先から垂れる雫は古い時計の振り子のように一定の拍子で石畳を叩いていた。
道は真昼でありながら夕暮れよりも薄暗く、人影などほとんどありはしなかった。時たま黒い傘がひとつ角を曲がってしまえば、魚が深いみなそこを横切るように音もなく過ぎ去って、やがて灰色へと溶けていってしまう。
路地裏には水が集まり、ちいさな川を作り出していた。腐った林檎の皮も、何時のものかもわからない新聞紙も。誰かの失くした片履も、その細い流れへと身を任せながらゆっくり、ゆっくりと運ばれていく。
どこへ行くのだろう?
海へ帰るのか、それとも忘れ去られたものだけが流れ着く国でもあるのだろうか、誰もそれを知りはしない。それどころか、気に留めることさえありはしない。そんな濁った流れを横切るように。傘もささぬまま、ぺたり、ぺたりと汚れた裸足を地面につけて歩く少女の姿があった。
ぎぃ。
ぎぃ。
ちいさなからだに似つかわしくない大きすぎる斧が石畳を擦るたび、湿った街路は低く呻く。まるで雨そのものが軋んでいるかのような、耳障りでいやな音だった。
痩せぎすの少女の長い白髪は水分を吸って銀糸の束となり、幾筋もの流れとなって細い肩へと張り付いている。赤い瞳だけが曇天の下で不自然に鮮やかで、熟れ過ぎた果実にも、皮膚の下で脈打つ鮮血のようにも見えるだろうか。少女の肩の周りに浮き上がるあかいあぶくが、呼吸に合わせてごぽりと湿った音を立てていた。
ぶくぶく。
ぶく、ぶく。
雨粒を受けて震えながら。形を変えては寄り添い、離れ、また少女へと寄り添っていく。それはまるで母親の服の裾を掴み損ねた幼い子どもたちが、少女のあとを追い掛けているようだった。
見上げた空からぼたぼたと零れ落ちる雨の雫が、いつまでも止まない。いつまでも、どこまでも――そらと街とのさかいめがなくなるほど、静かで、つめたい。
「……ママ」
震える唇の隙間から溢れた声が、雨よりもちいさく落ちた。
少女の呟きに、あかいあぶくは答えない。それでも彼らは少女のそばを離れない。雨はそういったものを世界に繋ぎ止めるちからをもっているのかもしれないなんて、果たして彼らは考えるだろうか。まるで忘れられた魂たちに、『まだ帰ってはいけません』と雨が囁いているかのようだった。
「……、……?」
不意に、少女は足を止める。
路地の隅。木箱や鉄パイプ、壊れた椅子の脚が積み上げられたゴミ捨て場。それは少女をいっとき雨から隠してくれる『ねぐら』のひとつでもあったし、ていのいい『おもちゃばこ』に違いなかった。
「すてられちゃったの?」
ちいさな獣が転がされている。
いや、生きているわけではない。それはぐじゅぐじゅに汚れた水を吸った、ひと抱えほどの大きさのぬいぐるみであった。白かったはずの毛並みは泥に汚れ、長い耳は片方が裂け、中の綿だけが雨の雫で膨れ上がっていた。
たぶん、うさぎ。
そう思えばうさぎに見えるし、垂れ耳の犬だと言われれば犬にも見える。名前を失ったものはみな似たような顔になるのだと少女はよくよく理解していたから、気に留めることもなかった。
しゃがみこんだ少女は、骨ばった細腕を伸ばしてぬいぐるみを抱き上げる。水をたっぷり吸った布と綿の身体はずっしりと重く、ぽたり、ぽたりと濁った雫をこぼして少女の服までもを濡らしていく。
「……ふふ」
微かな吐息を溢して少女は笑う。その声は鈴を転がすようなものではなく、氷の欠片が触れ合うような、高く、寂しさを滲ませた音だった。
「リズたちといっしょね」
ぼろぼろの身体をぎゅっと抱きしめる。
ぽたり、ぽたり。雨よりも遅い雫が、血潮のように落ち続けていく。
ぶくぶく。
ぶく、ぶく。
あかいあぶくたちがぬいぐるみの周りへと浮かび、興味深そうに揺れている。それはまるで新しいともだちを。きょうだいを迎えた幼い子どものよう。そんな彼らの歓迎に目を細めると、いとしげにぬいぐるみを抱いたまま、少女はまた歩き出す。
ぎぃ。
ぎぃ。
斧が歌う。雨が歌う。
街は灰色のオルガンとなって、誰も知らぬ讃美歌を鳴らしていた。
『みんな』と一緒なら、ゴミ捨て場は雨を凌ぐにはすこし頼りない。
少女はもうひとつのねぐら――壁は崩れ、屋根は傾き、野良猫さえも寄り付かぬ暗がり。大人ひとりが隠れられるほどの軒下に身を潜ませながら、鼻歌混じりにぬいぐるみのやぶれた足に不器用にぼろ布を巻いてやった。
「いたい?」
返事はない。
ちいさく首を傾げてみても、雨の音が響くばかり。
「まっててね」
ぐるぐる。
ぐるぐる。
それは包帯というよりも、子どものままごとに違いなかった。すぐに解けてしまう、役に立たない優しさ。それでも少女は満足げに鼻を鳴らす。
「これでだいじょうぶ」
あかい瞳を細めて少女はわらう。
「ねえ。あめがあがったら、きずをとじてあげましょうね」
あいにく裁縫道具など持ってはいない。持っていたとして、少女がきちんとぬいぐるみの傷を綴じ合わせてやることが出来るかどうかは定かではなかったが。
針もない。糸もない。
けれど少女は、晴れればなんでも出来るのだということを信じていた。
そらが晴れたら、ママも帰ってくる。
