シナリオ

穢れたシセンノマ

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 村は、どこにでもある静かな集落だった。畑の脇には軽トラックが停まり、小さな商店の前では老人たちが世間話をしている。
 その外れに、古い屋敷があった。

 白壁も瓦もよく保たれ、庭木は剪定されている。誰も住んでいないはずなのに荒れてはいない。しかし、暮らしの気配もなかった。
 台所に匂いはなく、縁側に座布団もない。ただ何かを祀る場として、家の形だけが丁寧に残されている。

 男は、その屋敷を所有する家の長男だった。代々続く地主の一族で、祖父の代に事業を興し、今ではいくつもの会社を束ねている。村では今も、その家名を軽々しく口にしない者がいた。

 しかし男にとって、屋敷は誇りではない。幼い頃から、この家が嫌いだった。恐ろしかったと言っていい。
 廊下を歩けば背後から何かがついてくる気がして、夜中に目を覚ますと閉めたはずの襖が少しだけ開いていることもある。そこから流れ込む空気は、冬でもないのに肌を冷やした。

 屋敷には、触れてはならないものがある。
 大人たちは決まった日にだけ屋敷を訪れ、供物を持って奥へ消える。戻ってきた時には疲れた顔をしているのに、役目を終えたような安堵を浮かべていた。

 男はようやく、屋敷を売る決心をした。相場より遥かに安い値をつけ、土地だけでも構わないと不動産屋へ伝える。
 古民家としての価値もあり、敷地も広い。買い手はすぐにつくはずだった。

 だが内見に来た者は、奥へ進むほど口数を失っていく。
 最初は梁や庭を褒めるのに、やがて顔色を変え、理由を濁して帰ってしまう。
 靴を履き直すことも忘れたように外へ出る者さえいた。不動産屋も三度目からは中へ入りたがらなくなる。

 今や男もその原因を知っている。だからとにかく手放したかった。

 売れないなら、祓うしかない。
 そう考えた男は、高名な老僧へ依頼を出した。
 各地の因縁深い土地を鎮めたと評判の人物で、法外な金額にも眉ひとつ動かさず、まずは一度見てみようと応じる。

 当日、村はいつもと変わらなかった。遠くで子供たちの声が聞こえ、畑の脇では老人が腰を伸ばしている。
 けれど屋敷の門前だけが、日常から薄くずれているように男は感じた。

 老僧は門前で合掌し、静かに経を唱える。しかし玄関の敷居を越えた途端、足が止まった。

「これは……私の手には負えないやもしれません」

 声は細く、喉の奥で擦れていた。

「お願いします。もう私には、この家をどうすることもできません」

 男は頭を下げた。親族は屋敷の責任を取るよう長男を責め続けている。
 彼自身も、早くこの重圧と一族の因縁から逃れたいと思っていた。

 老僧は長く黙ったのち、浅く頷く。

「案内を」

 その言葉を聞いた時、家の奥で何かが鳴った。
 柱が軋んだのか、物が落ちたのかはわからない。ただ男には、何かの唸り声のように聞こえた。

 二人は屋敷の奥へ進む。掃除の行き届いた廊下には埃ひとつないのに、空気だけが古く淀んでいる。
 昼の光は障子越しに差しているが、奥へ進むほど肌寒さが増した。壁に掛けられた古い額の文字も、なぜか視界に入るたび読み取れなくなる。

 床板は乾いているはずなのに、足の裏へ冷たさが染みた。壁の向こうで水が滴るような音がし、老僧の読経が一節ごとに乱れる。

 こつん。
 何かで板を叩くような、軽く乾いた音だった。

 奥に、白いものがある。
 人の顔ではない。獣のものでもない。ひとつの形として捉えようとすると、意識の端が滑り、何を見ているのか分からなくなる。

「ひぃいいいぃ!」

 老僧が絶叫した。数珠を取り落とし、男を押しのけるように逃げ出す。袈裟の裾が床板へ引っかかり、裂ける音が屋敷の奥に響いた。それでも彼は振り返らない。

 男は一人残された。
 祓おうとしたことが、気づかれたのだ。いや、本当は最初から知られていたのかもしれない。
 老僧へ依頼した時、買い手を招いた時、あるいは屋敷を売ろうとした時からずっと。

 白いものが近づく。
 見えているのに、分からない。
 ただ、|それ《・・》が家の歴史も、祖父や父が何を差し出してきたかも、すべて覚えていることだけは理解できた。
 そして、自分だけが、ずっとそのルールから外れてきたことも。

「シセンノマ……」

 その名を口にした瞬間、闇が視界を塞いだ。

 数日後、男は屋敷から離れた山道で遺体となって発見された。行方をくらませた老僧も、同じ頃に寺の本堂で冷たくなっているのを見つけられる。
 二人の死に場所は違う。ただ、共通点はあった。
 どちらの遺体も全身が掻き毟られたように裂け、血塗れになっていたのである。

 ●

「√汎神解剖機関で、怪異による事件を予知したんだ」

 水瀬・恋眞は、集まった√能力者たちへ告げた。

「場所は古い村にある地主のお屋敷。被害者になるのは、子供の頃そこに住んでいた長男さんと、祓いを頼まれた僧侶さんの二人」

 背後のスクリーンには、屋敷の写真と企業の資料が映し出されている。

「地主の家系は事業を興して、今は一族で会社経営してるんだ」

 情報によれば長男はそこの社長を務めているようだった。

「どうも、その屋敷は怪異を祀っていて、供物を捧げることで一族の繁栄を支えていたみたいでね」

 そのため、もはや誰も暮らしていない屋敷に、長年途切れず手間と費用が注がれていた。

「どうやら、長男さんはその供物を止めたことで、会社はここ数年はかなりの経営難みたい」

 彼は怪異の力を利用した繁栄に対して、強い拒絶感を持っており、会社の業績を犠牲にしても一族から切り離そうとしているようだった。

「長男さんは屋敷を売ろうとして、駄目ならお祓いしてでも手放そうとしてるんだ」

 恋眞は申し訳なさそうに視線を伏せる。

「でも、怪異を祀っている部屋がどこかまでは予知できなかった。だから最初にやるべきことは、その部屋の捜索になるよ」

 スクリーンには、片仮名で『シセンノマ』とだけ表示された。

「シセンノマという言葉が何かのヒントになるかも」

 男が末期に言い残した言葉であり、そこには何かしらの意味が込められている可能性は高いという推測だった。

「長男さんや僧侶さんがそうだったように、捜索中も祟りに襲われる可能性があるよ。部屋を探すだけだと思わないでね」

 恋眞は次の資料を映す。

「それとね、連邦怪異収容局員のリンドー・スミスが、この怪異の回収を企んでる情報も入ってる」

 |連邦怪異収容局員《FBPC》、アメリカの秘匿戦力として怪異を蒐集し、支配や使役を目論む組織である。

「FBPCにも星詠みはいるだろうからね。おそらくは現地で鉢合わせになる」

 怪異の部屋を見つけ、祟りによる犠牲を防ぎ、敵対組織へ渡さずに解決する必要がある。

「少なくとも、長男さんや僧侶さんは直接怪異を祀った人ではないから、なんとか助けてあげてほしい。みんな、お願いね!」

 スクリーンの中で、古い屋敷は沈黙している。しかしそこはただの空き家ではなく、穢れしものを祀る祭壇なのだった。

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第1章 冒険 『怪異の館』


 √能力者たちは屋敷の門を潜り、玄関前の石畳に足を止めた。
 事前に確認した資料では、現社長である長男はまだ屋敷へ来ていない。祓いを頼まれるはずの老僧も同様であり、予知された悲劇にはまだ時間がある。だからこそ、彼らは今ここに立っている。

 法的な手続きや所有者への説明は、裏側で汎神解剖機関の協力者が整えている。今ここで彼らが考えるべきことは、ただ一つだった。
 この屋敷のどこかにある、シセンノマを見つけること。

 引き戸が開いた瞬間、冷えた空気が外へ流れ出した。
 埃と古木の匂いに混じり、じわりとした湿り気がある。

 一歩目を踏み入れた途端、関から見える範囲にインビジブルが漂っていた。淡く透ける魚影の輪郭をしたもの、小さな蛸に似たもの、裂けた布切れの形をしたもの――それぞれが緩慢に揺れながら天井近くを流れている。

 廊下の先や、座敷の欄間付近にも、それらはいた。 薄い膜の向こう側から滲み出したように、古い屋敷のあちこちへ溜まっている。
 普通の人間なら何も見えず、また感じることもないだろう。けれど√能力者たちには、その異常な数がはっきりと分かった。

 ここで何人も死んだのか。それとも、屋敷そのものが長年にわたり、周囲から死後の残滓を引き寄せてきたのか。
 答えはまだ出ないが、少なくともこの家は空ではなかった。

 ――見られている。

 誰かが言葉にしないまま、全員が同じ感覚を共有した。
 インビジブルたちに目があるわけではない。視線を向ける器官を持つものばかりでもない。それでも玄関へ立つ彼らの肌には、幾筋もの針を当てられたような感触が走っていた。

 視線。あるいは、視線に似た呪い。
 シセンノマという名が脳裏を掠める。
 音だけを頼りにすれば幾つもの解釈が浮かぶが、今この場において最も生々しく感じられるのは、こちらを見ているという一点だった。

 屋敷の奥は薄暗い。雨戸は閉め切られ、小さな隙間から細い日差しが差し込んでいるだけだ。
 誰も住んでいない。人の気配もない。それなのに、屋敷そのものが、自分たちを視ているようだった。
クラウス・イーザリー
エレノール・ムーンレイカー

 屋敷の長い廊下を、一組の男女が歩いていた。

 廊下の両側には襖が並び、どれも古びた取っ手だけが鈍く光っている。
 床板は足を乗せるたびに低く鳴り、その音が少し遅れて天井裏へ吸い込まれていく。柱には黒ずんだ手垢が残り、かつて人が暮らしていた痕跡だけが妙に生々しかった。

「本職の高僧でもあの有様になるとすると、果たしてわたし達が太刀打ちできるレベルの怪異なのでしょうか……」

 エレノール・ムーンレイカー(蒼月の守護者・h05517)は、不安を隠しきれない声で呟いた。
 白銀の短い髪が頬の横で揺れ、琥珀色の瞳は廊下の奥を警戒するように細められている。黒を基調としたた装いは端正で、小さな帽子と肩を覆うケープが凛とした佇まいを作っていた。

 一見すれば、彼女は落ち着いた女性に見える。けれど怪異の気配を前にすれば、根にある臆病さはどうしても表情へ滲んでしまう。
 それでもエレノールは足を止めなかった。犠牲者を出さないためにも、この事件を何とか解決したいという思いがあるからだ。

「どうだろう。霊能者も√能力者にいるくらいだし、住職もそのなりかけだった可能性はある。それなら俺たちにも対処は可能だと思うよ」

 クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、柔らかな声で答えた。肩口まで伸びた黒髪と青い瞳は、陰気な屋敷の中でも静かな理知を感じさせる。
 色白の顔立ちは穏やかだが、暗色の服と外套が細身の輪郭を引き締めていた。

「竜漿によって√能力者でなくとも、うっすらとインビジブルを感じられるようなものでしょうか?」

「そんな感じだね。それなら怪異にも√能力は有効かもしれない」

 エレノールの故郷である√ドラゴンファンタジーでは、竜の魔力が世界に染み渡っている。√能力者でない一般市民でも、インビジブルをわずかに視認できることがあった。老僧もまた、それに近い素質を持っていた可能性はある。

 クラウスの考察を聞いて、エレノールはわずかに安堵した。理解できない恐怖であっても、手が届く可能性があるなら対処の仕方も考えられる。彼女の意識は探索主体へと切り替わっていった。

 廊下の奥は静まり返っている。人の声もなく、生活の匂いも薄い。だが無人の家とは思えないほど、こちらを意識する気配だけが濃かった。

「シセンノマ……素直に解釈するなら、人の目という意味で視線の間……?」

「俺もそう思ってしまったな」

 そう決めてしまいたくなるほどに、本来形を持たないはずの視線を強く感じる。
 壁の染みも、柱の節も、襖の隙間も、こちらへ向けられた目のようだった。漂うインビジブルたちとは別に、屋敷そのものが二人の動きを追っているような圧がある。

 それはエレノールも同感だった。廊下を歩けば、背後から何かがついてくる気がする。振り返っても何もいないだろう。だが振り返らなければ、首筋に冷たい気配がまとわりつく。

「……僧侶の方は、玄関の敷居を越えた途端に足が止まったのでしたね」

「予知ではそうだったはずだね」

「何か、そういうものを視たのではないでしょうか」

 エレノールは廊下を見渡した。ここには特別な祭壇もない。明らかな呪具も見当たらない。それなのに入った者を見定めるような圧迫感だけは、屋敷の外よりもずっと強くなっている。

「……まさか、この廊下が『シセンノマ』?」

「それは、どういう意味かな?」

 クラウスは問い返した。否定ではなく、彼女の考えを促す声だった。

「怪異はこの廊下を『目』として家の各所を視ていて、害為す者に干渉や異変を起こしているのではないでしょうか?」

 エレノールの声には少々の怯えが残ってるが言葉の筋は明確だ。もし怪異が奥の部屋にただ潜んでいるだけではなく、この廊下を通じて屋敷全体を見ているのなら、老僧が玄関を越えた時点で異変を察したことにも説明がつく。

「その可能性もあるかもしれないね」

 クラウスは廊下の奥へ視線を向けた。

 ただの通路ではない。人を部屋へ導くためではなく、通る者を見分けるための場所。そう考えた途端、足元の床板すら別の意味を帯びて見えた。

 エレノールは小さく息を呑み、廊下の気配を改めて探った。

 シセンノマが示すものは、まだ分からない。けれど少なくともこの廊下には、怪異の謎へ近づくための手掛かりがあるように思えた。

 「クラウスさんは先程から何を?」

 エレノールは、少し離れた位置で立ち止まったクラウスへ声を掛けた。

 彼は廊下の壁を軽く叩いていた。拳ではなく指の節で、柱と柱の間を確かめるように音を聞いている。間隔を置いて響く乾いた音は、場所によってわずかに違った。

「妙に長い廊下だし、何か隠し部屋的なものがないかと思って」

 クラウスは壁から視線を外さずに答えた。

「古い屋敷なら、後から塞いだ空間があってもおかしくない。特にこの家は、図面と実際の印象が少しずれている」

「確かに、ずっと廊下が続いていますね」

 エレノールも改めて周囲を見渡した。

 左右には襖が並んでいる。どれも同じように閉ざされていて、取っ手の金具だけが鈍く光っていた。
 曲がり角へ向かって歩いていたはずなのに、進んだ距離に対して景色の変化が乏しい。まるで同じ場所を、少しずつ形を変えながら歩かされているようだった。

 様々な可能性を探るべきだろう。そう判断したエレノールは、クラウスとは違う場所へ注意を向けた。彼女は床へ膝を落とし、板と板の継ぎ目を慎重に調べ始める。

 床板には人の通った痕があった。中央の艶だけが妙に濃く、端の方には埃が積もっている程度だった。それでも調べるほどに違和感が積み重なっていく。

「……妙ですね」

「何かわかったのかな?」

 クラウスが壁を叩く手を止めた。

 エレノールは少し考えてから、事前に渡されていた屋敷の見取り図を取り出した。折り目に沿って紙を広げ、現在いる廊下と周囲の部屋を照らし合わせる。

「はい、あまりに廊下が長過ぎる気がして……」

 彼女は指先で図面上の母屋をなぞった。

「玄関からここまで、既にこれだけ歩いています。けれど見取り図では、この辺りで奥座敷か納戸へ突き当たっているはずです」

「なるほど」

 クラウスも傍らへ寄り、図面を覗き込んだ。二人は歩いてきた距離を思い返し、襖の数と部屋の配置を確認していく。

 しばらくして、彼は小さく息を吐いた。

「計算しても、部屋の大きさと廊下の長さが合ってないね」

「だとすると廊下か部屋、どちらかがおかしいということになります」

 エレノールがその考えを口にした時だった。

 不意に、視線が濃くなった。

 何かが動いたわけではない。襖が開いたわけでもなく、床下から音がしたわけでもない。それでも二人の周囲だけ、空気の密度が変わったように感じられた。
 背中へ向けられていたものが、今度は正面からも押し寄せてくる。

 クラウスも同じものを感じたのだろう。彼はエレノールと顔を見合わせた。

「今の反応を見る限り、外れてはいないのかもしれない」

「ええ。ですが、これ以上はわたしたちだけで考えても限界があります」

 エレノールは天井近くへ視線を上げた。

 そこには、薄く透けたインビジブルたちが、ただ流れに身を任せるように揺らいでいる。

「インビジブルたちに、この廊下について話を聞きましょう」

 クラウスも迷わず頷いた。

「その方が早いね。ここに長く留まっているなら、何かを見ている可能性がある」

 エレノールは胸元で手を組み、静かに意識を集中させた。彼女の周囲に淡い魔術の気配が広がり、廊下に漂う冷たさとは違う柔らかな波が生まれる。

「|見えない怪物《インビジブル》たちよ、我が呼び声に応えよ」

 彼女の声が廊下に溶ける。

 交霊の魔術が、近くに漂う一体へ届いた。輪郭の定まらなかったインビジブルが震え、淡い光を帯びながら形を変えていく。ほどなくそこには、スーツ姿の男が立っていた。

 クラウスもまた、別のインビジブルへ向き直る。

「少し、話を聞いてもいいかな」

 彼の呼びかけは、脅しでも命令でもなかった。迷い込んだ死者へ手を差し伸べるような、穏やかな声だった。その声に応じるように、もう一体のインビジブルが人の形を取り戻していく。

 現れたのは、着物を着た女性だった。

 古い柄の着物は色褪せており、髪型も今の時代のものではない。立ち姿は静かだが、そこに生者の温度は感じられなかった。

 ――この女性は、かなり古い時代の人なのか……だとしたら妙だな。

 クラウスは表情に出さず、内心で警戒を強めた。

 インビジブルは死者の魂とも呼べる存在だ。だが、時間が経てば少しずつ劣化していく。やがて輪郭は薄れ、最後には消えてしまう。
 何百年も昔の人間のインビジブルが今も残り、人化しても生前に近い姿を保ち続けているのは不自然だった。

 この屋敷が彼らを留めているのか。あるいは、シセンノマと呼ばれるものが、死者を何かに利用しているのか。

 エレノールは二人へ順番に視線を送ってから、まずは一番重要な問いかけを行っう。

「お二人は、この廊下のことや、何かが祀られている部屋の場所を知りませんか?」

 スーツ姿の男は、伏せた顔をゆっくり上げた。着物の女性もまた、ほとんど同じ動きでこちらを見る。二人の顔には、どこか精気が感じられない。人の姿を取り戻しているのに、そこに意思だけが薄く欠けている。

 彼らは口を開かなかった。
 エレノールは息を呑み、クラウスは二人の動きを見守った。返答がないまま、スーツ姿の男と着物の女性は、ゆっくりと腕を上げていった。

「え……?」

 エレノールは自分の目を疑った。

 腕を上げたはずの二人が、急に曖昧になっていた。そこにいることは分かる。だが、姿を正しく捉えられない。
 スーツ姿の男だったはずだ。着物を着た女性だったはずだ。それなのに、見れば見るほど形だけが脳の中で崩れていく。

 人の形をしている。そう思った途端に、人の形とは何だったのかが分からなくなる。

 顔があるはずだった。腕や手、脚もあるはずだった。けれど輪郭を辿ろうとすると、目で見ている情報と認識している情報が噛み合わない。視界の中に立っているものが、意味を持つことを拒んでいた。

「これは……怪奇現象、なのか……?」

 クラウスの声にも硬さが滲んでいた。

 彼も同じ状態に陥っているのだろう。視線は二体の方へ向いている。だが焦点が定まりきらない。見ようとすればするほど、何かが抜け落ちるように認識が霞んでいく。

 ただ、かろうじて分かることがあった。
 |それ《・・》が腕らしきものを伸ばしている。

 二人は示された方向へ視線を移した。そこにあるのは、ただの壁だった。古い柱と塗り壁が続いているだけで、襖も取っ手もない。隠し戸らしい切れ目も見当たらなかった。

「まさか、ここに隠し部屋が?」

 クラウスが問うと|それ《・・》は頷いたように動いた。
 そう見えたのではない。そういう意味の動きが、かろうじて伝わってきただけだ。首があったのか。頭が傾いたのか。そもそも上と下の区別があるのか。そこから先は、まるで理解できなかった。

 何かが聴こえた。
 日本語の響きだった。発音の抑揚も、音の並びも、この国の言葉に近い。それなのに内容だけが掴めない。
 耳には届いている。脳にも入っている。だが言葉として結ばれる直前で、認識が歪んだように意味を持たなくなる。

「二人は、この屋敷で亡くなったのかな? もしそうなら、何があったのか教えてほしい」

 クラウスはそれでも対話を試みた。

 |それ《・・》の歪みはより大きくなっていく。正確には、そう感じるだけかもしれない。
 形が崩れているのではない。こちらの認知が、より深く滑り落ちている。見えているはずのものが見えない。聞こえているはずのものが分からない。

「こ、これは、一体何がどうなっているのですか? 何もわからないし、言葉も理解できません……!」

 エレノールは混乱していた。
 理解できないものがそこにいる。ただそれだけで、ひどく不気味だった。恐ろしいだけではない。気持ち悪い。目を逸らしたいのに、逸らせば背中側へ回り込まれる気がする。見続ければ、今度は自分の中の何かが汚れていく気がした。

 精神の奥で抵抗する。自分はエレノール・ムーンレイカーだ。ここは屋敷の廊下で、隣にはクラウスがいる。そう確認しなければ、自分という輪郭を失ってしまいそうだった。

 ――相手がインビジブルなら下手に手を出せない。

 クラウスは内心で判断を重ねていた。

 怪奇現象そのものが襲いかかるなら、神性を帯びた攻撃が通じるか試すつもりだった。だが、今起きている現象は人化したインビジブルに発生している。
 しかも|それ《・・》らは、直接危害を加えてくる様子を見せていない。

 それでも、不快感は確実に心へ染み込んでいた。
 黒い染みが広がるような感覚だった。恐怖とは違う。嫌悪とも違う。分からないものを分からないまま押し込まれ続けることで、思考の内側が腐っていくようだった。

 |それ《・・》は喋り続けている。

 音を発し続けている。
 理解できない。
 認知できない。
 分からない。
 分からないが広がっていく。それはとても気持ち悪い。

 形が分からないのが気持ち悪い。
 輪郭が分からないのが気持ち悪い。
 色が分からないのが気持ち悪い。
 臭いが分からないのが気持ち悪い。
 気配が分からないのが気持ち悪い。
 言葉が分からないのが気持ち悪い。
 音が分からないのが気持ち悪い。
 背景が分からないのが気持ち悪い。
 壁が分からないのが気持ち悪い。
 廊下が分からないのが気持ち悪い。
 気持ち悪いものが気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 キコエタ。

 二人が気が付くと、そこには先ほどまでと同じ廊下と壁が広がっていた。

 床板も柱も襖も、すべて元の輪郭を取り戻している。
 意味を失っていた景色が、当たり前のものとして戻ってきた。それだけのことが、とてつもないほどの安堵をもたらす。

 いつの間にか、インビジブルたちは人型ではなくなっていた。天井近くを薄い魚類のような形で漂っている。
 エレノールの交霊の魔術も、クラウスの呼びかけによる人化も効果が切れていたらしい。

 エレノールは言葉を発しようとした。
 だが喉が強張り、うまく声にならない。理解できないものを無理に理解しようとした反動が、まだ頭の奥に残っていた。

「一度戻って仲間と合流しよう」

 クラウスの提案に、エレノールはただ頷いた。

 二人はその場を離れていく。
 会話はなかった。足音だけが廊下に落ちる。互いに何かを言うべきだと分かっていても、言葉にすればまた意味が崩れてしまいそうだった。

 ただ脳内では、最後に届いた音だけが繰り返されている。
 |それ《・・》から発された、唯一理解できた言葉。

『シセンノマ』

 その響きだけが、二人の思考の奥で何度も反響していた。

椎宮・紫水
シアニ・レンツィ

 クラウスとエレノールとは異なる男女が、屋敷の中を進んでいた。

 手元には事前に渡された見取り図がある。だが二人は、明確な目的地を決めていなかった。
 周囲から向けられる視線の正体を探りつつ、まずは家そのものの気配を確かめている。

「なんとも不可解な事件だね」

 椎宮・紫水(シセキエイ・h12162)は、芝居の一幕を演じる役者のように呟いた。
 帽子の下から覗く茶色の髪を頬の横から首元へ流し、紫の瞳で屋敷の奥を見据えている。中性的な顔立ちには柔らかな笑みが浮かぶが、その目は油断なく周囲を追っていた。
 黒を基調とした神職めいた装いには金の文様が差し、被り物から垂れる布が歩みに合わせて静かに揺れる。
 手袋に包まれた片手は見取り図を押さえつつ、もう片方はいつでも術を組める余地を残していた。

 今回の事件は怪異に関わるものだ。そこまでは分かっている。
 だが予知の内容は部分的に曖昧で、怪異の具体的な姿すら掴めていない。ハッキリしている手がかりはシセンノマという言葉だけ。

 それは退治する側からすれば、ひどく厄介な状況だった。

「うーっ、ホラー系はあたし分野外なんだけどな」

 シアニ・レンツィ(|不完全な竜人《ルビ》の見習い羅紗魔術士・h02503)は、周囲をきょろきょろと見回しながら嫌そうな顔をした。
 白い髪に縁取られた顔はあどけなく、鮮やかな緑の瞳には警戒と落ち着きのなさが入り交じっている。
 青い肌の上には、意匠の細やかな黒いワンピースをまとい、その裾には重ねられた青のフリルが覗いていた。
 肩を包む深い青のマフラーに、丸い帽子と編み上げのブーツも含めて全体は愛らしく整っているが、着こなしている本人はそれどころではないらしい。

「どうか急にびっくりさせて来ませんように。叫んじゃうから」

「おや、シアニ嬢の悲鳴が屋敷を祓う切り札になるかもしれないよ」

「紫水先輩、それ笑えないやつだよ?」

 シアニは頬を膨らませた。だがその声には、少しだけ安心したような響きも混じっている。軽口を交わせる相手が隣にいるだけで、得体の知れない屋敷の圧は幾分か薄らいでいた。

 それでも、視線は消えない。
 戦場で感じる殺気とは違う。簒奪者たちが放つ敵意とも違う。どこにいるのか分からないものが、家の構造そのものを通じてこちらを眺めている。
 シアニには、それがおばけ屋敷に入った時の怖さに近く思えた。

「正体不明っていうのが一番やだなあ。殴っていい相手なら分かりやすいのに」

「怪異相手にその発想は頼もしいね。けれど、今回はまず見極めが大事だ」

 紫水は見取り図へ目を落とした。

 母屋の構造は古いが、増改築の痕跡もある。座敷の配置は一見整っているものの、廊下の伸び方に少し不自然な余白があった。
 祀られている部屋が隠されているなら、そこに手掛かりが潜んでいる可能性は高い。

「あと、個人的に複雑……奉るのは勝手だけど、犠牲を強いるのはなぁ」

 紫水の声から、芝居がかった調子が少しだけ薄れた。
 彼の実家は、土地神を祀る神社だ。その恩恵として、付近の土地を保護するために神力を行使できる。
 かつての紫水は、それを誰かを守るための力だと信じて振るっていた。

 けれど、真実は違った。
 彼の一族は勢力範囲を広げるため、周囲の土地神を人に害なす妖と紫水へ教え込んだ。彼はさながら尖兵として土地神を倒して回っていた。
 その事実を知った今でも、その苦みは心の深い場所へ絡みついている。

 この屋敷の一族も、怪異を祀って繁栄を得ていたのだろう。
 ならば紫水には、無関係な話として片づけられなかった。祀るという行為の内側に、人の欲と祈りが入り混じることを知っているからだ。

「でも、生活が苦しくなってでも、怪異との繋がりを断ち切ろうとする長男さん立派だよね」

 紫水の胸中を察していたわけではないだろうが、シアニはいつもの明るさで、まっすぐにそう言った。

 その言葉に、紫水はわずかに目を伏せる。
 神社の真実を知った紫水は、自ら家を離れた。知らずに背負っていた罪から逃げたのではない。知った以上、そのまま同じ場所に立ち続けることができなかった。

「あたしも、力になりたい」

 彼女の動機は、驚くほどまっすぐだ。
 怖いものは怖い。理解できない怪異も苦手だ。
 だが、誰かが自分の意思で悪い繋がりを断とうとしているなら、その背中を支えたいと思った。

 紫水はその素直さに、小さく笑みを返した。

「そうだね、私もそう思うよ」

 受け継いだものに苦しむ者がいる。受け継がされた恩恵の裏側を知り、さらなる一族の繁栄ではなく、手放す道を選ぼうとしている。
 ならば自分もまた、今できることをしよう。

「まずはシセンノマが何かを探った方が良さそうだね」

 紫水は見取り図を片手に、屋敷の奥へ視線を向けた。
 真っ先に浮かぶのは『視線の間』という解釈だ。
 屋敷の中で絶えず感じる視線とも噛み合う。あまりに素直すぎるほど、名と現象が結びついている。

(いや、場所を示す『間』であるなら、『動かない』はずだ)

 紫水は歩きながら思考を巡らせる。

 彼らがどこへ移動しても、視線は途切れない。
 廊下でも座敷でも、背中へ薄い針を向けられるような感覚がついてくる。ならば単なる部屋の名と決めるには、まだ早い。

(ならば、間は……狭間、行間? 視線と視線の間? いや、シセンが死線なら、死と死の狭間か?)

 『シセン』と『マ』の可能性を、頭の中で組み立てては崩す。
 視線。死線。紙銭。あるいは、もっと古い言葉。音が同じでも意味は変わり、意味が変われば探すべきものも別になる。

「……普段は『見ない』場所に潜むもので、常にそこに在るもの……」

 呟きは、誰に向けたものでもなかった。
 奥座敷という考えも浮かぶ。旧家であれば、家の奥に祀りの場を設けるのは自然だ。
 しかし奥座敷は客を通すこともある。親族の集まりに使われるなら、完全に人目から外れる場所ではない。

 ならば、もう一つの候補がある。

「蔵にしてみるか」

 蔵ならば、日常から切り離されている。紫水はそう考え、調べる場所を定めた。

「シアニ嬢は、シセンノマについてどう思うかな?」

 紫水はあえて軽く問いかける。

 シアニは真剣な顔で首を傾げた。懸命に考えようとしているようだが、答えはなかなか出てこないようだ。

「シセンノマはさっぱり! えーと、麻婆豆腐?」

「……それだと四川料理が出てくる部屋だね」

「それなら嬉しいけど、今は違うやつだよね?」

「うん。残念ながら、きっと違うかな」

 頭を使った推理が得意ではないことは、よく分かった。
 だが紫水は、呆れるより先に少しだけ肩の力を抜く。
 この屋敷では、考え込むほど視線の圧に絡め取られそうになる。彼女の明るさは、恐怖に沈みきらないための灯でもあった。

「ので! あたしはここで何してたのか知りたいな。どんな怪異? 供物って?」

 シアニはすぐに別の角度から考え直した。
 その着眼点は悪くない。何を祀ったのか。何を捧げたのか。どんな約束で一族の繁栄を得ていたのか。

「それらは確かに私も気になるところだよ」

 紫水は彼女の視点を受け止め、芝居がかった笑みを少しだけ深めた。

「蔵に行けば、祀る時に使う祭具や、後の世代に伝える為の手記とかあったりしないかな」

「その可能性はあるだろうね」

 シセンノマの意味が分かれば、様々な謎が解けるかもしれない。
 それは逆もまた然りだ。祀り方や供物の内容から、名前の意味へ辿り着く道もある。

 二人は見取り図を頼りに、母屋の奥から外へ繋がる通路を辿った。
 渡り廊下の先に、古い蔵があった。分厚い土壁には細かなひびが走り、黒い扉には大きな金具が据えられている。

 紫水は蔵の入り口で足を止めた。
 周囲の視線はまだ消えない。むしろ蔵を前にしたことで、背後ではなく正面から見据えられているような圧を覚える。シアニもそれを感じたのか、青いマフラーの端をぎゅっと握った。

「ここ、なんか濃いね」

「そうだね。歓迎されてはいないようだ」

 紫水は見取り図を畳み、静かに呼吸を整えた。
 ゆっくりと扉を開いて、まずは外から中の様子を探る。怪異が絡む場所で、無造作に踏み込むのは愚策である。

 ひとまずの安全を確認してから、彼は指先で印を結び、低く詠唱を始めた。

「陰陽太極にして万象を示す。すなわち陰転じて陽。我が力より形を持って至れ式神」

 足元に陣が生じて、そこから小さなネズミが幾匹も姿を現した。彼らは紫水の足元で鼻先を動かし、命じられるまでもなく周囲の匂いを探り始めた。

「わ、かわいい……」

「超嗅覚を持たせてある。人の鼻では拾えない澱みも追えるはずだよ」

 ネズミたちは、蔵の周囲へ散っていく。入口付近を嗅ぎ、土台の下へ潜り、金具の周囲を忙しなく調べ回る。やがて数匹が同じ場所へ集まり、蔵の内側に向けて鼻先を揃えた。

 紫水はその動きを見つめ、静かに目を細める。
 式神たちは、蔵の中へと侵入し、特に臭いが澱んでいる場所を探し始めた。

「さて、何か見つかるか?」

 紫水は式神たちの動きを見届けてから、蔵の中へと入っていく。
 内側から乾いた紙と土壁の匂いが流れ出す。そこに混じって、どこか湿った香の残り香もあった。
 長く閉ざされていた場所にしては空気が重く、ただの保管庫とは思えない。

 シアニは紫水の後ろから中を覗き込み、緑の瞳を丸くした。

「なんか本がいっぱいある……!」

 蔵の壁際には、背の高い本棚が並んでいる。木箱や壺も置かれていたが、目を引くのは紙の束だった。
 和綴じの書物、紐で束ねられた古い冊子、虫食いのある帳面。どれも一目で、長い年月を越えてきたものだと分かる。

 シアニが見つけた棚には、特に古文書めいた書籍が詰め込まれていた。背表紙の題字は崩れており、彼女には模様にしか見えない。
 そっと一冊へ手を伸ばしかけたが、触れた途端に崩れそうで指先が止まる。

「これ、読んでいいやつなのかな。触ったら粉になったりしない?」

「雑に扱わなければ大丈夫だろう。紙も人と同じで、急に乱暴をされると驚くものさ」

「紙って驚くの?」

「比喩だよ、シアニ嬢」

 紫水は軽く笑い、棚から一冊を慎重に抜き取った。表紙の文字を目で追い、続けて数冊の背を確認する。

「これは、主にこの辺の土地や伝承に関する書籍かな?」

「読めるの?」

「大体はね」

 育ちが育ちなだけに、こういう知識は人よりも豊富だ。紫水は和綴じの一冊を開き、紙を傷めないように頁をめくる。流麗な崩し字が並んでいるが、彼の目は迷わず行を追っていった。

 土地の境。古い祭祀。失われた村名。川筋の変遷。断片的な言葉が拾えるものの、すぐにシセンノマへ繋がる記述は見当たらない。

 別の書物へ手を伸ばす紫水の横で、シアニも自分に読めそうなものを探しだす。
 古文書の棚から少し離れたところに、比較的新しい帳面が一冊紛れ込んでいた。表紙は色褪せているが、古い和紙ほど脆くはない。

「おー、これなら読めそう!」

 シアニが持ち上げたそれは、外も中も手書きで記された書物だった。印刷物ではない。
 筆跡には揺れがあり、同じ字でも頁ごとに少しずつ形が違う。けれど文章は普通の日本語に近く、難しい崩し字よりずっと読みやすそうだった。

「それは比較的新しいね。家の人間が後世のために書き残したものかもしれない」

「じゃあ、当たりかも?」

「期待はできる。私は他を探してみるから、重要そうなところがあったら教えてくれるかい?」

「オッケー。ええとぉ……」

 シアニは帳面へ視線を落としたまま、手書きの文字を辿っていく。
 なんとか読めはするものの、言葉遣いは難解だった。どこが重要かぱっと見てわかりそうもないので、とりあえず読み上げてみることにする。

「此に記すは、崎元家に古くより伝わりし秘法の次第なり。本法は、かつて一族の繁栄を願いし祖が、名を秘されたる呪術師より授かりしものなり。口伝のみに委ねれば、年月と共に言葉は損なわれ、要義は失われる。ゆえに後代の者が誤りなく継承せんがため、ここに書き写す」

 声に出しているのはシアニだが、そこに記された文面は彼女の明るさとはあまりに遠かった。
 厳めしい言葉の奥に、古い家の欲と執着が沈んでいる。紫水は別の書物を手にしたまま、耳だけを彼女の読み上げへ傾けた。

「本儀により成す神は、世にいう座敷童に類するものなり。家に宿り、富を招き、子孫の栄達を助くる。されど、ただ家を寿ぐ童神にては、崎元家を半永久に栄えしむるほどの霊験を得ること能わず」

 蔵の内側は静かだった。
 棚に詰められた古文書も、積み上げられた木箱も、すべてが息を潜めているように見える。
 紙の匂いに混じる湿った気配が、読み上げられる一語ごとに濃くなっていく気がした。

「人の喜び、慈しみ、安寧より生ずる気は清らかなれど、たちまち薄れ、永き祀りの芯とは成り難し。求むべきは、より強く、より久しく残る情念なり。すなわち苦痛、怒り、怨嗟。なかんずく憎悪と怨恨の凝り固まりこそ、神を留め、家を栄えしむる供物として最も相応しきものと心得よ」

 シアニの指先が、帳面の端を強く押さえた。
 彼女は一度だけ唇を噛み、それでも次の行へ目を進める。読むほどに内容は重くなっていく。けれど途中で閉じれば、ここに刻まれた悪意もまた闇の中へ戻ってしまうように思えた。

「儀式の核に据うべきは、崎元家に対し強き怒り、または敵愾心を抱く者なり。その中でも、子を持つ女を最上とす。母なる者の怨みは深く、断たれし情の嘆きは長く地に留まるがゆえなり」

 紫水の表情から、芝居がかった余裕が薄れていく。
 祀る。守る。栄える。そうした言葉は、いくらでも美しく飾ることができる。
 しかし、その内側に誰かの苦痛を閉じ込めているなら、そこに込められた意味は大きく変わってしまう。彼にとっても、その事実は他人事として聞き流せるものではなかった。

「まず、その者を秘して幽閉すべし。日を重ね、言葉を奪い、安息を絶ち、心身を追い詰めること肝要なり。ただ絶望せしむるのみでは足りず。崎元家への怒りを燃やし、憎しみを根づかせ、その情念を極限まで熟せしめた後、贄として捧ぐべし」

 そこで、シアニの読み上げは一旦途切れた。

「噓でしょ……」

 帳面を持つ手が震えている。
 人間がそんなことをするなんて。それも、一族の繁栄という私利私欲のために。シアニは信じたくなかった。

 彼女は人間が好きだ。その善性を強く信じている。
 それでも悪意があることは知っており、敵意を向けられた経験もあった。しかし、これは戦いの中でぶつかる暴力とは違う。

 誰かの苦しみを手順として書き残すこと。
 怒りや怨みを、家の富へ変えるための材料として扱うこと。

 その冷たさが、彼女の胸を深く沈ませた。

「読んでて気が滅入るのはわかるよ、私も同じ気持ちだからね」

 紫水の声は穏やかだった。だが、その底には苦味がある。

 思っていた以上に、実家のことを思い出させる内容だった。祀るものの力を都合よく扱い、知らない者を巻き込み、繁栄という言葉で奪いを正当化する。
 形は違っても、根にある欲の臭いはひどく似ていた。

