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朝凪の木漏れ日

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千桜・コノハ
結月・思葉
色嶋・いろり

 陽光がふわふわと、周囲を明るく照らしていた時刻。
 柔らかで、肌に吸い付くような羽毛の暖かさは心地が良くて、少女は一つ、寝返りを軽く打ったところで意識がふわりと浮遊していく。
 微睡みの中でまぶたの裏に広がる薄い桃色の光を感じながら相応の時間を掛けてゆっくりと瞳を開くと、そこには見慣れた木目の天井があった。
 節の模様が、少しだけ笑った顔のように見えるこの家の、"いつもの"の天井だ。
 ――ああ、私、ここにいたんだよね。
 胸の奥から湧き上がる小さな吐息。こぼれ落ちるまでに掛かる時間はたっぷりと。
 |千桜《ちざくら》・ちるは――いいや、『三毒・|瞋《ドヴェーシャ》』は、安堵の溜息を漏らした。ほっとした、である。感じた緊張は、寝具の柔らかさに溶かしてしまおう。
 目を覚ました瞬間。自分の置かれている場所が「今知っている天井」であること。それがどれほど奇跡的で、恐ろしいほどに幸福なことか、彼女は片時も忘れたことはない。
 ――……未だに、信じられないけど。
 ――でも、信じていいんだもんね。

 かつて自分が置かれていた場所――花腐しの贄姫は、ここではない天井を知っていた。八岐大蛇を崇める禍々しい教団の奥深く、染み付いてしまった花の香を否応なしに思い出してしまう。断片的な、冷たく湿った石造りの部屋。"生贄"であり"花嫁"として幼い日々に強制されたアレコレ。
 『花嫁はこうあれかし』という教えを幼少期に受け止めるにはあまりに無機質で、優しさなど皆無の――部外者から見ればただの虐待に映っていた事だろう。
 その身は見初められるように攫われたとて、モノとして捧げられたのだから|生贄《花嫁》として正しく機能させるまで、それこそ蛇のように舐る視線と、冷たさが彼女の傍には有り続けた。
 あの頃の朝は、絶望と恐怖で舌が痺れるような感覚しか与えてくれなかった。花嫁なのだから、起きる時間も活動も全ては先手を打って尽くすためにあれ、と。安堵の欠片も置くことは不可能で――それに比べれば、今の暮らしは夢と見紛うほどに穏やかだ。
 意思が覚醒してくるとふわり、と鼻腔をくすぐる香りに、瞋の鼻先が小さく動いた。
 香ばしい醤油の焦げる匂いと、出汁の効いた味噌汁の豊かな香り。それから、どこか甘い、炊きたての白米の匂い。その匂いに誘われるようにして、瞋は素直に心地よい寝具から這い出した。

 ぺたぺたと、中学生くらいの年齢であることも合わせた裸足の音を小さく響かせて、洗面所で顔を軽く洗い、ふかふかのタオルで顔を拭く。寝起き過ぎる髪を、梳くように素早く整える身支度はいつものことながら手際が良い。習慣として未だに根付く花嫁修業の結果だろう。
 人前に出るならば、整えずのまま出てはいけない。花嫁ならば、気を使うべし。
 瞋は再び廊下を通って、台所へ向かった。

 台所には、どこからどう見ても、どこにでもいそうな五十から六十代の穏やかな中年男性が立っている。これもまた、いつもの光景だ。しかしながら、少し可愛らし過ぎる薄桃色のエプロンにポップな豚のイラストが描いてあるので微笑ましい。ローマ字で"|豚丹《TONTAN》"(毒)と書かれているため、エプロンことは『トンたん』と愛称が密かに付けられている事は内緒の話だ。
「おはよう、|癡《モーハ》。美味しそうな香りでばっちり目が覚めちゃった」
 瞋が声をかけると、男――『三毒・|癡《モーハ》』は振り返り、目尻に深い皺を刻んでゆるりと破顔してみせた。
「やぁ、おはよう、|瞋《ドヴェーシャ》。ふふ、いい顔をして起きてきたねぇ。出来上がりまでもう少しなんだよ、そろそろご飯が炊き上がるから、ちょうどいいタイミングだよ」
「うん。……あれ、|貪《ラーガ》はまだ起きてないんだ?」
「ああ、『|貪《ラーガ》』を起こしてきてくれるかい?」
「また夜ふかししてたのかな、……わかった、いってくるね」
 瞋が向かうのを見て、癡は自分が本当は行くべきなんだけど――という言葉は呑み込んだ。だって、ご飯をつくる人、と起こす人がいるこの形。穏やかな家族っぽい雰囲気がするじゃないか。

