届かぬ理想と偽りの救済
●空虚を埋める偽りの力
『特別』になりたい。
凡庸に埋もれるのではなく、他人には無い才能で認められたい。
大勢の中の一人ではなく、唯一無二の一人になりたい。
自己顕示欲、優越欲求、自己実現欲求。類似する表現は様々に在ろう。
それは人類にとって普遍的な感情だ。
一歩間違えれば、己の身すら滅ぼしかねない欲望の炎。
だがその感情があってこそ、人々は進歩し続けた。努力し、研鑽し、挫折と成就の果てに今の文明社会を形成する礎としたのだ。
だが、希代の天才などごく僅かだ。大半が時間の流れに埋もれ、『特別』になれないまま死んでいく。
「……これを打てば、私も異能力を手に入れられるのね……」
虚ろな目をした少女が、受け取った注射器の中身を食い入るように見つめていた。一見ありがちな無色透明の薬液だ。
少女には分らないが、その薬液には濃厚な呪詛が込められている。
人を怪異に変える呪い――生体情報を書き換える|生体改変毒《バイオハック》が。
注射器を渡した男が、整った顔に真剣な表情を浮かべた。
「この薬液には人間の潜在能力を覚醒させる力がある。嘘だと思うなら、打ってみるといい」
正常な思考ならば、いかにも怪しい注射など打たないだろう。
しかし、少女は既に正気を失っていた。
少女に注射器を渡した男……『心蝕の楔』ゼノが少女に見せた現実のような幻影が、彼女の心を病ませていた。
少女はひたすらに欲しているのだ。異能力を手にして、『家族を救いたい』と。
注射の針を自分の腕に刺した。
「う、ぁ……? か、体が……熱い……?」
少女の体が急速に膨れ上がる。肥大化した腕には無数の目玉が開き、足の大部分は触手と化した。少女は己の状況を誤認する。自分は異能を手に入れたのだと。
「あ、あは、アハハ……すごい、力が漲ってくる……! これで、コレ、デ、バケモノから、家族を助けられル……!」
高笑いする少女を眺めながら、ゼノは愉しげに双眸を細めた。
●侵蝕の悪夢
「元より才能や力を欲している人間に、『無力感を齎す悪夢』を見せる。そうして精神を侵したところで「特別な力をやる」と誘惑し、怪異化する薬を摂取させるのですよ」
|泉下・洸《せんか・ひろ》(片道切符・h01617)は、人間災厄――『心蝕の楔』ゼノの手口を淡々と語った。事件が起きているのは√汎神解剖機関の東京都内。多感な女子高生が一人、また一人と行方不明になっている。
「思春期の児童は多感ですからね。心を煽って利用しやすいからこそ、ゼノも彼女たちを標的にしているのでしょう」
下校途中の女子高生を、心を蝕む幻惑空間に強制転移させるらしい。まるで現実のような感覚と共に、彼女たちは悪夢に放り込まれる。
「大切な家族や友人が目の前で怪物に殺される悪夢……彼女たちは当然、誰一人救えません。幻惑空間はゼノの呪いの力で満たされています。呪いは悪夢を介して精神汚染を齎し、正常な判断力を失わせるのです」
こうして正気を失った女子高生は、自動的にゼノの居所へと再転移する。ゼノはただ待ち構えて、絶望した彼女たちに偽りの希望……怪異化の薬を与えるだけでいい。
彼の目的は何なのか? 一人のEDENが問うと、洸は薄く微笑んだ。
「目的などないですよ。彼はただ遊んでいるのです。暇潰しの感覚で、人間の負の感情を利用して……ね」
この悪辣を放置してはおけない。依頼の流れについて、洸は更に詳細を伝える。
「ゼノの居所には幻惑空間を通り抜けることで向かえます。幻惑空間に侵入する方法は調べてありますし、皆様がゼノに気付かれることはありません。この空間は|異物《EDEN》が混入しても、感知できない仕組みのようです」
だからといって、通り抜けるのが簡単というわけではない。
誰でも平等に受け入れるということは、誰に対しても『無力感を齎す悪夢』を見せるということだ。
「現実のような悪夢の中で、皆様は√能力を一切使えなくなります。何の力もない一般人と同じ状態になるのです」
幻惑空間の中で無力な存在になる。悪夢の内容は人によって様々だろう。
たとえば、自分自身が悪人に襲われる夢。大切な人が目の前で殺されてしまう夢。
ただ退屈な日常を過ごし、ゆっくりと心が死んでいく夢……。
「心を強く持ってやり過ごしてください。悪夢はいずれ終わります。くれぐれも夢に心を呑まれてしまわぬよう、気を付けてください」
一定時間が経過すれば幻惑空間からゼノの居所に転移する。それまで耐えるのだ。
怪異化した女子高生については、ゼノが『調整』の名目で傍に置いているようだ。
「気まぐれに人を襲わせて楽しむつもりなのでしょう。彼女たちとも戦うことになりますので、心の準備をしておいてください」
●幻惑空間へ
校舎裏の路地の隅。星詠みに指定された場所から、EDEN達は幻惑空間に侵入する。
すると、冷たい呪いの力が全身を包み込み、急速に体の熱を奪っていった。
熱が奪われると共に、体から大切な力が抜け落ちる感覚を覚える。
それは、√能力者としての力だ。
実際は夢であり現実ではないが、幻惑空間の中では『現実のように作用する』。
無力になったEDEN達へと、幻惑空間が生み出す悪夢が襲い来る……。
第1章 冒険 『幻惑空間』
●警官の日常
|桂木・伊澄《カツラギ イズミ》(|普通《・・》の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h07447)は『平凡』な夢の中にいる。
異能など持たない、ごく普通の一般人としての夢だ。
(産まれつきであろうこの魔眼とサイコメトリーの力……この力がなかったら俺は親に捨てられる事はなかったのか……)
これまで何度も考えた疑問だ。だが、所詮は今更である。
ありもしないifを考えたところで想像の域を出ず、答えなき問いはただ時間を消耗するだけだ。
そんな中で、今更の『夢』。相手の術中とはいえ、今更無力の一般人として過ごすことになろうとは。
(案外見えすぎたり物に触れても勝手に他人の記憶が流れて来ないのも楽なもんだ)
しかしこれが普通。これが大半の人なのだ。自分が外れ値だった――ただ、それだけのこと。
幻惑空間の中で、伊澄は同僚の警官と共に犯人の逮捕に向かっていた。
(俺はきっとこの力がなくても警官になっていただろう。だからこの夢はある意味で正しい)
犯人は母子を人質に取って民家に立て籠もっている。説得を続けているが、犯人の状態から見て人質の命が危うい。
『A班、突入準備完了』
無線から聞こえる同僚の声に伊澄は頷いた。
「こちらB班完了。裏口からいつでも行けます」
伊澄は自分の力を嫌っている。だからこそ、力に頼らずとも任務を行使できるよう鍛錬してきたつもりだ。
(多くの警官がそうしているように。俺も、そのように行動する。今出来うるすべてをもって警官としての任務を全うする)
伊澄の精神状態は普段と何も変わりない。
号令に合わせ突入する。二階に続く階段を上がり、犯人と人質がいる部屋に飛び込んだ。
「犯人確保!」
逮捕術を以て犯人を捕まえる。人質だった母子……子供の方は助かった。
だが、母親の方は――。
「おかあさん、おかあさん……!」
母親が、胸から血を流して倒れている。
(……ああ、これは悪夢だったな……)
子供の泣き叫ぶ声が頭に響き、伊澄は忌々しげに眉を寄せた。
●崩す
「……悪夢。いったいどんなものを見せられるのかわからねェけど、俺様は外道を生きてきた。ちょっとのコトじゃ揺らがねェよ」
トパーズ・ラシダス(|地呪珠《アースジェム》の|肉人形《フレッシュドール》・h03302)は、悪夢を待ち構える。
気付けば墓標群の中に彼はいた。夕日の中に、複数の人影が浮かび上がる。
夢の中だからだろうか。今まで殺してきた奴らの家族だとすぐに理解した。
「よくもあの子を殺したな! この殺人鬼が!」
「大切な家族をよくも!」
敵討ちだと武器を持つ人々に、トパーズは口角を上げる。
「へっ、そのお前らの家族とやらは、魔術師のババアによって兵器に改造された哀れな存在よ。俺様が殺してババアの束縛から解き放ってやったのさ」
「解放? お前のエゴだろう!」
「どんな姿でも、あの子は私にとって大切な家族だった!」
人々から伝わる悲しみがトパーズの心に染み込んだ。滲む悲哀の色が、彼を塗り替えようとする。
いっそのこと、仇として討たれてもいいかもしれない。
ふと考えて、すぐに否定した。
(……いや、駄目だ。俺には大切な妹がいるじゃないか。俺が死んだら誰があいつを守るんだ?)
殺人鬼、卑怯者、どんなに汚い言葉で罵られても、この血まみれの道を生きると自分で決めたじゃないか。
ダガーを手に取った。√能力が使えずとも、武器は振るえる。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない」
元より生体兵器の身。襲ってくる連中を、血塗れになりながら返り討ちにした。
最後の一人を殺したところで、背後に気配を感じる。
振り返ると少女が立っていた。茶色の髪の奥に、ピンクの瞳を大きく見開いて。
「なにを、してるの……?」
なぜ、ここに妹が。トパーズは言葉を失う。
「これ、は……」
悪夢が妹を視せている。わかっているのに、心が揺らいだ。
「この、人殺し」
妹の声がトパーズの胸に突き刺さる。
どんなに汚い言葉で罵られても、この道を生きると決めたのではなかったのか?