(ネズミたちはまだ部屋の中を駆けまわっているな)

 シアニと言葉を交わしながらも、紫水は注意深く周囲を探り続ける。
 臭いの澱んだ部分を探しているのだろうか。その中の一匹が、蔵の奥にある箱を示した。
 紫水は帳面を読むシアニの邪魔をしないよう、そちらへと近付いていく。

 古い箱は棚の陰に置かれていた。蓋には薄く埃が積もっているが、黒漆の表面にはまだ深い艶が残っている。
 縁には鈍く光る金具が嵌め込まれ、ただの収納箱ではなく、重要な何かを納めるために誂えられた品だと分かった。

「でもこれ、重要な手がかりだし……続きを読むよ」

 シアニは意を決したように、再び帳面へ目を落として続きを読み始める。

「なお、贄たる女の骸は、いかなる事由ありとも其の間より移すべからず。四壁、床、天井に至るまで秘呪を巡らせ、肉の朽つる後も魂魄を内へ縫い留めよ。怨念は外へ漏らさず、室の奥に沈ませ、家を支える神核として永く据うるものとす」

 厳めしい文面は、読み手の震えなど意に介さない。儀礼の作法を整えるように、淡々と忌まわしい手順を重ねていく。その冷たさが、蔵に満ちた古い紙の匂いと混じり合っていた。

「次なる勤めは、贄の血縁を絶やさずして用いることにあり。まず残された縁の者を見定め、定めの夜に命を奪い、その後に――を供物として間へ納むべし。供物をもって床を覆い、其の間を余すところなく占めよ。これを三年ごと、贄の命日に違えず執り行うこと」

 シアニは続けて頁の下へ目を移した。

「縁者ことごとく尽きたる時は、また同じ相を備えし新たな依代を求め、前条の次第に従うべし」

「ごめん。今、なんて?」

 箱の前に膝をついていた紫水は、蓋へ掛けた指を止めた。

「え?」

「供物として備えるもののところが、聴き取れなかったんだけど」

 箱の中へ意識を向けていたせいで、肝心な一語を聞き落としたのだろう。紫水はそう判断し、シアニの返答を待った。

「ええと……」

 シアニはもう一度同じところを読もうと、帳面へ視線を戻す。
 その途端、青い肌の頬が強張った。

 さっきは読めていたはずだった。少なくとも意識せずに口へ出せた。それが今は、供物を示す文字だけが読み取れない。
 墨の線は残っている。頁から消えたわけではない。なのに読み方も意味も、頭の中に浮かんでこなかった。

 自分がなんと読み上げていたのかすら思い出せない。

 シアニが言葉を探している間に、紫水は箱の蓋へ指を掛けた。無理にこじ開けることはせず、金具の噛み合わせを確かめながら、ゆっくりと隙間を広げていく。

 真っ先に視界へ入ったのは鍵だった。
 古びてはいるが、錆びきってはいない。今も役目を失っていないかのように、静かな重さを宿している。
 装飾の類はないが、ただの鍵ではないとは見ただけで分かった。

「これは、儀式の部屋に入るための鍵か……」

 紫水は鍵を箱の脇へ置き、さらに内側へ視線を沈めた。

「なんだ、これ……」

 鍵の傍らには、用途の判然としない器具が収められていた。
 見た途端、自分はこれを知っていると感じた。少なくとも、その近いものは一般教養として身に付けている知識の範疇にある。おそらく儀式のために用いられる道具なのだろう。

 なのに、紫水にはそれが何なのか分からない。
 形状すら言葉へ変えられない。細長いのか。丸みを帯びているのか。金属なのか。木なのか。視界には収まっているのに、認識しようとすると輪郭がほどけてしまうのだ。頭の中に混乱が広がっていく。

「どうしよう……」

「シアニ嬢、そちらも異変が?」

 紫水は箱から視線を上げ、帳面を凝視するシアニへ声を掛けた。

 シアニは恐怖で引きつった顔のまま、帳面の文字を凝視していた。

「次――勤めは、贄の――を絶――――て用いる――――り。まず残――縁の――を――め、定め――に命を――、その後に――を供物――――間へ納む――――。供――をもって――を覆い、其の間を――ところ――占――よ。これを――ごと、――の――に違ず――――――と」

 文章は同じはずだった。
 さっきまで読めていた一節である。それが読み直すごとに、判別できない文字が増えていく。
 供物の名だけではない。周辺の言葉まで欠け始め、意味の連なりが虫食いのように崩れていた。

「どんどん読めなくなってく……」

 シアニは帳面を手にしたまま、助けを求めるように紫水へ顔を向けた。
 理解できない恐怖が、緑の瞳に滲んでいる。

 核心へ近づくために必要なものはここにある。それなのに、二人の認識から抜き取られていく。

 紫水は箱の内側から意識を引き剥がした。これは、見てはならないものだ。

 鍵の位置だけは分かっている。だけど、その傍らに納められた器具を確かめようとした途端、思考がそこで白く途切れる。
 形を追えない。用途へ届かない。知識の中に近いものがあるはずなのに、そこへ至る道だけが塗り潰されていた。

 紫水は鍵だけを手に取り、急いで箱の蓋を被せて物理的に見えないようにする。
 そうして紫水はシアニの元へ向かおうとして、半歩で足を止めた。

 見られている。
 先ほどまでとは、質が違う。

 どこかから覗かれているのではない。
 天井の梁も、床板の継ぎ目も、古文書の背表紙も、蔵を形作るものすべてが目に変わったかのようだった。

「ネズミたちは!?」

 紫水は式神の気配を辿った。
 これほど強い視線なら、何かを見つけていてもおかしくない。だが、はっきりと位置を返してきたのは、箱へ導いた一匹だけ。
 他の個体は蔵の中を走り回っている。棚の下、木箱の裏、壁際の暗がり。小さな足音だけが、あちこちで忙しなく散っていた。

「これだけ周囲に気配があるのに、どうしてだ……?」

「かなり怖くなってきたかも……」

 シアニもまた視線の圧に気づいていた。
 帳面を胸に抱いて、彼女は青い肌を強張らせる。緑の瞳が暗がりを追い、息を呑む音だけが小さく漏れた。
 それでも、シアニは目を伏せない。見られているなら、こちらから見返す。怖がりながらも、その判断だけは迷わなかった。

「あたしを見てくれてるのは、だれ?」

 それは問いかけではなく、能力を呼び起こすための言葉だった。

 |竜眼・千眸《アウディエンス》。シアニの知覚が、一つの身体から離れていく。
 蔵の中に散らばる無数の視点が開き、重なり、互いの距離を失った。見ている自分と、見られている自分。その境目が曖昧になっていく。

「ひぇっ!」

 短い悲鳴が漏れた。

 いた。
 確かに、いる。

 蔵のあちこちで、何かが動いていた。
 棚の上を渡り、木箱の陰へ消え、天井近くを這い、また別の暗がりから現れる。

 そこまでは、シアニにも分かった。
 しかし、それ以上が分からない。

 大きいのか、小さいのか。細いのか、丸いのか。
 生き物なのか、道具なのか。目は捉えている。竜眼は取り逃がしていない。それなのに、見えたものが意味へ変わる直前で途切れてしまう。

 |見えているのに視えない《・・・・・・・・・・・》。
 その異常が、シアニの中で静かに広がっていく。視界に捉えるものは増え続けるのに、理解は追いつかない。
 むしろ見ようとするほど、何を見ているのかが遠ざかっていくようだ。

「何か部屋にいっぱいいて動き回ってる!」

「だからネズミはずっと探し続けてたわけか……」

 式神たちは、何も発見できなかったのではない。むしろずっと発見し続けていた。
 だが相手の正体を捉えられないため、紫水へ返る情報が追跡の気配だけになっていたのだろう。

 その時だった。
 カリカリ。
 蔵のどこかで、乾いた音がした。

 続け様に、別の場所からも鳴る。

 カリカリ。カリカリカリ。

 木箱の内側か。壁の裏か。床下か。音の出所は一つではない。幾つもの乾いた響きが、蔵のあちこちで同時に生まれていた。

 カリカリカリカリ。
 カリカリカリ。カリカリ。
 カリカリ。カリカリ。カリカリ。

 音は増えていく。
 最初は小さな擦過音に過ぎなかった。それが棚の奥で鳴り、柱の影で応じ、天井裏を伝って降りてくる。
 やがて蔵全体が、見えない無数のものに内側から擦られているような音に満たされた。

 カリカリ。カリカリカリ。カリ。カリカリカリカリ。カリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリ。カリカリ。カリカリカリ。カリ。カリカリカリカリ。カリカリ。カリカリカリカリ。カリ。カリカリカリ。カリカリ。カリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリ。カリ。カリカリカリ。カリカリ。カリカリカリカリカリ。カリカリ。カリカリカリ。

 紫水は息を詰めた。
 音を立てているのは、シアニが視ている|何か《・・》だ。

「シアニ嬢、これは危険だ。もう視るんじゃない!」

 紫水は声を張った。
 しかし、シアニは動かない。帳面を抱えたまま、どこか遠い場所へ意識を奪われたように立ち尽くしている。緑の瞳は開かれているのに、紫水へ焦点が戻らない。

「シアニ嬢!」

 重ねて呼びかけても、返答はなかった。
 カリカリという音だけが、なおも増えていく。蔵の中の見えないものたちは、彼女に見返されたことで、いっせいに反応を示し始めていた。

(これは、俺たちが何かに気付いたことがトリガーになってるのか!?)

 蔵の中に満ちる気配を前にして、紫水の胸中から余裕が消えた。
 まだ身体を害されたわけではない。けれど、ここで起きている異変は触れてくるよりも厄介だった。
 見極めようとすれば視界の意味が崩れ、考えを深めようとすれば意識の底に空白が広がる。
 シアニだけではなく、紫水自身も箱の中を覗いた時に同じ危うさを味わっている。

 このまま蔵に留まれば、怪異の正体へ迫る前にこちらの認識が壊される。

 そう判断した直後、シアニの首元で音が爆ぜた。
 鳴ったという感覚ではない。乾いた空気が一点から破裂し、鼓膜を通り越して頭の内側を殴りつけるような衝撃だった。
 蔵を埋めていたカリカリという擦過音が、その一拍だけ押し潰される。

「わびゃあああああ!」

 音の中心にいたシアニは、全身を跳ねさせて悲鳴を上げた。抱えていた帳面も思わず床に落ちた程だ。
 緑の瞳にようやく焦点が戻る。どこかへ引き込まれていた意識を、乱暴に現実へ押し戻されたようだった。

 発生源は、彼女が首に巻いているマフラーだ。
 羅紗の織物で編まれた布地に、文字や紋様が輝いて浮かび上がっている。シアニが万一に備え仕込んでおいた、魔術のアラートが発動したのだ。

 その仕掛けが、怪異へ沈みかけていた彼女の意識を呼び戻した。

「シアニ嬢、動けるかい?」

「う、うんっ……! 今ので、戻れた!」

「結構。なら退くよ。ここは長居していい場所じゃない」

 紫水は胸の内で、己に力を与えるツチミヤヒメノカミを呼んだ。
 土地神の霊的防護が、薄い帳のように意識の周囲へ広がっていく。蔵から注がれる視線の圧は消えない。

 それでも、思考の奥へ染み込んでくる不快な感覚は遠のいた。ここで怪異を祓い切ろうとするのは危険過ぎる。今は生きて外へ出るべきだった。

 紫水は召喚したネズミたちを消滅させる。
 これ以上、何かを追わせて刺激するわけにはいかない。蔵のあちこちに散っていた小さな気配が、次々と薄れていく。
 棚の下や木箱の陰を走っていた足音も、命令の終わりと共に途切れていった。

「行くよ」

 紫水はシアニの手を取り、蔵の出口へ向かって駆け出した。

「あーあー怖くない怖くない! 怖くないから大丈夫!」

 シアニも√能力を止め、引かれる勢いに合わせて走る。
 声は上擦っていたが、黙ってしまうよりはましだった。
 言葉を出していなければ、蔵の中にいる|何か《・・》へ意識が戻ってしまうかもしれない。

 彼女の頭に浮かんだのは、以前見たホラー系のTRPG動画だった。
 探索者が怪しい場所を調べる。目星の判定で、まさかのクリティカル。普通なら喜ぶべき出目なのに、その卓では最悪の結果へ転じていた。
 見つけなくていいものまで見つけてしまい、そこから怪異の襲撃が始まる。
 コメント欄は悲鳴と笑いで埋まり、動画の中のプレイヤーたちは大騒ぎになっていた。

 今の自分は、まさにそれだ。
 シアニは恐怖をどうにか別の記憶へ逃がそうとしていた。
 笑い話にできる状況ではない。けれど、関係のないものを考えなければ、あの視線の感触に意識を絡め取られてしまいそうだった。

 背後では、まだあの擦過するような音が続いている。
 棚の奥から。壁際から。床から、乾いた響きが蔵の内側を支配する。

 紫水はシアニの手を離さず、戸口まで一気に駆け抜けた。
 蔵の外へ出た途端、圧し掛かっていた視線が薄れる。

 完全に消えたわけではない。それでも、蔵の内部から突き刺されるような感覚は遠のいていた。
 シアニは外の空気を吸い込み、肩を震わせながら息を吐く。紫水も数歩進んでから止まり、鍵を握ったまま蔵へ向き直った。

 今の怪奇現象で、ほぼ確信できたことがある。

「シセンノマの正体は『目』による視線じゃない……」

 口にした言葉は、自分の中で考えを固定するためのものだった。

 ネズミが追いかけられるほどに小さく、しかも認識できない|それ《・・》。
 視線の正体が目であるなら、ある程度は筋が通るようにも思える。だが、あれが単なる目玉ならば、蔵の中をあのように動き回るだろうか。
 ましてや、あんな擦れるような音を幾重にも響かせるとは考えにくい。

 紫水の記憶に、予知で共有された被害者の情報が蘇る。
 犠牲になった僧侶と長男は、どちらも全身を無数に裂かれ、血に塗れた状態で発見されている。刃物で斬られたというより、執拗に削り裂かれたような有様だった。

 蔵の中で鳴り続けていたあの擦過音。
 あれが単なる物音ではなく、何かの動作に伴うものだとしたら。

 紫水は手の中の鍵を握り、蔵の暗がりを見据えた。
 視線の間。死線の間。あるいは、それとはまったく別の何か。

 少なくとも、自分たちは今、核心のすぐ近くまで来ている。

白銀・雅

 古い屋敷の廊下には、昼の光が差しているにもかかわらず、妙な淀みが残っていた。
 障子越しの明るさはある。庭へ抜ける風も、畳や柱に染みついた古い匂いをわずかに揺らしている。
 だが、それらは屋敷を健やかに見せるためのものではなかった。
 開けた造りのはずなのに、空気はどこか逃げ場を失っている。風通しのよさだけが、かえって家の奥に沈んだものを薄く広げているようだった。

 その中を、白銀・雅は一人で進んでいく。
 銀の長髪は歩みに合わせてなめらかに流れ、狐耳と大きな尾が優雅に揺れていた。
 色白の肌に赤紫の和装がよく映え、深く合わせた襟元と花の文様が、旧家の座敷に飾られた古い調度のような艶を添えている。
 青い瞳には遊びを楽しむような余裕があり、しかし屋敷を満たす違和感だけは静かに見逃していなかった。

「シセンノマ。言葉だけを素直に受け取るなら、『視線の間』……でしょうか」

 雅は小さく笑みを含ませる。
 この屋敷へ足を踏み入れてから、視線の気配は途切れない。
 柱の陰から。欄間の透かしから。開け放たれた襖の向こうから。どこに立っても、誰かがこちらを眺めているような感覚がついて回る。

 けれど、それは人間の視線とは違っていた。
 好奇心も欲もない。警戒も、憎しみも、恐れさえ混じっていない。ただ、あるものをあるがままに確かめるような無機質さだけがある。

「随分と熱心ですのに、愛想のない視線ですねぇ」

 そう呟き、雅は和室の一つへ足を向けた。
 屋敷を探るなら、まずは部屋の役割を見るのが早い。人を迎える場には外向きの顔がある。家人が過ごす場には生活の癖が残る。食事や団欒に使われる部屋なら、そこに置かれた物の配置にも家族の距離が滲む。

 だが、その和室にはどれとも言い切れない曖昧さがあった。
 客間としては飾りが足りず、奥座敷としては落ち着きが薄い。茶の間と呼ぶには生活の気配が遠く、かといって物置として扱われているほど荒れてもいない。
 畳の広さだけは十分にあり、用途を決めずに空けておいた部屋にも見える。

「何かに使うための部屋、というより……何にでも使えるよう残された空間でしょうか」

 雅は畳の縁を踏まぬよう、ゆっくりと室内へ入った。

 彼女は|√妖怪百鬼夜行《ルートようかいひゃっきやこう》で|妓楼《みせ》を持つ身である。客を通す場所、遊ばせる場所、奥へ招く場所。その違いを見分ける目は、自然と身についていた。

 加えて、部屋自体の構成もだ。
 だからこそ、この部屋の歪さはすぐに目についた。

「……やはり、ここですね」

 雅の視線は、隣の奥座敷との境で止まった。
 そこには襖ではなく、壁があった。
 この家の他の部屋は、いかにも旧家らしい造りをしている。柱と梁を軸にして空間を支え、襖や障子によって部屋の広さを変えられる。
 客が多ければ仕切りを外し、一続きの座敷として使うこともできただろう。

 それに比べて、この壁は異質だった。
 空間を柔軟に使うための工夫ではない。むしろ逆である。部屋同士の繋がりを断ち、音や気配の抜け道まで塞ごうとしている。
 古い日本家屋が本来持つ開放性に、ここだけ無理やり硬い線を引いたようだった。

(旧い屋敷で、ここまで区切る必要はありません)

 雅は壁の前へ歩み寄る。
 かつての家屋に、現代的な意味での完全なプライバシーは薄い。家族の気配は障子越しに伝わり、声も足音もどこかで混じる。どうしても目を遮りたいなら、屏風や家具を使えばよい。
 壁を作るという選択は、それだけで強い意図を帯びる。

 まして、この屋敷の造りならなおさらだ。
 部屋を広く使う利点を捨ててまで、ここを閉ざした。ならば理由は、暮らしの都合ではない。

「見せたくなかったのか、聞かせたくなかったのか。それとも……向こう側から何かを出したくなかったのでしょうか」

 口調は柔らかいままだが、雅の青い瞳から戯れの色が少し薄れた。
 壁へ近付くにつれ、屋敷の視線が濃くなる。

 光の差し込む座敷に立っているはずなのに、背中へ冷えた気配が集まってくる。

「おや。ここから先は、見てほしくないのですか?」

 雅は壁へ手を触れず、わずかな距離を置いて立ち止まった。

 客の誘惑を仕事としている雅は、向けられる視線の機微を読むことに慣れている。
 欲望に濡れた目も、値踏みする目も、媚びる目も、拒む目も知っていた。けれどこの視線には、ここまできてもまだ感情の熱がない。

 熱がないのに、離れない。
 それが気味悪かった。

「ただ眺めているだけ、ですか。けれど、私がここに近付いたことだけは、きちんと見ている」

 雅は笑った。
 それは楽しげで、同時にひどく冷たい笑みだった。
 無駄な争いを好む性質ではない。だが、いざ相手が害を成すならば、容赦という感情は彼女の中で長く留まらない。

 壁の向こうに隠されたものが何であれ、この屋敷はそこへ近付かれることを意識している。
 ならば、この壁はただの改築ではない。

 雅は袖の内で手を緩め、音もなく呼吸を整えた。武器など持たずとも、人外の膂力を備えた妖狐である。必要になれば、壁であろうと人であろうと、素手で退かせることにためらいはなかった。

「さて。あなたがそこまで見つめる理由、少し教えていただきましょうか」

 返事はない。
 ただ、壁の前に立つ雅へ、感情のない視線だけがさらに集まっていた。

(この視線、分かりやすい手掛かりにはなっていますね)

 雅は目を細めた。
 近付くほど、見られている感覚は濃くなる。離れれば薄まり、また寄れば集まる。まるで屋敷の方から、ここを調べろと告げているようなものだった。

「隠し事が下手ですねぇ。いえ、隠す気はあっても、見てしまう性分なのでしょうか」

 雅は壁面を改めて眺めた。
 漆喰の色、柱との継ぎ目、周囲の木目。その中に、ほんのわずかだけ不自然な箇所がある。飾りの一部にも見える小さな板が、壁へぴたりと嵌め込まれていた。目立たぬよう処理されているが、完全に一体化しているわけではない。

 位置は高い。
 幼い子供が背伸びをしても、まず届かないだろう。悪戯で触れられることを避けたのか、あるいは知る者だけが扱えるようにしたのか。どちらにせよ、そこへ仕掛けを隠した意図は明白だった。

 雅は背を伸ばし、袖を落とさぬように手を上げた。
 爪を掛けるほどの隙間もない。だが、板の端へ軽く力を加えると、固く閉じていたはずの部分がわずかに浮く。長い年月を経てなお、仕掛けは死んでいない。
 雅は力任せに壊すことなく、歪みを確かめながらゆっくりと外していった。

 内側に現れたのは鍵穴だった。

「…………っ!」

 その刹那、屋敷中の視線が雅へ殺到した。
 これまでのものとは比べ物にならない。薄くまとわりついていた注視が、いきなり質量を得たかのようだった。
 畳も、柱も、欄間も、天井も、すべてが目に変わったように雅を見据える。

 ここだ。
 怪異の根源に繋がる部屋が、この向こうにある。
 鍵穴近くの壁にそっと触れると、ほんの僅かだが、奥に動く感触があった。

 解錠されれば、この壁はそのまま扉に変わる。
 雅はそう確信すると同時に、別の気配も察した。

 何かが起きている。あるいは、今にも起ころうとしている。
 理屈ではない。妖として長く生きてきた本能が、この場に留まる危うさを告げていた。

 彼女は即座に霊的防護を張り巡らせる。
 薄い光が衣の内側から滲み、雅の身を包むように広がった。
 視線そのものが怪異の一部なのだろう。防護が働くと、肌の奥へ染みてくるような感覚が一気に遠ざかる。
 屋敷に見られていることは変わらない。だが、その視線に刺されるような勢いは明らかに弱まっていた。

「これは……!」

 雅の青い瞳が、わずかに見開かれた。
 弱めたはずの視線の奥から、逆に剥き出しの感情が流れ込んできたのだ。

 怒り。憎しみ。怨嗟。そこに混じるのは悲しみではなく、赦さぬという強烈な執念だった。幾重にも重なった情念が、壁の向こうからだけではなく、屋敷のあらゆる場所からぶつけられてくる。

 感情のない観察だと思っていたが、違う。
 込められていたものを読み取れていなかっただけだと察して、反射的に振り返る。

 そこには、|何か《・・》がいた。

 見えている。たしかに視界の中にいる。けれど、形として定まらない。
 大きさも輪郭も掴めず、近いのか遠いのかすら曖昧だった。
 屋敷に漂うインビジブルたちの気配に混ざるように、それらは部屋のあちこちへ大量に潜んでいる。

 柱のそばに。襖の陰に。畳の上に。壁際の空気の中に。
 最初からいたのだ。

(存在に気付いてすらいなかった……いえ、認識できなくなっていたのでしょうか)

 雅は想定外の事態に驚きつつも、静かに自分の考えを修正した。
 最初から見えないものなら気付きようもない。
 しかし、それでもなお消し切れなかった気配だけを、彼女は視線として受け取っていたのだろう。
 欲望も敵意も感じられなかったのではない。感じ取るべき対象の認識が、意識の中で抜け落ちていた。

 そして今、雅はそれに気付いてしまった。
 怪異の側も、その事実を見逃してはいないはずだ。

 注がれる視線の質が変わっている。
 観察ではない。こちらがどこまで知ったのかを測り、次にどう動くのかを待っている。
 さきほどまで無機質に思えた視線の奥で、濁った情念がゆっくりと圧を増していた。

(情報としてはこれで十分。一旦戻って、他の皆さんと合流しましょう)

 雅は、穴を隠していた板へもう一度視線を向けた。

 鍵穴らしきものを見つけた。壁の向こうが根源へ繋がる可能性も高い。認識を阻む|何か《・・》が屋敷に大量に潜み、視線という形でこちらに干渉していることも分かった。

 これ以上を一人で探る必要はない。

 直接襲われたわけではないにせよ、危険な状況であることは疑いようがなかった。
 ここで意地を張る理由はない。怪異の根へ踏み込むなら、先に仲間と足並みを揃えて、情報を合わせてからにすべきだ。

「熱烈なお見送りは結構ですが、今は遠慮しておきますね」

 雅は柔らかく告げ、壁から離れた。
 背を向けると、視線が追ってくる。足を進めるたびに、畳の目や柱の隙間から注視が伸びるようだった。
 だが、防護越しの感覚なら耐えられる。雅は平静を崩さぬまま、部屋を出て廊下へ戻った。

 歩きながら、思考を巡らせる。
 常にあの視線を浴びていたなら、まともに暮らせるはずがない。
 感情を読み取れないとしても、四六時中見られ続けていれば、普通の人間なら容易くノイローゼになってしまう。屋敷そのものが住まいとして成立しなくなる。

 ならば、かつては違ったのだろう。
 この家が旧家として機能していた頃、怪異は何らかの形で抑え込まれていた。長男が儀式を止めたことで均衡が崩れ、屋敷に棲むものが制御を失った。

 そして、その結果として長男と僧侶は殺された。
 儀式を絶った者。儀式以外の方法で収めようとした者。二人の死をそう捉えれば、筋は通る。

(だとするなら、この屋敷を調査している部外者の私たちも、いつ攻撃対象として判断されてもおかしくありません)

 雅は振り返らなかった。
 和室から遠ざかりながら霊的防護も一旦解除し、あえて認知できなかった状態へ戻す。下手に何かを刺激せず、平常通りにするためだ。

 しかし、その奥にある情念が消え去るわけではない。
 怒りと憎悪は、こちらがそれに気付いてからも、水位を上げるように膨らみ続けていた。

 まだ溢れてはいない。
 だが、それは決して遠い未来の話ではない。

 その時が、もう間近に迫っているのだと、背中を突き刺す視線が告げていた。

第2章 集団戦 『祝福されし呪い』


 それぞれ別の場所を調べていた√能力者たちは、屋敷の一角に定めていた待ち合わせ場所へ戻ってきた。

 誰一人として、無傷の平穏を持ち帰った者はいない。
 身体に目立つ傷はなくとも、表情には怪異へ触れた痕跡が残っている。
 視線に晒され続けた緊張。理解できないものを理解しようとした疲労。古い屋敷の空気は、合流した後でさえ彼らの周囲に重く纏わりついていた。

 最初に口を開いたのは紫水だった。

「どうやら、怪異が潜んでいる場所は隠し部屋で確定と見てよさそうだね」

 芝居がかった調子こそ残しているものの、その声に軽さはない。

 クラウスとエレノールは、見取り図と実際の間取りが噛み合わない場所を見つけていた。
 さらに、インビジブルを介して得た情報から、屋敷の一部に存在しないはずの空間があると掴んでいる。

 一方で雅もまた、旧家の構造として不自然な壁を見つけていた。
 そこに隠されていた鍵穴の向こうは、クラウスたちが導き出した位置と重なる。

 別々の経路から辿り着いた答えが、同じ一点を指していた。

「蔵で見つけたこの鍵も、そこへ入るためのものだろうね」

 紫水は持ち出してきた鍵を見せる。

 古びてはいるが、錆びきってはいない。
 長く眠っていた道具というより、必要な時に使われることを前提として残されていたものに見えた。
 隠し部屋への入口が見つかり、そのための鍵も手元にある。扉を開く条件は、ほぼ揃っている。

「それに……そこは、ただ隠されていた部屋というだけではないのですよね」

 エレノールが声を落とした。

 その言葉に、シアニの肩が小さく震える。
 先ほどまで読んでいた手記の内容が、まだ意識から離れていないのだろう。

「あたしは読んでて、すごく嫌な気分になった……。あんなことを、ずっと続けてたなんて」

 シアニの声は普段より弱い。
 手記に記されていたのは、一族の繁栄を願う儀式などという穏やかなものではなかった。
 怨みを抱かせるために人を追い詰め、憎悪を核として祀り上げる。血縁者を供物として捧げ続け、怒りと怨恨を家の守護へ転用する。
 そこにあったのは信仰ではなく、人の苦痛を利用するための仕組みだった。

「なるほど。視線から感じた憎悪も、それなら納得がいきますね」

 雅は静かに頷く。
 屋敷の中で彼女が受けた視線は、最初こそ感情のない観察に思えた。
 けれど霊的防護を張った後、その奥に押し込められていた念が露わになった。
 怒り。憎しみ。怨嗟。幾重にも重ねられた情念が、まるで屋敷そのものに染み込んでいるかのようだったという。

「もしかして、ここにいるインビジブルは、儀式の犠牲になった人たちではないですか?」

「えぇ……」

 エレノールの直感的な予想に、シアニは嫌そうな表情になる。
 自分の読んだ手記の犠牲者がすぐ近くにいると思うと、余計な想像まで膨らんでしまい、さらに気分が滅入ってしまう。

「年代がまるで違ったのも、そのせいかもしれない」

 クラウスは、二人の特徴があまりに離れていたことを不思議に感じていた。
 とくに本来なら劣化して消滅しているはずの人物まで、ほぼ形を残していたのは、亡くなる寸前に抱いた強い恨みが関係しているのかもしれない。

「特殊な呪術によって怨恨を家の守護に変え、繁栄の力として利用してきた。そう考えると、一族が何をしていたかはおおよそ見えてくる。問題は、その儀式が途切れたことだね」

 紫水は鍵を見下ろし、ゆっくりと言葉を選んだ。

「祀るための手順が失われたことで、抑えられていた憎悪が制御を外れた。今のそれは守護神ではなく、祟り神に近いものへ変じているのだろう」

 長男が儀式を止めた。
 高僧は、儀式とは違う方法で怪異を鎮めようとした。

 その二人が殺されたことを思えば、屋敷に棲むものが何を拒絶したのかは想像できる。
 正しい手順を求めているのか。あるいは、手順そのものを壊された怒りなのか。
 その両方である可能性もあった。

 クラウスは腕を組み、先ほど自分たちが遭遇した異変を思い返す。

「俺たちが受けた怪奇現象は、大きく分ければ二つだ。強い視線と、認識への干渉だね」

「認識の阻害でいえば、私とクラウスさんが特に深く巻き込まれたようです」

 エレノールはそう言って、わずかに唇を引き結んだ。
 インビジブルを人間の姿に変え、話を聞こうとしてから、彼女たちは相手の形を理解できなくなった。
 声も、姿も、最終的には周囲にあるものまで正常に認識できず、精神の足場を失いかけた。

「あたしも、アラートの魔術を仕込んでなかったら危なかったかも……」

 シアニは首元のマフラーを押さえた。
 羅紗の織物に仕込んでいた魔術がなければ、彼女もまた蔵の中で意識を引き戻せなかっただろう。
 そう考えて、身を縮こまらせる。

「視てるのに分からないって、すごく怖かった。目はちゃんと捉えてるのに、頭の中で形にならないの」

「エレノールと俺の場合は、インビジブルの人間化が解けたことで解放されたのかもしれない。ただ、あの段階では本気で襲うつもりがなかっただけ、という可能性も残る」

 クラウスの言葉に、場の空気が沈む。

 本気ではなかった。
 もしそうなら、彼らが味わった認識の崩壊は、怪異の力の一端でしかないことになる。
 屋敷の奥へ踏み込めば、より深く意識を乱される危険もあるだろう。

 雅は扇を持たぬ手を袖の内へ収め、穏やかな声で言った。

「分からないことへ意識を費やし続けても、同じ場所を巡るだけでしょう。今は、判明している事柄から筋道を立てるべきではありませんか?」

「ええ。なら、別の角度から見てみようじゃないか」

 紫水はその提案を受け、視線を仲間たちへ巡らせた。
 彼の紫の瞳には、既に次の問いが浮かんでいる。

「考えるべきは、認識阻害が何をきっかけに発生したかだ」

 怪異の正体そのものではなく、まずは現象が起きた条件を見極める。

 その言葉に、全員の意識がこれまでの遭遇へと向けられた。

「俺とエレノールが強い認識阻害を受けたのは、人間化したインビジブルと対話していた時だったよ」

 クラウスは、廊下で遭遇した現象を思い返しながら告げた。
 少なくとも、異変は最初から起きていたわけではない。

「おそらく、隠し部屋の存在を示そうとしたタイミングだったと思います」

 エレノールは記憶を辿りながら言葉を添えた。
 自分が交霊でインビジブルに人の形を与えた直後は、少なくとも姿も言葉もまだ理解できていた。
 崩れ始めたのは、彼らが壁の方へ腕を上げた時である。

 その仕草に意味があったのか。隠し部屋の存在を教えようとしたことが原因なのか。
 断定はできない。
 だが、彼らが何かを伝えようとした途端、その腕から認識が崩れ始めたことだけは確かだった。

「なるほど。私の場合は、蔵の箱に納められていた儀式の器具を覗いた時だね」

 紫水は鍵を手にしたまま、自分の体験を語る。

 蔵を離れた今でも、あの器具が何であったのかは思い出せない。
 箱の中にあったこと。儀式と関係する道具らしいこと。そして見続ければ危険だったこと。
 それらは分かっているのに、肝心の形だけが意識の中で空白になっていた。

「あたしは、手記を読んでて……儀式の供物が何かを読んじゃった時、だと思う」

 彼女はその言葉を一度は読み上げている。
 けれど、紫水に聞き返された時には、もう同じ箇所を読むことができなかった。
 文字は消えていない。ページにも墨跡は残っていた。
 それなのに、供物を示す部分だけ意味が理解できなくなり、自分が何と口にしたかすら思い出せなくなっていた。

「ああ。聞き取れなかったという意味では、私もその時に干渉を受けていたことになるね」

 紫水は頷き、手記に記されていた内容を頭の中で組み直す。

 儀式の素体となった女たちが虐げられ、怒りと怨恨を核に人工の神へ変えられた。
 その神へ捧げる貢ぎ物。欠落しているのは、おそらくそこに関わる言葉だ。
 だからこそ怪異は、その情報へ触れた者の認識を壊しにくる。

「私は少し事情が異なりますね。霊的防護を張ったことで、視線の奥に潜んでいたものへ気付いてしまいました」

 雅は穏やかな声で告げた。

 彼女の場合、認識阻害そのものは最も軽かったと言える。
 むしろ、異変に備えて防護を発動したことで、初めて自分が怪奇現象の内側にいたのだと気付かされた。
 視線だと思っていたものの正体は、存在すら認識できず、感情を読み取れないほど意識から外されていた|何か《・・》だったのである。
 今も認識できていないだけで、きっとそれらはこの部屋のあちこちにも存在しているのだろう。

「雅さんは例外に近いですけれど、共通点はありますね。皆さん、何かを見たことをきっかけにしています」

 エレノールの言葉に、場の視線が自然と集まった。

「規則性はありそうだね。問題は、見た対象がそれぞれ違うことだ」

「見られてはいけないもの、という意味では、鍵と鍵穴が対象外なのは少し意外ですね」

 雅は不可思議そうに首を傾げる。
 それらは隠し部屋へと直接繋がる重要な情報だ。

「ということは、インビジブルも隠し部屋を示したことが直接の原因ではないのかも」

 クラウスも口にしながら首を傾げる。
 他に何が原因だったのか、すぐさま思いつくものがないためだ。

 紫水は指折り数えるように、これまでの情報を並べていく。

 人間化したインビジブルの腕。
 供物の名が記された文字。
 箱の中にあった儀式の器具。
 視線を向けていた|何か《・・》。

 どれも別々の物に見える。
 しかし、すべてが隠し部屋や儀式と結びついているのなら、単なる偶然では済まない。

(これらがシセンノマとどう繋がるか)

 紫水は胸中で考えを深めた。

「それに、一度認識がおかしくなると、影響は他のものへも広がっていく。俺たちの時は周囲の景色まで理解できなくなりかけたし、精神的にもかなり不安定になっていた」

 クラウスは冷静に語っているが、表情にはわずかな硬さがある。

 あのまま進んでいれば、自分たちがどこにいるのかすら分からなくなっていただろう。
 見えているものが意味を失うというのは、暗闇に放り込まれるより悪い。
 視界だけは残っているせいで、理解できない恐怖が際限なく積み重なる。

「目が離せなくなる感じもあったよ。あたし、気持ち悪いのにずっと視ようとしてた気がする……」

 シアニは嫌な記憶を追い払うように首を振った。

 蔵で発動した|竜眼・千眸《アウディエンス》は、たしかに視線の主を捉えていた。
 けれど、見れば見るほど正体は遠ざかり、意識だけがそちらへ引き寄せられていく。
 アラートの魔術がなければ、自力で止められたかどうか分からない。

「戦闘中に再発すれば、かなり危険ですね。敵の位置も、自分の行動も、正しく判断できなくなる可能性があります」

 エレノールは強い危機感を滲ませた。
 怪異の本体に近付けば、認識阻害はさらに強まるかもしれない。
 隠し部屋へ踏み込む前に、少なくとも対処の方針だけは決めておく必要があった。

「話を聞く限り、魔術や霊的な防御、√能力による補助で軽減はできそうですね」

 雅は自分の経験を踏まえ、静かに結論を置いた。

 実際、彼女の霊的防護は視線の圧を和らげた。
 シアニのアラートも、意識を引き戻す役目を果たしている。
 完全に防げる保証はないとしても、無策で向かうよりははるかにいい。

「それと、二人の遺体についても忘れない方がよいでしょう」

 雅の青い瞳が、わずかに細められる。

「僧侶と長男は、全身を掻き毟られたように皮膚を裂かれていたのでしょう? 蔵で鳴っていた音や、認識できないものの気配を考えるなら、精神への干渉だけが脅威とは限りません」

 場に重い沈黙が落ちる。

 認識を狂わせる視線。視界にありながら理解できない存在。皮膚を裂かれた遺体。
 点在していた情報が繋がるほどに、これから向かう場所の危うさが輪郭を持ち始める。

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 対策を確認し、互いの役割を決めた√能力者たちは、雅が発見した和室へ向かった。

 部屋は先ほどと変わらず、曖昧な用途のまま静まり返っている。
 雅が壁の高い位置に隠されていた小板を外すと、その奥から鍵穴が露わになった。
 紫水は蔵から持ち出した鍵を取り出し、慎重に穴へ差し込む。

 金属が奥で噛み合う感触があった。
 次いで、壁の内側から低い音が響く。

「これで開くのかな?」

 シアニが壁へ手を添えようとした、その時だった。
 これまでで最も強い視線が、全員の背へ突き刺さる。

 反応はほとんど同時だった。
 クラウスが振り向き、エレノールが身構える。
 紫水は鍵から手を離さずに視線だけを後方へ走らせ、雅は袖の奥で力を緩めた。
 シアニも息を呑み、壁へ触れかけていた手を止める。

 怒りが来た。
 憎しみが来た。
 怨恨が、圧力となって部屋の中へ押し寄せる。

 それまで認識できなかった|何か《・・》が、黒い靄を吐きながら膨れ上がっていく。
 感情の塊に形を与えられたように、影が宙へ浮いた。
 灰色の面。黒く垂れる手足にも似た影。赤い線のような呪紋が空間を引き裂くように走り、いくつもの小さな姿が部屋の上方へ吊られるように現れる。

