チヨコレヱト大脱趨
つづら折りの参道は、1kmほど続く階段道。
御手洗川にかかった太鼓橋は数えて四本。
最初の一は、黒橋。二が胡麻橋。三が白橋で、四が赤橋。
終いの赤橋を渡った先には立派な大鳥居がデンっとそびえ、くぐった先の参道並木は、勾配がますます増した階段。
段数481の旅路の両端には花樹がずらりと並ぶ。おかげで季節ごとの眺めを楽しむことが出来るが、不慣れな参拝客は楼門に辿り着く頃には青色吐息。
そうしてようやく拝むに至る神社は山の天辺。で、あるからして、門前町が広がるのは、山の中腹に位置する参道沿いだ。
宿泊施設に土産物屋、飯屋に茶屋にパーラー。流行りものを扱う小間物屋から、怪し気な古美術商に骨董品屋。ずらりと並ぶ町家は、いずれも店主のやや強めの自己主張が、創意工夫となって現れている。
小路を入るとダンスホールなどの遊興施設もあるのだが――今はさておき。
●はじまりはじまり
「ちょ、まっ! 待て!!」
場所は√妖怪百鬼夜行、時は正午前。参道が食べ歩き客で賑わう頃。
黒橋を渡ってしばらく、胡麻橋のいくらか手前に位置する骨董品屋で事件は起こった。
「そいつは歴代店主の初恋の苦い情念がつもりにつもったチョコ壺……っ!」
店先に置いた年代物の炬燵からずりずり這い出た赤入道が、悲鳴を上げる。
必死の伸ばした手と手の間を、タヌキ色の猫が|ひょい《ニャン》っとすり抜け、|しゅたたた《うにゃにゃにゃ》と階段を駆け上がってゆく。
「きゃっ」
驚いた参拝客の手から、ソフトクリームのうずまき部分がべちゃりと落ちる。
「うわっ」
「わっ」
「わあっ」
宅配業者の小鬼達は、担いだ荷物が荷崩れを起こさないよう右往左往のてんやわんや。
「こらっ、お待ち――っあ」
立ち塞がった弁当屋の女将さんを、猫は軽やかなジャンプで一跨ぎ。
「だ、だれかそいつを捕まえてくれ!」
膝から下を炬燵に残した赤入道は、顔を青褪めさせてうろたえる。
おかしい。自分は初恋の|天降女子《あもろうなぐ》によく似た客をもてなしていただけなのに、と嘆きながら。
●|チヨコレヱト大脱趨《チョコレート大脱走》
昏き情念が古妖を封印から解き放つ。
ああ、確かに。確かに。苦さばかりが残った初恋の情念は、昏く澱んだものであろう。
しかもそれが『チョコ壺』なんてものとして形を残しているなら、120%黒歴史だ。
「渡せなかったチョコレートの欠片を詰め込んだ小さな壺だそうです。とはいえ、それをたすき掛けに背負って強奪、ならびに逃亡する猫の方も只者ではありません」
満載すぎるツッコミ処は一先ず棚に上げ、|白藤《しらふじ》・|閉《とじる》(花蝶封抈・h00300)は至極まじめな貌でうつくしくかたる。
危険な「古妖」は既にどこかで封印から解き放たれている。
此度の騒ぎは、古妖の解放に関わった何者かが絡んでいるはず。まあ、十中八九、小壺を背負った猫――おそらく何かの妖怪――が『何者』枠で間違いない。
「チョコ壺は、古妖にとって朝食のようなものなのでしょう」
古妖が動きを本格化させたなら、門前町の人々はあっという間に喰らい尽くされてしまう。もちろん、封印を解いた何者かも、だ。
詠んだ騒動は、少し先の未来。
とは言え、チョコ壺の守りを固める対処は不可だ。
奪えぬ餌に魚は寄り付かない。寄り付かない魚は、他の餌を求める。そうなってしまうと、『事件の糸口』を釣り上げられなくなってしまうから。
「そういうわけですから、まずは楽しく猫と追いかけっこです」
ひたすら姿を追うもいい、あたりを付けて待ち受けるのもいい、一計を案じるのだってありです、と閉は云う。
立ち止まっていては、始まるものも始まらない。もう物語は動き出しているのだ。
と、その時。
閉の背後の|死霊《インビジブル》がパチパチと瞬く。
「あ」
忘れ物を思い出した顏で、閉が声をあげる。それから花のように微笑む。
「もしかすると、猫が別の何かに見えることがあるかもしれません。その時は、心を奪われてしまわないよう――十分に気を付けてください?」
第1章 冒険 『お宝咥えたどら猫』

●トキメキの過呼吸
低い段差に、高い段差。
不揃いな急階段をものともせずに、|ララ・キルシュネーテ《꒰ঌ❀❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。❀໒꒱》(白虹・h00189)は飛んで、跳ねて、猫を追う。
(ほろ苦い恋心の欠片を奪って逃げるなんて)
オトナ達には覚束ない地を這う視線も、|ララ《雛》にとってはお手の物。
一足早い春を華やかにまとい、ララは賑わいの中を直走る。
(なんて愉快な猫ちゃんなのかしら!)
ララはまだ戀を知らない。
でも、父と母が出逢い、戀をして、その戀を実らせたからこそ、自分が生まれたことは知っている。そして両親の戀路が、幸せばかりで無かったことも識っている。
だのに、だのに。二人はいつも幸せそう!
(苦い戀の屍を齧ったら、ララにもわかるのかしら)
思い描く戀の味に、ララの白い頬は紅潮し、胸に咲く花一華――|アドニスの心臓《アイ》も期待を謳う。
ドキドキ、わくわく。不安と幸福。
入り混じったら、息が止まりそうになるのだろうか。
想像だけで、呼吸が甘く弾む。
――そんな美味しいものを、独り占めだなんて。
「駄目よ、猫ちゃん」
楽園をみつめる眼をとろり蕩けさせ、ララは可惜夜を抱く小さな翼を羽ばたかせた。
花香を帯びた加速に、危機を察したタヌキ色の猫が「みゃっ」と鳴いて小路へ逸れる。すかさずララも、石畳を薄桜の爪先で蹴った。
心躍る鬼ごっこに、ララのお腹は空腹を訴えている。ほろ苦いチョコレートの匂いが鼻先をくすぐれば、なおさらに。
だってララは迦楼羅。龍を喰らうのと同じに、三毒を食らう|霊鳥《神聖》。
(叶わなかった情念はさぞや美味な……貪なのでしょう?)
戀を知れるかもしれない。
極上の美味を味わえるかもしれない。
「噫、なんて魅力的」
|夢《極楽》のようなトキメキに、過呼吸を起こしてしまいそう!
●ねことはこ
黒く塗られた春日灯籠の笠石を目掛け、タヌキ色の猫が|ひょい《にゃう》と跳ぶ。
負けじとハコ・オーステナイト(▫️◽◻️🔲箱モノリス匣🔲◻️◽▫️・h00336)もふわりと飛んだ。
黒い生地に、クラシカルな装飾、そして可憐なレースを重ねたゴスロリの装いは、とうてい追いかけっこには適していない。しかしそんなアドバンテージも何の其の。
五段分の距離を一気に詰めたハコは、繊細なフリルに縁どられた袖から、めいっぱい手を伸ばす。
「――あ」
捕らえ損ねた掌に、雲を掴むような手触りが残る。知らない感触だ。雲を掴んだこともないけれど。
しかしハコはめげない。
「ハコは逃げる者を追うのは得意なんですよ」
平らに呟いたハコは、今度は両足を揃えて大きく跳躍し、階段を駆け下っていた猫の真ん前に着地を決める。
――|ぶにゃう《げえ》!?
らしくない声が混ざった途端、猫の輪郭がブレた。しかし失わなかった小動物の敏捷さで、|猫《・》はハコの足元をすり抜ける。
「今のは?」
急停止、からの、反転。
プリーツスカートをひるがえしながら、ハコは僅かに首を傾げた。それから思い出す。
「皆さんには何が見えてるのでしょう?」
猫ではない何かに見えるかもしれないと言われていた猫。もしかしたら、今の現象にも関わりがあるのかもしれない。ひきがねはきっと初恋、或いは恋情。
(初恋ですか)
未だ解せぬ感情へ、ハコは想いを馳せる。
きっと素敵なものなのだろう。|チョコの情念《チョコ壺》とやらは更に|分からない《意味不明だ》が。
「バレンタインのチョコとは日頃の感謝を相手に伝える物、と聞きましたが」
知り合いの大人の教えを反芻する。もしかするとそれだけではないのかもしれない。
目まぐるしい追走劇にも呼吸を乱さず、ハコは思案を巡らせる。同時に、門前町の景色にも見入った。
情緒に溢れた、|綺麗な景色《・・・・・》。
(素敵な場所ですね、問題を解決したら是非とも観光したいところです)
その為にも、まずは|猫《・》を捕まえねば。
「すみません、通ります」
人々の狭間をハコは縫う――暗殺者の鋭さで。
●鬼ごっこ改め、|影《ツェイ》踏み鬼
冬の陽射しを受けた黒い毛並は、艶やかなベルベットのようだ。
ひらっと駆けていった大黒狐を呆っと見送ったツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は、ぽつんと胡麻橋の袂に立つ。
「……普通、即置いてゆくかのう」
しみじみ。しみじみ。
いや、まあ。置いて行かれるようなことをした自覚はある。自覚はあるが。
『叶わなんだ想いの澱をも好むか、悪食だの。一寸前の誰かさんのような猫だ』
ははは、と笑っただけだ。ちょびっと、揶揄っただけだ。だというのに、きっちりしっかり臍を曲げたスス・アクタ(黑狐・h00710)は、変身してすたこらさっさ、である。
「難しい年頃だのう」
しみじみ。しみじみ。しみじみ。
地面に「の」の字を書く勢いでツェイは項垂れた。ため息もいつもより湿っぽい。
だがこのままでは、|養い子《スス》に白い目を向けられるだけだ。
(ここは、バシっと。化け鼠追いで鍛えた我らの連携を見せてやらねば)
誰に? もちろん、件の猫に。ついでに、ススにもイイとこ見せらたら一挙両得。かくてツェイは、音もなく舞い上がり、とんっと手近な町家の屋根に立つ。
若見えではあるが、ツェイの齢は百が近い。苦手な駆け事は|若人《スス》に任せて、己は高みの見物――ではなく、得手の術を用いた索敵が適任。
「どおれ、お宝担いだ猫殿は何処――お」
チラチラ飛ばした蛍火たちの仕事は早い。ひと際まばゆい煌めきに、ツェイは声を張って疾く飛ぶ。
「スー、あそこじゃ!」
猫と相まみえた、どこかの屋根の上。追うススと迎えるツェイで、挟撃を目論んだ。
「これ、誰の襟首咥えておる」
目測を誤ることは誰にだってある。標的を違えることだってぶんぶんぶん。
「これこれあまつさえ胡椒瓶みたいに振るか」
「すみません間違えました」
咥えたツェイをぺっと解放し、ススは己が過失を棒読みで詫びる。
「嘘じゃろ、わざとじゃろ、反抗期じゃろ」
五月蠅いツェイに、ススは閉じたばかりの咢を再びあんぐりと開く。
「ほれやっぱり反抗期じゃ!」
「――」
ばくんとススは空を噛む。なんだかんだでツェイは恩人だ。受けた恩義を忘れたことは一日たりとてない。でも。
「べつに軽い鬱憤晴らしとかではないです」
「ほれみろ!」
「改めて追いましょう」
ススがくるりと踵をかえすと、ツェイがえっちらおっちらついて来る。邪魔だとは思わない。なれどむず痒さに気持ちがささくれることもある。
「あの狸ですよね?」
「いや、猫じゃし」
ススが足を速めると、ツェイが飛ぶ。本気を出されたら、きっと置き去りには出来ない。そう考えながら、ススはツェイの訂正に内心で首を傾げた。
(猫? あれはイヌ科の匂い――)
「おったぞ、スー。そこな二叉路にて上から挟み撃ちと参ろう」
「私は階段でもいいですけど承知しました」
過った可能性を断ち切り、ススは臨戦態勢へ移行する。自覚して生意気を言う。正直、腹の蟲はまだ収まっていない。
「一、二の三、で参りましょう」
めいっぱいの力強さで、ススは瓦を蹴った。ワンテンポ遅れたツェイを振り返ると、少し拗ねた顔が見えた。ほんのり胸がすく。ならば、もう一声。
「今度は一緒くたに踏まないよう留意しますので」
「うん? 今なんと申した――」
「一、二の――」
「一寸待っ――」
ススは飛び降り、ツェイは舞い降りる。
結末を皆まで語るは無粋。
ただひとつ記す。反抗期の子供をうかつなことを言ってはいけない。
|君《爺》と|僕《孫》の約束だ☆
●再会のち哀愁
そもそも猫のチョコレートは毒だ。絶対に食べさせてはいけないし、間違って食べようとしていたら阻止せねばならない。
「でも、妖怪っぽいし? それに猫ちゃんが食べるわけでもなさそうだし?」
行き詰った思考に|一文字《いちもんじ》・|伽藍《がらん》(Q・h01774)は空を仰ぐ。冬の青は澄み渡っている。答が降って来る気配は無い。
アップした最新の歌ってみた動画の概要欄に一言添えたら、有識者たちがすぐさまコメントをくれるだろう。が、今はその暇もない。
だって伽藍は今、胡麻橋の上でタヌキ色の猫とにらみ合っている真っ最中。
猫はほんのり疲れて見えた。きっと激しい攻防の直後なのだろう。
「大変だね、でもアタシとも遊ぼー!」
伽藍の合図に、銀の光がひらひら揺れる。
「だめだめクイックシルバー、もっと全力で猫じゃらし振って!」
伽藍の求めに、銀の光は精一杯ひらっひらする。なお銀の光が弾けたような姿のそれは、伽藍の護霊だ。
とんだ無茶ぶりにも、護霊は必死に応じる。しかし猫にじゃれつく気配は皆無。
「あっれー、猫って猫じゃらしが好きなもんじゃないの?」
ことり。浮かんだ疑問に、伽藍は首を傾げた。ついでに、猫が別の何かに見えると云われたことを思い出す。
「なら、あれは猫ちゃんじゃないってこ――はあ、兄貴!?」
え? と。
息を飲む間も無く、伽藍は駆けた。だって太鼓橋の真ん中に、よくよく見知った姿があったのだ。すくすくとデカく育ったパワー型なみてくれは、間違いない。
「オッス兄貴〜久しぶり! 元気だったかこのクソ野郎!」
色々ある一文字家の贄の役目を負って生まれた伽藍。だのに二卵性双生児の兄が失踪したせいで、操者の役目まで舞い込んで来た。一人二役だ。冗談じゃない。
「ここであったが百年目だテメェ人に面倒ごと押し付けてドコ行ってやがった。ああ――ああ?」
フリーダムも大概にしろよと詰ろうとした瞬間、兄の姿は忽然と消え去る。
胡麻色の太鼓橋に残されたのは伽藍だけ。胸ぐらを掴むまであと一歩のところだったのに。
「ハ〜マジかよクソ兄貴……次みっけたら釘だな」
物騒に呟く伽藍の傍ら、クイックシルバーは尚も懸命に猫じゃらしになっていた。まあ、猫も消えていたんだけれど。哀愁。
●花よ花よ
|花片《はなひら》・|朱娜《しゅな》(もう一度咲って・h03900)は軽やかに階段を駆け上がる。山育ちだ、これくらいどうということもない。
「大丈夫ですか?」
「っあ、ありがとうねぇ」
尻もちをつく直前だった高齢女性が、手をとってくれた朱娜へ笑顔を弾けさせる。朱娜も、間に合って良かった、と笑み返す。
「今日は猫追い祭か何かなのかい?」
「――そんな感じです」
女性の靴が石段をしっかり踏んだのを確認し、朱娜はにこやかな表情を保ったまま、再び走り出した。
誤解の訂正をしなかったのはわざとだ。余計な不安は与えないに限る。
一連の|みちくさ《人助け》でタヌキ色は見失ってしまった。でも朱娜には花たちがいる。
|ひらひら《おいでおいで》、|おいでおいで《ひらひら》。
ここの|花の残滓《インビジブル》の手招きは、満月の海に漂う珊瑚の卵に少し似ている。
見惚れる景色は、とてもきれい。初恋の記憶といったら、多くはきっとこちらに近い印象だろうに。
(初恋の欠片、なんて。残っていたらときどき眺めたりするのかな)
歴代店主が抱いた“ほろ苦さ”を想像すれば、憐憫と慰めと、ちょっぴりの滑稽さが朱娜の裡に押し寄せる。
(私なら、在るだけで良いもの……に感じる、かも)
「あ、いた! 猫ちゃーん!」
ほどなく見つけた猫へ朱娜は呼びかけた。御手洗川の土手にもなっている階段の中ほど。朱娜の声に気付いた猫は、既に警戒モードだ。ここまでが朱娜の思惑。
ゴツい厚底スニーカーで力強く踏み切る。音に驚いた猫は、朱娜とは反対側へ逃げ出す。
「――そこ!」
野生の勘か、最初の仕掛けである補足用の花を、猫は器用に掻い潜った。そのタイミングに合わせて、朱娜は花弁の刃を飛ばす――。
先の先を読んだ朱娜の狙いは、チョコ壺を固定している帯。
残念ながら切り落とすところまではいかなかったが、大いにバランスを崩した猫は、小壺からチョコを転げ落としていった。
拾い上げた欠片は、角の取れた三角形。
「これも花びらみたい」
丁寧に拾い上げ、朱娜は花のように咲う。
●狼と牛、|甘味処《パーラー》にて
一本目はそのまま食した。微かな甘みの奥に、色ごとの風味が感じられて美味だった。
二本目は添えられたウグイス餡をたっぷり乗せて頬張った。堪らない美味さに、頭に生えた野牛の角まで震える気がした。
皿に残った三色団子は残り一本。間に茶を啜ろうとした|野分《のわけ》・|時雨《しぐれ》(初嵐・h00536)は、空の硝子器に気付いて息を飲む。
「……パフェ食うの早くね?」
「え? 普通じゃない?」
「一杯だったら、普通かもですけど。それ二つ目でしょ?」
うっかり出てしまった独り言口調を改め、時雨は緇・カナト(hellhound・h02325)の健啖家ぶりに瞠目する。いや、知っていた。知ってはいたけど。
「お姉さーん。同じ物をもうひとつ」
「どうせなら違うものを頼みましょうよ」
「そう言わず、時雨君もどう?」
ツッコミ処は満載だ。そもそも二人は|事件解決《猫の捕獲》の為にこの門前町を訪れたはず。
だのに二人の現在所在地は行列必至の|甘味処《パーラー》。しかもテラス席。とはいえ、さぼっているわけじゃない。
始まりは|地元《√妖怪百鬼夜行》民の時雨の天才的(自称)な思い付き。
『素敵な恋のお話してたら猫釣れるのでは? 初恋情念たっぷりなチョコ攫うくらいですから』
となれば必要なのは作戦会議、もとい、初恋談義。立ち話では味気ない。相応しい場所は何処か。幸い、選択肢は豊富にあった。
『腹が減っては戦も出来ぬ、と言うしねぇ。あ、あそこのパーラーとかどう?』
全ては鶴の一声ならぬ|人狼《カナト》の|一吼え《提案》で決した。斯くて男二人で甘味をたしなむことになったわけだが。
「そういや時雨君はお宝咥えたドラ猫って追いかけた経験ある?」
「さすがにおタカラは……魚咥えた猫又ならしょっちゅう見ますが」
「こっちじゃ日常茶飯事だったかぁ」
のほほん、ほん。茶をしばきながら、ゆるゆるとしたランチタイムが過ぎてゆく。一応、作戦の事も忘れちゃいない。
「それでカナトさん、初恋は? 好みは?」
最後の団子にきな粉をまぶしつつ、時雨が話を振る。カナトは「うーん」と仮面の額に指を押し当てた。
「初恋はねぇ実は記憶喪失でねぇ」
「えー」
「ああ、でも。あれよ? 好みのタイプなら、オレより色々強い相手なら……」
「あー、はいはい。つまり年上の強気お姉様みたいな?」
かじりつきかけた団子を皿へ戻し、明るい瞳を目蓋で覆った時雨は、眉間を寄せて|思案にくれる。《想像にふける》。
「あ゛~分からんでもない。良いですよねぃ。無理難題で振り回されたい……」
「いや、そこまでは言ってなくない?」
と、その時。五感が拾った気配に時雨は目を見開き、口もぽかんと開く。
「ちょ、うわ猫ですよ! 後!!」
タヌキ色の猫がいた。カナトの背後に|いた《現れた》。本当に天才的な発想だったらしい。
しかし慌てふためく時雨を他所に、カナトは振り返ろうともしない。
「ああ、来た? あ、ありがとうお姉さん」
三杯目のカフェを給仕から受け取ったカナトは、銀色の匙を握る。
「……それで時雨君の初恋話は?」
「え? 続けるんですこの話」
「当然。オレに喋らせたからには、時雨君の話も聞いておかないと」
半月型に盛られたチョコレートアイスを匙で掬い、カナトは獲物を定めた狼のように口角を上げる。硝子器を縁取る旬の苺は、真っ赤で瑞々しい。
ふしゃあああっと猫が毛を逆立てる。
対峙する蛇はしゃああああと威嚇する。無論、ただの蛇ではない。女の頭部に蛇の巨体。無数の手足を持つそれは、時雨が拾って|水姫《すいき》と名付けた|怪異《地這い獣》。
――|う゛ぐるるるる《そんなんありかよ》。
負けを確信した猫(?)はくるりと転身。そこへカナトの影から飛び出した|Luck《影業》が襲い掛かる。
能天気にしているようで、時雨とカナトはしっかり|仕事をして《仕込んで》いた。実働は、本人たちではないけれど。
攻防は激しい。
最終的には猫が辛うじての逃亡に成功しはするものの、背負った小壺からは二代分のチョコの欠片が転げ出ていた。
●猫の散歩道
「ねえ、小鳥。チョコとか渡すって何のことか小鳥なら知ってるかな」
町家に挟まれた隘路。壁に這うように歩きながら、|終夜《よもすがら》・|夕陽《ゆうひ》(薄明の巫女・h00508)は問う。
応えは、後ろから。
「先日お話ししたバレンタインデーと縁があるのでしょう」
凛と立つ花を思わす麗しい声に、夕陽はすいすいと進みつつ首を傾げる。
「バレンタインデー?」
夕陽は世界を知らない。なれど、尋ね方は知っている。尋ねられる年長者もいる。
「意中の方に、チョコレートと共に気持ちを伝える日です」
「そんな日があるんだ」
突き当たった行き止まりに、夕陽は身軽に跳ねた。自分の背丈と同じくらいの高さなら、物の数ではない。そして爪先でブロック塀を踏む。
夕陽は朝に寝、三角の耳と二又の尻尾に感情が表れる猫だ。正しくは、猫の性質を持った人妖「火車」だ。つまり、探しモノが猫であるなら、深く考える必要はない。
『猫の行きたい方向、つまりはボクの行きたい方向へ向かえばいいわけだ』
提案に、否やが唱えられることはなかった。
『案内はボクに任せて、小鳥』
こうして夕陽は先に立ち、ずんずん行く。するする行く。根拠なんて知らない。迷子常習犯なのは棚に上げ、いつも通りの無表情に自信を溢れさせて。
――だが。
「小鳥?」
ずっと背後にあった足音が途絶えたのが気にかかり、夕陽は振り返る。けれど塀に両手と両ひざをついた|花喰《はなくい》・|小鳥《ことり》(虚無たる裂け目ギンヌンガガプ・h01076)の魅力的な唇は、たおやかな曲線を描いていた。
「夕陽はチョコも好きでしたよね? 当日を楽しみにしていてください」
ゆっくりと立ち上がった小鳥が、花のように笑む。安心した夕陽は、これまで通りに「うん」と相槌をうつと、また悠々自適に歩み出す。
「誕生日やクリスマスみたいな、お祝いなのかな?」
「ええ、そのようなものです」
「じゃあ、楽しみにしておく――ん?」
くん、っと鼻を鳴らした夕陽の尻尾が、ピンと立つ。それからお目当ての玩具を見つけたみたいに、しゅたたたっと|走り《・・》始める。
距離にして十数メートル。身軽な夕陽にしたら、ただのかけっこ。小鳥にとっては、そうでなかったとしても。
「いた!」
幾らか先の民家の裏庭に、目印のタヌキ色をみつけて夕陽は加速する。
跳ねて、飛ぶ。狙いを定め、助走のために一軒手前の町家の敷地に降り立つ。|洗濯屋《クリーニング店》だったらしく、盥を手にした一反木綿と出くわした。
ギリギリで衝突を回避して、あと一息を跳躍する。
「「きゃあ」」
「――あー、惜しい」
両手からすり抜けた猫を惜しみ、夕陽はぺたりと座り込む。今のは本当に惜しかった。指先は壺の感触を覚えている。
「ごめんね、小鳥。逃がしちゃっ――小鳥?」
ぱちり。赤い眼を夕陽は瞬かせた。鳥がびしょ濡れだったのだ。
「あれ、小鳥、どこかで転んだ?」
夕陽は慌てて小鳥へ駆け寄る。ぶつかりかけた一反木綿が盥ごとひっくり返っているけど、そちらは目に入らない。
だって小鳥は濡れているだけじゃない。あちこち埃だらけだし、キレイな黒のドレスには綻びまである。
齢差ここのつ。少年の夕陽と女性の小鳥。猫の性質の有り無しのみならず、二人には様々な隔たりがある。
なれど――否、だからこそ小鳥は何事もなかったように、くすりと微笑む。
「水も滴るいい女ということです」
小鳥はずっと夕陽の問いに、答えをくれていた。夕陽に疑う余地はない。ゆえに夕陽は、素直に相槌をうつ。
「ずぶ濡れになっても綺麗だけど、風邪には気をつけてね」
●天使は爛漫、竜人は奮闘す
茂みから人間の下半身と天使の翼が生えている。落とし物ではない。ごそごそ、じたばた、ふぁさふぁさと動いているから、生きた何者かだ。「んんん」というくぐもった声も聞こえる。
頭から茂みに突っ込んだはいいが、抜けなくなったのだろう。
目の当たりにしたベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)はしばし思案にくれる。それから重めの息をゆっくり吐いた。
「……アニー、引っ張るぞ」
一声かけると、真白の翼がパタパタと揺れる。お願い、ということだろう。
華奢な腰をやんわりと掴み、勢いと覚悟でもってグイと引く。
「っぷはぁ! ありがとう、ベニー!」
緑の虜囚から解き放たれ、赤い髪をふり乱すアン・ロワ(彩羽・h00005)は元気だ。弾ける笑顔も、いつも以上に輝いてみえる。対して、彼女のまとった衣装はすっかり泥んこ。そりゃそうだ、つい先ほどは猫を追って側溝にまで飛び込んだのだから。
(ああアニーの式典服が……白なのに……)
帰宅後の洗濯事情に、ついにベネディクトは頭を抱える。生地を傷めないよう、綿密なコース設定が必要だ。予洗いも欠かせない。
(いつものこといつものこと、いつものことだ……)
「ベニー、見て!」
祷文を唱えるように裡へ言い聞かせていたベネディクトは、くいっと袖を引かれて顔を上げる。いつ俯いたのかも覚えてはいないが。
「ねこさん、あそこにいるの」
背丈の高い柿の木の中腹にタヌキ色を見止めたベネディクトは、アンへ視線をやる。案の定、青い瞳はキラキラだ。
「ベニー、お願い!」
肩車を欲されているのにはすぐ気付いた。君の背中にも翼はあるだろう、とはつっこまない。あと、木登りは得意だろう、とも言わない。
アンに請われれば是あるのみ。それがベネディクトだ。
「まあ……私の肩の上ならば届きやすかろう――」
アンへ背を向けゆっくりと跪くベネディクトの目は、少し遠くを見ていた。
壺を背負って逃げる猫。
聞いた話に、なかなかの胆力だな、とベネディクトが感心してしまった傍らで、アンの導火線には既に火が点いていた。
『想いを込めたショコラを渡せなかったときかれはどんなきもちだったのかしら』
肩を震わせるアンを前に、苦そうなチョコ壺だな、とは間違っても口に出来なかった。
『あたしだったらきっと息ができなくて倒れてしまうわ』
想像だけでも胸が痛むのか、白い頬は赤らみ、青の双眸も潤んでいた。
『だいすきはいつだって伝えたいもの――ね!! ベニー!!!!』
そして同意を求める腕は、細さに見合わぬ力強さでもってベネディクトを掴んだ。
「こわくないよ、大丈夫よ」
「ね、ほら。おいで」
(アニーはいつもそうだものな)
おおよそ190cmの足場となったベネディクトは、しみじみと頭上の会話――ただし一方的――に耳を傾ける。
――まってて、|ムッシュー・ポム《赤入道》!