彼の耳元で、悪夢が愉しげに囁いた。
●手をつないで
幻惑空間は暗く冷たい。
空間に侵入した|和田・辰巳《わだ・たつみ》(ただの人間・h02649)は、体が冷える感覚に眉を寄せる。
「む……√能力が使えない……?」
いつものように√能力が発動しない。ただ、少し肌寒いだけで他に異常はなかった。
「この空間では……√能力が……使えないのですね……辰巳……他にお変わりは、ないですか?」
|四之宮・榴《シノミヤ・ザクロ》(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)が尋ねる。その声はいつもより元気がない。
「他はとくに何も。榴は……」
辰巳は頷きながら榴を見やり、すぐに明らかな変化に気付いた。
「けほっ……」
咳き込む榴はとんでもなく顔色が悪い。
「えっ、大丈夫!?」
「……嗚呼……D.E.P.A.S.としての……能力が……無くなると、生きることが……怪しくなってしまい、ます……僕は、無力で……|インビジブル達《彼ら》の力が……在ってこその、存在だから……」
目を丸くする辰巳に榴は弱々しく紡いだ。口から零れ落ちる血反吐をハンカチで拭う姿が痛ましい。
辰巳はすぐさま榴へと駆け寄った。
「こっちにおいで。僕が支えてあげる」
辰巳にとって√能力は手段の一つに過ぎず、奪われても健康を損なうことはない。
√能力を使えずとも頼もしい辰巳に、榴はそっと身を寄せた。
「ありがとう、ございます……」
「時間が経てば夢は終わるらしいけど……耐えられそう?」
尋ねる辰巳に、榴はこくりと頷いてみせる。
実際、虚弱な状態には在る意味慣れているのだ。かつてそうだったのだから当然ともいえる。
「……此の時間を唯々……耐えるのには、我慢は出来ますが……辰巳は……? ……大丈夫、ですか……?」
大丈夫だよ――辰巳がそう答えようとした瞬間、思考にノイズが掛かる。
意識が急速に悪夢に呑み込まれた。目の前にいたはずの榴が消え、違う光景が浮かび上がる。
――仲間たちが、辰巳に背を向けて立っていた。
『辰巳はここで待ってな。すぐに倒してくるよ』
『後ろは任せましたよ』
『俺たちを信じろ』
彼らは辰巳を置いて先に進もうとする。
このまま進めば、みんな死ぬ。辰巳は必死に彼らを引き止めようとした。
「待って!」
だが、仲間たちは止まらない。まるで辰巳のことなど眼中にないようだ。
(僕も強くなったよ、沢山力を付けてみんなの役に……)
追い縋ろうとした辰巳の手に、温かな手のひらが触れた。
「……辰巳?」
榴の声が届く。そっと添えられたぬくもりに、辰巳の意識が引き戻された。
「……ごめん、意識を持ってかれてた」
我に返った辰巳は苦い顔をする。榴を支えると言っておきながらこのザマだ。
榴は辰巳の苦しげな表情に、彼が視た悪夢を想う。
(きっと……内容は……聞かない方が……いい、ですよね……)
恐ろしい夢を見てしまったのだろう。……そんな悪夢は、すぐに忘れさせてあげたい。
榴は辰巳をまっすぐに見つめ、柔らかな声色で言葉を紡ぎ出す。
「……何処にも、行きませんよ……? ……だから……僕を……今だけは……助けて……下さい? ……僕らは|半身《・・》なのだから……助け合いましょう」
だから苦しまないで。今はただ、自分だけを見てほしい。
伝わる想いに、辰巳は榴の手を強く握り返した。互いにふれあった温度に肌寒さが和らいだ。
「うん。僕達は半身だもんね。お互い支え合って助けあおう」
吹き寄せる冷たい風も、二人一緒なら耐えられる。
「……温かい、ですね……」
「そうだね、辛かったら我慢せずに言うんだよ?」
辰巳は優しく告げる。
「はい……でも、きっと……大丈夫、です」
時々咳き込む榴だが、その表情は穏やかだ。
「……だって……僕は……貴方様が、居れば……何よりも救いになります、から……」
榴は柔らかに微笑む。彼女の温かな笑みに、辰巳の心に巣食っていた悪夢が溶かされ消えてゆく。
(……ちゃんと役に立てているんだな、僕は……)
自分は彼女の救いになれている。その事実が、悪夢から彼を遠ざけたのだ。
●炎
開かれた幻惑空間への扉は、ユウリ・スプリングス(暴食の姫・h13492)を容赦なく呑み込んだ。空間が幾重にも歪み、別の場所に転移させられている感覚を直に感じる。
「悪夢ね、さてどんなモノがくるのやら……」
ユウリが身構えた直後、全身に鋭い冷気が走った。
体の自由が利かない。いつの間にか胸元から下が凍り付き、逃げ出せないように固定されている。まるで作りかけの氷像のようだ。
「っ……冷たい……」
突き刺さるような冷たさに眉を寄せた。ユウリの他にも同様に凍り付いた人々が多数。その眼前では、何人もの冒険者と巨大な竜が戦っている。
竜が高らかに咆哮を上げた。瞳を煌々と輝かせ、ユウリの隣で囚われていた『誰か』の首を刎ねる。竜の瞳に宿る感情は愉悦だ。飛び散る血飛沫――青白く透明な氷塊に、夥しい鮮血が注がれた。
名を叫んだような気がする。それはノイズに掻き消され、ユウリの耳には届かない。
「酷い光景ね……」
衝撃的だが不思議と涙は出ない。まるで物語の中にいるような心地だ。
地面に転がる『誰か』の顔は、ぼやけてしまってよく見えなかった。
「きっと、これは私が失くした記憶の一欠片なんでしょうね……」
代償という名の泥土に埋もれた記憶……その一部が悪夢をきっかけに蘇ったのだろう。
私は一体誰を失ってしまったのだろう? いくら考えても、名前ひとつ思い出せない。
竜は次から次へと人を殺めていく。きっと最後にはユウリの番が来るだろう。
――心の底から『嫌だ』と思った。たとえいつか終わる悪夢でも、『この竜に殺されるのだけは御免だ』と。
「私は戦うって決めたから、こんな過去の幻に負けはしない」
一枚の写真を胸にユウリは前を向く。かつての仲間達と共に撮った思い出の写真だ。
覚悟を抱けば、動きを封じていた氷が融け始める。
「この想いを、必ず未来に持っていく……!」
熱い想いを抱き、ユウリは悪夢の中を進み始めた。
●オマージュ
果ての見えぬ暗黒の空が、赤の彩を滲ませながら燃えている。
「……嫌な色だ」
幻惑空間の中で、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は耐えるように唇を噛み締めた。
事前に聞いていたとはいえ、√能力が使えないという状況はやはり不安を齎す。
「自分が普段、どれだけ能力だよりなのか突き付けられた気分だ」
――√能力がなければ、お前はただの無力な人間に過ぎない。
耳元で悪夢が囁いた刹那、燃える空から無数の戦闘機械群が飛来する。
クラウスは機械が向かう方角へと目をやった。
視界に映り込む地獄は、彼にとって大切な人々が砲火を浴びて死にゆく光景だ。
両親、親友、学徒兵時代の友人。必死に逃げる者、戦おうとする者。誰もが等しく殺される。クラウスは誰一人助けられない。助けるための力を持ち合わせていない。
「……本当に、趣味が悪すぎる」
悪い夢であればいいと思う光景は、実在する悲劇から創られたノンフィクション。
最悪な作品には新たな脚色が加えられる。
欠落を得てから繋がりを得た友人や共犯者、愛する人。彼らはクラウスを守りながら戦闘機械群と対峙する。
『必ず、守るから』
愛する彼が穏やかに微笑んだ。直後その笑みが、血に染まる。
「……!」
クラウスは思わず名を叫びそうになるが、かろうじて堪えた。
「違う……これは現実じゃない……ただの夢だ……」
圧倒的な物量攻撃に消し飛んでゆく人々。最後に残されるのは、肉が焼ける香りと大地に塗られた赤色だけ。何ひとつできることは無い。目の前の出来事を止めることも、目を逸らすこともできない。
クラウスは胸元の首飾りを縋るように握りしめた。
(この苦痛に、呑まれてしまう訳にはいかない……!)
苦しい、辛い、悲しい。心が、引き裂かれてしまいそうだ。彼はただ悪夢が過ぎ去るまで耐え続ける。
こんな光景、悪夢でも見たくなかった。けれど願えば願うほど、悪夢は愉悦に嗤うのだ。
●虚像
何処からともなく吹き寄せる冷たい風が肌を撫でた。
呪いは幻惑空間の空気を介し、彼女たちの精神へと密やかに浸透する。
「悪夢を、耐える。……ヤグロがいなかったら無力なのは、いつものわたし。でも、少しずつ、変われた……はず」
|小弓・佐倉《コキュー・サグラ》(夜黒の椿・h08163)は気付いていない。悪夢の毒牙は既に、彼女にとって大切な存在へと喰い込んだ。
悪夢を耐える……どのような形なのでしょう。
|神隠祇・境華《かみおぎ きょうか》(金瞳の御伽守・h10121)は、そう口に出したつもりだった。
そして気付く。声にならず、実際は言葉を発しようとすらしていないと。
手を繋いで歩く小弓が、境華の手をやんわりと握り返す。
「それに……今は、境華ちゃんがいるから……一緒にがんばろうね」
だが、手に感じるぬくもりは消えた。境華が小弓の手を勝手に振り解いたのだ。
小弓は困惑する。そして、驚いたのは彼女だけではない。
(え……?)
境華も自分の行動を理解できずにいた。
「……境華ちゃん? どうしたの?」
小弓へと返された境華の言葉は、氷のように冷たいものであった。
『ここから先は、私一人で行きます』
自分の声なのに、自分のものではない。奇妙な感覚に境華は混乱する。
小弓も驚いて息を詰めた。たった今聞いたことが信じられない。
「なんで……、……ひとり、で?」
違う。一人で行くなんて、絶対に有り得ない。境華の想いに反して、いう事を聞かない体は冷たい瞳を小弓に向ける。
『何も出来ないのでしたら、ついて来られても困ります』
やめてと心が叫ぶ中、境華は一冊の本を手にした。
「その本、は……」
小弓がその本を見るのは初めてだ。しかし、それが何なのか、小弓はどういう訳か分かってしまう。
(……あれは「境華ちゃん」を示した“本”……)
――ベリッ。
容赦なく紙を裂く音が耳に届いた。
境華が本の頁を破り始めたのだ。小弓と重ねてきた物語の頁。友情で綴られた記録を、一枚ずつ破り捨てていく。
境華は必死に叫んだ。
(なんで、なんでこんなことを! どれも心から大切な頁なんです……!)
悲痛な声は届かず、頁を破く音が響くばかり。
小弓が渡した、小弓もいた頁。光に包まれていたはずの物語が、一枚、一枚、乾いた音を立てながら崩れていく。
「あ、ぁ……っ」
小弓は言葉を失った。冷たい眼差しを受けて、拙い頁は闇に消えていく。
『あなたの物語も、私には必要ありません』
冷淡に言い放つ境華の裏側で、境華が違うと否定した。否定は悪夢に呑まれ、残酷な虚像に変換される。
『この中に、あなたの意味はありませんから』
小弓がふるふると肩を震わせた。赤い瞳が大きく揺れる。
「――やだ、ごめんなさい、何もできないのに、望んで、隣にいたいなんて思ってごめんなさい、でも、がんばりたく、て……いらないって、意味がないって……境華ちゃんに、言われたくなかったの……!」
普段は変化に乏しい表情に、浮かぶそれは悲しみと恐怖。
小弓の表情と謝罪の声に、境華は胸が張り裂けてしまいそうだ。
やめて下さい……。
心からそう願うも、残酷な言葉を吐き出す。
『ですから、もう私の隣にいなくていいんですよ』
自分の言葉に貫かれた。もはや境華自身が悪夢そのものだ。
「わたし……わたしには……何の価値もない、よね……迷惑、だよね……」
これが悪夢だということも忘れ、小弓は独りで駆け出す。
(待って、行かないで!)
境華の本当の声は届かない。
「ごめんなさい……!」
小弓は遠くへと走り続け、やがて闇の奥に消えてしまった。
(これが悪夢だというのですか……?)
境華の心が揺らぐ。こんなものに耐えなければならないと?
悪夢はいずれ終わる。だが、心を挫かれた後にゼノと対峙することになれば、能力が戻ったとしても戦えるかどうか。
(小弓ちゃん……悪夢が終わったら、すぐに見つけてみせます……!)