 その中心には、黒と赤が渦巻く円があった。

 目に見える姿を得たはずなのに、見ているだけで意識がざらつく。
 人形にも、虫にも、祭具にも似ている。
 だが、そのどれかへ定めようとすると、理解がわずかに拒まれる。
 無数の怨念が仮初めの器を借り、ようやくこちらを襲うための輪郭を持ったのだ。

「呪いも本気を出してきたようだね」

 紫水は芝居めいた口調を維持しつつも、その声音には軽薄さではなく覚悟が混じっている。

「形を持ってくれた方が、むしろ戦いやすいかな」

 クラウスは静かに応じ、構えを整えた。

 屋敷に蔓延る怨念。祝福されし呪い。
 本来は認識することさえ困難だった存在が、積み重ねられた怨恨によって仮初めの姿を得ている。
 怪異の核心に触れようとする者を、赦しはしない。
 そう告げるように、黒い影たちは赤い呪紋を揺らしながら、隠し部屋の入口を塞ぐように浮かび上がっていた。
 周囲を囲むように湧き出した形ある呪いを見渡し、クラウスは外套の内側へ手を入れた。

 引き抜かれたのは、短剣付きの銃――無明。銃口の下へ添えられた刃が、部屋に滲む赤黒い光を薄く反射する。
 相手の正体はなお曖昧で、視界の中にあるだけで意識へ不快なざらつきを残す。それでも、先ほどまでのように存在ごと隠れているわけではない。

「妨害があるのなら、核心に近付いているということは確かだ」

 クラウスの言葉に、場の緊張が一段深く増した。
 隠し部屋の奥にあるものを見届けなければ、この屋敷で何が行われてきたのかも、今なお続く怪異の正体も掴めない。
 儀式を断とうとした長男が死に、鎮めようとした僧侶も命を落とした。ならば自分たちがここで退けば、屋敷は予知通り彼らという犠牲を呑み込むか、それを悪用しようとする者の手に渡るかのどちらかだ。

 シアニは喉の奥で小さく息を整え、巨大なハンマーを構え直した。
 蔵で読んだ手記の内容は、まだ胸の内側に重く残っている。人の苦痛を仕組みに変え、怨みを家の力として利用し続ける。
 そんなものを知ってしまった以上、恐ろしいからと目を伏せることはできなかった。

「まだ悲しい……けど。酷い儀式をする人もいれば、それを断とうとする人もいる。そんな人の役に立てるなら、負けないよ」

 怯えは消えていない。
 だが、言葉の底には確かな意志がある。

 彼らは、ホラー映画の登場人物のように、逃げ惑う犠牲者ではなかった。
 ここへ来たのは、屋敷に巣食う怪異を暴き、その根を断つためだ。
 相手が怨念であろうと、呪いであろうと、形を得て立ちはだかるなら越えていく。

 何人かの√能力者たちが、短く視線を交わした。
 それだけで十分だった。隠し部屋へ踏み込む前に、異常空間での戦闘は想定している。あえて言葉にしなくとも、事前に決めた役割はそれぞれの中で動き出していた。

 最初に声を響かせたのは、エレノールである。

「今語りしは、世界樹が生み、守りし世界の、悠久の記憶――」

 それは神話の冒頭を語る声であり、同時に詠唱でもあった。
 エレノールの言葉に呼応して、部屋の各所から淡い光が浮かび上がる。床の木目に沿って細い輝きが走り、壁の古い染みを縫うように広がり、やがて天井近くで薄い膜となって重なった。
 屋敷に沈む怨嗟を塗り替えるほど強引ではない。けれど、人体の裡へと入り込もうとする悪意を和らげるには十分な聖域だった。

「これで、部屋にいる間は霊的な干渉や状態異常を緩和できるでしょう」

 エレノールは聖域を維持しながら告げた。

 完全に防げる保証はない。だが、視線による圧迫や認識の揺らぎをそのまま受けるよりは、はるかに動きやすくなる。
 形ある呪いが認識を侵食してくる以上、防御の有無は生死を分けるはずだった。

「では、私も参りましょうか」

 雅がゆったりと前へ出る。
 その足取りは、怨念の渦中にありながら不思議なほど乱れない。
 身体から霊的な防護を発しながら、さらにここにいる全員を包むように、自らの√能力を静かに解き放った。

「嫌な事は、酔って忘れてしまいましょう?」

 柔らかな声が落ちると、部屋の空気に甘く霞むような感覚が混ざった。
 それは単なる気休めではない。世界の現実性すら忘れさせる酩酊感によって、負傷や異常性を曖昧なものへ変えていく力だった。
 痛みも呪いも、確かな事実として身体や精神へ定着する前に、夢の中の出来事のように遠ざかっていく。

 シアニはぱちぱちと瞬きをした。

「なんか、ふわふわする……」

 足元が崩れるわけではない。意識が濁るわけでもない。
 ただ、先ほどまで胸の奥に張り付いていた恐怖が、薄い布の向こう側へ押しやられていく。
 蔵で視線に捕らえられた記憶も、手記の文字が意味を失っていく寒気も、少しだけ距離を置いて眺められるようになっていた。

「酩酊感……いわゆる、ほろ酔い気分といったところですね」

 雅の説明に、シアニはぎょっとして首元のマフラーを押さえる。

「それって大丈夫なやつ? あたし、未成年だよ?」

「実際にお酒を飲んでいるわけではありませんから」

 雅は笑みを崩さずに答えた。

「嫌な感覚を、少し遠ざけているだけです。足元が危うくなるほど酔わせたりはしませんよ」

「そ、そうなんだ……ならよかった」

 気まずそうに視線を泳がせていたシアニは、ようやく安堵の息を吐いた。

 認識を狂わせる力は、とりわけ厄介な部類に入る。
 見えているものを信じられなくなれば、戦うための前提が崩れる。味方の位置も、敵の動きも、自分の身体の感覚さえ曖昧になりかねない。
 だからこそ、エレノールの聖域と雅の酩酊による加護は、最初に重ねておくべき対策だった。

 他の√能力者たちも、各々の手段で身を守る。
 紫水が、一歩前へ出た。

「ヒメ様、どうか力を貸して」

 小さく告げた声に応じ、彼の周囲で霊気が静かに起ち上がる。

 ツチミヤヒメノカミ。かつて椎宮の地に祀られていた土地神。今や常に彼と共にある名を呼び、紫水はその力を借り受ける。
 霊的な加護が彼を包んだ。怪異から注がれる視線の圧が完全に消えるわけではない。それでも、直接心の奥へ沈み込もうとする不快な感覚は弱まっていく。

 紫水は続けて、引き抜いたアメジストの宝剣、アヤメをわずかに傾けた。

「五行巡りて、理を成す――土生金!」

 土気を帯びた霊力が凝る。
 それは小さな弾丸の形を取り、次の呼吸で黒い呪いへ向けて射出された。
 呪いの一体は、滑るように横へ逃れる。直撃は避けられた。
 だが紫水の術は、そこで終わらない。

 土の弾丸は壁際へ着弾し、鈍い音を立てて跳ね返った。
 砕けた霊力が飛礫となり、散弾のように周囲へ広がる。予想していなかった角度から襲ったそれは、黒い靄を纏う数体をまとめて貫いた。
 呪いの輪郭が歪み、赤い呪紋が火花のように乱れる。

 さらに外れた飛礫は、宙で銀の光を帯びた。
 土より生じたそれは盾へ変わり、紫水と近くの仲間を囲むように旋回を始める。
 それは視線の通り道を遮るように位置を変えていった。

(視線ならば跳ね返せば……というのは、いささか浅はかな考えかな)

 見られることで侵されるなら、見るための線を乱す。根本的な解決には届かずとも、わずかな時間を稼ぐ役には立つはずだ。
 既にエレノールの聖域と雅の加護も働いている。防御は可能な限り厚く重ねた。

「後は、なるべく手早く片付けるだけだ」

 クラウスが無明の銃口を上げる。
 彼の狙いは、入口を塞ぐ呪いの群れ。
 霊的な防護が整った今なら、多少の干渉を受けても動きを止めずに攻め込める。そう判断して引き金へ力を込めようとした、その時である。

「なにこれ!?」

 目前の事象に、シアニの声が跳ねた。
 黒い呪いたちから、一斉に靄が噴き出したのだ。

 それはゆっくり漂う煙ではなかった。堰を切った濁流のように、黒が部屋の内側へ溢れてくる。
 同時に、呪いの面に目と思しき赤い光が点った。

 ひとつ、ふたつではない。
 宙へ吊られた幾つもの姿が同時にこちらを見据え、赤い光だけが闇の中で不規則に瞬いた。

 エレノールの聖域が、激しく揺らぐ。

「これは……まさか、呪いとしてはこっちが本命ですか!」

 焦りの滲む声だった。
 部屋の景色が黒に呑まれていく。畳の縁も、壁の木目も、隠し部屋へ続くはずの入口も、墨を流し込まれたように消えていった。
 淡い聖域の光はまだ残っている。けれど、その光が照らすはずの対象が、視界の中から次々と抜け落ちていく。

「みんな、どこー!?」

 シアニが仲間を探して声を上げる。
 ほんのすぐ近くにいたはずだった。紫水がいて、クラウスがいて、エレノールも雅も同じ部屋にいたはずだ。
 それなのに、黒い靄が広がった途端に距離の感覚が狂った。声は届いているのに、姿が見えない。気配はあるようで、どこにも定まらない。

「これは……分断されるぞ。皆、なるべく離れずに固まるんだ!」

 紫水がすぐさま対策を叫ぶ。
 しかし、その声も遠い。近くから聞こえたようで、壁の向こうから響いたようでもある。

 クラウスは無明を構えたまま、視線を巡らせた。
 仲間の姿がない。
 赤い目の光も、黒い呪いの輪郭も、いつの間にか視界の端で曖昧になっている。
 頼りになるのは、自分が立っているという感覚だけだった。けれど、その感覚さえ長くは保たない。

 手元にあるはずの無明が、見えなくなる。

 腕を上げているはずなのに、その腕の形が視界から消える。足元を確かめようとしても、床がない。
 身体が失われたわけではない。握っている感触も、呼吸も、心臓の鼓動もある。だが目に映るはずの自分だけが、黒の中へ溶けていた。

 認識阻害は、景色や敵だけに留まらない。
 自分自身の姿すら、視界から奪っていく。

 クラウスは奥歯を噛み締めた。
 闇の向こうで、誰かの声がまた遠く響く。
 けれどそれが誰なのか、どちらから聞こえたのか、すぐには判断できなかった。

 視線を遮るための守りを重ねた、その隙間を縫うように。
 形ある呪いは、彼らを黒い認識の檻へ閉じ込めていた。
シアニ・レンツィ

「あれ……」

 シアニは、公園の中に立っていた。

 夕方にはまだ早い空の下、すべり台の影が砂地へ細く伸びている。鉄棒の向こうでは、風に揺れる木々がざわざわと葉を擦らせていた。
 どこにでもある小さな公園のはずなのに、視界の高さが妙に落ち着かない。

 いつもよりも低い気がする。

(いつもって……|いつ《・・》だっけ?)

 頭の奥に霞がかかっていた。
 何かをしていたはずだ。誰かと一緒にいた気もする。けれど思い出そうとすると、頭がぼやけてしまう。
 さっきまで感じていたふわふわした感覚とも違った。あれは、たしか。

(めいてい……?)

 脳裏を過ぎった言葉の意味さえ、すぐに手元から零れていく。

「どうしたの、シアニちゃん?」

「え?」

 声のした方へ振り返る。

 そこには、|自分と同じくらい《・・・・・・・・》のとても幼い女の子が立っていた。
 柔らかそうな髪を揺らし、こちらを不思議そうに見上げている。いや、見上げている、というほどの差はない。目線がほとんど同じ高さにあることに、シアニは遅れて気づいた。

 けれど、その違和感は長く続かなかった。
 女の子の笑顔を見た途端、胸の中にあった不安が小さくなる。ここで立ち止まっているより、遊んだ方がずっと楽しい。そんな当たり前の気分が、するりと入り込んできた。

「ううん! なんでもないよ、あそぼ!」

 シアニは笑って答え、女の子と一緒に駆け出した。
 まずはブランコだった。二人で並んで座り、足を投げ出すようにして漕ぐ。
 鎖がきいきいと鳴り、身体が前へ後ろへ揺れるたび、胸の奥がくすぐったくなった。もっと高く、もっと遠く。笑い声が弾むたびに、公園の景色まで明るくなっていく。

 次は砂場へ移った。
 湿った砂を集めて山を作り、崩れないように少しずつ固める。小さな手で横穴を掘ると、反対側から女の子の指先が出てきた。トンネルが繋がった瞬間、二人は顔を見合わせて笑った。
 山の上には木の枝を立て、落ち葉を屋根のように飾る。立派なお城だと女の子が言えば、シアニも得意げに頷いた。

 やがて、他の子どもたちも集まってくる。
 誰かが鬼ごっこをしようと言い出した。じゃんけんで鬼を決め、皆が一斉に散っていく。
 シアニもその中に混ざり、すべり台の裏へ回り込み、鉄棒の横を抜け、追いかけてくる足音から逃げた。

 皆の中に混ざって遊ぶことは、とても自然だった。
 ただ同じ場所で笑い、同じ遊びに夢中になり、名前を呼ばれれば振り返る。

 それは、あまりにも優しく、いつもの時間だった。
 気が付けば、空は赤く染まり始めていた。

 公園の影が長く伸び、ブランコの鎖も夕焼けを受けて鈍く光っている。
 遠くから、誰かの母親の、子供を呼ぶ声がした。もう帰る時間だよ、と呼ばれた子が、名残惜しそうに手を振って公園を出ていく。

 また一人、親に手を引かれて帰っていく。
 さらに一人、ランドセルを背負い直して駆け出していった。

 にぎやかだった公園は、少しずつ静かになっていく。鬼ごっこの輪も解け、砂場の城だけが夕焼けの中に残された。
 シアニは赤らんだ空を見上げる。

「もっと遊ぼうよ、シアニちゃん」

 最初に声をかけてきた女の子だけは、まだ公園に残っていた。

 彼女は笑顔のまま、こちらへ手を伸ばしてくる。その手は小さくて、あたたかそうだった。
 掴めば、また楽しい時間に戻れる。そんな気がした。

 シアニは、その手を見つめる。
 それから、ゆっくりと首を横に振った。

「あたしは帰らなきゃ」

「今日はもう帰るの? じゃあまた明日、たくさん遊ぼうね!」

 女の子は少しも疑わず、明日が当たり前に来るものとして笑った。
 その笑顔が眩しくて、シアニの胸がきゅっと痛む。

「違うよ。元の世界に帰るの」

 これは夢だ。
 自分も、みんなと同じ人だと思っていた頃の夢。

 けれど、それは嘘の幸せだった。優しくて、あたたかくて、いつまでも浸っていたくなる場所。だからこそ、ここに留まってはいけない。

「……どうして?」

 女の子は夕焼けの中で、かすかに首を傾けた。

 何を問われたのか、シアニには分かる。今日帰る理由ではない。
 彼女が尋ねているのは、『どうして夢だと気付いたの?』という意味だと受け取った。

「みんな、あたしのことを恐がるから」

 幼い頃のシアニは、忘れようとする力が働くまで、その視線に気付かなかったのだろう。
 けれど、|今の自分《・・・・》は違う。

 子どもたちが向けていた興味の中に、ほんの少しだけ混ざっていた怯え。
 迎えに来た母親たちが、我が子を呼び寄せる時に見せた警戒。笑っているようで、距離を測っている目。
 青い肌も、緑の瞳も、どれだけ無邪気に遊んだところで消えてはくれない。

 最初は珍しさでも、その先に恐怖が生まれることを、シアニはもう知っている。
 人は、自分と違うものを恐れる。

 その記憶が、この優しい公園の違和感を浮かび上がらせていた。ここにいる自分は、かつての記憶とぴったり重ならない。
 楽しいのに、あたたかいのに、どこかで現実の痛みを知っている。

 だから、思い出せた。

「わたしはシアニちゃんのこと、恐くないよ」

 女の子は静かに言った。
 その言葉は、慰めのようでいて、どこか寂しい響きを帯びている。

「あなたも、あたしと同じ異物なんだね」

「そうだよ」

 女の子は頷いた。
 夕焼けに照らされた顔は幼い。けれど、その瞳だけは公園で遊んでいた子どものものではなかった。
 長い時間を、どこにも行けないまま過ごしてきた者の静けさが、そこに沈んでいる。

「わたしはシセンノマだから」

 女の子は続ける。

「シセンノマにされちゃったから」

 シアニの胸が痛んだ。
 手記に記されていた儀式。読めなくなった供物の名。隠された部屋へ捧げられたもの。それらが一つに繋がる。
 目の前にいる女の子は、怪異の一部であると同時に、そうされてしまった子供なのだ。

 望んでそうなったわけではない。
 誰かの繁栄のために、誰かの勝手な祈りのために、親子の縁ごと歪められた。

 シアニは悲しそうに眉を下げる。怒りより先に、どうしようもない悼みが胸へ満ちていく。

「シアニちゃんは優しいね」

 女の子は微笑んだ。
 嬉しそうで、けれど少しだけ寂しそうな笑みだった。もう一緒に遊べないと知っている子どもが、別れの前に無理をして笑っているようにも見える。

「ねえ、おかあさんを、自由にしてあげてくれる?」

 公園の空気が、ほんのわずかに冷えた。

 おかあさん。
 その一言で、シアニは儀式の中心に据えられた女のことを思い出す。
 怒りと怨みを抱かされ、家のための神核に変えられ、なおも縛られている存在。
 呪いの根にいるのは、恐ろしい怪異である前に、解放されないまま利用され続けた誰かだった。

「…………うん。約束するよ」

 シアニはゆっくりと頷いた。
 その声は震えていたが、迷いはなかった。

 彼女は√能力を働かせ、宙に魔術紋を生み出す。淡い光で編まれた紋様が、夕焼けの中に浮かび上がった。
 魔術紋は彼女の意志に従い、地面へ向けて撃ち込まれる。
 砂地に触れた途端、光の紋様が円を広げるように張り付いた。

「ありがとう。それじゃあ、バイバイ」

 女の子はシアニに向けて手を振った。

 その姿は、もう恐ろしい怪異には見えない。ただ夕暮れの公園に残された、小さな子供だった。

「うん、バイバイ」

 シアニも手を振り返す。
 次の瞬間、魔術紋が弾けた。

 世界が硝子のようにひび割れる。夕焼けの空に白い亀裂が走り、公園という存在が砕けていく。
 ブランコも、砂場も、女の子の笑顔も、無数の破片となって光の中へ散った。

 気が付くと、シアニは再び和室に立っていた。
 部屋の中にはまだ黒い靄が満ちている。けれど、シアニの周囲だけが晴れていた。
 畳の目も、壁際の影も、足元に落ちる自分の影も、曖昧さを失っている。
 仲間たちの姿は靄の向こうに隠れたままだが、少なくとも自分の立つ場所だけは、あの夢から切り離されていた。

「エレノール先輩や雅先輩たちの能力が効いたのかな?」

 シアニは、和室に残る淡い光を見ながら呟いた。
 エレノールが張った聖域は、今も床や壁に静かな輝きを宿している。雅の加護も、恐怖を直接心へ押し込ませないよう、意識の奥を柔らかく支えていた。
 最初は黒い認識の中へ丸ごと呑まれていたはずだ。そこから少しずつ自分を取り戻せたのは、仲間たちが先に重ねてくれた守りの力があったからなのだろう。

 彼女はハンマーを握り直し、目の前を見据える。
 そこには、一体の黒い呪いが浮いている。

 けれど他の呪いのように襲いかかってはこない。赤黒い靄を纏ったまま、静かに漂っているだけだった。

(この子は、嫌だったんだ……)

 異物であることが。
 おかあさんがシセンノマにされ、自分までもその呪いの一部として縛られてしまったことが。

 楽しい公園の夢を見せて、帰らないでほしいと願った。それでも最後には、自分ではなく母を自由にしてほしいと頼んだ。呪いとなってしまった以上、自分だけではここから抜け出せないのだろう。

 シアニの胸に、苦しさが満ちていく。
 相手は怖ろしい怪異だった。人を惑わせ、閉じ込め、仲間たちを分断した存在でもある。だけど、その中にいたのは、ずっと帰れなかった子どもだった。

「ごめんね……」

 シアニは、黒い呪いへ向けて小さく告げた。
 許しを求める言葉ではない。倒すことへの言い訳でもなかった。
 ここで止める以外に、その子を呪いから切り離す方法がない。そう理解したうえで、それでも謝らずにはいられなかった。

 巨大なハンマーが、和室の空気を押し分ける。
 振り抜かれた一撃は、黒い呪いを真正面から撃ち抜いた。赤黒い靄が大きく膨らみ、内側から弾けるように霧散する。
 悲鳴は聞こえない。ただ、夕焼けの公園で別れた女の子の微笑みだけが、シアニの胸に残っていた。

 散った靄の中心から、何かが畳へ落ちる。
 湿った音が、和室の静けさに混じった。

 今度は、はっきりと見えた。
 認識が拒まれることも、意味だけが抜け落ちることもない。畳の上に転がっていたのは、子どもの指だった。
 小さく細いそれが五本、切り離されたまま並ぶように落ちている。

「やっぱり……」

 シアニの声はかすれていた。
 蔵の中で動き回っていた小さなもの。あちこちから響いていたカリカリという音。認識阻害が解けたことで、それらはようやく一つの答えへ結びついた。

 あれは、やはり目ではなく、指だったのだ。

 クラウスとエレノールは、人の形を取ったインビジブルと接触した時、腕から認識が崩れていったと話していた。きっと、その人間たちは供物として指を奪われたのだろう。
 手記で読めなくなった供物の名も、今ならハッキリと認識できる。

 家の繁栄を願い、怨みを神核に変えるために。
 数えきれないほどの指が、隠された部屋へ捧げられた。

「……指千の魔、かな?」

 シアニは畳の上に落ちた小さな供物を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 視線の間でも、死線の間でもない。
 たくさんの指を集められ、捧げられ、積み重ねられて生まれた怪異。
 誰かに正しい字を教えられたわけではない。それでも、その呼び名だけが胸の奥へ浮かび上がってくる。

 シセンノマ。
 それは、指千の魔。

 なんとなく、そういう言葉が脳裏に浮かんできたのだった。

クラウス・イーザリー

 クラウスは、食堂の長テーブルに座っていた。

 そこは√戦闘機械群に属する兵士養成学園の一つだった。
 清潔感のある白い壁に囲まれた食堂には、生徒たちの声が満ちている。訓練を終えた者たちがトレーを手に、明日の配属先や武装の調整について話しながら席を探していた。

 クラウスの前には、湯気を立てるカレーが置かれている。

「あー、久しぶりのカレーは最高に美味いな!」

 隣に座る少年が、赤い瞳を輝かせながら言った。
 茶色の髪を軽く跳ねさせた少年は、まるで戦場のことなど知らないかのように笑っている。
 けれど、その身体には戦いで作った擦り傷があり、袖の下には包帯も覗いていた。明るく振る舞っているのではない。彼は本当に、目の前の食事を全力で喜べる人間だった。

「他のルートへの道が見つかって、食糧補給できたのがラッキーだったね」

 クラウスは皿を見下ろしながら応じる。
 戦闘機械群にほとんど支配された世界では、食事でさえ十分に選べるとは限らない。別ルートとの接続が偶然見つかり、そこから補給を受けられたことで、運よく温かい料理が食堂に並んだのだ。

「だな! クラウスも食べろよ!」

「うん……」

 促され、クラウスはスプーンを手に取った。
 親友である少年は、こちらが一口食べるのを待っていたように満面の笑みを向けてくる。その表情につられ、クラウスも少しだけ肩の力を抜いた。
 辛さと甘みの混じった味が、懐かしい温度を伴って広がっていく。

「美味しい……」

「だろ?」

 少年は快活な笑みを見せながら、次の一口を自分の口へ運んだ。

 食事を終えると、二人は学園の敷地内を歩いていた。
 心地よい風が、彼らの間を通り抜けていく。

「明日はまた戦地かー。かなりきつい場所らしいぞ」

 少年は両手を頭の後ろで組み、軽い調子で言った。
 心の裡に恐怖がないわけではないだろう。けれど彼は、恐怖だけで明日を語ることをしなかった。
 自分が笑えば、隣の誰かも少しだけ楽になると知っているように、いつも先に明るさを見せる。

「どこの戦場も厳しいよ」

 クラウスは苦笑する。

「だな」

 少年も同じように笑った。
 二人は並んで歩き続ける。明日になれば、また命のやり取りが待っている。
 帰ってこられる保証など、誰にも与えられていない。それでも、この短い時間だけは、普通の友人同士の会話に似ていた。

「けど、――がいるから俺はどこでだって戦える」

 クラウスの言葉に、少年は横顔を見た。

「俺が?」

「うん、俺だけじゃないよ。――は皆にとって太陽のような存在だ」

 カリスマ性があり、戦いの才能も周囲から頭一つ抜けている。判断は早く、危機の中でも笑みを失わず、誰かが俯きかければ真っ先に声をかける。
 彼が食堂で笑えば空気が軽くなり、戦地で前へ出れば仲間たちの足取りも強くなった。

 クラウスにとって、彼は生きる希望そのものだった。

「でも、お前がその太陽を消しちまったんだろ」

 少年が、変わらない笑顔のまま言った。

「…………っ!」

 クラウスの言葉が詰まる。
 先ほどまで穏やかだった風景が、急に遠のいた。
 校舎も、訓練棟も変わらずそこにある。けれど、目の前の少年の笑顔だけが異様なほど鮮明で、ほかのすべてが薄い背景へ退いていく。

「お前がヘマして、それを庇って俺が死んだ」

 穏やかな声だった。
 怒鳴られたわけではない。責め立てられたわけでもない。それなのに、その一言はクラウスの胸を正確に貫いていた。

 戦闘機械群との激しい戦いの最中、彼はクラウスを庇い、本来ならクラウスへ向かうはずだった死を引き受けた。
 若すぎる命が、炎と機械の轟音の中で散ったのだ。

「お前が希望を台無しにしたんだろ」

 少年の笑顔は、食堂でカレーを頬張っていた時と変わらない。

 だからこそ、その言葉はクラウスの奥へ深く食い込んだ。
 怒りも憎しみも見せず、ただ事実を告げるように突きつけてくる。記憶の中にいるはずの親友が、クラウス自身でさえ普段は触れない場所を正確に抉っていた。

「そうだよ……」

 否定の言葉は出てこなかった。

 あの日から、クラウスの中で希望は喪われた。
 太陽のように笑っていた少年が消え、仲間たちを照らしていた光も失われた。生き残った自分は、その喪失の中心に立っている。
 戦い続け、誰かを助け、前に進む振りをしながら、胸の奥ではずっと同じ場所に取り残されていた。

「なのに、まだ俺に縋ってる」

 少年は穏やかな口調のまま続ける。
 それは、クラウスの胸の内を赤裸々に晒す言葉だった。

 失った者を悼むだけででも、罪悪感に沈むだけでもない。
 クラウスは彼が死してなお|心の拠り所《Anker》としていた。
 記憶の中で彼の明るさをなぞり、困窮すれば彼ならどうするかを考え、生きている自分の中に死んだ親友の影を残そうとしている。

「俺はお前の中の残骸だ」

 少年の手が、腰の銃へ伸びる。
 その動きを見た時には、クラウスもまた無明を抜いていた。

 二つの銃声が重なる。

「ぐあっ」

 少年の手から血が滴り、握られていた銃が地面へ落ちる。

 一方で、クラウスへ向かって放たれた弾丸は届かなかった。
 いつの間にか目の前へ現れていた銀の盾が、銃弾を弾き飛ばしていたのである。
 小さな盾は一度だけ鈍く震え、紫水の術であることを示すように淡い光を残して旋回した。
 記憶も、無明と共にもう戻っている。重ねられていた状態異常の耐性対策によって、効果が弱まっていたのだろう。

 クラウスは無明を構えたまま、少年を見据える。

「悪いけど、今は悲しく思っていられる暇もないんだ」

 引き金を引いた胸には、確かな痛みが走っている。
 たとえ目の前の少年が本物ではないとしても、その姿も声も記憶から作られている。
 撃てば心が痛む。傷つければ苦しい。それでも、ここで足を止めるわけにはいかなかった。

 おそらくこれは、シセンノマがクラウスの記憶を使って生み出した悪夢なのだろう。
 だが、今のクラウスは一人ではない。
 紫水の銀の盾が自分を守ってくれたように、仲間たちもこの異常の中でそれぞれ抗っているはずだ。
 シアニも、エレノールも、雅も。誰かが倒れれば、隠し部屋へ至る道は遠のく。ここで過去に引きずり込まれている時間はない。

「俺は、お前のための、お前が望んだ俺なんだよ!」

 少年の声が、景色を揺らした。
 その周囲に、レイン砲台が出現する。学園の穏やかな敷地には不釣り合いな兵装が、クラウスへ向いた。そして無数のレーザーが放たれる。

 それはきっと、真実の一部なのだろう。
 彼の代わりに自分が死んでいればよかった。そう思ったことは、一度や二度ではない。
 生き残った自分は彼の影を追ってきた。彼なら今きっと笑っただろう。彼なら誰かを導けたはずだ。そんな気持ちを抱えて生きてきた。
 だからこそ、悪夢はその姿を借りている。

「俺だけが夢に溺れていいわけがない」

 クラウスは射線を見切り、最小限の動きでレーザーを避けた。
 だが数が多すぎる。避けきれない光は魔力防御で受け、間に合わないものは銀の盾が弾いた。
 衝撃が重なるたびに腕が軋み、足元の風景が薄く歪んでいく。ここが精神の内側であろうと、受け続ければ無事では済まない。

 シセンノマによる精神干渉は、時間が経つほど、体勢の限界を越えて再び強まる可能性がある。

(多少強引にでも早く片付けないと)

 そう考えた矢先、少年が動いた。
 レーザーの雨に紛れ、意識の隙間へ潜り込むような踏み込みだった。銃を撃ち落とされたのとは逆の手に、いつの間にかナイフが握られている。
 クラウスが照準を合わせ直すより早く、その刃が懐へ入った。

 鋭い痛みが、脇腹を抉る。

「っ……!」

 呼吸が乱れた刹那、クラウスの腕が自分の意思とは別の速さで跳ね上がった。
 誰かに操られたような感覚だった。視界が勝手に狭まり、照準が少年の胴へ吸い寄せられていく。無明の銃口が定まり、引き金が落ちる。

 銃声。
 撃ち込まれた弾丸を通じて、少年の内側から奪われた生命力がクラウスへ流れ込んだ。抉られた傷が熱を帯び、裂けた肉が塞がっていく。
 痛みは急速に遠ざかり、身体が戦闘を続けられる状態へ引き戻された。

 無明の中に棲む竜が、一瞬だけクラウスを動かしたのだ。

「がっ……!」

 少年の身体が仰け反る。
 クラウスはそこで止まらなかった。今度は操られたのではない。自分の意思で無明を握り、逃げる余地を与えずに引き金を重ねる。
 銃声が連続し、少年の服の下へ|緋色《あか》の染みが広がっていく。

「な、んで……」

 かすれた声が洩れた。
 少年は信じられないものを見るようにクラウスを見つめ、それから力を失ってうつ伏せに倒れ込む。
 学園の敷地に見えていた景色が、弾けた硝子のように歪む。
 そして、クラウスは屋敷の中に立っていた。

 畳の感触が足裏へ戻る。
 黒い靄の気配が周囲を漂っているが、目の前に少年の姿はもうない。

 代わりに、人間の指だけが落ちていた。
 クラウスはしばらくそれを見下ろしていた。胸の奥には、撃った感触がまだ残っている。
 偽物だと分かっていても、記憶を利用された痛みは消えない。けれど、あの姿が本物でないことだけは確かだった。

「本物はもっと強くて…………眩しかったよ」

 それだけを呟き、クラウスは視線を上げた。
 無明を構え直し、周囲に残る気配へ意識を巡らせる。悪夢は破れた。だが屋敷の怪異は、まだ終わっていない。

リリンドラ・ガルガレルドヴァリス

 一方その頃、屋敷の外では一人の少女が正門の前に立っていた。

 情熱的な赤髪は腰の向こうまで流れ、そこへ紫の房が鮮やかな筋となって混じっている。褐色の肌は、白を基調としたゴスロリ調の衣装によく映えていた。
 首周りには古い疵痕が残り、腰の後ろには大ぶりの刃が覗いている。

 リリンドラ・ガルガレルドヴァリス(ドラゴンプロトコルの|屠竜戦乙女《ドラゴンヴァルキリー》・h03436)は、門の向こうに建つ屋敷を正面から見据えた。

 不吉な屋敷があるという噂を聞き、寄ってみただけだった。
 誰もいないはずなのに視線を感じる。近づいた者が急に気分を悪くする。昔から妙なものを祀っていたらしい。
 聞いた時は、よくある怪談話の一つだと思っていた。
 けれど、こうして前に立てば分かる。

「外からでも分かるわ、嫌な感じが」

 ただここにいるだけで、首筋がぞわりと疼いた。

 屋敷そのものは静まり返っている。
 だが、その静けさの奥に、明らかに良くないものが潜んでいた。
 気配は重く、こちらを値踏みするような圧だけが、門の外まで滲み出している。

 放っておけば、時間が勝手に解決してくれる類ではない。
 危険な芽は早いうちに摘む。誰かが被害に遭ってから動くより、気付いた者が先に踏み込んだ方がいい。

(それが正義ってものよね?)

 リリンドラは勝ち気に口元を上げ、正門を抜けた。

 屋敷へ足を踏み入れた途端、悪寒ははっきりと強まった。
 玄関の空気が、肌へまとわりつく。
 見られている。そう感じるのに、視線の出所が分からない。
 窓から、廊下の奥から、天井の隅から、至るところから来訪者を敵視しているようだった。

「これは相当ヤバいわ……」

 リリンドラは即座に√能力を発動できるよう意識を整え、魔眼殺しの眼鏡を掛けた。

 視線の正体が魔眼に近いものなら、これで多くを防げるはずだった。
 自分の魔眼も封じ気味になるのは痛いが、底の知れない相手へ無防備に挑むほど無謀ではない。

「相手が分からないなら、攻めるよりまず守り……って」

 言葉の途中で、玄関脇の暗がりが膨れた。
 黒の靄が、床の影から滲み上がるように形を得る。
 現れたのは、黒の呪いだった。

 ひとつではない。視線を感じていた場所から次々と現れ、リリンドラを囲むように浮かび上がっていく。
 人の形にも獣の形にも定まらないが、襲いかかる意思だけは露骨だった。

「いきなり出迎えなの!?」

 リリンドラは身を翻した。

 先頭の黒の呪いが、先ほどまで彼女のいた場所へ飛び込む。
 そのまま背後の柱にぶつかり、耳障りな破砕音を響かせた。
 黒の呪いが離れた柱には、表層を乱暴にむしり取られた痕が残っている。

 リリンドラの目が細くなった。

「当たったら、可愛い悲鳴じゃ済まなそうね」

 あれを受ければ、衣装どころか肉まで持っていかれる。
 正体が何であれ、こんな場所でまともにやり合う相手ではない。
 玄関と廊下の狭さが不利に働く前に、利用できる場所へ逃げ込むべきだ。

 リリンドラは床を蹴り、迫る黒の呪いの隙間を抜けた。
 黒の呪いが背後から追ってくる。
 壁に触れるたび、障子の桟や柱の表面が荒く削られ、乾いた破片が散った。

 そもそも、こんなものがいきなり現れたこと自体が予想外だ。
 人がこれを見て逃げ延びたとしても、まともに覚えていられないだろう。
 忘れる力によって忘却され、噂にすらならないはず。

 逃げ込んだ先は台所だった。
 流し台と棚が並び、生活の名残が整然と残っている。
 廊下ほど一直線ではなく、身をかわす余地もある。
 リリンドラはすぐに場所の使い道を見切り、眼鏡の縁へ手を添えた。

「ここなら、借りられるものがありそう」

 彼女は眼鏡を少し上げ、緑の瞳で黒の呪いを射抜く。

「正義の視線、受け止められるかしら?」

 |正義媒鳥《アクノモウシツ》。
 その途端に、流し台の下にある扉が勢いよく開いた。
 内側の包丁差しから、収まっていた刃物が一斉に抜け出す。
 刃が台所の光を返し、大小の包丁は空中で向きを揃えた。

 黒の呪いが再び動き出すより早く、包丁の群れが殺到する。
 刃は黒の呪いへと突き立ち、逃げ道を塞ぐ角度で次々と貫いた。
 黒の呪いが膨らみ、形を保てなくなったように内側から裂ける。
 やがて霧散し、台所の床へ何かが落ちた。

 重いものが転がる音が、足元でばらける。
 リリンドラは眼鏡を戻しかけた手を止めた。

 床に散らばっていたのは指だった。
 切り離された五本が、黒の呪いの消えた場所にばらばらと残されている。

「これって……人の指じゃない!」

 リリンドラは思わず声を荒げた。

 床に転がったそれは、見間違えようがなかった。
 黒の呪いが消えた場所に残された、片手分の指。
 怪異の一部として現れていたものの正体が人の身体であったと知り、背筋に冷たいものが走る。

 気味が悪い、などという程度では済まない。
 この屋敷にいる敵は、人の身体を媒介にして動いている。
 しかも、ただ死体を操っているのではない。切り離された指を黒の呪いへ変え、獲物を削り取るためのものとして使っているのだ。

「お前が殺した……」

「お前が殺した……」

 残っていた黒の呪いたちが、低く呟き始めた。

 黒の呪いの奥に、赤い目のような光が浮かぶ。
 それらは一斉にリリンドラを見つめ、同じ言葉を濁った声で繰り返した。
 口があるようには見えない。
 それなのに、呟きだけが台所の空気へ染み出してくる。

「お前が殺した……」

「お前が殺した……」

 その言葉が重なった途端、リリンドラの身体に痺れが走った。

「ぐうっ……!」

 膝が崩れかける。
 魔眼殺しの眼鏡がなければ、その場で完全に縫い止められていたかもしれない。
 だが、黒の呪いの元が指である以上、完全に魔眼と同質のものでもないのだろう。

 動けはする。しかし腕も脚も、鉛を流し込まれたように重い。
 指先まで命令が届くのに、わずかな遅れが生じていた。

 黒の呪いが突撃してくる。
 リリンドラは歯を食いしばり、身体を横へ投げるようにしてかわした。
 白い袖が空気を裂き、床へ着地した足がわずかに滑る。
 直後、黒の呪いが背後の棚へ触れた。

 ばきり、と嫌な音が響く。
 棚の角が削られた。
 表面だけを撫でたような軽い傷ではない。そこにあった木材が、何かにまとめて引き剥がされたように欠け落ちている。
 黒の呪いが離れた後には、荒く抉られた痕だけが残った。

 リリンドラは息を整え、脚に力が戻っていることに気づく。

「動ける!」

 視線から外れたためだろうか。
 赤い目のような光に捉えられている間は痺れが走り、そこから逃れれば自由が戻る。
 確証はないが、今は立ち止まって検証している余裕などなかった。

 リリンドラは台所を飛び出し、廊下へ駆ける。

(たぶん、どこかに親玉みたいなのがいるはず……!)

