拼命工作
豆を挽く。ハンドルは一定の速度で回さねば粒度が狂う。香りの良い珈琲を淹れるには、完全に手応えが失せて粉になるまで気を抜いてはならぬ。
淹れる直前に必要な量だけを粉にする。外殻に守られていれば日持ちする豆も、全て一緒くたに粉末様になってしまえば役割を失うのだ。
殻が割れる音がする。やがて立ち昇る香気を鼻腔に吸い込んで、昏い紅色の双眸がようやく瞬きを取り戻す。黑・宵刃(|无貌《Wúmào》・h12479)の眼差しはすぐに慎重に周囲を見渡し、今日が木曜日であったことを確認して深く安堵の溜息を吐いた。
――キミとこうして、毎週末に会うの、結構気に入ってるのに。
|喉から手が出るほど《・・・・・・・・・》欲しい女と熱に浮かされて交わした約束が、いかに途方もないものであったかを宵刃が悟ったのは、居を置く教会に戻って後のことだった。出会ったばかりの女への止めどない執着心に抗えず、およそ|普通の人間《・・・・・》であれば易い誓いを容易に守れぬ怪物は、己の仕事のこともすっかり忘れて口約束を取りつけてしまったのである。
ようやく講じた手段の一つは、どうにか機能してくれている。即ち香りだ。宵刃にとって最も強く記憶と結びつくそれを利用して、怪物は正体を取り戻す方法を確立した。
家の長から宵刃に課された|呪詛《いいつけ》は、獲物の価値を高めることである。
花に水を遣るように甘い言葉を注ぎ、宝石を美しく保つように丹念に磨き上げる――所有のためではない。最後には金に換えるためだ。頭打ちになるまで価値を高めればそれだけ高値で売れる。愛を欠落し、その指標を絶対の数値である金銭へと据えた長兄に忠実に、末妹は己の主の忠実な狗であり続ける。
甘言で惑わすためには心底から入れ込まねばならぬ。少なくとも、主を惑わす間の宵刃は彼女らの|恋人《・・》であらねばならなかった。そのために己の正体すら見失い、心底から愛おしげに頬を撫で、耳元に愛を囁く。夢中になっている怪物を引き戻すため、己自身で定めた引鉄こそが珈琲の香りだった。
凍てて香りの分からぬ女に、それでも染み着くほどのカフェインのにおいが、宵刃に約束を思い出させてくれる。眼鏡の底の、揃いの――怪物より明るい――赤い双眸と、厚着に包まれた猫背が若白髪交じりの髪の下で笑うさまをしかと脳裡に取り戻してくれる。
その点でいえば、此度の|主《おんな》が拘りのある者で助かっているともいえよう。露店の並ぶ道を歩けば必然的に嗅ぐことになるにおいであるといえど、常に外に出られるわけではない。その点、豆を挽かせる|主《おんな》であれば、日に二、三度は確実に珈琲の香りを強く嗅ぐ機会が訪れる。
金曜日――午後二時五十分。少なくともあと一日半の間には全てを終わらせねばならぬ。幸いにして此度の|主《おんな》は宵刃によく傾注しているようであるから、じき頃合いを迎えるだろう。
女のことを思えば心が弾んだ。怪物にとって、取り決めとは即ち簡易的な契約に等しい。約束といえども守れば対価を望めるはずだ。彼女の眦が緩み、狗であるときの他は片時も忘れぬ声が名を呼ぶ瞬間を思いながら、宵刃は一度深く息をする。
――未だ油断すべきではない。
寧ろここからが佳境といっても良いだろう。このままであれば容易に|落ちる《・・・》と分かっているが、手中に落ちた|主《おんな》の執念深さもまた、宵刃はよく知っている。
完璧に熟さねばならぬ。
全ては最も守らねばならぬ口約束を確たるものとするために。
眇める眼差しに宿した昏い理性は、およそ狗のものとは言い難い色をしていた。滴る黒い湖面に映る己の顔を見据えた怪物の名を、遠くから呼ぶ声がする。
瞬きの間に珈琲に映る己への興味を失い、宵刃は無垢に目を輝かせた。主が呼んでいる。頬に差す期待と喜びを隠さぬままに、黒い尾を惜しげもなく振った|狗《・》は、カレンダーに記された日付も知らぬげに身を翻した。