悪夢によって裂かれた絆を、必ず取り戻す――。
●恐怖を越えて
踏み入れた幻惑の空間は太陽の光に満ち溢れ、色鮮やかな薔薇が咲き誇る。
この場所が何処なのか、|兎沢・深琴《とざわ・みこと》(星華夢想・h00008)はすぐに理解した。
――薔薇園。姉と義兄が事故に巻き込まれて亡くなった、あの場所だ。
(私がお姉ちゃんとお義兄さんに、行っておいでよと勧めたせいで……)
なんとなく察してはいたのだ。悪意が空間を支配しているならば、この舞台を選ぶだろうと。けれど、実際の悪夢は深琴の想定以上のものであった。
「なんで、お母さんにお父さん、それに咲月ちゃんがいるの……」
声が震える。とてつもなく嫌な予感がするのだ。
母と父、そして姪の咲月は、楽しそうに薔薇園を歩いている。
薔薇園の静けさを裂くように、大きな音が鳴り響いた。その音が何なのか深琴は即座に理解する。
(トラックのエンジン音……!)
暴走するトラックが、薔薇の生垣を突き破りながら園内に侵入した。トラックが大切な人達に迫る。姉の時と同じだ。あの時と同じ悲劇が起ころうとしている。
(助けなきゃ……!)
だが、護霊は何処にもおらず、√能力も使えない。当然だ――これはそういう夢なのだから。
トラックを退けるだけの力を何一つ持たない私に何ができる?
必死に考えて頭に浮かぶのは、駆け寄って突き飛ばすという行動。だが深琴の足は、地面に縫い付けられたように動かない。
「危ない! 逃げて……!」
ただ叫ぶことしかできなかった。そして、その声は当然のように届かない。
トラックが衝突する。母と父は撥ね飛ばされ、咲月はタイヤに轢かれて体を砕かれた。
大切な母と父、姉の忘れ形見である咲月が、目の前で無惨に轢き殺される。
(咲月ちゃんの未来を護ると誓ったのに、私が無力なせいで、今度は全員が……)
贖罪の機会すら奪われて、大切な人たちの凄惨な死を見ていることしか出来ない。これ以上ない悪夢に吐き気がした。
救急車のサイレンが鳴り響く隙間から、悪夢がそっと囁く。
――きっとお姉ちゃんなら、迷わず家族を助けようとしたのにね。
――ただの平凡で臆病な私は、危ないと叫ぶことしか出来ない。
それらの囁きはすべて深琴の心そのものだ。
「……そうよ。√能力がなければ、私はこんなにも無力なの」
耳を塞いで耐えようとしても、囁きは消えない。響く悲鳴は事故を目にした他人のものか、それとも深琴のものか。
耐え切れず目を逸らしても、瞼の裏には残酷な光景が浮かび上がった。美しい庭園に塗り込められた深い絶望が、薔薇を赤黒く染めてゆく。血を流して倒れている姿も、克明に焼き付いて離れない。
――お前は何も守れない。√能力があっても同じだ。また失うことになる。
大切な家族の骸が、虚ろな瞳で深琴を見つめていた。
「……残り続けるなら、それでもいいわ。こんな光景を絶対に現実にするわけにはいかない。その想いが揺るがないものになるだけよ」
呪いのような悪夢を、深琴は決意と共に強く振り払った。
●ひかりを受け取って
無力感なんて、ずっと味わっている。わざわざ悪夢を見せる空間に入らずとも、|史記守・陽《しきもり はる》(黎明・h04400)からその感情が消えることはない。
だからこそ何を見せられるのか最初から解っていた。恐怖は無い。蟠る感情は罪の意識と、かつての邂逅で抱いた怒りの炎だ。
血のように赤い夕焼けの向こうで、蜜のような金色の瞳が笑っている。
夢の中での邂逅はこれで何度目だっただろうか。父を殺した仇。陽の人生を強制的に作り変えた、最悪な運命の相手。
「会いたかったよ、シキくん」
宿敵は嬉しそうに紡いだ。現実の彼もきっと同じ反応をするだろう。
善悪の境界を知らない男は、慈悲深い微笑みを湛えていた。
「この世界は苦痛ばかりだ。法では裁けない悪、救えない可哀想な人々で溢れてる」
だから、俺が救わなきゃ。柔らかに語る先で、黒い影と共にナイフが鋭く踊る。
(あぁ、またこの光景だ)
陽は光の宿らぬ無力な右手を握り締めた。眼前の光景は、何度も悪夢に見た景色に似ている。
|救え《守れ》なかった原風景。大切な人を亡くしたあの日の――。
記憶の中の父が再び殺される。心臓をナイフが貫いて、鮮やかな血が滲み出す。
呑まれてはいけない。陽は思わず叫びそうになる口を噤んだ。治りきらない傷から発する激痛を耐え忍ぶように、悪夢をやり過ごそうとする。
父の遺体は無惨に転がったまま、宿敵は次なる標的を凶器に仕留めた。
「道を譲ってもらうよ。解ってもらえないのは残念だけど」
彼を止めようとする√能力者……陽の同僚たちが、次々とナイフの餌食になる。邪魔立てするなら殺すと言わないのが、ゾッとするほど彼らしい。
陽は同僚の名を呼ぼうとして、唇をぎゅっと噛み締めた。
(俺はただ、あの男に傷つけられるところを、あの日のように見ていることしかできない)
この空間では√能力が使えない。かつて目の前で父を殺された時のように、残酷な殺戮劇を見ているしかないのだ。陽が耐え続ける間にも、宿敵は己の善意と正義を疑わない様子で血飛沫を巻き起こした。
彼が陽を見つめる。人を殺しているとは思えない穏やかな顔で彼は語りかけた。
「シキくんは優しいね。そんなに苦しそうな顔をしなくてもいいのに」
口には出さずとも、表情には出てしまっていたらしい。
耐え難い苦痛。無力感から湧き出る罪の意識が、陽の精神を蝕もうとする。
やめてよ、俺ならいい。俺が代わるから――。
その言葉は、言ってはいけない。
紡いでしまえば、悪夢が織り成す宿敵は、満足げな笑みを浮かべて陽を殺すだろう。
(くそ、っ……)
胸が裂けそうなほどに苦しかった。護りたくても、庇いたくても、あの男の凶行を止めることはできない。あの男の影を打ち破る夜明けは、まるで朝が来ない常夜に閉ざされたように訪れない。
「……辛いよね。守りたいのに、何もできないなんて」
宿敵の幻が心の底から悲しげに言った。
陽は黙ってそれを受け止める。幻と話したって無駄だ。沈黙を肯定と受け止めて、幻のくせによく喋る男の口が弧を描いた。
「シキくんは、もう頑張らなくていいんだよ。何もできないなら、俺に任せておけばいい」
あの男は身勝手な善意を振りかざす。男の影が陽を闇へと誘うように伸びる。
(……また、あの男の好き勝手にさせるのか?)
陽は己自身に問いかけた。
(救えなかったら俺には何もない。だからもっと強くならなきゃいけない。ずっと、そうして走り続けてきた。弱い自分には存在価値はないんだともずっと思っていた……でも、弱くなんかないって教えてくれた人がいる)
だから、帰らなければ。待ってくれている人のために――。
鋭い眼差しで宿敵を睨む。その瞳には燃え滾る焔のような感情が込められていた。
「そろそろ黙ってください。幻なんかに……いえ、たとえ幻でなくても、任せるつもりは微塵もありません」
研がれた刃を想わせる言葉に、宿敵は「またフラれちゃった」と肩を竦めてみせた。
●望み
幻惑空間に繋がる扉が開く。中に入ろうとするリオル・プラーテ(|空《うつろ》の夢・h01411)の肩に、|πῦρ《ピユ》がちょこんと舞い降りた。ピユを肩に乗せ、リオルはふわふわの羽毛を優しく撫でる。
「ついてくるというからには、僕から離れるな。いいな?」
『ぴ!』
ピユに小さく頷いて、リオルは暗闇の中へと歩き出した。漆黒の闇はまるで|空《うつろ》のように、果てのない空間を広げている。頬を掠める冷たい風が、何処となく不穏な気配を想わせた。
「ピユ、寒くないか?」
『ぴっ!』
元気な声に安心しつつ、リオルは前方を注意深く見つめる。
「さて……どんな悪夢が来るのでしょうね」
視線の先、空間がぐにゃりと歪んだ。闇はカーテンのように揺らぎ、一人の男が姿を現す。その姿をリオルはよく知っていた。
(もう一人の……自分?)