 人の指を媒介にして黒の呪いがうようよしているなら、それらを生み出す源か、操っている中心が別にあるはずだ。
 末端をいくら潰しても、元を断たなければ増え続ける。
 そう判断したリリンドラは、超人的な直感を研ぎ澄ませた。

 廊下に出ると、嫌な気配が複数に分かれて押し寄せる。
 けれど、その中でもひときわ濃い淀みがある。
 奥へ誘うようであり、近づくなと拒むようでもある場所。リリンドラは迷わずそちらへ向かった。
 背後では黒の呪いが数を増やして追ってくる。

「しつこいわね!」

 またあの赤い光に見据えられれば、身体を麻痺させられる。
 そうなれば、次は避けきれないかもしれない。

 こうなったら、もう一度竜眼で迎え撃つしかない――リリンドラが眼鏡へ手を掛けた、その時だった。

 横合いから、赤黒い塊が飛び込んでくる。

 それは無数の牙を生やしていた。
 獣の口にも、肉の袋にも、悪趣味な武器にも見える異形が、追ってきた黒の呪いへ食らいつく。
 黒の呪いは抵抗する間もなく呑み込まれ、牙の奥で潰れるように消えた。

「なっ……!?」

 リリンドラは反射的に後ろへ跳ぶ。

 突然現れた塊は、黒の呪いを喰ったまま廊下の外へ退いていく。
 助けられた、などと安易に判断できる気配ではない。
 むしろ、黒の呪いとは別種の邪悪が、屋敷の外から流れ込んできていた。

 リリンドラはその塊を視線で追う。

 庭先に、男が立っていた。
 整ったスーツを身につけ、片目には眼帯。
 けれど、人間らしい装いは表面だけである。
 身体のあちこちから異形が這い出し、先ほどの赤黒い塊もその一部であるかのように蠢いていた。
 さらに周囲には、武装した集団が控えている。

 屋敷の怪異とは違う。
 それでも、まともな存在でないことは一目で分かった。

「あんたは……!」

 リリンドラは警戒を緩めないまま声を放つ。
 男は楽しげに目を細めた。

「おや、どうやら私たち以外にも√能力者がいるようだね。君もシセンノマが目当てかな?」

 異様さと邪悪を纏う男。
 リンドー・スミスが、そこにいた。

椎宮・紫水

 紫水は、もう見慣れた道をいつもの足取りで進んでいた。

 中心街の賑わいから少し離れ、住宅街の奥へ進むにつれて、周囲の空気は穏やかに静まっていく。
 整えられた街路樹の向こうに、淡い石造りの洋館が姿を見せた。青みを帯びた屋根は日光を浴び、縦長の窓がいくつも並ぶ外観には、古びていながら荒廃とは無縁の品がある。
 鉄柵で囲まれた広い敷地の内側には、花と緑の手入れが行き届いた庭園が広がっていた。
 正面の門は開かれており、左右に立つ門柱の上では、片翼を広げた鳥の像が向かい合うように来訪者を迎えている。
 二つで一対となるその意匠が、この館――比翼の館という名を静かに物語っていた。

 紫水にとって、この館はすでに馴染みのある場所である。
 門をくぐって石畳の小道を進んでいると、館の正面とは別の方角から声が届いた。

 紫水は足を止め、耳を澄ませる。
 声というよりは、鍛錬の最中に交わされる短い呼吸と気合だった。
 硬いものが空気を断つ音も混じっている。出どころは、どうやら館の裏手にある敷地らしい。

「あちらは訓練施設の方だったかな」

 芝居がかった独り言を残し、紫水は庭園の小道を外れて裏手へ回った。
 館の裏には、√能力者向けに整えられた訓練用の区画がある。
 紫水が覗いてみると、和装の少女と昆虫めいた男が、互いの動きを確かめるように向かい合っていた。

 少女は黒髪を二つに結い、白い着物に青い袴を合わせている。
 袖には淡い花が咲き、髪飾りと腰に提げた書物が、御伽めいた雰囲気を添えていた。
 柔らかな顔立ちに反して、構えはよく締まっており、相手の一挙一動を丁寧に読み取っている。

 一方の男は、茶を帯びた黒光りする甲殻に全身を包まれていた。
 背には大きな翅が畳まれ、腕も脚も人の形を残しながら異形の鋭さを備えている。
 巨躯が動けば重圧が生まれる。だが、その所作には荒々しさより、鍛え込まれた武人の理が感じられた。

「やあ、――嬢に――君。鍛錬とは精が出るねえ」

 紫水が声を掛けると、和装の少女はすぐに姿勢を正した。

「こんにちは、紫水さん。――さんの頁は、とても貴重な縁ですので」

 丁寧な挨拶の中に、どこか嬉しそうな響きがある。
 彼女にとって出会いも経験も、物語を綴る頁のようなものなのだろう。
 昆虫めいた男も鍛錬の構えを解き、紫水へ向き直る。

「我にとっても、汝との鍛錬は頁の厚みを増す良き機会だ」

 重々しい声には、礼節と実直さが宿っていた。
 異形の姿ではあっても、その佇まいは己を磨き続ける求道者そのものだった。

「二人は過去に模擬戦もしていたのだっけね」

 紫水は二人を見比べる。
 御伽使いの少女と、武人の男。立場も力の性質も大きく異なるが、どちらも己の在り方に対して真摯である。
 己を深めることに迷いがない者同士、通じ合うものもあるのだろう。
 訓練場に残る緊張は、馴れ合いではなく研鑽の気配を帯びていた。

「汝も共に励むか?」

 男が静かに誘いをかける。
 紫水は片手を軽く上げ、いつもの調子で肩を竦めた。

「いや、私はただ覗きにきただけでね。またの機会にさせてもらうよ。今日のところは、観客席から拍手を送るくらいにしておこう」

「ふふ。紫水さんらしいですね」

「次の機会には、汝の技も見せてもらおう」

「ああ、その時は精一杯、華やかに務めるとしよう」

 短く挨拶を交わし、紫水は訓練場を後にした。
 背後では再び、二人が構えを整える気配が生まれている。
 鍛錬の邪魔をするつもりはない。紫水は庭園の小道へ戻り、片翼の鳥の像が見守る敷地を抜けて、館の正面玄関へ向かった。

 重厚な扉の前で一度だけ足を止める。
 紫水は慣れた手つきで扉を開き、館の中へ入っていった。

 扉の向こうに広がっていたのは、吹き抜けの大広間だった。

 木組みの梁が高い天井へ向かって伸び、中央には丸い照明が柔らかな光を落としている。
 赤い絨毯の先には階上へ続く階段が見え、左右には客室や談話室へ繋がる扉が整然と並んでいた。
 古い洋館らしい重厚さがありながら、人の出入りを拒むような冷たさはない。

 その広間の中心では、女子たちによるお茶会が開かれていた。
 テーブルには菓子と茶器が並び、三人の少女が思い思いの姿勢で席についている。
 藍色のショートヘアを揺らす女子高生は、街へ出かける途中のような軽やかな装いで、明るい表情のまま話に耳を傾けていた。
 隣に座るのは、グレーの長髪をシスター服で包んだ少女である。背中には天使の羽が一対あり、厚底のぐるぐる眼鏡だけが、清楚な服装に対して妙に不釣り合いだった。

 その中で一番小柄なのは、青い髪に長い耳を持つエルフの少女だった。
 快活さがそのまま表情に出るような子で、椅子の上でも落ち着きなく身を乗り出している。
 紫水の姿を見つけた途端、ぱっと顔を明るくした。

「あっ、紫水さんだ!」

「おや、皆で優雅な時間の最中だったかな」

 紫水が片手を上げて応じると、女子高生もシスター服の少女もそれぞれ笑顔を向けてくる。
 大広間に流れていた和やかな空気が、彼の来訪を自然に受け入れた。

「今ね、魔法少女の子と一緒に戦った時の話をしてたんだよー!」

 エルフの少女が、待ってましたとばかりに声を弾ませる。
 紫水は興味を示すように眉を上げた。

「おやおや、それは興味深い話だね? 物語としても実戦記録としても、なかなか聞き応えがありそうだ」

「紫水様もご一緒にどうですか?」

 穏やかに問いかけたのは、彼女たちの傍らに立つメイドの女性だった。
 狐面で素顔を隠し、黒を基調とした和洋折衷のメイド服を纏っている。
 手には配膳のための盆を持ち、立ち居振る舞いには隙がない。茶器の位置、菓子皿の残り、少女たちの表情まで、すべてを静かに見守っているようだった。

「やあ館長殿。少々先にやるべきことがあってね。まずはそちらを済ませてくるよ」

 紫水は芝居がかった口調で軽く会釈した。

 配膳や片付けを担っているその女性こそが、この館の館長であり、運営者でもある。
 客人に茶を注ぎ、館内を整え、集う者たちの居場所を守る。そうした役割のすべてを、彼女は当然のように引き受けていた。

「ええ、ではお待ちしております」

 狐面のメイドは丁寧に頭を下げる。

 紫水は彼女へ手を振り、少女たちの賑やかな声を背にして大広間を抜けた。

 二階へ上がると、空気は少し静かになる。
 そこには客室が並んでいるが、ほとんどは使われていなかった。
 扉の札は整えられているものの、廊下には人の気配が少ない。
 紫水は足を止めず、さらに上の三階へ向かう。

 三階には、用途の定まっていない広い部屋がいくつもあった。

 会議室にも、訓練場にも、倉庫にもなり得る曖昧な空間。
 館の規模を考えれば珍しくないのかもしれないが、奥へ進むほど妙な静けさが強まっていく。
 紫水はそれを不審に思わないまま、廊下のさらに奥へ向かった。

 やがて、彼は部屋の一つに入る。

 そこもまた、何に使うのか定まらない広い空間だった。
 壁際には目立つ家具もなく、窓から差す光だけが床へ伸びている。
 紫水は迷いのない足取りで壁へ近づき、そこを探り始めた。

 なぜ自分がそうするのか、考えはしない。

 やがて壁の一部に、指先へわずかな違和感が返った。
 装飾の継ぎ目に隠された小さな鍵穴である。
 紫水は懐から鍵を取り出し、当然のように差し込んだ。

 金属が奥で噛み合う。
 ほとんど抵抗もなく、鍵は回った。

 がちゃり、と乾いた音がした直後、空気が変わる。

 ぞわりと総毛立つような悪寒が、紫水の背筋を駆け上がった。
 先ほどまで整っていた部屋の輪郭が滲み、壁も床も見る間に荒廃していく。
 木材は黒ずみ、空間全体が緋に染まり、館の温かな気配は跡形もなく掻き消えた。

(私は何をやっていた!?)

 紫水は息を呑む。
 館に入ってから、何の疑問もなくここまで歩いてきた。
 大広間で皆に会ったまではいい。
 その後、二階を抜け、三階の奥へ進み、鍵穴を探して鍵を回した。その流れが、あまりにも自然だったことが恐ろしい。

 そもそも、ここはどこだ。
 内装は比翼の館によく似ている。大広間も、階段も、各界の配置も、記憶にある館と矛盾しない。
 けれど、隠し扉のある部屋など聞いたことがなく、自分がその存在を知っているはずもない。

「|開い《やっ》ちゃったんだ……」

「――嬢?」

 背後から届いた声に、紫水は振り返る。

 そこには、先ほど大広間で茶会を楽しんでいたエルフの少女が立っていた。
 青い髪も、長い耳も、見慣れた顔立ちも同じはずなのに、今の彼女からは生気が抜け落ちている。
 表情は凍りつき、緑の瞳は濁りきっていた。

「知っちゃったんだ……」

「知るとは、なんのことだい?」

 紫水は慎重に問いかけるが、少女は答えにならない言葉を繰り返した。

「|開い《やっ》ちゃったんだ……知っちゃったんだ……」

 いつもの明るさは、完全に消えていた。
 そこにいるのは、先ほどまで楽しげに魔法少女の話をしていた少女ではない。
 活力を失った表情で、ただ同じ言葉をなぞる何かだった。

「|開い《やっ》ちゃったんだ……知っちゃったんだ……」

 エルフの少女は、感情の抜け落ちた声で同じ言葉を重ねていた。

 それは会話ではない。
 誰かへ伝えようとしているのではなく、壊れた仕掛けが決められた文句だけを吐き出しているようだった。
 紫水は一歩距離を詰めようとして、足元から這い上がる悪寒に眉を寄せる。

「シセンノマ……」

 少女の唇が、その名を形作った。

「どういうこと……――嬢!」

 紫水が呼び止めるより早く、少女は身を翻して走り去っていく。
 緋に染まった廊下の奥へ、青い髪がふっと揺れ、次の呼吸には角を曲がって見えなくなっていた。

(そうだ。私は呪われた屋敷に入った。シセンノマという怪異を止めるために)

 記憶が、遅れて胸の内へ戻ってくる。

 比翼の館へ来たはずなどない。
 仲間たちとお茶会をしていたわけでも、館の奥で隠し扉を探していたわけでもない。
 ここは、あの地主屋敷の中だ。
 シセンノマに関わる情報を掴み、その核心へ近づいたところで、怪異の干渉を受けたのだろう。
 けれど、その規模は大きく違う。√能力かそれに類するものだろう。

 ならば、この館も、少女たちも幻覚なのか。

 そう判断しても、走り去った彼女を放っておく気にはなれなかった。
 たとえ偽物でも、知った顔が異常の中で壊されていく光景を、ただ見送れるほど紫水は割り切れない。

 急いで、紫水は少女の後を追って走り出した。
 廊下を駆けながら、頭の片隅ではシセンノマという名を追い続ける。

 シセンノマ――それが何を指す言葉なのか、まだ確定できない。
 そもそも、どこで区切るべきかも曖昧だった。
 シ、センノ、マなのか。シセン、ノ、マなのか。視線の間。死線の間。あるいは、もっと別の字を当てるべきなのか。

 考えはまとまりきらないまま、階段へ辿り着く。

 紫水は二階へ下り、そのまま一階へ向かった。足音が荒れた館内に響く。
 けれど、先を行ったはずのエルフの少女の姿はどこにもない。廊下にも、大広間にも、階段の陰にも見当たらなかった。

 代わりに、床へ座り込む和装の少女を見つける。

 訓練施設にいたはずの少女だった。
 いつの間にここへ戻ってきたのか。
 白い着物と青い袴は乱れ、膝の上には彼女の大切な書物が置かれている。
 俯いた顔は髪に隠れ、かすかな声だけが床の近くで震えていた。

「……くれない」

「――嬢、どうしたんだ、何が起きている!?」

 紫水は慎重に近づき、彼女を覗き込むように声を掛けた。

 ただならぬ気配がある。
 けれど、これが怪異の罠だとすれば、今にも崩れそうな少女へ不用意に触れることもできない。
 紫水の問いに、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「頁が……めくれないんです……」

 彼女は書物へ手を押し付け、どうにか頁をめくろうとしていた。

 だが、その動きはひどくぎこちない。
 手に力が入らないのではない。あるべきものが、そこにない。
 両手の指は途中から切断され、書物の端を掴むことすらできなくなっていた。

 頁は血でどす黒く染まり、紙同士が重く貼りついている。

「……なっ! 何があったんだい!? ――君はどうした!?」

 紫水の声に、いつもの芝居がかった余裕はなかった。

 返事はない。

 代わりに視線を上げた先で、昆虫めいた男の姿が目に入った。

 彼は壁へ昆虫標本のように磔にされていた。
 その胸には、彼自身が扱う王劍が深々と突き立てられている。
 湾曲した刃と異形の爪めいた意匠を持つそれは、本来なら彼の武威を象徴する得物だ。
 だが今は、持ち主を壁へ縫い止めるための杭のように扱われていた。

 そして、彼の手にも指がなかった。

 凄惨な光景が、紫水の思考を圧迫する。

 知っている者が傷つけられている。
 比翼の館によく似た場所で、何の脈絡もなく、最悪の形で晒されている。
 焦りと困惑が胸の奥で絡み合い、呼吸の間隔を乱していった。

(いや、落ち着け。これはシセンノマの呪いが見せている幻覚だ。本物じゃない)

 紫水は自分へ言い聞かせる。

 ここに留まっても、精神を追い詰められるだけだ。
 和装の少女を助ける方法も、磔にされた男を救う手段も、この幻覚の中には用意されていない。
 怪異は恐怖と罪悪感を餌にして、こちらの足を止めようとしているのならば、脱出の糸口を探すしかない。

 どうすればこの幻覚から抜け出せるのか。
 何が鍵になっているのか。
 紫水は惨状から目を逸らしきれないまま、それでも足を前へ進めていった。

 大広間へ戻ると、先ほどお茶会をしていた二人がテーブルについていた。

 藍色のショートヘアの女子高生と、シスター服の少女である。
 紫水が広間へ足を踏み入れた途端、二人は同時にこちらへ顔を向けた。
 動作の速度も角度もほとんど同じで、生きた人間が自然に振り返ったというより、同じ糸で操られた人形が反応したようだった。

「ねえ、これじゃあもうアイドル、できないです……」

 女子高生が弱々しく訴える。

 紫水は言葉を返せなかった。

 二人の手にも、指がない。
 テーブルの上に置かれた白いカップには、赤い紅茶の代わりに血が満ちていた。
 その液面には切り落とされた指が浮かび、茶菓子の皿の隣で、あまりにも場違いな存在感を放っている。

「どうして、鍵を開けてしまったのですか……」

 シスター服の少女が、静かな声で問いかけた。

 厚底のぐるぐる眼鏡は割れ、ひびの奥から青い瞳が覗いている。
 そこに人間味はない。
 かつて笑っていたはずの顔は、血の通わない仮面のように薄く、唇だけが責めるための言葉を形作っていた。

「これは幻覚だ……皆、本物じゃない……」

 紫水は自分に言い聞かせるように呟いた。

 分かっている。これはシセンノマの呪いが見せる幻だ。
 比翼の館に似せた舞台も、仲間たちの姿も、紫水の心を削るために用意されたものに過ぎない。
 そう理解していても、知った顔が無惨に作り替えられている光景は、理屈をすり抜けて胸を締めつけてくる。

 こつん、こつん。と、背後から足音が近づいてきた。

 紫水が振り返ると、狐面のメイドが広間の入口に立っていた。
 前で組まれた両手には指がなく、純白であるはずのエプロンは赤く染まっている。
 狐面の下から表情は読めない。
 けれど、その佇まいには客を迎える時の丁寧さだけが残り、かえって異様さを際立たせていた。

「ひとには、侵してはならぬ領域があります。紫水様はそれを侵してきました。何度も……」

「……………………」

 返す言葉が見つからない。

 その言葉に、紫水の脳裏へ過去の光景が浮かんだ。
 実家にいた頃、自分が葬ってきた土地神たちの姿である。
 家の勢力を広げるため、椎宮の名の下に滅ぼしてきた神々。
 真実を知らなかったとはいえ、自分の手が奪った事実は変えようがない。

「踏み入って、奪っておいて、知らなかったからで済まされると思うのですか?」

 狐面のメイドは穏やかな調子を崩さない。
 だからこそ、その問いは紫水の奥へ深く差し込まれた。

 知らなかった。騙されていた。家の命に従っただけだった。
 どれだけ言葉を並べても、奪われた側にとっては何の救いにもならない。
 だから自分は実家を捨て、外へ出た。
 真に助ける者になるために、過去と決別したはずだった。

「でも安心してください。これから貴方の大切な人たちが、貴方を守ります」

「こんなものを見せて、何が守るだ!」

 紫水の声が荒れる。

 狐面のメイドは、指のない手を胸の前で合わせたまま、祈るように首を傾げた。

「|シセンノマ《私たち》はそういう存在です。奪われることで人を護る。誰にも奪わせないために……」

 酷い矛盾だった。
 奪われた者を守りと称し、その痛みを力に変える。
 もう奪わせないために、まず奪う。

 祈りにも似た言葉の内側で、どうしようもなく歪んだ理屈が輪を成している。
 そして、その矛盾こそが、この呪いの核なのだろう。

「私たちは、紫水様が求めたしあわせの残骸です」

 メイドが、指のない手を上向きにして差し出す。

 紫水は反射的に身構えた。
 だが、次に異変が起きたのは彼の足元ではなく、広間のテーブルの上だった。

 手の先には、いつの間にか、そこに小さな器具が置かれている。

「儀式の…………」

 紫水は声を詰まらせた。

 あれは蔵にあった儀式用の道具だ。
 今ならば、はっきりと分かる。分かりたくもないものが、分かってしまう。

 それは小型のギロチンだった。
 人の首を落とすにはあまりにも小さく、だがその刃は妙に湿った光を帯びている。
 台座には乾ききらない黒ずんだ染みが幾重にも重なり、まるで何度も同じ行為が繰り返されてきたことを物語っていた。
 刃の幅も高さも、最初から決められていたかのように、ただ一つの用途にだけ適合している。
 そこに置かれるべきものを、紫水は理解してしまう。

 断ち切られるのは首ではない――指だ。

 台座の傍らには、既に切り離された指が転がっていた。
 大きさも形も、成人のものではない。
 まだ幼い少女の指だと、紫水は見た刹那に理解してしまった。

「ふざけんな!」

 それが誰のものか理解した刹那、紫水の喉から怒声が迸った。

 恐怖より先に、怒りが来た。
 目の前にある小さなギロチンも、そこに転がる幼い少女の指も、怪異が見せる幻覚なのだろう。
 それでも、これを材料にして紫水の心を抉ろうとする悪意だけは本物だった。

「じゃあ、どうして|開い《やっ》ちゃったの?」

 背後から、新たな声がかかる。

 見たくない。
 そう思いながらも、紫水は振り向いた。

 そこには、エルフの少女が立っていた。
 青い髪も、長い耳も、先ほどの快活さを失った顔も変わらない。
 ただ、その両手からは指が失われている。
 彼女は虚ろな目で紫水を見上げ、責めるでも笑うでもなく同じ問いを突きつけていた。

「|開い《やっ》ちゃったの? どうして知っちゃったの? シセンノマを……ねえ?」

「少なくとも、土地神たちとお前は違う。放っておくと人々に害をなす怪異だ」

 紫水は、吐き捨てるように言った。

 すでに恨みつらみを制御できなくなり、中を開こうとするだけで、誰彼構わず憎悪をぶつける|怪異《悪意》。
 目の前の幻も同じだ。
 仲間の姿を奪い、傷つけ、罪を囁き、守護を騙る。

「お前たちも不幸な存在なんだろうさ。けどな、俺にも忍耐の限界がある」

 大切なものを傷つけられた。
 思い出を踏み荒らされた。
 心を弄ばれた。

 動機がどうあれ、それを許せるはずがなかった。
 紫水にとって比翼の館は、過去の罪を忘れるための場所でなければ、逃げ込むための幻でもない。

「非常に不愉快だ。一気に仕留めさせてもらう」

 紫水はアヤメを呼び、さらに銘無き白木柄の退魔刀を重ねるように構えた。

 二つの力が噛み合い、刃の気配が変質する。
 清浄な白木の質感と、紫水晶の澄んだ霊気が溶け合い、新たな宝魔刀が彼の手に顕現した。
 刀身には淡い紫の輝きが宿り、緋に染まった幻の館をまっすぐ切り裂く気配を帯びている。

 エルフの少女の手元から、黒い靄が広がった。

 指の代わりに伸びたようなその靄が、細身の銀剣と精霊魔力銃を掴む。
 どちらも彼女の幻が作り出した武装なのだろう。
 姿も得物も知る者の形をなぞっているが、そこにある気配はひどく濁っていた。

 紫水が踏み込む。

 エルフの少女は精霊魔力銃を連射した。
 光弾が廊下のように伸びた大広間を貫き、紫水の胸元へ殺到する。
 彼は宝魔刀を斜めに振るい、迫る弾を受け流しながら間合いを詰めた。

 刃と光弾が触れるたび、紫の火花が散る。

 紫水は速度を緩めない。
 最後の一発を刀身で弾き、少女の懐へ入ったところで横薙ぎに払う。
 エルフの少女は風に乗るような軽やかさで跳び上がり、銀剣を構え直した。

 だが、その身が空中で揺らぐ。

 不可視の力に引き寄せられたように体勢が崩れ、風の加護を借りたはずの動きが乱れた。
 紫水はそのわずかな隙を逃さない。
 宝魔刀の紫光が弧を描き、少女の幻を胴から両断した。

 黒い靄が裂け、エルフの少女の姿は声もなく消える。

「逃げられると思うなよ?」

 紫水は振り返らずに告げた。

 狐面のメイドが動く。
 女子高生も、シスター服の少女も、テーブルの向こうで構えを取ろうとしていた。
 だが、それより早く宝魔刀の力が場を引き寄せる。
 距離の意味が薄れ、立ち位置の差が縮み、幻たちは紫水の刃の圏内へ引きずり込まれていった。

 狐面のメイドが銃を得た腕を、紫光が裂く。

 女子高生紡ごうとした歌は、意味を結ぶ前に断たれた。

 シスター服の少女は祈るように手を合わせたが、呼び寄せた悪霊ごと宝魔刀の一閃に呑まれる。
 どの者にも、本物にあった強さの芯がない。

「形だけ真似ても、中身は本物に遠く及ばないね」

 紫水は静かに言い切った。

 この場にいる者たちをすべて斬り伏せるまで、長い時間は必要なかった。
 本来、比翼の館にいる者たちを複数相手取れば、こんな一方的な展開になるはずがない。

 彼ら彼女らはもっと強く、もっと厄介で、何よりこんな言葉で人の心を踏み躙るような存在ではなかった。

「あとさ、|そういう事《・・・・・》言わないんだ、あの人達は。しあわせの残骸なんて縁起でもないね」

 紫水は、幻の消えた大広間を見渡す。
 かの場所は、紫水にとってこれからも歩む場所であり、帰る場所だ。
 そこにいる者たちは、誰かを残骸などとは呼ばない。
 たとえ傷を抱えようとも、前へ進むための縁を結ぶ者たちである。

 本物のあの場所を思い出し、紫水はわずかに目を細めた。

「むしろ、俺の方がいつも心配をかけてばかりさ。特にあの子には――」

 言葉が途切れる。
 周囲の風景が、音もなく崩れていった。

 大広間の梁も、赤い絨毯も、茶器の置かれたテーブルも消えていく。
 代わりに戻ってきたのは、地主屋敷の和室だった。
 畳は暗く沈み、空気には古い木と湿った呪いの匂いが混じっている。

 そして、周囲には無数の指が散乱していた。

 紫水はその光景を見つめ、ゆっくりと息を吐く。
 自分を整え、いつもの在り方に戻すように。

「ふむ、屍の占める、屍占の間。指先の魔、視線の間……どれもシセンノマか。そして、屍仙ノ魔ってところかい?」

 魂に、情念に、カタチは無い。
 それでも、其処に在るものは確かにある。

 視線として現れ、指として蠢き、死者の恨みを仙のごとく縛り続ける。
 あるいは、幾つもの意味が重なって、シセンノマという名へ集まっているのかもしれない。

 紫水は宝魔刀を下ろさず、散らばる指の向こうを見据えた。

「まぁ、ただの戯言さ」

 軽く肩をすくめるようにして呟きながらも、その視線は揺らがない。
 和室に満ちる気配はまだ完全には消えておらず、どこかで息を潜めているようだった。

 紫水は一歩、畳の上へ踏み出す。
 次に来るものを迎え撃つために。

エレノール・ムーンレイカー

 闇が晴れた先で、エレノールの視界に映ったのは、先ほどクラウスと共に調査していた長い廊下だった。

 壁も床も、記憶の中にあるものと同じように続いている。
 だが、漂う空気は明らかに違っていた。人が歩くための廊下というより、過去に置き去りにされたものだけが、音もなく並んでいる場所のように思える。
 黒い靄に呑まれる直前まで仲間たちと同じ和室にいたはずなのに、今はクラウスの姿も、紫水たちの声も届かない。

「どうしてまたここに……?」

「私どもがお呼びしたからでございます」

 返ってきた声は、廊下の奥からだった。

 エレノールは反射的に身構えかける。
 だが、そこに並ぶ二つの人影を見た途端、その警戒がわずかに緩んだ。

 スーツ姿の男と、古い時代の着物を纏った女。

 先ほどエレノールとクラウスが、インビジブルへ人の形を与えた時に現れた者たちだった。
 けれどすぐに、姿も声も理解できなくなり、最後には何を伝えようとしているのかさえ分からなくなってしまった。

「あなた方は、先ほどお会いした方々……でしょうか」

 エレノールは慎重に言葉を選ぶ。

 敵意は感じない。少なくとも、今すぐ襲いかかってくる様子はなかった。
 だが、彼らがシセンノマと関わっていることもまた確かである。安易に近づくには、あの時の認識崩壊があまりにも危険だった。

「俺たちとシセンノマは、少しだけ繋がっているんだよ」

 スーツ姿の男が、掠れた声で告げる。

 隣に立つ着物の女は、両手を袖の前で重ねるようにして静かに続けた。

「私どもの一部が、呪いと化しておりますから……」

 その仕草に、エレノールの視線が引き寄せられた。

 二人の手には、指がなかった。

 手首も、掌もそのままだ。けれど、その先へ自然に続くはずの五本が失われている。
 そこにある痛みがはっきりと伝わってくるようで、その欠落は目を背けたくなるほど強い存在感を放っていた。

 そこで、エレノールは思い出した。

 自分とクラウスが二人をまともに認識できなくなったのは、彼らが腕を伸ばした時だった。
 隠し部屋を示すように壁へ向けて腕を上げた、その動作を見た瞬間から、形の理解が崩れ始めたのである。

 おそらく、最初から指は無かったのだろう。

 無意識のうちに認識できていなかった欠落が、腕を伸ばすという動きによって強調された。
 だから目はそこを捉えたのに、脳が意味を結べず、視覚そのものが異常を起こした。

「ここにおります|インビジブル《私ども》の多くは、シセンノマによって引き寄せられ、この場に留め置かれているのです」

 着物の女は静かに言った。

 その声音には、長い年月に磨耗した諦めが滲んでいる。
 怒りを燃やし続けるには疲れ果て、悲しむにはあまりにも時間が経ちすぎた者の声だった。

 エレノールは、彼女が古い時代の人物らしい姿を保っていた理由を理解する。
 本来なら、インビジブルとなった魂は時と共に劣化していく。
 まして遠い時代の者であれば、形も記憶もとっくに薄れ、かき消えているはずだった。

 それでも彼女は、おぼろになることもなく残っている。

「もうわかってるだろう。俺たちは指を切り落とされ、シセンノマの供物にされたんだよ」

 男は自分の手を見下ろす。

 声には荒さがない。
 だが、荒れていないからこそ、言葉の奥に横たわる絶望がより深く感じられた。
 怒鳴り散らすことも、泣き叫ぶことも、とうに通り越してしまったのだろう。

「そんな残酷なことが……本当に、起きていたのですね……」

 エレノールは目を伏せた。

 手記を読んだシアニの報告から、儀式が穏やかなものではないことは分かっていた。
 だが、紙に記された記録と、目の前で指を失った当人たちの姿はまるで違う。
 文字として知った悲劇が、ここでは人の形をして立っている。

 痛ましさに胸が締めつけられる。

 しかし、それを見た男は乾いた笑みを浮かべた。

「あんたが思っているどころじゃあないさ」

「それは……どういう意味なのですか……?」

「私どもも、指を落とされる前に酷い拷問を受けているのです」

「そんな……!」

 エレノールは息を呑んだ。

 指を奪われている時点で、きっと生かされることはなかったのだろう。そう思っていた。
 供物として殺されて、儀式のために身体の一部を奪われる。
 それだけでも十分に残酷で、想像したくないほどの悪意である。

 けれど、彼らの口にした事実はそれだけではなかった。

 殺す前に苦しめる。
 指を奪う前に恐怖を植えつける。

 それは儀式の副産物ではなく、むしろ必要な工程として組み込まれていた。

「シセンノマの呪いの源泉は、理不尽な恐怖や痛みに対する憎悪でございますから」

 着物の女は、自分自身を語るように目を伏せた。

 エレノールは、先ほどから廊下に満ちている気配の正体を少しずつ理解していく。
 ここにあるのは、単なる死者の怨念ではない。人為的に作られた怒りだ。
 救いの余地を奪われ、痛みを重ねられ、最後に憎むことしか残されなかった者たちの感情である。

 男は、欠けた手を軽く持ち上げる。

「知ってるか? 拷問ってのはな、どんな屈強なやつでも、泣き喚いてやめてくれと懇願するんだよ。終わらない激痛の前では、普段の気の強さなんて関係ねえのさ」

「うっ……!」

 エレノールは思わず顔を強張らせた。

 男の姿が変わっていく。

 スーツが消え、晒された身体に無数の痕が現れた。
 切り傷、焼けただれた痕、殴打の跡、拘束具が食い込んだような変色。
 どれも過去のもののはずなのに、廊下の冷気の中であまりにも生々しい。
 幻として作られた誇張ではなく、彼が抱え続けてきた記憶そのものが一時的に形を取ったのだと分かってしまう。

「それでも、ずっと終わらなかったらどうなると思う?」

 男は淡々と尋ねた。

「どう、なるのですか……?」

 エレノールの辿ってきた人生も、決して穏やかなものではなかった。
 痛みも、恐怖も、絶望も知らないわけではない。
 けれど、ここまで煮詰められた人間の悪意を前にすると、言葉がうまく出てこない。

 誰かを助けるためではない。
 誰かを正すためでもない。
 ただ呪いを強くするために、人を壊す。

 その発想の冷たさが、彼女にはどうしても理解できなかった。

「もう殺してくださいって懇願しだすんだよ。どう見ても死ぬって状況でも、無理やり生かされて、自分が殺されていくのを見続けるんだよ」

 男の言葉は、廊下に重く響いた。

 死にたいと願うほど苦しめられ、それでも死なせてもらえない。
 肉体も心も限界を超え、命が終わることだけを救いだと思うようになる。
 だが、その救いすら儀式の都合で先延ばしにされた。

 エレノールの胸に、怒りと吐き気が同時に込み上げる。

「指を落とすのは最後の工程……私どもは神への供物です。しかし、その実態は、さらなる神の怒りと恨みを焚べるための道具に過ぎません」

 着物の女もまた、同じ苦しみを味わったのだろう。

 穏やかな声音の奥に、かつて叫び尽くした痛みが隠れている。
 彼女の着物は整っているが、その姿が本当の最期を示しているとは限らない。
 むしろ、そう見せなければ語ることすらできないほど、凄惨な記憶なのかもしれなかった。

「そんな地獄がな。シセンノマには満ちてるんだよ。今、お前らが見ているのは、そこから漏れ出してるほんの一部だ」

 男の身体は、元のスーツ姿へ戻った。

 拷問の痕を示すために見せた姿が消えても、エレノールの胸に残ったものは消えない。
 むしろスーツ姿に戻ったことで、彼が普通に生きていた人間だった事実が際立ってしまう。
 会社へ行き、誰かと話し、家に帰る日常があったかもしれない人間が、屋敷の儀式によって供物へ変えられたのだ。

「あなた方へ襲い掛かった呪いは、供物という概念を式神化したようなものです」

 着物の女が説明を続ける。

「あれ自体は、シセンノマの本体ではございません。しかしながら、その根に繋がるものではあります」

 たとえ本体でなくとも、認識を崩し、異空間めいた幻想へ人を引き込むというのか。ならば本体は、一体どれだけの力と危険性を有しているのか。

「では、ここに入ってからずっと感じていた視線も、それだったのですか?」

「シセンノマに組まれた呪術は、呪う対象をその家の者から逸らすのさ。害をもたらすあらゆるモノへとな」

 男が肩をすくめるようにして応じた。
 それが一族から害を取り除き、繁栄させるためのシステムだったのだろう。対象が人に限らないのならば、それはまさに座敷童をより広範囲かつ強力にしたものと呼べるかもしれない。

「その術式によって、害なきものは呪いを感じ取れなくなってしまいます。たとえ見えたり聞こえたりしても、理解することができなくなるのです」

「さっきの俺たちは、あんたらにそのことを話して、さっさとここを離れるよう伝えたかったんだがな」

 エレノールは、廊下で二人の声が理解できなくなった時のことを思い返した。

 音は聞こえていた。それなのに、意味だけが剥がれ落ち、理解しようとすればするほど頭の中が乱れていった。
 あれはシセンノマの術式が、彼らの言葉から核心へ繋がる情報を奪ったのだ。

 阻害されたものは、儀式の根幹を為す供物である指。
 そして、シセンノマについて伝えようとする言葉そのもの。

「シセンノマは大変強力な呪いのため、供物を捧げる際、術式を更新して組み直します。しかしそれが為されなくなったため、呪いが暴走しつつあり、対象を問わず視線のような気配を感じるようになったのです」

 着物の女の説明に、エレノールは静かに頷いた。

「なるほど、事情は理解できました」

「といっても、もう遅いがな。あんたらは開けちまったんだ」

 男の声には、諦観が混じっていた。

 供物を捧げられた呪いの根幹がある部屋。
 その鍵を開けたことで、最後の封印は解かれてしまった。
 しかも、儀式の更新が途絶え、術式が崩れかけている状態である。
 抑え込まれていたものが、もっとも不安定な形で外へ出ようとしているのだ。

「呪いの本体が、もうすぐ外に出ちまう。全部終わりだよ」

 選ばれた者を殺し、守り神に仕立て、さらに選ばれた者を供物として捧げる儀式の間。

 他者を視て、敵対者には自らへ繋がる情報の認識を阻害し、存在を視られないようにする怪異の力。

 シセンノマとは、空間の名であると同時に、怪異そのものを指す名でもあるのかもしれない。
 エレノールならば、『死饌ノ間』や『視饌ノ魔』とでも名付けただろう。
 死を供え、視ることを妨げ、饌として人の一部を求めるもの。
 言葉を当てはめるほど、その響きは幾重にも意味を変えていく。

「誰を恨んで呪っているのか。なぜ憎くてたまらないのか。|姉さん《・・・》には、もうそれすら分からないでしょう」

 着物の女が、初めて個人的な響きを含んだ言葉を口にした。その『姉さん』という呼び方に、エレノールは目を見開く。
 シセンノマの根幹となった女は、彼女にとって血縁者だったのだろう。そのために、彼女自身もまた供物として捧げられたのか。

「俺の場合は嫁だったがな。助けようとして、逆にこのザマだ」

 男は自嘲するように笑った。

 彼らは、シセンノマの供物になった呪いの一部である。
 同時に、そこへ縫い留められ、成仏もできない人間だった頃の意思でもあった。
 呪いの元が強い情念である以上、人の意思を完全に消してしまえば、力そのものが弱まるのかもしれない。
 だから彼らは残されている。憎しみの燃料として、記憶ごと呪いへ繋ぎ止められたまま。

 その時、周囲の光が急激に失われていき、空間は暗い陰りに包まれた。

「っち、来ちまったか」

 男が舌打ちする。

 廊下の壁が黒く沈み、床に薄い靄が広がっていく。
 先ほど和室に現れた黒い呪いが、エレノールの周囲を囲んでいた。
 一体ではない。二体、三体と増え、廊下の奥と背後を塞ぐように浮かび上がっていく。

「申し訳ございません。私どもにはお伝えすること以外、どうすることもできないのです」

 着物の女は、強張った表情のままエレノールを見つめた。

 もし彼女たちにエレノールをここから解放する力があるなら、きっとそうしてくれていただろう。
 けれどそれができないから、一時的に呪いの作った空間へ介入し、伝えるべき情報を急いで託したのだ。

 黒い呪いが微かに揺れる。

 ぼそり、ぼそりと声が重なっていく。
 目のような部分から赤く不気味な光が放たれ、廊下の空気に痺れるような圧が満ち始めた。

「お前が殺した……」

「憎い……憎い……」

「殺したお前が、憎い……」

 エレノールの身体が重くなる。

 腕の動きが鈍り、足元の感覚が遠ざかりかけた。
 視線と化した呪いによる効果の一つなのだろう。
 赤い光に見据えられているだけで、罪を押しつけられ、敵意の対象として固定されていく。

