ベリー・ソーダに乾杯
●紙水晶の彩
館の窓から差し込む八月のひかりはしろいレースのカーテンに濾され、淡いきんいろの粉となって室内へ舞い込んでいた。
今日は神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)とラウレンティア・バイエリ・ウラノメトリア(巡星図をえがいて・h09471)の誕生日を祝う日。
ふたりの誕生日は少し離れているけれど、近しい日には変わりない。
同い年の少女が三人。生まれた日も、育った場所も、見てきたものだってそれぞれ違う。それでも今は同じ館に暮らして同じ食卓を囲み、楽しいときには同じ場所で笑っている。それならばせっかくなら二人まとめてとびきり楽しい日にしてしまえばいいと、架間・透空(天駆翔姫・h07138)は思い――至って仕舞えば行動に起こさずにはいられなかったのだ。
始まりは、少し前に開いた作戦会議だった。
「境華さんとレン、もうすぐお誕生日でしょう?」
そう切り出した透空に、ふたりは鏡合わせの姿でぱちりと目を瞬かせた。
「でしたら、お祝いをしませんか?」
「お祝いって……私たちの?」
透空は当然のことのように頷いて、えへんと胸を張って見せる。
「はい! せっかくですから、いっぱい食べて、お喋りして……最後にとびっきりのケーキを食べましょう!」
最初こそふたりはきょとんとしていたものの、すぐに頷いてくれたことが嬉しかった。
そして迎えた今日。
透空は朝から忙しなく動き回っていた。買い物を済ませて料理を並べ、飲み物を用意しては菓子を皿に移す。最後には、誰にも見つからないようにケーキを冷蔵庫へこっそりとしまい込んだ。
ケーキを買った店は、駅前にあるすこし背伸びした洋菓子店。
箱を受け取った瞬間から、店員から手渡された白い紙袋を見て透空は胸の奥が擽ったくなるような気持ちが抑えられないままでいた。ふたりが喜んでくれたらいい。その想いだけが、胸の奥でちいさなともしびのように燃えている。
そうして完成した部屋の中は、普段の館の様相とはすこしだけ違って見えた。
テーブルには色とりどりの料理が並んでいる。サンドイッチに使った焼きたてのように香ばしいパン。彩り豊かなサラダ、肉料理に温かなスープ。果物を使った涼やかなゼリーやひとくちサイズの焼き菓子まで、食卓の上にはちいさな祝祭がひしめいていた。
窓際にはささやかな花も飾ってある。派手すぎることはないけれど、ひとつひとつに透空の手が入っていることだけは、見ればすぐに分かった。ぎんいろの瞳を細めながら、透空は最後の皿を置いた。
「……よし!」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その声には、任務を終えたときよりも確かな達成感があった。
ほどなくして、境華とラウレンティアが部屋へやってくる。いっぱいの料理やスイーツに、少女たちはそれぞれの感嘆を上げながら目を輝かせた。
「これ全部透空が用意したの!? すごいわ!」
あおい瞳がテーブルの端から端までを忙しなく追っていく。けれど、彼女の胸を動かしたのは料理の数だけではない。これだけのものを透空が自分たちのために用意してくれた、その事実が何よりも嬉しかった。
「こんなに用意してくださったのですか?」
きんいろの瞳にも驚きが滲んでいる。それぞれの驚き方の違いを見て、そのちぐはぐさが新しいよろこびを連れてくるものだから、ついつい笑みが浮かんでしまう。
「はい。今日はお二人のお祝いですから!」
透空は嬉しそうに答えるとふたりを席へと促した。
「どうぞ座ってください。今日は境華さんとレンが主役ですよ」
境華は席につきながらも、どこか落ち着かない様子だった。
普段なら自分から何かを手伝う側なのだろう。
祝われるという行為そのものが嫌なわけではない。むしろ嬉しい。ただ、自分が何かをしてもらう側に固定されると手持ち無沙汰な心がそわそわと動き出してしまう。しばらくして――案の定、彼女は口を開いた。
「何か、お手伝いした方が良いことはありませんか?」
「あははっ! ありませんよ。今日は私にどーんと任せてください!」
透空が笑えば、境華はすこしだけ困ったように目を伏せた。そんな彼女へ、ラウレンティアが助け船を出す。
