シナリオ

一夏一働

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シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

 ヒトコナサソウ。
 その名を初めて聞いた時、シンシア・ウォーカーは洒落の利いた屋号だと思った。
 人が来なさそう。
「ですが、今年はアルバイトを募集するほど繁盛しているのですよね」
 迎えの軽トラックに乗りながら、神隠祇・境華は手にした募集チラシを見直す。
「ええ、頑張らなくてはいけませんね」
「あ」
 窓の向こうに青い海が見えた瞬間、シンシアは身を乗り出した。
「境華さん、海です! 海の家もあります! いよいよリゾートらしくなってまいりました!」

 ――ところが。
 騒いでいる内に車は海沿いの道を外れ、家々の並ぶ通りへ入った。
 海が見えなくなる。
 さらに坂を上り、雑木林を抜ける。
「あら?」
「海は、あちらの方角でしょうか」
「見えませんね?」
「建物がありますから……」
 その後道を二つ抜け、更に林に入り。
 辿り着いた火常菜咲荘は、古いが手入れの行き届いた木造二階建てだった。
 軒先には風鈴、玄関脇には朝顔。古いながらもどこか温かみのある佇まいだ。
 だが、海は見えなかった。
 潮騒も聞こえなかった。
 聞こえるのはうるさいぐらいの蝉の声だけである。
「折角リゾートにいるのに! 壁何枚か越しに海はそこにあるのに……!」
 到着早々、シンシアは玄関先で悲嘆に暮れた。
 境華は少し困ったように眉を下げ、その肩をそっと撫でる。
「お仕事が終われば、海を見に行くこともできますから……」
「本当ですか?」
「海は逃げないと思います」
「では海に会うため、全力で働きましょう!」
 立ち直りが早い。
 それはシンシアの美点であり、境華が安心できる明るさでもあった。



 火常菜咲荘で働き始めて三日も経つと、二人は仕事の流れを掴み始めていた。
 境華はマニュアルを一度読めば、決められた作業を丁寧にこなす。
 布団を畳み、浴衣とタオルを回収する。畳の目に沿って掃除機をかけ、座卓の位置を整え、新しい茶菓子を並べる。手順のある仕事は境華と相性がよかった。
 一方、シンシアは押し入れの前で布団と戦っている。
「どうして、ここに入っていたものが同じ場所へ戻らないのでしょう」
「空気を抜きながら畳むそうです」
「先ほどより大きくなっている気がします」
「布団は成長しませんよ」
 シンシアは掛け布団を押し入れへ押し込み、襖を閉めようとする。
 布団は反発した。
 襖が開く。
 もう一度閉める。
 また開く。
「手強いですね」
「畳み方の問題だと思います」
「この布団とは、今後も長い戦いになりそうです」
 境華は小さく笑い、シンシアの隣へしゃがんだ。
「こちらの端を先に折ってください。それから、二人で押しましょう」
「さすが境華さん。冒険には頼もしい仲間が必要ですね」
「客室清掃ですが」
 二人で押し込めば布団はあっさり収まった。
 不得意な作業もある反面、シンシアは意外なほど手先が器用だ。
 浴衣のほつれを見つければ手早く縫い、帯が傷んでいれば綺麗に整える。調理補助へ入れば魚を捌き、野菜を均等に切り、彩りまで考えて小鉢を盛りつけた。
「シンシアさんはとても手際がよいですね」
「旅先では自炊も多いですから。食べたいものは自分で作るに限ります」
「普段の雑務は、インビジブルの方々へお願いすることも多いと聞きましたが」
「料理と雑務は別です」
「お皿洗いは?」
「雑務です」
 その日の昼のまかないには、鯛のあら煮と茄子の揚げ浸し、きゅうりの酢の物が出た。
 火常菜咲荘の主人、火常マサは厨房から顔だけを出し、恐縮したように頭を下げる。
「どうもどうも、毎日こき使ってしまって……魚は今朝、知り合いの漁師からもらったものでして」
 シンシアは挨拶もそこそこにあら煮を一口。
 しっかり味の染みた身がほろりと骨から外れる。生姜の香りと魚の旨味が、白米によく合った。
 銀の瞳が見開かれる。
「マサさん」
「は、はい」
「この民宿は、もっと料理を前面に出すべきです」
「そうですかねえ」
「海まで多少遠くとも、外観が少々年季を重ねていようとも、この煮つけは宿泊する理由になります」
「そこまで言ってもらえると、ありがたいですねえ」
「少なくとも私は、滞在中の献立をすべて確認する義務が生じました」
「食べたいだけでは……」
 境華が小声で呟く。そこへカナコが、白米の入ったおひつを抱えて飛んできた。
「ほら、もっと沢山どうぞぉ」
「いただきます!」
「では、私も」