――あたしたちがあなたの大切なきもち、取り戻しにいくからね!
そう言ったからには、アンが諦めることはあるまい。
(気持ちは私も同じだが)
間違っても落とさないよう、肩にあるアンの足首を掴み直す。比べても意味がないが、竜人のベネディクトより|天使《セレスティアル》のアンは細く――可憐だ。
(内包する|魂《パッション》は力強く鮮やかだがな)
「捕まえたわ、ベニー!」
耽る思考を、歓喜が断ち切る。
当然、ベネディクトは顔を上げた。その視界を、ふわりとしたタヌキ色が覆う。
「ねこさん、溶けてしまったわ!」
驚愕と落胆にアンの声が跳ねる。
アンは確かに猫を捕まえた。が、抱えた両腕から、猫はするりと逃げ、ベネディクトの|頭《顔》を経由して逃げたのだ。
「猫は液体とはあながち嘘ではないな……」
再び開けた視界にベネディクトは呟く。だが、アンの耳までは届かない。
僅かな身動ぎひとつでベネディクトの肩から|飛び《舞い》降りたアンは、もう階段坂を走り始めている。
「ねこさん、まって! ベニー、こっちよ! はやくはやく!!」
澄んだ呼び声に、ベネディクトの口角はどうしたって上がってしまう。
「――ああ、今行く」
●騙し合い、化かし合い
「まあ、まあ、たいへん!」
不思議宝飾店『星の鍵』で働く小さな淑女、それが|シルヴァ《S i l v a》・|ベル《B e l l e》(店番妖精・h04263)だ。身の丈はおよそ15cm、背に蝶の翅を持つ姿は、物語に語られる妖精そのもの。
「大切に用意されたお菓子にはひとの願いがこもっています。どんなに苦くたって大切な思い出ですわ」
そのシルヴァが慌てている。いや、少し憤慨しているのかもしれない。どちらにせよ、右にふわふわ、左にひらひらと忙しい。この様子を、ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は興味深げに眺めている。
どんな形であれ、大切な想いであるのには違いない、というところには大いに頷く。が、白雲がごとき柔らかな色の髪と同じに、ユオルの倫理観は|わりと《かなり》ゆるい。
心の中の天秤は、状況を面白がる方に傾きっぱなしだ。
「じゃあ、一緒に取り戻してあげようか」
ふっくらと笑みながら、ユオルはがさごそ大判の紙を広げる。
すぐさまシルヴァが覗き込み、カラフルな紙面に「まあ!」と声を華やげた。
「地図ですのね!」
「そう。観光案内所にあったのを貰ってきておいたんだぁ」
「さすがですわ、ユオル様!」
ハイタッチは、シルヴァの掌とユオルの指先で。
町の様子が具にわかる観光地図と、文明の利器で呼び出した最新地図。ふたつを照合すれば、欲しい情報はあっという間に揃う。
「袋小路で挟み撃ち作戦だよ」
「袋のネズミならぬ、袋の猫ですわね」
ふふふふふ。楽し気に笑み合う二人の作戦に、抜けはない。
タヌキ色の猫を追いかけていた|漆黒犬《ブラックドッグ》が跳躍する。
降り立つ先は、猫を追い越した先。途端、猫はUターンするも、転身を終える頃には漆黒犬が眼前に再び立ち塞がる。
(格好いい……!)
『こちらの方が速いんですの』
得意げだったのもさもありなん。シルヴァが姿を変えた漆黒犬の俊敏さは、『見事』の一言に尽きる。おかげでユオルは、一帯に漂う硫黄臭を気にせずに済む。
場所は温泉宿に面した隘路。周囲とは異なる高い壁は、露天風呂の目隠し用だろう。絶好の袋小路だ。そこへ今まさに、タヌキ色の猫が追い込まれてきている。
「あそこまで見事に変われちゃうのかぁ」
迫り来る二匹に、ユオルは感心を繰り返す。
シルヴァの変身精度の高さに畏れ入る。普段の可憐さからは想像もつかない獰猛さだ。比べると、妙に尻尾が太い猫のアンバランスが気にかかる。
(っていうか、あの尻尾。さっきより太くなってない?)
違和感にユオルは左右で色を違える双眸を薄く細めた。なれど既に戦いは始まっている。あと、ユオル自身も真珠色に耀くオーラをまとってキラキラ光っている。
幾らか陽が遮られた薄暗がりに、ユオルは著しく目立つ。猫もユオルの存在を認識しているはずだ。だからこそ、シルヴァに追われながらも、どうにか引き返そうと躍起になっている。
(まあ、どうにかなるかな。どうにかなるでしょ)
「猫さん、そんなに怖がらずにこっちへおいでー」
自ら猫へ近付き、ユオルは両手を広げた。輝く序でに、速さも得ている。今のユオルなら、追いかけっこは|漆黒犬《シルヴァ》とだっていい勝負。
だが動いたユオルに猫は隙を見い出す。
ダンっと石畳を蹴った猫が、弾丸のようにユオルの足元を目掛けて走る。
立ち塞がる壁より、動く壁の方が潜り抜けやすいのは道理――しかし。
(かかりましたわね)
シルヴァが漆黒犬のままほくそ笑む。
(……見えておいでかしら? 其処彼処から影が狙っておりましてよ)
「影ちゃん」
ユオルの呟きに、落ちた影から|無数《千》の手が伸びて蠢く。
輝くユオルはあくまで囮。本命は、仕込んでおいた影業の方。知能を有す|影業《影ちゃん》は、自ら判断し猫を捕らえようと動く|秘密兵器《とっておき》。
「さあ、観念なさいっ」
手という手に纏わりつかれた猫へ、シルヴァが吼える。
「良い子だから、壺を返してねぇ」
ユオルも春のようにわらった。その直後。
――|ぶにゃあ!《こんちくしょうめ!》
にょろり。
奇妙な鳴き声と共に猫が長く伸びた。そうして手という手からすり抜け、翼まで生やして飛んでいく。
「化蛇? さすがにそれは反則だー」
思い浮かんだ妖怪の名にユオルはけらり笑う。きっと化蛇そのものではあるまい。なかなかの化け上手だ。
「でも、欠片はこんなに取り戻しましたわ」
元の姿に戻ったシルヴァは、ひとつふたつ、みっつと小壺から転げ落ちたチョコレートの欠片を拾い集める。
戦果としては上々だ。さりながら、抱えた欠片たちは色んな意味でちょっと重い。
●|レプリカ《兵器》たちの|白昼《甘い》夢
冥海司る神造兵器dea.THETISの少年人形――|詠櫻・イサ《𓈒𓂂𓏸ヨヒラ 𓂃◌𓈒𓐍》(深淵GrandGuignol・h00730)は考える。
恋も、愛も。
(俺にはわからない)
わからない、わからない。
それでも『あいする』誰かのためを想い、『その人の為だけにつくられたもの』が特別なことは、なんとなく|理解《わか》る。
(少し、羨ましい)
「……他の何かに利用してはいけないものなんじゃないかな」
「そうね――きっと、そう」
イサの呟きに頷くのは、dea・ATHENE――或る星の魔女を模した|人形《レプリカ》である|鴛海・ラズリ《ほしうみ☾·̩͙⋆✤✤✤✤✤✤✤✤》(✤lapis lazuli✤・h00299)。
「大切に想いを込めたものは、自分と相手だけのもの」
ラズリの唇が、謳うように|理《天命》を言祝ぐ。まっすぐに見返される宙の瑠璃色を、イサは乙女椿の彩に写した。
甘くても、苦くても。喩え、贈りそびれても。
誰かのために作られたのなら、その時点で“誰”のものかは決まっている。
「あのチョコは誰かを傷つけるために生まれたわけじゃない」
――兵器が言うことじゃないかもしれないけど。
「そうだね」
続いた自嘲にではなく、その前へラズリは深く深く頷く。
「他の人が|穢して《触れて》は、いけないの」
愛も恋も。
自分にはまだ少し難しいとしながら、ラズリには思い浮かぶものがある。
保護者がラズリへ向ける瞳。時折だけど、時折であっても。
(私じゃない、遠くの誰か)
「――イサ、私達兵器だって同じ想いを抱いて良いと思う」
少女は、少年より少しだけ早く大人になる。|ラズリとイサ《人形たち》がそうであるかは、分からないけれど。
「そう、なのかな?」
「ええ、きっとそう」
「じゃあ、行こう。ラズリ」
「行こう、イサ」
美しい人形たちは頷き合う。そして|子供のような黄色い歓声をあげる《白昼夢に飛び込む》。
イサにとっては久し振りの遊戯でも、ラズリにとっては馴染みのものであるらしい。
「私、白玉とよく追いかけっこしてるから!」
名にふさわしいまんまるふわふわ白ポメラニアンを先駆けに、ラズリはぴょんぴょんと階段を跳ねてゆく。
わおん、わおん! と息継ぎの間に吼える白玉も、やる気ではち切れそう。
さりとてイサも負けてはいない。
「スピードを上げるぞ、マヒル」
頬を撫でる真冬の風にイサは快活に笑い、一生懸命についてくる桜色の皇帝ペンギンの雛へ手を差し伸べ、引き寄せる。
鼓動が弾む、とても楽しい。
「あいつがチョコ壺を奪った猫か。チョコみたいな猫だな」
白玉の鼻先が太い尻尾の先端にくっつきそうになっている猫はタヌキ色。
「たぬ……じゃない、猫なのね。猫はお魚くわえるものじゃないの?」
苦い想いが詰まった小壺は、赤いたすき帯で背中に背負われている。見た目には不自然さしかないが、この奇天烈さ加減も今は心を躍らせるもの。
イサとラズリと、マヒルと白玉で追いかけっこ。楽しくないわけがない!
疲れているのか、駆け比べでは白玉が一等賞。直後に続くラズリも十分、疾い。ひと際おおきく跳ねると、数段分を置き去りにして、ラズリはぴょんっと猫を追い越す。
「ラズリ、挟み撃ちだ」
白昼堂々の大捕り物。知らぬ間に上がっていた沿道の喝采を浴びながら、イサはマヒルをやわらかく放った。
「そうね、二人と二匹で囲みましょ」
ぽよよん。桜色のペンギンの着地を見止め、ラズリはくるりと振り返る。すかさずマヒルの対面へ走り込む白玉は、さすがの|ワンコ《忠犬》。
「これだと何に化けていいかわからないでしょう?」
瞬く間に四方を囲まれた猫の目が泳ぐ。その間にも、二人と二匹は包囲網を狭め――。
「白玉を踏み越えるなんて思わなかった!」
「なかなかやるヤツだったな」
小壺を背負ってなお俊敏さを失わなかった猫は、白玉を踏み越え逃げ果せてみせた。ひょっとすると、ふわふわ感触を確かめたかっただけかもしれないが。
けれど姿勢的に無理をしたのだろう。階段にはチョコレートの欠片がぽつん。
「白玉、食べちゃ駄目よ」
「マヒルもだ」
興味津々な二匹を制し、ラズリとイサはそっと屈む。
拾い上げるのは、ラズリ。包みを用意するのは、イサ。
恭しく扱うそれからは、甘い甘い香りがした。
●猫迷小路
右を見る、左を見る。どっちを見ても白い壁。しかも数歩ごとに|分かれ道《分岐点》が表れる。
「猫さん、猫さーん」
一昔前に流行ったのだろう、古ぼけた立体迷路の中。マイクを持つ手を|庇《ひさし》に替えて、捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)は注意深く様子を窺う。
でも、立ち止まっていては何も始まらない。
「よし、こっち――っきゃ」
チョコレートの香りがした気のする方に進んだ途端、出くわした少年に、あいかはたたらを踏む。年頃はおなじくらい。ぶつからなくて良かったと思う頃には、少年はあいかが元来た迷路の向こうへ消えている。
「んー……?」
こっちは行き止まりなのかな?
思い至って、回れ右。小走りに駆け出すと、タヌキ色の尻尾が見えた。
「待って、猫さん! 待って、待って!」
歌手としての目覚めはいつだったか。今は√妖怪百鬼夜行を地方巡業する日々。不思議と事件に巻き込まれるが、そういう時は持ち前の好奇心と前向きさと、笑顔百点満点パワフルさで首を突っ込んでいく。
だからこれもいつもの通り。
(行こう)
内側から湧き上がる、猫を追いかけたくなる|衝動《リズム》に、あいかは歩調を合わせる。
何に根差すものかは考えない。だって時々、心の声が聞えるのだ。
『それは幸運の印で、あなたを未知の世界へ導くから』
「あ! もしかして。さっきの人は、チョコレートの想い人? 送り主の憶う人?」
ふたつ、曲がって。ひとつ、進む。
過去は思い出しても、振り返って悔やみはしない。
気持ちはいつも真っ直ぐに。挫けるよりも、明るい笑顔を咲かせて進め!
細かくステップを踏むみたいな走り方に、ちょっとだけ息が上がる。それでも漂うチョコレートの香りで肺を満たし、ふわっふわの尻尾を空色の瞳に、あいかは心のままに足を運ぶ。
気付けば抜ける、立体迷路。
猫は出口で一度、立ち止まり。あいかをちらりと振り返ってから、足を速める。
まるで挑発だ。もちろん、あいかは諦めない。
「ん、もう。猫さんったら!」
明るく笑い、袖を捲り上げ。あいかは迷路の先も突き進む。
●道明玻縷霞の事件簿
地面を注視し過ぎたせいだろう。わずかにズレた眼鏡を、|道明《どうみょう》・|玻縷霞《はるか》(普通の捜査官・h01642)はブリッジを人差し指で押し上げることでは正しい位置へ戻す。
これで理知的――人によっては神経質にも見える――な顔立ちは元通りだ。
「ふむ」
黒革の手袋をはめた手を顎へやり、玻縷霞は考える。
件の猫は神出鬼没。√能力者との鬼ごっこがそれに拍車をかけている。
とはいえ、壺を背負った猫なぞ、妖怪で溢れる√妖怪百鬼夜行でもそうお目にかかるものではないらしい。おかげで参拝客への聞き込みはすこぶる捗った。
「目撃情報をまとめると――」
一見、あちらこちらへ逃げ回っているようだが、そうでもない。
捕獲されたくないなら、町の外へ出ればいい。だのに猫にそういう気配は微塵もない。
推理を巡らせるのは、仕事柄なれている。
門前町から出ない。何故だ。
「門前町内に用がある、或いは、留まる必要があるからでしょう」
つまり古妖の元へ向かうつもりだ。前情報と照らし合わせ、玻縷霞は『犯行動機』を導き出す。おそらく外れてはいまい。
「そうなる前に確保しなければ……ん?」
膝を折る。そうしてより判別がしやすくなった足跡に、玻縷霞は目を瞠った。
つい先ほどまで猫がいたとされる場所に残された足跡は、確かに猫のものに見える。だが、僅かに爪の跡もあるそれは、猫というより――。
「タヌキ?」
人々が口にする『タヌキ色』が、俄然、重要性を深める。
「だとしても、どうして初恋の苦い情念を?」
初恋。それは言葉にするのは容易くとも、言葉通りに単純なものではない。
人の感情の中でも複雑であり、時に共感を得、時に理解しがたいものだ。
「……まあ、私の場合はそれを理解する前に終わったようなものです」
何とはなしに吐露する。人としての感覚の鈍さを、玻縷霞は自認している。今でこうなのだ、|昔《少年時代》は言う迄もない。
――カツン。
「、ッ。私としたことが」
不意に聞こえた爪音に、玻縷霞は顔を上げる。その時にはもう、タヌキ色の猫は玻縷霞へ背を向け、階段を駆け上がっていた。
追いかけっこは分が悪い。なれど走る時に爪を隠すはずの猫がたてた音で、玻縷霞は犯人の確証を得る。
同時に、どうして突然、玻縷霞の元へ現れたのかも想像がついた。
「あの犯狸が初恋話に反応しているとすれば、誘き寄せることも可能かもしれません」
事件は確実に解決へ向かい始めている――。
●|氷菜の献身《人身御供》
ぐったとりした赤入道へ、炬燵布団を手繰り寄せられるだけ手繰り寄せ、そっとかぶせ直す。
「うう、天降女子ちゃんはどこに消えてしまったんだ……」
ずずと鼻を啜る赤入道へかける言葉がみつからず、|白椛《しらかば》・|氷菜《ひな》(雪涙・h04711)はそっと身を引いた。
大事なチョコ壺のみならず、初恋の相手によく似た人まで消えたのだ。ショックの大きさは計り知れない。例え状況的に、天降女子に化けていた何者かが『黒』だとしても。
(赤入道さんは可哀想だけど……)
ついでにもう一つ、考える。
何故、渡せなかったチョコレートの欠片なぞ残しておいたのか。しかも、歴代。
「……あんたにも面倒かけてごめんな――あ?」
ツッコミどころしかない疑問を内心で唱えていたら、ようやく顔をあげた赤入道と目があった。
「、猫。皆の迷惑だし。双方、怪我をするかもだから」
覚えた予感――よく知るものだ――に、氷菜は赤入道の視線を振り切り走り出す。
氷菜は混血が進んだ雪女を母に持つ半妖だ。それゆえか、幼少時から様々なモノに良くも悪くも一方的な好意を寄せられる。自認は、種族特性。おかげで嬉しさはなく、虚しさと申し訳なさばかりがつのる。結果、他者へは苦手意識が勝つようになった。
だが。
(……気は、進まない)
胡麻橋を渡った先、もうすぐ白橋も見えようかという参道を、息を切らして駆け上がりながら、氷菜は眉間をきつく寄せる。
みつけたタヌキ色の猫は、魅了含みの呼び掛けに足を止めはするも、あと一歩のところで人波へ紛れてしまう。
そう、とにかく人が多いのだ。
賑わっているのは大いに結構。とはいえ、捕り物の障害になるのは困りもの。
(あの猫、あちこち逃げ回ってはいるけど、上を目指しているのは間違いなさそうね)
きゅ、っと唇を噛む。物凄く、物凄く、気は進まない。出来れば、やりたくない。それでも、事件解決の為ならば――。
「――」
意を決し、氷菜は立ち止まって大きく息を吸う。
それだけで、チラチラと視線が集まる。本当に厄介な体質だ。猫への呼び掛けを、自分へのものと思い込んだ余人は数え切れない。
ならば手に取るのみ。
「……私に、構わないでいいからっ」
気合で発した声に、幾人もが耳をそばだてたのを確認し、氷菜は踏み出す。
「ごめんなさい……!」
帯びた憂いは誘蛾灯の如く。ざわめいた人々が、猛烈ダッシュの氷菜を追って、門前町を|駆け降りる《・・・・・》。
全部が全部を引き連れることは能わぬが、人波が崩れるだけで十分上策。
こうして氷菜は、人身御供の役割を果たしたわけである。お見事!