「こんなに透空が楽しそうにしてるんだもの。折角だし、一緒に待ちましょ」
境華はまだ少しそわそわしていたけれど、隣からの言葉にようやく肩の力を抜いた。
「今日は祝われる日なんだから、遠慮しなくていいのよ」
「では……今日は、お言葉に甘えますね」
「はい!」
透空は満足そうに頷いた――ところが、その直後。
「あ、すごい、あれ駅前のケーキ屋さんの箱……!」
「……あ! ちょっと、レンっ。まだ秘密!」
透空が慌てて冷蔵庫を閉める。
冷蔵庫の扉をすこしだけ開けたとき、しろい箱が見えてしまったのだろう。
「秘密って言われたら余計気になるじゃない」
「だめだよ、あとのお楽しみなんだから!」
ラウレンティアは頬を膨らませたものの、どこか楽しそうだった。境華もそんなふたりの仲睦まじい様子を見てくすりと笑う。
三人が席につく。グラスに飲み物を注ぐと、淡い色のベリー・ソーダがひかりを受けて透き通り――乾杯の音が、ちいさく鳴る。
それは大仰な祝宴の始まりを告げる鐘ではなかったけれど、三人にとってはそれだけで十分だった。
食事の合間には、最近あった出来事を話した。
館で起きたちいさな騒ぎのこと。街へ出かけたときに見つけた気になるお店のこと、これから行ってみたい場所のこと。境華は本の話になると、いつものようにすこしだけ饒舌になった。面白かった物語の筋について話し始めると、その瞳の奥に別の景色が灯る。ラウレンティアはそれを楽しそうに聞き、ときどき大胆な感想を差し挟む。透空はそんなふたりの間で笑っていた。
三人で話すことは、どうしてこんなにも楽しいのだろう。特別な事件が起きるわけでもなく、誰かが奇跡を起こすわけでもない。ただ食べて、話して、笑う。それだけなのに、胸の奥に温かなあかりがひとつずつ増えていくようだった。
「んー、おいしっ。これ本当に透空が一人で作ったんだ!」
「へへっ、頑張ったんだからね」
そう答える透空の声には、抑えきれない誇らしさが混じっていた。境華もその言葉に頷いて、料理をひとつずつ大切に味わっている。ひとくちごとにその表情がゆっくりと和らいでいく。その変化を見ているだけで透空の胸も温かくなった。
やがて境華が、隣のラウレンティアへ視線を向ける。
「レンさんも、お誕生日おめでとうございます」
その言葉にラウレンティアは一瞬目を瞬かせ、すこしだけ頬をあかくする。
「……ありがとう! 境華もおめでとっ。今年一年、いい年になるといいわね」
「はい。お二人とも、おめでとうございます!」
透空も改めて言葉を添える。その直後にラウレンティアはあかく染まった耳元を隠すように俯いた。
嬉しさというものはときどき人を困らせる。胸いっぱいになったものを、どう言葉にすればいいのか分からなくなるからだ。ラウレンティアにとって、友達に誕生日を祝ってもらうのは初めてだった。料理が美味しくて、ともだちが笑っている。自分の誕生日を覚えていてくれる。それだけのことが、冬の夜に差し込んだ朝のひかりのように、胸の裡へ静かに染み込んでいく。
「レン?」
透空が覗き込む。境華も、すこしだけ案じるようにラウレンティアを伺った。
「なんでもないわ。……ちょっと、嬉しかっただけ」
「ふふ」
ふたりはそれ以上追及せず、ただ嬉しそうに笑った。
食事が進むにつれて、テーブルの上の料理は少しずつ減っていった。やがて透空が飲み物を取りに席を立った短い時間に。境華は隣へすこしだけ身を寄せる。
「……レンさん。透空さんのお誕生日の時は、今度は私たちで何か考えませんか?」
ラウレンティアはぱちりと目を見開いた。
それから、秘密の相談をするように声を落とす。
「……もちろん! 祝われるだけじゃ不公平だものね。盛大に、心を込めてやりたいわ!」
境華は慌てて人差し指を唇へ当て、しい、と声をさらにひそめた。
「透空さんに聞こえてしまいます」
「あっ。……も、もちろん分かってるわよ!」
少女たちは顔を見合わせ、ほとんど同時に笑い合う。まだ何をするのかも決まっていないけれど、ふたりの胸にはもう新しい約束が芽吹いていた。
今度は自分たちが透空を笑顔にする番だ。
その瞬間――彼女は一体、どんな顔をするのだろうか?
