ほのめく熱
●それは予感めいたもの
夏の午後は家の中にまで淡いひかりを満たしていた。
窓の外では蝉が忙しく鳴いて、陽射しはしろく庭木の葉を透かして床へ細かな影を落としている。冷房の風でカーテンが揺れるたび、薄布の向こうにある夏が海のように遠のいては近付いていた。
窓辺のちいさなテーブルではアクシア・メロディールーン(はつらつ元気印なルーンソリッド・アクセプター・h01618)とサザナギ・メロディールーン(アクシア・メロディールーンのAnkerの弟・h01944)が並んでかき氷を頬張っていた。
硝子の器に盛られた氷はそれぞれ淡いみどりと紫のシロップを纏っている。匙ですくえばひかりを含んだ氷の粒がきらきらと輝いて、茹だるような暑さを少しだけ和らげてくれる。口に入れればすぐに消えてしまうその儚さが、夏という季節によく似ているとアクシアはぼんやりと考えていた。
他愛のない時間の中で、サザナギは先日の依頼について話していた。
普段は姉であるアクシアの戦場オペレーターを務めている彼だが、その日は自ら戦線へ出たのだという。√能力者以外には自動迎撃を行わない、戦場に浮遊する電子の泡。戦闘を得意としない自分でも、その中であるならば役に立てるかもしれない――そう考えたのだと、サザナギは淡々と説明したのだが、それがいけなかった。
人魚姫を助けるために、彼女のもとまでひとりで向かったこと。そこまで聞いたところで、アクシアの匙がぴたりと止まった。
「……一人で?」
声は穏やかだったけれど、その瞳には明らかな心配のいろが浮かんでいる。その気まずさに、サザナギはほんのすこしだけ目を逸らした。
「うん。まあ、そういうこと」
アクシアは笑顔のまま静かに弟を見つめていた。役に立ちたいと背伸びしてくれることはアクシアにとっても嬉しいことではあったけれど、だからといって何の相談もなしに危険を冒してきたとなれば話は大きく変わってくる。
「危ない依頼のときは、ちゃんと相談してね」
叱られている、その事実にサザナギは素直に頷いた。姉はいつも笑っている。だからこそ、その笑顔の奥にある心配が自分へ向けられたものなのだとよくわかった。
アクシアはそれ以上責めなかった。その代わりに、その光景を思い浮かべるようにしながらちいさく首を傾げる。
「それで、人魚姫はどうやって助けたの?」
サザナギはかき氷を一匙すくいながら、ほんの少しだけ気まずそうにして、それから恐る恐る口を開き掻い摘んで説明を始めた。人魚姫の注意を惹くため、王子様風の衣装を用意したこと。声や所作まで王子らしく整えて、彼女の前へ出たこと。それから、傷つけることなく王剣の欠片を取り除いたことを。
「王子様?」
話を聞くうち、アクシアの目が次第にきらきらと輝いていく。その声音には叱責を忘れさせるほどの好奇心が滲んでいた。
「ね、どんな格好だったの? 見たい見たいっ!」
「え、えぇ……?」
弟が王子様の格好をしたと聞いた瞬間、アクシアの胸は春先の小鳥のように軽やかに跳ねた。
見たい。どうしても、見たい。
言葉にするたびその願いは鈴の音のように弾んで、とうとう抑えきれなくなる。
「お願い、お願い! 見せてくれたら、無茶したことも許してあげるから!」
どんな姿なのだろう。凛々しいのか、可愛らしいのか。
想像するだけで頬が緩んで期待がちいさな火花のように次々と胸の奥で弾けた。サザナギが照れながらもその姿を見せてくれる瞬間を、待ちきれない様子で身を乗り出しながらせがんだ。
サザナギは何度か渋った。別に大したものではないし、もう着る必要もない。人に見せるようなものではない――そんな言い訳を並べても、アクシアは引かなかった。
結局、サザナギは溜息と共に立ち上がる。
自室へ戻り、クローゼットを開ければ、そこにはあの日のためだけに用意した衣装が掛かっている。布地を手に取った瞬間に、戦場の記憶がかすかに過ぎった。
あの時はとても緊張していたけれど、姉はいつも、もっと危険な場所にいる。ならば自分もこれくらいはできなければと、そう思って袖を通した服だった。
「着た、けど」
「本当に? ……わぁあ……!」
やがて扉の向こうから現れたサザナギは、まるで物語の頁から抜け出した『王子様』そのものだった。仕立てのよい衣装は端正な輪郭を際立たせ、肩から流れる布地が気高い風格を添えている。いつもの弟とは異なる凛然とした佇まいに、アクシアの胸は大きく跳ねた。
目にした瞬間、待ち焦がれていた想像が鮮やかな現実へと変わり、胸の奥に眩いひかりが満ちてゆくよう。思わず息を呑むほど、その姿は格好よく、気品に満ちていた。その面立ちは見慣れているはずなのに、衣装ひとつでこんなにも印象が変わるものなのか。アクシアはしばらく見つめたあと、ふわりと照れくさそうに微笑んだ。
「なかなか似合ってるよ、ザザ」