「好的、只今参ります」
◆
「係長、休出だったんですか?」
訝しむ部下の声に椅子を回して、珈琲の入ったタンブラーを傾けた女が笑った。
「一応ね。オフィスワークじゃないんだけど」
「外回りの方が大変じゃないですかぁ。現場あったなら教えてくださいよ」
「うーん、私以外には出来ないっていうか――」
後方を通り過ぎて出しっ放しのケーキの箱に近寄る部下を目の端で追う。オフィスそのものが冷蔵室のようなありさまであるから、冷気の出所である勤務者がオフィスを後にするまでは、大抵のものは冷蔵庫にしまっておく意味を失っている。
モニタに映し出されている映像に不審な点はない。単なる映り込みを心霊現象だと思い込むのは、殊にこの√ではありふれたことだ。怪異と人間の距離が近すぎるばかりに、誰もが背に這い寄る昏い気配に無自覚ではいられない。科学技術の目覚ましい進歩によって一度は廃れかけたオカルトコンテンツが俄かに息を吹き返したのも、とりもなおさずそれらが頭打ちの科学力の領分へ再び侵入し始めたからだ。
黄昏の気配を振り払うように不自然にはしゃぐ大学生たちの声を搾りながら、森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)が眼鏡の奥で笑う。
「|心霊映像《これ》関係じゃなくてね」
超常現象監視管理室の主たる仕事は映像処理だ。そう言えば聞こえは良いが、やっていることはモニタに映し出される超常現象疑いの映像や写真を日がな一日眺める閑職である。
発達したSNSのお陰で古今東西から無数に集まる映像を目視で確認し、機関の管轄下に置かれるべき異常現象の有無を精査する。大抵は技術を利用したフェイクか、ただの映り込みや機械的な不具合をそれと誤認しているものばかりだが、稀に紛れる|本物《・・》を見逃すわけにもいかない。
いかに閑職といえど精査の必要があると思えば現場に出向くこともある。条件を整えるための時間外勤務が起こらないわけでもない。そういう出勤の一種であろうと当たりを付けていたらしい部下は、依鹿の言に綺麗に整えた片眉を持ち上げた。
「仕事増えたってことですか?」
「まあ、そうかな。ちょっと面倒を見る相手が出来て」
「大丈夫なんですか? オーバーワークじゃありません?」
「はは。機動部隊に怒られそう」
怪異を相手に日夜死線を潜り続けている彼らと比べてしまえば、珈琲片手にモニタを眺める作業で与えられる疲労なぞ微々たるものだろう。部下の声も心配と冗句の綯い交ぜになったものであったから、女も今日も何らの成果進捗のない画面から視線を離した。
「平気だよ。そんなに手の付けられないような相手じゃないんだ」
――今のところは、というべきか。
唐突に降って湧いた新たな仕事は、依鹿がひどく苦手とする相手のいう通り、彼女にとっても相応の益を齎す相手の監視だった。どうやら厄介な神性の卵であるという女の形をした怪物は、しかし思うよりもずっと人間らしく、依鹿に接して来る。
収容不能、要制御――人間災厄のナンバリングすらも与えることが困難な相手であるだけに、機関側も相当に苦慮しているらしい。年季だけで肩書きを得た、彼女自身も要監視対象であるいち職員に与える職務にしては、あまりに自由だ。言えば拍子抜けするほど簡単に大抵の申請が許可されることも含めて、黑・宵刃の存在がいかに恐れられているのかもよく分かる。
依鹿にしてみれば、得心は半分といったところか。
確かに人を狂わせる才覚については認めるところだ。大半は一度見れば忘れられぬほどの|貌《・》の問題であるというが、寧ろ当人が無自覚にその使い方を根深く理解している方が大きかろう。まるで愛らしい犬のように傅き、時には媚びるような眼差しで見詰めて来る。どうやら魅了や洗脳の類に極めて堅固な耐性を持っているらしい依鹿ですらぐらつくことのあるそれを無防備に至近で喰らい続ければ、確かにあっという間に狂気に陥るだろうことは想像に難くない。