 接客では二人の得意分野が逆転した。
 境華は言葉遣いも立ち居振る舞いも丁寧だったが、予想外の事態には弱い。
 その日は予約時刻より一時間も早く到着した男性客が、まだ清掃中の部屋へ入れろと言い出した。
「外は暑いんだよ。こっちは金を払ってるんだから、すぐ案内してくれない?」
「申し訳ありません。まだ前のお客様が退出されたばかりで、清掃が終わっておりませんので……」
「そんなことはそっちの都合だろ」
「ロビーで冷たいお茶をご用意しますので、もう少しだけ、」
「だから、待ちたくないって言ってるんだよ!」
 強い声を向けられ、境華の言葉が止まる。
 マニュアル通りの説明をしても相手は聞こうとしない。繰り返すほど声が大きくなり、境華は次の言葉を見失った。
 金の瞳がわずかに伏せられた時、その斜め前へシンシアが滑り込んだ。
「お待たせして申し訳ございません」
 シンシアは柔らかく微笑んだ。
「ただいま、一番涼しいお部屋を特別に念入りに整えているところです」
「特別に?」
「ええ。早く来てくださった方へ、掃除途中のお部屋をお渡しするわけにはまいりませんでしょう?」
 男性客が少し黙る。シンシアはその隙を逃さなかった。
「あと15分ほどいただければ、冷房をよく利かせた状態でご案内できます。また――日本酒がお好きと予約票にありましたので、よければ先に夕食のお酒を先にお選びになりませんか?」
「地酒、あるの?」
「もちろん。私も味見をしたいと思っておりました」
「お前が飲むのかよ」
 客は呆れたように言い、ようやく笑った。
 そのまま自然と冷たいお茶を出し、好みの酒を聞き出し、ロビーへ案内する。

 境華は廊下の隅でシンシアを呼び止めた。
「シンシアさん。ありがとうございました」
「どういたしまして」
「一度言葉に詰まったら、何を言えばよいのか分からなくなってしまって……」
「同じ説明を聞いていただけない時は、別の入口から話すとよいかもしれません」
「別の入口?」
「あの方は、お部屋よりも、自分が歓迎されていないように感じたことが嫌だったのでしょう。ですから、待たされているのではなく、大事に準備されているのだとお伝えしました」
 境華は少し考え、静かに頷いた。
「言葉だけでなく、何を求めているのかを考えるのですね」
「もっとも、単に機嫌が悪いだけの方もおります。その時は、真面目に受け止めすぎないことです」
 シンシアは人差し指を立てた。
「理不尽な言葉に傷つくことは、勤務内容に含まれておりません」
「はい。覚えておきます」
「困った時は私を呼んでください。境華さんを守るのは、友達の役目ですから」
「ありがとうございます。ですが……」
「ですが?」
「シンシアさんが布団に負けている時は、私が助けますね」
「なんと頼もしい」
 境華は小さく笑った。
 午後には先ほどの客へ、落ち着いて烏賊の沖漬けを勧められた。翌朝「料理、うまかったよ」と言われ、境華の胸が少し温かくなる。

 けれど。
「海が見えません」
 五日目の午後、シンシアは廊下の窓から隣家の壁を眺めて呟いた。
「見えませんね」
「朝から客室、厨房、洗濯場、また客室。壁、壁、襖、壁。海は一体どこへ?」
「変わらず、壁の向こうですね」
「これほど近くにいながら、私たちは海と引き裂かれております」
「今日のお仕事が終われば見に行きましょう」
 シンシアが勢いよく振り向く。
「本当ですか?」
「はい。カナコさんに、夕食の片づけが終われば自由にしてよいと言われました」
「境華さん」
「はい」
「今日の私は、昨日までの二倍働けます」
「それはやろうとすれば普段からできるのでは……」