己と違う点を挙げるなら、リオルは仮面を外していて、もう一人の彼は仮面を着けていることか。
彼は気味が悪いくらいににこやかな笑みを浮かべている。仮面の奥の瞳も、見透かしてくるようで気に入らない。
「……あなたは、誰ですか?」
心を覗き込まれているような気分だ。不快を隠さずに問うと、彼は柔らかに答える。
『僕はあなた自身ですよ、リオル・プラーテ。どうです? いつも振るっている力がないのは』
柔らかな言葉の裏には、隠しきれない刃が見え隠れしていた。
「……えぇ、最悪の気分です。それが何か?」
硬い声で返せば、もう一人の彼は語り続ける。リオルの周りを円を描くように、ゆったりと歩きながら。
『くすくす、でしょうね。昔、期待の星から一転、無能になった――なんて、周囲から言われたことがありましたっけ。勝手に期待して、勝手に失望して……いざ力を手にすれば、化物と迫害した。全く身勝手な人たちです』
「……そのようなことを延々と語って、何が狙いですか」
もう一人の彼の歩みがぴたりと止まる。仮面の奥の瞳が、妖しく光った。
『――本当は、欲しいものがあるのだろう?』
「欲しいもの? そんなもの、ありません」
リオルは即座に否定する。だが、もう一人の彼はその否定を否定した。
『いいや。……君が人を信じないのは、裏切られるのが……怖いから』
射抜くような眼差しは、冬空に瞬く星々の輝きのように冷たい。思わず息を詰めるリオルに、もう一人の彼は言葉の刃を刺し続ける。
『裏切られる前に、信用しないことにしたんだろう? そして、自分の心を欺き続けた。けれど、|心友《ブレイズ》と|友人《リルディ》、そしてピユを捨てきれなくなったんだ』
他人を信用しないリオルにも、心を寄せる相手がいる。だが、リオルから疑念の芽が完全に消えることはない。かつて二度と人を信じないと決意した。残酷な過去の傷跡が、彼の心を頑なに閉ざしている。
「それは……あいつらは勝手に絡んでくるし、勝手に信用してくるだけだ。ピユだって、卵を孵してしまったから、育てないと……」
だが、実際には変わり始めている。友に絆されている事実を認めたくないだけだ。
苦しい言い訳だ。悪夢が見せるもう一人の彼は、微笑みをより一層深めてみせた。
『じゃあここでもし彼らが死んだとしても、命を落とすのが今日だっただけ、だよね』
彼がパチンと指を鳴らす。強制的に呼び寄せたかのように、心友と友人が闇の中に転がり出た。刻の黒を輝かせながら、もう一人の彼は唱える。
『──踊れ、嗤え、僕の手中で』
時空の力を持つ弾丸が友人たちの心臓を貫いた。命を繋ぐ鼓動を停められた彼らが、壊れた人形のように倒れ伏す。
「っ! やめろ!」
リオルは必死に手を伸ばすも届かない。
肩でか細い鳴き声がした。ハッとして見やれば、既に息絶えた小鳥が闇へと落下する。ぬくもりが消えた肩口に、冷たい風が吹き寄せた。襲い来る喪失感に体が震える。
『口で言っておきながら、行動は矛盾している』
もう一人の彼に、リオルは何も言い返せない。
(悪夢だと分かっている。分かっているのに……)
力は使えず、左腕の紋様はただ痛みを訴えるだけ。まるで力を眼前の悪夢に奪われてしまったかのようだ。
悪夢も、何もできない自分も、心底憎らしい。
『あぁ、そうだ。――誰にも認められない弱い自分も、隠したかったんだよね?』
悪夢の終わりを強く願う中、もう一人の彼が思い付いたように口を開いた。
『あなたが、欲しいものは――』
彼が言い終えるより早く、耳元で大きな声が響いた。
『――ぴ!』
『リオル!!』
ハッと我に返る。声に掻き消されるように、眼前の悪夢が霧散した。もう一人の彼も友の遺体も消滅し、ただ暗闇だけが残されている。煩い声が聞こえた気がしたが、あの声はきっと心友の声だ。
「はぁ……あの馬鹿。けど……悪くはない、か」
リオルの肩ではピユが心配そうに鳴き声を上げていた。
「ああ、すまない……少し、悪い夢を見ていたんだ。先に進もうか」
肩のぬくもりに安堵して、リオルは幻惑空間を進み始める。再び悪夢と巡り合わぬようにと、心の底から願いながら。
第2章 集団戦 『怪異曝露者』
●
悪夢は終わりを告げ、EDEN達は幻惑空間からゼノがいる空間へと転移する。
巨大な地下空間のような場所だ。想定外の来訪者に、『心蝕の楔』ゼノは僅かに眉を寄せた。
「ほう、異物が混ざり込んでいたか。……まぁいい。試しに戦わせてみたいと思っていたところだ」
彼の周囲には汚染された元女子高生――『怪異曝露者』が侍っている。
彼女たちの五感は既に狂い、自分たちの異常を知覚できない。変質した肉体の力を異能力だと思い込んでいる。
「ほら、化け物の群れが来たぞ。手に入れた力を試してみるといい」
「化け物……! 倒さなきゃ……みんなを守るために……!」
彼女たちにはEDENが化け物に見えている。彼女たちは正常な人間を、『化け物』として認識してしまうのだ。化け物から大切な人を守ると息巻きながら、怪異曝露者となった彼女たちはEDENに襲い掛かる。
※通常どおり撃破すると怪異曝露者は死亡します。最終目標はゼノを倒すことなので、怪異曝露者の生死は気にしなくてOKです。
※どうにかして助けたいと行動するのは自由です。ただし、助けられる保証はありません。救助に失敗した場合も、戦闘の成否には影響しません。
●最善のために
少女達の姿を見つめ、|桂木・伊澄《カツラギ イズミ》(|普通《・・》の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h07447)は、拳を固く握り締める。
「これが……怪異曝露者か……悪夢を見せられ希望へ縋った成れの果て……」
見せられた悪夢を思い出す。たとえ夢であっても、あの苦い思いは忘れることはできない。自分でさえそうなのだ。まだ精神も未熟な少女達ではひとたまりもなかっただろう。
「それを利用するゼノ……、お前だけは絶対に許さない……!」
胸の奥に怒りの炎を滾らせた。これ以上、お前の好きにはさせない。そして少女達を救いたい――強い想いを重ね、√能力を発動する。
「これより|抑制行動《サプレッション》を開始する!」
|自動式拳銃《フルオートマチックピストル》から発砲し、迫る少女達の足元に撃ち込んだ。
「アッ、何!?」
「いける、今ノ私は戦えるモノ!」
少女達は一瞬足を止めるが、異形化した肉体任せに突き進む。
伊澄は彼女らを視界に確と捉えた。
「……魔眼、解放」
彼女達がその存在を知れば、間違いなく欲しがるであろう本物の異能――蒼の魔眼が、鋭い眼光を放つ。強烈な拘束の力が働き、少女達は今度こそ動きを止めた。触手も魔眼の力に縛られて、歪に引き攣るだけだ。
制圧するなら今だ。
伊澄はチャンスを逃さない。少女へと接近し、動きが鈍い触手を強引に掴み取った。
ゼノを倒せば元に戻るのか分からない。抑制だってどこまで出来るか分からない。
(――しかし戻れる可能性があるのなら! より良い未来に、俺は賭ける!)
少女の体が空中で回転する。
「グァ……!?」
少女は伊澄に背負い投げられ、床に激しく体を打ち付けた。行動不能になった彼女へと、伊澄は優しく告げる。
「しばらく大人しくしていてくれ。絶対に、元に戻す方法を見つけ出す」
すぐに顔を上げ、未だ暴れ回る少女達を見やった。
「俺は過ぎてしまった事は諦念の想いで受け入れるが……これからの事は案外諦めが悪くてね」
少女達の未来を取り戻すため、伊澄は再び魔眼を輝かせた。
●救いの炎
眼前に蠢く異形の群れ。それは悪夢に心を砕かれ、偽りの希望に毒された少女たちだ。
悪夢の中で抱いた無力感を振り切って、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は少女たちを真っ直ぐ見据える。
「俺たちは化け物じゃないよ」
少女たちはクラウスの声を、化け物の声として認識しているに違いない。
伝わらないと知りながら、それでも彼は呼びかける。決して無駄だとは思わない。僅かな可能性だっていい。声が正しく届く可能性に賭けたい。
(彼女たちは純粋な被害者だ。どうにかして殺さなくてもいい手段を選びたいけれど……)
少女たちが放つノイズを避けながら接近する。彼女らは怪異化した部位に頼りきりで戦闘慣れしていない。元々平凡な女子高生だったのだ。動きが素人なのは当然だろう。
ゼノの調整が間に合っていないのか。否――きっと何の力も持たない一般人相手なら、このレベルで十分に殺せる。
「……そんな悲劇が起きる前に、止めないと」
バトルグローブを装着した拳を握り締め、少女の鳩尾を強く殴打した。
「グウッ……!?」
少女は意識を失い床に崩れ落ちた。触手がもどかしげに蠢いている。元は少女の手足だったそれを見つめ、クラウスは考え込んだ。どうすれば助けられるのかなんてわからない。けれど、どうにかして助けたい。
(……あいつなら、こういう時にどうしたかな……)
|不死鳥の加護《フェニックスノカゴ》を展開した。抱く願いは『少女たちを元に戻したい』。
未だに彼に頼ってしまう自分――それを『弱さ』のように感じてしまうことはある。しかし、誰かを助ける未来に繋がるなら、その弱さだって価値があるはずだ。
輝く不死鳥が少女にとまる。異形化した部位が金色の炎に包まれ燃え落ちた先、灰の中から少女の手足が現れた。
「元に戻ってる……良かった……」
不安に強張っていたクラウスの表情がすっと和らぐ。不死鳥は次の少女を救うべく、誇らしげに翼を広げた。
●慈悲の一撃
嘘の希望に縋った少女達の成れの果てに、ユウリ・スプリングス(暴食の姫・h13492)は唇を噛み締めた。
ゼノに対する怒りが、沸々と腹の底から込み上げてくる。
(……あの野郎の顔に弾を思いきり撃ち込んでやりたいところだけど、今は抑えましょう)
ユウリを敵とみなし、襲い来る少女たち。彼女らに視線を走らせながら、ユウリは己の無力さを悔しく思う。
「今の私にこの子達を救うだけの力は無い、か……」
自分にできることは、葬り去ることだけ。覚悟を胸に、ユウリは|二丁銃《ヘルハウンド》を構えた。
「ごめんなさい、せめて苦しませないようにするから」
その謝罪は、歪んでしまった命を一撃で撃ち抜くための|誓い《オース》だ。ユウリの周囲は決闘空間へと変わり、彼女の存在をより鮮やかに際立たせる。
「いくわよ、ヘルハウンド」
冥府の獄炎纏う愛銃と共に戦場へと飛び込んだ。
少女たちが奇声を上げながらノイズを放つ。
彼女らの無意味な呪文を、燃える弾丸が掻き消した。大きな発砲音と同時、少女たちの頭や胸から紅蓮の炎が咲く。
「キャアアァッ!?」