 瞋は、足を翻し、廊下の奥にある別の部屋へと向かうことにする。ちょっと離れたところで、少しだけ照れくさそうに、ハニカムように微笑んでいた。
 教団の冷酷な儀式から自分を救い出し『三毒』となる種を与えてくれた命の恩人なのだ、彼は。自分にとっての救世主であり、父親のようでもあり、祖父のようでもあるこの温かな存在の言葉は、いつだって瞋の心を優しく包み込んでくれるのだ。
 だから、ちょっとだけ今日の朝の足取りも、自然と――軽くなる。

 *

「|貪《ラーガ》、起きて。もう朝だよ」
 静かに扉を開けると、締め切られたカーテンからうっすら光が入る程度で、朝の空気感はゼロ。
 どこか不思議な空間の中で、10歳程の幼い姿が掛け布団を丸めるように抱き込んで、丸くなっている。片割れ人形のミシェル、――古びた人形の付喪神は、"家族"といっしょにいる時は『三毒・|貪《ラーガ》』と呼ばれる複数の"名"を持つ。
 眠りにつくまでの深夜の時間帯。遥か遠くに放った|布製の動物人形《パペット・フレンズ》たちが夜を行脚させていたのと並行して五感を共有していた為に、彼らの目や体感を借りて夜の散歩、遊びに気軽に出かけていたのは疑う余地がない。なにしろ、窓がうっすら空いている――パペット・フレンズを外に出した証拠だ。
 パペットを使ってどこかで人間を追い詰め、戯れて、最後には無邪気な残酷さをもって――|お人形さん《おともだち》になった数は、数しれず。遊びであるからこそ、|その後《・・・》の事は彼が関与することはあまりない。
 ゆるゆると、体を揺らされてやっと貪から反応が返ってくる。
「ふぁ~あ……あと、5分……」
「もうみんなおきてるんだよー?」
「うにゅ……むにゅぅ……うぅ〜ん……」
 ベッドから聞こえてくる小さな寝言は、10歳程度の外見と同じく可愛らしいものだ。
 ぐずる姿があまりにも可愛らしくて、ついついこのまま抱きしめて甘やかしてしまいたくなる衝動に駆られるが、瞋はぐっとそれを堪えた。起こしに来たのだから、起きて貰わないと。
 そっとベッドの脇にしゃがみ込み、少年の頬へ指先を伸ばす。

 つん、つん。

「んん~……?」
 人間の子供と何一つ変わらない、もちもちとした柔らかな皮膚の感触。彼は元を辿れば付喪神、しかしその頬は驚くほどに暖かく、流れるようにもう一度表記するが、人間の子どもと何一つ変わらない心地よい反発力を持っている。瞋はその柔らかさをしばらく堪能してから、クスリと笑った。
「寝直してもいいけど、|癡《モーハ》の朝ごはん……」
 ぱちり。ゆっくり瞼を開いた貪の瞳が、瞋の目線と合う。
「なんてね。ふふ。……うん、おはよ。ちゃんと起きれてえらいえらい」
「……んん~……|瞋《ドヴェーシャ》おねーちゃん、おはよお……」
 ――笑うととっても可愛くて、今日もとっても綺麗なおねーちゃんだぁ……。
 ぽやぽやとした声で挨拶を返す姿に、瞋の胸が温かなもので満たされていく。
 この子を見ていると|Anker《コノハ》と姿が重なる想いにもなるのだ。代わりにしているつもりはないけれど、どうしても"お姉ちゃん"として振る舞いたくなってしまう自分を、瞋は否定できない。
 貪はふらふらと起き上がると、瞋の手を握って廊下へ出た。
 『朝の挨拶は一日の基本』だと癡に教えられていたからこそ、貪はどんなに眠くても必ず挨拶をするようにしているのだ。だからこそ、起きて直ぐに挨拶が飛び出していた――その様子がどれほど可愛いものか、彼はあまり認識できていないのが惜しいほどである。
「あ~……顔洗ってから、いくねえ」
「うん、食卓ちょっとずつ並べてまってるね」
 洗面所へ向かった貪は、蛇口をひねって冷たい水を手にすくった。
 軽く、バシャバシャと顔を洗う。
 ――……ふしぎだなあ?
 顔に触れる水の感覚。顔を洗うと眠気が直ぐに醒めるのは、いつ感じても不思議に思う。
 ――前の身体なら、水に手が触れるととっても重くなったのに。
 ――今は全然大丈夫だもん!
 さっぱりとして、ただ、気持ちがいいとすら思える。
 かつて自分を置き去りにした大好きな元持ち主――「|思葉《おねーちゃん》」を想う胸の奥の痛みを一瞬だけ振り払い、貪はタオルで顔をゆっくりと拭いた。
「おっと、ぼーっとしてないでご飯ご飯……!」

