Dreaming Splash
ゾディアック・ミラー
これは2章構成の期間限定シナリオです。09/23(水)16時頃までに完結したシナリオの結果により、宿敵の運命が変わります。なお、期間中に宿敵主によって倒された場合、通常のルール通り宿敵は絶対死します。
●Accident
|緋幽楼《ひゆうろう》という九重からなる高い塔がある。
雄大な山々を背にして麓に屹立する塔は、外観は仏塔によく似ているものの内部はレストランになっており、階によって和風、洋風、中華風と異なるテーマを楽しむことができる。塔周辺は仲秋の頃になると植栽された千本近い彼岸花が一斉に見頃を迎え、彼岸花の絨毯で赤く染まることから注目を浴びている観光名所だ。
先の春には古妖に目を付けられ緋幽楼が巨大な桜の木に変えられてしまったのだが、事件が解決したあと桜変化の緋幽楼でお花見をしたかったと残念がる者が非常に多く、オーナーは呆気にとられたと云う。
彼岸花が咲くまであと少し。
緋幽楼の本領発揮までのわずかな期間をどう経営していくかと頭を悩ませていたオーナーは閃いた。
「塔をウォータースライダーにしちまうか! まだしばらく暑いしな!」
●Caution
「しちゃったそうです。ウォータースライダーに」
奇妙建築は便利だな、と無言の眼差しを送られた√妖怪百鬼夜行の住人である物部・真宵(憂宵・h02423)は何だか楽しそうに笑っている。
「塔内部はレストランのままなのですが、塔からスライダーをたくさん伸ばしているみたいで」
水が流れる通常のウォータースライダーから、星屑を搔き集めた天の川のようなスタースライダー、ふわふわの雲の上をゆっくり滑るクラウドスライダーなど一風変わったものがそれぞれの階に設定されており、下層にあってもスライダーは空へと伸びたり曲がりくねったりと十分なコースを楽しむことができる。
「お腹が空いたら軽食もスイーツも楽しむことができますし、滑ったコースをテーマにしたドリンクも一杯頂けるとか」
緋幽楼に近付くとたちまち空は蒼く翳り夜空となる。煌々と照る月と星の中で打ち上がるのは鮮やかに咲き乱れる花火だ。菊や牡丹、冠に万華鏡といった割り物はもちろん、千輪に椰子といった小割物、花蕾や飛遊星のポカ物までありとあらゆる種類の花火が絶え間なく夜空に咲き続ける。
「夏を彩るにはぴったりの演出ですよね。外には床几が設けられておりますので、ゆっくり眺めることもできますよ」
これだけ聞けば夏の催しのお知らせでしかない。
しかし。
「でも、緋幽楼で遊ぶためには皆さんにはちょこっとお仕事をしてもらわなくてはなりません」
親指と人差し指を近付けて微笑を零した真宵は、浮き輪を装着してぽてぽて走り回るこぱんだ妖怪を一瞥したあと、机上に伏せていた書類を手に取った。
「|魔法少女現象《プエラマギカ・フェノメノン》については、詳細を語らずともご存じかと思います。こちらの一件にて覚醒した『魔法少女アンテロス』が密かに「ハートクエイク・アロー」という√能力を編み出したそうなんです」
なんとその能力、ビジュのいいターゲットに狙いを定めたならば、心とは無関係に告白やもっと先の行為をさせようとする、何ともはた迷惑なもの。
「もっと先の行為ってなんなんでしょうね……? ハグ?」
ふしぎそうに小首を傾げる真宵はしかし、アンテロスが緋幽楼に遊びに来た者たちへとアローを打ち込むのを阻止してほしいのだと真面目な顔で言う。
「無理やりカップルにするなんて行いを見過ごすわけにはいきません。それに、秘めた想いや心があるのに他者に捻じ曲げられるのも許せません」
――だが。
「彼女……性別や種族、年齢差や関係性などの一切を不問として問答無用で|矢《アロー》を打ち込もうとしますが、どうも傷付けたいわけじゃなさそうなんですよね……」
対話や説得を行うことで無差別行動を阻止できるかもしれない。
「殺人と破壊に比べれば簒奪者としてはかわいらしい部類でしょう。平和的に解決できればアンテロスにもよい変化が生まれるのではないかと、わたしはそう思います」
狙われている二人組を救出するか、あるいは自分たちが推しカプ認定されるように振る舞って囮となるか。そこはうまく立ち回って欲しい。
だがアンテロスと戦って彼女を倒すのか、あるいは対話を試みるかで道が分かれることだけは必ず念頭に置いてほしい。
「ちなみに緋幽楼で遊ぶことが出来るのは、彼女と対話を試みた場合のみです。戦闘となった場合はアンテロスのミラーレイヤードに乗り込み、そこに巣食う爆破戦闘員部隊との集団戦になります」
口元に白い手を添えて可愛らしく笑った真宵は、そのまま「いってらっしゃい」と皆を送り出した。まるでどちらを選択するのか分かっているかのように。
第1章 ボス戦 『魔法少女アンテロス』
蒼い宝石を砕いて融かし広げたような夜空に花火がまばたいていく。
月は冴え冴えとした光を零しながら中天へと向かい、浮世を見守るかのごとき柔らかさで賑々しい夏の夜を包みこんでいた。
緋幽楼に近付くにつれて、じんわりと世界が夜に浸されていく光景をわくわくした面持ちで見上げていた魔法少女アンテロスは、少し前を歩く男女の二人組が同じように花火を仰ぎ見ていることに気が付いた。
「わぁ……きれい」
花火が咲くたびにまだあどけない少女の横顔が照らし出され、光が微笑みの輪郭をなぞっているのを、隣に寄り添う青年がちらちらと盗み見ている。
(はっ……! これは一歩踏み出せないじれったい先輩後輩なのでは?)
こそこそふたりのあとを尾行するアンテロスは身の丈とさほど変わらない大きさの弓に想いのかたちをした矢をつがえると、
「えいっ」
思案する間もなく引き絞った弦を解き放つ。
響き渡る花火の開花に紛れて矢は風を切る。夜空の花に照らされた鏃がちかりと瞬いた瞬間、翻ったのは宵と影を宿した対の剣。切っ先に弾かれた矢がくるりと夜空を舞うと、それは花火の打ち上げに忍ぶような花音の響きに叩き落とされる。
「わわっ、一体なんですかっ?」
「それはこちらの台詞です。無理に恋心を植え付けるのは、推し方として少々乱暴では。人の心は、勝手に曲げてよいものではありません」
言葉は凪いでいた。
しかし両手に細剣を提げ、騎士然とした居住まいで現れたクラーラ・ミュスティアウゲン(閉ざした瞳の武侠剣士・h12663)は視界を封じているにもかかわらず強い意思を伴ってアンテロスを見据えている。皮膚がひりりとするほどに、纏う気は明確な拒絶を表していた。
地面に突き刺さる鏃はそのままに、半ばから矢を折る一陣が夜空へと抜けていくほうを振り返れば、暗い中に在っても光を透くようなやわらかな新緑の色を戴く少女がひとり。
「自分の思い通りにするために、誰かの気持ちを強引に変えちゃ駄目だわ」
吉祥・わるつ(浄刹・h05247)の指先が滲み広げるのは浮世に夢のように咲きこぼれる蓮の花。ほどけるように開く花びらより目覚めし少年は、ゆるりと睫毛を持ち上げ、それまで秘していた穏やかな双眸を覗かせる。
「私は前を抑えます。避難誘導をお願いできますか?」
「はい、わかりました!」
クラーラの指示に頷いたわるつはすぐに駆け出すと、足を竦ませたようにその場に縫い留められているふたりの元へと近付いた。
「あ、あの。これは一体」
「慌てないで大丈夫ですよ、こっちです」
おろおろする少女の背中に手のひらを宛がい宥めると、青年がわるつを覗き込むように問うた。
「この子、迷子みたいなんです。どちらに向かえば良いですか?」
「それなら塔に行くといいと思います!」
この場で最も目立つ九重の塔を指で示すとふたりは安心したように頷いて、小走りで遊歩道を抜けていく。その背中を守るように道を塞ぐわるつであったが、クラーラと|少年の霊《兄》が気を引いてくれていたらしい。悉く狙いを撃ち落とされてがっかりと肩を落とすアンテロスの背中を見つけて、幾ばくかの安堵に胸を撫で下ろした。
「あなたの気持ち、わかります。恋してる人達のこと、応援したいよね」
そっと近付きながら、なるたけ声音をやさしく努めるようにして呼びかけると、しょげた眼差しが振り返る。
「でも本当に心からすきな人同士が結ばれないと……私、悲しくなっちゃう」
「……あの青年は少女のことをじぃっと見つめていましたよ? あれはすきだという気持ちの表れではないのですか?」
「迷子だと言っていましたので、ただ心配していただけでしょう」
クラーラが冷静に断ずる。
「心配もまた愛では!?」
「面倒臭いですねあなた」
一刀両断したクラーラは、額に手を添えて溜息を吐く。
「無理やりカップルにしようとしているあなたに、そんな考えがあるとは思いませんでした……何ですか、その目は」
じぃーっと熱心に見つめるアンテロスの視線はクラーラを見て、それから隣に添うように肩を並べたわるつを見て、もう一度クラーラを見る。
「凛とした佇まい剣士さまと花の似合う可憐な少女……たいへんよい組み合わせかと」
嫌な予感がした。
「私達は、今この場に居合わせただけです」
「…? そう、私とお姉さんははじめましてなの」
わるつは小首を傾げてクラーラをちらと見遣ったあと、アンテロスに向き合う。
「確かにかっこいいって思うけど……なんにも知らないのに、勝手に想像を押しつけるのはもったいないと思う!」
アンテロスは瞬いた。
「格好良いと思っていただけるのは光栄ですね。貴女も、大変可愛らしいですよ」
「へへ……」
「それはさておき。誰かの気持ちを、勝手に押し付けるのはご遠慮いただきたいものですね」
「むぅ……」
アンテロスは納得がいかないふうに頬を膨らませていたが、手に提げた細剣がゆらりと持ち上がるのを見て「すみませんでしたー!」と頭を下げ、脱兎の如く遊歩道を駆け抜けていく――緋幽楼の聳えるほうへと。
少年の霊は見ていた。アンテロスが小路に落としていった小さなノートを。拾い上げるとそこには「接点無しカプ」の文字が踊っており、遠い目をした彼は炎熱に付して見なかったことにした。
ゆるやかな曲線を描く小路をアンテロスは無我夢中で駆け抜ける。
遊歩道では蒼く沈んだ夜空に火の華が咲くたびに歓声が湧いていたものだが、緋幽楼の敷地内、塔の真下に近付けば人々の意識は空に巡る別の物に向いていた。
「はわわ……何ですかあれは」
きらきらと星の瞬きのように飛沫を上げる水の滑り台、ふわふわした雲がもふんと続く道に、掬った銀河の星々を流し込んだといった具合のものまで不可思議に高い塔から伸びている。どうやらあのひとつひとつは滑降することが出来るようで、周辺には水着姿の者が多くあった。
「ねえ、次は花畑スライダーに行ってみよ!」
アンテロスの前を水に揺らめくような色をしたパレオを着た女性がひとり、気弱そうな少女の手を引いて通り過ぎて行った。
「お前、早く声かけてこいよ」
ふたりの背中を追いかけるのは、どこか喜色を含んだ若い青年の言葉。アンテロスが振り返った先に居たのは、顎を引いて俯く黒髪の青年。友人らしき男女に左右を挟まれて右から左から肘で小突かれている。
(話しかけたいのに話しかけられない……? そんなシャイなあなたに!)