 二人が砂浜へたどり着いた頃、空は西の端に赤みを残していた。
 昼間の激しい暑さは和らぎ、潮風が汗ばんだ肌を撫でていく。遠くで海の家が片づけを始めているのが見えた。波打ち際には人影も少ない。
 シンシアは靴を脱ぐと、砂を踏みしめながら海へ駆け出した。
「海です! 本物です! 絵でも壁紙でもありません!」
「そこまで疑っていたのですか?」
 境華も草履を脱ぎ、裾を少し持ち上げて後を追う。
「暑いですし、足元くらいは海へ入ってしまいません?」
「あまりはしゃぐと転んでは大変ですよ」
「ご安心ください。数多の遺跡を踏破してきた私が、浅瀬で転ぶなど――」
 一歩。
 二歩。
 三歩目で、足元の砂が大きく沈んだ。
「あら?」
 引いていく波に足をさらわれ、シンシアの身体がぐらりと傾く。
「シンシアさん」
「これは少々、予定と異な――」
 次の波が来た。
「きゃあっ!」
 盛大な水飛沫を上げ、シンシアは浅瀬へ尻餅をついた。
 膝下だけ濡らすはずが、服の腰までしっかり海水に浸かっている。境華は慌てて近づいた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ。海との再会を、少々情熱的に祝ってしまいました」
 境華の唇から笑い声がこぼれた。
 すぐ口元を押さえたものの、濡れた金髪を頬へ貼りつけたまま、シンシアが平然と澄ましているのがおかしい。
 境華はまだ笑いながら、シンシアへ手を差し出す。
「お手をどうぞ」
「ありがとうございます」
 シンシアはその手を取り、立ち上がる。今度は無事に立てた。
「一人だけ濡れてしまいましたね」
「だからといって、私を引っ張らないでくださいね」
「先を読まれました」
「シンシアさんのことですから」

 砂浜でいくらか遊んだ後は、浜辺で買ったラムネを手に、並んで砂へ腰を下ろす。
「こうして、お仕事が終わってから来られるというのは……少し嬉しいですね」
 境華が両膝を抱えた。
「お仕事をしたあとだからでしょうか。来た日に車から見た時より、綺麗に思えます」
「長く待たされた分、再会の喜びが大きいのでしょう」
「お仕事も、思っていたより楽しかったです」
「私も楽しかったですね」
「シンシアさんも?」
「しかし、一人でしたら初日の布団で心が折れていたかもしれません」
「それほどですか?」
「恐るべき強敵でした」
 境華は少し笑ってから、照れたように海へ視線を戻した。

 辺りが青い闇に包まれ始めると、シンシアは持ってきた袋から手持ち花火を取り出す。
「こちらも忘れておりませんよ!」
「いつの間に買ったのですか?」
「労働者には、仕事の後の娯楽が必要ですから」
 砂の上へ水の入ったバケツを置き花火へ火をつけると、橙色の光が広がった。
 橙の灯に青、赤、緑が混ざる。
 境華の金の瞳へも弾ける光が映り込んだ。
 シンシアは火花を空中へ大きく花火を動かす。
「今、海と書きました!」
「……読むのは難しいですね」
 最後には線香花火が残った。
 シンシアは二本を取り出し、一本を境華へ差し出す。
「境華さん、線香花火勝負をしましょう。どちらが長く火を保っていられるか――」
「受けて立ちましょう」
 境華は静かに線香花火を受け取った。
「じっとしていることは得意です」
「私も古代遺跡で敵に見つからぬよう一晩息を潜めたことがありますよ」
 二人は並んでしゃがみ、火を移した。
 小さな火の玉からぱちぱちと細い火花が枝を伸ばす。
「勝負開始です」
「はい」

 波と虫の声の中、二人は真剣に火の玉を見つめる。
 三十秒、四十秒。まだどちらも落ちない。
「境華さん」
「何でしょう」
「お強いですね」
「シンシアさんも」
 その時、シンシアの鼻先へ小さな虫が飛んできた。
「……」
「シンシアさん?」
「動いてはならない時に限って、虫は顔へ来……」
 虫が鼻の頭へ止まる。
「我慢してください」
「ふ……ふぇっ……」
「シンシアさん」
「くしゅん!」