炎は瞬く間に脳や心臓を焼き尽くした。鮮烈な炎は一瞬で少女たちの命を奪う。苦しみを長引かせることなく、獄炎の輝きが全てを喰い尽くした。
「おやすみなさい、せめてあなた達の来世が良きものになるように……」
「化け物! よくモ、仲間を……!」
他の少女が怒り狂いながら迫る。
(心は痛むけれど、迷ってる時間はないわ)
近付いてきた少女を銃床で殴り付けた。少女が痛みに動きを止めた隙に、アクセルブースターを吹かして距離を取る。
「あなた達を弄んだクソ野郎は必ず殺すから。だからどうか安らかに眠って」
放たれた冥府の獄炎が、新たに少女を焼き祓った。爆ぜる炎はノイズを打ち消して、戦場の穢れを清めていく。
祈る事しか出来ない――この無力感も、ゼノの目論み通りなのだろう。無力感を怒りに変え、ユウリは毅然と戦い続けた。
●バケモノ
視せられた悪夢の残滓が、未だに頭から離れない。
トパーズ・ラシダス(|地呪珠《アースジェム》の|肉人形《フレッシュドール》・h03302)は己の心を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐き出した。
(……嫌らしい悪夢だったぜ。けど俺の生業をマリンに見られる可能性は……あるんだよな)
有り得ない話ではない。そして、夢はトパーズに新たな真実を突き付けた。
(あいつに拒絶されることより、あいつに人の死を見せることのほうが怖い、なんてな)
改めて思い知った事実に思考が囚われそうになる。
だが、耳に届いたゼノと被害者のやりとりに、彼は現実へと引き戻された。
(……ぼんやりしている場合じゃない。ターゲットが目の前にいるんだ)
体を動かせ、武器を振るえ。投げナイフを手に構え、怪異と化した少女らを視界に捉える。仲間にも視線を走らせて、彼らの意図を察した。
「……俺には殺す手段しかないが、助けようとするお人好しもいるみてぇだな」
ならば、仲間が救出に集中できるよう敵を引き付ける。
|風との共闘《コアパレート》を展開し、イヌワシの群れを呼び寄せた。イヌワシは少女たちを取り囲み、視線をトパーズに向けさせる。
「ほら、来いよ! てめェらが殺したくてしょうがねぇバケモンだぜ!」
「アァッ! 化け物……!」
「家族は殺させない!」
少女たちは異形の巨腕を振り回した。
トパーズは地下空間の床や壁面を立体的に駆け巡り、軽やかに巨腕を躱してゆく。
(実際、化け物みたいなものかもしれないが)
人の亡骸から作られた生体兵器は『正常な人間』ではない。
死角からナイフを投擲し、触手や巨腕に切傷を刻んだ。そこへ仲間の√能力が降り注ぎ、少女の怪異化した部位を人の形に戻していく。……ただし、全員を救えるほど現実は甘くない。
「元に戻せねぇ奴は、俺が一瞬で殺してやる」
既に手遅れな少女の心臓に、トパーズはナイフを深々と突き刺す。少女は瞬く間に命を奪われ、悲鳴を上げることなく倒れ伏した。
●再び繋がる
まるで満足したとでも言うかのように、残酷な悪夢は終わりを迎える。
「……悪夢の思い通りにはさせません」
自由を取り戻した|神隠祇・境華《かみおぎ きょうか》(金瞳の御伽守・h10121)は、悲嘆に暮れることなく前を向いた。必ず見つけると決めたのだ。立ち止まっている暇はない。
「物語は我が手に── 南天を守りし朱の翼よ。 その浄き火、いま一時だけ我と歩みを共にしたまえ」
決意を浄火に変え、朱鳥を呼ぶ。|御伽「陰陽:南天に座す朱の翼」《スザク》は美しい翼を広げ、立ち塞がる怪異曝露者の群れを鋭く見据えた。
「さあ、炎で道を切り開きましょう」
朱鳥と共に境華は戦場へと駆け出す。
一方で、|小弓・佐倉《コキュー・サグラ》(夜黒の椿・h08163)も悪夢の終わりに独り立ち尽くしていた。
「夢……終わり? ヤグロも……いる。でも、境華ちゃん……」
名を呼んでも返事はない。置いていかれたのだから当然だと、小弓は唇を噛み締めた。
怪異曝露者が触手を蠢かせながら迫る。無力さゆえに力を望み、利用された哀れな少女たちだ。
『特別』であることが、どんなに眩しいか。小弓には痛いほどわかる。
「わたし「も」、特別じゃない……人並みでさえない……置いていかれるなら「追いつける力」が……わたしも、欲しい……!」
願いに反応し、|凶兆顕現:赤目継ぐ潜在能力《ジブンジャナイチカラ》を表出させた。
「ヤグロの力は、借りない……独りで……できなきゃ……境華ちゃんに、追いつけるように……」
強化した腕力で敵を殴り付ける。襲い来る触手を掴み取り、強引に引きちぎった。
わたしは、独りでも、戦える――。
「――小弓ちゃん……!」
敵の悲鳴や奇声の中でも、その声はハッキリと小弓に届く。
穢れた空間を照らすのは朱く輝く浄火の翼。
「……境華ちゃ……?」
驚く小弓に、境華は迷わず駆け寄る。
「やっと見つけました」
実際は探し始めて数分しか経っていない。逸る気持ちが時間をより長く感じさせた。
「……探してくれた? 本当?」
小弓の腕から力が抜ける。そっと手を伸ばせば、境華がその手をぎゅっと握り返した。
「はい。探しました。今度は、離しませんから」
二人はしっかりと手を繋ぐ。悪夢は結局、ただの悪夢だ。一度は引き剥がされても、彼女達の絆を本当の意味で断ち切ることなどできない。
小弓は敵を見やった。怪異と化した女子高生の苦悩に心を寄せながら、落ち着いた声色で紡ぐ。
「わたし、生まれた√ が違ったら、きっとこの子達だった。でも……境華ちゃんなら、もしそうでも、終わりにしてくれるよね」
「……はい。止めましょう、必ず」
境華は静かに応え、力強く頷いてみせた。苦痛に蝕まれ、苦痛を撒き散らす……そのような物語は、必ず終わりにしないといけない。
「ヤグロ、朱雀さんに炎を分けて」
小弓は夜黒の手に願った。破邪と破魔の炎が立ち昇り、小弓を毒する古妖の気配が遠ざかる。二つの炎は朱鳥を包み込み、浄火を一層激しく燃え上がらせた。
「ありがとうございます。――行きましょう、小弓ちゃん」
「うん、行こう。境華ちゃん……!」
煌々と輝く朱鳥を怪異曝露者たちが睨み上げる。
「鳥の化け物……!」
ノイズを放つ彼女へと、朱鳥は翼を広げて強襲した。
「穢され歪められてしまった物語を、せめてその身を蝕むものごと焼き祓いましょう」
境華の意志を映す朱雀の浄火が、敵の肉体を炎上させる。轟々と炎の爆ぜる音が、悲鳴もノイズも掻き消していく。
小弓はその光景から決して目を逸らさない。無力な自分が悔しい気持ちは、きっと自分と同じだから。
「どうか、本来の魂で……安らかに、眠って」
せめて、汚染から解放されて、天へ。祈りながら、浄火を見つめ続けた。
悪意と呪いに蝕まれた魂は清らかな炎に焼かれ、純粋な存在へと還ってゆく。
苦しみの物語は幕を閉じ、かつて物語が在った場所には美しい炎だけが残る――。
●悲しい願い
怪異曝露者たちは、|兎沢・深琴《とざわ・みこと》(星華夢想・h00008)に殺意を向ける。
「悪夢の影響とはいえ、大切な人を守りたい心は本物なのでしょうね」
大切な人を守るために縋った力は、少女たち自身を蝕む毒だった。気持ちが分かるだけに、形を歪まされた現状に心が痛む。
「星、後ろはお願いね」
黒猫がぴょんと降り立ち、背後の敵へ威嚇するように毛を膨らませた。
護霊に後ろを任せ、深琴は女子高生へと歩みを進める。
少女たちが叫んだ。
「化け物! 今すぐ片付けル……!」
迫る触手をshooting starが斬り落とした。動揺する少女の目を、深琴は真っ直ぐに見つめる。
言葉は届かないかもしれない。けれど、何もしないまま終わらせたくない。
「大切な人を守りたいんでしょ……私と同じね」
「……?」
少女が訝しげに首を傾げた。深琴は力強く訴えかけるように、覚悟と想いを伝える。
「私の大切な人は家族、そして後ろにいる|護霊《星》よ。大切な人への気持ちを偽物なんかで踊らされないで。……化け物の言葉なんて信じられないかしら。貴方を放置すればさらに被害は増える。このまま私たちを排除しようとするのなら、私も大切な人を守る為、星と共に貴方を倒さないといけない……」
「何を吠えてるノ? 化け物の言葉なんて、わからナイ、ワ!」
少女は再び触手をうねらせた。深琴が何を言っても、化け物の鳴き声にしか聞こえないのだろう。
「……きっと、守りたい家族の姿すら化け物と認識してしまうのでしょうね」
呪いに魂まで侵された少女たちは、大切な人を守るどころか殺してしまうだろう。自分で殺したことに気付かないまま、大切な人を守るために戦い続けるのだ。
「貴方が守りたかった人を殺してしまう前に、私が止めるわ」
|星に願いを《ウィッシュアポンアスター》を発動し、護霊へと語りかける。
「新たな悲劇を止めるために、力を貸して頂戴」
黒猫は高らかに鳴き、昏き深淵の爪を以て哀れな少女たちを切り裂くのであった。
●救う光
力さえあれば、大切な人を守れる。悪夢に絶望した少女たちは、ゼノが差し出した毒杯を飲んだ。そこに救済はなく、あるのは偽りと悪意、悲劇に続く未来だけ。
「……大切な人を、守りたかったんですね」
力さえあればと、俺も何度願ったか。
|史記守・陽《しきもり はる》(黎明・h04400)は想う。悪夢で見せられたあの光景が、今も瞼の裏に残っていた。
纏わり付く常夜の悪夢を夜明けの焔が打ち消す。右手を握れば、今度は確かに黄金の光が宿った。
「救える保証はない。殺さないといけないかもしれない……それでも俺は、足を止めたくない」
この手が届く限りのものを守ると決めたのだ。諦める理由なんてどこにもない。
陽はルートブレイカーを発動する。右掌を激しく燃え上がらせながら、彼は少女たちに歩み寄った。
「警察官です。あなたたちを助けに来ました」
「炎の化け物……!」
「熱い……! 今すぐ消セ!」
声が届いていないのは一目瞭然。それでも陽は諦めずに呼びかける。
「あなたたちは呪いに侵されて自分を見失っています。五感が狂っているから、普通の人のことが化け物に見えているんです」
事実を淡々と述べながら近付く陽に、少女たちは叫んだ。
「近寄るなッ化け物が!」
振るわれる触手を、陽は右手で掴み取った。朝焼けが夜闇を溶かすように、黄金の光が悍ましい触手を消してゆく。
「なに……!?」
動揺する少女。生じた隙に大きく踏み込んで、陽はルートブレイカーの出力を最大まで上げた。
(生体改変毒の呪詛や精神汚染がゼノの√能力に関係しているなら、俺の炎が効くかもしれない……)
破魔と浄化の力を光焔に込め、変異した肉体に触れる。少女が熱と痛みに悲鳴を上げるが、陽は燃やすのを止めない。
「あなたが誰かを守りたかったように、俺はあなたを助けたい」
叫びが途切れ、少女は力なく倒れ伏す。その体からは怪異部位が消え、破れた服の隙間から人の手足が覗いていた。
