あやめも知らぬ
●恋草
常折の家には子どもが近付いてはいけない場所がいくつかあった。
それは蔵の隠し階段の下であったり。あるいは昼でさえ薄暗い廊下の先にあるのであろう開かずの部屋であったり。理由を訊けば、大人たちは決まって曖昧に笑った。
入ってはいけないのよ。
――あそこは、菖蒲さまのお部屋だから。
そうして誰も、それ以上のことは教えてくれなかった。
幼い常折・悠久(漂白・h13192)にとって、それはかえって不思議なことのように思えた。だって、常折・菖蒲(白夢・h13202)という少女はいつだって彼のすぐそばにいる。庭で花を眺めているときも、縁側に座って空を見上げているときも。眠りにつく前にふと振り返ったときも、そこにはうつくしい少女の姿があった。
だからこそ、彼女の部屋が自分には禁じられているということが、どうにも腑に落ちなくて。ある日、悠久は思い切って本人に尋ねることにした。
「おへや、どうしてはいっちゃだめなの?」
菖蒲はぱちりときんいろの瞳を瞬かせる。
その部屋を自分の部屋とは認識出来ていない。常折家が昔から自分にそう呼ばせているもの、ただそれだけの場所。人々が畏れ、敬い、札を貼り、決して触れようとしないもの。それが自分の『御神体』なのだと菖蒲は知っていたが、そんなものに価値を感じたことはなかった。
彼女にとって大切なのは腕を伸ばせば届くところにいる、この幼い少年ただひとりだけ。だから、悠久が入りたいと言うのならばそれを拒む理由はありはしなかった。
「……見たいの?」
菖蒲がそっと手を差し出す。それが彼女の肯定であると理解した悠久は目を丸くしたあと、ぱっと顔を明るくした。
「うん!」
ちいさなてのひらが菖蒲の手をぎゅっと握る。
彼女の手は幼い悠久のそれよりもずっとしろく、冷たかった。けれどそんなことはちっとも気にならない。彼女が手を引いてくれるなら、それだけで胸は幸福に満たされた。
最初はいつもの家の風景と変わらなかった。
障子越しに午後のひかりが差し込み、柱には見慣れた木目が浮かんでいる。けれど奥へ進むにつれて、そのひかりはすこしずつ薄くなっていった。窓が減り、空気が冷たくなる。昼間だというのに、まるで夕暮れよりも深いいろが廊下に澱むように溜まっていた。悠久は次第に足取りを鈍らせたが、それでも手だけは離さない。
やがて辿り着いた襖の向こうには、壁にも、柱にも、天井にも、床にまで、しろい札がびっしりと貼られていた。それらはただの紙片でありながら、まるで無数の蛾が羽を休めているような悍ましさと禍々しさを感じさせた。
怖い。
一瞬だけそう思った。けれど、隣には菖蒲がいる。その事実だけが、細い灯火のように胸の奥で燃えていた。
「こっちよ」
菖蒲は何でもないことのように札と札の間を歩いていく。悠久もその後を追った。しろい紙の隙間を、身体をちいさくしながら抜けていく。
何かに見られているような気がする。
それでも菖蒲の指だけは、しっかりと握ったままでいた。
やがて部屋の中央に辿り着いたなら、そこにはひとつの箱が置かれていた。
古びた木の箱だ。飾り気はない。まるで長い年月を閉じ込めてきたように、角は擦り減り、蓋には細かな傷が走っている。菖蒲はその前にしゃがみこむと、ゆっくりと悠久を見上げた。
「見たい?」
悠久は、こくりと頷いた。
その言葉に応じて蓋が開く。ぎ、と古い音がして――その中にあったものを見て、悠久は目を見開いた。
「……いと?」
うつくしいものではない。長い年月に晒されたのか、ところどころが毛羽立ち、色も褪せている。絡まり、擦れ、細くなった箇所がいくつも刻まれたあかいいと。ほんの少しでも乱暴に引けば、ぷつりと切れてしまいそうだった。
悠久の背筋を、ひやりとしたものが走る。
それが恐怖だったのか。それとも、菖蒲の中にある何かを感じ取ったのか、分からない。それを理解するには少年はあまりに幼く、自分の心に名前をつけることすら出来やしなかった。
ただ、胸の奥には怒りが生まれた。
どうして。
どうして、これがこんなふうに置き去りにされているのだろう。
ぼろぼろで、触れれば消えてしまいそうで。簡単に断ち切られてしまいそうなそれは、まるで、菖蒲そのものをそういう存在として扱っているように思えた。壊れても仕方がないもの。失われても仕方がないもの。『神様』と呼びながら、その実、いとも容易く消えてしまうものとして――幼い悠久には、それが許せなかった。
菖蒲はそうっとあかいいとを摘まみ上げた。
「悠久になら、あげてもいいわ」
差し出されたそれを、悠久は迷わずに受け取った。
掌に乗せればあまりにも軽くて、余計に悲しくなった。
それから数週間、悠久は菖蒲を避けた。
顔を見れば、会いたくなる。声を聞けば、声を返したくなる。けれど、それでは駄目だった。あの部屋を見たこと。あの糸を見たこと。芽生えた己の決意を、今は菖蒲に知られてはいけない。だから幼い悠久は、彼女を遠ざけることを選んだ。