 あ、火の玉が落ちた。
「ああっ!」
 境華の線香花火は、まだ静かに燃えている。
「私の負けです……」
「勝ちました」
 境華は少しだけ得意そうに微笑む。
 その直後、最後の火が砂へ落ちた。
「もう一本ありますが」
「再戦しますか?」
「ええ、今度は虫の来ない場所で」



 花火を終え民宿へ戻ろうとしたところで、砂浜の入口から声が飛んできた。
「二人ともー! ちょっといいー!?」
 懐中電灯を振って走ってきたのは女将のカナコだ。
 その後ろには、海の家の主人らしき男性と、白い布を抱えた若者がいる。布の端からは、長い黒髪の鬘がはみ出していた。
「実はね、今夜から廃病院の周りで肝試しを始める予定だったんだけど、思ったより参加者が少なくて!」
「でしょうね」
 シンシアは即答した。
「海へ遊びに来て、何故わざわざ廃病院へ向かわなくてはならないのでしょう」
「本格的なら人が来るかなって思ったの。ちゃんと許可も取って、頑張って準備したのよ~!」
 廃病院は浜から十分ほどの林の中にあるらしい。
 外周を回って裏手の祠から札を取る道中で、窓の怪異や救急車、動く車椅子まで用意されているとか。
「予定を聞いた時点で、もう十分怖いのですが……」
 境華の顔から、花火の余韻が消えていた。
「お客様が少ないから、二人にサクラをお願いしたいの。楽しそうに入っていけば、他の人も行こうって思うでしょう?」
「ホラーは苦手ですけれど……お仕事であれば、仕方がありません」
 境華は暗い林へ目を向ける。
「シンシアさんは?」
「私は――」
 正直、大変行きたくない。
「こちらも、お給料が出るのでしょうか」
「夜間手当をつけるわよ!」
「参りましょう」
「シンシアさん」
「労働者は正当な対価に弱いものです」

 肝試しの受付には、既に大学生らしき三人組と家族連れが一組いた。
 サクラである二人は最初にコースへ入ることになる。
 受付台に置かれた注意事項の最後には、赤い字でこう書かれている。
『人数が増えていても振り返らないでください』
 受付の若者が懐中電灯を一本差し出した。
「途中で何があっても、コースを外れないでくださいね」
「結構本格的ですね」
「境華さん、私帰りたくなってきました」
「お給料……」
「参りましょう」

 錆びた門をくぐる。
 二人は建物の外周を進んだ。
 砂利を踏む音がする。
 二人分。
 後ろから来る大学生三人分。
 合わせて五人分。
 じゃり。
 じゃり。
 じゃり。
 じゃり。
 じゃり。
 じゃり。
「一つ多い気がします」
「数えてはいけません」
「注意事項には、人数が増えていても振り返るなと……」
「書いた方をあとで問い詰めましょう」
 後ろの大学生たちも、次第に静かになっていく。
「なあ、今六人いる?」
「誰か友達呼んだ?」
 シンシアは前だけを見る。淑女は振り返らない。
 建物の角へ近づいた時、二階の窓から白い顔が覗いた。
「――っ!」
 境華が息を呑み、シンシアの腕へしがみつく。
 長い黒髪に血の気のない頬。片方だけ大きく開いた目。
「仕掛けです」
 シンシアは言った。
「おそらく人形でしょう」
 言った瞬間、白い顔がにたりと笑う。
「……に、人形が笑いました」
「ひ、人、でしたかね?」
 窓が勢いよく閉まり、直後、建物の中を何かが走る音がした。
 二人は自然と歩調を速めた。二人どころか、後ろの大学生も自然と足が速くなっていた。