だって世界は、おとぎばなしで出来ているのだから。
雨粒から軒先から糸のように垂れ、その向こうに広がる世界は昏く霞んでいる。
硬い地面に寝転がる。寝床が湿ったぬいぐるみで濡れることなど厭わずに、しくしくと泣き続けるそらを仰ぎながら少女は雨が上がるのを待ち続けた。
「リズもあなたも、ひとりぼっちね」
答えはない。
雨は長く、長く降り、まるで夜が永遠に続いているかのようだった。少女はぬいぐるみを抱いたまま硬いコンクリートの上に寝そべった。湿った寝床へ水が染み込んでいくけれど、それでもぬいぐるみを離さない。
「ふふ、つめたい」
水を含んだぬいぐるみは冷たかった。
腕も、耳も、からだも。
けれど、少女も同じくらいに冷たかった。
死んだものは永遠にあたたまることはない。たとえ百年歩いたとしても、六月の雨よりもすこしつめたいだけ。
だから寂しくない。
寂しいということさえも忘れてしまえば、それは『なんでもない』ことになる。
だから。
「ねえ」
少女は囁く。
雨音は強く、そのすべてを掻き消してしまいそうになるけれど。
「リズのおともだちになってくれる?」
静寂が満ちる。
雨だけが降り、泡だけが揺れている。
遠くで鐘の音が鳴っているのが聞こえた。それは誰かへ夕餉を知らせる鐘。誰かが家に帰るための鐘に違いないけれど。帰る家のないものにとっては、それは『からっぽ』の音に過ぎなかった。
少女はゆっくりと目を閉じて、記憶の糸を手繰り寄せていく。
それなのに、思い出せない。
ママの顔は?
手の温度は?
おうたは、においは――なにもない。
ただ、どこかで抱きしめられたような、そんな気がする。だから探す。世界中を探し続ける。誰かを見つけては『あなたがリズのママなの?』と問い掛ける。
違ったならば壊してしまう。合っていたとしても、すこしでも『ちがう』ならば殺してしまう。そうしてしまえば、もう何処にも行けないから。自分を置いていかないから。歪んだ、けれど純粋な幼い少女の理屈は雨よりも曖昧で、夢よりもずっとずっと正しかった。
「……あ、」
雲が少しずつ裂け始めていく兆しが見えた。
灰色の幕へ、細いきんいろがさし込んでいく。屋根の先から流れ続けていた糸がやがて雫となって、ぽたり、と最後の一滴が地面に落ちた。
「みて」
そらが洗われた硝子になったことにぱちりと瞬き、少女はむくりと身体を起こす。
「おそらがぴかぴか」
ぬいぐるみへと語りかける声に合わせ、あかいあぶくたちもひかりを移してゆらゆらと揺れていく。
「ねえ、おさんぽにいきましょう」
立ち上がった少女は斧を引きながら、ぬいぐるみの手をぎゅっと握る。歩けばもっと泥まみれになるだろうし、綿もちっとも乾いてなんかいなかったけれど、構わない。
「そうしたら、きっとつめたくなくなるわ」
それは、己のことばを本当に信じている顔だった。
ぎぃ。
ぎぃ。
先よりも強く、斧が地面を削っていく。
軽やかになった少女の足取りを、誰も止めることなどできやしない。
「針と糸も、かってこなくちゃ」
お金はあるのか。そんなことは知らない。
おとぎばなしに、そんな『ささいなこと』は書かれていないから。
斧が歌う。
少女も歌う。
パセリ、セージ、ローズマリー、アンド……、
雨上がりの風が、ちいさな歌声をさらっていく。
石畳の水たまりに、そらが映っている。雲は流れ、夕映えのいろが覗きはじめ、世界は何事もなかったかのように夏へ向かって歩き出していく。
けれど少女だけは置き去りのまま。六月の中に閉じ込められたまま、冷たい雨の向こう側へ、いつまでも手を伸ばしている。
いつか、本当のママが見つかるように。
いつか、このぬいぐるみの破れた胎と足が縫われるように。
いつか、いつか。数えきれないほど朝と夜がめぐったその先に、|捨てられたものたち《わたしたち》にも帰る場所が出来るようにと、信じたまま。
雨はあがった。それでも少女の、リジー・ベリー・ジャック(百年の孤独・h13206)の心には、まだ細い雨が降り続けていた。
――誰にも見えるはずのない、透明な六月の冷たい雨が。
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【Abbie(ぬいぐるみ)】
あいしてるって、だきしめて。
からだのあちこちが破れた、捨てられていたぬいぐるみです。
ボタンの目は片方が外れかけ、継ぎ目からは綿が飛び出しています。あなたが巻いてあげたぼろ布が辛うじて中身の全てをぶちまけないように繋ぎ止めていますが、針と糸をどこかから『拝借』して、傷の手当てをしてあげるのがよいでしょう。
嘗て彼女は白くふわふわの毛並みであったのでしょうが、泥に塗れた今は嘗ての面影を濁らせてしまっています。うさぎなのか、犬なのかも定かではありません。千切れてしまったしっぽが見つかれば、或いは特定できたのかもしれません。
けれど、ああ、どうかお気になさらないで!
彼女はきっと、あなたのよき友人となってくれることでしょう。
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