確かに、|生贄《はなよめ》一つで|あれ《・・》が御せるのならば、手綱そのものである依鹿に何をくれてやろうと安いものであろう。
捧げられた生贄の側からしても好都合である。仕事として――というよりは、|人間《・・》として、彼女には思うところが幾つもあるのだ。
さりとて必要以上に甘やかしてやる気もなかった。分かりやすく依鹿に好意を寄せる怪物を、少なくとも人の世に牙を剥かぬようにしてやる必要がある。与えられた職責と己の望みが真実の意味で合致することは少ない。唯々諾々と従っているように見えるのであれば、尚のこと、小狡く――もとい、|賢く《・・》やるのは当然のことだ。
「毎週末どっちかは申請することになると思うんだけど、あんまり気にしないで。上手くやってるってことだから」
笑う女は、怪物に一つ、難題を課している。悪癖の修正だ。
完璧な自己欺瞞によって主に忠誠を尽くし、尽くしすぎるが故にやがて不本意な方法で殺してしまう。衝動性というべきか、或いは自己認識の曖昧性による|自覚のなさ《・・・・・》というべきか――理由は何にせよ、少なからず社会性に悪影響を与える癖を一つずつ取り除くことも必要だ。
|依鹿好み《・・・・》に育て上げるためにも、|彼女《・・》にはまず|人として《・・・・》生きていくに不都合な性質を克服してもらわねばならなかった。第一歩として呑ませた|お願い《・・・》が果たして上手く機能するのか、幾らか楽しみにもしている。
「そうです? 係長が言うならそういうことにしときますけど」
納得というには些か遠かったが、部下はともあれ引き下がることを決めたらしかった。
見るともなしに見た画面の右下の端には味気ないゴシック体が並んでいる。今日の日付から週末までの日数を逆算出来るようになったのも、依鹿の中では驚くべき変化だ。オフィスを後にするための始末をする段になってようやく、今日は金曜日だからやることが多かったのだ――と思い出すばかりだったのである。
金曜日――午後二時五十分。代わり映えのしない日々には何らの意味もない数字の群れを、依鹿は僅かに楽しげな色で見据えた。
上手く約束を守れるだろうか。
守れなくても構わない。何もかもがそう上手く行くのでは面白味もないだろう。人生には相応の苦難が付き物で、頭の中の筋書きなぞ呆気なく吹雪に攫われるものだ。|彼女《・・》にとって、今まで全てが思い通りの混沌を生み出す見世物であったとするならば、一つ二つの失敗くらいは寧ろしておいた方が良いやも分からぬ。
挫折に満ちた道は楽ではない。
楽ではないが――。
「まあ、楽しんだ方が良いしね、折角だから」
唾棄すべき|運命《・・》によって与えられた現状を飲み干すことでしか前に進まぬのであれば、より良く受け入れるようにするほかあるまい。
保温機能が役を為さないタンブラーの中に詰まった珈琲の味は、相変わらずよくは分からなかった。
◆
土曜、午前十時二十五分。
今日で三日目だ――と思う。纏わり付く熱気に人知れず溜息を零し、宵刃はカレンダーの日付を見据えて瞬いた。
病熱に浮かされた狗の頭で考えられることは少ない。漠然とした感覚を言葉にするすべも持たないし、命ぜられるままに在ることに何ら疑問を抱くこともない。正体を取り戻すたびに急速に明瞭になる思考によって、|彼女《・・》や友に与えられた輪郭を確かにする感覚だけは、些かならず不快を増幅させるようだ。
狗が生理的反応として形を与えず処理するうだるような暑さを、人間の思考力は|暑い《・・》と名付ける。舌を出して幾らか温度の低い場所で蹲るのみだった頃と比して、正しく現状を認識した身は根本的な解決策を探し始めてしまう。早く戻りたい――愚痴めいた感覚が脳裡をひらめくのが、余計に焦燥を駆り立てるようだった。
