恋結び
●昼想夜夢
学校から帰るころには、そらはもう薄暮の色を帯びていた。
夏の名残を含んだ風が街路樹の葉をひとひら、またひとひらと歩道へ落としている。西のそらには淡いあかねいろが僅かに残っていたが、それさえもやがて夜の深いあおいろに呑まれてゆくのだろう。人の営みが一日の終わりへ向かって静かに傾いてゆく時間だった。けれど常折・悠久(漂白・h13192)にとっては、学校から家へ帰るという行為そのものに然程意味を感じてはなかった。悠久にとって意味があるのはただひとつ。
帰れば、彼女がいてくれる。
たったそれだけ。それだけが、世界のすべてだった。
玄関の扉を開けるとまだ靴も脱ぎきらぬうちに鞄を放り出した。眼鏡の奥の薄墨の瞳には、学校にいる間にずっと押し込めていたものが堰を切ったように溢れている。誰かと話したことも、授業で何をしたかも。帰り道に見つけたちいさな花のことも、今はどうでもよかった。
早く会いたい。
焦燥とも衝動ともつかぬ感情を抱いたまま、足早に廊下を抜ける。廊下の先、柔らかなひかりの差す部屋に、薄墨の艶やかな髪が見えた。
彼女の名は常折・菖蒲(白夢・h13202)。
悠久が生まれるよりも前からこの家にいた座敷童だった。けれど、悠久が生まれたその瞬間まで彼女はまだ『菖蒲』ではなく――赤ん坊だった悠久が、たまたま伸ばしたてのひらで以って彼女に触れた――その瞬間、何もなかった『うつろ』に灯がともった。
それが自我だったのだと、菖蒲は後になって理解した。そして灯がともったその瞬間から彼女の世界の中心には愛する少年しか存在せず、うつくしい梔子の瞳にはたったひとりだけが映し出されていた。
「菖蒲ちゃんただいま! 会いたかったよ〜!」
その声を聞いた瞬間、菖蒲の胸の奥深くで錆び付いた歯車が静かに動き出す。
何度聞いても慣れない。何度聞いても、嬉しい。
悠久が『菖蒲ちゃん』と呼ぶたびに、自分がここにいる理由を、何度でも肯定されるような心地がする。菖蒲は嫋やかに微笑むと、ここがあなたの帰る場所なのだと告げるように両腕を広げた。
「悠久、おかえりなさい。おいで」
鞄を放置したまま駆け寄り、その胸へ迷うことなく飛び込んでいく。勢いを受け止めた菖蒲の身体は人の少女よりもずっと軽い。それでも、悠久にとっては、この世でいちばん確かな場所だった。
「今日ね、数学で先生に褒められたんだ」
「まあ。それは偉かったのね」
薄墨の髪が頬に触れる。生白い肌から、かすかに花のような香りがする。悠久はそのまま、しばらく動かないまま離れようとしなかった。
「でも途中で眠くなっちゃって。菖蒲ちゃんが隣にいたら、絶対寝てたと思う」
「それでは先生に叱られてしまうわ」
他愛無い話。自分の知らない外の世界のことなんて|知らない《知りたく無い》から興味がないはずなのに、それが彼の口から齎されるだけでこんなにも|憎らしい《愛おしい》。
「でも菖蒲ちゃんは起こしてくれるでしょ?」
「ええ。ちゃんと起こしてあげるわ」
やわらかく相槌を打ちながら、菖蒲は悠久の髪を撫でた。
大きくなったと思う。昔は、腕の中にすっぽり収まるほどちいさかったのに。
指を握ればそれだけで嬉しそうに笑った。熱を出せば、夜通し傍にいた。泣けば、どうすれば泣き止むのかも分からないまま、ただ抱きしめていた。
最初は親が子に向けるような愛情だったように思う。
自分の手に触れたちいさな命。その命が笑えば喜びを覚え、泣けば胸が痛んだ。
けれどいつからだったのだろう。その笑顔を、自分だけのものにしたいと思うようになったのは。他の誰かに向ける笑顔を見ると、胸の奥に名前のつかない痛みが生まれるようになったのは。