「ないしょだからダメ!」
そう言って逃げる背中を、菖蒲は黙って見送った。
「(なぜ)」
何がいけなかったのか。
何を間違えたのか。
けれど答えは、すぐにひとつの事象に辿り着いた。
部屋を見せたから。糸を渡したから。自分が、余計なことをしたから。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
胸の奥で、その言葉だけが何度も繰り返される。黒く、昏い感情が胸の内を塗りつぶして行く。菖蒲はやがて、悠久以外のものを憎み始めた。
廊下も、目障りな札も。古びた箱も――この家も。自分に悠久を遠ざけるものを与えたすべてを、呪ってしまいたくなった。
実際、その頃から常折の家ではちいさな事故が続いた。
柱が折れ、器が割れた。階段から人が落ちた。古い梁が突然軋み、誰かが床板を踏み外したらしい。けれど菖蒲にとって、そんなことはどうでもいいことだった。悠久が帰ってこない。その事実だけが、世界の中心に取り残されていた。
「(いっそ、神隠しにしてしまおうか)」
そんな考えさえ、脳裏に一瞬過ぎってしまった。
誰にも会わせなければいい。誰にも奪われないところへ連れていけばいい。けれど、その考えの全てを彼女は実行しなかった。悠久が自分を嫌ってしまうようなことだけは、耐えられなかったから。
一方、悠久は自分の部屋であかいいとと向き合っていた。
どうすればいい。
どうすれば、切れないようにできる。
どうすれば、菖蒲があの部屋へ戻らなくてもよくなるだろう。
幼い頭で考え続けた。
糸を布に縫い込んで、紐にする。何本もの糸を束ねる。あれこれと模索し、失敗するたびに細い肩を落とした。指先を傷つけてもやめなかった。菖蒲に会えないことは寂しかった。とても、とても寂しかった。
夜になれば布団の中で声を殺して泣いた。
それでも我慢した。これは、他でもない菖蒲のためなのだから。その一心だけで、溢れそうになる涙を止めることが出来た。
やがて、悠久は組紐というかたちに辿り着いた。一本では弱い糸を幾本もの糸で支える。交わり、重なり、互いの弱さを互いの強さで補う。
悠久は夢中になった。核となるあかいいとを、組紐のもっとも奥へ織り込む。外からは見えなくてもいい。むしろ、見えないところにあるほうがいい。そうすれば誰にも傷つけられないから、菖蒲を守れる。あの部屋からも、自由にできる。そう思った。そう、信じた。
家族が何を言っても、悠久は珍しく我儘を通した。
最初は形にならなかった。それでも数週間をかけて、ようやく二本の赤い組紐が完成した。幼い手が作ったものだから、決して完璧ではない。けれど、それは確かに強い想いで以って束ねられたもの。細い糸が幾重にも絡み合い、一本の紐になっている。その中心には、あの日のあかいいとが眠っていた。
そして月が幾つも巡ったある日。悠久は菖蒲を呼び出した。
「見せたいものがあるの」
その言葉を聞いた瞬間、菖蒲の胸がどきりと跳ねた。
嬉しい。けれど、すこし怖い。
部屋に入ると、悠久はいつものように菖蒲を出迎えてくれた。薄墨の瞳が、菖蒲をまっすぐに見詰めている。
「見て! できたの!」
「……これは?」
悠久が差し出したてのひらの上には二本のあかい組紐があった。その片割れを菖蒲へ渡す。菖蒲に渡したあかいいとの内部には、あの日、菖蒲からもらった大切な糸が織り込まれている。悠久はそれを知らない菖蒲にも分かるように、一生懸命に説明した。
「ぼくとあやめちゃんで二本ね!」
菖蒲は組紐を見つめ、指先でそっと撫でる。
あかいいとはもう、ぼろぼろではない。何重もの糸に包まれて、静かにそこに在る。悠久が自分のために作った。その事実が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
「ぼくが、あやめちゃんをあのおへやから出してあげるの」
悠久は笑った。その顔は、幼い子供のものであったけれど、その瞳にはもう、無邪気さだけではない何かが宿り始めていた。
そうして、誇らしげに胸を張って言葉を続ける。
「あやめちゃんがあのおへやにかえらなくていいように、もらったいとはあやめちゃんのほうに入れたの」
「――……、」
菖蒲は言葉を失った。
それは、彼女自身のために存在するものではない。悠久が、自分を守るために作ったもの。その純粋な想いが、どうしようもなく嬉しかった。
「悠久……」
名前を呼ぶだけで声が震えそうになる。そんな菖蒲をよそに、悠久は何かを思い出したように顔を上げた。
「うんめいのあかいいとって、こゆびにあるんだって。……だから、ぼくとあやめちゃんのこゆびにつけたら、ぼくたちってうんめいになるでしょ?」
「運命の赤い、糸?」
悠久は、こくんと頷く。