 *

 洗面所から戻ってきた貪を、食卓で待っていた二人が温かく迎えた。
「いいにおい~……|癡《モーハ》おじさん、おはよお」
 さっぱりはできた、けれどやはり、眠いものは眠い。でも挨拶は忘れない。
「おはよう貪。さ、君も顔を洗っておいで……おや、もう洗ってきたかい。えらいねぇ。瞋、配膳を手伝ってくれるかな?もう少しあるんだよ」
「うん。じゃあ、並べちゃうね」
 瞋の手際よい動作で、テーブルの上へ三人分の食器が整然と並べられていく。
 今日の朝食は、前日に貪と瞋がリクエストしていた和食だ。
 まだ育ち盛りの子どもたちのためにと早めに起きて朝食を用意していた癡は、起きてから白米を炊いていた。その事実を、子どもたちはよく知っている。
 お椀に盛ったふっくらと炊き上がったばかりの白米(できたてほやほや)。
 豆腐とわかめが浮かぶ出汁の効いた味噌汁(適温)。
 焦げ目まで含めて絶妙な焼き加減で脂の乗った焼き鮭。
 ほうれん草の鮮やかな緑が映えるおひたし。色がしっかり映えるように処理済みだ。
 そして、仕上げに癡が丁寧に巻き上げた、少し甘めの黄色い卵焼き(砂糖は心持ち多め)。
 それから、冷蔵庫から出したばかりの冷たい麦茶を、大きなグラスに注ぎ、全員が席についた。

「「「いただきます」」」

 声を合わせて|挨拶《・・》をして、箸を伸ばす。
「わー!美味しそーう!!」
 全部が出来たてだと分かっているが、黄色を通り越してしっかりタマゴを贅沢に使った卵焼きは黄金の卵焼きといっても過言ではなかった。これに、直ぐ目をつけて、箸で小さく割ると、閉じ込められていたかすかな湯気とともに、優しい出汁の香りがふわりと立ち上る。それを口に運べば、ジュワッと甘い汁が舌の上に広がり、追うように炊きたての白米の甘みが口内を包み込んだ。
 貪は、卵焼きを頬張り、瞳を輝かせた。
 お い し い。
 表情だけで直ぐわかるほどの、キラキラした表情であった。
「今日の甘さもちょうどいいね!お味噌汁も、甘さの後に飲んでもしっかりした味のままでバランスがほんとうに好きだなあ、あ、ええとね!とっても美味しいってこと!ね、瞋おねーちゃん!」
「うん、本当だね。すごく甘くて、優しい味で美味しい……」
 かつて教団の奥深くで与えられていた食事は、儀式のためのものであり、生きるための最低限の味しか与えられなかった。冷え切り、毒の有無を確かめるように味わうことも許されなかったあの頃の食事とは、何から何まで違っている。熱いものを「熱いね」と言い合い、美味しいものを「美味しいね」と笑い合える食卓。その温度が舌から喉を通って胃へ落ちていくたび、自分の生きている身体がじんわりと温め直されていくようだった。
 瞋が、流れるように焼き鮭の身をほぐしながら笑みをこぼした。骨までしっかり柔らかくなる、弱火でじっくり焼き上げたスタイルは、実家で食べていた頃の|千桜家《我が家》とは何処か違う癡の作る優しい和食。最初は戸惑いもあったけれど、いつの間にかこの味が自分にとっての"安心できる家庭の味"になりつつある。その事に、馴れ始めたことで、実家からは遠ざかっている。
 自分から遠くなっていく事に申し訳なさから来る小さな寂しさを憶えないと言えば、正直何処までも、嘘になるけれど。
 ――今は、この三人で囲む食卓の時間を何よりも大切にしたかった。
 今、居ていい場所は|此処《・・》なんだ。