えーい。アンテロスはほとんど呼吸をするのと同じくらいの気軽さで弓を取り出した。鏃が|標的《ターゲット》にするのは溌剌とした女性――ではなく彼女に手を引かれている少女。
片目を閉じ、ぺろりと唇を舐め、動きをなぞるように狙いを定めていると。
「アンテロスさん」
「ひゃいっ!」
背後から呼びかけられて飛び上がる。
ギギギと錆び付いたロボットめいた動きで恐る恐る振り返ると、金色に輝く月のような眼差しを向ける神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)と、どこかわくわくとした面持ちで空のあちこちに視線を飛ばしているシンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)のふたりが居た。
「恋愛の物語のお話をしませんか?」
「えっ、恋愛ですか! それも物語ですか!」
瞳を爛々と輝かせてアンテロスは境華の誘いに食い付いた。その勢いにはちょっと気圧されるものがあったが、境華はそんな態度を露とも感じさせぬ冷静さで、一般人から引き離すように床几へ導く。
お行儀良く膝の上に両手を揃えたアンテロスを――逃げられないように――真ん中に置いて並んで座ると、遊んでもらうのを待つ犬のような瞳で見つめてくる彼女に、こほんと咳払いをひとつ。
「物語の中には、初めから恋をしている二人だけではなく。一緒に過ごし、同じものを見て、時には困難を越えて、少しずつ相手を知り、信頼を重ねていく関係もあります」
「なるほど……それはたいへん応援したくなりますね!」
言いながら、境華は自分の胸がふんわりとおだやかな熱を灯すのを感じている。心地の良い温度は指先にまで沁みるようなやさしさを巡らせるので、自然と声音がやわらかになる。
「私は、そうして自然に育まれていく想いも、とても素敵だと思います」
境華の語る言葉にうっとり聞き入るアンテロス越しに、シンシアもまた寝物語を聞かせてくれるような心地を覚えながら興味深く耳を傾けていた。
「ひょんなことから知り合って、仲を深めていく過程もまたよいもので」
「うんうんうん」
「何気ないアイテムをお揃いにして大切に持っているのとかも良いですよね!」
「ふんふんふん」
シンシアの言葉にアンテロスがしきりに頷いている。そのうち首が捥げそうだ。
「そして、いつの間にか隣にいる方が他の誰とも違う、大切な存在になっていたり。――シンシアさんも、そういう関係は尊いと思いませんか?」
思考に耽っていたシンシアは突然名を呼ばわれてハッとする。
「……ん? あっ、尊さの話ですよね。えっと、尊いと思います! 境華さん!」
ふにゃーっと誤魔化すような笑みを浮かべたシンシアに、すこし目を丸くしながら首を傾げた境華であったが、それでも視線をアンテロスに戻してそっと続ける。
「そして最後の一押しには、何かの出来事がつきものです。それを、矢ではなく、行動で応援するような推し方はいかがでしょうか?」
「そうですよ、記念日のデート、あるいは当人達が想像もしなかった突然の事態……転機はいつ来るかわかりませんからね」
シンシアがぐぐっと拳を握り締めて力強く頷いている。
「何かの出来事……」
「幸せに至るまでのあと少しの勇気を後押ししてくれる存在がいたら心強いとおもいますよっ」
「勇気を後押ししてくれる存在……」
ハッ、と息を飲んだアンテロスは立ち上がる。立ち上がって木に立てかけていた弓を引っ掴むと。
「つまり……私!?」
「違います」
シンシアと境華の言葉が重なった。
ちょっと着席しなさいともう一度座らされたアンテロスは「何かの出来事って私でも良いのでは~?!」なんて両足を駄々っ子のようにじたばたさせたけれど、お姉さんふたりにきっちりと抑え込まれてたっぷり|言い含められる《お説教される》姿があったとかなかったとか。
太い梢にゆったりと身を預ける白澤はそんな少女たちを、どこか楽しそうに見守っていた。誰も傷付けることのない願いは、きっともう叶っていると知りながら、少女たちの楽しそうな姿をまだ見ていたくて。
深海のような夜空にまばたく花火は珊瑚や貝殻、イルカやメンダコなど海の生き物たちをテーマにした型物花火に移り変わっていた。銀河を掬ったネビュラのひとすじのような星屑スライダーから零れ落ちる瞬きが夜空に散ると、花火が真珠をあしらったように輝いて見える。
そんな夢のような光景に背を向けて床几の上にちょこんと正座をするのは魔法少女アンテロス。端正な顔立ちをした男女のスタッフが仕事の簡易連絡を行っている瞬間を、たまさかの逢瀬だと誤認してこそこそ木の影から矢をつがえたのを見つけた天吹・一青(Rookie・h05080)が「ちょっといいですか」と|声を掛けた《捕まえた》のだった。
「あうぅ……」
一青は共に訪れていた夕星・ツィリ(星想・h08667)をちらと見やる。
ふたりはアンテロスとの対話を試みるつもりでいるのだが、いざこうして面と向かってしまうとどんな言葉を掛けていいものか皆目見当もつかず、打ち上がる花火と楽しげな笑い声とが沈黙を強調するようで居心地が悪い。
「なんていうのかな……」
切り出したのはツィリだった。
「お互いが好きで確かに思い合っているけれど、素直になれなくて中々くっつかないふたりを……!」
アンテロスの目が輝く。
「なら、まだわかるんだけど……」
言葉尻を濁されてアンテロスはしゅんとした。一青を窺うと、真剣なまなざしが落ちてきて唇を引き結ぶ。怒られの気配を察知。
「意図して相手の意思決定を操ろうとするならば『人の身体に対する不法な有形力の行使』として暴行罪が適用される」
「ぼぼぼぼ暴行罪!? これ殺傷能力とかありませんよ!?」
慌てて矢をずずいと差し出してくるアンテロス。うっかり触れてしまっては何が起こるか分からぬので、軽く身を引いた一青は眉間を揉みながら溜息を押し殺す。
「たとえそれが殺傷力を伴わない矢だとしても、だ。解釈によっては傷害罪の対象にもなりうる」
「しょうがいざい」
燃え尽きた灰のような放心を見せるアンテロスを見ていて、本当に人に危害を加えるつもりは欠片もないのだなぁとツィリはぱちぱち瞬き。
一青は|警視庁異能捜査官《カミガリ》である。
生真面目がスーツを着て歩いているような堅物とも言えるくらいの真っ直ぐな正義感を常に傍らに置いている男だ。だからこそ立場上、アンテロスの行いがどういった罪に問われるのかをしっかりと言い聞かせなくてはならなかったのだが、どうやらこれだけでもそれなりの効果はある様子。
ツィリは微苦笑を唇に乗せると、アンテロスの隣にそっと腰掛けた。
「でもさっきみたいな条件だったとしても……素直になれなくって、というふたりのことね? 一青くんの言う通りで勝手に人の意思を変えるのはいけないことだと思う」
やさしく諭すような言葉にアンテロスの肩と視線がどんどん落ちていく。
「少なくとも、私はヒトの世界でそう習ったもの。意思はそのヒトだけのもの。誰かに変えてしまう権利なんてないんだって」
「……でも、自分の意志でどうにもならないこともありませんか?」
「ちょっと痛いところ突くんだな……」
ぼそりと零れた一青の呟きを拾ったアンテロスが「でしょう!?」と拳を作る。
「寿命の違いとかぁ! 階級の差とかぁ!」
「でもあなたのちからは意志を……心を曲げちゃうんでしょう? それならやっぱりよくないと思う」
「ひん……」
ツィリに冷静に断じられてアンテロスは再びしょぼくれた。
「それにね。私は未だ恋は知らないけれど愛は知ってるの」
「愛……?」
「うん。お父様にお母様、お二人が結ばれたからこそ私がいる。でもそれはお二人の意思で、想いあった末の結末なの」
「想いあった末の結末……」
アンテロスはふと、目の前を通り過ぎて行った親子連れを見る。仲の良さそうな男女の間に手を繋がれている小さな子。ふくふくとしたほっぺは暗がりに在ってもしあわせに染まっているのがよくわかるようで。
「僕も親戚のおばさんから『そろそろ良い人はいないのか』なんて聞かれたことがあるけれど……そういう関係は、無理矢理作られるものじゃなくて、あくまで自然発生的に構築されるからこそ尊いんじゃないかな。ねえ、夕星さん?」
やわらかな一青の言葉にツィリはこくこく頷く。
「貴女を否定したいわけじゃないの。ただその矢を撃つ前に、少しだけ立ち止まってくれたら嬉しいな」
「……五分考えてもやっぱりお似合いだと思ったら撃って良いですか?」
「だめです」
「だめだよ」
一青はツィリとは反対の方に腰掛けてアンテロスを真ん中に閉じ込める。
暴行罪と傷害罪が適応されたらどのような法定刑が待ち受けているのかを、みっちりと教え込むことに決めた瞬間であった。
「じゃあ次は傷害罪についての事例と法定刑について説明していくね」
「えーん。足が痺れましたぁ」
「ふふふ。がんばって?」
――カップルって、なんだろう。
魔法少女は考える。
床几に腰掛け、膝に両肘を突いて支えた顔は頬が膨らんだ拗ね顔で、花火が夜空に咲くたびに照らし出される人々の様子を、深海を游ぐ魚たちを観察するみたいに眺めている。
「ちょっと自信がなくなってきましたぁ……」
膝を抱えるように脚を持ち上げ、右頬を膝に付けて傍らに立てかけた弓へと視線を滑らせたとき。
「……こう?」