その言葉とほとんど同時に、スマートフォンのシャッター音が鳴る。
「ちょ、撮らないでよ」
「ふふーん、もう撮っちゃったもんね!」
サザナギは呆れたように言うけれど逃げることはしなかった。渋々ながらも付き合ってくれるその様子がおかしくて、アクシアは何度も笑った。
写真の中のサザナギは、いつもよりすこし大人びて見えた。けれど、撮られる本人は頬をわずかにあかく染めている。恥ずかしいのだろう、それを悟ったアクシアは僅かな悪戯心を抱いた。
「ねえ。人魚姫をどうやって口説いたの? 私にも同じように言ってみてよ」
「え!? い、嫌だよそんな」
今度こそサザナギは露骨に困った顔をした。姉に対して何を言っているのだ、と。
けれど、こうなった姉が一歩も引かないことも知っている。
だからこそ、サザナギは大いに迷って視線を泳がせたのち、ややあって深く息を吸うと――瞬きをひとつ。次の瞬間には、彼の表情は大きくその様相を変えていた。先ほどまでの照れくさそうな少年の顔が消え、代わりに浮かんだのは静かな自信だった。
王子様。
それは戦場で自分が思い描いた理想の姿。
相手を安心させるような余裕を持ち、何が起きても動じない。その姿が、アクシアには思いのほか眩しく見えた。
一歩距離が近付いて、窓から差すひかりがその輪郭を淡く縁取っていた。
「……探したよ、ボクのお姫様。助けに来たよ」
胸の奥がちいさく跳ねた。それは果たしてどちらのものだったのだろう。
続く言葉は、あの日、人魚姫へ向けたものと同じだった。
「動かないで……そう、そのまま……キミの可愛い顔を見せて?」
静寂が落ち、蝉の声が急に遠くなったような気がした。
アクシアは目を見開いたまま動けない。
頬が、耳が、何処か他人事のように不自然に熱い。心臓だけが自分の意思を無視して早鐘のように鳴っている。
弟だ。
いつも一緒にいるサザナギだ。何度も名前を呼んだ大切な家族。なのに今だけは、その見慣れた姿がひどく新鮮に映った。
王子様の服を着ているから?
いつもと違う声をしているから?
そういう理由なのだと思おうとしたけれど、胸の奥の何処かで得体の知れない『なにか』がそれだけではないと囁いている。その囁きがなんだか怖く感じてしまって、アクシアは一歩後退った。
「えええ、ザザ、どうしちゃったの!?」
自分でも驚くほど慌てた声が出た。
それと同時、サザナギも驚いていた。姉が、こんな顔をするところを見たことがない。いつも笑っている天真爛漫な姉。そんな姉が今は頬を真っ赤にして、自分から逃げるように視線を逸らしているものだから。どうしてだろうか、サザナギもかつてない胸の高鳴りを感じていた。
「(こ、こんな顔の姉さん……初めて見た……)」
可愛い。
そんな言葉があまりにも自然に浮かんだものだから、サザナギ自身が驚いた。
姉さんが、可愛い。
その事実を認めた途端、自分の頬までもが熱くなる。
王子様を演じていたはずなのに。余裕を持って格好よく振る舞うはずだったのに、結局、動揺しているのは自分も同じだった。
胸の中にあるものは、まだ名前を持たない。ただ、昔から知っている人を、ほんの少しだけ違う目で見てしまった。
一方、アクシアもまた、自分の心を持て余していた。サザナギの顔をまともに見ることが出来ない。先ほどの言葉を思い出すだけでまた頬が熱くなる。
「(これは、何?)」
嬉しいような、恥ずかしいような。擽ったいのに、胸の奥だけが妙に切ない。なんだかこの気持ちに名前をつけてはいけない気がして、アクシアは慌てたように、逃げるように急いた様子で立ち上がった。
「ゆ、夕飯の支度しなくっちゃ!!」
言うなり、そそくさと部屋を出ていく。
残されたサザナギは、呆然とその背中を見送った。やがて静かになった部屋で、自分の頬へ手を当てれば、やはり熱を持っているようだった。
窓の外では、夏の陽射しがすこしずつ傾いている。庭の葉が風に揺れ、ひかりと影がゆっくりと入れ替わっていく。台所へ逃げ込んだアクシアもまた、冷蔵庫を開けたまま立ち尽くしていた。
冷気が頬を撫でても熱は引かない。胸の中に生まれたちいさな波紋は、まだ消えていない。それが何なのか、彼女にはわからない。わからないまま、ただ今日までとは少し違う気持ちで弟の名前を思い浮かべている。
恋と呼ぶにはあまりに淡く、家族という言葉の中に収めるにはほんの少しだけあまい。かき氷の最後の一匙のように、舌の上ですぐに消えてしまいそうな感情。消えてしまう前に胸の奥へ染み込んでしまったものは、そう簡単には元へ戻らない。
夕暮れにはまだ少し早い。窓から差すひかりは柔らかく、ふたりの輪郭に同じように淡いきんいろを纏わせていた。
ふたりはまだ知らない。今日という夏の一日が、いつか思い返したとき、自分たちの心に最初のちいさな波紋が生まれた日だったことを。