サクラ・レゾナンス
まだ自然が多く残る地方都市だった。√汎神解剖機関に渡って暫く経つ春支度・つばめにとって、この土地の風景は故郷の空気に近いものを感じさせる。|警視庁異能捜査官《カミガリ》として派遣され数日の滞在を経たつばめは、この日は西日が落ちようとする中、山の方角へと向かっていた。
少し温い風が吹き、山の麓に並ぶ木々が漣のような音を立てる。その中に何者かの声を聴き、つばめは肩を竦めた。
「仕方ないよ、例の怪異がこっちに逃げたんだもの。おにいさまだって見ただろ?」
つばめがこの地に派遣されたのは、昨今起きている事件の捜査のためだ。突然人が変わったように他者へ襲い掛かる住人の続出──そんな事件の捜査を命じられたのが始まりだった。捜査自体は順調。人間の脳に寄生して凶行に走らせる怪異の仕業であることを突き止め、その現場を取り押さえるまでこぎ着けた。問題は対象が飛行能力を持ち、被害者の頭から飛び出した弾みに山へと逃げ込んでしまったことだ。
「実家の山と比べたら小さいよ、すぐに終わる。日が暮れたなら明日また出直そう」
姿無き同行者を宥めながら山へ足を踏み入れる。山よりも丘陵と称した方が相応しい地形だ。傾斜はなだらかで、標高も決して高くはない。木々は生い茂っているものの道に迷うほどでもなかった。木立の隙間からはごく普通に、ここ数日を過ごしたあの都市の風景が見えている。
だから余計に、その中を飛び回る怪異の姿は異質だった。人間の頭ほどはある巨大な羽虫の怪異の翅には、よく見れば顔のような模様が浮かび上がっている。不快な羽音を響かせながら、逃げ惑うように木々の隙間を飛んでいた。せっかくここまで追い詰めたのだから逃がす気は無い。つばめは愛用の武器である桜色のメリケンサックを装着すると、怪異が木に停まった瞬間を狙って拳を振り抜いた。
直後、慮外の方角からつばめの体が吹き飛ばされる。受け身を取ろうと身を翻すが、飛ばされた先に立つ木の幹に衝突する形で地へ戻ったのは不本意だった。全身の痛みをやり過ごしながら、つばめは顔を上げる。視界には変わらず生い茂る木々と、遠くで沈もうとしている太陽。そして、それによりくっきりと影が浮かぶ、巨大な怪異の姿。その巨体は、つばめが追ってきた怪異など可愛く思えるほどに圧迫感を与えてくるものだ。いつの間にやら、周囲には羽虫の怪異が複数体集まり、まるで喜びを表すように飛び回っていた。穏やかな場所に見えたこの山は、彼らの巣なのだと思い知る。
「まさか、群れと母体? ……参ったな、一対一でやるつもりだったのに」
この状況にあっても、つばめの反応は苦笑するに留まる。巨大な怪異は大顎をぎちぎちと鳴らしながら一歩、また一歩と近づいてくる。飛ぶわけでもないのに羽を震わせているのは、まるでこの状況に愉悦を覚えているようにも見えた。怪異の牙と爪が目前へ迫る。それでもつばめは、木を背にしたまま動かなかった。
さ わ る な
それは音とは異なる空気の振動。それでも声と認識できる何か。男の声にも似たそれが響くと同時に|何処《いずこ》からか伸びた槍が、怪異の胴を貫いた。──否、それは槍ではなく、古木から伸びたような細く鋭い枝だ。黒を帯びた木肌を見れば、それが桜の枝だと分かる。
「まったく、おにいさまは心配性だな」
金切り声にも似た音を上げて悶える怪異をよそに、つばめは己の背を見やる。白く細い腕が見えた。爪は鮮烈な赤に染まっているが、筋張ってもいる腕は男のものだと分かる。春支度・つばめという人間を依代にして現れているような、そんな現実味の無い腕だった。