珈琲の香りに包まれているとき、宵刃の執着の矛先は|主《おんな》に向いていない。じきに会えるはずの|彼女《・・》のことを考えるたび、それが目の前にないことにひどく心が騒めく。あと一日のうちには片を付けねばならないことを意識させられるのは、幸いであると同時に不幸でもあった。
今にも踵を返して頸動脈に爪を立てたい思いを制御するのは並のことではない。それでも辛うじて宵刃が踏み止まっているのは、ひとえに|彼女《・・》のためだった。
黑家は金をこそ重んじる。より金銭を稼ぐことのみが、絶対の数字を用いて愛の価値を量るかの家に生まれた弟妹たちの役割だ。
宵刃は長兄を崇敬している。怪物にとって最も――ともすれば|祖《・》よりも――馴染み深く、親しみ、傍にある神だ。怪物に全てを叩き込んだ彼に応えねばならぬ。抱く使命感は天頂を衝く頂よりも高く、光の届かぬ深き海底よりも深い。長兄を納得させ、叶うのであれば笑ませるだけの金が必要だ。即ち、それほど|主《おんな》を宵刃に傾注させねばならぬ。
ここまでの状況は芳しくはない。強烈な執着に基づいた自己暗示によって、日数を数えることの出来るようになった怪物は、存外に硬い|主《おんな》の財布にいっそ舌打ちしたい気分ですらあった。
策を講じねばならぬ。暫くの間は正体を保っていられるはずだ。遡ることの出来るようになった記憶のうち、|二度《・・》繰り返したことの幾つかを反芻する。喰らった脳髄から得た知恵と、生きた友からの学習――怪物は一度、誰にも悟られぬよう咳払いをして、近寄って来るにおいと足音を振り返った。
上手く金を引き出せないことの他にはとっくに宵刃に夢中になっている|主《おんな》は、今日はとうとう宵刃から片時も離れようとはしなくなっていた。しな垂れかかるようにして身を寄せる白い指先を昏い赤が見下ろす。
――珈琲の香りに包まれていなければ、恐らくは疾うに正体をなくしていただろう、と思う。
それほどまでに強烈な自己暗示を、それを凌駕する執着が打ち消している。微笑む表情が常よりも大人びていることに気付いているのかいないのか、一度見れば忘れられない美貌を陶酔の表情と共に見上げた|主《おんな》が、宵刃にますます身を寄せた。
纏う香気を|また《・・》変えたか。特定の香水を好む性分の|主《おんな》でないことも、宵刃の嗅覚には幾らか良い方向に作用していた。一度嗅げば忘れない――即ち、それだけ強くにおいと存在が紐ついている。同じような香りばかりを好む相手であれば、必然そのにおいばかりが嗅覚に染み着いて、今も曖昧な自我がぐらついたかも分からない。
「宵刃。珈琲が入ったらこっちへ来て」
甘い声で呼ばう|主《おんな》に目を細めて、宵刃は珈琲を手にその言に従った。行き着く先を想像出来るようになったのも、それに尾を千切れんばかりに振ることがなくなったのも、怪物の裡に|正体《・・》の輪郭が|茫洋《ぼんやり》と浮かび上がり始めた証左であろうか。
一室に入ると同時に、|主《おんな》は鍵を掛けた。近付く香気を受け止めながら、怪物は昏い赤を僅かに眇める。
狗にとっては不可解な営みが為された後には、どの|主《おんな》も殊の外宵刃に優しく接した。己の充足を分け与えるように頭を撫でる手を期待して、狗は彼女らの希望に唯々諾々と従って来た。
唇が近付く。柔らかく艶めく|主《おんな》のそれへ、己から唇を重ねれば、ひどく喜ばれるのも知っていた。だが――。
怪物の、人間の形をした指先が、優しく|主《おんな》を受け止めた。
「|いいえ《・・・》」
支配的であってはいけない。あくまでも優しく穏やかに。
――喉を開いて、声を頭に響かせるように。
「こういうものは、時間を掛けるほど|好く《・・》なるものでしょう?」