●ふたりはひとつ
普通の高校生だった少女たちは、悪意によって怪異曝露者へと変えられてしまった。
怪異の肉体と融合した彼女らに、|四之宮・榴《シノミヤ・ザクロ》(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)は心を痛める。
「……もう、助けることは……出来ないの、でしょう、か……?」
どうにか助ける術はないのか。
残酷な光景に、|和田・辰巳《わだ・たつみ》(ただの人間・h02649)はかつての悲劇を思い出す。
彼の仲間の死因は、化け物と化した民衆との戦闘での戦死だった。
「いや、出来るよ。僕には出来る」
決意に満ちた声に、榴がハッとして辰巳を見やる。辰巳は確かな意志を瞳に宿していた。その眩しさに突き動かされるように、榴は問いかける。
「……僕に出来ることが、ありますか……?」
「全体の足止め、お願い。あの変異は僕が封じる」
辰巳は精神を研ぎ澄まし、少女たちを凛と見据えた。
少女たちを放置すれば、かつての自分と似た悲劇を味わう人が生まれてしまう。それだけは決して認めない。
辰巳の『絶対に救う』という想いは、榴にもはっきりと伝わった。
「……はい……! ……僕に出来ることです。……其れ以外にも……有りましたら……謂ってください、ね?」
「もちろん。あ、ゼノにも注意してね!」
「……ゼノですか……。……諒解です」
事件の元凶であり、呪詛を凝縮した人間災厄……『心蝕の楔』ゼノ。彼からも目を離すまいと、榴は気を引き締める。
二人に向かってくる少女たち。辰巳は純粋な祈りを紡ぎ、インビジブル達に呼びかけた。
「この世界に満ちるインビジブルに請い願う。ひと時だけでも良い。力、呪い、しがらみを打ち払う力をこの拳に」
力とは強さとは、無辜の民を救うための物。培ってきた物をここに示す。
揺るがぬ半身の想いに応えるため、榴も己の役割を実行する。
「……もう、大丈夫、ですよ。……貴女様は救われます、から……ね」
影から出現させた深海の捕食者を己に纏わり付かせ、己の姿を大きく見せた。真っ先に倒すべき『強大な魔物』に誤認させ、少女たちをおびき寄せる。
「化け物ッ……!」
「倒さないト、今すぐ!」
襲い来る少女たちを榴は冷静に迎え撃つ。
「……水圧で、苦しいかもしれませんが……少し、我慢してください……」
少女たちは|深海の深さを識る《リアライズ・デプス・アビス》ことになる。深海800mの水圧を擁する水槽が少女たちを取り囲み、その動きを封じ込んだ。
「な、何?! 水が……ッ」
深海の檻は昏きよりも深く、深淵よりも深海に沈む。ただ、彼女たちが溺れ死ぬことはない。深海はその内に沈んだ者を強く抱きしめ逃がさないが、縊り殺してしまうことはないのだ。殺してしまえば、深海の深さを識れずに終わってしまうから。
辰巳の詠唱が完了した。蛇の式神を従えて、辰巳は少女たちへと走り出す。
「ゼノの警戒は任せた。僕は彼女たちを救うことに集中する」
蛇の式神に命じつつ、拳を固く握り締めた。
「辰巳、お願い、します……!」
榴が一人の少女を檻から解放する。
「おのれ化け物ッ! よくモ……!」
射出される粘性の消化液を、辰巳は海淵流で吹き飛ばした。
海水をすり抜ける分はスライムの式神を盾に受け止め、風と舞いながら攻撃を躱す。
「解き放つ――!」
巨腕の目玉に狙いを定め、輝く拳を叩き込んだ。衝突する輝きは力や呪いを封じ、異形と化した部位を元の身体に戻す。
「ぐァ、あっ……」
呪いから解放された少女が意識を失う。辰巳はすかさず此方彼方を展開し、門の奥に運び込んだ。
「元いた現世へ帰すよ。ここは危ないからね」
ゼノの悪意が届かない、安全な場所へ。
まずは一人。この調子で他の少女たちにも拳を叩き込み、着実に救出してみせる。
できる自信があるのだ。それもすべて、榴がしっかりと支えてくれるから。
榴は辰巳と目を合わせ、力強く頷いてみせた。決して断ち切れない強い絆のように、榴の心と辰巳の意志は繋がっている――。
第3章 ボス戦 『『心蝕の楔』ゼノ』
●
ゼノにとって、犠牲になった女子高生はただの玩具でしかない。
「さすがに√能力者相手じゃ無理があったな。お楽しみが台無しだが、まぁいいか」
あっさりと気分を切り替えて、彼はEDENと対峙した。
赤い瞳はその色に反して冷たく、温かみというものが一切感じられない。EDENを見つめながら、ゼノは期待に満ちた表情を滲ませる。
「……お前たちから怒りを感じる。退屈せずに済みそうだ」
足元から無数の腕が触手のように伸び上がった。数多の呪いが渦を巻き、ゼノ自身から夥しく溢れ出す。
「その感情、思う存分俺にぶつけるといい。どう狂うか見ものだな」
数多の呪いが集まり人の形をとった人間災厄――『心蝕の楔』ゼノは、歪に笑った。
●希望を照らす蒼炎
「あんたがゼノか。ようやくご対面出来たな」
|桂木・伊澄《カツラギ イズミ》(|普通《・・》の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h07447)はゼノを鋭く睨み据える。
ゼノは涼しげな眼差しを伊澄に向けた。人に似せた瞳の奥に宿る呪詛。それに少女らは心を囚われた。
「それに良かったよ、あんたが人じゃなくて。思う存分力をぶつけられる。数多の呪いが集まり人の形をとった人間災厄なんだって? 正真正銘の化物じゃあないか」
異能。特別な力。それらは彼女らが憧れたものではあるが、時には化物にもなる。伊澄もそれを自覚していた。
彼に宿る魔眼が、残酷な現実を物語っている。
「まぁ、俺も同じ化物だけどな。だから……化物対決といこうか」
化物同士の戦いに抑制など必要ない。躊躇わずに眼鏡を外せば、ゼノも察したのかナイフを手に取った。
「……その眼。面白いモノを持っているじゃないか」
「面白くはないが役には立つ。とくにあんたみたいなのとやり合うのにな」
笑うゼノに、伊澄は淡々と返す。目を閉じ、魔眼の力を高めるため気を集中させた。
飛来するナイフが体を裂くも、|蒼炎の魔眼《イグナイトブルー》の力が痛みを遮断する。あとでダメージが一気に襲い来るだろうが構わない。
(少女らの痛みに比べたら、なんてことはないはずだ)
伊澄の中に在る感情は怒りだけではない。彼は確と見ていた。他の仲間達の戦いの中で、少女らが元に戻ったケースがあった事実を。
(それは希望だ。ゼノを倒してまだ息のある少女らを助ける……!)
60秒間が経過した瞬間、伊澄は目を開いた。両眼から炎が青白く燃え上がり、周囲の空気が熱を帯びる。
伊澄が抱く想いは、少女らを必ず助けるという揺るぎなき意志だ。迷いなどない。想いと共に魔眼の力を全力で開放する。
「魔眼よ、燃えろ……!」
膨れ上がった熱が波動エネルギーを生み、ゼノを包み込んだ。蒼炎の輝きは、呪詛で構築された肉体に深い衝撃を刻んでゆく。
●虚ろな腑
ついに元凶と対峙するが、トパーズ・ラシダス(|地呪珠《アースジェム》の|肉人形《フレッシュドール》・h03302)の胸中を占める感情は怒りではなかった。
(――只々、虚しい)
助けられなかった少女たちがいること。だが助けないと判断したのは彼自身だということ。殺しを妹だけには見せたくないという本心に触れられたこと――。
波のように押し寄せる事実が、まるで水が岩を削り取るように彼の心を抉った。だがそれはそれ。ゼノとの戦いに影響を及ぼすかと問われたら、答えは「NO」だ。
「お前にはくたばってもらうぜ。どうせ甦るんだろうが、しばらく大人しくしてもらう」
ダガーを構える。ゼノを野放しにすれば、其処に居るだけで災厄を振り撒くのは目に見えていた。胸糞の悪いことばかり起こされる前に、さっさと死んでもらおう。
ゼノが口角を上げ、手にしたナイフを昏き七禍の刃に変えた。
「お前は俺をどう楽しませてくれる?」
凶器から感じる呪いの気配を見据え、トパーズは思考を巡らせる。
(この場所は奴の腹の中にいるようなものだ。隠れる暗殺術は使えないだろう。なら、正面から行く)
|暗殺刃《アサッシンエッジ》を発動。ダガーを麻痺を与える刃へと転じた。
「へぇ? 俺と同じように武器で応戦してくるのか。じゃあ俺達の技術勝負だな」
地面を強く蹴り上げゼノへと急接近。疾風のように暗殺刃を繰り出し、鋭く切り裂いた。
「麻痺毒か」
淡々と呟きながら、ゼノが反撃の刃を打ち込む。これまで殺してきた者たちとの因果。忌々しき|狂気の魔術師《スツナヴァルツァ》との繋がり……吐気を催す程の呪いが、トパーズを深い闇に引き摺り込もうとする。
「ハハッ、いやらしい攻撃だぜ!」
意識が持っていかれぬよう気丈に振る舞った。
(奴が麻痺で縛られるか、俺が呪いに沈むか……どうなるやらだぜ)
体を蝕む呪いに耐えながら、トパーズはダガーを閃かせる。互いに蓄積していくダメージ。果たして先に限界を迎えるのはどちらだろうか。
●心を保つ
ゼノはEDEN達の怒りの感情を煽る。だが、|四之宮・榴《シノミヤ・ザクロ》(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)の心は凪のように静かだ。
「……怒り? ……憤りとか……ですか? ……解りません。……唯、貴方様を野放しには出来ない。……放置はしては行けない、だけです。……それでご満足頂ければ……幸い、です」
榴は負感情を欠落している。元々無いのだから煽られることもなかった。
一方で、|和田・辰巳《わだ・たつみ》(ただの人間・h02649)の心は炎のように燃えている。
「この世の邪悪の悉く、悪しき企ての悉く、叩き潰すためにやって来たぞ、簒奪者。怒り? 上等だ。為すべきことを為すだけだ」
啖呵をそのまま詠唱とし、強化結界札を創造。霊剣を封印の神力を纏う鍵状の武器へと転じた。
「随分と温度感の違うペアがきたな」
愉しげな笑みを浮かべるゼノ。隣で怒りを燃え立たせる辰巳に、榴がそっと呼びかける。
「……あの……辰巳……? ……先ほどから……闘牛のように……なってますが、大丈夫、ですか……落ち着いて……?」
「あぁ、大丈夫だよ、榴。……って牛じゃないよ!?」
辰巳は思わずツッコミを入れる。鼻を鳴らしながら「ぶもーっ!」と雄叫びを上げている牛を想像してしまった。
闘志を抱くのは良いが、牛のように戦うのは辰巳としては避けたい。
「もう、分かったよ。二人で頑張ろう!」
交わされる視線に榴は淡く笑みを零した。たとえ敵前であっても、互いの声掛けを大切にしていきたい。
「はい……遠距離からの、支援は……任せてください……」
タロットカードにエネルギーを注ぎ込みゼノへと投擲。鋭い側面がゼノの体を次々に裂いてゆく。