密やかに囁くような言葉が耳朶に触れ、アンテロスは何とはなしに声を辿る。意識が手繰られたのは、どこか甘ったるい余韻をなびかせていたからだ。まるで、そう。恋人に齎すようなとろりとした蜜色のそれ。
さほど距離の遠くない木陰に目線の近い男がふたり向き合っていた。さらりとした長い銀髪を耳に掛けながら、そっと窺うように小首を傾げて上目に見る先には眦の鋭い金の双眸。
銀月の細く長い指先が甘えるように武骨な掌に這い、ふたりの熱を隔てる手袋など障害にはならないのだと指の隙間に己のそれを滑らせて握り込む。じんわりとした人肌が手袋越しに伝わり始めるも、蝋燭が火に溶けるほどのじれったさに我慢できぬというように肩を寄せて寄りかかる。それはまるで心を預けるような仕草に似ている気がした。
烏の濡れ羽色の髪の隙間から落ちてくる眼差しは温度がなく、それどころか無感動にすら思えるほど表情が抜け落ちている。そんな金眸の男をからかうように親指の腹で指の付け根を撫でると、触れあっている肩が小さく揺れた。
「こんなんで良いのか」
金眸の唇から零れた言葉は意外にもやわらかだった。
「随分可愛らしいんだな?」
「――もっと欲しがってほしかった?」
にぃ、と月の宿る双眸が細くしなる。
挑むような眼差しを投げ掛けられて瞬いたのも一瞬。
金眸の男は傍目からも分かるくらいに笑みを浮かべると、繋いだ手はそのままに空いた反対の人差し指で細い頤を持ち上げ、
「その質問は反則だなァ」
親指の腹で薄い唇をなぞろうとする。
銀月は笑んだ。笑んで触れる熱を当然のように受け入れて、親指が触れる前に唇を薄く開く。覗かせた白い歯は誘うような指先を甘噛みするつもりだ。アンテロスにだってそれくらい分かった。分かってしまったから。
「ひょわぁぁ!」
床几からごろろんと転げ落ちるようにして立ち上がった魔法少女は弓を引っ掴み、想いの形をした矢をつがえる。
「これは! カップルも同然! 今度こそわたしの目に狂いはありません!」
キリキリキリ。限界まで引き絞られた弦もそう叫んでいる。
「あ」ふたりの男――夜鷹・芥(stray・h00864)と雨夜・氷月(壊月・h00493)の声が重なりあう。
「来たアンテロス」
「あっさり来たな、アンテロス」
木陰で逢瀬を重ねる恋人のように振る舞っているのは悪友のふたりであった。
狙われるカップルを一々助けるよりも、自分たちが囮役を担ったほうが手っ取り早い。「カップルに見立てりゃ何でもアリか」と軽く考えていただけに、自ら率先してカップルめいた恋人繋ぎを披露してくれた氷月に対して少し意外に思った芥である。折角の機会なのだからもっと欲しがるだとか、その綺麗な|顔《かんばせ》を最大限に利用して誘惑してみせるのかと思えば、存外かわいいことをするから興が乗ってしまった。
氷月としては軽く留めたほうが夢見がちなアンテロスが、その先を求めて出てきてくれるとの仮定を立てていたのだが、見事的中。ぶら下げた釣り針に見事引っ掛かってくれて思わずにっこり笑みが浮かぶというもの。
「おふたりはご友人? それとも仕事仲間? あとはえっとえっと」
関係が分かればふたりがどんな風に出会い、交流を深め、道を歩んできたのかおおよそ分かるというもの。たとえば仕事仲間であれば、初めて共にこなした業務があるはずで――。
「過程すら妄想してるんじゃないか」
鏃が少し落ちているのは、顔の良い男ふたりが如何にして知り合ったかを想像するのに忙しいから。
「直ぐに結果が見えちゃ面白くも無いだろうに。もうちょっと情緒ってもんをだな」
「そうそう情緒は大事だよね。それに俺たちラブラブだからアローなんていらな……っ」
ビュン。
ふたりの間、頬と頬の隙間を一本の矢が突き抜けて行った。
「あ、外しちゃいました! だめですよ、じっとしていてくださいね!」
「じっとしていたが」
ビュビュン。
二本目が飛んでくる。
「聞いちゃいない」
「問答無用ってマジ?」
「仕方ねえ、逃げるか」
頷いた氷月はとっさに芥の手を引いて走り出す。
「あっ! どこ行くんですかー! 待ってくださーい!」
アンテロスの声が追いかけてくる。ふたりは魔法少女を尻目に見やりながら、ふと視線を重ね合わせて笑い合った。だって、これじゃあまるで。
「これはこれでカップルっぽいか?」
「あ! 愛の逃避行ってヤツ、みたいな? んふふ、それもいいかもね」
ゴールがどこにあるかなんてわからない。
けれどそれがどこにあろうと隣に居てくれるならどこへだって行ける気がした。
――何もかも気に食わない。
硝子の双眸は儚くほどける春の色を宿しているのに、光は喪われてどこまでも剣呑である。
「イサ、ララはウォータースライダーがやりたいのよ」
魔法少女の所業が無理やりカップルにすると耳にした詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が真っ先に思ったのは、当人たちの意志を無視するその行いは、まさに政略結婚みたいなものではないかということであった。
「美味しいのも食べたいのだわ」
(……ララだって無理やり婚約者をつくられたんだ。こんなのが許されるわけな――)
「イサ? ねぇ聴いているの? 無視は許さないわよ」
ぎゅ、と脇腹を抓られてイサは思考の海から戻ってくる。物思いにふけることもできやしない。
「ハイハイわかりましたよ、聖女サマ! スライダーにごはんな!」
ようやくイサの瞳に己が映ったと分かりララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は満足そうに目を細くした。むふんと悪戯っこめいた表情もララだから良く似合う。それはもう、悔しいほどに。
「わかった。無事に遊べるようはた迷惑な奴と話しにいこう!」
「そうね、ララは遊びたいのよ。だからあの矢をうたせないようにしましょう」
ふたりの視線の先。
ふわふわ雲のスライダーから一組の男女がもつれ合うようにして地上にふよよんと降りてくる。まだ顔立ちにあどけなさが残るので学生なのだろう。堂々と夜間に遊ぶのは憚られる年代だ。でも何かしらの力で夜のなかを思う存分に遊べるのが意外にも楽しいのか、あるいは互いの鼻のてっぺんに雲の欠片がついていて、それがおかしかったのかきゃらきゃらと笑う声は底抜けに明るいものだった。
そんなふたりを、ちらちらと窺う者にイサは背後からずんずん近付いていく。
「おいアンテロス」
「ひゃいっ!」
小さく飛び上がった魔法少女は身体ごと向き合うと、じとりとした眼差しを寄こすイサを見てしおしお小さくなる。けれど、彼の白い手に繋がれた小さなララを見てきょとんと瞬き。
そう。ララは様々なスライダーを予め見物しに行きたかったのだが、しっかりと手を握られているせいで隣のスライダーすら見に行けない状態であった。
「ありがた迷惑すぎる。自分の楽しみの為に勝手にカップルにされたんじゃたまったもんじゃない」
イサの言葉にアンテロスはますますシュンとする。
ここで反発しないのであれば、説得はそうむずかしくはなさそうだ。
「仕方ないわね……付き合ってあげるわ」
ぽつりと零れたララの言葉にイサは目を丸くして視線を彼女のつむじに落とした。ちょこまかされるとあとが大変なので手を握っていたのだが、何かいけなかったのだろうか。
だがそんなイサの疑問はすぐに霧散する。
「……そうよアンテロス。ララは恋とかカップルとかよくわからないけど、ゆっくり恋心は育み、自らの足で踏み出し、心を交わして……実らせるものだわ。パパとママもそうだった」
「えっ。あなたのご両親もですか……?」
「? ええ、そうよ」
「そうなんですね……」
アンテロスは口をもごもごさせて何やら考えている。おそらくララとイサがこの地に訪れる前に対話を試みる者が居たのだろう。その言葉が、まだこうして残っている。
「……おふたりは、手を繋いでいらっしゃいますねぇ。とっても仲が良さそうなのです」
「そうね。悪くはないわ」
肩を竦めて首を傾げるようにして頷いたララから、しっかりと、まるで自分のものだと言うかのように手をやさしく包み込んで握り締めるイサを見る。それからふたりの顔、繋がれた手を順番に見ていって。
「わたしとしたことが! ここにこんなにすてきなカップルがいるのに真っ先に見つけられなかったなんて!」
大失敗、と両手で自分の頬を押さえたアンテロスは、次瞬子どものように喜色を滲ませてはしゃぐように飛び跳ねる。
「ララとイサがカップルにみえるの?」
「はい!」
「え!? べ、別に俺達はカップルとかじゃないよ。何でこんなちんちくりんと!」
「イサ! ララはちんちくりんではないわ」
「ちんまいのは事実だろ」
「事実であっても胸に秘める慎ましさも時には必要なのよ」
「まあまあまあ! 喧嘩するほど仲がいい! まさしくおふたり!」
「いや、喧嘩ってほどじゃ……」
――熱い。
まるで火傷したみたいに頬がじくじくする。胸のあたりから駆け上ってくる奔流のような熱は、イサの気持ちや意志だけでは抑えられそうになくて、指先やこころが喜びで痺れはじめる。
「そうなのかしら。仲良しなのは確かであるし、悪い気はしないのよ」
しかもララまでそんなことを言って笑うから――あんまり可愛く、笑うから。もう頭のなかに巡る何かが焼き切れそうな気すらした。
(そんな風にみえたんだ、俺達も)
アンテロスは正真正銘、初対面。
そんな相手にただ手を繋いでいる姿を見られただけで恋人同士だと誤解されるのはなんだか無性に嬉しくて。隣でくすぐったそうに眦をやわらげて笑うララの横顔を盗み見る。