その日、|主《おんな》は宵刃に途方もない金を積んだ。
散々期待を高められた彼女がありとあらゆる方法で気を惹こうとするのを受け止める怪物は、すっかりと狗の貌に戻っていた。しかし主の方はといえば、己の狗に囁かれた言葉にごく当然のように|従って《・・・》、無垢な眼差しで全てを受け取る宵刃に陶酔の表情を見せるばかりであった。
次に宵刃が己を取り戻したのは、日曜の午後十三時のことである。
食後の珈琲を用意していた。二度繰り返した動作は細部にわたって忘れることはない。狗のままであっても命ぜられれば豆を挽き、殻の中から零れ出したにおいで己を取り戻す。日付を確認してから、今日までに得た金額を頭の片隅に思い浮かべた。
珈琲を待つ|主《おんな》が自室にいることは理解していた。においを辿れば簡単であるし――狗であった頃から人類の最良の友であり続けた怪物は、無意識下にも相手が何を望んでいるのかを|嗅ぎ分ける《・・・・・》すべに長けている。
狗であるときには、表面的な感覚と本能に拠った行動ばかりが表に出ていた。
思考力が高まれば幾分か先が読めるようになる。
開いた扉の先にいる|主《おんな》は、最初から珈琲を求めていたのではない。待ちかねたように開かれた両腕を、今度はしかと受け止めてやる。あからさまに媚びた甘い声を聞いても、此度は吹き上がるような感情が襲って来ることはない。
「宵刃」
|主《おんな》の体から、染み着いた珈琲の香りがした。
頃合いだ。
◆
大抵は渋られる休日出勤が斯様にすんなりと許諾されるのは、いつになったら慣れるだろうか。
二度目であるからには未だ落ち着かぬ心地でも致し方あるまい――依鹿の溜息は、日頃から胸中に停滞する諦念を飽きもせずに吐き出した。休日手当だの深夜手当だの、組織そのものに出費を強いる行為には、あまり良い顔をされたことはない。それが寧ろ喜んで送り出されるような速度で承認されるのだから、尚のこと己の役割を突き付けられるような気分になる。
彼女が御すべきとされている怪物の出身は、√仙術サイバーの中でも殊に気温と湿度が高い地域であるらしい。日本で暮らしていれば聞き馴染みのあるとはいえない言語が大声で飛び交い、遠くから罵声と怒号がひっきりなしに聞こえて来る。√汎神解剖機関のそれとは幾らも質の違う猥雑さだ。夜市といい支柱代わりのビルといい、見えない空を補うかの如く煌めく人工の灯りは、この地の熱気を掻き立てている――。
のだろう。
依鹿には関係がない。
そも体温がひどく低いのだ。人間の活動下限を大幅に下回る体は、常に冷気を発して周辺温度に干渉している。彼女自身が息を吐き出しても一向に白くもならないが、周囲の人々が急に吹き込んだ冷風に怪訝そうな顔をして周囲を見渡したのは、視界の端に捉えている。
技術の発達しきった土地柄ゆえか、どこかで誰かが手持ちの冷風扇でも起動したのだろう――ということになったらしい。僅かな違和感を訴えた道行く者らの眼差しは、すぐに立ち並ぶ店々の方へ投げかけられた。
互いのことをどう思っていようとも、表向きの依鹿と宵刃の関係は監視者と危険因子だ。簡単に連絡が取れる間柄ではない。殊に宵刃が仕事に出ている今は、たとえ厳格な監視下であってもそう簡単にやり取りは出来ないだろう。即ち、|彼女《・・》の仕事がいつ終わるかも分からないのだ。
課したのは|週末に《・・・》――という極めて曖昧な縛りであるにも拘わらず、依鹿が|日曜の夜《・・・・》のこの時間に√仙術サイバーを訪れたのは、いわば直感のようなものであった。ひどく苦手とする同僚との間にも時折起こる、極めて確信に近い誘引だ。
――本当、どうしようもないな。
依鹿自身が手ずから変えていけるものなぞ数えるほどしかないと、再三に渡って突き付けられるようだ。運命に叩き割られた人生が、なおも運命の導きで動かされているとも思いたくはなかったが、結局のところは目の前にあるものだけが真実である。