「二人とも、今日はなにか、予定はあるのかい?」
 箸を進めながら、名目上の家主である癡――いや、この家の"父親"である男が尋ねた。
(尚。前の家主は誰か、など野暮なことさ。行方不明者のことは暴くものでもないよ)。
「僕はね、今日は遊びに行く!」
 貪が口の端に味噌汁の汁気を少し付けながら元気に手を挙げた。美味しくて、おかわりする勢いで飲んでいるのが、やはり微笑ましい。
「今日は|思葉《Anker》おねーちゃんに会えるかなぁ?会えるまで探しちゃおっかな、って!見つけるたび、いっつもおねーちゃんは誰かと一緒でさ、僕のことそろそろたーくさん見てほしくって!僕の遊びに勝っちゃうからさ、いっつも僕が負けちゃうし……でも今日は!今度こそ勝って、お人形さんにして、ずーっとずーーーーっと、僕と遊ぶんだ!」
 あそぼ、って誘って駄目なら、遊んでくれるまで離さないようにしたいよね、と。
 今日なら出来る気がして、ワクワクするんだ、と。
 無邪気に語られる残酷な望みではあるが、癡も瞋もそれを責めることはしない。それが『三毒・貪』という存在の本質であり、彼の切実な孤独の裏返しであることを知っているからだ。
「そうかい。でも、怪我だけはしないようにね。それから……」
 癡はゆるく微笑みながら、貪の口元をいつもの布巾で優しく拭ってやった。
 彼専用の布巾だ、今日も用意しておいたかいがあった。
「晩ご飯と明日の朝ご飯のリクエストは、おやつの時間までに教えておくれね」
 二人と出会ってからレパートリーを増やした癡は、様々な感情が薄れやすい。
 家族と共にある特別な|暖かさ《・・・》は何より優先しても良いことだと、考える。
「あ、晩ご飯はね、カレーかな、オムライスがいいかな、えへへ、迷っとくね!」
 子どもが好きなメニュー。どっちも好き、と語る貪だ。選ぶまでの時間は沢山考えてから教えてくれるだろう。選ばれなかったほうが次の日で、ときっという。これもまたいつもの日常だ。
 あとか、さきか、くらいの違いしかない。
 これは癡と二人と暮らす時間から割り出される経験則だ。

「わたしも今日は出かけるつもり」
 瞋が静かに言う。
「そうかい。瞋も出かけるんだねぇ。僕は午後に少し塾講師のアルバイトがあるけれど、夕方には終わるから晩ご飯までには帰って来られるよ」
「うん、分かった。……早めに帰ってこれれば、二人がいない間に家の掃除もできるかな。癡にばっかり家事を任せてもいられないもんね」
 掃除したいと考えている場所があるんだ、と瞋は言う。
 部屋の隅々、の埃を見るたびに考えてしまうのだ――日々綺麗・清潔な場所で生活するべし。
「あそこ――教団にいた頃の|経験《花嫁修行》が役に立っているようで少し癪だけれども、二人のためになるならいくらでも活かしたいから」
「ふふ、あまり無理はしなくていいんだよ。君は僕たちの『大切な女の子』なんだからねぇ」
 癡の温かい言葉に、瞋は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
 あたたかさは、此処に、在るんだ。

 *

 食事が終わると、「ごちそうさま」の声とともに片付けが始まった。
 瞋が食器を手際よく下げ、台所で洗剤の泡を立てる。癡はその横で乾いたいつもの布巾を持ち、洗い上がったお皿を丁寧に拭いていく。
 貪は満足そうにお腹をさすりながら、部屋の隅で出かける準備を始めていた。シンクに流れる水の音を聞きながら、癡は密かに胸中で感慨に耽っている――。
 ――……思えば、『三毒』に転じてからこんな風に過ごした事はなかったなぁ。
 二人より長い年月を生きる癡は、権能の影響で周囲の人間の感情を摩耗させ、彼自身の心さえも薄味のものへと変えていく。だからこそ、一人の時間は長かった。
 前任の|『貪』と『瞋』《・・・》と行動をともにすることは少なくて、交流自体が少なくて。互いにどちらかといえば無関心で、ただ目的のために利用し合うだけの無機質な関係だったともいえる。人との温かな繋がりなど、一体何年ぶりのことだろう、と思ったほどに。
 だが、共に暮らし、常に接しているこの幼い二人――『貪』と『瞋』だけは、なぜか自身の権能の影響を免れていた。
 二人と過ごす緩やかな時間の流れ。二人のコロコロと変わる豊かな表情。交わされる何気ない言葉。それらの一つひとつが、摩耗しきっていた彼の心に心地よい彩りを与えてくれる。
 ――……健やかに、逞しく。
 ――世界を貶める厄災になってほしいと、心から願っているよ。
 一見すれば矛盾した静かな祈り。
 だけれど、彼らにとって厄災であることは現在の生そのものであり、世界への拒絶ではなく生きるための証明でもある。家族が無事を祈る何気ない事と、同じ。