頬に落ちてくる視線に気が付いたララは、そっと窺うように視線を滑らせる。さっきはあんなに不愉快そうだった硝子の瞳がどこか面映ゆそうに見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。
(何だか胸がくすぐったい、心地がする)
でもそれは、決して嫌ではなかった。
「わぁい! わたし大成功ですよね! やりました! じゃあさくっと矢を撃ちますね!」
「だめよ」
「だめに決まってるだろ」
矢は真っ二つにへし折られた。
湖畔にくつろぐ皆と共に秋の行楽に訪れたのがもはや懐かしく思えてきた。あの頃とはずいぶんと趣の異なる姿を幾度と目にしてきた香柄・鳰(玉緒御前・h00313)が真っ先に案じたのは気さくな鬼のことである。
「オーナーさん、また大変な目に……」
額に手のひらを翳して九重の塔を仰ぐ九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)は「んー」「おや」「オーナーも大変だねぇ」なんてのんびりさん。
オーナーとは親しい訳ではないがここは思い出の地、それに知っている人物が困っているならばやはり手を貸したくなるというもの。
「早く救出する為にもアンテロスをどうにかしなくては」
「アンテロス? ――あぁ、あの面白い格好の女性かな?」
ふたりの視線の先。
様々に趣向を凝らしたスライダーで遊ぶ若人たちや、距離の近い男女であったり、気さくに笑い合う友人同士を木の幹から半分だけこそりと顔を出してじぃーっと見つめる少女の後ろ姿がある。
長いツインテール。腰から生えたおもちゃみたいな羽、たっぷりとふくらんだスカートには大きなリボンがこさえてあって、極めつけはその手に握られたフリルのような弓。スライダーを滑るための水着には到底思えない、かわいらしさ満点の衣装はこの場では少々目立っている。
しかしガクトには他に気になる点がひとつ。
「あの持ってる矢でどうするの?」
「ほら、良く心を射抜かれたと言うではありませんか?」
弓を射る仕草をしてみせる鳰。
「まさか本当に射抜きにくる方が居るとは思いませんでしたけども」
「んー? アレで恋心をいだくの? 不思議だね」
不思議で滑稽だ。
ガクトの無感動な言葉は打ち上がる花火の音色に掻き消えた。
「という事で、此度も囮作戦で参りましょう」
鳰は表情をきりっとさせて主を振り返ると、丸めた手を顎に添えて思案顔。
「完全な恋人より片思いの方が彼女の目に留まるかしら」
「恋人よりも片想いの方が食いつくの?」
「ご自分で成立させたい様子ですからね」
「あぁ、自分が仲を取り持ちたい感じかね」
それは果たして楽しいのだろうか。ガクトには分からない感覚だった。
幼い頃より戦場に居た身だ。もはや血の匂いと泥にまみれる曇天に在る方が長かったように思う。そんな自分にとって恋仲の存在とは最も不要であった。邪魔だとすら思っていた。いつ死ぬとも分らぬ身を癒すため、あるいは生にしがみつく糧にする者もいたが、ガクトには己の足を引っ張る鎖にしか思えない。
――そもそも。
ガクトには闘うことしか興味がなかった。それさえあれば生きてこれたのだ。将軍などという官職まで上り詰めることが出来たのが、なによりの証左であろう。それが本懐であったとは言わないが、煙に掻き消えるように戦場から身を引いた今、当時の自分を客観視しても大した心の変化はない。
(一生そんな気持ちもならないと思っていたが)
唇を不安げに結び、どこか頼りなく視線を泳がせる鳰を見下ろして、ガクトは厚い前髪の下で双眸をやわらげる。ずいぶんとこの|娘《こ》と一緒にいる時間が長くなったものだ。共に居る姿には、もう違和感などない。
(分かり易い恋人を演じられるけれど、片思いとは何をすれば良いのかしら)
自ら囮作戦を言い出したのに、いざ実行しようとすると戸惑いが先に表れてしまった。色恋にかまけていられなかったのは鳰とて同じ。
「我が主はお姿が良いしお優しいし、素晴らしい殿方です」
うんうんうん。自分の言葉に誰よりも頷きながら事実確認。
ちょうど花火の音が途切れた時であったので、ゆるやかな風に乗ったか、アンテロスがこちらを振り返る気配がする。
(きっとお客様の中にも懸想をしている女性は居る筈……その方を思い浮かべて……)
鳰の胸に、翳りが落ちる。
それは胸が悪くような、あるいは喉元が苦しくなるような、それでいて、つきりとした痛みを齎した。は、と息を飲んだとたん、鳰の身体は小刻みに震えだす。たいへんなことに、気が付いてしまったのだ。
(私の他に従者希望者が出てきたらどうすれば!)
たまらなくなるような焦りが鳰を突き動かす。思い付いてしまえばあとからあとから懸念が降ってくるようで落ち着かない。心臓のあたりから湧いた焦燥は指先に巡り、主の裾を軽く摘まんで引いてしまう。
「んー? 鳰?」
めずらしい行動に主が首を傾いでいる。傾がせてしまった不安が鳰の口から言葉を奪う。
(実際は私にどうこうする権利はないと承知しているのに……!)
わかってる。
きちんと理解できているのだ。主が言葉にしたならば自分は当然それを受け入れよう。でも、でも――。
「んー、どうしたの?」
まるで迷子になったような不安げな眼差し、表情には淋しさが宿っていてガクトはふしぎに思う。なにをそんなに不安に思うことがあるのか、ガクトはその小さな頭に手のひらを宛がい撫でようとした、そのときだった。
キリキリキリ。耳朶に触れる音には覚えがある。
当然、戦人であるふたりにはそれが弦を引き絞る音だと瞬時に解った。視界の端にちらちらと映る桃色にも気が付いていた。まんまと引っ掛かってくれたことには礼を言いたい気分だが、しかし。
「我が主を狙うとは……!」
鳰の表情は一転して剣呑な光を瞳に灯す。
すぐさま腰の物に手を掛け、瞬きよりも早く抜刀。同時に己の身を差し込み、放たれた矢から主を守る肉の盾となろうとしたのだが――。
いっそ血の通わぬ真白の指先がそれを容易く掴んだ。まるでゆるく飛翔する蝶々を捕らえるみたいな優雅さで、のんびりと。けれど、輪郭のはっきりとした感情を込めて五指を握り込む。
「んー、悪いね。彼女は嫉妬深いから」
「はわわ……もう一人いらっしゃいました!」
「せっかくだからこの矢で誰か君と恋を取り持ってあげよう」
「い、いえいえいえ! わたしはいいんです!」
まさか矢を奪われると思っていなかったアンテロスはすでに逃げ腰だ。
(御前はお心に素直で眩しい)
鳰はそんなふたりの姿を、すこし後ろから見ていた。自分の心に真っ直ぐに居られるのはひどくむずかしい。それを知っているから、余計に。
「相手が醜い姿でも愛せるの?」
「う……ビジュが良いふたりをくっつけようとしていたわたしの耳にぐさぐさ刺さります……」
「ね、愛なんて勝手にやるモノじゃないよ?」
「ひゃい……」
まるで五歳児に言い聞かせるようなガクトの隣、この小娘は一体どんな味がするのだろうと死神が舌なめずりをしてくすくす笑っている。真っ赤な指先でほっぺをつんつんされてしまい、アンテロスは助けを求めるように鳰を見る。
「そうです。そも、これからと言うお二人は静かに見守るに限ります……!」
しっかりとトドメを刺されてしまい、アンテロスはしょぼんとする。いざ鏃が自分に向けられると、意志を捻じ曲げられる恐怖が身に沁みて理解できたのだろう。
「わたしは間違っていたようです……」
「分かってくれるならいいのですよ」
「この世には、三角関係という複雑に絡み合うものもあるのですね!」
「……アンテロスさん?」
「ごめんなさいちがうんです、そういう関係性もあるんだぁ~っていう気付きであって矢を撃つつもりなんかじゃ……わーっ!」
「おや。逃げて行ったよ彼女。いいのかな?」
ぴゅーんと脱兎のごとき素早さで鳰とガクトの前から逃げ出したアンテロスは、スタッフの大きな鬼に激突してすっ転び、ぺこぺこ頭を下げてまたダッシュ。
「ふふ。あの様子では大丈夫ではないでしょうか」
なんとなくそんな気がして、ひとまずの仕事はおしまいとばかりにガクトの方を振り返る。ぽすん、とあたたかな熱が頭に落ちてきたのは、ほぼ同時だった。
「鳰は私の大切な子だよ」
やさしい熱がじんわりと伝わってくるのが分かると、霧散したかに思えた感情が戻ってくるようで。
「……ガクト様。私……慰めて頂く程、不安が顔に出ていました……?」
「んー? 自慢?」
ガクトは首を傾げて、何でもないことのようにそう言った。
自慢。
主の言葉が冷たくなっていた指先に染み渡る。
「自慢、ですか。――ふふ。ではそのお心に添うように致しませんとね」
「そんなことしなくたっていいよ。鳰は鳰のままで居ればいい」
俺を器の小さな主にする気かい?
口端を軽く持ち上げて笑うガクトに鳰は破顔した。
「とんでもございません!」
第2章 日常 『このなつのおもいでに』
まだ少し落ち着きのなさを覗かせる魔法少女ではあったが、今日は大人しく引き下がることにしたようだ。それよりも、もうずっとずぅっと気になっていた緋幽楼のスライダーに気持ちがすっかり傾いたらしい。
最も定番のウォータースライダーは、時々アヒルさんが紛れるおまけ付きで、運よく流れてきたなら持ち帰って良いそうだ。中には泡を模した透明なボールに入っている子もいるのだとか。スタッフのうっかりでアヒル軍団が押し寄せてくる、かも?