●ねこねこ|らぷそでぃあ《茶番劇》
し、た、た、た、た、たっ。
欄干が白く塗られた太鼓橋の真ん中を、小壺をたすき掛けに背負った猫が走っている。ちなみにたすき掛けの帯の色は赤だ。タヌキ色の毛並に埋もれていない。
「猫、本当にチョコ壺背負って走ってる……!」
飲み込み切れない現実に、|戀ヶ仲《こいがなか》・くるり(Rolling days・h01025)は呆然と立ち尽くす。
「なんで!? 猫なんで背負っちゃったの!?」
意味が分からない。分からなさ過ぎて思考は停止。でも助けを求めるように、傍らの|夜鷹《よだか》・|芥《あくた》(stray・h00864)のことはがくがく揺さぶる。
だが芥の方も状況的には似たようなものだった。
「猫にチョコは良くない。魚を喰え、魚を」
何だあれは、と。不明を突き止めようとする芥の気勢も秒で溶けた。ずれた論点は現実逃避。理性の足掻きだ、やむをえまい。
「猫はチョコ食べちゃダメですけどそういう話かなぁ!?」
当然、くるりも乗っかる。がくがく揺さぶったまま乗っかる。このままでは復旧日未定の脱線事故になりかねない。しかし、女子高生なくるりはともかく、元雇われ暗殺者で現特殊課異能捜査官な芥は、テンション壊れかけててもそれなりに大人だった。
(苦い恋の情念が美味なるものかは、到底理解は出来ないが)
「壺へ詰め込む想いは何となく解る――取り返すぞ、黒歴史を」
「……」
ハードボイルドに決めた芥を、くるりは見上げる。口許を黒狐で覆い素顔を隠す芥を見上げる。
「ねえ。歴史。黒歴史って言っちゃってるけど――いいの?」
訂正。くるりの理性の方がまだ仕事しているかもしれない。
まじまじと眺めるくるりの視線が、芥にぴりぴり刺さる。されど芥はこれくらいの緊張感、どうってことない。
取り戻すと決めたのだ。あとは行動あるのみ。
「くるり、鬼ごっこは得意か? 今日は溌溂としたアンタの若さが必要不可欠だ」
くるり、走る。
白橋を渡った先、勾配が徐々にきつくなる階段坂を、懸命に走る。真昼の陽射しに汗を輝かせて走る。青春だ。
「青春、ちがうしっ!」
事件の放置が|世界《世間》の迷惑になるのは理解している。だから泥棒猫を捕まえなきゃいけないのも分かる。けれど――。
「なんで芥さんは走ってくれないんですか一緒に走りましょうよ、一緒に!」
「援護はまかせろ。くるり、猫はもう目の前だ」
不意に、猫の足元を激震が襲う。他はまったく揺れていない。言葉通りの芥の援護だ。四本の脚で地を蹴る猫も、さすがに足を止める。その隙に、くるりは猫に追いつき、追い越す。
「よし、くるり。挟み撃ちだ!」
「うええええ私たまに右手が光るだけで√能力ほぼない初心者なのにいい」
足元が不安定な階段での急ブレーキからの反転を、若さだけを頼りにくるりはやってのける。出来る事が他にないから、走るしかない。走るしかないけ、ど!
「気を付けろくるり。猫の身体は溶けるらしい。意味は解らないが」
「そのアドバイス、今いりませー――ん、要る。要った。めちゃくちゃ要ったっ」
後門の芥(一応、追走してはいた)、前門のくるり。しかも超ピンポイント地震に見舞われ、にっちもさっちも行かなくなっていた猫へ、とりゃー! と飛びついたくるり。しっかと両手で捉えたはずのそれが、にょろりと抜け落ちていく様に超焦る。
うなぎの手掴みが如き攻防は刹那。勝者は、猫!
それでも挟撃モードは継続中。
「ところで女子高生、何か甘酸っぱい思い出とかは?」
「なぜに今それ!?」
「犯猫、恋バナで釣れるという情報があってだな」
芥の情報に誤りはない。自語りを始めないのは、オトナの事情だ。走れなかったのも、オトナの事情だ。そうして若いもんに任せてるうちに、老いって始まるんだけどね。
「えええお世話になったお兄さんに……お礼に何か贈りたいなぁって、思ってまし、た!」
「そうか。屹度喜ぶんじゃないか、其のお兄さんも――って、みろ、あれは」
「ふぁああああ」
背中を丸めた猫が、毛を逆立てて、懸命に跳ねる。ぴょんぴょん跳ねる。多分、揺れをいなそうとしているのだ。ついでに、恋バナに聞き耳をたてようとしているのだ。
「これは、まさか――」
「伝説の、やんのかステップ!!!」
芥、くるり。双方、愕然。まだ諦めないとは、なんとタフな猫であろう!
愉快な茶番はしばし続く。
なおほうほうの体で脱出に成功した猫は、小壺からチョコの欠片を落としてゆくのだった。
●積土成山
佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)にとって、古い町並みは親しみ深いものだ。
|生まれた《・・・・》時代がそうさせるのかもしれない。黒橋を渡ってすぐの長屋門には、『お武家さん』の空気を感じたりもした。
好きな町だと思う。
(山頂まではまず行かないけど)
内心でぺろりと舌を出す。そもそも神様なんてガラじゃないから、立ち回りはどうだっていい。|力技《ワンパン》解決も、有り寄りの有り。
「ねえ、猫! 猫みた!? 壺を背負ったタヌキ色!」
「それなら白橋の方へ――」
「白橋!? ずいぶん上ね。あ、情報提供ありがとう!」
石畳の階段へせっせと水を撒いていた――きっと、汚れを落としていたのだ――青年へ礼を告げ、橙子は輪郭が明確になり来る御山のてっぺんを見上げた。
(何としても、赤橋前にとっ捕まえなきゃ)
これ以上の急階段は御免を蒙りたい。人間換算すると、三十路も半ば。ハードな運動は、明日に響く。
「猫、猫、猫チャンやーい!」
長い手足を活かし、階段を三段飛ばしで駆け上がる。
鼻先をくすぐるスパイシーな香りに心がときめく。出処はきっとカレー専門店だ。隠れた名店との出逢いは、旅先での浪漫。
(ゆっくり観光したかったぁ――でも、今は!)
「おや、あんたも追いかけっこかい?」
「そう。絶対に捕まえてみせるから期待してて!」
すれ違いざまの問い掛けにも、橙子は威勢よく応える。
御同輩を見かければ、その勢いはますます増す。
「あたしこのまま、まっすぐ行くから!」
遠くまで届くように、声は腹の底から。聞き間違いが起きないように、発音はきっちりしっかりはっきりと。
橙子の視界の真ん中に、件の猫はいない。時おり、端に捕らえられば十分。否、見えなくたって構わない。
(猫チャン、聞こえてるでしょ?)
「少しここで待ち構えてみようかな! 現れなかったら、赤橋を目指そう!!」
響かせる大音声は、まちがいなく猫へと届く。猫は当然、橙子を避けようとするはずだ。そうして己が選択肢を狭めてゆく。
(なんだっていいんだ、結果が同じならね)
山肌を翔け上がる風に射干玉の髪を遊ばせ、橙子は内心で策士な笑みを浮かべる。
●よろしい、ならば|🏺《つぼティーヌ》だ
|八卜《 やつうら》|・《😆》|邏傳《らでん》 (ハトではない・h00142)
の後を追い、壺がごろごろ転がる。階段だってへっちゃらだ。ツボツボ歩いてよいしょよいしょ。
傍目にはちょっぴり奇怪だ。けど小動物めいたいじらしさが、愛らしくもある。
「ありがと。うん、良い子」
相好を崩した邏傳、壺を抱え上げてなでなでする。すると壺はぷるぷるっと胴をふるわせた。
そう、邏傳の壺はただの壺じゃない(そもそも普通の壺は|自転《自走》しない)。
壺は|🏺《つぼティーヌ》という名前のある不思議道具。邏傳にとって|大事《立派》な相棒。
そんな|🏺《つぼティーヌ》が頑張っているのだから、当然、邏傳だって頑張る。
「ニャン素早いし狭いとこ入ってくし一筋縄じゃあいかんよな」
|🏺《つぼティーヌ》を地面へ戻し、邏傳は懸命に考えた。
追いかけっこでは圧倒的に分が悪い。罠を仕掛けようにも、居場所を定めにくい。ならば――。
「|🏺《つぼティーヌ》、『ニャンに足跡残して貰ちゃおうぜ大作戦☆』の決行ちゃ」
|🏺《つぼティーヌ》、こてんと前転する。わかった、ってことらしい。
かわいらしさにキュンとした。しばし離れることに切なさを覚える。
切ないといえば。
(チョコ壺ちゃん、響き可愛んだけどちょっぴ切ない。そんな想いも大事にしちょんのね)
「ダメちゃ、|🏺《つぼティーヌ》。ニャンが来て俺が合図すんまでじっとしとんの」
しみじみしつつ、数歩分を歩いた邏傳は、ツボツボついてきた|🏺《つぼティーヌ》に慌てて言い含める。
|🏺《つぼティーヌ》、ぴくっとして、じっとした。その隙に、邏傳は小さな竜の姿へ変身し――飛んだ。
疾く飛ぶ。そして小さいからの視界は、猫のそれに被る。おかげで、当たりが付けやすい。
(おった!)
発見したら、後は|🏺《つぼティーヌ》の元へ追い立てるだけ。
「つぼティ! ニャンに塗料ましましぶっかけよろしう☆」
ツボツボごろん。
頃合いを見計らい、元の姿に戻った邏傳の合図に、|🏺《つぼティーヌ》は思いっきり転がった。
ジャストタイミングで脇を駆け抜けていた猫はたまったもんじゃない。
――|ぶみぎゃおおおおん《そんなばかなあああ!》
|🏺《つぼティーヌ》がぶちまけた蛍光塗料を浴びに浴びた猫は、日中の参道にも鮮やかな|軌跡《足跡》をぺたぺた残す。
●なくて七癖、あって四十八癖
「蛇くーん、機嫌をなおしてくれよ」
前足で柔らかくふみふみしても、ぴしゃりと整列したウロコは拒絶モードのままだ。
しょうがない、と|七々手《ななて》・|七々口《ななくち》(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)は、ひとまず顔を洗う。水ではなく、前足で。
だって七々口の姿形は、大柄な黒猫。もちろんただの猫じゃない。
尻尾を無くしたと思ったら、何故か七本の手が生えてきていた猫の獣妖。ちなみに手たちは七々口のお世話をしてくれるし、戦闘だってしてくれる。
そんな七々口は絶賛、空の上。さすがに手たちの仕事じゃない。召喚した大蛇が運んでくれている――の、だが。
嫉妬深さゆえか、はたまた強化毒の投与がお気に召さなかったのか。大蛇はすっかり臍を曲げてしまっている。
「嫌そうな顔しないでよ、蛇くん。自分の毒でしょ?」
どれだけ宥めても、お顔はそっぽをむいたまま。さりとて飛翔は早い。走って追うなどという面倒ごとは死んでも嫌な七々口だ、ありがたいことこの上ない。だからこそ機嫌を取ろうと励みもする。
しかし。
「あ――もしかして見つけた?」
色欲の魔手が、地上の一点を目指してビンっと伸びた。やけに張り切っていた色欲な魔手のことだ、その反応に間違いはあるまい。
となれば、大蛇のご機嫌窺いも後回しだ。
「蛇くん、負けたくないだろ?」
挑発で、ノせる。あとは地上まで急降下。
「はは、ありゃ目立つ」
近付くと、蛍光色の足跡が目を引く。タヌキ色の毛並を茶色の屋根に同化させたつもりだろうが、全く問屋が卸していない。
「お仕事の時間っすよ」
補足した獲物に、強欲な魔手がぐんっと伸びた。
「まあ、なんだ」
強欲の魔手は確かに猫を掴んだ。
「器用なもんだぜ」
けれど化蛇へ姿を転じた猫は、すり抜け、飛んで逃げた。即座に追えなかったのは、小壺から転げ落ちたチョコの欠片に、色欲の魔手が食いついたせいだ。
その色欲の魔手は現在進行形で、チョコの欠片のご執心。よほど興奮しているのか、ひっきりなしにバタバタ動いている。
「苦いもん食って何になるんかねぇ……珍味的な?」
こてんと首を傾げる七々口の金の眼に、口惜しさの色はない。
強欲の魔手が猫を掴んだ感触が、七々口にもそれとなく伝わっている。疲労の蓄積は総統だ。あと小壺の中は空に近いとみた。
「あれはもう、時間の問題だな」
過剰は御免。為すべき事を為し、確信を得たら、あとはごろりと転がるのが猫の流儀。
●秘湯・モグラ湯
町の外れ、鬱蒼と茂る森との境。
七輪で小魚を炙りながら、|空沢《からさわ》・|黒曜《こくよう》(輪る平坦な現在・h00050)はのんびりと空を仰ぐ。
いい天気だ。あと、黒曜の周囲は猫まみれだ。
「君達に用はないんだけどなぁ」
言いながら、黒曜には嗅ぎ取れない匂いにつられてやってきた野良猫たち――首にリボンを巻いた子もいるので、飼い猫も混じっている――へ程よく焼けた小魚を振る舞う。
吹きっ晒しだが寒さはない。猫団子のおかげではなく、先ほど掘り当てた温泉のおかげだ。
ちゃぷん。
膝から下を浸けた湯は、まさに適温。
猫と言えば水嫌い。でもその|お湯の熱《あたたかさ》に誘われてくれないかなー、と掘ったものだが、黒曜をしっかり寒さから遠ざけてくれている。
肝心のタヌキ色の猫の方は、今のところ気配はない。
暇だ。
暇すぎて、ため息が出る。その息も、瞬く間に湯気へ溶け込む。
「なんで|黒歴史《危険物》なんか保管してるんだろう……?」
人々の嗜好は様々だ。モグラ獣人である黒曜が、財宝や新たな温泉の源泉を求めてダンジョンに挑むのと同じようなものかもしれない。
「――いや、違うかな」
鋭い爪で器用に小魚をひっくり返す。ついでに小魚を補充すべく、リュックへ手を伸ばす。
「まあそこ突っ込むのは可哀そ……!?」
――|う゛る゛る゛に゛ゃん《いい湯だなぁ》。
は? と。一瞬、黒曜の時が止まる。
だってタヌキ色の猫が|温泉《足湯》に浸かっていたのだ。
(いつの間に?)
動揺はしない。不意打ちなんて、慣れっこだ。対処できなきゃ、ダンジョン攻略なんかできない。
(水を怖がってないってことは、猫じゃないってことなのかな? そういや何かの妖怪だって話だったっけ)
ちゃぷん、ちゃぷん。猫の動きに合わせて、湯面が揺れる。よく見たら、猫は蛍光塗料まみれだ。きっとそれを落としに来たのだろう。
(寒いしね。身体を洗うなら、お風呂がいいよね)
黒曜は猫の好きにさせる。どこからともなく現れた猫だ。無理やり捕まえようとしても、おそらく逃げてしまう。
ならば――。
「いいよ、いいよ。存分に温まっていって」
どれだけ拭っても、蛍光塗料が落ちる様子はなかった。結果、タヌキ色の猫は長湯をすることになる。
(湯あたりも湯冷めも、甘く考えたら駄目だよ)
身を以て知る怖さに、黒曜はぶるりと身を震わせ、そう遠くない|未来《捕獲》の予感に、身体の芯を温め直した。
●兎+傘×猫+傘=
白橋を渡ってすぐのところに、門前町に刻を報せる鐘つき堂がある。
三層の櫓は街並から頭一つ抜けていて、はぐれた時の待ち合わせ場所としても評判だ。
その鐘つき堂の屋根の上で、ステラ・ラパン(星の兎・h03246)は膝で頬杖をついて眼下を眺める。
雑多な騒々しさは得手ではない。けれど、こういうてんやわんやのお祭り騒ぎは、嫌いでもない。
「初恋とはまた甘酸っぱいね」
熟れた苺色の瞳を、遠く、柔らかく細める。思い出すのは、商う骨董屋店で扱う品々の手触り。
「僕はまだ経験ないものだけど、あの子たちの記憶にも良く刻まれてる」
それだけ大切な|記憶《想い》であったということは、|無機《兎杖》より|出でし《生まれた》ステラでも理解が及ぶ。
「君はどうだい、回」
「――さて」
振られた話題に、|小沼瀬《このせ》・|回《かい》(忘る笠・h00489)はのっそりと起こした上半身で背伸びをする。町のそこかしこに残された蛍光色の足跡が、散らばる水滴のようで目に楽しい。
「そんなものは|傘《あいあいがさ》の下の出来事だ。眼下と見守ることはあったとて、私には関わりのないものだよ」
「へぇ、そんなものかい?」
ステラと回。傍目で比べて、齢の差はざっと干支が二回り。
斯くて年嵩な分の知見を回に求めたステラは、口振りは疑問形ながら、裡にはするりと得心を落とす。
回も|己と同種《付喪神》。つまり、見てくれがもたらす情報に、さほど大きな意味はない。
「うら若き乙女なら、兎も角も。老いた人の身なら尚のことな」
もっともらしく回がうそぶく。返された視線が、片手で握った兎杖から自分へと辿り来る様に、ステラは小さく笑った。
「おや、初恋に歳も性別もないだろう? そう物語にも書いてあるよ」
追撃のつもりはない。知らぬ同士、語るだけ。
とは言え、興味を示す分。見目の通りにステラの|魂《精神》は回より|若い《幼い》のかもしれない。
「――そう云うものなのかね?」
首を傾げたついでに、回は空を仰ぐ。
良い天気だ。青が眩しい。本性が唐笠ゆえか、ほんのり陰干しが恋しくなる。
「怪談には書かれていなかったぞ」
「回は怪談しかよまないのかい?」
「好むのは怪談話だな」
「そうではなくて! ほら、傘ならば雨雫から守りたい人のひとりとかさ!」
なおもステラは食い下がる。訂正だ、やはり見目の影響は、在り様に対して大きい可能性がある。であるなら、十と少しの少女の|形《姿》をしたステラが、『恋バナ』に興味津々なのも当然。
だからとて、扱いを軽んじる回ではない。
「今の私には雨雫の方が恋しくあれど、そう云う役目も孰れ得るのだろうか――」
顎に手をやり、まじまじと悩む貌。それをしげしげと眺めたところで、ステラは再び得心を得る。
きっとこれが、感情の機微とかいうモノ。やはり『恋心』とやらは奥が深い。
「でもそうか。眼下に見守る立場も悪く無いね」
ステラはすっくと立ちあがり、踵の高い靴で瓦の地面をしっかと踏む。
そう機会を得ない会話に、得るものはあった。おかげで心はうずうずしている。幸いにして、走り出す目標が森の方からやって来ているところ。
数多の追っ手は撒いたのだろう。しかし妙に心許ない足取りをしている。
「恋だ何だには理解の及ばぬ私であっても、あの猫が野暮天でしかないことは解るぞ」
ステラと同じ獲物を見定めて呟き、回もゆっくりと腰を上げた。なれど膝が伸びきる前に、ステラが跳ねる。
「そうだね。野暮な事をする子はおしおきだ」
長い耳に、まんまるふわふわの尻尾。ステラの見目が兎なのは伊達ではない。
「さあ、首根っこを捕まえてやろう」
「勢子は頼むぞ、すてら殿」
ステラは、一息に空を滑り下り。おお、と感嘆を洩らした回は、町家の屋根伝いにタヌキ色の猫とステラを追いかける。
元々は一本足だ。そのせいかどうしても二本足は持て余す。
「私も兎柄でも添えていればなあ!」
ぜえぜえと息を切らし、回は縺れたがる足を懸命に叱咤する。
「然して、何て速さだ――忌々しい!」
へろへろだったタヌキ色は、新たな足跡をぺったぺったと残しながらも、ステラの猛追からどうにかこうにか逃げている。
俗にいう、火事場の馬鹿力か。おかげで回は一歩も二歩も、後れをとってしまう。
「――であるなら」
仕方ない、と回は足を止めた。そして視野を広げる。
死に物狂いの獣の捕獲は容易ではない。必要なのは、不意をついた罠。
赤い髪を風に当て、黒の眼を四方へ馳せる。思考に叩き込むのは、猫の動きと町の配置。
「――」
三度の深い呼吸で、上がった息を整えた。
ステラは星のように駆けている。速度の優位はステラにある。つまり意図的に追い詰めることも可能ということ。
さすがに新たな仕掛け罠を据える暇はない。それならば――。
「すてら殿、|時間《・・》だ!」
短く言い切り、回は鐘つき堂を目指して身を翻す。意図が伝わったか否かは確認しない。もしかしたら多少の迷いは生じるかもしれないが、回の動きでステラは察さぬはずがない。
猫にとっては、ただの督促。果たして真実は――。
ふうと息を継ぎ、回は三層櫓を背に佇む。
「おっと、こっちは行き止まりさ」
さして待つこともなく、ステラの快活な声が近付いて来る。
「逃げ道は其方へどうぞ」
たん、たん、たんっ。トン。
最初の三つは、猫が次々と物を伝う音。続いた軽やかな一つは、ステラが足場にする杖を地に突き立てた音。
見立て通り、一匹と一人が屋根の峰に姿を現す。
青碧が一際目に鮮やかになびく。結わえたリボンでステラが兎杖を手繰り寄せたのだ。
容易なことではない。けれどステラにとってはお手の物。そしてステラは、掴み直したばかりの兎杖を真横へ閃かせる。まるで猛禽類の翼だ。狙った獲物は決して逃さない。
「お前さんは『猫に傘』の諺を御存知かね?」
声の届く距離に猫を視認し、回は尋ねる。
応えが返されることに期待はしない。気が引ければそれでいい。
「たかが傘とは思わぬことだ」
大輪の赤が花開く。
――|ぶみゃああ《ふええっ》!?