ゼノは傷付く度に足元から無数の腕を生やし、榴へと伸ばした。
「お前には負の感情の増幅よりもこちらの方が良いな」
心を蝕む呪詛を帯びた腕が榴に触れようとする。
「僕には……負の感情というものは……よく……解りませんからね……」
漆黒のファイヤースターターを振るい腕を叩き落とすが、腕は次々に迫り来る。
「完封は……できませんか……それなら……」
水母のようなモノ達を自身に纏わせた。触れた腕の一部から生命力を奪い取り、呪詛の侵蝕から身を守る。
ゼノは榴一人ばかりに構ってはいられない。影から獲物を狙うように、辰巳の呪影業が迫る。
「呪いに縛られてしまえ!」
呪影業がゼノに纏わり付いた。深淵より瞳が見つめる闇を召喚し、ゼノは口端を上げる。
「呪いには呪いをぶつける、か。ふふ……せいぜい足掻いてみろ」
|血の縊り手《ブラッドハンド》が呪影業の束縛を引き千切った。その間にも辰巳はゼノのすぐ傍に迫っている。
「どんなに足掻いたとしても……足掻いたその先で、必ずお前を倒す!」
盾虫の式神を放ち、繰り出される縊り手をがむしゃらに受け流し続けた。ゼノは存在するだけで悲劇を撒き散らす。一秒たりともこの世に存在する事を許したくない。
「辰巳……落ち着いて、ください」
激しい怒りが滲む気配に、榴が辰巳へと呼びかける。
彼が怒りに囚われ過ぎて、それを敵に利用されないように――|見えない怪物達の天泣《レイン・オブ・インビジブル》を発動し、巨大なインビジブル達を大量に降り注がせた。ゼノの闇が白い鯨に呑まれてゆく。榴の声と鯨が放つ煌めきに、辰巳はハッと我に返った。
「そうだね……冷静に戦わないと、足をすくわれてしまう」
「僕の方で……どうにか隙を、作ります……そのあとは……お願いしますね」
なんて頼もしい半身なのだろう。榴の言葉に辰巳は頷いて、ゼノへと攻撃を仕掛ける。
ゼノは天から落ちる巨大な鯨に逃げ道を塞がれていた。辰巳はスライムの式神を餅状にして放ち、火雷と共に飛ばす。
弾幕で目を欺き、海淵流の水圧と風の精霊の力を借りて懐に飛び込んだ。
「――その闇を、斬り祓う!」
|神話の楔《ミソロジア・アンカーボルト》を全力で叩き込む。結界札の神力を宿した剣はゼノの肉体を深く斬り裂き、彼を形作る呪いの力を着実に削ぎ取ってゆくのであった。
●織り重ねる
血のように赤いゼノの瞳は、邪悪と狂気を湛えている。
その色彩は、|小弓・佐倉《コキュー・サグラ》(夜黒の椿・h08163)が持つ赤目とは根本的に異なる。
「……あんな……誰かを傷つけて愉しむ赤い目、わたしはなりたくない」
色の問題ではない。魂の在り方の問題だ。
|神隠祇・境華《かみおぎ きょうか》(金瞳の御伽守・h10121)はゼノを真っ直ぐに睨み据えた。
「誰かの痛みを玩具にして、怒りさえ愉しもうとするのですね。でしたら、望むようにはしません」
境華は思う。犠牲になった少女達が何を願い、何を想ってここまで来たのか。全てを知ることは出来なくても、なかったことにはしたくない。小弓が境華を見て、覚えていてくれるように。自分も小弓や今日この場にいた少女達のことを覚えていたいと。
「終わらせましょう、小弓ちゃん」
境華の言葉に、小弓は深く頷いてみせた。
「女の子達の願いをおもちゃにして、わたしや境華ちゃんの悪夢、皆の怒り……苦しい気持ちを嗤う……ゔぃらんは、|バイバイ《お終い》が約束」
敵意が向く先、ゼノは深淵より瞳が見つめる闇を召喚する。
「せいぜい足掻いてみろ」
闇の中で無数の瞳が見開いた。湧き立つ呪詛の気配に、小弓は気持ちを引き締める。
「いやな目が、いっぱい……でも、負けない……!」
小弓は|護持封煞: 鳴掌鎖縛之破邪拳正《ゴジフウサツ・メイショウサバクノハジャケンショウ》を発動する。
迫る|血の縊り手《ブラッドハンド》に、虎咆のごとき柏手の衝撃波をぶつけた。縊り手が潰れ飛散した呪詛の一部が降り注ぐも、呪詛耐性の力で耐え凌ぐ。
境華も小弓を支援すべく|御伽「閉じたる炉の小火」《アタノール》を展開。その場に立ち止まり、詠唱を紡ぎ上げる。
「物語は我が手に──錬金の術を包む小さき炉火よ、いま一灯の働きをお貸しください」
小さな炎が灯った。それは二つ、三つと次々に増えていく。生まれた炎はゼノに向かうだけでなく、彼が放つ呪いや腕を反射した。
「呪詛を焼き払い、道を開きます……!」
アタノールの炉火に導かれるように小弓は戦場を駆ける。境華が創り出す炎は、ゼノの攻撃から小弓を守る盾となった。
守られている分、小弓は攻撃に集中する。
「かしこみ、かしこみ……ヤグロ、つかまえて?」
封印の力を持つ鎖鬼火を放ちゼノを包囲。呪いで動くその身を拘束した。
「おっと……」
ゼノが動きを止める。鎖を千切られる前に、境華が小弓へと火の力を重ねる。
「私の火を受け取ってください」
ぬくもりに満ちた境華の物語。その温かなエネルギーが、小弓を優しく包み込んだ。
「境華ちゃんからの、ちから……あったかい……」
境華の火を受けて夜黒の拳が燃え上がる。眩い炎を見つめ、ゼノが鬱陶しげに眉を寄せた。
「はぁ……美しい友情だな」
口だけで本音でないことがよく分かる。
負の感情を凝縮した呪いに、正反対の感情が織り成す輝きを見せてやろう。
「ここでこの物語を閉じるため、誰かの苦しみを嗤うあなたに、これ以上の頁は渡しません」
境華は全ての炎を小弓に託した。
「小弓ちゃん、お願いします」
境華の信頼を小弓はしっかりと受け止める。
(動けない境華ちゃんの代わりに、わたしが、今は走るんだ)
心なしか体が軽い。境華の炎が作ってくれた道を走り抜けて、ゼノへと肉薄した。
「ヤグロ、破邪顕正の、|グー《拳》だよ」
拳に込められた想いは、犠牲になった少女達への追悼。
(境華ちゃんが、来てくれたみたいに。あの子達もきっと、その力で、誰かのとこに駆けつけたかった。その気持ちを、お話を、絶対……忘れない)
物語を抱いて激しく燃え上がる両拳から、小弓を害する悪しきを焼き祓う乱打を繰り出す。連続の強撃を容赦なく叩き込み、ゼノを壁まで殴り飛ばした。殴り飛ばされる彼を、境華の炎が追い攻める。
「呪の根源であるあなたが燃え落ちるまで、この炉火が消えることは決してありません」
決して動かずに耐える覚悟だ。
小弓と境華の連携に、ゼノは少しずつ追い詰められていく。
●痛みと共に
|兎沢・深琴《とざわ・みこと》(星華夢想・h00008)が抱く怒りや悲しみは、ゼノに向けられていない。
その矛先は全て少女たちを助けられなかった彼女自身へと向いている。
(覚悟を決めて怪異となった女子高生と対峙したはずなのにね)
もっと別のやり方があったのではないのか。本当は、彼女たちを助けられたのではないか。思いが胸に渦を巻く。今更こんなことを考えて、無意味なことは分かっている。後悔している場合ではないことも。
護霊が深琴の傍でにゃあと鳴いた。力強い鳴き声に、深琴はこくりと頷いてみせる。
「……今は目の前の相手を退ける、その為に此処にいるんだもの」
己を奮い立たせ、魔導書を開いた。星の祈りが込められたその本に、彼女自身の想いを込める。これ以上の怒りや悲しみを、他の誰かが背負うことのないように――。
「薔薇は繋がり|星《ひかり》に、二人で描く軌跡を――」
|星薔薇の紡ぐ輪舞曲《リンクオブローズ》を発動し、魔導書から鮮紅の薔薇の花片を生み出す。ゼノへと鮮紅の薔薇が舞い落ち、彼が召喚した『深淵より瞳が見つめる闇』へと降り注いだ。
「邪魔な花びらだ」
鮮紅の花片を|血の縊り手《ブラッドハンド》に裂かせながら、攻撃の手を深琴へと伸ばす。shooting starで血の縊り手を斬り落とし、深琴は薔薇の花片へと命じた。
「彼の動きを封じて」
舞い落ちた薔薇の花片は願いと共に編まれ、鮮紅のリボンを織り上げる。リボンはゼノを包み込み、彼の体をきつく縛り上げた。
ゼノに動揺はない。呪詛の力を湧き立たせ、リボンを引き千切ろうとする。
彼が束縛を断つよりも速く、|星《せい》の深淵が駆けた。星空を纏う爪が、ゼノの体を切り裂く。
「私は貴方の力には屈しない。抱えてることを知った上で、共に歩んでくれる存在がいる。それがどんなに心強いことなのか、分からないでしょうね」
怒り、悲しみ、苦しさは常に胸の内に。けれど、この痛みを利用させはしない。
この感情はすべて、私だけのものなのだから。
●邪を穿つ
人の感情を弄ぶ人間災厄。そんなモノに正論をぶつけたとしても無意味だ。クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、一目見ただけで理解した。
(彼女たちはお前の楽しみのために生きてきた訳じゃない、なんて言葉はきっと笑われて終わりだろう)
だからこそ、怒りを言葉でぶつけるのではなく、武器に込めてぶつける。|無明《二丁拳銃》を抜いた。レイン砲台を周囲に展開し、エネルギーを十分に巡らせる。
「ああ、ぶつけてやるとも。お前の体が吹き飛ぶまで」
「愉しみだな」
ゼノが笑う。深淵より瞳が見つめる闇が、一斉にクラウスへと視線を注いだ。不快な視線を振り払い、クラウスはレイン砲台からレーザーを放つ。レーザーの隙間を無明の銃撃で埋め、逃げようのない弾幕を形成する。
ゼノの|血の縊り手《ブラッドハンド》が弾幕を突き抜けた。迫り来る攻撃に、クラウスは魔光の盾を打ち合わせる。
「させない!」
盾の隙間から闇が溢れ出す。そこにも恐れず右手を突っ込み、ルートブレイカーを発動させた。打ち消される闇に、ゼノが双眸を細める。
「恐れず突っ込んでくるとは勇敢だな。それとも自分の命を軽く見てるのか?」
心の内側を探られるような気持ち悪さを感じ、クラウスは眉を寄せた。
「……お前と話すことなんて何もないよ」
冷たい眼差しを返せば、ゼノは軽薄に笑む。
「ははっ、そいつは残念だ」
一度は打ち消した闇が、再びゼノから湧き上がった。
クラウスは一切動じない。ゼノ自身が『呪い』なのだから、彼を倒さないかぎり湧き続けるだろう。
(人の心を、命を弄ぶような奴は嫌いだし許してはおけない)
攻め寄せる闇と血の縊り手が、クラウスの心を蝕もうとする。精神干渉が心の弱い部分を貫く前に、敵を貫いてしまえばよい。
ナイフを手に迫るゼノへと狙いを定め、魔導複合機械槍《レミニセンス》を展開する。
「その呪いごと、貫く」
槍がゼノを貫く。呪の根源を穿つように、深々と。
●闇を祓う光
怒りは判断を鈍らせるというが、|史記守・陽《しきもり はる》(黎明・h04400)が抱く怒りは、彼の思考をクリアにする。自分でも不思議なくらいだ。
「冷静に見えるかもしれません。自分でも場違いな程に頭が冷えている自覚はあります。……ですが、怒っていますよ、これ以上なく」