星屑を搔き集めたひとすじといった天の川風のスタースライダーは、滑るたびに星の子たちがきらきら舞い上がって、夜空から囁きが落ちてくるような不思議な音色に包まれるだろう。滑り始めると周囲がプラネタリウムのような星空に移り変わり、もし星座を見つけることが出来たならば星になった者たちが姿を見せてくれる。星の欠片が落っこちてきたならラッキー。
ふわふわの雲の上をゆっくり滑るクラウドスライダーは、もこもこの子羊たちが流れてくるハプニング付き。もし耳に夏の花飾りを引っ掛けた子がいたならば、ぜひとも捕まえてみよう。ゴールで小さなふわふわの子羊ぬいぐるみと交換してもらえるから。
色彩豊かな絵の具が流れるインクスライダーは、空や地上、空間全てをキャンバスにして自由にお絵かきが出来るようだ。好きな絵画があれば想いに反映して描き出されるという。もしかしたら一緒に滑ってくれるかも。ゴールしたときに小さなアクリル絵画キーホルダーがいつの間にか手のひらに現れていたならば、絵画たちも楽しかったという証。
海をさらってきたような深い色を宿したマリンスライダーはそのまま滑ってももちろん楽しいけれど、クジラやイルカ、シャチにサメなど様々な海の生物の背中に乗って滑ることもできる。共に泳いでくれる子もいる上に、空をぷかりと揺蕩うものもいるようだ。まるで水族館の中を滑る心地を味わえるだろう。もしきらりと光る珊瑚を見つけたら触れてみるといい、魔法のかかった珊瑚はマリンモチーフのアクセサリーに早変わり。
もちふわマシュマロのスライダーにしゅわしゅわのサイダーが流れるスイーツスライダーは、カップの形をした飴細工のボートに乗って楽しむことが出来る。カップにカトラリーが備わっているので流れているサイダーやフルーツは魔法のおかげでもちろん美味しく頂けるし、周囲にはお菓子なシェフがたくさんいてお望みのスイーツを注文すると目の前で作ってくれるという。ぷかぷか浮いているものも自由に食べていい。美味しく頂いてくれたならスイーツモチーフの雑貨がボート内のテーブルにいつの間にか現れるだろう。
花筏のように夏の花から咲きこぼれた花びらが流るるフラワースライダーはとってもいい香り。ひとすくいした花びらや、ふわふわ舞い落ちてくるものを集めてコットンリネンのポーチに詰めたり、お好みの型に流したアロマワックスに閉じ込めてサシェを作ったりもできる体験付き。もし見たいと願う花の景色があるならば、きっと応えてくれるだろう。
「あれ? 七つしかありません!」
アンテロスが首を傾げると、額に|紅玉《ルビー》の二本角を戴く上背のある鬼がしょんぼりしつつ教えてくれた。
「それがなぁ、俺が考案したのは却下されてなぁ。結局間に合わなくて七つ止まりなんだ」
派手な彼岸花の羽織をぞろりと来た鬼に「そうなんですかぁ」と相槌を打ちながらアンテロスは緋幽楼を仰ぐ。
「ちなみにどんなスライダーだったんです?」
「ラーメンスライダーとお酒スライダーだ!」
「それは却下されて当然ですね!」
「仕方がないから軽食で振る舞うことにしたんだ」
「ラーメンって軽食なんですか?」
「大丈夫、お椀だから。わんこそばならぬ、わんこラーメン」
鬼が自信満々に言うように、軽食とスイーツは一つでお腹がいっぱいになりすぎないようにと小サイズもご用意。スライダーを滑り終えたら貰える半券で滑ったコースをテーマにしたドリンクも一杯サービスしてもらえるから喉を潤すにはぴったりだ。
スライダーを楽しんでいる間は、夜空を彩る花火はレイヤーを重ねたように見える。打ち上がり咲く音も近くなったり遠のいたり、ふしぎな音色に感じるかもしれないけれど、きっとお喋りの邪魔はしないはず。
時々アンテロスを見かけるだろうが、彼女はもう矢を撃つことはしないので写真撮影をお願いしてみたり、何かサポートしてほしいことがあれば声をかけてみるといい。きっと素直にお手伝いしてくれるから。
それは、ほんの気まぐれにも近い好奇心だった。
白雪あざらしのわたあめも興味を示していたのでカシエル・アズリオン(Blue Grace・h12926)は噂の緋幽楼へとやってきた。しかし、いざ到着してみれば目を引くものが七つもあって困ってしまったのだ。立ち尽くした足は、縫い留められたように動かない。
「失礼。何かお困りですか?」
「あ、いえ……その、どれを滑ろうか悩んでしまいまして」
後ろから呼びかけられ、とっさに言い訳めいた言葉を口にしながら腕の中のわたあめをぎゅぅ、と抱きしめる。
「なるほど。これだけ種類があれば、迷うのも無理はありませんね」
やわらかな言葉が落ちてきて、そこでようやくカシエルは声の主を仰ぎ見た。夜空に咲いた花火の光が線の細い頤をなぞっている。眼差しは、どこかほっとした様子だった。
(どうやら迷子ではなかったようだ)
藤代・玲慈(桜香の守り手・h12755)は眦を淡くやわらげて微笑むと、頭上を巡るスライダーを滑っていく笑い声を一瞥した。
「良ければ、一緒に悩みましょうか?」
ぽかんとした瞬きが数秒。
カシエルはおろ、と視線を彷徨わせたが、窺うように視線のみで玲慈を仰ぎ、ほんのわずかに首を傾ぐ。
「ご迷惑ではないでしょうか」
「迷惑を思うならはじめから声などかけませんよ」
――なんて。
嘘か本当か分からなくするために玲慈は密やかに微笑んだ。
「あ、わたくしカシエルと申します。お名前をお聞きしても?」
瞳に宿す清らかさは心の表れでもある。カシエルはどこかほっとしたような笑みを湛えながら礼儀正しく低頭した。
「カシエルさん、ですね。僕は藤代・玲慈といいます」
「玲慈様……よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
〇
子どもならみんな、一度は雲に乗れるのだと憧れる。
それが至極当然のように描かれるから、夢に見ることはちっとも悪いことではないはずだ。
「本当に雲の上にいるみたいです」
ふわふわとやさしく、でもどこかもっちりとした弾力があって華奢な体躯をゆるやかに運ぶクラウドスライダーは、きっと子どもたちが想像する絵本の通りなのだろうな、とカシエルは思った。
|青玉《サファイア》の宝石瞳がきらきら、ちかちかと瞬いているのはカシエルが楽しんでいるからなのだろうと初対面である玲慈にもよく伝わってくるから、それがなんだか嬉しかった。見知らぬ地でさみしい思いをさせたくはないものだ。子どもは、とくに。
静かに目元をやわらげていると、滑り始める未知がそうさせたのか、あるいは無意識か。カシエルがそっと腕を掴んできた。けれど、視線はきょろきょろとあっちへこっちへ忙しい。
「慌てなくても景色は逃げませんから」
――それとも怖いのでしょうか。
思っても玲慈はそれを言葉にはしなかった。ただ不安定になってしまわぬよう反対の手を添えて支えてやり、今だけはスライダーに集中できるようにフォローする。
ふんわりとした曲線を描く、はじめのカーブを曲がったときだった。ちょうど今しがた滑って来たコースが視界の端に映り、意外と緩急がついているのだな、なんて思った矢先。
「は、子羊がきました!」
ころころころ。ふわふわの毛玉を転がしたり、ぽんぽんと仲間の背中を飛び跳ねたりするもこもこ子羊の群れが、めぇめぇ鳴きながらやって来ることに気付いてカシエルの身体がちょっぴり浮く。
「わ、わ……!」
それは、もうすぐ背後までやってきている。
腕の中でそれまで大人しくしていたのに、ぽよんぽよんとお腹を揺らしてぴちぴち跳ねるから、さすがのわたあめも驚いたのかと思いカシエルは視線を落とす。
「わたあめ? どうしまし……」
きゅいーっとひと鳴きするわたあめのまったり顔が見つめる先。ぽぉんとふたりと一匹を飛び越え弾む真白のふわふわの耳に向日葵の花冠を引っ掛けた子羊が。
「! 花飾りをつけた子です!」
「おや、あれですか」
「捕まえましょう……!」
途端、我先にとダッシュしたのは何とわたあめだった。器用に身体をくねらせて先を滑り、ふわふわころころ、もちんっと弾んでいく子羊をぴゅーんと追いかけていく。
追いかける、と言ってもふたりはどうしていいのか分からなくて、後からやって来た子羊たちにもみくちゃにされながらも、夏の花だけは決して見失わないように。カーブを曲がり切れずに衝突した子羊をわたあめがかぷり! コースアウトしそうになっている二匹に飛びついてキャッチするカシエルと、その細い腹に腕を回してコースへと一気に引き戻す玲慈は、仰向けに雲の上に倒れ込んだままゴール。
「お見事です」
しっかりと腕の中にわたあめと向日葵を被った子羊を抱いているカシエルを起こしてやったあと、玲慈は軽く拍手。
胸が、どきどきしている。
カシエルは高揚からすこし唇を震わせていたけれど、ほどけるように笑みを浮かべて甘く微笑んだ。
「ありがとうございます。とても……楽しい思い出ができました」
「今日の良い思い出になれば何よりですね」
ふたりはふわふわ雲のマットの上でしばらく、そんなふうに笑い合っていた。
すぐそばにあるヒュッテ風の受付には、大小さまざまな子羊のぬいぐるみがみっちりと並んであって、わたあめと一緒にどの子をお迎えしようかとたっぷり悩むことになるのだけれど、ヨーグルト風味のドリンクに子羊チョコレートとお星さまゼリーが浮かんだドリンクがあればそんな時間も楽しく過ごせるのだった。
「こんなに大掛かりなのを七つも用意してくれるなんて。緋幽楼の主は気前がいいこと」
額に手を翳して九重の塔を仰ぐ篭宮・咲或(Butterfly effect・h09298)は「ねえ?」傍らの少女に呼びかけようとして、落とした視線の先にある横顔がきらきら輝いていることに気が付いた。それは夏の空に咲く花火に磨かれているからではない。
「わ、ワァ……素敵なスライダーがこんなにもたくさんっ!」
声はちょっぴり震えていた。
「特にあそこのスタースライダーなんて、あんなにきらきら、ぴかぴかに輝いてて……!」
あっちへこっちへ視線を飛ばして映す数多のきらめきは架間・透空(天駆翔姫・h07138)の瞳を彩るようだった。瞬きすると星の欠片が落っこちてきそうだ。
「ふふ。そんなに楽しそうにしてくれると、一緒に来た甲斐があるってものよ」