唐突に咲いた傘の花に、猫がすっとんきょうな叫びをあげる。文字通り、猫に傘、だ。
驚いた猫は、万バズ動画よろしく派手な『びっくりジャンプ』を決める。
「猫に傘――さすが回は物知りな上に、粋だね」
全ては回の思惑通り。きちんと察していたステラは、今日一番の笑顔で猫の真下へ滑り込む。
「ほうら猫くん、御用だ!」
ステラが手を上へ突き出す。自由落下の猫を捕らえるためではない。むしろ逆。
ソフトタッチで触れた手が、タヌキ色をさらなる高みへ舞い上げる。そこでぽかりと口を開けて待ち構えているのは、時告げの鐘。
――|こぉん《そんなばかな!》。
可愛らしい鐘の音に、誰かの悲鳴が重なる。
赤いたすき帯と小さい壺。
二つを両手にステラは愉快げに喉を鳴らす。
鐘つきの直後、傘で蓋をされた釣鐘に、逃げ出す隙間はほぼほぼなかった。にも関わらず、傘の上に残されたのは、帯と壺だけ。
おそらく本猫は薄くて小さいものに化けたのだろう。例えば、人形代のようなものに。
だがそれでは、幾ら小さくとも壺までは持ち出せまい。故に、置き去りにするしかなかった。
「まあ、盗られたものは取り返したし。成果としては十分かな」
空っぽに近い小壺をステラが振ると、それでもふわりとチョコレートの香りが漂う。
「そうだね。中身の方は、皆が拾ってくれていることだろう」
全てが無事とは限らないが――興味本位で食べた者がいないとも限らない――、古妖の手に渡ることは阻止できた、と回も成果を頷く。
これ以上、ステラと回がタヌキ色の猫を追うことはない。だってもうすぐ他の誰かに捕まるに決まっている。
追いかけっこの決着がつくまで、あと何分――。
●|執事、『たぬこ』を回収する《奇跡がおきたよ》
屋根から屋根へ。妨げが少なく、視界にも恵まれた町家の頭上を、ヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)は駆けた。
見上げた空には、ひらひら漂う凧が一枚。
気付いた頃は影色、やがてタヌキ色へ。しかもしっぽは蛍光色。挙句、風に流されていないと来た。
疑うべくもない正体に、ヴィルベルヴィントは常ならぬ“疾さ”を得て追跡を開始した。
「山頂の神社を目指しているのでしょうが」
させるはずがなかろうと、ヴィルベルヴィントは凧の落下地点を見計らい――仕掛ける。
「テーブルクロスを広げて御覧にいれましょう」
「あ?」
ようやく地に足をつけたというのに。立ち塞がった混じり物の獣人に、凧から転じたばかりの猫は、ついに人語を発した。
人目につかぬよう壁伝いに降りた、その真正面。でんっと仁王立ちされては、択れる進路は唯一つ。
だのに長い足の間――股下を潜ろうとした途端、沁みひとつない真っ白な布が猫の眼前を覆う。
「何処に仕舞っていたか、ですか? この程度は朝飯前で御座います。執事ですから」
「聞いてねぇし!」
くずおれながら猫が吼える。随分と乱暴な口調だ。そんな猫へ、ヴィルベルヴィントは恭しく片膝を折った。
へりくだるのではない。忠義を尽くすのとも違う。腰を抜かした弁当屋の女将を労わったのと同じ距離感と礼儀での、紳士の真摯。
「怒ったり致しませんから、事情を話しては下さりませんか? |たぬこ《・・・》君」
猫のことを愛をもって『ぬこ』ということがある。
タヌキ色のぬこ。だから仮称は『たぬこ』。ヴィルベルヴィントの頭の中では、そうであったはずだ。
しかし。だが、しかーし!
「アンタ、なんでオレの名前を知ってんのさ!」
「――はい」
ぬるりと溶けた猫の輪郭が、タヌキの姿を成して定まる。予想の範疇か、或いは埒外か。ヴィルベルヴィントの口から転げ出たのは、ひとまずの是認。
されどヴィルベルヴィントの表情に感情は一切出ない。そこは執事ゆえのプロフェッショナル。
(タヌキの少女だから、たぬこ――成程?)
身長2m弱のヴィルベルヴィントと比較すると、背丈は半分ほどの化けタヌキは、立ち振る舞いは少年めいているものの、装いからして少女で間違いあるまい。
「なんでお前ら、オレの邪魔すんだよー」
うええええ、と。地べたにへたり込んだたぬこが泣き出す。
「これじゃ大将に怒られちまうううううぃっく、ううう」
しゃくりあげる大号泣と対峙して、ヴィルベルヴィントはしばし考え――大きな手で、もふもふ冬毛のタヌキ頭をぽふんと撫でる。
第2章 冒険 『1番の愛を、あなたに』

●こじらせたぬこの真相
ヤマウラたぬこ十四歳、十二人兄妹の末っ子。
上は全て兄。結果、それはもう男らしく――ではなく『がさつ』に成長した。
そんなたぬこも一昨年、初めて恋をした。
相手は同じ門前町に住む少年。
去年のバレンタインデーにたぬこは兄たちに揶揄われながらも、懸命にチョコレートを手作りした。
結果は――玉砕。
『え? 冗談きついよ。たぬこは男友達じゃん』
「オレは一生、恋なんてできないんだあああああ」
タヌキ色の猫あらため、化けだぬきのたぬこ、泣く。
「チョコも……兄貴たちが、盗っちまうし……っ!!!」
たぬこ、号泣。どれだけ宥められても、涙はとめどなく溢れ続ける。
告白された少年の反応は、おそらく照れ隠しの一面もあっただろう。
とはいえ、たぬこが深く傷付いたのは言うまでもない。
そして傷が癒えぬまま、新たなバレンタインが目前まで迫った結果、たぬこのメンタルは闇堕ちした。
安直っていうな。無残な初恋の記憶は、長く長く尾を引くんだ。ちょっとやそっとじゃ立ち直れないんだ。一生もののトラウマ間違いなしなんだ(りきせつ)。
そんなこんなで、たぬこの鬱々とした昏い情念が、古妖を復活させることになった、というわけだ。
「うう、大将に美味い飯をもってくって約束したのにいいいお前らどうして邪魔ばっかすんだよいじめかよいじめだないじめだろ!」
余談。
たぬこが猫に化けていたのは、初恋の少年の好みが猫娘らしいと耳にしたせい。
猫の評判を貶めたかったのだと、連ねる悪態の中に混ぜて言った。あと、イヌ科には迷惑かけたくないって。
情の厚さはなかなかのもの。だからこそ、|失恋《告白失敗》の痛手をずっとずっと引き摺りもする。
「ちくしょうバレンタインなんざくそくらえだ! バレンタインなんてこの世から滅びちまえ!!!!」
たぬこの涙は止まらない。
「それに、それにっ。チョコを作り直してもっかい告白するとか、これっぽっちも考えちゃいねえし!!!!」
●チヨコレヱトをつくりませう
「あー、ヤマウラさんちはたぬこちゃんを猫可愛がりしてるからねぇ」
「お兄ちゃんたち、たぬこちゃんが取られるのが嫌でチョコをとっちゃったんだろうねぇ」
何処の町にも情報通の|おしゃべり雀《おばちゃん達》はいる。そしてそういう|おばちゃん達《おしゃべり雀》はだいたいお節介だ。
おかげで訊ねてもいない情報が集まる。
なお、おばちゃん達は古妖復活のことは未だ知らない。単に、たぬこの大号泣を聞きつけ集まってきて、口々に囀っているだけ。
「でもこういっちゃなんだけど。たぬこちゃん、お料理からっき――」
「しい! それ以上は言うんじゃないよ!!」
「そうよそうよ。簡単なチョコレートなら誰かの見様見真似でも美味しいのが作れるわ!」
おばちゃん達、盛り上がる。
「うーん、誰かたぬこちゃんにチョコレート作ってるとこ見せてくれたりしないかね」
「場所ならうちの台所を貸すんだけどねぇ」
「え、ミヨシ割烹さんの台所をかい!?」
「あら、うちの|甘味処《パーラー》の厨房だって貸すわよ!」
おばちゃん達、勝手に話を進める。仕方ない、おばちゃんってそういう生き物。
奪われた、赤入道たちの|チョコ壺《暗い情念の坩堝》の奪還は成った。
しかしこのままでは、たぬこがうかばれない――ではなく、古妖との決着がつけられない。
たぬこの行動から、古妖が潜んでいるのは、赤橋から先の神域であるのは想像がつく。だが社のある森は狭くはない。何より、勾配が急だ。捜索に手間取れば、古妖に先手を打たれてしまうことだってある。
そうなる前に古妖を止めるには、たぬこを宥めて居場所を聞き出すのが一番。
とは言え、盛大にこじらせているたぬこだ。簡単に古妖の居場所を教えてくれるとは思えない。
ここで『おばちゃん達のお節介』が輝く。
別に、とびきり優れたチョコレートを作る必要はない。
想いがこもったチョコレートは、それだけで特別に見えるもの。
もちろん、知識や技術を活かしてプロフェッショナルなチョコレートを作り上げるのも有効だろう。
要はたぬこの気が引ければ良い。たぬこに『もう一度、チョコを作ってみよう』という気持ちにさせられたら、今回の騒動は片付いたも同然。
だって|暗い暗い《苦い苦い》情念を欲する古妖へ、|甘い甘い《ときめく》情念を叩きつけられるのだ。威力抜群な先制パンチ間違いなしである。
割烹料理屋と|甘味処《パーラー》が全面協力してくれるので、作成場所と材料に関しては気にしなくて良い。
お節介なおばちゃん達は気が好いし、何より|たぬこ《町の子》が笑顔を取り戻してくれるなら、どんな協力も惜しまないはず。
たぬこ兄sへのお仕置きまでは手がまわらないので、探す必要はない。というか、おばちゃん達から話を聞きつけたたぬこ母が、派手にげんこつかましてくれるだろうし。
そういうわけですので。
皆さま、チヨコレヱトをつくりませう。
たぬこに作り方を教える必要はございません。むしろ教えようとしたら、反発するお年頃。
見せて、魅せて、その気にさせたら――ね、大丈夫そうでしょ。
●ときめき泥棒
「へえ、ずいぶんと出来た塗料なんだね」
「そうそう環境・健康に配慮した俺特製の安心安全|八卜印《やつうらじるし》やけ、汚染の心配ないけどなかなか落ちんのよ〜」
「邏傳くん。その塗料、今度うちに卸してくれないかしら?」
モップを手にした集団が、門前町を練り歩く。真ん中にいるのは|八卜《やつうら》|・《😋》|邏傳《らでん》(ハトではない・h00142)だ。囲んでいるのは、お節介&世話好きで知られる|おばちゃん《マダム》達。
何をしているかと言うと、たぬこが残した足跡を消してまわっている。
申し出たのは当然、邏傳本人。たぬこに蛍光塗料をぶちまけたからには――ということらしい。そしてこの男気を放っておくマダム達ではなかった。
こうして清掃部隊が編制されたというわけ、だが。
「にしても本当に賢い壺だね」
「せやろ、|🏺《つぼティーヌ》っていうんよ」
「あらら、ハイカラなお名前!」
一通り足跡を消し終える頃には、邏傳はすっかりマダムのアイドルになっていた。
おかげで邏傳が『たぬニャン足跡は可愛いから消すの惜しいね、このままじゃあ駄目?』と尋ねたら、小路部分は可愛いから残そうか、ってさっくりまとまった。
邏傳としても一安心。階段を上り下りする足取りも軽い。そのフットワークのまま、いたたまれずにもじもじしてたたぬこへ歩み寄る。
「たぬちゃん、さっきはごめんな? 知らぬとは言え酷い事しもて」
「え?」
「尻尾、汚れたまんまやな。キレイキレイしよ?」
「は?」
邏傳としては、詫びの一環。しかし尻尾をそっとぬぐわれるたぬこにとっては青天の霹靂。
意地悪ばかりの兄たちとは違う親切なお兄さん。
戸惑いに、たぬこの頬が朱に染まる。マダム達、にこにこ見守る。
「邏傳くん、そこしっかり泡立てて」
「こう?」
「もっと力強く!」
「っ、こう!?」
「|🏺《つぼティーヌ》ちゃんは上手ねぇ。そうとんとん、とんとん」
(|🏺《つぼティーヌ》、粉ふるいの底に軽く体当たって、とんとんとんとん)
「わあ、|🏺《つぼティーヌ》。小麦粉さらさらやん」
|甘味処《パーラー》の厨房の一画が、すこぶる華やいでいる。お菓子作りは未経験な邏傳が、マダム達に教えを請うた結果だ。ちなみにたぬこは呆然としたままである。
やがて漂い始める甘い香りはオーブンから。
「おばちゃま達教えてくれるん助かるう♡」
マダム達全面監修の元でチョコレートケーキを焼く邏傳は感謝も忘れない。さりとてこのままではオリジナリティに欠けるのは、つまらなくもある。
そう悩みかけた時、マダム達にひっぱりだこになっている|🏺《つぼティーヌ》を眺めて、邏傳は閃きを得た。
「せや! |🏺《つぼティーヌ》。あれ出してー。八卜印のスパイス☆ 折角なら新食感・新後味の唯一無二のハイパーちょこちゃん目指そうぜ〜」
こん、ころん。邏傳の求めに、|🏺《つぼティーヌ》は調理台で上手に前転。出て来たスパイスを、邏傳はデコレーション用のチョコクリームにすかさず混ぜ込む。
「なあな、たぬちゃんも味見てくれん?」
「――お、オレ!?」
「そそ、たぬちゃん。この自信作、感想聞かせて欲しいんよ」
特製チョコクリームを掬い取った匙をたぬこへ向ける邏傳に他意はない。けれどたぬこの心臓がバクバクするのも仕方ない。
「あ、アンタには尻尾の借りもあるしな――」
おずおずと匙を受け取り、ぱくり。そして目をぱちくり。
「……悪くない、な。目が覚める感じがする」
「そう? よかったあ」
――によによきゅんきゅん。
二人のやり取りに、マダム達の数年前に置き去りにしたはずの乙女心も弾む。
この際、スパイス入りのクリームの味は不問。萌えるか否か、そこが重要。
|当の本人《邏傳》は、ときめき泥棒(&マダムキラー)になっている事に気付かない。無自覚ってこわ~い♡
●こいはちからわざ
たぬこ。
お前は戀をしっているのね。
苦くて甘い、ララもしらない魅惑の味。
切望も絶望も嫉妬も戀情も全部――向き合える、お前は魅力的だわ。
この世のものとは思えぬ美貌の少女から贈られた称賛に、たぬこは息を飲んだ姿勢のままに固まっている。
そのまま|ララ・キルシュネーテ《꒰ঌ❀❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。❀໒꒱》(白虹・h00189)の調理風景を見守っている。
「ここでミルクとか混ぜるみたい」
融けたチョコが入ったボウルに、ララはミルクを一気にどばっと注ぎ入れた。多分、温度とかは気にしていない。そしてぐりぐり練る。
当然、一様にならない。気泡もぼこぼこ。なれどララ、力強く言う。
「味見をしたら美味しかったわ」
「……」
既に二度は聞いた台詞に、たぬこの黒い目がちょっと遠くなる。
ちなみに一度目は、チョコを粉砕する際。愛情を伝えるにはパワーが必要って、がっすんがっすん砕いた後に『味見をしたら美味しかったわ』って言ってた。
二度目は、砕いたチョコを融かす際。惜しみなく迦楼羅炎をぶっぱしてチョコをボウルごと火炙りにしながら『味見をしたら美味しかったわ』って言ってた。
作っているのはシンプルなトリュフのはずだが、もはや物理攻撃のオンパレードだ。たぬこも黙って見守るより他にない。
でも、同時に。たぬこはララに親近感を覚えてもいた。
料理の経験はないという幼い少女が、記憶を頼りにチョコレートを作る。下手でもいい。必要なのは愛だと。だからめいっぱいに愛を込めて。
ああ、それはきっと去年の|自分《たぬこ》。記憶じゃなくてレシピ本を頼ったところは違うけれど。
せり上がる甘酸っぱさに、胸の奥がツンとする。
なおその間にもララは出来上がったガナッシュ(らしきもの)を冷やし、一生懸命に丸め、さらさらとココアパウダーの粉雪をまぶしかけていた。
丸めるのに手間がかかって融けたチョコは、美味しかったらしい。だって『味見したら美味しかったわ』って言ってた。
斯くてララ、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
「完成よ」
|出来上がった《完成にごぎつけた》一粒に、然しものララも首を傾げる。けれど深くは考えない。それだけ愛が凝縮したってことだ。きっとそう。
「たぬこ。ララが初めて作ったチョコ、お前にあげる」
「ふぁ!?」
「応援と追いかけたお詫び。ララは一生懸命なお前のこともすき」
――どっきゅん。
真っ赤な|花一華《アネモネ》を思わす瞳に射貫かれて、たぬこは顔に熱が上がるのを感じる。
あまりに綺麗すぎて、夢でも見ているよう。
「……あ、ありがとうな」
化かされた心地でたぬこはララから世界に一粒のトリュフを受け取る。作成工程はすっかり忘れていた。味はまあ、味見してたから大丈夫なんじゃないかな! 火炙りのとこが気になりはするけど。
|乙女《美少女》の手作り。これだけで正義。正義ったら正義。味は二の次だ!
●笑い合い、贈り合い
――シルヴァちゃんはお菓子作り、好き?