「確認させてください。あの呪いは、あなた方でもあるのですね?」

「はい……ですが、恨みを鎮めることはできません」

「憎くてたまらない気持ちを消すなんてできないからな」

 あれほど残酷な仕打ちを受けて、それを消せというのは無理な話だろう。
 まして、数えきれない者たちの恐怖と痛みが集まったものなら、彼らだけでどうにかできるわけもない。

「いいえ、それならば大丈夫です」

 黒い呪いが襲いかかる。

 床を滑るように迫った靄が、エレノールの胴を狙って伸びた。
 彼女はその気配を直感で読み、半歩だけ身を逸らす。
 黒い塊は彼女のすぐ脇を過ぎ、背後の壁へ激突した。
 壁材が削り取られるように抉られ、破片が廊下へ散る。

 それでも、エレノール自身には傷一つない。

「なんで呪いを浴びて動けるんだ!?」

 男が驚きの声を上げた。着物の女もまた、言葉を失って目を見開いている。

 この空間が異界のように見えていても、実際のエレノールは和室にいる。
 ならば、ここは彼女があらかじめ発動していた|世界樹の神話《ユグドラシル・ミソロジー》の範囲内だ。
 それにより、呪いという霊的な干渉による被害は、大部分を軽減できている。

「神聖なる竜よ、聖なる光をもって我らの道を示さん……!」

 |神聖竜詠唱《ドラグナーズ・アリア》――詠唱に応じ、彼女を守護するように白い竜が顕現する。
 廊下の狭さを超えるように翼が広がり、清らかな光が黒い靄を押し返した。

 エレノールは祈るように告げた。

「幾百の怨みよ、幾千の嘆きよ。願わくは、その眼差しが恨みではなく、安らぎへ変わらんことを願う」

 白い竜が、その願いを聞き届ける。

 廊下へ輝きが広がった。
 黒い呪いは光を浴び、少しずつ薄れていく。
 焼き払うための光ではない。押し潰す力でもない。
 荒れ狂う情念を穏やかに鎮め、静寂へと導くための輝きだった。

 竜が叶えるのは、誰も傷付けない願い。

 呪いの供物となっている者たちは、拷問を行った相手への憎しみを抱いている。
 怒りを否定することも、痛みをなかったことにもできない。
 けれど、その憎悪を誰彼構わず向けることを望んでいたわけではない。

 ならば、恨みを鎮めることは彼ら自身の願いでもある。

 黒い呪いは、やがて形を保てなくなった。輪郭がほどけ、靄となり、白い光の中へ静かに溶けていく。
 呻きも、叫びもない。
 ただ黒い淀みが爽やかな風に攫われていき、さわやかな空気がこの場を清める。

 後に残されたのは、床へ落ちたいくつもの指だけだった。

「呪いが……祓われたのですか……?」

 着物の女が、信じられないものを見る声で呟いた。
 エレノールは静かに頷きを一つ返す。

「もう少しだけ待っていてください。私と仲間たちで、必ずシセンノマを鎮めてみせます」

 この人たちが、理不尽な苦しみと恨みから解放され、静かに眠れるように。
 供物として利用され、呪いへ組み込まれたまま終わるのではなく、人としての安らぎを取り戻せるように。

 そのためにも、怪異の根にあるものを止めなければならない。

「あんたなら……やってくれそうな気がしてきたよ」

「よろしくお願いいたします……」

 二人の言葉を最後に、空間は完全な闇へ戻った。

 そして闇はほどけるように薄れ、視界が戻った先には元の和室が広がっていた。
 畳の感触が足裏に返り、黒い靄の気配がまだ周囲に残っている。
 けれど、そこに立つエレノールは、呪いに怯える臆病者ではなかった。

 彼らの願いを受け取り、覚悟を決めた、罪なき者たちの守護者である。

白銀・雅

「ずいぶん懐かしい夢を見せるのですね」

 私は、そう口にしてから周囲を見回しました。

 つい先ほどまでいた屋敷の和室の気配は、もうどこにもありません。
 あの場に満ちていた重苦しい空気や黒い靄の残滓も消え失せ、代わりに広がっているのは見慣れた自宅の空間でした。

 そこは確かに私の家でした。
 ただし、今の住まいではありません。
 造りそのものが違います。柱は太く、壁の色も古びており、床板の質感も現代のものとは比べものにならないほど粗い。窓の形も位置も異なり、差し込む光の色さえ別物でした。
 見慣れているはずの自宅という感覚はあるのに、ひと目で別の場所だと分かる。
 これは今の私が暮らしている家ではなく、もっと昔、私が身を置いていた家です。

 ずっと遠い、記憶の彼方。
 そこには、かつて私がこの手で産み落とした幼い赤ん坊がいました。

 私は膝をつき、眠たげにこちらを見ている小さな頬へ手を伸ばします。
 触れる前に少しだけ迷いましたが、夢だと分かっていても乱暴には扱えません。
 そっと撫でると、赤ん坊はくすぐったそうに顔を動かしました。

 柔らかい頬です。
 昔の感覚が手に甦ってきます。

 赤ん坊の手が、私の指をきゅっと掴みました。
 とても小さいのに、思ったよりも強い力です。
 そこには、小さいながらも立派な一つの命がありました。夢だとしても、そう思うのでした。

 この子を身籠ったのは、今から二百年以上は昔のことです。

 当時の私は、ふと思ったのです。
 妖狐は、人間との子を成せるのだろうか、と。

 それは崇高な使命感でも、運命的な恋でもありませんでした。
 ただの興味本位です。
 人と近い形を持ち、人の言葉を話し、人の暮らしへ紛れ込むことができる。そんな私たちならば、子を宿すことまで可能なのか。
 そんな疑問が、ある日ふっと頭に浮かんだだけでした。

 今のように、何でもネットで検索すれば答えらしきものが出てくる時代なら、もっと手軽に調べたのかもしれません。
 しかし当時は、そうはいきませんでした。
 書物を探しても、妖狐と人の間に子が生まれるかどうかなど、都合よく記された資料は見つかりません。
 まして希少例となれば、噂と伝承の境も曖昧です。私の身の回りにも、人間の子を宿した同類はいませんでした。

 ならば、自分で試してみようと思ったのです。
 そうして私は女郎として働き、男と肌を重ねました。
 そこに深い愛情があったわけではありません。
 相手を騙したというほど単純でもありませんが、私がしていたことの本質は、自分の身体を使った交配実験でした。

 今の感覚で振り返れば、随分と乱暴で、他者にも自分にも不誠実な話でしょう。
 けれど当時の私は、それをそこまで重く受け止めてはいませんでした。

 人と妖の命の感覚は、今よりも隔たっていました。
 人は短く、妖は長い。人の一生に深く関わることを、妖が一時の気紛れとして扱ってしまうことも珍しくありません。
 もちろん、それで許されるわけではないと理解しています。けれど、あの頃の私には、現代の人間たちが抱く倫理の重みを今ほど実感できていなかったのです。

 実験の結果は、成功でした。
 私は人間との子を腹に宿し、やがて産むことになります。

 子を宿したと悟った時の感情は、意外なほど淡いものでした。
 ああ、できるのですね。案外、こんなものなのですね。
 最初に浮かんだのは、その程度の感想だったように思います。

 やがて腹がふくらみ始め、自分の内側にもう一つの生命がいることを日々の身体で感じるようになりました。
 それでも、まだ深い感慨はありませんでした。
 早く会いたいというよりは、本当に自分が子供を産むのですねと、不思議なものを眺めるような気持ちだったのでしょう。

 なにせ、興味本位ではじめたことなのです。
 結果が分かったから満足して下ろす、というほど無責任ではありませんでした。
 けれど最初から母になる覚悟を抱いていたわけでもない。現代ならば、人によっては激怒して当然の話だと思います。

 そんな私が、十月十日を経て、子供を産み落としました。
 泣き声を上げる小さな赤ん坊を抱いた時、私はようやく理解したのです。
 これは実験の結果ではない。
 調べたかった答えでもない。
 私の腕の中にいるのは、ひとつの命であり、私の子なのだと。
 柔らかさと重みを通して、はじめて我が子への愛おしさを感じました。
 この時、私は母になったのでしょう。

 覚悟もなしに母親となった私は、傍から見れば随分と不器用だったはずです。
 泣けばどうして泣くのか分からず、眠らなければどうすればよいか迷い、抱き方ひとつにも試行錯誤していました。
 人間の女たちに聞いたり、見よう見まねで世話を覚えたり、時には赤ん坊と一緒に途方に暮れたりもしました。

 それを難しいと思うことはありました。
 もどかしいと感じることも、きっとありました。
 けれど、煩わしいと思った記憶はありません。今振り返ると、私は私なりに母親という役割を果たすことを楽しんでいたのだと思います。

 だろう。
 思います。
 そう言い方が他人事めいてしまうのは、今の私が過去の自分を少し離れた場所から見ているからなのでしょう。
 二百年という歳月は、記憶を薄れさせるには十分すぎる時間です。
 同時に、感情を落ち着いて振り返るにも、申し分のない時間でした。

 しかしながら、母親としての時間はそう長く続きませんでした。

 赤ん坊は√能力者ではなく、流行り病で、あっけなく死んでしまったのです。

 当時の医療の水準は、現代とは比べ物になりません。
 幼子が亡くなることは悲劇であっても、稀な出来事ではありませんでした。
 誰もが泣き、誰もが悼み、そしてそれでも日々を続けていく。
 そういう時代でした。

 それでも、腕の中で冷たくなっていく命の感覚は、今も完全には消えていません。
 今ならば、この子は死ぬこともなく、大人になっていく姿を見守ることができたのでしょうか。
 歩くところを見て、言葉を覚えるところを聞いて、反抗期に少し困り……やがて私の背を追い越す日を笑って迎えられたのでしょうか。

 いいえ。
 そんな|もしも《・・・》に意味なんてありません。

 母の時間は、もう遠い彼方にあります。
 数多ある記憶の引き出しに仕舞われた、思い出の一つです。
 私の人生を決定づける重要な岐路だったわけではありません。
 今の私が身を固めず、子も持たないのも、その喪失に縛られているからではないのです。

 ただ、気ままに酒を飲んで過ごしたいから。
 自分の時間を、自分の気分で使いたいから。
 それ以上でも以下でもありません。

 子を産むのは、興味本位ではじまったことでした。
 けれど、終わってみれば悪い思い出ではありません。
 今はこうして、ふとした時に振り返るくらいが丁度いいのでしょう。

 私は赤ん坊へ微笑みかけました。

「ええ、ですから。久しぶりに思い出させてくれてありがとうございます」

 赤ん坊は、私の言葉が分かるはずもなく、ただこちらを見ていました。
 小さな手は、まだ私の指を掴んでいます。

 夢の中だと分かっていても、その温もりだけは妙に確かでした。



 赤ん坊は、しばらく雅の指を握ったまま小さく身じろぎしていたが、やがてその力も緩み、静かな寝息を立て始めた。
 彼女はその様子を確かめるように、もう一度だけ頬を撫でてから、そっと手を離す。

「それはそれとして、本当に、こんな昔の話をどうして……」

 雅は、眠りについた赤ん坊を見下ろしながら呟いた。

 彼女は改めて今の自分として周囲を見渡す。
 懐かしさは残っている。しかし懐古に沈むほど油断してはいない。

 気にするべきは、なぜこの記憶を見せられたのかだ。
 シセンノマの呪いは、ただ過去を懐かしませるために夢を用意するようなものではない。
 これまでの様子からしても、対象に対して何らかの影響を及ぼす意図があるように思えた。

 ならば雅に見せたこの夢にも、怪異の意図があるはずだと思う。

「犠牲者の中に子供、もしかすると赤子までいたためでしょうか?」

 雅はゆっくりと言葉を選ぶ。

 この夢がただの古い記憶ではないとするならば、そこには必ず理由がある。
 例えば、供物にされた中の誰か。あるいは、|者たち《・・・》が母を求めているのか。逆に母であった頃を思い出しているのか。

「答えは、あなたが知っているのでしょうかね?」

 雅は、背後へ向けて語り掛けた。

 そこに立つ存在の気配は、これまで遭遇してきた黒い呪いとは、桁が違うほど重かった。
 濃く、深く、古く、底の見えない殺気が、背中のすぐ後ろに佇んでいる。

 それにも関わらず、その存在はどこか朧げだった。
 まるで、ここにいるのにいないような。
 近すぎるほど近いのに、触れられる場所には存在していない。そんな感覚だった。

 いきなり直接仕掛けてこないのも、そのためだろうか。
 まだこちらへ手を伸ばすには、封印や術式の残滓が邪魔をしているのかもしれない。

 雅は袖の中で手をゆるく握り、周囲へ意識を広げた。

 次の瞬間、黒の呪いが現れる。
 部屋の至るところから、黒い靄が滲み出した。
 畳の上に影を引き、柱の陰や天井の隅、壁際へと散らばりながら、人の形とも獣の形ともつかない姿形を得ていく。

 雅は立ち上がり、赤ん坊から離れた。
 ここで夢の赤子を庇うような真似をすれば、呪いの思う壺だろう。

 そう分かっていても、背後に小さな命を置いているような感覚は、わずかに胸を引く。
 だからこそ、彼女は余計な感情を酩酊の底へ沈めた。

「面倒なものは、酒に流してしまうのが一番ですが……今はそうもいきませんね」

 雅はわずかに肩をすくめ、霊力を纏わせた拳を構える。
 黒の呪いが最初に動いた。
 周囲を上下に揺らぎながら、突如跳ね上がるように迫ってきた影へ、雅はわずかに踏み込む。
 拳が黒い靄の中心を捉えた。
 衝突の瞬間、淡い霊光が弾け、呪いの輪郭が内側から乱れていく。

 手応えはある。
 それは、生き物を殴った感触ではない。
 濃い情念を固めたものへ霊力を流し込み、形を保てなくしているような感覚だった。
 黒い塊は崩れ、散り散りになり、部屋の空気へ溶けて消える。

 二体目が横合いから襲いかかった。
 雅は身を返し、袖を翻すように腕を振るう。
 拳に込めた霊力が呪いの表面を打ち、黒い靄の身体を歪ませた。
 そこへさらに、背後から別の気配が迫る。

 彼女の狐の尻尾が、しなやかに弧を描いた。
 背後を取ろうとしていた黒の呪いは、尾の一薙ぎで壁際まで吹き飛ばされる。
 柔らかく見える毛並みの奥に霊的な力が宿り、触れた呪いの形を削ぎ落としていた。

「背後からとは、躾がなっていませんね」

 雅は穏やかな口調のまま、吹き飛んだ呪いへ歩み寄る。

 床から起き上がるように蠢いた黒い塊を、今度は蹴り上げた。
 黒い靄は霧のようにほどけ、部屋には静けさが戻った。

 残る気配も逃さない。
 柱の陰に潜もうとした一体へ、雅はそれより速く踏み込んだ。
 間合いを詰め、拳を叩き込む。
 打撃は黒の呪いの頭部にあたる濃く凝集した部分を捉え、鈍い手応えとともに姿形を崩した。
 抵抗するように揺らいだ塊へ、間を置かずもう一撃を打ち込み、形を維持できなくさせる。
 崩れた気配は床へ散り、やがて消えていった。

 続けて天井近くへ逃れようとした影へ視線を向ける。
 雅は足を踏み込み、跳躍した。
 届く高さまで身体を引き上げ、腕を振り上げて叩きつける。
 打撃を受けた黒い塊は空中で歪み、そのまま床へ落ちた。
 着地と同時に踏み付けの追撃を加え、残った揺らぎごと押し潰すようにして、呪いを完全に霧散させる。

 すべて片付けた後、雅は赤ん坊の方を振り返る。
 そこには、輪郭の定まらない黒い人影が立っていた。

 背後から気配を感じていた者と同じ存在感を放ちながら、赤ん坊を抱き上げていた。

 人影の腕の中で、赤ん坊が変わる。
 先ほどまで彼女の子だったはずの小さな存在が、黒の呪いへと姿を変えていく。
 柔らかな頬も、小さな手も、眠たげな目も、すべて靄の中へ失われた。
 そこに残ったのは、供物としての気配を帯びた黒い塊である。

 そちらが、本来の姿なのだろう。

「そういえば、儀式に使うのは子を持つ女、でしたね」

 雅は、静かに言った。
 母であること。
 子を持つこと。

 それ自体が、呪いを強めるための条件として扱われていた。
 だからこの夢は、ただ雅の過去を掘り返したのではない。
 シセンノマの側にある母子の記憶と、雅の中にあった母の時間が、どこかで重ねられたのだろう。

 黒い人影は、終始沈黙を保ったままだった。
 言葉を持たないのか、それとも発する意思がないのか判別もつかない。
 ただ、腕の中に抱えた黒い塊を離そうとはせず、その存在自体がゆっくりと希薄になっていく。
 まるでこの場に留まる理由を失ったかのように、気配は次第に遠のき、やがて何の前触れもなく消え去った。

 雅は、その消えた場所をしばらく見つめていた。

「引き取りに……いえ、取返しに来たといったところでしょうか」

 母と子の縁を歪められ、供物と怒りの仕組みへ組み込まれたもの。
 それでも、母である限り、子の温もりを感じたいのかも知れない。

 やがて、雅の立つ場所が変わり始める。

 古い家の畳が薄れ、柱の色が失われ、障子の向こうにあった穏やかな光も遠ざかっていく。
 代わりに戻ってきたのは、地主屋敷の和室だった。
 周囲には無数の指が転がっている。これが供物の正体なのだと自然に悟った。

 思い出の振り返りは終わり。
 懐かしい夢は、もう畳まれた。

 雅は袖を整えてから、周囲を見渡す。
 闇はもうなく、仲間たちもそこにいる。

 ならば残るは隠し扉の向こう。
 核心へと手を伸ばす時が来たのだった。

第3章 ボス戦 『連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』』


 黒に染まっていた視界が順番に晴れていき、やがて周囲が元へと戻った。

 クラウスは改めて周りを確認した。先ほどまでと同じ壁、同じ天井、そして隠し扉のある壁がある。
 次いで視線を巡らせ、紫水、シアニ、エレノール、雅の姿を順に確認していった。
 誰も欠けていない。
 その事実を確かめてから、クラウスはようやく浅く息を吐いた。

「どうやら皆、無事に戻ってこられたようだね」

 いつもの柔らかな調子ではあるが、完全に平静というわけではない。
 彼にはまだ、黒い靄の中で見せられた光景が心を曇らせている。

 紫水は肩を竦め、片手で額を押さえる。

「無事と呼べるかは、いささか審議の余地があるね。だいぶ悪趣味な夢で、気分は最悪だよ。観客へ見せるには、あまりにも趣味の悪い演目だった」

 芝居がかった言い回しを保とうとしているものの、表情には疲労が滲んでいた。紫水にとって見せられた夢は、軽口だけで受け流せる類のものではなかったのだろう。

「あたしは、少し寂しかったけど、怖いとかはなかったよ」

 シアニは、自分の胸元へ手を当てて言った。

 その声には、恐怖よりも切なさが残っている。
 目に見えない棘が心に刺さったまま、けれど痛いと叫ぶほどではない。そういう静かな寂しさが、彼女の表情に宿っていた。

 雅は袖口を整え、ふっと息をつく。

「おや、私はそう悪い夢ではなかったですね。随分と懐かしいものを見せられました。どうやら、それぞれ内容はかなり異なっていたようです」

 同じ黒い靄に呑まれたはずなのに、見せられたものは同じではない。
 誰かには孤独を。
 誰かには罪や後悔を。
 誰かには喪失を。
 また誰かには遠い過去の記憶を。

 シセンノマの内側には、供物となった者たちの情念が無数に積み重なっている。
 そのため、引き込まれた者の心と、呪いの奥に沈む記憶が歪に結びつき、それぞれ違う夢として現れたのかもしれなかった。

 エレノールが、真剣な面持ちで一歩進み出る。

「わたしは夢ではなく、先ほど廊下で会ったインビジブルの方々と会いました。それに今度は、様々な話を聞くこともできました」

「それは実に興味深いね。腰を据えて聞きたいところだけど、幕間が長引けば怪異の方から次の出し物を用意してくるかもしれない」

 紫水は隠し扉のある壁へ目を向ける。

 クラウスも同じ方角を見た。あの向こうに、彼らが探してきたものがある。
 今ここで長く話し込むのは危険だ。だからこそ、まず必要な情報を絞るべきだった。

「弱点のような情報はあったかな」

 クラウスが問いかけると、エレノールはわずかに表情を曇らせ、静かに首を横へ振った。

「いいえ。それは分かりませんでした。むしろ、相当に強力な怪異であることが分かっただけです。先ほど襲ってきた黒い呪いは本体ではなく、供物という概念を式神化したようなものだそうです」

「本体ではないものが、あの認識阻害と悪夢を見せてきたのか。まったく、舞台装置だけで客を潰しに来るとは恐れ入るね」

 紫水が皮肉をこぼした。

「私も夢の中で、かなり強い怨霊のような人影を見ました。あれが本体そのものかは分かりませんが、少なくとも普通の相手ではありませんね」

 雅の声音からも、先ほどまでの軽さが少し引いていた。

 クラウスは短く頷く。弱点は分からない。敵は強い。けれど、ここで立ち止まる選択肢はない。

「なら、覚悟を決めていこうか」

 そう言った紫水が、隠し扉の壁へ歩み寄る。
 鍵を開けたことで、真っ先に質の悪い夢を見せられたのは彼だった。
 だからこそ、この扉を開く役目も自分が担うべきだと考えたのだろう。紫水は壁へ手を添え、芝居の幕を上げる役者のように目を細めた。

「さて、怪異殿。ここまで案内しておいて、観客を帰すつもりはないのだろう?」

 壁の奥から低い音が返ってくる。
 長年の眠りから無理やり起こされるような、重く擦れる響きだった。隠されていた扉がひとりでに横へずれていく。
 紫水が押したのではない。鍵を回したことで術式が働き、押しただけで閉ざされていた部屋が開き始めたのだ。

「うっ……!」

 流れ出てきた気配に、紫水は思わず後ずさった。

 臭いがある。
 腐敗臭とは違う。古い血と乾いた木、湿った土、そして長く閉じ込められた怨念が混じったような……喉の奥に張りつく不快な臭いだった。呼吸しただけで、精神まで汚泥で濁っていくような錯覚がある。

 開かれた部屋の中には、薄い赤の明かりが満ちていた。
 明かりの出どころは見当たらない。火も灯籠もない。ただ、部屋そのものが内側から赤く沈んでいる。壁一面には呪詛のような文字がびっしりと書き連ねられ、祈りとも命令とも判別しがたい文が、天井近くから床際まで続いていた。

 床を覆っていたのは、夥しい数の指だった。
 散乱しているのではない。一定の間隔と向きで揃えられ、部屋全体を埋めるように置かれている。
 まるで畳でも敷くかのように、供物が床を占めていた。一本ごとに異なる命の終わりがあり、異なる痛みがあり、異なる怨みがある。
 それを理解した途端、部屋の赤い明かりが血の色に見えてくる。

 シアニは唇を引き結び、エレノールは手を胸元で固く握った。場の空気が一変したことを誰もが理解し、それぞれが自然と身構える。
 軽口を叩いていた紫水でさえ、視線だけは鋭く部屋の奥を捉えていた。

 その時、廊下側の障子が外から突き破られた。
 破れた障子の桟と紙片が畳を滑り、人影が勢いよく転がり込んでくる。赤い髪と褐色の肌を見たシアニが、驚きに声を上げた。

「リリンドラさん!」

 転がり込んできた少女は、華やかな衣装を乱しながら身体を起こした。
 緑の瞳には痛みよりも苛立ちが浮かんでいる。勝気な表情と首元の古い疵痕が、彼女がただ巻き込まれた一般人ではないことを示していた。

「痛た……って、シアニも来てたの? それに、すごい人数ね……!」

 リリンドラの視線が、和室の中を素早く巡る。シアニ以外にも見知った顔があるらしく、驚きと安堵が同時に表情へ浮かんだ。

「もしかして、星詠みからの依頼?」

「うん、そうだよ!」

「だとしたら助かるわ……正直、ひとりで相手するには面倒な連中だったのよ」

 リリンドラは立ち上がり、崩れた襖の向こうを睨む。
 廊下から、複数の気配が近づいてきた。

 先頭に立っていたのは、スーツ姿の男だった。撫でつけた金髪に、冷たい笑み。長い黒のコートを纏い、片目を覆う傷痕の周囲には、理性と狂気が同居したような光がある。
 背後では、男の身体から滲み出した異形が蠢いていた。黒緑の霧の中にいくつもの眼が浮かび、鰭や刃を思わせる部位が、影のように男へ寄り添っている。

 その周囲には、武器を持った者たちが続いていた。
 彼らはためらわない。土足のまま和室へ踏み込み、畳の上へ汚れた足跡を刻んでいく。屋敷の呪いとは別種の不快感が、その無遠慮な所作から滲んでいた。

「君たちがシセンノマの穢を解放してくれたようだね。手間が省けて助かるとも」

 男は、上機嫌な様子で言葉を発した。

「リンドー・スミス……もう到着していたのか」

 クラウスの警戒が、明確に一段上がる。

 リンドー・スミスは、その反応すら楽しむように笑みを深めた。背後の異形も呼応するように目を細め、無数の視線が和室の内側を舐めるように動く。

「その言いよう、君はこの部屋にいる者の正体を既に知っているようだね?」

 紫水が問いかけると、リンドーは朗読でも始めるかのように片手を軽く広げた。

「指を供物として間へ納むべし。供物をもって床を覆い、其の間を余すところなく占めよ……」

 シアニの顔が強張る。

 その文言は、彼女が読んだ書籍の内容と同じだった。隠されていたはずの儀式の根幹を、リンドーは当然のように口にしている。

「それ故に、指占ノ間……」

「それがシセンノマの答えですか……」

 エレノールが、言葉の意味を胸の中で確かめるように呟いた。

 指を供え、間を占める。その意味が定まると、曖昧だった名は急に重い実体を帯び始めた。

 指占ノ間の内側で、床の指がざわめいた。
 赤い薄明かりの奥、敷き詰められた供物の上に、いつの間にか人影が立っていた。白の長襦袢を纏い、長い髪を垂らした女の姿が一つ。続いて二つ、三つと、同じような影が静かに現れていく。どれも確かに人の形をしているはずなのに、その存在には言いようのない違和感があった。
 視線を向けているだけで、肌の内側を何かが這い回るような不快さがじわりと広がっていく。

「伝承として伝わっている名は幾つもあるがね、他にはそう……」

 リンドーの声は、嬉々としている。
 奥の人影がよろめきながら進み出た。

「夥しき指の怪異――即ち、指千ノ魔」

 それは、白の長襦袢を纏った女のように見えた。

 長い髪が湿ったように垂れ下がり、痩せ細った女の形をしている。
 だが、その表面に人の肌はどこにも見当たらない。髪と衣の印象だけがかろうじて人の姿を思わせるだけで、その内側はすべて、切り落とされた指で埋め尽くされていた。
 肩も腕も胸も腹も、一本一本が別々の意思を持つかのようにうねり、絡みつき、押し合いながら形を保っている。
 それは、指の群れが寄り集まり、怨念をまとって無理やり人の姿を作り上げているようだった。

「ちょっと、何よこれ」

 その異様な姿にリリンドラが呟いた途端、全員の視界が急激に暗転した。
 自分の身体が自分のものではなくなるような感覚が押し寄せる。
 立っているのは和室のはずなのに、目に映るものが別の時代、別の場所へ切り替わっていく。

 ●

 指占ノ間で、女が一人、扉を叩いていた。

「だして! ここからだして! 家に帰して!」

 白の長襦袢だけを纏った女の身体は、痣と傷だらけだった。肩にも背にも打たれた痕が重なり、腕には縄で縛られた跡が濃く残っている。
 頬はこけ、唇は乾き、与えられる食事が命を繋ぐためだけの量であったことが見て取れた。

 肌も髪も荒れている。かつて持っていただろう若さや瑞々しさは、責め苦と飢えによって削られていた。
 それでも命だけは残されている。死なない程度に壊され、死ねない程度に生かされている。

「うう……ううぅぅうぅぅぅ……!」

 女は悔しさにすすり泣いた。
 彼女は百姓の身分だった。村は崎元家の課す重税に耐えかね、女の家は年貢について交渉を行った家の一つだった。

 年貢とは本来、大名へ納めるものである。
 けれど、この地では村請制が取られ、地域の有力者である崎元家が村全体の年貢を取りまとめていた。村人たちは崎元家を通すしかなく、その仕組みの中で不正が行われれば、抗うことは極めて難しい。

 それでもなお、税は重すぎる。負担に耐えかねた村では、崎元家が取り立てた年貢の一部を上跳ねしているのではないかという疑念が広がっていた。そして、その疑念は決して的外れなものではなかったのだ。
 崎元家には不正を隠す必要があり、同時に強い敵対心を抱く者を儀式に利用する思惑もあった。女は、その二つの条件に当てはまってしまった。

 自分がなぜここにいるのか、彼女はすでに知らされている。
 指占ノ間という儀式を行うため。自分はその贄なのだと。

 お前の恨むべき相手は、この壁一枚の向こうにいる。そう告げられ、逃げ場のない部屋へ閉じ込められた。壁の向こうに敵がいると知りながら、触れることもできない。叫びは届くかもしれないが、助けは来ない。

 女は何度も死にたいと思った。
 いっそ自分で命を絶ってしまおうと何度も考えたが、自害すれば一族全員を皆殺しにするとも脅されていた。代わりに、お前がひと月耐えれば解放してやる。家族にも手を出さない。そう言われた。

 彼女には、その言葉を信じる以外の道がない。
 毎日、崎元家への怨みを募らせながら、ひたすら責め苦に耐えた。泣いても、叫んでも、許しを乞うても、責める手は止まらない。痛みは積もり、恐怖は重なり、最後には理不尽への怒りが胸の奥で燃え残っていく。

 そして、ひと月が過ぎた頃、女はようやく家族と対面する機会を与えられた。
 しかし、それは再会と呼べるようなものではなかった。彼女の目の前に無造作に投げ出されたのは、言葉では言い表せないほど残酷な現実。

 小さな希望へ縋ってきた彼女の眼前、床へとばら撒かれたそれは、指だった。
 しかも、それは幼い子供のものだと、一目で分かるほど小さなものだ。

 畳に転がる小さなそれを見ても、最初は意味が分からなかった。汚れた床に何かが落ちた。ただそう見えただけ。

 けれど、男たちは丁寧に教えた。それが自分の子供の指であること。
 その子がどのような目に遭い、どれほど苦しんだか。
 泣いたこと。母を呼んだこと。助けを求めたこと。最後まで痛がっていたこと。

 それらを、男たちは細かく、楽しむように語った。
 放心していた女は、途中で狂ったように暴れ出した。

 傷だらけで衰弱しきった身体のどこに、まだそんな力が残っていたのか。
 理性などとうに焼き切れ、ただ内側から噴き上がる激情に突き動かされるまま、彼女は目の前にいる男たちへ襲いかかった。喉が潰れ、声にならなくなってもなお、叫びは止まらない。

 それでも女の細腕では到底男たちには敵わず、取り押さえられ、そのまま拘束される。
 女は動けないまま、我が子が味わった地獄を事細かに聴かされ続けた。
 耳を塞ぐこともできない。目を逸らしても、顔を強引に子の指が転がっている床へと向けられる。

 自分が耐えれば守れると信じたものは、最初から守られていなかった。
 そして女は拘束されたまま、指と共に指占ノ間へ放置された。

「許すものか。絶対に絶対に……呪ってやる……呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやるぅ」

 女は頭で壁を叩き、呪詛を吐き続けた。

 閉じこめて。
 奪って。
 壊して。
 それでも殺さず、あえて自分たちの傍へ置く。

 壁の向こうには、赦し難い者たちがいる。何もできない自分の怨みを、彼らは利用して幸を呼び込む。自分と我が子の苦痛が、自分たちを壊した家の守りになる。

 その事実がまた憎くてたまらない。
 堪らないほど恨めしい。
 気が狂うほど赦せない。
 どれだけ怨んでも、怨み足りない。

 衰弱し、死の淵へ近づいても、その憎悪は尽きることがなかった。
 それもまた、この部屋に掛けられた|呪《しゅ》の効果によるものだ。恨みが弱まらないように。怒りが尽きないように。そして死へ向かう肉体の中で、憎悪だけは燃え続けるように。

 さらに幾日かが過ぎた頃、崎元家の当主が姿を現した。女にとって最も憎むべき存在。

 逃げ場のない部屋の中で、彼女は最後までその顔を見せつけられたのだ。
 嘲るような言葉を浴びせられながら、積み重ねられた苦痛と絶望をさらに抉られていく。子を奪われた記憶を何度もなぞらされ、怒りと悲しみを掻き立てられたまま、息が尽きるその時まで、憎悪だけが燃え上がり続けるよう仕向けられていた。

 叫びは掠れ、もはや声を出す力すら尽きてもなお、呪いの言葉だけが喉の奥から絞り出される。やがて身体が動かなくなっても、その瞳には最後まで消えない怨念が宿り続けていた。
 そして儀式の仕上げで肉体が滅びても、彼女の抱いた怨念は消え去ることなく、指占ノ間に深く沈殿していった。

 それはやがて、この家にとって最も強力な呪詛となり、同時に都合よく利用される守護の力へと変質していく。
 その奥底には確かに、彼女の憎悪に狂った意識が残り続けていた。

 閉ざされた空間の中で、終わることのない苦痛と怒りを抱えたまま、誰にも届かない叫びを繰り返し、奪われた我が子を求め続ける。怨みは澱のように積もり、怒りは底へ沈み込み、それでもなお消えきらない想い――それが、濃密な憎悪となって空間そのものを満たしていった。

 たとえ気の遠くなるほど長い時がそれを薄めようとしても、新たに怨みの源泉が捧げられる。家族の恨みと苦しみが、供物として指の形でこの間へ納められる。

 地獄が、地獄の怒りを呼び起こす。
 吐き出された怨嗟は消えることなく、床に敷き詰められた指の一本一本へ染み込み、やがて部屋そのものを満たしていく。

 こうして、この屋敷は守られてきた。
 終わることのない怨みを、次の怨みへと繋ぎながら。



 和室にいる者全員の意識へ、同一の記憶が流れ込んだ。
 現実の光景が戻ってきても、その余韻は容易に消えず、誰もすぐには身体を動かせなかった。

 肉体は傷ついていない。けれど、心の奥へ別人の痛みと怒りを直接流し込まれた余韻が残っている。
 吐き気を堪える者、歯を食いしばる者、目を伏せる者。反応はそれぞれ違うが、同じ憤りが重く場を満たしていた。

「なによ……この屋敷……こんな酷いこと……どうして、同じ種族でしょ……?」

 リリンドラの声には、抑えきれない動揺が滲んでいた。
 彼女は何も知らないまま屋敷へ来て、怪異の核心を強制的に流し込まれたのだ。混乱だけではない。人が人へ行った仕打ちへの嫌悪が、緑の瞳に滲んでいる。

「これが……怪異の正体か」

 紫水が、低く息を吐くように言葉を漏らした。
 芝居がかった調子は消えていないが、今の声には演技ではごまかせない重さがあった。
 鍵を開け、外へ放った憎悪の源泉。それが何であったのか、彼もまた理解したのだろう。

『|開い《やっ》ちゃったんだ……知っちゃったんだ……』

 あの言葉が、紫水の内で再び響いた。

 開いた。
 知った。
 だから、もう引き返せない。

 全員の視線が、憎悪の果てである怪異、指千ノ魔へ向けられる。
 全員の目に映る距離まで歩み寄ってきた異形の一つが、指が蠢く腕のような部位を前へ突き出す。

 リンドーの背後で武器を構えていた戦闘員たちへ、無数の指が降りかかった。天井も空も存在しないはずの和室で、それらはどこからともなく現れ、重力に従うように落ちてくる。
 一本ごとに不気味な生命感を宿し、まるで群れを成す生き物のようにうねりながら、男たちの身体へ絡みついていった。

「ぎゃああああ!」

「ひいいいぃぃ!」

「痛い痛いいだいいいいぃぃ!」

 指は衣服ごと皮膚へ食い込み、肉を削る。剥がそうと手を伸ばせば、その手にも別の指が絡みついた。顔、首、腕、腹、脚。全身へ群がった供物が、衣服ごと皮膚を裂き、血を噴き出させる。

 戦闘員たちは喉を裂くような悲鳴を上げ、畳の上をのたうち回った。
 救いの余地はなかった。指の量も、動きの鋭さも、これまでの黒い呪いとは明らかに違う。数呼吸のうちに血が畳を汚し、武器を握っていた者たちはすべて動かなくなった。

 死骸の上で、指だけがまだ蠢いている。
 √能力者たちの間に、冷たい緊張が走った。

 これまで対処してきたものは、外へ漏れ出した一部に過ぎないという言葉が真実だったと物語っている。

 凄惨な光景を前にして、リンドーはゆっくりと手を打ち鳴らした。

「素晴らしい。よく熟成されている。期待以上の代物だとも」

 場違いなほど歓喜の籠もった声だった。
 つい先ほど、あの地獄の記憶を見たばかりである。女が何をされ、子が何を奪われ、どれほどの怨みが積み重ねられたのかを知ったばかりだ。
 それにも関わらず、リンドーはただ成果物を評価する研究者のように笑っている。

「熟成と申しましたか……?」

 雅の眼差しが、静かに鋭さを帯びる。

 その視線を受けてもなお、リンドーの表情に揺らぎはなかった。むしろ、わずかに愉悦を含んだ余裕すら感じさせる。

「指占ノ間は、時間をかけて|呪《しゅ》を積み重ねることで、その力を増幅させていく。長く続けば続くほど、より強大な存在へと変質していくのが最大の特性だと言えるだろう」

 クラウスの視線がさらに冷たくなる。リンドーにとって、この怪異は苦しみの集合体ではない。時間をかけて強化された兵器であり、回収する価値のある資源なのだ。

「もはや会話に興じる余裕はない。どうだね、ここは共闘といかないかね?」

 当人は笑みを浮かべているが、戦力を失ったのは事実だ。それでもリンドーは、戦闘員たちの死骸など一瞥もせずに宣う。

「私は怪異を回収したい。君たちは退治したい。利害は一致すると思うのだが?」

「絶対|嫌《や》だ!」

 シアニは間を置かずに答えた。その声音には一切の揺らぎがなく、迷いの入り込む余地など最初から存在しない。

「あたしは、約束したから。あの子のおかあさんを自由にしてあげるって」

 自由にするとは、狂ったまま外へ放つことではない。
 まして飼いならすことでも、兵器として利用することでもない。

 恨みの連鎖を断ち、この地獄を終わらせる。母と子の痛みを利用し続けた部屋から、彼女たちを解き放つことだ。

「そうよ、あんたみたいな悪党は、正義に打ち砕かれて終わるって決まってんのよ!」

 シアニの隣に立って、リリンドラもまた啖呵を切る。己の心が正義を果たせといつものように彼女を突き動かす。

「その通りだよ。人の憎悪を兵器として利用するお前に、協力する気はない」

 クラウスも、はっきりと言った。
 その声には、普段からは想像もできない怒気が孕む。人の心と痛みを利用する者への嫌悪が滲んでいた。

「それに、倒した後、この屋敷ごと接収して儀式を繰り返し続けるつもりではないのかな? まさか、君ほどの御仁が、これほどの舞台装置を一度きりで閉幕させるとは思えなくてね」

 紫水が問いを投げかけたが、リンドーは言葉を返さない。しかし吊り上がった口角が、そのまま答えを示していた。

「どうやら図星のご様子ですねぇ」

 雅はいつもの調子に見えても、その目は笑っていない。

 彼女の脳裏には、夢の中で見た黒い人影が過ぎっていた。恨みに呑まれながら、それでも幼子を抱き上げた存在。母と子の縁を歪められ、取り返そうとしていたもの。あれを兵器として利用するなど、あまりにも度し難い。

 エレノールもまた、悍ましい記憶を思い返していた。
 廊下で会った二人から聞かされた、供物にされる側の語り。指を落とされる前に与えられた拷問。死にたいと願っても死なせてもらえず、怨みを焚べる道具にされた者たち。

 そのすべてが、この指千ノ魔に積み重なっている。

「……幾千もの死と怨念を積み重ねて、作り上げて来たものの果てが、この怨念の集合体ですか」

 エレノールの声は静かだが、その奥にある怒りは深い。
 人の業とは、ここまで恐ろしいものを生み出してしまうのか。守り神という名を与え、家を護るためだと称し、実際には犠牲者の痛みと怒りを欲で消費し続ける。

「もう、終わらせましょう。こんな惨たらしく、哀しい事は――」

 エレノールは静かに前へ出る。握りしめた手に迷いはなく、その瞳には決意だけが宿っていた。
 この場にいる者たちの覚悟は、すでに一つに定まっている。

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三章の補足情報です。

●指千ノ魔 × 6体

POW:屍仙ノ魔
【他者の記憶から読み取った再現体】を纏う。自身の移動速度が3倍になり、装甲を貫通する威力2倍の近接攻撃「【再現体の技能もしくは√能力】」が使用可能になる。

SPD:視饌ノ魔
【穢れの指千】を召喚し、攻撃技「【継続ダメージの呪いを付与する切り裂き】」か回復技「【穢れの供給】」、あるいは「敵との融合」を指示できる。融合された敵はダメージの代わりに行動力が低下し、0になると[穢れの指千]と共に消滅死亡する。

WIZ:死千ノ魔
指定地点から半径レベルm内を、威力100分の1の【防御ごと引き裂く指での削り取り】で300回攻撃する。

その他:
・戦闘力は一体につき√能力者およそ1人分です。

・リンドー・スミスに対しても、無差別に攻撃を仕掛けます。バーサーカー。

・『祝福されし呪い』と似たような攻撃を行えますが、性能はこちらの方が遥かに高くなっています。
ただし、『祝福されし呪い』のように異空間へ送ることはしてきませんので、戦闘フィールドは屋敷内になります。

・怨念が強すぎるため、祓ったり浄化したりしたい場合でも、一度は普通に倒して大人しくさせる必要があります。

●連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』

・戦闘力は√能力者およそ4人分です。
√能力者全員と指千ノ魔で乱戦する前提のため、高めに設定しています。

・リンドー・スミスから指千ノ魔へは積極的に攻撃しません(回収が目的のため)。ただし、攻撃されると応戦はします。

・部下は全滅しました。

・リンドー・スミスが健在でも、指千ノ魔が全滅すると任務失敗として撤退します。シナリオとしては成功判定です。

・リンドー・スミスを無視して指千ノ魔に攻撃を集中すると、リンドー・スミスの攻撃回数が増えます。構ってあげてください。

●その他

・連携など、PL間でシナリオの相談がしたい場合は、一言コメントを自由に使っていただいて構いません。
(相談は強制ではありません)

・すべてのリプレイ返却後にも、締めの断章が入ります。多分そこそこ長いです。
このタイミングでしたいことや発言したいことなどがある場合、プレイングに含んでいただければ、可能な範囲で拾います。
また、断章用のプレイングなしでも、出番なしということはありません。

・リプレイは、連携して複数まとめて書くか、分割して書くかはプレイング内容次第となります。
まとめて書く場合は、早めにプレイングを提出していただいた方に、内容はそのままで再送をお願いする場合がございます。
リプレイの文章量が理由のため、ご了承いただけますと幸いです。
エレノール・ムーンレイカー
白銀・雅
クラウス・イーザリー
シアニ・レンツィ
椎宮・紫水
飴澤・茲
リリンドラ・ガルガレルドヴァリス

 指千ノ魔から放たれる念は、憎悪そのものを叩きつけてくるようだった。

 紫水は、開かれた指占ノ間の奥を見据えながら、胸の内で先ほどの推測をなぞる。指占ノ間にて、指千ノ魔。言葉遊びのように思えていたものが、今は血と怨みに濡れた答えとしてここにある。

(一応かすってた、かな?)