「こうしちゃいられませんっ! 行きましょう咲或さん!」
「スライダーは逃げないから、透空の気になるとこから順番に行こ」
なだめるような言葉は、しかしわくわくが止まらない透空の耳にはどうやら届いていない様子だったけれど、夢中になっている姿は微笑ましいから咲或は淡い微笑を湛えたままだった。
〇
|宙《そら》の星をコップで掬って透き通った水面に流したような流れだった。膚に触れるそれは冷たいような、でもどこかやさしいぬくもりを感じるようなふしぎな心地がする。
滑り始めるとしゃらしゃらと可憐な音色が鳴って、まるで耳朶をくすぐるイヤリングのように寄り添っている。飛沫をあげる星屑の囁きかと思われたそれは、どうやら星の子たちの笑い声らしかった。
命の輝きとも思える儚い光がきらきら夜空へ舞って、祈りのようなまろい音色でふたりをやさしく包む。
「わ、わぁ……こんなに近くで星の子さんたちがきらきらって……!」
「確かにこれは音でも楽しめる天の川ね」
星の子たちは喜ぶふたりを歓迎するみたいに、あるいはそう、照れたようにしゃらりと笑う。
「まるで天の川でダンスしているみたいで……すっごく、すっごく楽しいです!」
「ふふふ、それはよかった」
プラネタリウムの空に浮かぶ星もいいけれど、近くで味わう星も悪くない。だって人工の星はこんな風に手で掬えないもの。流れる星屑を一掬した咲或は、ふうっと吐息して夜空に散らす。還ってゆく星の子たちは花火に融けるようにまた笑う。
「あれ……ペガスス座かしら……」
星の子が飛んで行った方角に、翼が生えた天馬の姿を現す星座を見つけた。
「ということはあっちがアンドロメダで……秋の大四辺形か」
「どれですかっ?」
「ほら、そこの上下に広がってる先にある四角いの」
「おお……これが秋の大四辺形……! 教えてくれて感謝です、咲或さん!」
にんまりと猫みたいに双眸を細くした咲或が星空に視線を戻したとき。
艶やかな栗色の鬣に、天使のように美しい羽を背負った白馬がじぃっとこちらを見つめていることに気が付いた。「あ」と思ったときには蹄が星を蹴って、しなやかな体躯が空を駆けてゆく。羽搏きは星の子たちをころころとあっちへこっちへ転がして、賑やかな囁き声で束の間賑やかになる。
「ということは上で輝いているあれがカシオペヤ座ってことですね!」
わあ、と歓声を零した透空は、天馬が昇っていくその背中越し、天辺にほど近い北極星のすぐ下に見えるWの形に並ぶ星を指差した。
「あら。よく知ってるじゃない」
「ふふーん! この前、お星さまに詳しい友達に教えてもらったんです!」
「教えてもらったことをちゃんと覚えてるなんて感心ね」
透空はきっと、今日いちばんの笑顔を浮かべたに違いない。
〇
「はい、お手をドーゾ」
ふわふわ雲のゴールに到着して、透空はしばらくほんわりとした心地に包まれていた。
「迷っちゃうといけないからさ」
差し出された咲或の手を握りながら周囲に視線をくべると、ヒュッテ風の受付や売店には大勢のひとが居るし、なにせこの暗さだ。花火が照らしてくれるとはいっても、よそ見してしまえば分からなくなってしまいそう。
「休憩がてら、さっきもらった半券のドリンク飲みに行こっか。天の川テーマのドリンクどんなのだろうねぇ」
「ふふふ……天の川テーマのドリンク! とっても楽しみですね!」
ふたりはしばらく、黙っていた。
互いの髪に、ちいさな星の欠片がぴかぴか光っていることを。
それに気が付いたのは、透明なグラスに注がれた深い藍色から青、紫からピンクへと移り変わるソーダに白いヨーグルトソースが流れるドリンクにずっと、ずぅっとひとつだけちかちか瞬く光があることに気が付いたとき。
アドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)は視線を搔き集めることには慣れている。だからそれを一々煩わしく思うこともなければ、わざわざ視線をくべてやるつもりも毛頭ない。そんな慈悲をくれてやるに値すると思えないからだ。
しかし白櫻・御影(雪皓の櫻刃・h13676)は、ほとんど好奇心のようなその視線の意味に、しばらく気が付かなかった。
(みんなの視線が主に……ああ、この人きれいだもんね)
それに、今日の主は肌の露出の多い水着を召しているし、その肉体の美しさはガウンを羽織る程度では隠し切れないものだ。一々反応していてはきっと主も疲れてしまう。
そんな御影は膝丈の黒いサーフパンツに、ラッシュガードで上体を秘しているのだが、顔立ちの美しさはやはりこちらも隠し切れていない。御影にも同じように視線が集まっているのだが、己にさほど頓着しない付喪神が考えることと云えばどんなときも主のことだけである。
どん、と腹の底に響くような音が立ち、ふたりの意識が夜空に持ち上がる。
「……花火か」
アドニスの気を引いたのは、瞬きすれば散ってしまう天を彩る華であった。
「ここ夜空に……|花火《そらの華》が見えるんだね」
「そのようだね」
どこか茫洋とした眼差しで、浮世を瞬かせる天の華を見つめている。その横顔はまるで懐かしいものを見ているかのように穏やかだ。
御影は少し迷ってから、
「――主、あれ乗ろ」
ガウンの袖を軽く引っ張った。
あれ、と指差す付喪神の人差し指を辿ったならば、アドニスの|紫宝珠《パライバトルマリン》の宝石眼に映ったのは、空中を揺蕩う花筏。
はらり、ひらりと儚く花びらを散らすフラワースライダーへと導かれるように手を引かれるアドニスは意外にも大人しい。
「スライダー? 花が流れている」
ただ空を巡る不思議なまやかしかと思えば、どうやら違うらしいことを窺い知る。
「こういったものは乗ったことがなかったな」
そういう施設があることは知っていた。それに樂園に遊園地を作ると言った手前、何も知らぬままでは作れまい。こういった遊具のことも知っておくべきか。
素直に受け入れる寛容さはあるのね、なんて雛女が脳裏で囀った気がするのでアドニスは手のひらで掬った花びらで追い払った。
「主を前において、よし」
「君が前に乗るのではないのか」
そうと口にした時にはもう、ふたりの身体は薔薇に埋もれるようにして滑り始めていた。
「なんだ薔薇が……これがスライダーなのか?」
花筏はゆるやかだった。スライダーなのだからもっと勢いよくすべり落ちる刹那的な楽しみ方をするものだとばかり思っていたので、アドニスはすこし拍子抜けする。
「空の花も目の前の花も。ぜんぶ、きれい」
しかし御影が言うように、鼻腔をやわらかく抜けていく花の香りや天に咲く花火も、それから身を包む花筏の美しさもすべておだやかに楽しむことが出来るのは――。
「これはこれで悪くはない」
唇に淡い笑みを乗せたアドニスを、御影は見ることができなかった。
「主、もういっかい」
「また?」
ゴールに待ち受ける花びらのプールに身を沈めたとき、意外にも楽しいものだとアドニスはほんのりと心をほぐしたものだが、どうやら付喪神は何かの楽しさに目覚めてしまったらしかった。
「これ、たのしい」
手を引かれてしまえば振り払うことはできない。子どものようにねだられると無下に出来ず、仕方ないと口にしながらも抵抗はせず共に滑ってやる。
薔薇は何度だって溢れた。それは誰かの願いであったのかもしれないと思えるほどに。
でも、御影の目をふわと惹いたのは。
「今度はハイビスカスか。夏らしいといえばそうだな」
「ばさぁ」
「……何故私に花をかける?」
「ん? 一番きれいな|華《アドニス》に似合うから」
純真たる言葉にアドニスは礫を喰らったように瞬いた。
「ふぅん……おだてても無駄だよ。でもそれは受け取っておいてあげる」
「……おだて? なんの話?」
そうだった。御影はそんな|子《宝刀》だった。
ふしぎそうに首を傾げる御影から隠れて笑うアドニスは、視界の端を掠めたその彩に双眸をゆっくりと見開いていく。
ひらり。
舞い降りてきたそれは、桜の花びらだった。
二枚だけ、てのひらの中へとやってきた桜を、飛んで行かぬようにそうっと指先で閉じ込める。なんとなく、御影はそうしなければならない気がした。
そういえば。この花びらたちを連れて帰っても良いらしい。透け感のあるオーガンジーの小さな巾着袋を貰っていたことを思い出した御影は、薔薇と桜に赤花を同じ形にしたサシェをふたつ。
「これは、受け取ってくれる?」
そのひとつを差し出すと、素知らぬ様子で天の華を仰いでいたアドニスは漸う視線を落としてから振り返る。
「……桜が、あるならば」
「うん、よかった」
鮮烈なまでにあでやかに、その妖艶をやさしく包み込むような儚さが寄り添った花びらを瞳に映す男の表情の意味を知る者は、きっと誰にも分からない。本心を裡の、更なる底へと沈ませた自分にすら。
「たくさんのスライダーがあって迷いますね」
「はい……どこも大盛況のようです」
夜空を巡る様々なスライダーを物珍しそうに見比べるシンシアと境華は思案顔。
「境華さん、時間と体力の許す限り色々いきましょう!」
ぐ、と握りこぶしを作るシンシアの爪先は、いちばん人気であり王道のウォータースライダーに向いている。
頷いた境華の右足が一歩踏み出されたのを見て、足並みを揃えるように歩を進め始めたシンシアの横顔は、花火に照らされてきらきらだ。境華はその様をこそりと盗み見て、唇に淡い微笑を乗せている。
「いってらっしゃーい」
身を投げ出すような滑り出しだった。傾斜と水流は呆気なく少女たちの身体をどんどん押し流して、絶えず繰り返す花火のきらめきに飛沫という雫の花を散らして彩っているのが美しい。
こつん、と何か背中に当たった気がしてシンシアは首だけで振り返る。
「わっ、アヒルさんが」
仰天の言葉につられた境華が、すぐ後ろを滑ってくるシンシアの様子を覗き込んだとき。ちいさな黄色い大群がぷかぷかどんどこ押し寄せてくるところであった。
「……な、なんだか多くないでしょうか」
はじめは一匹、二匹と可愛らしかったのに、それは瞬きの間に増えてゆく。
「わ……こんなにいるのですか?」
「ね、境華さんもそう思いますよね!?」