――ええ、好きですわよ。
ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)の尋ねに、シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は得意げに頷いた。
『星の鍵』の屋号を掲げる不思議宝飾店を営むシルヴァは、サイコメトリを巧みに操り、店に流れつく曰くつきの品物の鑑定・手入れ・お祓い・さらに接客までも見事にこなす。それだけの胆力と器用さを兼ね備えているというわけだ。
加えてシルヴァは、体は小さくとも、立派な乙女。
――『友チョコの贈り合いっこ』なるものをいたしましょう。
眸を煌めかせるシルヴァの提案に、ユオルも否やはない。
各々つくり、贈り合う。想像だけで顔が弛む。楽しそうだ。
然して二人は背中合わせで厨房に立ち、チョコレート菓子の調理に勤しむ。たぬこも作れるような、出来るだけ簡単なレシピのものを。
指揮棒を振るように指を回すと、チョコレートの海に沈んだスポンジケーキの球体が、ポコンと宙へと弾む。
チョコがとろとろと滴るうちに、えいやっと串を突き刺す。颯爽と槍を揮う女戦士になったようで、顔つきもちょっぴり勇ましくなる。
でも酔い痴れている暇はない。表面が固まりきる前に、両手いっぱいに抱えたアラザンの雨を降りかける。
カラフルな花が咲いたものはそのままで。物足りなさを感じたものには、チョコペンで花や星、おどけた表情などを書き足す。
始まりのスポンジケーキを、|甘味処《パーラー》の市販品を使ったのは、再現性を考えてのこと。
ふわふわのスポンジケーキを、えいっとむしって、きゅっと丸める作業は、いつものケーキには絶対に出来ないから、言い知れぬ高揚感も味わえる。
|サイコメトリ《念動力》を駆使して、ケーキポップを作り上げたシルヴァは、それらを数本束ねて透明フィルムで包むと、リボンを取り出す。
(喜んでくださるかしら)
チョコレートの花束の完成は間近。どきどきとわくわくが止まらない。
「想い人に……」
己には理解の難しい気持ちだ。タンポポの綿毛を思わす笑みのまま、ユオルは我が身を振り返る。
手持無沙汰を埋める思考はゆらゆらと。湯煎に使った器も、ドライフルーツを刻んだ包丁と俎板も、混和に浸かったヘラも洗い終えてしまった。
仕方なく、ユオルはうっすらと黄身がかった冷蔵庫の扉をじいっと眺める。
中のホワイト生チョコレートが固まるのが待ち遠しい。
(うん――贈る相手に喜んでほしいって気持ちなら、よく分かる)
分からないものは解りようがないが、分かるものは解る。後者は、現在進行形でユオルが感じている気持ちそのもの。
(喜んでくれるかなぁ)
きっと誰もが喜んで欲しいのだろう。もっと仲良くなりたい相手なら尚更に。
「――うん、しっかり固まってる」
頃合いを見計らい、冷蔵庫から取り出したバットの表面をつんっと指先で突き、ユオルは喉を鳴らす。
流れるように、シルヴァにも食べやすいよう小さく切り揃える。あとはココナッツファインをまぶすだけ。
「よぉし」
「ユオル様、わたくしの準備は整いましたわ」
出来た、と言い切る前に、背中からシルヴァの声がした。
「ボクもちょうど終わったところだよ」
「それでは、せーので出しましょう」
「うん、りょうかい」
口調も心音も、自然と弾む。
「「せーの」」
「ふわふわの中に……これはドライフルーツですの?」
かわいい! とユオルお手製ホワイト生チョコレートに感嘆をあげたシルヴァは、赤や黄のドライフルーツを宝石のように愛でる。
「シルヴァちゃんのも素敵だねぇ、お菓子の国に咲く花みたい」
受け取った花束を手に、ユオルの表情もいつも以上に緩む。
「ユエル様、素敵なものをありがとう」
「こちらこそありがとう」
ふふ、とシルヴァとユオルは笑い合う。
(たぬこ様にも届くかしら)
感じた視線に、シルヴァは祈る。
相手を想ってお菓子を作ることそのものの楽しさに、たぬこが気付いてくれますように――と。
●猫のクッキングタイム
|終夜《よもすがら》・|夕陽《ゆうひ》(薄明の巫女・h00508)は幼い仕草で首を傾げる。
猫じゃなかった。タヌキだった。正直、ちょっとびっくりした。
「でも、困ってるなら助けてあげないと、だね」
理解を追いつかせようと、呟いて、噛みしめる。やるべきことは理解した。
自分が何をどうすればいいのかまでは、夕陽には分からない。しかし心配はしていない。
(小鳥ならきっと知ってるから)
「それではチョコレートを作ってみましょう」
すぐに作業にとりかかる|花喰《はなくい》・|小鳥《ことり》(虚無たる裂け目ギンヌンガガプ・h01076)からは、迷いは微塵も見受けられない。夕陽の予想通りだ。
小鳥が取り出す、市販品と思しき板チョコを、夕陽はまじまじと眺める。ほんのり期待したのがバレたのか、小鳥の白い指先がひとかけのチョコレートを夕陽の口許へと運ぶ。
「――」
あむっと頬張った夕陽の表情は変わらない。だが尻尾はご機嫌にゆらゆらと揺れる。
目は口程に物を言う、とはよく言うけれど。|夕陽《猫》の場合は尻尾が機微のバロメーター。
伝播した“ご機嫌”に、小鳥も唇でまろやかな弧を描く。が、手元はせわしく動いたまま。おかげで板チョコはあっという間に細かく刻まれた。
「これでチョコレートがどろどろになるまでかき混ぜてください」
湯煎の仕度を整え、小鳥は夕陽へへらを手渡す。素直に受け取った夕陽は、新たに直面した疑問に、「ん」と小さく喉を震わせた。
(チョコから、チョコを、作る?)
原理は謎だ。そのままでも十分、美味しいだろうに。
でも、“そのまま”ではきっとダメなのだろう。
「どろどろになるまで混ぜる。任せて」
復唱をして、夕陽はへらでチョコレートをゆっくり攪拌し始める。なかなかの手強さだ。火を点けたら早そうだと思うが、夕陽が考え付くことを小鳥が知らないはずがない。
(小鳥が言わないってことはダメなんだろうな)
迷いのような、困惑のような。納得に混ざるひとかけに、夕陽の長い尻尾が先っぽだけゆらゆら揺れる。小鳥がくすりと笑った。
「お湯や湯気が入らないように注意です――結構大変ですよね」
うん、と頷く代わりに、夕陽は小鳥を見上げる。かちりと交わる視線に、片方の赤は希求に見開き、もう片方の赤は三日月のように細められた。
「その大変さが、相手に気持ちを伝える後押しにもなります」
小鳥の説明を、夕陽は謎解きのように聞く。
複雑に絡まっていた糸が、すとんと解けたみたいな気分だ。
「なるほど。過程が大事なんだ」
得心すると、つるつると糸の先まで手繰り寄せられる。以前に聞いた、『想いを込めるのが大切』というのに繋がるのだろう。きっとそういうことだ。
納得がまた尻尾にあらわれたのか、小鳥がまばたきで頷く。
「想いを伝えるのは勇気がいりますから」
閉ざされた目蓋の奥で、小鳥が何を想うかまでは、夕陽には分からない。それでも、想いを伝えるには勇気が必要ということは憶えた。小鳥の言葉に間違いがあろうはずがないから。
「そうなんだ。じゃあ、ボクも頑張らないとね」
決意を新たに、夕陽は袖を捲り上げる。厨房はコンロやオーブンの熱で温かいので、肌寒さはない。むしろ逸りだした鼓動に暑さを覚えるくらい。
「チョコレートが全部溶けたら、ココアパウダーを加えます。その後はボウルの水を冷水に換えて、少し硬くなるまでさらに混ぜます。その後、ハートの型に流し入れて冷蔵庫で冷やせば完成です」
「へえ、先は長いね。よおし、力仕事はまかせて小鳥!」
夕陽の尻尾がピンと立つ。
漲る歓びとやる気に、小鳥は今日一番の笑みの花を咲かせた。
●|後押しはそっと《そっと後押しする歌》
放っておけない。とてもじゃないけれど、放っておけない。
歌は、自分が出来る、皆を元気にする魔法。そのことを知ったから、いつか全国ネットで電波に乗せて届けいと思うようになった。
それが捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)の夢。
だから歌わずにおれない。
(たぬちゃん、めげないで!)
――真っ白なバターとチョコレートが一緒になって溶けちゃうくらいの温かさ、
――人肌よりも温かい恋の温度が成功の秘訣。
チョコレートとバターを一緒に湯煎で溶かす。
とろとろになったらボウルをお湯から上げて、二色の境がなくなりきるまでよく混ぜる。
焦りは厳禁。艶が出るまでじっくりと。
――美味しくなぁれと素材をみんな混ぜ合わせてね、冷たくしないでね、温かく。
卵は別のボウルに割り入れ、泡だて器でかしゃかしゃ。泡立てないのが大事。
そこへ篩にかけた小麦粉とお砂糖の雪を降らせ、また混ぜる。
ダマは僅かも残さないようご用心。なめらかになったら、チョコレートとバターをとろとろ注いで、また混ぜ混ぜ。
――恋も予熱が大切、あったかいのを確認して、
オーブンの設定温度は180℃。予め温めておくのも忘れずに。
焼成温度に到達する前に、作った生地を型に流し込んでおく。
――オーブンに入れたら完成!
あとはオーブンにお任せ。
ただし焼き時間は注意が必要。ふくらみ加減をよくよく見定める。
――恋とチョコレートは似ている。
――フォンダンショコラのトロトロとろけるハートが甘くてほわっと温かい。
「きっと恋心の歌と同じくらい」
るるる、るる。
くるる、くる。
歌いながら、あいかは器用にフォンダンショコラを焼き上げる。
頭の中のレシピを書き出すことはしない。何かで残すのではなく、歌で伝えるのがあいか流。
それに楽しい歌は、落ち込んだ心だって明るくする。
(あとは……たぬこちゃんの想い次第、バレンタインも悪くはないでしょう?)
「――、――♪」
想いが成就するよう、恋チョコの温度を歌にしたあいかは、目線だけチラリ。
そこではたぬこが、あいかにつられて鼻歌を口遊む。
●未成年の主張、成人の受容
「芥さんは甘いもの好きですか!?」
|戀ヶ仲《こいがなか》・くるり(Rolling days・h01025)から尋ねられ、|夜鷹《よだか》・|芥《あくた》(stray・h00864)は一拍の後に答える。
「甘いもんは沢山食えねぇけど、味は嫌いじゃない」
途端、くるりの顔が安堵に緩む。それから不安と期待、遠慮が混ざった不思議な笑顔へと移ろう。
「じゃあ、……お菓子作ったら、もらってくれます?」
ぼさつく髪に右手をつっこみ、絡みついた一房をくるりはくいと引く。
芥が甘い物が嫌いでないなら、これはまさに渡りに船な|お願い《依頼》。全乗っかりしない手はない。が、当の芥に「要らん」と言われてしまえば、水の泡まっしぐら。
だから躊躇する。
「迷子案内のお礼、ずっと考えてたんですけど…男の人に渡すもの、分かんなくて……」
じいと見上げてくるくるりに、芥は一瞬、言葉を詰まらせる。
『お礼』が何を指すかは分かっている。とは言え自分は先ほど、くるりをしこたま走らせたばかりだ。恩義の所在はどっちつかずな気がしないでもない。
しかし『No』を突き付けるのは、円満な人付き合いにおいて100%不調法だ。
「御礼は気にしなくて良いが、……期待して良いなら」
ぼそりと口にしたのは折衷案。受けてくるりは、へにゃりと相好を崩す。
「じゃあ、張り切って作りますよ」
「――へえ、菓子作れるのか。スゲェな」
腕まくりを始めたくるりへ、芥は今度こそ躊躇なく感嘆する。打てば響く応えに、くるりが謎の自信に胸を張った。
「これでも女子高生ですからね。お菓子ならなんとか!」
「芥さんはビター派ですよね」
「そうだな」
確認のほぼほぼ直後に、ビターチョコとバターが入った耐熱ボウルが電子レンジへ投入された。
湯煎の手間を省いた、お手軽レシピらしい。
(『なんとか』って手際じゃないだろ)
くるり曰く、『友チョコ慣れ』の手腕らしい。芥には分からない世界だ。|レシピ《分量》の教えを請うた|甘味処《パーラー》の調理師たちも、なるほど、と目に留めている。
「くるりはどんな菓子が好きなんだ?」
「私は食感がザクザクしたやつが好きです!」
卵の共立てだって何のその。黄身と白身はあっという間に均一になる。
「ザクザク……クランチ系なら、俺も好き」
「そうなんですか? じゃあ、入れるナッツの量を増やしましょう!」
顔を上げたくるりが、新たにくるみをオーブントースターに並べ出す。ローストが終わったら、砕くのは芥の担当。
刃物で切るか潰すくらいしか出来ない芥でも、手伝えることがあったのは幸い。任せきりだと、申し訳なさが右往左往してしまう。
(味見も出来るが……これは必要ないな)
良く動くくるりに、芥は感嘆の息をひとつ吐く。女子高生、侮れない。
「出来たては手作りの特権ですよ!」
チョコレートとフルーツの甘さと、ナッツの香ばしさ。
ふたつが一緒になった香りを立ち昇らせるオーブンに、くるりのテンションは高い。だが納得だ。焼き上がりゆく様を興味深げに眺めていた芥も、無意識に是を頷く。
「出来たて、美味そうだ」
早く食ってみたい、と本音まで転げ出る。聞きつけたくるりは、実にいい笑顔だ。
「たぬこは胸を張った方がいい」
「っへ!?」
においにつられ、ふらふらやってきていたたぬこが、芥の唐突な称賛にすっとんきょうな声をあげる。
「なっ、なっ、な――」
「手作りの味、俺はあまり知らないが。好いものだと、思う」
とつとつと芥は紡ぐ。それは大人の見栄とか体裁とか考えない、率直な感想。
「食べて欲しいと気持ちを込めてくれる相手が居るのは贅沢だろ」
「そうですよ! それに、喜んでくれたらいいな、って作ったものが笑って受け取ってもらえたら、それだけでうれしいですよね」
くるりも全力で追い打つ。
「っ、でもオレは――っ!」
「そうだね。だから今度はがんばって渡しててね」
贈られる者の贅沢と、贈る者の幸福。そこに行き違いがあったとしても、宝物のような感情の輝きが損なわれることはない。
芥とくるりは、それぞれの立ち位置でたぬこの背を押し、再び踏み出す勇気にはっぱをかける。
「必要だったら、邪魔者は私たちが全員ぶっとばしちゃうから」
「お、いいな。そういう事なら得意だぞ」
本気とも冗句ともつかぬくるりと芥に、たぬこは目を丸くし――ぷはっと吹き出す。
「それはそうとして、そろそろ焼き上がんじゃねーの?」
「「あ!」」
オーブンが、軽やかにブラウニーの焼き上がりを告げる。
ナッツやドライフルーツがふんだんに入ったそれの味わいは、もちろん満点はなまるだった。
●チョコとハコ
熱心な視線は、時に質量を持つ。
ビシビシと突き刺さる圧を手の甲に、しかしハコ・オーステナイト(▫️◽◻️🔲箱モノリス匣🔲◻️◽▫️・h00336)は表情をいっさい変えない。
「ハコはモノリス……もとい料理本通り作業しています」
「モノリス?」
「――この料理本の名前です」
「へえ」
「このレシピ通り作ると必ず美味しくなると言われています」
「そうなのか」
作業台にかじりつくたぬことの会話にも、大きな抑揚はない。まろび出かけた“うっかり”も、違和感なく取り繕えた。
斯くしてハコは、黙々とチョコレートを作る。
目指すはモノリス――何にでも可変な愛用武器であり、おそらくハコの命の恩|箱《・》――そっくりな四角いチョコ。決してただの板チョコではない。断じて。
手間を省かず、正しく湯煎し、正しく型に流し込む。
難しい工程はひとつもない。もしかするとモノリスの手を借りる必要さえないかもしれない。けれどハコはことさらゆっくり手を動かし、合間にレシピを別の用紙に書き写していく。
きっとそのペースが心地よいのだろう。たぬこもずっと離れずにいる。或いは、ずいぶんと年下に見えるハコの手際に、興味津々なのかもしれない。
(チョコは甘くて苦くて……)
料理は時に無心を呼び込む。その隙間に入り来し|もの《・・》をハコは何となく思う。
(人の感情にも似た……)
具体性には乏しい。だが寄せ集めの知識が、類似性をハコに訴える。
(不思議なものです――不思議といえば)
視界の端のたぬこを、ハコは意識の裡に落とし込む。
(ネコさんではなくたぬこさんでしたか)
得たばかりの新鮮な驚きは、ハコの手付きをいっそう丁寧にさせる。
「チョコ、きっちりしてて綺麗だな」
型へ注がれるチョコレートのなめらかさにたぬこが感嘆を洩らす。
「ハコはこの料理本の通りにしているだけです」
ハコはすかさず、レシピの優秀さを唱え、またメモを取った。
モノリス型のチョコレートを完成させた後、レシピのメモをハコが作業台にこっそり残すのは、少しだけ先の話。
見つけ、受け取るのは、もちろんたぬこ。
●チョコレート羊羹に冬苺を添えて
ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は西洋料理を得手としていない。スス・アクタ(黑狐・h00710)がそう認識しているのは、本人申告がかつてあったからだ。
だのに。
「ははは、可愛らしい狸の娘御だのう」
呑気に笑うツェイの手付きに淀みはない。むしろ慣れて見える様に、ススの胸中には細波がたつ。
自分にも心得のない頼み事への対処に、一瞬でも頭を悩ませたのが口惜しいような気さえする。
「何を作るんですか?」
「ひとつばかり心得がある故、まあ何とかなろう」
平坦な声音で訊ねても、余裕を含んだ曖昧な応えが返される。チクチクと、痛みに似た何かがススの内側に芽吹く。秘密にされることではなく、どこまでも|及ばない《助けになれない》事がズンと重い。
しかしススの心に漂う暗雲を、真白い輝きが追いやる。
「……」
「これスー、まだ舐めてはいかんぞ」
「――そんなこと、考えていません」
じいっと見入ってしまっていたのに気付かれたのだろう。ツェイの指摘に、ススは生クリームから視線を逸らす。そして行方知れずになった眼を、ふさりと毛の生えた蛇腹の尻尾に向ける。
古い龍のものによく似たそれは、ツェイの尻尾だ。ツェイの今の気分を反映してか、右に左にとゆらゆら揺らめいている。
(……。……次はあの尻尾、かた結びにできないかな)
ススが不穏な計画を練る最中にも、ツェイの作業は順調に進む。
沸騰させた寒天へ、生クリームとチョコレートを溶かし入れる。そこへさら投入するのはなめらかなこし餡。
「ちょこ羊羹、という水菓子での。甘いものと甘いものの合わせ技、というところだのう」
ボウルの中身をヘラで練るツェイの種明かしに、ススは「そうなんですね」と鼻を鳴らす。
(甘いものと甘いものの合わせ技――)
反芻し、思い浮かんだのはツェイ自身。でも「あなたみたいなものですね」とは指摘せずにおく。
本当にこの恩人は、自分に甘いと――ススは思う。
「……偶にはぴりっとしてるのもいいと思いますけどね」
ぼそぼそと言いながら、ススは首をめぐらせてそっぽを向く。無意識の行動だ。だが偶然、その方向へ調味料棚を見止めたツェイは、なるほど、と頷く。
「そうさなあ……後から塩気は欲しくやるやもしれぬな」
「……そういう事ではないですけど、もうなんでもいいです」
主語を省いたのはススだ。ツェイが誤解するのもやむを得ない。だからとて、訂正するのは癪に障る。
「さて、あとは冷やして固まるのを待つだけじゃ」
ツェイの弾む言葉尻を耳に、ススは顔を背けたまま眉間を寄せた。
包丁は真っ直ぐに。きれいな角が出来るよう、角度にまで細心の注意を払う。
緊張に震えそうになる手を、ススは深呼吸で誤魔化す。
傍らから降る「上手いものだ」という称賛に、走りかける心臓を幾らか宥める。そうして一口サイズに切り揃えたチョコレート羊羹は、艶も形も見事なものだ。
「あとは仕上げなれど――むぅ、狸娘の元気の素となるようなもののう……」
ツェイは額に指を押し当てて悩む。味は間違いないのだが、見目の地味さは如何ともしがたい。
そんなツェイを横目に、ススも考える。これまでたくさんの|甘味《土産》をツェイから貰った。|標《ヒント》はきっとその中にある。
「――冬苺はどうでしょうか」
思い出したのは、比較的に新しい記憶。カラフルな|一口菓子《シューマカロン》。
「ええと、炒って砕いた堅果といっしょに」
「おお!」
「――綺麗ですし、」
「おお!!」
「あの子も喜んでくれる……かも」
「でかしたスー!」
大袈裟な快哉よりも、分かりやすく明るくなるツェイの表情の方がススは嬉しい。ああ、役に立てた。押し寄せる安堵と喜びに、全身から力が抜ける。
「食感も色も楽し気になるの。屹度お主が好むと思うて去年覚えたばかりであったが、なかなかどうして」
「――は」
完全に無防備だったところに予想外の一打を食らい、ススの脳がくらりと揺れた。
(あの子を喜ばせるためだと思ったのに……)
どんな顔をしていいのか分からない。分からなさ過ぎて思考が停止する。
「ん、どうしたスー?」
「――た、たぬこを呼んで来ます」
打つ手なしの状況に、ススはひとまず戦線離脱を試みる。
視界の端ではツェイの尻尾が、ふらふらふらり。見るからにご機嫌そうなそれを、「いつか必ずかた結びにする」とススは心に誓う。
●2月14日の月
パンケーキ用のプレミックスに砂糖と卵、バターを入れてよく捏ねる。
そこへ荒く砕いたヘーゼルナッツを加えて生地が出来たら、ぽんぽんぽんっと円く型抜きをして、オーブンで焼き上げる。
「おお」
所要時間は20分と少し。あっという間に出来上がったまん丸クッキーに、星村・サツキ(厄災の|月《セレネ》・h00014)はパチパチと手を叩いた。
「さすが人生の大先輩。恐れ入ったよ」
慶長しきりのサツキに、手ほどきをしてくれた|ご婦人方《おばちゃん達》が「大袈裟だよ」と笑う。だが、サツキとしては嘘偽らざる本心だ。
思春期真っ盛りな乙女の|姿《形》ではあれど、感覚としても『初恋』を解せぬサツキ。
料理の方は、もっぱら食べる専門。経験なんて、無いに等しい。
(……いや、無かったね)
誰に聞かせるでない|虚勢《盛り》を、サツキは胸中で改める。そもそもチョコレート菓子作りにも、失敗上等の覚悟で挑んだのだった。
――だのに。
「これじゃあ失敗のしようがないね」
料理は気持ちと言う|風習《イイワケ》に全乗っかりのつもりでいたが、その必要を全く感じない焼き上がりに、サツキも思わず笑ってしまう。
「良いにおいがするな」
香りにつられたのか、たぬこも背伸びをして調理台の上を覗く。ふさふさの頭は、自然と撫でなくなる丸さだ。
(猫さんじゃなくて、たぬきさんだったんだね)
すっかり騙された、とサツキは紫と金――二色の眼を三日月のように細める。
(ふふ、上手だった)
思い出した町を走り回るタヌキ色に密かな快哉を送りつつ、サツキは湯煎しておいたチョコレートにクッキーを潜らせる。まとわせるチョコレートの量はまちまちだ。全部だったり、半分だったり、ほんの少しだったり。
「月の満ち欠けみたいだな」
天板についた両手の上に顎を乗せたたぬこが、サツキが並べるチョコレートクッキーを眺めて呟く。
興味津々なのは良いことだ。
「だろう?」
自分でも作ってみようか、とたぬこに思ってもらいたかったサツキは、こそりと満足を頷く。
「化けてみるかい?」
何とはなしに、チョコレートに浸す前のクッキーをたぬこへ差し出す。
「せっかくなら、新月の方がいいな」
少し柔らかくなったたぬこの口調が、サツキの琴線を刺激する。可愛らしい少女だな、と思った。
「そうかい、なら出来立ての新月を」
「ありがとう――ん、美味しい」
チョコレートがたっぷりかかったクッキーを、さくさくと食んだたぬこの顔に笑顔の花が咲く。
(この顔のまま、前を向いて欲しいな)
たぬこの抱える気持ちは、サツキにはやはり理解が遠い。でも、きっと。とても素敵な|もの《心》だろうから。俯かずにいてくれたらいいな、とサツキは様々な表情の月たちを前に祈る。
●手軽・簡単・美味の三拍子
薄力粉はちゃんと篩にかけた。市販の板チョコも手間を惜しまず湯煎した。
ちらり。
「よっし」
検索して一番最初に出て来たレシピを携帯端末画面で確認した佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)は、袖を捲る。
ここから先は力仕事。大事なのは、材料を投入する順番と、捏ね加減くらい。
「便利なもんよねぇ」
再生した動画に合わせて手を動かしながら、橙子は文明の利器のありがたさに畏れ入る。
絶望的な辛党である橙子にとって、本来『チョコ』はお呼びでない。だからといって、回れ右するのも情緒に欠ける。あと、突っ込んだ首を引っこ抜くのも面倒だ。
(まあ、出来はくはないかもだけど)
己が市松人形の付喪神であることを思い出し、橙子は「くく」と喉を鳴らす。神なんてガラではないが。
「えーと、焼き時間は……うー、幅があるんだ」
レシピに書かれた焼き時間の「~」に橙子は眉根を寄せ、最終的には「まあ、いっか」のノリで最短を採用する。どうせ食べる時には温め直すのだ、|半生《生焼け》でも問題はあるまい。
予熱の間に、択んでおいた可愛いカップへ生地を注ぐ。成形の必要がないのも楽で良い。
「そのくせいい感じに凝って見えるフォンダンショコラ、最高よね」
八分立ての生クリームに混ぜるだけの生チョコと迷ったが、こちらで正解だったと橙子はほくそ笑む。
チョコレートはあまり得手ではない橙子にも食べられて、その上に作れもするフォンダンショコラは、やはりホンモノ中のホンモノである。
「ほーらほら、焼き立てフォンダンショコラよ~」
無邪気な子供のように橙子、はしゃぐ。オーブンから取り出したばかりのフォンダンショコラをトレイに、厨房内をあっちこっちとはしゃぐ。
「見て見て~」
「え、もらっていいのか?」
見せびらかした先、興味を示したたぬこへ、橙子はノリのままに首を縦に振る。
休憩のお供にも最適の逸品だ。育ち盛りの小腹を満たすのにも適任間違いなしである。
「いただきます」
「あら――あ」
粗雑な少女の思わぬ礼儀正しさに目を見開いた直後、橙子は焼き時間問題を思い出す。
「ちょ、」
止める間もなく、たぬこがはぐりと食む。
「……なにこれトロトロじゃん。ヤバっ」
(えっ、どっちの『ヤバい』!?)