ゼノの赤い瞳が陽を見やる。人の想いを玩具程度にしか思っていない、残酷な眼だ。
「あの子達の願いにつけ込んで、心も身体も壊して。それを遊びだと言えるあなたに。でも、この怒りまであなたの玩具にはさせない」
陽はすでに|暁降《ソール・オリエンス》を発動している。黄金の光焔を身の内に溜め込みながら、彼は彼の意志を語る。
「救えなかった記憶も、自分が代わればよかったという思いも。今だって、なくなったわけじゃない……それでも俺は、もうその痛みに呑まれて終わりたくない。待ってくれている人がいる。帰る場所がある。それを、俺はもう知っているから」
「……その話、退屈なんだが」
ゼノはナイフを抜き、昏き七禍の刃へと転じた。話を遮るナイフを、陽は払暁を打ち合わせて受け止めた。苦悩も後悔も、呪いになんか利用させない。
「だから、この感情は俺のものです。あなたには絶対渡しません。守りたかった願いごと、今度こそ守るために、あなたをここで止めます」
攻防を繰り広げていれば、60秒などあっという間だ。その身に満たすは暁光の如く赫灼たる黄金の光焔。燃え上がる魂から焔を払暁へと映せば、夜明け前の濃紺は暁光を浴びて黄金色に輝いた。
「この掌が理想に届くまで、立ち止まらないって決めたから! その呪いごと、朝焼けの光で打ち消します!」
チャージしていた光焔を解き放つ。
呪いとは明けない夜だ。怒り、悲しみ、絶望。闇に覆われた邪念と妄執を、今此処で斬り払う。夜の帳を切り裂く一閃が、ゼノの体を呑み込んだ。圧倒的な光が呪いを強制的に溶かし、ゼノの力を削いでゆく。
●肴
邪悪な異形の匂いを嗅ぎ付けて、ヒルデガルド・ガイガー(怪異を喰らう魔女・h02961)が戦場へとやって来る。ゼノの姿を視界に捉えるや、彼女は獲物を見つけた狩人のように笑みを滲ませた。
「上手い話には裏がある……まさにその諺の化身のような敵ですね。悪質な詐欺師には早いとこ奈落の底へ堕ちていただきましょう」
斬霊刀「黄泉」を抜き、エネルギーを込める。急速に膨れ上がる狂気に、ゼノが彼女を見やった。
「今日は想定外の御客人が多いな」
「あぁ、いただきに来たぜ。テメェの命をな」
|狂月乱舞《サヴェージフェンサー》を発動。元より嵐のような魂に火を付けて、さらに激しく燃え立たせる。
彼女の攻撃に応じるように、ゼノも足元から悪意の泉を湧き立たせた。
闇を纏う泉から濃厚な呪詛の気配が漂う。ヒルデガルドは高揚と共に駆け、ゼノへと距離を詰めた。
「破壊と鏖殺の刃よ、心ゆくまで邪命を屠り尽くせ」
呪詛に呪詛をぶつけたらどうなるか楽しみで仕方ない。闇から|血の縊り手《ブラッドハンド》が伸びる。迫るその手を、彼女は憤怒爆炎刀で斬り落とした。
ゼノが傷付く度に悪意の泉から腕が生える。無論、それもヒルデガルドの思惑どおりである。
「次から次へと呪詛が湧いてきやがる。いいじゃねぇか、やりがいがあるぜ!」
呪詛侵蝕刀をぶつけて呪詛を帯びた腕を蹴散らした。呪詛が呪詛を侵蝕し、泉から伸びた腕を鈍らせる。
「ほう、面白い」
ゼノが愉しげに笑った。彼は腕の本数をさらに増やしてヒルデガルドを攻める。腕の一部が彼女を掠めた。衝撃で体が揺れ、魔除け鈴がりんと澄んだ音色を立てる。
ヒルデガルドが体勢を崩すことはない。鍛え抜かれた体幹と精神力で、呪詛の侵蝕を跳ね返した。
「テメェの前世はヤクの売人か? 悩める若造をカモにするところはそのまんまだぜ。鬼畜には鬼畜にふさわしい死に場所を用意してやるぜ」
|侵蝕刃《ルインズリッパー》を展開。刀に呪詛の力を宿らせ、鋭く閃かせる。
「全てを切り裂け。そして我が糧と為せ」
振るわれた刀からエネルギー刃が飛び、ゼノの脇腹を容赦なく切り裂いた。
ゼノが体勢を立て直すために飛び退く。ヒルデガルドはゼノの腹から削ぎ落した肉を手に取り、躊躇いなく口に放り込んだ。ソレは口内で液状化し、呪いを煮詰めたスープのように彼女の胃袋へと流し込まれた。
「不味いな。ま、腹の足しになりゃあいいか」
たとえ呪いであっても、侵蝕刃で切断されたモノは彼女の糧となるのだ。
「|俺《呪い》を喰らうとは……成程。お前、最初から狂っているのか」
ゼノは淡々とナイフを手にする。昏き七禍の刃へと転じる様を眺めながら、ヒルデガルドは口角を上げてみせた。
「俺がどれほど狂ってるか知りてぇか? そりゃテメェみたいなのがもがき苦しむ様を見るのが俺のライフワークなんだ。いい酒が飲めるようにじっくり楽しませてくれよ」
呪いをたっぷりと味わって、喰い尽くして。
心ゆくまで愉しんでしまえば、どんなに不味くても上等な肴となるに違いない。
●闇に灯る
人の心を当然のように弄ぶ邪悪。醜悪を煮詰めたようなゼノの発言に、リオル・プラーテ(|空《うつろ》の夢・h01411)は突き刺すような眼差しを向けた。
「……勝手なことを言わないでくれませんか?」
|_δημιουργώ《ディミウルグ》を高速で詠唱し、結界を創り出す。
この空間魔術はピユを守るためのものだ。ピユの姿や声を認識汚染させ、ゼノから姿と音を認識できないようにした。
ゼノが、ん? と顔を上げる。
「何かを隠したか。まぁいい、あまり興味はないな」
魔術の気配には気付いたらしい。
「そうですか。ではそのまま無関心でいてください」
リオルは冷たく返した。敵には見えないだけで、ピユはリオルの傍にいる。
「ピユはじっとしてろ。間違っても敵に特攻するな」
『んぴぃ、わ、分かったよ、リオル……気を付けてね』
囁くリオルにピユが頷いた。
リオルは真っ直ぐにゼノを睨み据える。無性に腹が立つのは、悪夢の影響があるからだろう。心の奥底から、奪われる|怒り《恐怖》を感じる。
「|心友《ブレイズ》や|友人《リルディ》を、そして……ピユを、僕の目の前で傷つけるような真似を見せたのです。相応の報いを受けていただかないと」
「報いか。呪いそのものである俺に届くかな」
ゼノはナイフを昏き七禍の刃へと変えた。妖しく光る刃から、濃厚な呪詛を感じる。
(紡いだ因果に比例した呪いを与える刃……厄介ですね)
リオルは|ἀπὸ μηχανῆς θεός《アポ・メカネス・テオ》を発動。時空を操る弾丸を形成する。ゼノが刃を手にリオルへと迫った。
「ふふ、俺を退屈させないでくれよ」
「退屈するしないはご勝手に……退屈するまでもなく決着をつけますから」
次いで弾丸を射出。弾丸はゼノの足元に着弾し、ゼノの時を停滞させる。振り下ろされる刃が、スローモーションのようにゆったりと軌道を描いた。
リオルは自身を加速させて刃を避ける。ゼノから湧き出した呪いが『深淵より瞳が見つめる闇』となり、時の制約を突き破った。
|血の縊り手《ブラッドハンド》がリオルを追ってくる。
「──消えろ。僕に触るな」
|_εξάλειψη《イグザリプス》を展開し、右掌で血の縊り手を叩き落とした。同時、体を掠めた気配に眉を寄せる。どうやら昏き七禍の刃を縊り手に紛れ込ませていたらしい。
「気分はどうだ?」
ゼノが愉しげに問う。リオルは答えず、心の中だけで呟いた。
(……流石に、呪いにかかりましたか)
閉塞感が体を包み込んだ。その感覚はかつて囚われていた牢を想わせる。闇が意識を呑もうとする――だが、その闇を照らすように赤い灯火が瞬いた。
『ぴ、リオル。大好きだよ。僕、ここにいるよ』
小さな発火。熱くないその火は、心の奥に光を感じさせる。これが浄化の光か。光は小さな力で、必死に呪いの闇を溶かそうとしている。愛しくも美しい灯火に心を寄せたくなった。だが、今は意識を外に向けなければ。
(今はこれで十分。とっとと終わらせて、呪いの根源を断つ)
ゼノを倒せば呪いは消える。リオルは心を強く持ち、時空魔術を行使し続けた。
●焼き祓う紅蓮
ようやく元凶を叩く時が来た。ユウリ・スプリングス(暴食の姫・h13492)は、ゼノを鋭く睨み付ける。
「さて、それじゃあゴミ掃除を始めますか」
怪異曝露者との戦闘で幾分か頭は冷えている。
彼女は怪異と化した少女を助けることができなかった。それでも『希望』があることを知れた。他の能力者の手によって、助けられた被害者がいる。その事実がユウリに未来への希望を与えてくれたのだ。
(無力感がない訳ではない。私にはまだ『できないこと』だから。けれど成長の余地があると知れた。それに……俯いていては私が殺した被害者達に申し訳が無い)
今はまだ小さな力しかないけれど、少しずつ前に進んで、必ずもっと大きな力を身に付けてみせる。そのためにも、まずは目の前の災厄を倒す。
「大きな力を手に入れただけのガキにやられてやるつもりはない……あんたは殺す」
|誓い《オース》を胸に、冥府の獄炎を拳と足元に。アクセルブースターに炎を収束させて一気に加速した。ゼノが他の能力者に気を取られている隙を突き肉薄。スカしたツラを全力でぶん殴った。
「ぐ、っ……」
凄まじい衝撃がゼノを吹き飛ばす。ユウリは|二丁の銃《ヘルハウンド》を抜き、ゼノに銃口を向けた。
「一発殴りたかったのよね。当然、それだけで終わりにはしないけど」
「……実に味わい深い感情だ、悪くない」
ゼノはナイフを昏き七禍の刃へと転じる。
禍々しく渦巻く呪詛ごと燃やしてやりたい。ユウリは|断罪の焔《ジャッジメントフレア》を銃に込める。
「さぁ、あんたの罪を数えなさい。それとも多過ぎて数え切れないかしら?」
罪人を裁く火炎が鮮烈に煌めいた。火炎の弾丸は熱く真っ直ぐに飛び、ゼノの体へと刻まれる。ゼノは炎上しながらもユウリに迫った。二丁銃を体の前でクロスさせ、ユウリは刃を受け止める。
「あんたの手口はわかってる。思い通りになんてさせないわ」
悪意の泉から伸びる腕を蹴りつけ、炎の加速で距離を取った。装備越しでも伝わる呪いが心を蝕もうとするが、思い出の証が守ってくれる。たとえ記憶を失っていても、その証は確かな力となった。
「自暴自棄になんてなったら、殺した子達に申し訳が立たないわ」
魂に刻んだ覚悟は誰にも侵せない。それに、彼女は気付いている。ゼノの力が度重なる攻撃によって弱っていることに。
「誰かを玩具にする事でしか楽しめないなんて、つまらない男ね。こんなタチの悪いおままごとしかやる事ないの?」
「俺は呪いそのものだ。善い事をしてる方がおかしいだろう?」
ゼノが黒い血を流しながら嗤う。
不快な笑い声に重ねて、ユウリは銃のトリガーを引いた。
「なら、邪悪な奴らしく冥府の獄炎に焼かれなさい」
断罪の焔が解き放たれ、ゼノを丸ごと呑み込んだ。
「徹底的に焼き尽くしてあげる。中身空っぽだからすぐ燃え尽きるでしょ」
一際大きな炎が膨れ上がり、大爆発を引き起こす。爆炎が完全に消え失せた後には、呪いの痕跡など欠片一つ残ってはいなかった。