それは菖蒲にとって、随分と都合のよい言葉だった。だが、まだ足りない。たった一つの運命で終わるなど、彼女には到底足りはしなかった。
菖蒲は微笑む。その笑みは常と変わらないあたたかなもの。けれどその奥底には、神のものとも、少女のものともつかない深い欲が滲んでいる。
「運命だけじゃなくて、もっとほしいわ」
悠久はその言葉にすこしだけ考える。ややあって、ぽん、と手を打った。
「じゃあ……けっこん? けっこんはくすりゆびだよね」
そうね、と答える代わりに、組紐を手に取った。
左手の小指。それから薬指。二本の指をあかい組紐でまとめる。ふたりの手に同じあかい紐を結ぶ。それは指輪の代わりであり、運命の糸の証であり、幼い約束を形にしたものだった。
「ふふ、いいわね。いつか、あなたが大人になったら。結婚して、ずうっと一緒にいましょう。……だからこれは、その予約よ」
「えへへ。うん! あやめちゃんとぼくは、ずーっといっしょ!」
その言葉を聞いた瞬間、菖蒲の胸の奥でひとつの種が勢いよく芽吹いた。
『ずっと』。
その言葉を彼女は愛した。神故の慈悲ではなく、守護するものとしての想いでもない。ただ、菖蒲というひとつの存在としてこの少年を心から愛していた。
その夜。悠久が眠りについたあと、菖蒲は静かに彼の部屋を訪れた。
月明かりが寝台の上に淡く落ちている。悠久はあどけない寝顔を浮かべ、安心したように眠っていた。
昼間まで自分と指を結んでいた少年。彼が結んだ組紐を、菖蒲はそっと解いた。眠りを妨げないように。音を立てないように。指先だけで、ゆっくりと。そうして、二本を取り替える。悠久の指に結かれたものと、自分が持つものを。
菖蒲は、眠る少年の手をそっと包んだ。
「(貴方の思いをほどくようで申し訳ないけれど、でも、あの赤い糸が入っているほうは貴方に持っていてほしいの)」
それは言葉にはしなかった願いだった。
私の唯一無二。
私だけの子。
私の愛する貴方。
私を常に、傍に置いて。
そう願うことは、もしかしたら正しいことではないのかも。けれど、神に正しさを問うことほど無意味なものもない。菖蒲は人の幸福を守る神ではなく、悠久の幸福を守るために世界を守っている。順序はとうに逆転していた。
菖蒲は眠る悠久の左手に自分の左手を重ねる。あかい組紐が、月明かりの中で細くひかった。
「悠久、愛してるわ」
返事はない。けれど、それでよかった。
いつか彼が大人になったとき。彼が自分の言葉の意味を知るとき。人と神の隔たりを知り、それでもなお、自分のところまで来ようとする日が来たなら。そのときにはもう一度、結び直せばいい。
あかいいとはふたりの指に残った。
片方には、悠久が守ろうとして織り込んだもの。もう片方には、菖蒲がひそかに抱きしめたもの。どちらがどちらなのか、悠久は知らない。
そうして、年月が流れた。
幼かった少年は青年になり、菖蒲は変わらない姿のまま彼の隣にいる。
互いの左手には、今もあかい組紐がある。薬指と小指をまとめて結んだそれは幼い日の約束の名残であり、やがてふたりが交わす契りの証であり、運命のあかいいとの形だった。悠久は時折それを見つめ、そのたびに微笑む。
幼い日に口にした『ずーっといっしょ』という言葉は、今ではもう、あの日の意味よりもはるかに重い。
ずっと一緒にいる。
いつか、同じ存在になる。神になる。あるいは、神である彼女を、自分と同じところまで連れてくる。それは幼い約束から始まった、悠久自身の固い誓いになっていた。
そして、その根には幼い日に抱いた淡い恋心がある。物心つくより前から傍にいた、たったひとりのための想い。何より愛しい、彼女への想いが。
菖蒲もまた、時折その手を取る。そのたびに菖蒲は、昔の夜を思い出す。まだちいさな手をしていた悠久。 何も知らずに差し出された、幼い愛。そして、自分だけが知っている、ちいさな秘密。
悠久は未だに気づかない。自分の組紐が、あの夜、すり替えられたことを。菖蒲はそれを告げるつもりもない。ただ、彼の左手を取って、自分の左手を重ねる。
あかい組紐が、ふたりの間で静かに鳴る。それは糸そのものが奏でる音ではなく、遠い昔にひとりの幼子が願ったものが、長い年月を越えてなお残っているという、共鳴するふたりのこころの音だった。
ぼろぼろだったあかいいとは、もう切れることはない。何重もの糸に包まれ、幾度も交わり、互いを支えるように結ばれている。
運命という言葉だけでは足りない。親子でも、恋人でも、神と人でも、それだけでは足りない。ふたりが何と呼ばれる存在になろうとも、その左手に結ばれたあかい組紐だけは、幼い日の約束を知っている。守りたかった少年と、守られたかった神。互いに相手を自分の世界の中心へ置いた、あの日のことを。
そして今日もふたりは手を重ねる。あかいいとは、指から指へ。小指から薬指へ――ふたりの生涯そのものへと、静かに結ばれていた。