「何か楽しそうですね?」
「なんでもないわ!」
慌てて声を上げたラウレンティアに倣って、境華もにこりと微笑む。
「はい。なんでもありません」
「そうですか?」
透空は首を傾げたものの、ふたりが楽しそうなのでそれ以上は尋ねなかった。
時間はゆっくりと流れていった。
外では蝉が鳴いている。夏の空はどこまでもあおく澄んでいる。けれど室内には三人の笑い声が満ちていて、外の暑ささえ遠い世界の出来事のようだった。
やがて料理もほとんどなくなったころ、透空は最後のお楽しみのために席を立つ。
「では……そろそろ、とっておきの時間です」
ふたりが顔を上げる。透空は冷蔵庫からしろい箱を取り出し、境華はその箱を見た途端に目を瞬かせた。
「じゃーんっ。ケーキです!」
箱を開く。
しろいクリームの上には色鮮やかな果物が飾られ、中央にはふたりの名前を記したチョコレートのプレートが置かれている。蝋燭も二本。その光景を見た瞬間、ラウレンティアの瞳が星を散らしたようにきらきらと輝いた。
「これ、確かすごく高いのに……。そこまでしてくれるの、嬉しい!」
透空は笑う。
「お二人に喜んでもらえるなら、私はそれが一番嬉しいです」
境華はケーキをじっと見つめていた。
自分のために用意されたもの。自分の誕生日を祝うために、誰かが時間を使ってくれたこと。その事実が何度考えても不思議で、それ以上に嬉しかった。
カーテンが閉められ、部屋の明かりが落とされる。二本の蝋燭に火を灯せば、ちいさな炎が暗くなった室内で揺れていた。それは夜空に浮かぶ星のよう。透空はふたりの前で手を合わせ、ゆっくりとバースデーソングを歌い始める。
歌が終わって、『せえの』で蝋燭を吹き消すと、細い煙がくるりと渦を巻いて天井へ昇っていった。
ラウレンティアはしばらく俯いていた。やがて顔を上げると、あおい瞳が少しだけ潤んでいることに、少女たちは目を瞬かせた。
「私、ふたりに出会えて良かった。こんなに良くしてくれるなんて……ふふっ、透空の誕生日も盛大にやるからね。覚悟しててよね!」
「えへへ……はい! 楽しみにしています」
その言葉にラウレンティアは目を細めた。境華もバースデーソングにはすこしだけ照れくさそうにしながらも、嬉しそうにふたりを見詰めていた。
「ありがとうございます、透空さん。こうして一緒に過ごしていただけることが、一番嬉しいです」
「……私もです」
その言葉を聞いて、透空はほんのすこしだけ目を伏せた。ぎんいろの瞳が、蝋燭の残り火を映す。
「境華さんとレンと一緒に過ごせて、よかったです」
それ以上の言葉は必要なかった。
三人の間には、言葉にならないものがもうたくさんあったから。
友達という名前。一緒に暮らす時間。同じ食卓を囲んだ回数に、笑い合った記憶。それらが一枚ずつ重なって、三人だけの小さなアルバムを作っている。
透空はそうっとケーキを切り分けた。皿に載せられた白いクリームと果物は、午後のひかりの中で宝石のようにきらめいていた。
「美味しいですね」
「うん。すごく美味しい」
「本当に美味しいです」
幸福というものを味にするなら、きっとこういう味なのだろうと、ふと思った。派手ではないけれど、何度でも思い出したくなるあまさだった。
今日のこともまた、大切な一頁として覚えておきたいと思った。
境華は、今日という日を心の中へそっとしまった。蝉の声に、窓から差し込む夏のひかり。テーブルの上に並んだ料理。透空の笑顔に、ラウレンティアの嬉しそうな声。そのひとつひとつを、忘れないように。
物語を語る者にとって、記憶は大切なものだった。けれど今日の記憶は、誰かに伝えるためだけの物語ではなく、自分自身が何度でも読み返したい物語だったのだろう。それから――胸の片隅にはもうひとつ。先ほどレンとこっそり交わした、ちいさな秘密がある。
透空の誕生日に、自分たちから贈るお祝いのこと。
まだ何も決まっていない。これから考える時間さえ楽しみだった。
一方、ラウレンティアもケーキを頬張りながら、胸の奥にぽかぽかとした熱を感じていた。誰かに祝われること。自分のために時間を使ってくれること。それがこんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
目の前には境華がいて、その隣には透空がいる。ふたりとも自分にとって大切な友達だった。そして、自分もこのふたりにとって大切な友達でありたい。だからこそ、次は自分たちの番だ。
ラウレンティアはケーキを食べながら、ちらりと境華を見る。境華もこちらを見て――ほんの一瞬だけ視線が重なる。ふたりはどちらからともなく笑った。その笑みの意味を、透空はまだ知らない。
知らなくていい。今日だけは、ふたりが思いきり祝われる側でいてほしかった。
やがて午後のひかりはすこしずつ傾き、部屋の中へ長い影を作っていく。
それでも三人の時間は終わらない。
ケーキを食べ終えても、話したいことは尽きなかった。次に三人でどこへ行くか、何をしてみようか。秋になったらたくさんの色彩を探そう。冬には街中のひかりを集めに行こう。そんな未来の話をしながら、少女たちは笑い合った。
誕生日とは本来なら過ぎていく一日の単なる名称にしか過ぎないけれど、誰かが祝ってくれる瞬間にその日はただの『日々』ではなくなる。自分がここにいることを喜んでくれる人がいる。生まれてきた時間を、一緒に過ごしてくれる人がいることを知ることができる日になる。
いつか遠い未来に、この日のことを振り返る日が来るかもしれない。
あの日は暑かったね、ケーキが美味しかったね。透空が料理をたくさん作ってくれたねと、そんなふうに笑う日が。そのとき今日という日は、夏の午後の眩いひかりのように、記憶の底で静かに輝くのだろう。
三人でケーキを食べながら、ぽかぽかと胸が暖かくなるのを味わう。
そして、境華とこっそり話した『次の計画』も静かに動き出す。まだ誰も知らない、次の誕生日。まだふたりしか知り得ない、次のちいさな祝祭の物語。
透空がふたりのために灯した二本の蝋燭はもう消えてしまったけれど、その火が残した温もりまでは消えない。それは三人の胸の中へ、柔らかなあかりとして残っている。
少女たちは笑っていた。
たったそれだけのことが、どうしようもなく幸福だった。