抗うだけの熱量は疾うにない。我武者羅に、感情だけで走り抜けられた時期は過ぎ去っている。それでもここに来るのは、決して優しさなどではない。
飲み慣れた黒い湖面に映した顔色は以前より良くなっているように見える。軋むような体を動かすのに相当の無理をしていたのだと、仄かに活力めいたものを取り戻してようやく理解した。宵刃と依鹿の間にある|繋がり《・・・》は、かの同僚の言葉通り、彼女にも確かな益を施してくれている。
それだけの関係で在りたいと思っているわけでもないが、少なからずここにいる理由の一つではあろう。|彼女のためだ《・・・・・・》といえるような綺麗な感情ではない。
ないが――。
端末に示された時刻を見遣る。どこから現れるのか分からない漆黒の姿が未だ近くにないことは|何となしに《・・・・・》分かっていたが、珈琲がシャーベットになる前には現れるだろう確信があった。
――この世で唯一、己に温度を分け与えてくれる神の卵の姿が待ち遠しいのは、ただ|彼女《・・》のくれる熱だけが欲しいからではなかった。
◆
良い金になった。
冷静になってみれば何のことはなかった。今まで何故|これ《・・》が出来なかったのか――と不思議に思うほどにすんなりと処理が終わる。貌を潰さずに済んだお陰で報奨金も充分だ。
宵刃が持ち込む|賞金首《・・・》に渋々と金を払った男が、忌避すべきものを追い払うような仕草で怪物に背を向けるのも、当の宵刃の目には映っていなかった。
持たされた電子の大金にかまけている時間もない。日の暮れ始めた狭く冷たい空を横目に、どこかで乱闘の声が聞こえる街を走り抜ける。
早く家に戻らねばならない。
まずは金を預けねばならなかった。黑家に名を連ねる者の職責は、金を稼いだ証明を成すことまでである。何より|彼女《・・》と会うのに鉄錆のにおいに塗れていてはなるまい。
失望されたくなかった。嫌われたくもない。仕事のことを話したところで|寂しい《・・・》という他に言及しなかった|彼女《・・》に、それでも血腥いところを見せてしまえば、貌を引き攣らせるかもしれない――とすら思う。
嗅ぎ分けにくいにおいから、それでもなお強く立ち昇るほどの負の感情を嗅ぎ取りたくなかった。常日頃向けられ慣れた嫌悪と忌避の眼差しが、|彼女《・・》の赤い眼差しから一筋でも降り注ごうものならば、怪物は己の形を保っていられる気がしない。
人間が不安と呼ぶ感情が付き纏ったのは、家に金を預けて着替えを済ませるまでだった。
√仙術サイバーの夜は長い。見えない夜空の星々の代わりに飽きることなく明滅する人工灯が通りを照らし、立ち並ぶ支柱代わりのビルからは常夜灯の如く光が漏れる。その影に転がる生きているのだか死んでいるのだか分からぬ人間の合間を文字通り駆け抜けながら、怪物は鼻をひくつかせるのも忘れていた。
――約束を守ったのだ。
|対価《ほうび》をもらえるはずである。他ならぬ|彼女《・・》から。今日このときのためだけに必死で律し続けた内心の、最も焦がれるものを求める権利を得た。
周囲を見渡すことすらなかった。元より凍てた体のせいでにおいの薄い|彼女《・・》を、目の利かない宵刃がすぐにも探し出せた理由を深く考えることは、未だ出来なかった。それよりも強い歓喜が一気に押し寄せる。
犬の身には高すぎる気温と湿度を振り払ってくれる温度がそこにある。未だ夏とも言い難い季節であるにも拘わらず、既に熱帯夜といって良い気候に似つかわしくない猫背の厚着を認識するや否や、怪物は弾む声と共に名を呼んだ。
「依鹿さん!」
大声に慣れ切った夜市の中で、もはや誰一人として振り返りもせぬ黑家の末妹の声に――。
「こんばんは、宵刃くん。約束、守れちゃったね」
ただ一人振り返った依鹿の赤い瞳は、漆黒の混沌へ緩やかな笑みを向けた。