もはや水流ではなくアヒルに押し流されるような絵面になっている。怒涛、という言葉がぴったりな迫力に目を丸くしてしまうけれど、互いの頭や膝の上にいつの間にかちょこんとアヒルを乗せていることに気がつくと、すぐ笑いに変わるのがふたりのいいところ。
そうしてくっついてきたアヒルと一緒に向かったのはふわふわなクラウドスライダー。
「雲の上を流れるとの触れ込みは本当だったんですね」
「可愛らしいですね」
まるでふわふわと無重力に揺蕩うような心地がして、瞼を閉じたらそのまま寝てしまいそうな気持ち良さ。ふわふわもふんとゆったり滑ってゆくシンシアは、ぬいぐるみの上を転がるようなおだやかな流れにすっかりと目を奪われた様子の境華を振り返る。
「境華さん、耳飾りしている子は見つけられましたか?」
「……あ」
それはほとんど同時だった。
メェェ、と後ろから追いかけてくる鳴き声に視線を向けるより早く、もふんとしたやわらかな衝撃が背中を押す。腕を持ち上げて脇の下から覗き込むと、頭に朝顔の花冠を乗せた子羊がすぽっと顔を出してこんにちは。
「見つけました!」
驚かせないようにそうっと抱っこすると、ふわふわあったかな子羊がまたメェメェ。
「わっ、すごーい!」
ぱちぱち拍手してくれるシンシアに、境華はちょっぴり誇らしげ。
アヒルに続いて子羊ぬいぐるみを手に入れたふたりは花筏のように夏の夜を揺らめくフラワースライダーに到着。香りは遊びで火照った身体をなぐさめるようにやさしくて、ほう、と吐息が何度も零れてしまうほど。
ふたりが滑った軌跡を描くようにふわりと舞う花びらや、花火から咲きこぼれたように舞い落ちてくる雪紛いの花びらを夢中でせっせと集める境華は「うわわーっ!」というシンシアの悲鳴に気が付いて慌てて振り返る。
花びらがたくさん欲しくていっぱい集めると意気込んでいた彼女のラタンのかごは底が見えるほどすっからかん。どうやらカーブを曲がるときの揺れで集めていたほとんどがふわり逃げ出していってしまった様子。
「そんなあ……」
「シンシアさん、大丈夫ですよ」
しょんぼりしているシンシアに向かって、境華は自分のかごを少し持ち上げる。
「せっかくですから、半分こにしましょう」
手の平でやさしく掬い上げた花びらを、そうっとこちらのかごへと注ぐ境華の仕草を見て「え、いいんですか」「半分こ?」シンシアは目を丸くする。
「二人で集めた方が、きっと素敵なものになりますから……ね?」
「ありがとうございます、境華さん。大事にします!」
微笑みかけてくれる境華に、シンシアの胸はじんわりあったかくなる。この大切な花びらを逃がさないためにも、最終難関であるゴールを華麗に決めなくては。
「アヒルさん、子羊さん、力を貸してくださいね!」
えいやっと二匹を蓋代わりにかごを閉じたシンシアは、胸に抱きしめてぽーんと投げ出される勢いに身を任せる。でもそれは案外やわらかな到着だった。
それに、花びらプールで新しく集めることも出来たのだけれど、ふたりはちょっと足すくらいであとはもう自分たちで集めた花でお揃いのサシェを作ることにしたのだった。もちろんドリンクも、それぞれのスライダーでミニミニを作ってもらって三杯分。
影絵となった木々の涯てで、天の花が次々と夜空に咲きこぼれている。打ち上げる音に伴うように遠くから聞こえてくる笑い声は平穏を守れた事実を齎すようでクラーラはようやく安堵できたように思い、吐息する。
「先程はお疲れ様でした」
飛燕剣を仕舞いながら傍らの少女に呼びかけると、柘榴のように赤く熟れた瞳がやわらに細められた。
「あの」
さて、どうするかと思案したとき、少女――わるつから呼びかけられ、視線が落ちる。
「よかったらご一緒しませんか?」
意外な言葉だった。
「私、もっとお姉さんのことが知りたくって」
「良いのですか?」
意外ではあったが、嫌ではない。クラーラは身体ごと向き合うと口唇に笑みを乗せて軽く低頭した。わるつもそれに倣う。
「では、喜んでご一緒させてください。改めて、クラーラ・ミュスティアウゲンといいます」
「私は吉祥わるつっていいます」
そっと手を取り合う挨拶は、やさしい温度がした。
近くで見るスライダーはふわふわ雲やマシュマロなど、他では中々お目にかかれないような個性的なものばかりでどれも気になってしまう。
「……あ、このお花のスライダー! いい香りがするんですって」
つい夜空に架かる花筏を指差してしまったわるつだったが、きらきらと瞬くような笑顔から溢れる喜色の気配はクラーラに伝わっていたようだ。
「夏の花の香りがするなら、目隠しをしているクラーラさんも楽しめるかも」
「香りも楽しめるスライダー……その気遣いを有難く思います。では、フラワースライダーへご一緒しましょう」
さぁっと清涼な風が抜けていくような音が繰り返している。水の流れというよりは、風に乗った花びらと共に夜空を滑ってゆくような、そんな軽やかさであった。金魚のインビジブルが数匹混じっているので、まるで透明な存在になった気分。
「綺麗……それに本当に花の香りがします!」
舞い上がる花びらは夏を彩るかぐわしい香りをしゃぼんのようにぷかぷか揺蕩わせ、鼻先をくすぐってやさしく包む。
「この花弁は青色でこっちはピンク。色とりどりとやさしい香りがいっぱい!」
手の平に集めた花びらの仔細をクラーラに伝えるわるつの声は、耳を澄ませなくても弾んでいるのがよく分かる。声音に滲んだ楽しむ心まで感じたくて静かに耳を傾けるクラーラは、もうずっと淡く微笑を湛えていた。
「青い花と、ピンクの花……ふふ、色も一緒に伝わるというのは、悪くないですね」
摘まんだ花びらは輪郭を辿るのがむずかしい。
けれど、せっかく一緒に遊べるなら同じくらい楽しんでもらいたいという、清らかなわるつの願いが美しい花を眼裏に咲かせてくれるようであった。
配布されていたものからリネンのポーチを選んだふたりは、スライダーでかき集めた花びらを潰さぬように、宝物を仕舞うようにそうっと閉じ込めていく。
「ふふ、お土産です」
白いレースのリボンが通されたリネンのやわらかな手触りと、陽だまりが花開かせた控えめな香りを確かめて、クラーラはちいさく頷く。どうやらうまくサシェを作れたようだ。
教えてくれたわるつに礼を添えながら、
「良い記念になりました。わるつさんとこうして過ごせたことも含めて」
感謝を伝えると、少女はやっぱり明るく応えてくれた。
「こちらこそ! クラーラさんと出会えた記念!」
大切にしたい。手の平にころんとした小さなサシェは新調したばかりのポーチにも入りそうだった。
「また、ご一緒できれば嬉しく思います」
「私もまた、クラーラさんと色んな場所に行きたいな」
花がふわりと香るような、いつ咲くかも定かではない約束だけれど、そう遠くはない頃にまた出会えることを願ってふたりはドリンクで乾杯。
白や水色、ピンクのエディブルフラワーが揺らめくのは、今日の真昼の夜空みたいな藍色のしゅわしゅわソーダ。ぱちぱち弾ける花火ゼリーがアクセントになっていて、またひとつ楽しい時間を重ねることができるのだった。
「へぇ……すごいな、見たこともないのが沢山ある」
花火から咲きこぼれたと思しき光が、ひらり落ちてくる。イサが手のひらを差し出すと、それはしゃらりと笑う星の子であった。どうやら頭上に架かる天の川からはぐれてきたらしい。そうっと天に向かって息を吹きかけると、きらきらとした瞬きをさよなら代わりに夜空に昇っていった。
「ララはどれ滑りた」
「イサ! イサ、スライダーにいくのよ!」
振り返り投げ掛けた言葉とほぼ同時に「ほら」「はやく」ララに手を引かれたイサは、七種類もあるユニークなスライダーをきょろきょろと見渡しながらもずんずん一直線に向かっている先を仰いで半目になる。
「……愚問だったな」
――知ってた。
聖女サマは食いしん坊だって。
半ば引きずられるようにして連れてこられたのは、ふわふわ雲みたいにもちっと膨らんだマシュマロスライダー。流れるしゅわしゅわサイダーはぱちぱちと弾けるたびに爽やかで甘い香りを|飛沫《しぶ》いて、天に咲く花火にきらめきを添える。
「イサ、いくわよ」
薄い桜色の飴細工ボートに乗り込みながら、むふふと笑うララはすでに腹ペコだから。
「フルーツやスイーツを余すことなく捕まえなさい。ララが全部食べるわ」
右手にナイフ、左手にフォークを握り締めたララは準備万端。イサは額に指先を添えて腹の底からせり上がってくる思いを溜め息として吐き出すと「はいはい」「わかりましたよ!」ララの対面に腰掛ける。
「フルーツを捕まえればいいんだろ!」
腰を掛けた瞬間、ティーカップの形をしたボートがゆるり動き出す。送り出すためにか、少しサイダーの流れる勢いが増したようでひときわ強く香ったと思った矢庭に、華奢なふたりを乗せたそれは呆気なく甘いビュッフェへと旅立った。
「さぁ、しゅわぱちと共に滑るのよ!」
滑り始めて間もなく、後ろから追いかけてくるのは瑞々しいイチゴに弾けるオレンジ、艶々のブドウにたっぷり熟したメロンやキウイ。フルーツを捕まえようとグラスを伸ばすと、まるで自ら望むようにララの元へとぴょーんと波に乗ってやってくる。それをひと掬いしたならば、迷うことなくぱくり。
「むふふ……とっても美味しいわ」
しゅわしゅわぱちぱちと口内を刺激するほのかに甘いサイダーをまとったフルーツは果汁たっぷり。それだけで喉を潤してゆく。しかもご丁寧に皮を剥いて一口サイズにカットされているから、食べる手が止まらない。
さくらんぼにスイカ、桃にりんご、凍ったみかんまで次から次へと流れてくるフルーツを一心不乱に捉えては、口に放ってもぐもぐするララの姿にはイサもたまらず笑ってしまう。
「イサ! 葡萄を逃しているのよ」
「あっ、ホントだ」
ぽーんとボールのようにサイダーの波を弾んでゆくブドウとマスカットを逃してしまい、代わりにのんびりくるくると水面を回転しながら流れてきた半月キウイをララへと差し出す。
「代わりにキウイ捕まえたからいいだろ」
でも第二ウェーブのブドウがやってきたときは、タイミングを見計らって見事キャッチ。いまにもとろけて消えてしまいそうなくらい柔らかい桃を頬張るララのグラスにころんと数粒転がすと、それは宝石のようにきらめいて美しい。
「ララがとったさくらんぼもイサに分けてあげるのよ」