悠久が成長するにつれ、彼女の愛情は形を変えていった。
親愛から恋慕へ。
恋慕から、もっと、ずっと深いところへ。神ならざる人には理解し難いほどの静かで重い執着へ。想いが歪みを孕みながら色濃くなっていくことを、菖蒲自信が何より理解していた。
菖蒲ちゃん、と呼ぶ貴方が何よりも愛おしい。
貴方の世界に私だけがいればいいと思う――でも、貴方が日常を笑って話す姿も愛おしく思えるから、貴方にだけは言わないの。
「今度ね、かみさまの話を教えてくれるって人と賭けをすることになったよ」
嬉しそうに話すその声を聞いて、菖蒲はほんのわずかに目を伏せる。
まただ。
彼は最近、神に関する話を探している。書物を読み、古い記録を漁り、時には危うい賭けにまで手を伸ばす。その目的を菖蒲は知っている。
知っているからこそ怖い。そして、それと同じくらい、嬉しい。
自分と同じものになりたい。ずっと一緒にいたい。あの日、幼い悠久が泣きながら縋りついて言った言葉が、今も胸の奥に残っている。
人と神にも近しい存在である菖蒲は決して悠久と同じものとは言えない。人は余りにも早く老い、その短い生涯を終えてしまう。座敷童子である菖蒲は人の生とは異なる時間を生きる。その違いを理解した幼い悠久は、大粒の涙をこぼしながら菖蒲の服をちいさなてのひらで強く握った。
離れたくない。同じになりたい、絶対に離れない。
その瞬間に、菖蒲は初めて自分の中にあるものの大きさを知った。
嬉しかった。恐ろしいほど、狂おしいほどに。だからこそ、悠久が何かを求めて無茶をするたび、菖蒲は微笑みながらその手を取る。
「……ねえ、悠久。無茶なことはしないでほしいの」
柔らかな声音だった。まるで本当に心配しているだけのように。
――嘘、貴方が私のために無茶をするのが嬉しい。
「心配してくれてる?」
「もちろんよ」
「そっか」
それだけで悠久は本当に嬉しそうに笑うから。屈託のない笑顔を見て、菖蒲は自分の胸の奥に沈む昏い喜びをそっと見ないふりをした。
彼が自分のために危うい場所へ踏み込もうとすることが嬉しい。自分のために、人生そのものを賭けようとすることがどうしようもなく愛おしい。そんなことを、どうして口にできるだろう。
「私は今、貴方といるだけで幸せだから」
――嘘、貴方が諦めるなんて言ったら、私は手段を選ばない。
たとえそれが、悠久の意思を踏みにじることになったとしても。たとえ彼に恨まれることになったとしても。彼を失うくらいなら、神としての力を使ってでも彼を自分の隣へ引き戻すだろう。
それは果たして愛情なのか、恋慕なのか。それとも――もっと醜い何かなのか、菖蒲自身にも分からなかった。ただひとつだけ確かなことは、悠久がいない世界など世界そのものが意味を失うようなもの。だから彼女は笑っている。
「……菖蒲ちゃんは欲がなさすぎ、永遠に傍にいてくらい言ってよ」
悠久は少し拗ねたように唇を尖らせた。そんな顔を見て、菖蒲は微笑む。
「そんなことを言ったら、悠久は困ってしまうでしょう?」
「困らないよ」
「本当に?」
「本当」
返事に迷いはなかった。
悠久にとって永遠という言葉は恐ろしいものではない。それこそが望みだったから。
――僕は永遠に君の傍に。たとえ他の誰かがいたとしても、僕が一番近くにいれる立場になりたい。
少年の中でそれはすこしも異常なことではない。菖蒲が誰かに親切にすることも、家族と話すことも。学校へ行く自分の話を聞くことも、全部全部知っている。それでも自分が彼女の隣にいることだけは、揺るがないと心から信じている。