 呼び名は一つではないのだろう。伝承とは時代と土地を渡るうちに姿を変える。屍の占める間、視線の魔、死饌の間。紫水の予想も、その揺らぎの一つには触れていたのかもしれない。

 だが、今さら名の的中具合を誇る気にはなれなかった。

 重要なのは、そこにあるものが人の恨みを食らって育ち続けた怪異であり、今もまたその痛みを利用されようとしているという事実である。

「ずいぶんと悪趣味な悪夢を見せてくれた礼をしたい……ところだが」

 紫水はそこで言葉を切り、指千ノ魔からリンドー・スミスへと視線を移した。

 黒い外套を纏った男は、異形の気配を背に楽しげな笑みを浮かべている。片目を覆う傷跡さえ、今の彼には装飾のようだった。背後に滲む怪異は黒緑の影を引き、いくつもの眼がこの場の反応を観察するように瞬いている。

「まずは余計な乱入者を舞台袖へ下げるべきかな。怪異への御礼参りは、その後でも遅くはないだろう」

「交渉は決裂のようだね。では、始めよう」

 リンドーの声は、ひどく落ち着いていた。
 その静けさが、かえって不気味だ。指千ノ魔の放つ怒りと憎悪は、熱を持ってこちらを焼く。
 だがリンドーから滲み出すものは違う。冷たく、鋭く、迷いがない。喉元へ薄い刃を添えられたような殺意が、和室の空気を一段と張り詰めさせる。

 リンドーが纏う怪異の一部が、肉体へ溶け込むように沈んでいく。

 右腕が膨れ上がり、骨格が人のものから外れ、黒く硬質な肉が表面を覆う。先端には巨大な三本の爪が形成され、それぞれが刃にも見える不気味な光を帯びていた。

「こっちはこっちでヤバいか」

 さすがは|王権執行者《レガリアグレイド》というべきだろう。
 FBPCに所属し、怪異を蒐集して己の力として行使する職員の一人。しかも、ただ怪異を扱うだけではない。部下を失ってもなお、単独の戦闘力でこの場の脅威を支配できる指揮官級の男だった。

 指千ノ魔を放置すれば、屋敷の内側から犠牲者の怨念が溢れ出す。
 リンドーを放置すれば、その怨念ごと回収され、さらに利用される。
 どちらか一方だけを見ていれば済む局面ではなかった。

 紫水は深く息を吸い、足元へ意識を落とす。焦る場面だからこそ、最初にやるべきことは決まっていた。派手な一撃ではない。仲間全体の動きを押し上げ、戦える土台を整えることだ。

「土祀りて、神と成し、神宿りて、力を示す! 大地を巡る――」

「させると思うかね?」

 リンドーが紫水を制するように踏み込んだ。
 巨大な爪が空気を裂き、詠唱する紫水へ振り下ろされる。その速さは、外見の重量から想像するよりはるかに鋭い。まともに受ければ、術式の完成どころか胴ごと断たれるだろう。

 だが、その間にリリンドラが割り込んだ。
 褐色の肌を包む白い衣装がひらめき、彼女は霊剣を抜き放つ。銀の光が一閃し、リンドーの爪とぶつかった。甲高い音が和室に響き、畳の上へ火花に似た霊光が散る。

「ほう……」

 リンドーはわずかに後ろへ退き、自分の頬へ触れた。

 指先に、血が滲む。爪で受けたはずの斬撃が、防御の隙間を抜けて頬を裂いていたのだ。

「怪異と対決に来たんだから、霊剣の一本くらい持ってきてるわよ。正義の霊剣をね!」

 リリンドラは霊剣を構えたまま、勝ち気に言ってのける。

 その隙に、紫水は詠唱を繋いだ。

「大地を巡る大いなる気よ、我らに力を与え給え!」

 龍脈励起・纏の陣。紫水の足元から、淡い気の流れが広がった。
 屋敷の下を走る龍脈が揺り起こされ、枝分かれした気脈を通じて仲間たちへ接続される。
 力そのものを大幅に増す術ではない。けれども、反応の鋭さ、動作の精度、踏み込みの速度を確実に引き上げる。

 それは強敵を相手にする上で、十分すぎる意味を持っていた。

 リリンドラが霊剣を返し、リンドーの爪へ再び斬り込む。

 銀の刃と三本の爪が連続して打ち合い、鈍い衝撃と鋭い擦過音が重なった。リンドーは淡々と防ぎ、時折、爪の角度を変えて彼女の腕を狙う。
 リリンドラはそのたびに半歩ずれ、剣の長さを活かして距離を保った。

「わたしはリンドーを引き受けるわ。指千ノ魔は、みんなを信じて任せる」

「了解しました!」

 エレノールが力強く応じる。

 リリンドラは笑みを深め、さらに攻めを速めた。龍脈の補助で反応速度が上がっている。斬撃は鋭く、迷いがない。リンドーもまた、彼女の連撃を爪で受け止めながら、余裕の表情を崩さなかった。

 仲間たちはすでに指千ノ魔へ意識を向けている。リリンドラの役目は、リンドーをその戦いへ介入させないことだ。
 だが、容易に足止めできる相手ではない。彼は一撃ごとにこちらの剣筋を見極め、次の手を計算している。

「ふんっ」

 リンドーが霊剣を受け止めたまま力を込め、強引に振り抜いた。

 押し飛ばされたリリンドラは、宙で身体を捻る。白い衣装が舞い、赤髪が弧を描いた。畳へ足が触れる寸前、彼女は重心を整え、危なげなく着地する。

(やっぱりこのままじゃ厳しいわね……)

 それでも、力比べで真正面から押し負けた事実は軽視できない。
 リリンドラは短く息を吐き、和室の広さと指千ノ魔の位置を素早く確認した。

「誰か、わたしごとあいつを部屋の外に転送できない?」

「それなら、あたしに任せて」

 シアニがすぐに答えた。
 迷いはない。彼女も、ここでリンドーを切り離す必要性を理解していたのだろう。

「オッケー! ありがたいわ!」

 リリンドラは言うと同時に突貫した。

 またも霊剣の間合いへ入り、リンドーへ攻めかかる。
 刃の長さと踏み込みの速さを活かし、相手を押し留めるための連撃を浴びせた。倒すためだけではない。動かさないための剣だ。

 シアニは戦鎚を片手で支え、もう片方の手を祈るように掲げる。

「妖精さん妖精さん、どうかみんなを助けてください」

 願うのは|妖精さんのお手伝い《サモン・フェアリーズ》。
 彼女の呼びかけに応じ、淡い光を帯びた妖精の幻影集団が現れた。
 小さな羽音が重なり、妖精たちはリリンドラとリンドーを囲むように円を作っていく。色とりどりの残光が和室に散り、転送のための陣を素早く編み上げた。

 その様子を見た紫水が、迷うことなく円の内側へ滑り込む。

「私もリンドーの抑えに回ろう。皆、そちらは任せた!」

「紫水さんまで?」

 エレノールが思わず声を上げる。
 紫水は肩越しに振り返り、いつものように軽く笑ってみせた。

「なに、主演ではなくとも名脇役くらいは務めたいのさ。こちらの紳士は、野放しにすると舞台そのものを奪われそうでね」

 シアニは頷き、妖精たちへさらに声をかける。

「ミドリたちも、一緒に跳んで援護してあげて」

 妖精たちの円が強く輝いた。
 次の呼吸で、リリンドラ、紫水、リンドーの三人は和室から消えた。霊光だけが遅れて残り、空気が一度だけ震える。

「三人はどこに移動させたのかな?」

 クラウスが問うと、シアニは指千ノ魔から目を離さないまま答えた。

「それはね――」



 リリンドラの視界が切り替わった。

 足元の畳が消え、湿った土と草の匂いが鼻をかすめる。
 周囲を見渡すと、そこは屋敷の中庭だった。手入れされた庭木と古びた石畳があり、和室よりもずっと広く、空も開けている。

 向こうが片付いたら、こちらの手助けにすぐ回れる距離。

 同時に、リリンドラが全力を出しても屋敷内よりは被害を抑えやすい場所だった。
 そして、彼女にとって想定外の人物がもう一人いる。

「手を貸してくれるの?」

 リリンドラが紫水へ視線を向ける。
 紫水は二刀一対の霊斬刀を抜きながら、芝居の幕間に立つ役者のように微笑んだ。

「一人で相手するには、いささかビッグゲスト過ぎるだろうと思ってね」

「そうね、正直ありがたいわ」

 リリンドラは素直に頷いた。
 リンドーを分断し、一人で時間を稼ぐつもりではあった。
 けれど実際、かなり苦しい戦いになることは予想していたのだ。紫水がいれば、できることは大きく増える。

 リンドーは二人を見比べ、わずかに口角を上げた。

「二人ならば私を止められると? ふふ、ずいぶんと安く見られたものだ」

 そこで彼は言葉を断ち切り、背後へと意識を向けた。
 その刹那、鋭い刃が目前へと迫っていた。

 銀髪の女が、背後から武侠剣を振り下ろしている。長い白銀の髪を高く結い、軍装を思わせる濃紺の衣に肩章と外套を纏った娘だった。
 紫の瞳には、奇襲が通るかどうかを淡々と見極める冷静さがある。

 刃はリンドーの頭部を割る寸前で、ぴたりと食い止められた。
 彼の服の裾から伸びた触手たちが、独立した生き物のように剣を絡め取っていたのである。もしそれがなければ、今頃リンドーの頭は縦に二つへ断たれていただろう。

「奇襲は失敗。残念」

 銀髪の少女――飴澤・茲は、あっけらかんとした調子で言ってのけた。

「ふんっ!」

 リンドーが爪で薙ぐように腕を振るう。

 茲は剣を引き戻すより早く、身軽に後方へ跳び下がった。
 触手の一本が斬れて地面へ落ちている。しかし残りは弾力のある筋肉のように刃を受け止め、完全な切断を免れていた。

「触手って、思ったより丈夫なんだね」

 茲は軽く剣を振り、絡みついた粘液を払う。

「ビッグの次はサプライズゲストのご到着か。いやはや、今日の舞台はずいぶんと豪華じゃないか」

 紫水が何者か見極めるよう目を細める。

「恋眞ちゃんから、FBPCが居るって聞いて来た感じ」

 茲の口から出た星詠みの名に、紫水はすぐに彼女が味方であると判断した。
 恋眞が急遽送り込んだ追加戦力。そう考えれば、このタイミングで現れた理由も納得できる。

 ●

 √能力者たちを送り出した後、水瀬・恋眞は新たな予知を得ていた。
 リンドーとの戦闘は避けられない。しかも、屋敷の中へ向かった者たちはすでに怪異と接触している。今さら連絡を取ろうとしても、呪いの干渉で届かない可能性が高い。
 そこで恋眞は、急遽、飴澤・茲へ連絡を取り、追加の戦力として送り込んだのだった。

「あー……」

 屋敷を正面から見据えた時、茲の口から思わずそんな声が漏れた。
 古びた屋敷の外観は、ただの空き家では済まない気配を放っている。どこをどう見ても、怨念が詰まり放題のホラーな館だった。

 それでも、引き返すという選択肢はない。
 茲は屋敷へ入り、仲間たちを探し始めた。すると早々に、指千ノ魔がかつて味わった出来事を強制的に見せられることになる。

 あまりに酷い記憶だった。
 混乱もした。怒りも湧いた。だが、それによってこの屋敷で何が起きていたのか、大まかには理解できた。

 さらに捜索を再開したところで、中庭の方に仲間らしき者たちとリンドーが現れたのである。

 相手はこちらに気づいていない。ならば、するべきことは一つだった。

「うん、ヤッちゃお」

 茲は武侠剣を握り直し、気配を殺して背後へ回った。

 ●

「まだ伏兵がいたとは。星詠みが双方に控えていると、戦況が目まぐるしくていけない」

 リンドーは、奇襲を受けた直後とは思えないほど平静だった。

 最初こそ驚きはあったのだろう。けれど、今の表情にはもう揺らぎが見えない。
 触手の一部を失い、頬にも傷を負っている。それでも彼は、三人を相手にしてなお自分が崩れるとは考えていないようだった。

「他のみんなは?」

 茲は周囲の気配を探るように視線を巡らせながら、短く問いかけた。

「指千ノ魔の方に当たってもらっているよ。あちらもなかなか厄介な状況でね」

 紫水は視線を屋敷の方へ向けたまま答えた。その声音には余裕を装いながらも、仲間たちの戦況を案じる色がわずかに滲んでいる。

「そっか、了解」

 茲は状況を飲み込むと小さく頷いた。
 先ほど流し込まれた記憶からして、先に現地入りした者たちの方が、あの怪異へ抱く思いは強いだろう。ならば、向こうは任せる。己がすべきことは、リンドーを指千ノ魔へ近づけないことだ。

 茲は身軽な所作でリンドーへと剣先を突きつけた。

「怪異と分断されて寂しい? 苛ちゃん?」

 リンドーに巣食う怪異たちが、わずかにざわめいた。

 黒緑の靄が静かに揺れ、浮かぶ眼が茲の動きを観察するように細められる。触手がゆるやかにうねり、鰭のような刃が月光を受けて鈍く光った。

「不服ではあるとも」

「私たちが構ってあげるから、そう言わないで」

 茲は武侠剣を突きつけたまま、平然と言う。

「おもてなししてお帰りいただくまでが、今日の私のお仕事だからね」

 リリンドラは霊剣を構え直し、紫水は風と雷の霊斬刀を両手に収める。

 中庭の空気が張り詰めた。
 屋敷の内では指千ノ魔との戦いが始まり、中庭ではリンドーを相手にした足止めが幕を開ける。

 どちらも、退くことは許されなかった。

 ●

 リリンドラと紫水、そして茲がリンドーの足止めへ回ったことで、屋敷の内に残された敵は指千ノ魔だけに絞られた。

 とはいえ、それで状況が楽になったわけではない。むしろ、指占ノ間から這い出した怪異たちは、戦うべき相手が定まったことで、その憎悪を余すところなく√能力者たちへ向けていた。

 赤く濁った明かりの中、白の長襦袢を纏った女の姿をした指千ノ魔たちが揺れる。長い髪の奥から視線のような圧が滲み、衣の内側では無数の指が絶えず蠢いていた。人の形を借りているだけで、中身は犠牲者たちの痛みと怨念が寄り集まったものなのだと分かる。

 エレノールはその光景を前に、強く唇を引き結んだ。

(確信しました。この怪異は決してリンドーさん達の手に渡してはいけないと)

 この儀式を繰り返し続けるということは、さらなる犠牲をこの先も生み続けるという意味だった。苦しめられ、壊され、最後には供物として組み込まれる者たちが増えていく。

(そんなことは決して許してはなりません)

 ここで終わらせる。指千ノ魔たちを打ち倒し、この狂った儀式の歴史へ終止符を打つ。

「――大いなる精霊たちよ、今こそ我が身に降臨せよ!」

 彼女の周囲に、複数の精霊たちが姿を現す。

 炎のように揺れるもの。清水のように透き通るもの。風を纏い、淡い光を散らすもの。大地の重さを宿したもの。それぞれ異なる性質を持つ六種の精霊たちが、エレノールへ寄り添い、その身へ力を注いでいく。

 そして、それらの力を具現化するように、手には精霊剣ティルフィアが握られていた。

 さらにエレノールは、体の奥からもう一つの力を呼び起こす。

「わたしの中の闘気を、今こそ解き放つ!」

 |黄金の闘気《スピリッツ・オブ・ゴールド》が発動し、金色の輝きが彼女の全身を包み、淡い精霊光と重なった。
 足運びが軽くなり、剣を握る手にも、さらなる力が漲る。
 精霊の力と闘気が、身体の内で強く結びついていた。

 長く相対していれば、また指千ノ魔の認識攻撃に精神を削られるかもしれない。リンドーを抑えている者たちの負担も考えれば、時間をかけるほど不利になるだろう。

 ならば、短期決戦で斬り伏せる。

「ここで悪しき因縁を断ちます!」

「うう……!」

 指千ノ魔の一体が、エレノールへ向けて腕を持ち上げた。

 その挙動に呼応するかのように、頭上から無数の指が雨のように降り注いだ。一つひとつが単なる供物に留まらず、獲物を求める小さな怪異となって蠢いている。

 エレノールはあえて踏み込んだ。
 身体能力は、精霊たちの加護と黄金の闘気によって大きく引き上げられている。さらに紫水の龍脈励起が、動きの精密さを支えていた。
 降り注ぐ指が肌に触れるより早く、彼女は赤い雨の隙間を抜ける。

 すれ違いざま、ティルフィアが金の光を帯びて振るわれた――星薙ぎの一閃。

 刃は指千ノ魔の胴を横へ走り抜けた。
 しかし、エレノールはすぐに違和感を覚える。
 刃は通ったが肉や骨を断つ手応えではない。まるで、厚いケーキへナイフを入れた時のように、柔らかく沈んで抜けただけだった。

 斬られた指千ノ魔の身体から、ぼろぼろと指が落ちる。

 だが、傷と呼べるほどの欠落はすぐに埋まっていった。別の指が寄り集まり、斬られた部分を覆い直す。人の身体であれば致命傷になっているはずの一撃が、怪異にとってはごく一部を失った程度にしかなっていない。

「一筋縄ではいかないということですね」

 エレノールは剣を構え直す。
 敵の攻撃は未だ彼女に届いていない。ならば、この優位を保ったまま、確実に斬撃を重ねていくほかない。

「何度でも刻むまでです!」

 ティルフィアが二度、三度と走った。

 星光のような輝きを帯びた斬撃が、指千ノ魔の身体から供物を削ぎ落としていく。倒しきれない。だが、削れてはいる。
 エレノールはそのわずかな成果を信じ、足を止めずに剣を振るい続けた。

 別の場所では、雅が指千ノ魔と真正面から対峙していた。
 彼女は妖として長く人間を見てきた。善人もいた。悪人もいた。どうしようもなく愚かな者も、胸を打つほど優しい者もいた。

 その中でも、ここで行われた儀式は五指に入るぐらい悪辣だった。

 苦しめた人間の感情を利用する。
 親子の情を引き裂き、怨みを焚べ、守り神という名で都合よく縛り続ける。
 妖である雅から見ても、度し難い行いだった。

「私は|死《・》には何も感じませんが、親子の情は分かります。これでも親でしたからね……同じ母として、終わらせてあげましょう」

 雅は淡々と告げ、拳へ霊力を込めた。
 正面から迫る指千ノ魔へ、妖の膂力を乗せた打撃を叩き込む。霊光を帯びた拳が怪異の胸元を穿ち、無数の指が弾けるように散った。

 けれど、軽い。
 いや、軽いというより、芯を捉えた感覚が薄い。水面を拳で叩いた時のように、衝撃は広がるのに、決定打となる感触には至らない。
 それどころか、天井では無数の指が蠢き、反撃するように雨となって頭上から降り注いだ。

 雅は膝を沈め、霊力を纏わせた狐の尾を横へ払った。
 広い範囲を薙がれた指が弾き飛ばされ、畳の上へばらばらと散る。
 その隙に雅は着弾範囲から滑るように抜け、すぐさま距離を詰めた。

 拳の連打が指千ノ魔へ叩き込まれる。
 肩、腹、頭部にあたる箇所へ、拳が次々と叩き込まれる。
 打つたびに供物は飛び散り、黒い靄がわずかに揺らぐ。それでも、指千ノ魔は止まらない。欠けた分は別の指が埋め、散った分は足元から補われる。

「ごく単純に強い、と」

 雅は息を乱さず呟いた。
 物理攻撃への耐性が高いだけではない。霊力による損耗すら軽減されている。
 供物の一つひとつが呪いを内包した防壁であり、怨念の厚みが攻撃を呑み込んでいるのだろう。

 背後から別の指千ノ魔が襲いかかる。
 紫水の術式によって引き上げられた反応速度により、雅の身体は考えるより先に動いた。彼女は振り向きざまに肘を打ち込み、黒い気配の中心を砕くように霊力を流し込む。
 だが、やはり倒しきれない。

「リンドーを相手取らなくていいのはありがたいですが、その分、こちらにも別の負担が回ってきていますね……」

 一体一体が油断できない強敵だった。
 一撃や二撃で片付けられる相手ではない。しかも捕まれば、リンドーの戦闘員たちのように、無数の指という数の暴力に晒される。

 リンドーを切り離したことで、彼が受けるはずだった指千ノ魔の攻撃まで、こちらで受け止めなければならない。
 加えて、リリンドラと紫水が離れた分、残された者たちの負担も重くなっていた。

「それでも、憎悪と呪いの連鎖をここで断ち切らなければいけない」

 その想いを、クラウスは決意として言葉にした。
 彼は胸元の|紅いネックレス《心臓の欠片》へ手を添え、深く念じてrelierを発動させる。
 すると、黒かった髪が灰色へ変わり、頭の上に灰色の狼耳の幻影が現れた。
 身体の奥で眠っていた力が呼び起こされ、感覚が研ぎ澄まされていく。

 クラウスが目を開いた時、相対する指千ノ魔にも変化が起きていた。
 白装束と指の怪異が、白い着物に青い袴の少女へ姿を変えている。

 クラウスの記憶にはないが、紫水が幻の中で見せられた、比翼の館の和装の少女と同じ姿だ。
 腰には書物めいた道具を提げており、細い手でそれを開く。頁がめくられると、彼女の手には美しい刀が握られていた。

 途端に、空気が重くなる。
 剣豪めいた圧が、少女の姿をした怪異から放たれていた。

 少女が踏み込む。床を蹴ると同時に空気が裂けるような気配が走り、気づけばすでに間合いを詰められている。

 振り抜かれた刃が、一直線にクラウスへ迫る。
 クラウスは反射的に上体を逸らした。刃は紙一重でその軌道を外れ、彼の顔のすぐ前を通り過ぎる。
 その余波だけで、前髪が数本散った。切り落とされた髪が、ゆっくりと宙を舞う。

 その動きはあまりにも迅速だった。
 先ほど悪夢の中で見せられた戦友は、クラウスの心を深く抉った。
 けれど、戦闘力だけを見れば本物に及ばない。

 今の相手は逆だ。心を抉ることより、純粋な戦闘能力で殺しに来ている。

 クラウスは下がりながら、高速詠唱と多重詠唱を組み合わせた。風の魔法が旋風を生み、同時に氷柱の弾丸が連続して放たれる。

 少女は距離を詰めながら氷柱弾を斬り裂いていった。だが、割れた氷片が細かく散り、その身体を撃つ。抉れた箇所から変化が剥がれ、指の残骸がばらばらと落ちた。

 動きにわずかな遅滞が生じた。クラウスは魔力を槍の形へ束ね、少女の腹部へ突き込む。魔槍は胴を貫き、背側へ抜けた。

 それでも少女は倒れずに新たな頁を繰る。その直後、不可視の衝撃がクラウスの身体を打ち据えた。

「ぐうっ!」

 クラウスの身体が弾き飛ばされる。
 畳へ叩きつけられる寸前で受け身を取り、間髪入れずに立ち上がった。胸奥に鈍い衝撃が残り、骨にひびが入った可能性も否めない。それでも、ここで足を止めるわけにはいかなかった。

 少女の腹部には大きく穿たれた穴があり、そこから無数の指が零れ落ちていた。雅たちが対峙している個体とは異なり、この相手には確かに攻撃が通じている。

(他の人に化けると、再現に力を使って、指千ノ魔本来の耐久を失うのか?)

 ようやく打開の糸口が見えた。
 この個体に攻撃を集中すれば、敵の数を削れる。クラウスがそう判断した刹那、変化していない別の指千ノ魔の足元から、大量の指が噴き出した。

 床を這う供物は、和装の少女へと収束していく。
 腹部の欠損へと流れ込み、空隙を埋める。やがて指の気配は消え、少女の姿は完全に再構築された。

 再生能力まで備えているということか。
 見えかけた活路は、あっさりと閉ざされた。

「現状を打破できる一手がほしいところだな……」

 クラウスは構えを微塵も緩めなかった。
 いかに強大な相手であろうと、退く選択肢はない。弱点が見えない以上、戦いの中で見出すしかなかった。

 シアニもまた、クラウスと同様に変化した指千ノ魔と対峙していた。
 彼女の前に立つのは、昆虫の特徴を備えた人型の男。

 和装の少女と同じく、鍛錬場で武を磨いていた求道者。その姿を、指千ノ魔が模倣している。
 奇しくもその者は、シアニにとっても知人だった。

「やりづらい……けどっ」

 弱音を吐いている余裕はない。
 シアニの知る彼は、決して手加減で勝てるような相手ではなかった。

 昆虫の男が間合いを詰める。洗練された打撃が連続して繰り出される。
 その動きは、シアニの記憶にあるものと酷似していた。力任せではなく、間合いと角度を精密に読み切った攻めだ。

「くうっ!」

 シアニは巨大な戦鎚を盾のように構え、これを受け止める。
 けれど、防ぎきれない足元へ鋭く重い蹴りが叩き込まれた。大振りな戦鎚を主軸とするシアニにとって、手数と機動力で押される展開は分が悪い。

「たああっ!」

 シアニの脚が鋭く跳ね上がる。
 膝下が空色に輝く|不完全な竜《フォルスドラゴン》の脚へと変化した。急激に強化された脚力で攻撃を回避し、背後へ回り込むと同時に戦鎚を叩き込む。
 重厚な一撃が背中を強かに打ち据えた。

 しかし、昆虫の男は即座に適応した。身体の一部を変質させ、副脚の爪を弾ませることで、竜化したシアニの速度に追随する。

「せやあ!」

 移動しながら放った一撃も、正面からでは容易く受け流される。

 男は衝撃の芯を巧みにずらして、その勢いのまま懐へと踏み込んだ。
 間合いを詰めた拳が、容赦なくシアニの胴を打ち据える。

「かふっ!」

 シアニは咄嗟に後方へ跳び、辛うじて致命打だけは避ける。
 しかし衝撃は殺しきれず、身体は大きく弾き飛ばされた。畳を削るように転がり、ようやく動きを止める。顔を上げた先には、赤く染まった指占ノ間が広がっていた。

(ここに……ここで……)

 つい先刻無理やり見せつけられた光景が、再び脳裏に蘇る。

 シアニはシセンノマという怪異の正体を知った。
 それは、日々を懸命に生きてきた者たちだった。
 自分よりも他者を想えるような人々だった。
 彼女らに、彼らに、罪などない。
 正当な怒りを、悲しみを、そして愛情を抱いたまま。
 呪いという仕組みに組み込まれた被害者だった。

 胸の奥が焼けるように熱くなる。
 怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、どうしようもなく許せなかった。

 シアニは歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がる。

 昆虫の男は、距離を慎重に測りながら迫ってくる。油断はない。止めを急がず、確実に追い詰める構えだ。

 シアニはそれを意に介さず、戦鎚を持ち上げた。肩から腕へと、全身の筋肉を連動させるようにして振りかぶる。その動きには迷いがなく、ただ一つの決意だけが宿っている。
 やがて、彼女はそれを振り抜いた。
 轟音が炸裂し、床板が震え、空気そのものが押し潰されるように揺らぐ。
 だが、その一撃が叩きつけられた先にいたのは、昆虫の男ではなかった。

 背後の壁――それこそが、彼女の標的だった。

 鈍く重い衝撃が伝わり、壁面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。ひびは瞬く間に広がり、やがて耐えきれなくなった一部が崩れ落ちた。
 その向こうに現れたのは、奥座敷。かつて被害者たちがどれほど恨みをぶつけても届かなかった、隔絶された空間である。

 閉ざされていたものが、今まさに破られた。
 ここが儀式の核であるならば、構造そのものを壊せば何かが変わるかもしれない――そんな理屈も、確かにシアニの頭の片隅にはあった。
 だが、それ以上に彼女を突き動かしていたのは、もっと原始的で、抑えがたい感情だった。

「こんな壁があるからっ!」

 叫びとともに、再び戦鎚が振り下ろされる。

 その一撃には、ただの破壊衝動ではなく、ここに閉じ込められてきた無数の感情が重ねられているかのようだった。
 無念も、恨みも、悲しみも――すべてを押し潰し、封じ込めてきたこの空間そのものを、根こそぎ壊してしまいたいという衝動。

 壁に刻まれた|呪《しゅ》が、打撃のたびに歪み、ひび割れ、意味を失っていく。
 二度、三度と叩きつけるごとに破壊は加速し、やがて壁は原形を留めなくなった。
 崩れた先には、もはや遮るもののない奥座敷が広がっている。

 確かに呪術的な防護は施されていたのだろう。だがそれは、この部屋という器を維持するためのものでしかなかった。
 積み重ねられた呪いそのものを守るものではない。想定外の暴力に晒された呪言は、次々と断ち切られ、ただの無意味な痕跡へと変わっていく。

 その異変に、昆虫の男が反応した。
 阻止しようと踏み込み、鋭く間合いを詰めてくる。だがシアニは、半歩横へ身体を逃がし、紙一重で拳をかわした。

 すれ違いざまに体勢を入れ替えたシアニは、その勢いを殺さぬまま振り返り、迷いなく戦鎚を振りかぶった。
 狙いは目の前の敵ではない。廊下側の壁――この空間を閉ざし、呪いを留め続けている別方向の境界だ。

 重い一撃が叩き込まれる。鈍く、しかし確かな破壊音が廊下へと抜け、壁面に刻まれていた呪言がひび割れとともに歪んでいく。
 さらに追撃を加えると、亀裂は一気に広がり、文字列は意味を保てなくなったまま崩れ落ち、壁そのものが耐えきれずに崩壊していった。

「うぐ……おおぉ……!」

 その変化に呼応するように、昆虫の男が苦悶の声を上げる。
 これまで揺るがなかったはずの身体が明らかに不安定になり、各所からぼろぼろと指が零れ落ちていく。
 人型を維持していた力が乱れ、昆虫の装甲を模した外殻もひび割れ、剥がれ落ちるように崩れ始めていた。

 シアニはその異変を目の当たりにし、思わず息を呑んだ。

「もしかして、効いてる……!」

 確かな手応えがあった。だが同時に、男の身体が不気味な音を立てて膨張する。残された力を無理やりかき集めるように、鎧のような厚みを増していく。
 まだ終わっていない。

「このお!」

 シアニは一歩深く踏み込み、全身の力を乗せて戦鎚を振り下ろした。その軌道を読み切ったかのように、男は正面から拳を突き出して迎え撃つ。

 鈍い衝突音が響き、衝撃が腕から肩、背中へと伝わって全身を震わせた。
 男の拳にはひびが走り、崩れかけた指がぱらぱらと散る。それでもなお、押し負けたのはシアニの方だった。

 体勢を崩した隙を逃さず、男は間髪入れずに距離を詰めてくる。逃げ場を奪うように踏み込み、シアニの首を無造作に掴み上げていた。

「ぐぅっ!」

 そのまま壁へ叩きつけられる。肺の中の空気が強制的に吐き出され、視界がぐらりと揺れた。手から戦鎚が滑り落ち、足が床から浮く。

 締め上げられた首に力が食い込み、気道が潰されていく。
 空気を吸おうとしても肺は膨らまず、喉の奥でかすれた音が漏れるだけだった。視界の端がじわじわと暗く染まり、意識が遠のきかける。

 その眼前で、男がゆっくりと腕を振り上げる。
 ひび割れた拳はすでに崩壊寸前で、砕けた部分が指へと戻りながらぽろぽろと落ちていく。
 それでもなお、その動きには迷いがなく、振り下ろされれば確実に命を奪うだけの重さがあった。

 これを受ければ終わる。
 シアニは、息もできないまま、その事実だけをはっきりと理解した。

「やあっ!」

 残された力を振り絞り、シアニは両膝を胸元へ引き寄せて身体を折り畳む。
 呼吸もままならない中で意識を研ぎ澄まし、竜化した両脚が勢いを解放するように発射された。
 空色の光が弾け、全身の勢いを乗せた蹴りが男の腹部へ叩き込まれる。衝撃は爆ぜるように広がり、周囲の空気さえ震わせた。

 男の胴が断ち切られ、上半身と下半身が分かれた。

 シアニもまた崩れ落ちそうになるが、必死に踏みとどまる。
 首を押さえながら荒い呼吸を繰り返し、どうにか立ち上がった。

 昆虫の男は、もはやその姿を維持できていなかった。
 外殻のように見えていた部分はひび割れ、内側から覗く無数の指がぼろぼろと零れ落ちていく。
 人の形を保とうとする力が限界を迎え、輪郭は崩れ、やがて指千ノ魔としての本来の姿へと引き戻されていった。

 それでもなお、分断された身体は床を這い、上半身がぎこちなく動きながら、わずかでも前へ進もうとする。
 意思と呼べるものが残っているのか、それともただの執念なのか、判別もつかないまま、怪異は止まることを拒んでいた。

 その光景を前にしたシアニの胸は、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
 倒したはずなのに、終わったはずなのに、それでもなお動き続けるその姿が、どうしようもなく哀れで、そして重かった。

 シアニはゆっくりと歩み寄り、息を整えながら、その成れの果てを静かに見下ろした。

「娘さんがね。あなたを自由にしてあげてほしいんだって……もう恨まなくても大丈夫だよ。休んでもいいんだよ」

 静かに語りかけるように、シアニは低く言葉を紡いだ。
 その声音は、激しい戦いの只中にあるとは思えないほど穏やかで、まるで誰かの魂へ直接届くことを願う祈りのようでもあった。
 すると、それまで怨嗟をまき散らしながら蠢いていた指千ノ魔の動きが、まるで時を止められたかのように、ぴたりと静止した。

「恨みが消せないなら、あとはあたしたちに任せて。開いたから。知ったから。ちゃんと伝える。なかったことになんかしない」

 言葉を重ねるたびに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていくような感覚があった。
 届いているのかどうかは分からない。それでも、伝えずにはいられなかった。

 やがて、指千ノ魔の身体に変化が現れる。
 張り詰めていた気配が緩み、形を保っていた力が抜けるように、ゆっくりと輪郭が崩れていった。
 白い長襦袢の下で蠢いていた無数の指が、支えを失ったようにぽろぽろと零れ落ち、やがて人の姿そのものが維持できなくなる。

 崩れたそれは、ただの指の山となって床に積もった。
 先ほどまで確かにそこにあった意思も、怨嗟も、もう感じられない。微かな気配すら残さず、完全に静まり返っている。

 もう、動かない。
 終わったのだと、ようやく実感が追いついてくる。

 シアニはゆっくりと息を吐き、静かに目を閉じた。

「ふえっ!?」

 その頬を、ふわりと風が撫でたような気がして、シアニは思わず目を見開いた。
 さっきまで戦っていたはずの部屋は変わらずそこにあり、崩れた壁や散らばった指の残骸が静かに横たわっているだけで、風など吹き込むはずもない。
 それでも確かに、誰かがそっと触れたような感触が残っていた。

 周囲を見回しても、そこには何もない。ただ重苦しい空気が漂っているだけだ。それなのに、胸の奥がわずかに揺れる。

 言葉を聴いた気がしたのだ。
 はっきりとした声ではない。耳で聞いたというより、心の内側に直接触れられたような曖昧なものだ。
 それでも、その中に含まれていた一言だけは、不思議なほど鮮明に残っていた。