故郷で出会って以降つばめを慈しみ、つばめもまた慕っている巨桜の精。彼の目の前でつばめを害することは、如何なる存在であっても許されない。
「分かった。それじゃあ、一緒に戦ってよ。僕が別に戦いは得意じゃないって知ってるだろ?」
立ち上がり、服に纏わりついた砂埃を払いながら、つばめは背より伸びる腕へ……そして|常にそばに在る《・・・・・・・》人影へと微笑みかけた。花嫁の背より出でた白い腕、その持ち主である美しい男がそこには立っている。爪と同様、鮮やかな赤を宿した瞳が、眼前で苦痛に呻く怪異を冷たく見下ろしていた。
傷を負った巨大な怪異が身を捩り、改めて牙を剥く。大顎を軋ませ、威嚇するような音を立てながらにじり寄って来た。つばめは気を取り直してメリケンサックを握り直すと、傍らに立つ『運命の君』へと合図を出した。
周囲の木々が騒ぐ。漣よりも激しく、喝采の如く辺りを覆う。その一瞬の|後《のち》に、視界は淡い赤に支配された。季節外れの桜吹雪はつばめの姿を隠し、怪異の体をその場へ縫い付けるように蝕んでゆく。
つばめの目には全て視えている。土を強く蹴り、桜吹雪の中を一気に駆け抜けた。その向こう側で、麻痺した体を蠢かせながら必死にこちらを探す怪異の姿が在る。メリケンサックを強く握り込み怪異との距離を縮めた先で、つばめは拳を振り上げた。
「騒乱罪および公務執行妨害だ。覚悟して」
直後、衝撃音と共に怪異の母体へつばめの拳が叩き込まれる。巨桜の精の加護を受けた拳は只の物理攻撃に留まらず、怪異の胴体に空けた風穴から確実にその身を滅してゆく。母体が致命傷を受けたためだろう、あれほど騒がしく飛び回っていた小さな個体はどれもが地に落ち、砂のように輪郭が解けてしまった。
怪異が傾げていた巨体を持ち直し、節足の先に備わった鋭い爪をつばめへ振り下ろそうとする。息絶える間際の、最期の悪あがき。だが、それがつばめに届くことはなかった。後方に控えていた巨桜の精がつばめの体を引き寄せる。つばめの眼前を掠めていった爪は重々しい音を立てて地へ沈み、そのまま動かなくなってしまった。
「ありがとう、おにいさま」
すっかり常の余裕を取り戻して礼を言うつばめに対して、巨桜の精はその美しい顔を不満そうに歪める。よほど強い感情でなければ声として他者に認識されない彼の声を、常に正確に聞き取れるのはつばめだけだ。
「僕の危機感が足りない? そうかな、かなり注意してた方だと思うけど……」
確かに一撃を受けて怪我はしたが、あの瞬間で最大限可能な受け身は取れたので、つばめの身動きに支障は無い。呪いや瘴気といったものの痕跡も無く、至って健康体だ。それでも、巨桜の精からすれば一撃受けたこと自体が一大事だった……ということが言いたいらしい。
彼に心配を掛けたことは素直に申し訳なく思う。それでも、つばめは今のところ、この戦い方や今の仕事を辞めるつもりは無かった。
「僕ひとりで対処が難しい時は、おにいさまが守ってくれると思ってるからね」
全幅の信頼を寄せた言葉と共に微笑むと、巨桜の精はまだ何か言いたげな顔はするものの、やがて諦めたように溜め息をつく様子だけが見られた。こうして彼が折れる形で話がまとまるのも、共に過ごしてきた時間の長さと、その末に築かれた信頼ゆえであると、二人共がよく理解していた。
視界の端で輝く塵が舞う。つばめの一撃によって息絶えた怪異の体が完全に解け、桜の幻影となって夕空へ散ってゆく。その最後のひとひらが見えなくなってようやく、この都市を騒がせた怪異の完全な消滅が確認された。