幼い頃からずっとそうだった。菖蒲だけが見えていた。世界にはたくさんの人がいると知ってからも、それだけはずっと変わらなかった。
他の人間はいてもいなくても構わないけれど、菖蒲は違う。
彼女だけが、世界の中心に居る。
「私はただ、毎日毎日、楽しく笑っている貴方を見ていたいわ」
「うん」
――私の隣で、私の隣だけで笑っている貴方を。
その言葉は、喉の奥に沈めた。代わりに菖蒲は悠久の頬へそうっと優しくてのひらを添えた。梔子の瞳が、じっと薄墨の瞳を見つめる。
「今日は疲れたでしょう。少し休みましょうか」
「膝枕してくれる?」
「ええ」
他愛無いやくそくひとつで悠久の顔がぱっと明るくなる。
少年は菖蒲の膝へ頭を預けた。柔らかな布地越しに伝わる温度が心地よいと思うのは、互いに同じ。身を預ける無防備な姿へ、菖蒲は悠久の髪をゆっくり撫でる。
この時間が好きだった。撫でられるままにされながら、菖蒲の髪へと軽く触れる。指先に薄墨の髪を絡ませると、絹糸のようにするりと滑る。菖蒲の髪に触れることは、悠久にとって幼い頃から変わらない癖だった。
「菖蒲ちゃんの髪、今日も綺麗」
「そう?」
「うん。ずっと触ってたい」
「……甘えん坊さんね。好きなだけどうぞ」
菖蒲は笑う。けれど、喜んでいるのはむしろ彼女のほうだった。こうして自分の膝に悠久がいる。目を閉じて自分の手に身を預けている。その事実だけで胸の奥があまく、あまく満たされていく。
「眠ってもいいのよ」
「寝たらもったいないよ」
「どうして?」
「菖蒲ちゃんといる時間なのに」
言葉が、胸の奥に静かに溶けていく。
――ああ。この子は、本当に。
「それなら、眠らないようにお話をしましょうか」
「何の話?」
「悠久が好きな話」
「じゃあ、菖蒲ちゃんの話がいい」
悠久は少しだけ身体を起こした。
「菖蒲ちゃんが僕に触れて、今の菖蒲ちゃんになったって話。何回聞いても好き」
「何度聞いても、同じ話よ?」
「それでも好き」
おねがい、と強請る声に菖蒲はくすりと微笑んだ。
自分の始まりを語ることは、悠久にとっても自分自身の始まりを聞くことだった。
自分が生まれた。菖蒲に触れて、菖蒲が目覚めた。そこからはずっと一緒にいる。悠久にとって、それは世界で最も幸福な物語だった。そして勿論、菖蒲にとっても。
「……不思議ね」
「何が?」
「貴方が生まれて、私に触れただけなのに。あれからずっと、貴方が私のすべてになってしまったわ」
「ふふ。僕たち両思いだね」
悠久が当たり前のことのように言うものだから、菖蒲は僅かに目を伏せた。
「ええ」
その一言には、いくつもの意味があった。
愛している。恋をしている。
離したくない。貴方だけでいい。
貴方にも、私だけでいてほしい。
けれど、そんな言葉を全部口にすれば悠久の世界を狭めてしまうかもしれない。だから菖蒲は彼が自分で選んだのだと思えるように、ほんのすこしだけ道を示す。
ふたりで出かけること。互いにだけ手紙を書くこと。他の誰にも見せないちいさな習慣を作ること。そして、時折――自分を選ぶという選択肢を、さりげなく差し出す。それが菖蒲にできる、精一杯の我慢だった。
「いつか絶対、君と同じになってみせるから」
その言葉には幼い頃から変わらない強さがあった。
「だから信じて。菖蒲ちゃんだけ、菖蒲ちゃんとだけ一緒にいたいんだ」
梔子の瞳が、静かに揺れる。
彼の言葉を聞くたびに、胸の奥で、想いがどんどん膨れ上がっていく。
愛されている。求められている、選ばれている。それは幸福だった。そして同時に、ひどくあまい毒のようでもあった。