『お詫びをしてくる』

 その余韻が消える頃には、もう何もなかった。

 シアニが聞き取った言葉の意味を考えるより早く、指占ノ間の奥で異変が広がり始めた。

 先ほどまで白い長襦袢を纏う女の姿を保っていた指千ノ魔たちが、一斉に身を震わせる。
 衣の下で密集していた無数の指が、統制を失った群れのように乱れた。
 腕に見えていた部分がたわみ、胴を支えていた塊が崩れかけ、髪の隙間から覗く赤い眼差しも焦点を失っていく。

 シアニが壊した壁。
 そこに書き込まれていた|呪《しゅ》。

 母たちの怨みを閉じ込め、供物を捧げるための部屋そのもの。その一部を破壊されたことで、指千ノ魔は己を保つための支えを大きく損なったのだろう。

 指が、畳へ落ちる。
 一本や二本ではない。雨の後に木の葉がこぼれるように、怪異の身体から次々と指が剥がれ落ちていく。
 けれど、それで脅威が消えたわけではなかった。
 崩れかけた指千ノ魔たちは、むしろ残された力を絞るように身を起こし、憎悪の矛先をより激しく√能力者たちへ向けた。

「シアニさんが、壁を壊した影響ですか……!」

 エレノールは状況を見抜き、すぐにティルフィアを握り直した。
 崩れ始めているなら、この機を逃す理由はない。彼女は金色の闘気と精霊の加護を重ねたまま踏み込み、最も近い指千ノ魔へ斬りかかる。

 再び放った星薙ぎの一閃は、これまでとは明らかに手応えが違った。
 刃が通り抜けるだけではない。ティルフィアに宿る魔力が、怪異の中へ確かに食い込み、脇腹に当たる部分を大きく抉り取る。
 ぼろぼろと落ちた指は再び集まろうとしたが、すでに修復の力は鈍っていた。穴を塞ぎ切れず、指千ノ魔が苦しげに揺れる。

「耐性が落ちて……今なら!」

 エレノールは追撃へ移ろうとした。
 だが、その直感が鋭く警鐘を鳴らす。

 指占ノ間の奥に残る三体が、同時に腕を上げていた。
 白い袖の内側から指が溢れ、空間そのものを覆い潰すように広がっていく。狙いは一点ではない。避ける方向も、退く場所も、すべて攻撃範囲へ含める面の暴力だった。

「……っ!」

 エレノールはティルフィアを構えた。
 星薙ぎで払えば、ある程度は斬れる。
 それでも、降り注ぐ指の数はあまりにも多い。一度の斬撃で全てを落とすことはできず、避けようにも、その先を埋めるように別の指が襲ってくる。
 判断を誤れば、そのまま全身を削り取られてしまうだろう。

 それでも、被害を最小限に留めるには、斬るしかない。決意して踏み込もうとした時、頭上の指の雨が不自然に流れを変えた。
 エレノールへ落ちるはずだった指が、彼女の頭上を越えて別の方向へ吸い寄せられていく。

「クラウスさん!?」

 指の行く先には、クラウスが立っていた。

 彼はrelierによる空間の誘引力を働かせていた。
 引き寄せられた無数の指が、禍々しい群れとなって彼へ殺到している。
 クラウスは逃げない。右手を前へ掲げ、迫り来る供物の雨を正面から受け止めようとしていた。

 ルートブレイカーによって、掌に触れた指が、次々と消滅していく。
 √能力無効化の力が、供物として怪異と共に式神化された指の働きを断ち切っていた。
 指は触れた端から形を失い、黒い靄の欠片となって散る。クラウスの前だけに、小さな空白が生まれていた。

 しかし、その空白はあまりにも狭い。
 三体分の攻撃を、片手の掌だけで受け切れるはずがなかった。
 消しきれなかった指が左右から溢れ、肩へ、腕へ、脇腹へ、脚へと群がっていく。クラウスは魔力防御を全身へ張ったが、指はその守りごと掻き毟った。

「ぐううあぁぁ!」

 痛みが、彼の声を引き裂いた。
 布地が破れ、皮膚が削られ、血が散る。
 群がる指は刃物ではない。しかし、衣服の上から肉を抉り、護りを剥がし、獲物の身体へ喰らいつくように損傷を広げていく。

 それでもクラウスは膝を折らなかった。
 仲間を守るために引き受けた攻撃だ。ここで倒れれば、引き寄せた意味がなくなる。
 噛み締めた歯の隙間から息を吐き、高速詠唱で魔法を組み上げる。

「雷光よ、貫け……!」

 雷撃が放たれる。
 青白い光が室内を裂き、三体の指千ノ魔へ叩き込まれた。
 電流を受けた怪異たちは、指の集まりを痙攣させるように震え、焦げた臭いを漂わせる。
 先にエレノールに抉られていた個体は損耗に耐えきれず、白い長襦袢の姿を保てないまま崩れ落ちた。

 術者を失ったことで、クラウスを離れて床へ散った指は、もう動かない。
 それでも、攻撃の全てが止まったわけではなかった。

 剥がれた指は全体の一部で、なおも肉を削り続けている。彼の足から力が抜け、膝が畳へ落ちた。

 そこへ、和装の少女へ化けていた指千ノ魔が近づいていた。
 足取りは不安定だ。すでにシアニが壁を壊した影響を受けているのだろう。和装の端は乱れ、青い袴の奥から指がこぼれている。
 それでも少女の姿を借りた怪異は、手斧を振り上げた。

 狙いは、動けないクラウスの首筋だった。

「させません!」

 エレノールが踏み込む。
 ティルフィアの刃が、手斧を振り下ろそうとした腕を断った。
 腕は手斧ごと畳へ落ち、少女の口が声にならない悲鳴の形に歪む。続けて放たれた斬撃が、肩口から胴へ斜めに走った。

 袈裟に斬られた少女の身体がずるりと崩れる。
 白い着物も、青い袴も、書物めいた道具も、すべてが作り物だったと示すように剥がれていった。
 残ったのは無数の指で作られた塊であり、それもすぐに力を失って畳へ散らばる。

 エレノールは止まらない。
 雷撃による痺れで動きの鈍った残り二体へ、ティルフィアを構えて走る。精霊の加護が足元を支え、黄金の闘気が刃を押し出した。その軌跡を星光が走る。

 なぎ払われた者たちは再生しようとしたが、すでに指占ノ間の呪術は大きく崩れている。散った指は集まり切れず、床の上で力なく停止するだけだった。

「クラウスさん!」

 エレノールはすぐに駆け寄った。
 クラウスは血に濡れた腕を支えながら、どうにか顔を上げる。服は裂け、肩や脇腹には深い傷が刻まれていた。
 普通なら立っていることすら困難な負傷だ。それでも彼は、いつもの調子を取り繕うように笑みを作る。

「助かったよ、ありがとう」

「こちらこそ、助かりました。もう少しでこちらがそうなるところでしたが……無茶をし過ぎです」

 エレノールの声には、叱責と安堵が同時に含まれていた。
 クラウスは苦笑しようとしたが、痛みが表情を歪ませる。それでも彼は、己の無茶を悔いる様子を見せなかった。

「誰かが傷つくところは、もう見たくないんだ……」

 言葉の最後は、掠れていた。
 あの悪夢を見たせいで、今は余計に。そう続けたかったのを、彼は堪えた。
 戦友を失った記憶と、目の前の仲間を守りたい意地が、彼の中で複雑に重なっていた。

 エレノールは何か言いかけ、結局は小さく頷くに留めた。

 雅は、崩れかけた残りの指千ノ魔と向き合っていた。

「あなたが最後の一人のようですね」

 それもまた歩くたびに指がこぼれ、腕を持ち上げればその重みに耐えきれないように肩が歪む。それでも前へ進む。痛みも限界も分からないまま、ただ現世に縋るように。

「うううううぅぅぅ……」

 唸り声が漏れたが、雅は迷わず踏み込んだ。

 霊力を宿した拳が、怪異の胸部に叩き込まれる。
 先ほどまでの曖昧な手応えとは違い、今度は防護の奥まで衝撃が通った。
 防護ごと内側へ衝撃が届き、当たった箇所から指が爆ぜるように散る。

 最初に見せていた耐久力は、もう失われていた。
 それでも怪異は退かない。

「にくい……」

 その口から、初めて言葉らしきものが漏れる。
 雅は眉を動かしたが、拳は止めなかった。

「にくい……ゆるさない……にくいゆるさないにくいゆるさないにくいゆるさない……」

 言葉は次第に崩れ、ただ怨嗟の音だけが残っていく。
 誰に向けた憎悪なのか、もはや本人にも分かっていないのだろう。
 崎元家なのか。自分を壊した者たちなのか。助けられなかった世界なのか。奪われた子の記憶なのか。
 すべてが混ざり、ただ消えたくないという執着だけが残っている。

 怪異の手が雅の肩へ触れた。
 鋭い痛みが走り、着物の下で肉が抉れる。血が滲み、肩口が熱を持つ。それでも雅は後退しなかった。

 この痛みは、指千ノ魔がなお生きようとする痛みだ。
 怨みを利用され、呪いとして留められ、長い時を閉じ込められてきた。その根幹である部屋を壊された今、彼女たちはようやく解放されるはずだった。
 けれど、その解放は同時に、存在の終わりでもある。

 だから、しがみつく。
 怨みを消したくない。
 己が存在したことを、なかったものにされたくない。

 しかし、そこに母としての願いはもうほとんど残っていなかった。
 子を想う心も、理不尽に抗った意志も、呪いの中で擦り切れ、最後に残ったのは手負いの獣にも似た執念だけだった。

 雅は静かに目を細める。
 これはもう母ではない。
 母であったものの、哀れな成れの果てだ。

「正義のつもりはありません。ただただ醜く、腹立たしい。消え失せなさい」

 雅の拳が、嵐のように叩き込まれた。
 肩を抉られても構わない。肉を削られても、足を止めない。
 拳に霊力を込め、妖としての膂力を乗せ、目の前の呪いを一撃ずつ砕いていく。

 白い長襦袢が裂け、その下にある供物の塊がむき出しになる。
 最後の一撃は、頭部にあたる場所を捉えた。霊力が内側へ突き抜け、そこに集まっていた指をまとめて吹き飛ばす。

 指千ノ魔は、支えを失ったように崩れ落ちる。
 周囲に残ったのは、もう動かない夥しい指だけだった。

「これで全部倒せたのかな?」

 崩れた指占ノ間の壁から、シアニが顔を出して周囲を確認する。

 喉にはまだ掴まれた痕が残り、呼吸にもかすかな引っかかりがあった。それでも彼女の目には、戦いを投げ出す気配などない。

 クラウスは傷口を押さえながら、赤く濁った部屋の奥へ視線を巡らせた。

「ああ、そうだね。リンドーに当たっている二人は大丈夫かな?」

「まだ戦っているかもしれません。動ける人ですぐ助けに行きましょう!」

 エレノールが声を上げる。
 雅は肩口の血を指先で軽く押さえ、涼しい顔で頷いた。

「無傷とは言えませんが、私は大丈夫ですよ」

 彼女の傷は浅くない。だが、戦えないほどではなかった。
 クラウスもまた、壁に手をつきながら立ち上がる。負傷の重さで顔色は悪い。しかし、視線はすでに中庭の方を向いている。

「俺も大丈夫……行こう」

 誰も、完全な状態ではなかった。
 それでも彼らは足を止めない。指占ノ間で散った怨念を背に、仲間たちが戦う中庭へ向かって駆け出した。

 ●

 中庭へ移されたリンドー・スミスを、紫水、リリンドラ、茲の三人が異なる方角から見据えていた。

 乾いた風が庭木を揺らし、葉擦れの音を細く響かせている。その穏やかさとは裏腹に、三者の立ち位置には明確な意図があった。正面には霊剣を携えたリリンドラ、斜め後方には武侠剣を手にした茲がおり、紫水は二人の動きへ即応できる距離を保っている。

 誰か一人へ狙いを絞れば、残る二人が死角へ踏み込んでくるだろう。全員を牽制しようとすれば、攻め手は鈍る。リンドーは敵意に満ちた視線を受けながらも不用意に構えを変えず、三人の呼吸と重心を観察していた。

(あまり時間をかけたくないというのが本音なのだがね)

 屋敷の内部に残してきた指占ノ間は、長い歳月を費やして|呪《しゅ》を積み重ねた希少な遺物でもある。戦闘に巻き込まれて術式を損なわれる前に確保し、そこから現れた指千ノ魔も、可能な限り多く回収しておきたい。

 ここで足止めを受ける時間が延びるほど、望ましい成果から遠ざかっていく。屋敷内で戦う√能力者たちは、怪異を討ち果たすだけでなく、儀式の土台そのものを破壊する可能性さえあった。

 だからといって、焦って先手を取るのも得策ではない。
 こちらから不用意に踏み込めば、攻撃を受け止めた後の隙へ別方向から刃を差し込まれるだろう。
 相手の初動を見極め、それに適応しながら最善の怪異を選び取る方が、彼の戦闘様式にも適している。

 リンドーは指先一つ動かさず、張り詰めた均衡が崩れる時を待つ。
 最初に沈黙を破ったのは、紫水だった。

「いつまでも睨み合っていては、せっかくの舞台が冷えてしまう。ならば僭越ながら、この私が開幕の一太刀を務めようか」

 軽やかな口調とは裏腹に、踏み出した足には一切の迷いがない。
 紫水の両手に、対を成す霊斬刀、風と雷が握られる。二刀を低く構え、彼は庭石の間を縫うように間合いを詰めていく。

 最短距離を進みながらも軌道を小刻みに変え、リンドーの視線と攻撃方向を揺さぶっている。

 その挙動にリンドーの背後に巣食う怪異が反応した。
 黒緑の靄の内側で蠢いていた幾つもの眼が、紫水へ向けて一斉に開く。不自然な光が瞳孔の奥へ集まり、次いで細く鋭い光線となって中庭を貫く。

 光線が紫水の胸元をかすめ、背後にあった庭石へ穴を穿つ。彼は足を止めず、横手へ回り込みながら雷の刃を振り上げた。

 紫水が側面を取った時、リンドーは後退を選ばなかった。斬撃を避けるために距離を置けば、続く二刀の連携へ主導権を渡すことになる。彼はむしろ紫水へ向かって踏み込み、刃が最大の威力へ達する前に間合いを潰した。

 怪異と融合した右腕が、大きく脈打つ。
 三本の巨大な爪が根元から歪み、黒い肉を押し分けながら一つへ集まった。硬質な爪の形は失われ、代わりに獣の頭部が紫水の眼前へ迫り出す。裂け目のような口が左右へ広がり、その内側には鋭い牙が覗いていた。

 紫水は刃を返そうとしたが、すでに近すぎる。
 魔獣の顎が閉じ、刀を握る彼の腕へ深々と噛みついた。

「ぐあっ!」

 牙が衣服を突き破り、その下の肉へ食い込む。
 刃を握る指から力が抜けかけ、傷口から溢れた血が袖を赤く濡らした。
 紫水が腕を引こうとするほど牙は肉を裂き、魔獣の頭部は獲物を逃がすまいと顎へ力を込めていく。
 リンドーは紫水の苦痛を確かめるように、冷ややかな笑みを浮かべた。

「実に容易い」

 顔を歪めながらも、紫水の口元には強がりだけではない笑みが残っていた。

「助かるよ、これはピーキーな能力でね――どうか、力を貸してヒメ様」

 その呼びかけに応じ、紫水の背後から異形の腕が生え出した。
 一本に留まらない。肩の後ろ、脇腹の傍、背中の左右から、女神のものを思わせる白い腕が次々と伸びてくる。その数は、紫水の腕へ刻み込まれた噛み傷と同じだった。

 傷を受けることによって、神性の腕を増やす能力が働いているのだと理解できるほど、その増殖は明確だった。

 避けられなかったのではなく、能力を働かせる代価として、あえて一撃を受けたのだと理解した時には、すでに白い腕の一本が掌を開いていた。

 細い指の上には、小さな石が載せられている。
 それが掲げられると、内側から淡い光が溢れた。柔らかな輝きは正面に立つリンドーの全身を包み込む。

「ぬうっ」

 リンドーの喉から低い呻きが漏れた。
 光を浴びた箇所から痺れが走り、怪異と融合した右腕がわずかに垂れ下がる。紫水を噛み締めていた魔獣の顎も緩み、彼は傷ついた腕を強引に引き抜いた。

 完全に動きを封じられたわけではない。だが、指先から脚へ広がった麻痺が、リンドーの反応を鈍らせている。
 紫水は血に濡れた袖を押さえながら後方へ退き、芝居の合図を送るように腕を大きく振った。

「よし、リリンドラ嬢たち、任せたよ!」

「任されたわ。ここなら|本気《・・》が出せるもの」

 リリンドラが霊剣を下ろし、空いた両腕を左右へ広げた。
 中庭へ轟音が落ちる。
 雲間から雷が降り注ぎ、彼女を囲むように地面を穿った。一本では終わらず、二本、三本と立て続けに落雷が重なる。青白い電光の柱が庭を照らし、巻き上がった土と石片が周囲へ散った。

 雷の中心に立つリリンドラの身体が、深い影へ包まれていく。
 肌と衣装は銀灰色と黒鉄色の鱗へ置き換わり、長い胴と尾が伸びると、背中から二対の大翼が広がった。
 中庭へ降り立ったのは、人の身を捨てた巨大な竜であり、その姿こそが彼女の能力|正義完遂《アクソクメツ》によって変化した|黒曜真竜《オブシディアンドラゴン》だった。

 黒曜真竜の眼はリンドーへ集中していた。真竜としての膨大な力を、ただ一人へ余すところなく叩きつけるための眼差しである。

「ここまで転送したのは、このためかな?」

 リンドーの問いに、リリンドラは答えなかった。
 言葉を交わす代わりに、巨体が大地を軋ませる。後方へ引かれた長大な尾が庭木を薙ぎ、遠心力を伴いながらリンドーへ迫った。

 麻痺の残る脚では、完全な回避が間に合わない。
 リンドーは怪異を纏う右腕を前へ出し、大きく開いた魔獣の顎で尾へ噛みつき、牙を鱗の隙間へ食い込ませることで勢いを止めようとする。
 しかし、腕の延長である獣頭と、真竜の尾とでは、比較することさえ虚しくなるほど質量が違っていた。

 牙が黒い鱗へ触れた直後、魔獣の首が強引に横へ引きずられる。リンドーは両足を踏み締めて耐えようとしたが、庭土に刻まれた靴跡が長く伸び、やがて身体ごと持ち上げられた。

「ぐおおっ!」

 尾が振り抜かれ、リンドーの身体が中庭を横切って飛ばされる。
 空中で何度も姿勢を崩した末、彼は石灯籠へ背中から激突した。石材が耐えきれず砕け、その破片と共に地面へ転がる。
 舞い上がった土煙の内側で咳き込みながらも、リンドーは腕をついて上体を起こした。

「真竜が相手では、魔獣も文字通り歯が立たないようだ……」

 真竜の尾撃をまともに受けた衝撃は、怪異を纏わせた防護を通してなお肉体の芯へ食い込んでいたらしく、呼吸のたび胸の奥に鈍い痛みが走っている。

 彼がゆっくりと身を起こすに従い、全身へまとわりついていた黒緑の靄が脈打つように膨らみ始める。
 外套の背が内側から押し上げられ、布地を破りながら薄い蟲翅が突き出した。半透明の翅には濁った色の筋が何本も走っており、震えるたび耳障りな羽音が庭の空気を細かく刻んでいく。
 人の背中へ無理やり別種の器官を継ぎ足したような異様さは、それだけでも十分に不気味だったが、さらに紫水たちの視線を引いたのは左腕の変化だった。

 袖の先がぬめるように膨れ、肘から先の形が崩れる。
 骨格が軋みながら伸び、皮膚の下で肉が脈打ち、手首のあたりから赤黒い組織が裂けるように表へせり出した。
 できあがったそれは節を持つ異形の前肢を思わせ、その先端だけが鋭く長く伸び、鎌にも見える白銀の刃。

 さらに脚もまた、彼のものではなくなりつつあった。
 靴の周囲から溶けた墨のような闇が滲み出し、裾を巻き込みながら地面へ広がっていく。その黒は背後に漂う怪異の塊と溶け合い、下半身そのものを不定形へ変えていた。

 黒曜真竜と化したリリンドラは、その完成を待つつもりなどなかった。
 巨大な胸郭が大きく上下し、圧縮されたプラズマの奔流が一直線に吐き出される。

 リンドーは蟲翅を激しく震わせ、上空へ逃れようとした。だが、麻痺を抱えたまま無理に飛翔しようとした反動はごまかしきれない。右の翅はどうにか動いたものの、左はわずかに遅れ、身体は思うように持ち上がらない。

「ぐぬ……!」

 彼は本流を外すことには成功したが、掠めるだけで済む攻撃ではなかった。
 白熱した流束が左の蟲翅を舐め、薄膜を一気に焼き裂く。翅脈に沿って火が走り、焦げた破片が散りながら宙へ舞う。
 揚力の均衡を失った身体はそのまま大きく傾き、回転しながら中庭へ落下した。

 そこへ息をつく暇は与えず、紫水の負傷から生じた白い腕が、幾筋も突き出されてくる。
 それぞれの手には、神力を纏った独鈷杵が握られていた。

「せっかく地にお戻りいただいたのだ。盛大な歓迎を受けていただこうか!」

 紫水が声を張ると、多数の腕が一斉に独鈷杵を突き出した。
 リンドーの外套から触手が噴き出し、頭部と胸元を守るように絡み合う。
 だが、一気に襲いかかるそれのすべてを捌き切ることはできない。

 一本は肩口を貫き、もう一本は脇腹へ深く食い込んだ。

「ぬぅっ……!」

 傷口から血が溢れ、黒い衣をいっそう濃く染める。リンドーは眉根を寄せながらも、左腕の生物刃を大きく払って追撃を牽制する。

 その動作を終えるより早く、黒曜真竜の巨体が眼前へ迫る。
 四肢が大地を踏むたび地面が沈み、尾が唸るたび空気そのものが殴られたように震える。

 黒曜真竜の背へ身を潜めていた茲が、黒い鱗と鬣の陰から勢いよく飛び出し、銀髪が上へ弧を描く。
 両手で握った武侠剣を頭上高く掲げ、そのまま落下の重みを残らず乗せて振り下ろした。
 狙いは頭頂。

「二度もかからんよ」

 リンドーは上を見ず、外套の裾から触手を走らせた。
 何本もの触手が武侠剣へ絡みつき、刃が届く寸前でその動きを封じる。粘つくような拘束に剣身が軋みを上げたところで、背後の眼が茲へ向いて開かれた。瞳孔の奥へ熱が集まり、至近距離から光線を浴びせる構えに入る。

 だが、茲は武器を惜しまなかった。
 発射より一拍早く柄から手を離し、自ら身体を沈める。放たれた光線は彼女の頭上を掠めて空へ抜け、その直後、落下の勢いを乗せた膝がリンドーの顔面へ叩き込まれた。
 鈍い衝突音とともに、リンドーの上体が揺らぐ。

「これもどうぞ!」

 茲はそこで止まらず、着地した足で深く踏ん張り、掌打を胸元へ打ち込んだ。気功を伴う衝撃が外套越しに浸透し、すでに傷ついていた箇所へ重く響く。

「必要なら体ごとぶつけてでも止め続けるよ」

「その勢いがいつまで持つか……っ!」

 リンドーは苦鳴を漏らしながら後退するが、そこに再び黒曜真竜の尾が容赦なく叩きつけられる。
 異形を重ねた肉体が大きく折れ、彼は血を吐きながら中庭を転がった。
 左腕の生物刃を地面へ引っ掛けてどうにか勢いを殺したものの、立ち直るまでには明らかな遅れが生じている。

(この私が敵の見落としを? 油断したつもりはなかったのだが……)

 真竜に身を隠す茲にまるで気付かなかった。
 最初の尾撃を受けた時、リリンドラは物理的な打撃だけでなく、|正義媒鳥《アクノモウシツ》の呪いを接触とともに混ぜ込んでいたのだ。

 つまりリンドーは、知らぬうちにリリンドラばかりを注視させられていたのである。

 紫水は傷ついた腕で霊斬刀を握り直した。
 麻痺が残っているうちに攻めの流れを手放さない。リリンドラの圧倒的な圧力を軸として、茲が死角から踏み込み、紫水がその綻びへ次の手を差し込む。

(即席の舞台にしては、上々の出来だ。ならば幕が下りるまで、このまま追い詰めるとしよう)

 紫水はそう胸中で呟く。最初こそ戦力不足を懸念していたが、茲も加わったことで状況はむしろこちらの有利へと大きく傾いている。

「ふむ、少々侮っていたことは認めよう」

 リンドーは尾撃の進路から身を外すと、中庭を横切るように疾走した。
 その動きは、ヒメ様の石によって麻痺を受けているとは思えないほど俊敏で、真竜が振るう長大な尾の間合いから一息に離れていく。

(馬鹿な、まだ麻痺は続いているはずだろ)

 その答えは、半ば液状化した脚の下にあった。
 黒い泥のように広がっていた下で、獣の背と四肢が隠されていたのだ。
 加速していく中で姿を明確にさせたのは、長い胴と発達した脚を備える四足獣だった。
 地面を掴む爪は深く土を抉り、裂けた口には獲物を噛み砕くための牙が幾重にも並んでいる。

 リンドーはその背へ腰を落とし、自分の脚を使わずに移動していたのだ。
 黒い獣は長い胴を深く沈め、庭石を蹴り越えながら地面すれすれを駆けていく。裂けた口には不揃いな乱杭歯の牙が幾重にも並び、発達した四肢が庭土を掻くたび、土塊が後方へ激しく跳ね飛んだ。

 リンドー自身は手綱すら取っていない。半ば液状化した脚を獣の背へ沈めるように固定し、騎乗した姿勢のまま黒曜真竜を見上げていた。

 黒曜真竜は長い首を巡らせ、白青の光を口腔へ収束させる。

 圧縮されたプラズマが続けざまに放たれ、一条目が四足獣の正面を焼いた。獣は前脚を強く突いて横へ跳び、溶けた庭土の脇へ着地すると、そのまま速度を落とさず駆け続ける。

 二条目は進路を塞ぐように走ったが、四足獣は高く跳躍してやり過ごした。

 三条目が着地点を狙ったものの、四足獣は地へ降りるなり後脚で土を蹴り、鋭くつんのめりながらプラズマを通過させた。
 着弾のたび中庭の地形が削られる中、獣は熱と土砂の間を縫うように疾走していく。

「どうやら私は、ずいぶんと君へ注目するようになっているらしい」

 リンドーは|正義媒鳥《アクノモウシツ》によって認識を偏らされていると理解しながら、真竜の顎と首の動きを見据えた。

「だが、よく見ている分、次にどこを狙うかも分かりやすいものだよ」

 真竜の尾が低く薙ぎ払われると、四足獣は前脚を畳んで大きく跳び越えた。

 その背から離れることなく、リンドーは左腕の生物的な刃を振るう。湾曲した刃先が尻尾を薙いだものの、銀灰色と黒鉄色の鱗には傷一つ刻まれない。

 獣が着地した直後、背後の眼から放たれた光線が真竜の胸部を射抜く。赤い光は鱗の表面を眩しく照らしただけで、焦げ跡さえ残さなかった。

 続いて束ねた触手を翼の付け根へ叩き込むが、その先端は硬い鱗に阻まれて逆に潰れる。

 どの攻撃も、真竜化したリリンドラには一切通じていない。
 それでもリンドーは四足獣を走らせながら、攻撃を淡々と重ね続けた。光線、触手、生物刃、魔獣の牙で、異なる部位へ攻撃を加えていく。

 黒曜真竜が反撃のプラズマを吐けば、四足獣は加速と跳躍を繰り返して回避する。リンドーは獣の背へ身を預け、真竜から視線を外すことなく攻撃の隙を窺っていた。
 紫水はその執拗さに、単なる悪あがきとは異なる意図を感じ取る。

「効かないと分かっていて、まだ続けるのか」

「ちょーっと目まぐるしくて混ざれないなー!」

 紫水と茲はなんとか攻め手に加わりたいと思うものの、四足獣の速度とそれを追うように苛烈さが増していく真竜の攻撃により、タイミングを逸している状態だった。

 四足獣が何度目かの大跳躍を繰り出すと、リンドーの外套から黒緑の靄が膨れ上がった。
 怪異の群れが牙を剥き出しにして飛び出し、紫水と茲へ殺到する。

 それらに注視していると、リンドーの傍らに寄り添う仮面の眼窩へ不気味な光が集まり、広範囲の熱射が地上へ放たれた。
 怪異の群れを巻き込むことにも構わず、牙と触手、熱と衝撃が入り乱れて紫水たちを押し潰そうとする。

「無茶苦茶だ……!」

 紫水は風を振るい、正面から飛びかかった獣の首を斬り払った。
 横から迫る触手へ雷を返し、絡みつかれるより早く断ち切る。背後へ回り込んだ獣には、ヒメ様の腕が独鈷杵を突き立てた。頭部を穿たれた怪異が崩れる間にも、仮面から放たれた熱放射が紫水の肩口を掠めていく。

 衣服が焦げ、露出した皮膚へ焼けつく痛みが走った。

 風と雷、そしてヒメ様の腕で迫る怪異は捌けても、広い範囲を焼く熱までは防ぎ切れない。紫水は痛みを押し殺し、絶え間なく押し寄せる獣と触手へ二本の剣を振るい続けた。

 茲も両腕で巧みに異形の牙を受け流し、振り上げた蹴りで顎を砕く。
 身軽に四方から迫る怪異をほぼ同時に対処する、機敏さと武術の両方が揃って初めてこなせる業前だった。 
 別方向から伸びた触手を手刀で断ったところへ、仮面の熱放射が地面を舐めた。
 茲は横へ跳んで直撃を免れたものの、爆ぜた熱風を浴びて外套と脚を焦がされる。

「熱っ……!」

 気功を全身へ巡らせ、火傷の痛みを堪えながら着地する。構え直した時には、すでに次の獣が眼前まで迫っていた。

 激しい攻撃で庭土が抉られ、中庭一帯へ濃い粉塵が舞い上がる。
 紫水と茲の姿は薄茶色の煙幕へ隠れ、牙の鳴る音、剣戟、触手が地面を打つ響き、仮面の熱放射が炸裂する轟音だけが絶え間なく続いていた。

 黒曜真竜の竜眼にとって、その粉塵は視界を遮るものではない。
 地上を埋める怪異の動きも、その中で戦う二人の位置も明瞭に捉えられる。このまま群れの攻勢を許せば、紫水と茲が物量に呑まれてしまう。

(まずいっ!)

 真竜は首を下げ、味方を巻き込まない角度からプラズマを地上へ放った。
 白青の奔流が怪異の群れを横薙ぎにし、獣たちをまとめて焼き尽くす。触手は高熱に炙られて炭化する。

 だが、焼き払われた群れの中にリンドーはいない。
 大量の怪異と粉塵は、紫水たちを攻めるためだけでなく、騎乗する彼自身の動きを隠すための囮でもあったのだ。
 真竜は長い首を巡らせ、竜眼で中庭全体を探る。どこだ。どこにいる。

「こちらだよ」

 背後から声が届く。
 四足獣は粉塵へ紛れて黒曜真竜の後方まで回り込み、瓦礫を足場として高く跳び上がっていた。その背に留まったまま、リンドーは眼からの光線を連続して撃ち込む。

 赤い光が真竜の背中から翼へ幾度も命中したものの、鱗には焦げ跡すら残らない。
 四足獣が地面へ着地すると、リンドーはそのまま黒曜真竜の後方を駆けながら仮面の熱放射を重ねていく。

 すべて無効化されると分かっていても、彼の攻撃は止まらない。四足獣の機動力で尾とプラズマを避けながら、真竜の身体へ一定の間隔で攻撃を浴びせ続けていた。

 黒曜真竜が背後へ向き直ろうとした時、巨体の動きが急激に鈍った。
 首を巡らせる力が弱まり、翼も思うように持ち上がらない。四肢は地面へ深く沈み、胸の内で燃えていた竜の力が急速に衰えていく。

 |黒曜真竜《オブシディアンドラゴン》としての巨体を維持し、尾撃やプラズマを放つだけでも膨大な竜漿が必要となる。
 加えて、リンドーの攻撃は、傷を与えることが目的だったのではない。
 あらゆる攻撃を打ち消し無効化する絶対の防御能力。しかし、そのたび内側では相応のリソースが支払われていたのである。

 銀灰色と黒鉄色の鱗が薄い光へ変わり、巨体の表面から剥がれ始める。
 翼が消え、長大な尾も光が散るよう形を失った。中庭を圧していた真竜は急速に小さくなり、元の少女の身体が空中へ放り出される。

 リンドーを乗せた四足獣は、落下するリリンドラを追って地面を駆けた。
 意識が薄れていく少女へ、眼から放たれた光線が連続して浴びせられる。

「あああぁぁぁっ!」

 火傷の痛みで意識が戻りかけたものの、身を守っていた防御も、姿勢を制御する翼も残されていない。
 四足獣が力強く大地を蹴り、リリンドラと並ぶ高さまで跳躍した。

 獣の背から身を離さず、リンドーは右腕の魔獣を突き出す。大きく裂けた顎と爪が、落下するリリンドラの脇腹へ深く食い込んだ。

「かふっ……」

 押し出された息へ血が混じり、少女の身体が大きく折れる。

「己の姿をすぐ保てなくなる。不完全な竜とは哀れなものだ」

 リンドーが魔獣の腕を振り下ろすと、リリンドラは落下の勢いを増して地面へ叩きつけられた。四足獣は彼女から離れた場所へ着地し、土を深く抉りながら速度を落とす。

 中庭にできた窪みの中央で、リリンドラは身じろぎ一つしなかった。

 熱射と脇腹の深手、墜落の衝撃が重なり、意識は完全に途切れている。

「まず一人」

 四足獣の背から倒れた少女を見下ろし、リンドーは戦果を数えるだけの平坦な声で告げた。

「リリンドラ嬢!」

 地面へ叩きつけられたリリンドラの姿を認めるなり、紫水は叫びながら駆け出した。

 脇腹を深く抉られたうえ、真竜化を解かれた高度からまともに墜落している。倒れた身体は身じろぎ一つせず、傷口から流れた血が土へ広がり始めていた。
 戦闘中であることを承知しながらも、一刻も早く手当てを施さなければならなかった。

 だが、四足獣を駆るリンドーが、その進路へ割り込んでくる。
 リンドーは騎乗したまま上体を低く伏せ、逃げ道ごと押し潰す勢いで紫水へ迫る。
 四足獣が大顎を開き、その上から魔獣と化した右腕が喰らいつこうと首を伸ばしていた。さらに左側では、赤黒い肉と外殻に包まれた生物的な刃腕が低く引かれ、横薙ぎに切り裂く機会を狙っている。

 三方向から重なる攻撃を見極め、紫水は風と雷を構え直した。
 正面の顎をかわしながら右腕を受け、左の刃をもう一振りで逸らす。頭の中ではそう順序を組み立てたものの、踏み出そうとした脚が思うように動かない。

「なっ……?」

 足元へ目を向けると、リンドーの不定形な黒い液体が、地面を伝い両脚へ絡みついていたのだ。
 粘り気を帯びた闇が足首から脛へ這い上がり、紫水の動きを封じ込めている。

 拘束へ意識を奪われた隙に、四足獣の頭部が眼前まで迫った。
 大きく裂けた口が紫水の肩へ喰らいつき、乱杭歯が衣服を破って肉へ沈む。

「がああ!」

 肩部を挟み込まれた激痛に、紫水の身体が強張った。
 牙は獲物を固定するだけでなく、噛み砕くためにさらに圧力を増していく。
 紫水は両手の剣を振るおうとしたが、激痛で十分な力を込められない。

 代わりに、傷へ呼応して新たな白い腕が背後から生えた。
 ヒメ様の腕は、現れた当初から独鈷杵を握っている。一本が四足獣の額へ刃先を突き立てると、続く腕も左右から頭部へ襲いかかった。

 神力を帯びた法具が、同じ箇所へ何度も打ち込まれる。
 眼窩を穿ち、頭頂を裂き、顎の付け根まで容赦なく貫く様は、祈りに用いる法具の扱いとは到底思えない苛烈さだった。
 四足獣は苦しげに頭を振ったものの、白い腕はしがみつくように追従し、硬い頭蓋が耐えきれなくなるまで独鈷杵を突き立て続ける。
 やがて顎から力が抜け、紫水の肩を挟んでいた牙が緩んだ。

「法具とは思えぬ野蛮さだ」

 リンドーは嘲るように言い捨て、仕留められた四足獣の背から地面へ降りた。
 黒く液状化していた部位は人の脚へ戻っている。
 着地には麻痺の影響が残り、片足がわずかに沈んだものの、彼は崩れた姿勢をすぐに立て直した。

 紫水は肩を押さえながら後退しようとする。
 その動きを、リンドーの背後に浮かぶ眼が捉えた。

 瞳孔の奥へ不気味な光が集まり、細い光線が放たれる。紫水は身体を捻ったが、負傷と足元の拘束によって回避が遅れる。

「痛ぅ!」

 焼けた衣服から煙が上がり、皮膚へ鋭い熱が食い込む。
 腹部の出血と火傷が重なり、紫水の膝が大きく揺れた。倒れ込みつつ刃を地面に突き立てて脚に絡みつく拘束を裂く。

 その間にリンドーは生物的な刃へ変じた左腕を持ち上げた。

「ふた……」

 二人目と告げながら首を刎ねるつもりだったのだろう。
 だが、振り抜かれるはずだった刃腕は、横合いから飛び込んできた茲によって止められた。

 銀髪を靡かせ、茲は背からリンドーの胴へ激突する。
 単に勢い任せで身体をぶつけたのではない。剛体気功を巡らせ、全身を強固な武器へ変えたうえで、踏み込みと体重と気を一点へ叩き込む靠撃だった。

「ごふうっ!」

 リンドーの身体が折れ、受け身を取る猶予もないまま、彼は刃腕を振るえない姿勢で横へ吹き飛ばされる。

「体ごとぶつけてでも止めるって言ったじゃん」

 威勢よく言い切った茲だったが、その身体にも余裕はほとんど残されていなかった。

 怪異の群れへ紛れて放たれた熱射を何度も受け、外套の各所は焼け焦げている。
 肩から脇腹にかけて赤く爛れた皮膚が露出していた。靠撃を放った反動も全身へ重く返り、息を吸うだけで胸や背中に痛みが走る。

 本音を言えば、泣き喚きながら地面を転がり回りたかった。
 それでも茲は足を踏ん張り、両手を強く握る。ここで自分まで弱音を吐けば、倒れたリリンドラへ辿り着ける者がいなくなる。

(痛いけど、まだ頑張る。私は強い子だから)

 胸中で自らを励まし、茲は紫水とリリンドラを交互に見た。

「二人とも大丈夫?」

「私は、どうにか……けれど、リリンドラ嬢が」

 紫水は肩を片手で押さえながら答えた。指の隙間から滲む血は止まらず、言葉通り辛うじて立っているだけで、決して無事と呼べる状態ではない。

 それでも二人の意識は、倒れたリリンドラへ向いていた。
 土の窪みに横たわった少女は微動だにせず、脇腹から流れる血が衣服と地面を濡らしている。呼吸が続いているかどうかさえ、離れた場所からでは確かめられなかった。

「急いで応急処置だけでも……っ」

 茲は焼けた脚を引きずりながら、リリンドラのもとへ駆け出した。
 靠撃で吹き飛ばしたリンドーは、まだ地面へ片膝をついている。仮面が動く気配もなく、今ならわずかでも距離を稼げると判断し、背後への警戒を残しながら足を進めた。