――刹那過った不安は、たぬこ会心の笑顔に払拭された。
●色欲な魔手はかく語りき
両手を膝の上に揃えて座ったたぬこを前に、一本の手がばすんばすんと調理台を叩いている。
手といってもただの手ではない。|七々手《ななて》・|七々口《ななくち》(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)が失った尻尾の代わりに生えた七本の手の内のひとつ、色欲の魔手だ。
ちなみに首根っこを捕まえてたぬこを引っ張って来たのも色欲の魔手だし、たぬこへ椅子を勧めたのも色欲の魔手である。
「初恋はほろ苦い味が殆どよねぇ。そう、このチョコみたいに」
七々口、ビターチョコレートを湯煎しながら、とりあえず通訳する。何をって、色欲の魔手の熱い訴えをだ。
なお、現在進行形でチョコレートを攪拌しているのは、色欲とは別の魔手。あくまで七々口は、やってる風。いや、ちょっとでもやろうとすると、すぐに魔手がやってくれる、が正解かもしれない。
なので七々口、わりと暇。暇すぎて、さりげなく色欲の魔手が大事に抱えてたチョコの欠片を奪取したりもした。で、ほんのり齧られた跡があるのに遠い目になった。
(拾ったチョコ食うなや。腹壊すぞ)
色欲の魔手がたぬこへ熱弁を振るうのに夢中な間に、別の魔手へチョコの欠片をチョコ壺へ収め直させる。これでひとまず安心だ――なんて胸を撫で下ろしてたら、色欲の魔手がたぬこの頬をエア撫で撫でしていた。
「それで、貴女は諦めるの? 初恋を苦い思い出で終わらせて本当に良いの?」
声音を変えて通訳しておく。それがお気に召したのか、はたまたテンションの起爆剤になったのか。色欲の魔手がびっちんばっちんと大暴れし始めた。
「それじゃあダメなのよ!! ワタシは貴女の恋が実る瞬間がみたいのよ!!」
一応、熱量を込めて七々口は通訳する。たぬこの反応は敢えて見ない。心の中で「お前が見たいだけなんかい」と色欲の魔手へはつっこむ。
そうこうする間にもほどよく溶けたチョコレートが、ハートの型へ流し込まれる。全自動だ。
(なかなかの出来じゃないのー)
「その為なら、なんでも協力するわ。今度こそ気になるあの人を捕まえるのよ!!」
つやつやのチョコレートに、七々口はご満悦。立派なおひげもピンと伸びる。その上で、裏腹な通訳もこなす。
チョコレートが固まるまで、暫し。待ちの間、ひっきりなしの色欲の魔手の訴えを、七々口は通訳し続けた。
そうして仕上がったハート型のチョコレートは、自画自賛に相応しい出来。
「いやー、良い仕事したぜー」
がたん。
椅子から立ち上がったたぬこが、とことこと七々口へ歩み寄る。そして真顔で言う。
「……なんか、ごめんな。あと、気持ちはありがたく受け取っとくって、伝えてやって」
「へ」
子供の慰めは、時々大人のメンタルをがっつり抉る。
果たして七々口がどうだったかは――七々口のみぞ知る。めでたしめでたし?
●(|ステラ+回《初心者》)×割烹着=
「割烹着だって」
膨らみかけの風船みたいなシルエットになったステラ・ラパン(星の兎・h03246)が、独楽のようにくるくる回る。
「中々着る物じゃないから新鮮だ!」
遊園地の乗り物みたいな回転に、|小沼瀬《このせ》・|回《かい》(忘る笠・h00489)の視界もくらりと回る。けれど脳の混乱に屈している場合ではない。
「君も、はい!」
いつの間にかピタリと止まったステラが、ふらつきのない足取りで駆け寄り、回へ白い布を差し出す。
「――何!?」
一瞬の思考停止の後に、回の口から短い驚嘆が転げ出る。対してステラは、実にイイ笑顔だ。
「何事も形からだというだろう?」
折りたたまれた布地をトンっと胸に押し付けられて、回は「んん」っと短く唸る。正体を訊ねるまでもない、これは割烹着だ。ステラが喜々と着用している割烹着だ。
「……お前さんの『形』は好いだろうが、私は確実に不格好だろう!」
「そうかい? 僕は似合うと思うよ」
全力の否定が、やわい朗笑に跳ね返される。赤い瞳を期待に輝かされると、回には口をつぐむ以外に反撃の手段がなくなってしまう。
「調理実習とはこういう感じなのかな」
右手を上げて、下げて。左手を上げて、下げて。たっぷりとした着心地を楽しむステラの様子に、回もしぶしぶ割烹着に袖を通す。周囲の妙齢な女性陣の温かい視線が妙に刺さる。
「楽しげで良いことだ。学徒の御古からでも学んだのかね?」
調理実習なんて言葉をよく知っていたものだと感心しながら、回は背面のリボンを蝶結びにした。
生憎と料理は門外漢な回だ。物は試しと“まじない”でちょちょいとやったら、贋作食品サンプルが創造されてしまい、あわやステラの腹筋を崩壊させるところだった。
思い出すだけで回の眉間には深い皺が刻まれる。だが、ステラの溌剌とした笑顔にあてられ、憮然とした心地も長持ちはしない。
「すてら殿も料理はあまり経験はなかったのだよな?」
「僕かい?」
長い耳をぺたりと寝せたステラが、頭に白い布を被せている。割烹着と揃いで準備された三角巾だ。
「本を見ながらなら……まぁ、という感じではあるけど」
もにょもにょ言いながら三角巾の尻尾を首筋で結わえようとしていたが、上手くいかないらしい。世話好きのご婦人がさっと手を出し、すっと整えてくれる。
「ね、そう滅多なものは生まれないと思わないかい?」
初心者を見逃しそうにない甲斐甲斐しさを我が身で浴びたステラが、片目をパチリと閉じて、開く。
大いに何をか物語るウィンクに、回は両肩をそびやかし――たかと思うと、音もなく身を翻し、今まさに自身の頭に備えられそうになっている三角巾を恭しく受け取る。
あからさまに残念そうなマダムへ唇で弧を描くことで応えた回は、無駄な抵抗の一切を諦めた。
「教えを乞うのも、初心者の特権だな」
ぎこちなく三角巾を身に着けると、訳知り顔のマダムと目が合う。
知らぬは恥ではないし、素直さは美徳でもある。意地を張った|彼女《・・》の学びにもなればいい、という回とステラの思惑を、察しているのかもしれない。
「あたしらはこの町の子ら全部、かわいいからね」
大人同士の耳打ちに、回は「矢張り」と得心する。その間にもステラは、借り受けたレシピ本を調理台に広げていた。
「回は甘いものが好きだったろう?」
ゆっくりとページをめくるステラは、星の粒子を纏うよう。この笑顔を翳らせたいとは思わない。
加えて、魅力的な甘味の誘い。伸るか反るかで問われたなら、伸る一択の全賭けだ。
「この辺りが良さそうだ、君の気になる菓子はあるかい?」
ステラに示されて、回も覗き込む。初心者用らしく、いずれも工程は少なく、かつ見栄えもそれなりに良い。
うず、と回の甘味好きの根っこが疼く。
「そうだな……これはどうだね?」
「ちょこかっぷけえき?」
回の指が辿った文字を、ステラが読み上げる。紙の型に入れて焼き上げる、小振りのチョコレートケーキだ。カラフルにデコレーションされた挿絵が、絵物語めいてすこぶる可愛らしい。
「いいね、うんと可愛くしよう! 出来上がったら交換こだよ」
「交換? 一緒に作るのではなしに?」
「そう! こう言うのは贈り合うものだろう?」
言うが早いか、ステラはパントリーへ一目散。デコレーションの材料を探しに走る。
気の早いステラの背中を見送り、回は顎へ手をやり「うむ」と頷く。
「これはうんと可愛くせねばだ」
少なくとも、兎の耳を生やしたものは作らねばなるまい。ちょこけえきだから、黒兎だろうか。
「すまないが、知恵を拝借できないだろうか――」
求めた助けに、マダム達がさえずり始める。その楽し気な様子をたぬこが眺めているのに、回はしっかり気付いていた。
●|天使は爛漫、竜人は奮闘す~再び《きみのものは■■■■■》
アン・ロワ(彩羽・h00005)は天真爛漫、興味の在処も様々。決めた事には全力投球、青い瞳はいつだって陽を浴びた湖面のようにきらきら煌いている。
そしてベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)は、そんなアンの性質をよく知っている。料理の腕前だって、よくよくよーっく知っている。
「うええええん!」
――なんとか形にせねば、もう一人のたぬこがここに爆誕してしまう。
そんな気がしていたのだ。だからいち早く先手を打たねば、とベネディクトは思っていたのだ。
だが。しかし。
「あーーん!!」
赤毛の天使が、赤子のように泣いている。軽く握ったこぶしで目を覆い、おーいおいおいと泣いている。本の中ではよく見る、現実ではそうお目にかからないスタイルで泣いている。
(……爆誕してしまった……)
遅きに失した事実を噛み締めながら、ベネディクトはアンの肩へそっと手を置く。
「なんでこんなにうまくいかないのおおおおうううええええええんんん」
決してベネディクトの制止が間に合わなかったのではない。単純に、アンが素早過ぎたのだ。
そして結果を叩き出すのも、おっそろしく速かった。つまり、色々手順が抜けてる。もしくは、諸々『適当』をしでかしたか。
「うう、ううっ、タヌコに『想いはきっと届く』って伝えたくてがんばったのにっ、にっ、にっ……ぃくっ」
しゃくりをあげて苦しそうなアンの背中を、ベネディクトはやんわりとんとんする。
「たった一滴の水がぜんぶ台無しにしちゃった、のおおおおおうええええええん」
――たった一滴。
アンの訴えに、ベネディクトは視線をチラっと調理台へ流す。
生地がマーブル模様になってしまっている、ふくらみの足りないケーキは――多分、ガトーショコラの成りそこない。
うん。水一滴の問題じゃない。でも、ベネディクトはつっこまない。
余談だが、アンも無謀な挑戦をしたつもりではなかった。
何せもうすぐバレンタインだ。大好きな|ベネディクト《ベニー》のために内緒で練習を重ねて来た。だがお菓子作りは『基本に忠実』が一番大事。勢いで突っ走るアンには若干(いやかなり)荷が重い。それこそベネディクトがよく知る通りに。
おかげで一度も成功したことはなかった。なかったけど、今日こそはたぬこの為にと気合を入れて、見事に玉砕した。やる気の空回り、あるあるだ。
「アニー、アニー泣くな」
ベネディクトは|全て《・・》を理解している。こんな|の《失敗》、可愛らしいだけ。止められる悲劇ならば、止めたくはあったけれど。
「大丈夫だ。まだ材料も場所も使って良いそうだから作り直そう」
「え?」
ベネディクトの落ち着いた声に、アンがぱっと顔を上げる。涙で潤んだ瞳は、いつもより大きく見えた。
「……つくりなおしても、いいの? あたし、こんなにしちゃったのに」
「無論だ、失敗したならやりなおせばいいんだ」
大きく頷くベネディクトに、周囲で成り行きを見守ってたおばちゃん達も「うんうん」首を縦に振っている。
「私もチョコレートは作ったことがないが、レシピを見ながら二人で作ればどうにか形にもなろう」
「……そう、かしら」
よほど引き摺っているのか、ベネディクトの提案にも、アンにいつもの溌剌さは戻り切らない。そういうことであれば、とベネディクトは勢いよく袖を捲った。
「やるぞ、アニー」
前のめりを態度で示し、人を威圧するにはたいそうお役立ちな顔立ちを、めいっぱいの笑顔に変える。
「ベニー……」
伝わるベネディクトの本気に、強張っていたアンの表情がようやく緩む。
「そうね。そうよね」
残る涙をごしごしと拭い、アンは照れたように微笑み、きゅっと握りこぶしを固める。
「今度こそ、ちゃんとできる気がしてきたわ。だってベニーがいっしょだもの!」
焼き上がったガトーショコラを、宝物みたいに抱えたアンが、|甘味処《パーラー》の厨房を小走りで走る。
多少不格好な仕上がりなんて関係ない。
「ね、タヌコ! あなたがこれをもらってくださる?」
「は、オレ!?」
「ええ! タヌコにもらってほしいの!」
花盛りの少女たちを遠目に、ベネディクトも満足の息をまるく吐く。
簡単な仕事ではなかったが、アンが嬉しそうにしてくれただけで疲労は癒える。洗濯物が増えたのだって、気にもならない。
「さて、と。残る問題は――」
すすす、とベネディクトは移動し、アンたちへ背中を向ける位置を確保する。
そしてこっそり先ほどのガトーショコラ未満へ手を伸ばす。
ベネディクトが「私が食べる」と言えば、アンはきっと止めるだろう。「せめてはんぶんこにしましょう」と言い出すのも容易に想像がつく。
けれど|これ《・・》は、正真正銘アンの手作り。失敗こそしたが、初めての挑戦ではなかっただろう事も、ベネディクトには察しがついている。
(初めてなら、レシピも手順も、何も分からなかっただろからな)
何のため、とか、誰のため、とは考えない。きっとそうだ、と思いながら、フォークを伸ばす。
ぱくり。
少し生焼けで、ダマもある。けれど口にしたガトーショコラは、ベネディクトへ幸福をもたらす甘やかな味わいだった。
●|レプリカ《守護者》たちの|甘い夢《クッキングタイム》
「気持ちを込めたチョコを作るの……!」
神様へ祈りを捧げるように指と指とを胸の前で絡めた|鴛海・ラズリ《ほしうみ☾·̩͙⋆✤✤✤✤✤✤》(✤lapis lazuli✤・h00299)は、薄氷の双眸に星の燦めきを溶かしこむ。
頬にはほのかな彩が咲いている。微かに感じる熱に、ラズリは|詠櫻・イサ《𓈒𓂂𓏸ヨヒラ 𓂃◌𓈒𓐍》(深淵GrandGuignol・h00730)をチラリと見た。
自分の頬は、きっと今ごろ、イサとよく似た色。
思い浮かんだ楽しい想像に、ラズリの心がぴょんっと跳ねる。
素敵な提案に覚えたトキメキ。誰への気持ちを込めるかといえば、もちろん隣のイサと、いつも一緒にいる仲間。
「……ラズリなら純真な心を込められそうだな」
いつの間にかラズリを見ていたイサがぽつりと言う。そう思われていることが嬉しくて、ラズリは声まで跳ねさせた。
「本当?」
「ああ、間違いない」
こくりと首を縦に振るイサの胸中は、少しうらはら。
ラズリからは素直な歓びが溢れている。イサは、脳裏を過った“誰かの顔”から目を逸らしたというのに。
「ねえ。イサはチョコ作りどう?」
その尋ねは、面映ゆさを断ち切るのに絶好のタイミング。イサは飛びつくでなく、間を取りすぎるでなく、極めて自然に応えを返す。
「初めてではないから何とかできる」
「それは心強いね! じゃあ、プラリネチョコとクッキーを作ろうよ」
「ラズリらしいお洒落なラインナップだな」
なら材料は、チョコレートに生クリームにバター、薄力粉に砂糖――脳内で指折り数えるころには、イサの表情も装い無しの普段通りへ舞い戻る。
作業は分担。手慣れたイサはそつなく、教わりながらのラズリはゆっくり丁寧に。
然して進むお菓子作りは極めて順調。
甘い香りをくゆらせるオーブンの中では、星や桜の形をしたクッキーたちが焼き上がりつつある。
「いいにおいだね」
瞼を閉じて鼻をクンっと鳴らすラズリに、イサの頭にまたひょっこり誰の影が顏を出す。
「あいつなら味見するってタイミングだな」
「そうそう、きっとそう!」
“あいつ”が誰を指すかは、ラズリもよく知るところ。
「で、どんどん量が減っていくんだろうな。そのくせ『なくなったわ』って不思議そうな顔をする」
「確かに! 最後は一個だけになったりね!」
イサとラズリは顔を見合わせ――堪え切れずに、小さく吹き出す。
美食家の食いしん坊さんなら、さもありなん。だからこそ、二人はしっかり『数』を用意した。もちろん全てにぎゅぎゅぎゅうっと『大好き』を詰め込んである。
「ねえ、プラリネの方も仕上げちゃおう」
クッキーの方は、あとはオーブンにお任せだ。ならばその間にと、ラズリは調理台に戻って、チョコペンを握る。
「これは花弁」
まずはピンク。
「これは牡羊座、こっちは蠍座、それから射手座」
次は白。
「書くの上手いな。ところでどうして|星座記号《ゾディアック》?」
「私達の星、なんだよ」
最後にはらはらと金粉の星屑を散らすラズリの趣向に、イサは睫毛をパチパチと謳わせた。
「へぇ、俺達の星座か――」
三つ並ぶと、三人が並んでいるようで、不思議としっくり来る。同時に、牡羊座の周囲にご馳走を並べたくもなる。ただの作業のはずが、すっかり楽しくなってきた。
「なあ、ドライフルーツを散らすのを作るのもいいんじゃないか?」
「素敵、そうしよう! 味見もしておく? って、白玉!」
茶目っ気たっぷりなラズリの一言に、それまで二人の足元でじっとしていた|ポメラニアン《白玉》が垂直に跳ねた。
「マヒルもか」
ぴょんぴょんとジャンプを繰り返す白玉につられたのか、|桜色の皇帝ペンギンの雛《マヒル》もフリッパーをぱたぱたさせている。
「マヒルは甘いもの大好きだもんね」
ラズリは笑いながら、蠍座のプラリネを一粒、イサへ手渡す。そして自分用には射手座を一粒、摘まみ上げる。
「クッキーが焼き上がったら、半分な」
「白玉ももうちょっと我慢ね」
イサはマヒルへ、ラズリは白玉へ言い聞かせ、それぞれの星をあむっと食む。そうして見交わす視線は、満足にとろりと蕩ける。
「はいっ、たぬこにもお裾分け!」
「これはお前の分として作ったんだ」
出来上がった幸福は、分かち合うに限る。何よりラズリもイサもたぬこの背を押したくてたまらない。
「わるいな、ありがとう」
遠慮がちに受け取ったたぬこを、イサはまっすぐに見た。
「リベンジもいいんじゃない? 気が済むまでさ。一つだけの命なら、後悔なんてない方がいい」
「そうよ、諦めないで!」
ラズリは贈り物を握ったたぬこの両手を、ふわりと包む。
「これから先の素敵な出逢いを見逃してしまわないでね。戀を知る貴女は綺麗にみえるんだから」
「きれいなアンタ達にいわれてもなぁ」
照れ隠しに、たぬこがぽりと頬を掻く。チョコレート色の毛並で少し分かり辛いが、そこはきっと桜色。
「でも、ありがとな。まあ、うん。なんか考えるわ」
ぶっきらぼうな言い様でも、中身は前向き。望んでいた手応えに、イサとラズリは春爛漫の笑顔を咲かせた。
●天啓降る
瞬きはぱちぱちと確り二回。それから口角をゆるく上げた|白椛《しらかば》・|氷菜《ひな》(雪涙・h04711)は得心を呟く。
「成程ねぇ……それで初恋に反応してたの」
初恋。
それが如何なものかは、氷菜はいまいちよくわからない。
子供の頃から『お嫁さんになる』という相手はいるが、『恋』という感情がきちんと理解できていないのだ。
さりとて、バレンタインは毎年恒例なイベントなわけで――。
「ん、うまい!」
試食してもらったたぬこの称賛に、氷菜はほっと胸を撫で下ろす。
得手とは言い難い菓子作りではあるが、体質上、引き篭もっていた時期があるせいで、経験値はそれなりに。
なれど贈る相手は、毎度定番。おかげで味付けはどうにもその人向けだ。
(あとは父上用だったから)
心配だった味の偏りも、口の端にチョコレートをくっつけたたぬこの顔が『問題なし』だと雄弁に物語る。
「ほらごらん」
「よく出来てるわよ、生チョコタルト」
「小母様達のおかげです」
口々に太鼓判を押すおばちゃん達へも、ようやく氷菜は笑顔を向ける。
魅了の力を抑え込むよう意識したからか、はたまた『さすがの』おばちゃん達と言うべきか。賑やかに口を出し、ちゃきちゃきと動き回る彼女たちが、氷菜に|惑う《・・》ことはなく。
緊張感から解放される心地に、氷菜は少し楽に息をする。これもまた、バレンタインの魔法なのかもしれない。
「……あ、たぬこさん」
ひとつひとつ苺を飾る氷菜は、顔を上げない。最後の仕上げだ。せっかく褒めてもらったタルトなのに、苺が真ん中からずれたら残念すぎる。
「いっそ、ご兄弟にもあげたら如何?」
「へ?」
「先に貰っていれば、他のチョコまで盗らないかもしれないでしょう」
「!!!!!」
相変わらず氷菜は、作業に集中している。
だからたぬこの劇的な表情の変化に気付かない。ついでに、おばちゃん達の慄きぶりにも気付かない。
「その手があったか――」
「やるわね、この子……」
「ヤマウラさんちのお兄ちゃんたち、言い訳を封じられたわね……」
雷にでも打たれたように、たぬこは体を固くし、だが深く頷いている。おばちゃん達も、ひそひそとささやき合っている。
将を射んとする者はまず馬を射よ。手癖の悪い兄たちは、先制パンチで黙らせろ。
まさに、天啓。天啓が、降った。
「それに失敗だって糧になるわ、大丈夫」
「ありがとうな、ええと――アンタ、名前は?」
「私? 私は、氷菜よ。白椛氷菜」
「氷菜、恩に着るぜ! はは、はは、ははははは!」
たぬこの高笑いにようやく顔を上げた氷菜は、自分がどれほどの事を成し遂げたのか、まだ気付いていない。いや、もしかしたら永遠に気付かないままかもしれないが。
どちらにせよ、氷菜の名前は、恩人の名としてたぬこの記憶に深く刻まれるのだった。
●秘伝・モグラチョコ
ざりざりざりざり。
「チョコが溶けないよう、手早くね」
「はい」
ざりざりざりざり。
「終わったらココアパウダーとよくまぜて」
「はい」
矢継ぎ早に飛んでくる指令に、|空沢《からさわ》・|黒曜《こくよう》(輪る平坦な現在・h00050)は従順なイエスマンと化す。
ちなみに手は、ずっと板チョコをすりおろしている。もちろん、おろし金で。チョコを握るのにはちょいとコツが必要になるが、爪が長くてよかったなぁ、と思う。皮膚まで擦る惨事を軽率に発生させるのは、おろし金あるあるだ。
時に、板チョコは既に三枚目。細かな動きの連続に、腕は地味に疲れてきた。
とは言え、おばちゃん達に教えを請うたのは黒曜の方。したがって、黙々と作業に邁進する。
傍目には、おばちゃん達にこき使われているように見えなくもない。だが、素直に受け入れることを、黒曜は肝要とする。
「おb」
「んんんん?? 今、なんて」
「お姉さま方。さっきのチョコはそろそろ固まったりしませんかね?」
「ああ、もうそんな時間だね」
「お兄ちゃんはそのまま続けて。あたしが見てくるから」
「お重箱の準備もこっちに任せておいでよ」
賑やかだ。この世で一番強いのは『おばちゃん』という種族かもしれない、なんて黒曜は内心でしみじみする。
見学に来たたぬこも同じ気持ちなのだろう。少し遠い目をしている。
「ウザイって思わねぇの?」
「知らない事は教えてもらう。出来ないことは手伝ってもらう。お願いしたからには、ね? 恥ずかしいことじゃないし」
暗に含んだあれこれを、たぬこが理解するかは分からない。
代わりに黒曜は、一つまみサイズになったチョコレートを――これ以上は摺り下ろせない――、たぬこへ渡す。
「オトナでもそんなもん?」
「そんなものだよ」
むぐとチョコの欠片を頬張ったたぬこが、「そんなもんかあ」と頷く。その様子に黒曜の小さな瞳が、弓のような弧を描いた。
身を呈してまで伝えたかった事を、たぬこは受け取ってくれたようだ。菓子作りの経験はなかったが、頑張った甲斐がある。
(損得抜きに青春なたぬこさんの後押し、してあげたかったからね)
「で、何つくってんだ?」
「これ? 発掘チョコだって」
摺り下ろしたチョコの小山とココアパウダーを、黒曜はさっくりさっくり混ぜ合わせる。感触は、柔らかい土を掘るのにそっくり。
「発掘チョコ?」
「宝石に見立てたボンボン・ショコラをこのチョコ砂に埋めるんだって。そして探しながら食べる」
モグラ獣人である黒曜に合わせ、おばちゃんの一人が提案してくれたレシピだ。面白いアイデアだな、と黒曜も思った。
「色んなチョコがあるんだな」
「そうだね」
恋の味には縁遠く、バレンタインの華やかさとはほぼ無縁の黒曜でも、『悪くないな』と感じている。年頃の乙女なたぬこは言わずもがな。
(今ごろ、何を作ろうかって考えてたりしないかな?)