もし、この子がいつか、自分以外の誰かを選んだら。
もし、永遠などいらないと言ったら。
もし、自分と同じになりたいという願いを捨てたら。
そのとき、自分はどうするのだろう。
否、答えはもうとっくに出たことだ。何としてでも隣に戻す。たとえ彼自身が望まなくても。事実を自覚しているからこそ、菖蒲は常と変わらぬ柔らかな空気を纏って笑う。
「……ええ。貴方のことだけを信じてるわ」
悠久は甘える仔犬のように微笑むと、菖蒲の膝へと頭を戻す。ことんと姿勢を変えた拍子に、あかい組紐で結ばれた左手がふたりのあいだに並んだ。
薬指と小指。
結婚指輪と、運命の赤い糸。
遠く、この永きいのちの果てまで、傍にいてくれることを結ぶ誓いの印。人ならざるものと、人の少年を結ぶにはあまりにもささやかな印だけれど、悠久はそれを見つめるだけで幸せだった。
窓の外では、夕暮れが終わりかけていた。
遠くで誰かの家の灯りがひとつ、またひとつと点いてゆく。人々はそれぞれの場所へ帰り、家族と食卓を囲んで今日という日を終えてゆく。そんなありふれた世界の片隅で、ふたりは寄り添い続けていた。
悠久は菖蒲の髪を指先で梳きながら静かに笑っている。菖蒲はその横顔をいとしげ見つめながら髪を撫でている。
互いに相手を愛している。そのことだけは疑う必要もない。だが、愛というものが必ずしも優しいだけの形をしているとは限らないことを、菖蒲だけは知っていた。
悠久はまだ知らない。
知らなくていい、と菖蒲は思う。
自分がどれほど彼を欲しているのか。どれほど深く彼の人生へ根を張っているのか。それを知らないまま、彼は笑っていればいい。
毎日、学校から帰ってきて。『ただいま』と言って。自分の腕の中へ帰ってきて。そうして、いつものように『菖蒲ちゃん』と呼んでくれればそれでいい。そんなことを思いながら、菖蒲は悠久の髪を撫で続ける。
やがて悠久が眠気に負けて目を閉じると、菖蒲はその寝顔を静かに見つめた。幼い頃から何度も見てきた顔だけれど、何度見ても飽きることはない。
自分の世界を目覚めさせた少年。
自分を『菖蒲』にしてくれた少年。
そして今、自分を愛している少年。
「おやすみなさい、悠久」
眠っている彼には届かないほどちいさな声だった。
窓の外で夜が深くなる。人の時間が静かに流れてゆく。その流れから取り残されたように、ふたりだけの時間がゆっくりと続いている。
いつか悠久が人ではなくなる日を、菖蒲は待っている。悠久もまた、その日を夢見ている。その願いが幸福なのか呪いなのかは、ふたりにはまだ分からない。ただひとつ確かなのは、あかい組紐が結ばれた二本の指が、互いの存在を確かめるようにそっと触れ合っていることだった。それは幼い約束、恋人同士の誓いのようで。或いは神が人を縛るための契約のようでもあった。
けれど今はただの日常。
学校から帰ってきた少年が愛するひとの膝で眠る。その髪をひとならざる少女が優しく撫でる、それだけの穏やかな夕暮れ。世界のどこかで鐘が鳴る。けれどふたりのいる部屋には、その音さえ届かない。
菖蒲は眠る悠久を見つめ、ほんの少しだけ微笑んだ。
――ずっと、ここにいればいい。
その願いを、言葉にはしなかった。
言わなくても、きっと彼はここへ帰ってくる。そう信じている。そして、もし彼がいつか迷ったとしても、そのときは自分が彼を見つければいい。
神である自分が。
彼のためだけに目覚めた、自分が。
何度でも、どこまでも。
己の隣へ連れ戻せばいい。
そんな仄暗い誓いを胸の奥へ隠したまま、菖蒲は今日も愛する少年の髪を優しく撫で続けていた。