 その背へ、空気を裂く鋭い音が立て続けに迫る。
 茲は咄嗟に身を捻ったものの、疲労した身体は思うように反応しなかった。
 最初の刃が肩へ突き刺さり、続いて脇腹を貫く。さらにもう一本が腿へ食い込み、前へ出そうとしていた脚から力を奪った。

「うあっ……!」

 茲はたたらを踏み、倒れそうになった身体をどうにか支える。
 刺さった刃へ目を向けたところで、その正体に気づいた。短く鋭い両端へ神力を残すそれは、ヒメ様の腕が操っていた法具に他ならない。

「これは、独鈷杵……!」

 先ほどまでリンドーの肩や脇腹へ突き立っていたものだった。
 靠撃を受けて吹き飛ばされながらも、彼は自分と斃れた四足獣の身体から独鈷杵を引き抜き、立ち上がるより早く茲へ投げ放っていたのである。

 背後で、土を踏み締める足音が近づいてきた。
 茲は痛みに歪んだ顔を上げ、肩越しに振り返る。
 独鈷杵を抜いた傷から血を流しながら、リンドーが刃腕を引きずるようにして歩み寄っていた。
 麻痺と負傷によって足取りは乱れているが、その眼差しには標的を逃がすつもりが欠片もなかった。

「こんのっ……!」

 茲は歯を食いしばり、身体へ突き刺さった独鈷杵をそのままにして踏み込んだ。

 ここで退けば、背後に倒れているリリンドラへリンドーを近づけてしまう。
 肩と脇腹を貫く痛みを無理やり意識の外へ押し出し、残された気功を右腕へ集めながら拳を引いた。

 正面から迫るリンドーも、決して万全ではない。
 靠撃によって胸部へ深い衝撃を受け、口元から流れた血が顎を伝っている。ヒメ様の独鈷杵を引き抜いた傷も塞がっておらず、麻痺の残る脚は踏み出すたびわずかに揺れていた。

 茲は最後の一歩を強く踏み込み、腰の回転を乗せた拳をリンドーの胸へ突き出した。剛体気功を一点へ凝縮し、触れさえすれば再び内側から打ち砕けるだけの威力を込めている。

 だが、拳が届くよりも早く、リンドーの左腕が動いた。
 赤黒い外殻に覆われた異形の腕が触手のごとく伸び、その先端に備わる生物的な刃が、茲の胴へ深々と突き立てられる。

「ぁ……」

 拳はリンドーの胸元まで届かず、刃を受けた身体が大きく震え、茲の唇から細い息が漏れる。
 全身へ巡らせていた気功も維持できなくなり、固めていた筋肉から力が抜けていった。

 リンドーが刃腕を引き抜くと、茲は傷口を押さえることさえできずに膝を折り、力なく横へ崩れ落ちる。

「これで二人目だ……」

 彼は刃腕を元の長さに戻すと、残る一人へゆっくりと顔を向けた。

 紫水は、その光景を止めることができなかった。
 リリンドラは血に濡れたまま倒れ、呼びかけにも応じない。彼女を助けようとした茲も、ほんの数歩先で地面へ伏している。
 二人が傷つけられていく間、紫水は受けた深手と熱射による火傷に耐えながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 風と雷を握る両手は震え、刀身を持ち上げるだけでも腕へ鈍い痛みが走る。
 目の前で仲間が一人ずつ倒され、自分にも戦いを覆せるだけの力が残っていない。あまりにも救いのない現実は、舞台の上で演じられる悲劇よりもなお悪趣味で、現実で見ている悪夢のようだった。

「決着を付けよう」

 リンドーが歩み寄ってくる。
 満身創痍の肉体は、もはやいつ力尽きても不思議ではない。
 それでも紫水は風と雷を持ち上げ、切っ先をリンドーへ向けた。

 血を失った唇には色がなく、呼吸も浅い。

「ああ、|やってやるよ《・・・・・・》!」

 芝居がかった余裕も、飾り立てた言葉もそこにはなかった。
 後に残っているのは意地だ。
 二人は限界まで戦った。残った自分がそれを引き継がなくてどうする。

 紫水は残された力の全てを二振りへ込め、迫るリンドーを正面から迎え撃った。

 ●

 最初に駄目になったのは、右手に握っていた風だった。

 触手を何本も斬り落とし、そのままリンドーの刃腕と切り結ぶ。刀身へ亀裂が走ったかと思えば、次に打ち合った時には耐えきれず折れてしまった。

 右腕も、感覚が鈍くなっていて、もうあまり力が入らない。
 片腕さえ残っているならまだやれる。

 額から流れていた血が、右目へ入り込む。
 これは厄介だ。
 瞼を閉じて袖で拭ってみても、綺麗にはならない。血に混じった油が薄い膜を作ったように眼球へ張りつき、擦れば擦るほど赤い濁りが広がっていく。片方の視界が使いものにならないだけで、距離感というものは驚くほど当てにならなくなるらしい。

 見えにくい中で雷を振り、迫った刃腕をどうにか逸らす。その隙を埋めるように触手が押し寄せたが、俺が剣を振るうより早く、背後から伸びた白い腕が独鈷杵を突き立ててくれた。

 ヒメ様の腕は健在だ。
 健在どころか、人生で一番多く生えているんじゃないか。

 右からも左からも、背中からも脇腹の近くからも現れて、俺一人では受けきれない攻撃を代わりに捌いてくれていた。ありがとう、ヒメ様。

 もっとも、ありがたがってばかりもいられない。腕が増えるということは、それだけ俺の身体に傷が増えているということだ。消えても生え、また消えては生えるたび、代わりに命の方が無慈悲に削られていく。

 ヒメ様が守ってくれるから戦えている。
 ヒメ様が増え続けるほど、俺は死に近づいている。
 なかなか悪趣味な仕組みじゃないか。

 本当なら、こんな戦いは早々に片づけたかった。
 あの悪夢を見せた怪異へ、借りを返してやる。仲間が増えた時には、本当にそれができると思った。
 真竜まで出てきたのだから、さすがのリンドーも押し切れるのではないかと、俺だって期待した。

 でも甘かったな。
 今や二人が倒れ、残った俺は片腕が動かず、片目もまともに見えない。

 それでも、シセンノマだけは許せない。
 指千、指占……どっちでもいいか。大切な人たちを勝手に使い、わざわざ最悪の光景へ仕立てて見せたことが腹立たしい。

 特に、あの子のことは。
 くそ。あんな姿を見せやがって。
 どうせ夢を見せるのなら、もっとましなものがあるだろう。
 ――嬢と一緒に見るなら、そうだな。
 草原でピクニックなんてどうだろうか。
 どこまでも草が広がり、風が気持ちよく吹いている。きっとあの子には、陰気な屋敷や血まみれの部屋なんかより、そういう爽やかな場所の方が似合う。

 頭上には淡い雲の残る青空が広がる。
 頬を撫でていく風は柔らかく、鼻をくすぐるのは陽を浴びた草の匂い。
 足元では青々とした葉が波のように揺れ、遠くまで見渡しても怪異の姿はない。

 ああ、いい場所だ。
 戦い疲れの休息には、これ以上ないじゃないか。

「あっちにね、すごく綺麗なお花畑があったよ!」

 弾む声の方へ目を向けると、――嬢が草原の中から大きく手を振っていた。

 楽しそうに笑っている。
 それだけで胸の奥が軽くなるような、元気いっぱいの笑顔だった。

「へえ、それは私も見てみたいな」

「だよね。お花を見ながらサンドイッチをたべよ!」

 そう言うなり、――嬢は花畑があるらしい方角へ走り出した。

 草を踏む足取りは軽く、髪も服も風の中で楽しげに揺れている。あまりに微笑ましいものだから、俺はしばらくその後ろ姿を眺めていた。

 追いかけよう。
 一緒に花を見て、サンドイッチを食べる。
 それがいい。いや、最高だ。

「痛っ!」

 踏み出そうとしたところで、腕へ鋭い痛みが走った。
 見れば、小さな蜂が飛んでいる。

「危ないな」

 腕を振って追い払おうとすると、今度は反対側にも痛みが走った。

 そちらにも蜂がいる。
 いや、二匹では済まない。

 耳へまとわりつく羽音が急に大きくなり、草の揺れる音を覆い隠していく。見回せば、いつの間にか周囲の空は黒い点で埋め尽くされていた。

 蜂だらけだ。
 どこから湧いたんだ、こいつらは。

 腕へ食らいついた蜂を振り払おうとした途端、今度は腹へ鋭い痛みが突き刺さった。
 続けて脚、首、肩。勘弁してくれ。一匹ずつ相手をする暇もないほど、あちらこちらから絶え間なく刺されている。

「――嬢、危なっ、ぐう!」

 呼びかけようとした声が、脇腹を抉る痛みに潰された。
 おかしいだろう。蜂に刺されただけで、どうして肉の奥まで刃を捩じ込まれたように痛むんだ。

 あれ? こいつは蜂じゃない。
 丸かった胴は節くれた異形へ変わり、薄い翅の下には数えきれないほどの脚が蠢いている。頭部に開いた口は身体に見合わないほど大きく、針ではなく鋭い牙を俺の肉へ食い込ませていた。

 知らない蟲だ。
 見たこともないし、できれば一生見たくなかった。
 服へ爪を引っかけ、布ごと皮膚を噛みちぎっている様子を見る限り、こちらと仲良くする気もなさそうだ。

 肩へ取りついた一匹を払い落とそうとすれば、別の蟲が手の甲へ噛みついてくる。腹から剥がせば首へ回り、首を守れば脚へ群がる。

 数が多すぎる。

「どうしたのー? こっちだよー」

 ――嬢は少し離れた場所で、不思議そうに首を傾げていた。
 あの子の周囲には蟲が一匹もいない。陽の光を浴びながら花畑の方角を示している。

 腕を振ろうと脚を振ろうと蟲は離れない。
 宙で向きを変えると、今度は頬や耳へ飛びついてくる。
 直接掴んだり殴ったりしようと、すり抜けてしまう。

 どうしろというんだ、これは。
 倒せない。追い払えない。なら、逃げるしかないだろう。

 そう思って足へ力を入れたが、まったく動かなかった。
 草の間から這い出した太い化け物が、両脚へ幾重にも巻きついている。蛇に似ているものの、鱗の隙間には小さな口が無数に並び、締めつけるたびズボンごと肉を噛み裂いてきた。

「っ、離せ……!」

 脚から腹へ痛みが這い上がり、蟲は服の隙間へまで潜り込んでくる。噛まれ、抉られ、締めつけられ、もうどこが一番痛いのかも分からない。

 傷のない場所なんて、まだ残っているのだろうか。
 身体が血塗れで、呼吸をすれば胸が痛み、身体を捩れば別の傷が開いた。

「行かないの?」

 あどけない顔のまま、――嬢が問いかけてきた。

 行きたいよ。楽になりたいよ。
 花畑を見て、一緒にサンドイッチを食べたい。せっかく見つけた場所なのだから、あの子がどんな花を綺麗だと思ったのかも聞いてみたい。

 でも動けないんだ。痛いんだよ。 
 全身が熱い。
 陽射しの温かさなんて心地よいものではなく、傷だらけの肉が内側から焼けているようだった。
 熱が頭まで上っているせいか、遠くにいる――嬢の姿もぼやけ始める。

「右だよ」

 確かに――嬢の声だった。
 けれど、そこにはあの子らしい温かさがなかった。誰かに教えられた言葉を読み上げただけのような、平らで冷たい響きだった。

 それなのに、俺は疑わなかった。
 理由を考えるより先に、言われた通り右側へ力任せに腕を振り抜く。

「ぐおっ」

 聞こえたのは、蟲の鳴き声ではない。
 男の呻きだ。

 青空が急速に暗くなり、花畑も草原も黒く塗り潰されていく。身体へ群がっていた蟲も、脚へ絡みついた蛇も消え、柔らかな風の代わりに血と焦げた土の臭いが鼻を刺した。

 呻きのした方へ目を向ける。
 雷の突き刺さったリンドーが、俺のすぐ傍で身体を傾けていた。

 荒れ果てた中庭も、倒れたリリンドラ嬢と茲も戻ってきた。
 そうだった。
 俺は休んでいたわけじゃない。――嬢とピクニックへ来たわけでもない。
 仲間を倒したこの男と、まだ戦っていたんだ。

 ●

 紫水の意識が途切れていることを、リンドーはとうに見抜いていた。

 片目を血で塞がれ、右腕も力なく垂れたまま、残る左手だけで雷を振り回している。
 もはや敵の位置を捉えて剣を操っているのではなく、痛みに追い詰められた幼子が手足を滅茶苦茶に振り回しているようなものだった。

 リンドーが半歩ほど立ち位置を変えるだけで、雷は何もない空間を斬り裂いていく。遅れて振るわれた足も見当違いの場所を蹴り、体勢を崩した紫水は倒れかけながらも、なお剣を手放そうとしなかった。

 傷口から生まれる神性の腕だけは、主の意識に関わらず働き続けている。
 独鈷杵を握った白い腕が左右から突き出され、リンドーの顔や胸を狙ってくる。
 しかし、それらも脅威と呼ぶには動きが単調だった。触手で手首を絡め取り、刃腕を振るって肘から断ち切れば、腕は淡い光へ変わって消えていく。

 別の傷から新たな腕が生えても、同じように破壊すればよい。
 紫水自身は立っていることさえ限界に近く、このまま攻撃し続ければ遠からず力尽きるだろう。
 リンドーは焦る必要などないと判断し、無益な剣撃を避けながら、紫水と共に残る腕を一つずつ削っていった。

 だからこそ、その一撃への反応が遅れた。
 虚空を斬るばかりだった紫水の腕が、不意に迷いを失う。

 濁った視線はリンドーを捉えていないはずなのに、雷の切っ先だけが正確に胸元へ向かってきた。身体を逸らそうとするより早く、刃が深く突き立てられる。

「ぐ……っ」

 刀身が肉を裂き、胸の奥まで冷たい異物感が入り込んだ。
 紫水は柄を握った姿勢のまま目を見開き、驚愕の滲む顔でリンドーを見上げている。
 その反応から察するに、攻撃した本人にも何が起きたのか分かっていないらしい。

 意識を取り戻したのは、剣が刺さった後なのだ。

(偶然か?)

 まともに狙うことさえできなかった者が、ただ腕を振っただけで急所に近い位置を貫いた。
 まるで何者かが紫水の腕を導くよう、リンドーの立つ場所だけを教えたかのようだ。

 問い質そうとして唇を開いたが、言葉より先に生温かい血が喉から溢れ出した。

「ごぼっ……」

 胸を貫いた傷は浅くない。
 これまで無理に押さえ込んでいた疲労と損傷が、その一刀を境に一斉に重さを増していく。
 独鈷杵に穿たれた肩と脇腹が脈打ち、靠撃を受けた胸部も呼吸へ合わせて激しく痛んだ。
 全身へ残る麻痺まで強くなったように感じられ、両脚が自身の体重を支えることさえ負担になっている。

「あ……う……」

 紫水の指から力が抜け、雷の柄を手放した。
 剣はリンドーの胸へ突き立ったまま残り、紫水は両膝を折りかけながらも、どうにか倒れず踏みとどまっている。
 呼吸は途切れがちで、開いた片目にも明瞭な意識は戻りきっていなかった。

 それでも、間に合った。
 三人とも瀕死であり、止めを刺すだけなら、消耗した現在の身体でも十分に可能だ。

 屋敷へ意識を向けると、内部を満たしていた怪異の気配は著しく弱まっている。指千ノ魔の多くは、屋敷へ残った√能力者たちに討ち取られたと考えるべきだろう。

 指占ノ間の術式が残っていたとしても、今のリンドーには残った面々と戦える余力がない。
 ならば三人を処分し、直ちに撤退するほかないだろう。

(よくもここまでやってくれたものだ)

 胸中に滲んだ感情は怒りに近かったが、憂さ晴らしへ身を任せるつもりはなかった。
 必要な工程を最後まで終えるように、脅威となった者たちの命を一つずつ断てばよい。

 リンドーは胸へ刺さった雷を引き抜き、血に濡れた刀身を地面へ捨てた。
 最初に終わらせる相手として選んだのは、目の前で立ち尽くしている紫水だった。
 意識さえ定かではなく、反撃に使える剣も残されていない以上、手間取る理由はない。

 刃腕を持ち上げ、無防備な首へ狙いを定める。

「ま……だ……!」

 背後から聞こえた掠れ声に、リンドーは視線だけを向けた。
 茲が血に濡れた手を地面へつき、全身を揺らしながら起き上がろうとしている。
 片膝を立てるだけでも何度も身体が傾き、ようやく立ち上がった後も、まともに重心を保つことすらできていなかった。

 戦える状態ではないことなど、一目で分かる。
 起き上がったところで、死ぬ順番が入れ替わるだけに過ぎなかった。

「りゃ……っ!」

 茲は起き上がる際に回収していた武侠剣を、残る力で投げ放った。
 踏み込みも腰の回転もない。腕だけで投げられた剣は鋭さを欠き、それでも真っ直ぐリンドーの顔へ向かってくる。

 彼は首を傾けるだけで刃を避けた。
 武侠剣が頬の脇を通過する間に、外套から伸びた触手が茲へ走る。
 黒い肉の縄は抵抗する余裕も与えず首へ巻きつき、細い身体を締め上げながら地面からわずかに持ち上げた。

 あとは触手へ力を込めれば、首が折れる。
 その結末を理解しているはずなのに、茲の口元には不釣り合いな笑みが浮かんでいた。

 直後、ざりっと背後で砂利を踏み締める音がした。

「そんな馬鹿な……!」

 中庭へ倒れているもう一人は、竜漿をほぼ使い果たし、真竜の姿を失った後にも熱射と魔獣の一撃を受けている。
 さらに高所から地面へ叩きつけたのだから、意識を取り戻すどころか、そのまま絶命していても何ら不思議ではなかった。

 回復へ転じるだけの時間も、力も残されていないはずである。
 それにもかかわらず、振り返ったリンドーの視界には、立ち上がったリリンドラの姿があった。

 呼吸は荒く、肩が大きく上下している。額や頬を伝う汗には血が混じり、脇腹の傷から流れた赤が衣服を深く染めていた。両脚も震えており、まっすぐ立っていること自体が無理を通り越した行為に見える。

「その妖精は……!」

 彼女の周囲で、緑の妖精たちが飛び回っていた。それはリンドーをこの場に転移させたそれと同じ。
 妖精たちはすぐに光に溶けるよう消えていった。まるで、己の役割を終えたように。

 リリンドラの右手には自身の霊剣が握られ、左手には茲が投げた武侠剣を携えていた。焦点を失いかけていたはずの瞳にも、今は揺るがぬ意志が宿っている。

 仮に回復を受けていたのだとしても、肉体はとうに限界を越え、戦闘を継続できるだけの力など残っているとは到底思えない。
 それでもリリンドラは、己の命を無理やり燃料へ変えたかのように立っている。

 彼女が大きく息を吸い、血の絡んだ喉から声を絞り出した。

「正義を――!」

 言葉として聞き取れたのは、かろうじてそこまでだった。
 続いたのは咆哮に近い。肺も喉も壊れかけた身体から、自らの内に残る魂を余さず吐き出すような叫びが迸る。

 まずい。
 そう判断した時には、茲の首へ巻きついていた触手が斬り裂かれていた。

 断面から血を噴きながら触手が地面へ落ち、拘束を失った茲の身体も崩れ落ちる。だが、リンドーがそちらへ意識を向ける余裕はなかった。

 リリンドラの二刀が、すでに眼前まで迫っている。

 剣技と呼ぶには荒々しく、型も呼吸も崩れていた。
 だが、その乱れを補って余りある執念が一太刀ごとに込められている。
 右から霊剣が走り、左から武侠剣が追いすがり、怪異ごと荒れ狂う斬撃の渦へ巻き込んでいく。

 刃腕が飛んだ。
 蟲翅が飛んだ。
 獣腕が飛んだ。
 巨爪が飛んだ。
 目玉が飛んだ。
 仮面が飛んだ。

 視界が大きく傾き、天地が目まぐるしく入れ替わった。
 飛び散る血の向こうで、首を失った自身の身体が立っている。
 それが、リンドー・スミスが見た最期の光景となった。

 ●

 指千ノ魔を鎮めた√能力者たちは、荒れ果てた屋敷の内部を駆け抜け、そのまま中庭へ飛び出した。

 そこには、戦いの激しさを物語る傷痕が隙間なく残されていた。
 庭土は深く抉られ、砕けた石灯籠や焼け焦げた怪異の残骸が散乱している。立ち込める粉塵には血と焦げた臭いが混じり、足を踏み入れただけで喉の奥がひりついた。

 人の姿を探して視線を巡らせたシアニは、地面へ倒れている三人を認めると、大きく目を見開いた。

「リリンドラさん! 紫水さん!」

 それまでの速さでは足りないとばかりに地面を蹴り、仲間たちのもとへ駆け寄っていく。

 リリンドラは真竜化を失った少女の姿で仰向けに倒れ、脇腹を中心に衣服を血で染めていた。
 少し離れた場所では、茲も火傷と幾つもの傷を負ったまま横たわっており、紫水に至っては全身のどこを見ても無事な箇所を探す方が難しい。

 いずれも自力で立ち上がれる状態ではなく、息をしていることさえ奇跡に思えるほどの重傷だった。

 それでも、三人の表情に苦悶は残されていない。
 仰向けに空を見上げた紫水の口元には、長い悪夢からようやく解放されたような安堵が滲んでいる。
 茲も疲れ切った顔に小さな笑みを浮かべ、リリンドラの唇にも晴れやかな弧が刻まれていた。

 自分たちが最後まで戦い抜き、ついにリンドーを討ち果たしたことを確かめ合うように、三人は傷だらけの身体で穏やかに笑っていた。

 

 満身創痍だった紫水たちへ応急の手当てを施し、ひとまず傷を塞いだ一行は、再び指占ノ間へ集まっていた。

 戦いの前とは、部屋の様相がまるで違っている。二面の壁は大きく崩れ、砕けた木材や土壁の欠片が床へ散乱していた。
 閉ざされていた空間へ外気が流れ込み、開口部から差す陽光が、舞い上がる塵を白く照らしている。

 かつて室内を満たしていた赤い光は、どこにも見当たらない。
 壁の破壊によって術式の繋がりが断たれ、長く部屋へ籠もっていた|呪《しゅ》も力を失ったのだろう。
 血の色を思わせる薄暗さが消えたことで、床や壁へ刻まれた傷、夥しい数の指、奥に横たわる遺体までもが、逃げ場のない現実として露わになっていた。

 紫水は崩れた壁を眺め、塞がった腹の傷へ手を添えながら口元を緩める。

「これはずいぶんと派手な演目が催されていたようだね。舞台装置を壁ごと撤去するとは、なかなか豪快な終幕じゃないか」

 視線を向けられたシアニは、わずかに肩を縮めた。

「えへへ……夢中になってたら、つい……」

 気まずそうに笑うシアニの背後では、崩れ残った壁が吹き込む風を受け、細かな砂を落としている。紫水は責める様子もなく、むしろ感心したように目を細めた。

「結果として幕は下りたのだから、演出としては成功だろう。修繕費については、屋敷の持ち主に涙を呑んでもらうほかないね」

 その軽口に空気がいくらか和らいだものの、エレノールだけは床へ残された無数の指から目を逸らさなかった。

 襲いかかってきた怪異の気配は弱まっている。しかし、ここへ縛られてきた魂の全てが救われたとは限らない。
 室内には、長い年月をかけて積み重なった嘆きと憎悪が、目に見えない澱となって留まり続けていた。

 エレノールは胸元で両手を組み、静かに瞼を伏せる。
 彼女の周囲へ淡い輝きが生まれ、足元から白い光が幾重にも広がっていく。攻撃のための力ではない。誰も傷つけず、この場に残された苦しみを解き放つための祈りだった。

「神聖なる竜よ、聖なる光をもって我らの道を示さん……!」

 詠唱に応じ、部屋の上方へ眩い光が集まった。
 輝きは翼を広げるように左右へ伸び、やがて白銀の鱗を持つ神聖な竜の姿を形作る。狭い室内へ巨体が押し込められたわけではない。その存在は物質ではなく、清らかな光そのものとして顕現していた。

 柔らかな明かりが一行を包み、冷えていた空気へ温もりを与えていく。

 |神聖竜詠唱《ドラグナーズ・アリア》――現れた|神聖竜《ホーリー・ホワイト・ドラゴン》は、願いを促すようにエレノールを見下ろしていた。

 エレノールは床へ散らばる指と、その奥に眠る遺体へ視線を向ける。彼らを苦しめた者への罰ではなく、長く奪われてきた安息だけを願い、澄んだ声で祈りを捧げた。

「数多の縛られし魂よ。貴方たちは、もはや誰かの昏き繁栄を支える礎ではありません」

 神聖竜から降り注ぐ光が、部屋の隅々まで満ちていく。

「その嘆きも恨みも、二度と歪んだ祝福へ変えられることはないでしょう」

 赤黒く変色した指の一つが、淡い輝きに包まれた。

「――奇跡よ。この魂たちに、安らかな終焉を」

 願いが結ばれると、神聖竜の翼から無数の光が舞い降りた。
 床を埋めていた指が、端から静かに透けていく。焼かれることも、砕かれることもない。長く染みついていた呪いだけが抜け落ちるように、その姿を光へ変えていった。

 一本が消え、その隣も続く。やがて浄化の波は、部屋全体へ広がっていった。

 消えゆく指からは、恨みの声も断末魔も聞こえない。苦痛によって固く閉ざされていたものが、ようやく力を抜き、深い眠りへ落ちていくような穏やかさだけが残された。

 その光景を見守っていた紫水は、衣服の内側から折り畳んだハンカチを取り出し、慎重に開いた。中には一本の指が包まれている。

 リンドーとの戦闘を終えた後、足元で見つけたものだった。意識を失っていた間に落ちていたらしい。

 紫水の脳裏に、意識の底で見た草原が蘇る。
 花畑へ走っていったエルフの少女は、悪夢の中に現れた姿とは違い、明るく無邪気に笑っていた。
 ただ一度だけ、その表情から温もりが消え、無機質な声で右を示したのだ。
 あの声に従って剣を振るわなければ、リンドーの胸へ刃が届くことはなかっただろう。

「君が、あの夢へ紛れ込んでいたのかな」

 問いかけても、指は何も答えない。
 神聖竜の光がハンカチの上へ降りると、それも他の指と同じように透け始めた。乾いた皮膚から淡い粒子がほどけ、紫水の掌に何も残さず消えていく。

「まあ、悪夢の件は水に流すとしよう」

 神聖竜の光に満たされた部屋で、最後まで残っていた呪いの指も静かに消え去った。
 願いを果たした神聖竜は、エレノールへ静かな眼差しを向けた後、広げていた翼をゆっくりと畳む。

 白銀の巨体を形作る輝きが、鱗の端から細かな粒へ変わった。それらは崩れた壁から吹き込む風に乗り、室内へ広がっていく。最後に残った翼と長い首も淡い明かりへ溶け、温かな余韻だけを残して消え去った。

 その光景を見送った一行は、浄化を終えた指占ノ間を改めて見渡す。
 床を埋め尽くしていた指の大半は失われていた。それでも、全てが消えたわけではない。光に触れても変化しなかったものが随所に残り、乾ききった皮膚や変色した爪を陽光の下へ晒している。

 部屋の奥に横たわる遺体も同様だった。
 皮膚は水分を失って骨へ張りつき、衣服も長い年月によって色褪せている。木乃伊を思わせるほど乾燥していながら、崩れ去った様子はない。誰かによって死の直後から時間を止められていたかのように、原形を留めていた。

 クラウスは足元へ注意を払いながら近づき、手袋越しに残された指の一つを確かめる。そこから伝わってくるのは、怪異特有の異質さではなかった。乾燥した人体組織の硬さだけである。

「これは、現実に残された指と遺体か……」

 浄化されたものは、犠牲者たちの苦痛や恨みが|呪《しゅ》によって姿を得た存在だったのだろう。
 今も残っているものは違う。儀式のために実際の身体から奪われ、この部屋へ蓄えられてきた証拠に違いない。
 シアニは遺体の傍まで歩み寄ろうとしたものの、途中で足を止め、痛ましげに眉を寄せた。

「でも、こんなに長く屋敷にあったなら、普通はもう形なんて残っていないよね」

 異臭はほとんどなく、腐敗によって崩れた痕跡も見当たらない。ただ乾燥しているだけでは説明のつかない保存状態である。

 シアニは警戒を滲ませ、周囲を見回した。
 エレノールは床や壁に残る術式の跡へ視線を巡らせ、考えをまとめるように口を開く。

「これも指占ノ間が持つ力の一部だったのでしょう。犠牲者の遺体や指は、儀式を維持するために欠かせない媒介だったはずです」

 変色した指へ目を落とし、慎重に推測を続けた。

「腐敗して失われれば、長く積み上げてきた術式そのものが弱まってしまう。そのため、この部屋は媒介を朽ちさせないよう、死後の身体を保全し続けていたのではないでしょうか」

 術式の繋がりを断たれた今、その作用も遠からず失われる可能性がある。そうなれば、長く閉じ込められてきた遺体は急速に崩れ始めるかもしれない。

 シアニは乾いた遺体を見つめたまま、両手を胸元で握り合わせた。

「せめて、みんなのお墓を作ってあげたいな」

 その声には、怪異を倒した時の力強さとは異なる、行き場を失った悲しみが込められていた。

 クラウスも同じ思いを抱いていたが、安易に頷くことはできなかった。遺体の身元確認や保存、儀式との関係を調べる作業には、専門的な知識と正式な権限が必要となる。

「俺もそうしてあげたいと思う。ただ、ここから先は崎元家と、遺体を扱える専門家に任せるべきだろうね」

 クラウスはシアニの隣へ立ち、残された遺体と指へ静かに視線を向けた。

 本来なら部外者である彼らにできるのは、怪異を鎮め、FBPCに利用されるのを防ぐところまでだ。被害者たちの身元を調べ、きちんと弔うための手続きを進めるのは、しかるべき機関の役目になる。

「そっか……そうだよね」

 シアニは寂しそうに答えたものの、反論はしなかった。

 助けたいという気持ちだけで遺体へ触れれば、残されている情報を失わせる恐れがある。犠牲者たちの名前や、何が起きたのかを明らかにするためにも、今は現場を託さなければならない。

「上手くいくとは限りませんが、私に一つ案があります」

 静かに告げた雅へ、シアニが期待に満ちた顔を向けた。失われた命を弔いたいという願いを、ただの感傷で終わらせずに済むかもしれない。その可能性へ縋るように、すぐさま問い返す。

「え、ほんとに?」

「ええ。これでも人の世は長く眺めてきましたので」

 雅は死への感情を喪失しているが、生ある者が死を迎える姿を数え切れないほど見届けてきた。

 人間が理不尽に奪われた命をどのように悼み、悲劇を繰り返さないために何を残してきたのかも知っている。

「解決した側として、崎元家へ働きかけることくらいはできるでしょう」

 崎元家は、長い歴史の中で指占ノ間が生み出す恩恵を受けてきた。
 その裏側に何が積み重ねられ、どれほど多くの犠牲を必要としていたのかも、決して知らなかったとは言えない一族である。

 だからこそ、屋敷の外から来た者に責任を説かれた程度では、過去を伏せたまま処理しようとする可能性もあった。
 
 だが、今回は事情が違う。
 指占ノ間を正面から鎮め、長く続いた|呪《しゅ》を終わらせたのは、ここにいる√能力者たちだった。
 FBPCによる怪異の回収を阻み、屋敷と崎元家に残されていた危険を取り除いた彼らの言葉を、完全に無視することは難しい。

 まして、犠牲者の遺体と指が現実の証拠として残されている。何もなかったことにして部屋を再び閉ざせば、崎元家は指占ノ間を生み出した過去だけでなく、その罪を改めて覆い隠す選択をしたことになるだろう。

「もちろん、こちらが命じられる立場ではありません。けれど、この場所の処遇と犠牲者の弔いについて、正式に申し入れる余地はあります」

 雅の落ち着いた声へ耳を傾けるうちに、シアニの表情には少しずつ明るさが戻っていった。

「その方法ですが……」

 雅は一度言葉を区切り、これから崎元家へ提示する案を語り始めた。

 ●

 神聖竜による浄化を見届けると、リリンドラは指占ノ間を離れ、荒れた廊下を抜けて中庭へ戻った。

 事件の根幹にあった怪異との戦いには、彼女はあまり関わっていない。途中から屋敷へ転送された身としては、指と遺体の残る部屋よりも、リンドーと死力を尽くして戦った中庭のほうが強く記憶に刻まれていた。

 抉れた庭土や砕けた石材には、激戦の痕跡が今も生々しく残っている。真竜となって振るった尾の跡も、プラズマによって焼けた地面も、どれほど追い詰められながら戦ったのかを物語っていた。

 勝利できたとはいえ、決して容易な戦いではなかった。
 竜漿を使い果たし、意識まで失いながら、それでも最後には立ち上がった。目標として掲げる、誰にも負けない最強の竜へ、また一歩だけ近づけたはずである。
 リリンドラは戦場となった庭を見渡し、胸の内へ残る達成感を噛みしめた。

「正義完遂ね!」

「お仕事完了ー!」

 背後から重なった明るい声に、リリンドラは驚いて振り返る。

 そこには茲が立っていた。彼女も声が重なったことに驚いたらしく、目を丸くしたままリリンドラを見返している。
 しばらく互いの顔を眺めた後、どちらからともなく笑いがこぼれた。

「あなたも、ここへ戻ってきたのね」

「怪異のほうには全然関わってなかったし、皆の邪魔にならないようにしようって思ったから」

 茲は照れたように笑いながら、荒れた中庭へ目を向ける。

「わたしも似たようなものよ」

 リリンドラと茲にとって、この場所で交わした攻防こそが今回の戦いだった。
 最後まで共に戦った茲も、同じようにここへ戻ってきたのだろう。そのことが、リリンドラには嬉しかった。

 二人は改めて視線を交わす。
 言葉を重ねなくとも、苦しい戦いを共に乗り越えたことも、どこまでも諦めなかったことも分かっている。

 リリンドラが拳を差し出すと、茲も笑みを深めて腕を伸ばした。
 二つの拳が軽く触れ合い、静けさを取り戻した中庭へ小さな音を響かせた。

 ●

 雅から提案の全容を聞いた√能力者たちは、指占ノ間をしかるべき者たちへ引き渡すため、屋敷からの撤退を始めていた。

 廊下へ出たクラウスは、屋敷へ入った時との違いに気づいて足を緩める。

「ずいぶん減ったね」

 当初は至るところに漂っていたインビジブルが、今は目に見えて数を減らしていた。

 指占ノ間の|呪《しゅ》は、その営みさえ歪めていたのだ。部屋の力が弱まったことで、不自然に屋敷へ集められていた者たちは束縛を失い、本来の流れへ戻り始めたのだろう。

 クラウスは漂うインビジブルの間へ視線を巡らせた。

「彼女たちは、どうなったのかな」

 エレノールと共に言葉を交わした女たちも、今は本来のインビジブルの姿へ戻っている。あの時に目にした人の姿は、√能力によって一時的に取り戻されたものに過ぎない。

 すでに消滅したのか。それとも、目の前を漂う海の生物めいた存在のいずれかが彼女たちなのか。今となっては、クラウスにも見分ける術がなかった。
 クラウスは行き交う淡い姿を見送りながら、せめて彼女たちが苦痛から解放されていることを願った。

 その少し先で、雅が不意に歩みを止める。
 彼女の視線の先には、消えかけた記憶を映すように、人の姿を保ったインビジブルが佇んでいた。

 女は腕の中に赤ん坊を抱いている。
 壊れ物を扱うような手つきで小さな身体を支え、愛おしそうにその顔を見つめていた。胸元へ頬を寄せる赤ん坊も穏やかで、母の腕に守られながら安らいでいるように見える。

 雅は何も告げず、母子の姿を静かに見守った。
 恐怖も憎悪も、そこには残されていない。女はようやく取り戻した我が子を確かめるように抱き締めると、わずかに顔を上げて雅へ穏やかな眼差しを向けた。

 やがて母子を形作っていた光が淡くなり、輪郭の端から少しずつ空気へ溶けていく。
 それが自然な消滅なのか、この屋敷から遠ざかっただけなのかは分からない。それでも最後まで、女の腕が赤ん坊を離すことはなかった。

 母子の姿が見えなくなった場所を、雅はしばらく見つめ続けた。

 一行が出口へ向かう間にも、海の生き物に似たインビジブルたちは静かに屋敷を漂っている。壁の向こうへ泳ぐように消えるものもいれば、淡くなりながら廊下へ留まるものもいた。

 彼らがどこへ行くのか、いつ消えるのかは誰にも分からない。
 ただ、指占ノ間の|呪《しゅ》に捕らわれ続ける理由だけは、もう失われていた。

 ●

 それから、幾ばくかの時が過ぎた。
 指占ノ間を抱えていた屋敷は取り壊され、閉ざされていた敷地には穏やかな公園が整備された。

 陽光を受けた芝生の上を子供たちが駆け回り、遊具の周囲から明るい笑い声が聞こえてくる。長く人の嘆きと|呪《しゅ》を閉じ込めていた場所とは思えないほど、風通しのよい空間へ生まれ変わっていた。

 園内のベンチには、シアニが一人で腰掛けている。
 両足を揃えて座り、遊んでいる子供たちを静かに眺めていた。転がるボールを追いかける者や、芝生へ座り込んで花を見つめる者がいる。
 その誰もが、かつてこの土地で何が行われていたのかを知らない。何かを恐れることもなく、伸び伸びと過ごしていた。

 公園の中央には、犠牲者を悼む慰霊碑が設けられている。
 碑には、調査によって判明した者の名と、長年にわたってこの場所で命が奪われてきた事実が刻まれていた。
 身元を取り戻せなかった犠牲者についても、名もなき存在として片づけられることなく、同じ場所で弔われている。

 公園の隣には、小さな資料館も建てられていた。
 館内には事件の経緯や、指占ノ間が崎元家へもたらしてきた恩恵、その裏で犠牲となった人々についての記録が収められている。
 残された資料の調査結果も公開され、事件を後世へ伝える場として整えられていた。

 開いたから。
 知ったから。
 ちゃんと伝える。
 なかったことになんかしない。

 シアニが屋敷で伝えた想いが、慰霊碑と資料館、そして子供たちの声が響く公園という形になって残されている。

 シアニは慰霊碑へ目を向けた後、膝の上で両手を組んだ。

「約束、守れたかなぁ」

 誰へ届けるともなく、ぽつりと呟く。

「もちろんだよ。ありがとう」

 聞き覚えのある声が、すぐ目の前から返ってきた。
 シアニが顔を上げると、そこには夢の中で出会った少女が立っていた。

 あの時と変わらない姿で、穏やかに微笑んでいる。悪夢の中で苦しんでいた面影はなく、ただ心から安堵しているような優しい笑みだった。

「え……」

 シアニが目を見開き、確かめるようにまばたきをする。
 瞼を開いた時、少女の姿は消えていた。代わりに、見知らぬ女の子がベンチの前へ立っている。
 近くまで転がってきたボールを拾いに来ただけらしい。それを両手で抱えると、少し離れた場所で待つ友達のほうへ駆け戻っていった。

 今の声が本当に聞こえたのか。それとも、胸の内に浮かんだ願いだったのか。シアニには分からない。
 それでも、少女が見せた微笑みだけは鮮明に残っていた。

 友達のもとへ帰っていく女の子の背中を見つめるうちに、シアニの表情がくしゃりと歪む。
 泣き出しそうになった顔を隠すこともなく、彼女は子供たちの笑い声が満ちる公園を、いつまでも眺め続けていた。

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