調理台へ身を乗り出すたぬこを眺めながら、黒曜は軽やかに喉を鳴らした。
●乙女盛り花盛り
「ちょこれーーと!!」
「っな、なんだよ突然っ」
|花片《はなひら》・|朱娜《しゅな》(もう一度咲って・h03900)の大声に、たぬこがびくんと肩を跳ねさせる。
「こういうのは気合って言うじゃない?」
朱娜、えへっと笑って誤魔化す。ちょっぴり興が乗ってしまったのだ。
たぬこの方も朱娜のテンションが分からないでないのか、「まぁなぁ」と口をむぐむぐさせている。
そんな距離感が、朱娜はすこぶる嬉しい。
だって朱娜は、まさかの同い年だったたぬこに親近感を覚えている。
(猫じゃなくて、たぬきのたぬこちゃん!)
タヌキに化かされた事実もじわじわ効いている。昔話に飛び込んだ気持ちになるのは、きっと日本人だからだ。
「よおっし、作るぞーー!」
「おー、がんばれー」
たぬこの応援に、朱娜はにかりと笑う。
「まかせて、とびきりの作っちゃうよ」
もとは花神に仕える花巫女の、|御山《みやま》暮らし。当然、バレンタインなんて風習に馴染みもなければ、チョコレート作りも初挑戦。
けれど都会での一人暮らしを始めた今の朱娜は、すっかりおちゃめなJC。たぬこへ友チョコを贈ると心に誓った以上、意地と根性を発揮する。あと、おばちゃん達の手と知恵も存分に借りる覚悟も決めている。
ホワイトチョコレートを溶かした水あめを、食紅で染めて。冷めて固まらないうちに一片ひとひら、花びらの形に整えていく。
塩漬けにした桜の花は隠し味に。きっともうたくさんのチョコレートを貰っているだろうたぬこも、きっと驚いて喜んでくれるに違いない。
目指すのは、可愛らしさと、少しの大人っぽさ。思春期の少女たちの憧れの結晶。
「……の、つもりで作ってたんだけどっ!」
「イイ感じじゃん?」
「違うの、違うの! 桜を目指してたの!! でもこれ……」
「八重桜っつーか、もはや牡丹だな」
「だ・よ・ねええええええ」
指先から全身へ伝播する熱に汗みずくになった朱娜は、咲かせた大輪のチョコレートの花を前に、調理台へ突っ伏す。
五枚の花びらを重ねるつもりが、つい盛り盛りに盛ってしまった結果である。しかし、間近で眺めてもなかなかの出来栄えに、気持ちはすぐに切り替わる。
「花ざかりだね、たぬこちゃん」
はい、っとチョコの大輪を押し出すと、たぬこの口がポカンと開く。
「え? 綺麗じゃん。お前の方が似合うって」
「これはたぬこちゃんにって決めて作ったから。友チョコ、受け取って?」
ねだる口調で言うと、たぬこがふにゃんと猫のように潰れた。
「あー……ありがとな。友チョコ、初めてもらった」
|牡丹《桜》チョコを矯めつ眇めつしていたたぬこが、やおら立ち上がって、水あめを温めだすのは数分後。
もちろん作るのは、朱娜へ贈る桜チョコだ。
●執事、|御嬢様に捧ぐ《先制打を仕込む》
|甘味処《パーラー》の一画。
配された透かし彫りの椅子と丸テーブルは、テラス席用の予備品だ。
「どうぞ、たぬこ御嬢様」
真っ白なレースのテーブルクロスの上に銀のケーキプレート。その上に鎮座坐しますガトーショコラには、粉砂糖が淡雪のように降りかけてある。
見るからに美味な一皿に、しかしたぬこは手も足も出ない。
「申し訳ありません、お茶の用意が未だで御座いましたね。珈琲と紅茶、どちらが宜しいでしょうか?」
そこらのおばちゃん達とお揃いのエプロンを颯爽と着こなしたヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)が恭しく尋ねると、たぬこが錆びたブリキ人形のようにギギギと身じろぐ。
「こ、こうちゃ、で」
「畏まりました」
承るや否や、ヴィルベルヴィントはどこからともなくは白磁の茶器を取り出し、紅茶の仕度にかかる。一連の出来事になんら不思議はない。だってヴィルベルヴィントは執事だもの。
だが慣れぬ扱いに、たぬこは緊張と混乱で盛大にこんがらがっていた。
「お前……っじゃなくて、あんた――でもなくって。あーうん。アンタ様には」
「『お前』で宜しゅう御座いますよ、御嬢様」
「っ、お前はっ。他にこういうことしてやりたい人いないのっ」
澱みないヴィルベルヴィントの所作は、長い修練を積んでこそのものに見える。頑張るのは、それだけ尽くしたいと思う相手がいるから。そう考えたらしいたぬこの問いは直球。
「私にも手料理を食べて頂きたい主人方がおります、けれども――それは、叶わないのです」
ヴィルベルヴィントの口調は、紅茶をサーブするのと同じくらい静か。代わりにたぬこが「っあ」と息を飲む。
「ですから本日は、たぬこ御嬢様の為に心を籠めて作らせて頂きました」
湯気を昇らせるティーカップに、砂糖壺とカットレモンも添える。レモンティー派らしいたぬこは、カットレモンを一切れだけ使った。
「諸事情により憶えておりませんが……美味しいといって頂きたくて、私も何度も失敗を繰り返した様な、感覚が御座います」
「――いただきます」
嘘には聞えぬ|執事《ヴィルベルヴィント》の語り。
探せぬ次句に替えて、たぬこはヴィルベルヴィントお手製ガトーショコラをゆっくりと口へと運ぶ。
「……御味は如何ですか? たぬこ御嬢様」
「えっ、美味い! え、え、なにこれ、ちょっと大人味!?」
弾けた年相応の歓喜に、ヴィルベルヴィントは密かに口角を上げる。
「隠し味は秘密で御座いますよ」
「ごちそうさまでした!」
ガトーショコラと紅茶を綺麗に完食したたぬこは、勢いよく椅子から飛び降りた。
今にも駆け出さん勢いだが、ヴィルベルヴィントはやんわりと「待った」をかける。
「完成品の残りは梱包を済ませておきました」
大きな獣の手から、小さな獣の手へ。赤いリボンをかけた白いケーキ箱が渡される。
「約束をされたのでしょう?」
「約束した」
頷くたぬこの瞳の眼に曇りはない。
「きっと、待っておいでですよ」
たぬこの為に作った甘い甘いガトーショコラ。それにヴィルベルヴィントは苦い苦いコーヒーの香りをまとわせた。
「大将好みのヤツだな」
「御嬢様にお伺いした通りに仕上げております」
「大将、絶対に驚くぜ」
ニヤリとたぬこが強きにわらう。
「ありがとな。行ってるぜ!」
第3章 ボス戦 『隠神刑部』

●化け上手たぬこの本気
茜色に移ろい始めた空の下、たぬこは重い足取りで急階段をあがる。
門前町に比べ、参道並木に吹く風は冷たい。近付く夜も、世界から熱を奪う。
赤橋を渡り、大鳥居を潜り。上がった階段は百と少し。
そこでたぬこは左へ逸れた。
御山そのものが神域。天辺の本殿まで至らずとも、小さなお社は点在している。
日ごとに近付くバレンタインデーにむしゃくしゃし、御山に分け入ったあの日。
参道並木は通らず、獣道をずんずん進み――出くわした小さな社を蹴飛ばした。
そして『大将』に出逢ったのだ。
封印を解いてしまった後悔はなかった。憎かろう、恨めしかろう、苦々しかろう、と煽られるままに『バレンタインデー』の消失を望んだ。
でも。
「遅かったではないか」
「悪ぃ。手こずっちまって」
待ち構えていた化けだぬきへ、たぬこは迷いなく歩み寄る。
社は跡形もなく消え去り、一帯はただの広場になっていた。それでも『大将』が動けずにいるのは、腰掛けている要石のせい。
「これで本当にバレンタインデーを失くしてくれるんだろうな?」
目つき鋭く、たぬこは白いケーキ箱を『大将』へ差し出す。
「ずいぶん可愛らしいな」
「バレンタインデーだ、んなもんだろ」
箱にかけられた赤いリボンをいぶかしんだ大将は、たぬこの言葉に納得を頷く。
「確かにそうだな――おお、いいじゃねえか。この苦々しさがたまらん!」
赤いリボンがはらりと地面へ落ちる。
開いた箱から立ち昇る苦い香りに、『大将』は快哉を叫び、むんずとガトーショコラを掴んだ。
「安心しな、たぬこ。これ喰って力ぁ取り戻したら、全部まとめて――」
最初から本気じゃなかった。いや、本気のつもりだったけど、そうじゃなかった。
いじけて、俯いて、立ち止まって。自分で自分の世界を狭めていただけ。
優しくされたくらいでチョロいな、って自分で自分を笑いそうだ。
けど、優しくされて。たくさん見せてもらって。
(心の籠ったチョコレートまで貰っちまったんだ)
怪しまれないよう強がっているが、背中は冷や汗でびしゃびしゃだ。
だけど化け上手の自負まで折るつもりはない。
(ちっせぇオレのまんまでいられるわけねえだろ)
何より自分はひとりじゃいから――。
「っ、たぬこ手前、何くわせやがったあ!!!」
苦さは纏うばかりの甘い甘いガトーショコラを喰った隠神刑部が怒りを吼えた。
取り戻しつつあった力が失われる感覚に襲われているのか、烈火の如き形相に焦燥が混じっている。
「こうなりゃテメェを喰ってやる!」
隠神刑部がチョコレートまみれの手をたぬこへ伸ばす。
例え本調子でなくとも、たぬこ一人を喰うくらいなら、今の隠神刑部でも容易い。
それはたぬこも百も承知。
ならばどうしてたぬこは此処へ来たのか。
「こんくらいはオレもやんなきゃなあ!」
自分ならば、隠神刑部へ甘いチョコレートを喰わせることが出来る。弱らせることが出来る。助けになることが出来る。
あとは信じるだけだ。
「なあ、お前たちなら出来んだろ! この大将をさっさと封じ直しちまってくれ!!」
町の中を派手に追いかけまわされたことを思い出す。
地の利はあるのに、一呼吸置く間さえなかった。
どれもこれも馴染みのない顏ばかり。余所者だとすぐに分かった。
(なァ、お前たちはめちゃくちゃ強いんだろ? そうなんだろ?)
尻ぬぐいさせる申し訳なさはある。でも、出来ない事は頼っていいとも教えてもらったから。
「――頼むぜ」
鎮守の森の、樫の木。抜群に育った一本が、弓のように撓る。打ち据えられたら、場外ホームランでは済むまい。
「勝手ついでに、信じたからな」
押し寄せる殺気の圧に、たぬこはぎゅっと目を閉じた。
●|チョコレート窃盗事件の主犯を確保せよ《隠神刑部を再封印せよ》
「秘密ですのよ」
囁きは極小。
「っ、なんだあ!?」
そも、声の主を目に留めることもなかった隠神刑部は、眼前に出現した|大巨人《スプリガン》に尻もちをつく。
だが樫の木の勢いは死なない。
(させるわけ、ございませんでしょう――っ!)
愛らしい妖精から大巨人へ姿を転じたシルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は左手を必死に伸ばす。
ぐわん、と鈍い音が夕刻の木立へ響く。堅い一撃を受けた手甲は歪んでいた。だが|それ《・・》だけだ。
「成程、弱体化は著しい、と」
大巨人の影から、黒いスーツを着た長身の男が走り出る。
「テメェら何モンだぁ!?」
闇が輪郭を成したような錯覚に、浮きかけていた隠神刑部の腰が、土の上へどすんと落ちた。小豆色の着物の裾を、よく磨かれた革靴がすかさず踏む。
「私ですか? 私はただの|異能捜査官《カミガリ》です」
隠神刑部を睥睨する|道明《どうみょう》・|玻縷霞《はるか》(普通の捜査官・h01642)の眼は、常と変わらぬ理知的な光を讃えている。
「くそっ、たぬこの奴め! おい、たぬこ!!!」
「窃盗の主犯、それから……たぬこさんへの脅迫も該当します」
アンダーリムの眼鏡のレンズ越し、青い瞳が鋭さを増す。
「大人しく封じられることもないでしょう――ならば、解決するのは暴力です」
――手っ取り早く拘束しましょうか。
長い足が風を切り、隠神刑部の顔面を真横から打つ。そのまま玻縷霞は蹴撃の勢いを殺さず、直上からの踵落としまでを綺麗に見舞う。だが捕縛用の手錠は、手応えなくするりと空を切った。
「そうはいくかってんだ」
玻縷霞の拳サイズの珊底羅大将へ変化した隠神刑部の動きは速い。昼日中ならまだしも、夕暮れの光では、目で追いきるのは困難だ。けれど隠神刑部の意識を、たぬこから引き剥がすのには成功している。
「たぬちゃん、あんま無理しちゃらかんよ?」
|ララ・キルシュネーテ《꒰ঌ❀❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。❀໒꒱》(白虹・h00189)に手を引かれたたぬこを、|八卜《やつうら》|・《😋》|邏傳《らでん》(ハトではない・h00142)は膝を折って出迎えた。
「で、でもっ」
舌を縺れさせているたぬこを、ララは邏傳へ託す。離した手の冷たさに、ララはたぬこの覚悟と緊張を見た。
「お前はやっぱり、とっても立派ね」
たぬこの勇気は称賛に値する。感じたままにララは美しく微笑んだ。
「ありがとう。ララはお前のそういうところもすきよ」
喜ばせたいわけではない。慰めたいわけでもない。ありのままの気持ちを、等身大の言葉で。
ふわんとたぬこからお日様のにおいが立ち昇る。強張り冷え切っていた全身に、歓喜の血潮が行き渡った。
「あっ、ありがとう!」
かすれ声でたぬこが言う。なれど告げるだけ告げたララは、もう最前線へと駆けている。
「うん。ほんに助かちった。ありがとお♡」
ぽかんとしているたぬこの頭を、邏傳はやんわりと撫でた。見上げてくる眼に、くにゃりと相好を崩す。
「さーて。俺は平和主義だし? 戦うの得意でねぇのよ」
「え、それなら」
たぬこの手を引き、邏傳は並木参道近くまで戻る。歩幅はたぬこに合わせた。
「けど、たぬちゃんのかっくい〜姿見せられちゃあ、じいっとしちょれんでしょ?」
ぎゅっと掴み返された手を、邏傳はそっと解く。つぼティもおんなし気持ちやよ、と|🏺《つぼティーヌ》をたぬこの鼻先へ近付けると、邏傳の両手の中で|🏺《つぼティーヌ》がコットンと身体を揺らす。
「怪我すんなよ?」
たぬこの希みに、もちろん、と邏傳は|🏺《つぼティーヌ》を抱えたまま胸を叩く。
「たぬちゃんはしっかり隠れておくんよ、したらあっちう間よ」
うん、と。たぬこの頷きを見届けて、邏傳は元来た道を走る。
●恋を踏み躙るならば、恋に踏み躙られる覚悟が必要
まとわりつく巨大なアリごと、シルヴァは周囲の木々をなぎ倒し、払い飛ばす。
(ごめんあそばせ)
化けダヌキが変じた黒の蠢きへではなく、無体を働いてしまった木々の方へシルヴァは詫びる。
隠神刑部の武器封じを狙ってのことだ。
(あとで必ず直しますのでご容赦くださいまし)
力任せに放った木々は、遠くに重く積み上がった。本領を発揮しきれていない隠神刑部の神通力では、多くを意のままにはできまい。
(――ここからですわ)
巨体を維持したシルヴァは、息を詰め、気魄を漲らせる。そうしてシルヴァは、隠神刑部に己を警戒させる。
(残念、ブラフでしてよ)
「お邪魔さんだよー」
不意に|大巨人《シルヴァ》の頭部から尾無しの猫が姿を現す。そのまま猫――|七々手《ななて》・|七々口《ななくち》(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)はスプリガンの頭上に四本の足でスンっと立った。
「歌え、色欲。その上がりに上がったテンションを吐き出す時だよー」
待ち侘びた七々口の合図に、尾の代わりに生えた七本の魔手のうちの一本、色欲の魔手が高らかに歌い出す。
「はあ?」
どこからともなく響く旋律に、隠神刑部が目を剥いた。手が歌うなぞ、聞いたことが無い。
(……流石に歌の通訳は無理っす。でもまあ、たぬこに負けるわけにはいかないっしょ)
魔手は魔手。原理にも道理にも意味はない。何より色欲の魔手が歌いたがっている。だから“歌”だ。
――恋に堕ち。
――恋に煩い。
――恋に絶望し。
――恋に死せ。
遮るもののない特等席でのリサイタル。
薄い刃と化した冬枯れの木の葉に捲かれながら、隠神刑部は耳を塞ぐ。
「足掻いても無駄だって」
のんびりと顏を洗い、ついでとばかりに七々口は煙草を吹かす。
紫煙を吐き出すより早く、七々口の元へ運んだ火を、憤怒の魔手が隠神刑部の眼前で爆ぜさせた。
目暗ましのまぶしさに、隠神刑部の集中力が刹那、途切れる。そこへ怠惰の魔手が忍びより、ぞろりと腕を撫でて|やる気を奪う《精神を汚染する》。
「あああ、ふざけんじゃねえぞ!」
様々に苛まれながら、隠神刑部が怒髪冠を衝いて吼えた。だが七々口は慌てず騒がず、のんびりと声を足元へ降らせる。
「あー、右みぎ。右にちょい避けてー」
(こうかしら?)