 一方、瞋もまた、自分の胸の中にある「毒」の刃を静かに研ぎ澄ませていた。
 ――きっとこの世界には、まだわたしみたいな子がいっぱい居る。
 理不尽な暴力に晒され、虐待され、搾取され、声を上げる声が届かない場所で心が殺されていく誰かが。苦しむ子どもたちは、その声を響かせ続けられないのが常だ。
 ――だから、刃を差し出すの。
 ――そして、背中を押してあげたい。
 羽ばたいていいんだよ、と。
 瞋の救いは、神の雛である"コノハ"が行うような、優しく正当な救済ではない。
 被害者の心に潜む怒りや憎しみを増幅させて、自らの手で加害者に復讐を遂げさせること――世界へ理不尽を返すべきだと羽ばたかせる。
 それこそが、瞋の選んだ『三毒・瞋』としての救済だった。もう自分のような理不尽の被害者を増やしたくないという、あまりにも苛烈で純粋な悲痛が、簒奪者となって対象に還るように。
 ――それに……わたしの存在が噂になれば。
 ――わたしのAnker……因縁の|相手《コノハ》に逢えるかもしれないから。
 宿命の相手に逢うために。そして世界に救いという名の"怒り"を振りまくために。
 今日という平和な朝の裏側で、彼女は再び惨劇の刃を抱いて立ち上がる。

 *

「それじゃ、準備完了! 忘れ物はなーし!」
 リュックサックを背負った貪が、元気よく玄関へと走っていった。
 瞋もまた身支度を整え、上着を羽織って玄関へと向かう。
 出かける時間になると、癡は手を止め、二人よりも先に玄関へと足を進めた。
 いつもの日課である、持ち物チェックのためだ。
「ハンカチとティッシュは持ったかい?お財布は?」
 順番に尋ねて、ある、と言われば、満足したように胸を撫で下ろす。
「……よし、大丈夫そうだねぇ」
 父親のように甲斐甲斐しく二人の身なりを確認すると、癡はふっと柔らかく目を細めた。
 そして、小さな貪の右手と、少し大きくなった千桜の左手を、自分の大きな両手でそっと順番に、一緒に包み込むように握りしめた。

「「……!」」

 包み込まれた小さな両手に、じんわりと温かな温度が伝わっていく。
 ゴツゴツとした、けれどどこまでも優しく頼もしい手のひら。
 ――この手の中に感じる温もりが。
 ――暖かさが。……今日限りでありませんように。
 心の中で静かに祈られた。
 明日も、明後日も、その先も。傷つき、汚れ、世界を呪う存在へと変じきってしまった自分たちが帰ってこられる場所が、どうかこの一軒家でありますように。
 貪もまた、握り返された手の温もりにえへへと嬉しそうに微笑んだ。
 ――癡おじさんの手、あったかいなぁ!
 ――……今日もいっぱい遊んで、早くこの家に帰ってこようっと!
 癡は二人の手をゆっくりと離すと、玄関の扉を少しだけ開け、二人を見つめた。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 言葉の裏に隠された、溢れんばかりの情愛。
 どんな恐ろしい厄災であろうと、どれほど世界から嫌われようと、この男だけはいつだって二人の無事を祈り、見送り、そして温かなご飯を用意して帰りを待っているのだ。
「うん。いってきます!」
 瞋が凛とした声で応えて、出かけていく。
「それじゃあ、いってきまーす!」
 貪もまた、元気に手を振りながら、扉の向こうへと飛び出していった。

 一歩外へ踏み出せば、朝のちょっぴり冷たい風が二人の頬をかすめていく。家の中のあたたかな空気とは違う、どこか尖った外の世界。それでも、それぞれが握りしめた手には、さっき癡に包まれたときのぬくもりがはっきりと残っていた。貪はリュックの帯をぐっと握り直し、どこか遠くを見つめるように無邪気な笑みを浮かべ、瞋は上着の襟をすこし直して、凛とした瞳でアスファルトの道を歩き出す。帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。
 だからこそ二人は、それぞれの「毒」を抱いて、迷いなくその足取りを進めるのだ。

 ――ばたん、と静かにドアが閉まる。光の差し込む玄関に残された癡は、遠ざかっていく二人の足音に耳を澄ませながら、ぽつりと呟いた。

「君達が無事に帰ってきますように……いつだって僕は、それを祈っているよ」

 朝の静寂が家を満たしていく。
 けれどそこにはもう、かつてのような冷たい孤独はなかった。
 夕方になれば再び交わされるであろう「ただいま」と「おかえり」の声を信じて、男は穏やかな笑みを浮かべたまま、次は洗濯だなと家事作業へと戻っていった。
 挨拶が届き、返ってくるこの場所で。
 家族が暖かく過ごせるように。
『三毒』の|現《うつつ》は続くようにと、男なりにただ、祈りながら――。

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