 建物の裏手にまでくると、古い救急車が一台停まっている。
「ここは……中に誰かいる感じですかね?」
 言葉にした瞬間、後部扉がばんと開いた。
「う~お~~!!」
 分かりやすい幽霊メイクをした白衣姿の若者が飛び出す。
 シンシアは一歩前へ出て、境華を庇うように腕を広げた。
「出ましたね! ですが想定内です! どうぞ次の集団にお願いします!」
 白衣の若者が戸惑う。
「え、はい」
「返事をしました」
「……ちゃんと予定にあった人ですね」
 安心した境華が、シンシアの腕から離れようとする。
 瞬間。
 救急車の中からもう一本、青白い腕が伸びた。
 手は白衣の若者の足首を掴む。
「え?」
 若者が振り返った。
「ちょ、なにこ――ぎゃああああ!」
 仕掛け役本人が叫び、足を振りほどいて逃げていく。
 境華は再びシンシアの腕へ飛びついた。
「シンシアさんっ! い、今のは! 予定にない方です!」
「皆さん、走って!!」
 もはやサクラどころではなかった。五人は一斉に駆け出す。足音が七人分にも八人分になった気がしたが、もう誰も数えない。
 裏庭には目的地である小さな祠がある。ここにきた証明の札を境華が取ると、知らない誰かの代わりにシンシアが境華の手を取る。
「あとは出口ですね!」
「はい。一緒に!」
 正門の明かりはもうすぐそこ。
 安心した、その時。
 背後から、からからと車輪の音が聞こえた。
 車椅子が誰も乗せずに砂利道を走ってくる。
 二人は手を繋いだまま駆け出した。
 後方では大学生たちも全力で走っている。
「待って、先に行かないで!」
「置いてかないで!」
「こちらにも余裕がありません!」

 正門を飛び出した瞬間、ゴーーーール!という声が後ろの大学生とシンシアの口から漏れた。
「おかえりー! どうだった?」
 カナコが明るく尋ねた。
 シンシアは息を整え、乱れた髪を直し、淑女らしく胸を張った。
「とても本格的でした。二度と入りたくありませんが、演出は一流です!」
「シンシアさん、褒めているのか断っているのか……」
「両方です!」
 境華が後ろを振り返ると、車椅子はぴたりと止まっていた。
 まるで何事もありませんでしたよという顔で、そこにある。
「車椅子、すごかったでしょ?」
 海の家の主人が得意そうに笑う。
「紐で引っ張ってるんだよ」
「では、救急車の中の腕も?」
「腕?」
「二階の窓にいた方は?」
「え? あそこは床が抜けてるから、誰も入れてないぞ」

 沈黙。

 海風が受付の旗を揺らした。
 シンシアと境華は顔を見合わせる。
「境華さん」
「はい」
「今夜は一人で眠れそうですか?」
「……難しいかもしれません」
「私もです」



 そして、瞬く間に最終日がやってきた。
「本当に助かったわー! またいつでも来てね!」
「大したお構いもできませんで……」
「いえ、毎日たいへん美味しいものをいただきました」
 シンシアは真剣に言った。
「特に四日目の鯵の南蛮漬けと、昨夜の鱧の天ぷらは素晴らしかったです」
「全部覚えてるんですか」
「食の記憶は、旅の記憶ですから」
 帰りの軽トラックが民宿を離れる。
 窓の外で火常菜咲荘が小さくなり、曲がり角の向こうへ消えた。
「いやあ、色々ありましたね……」
 シンシアは座席へ身体を預け、隣の境華へ顔を向ける。
「境華さんと一緒に働けて、楽しかったです!」
 境華の金の瞳が柔らかく細められた。
「私もとっても楽しかったです。シンシアさんのおかげですね」
 知らなかった作業。知らなかった人。マニュアルには載っていない言葉。
 誰かを迎え、喜んでもらうための、小さな心配り。
「失敗しても、怖いことがあっても、シンシアさんと一緒だと、最後には楽しかったと思えました」
 シンシアは一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。
「それは、私も同じですよ」
 軽トラックが海沿いの道へ出た。
 建物の向こうから青い海が現れる。朝の陽光に照らされ、波がきらきらと輝いていた。
「あっ、でも海は普通に見たかったです。リゾートアルバイトと聞いて、勤務中に一度も海が見えないとは思いませんでした」
「砂浜では十分に楽しんだでしょう?」
「勤務時間外です」
 シンシアは人差し指を立てる。
「次に来る時は、お客さんとして来ましょう。ご飯も美味しいですし!」
「はい。今度はお仕事ではなく、リゾートを楽しみに来ましょう」
「朝から海で遊び、昼にはお魚をいただき、夕方は花火をして、夜はゆっくりお酒を――」
「肝試しは?」
「行きません」
「そうですよね」
「絶対に行きません!」
 最後に二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。

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