言われるままにシルヴァは身をよじった。出来た空隙を徳利が掠める。そして余韻のかまいたちは、傲慢と暴食の二手が弾く。
「いやあ、見晴らしがいいねー」
ぷかあと煙をくゆらせ、七々口は伸びをした。俯瞰の視点は、隠神刑部の攻撃を見切るに最高。直撃でなければ、魔手たちの霊的防護で事足りる。
「高みの見物、さいこー」
のんびりくつろぎ、七々口は濃いチョコレートの香りにスンと鼻を鳴らす。
「シルヴァちゃん大丈夫?」
巨大な手の上。バリケードの如く立ちはだかる|指《・》に一切を守られながら、ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は戦況を読み解く。
案じる尋ねに、膝をついた掌がグッとたわんだ。大丈夫、というシルヴァの意思表示だろう。
(シルヴァちゃん、こっちも格好いいなぁ)
漆黒犬とは対照的な甲冑姿の巨人。前者が風なら、こちらは大地そのもの。それぞれ毛色は違えど、ユオルの琴線に頼もしく触れている。
だからと言って、シルヴァに無理をさせるのは本望ではない。
(――)
躍る心を一呼吸で裡に秘し、ユオルは冷静にメスを構えた。
指の合間から垣間見るだけでも、隠神刑部の圧倒的劣勢が知れる。
(心の籠った甘いガトーショコラを食べちゃったしねぇ)
敏捷性に欠けるとか、変化の術が甘いとか、そういう具体的な衰えはないが、とにかく覇気が足りない。加えて、一手に専心できかねている。
ちら、とユオルは視線を巡らせた。緩急をつけて走る二人組の仕事ぶりが、実にいい塩梅だ。
(まあ。甘い日を迎えるために、心残りはさっさと片付けないとねぇ)
そう間を置かずして戦いは決する。
抱いた確信に、ユオルは片膝を浮かせた。同時に、大巨人が指を開く。以心伝心みたいだ。
――乙女の恋心をいいように使った罪は重いですわよ。
――ユオル様、お仕置きをしてあげてくださいな。
「うん、まかせて」
聞えた気がする|妖精《シルヴァ》の声に、ユオルは守護の繭を勢いよく飛び出す。
「次から次へとウザイんだよお!」
一拍遅れてユオルを見止めた隠神刑部が火の息を吹くと、赤く輝く軌跡が化けタヌキの輪郭を形作る。しかしそれらが顕現し終えるより、ユオルの策が成る方が早い。
「キミにはどこまで見えるかなぁ」
「こんな子供だまし、屁でもないわ!」
シルヴァの影に潜ませていた千手の影が、一斉に奔り、隠神刑部に絡みつく。動きを完全に封じる必要はない。メスの閃く疾さで、ユオルが隠神刑部の懐まで跳べたら十分だ。
「悪い子には……お仕置きが必要だ」
ふわり。漂う雲の軽さで隠神刑部の間合へ降り立ち、ひらりとメスを薙ぎ。そのままユオル自身は不可視の霧を纏う。
「――な!?」
慄いた隠神刑部が何を視るのかは誰も知らない。ただ言えるのは、ユオルの霧は隠神刑部を確かに幻惑した。
故に、隠神刑部は軽やかな足音は聞けても、真っ直ぐに駆けるララの姿を視認できない。
「お前が元凶だったのね」
本当にたぬきね、と子供の純粋さで呟き、ララは極上の微笑を満面に刷く。
「ねえ、お前はたぬこよりも化け上手なの?」
問えども応えは不要。この瞬間に正気付き、何かに化けて逃げようとしても、甘いチョコレートの余韻が、ララに隠神刑部を正しく認識させ続ける。
(とてもとても、素敵な香り)
祝も呪も交錯する――蕩けるような感情が、甘くて苦くて、美味しくて楽しいバレンタイン。一年で一番、とびきりな一日をなくしてしまおうとするなんて。
言語道断の所業に、ララは稚く笑む。
「わるいこにはお仕置きよ――一緒に花一匁、しましょう?」
たおやかに咲くあかい花一華の鮮やかさでララは至り、窕――金のテーブルナイフを振り下ろす。
「っいってえええ!」
斬。視得ずとも感じる気配を掴もうとしていた、青く灯る隠神刑部の指が、長い三本まとめて堕ちる。
「お前から、甘くて苦いチョコの香りがするのは、いただけないわ」
窕に乗せた全力に身を任せ、ララは中空でくるりと内側にひるがえった。そうして放つ桜禍の迦楼羅炎は、羽化する雛の翼の如く。
「全部、ぜんぶ。焼き尽くしてあげるわ」
ふふ、と唇では弧を描き。銀災――銀のフォークで目を抉る。
「乙女の心を利用する、なんて。許せないものね」
「ぎゃああああああ!!!」
「うおおおおお、お!」
ララの囁き、隠神刑部の悲鳴。そこに共鳴ったのは、佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)の気勢。
●“おねえさん”にも流行り廃りがあるらしいあゝ|無常《無情》
『おっしゃ任された!』
たぬこの根性に奮起したところまではいい。
けれど橙子は簒奪者との戦いに関しては若葉マーク付き。ちゃんと√能力を使うのも初めてだ。
とは言え、|踏んだ場数《人生経験》はそれなり。
(とりあえず得物があればなんとかなるっしょ)
「うおおおおお、お!」
斯くして橙子、猪突に爆進。
ちなみに得物は両の拳に装着した鉄製卒塔婆。指を通すところがついていて、グリップ力も最強。余人の目にはきっと刃のついたメリケンサックに映っている。色んな意味でつよい。
そんな橙子にも気掛かりはあった。隠神刑部が何に化けるか、だ。
(あたしじゃ”あの子”をしばけない――)
脳裏を過る姿に、橙子の表情が一瞬だけシリアスになる。でも、一瞬は一瞬。
(なら、化ける前に叩けば――って)
「どいつもこいつも、甘く見るんじゃねえええ!!」
「えええ待って待って。そんなにすぐ化けちゃうの!? 意地悪!!!」
満身創痍の隠神刑部、意地の奮起。持ち直した橙子、焦燥。
(何に化ける?!)
分からない。“あの子”でなけりゃ、何でもいい。いや、希望ならいっこだけある。
「どうせなら、“おねえさん”に化けてよ!」
橙子、闇雲に訴えた。
したらば、どろん。
「……ぇ」
ご丁寧な煙の演出。その霞の向こうで像を結ぶ輪郭に、橙子は呆気にととられた。
長襦袢に薄衣。大きく開いた襟足がとても艶やか。そんでもって、出るとこ出てて、ひっこんでるとこはひっこんでるないすばでぃ。
しどけなく寝そべる様は、確かに色っぽい。色っぽい――んだけど。
「悩殺されるがよいわあ!」
「残念! 時代が違う!!! お前どんだけ寝てたんだよ! 云うて今、令和よ!」
ぐーぱん、どん。ざっくり。
「ふぎゃあああ」
卒塔婆左フックに喉を抉られた美女が大いに仰け反る。
「詰めが、甘ぇんだよ!!」
「うごふう」
続いた卒塔婆右フックに太鼓腹を穿たれ、艶やか美女が白目を剥く。橙子の喧嘩殺法、おそるべし。
「でもねぇ……目のやり場にはちょっと困るのは事実だよね――」
「うわあ!?」
前のめりになっていた橙子、すぐ背後で聞こえた声にびくんと肩を跳ねさせた。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
|混沌《カオス》に乗じて間合いを詰めていた|空沢《からさわ》・|黒曜《こくよう》(輪る平坦な現在・h00050)はちゃんと詫びる。
なれど黒曜の意識は、しっかり好機を捉えて離さない。
(小さい姿に変わられると厳しいとは思ってたけど)
かなりな化け上手だと警戒していた。必要あれば大振りなフェイントで、隙を作ることだって考えていた。
だが、現実はこれである。
(バレンタインデーってすごいな)
鈍重なツルハシを左腕一本で担ぎ上げる。荒い呼吸を肩でする妖艶な女と目が合った。無意識に視線を逸らしたくなるのを、黒曜はぐっと堪える。
甘いチョコレートを食まされた時点で、隠神刑部は飲まれたのだ。期待と不安が入り混じる、ふわふわと浮き足立つ2月14日の空気に。それに巻き込まれ、足元を掬われたくはない。
(たぬこさんが信じてやってくれたんだ。大人として、信頼には応えないとダメだよね)
「ちょっとごめんね」
黒曜が、卒塔婆の拳を固めたままの橙子の前へ出る。
ツルハシは頭上。手首に感じる重量で、尖った側の狙いを後退る美女へ定めた。
「老獪な狸の悪行はここで埋め直し」
「ひぃっ……ひ?」
襲い来る鉄槌を予感し、女は顔の前で両腕を交差させる。が、来るはずの衝撃は訪れない。覚えた不審に僅かに視界を広げると、爪の長い手が腰の肩のあたりにぺたりと触れていた。
「さっさと倒して本命に届けにいかないと、ね――なべて世はこともなく、平坦な戦場を巡るように」
「「「あ」」」
いくつかの声が驚嘆を唱和する。内のひとつは、間違いなく隠神刑部。だって自分の意思に関係なく変身が解けた。
「√能力の無効化か――っ」
「ご明察」
触れた右掌で思惑を成した黒曜は、今度こそとツルハシを振り下ろす。
岩をも穿つ鋭い切っ先が、隠神刑部が咄嗟に引き寄せた徳利を破砕し、残る勢いでタヌキの眉間を血飛沫かせる。
きれいに「「あ」」と二人揃ってはもった直後、|野分《のわけ》・|時雨《しぐれ》(初嵐・h00536)の肩が少しだけ落ちたのを、並走する緇・カナト(hellhound・h02325)は見逃さない。
「ああいうのが時雨君のタイプだった?」
「そこはのーこめんとで。でも、カナトさんだって気になりませんでした?」
踏み込みの隙を伺う間にも変わる戦況。ぼんやりと見学していたわけではないが、それにしたって目まぐるしい。
「だって、えっちなおねえさんですよ、えっちなおねえさん。カナトさん好みの年上強気のお姉さんの爆誕ですよ」
「それまだひっぱるんだ?」
牛と狼、足並みを揃えて駆ける。周囲が拓けたおかげで、障りは少ない。それに五月蠅く走れば走るほど、隠神刑部も対峙する相手に集中しきれなくなる。
「そりゃあ、まあ」
「帰りにまた|甘味処《パーラー》に寄ってく?」
「カナトさんがパフェ以外を召し上がるんなら」
他愛ない会話に戯れ、時雨は喉を鳴らす。そして婀娜っぽさの欠片もない丸いフォルムの背中を見た。
「まーこんなこと考えるので――未だ悟るに能わず」
|複製・縛日羅《バジラ》。
発動させた√能力に、時雨の手元に十基の|金剛杭《プルパ》が召喚される。目上と恩人、異性には礼節を尽くす|性質《タチ》ゆえ、隠神刑部が『おねえさん』でいる間はカナトに|お任せ《・・・》のつもりでいたが、もう遠慮は欠片も要らない。
「カナトさん」
「はいはい」
攻勢に転じるために機動力を犠牲にした時雨を、カナトは置き去りにする。
速度はそのまま。変えるのは体の軸だけ。急旋回の矛先は、隠神刑部の鼻先。
「!」
血止めの手の隙間から覗く目が、ぎょろりと動いた。
(――ここ)
ひたと見据えられたのを膚で感じた刹那、カナトは|咆哮《ウルフヘズナル》を上げる。
「――、」
ガウッ、と。実に獣らしい遠吠えをひとつ。途端、隠神刑部の身体が恐怖に硬直した。
「縛り上げるには、ちょうどいい大きさだよ」
軽薄に嘯き、カナトは虚空から伸びた鎖を手繰り、化けダヌキを縛り上げる。
「今なら飛んでくる武器の的になり放題〜」
「カナトさん、ネタ晴らしはやめてくださいよ」
戯れはそのままに、時雨の|金剛杭《プルパ》が動けぬ的を背後から襲う。
「あ、あ、あ、あ、あ、」
命中力に懸念がある分、一打一打は痛烈。全身を揺さぶる衝撃に、隠神刑部が壊れた機械人形のように苦痛を吐く。
そこへカナトは真正面から獣爪化した腕を見舞う。
「壺攫い猫チャンかと思っていたら、実行犯は小狸チャンだったようで〜――とは言え」
一撃目は頬へ。
「いたいけな女の子の気持ちを、弄ぶなんてよくないなァ」
流す二撃目は腹へ。
「ヒトの恋路を邪魔するヤツは〜」
返しての三撃目は、顎を真下から捕らえる。
「人狼と牛鬼の妖怪にでもお仕置きされてみるかい?」
「恋路を邪魔するものは狼や牛ではなく、馬に蹴られるのでは? 野暮ですね。黙りま~す!」
繋がるカナトの連撃の四に、隠神刑部の身体が大きく傾いだ。倒れないのは、未だ縛られ続けるがゆえ。おかげで時雨は楽々と|金剛杭《プルパ》を撃つ。
「甘々な思い出に苦味があっても良いでしょう。しかし古狸の出汁なぞ無粋」
六つ、七つ、八つ、九つ。
全てを心臓の真裏に当てた時雨は、最後の一を茶色い脳天へ差し向ける。
「甘い季節に、古いアクは掬って捨てなければ」
十基目を喰らって目を回す隠神刑部へ、カナトは爪を翻す。
(イイよねぇ初恋だったり、甘いのも酸っぱいのも)
生きていれば、様々な感情を得るものだ。
「オレさ。|それ《他者》を食いモノにするヤツが嫌いなんだよねェ」
どの口で言うんだか。
己が悪食を知るカナトは内心で己を嗤い、隠神刑部の頭に刺さった|金剛杭《プルパ》をさらに押し込むように、痛烈な一撃を浴びせかける――。
●ばちばちふらいんぐばれんたいんばっちん
「くそ、くそ、こなくそめがああ!!!」
無数の礫が宙を漂う。所々に混ざった鋭利な角は、割れた徳利の欠片。
もうそれくらいしか隠神刑部の神通力の通じる得物はない。
(あーあ、おっちゃんもかわいそに――いや、ちいともかわいそやないけど)
すっかり出来上がっていた惨状に、舞い戻った邏傳は舌を巻き、いつも通りのゆるさで笑った。
|馴染みの顔が二つ《時雨とカナトが》、盛大に暴れている。ならば続かぬ手はない。
「して。刻は来た……てぇね⭐︎」
とととっと駆け寄り、邏傳はもがき暴れる隠神刑部へ妖力時計をえいやっと突き出す。そしておもむろに、コツン。
――|ハロー♪《ぽっぽー》、|ハロー♪《ぽっぽー》、|ハロー♪《ぽっぽー》
妖力時計から飛び出した|🐦《ポッポちゃん》の鳴き声は、ほぼほぼ絶叫。
「はあ!?」
「その反応、よおわかるう!」
すさまじい大音量に、隠神刑部が無事な片目を剥く。
「|🐦《ポッポちゃん》には俺も今だにビビるもん。な、|🏺《つぼティーヌ》?」
――|ハロー♪《ぽっぽー》、|ハロー♪《ぽっぽー》、|ハロー♪《ぽっぽー》
おばちゃん達を凌ぐかしましさを|🐦《ポッポちゃん》が披露し続ける最中、邏傳は|🏺《つぼティーヌ》をころんと転がす。
「は?」
直後、質量保存の法則が崩壊した。邏傳が抱えていた|🏺《つぼティーヌ》に、頭だけ残して隠神刑部が吸い込まれたのだ。
「つぼティ、さすが♡ そのままゴロゴロコースター☆フルバージョンお見舞いしちゃりー!」
|🏺《つぼティーヌ》は不思議道具。摩訶不思議な事態が起こすのも不可能ではない。斯くて|🏺《つぼティーヌ》、しっかり隠神刑部を捕らえたまま、右へごろごろ、左へごろごろ、もひとつごろごろごろんごろん。
「ああああああああ」
哀れ隠神刑部、目を回す。あと|🏺《つぼティーヌ》の中で遠心力にみっちみちにされてる。しかし仕上げはここから。
「今日の|🧪《エレンちゃん》の気分は水色で〜渦の剣で参りまーす♡」
グッとしたらビュンッとしてバシュッってなる|🗡️《詠唱錬成剣》が|🧪《エレンちゃん》。ついでに変身上手な|🧪《エレンちゃん》。
その|🧪《エレンちゃん》が転じた奔流を邏傳は構え、フルスイングをぶちかます。真芯を捕らえるのは、ここぞとばかりに|🏺《つぼティーヌ》に|発射《吐き出》された隠神刑部。
「――水流に呑まれて沈めよ、なぁ?」
「ウボゴボガボゴヴォぶふふううう」
低く聞こえた気のする声を、波に飲まれた悲痛が掻き消す。
けれど隠神刑部の悲運は終わらない。
「ヨッ大将! 素敵なバレンタインチョコもらえたってのに随分と湿気た顔してんじゃん」
「うぶぶぶ、うっ」
濡れネズミならぬ濡れタヌキの、惰性の回転がひたりと止まる。ブーツの鋭角な爪先でそれを為した|一文字《いちもんじ》・|伽藍《がらん》(|Q《クイックシルバー》・h01774)は、ピアスの光る舌を覗かせ磊落に笑う。
「たぬこちゃんにいっぱい食わされた? ガハハハ知ってる!」
爪先についた滴を一蹴りで散り飛ばし、伽藍が仁王立って隠神刑部を見下ろす。
「人様の恋心を悪事に利用しようなんて――ワルいこと考えるからそうなんだよ」
ぞわり。
背筋を撫でた怖気に、隠神刑部の全身が泡立つ。変わらず伽藍は笑顔のまま。だがとてつもなく悪い予感がしていた。いや、これまでも十分に“悪い”目に遭ってはいるが。
「なっ――」
余力に乏しい化けダヌキが尻でじりりと後退る。その襟首を伽藍は強引に|捕まえた《・・・・》。
「ね〜大将」
片手を当てた腰を大きく折って、伽藍は自分の影を隠神刑部へ落とす。暗がりに、辛うじて生を繋いでいる片目が怯える。
「アタシの好きなお菓子でさ、食べると口ン中でパチパチ弾ける綿飴があんだけどさ。そゆ感じの、ちょっと刺激的なやつはいかが?」
「……」
むぐっと口を噤む隠神刑部の頬を、伽藍はむんずと掴んだ。
「綿飴みたいに甘くなんてないし、眩暈がするほどバチバチするけど」
不格好に開いた口が、絵に描いたタコを彷彿させて、伽藍はまた声に出して笑い――蒼天を閉じ込めたような双眸を眇める。
「アタシからのバレンタインプレゼントだぞ♡ 受け取り拒否なんてしないよね♡」
するり。
アオヒトデに似た伽藍の|護霊《クイックシルバー》が姿を細い糸へと変えて、隠神刑部の口へと忍び入った。
流れを察し慌てて吐き出そうとする隠神刑部の口を、伽藍は今度はぎゅむりと閉ざす。そして――。
「クイックシルバー、【きらきら星】!」
「!!!!!」
バチリと弾ける衝撃と、襲い来た眩暈に、隠神刑部が身を仰け反らせた。
「あはははは!」
伽藍が手を離すと、隠神刑部が地に倒れ込む。ようやく解放された口は、はあはあと荒い呼吸を繰り返した。
そこを目掛け、伽藍は鉄釘をばらばらと落とす。
「甘いものばっかりは体に悪いから鉄分もあげちゃう」
「、!、!、!、!、い゛い゛がげん゛に゛じや゛がっ゛れ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!」
たっぷり一ダースの釘を食まされた隠神刑部が跳ね起きる。だらりと開いた口からは、血とよだれが溢れる。
が、それらが地面へ滴る前に、玻縷霞は広く展開したオーラの防御ではねのけた。
封じられてきた古妖だ。抗えぬ|終い《再封印》に、何を置き土産にするか知れない。さきほどの血やよだれも、おそらく配下を招く触媒。
「往生際が悪いです」
伽藍を追い越した先、今にも崩れ落ちそうな隠神刑部まであと一歩のところで、玻縷霞は駆けるのを止め、右足を軸に左脚を閃かす。
(言葉は時に人を傷付けることがありますが。その逆も然り、癒したり奮わせることもある)
鞭のように撓る蹴撃に、隠神刑部は悲鳴さえ忘れて地面の褥に逆戻る。
(向けられた言葉は苦しかったのだと思います)
反撃の暇は与えない。今度こそ、と力無き獣の腕に玻縷霞は手錠をかけた。その上で、固めた拳を叩き入れる。
「解決するのは暴力です、と言いましたでしょう?」
顔に、腹に、肩に、腕に。届く範囲を玻縷霞は拳で蜂の巣にする。
徐々に隠神刑部の輪郭が霞む。形を保てず、消え去り逝くのは要石という奈落。
疾うに声など発せない隠神刑部の最期は、恨めしさを露にした眼。
断末魔さえなく、隠神刑部は形を失くす。静寂が戻った神域の森に残されたのは、茜色の黄昏時。
その時、誰かが獣道を分け入る。
鳴りを潜めた騒乱の音に、きっと勝利を確信したのだろう。
(ですが、今此処にいるのは何かを乗り越えた証拠)
ついた埃を払いながら、玻縷霞はゆっくりと振り返る。見えたフォルムは案の定のもふもふ。
「たぬこさん、貴女は変われましたか?」
●はっぴーばれんたいん!
量産した四角いチョコは、形の悪い順から兄たちへくれてやった。
あれはきっと母チャンの説教を喰らった後だ。寝ぐせみたいに乱れた毛並は、思い出すだけでも胸がすく。ざまあみろ。でもって、鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔で受け取ったオレのチョコを、せいぜいありがたがりやがれ。
大将が消えた町に、今年もちゃんとバレンタインデーが来た。
正直かなりほっとした。けど、どうやって礼をしたもんかと悩む。
帰っていったあの人たちが、またいつかこの町に来てくれたらいいんだけど。その時の為に、オレはせっせとチョコを作る。そっちで頭がいっぱいだから、初恋なんて忘れちまった。
何よりあの人たちの方が百倍、千倍、万倍、イケてた。
「はい、おばちゃん」
「どうしたの、たぬこちゃん」
「ハッピーバレンタイン!」
2025年2月14日。
学び舎での授業を終えたたぬこは、|甘味処《パーラー》と割烹料理屋を順に訪ねてチョコを渡す。
世話になった|マダム《おばちゃん》達へも同様に。そして町を逍遥する最中、小路にみつけた蛍光色の足跡に腹を叩いて笑う。
「オレも大人にならねぇとな!」
背伸びを欲するのはまだまだ子供の証拠。けれど一つの騒動を経たたぬこの背筋は、これまでになく凛と伸びていた。