「え? …分けてって……」
「ほらあーん」
イサは数瞬、固まった。
ぱちり、と瞬いている間にララの瞳のように赤いさくらんぼが差し出されていて。
「仕方ないな。食べてやる」
んん、と咳払いを一つして、イサは指先に唇が触れぬようそっと食む。美味しいはずだけれど、さくらんぼの甘酸っぱさはよく分からなかった。
そんなふたりを――おそらく――にこにこと微笑ましそうに見ている気配がちらほらと。頭がケーキやマカロン、シュークリームといったお菓子なシェフたちが、スライダーの両サイドからこちらを窺っている。
ちょっとだけ、む、と口をへの字に曲げたイサは、プリン頭のシェフを人差し指で呼んで、注文をひとつ。ぷるんと弾けたシェフはまるで魔法を紡ぐようにあちらこちらから材料を吸い寄せて、イサの望むものを作ってくれた。
「ほらプリンアラモード注文してきたぞ。食べろよ」
「あら、プリンアラモードを注文してくれるなんてやるわね」
ちょっと固めのぷるぷるプリンをひと掬い。生クリームといちごと一緒に頬張ればララの舌を賑やかに美味しくさせる。
「この分だとそのうち、うな重スライダーができるわ」
「うな重スライダー」
イサは少し考えてから。
「……難しいんじゃない? と思うけど」
でも、こんなに都合がいいもので目白押しなら、オーナーの気まぐれが案外認められるかもしれないから。出来たらいいなって、前向きに肯定。
「待ち遠しいわね」
――それに。
(笑った顔がやっぱり可愛いから)
それがどんなに夢のような思いでも、ただの夢だと笑ってやりたくはなかった。どうせ笑うなら、無邪気に楽しむ今みたいな笑顔を見ていたい。
ゴールに到着して一息ついたイサは、ボートから下りるララへと手を差し出しながら周囲を見渡した。すぐ隣に深海を掬ってきたような美しい青のきらめきが流れている。
「次はどうする? マリンスライダーとかも……」
「次? おかわりよ、イサ!」
言い終えぬうちにララが手を握り返して駆け出した。
「……おかわり?」
ぽかんとしたのも束の間のこと。
イサは、ふ、とほどけるようなやわい笑みを浮かべて、肩を並べるように走り出す。
「――知ってたよ。次は何食べようか?」
望むものは何でも作ってあげる。
うな重はちょっと、きびしいけれど。
他人がどう見ようと、どう思っていようと、氷月にとって芥は悪友であり相棒だ。この男の隣はずいぶんと息がしやすいから、そんな心地をつまらない些事で喪いたくはないと思う。
「複数スライダーがあるなら楽しめそ……」
「ほらほら早く!」
夜空を奔り、巡るスライダーを仰いでいた芥が言い終えぬうちに、氷月はその手を取って歩き出す。
「おい、もう駆け足じゃねーか」
くつくつ喉奥で笑うような言葉が追いかけてきても構いやしないのは、それほど楽しみにしていたということだろうか。
長い足をコンパスのようにしてずんずんと進む氷月の待ちきれない様子はまるで子どもそのもので。そんな背中に投げ掛ける野次なんてないから、芥は大人しくついていく。
「凄い、本当に海みたいだよ!」
「すげえ、海のギャングもいる」
氷月が真っ先に向かったのは藍色の夜空よりもうんと深く、それでいて青く世界を透いた美しいスライダー。水底には白い貝殻や珊瑚、深海のお魚が眠るように泳いでいて本当に海を掬ってきたみたい。
スタート地点は横に広く、そこにイルカやサメなどの海の生物がスタンバイ。すきな子を選んでいいという。
「えっ、背中に乗って滑れるの?」
「シャチ乗せてもらお」
「俺も、俺もシャチがいいー!」
どうやら種類は一匹ずつしか居ないようで、先を越されたーと氷月は駄々こねを発揮。何となく予想が出来ていた芥は、シャチの背びれに掴まりながら自身の後ろで顎でしゃくる。
「ほら、一緒に来いよ氷月、掴まれ」
「やったー!」
にぱっと満面の笑みを浮かべた氷月はひょいとシャチに搭乗。がっしりとした芥の身体に遠慮なく掴まって準備は万端。
「スライダーへGO!」
こぶしを突き上げると、掛け声に応じるようにシャチがびたんと尾を叩きつけて滑り出す。ぎゅん、と一気に加速するのはほとんど落下に近い。
けれど、最初のコーナーを曲がったあたりでシャチのスピードとリズムに慣れてくると、神様が戯れに流した海の一滴といったスライダーを気ままに泳いだり、コース外でインビジブルと一緒に揺蕩うクラゲたちを観察する余裕が生まれてくる。
「一緒に游いでる気分になれるな」
後ろから追い越していったジンベイザメが眼前で着地。大きな飛沫となってふたりを襲う。ぷは、と息を吐いて酸素を取り込んだふたりは、まさかのハプニングにけらけら笑い合う。
「サメやクジラも間近でレアじゃねぇ?」
「わーすごーい! あ、亀もいる!」
お喋りできない? なんて声を掛けてみるけれど、耳が遠いのか亀はゆったりゆったりヒレを動かして天の花が咲く夜空へと昇っていく。
「あれって、しぬの?」
昇天じゃない? って亀を指差す氷月の言葉に、芥は咳き込んだ。
「アザラシがぽよぽよしてるー!」
「……ちょっとだけ腹撫でてイイか」
「ねえ見て! 白いエビフライがある!!!!」
「何言って……白いエビフライがあるな……乗ってるな」
ぷにぷにアザラシの背中にちょこんと添えられた白いエビフライの正体は、どうやら子どものアザラシのよう。しっとりと黒く濡れた瞳でこちらをきゅるきゅる見つめる子どもアザラシをふわふわ撫で、お母さんアザラシのもちもちボディを堪能していたらあっという間にマリンスライダーは終了してしまう。
「あー楽しかった、バイバイシャッチー」
「またな、シャッチー。……いつの間に名前を?」
「今!」
〇
「ね、次は天の川いこ!」
べつに逃げたりなんてしないのに、氷月はまた芥の手を取ってぐいぐい引っ張る。
「今度は俺達が流れ星」
――なんて。
冗談めかしてしまいたくなるのも分かる。
だって銀河から星屑を一粒ずつ攫ってきたみたいに、ちかりちかりと瞬く光は夜空に咲きこぼれる花火より儚く、それでいて眩いものだった。踏み込む矢庭に更なる夜が広がり、いっそう暗さを増した宙には今にも降ってきそうなほどの星々が巡っている。
「凄い、さっきとは全然違う。一気に夜空だ」
見上げているのに、まるで落っこちてしまいそう。立っているのか、座っているのか、分からなくなるくらいの果てしない銀河にとろけるかのようにふたりは暫し見入っている。
「あ、ねえねえアレしし座じゃない?」
ふんわりと揺蕩うようなゆるやかさで宙を巡っていると、氷月がとんとん腕を叩いて意識を手繰り、身を寄せながら夜空を指差した。
「……え、アレ獅子座なのか?」
でも百獣の王はいつまで経っても出て来やしない。
「なんとなくだよ、星座って言ったもん勝ちでしょ? ねこ座とか言ったらにゃんこ出てこないかな!」
「はは、なんだそれ、猫が降ってきたら面白いな」
双眸を細くするように笑んだとき、視界の端で煌めく欠片が軌跡を描きながら落ちてくるのが見えて、芥はとっさに掴む。指先を広げると、金にも銀にも見える淡い輝きが呼気のリズムで明滅していた。
「それ何? 星?」
「ん。氷月にやるよ」
「いいの? んふふ、ありがと」
ぎゅと欠片を握り込むと、それはちょっぴりちくちくして気持ちがよくて、ひんやりしていた。
〇
「水がインクだ」
ひっくり返したバケツから鮮やかな色の流れが束になって空中を駆け巡っている。飛沫もカラフルで肌に触れると当然色付くけれど、すぐにとけるように消えてゆくので安心だ。
「お絵描きしようよ、一緒にさ!」
すこし大きな画材を手に取りながら氷月が提案すると「げ」芥から嫌そうな反応が返ってきて、ぱちぱち瞬く。
「あれ、でも芥って画伯だっけ?」
パレットで口元を隠してチェシャ猫よろしくにやぁっと笑うと、むっとして軽く睨みつけられた。
「画伯って言うな。……ちょっと不得意なだけだから」
言い訳めいた言葉に重なったのはコンッとひと鳴きする狐。空に描かれたしなやかな体躯の獣は、スタート地点に着地すると「行かないの?」とこちらを振り返って尻尾をふりふり。
「れっつごー!」
氷月が狐と共に滑り始めたのを見てあとに続いた芥は、空に描かれた一連の様子からパレットと筆に視線を落としてじぃっと見つめ。観念したように吐息をひとつ。
「俺も、じゃあ……何か描く」
頭に思い描くのは簡単だ。
でもそれを絵に起こすのがむずかしいのは何故だろう。ただのりんごだって難関な気がする。
「できたぞ、何かわかるだろ」
「んー?」
「氷月、当ててみろ」
狐の尻尾をもふる一方、インクで装飾を描いてやっていた氷月は首だけで振り返る。そのピカソめいた前衛的な色使い、造形、先にパッションが伝わってくるような生物が宙にふよふよ浮かんで「どうよ」とポーズを取っている。
「うん? ソレ? んー強そうだから熊……?」
「耳と尻尾があるから猫なんだが……?」
「猫? アレ耳でコッチ尻尾? っはははははは!」
インクの波を後ろ足――ではなく尻尾――で滑り始めた謎の生き物を指差して氷月は大笑い。
「あははっ! やっぱ芥の絵は面白いね!」
「くっ……お前の狐よりはちょっと歪だよ知ってる」
ぎりぃ、と奥歯を食いしばると狐と謎の生き物――猫にそれぞれ両肩をぽん、とされて余計に落ち込む芥であった。
「さっきのお礼にあげる!」
ゴールにたどり着くと、描いた狐がぽんっとキーホルダーに大変身。クリア素材なので世界を透いて色付くそれは、きっとどんな色にもやさしく染まるのだろう。
「狐のキーホルダー? くれんの?」
氷月は言葉の代わりに満面の笑みを浮かべている。
「じゃあ、有難く」
しっかりと手の中に握り込んで――気が付いた。
「じゃあこっちやる」
それは芥が描いた猫のキーホルダー。ご丁寧にきちんとグッズ化してくれたらしい。
「え。狐のオトモダチにしたら?」
「要らないってことか、そうかそうか」
「ジョーダン! 欲しい欲しい! あ、待ってよー! ねードリンク飲もうよー!」
にぎやかな気配は、まだ続きそう。
予感させるように手の平のなかの狐と猫が星の欠片と一緒にきらりと光った。
一青は考えた。
(夕星さんは未成年。となれば僕には彼女の安全を守る責任があるな)
幸いにして周囲は小さな子どもも安心して遊べるように対策が成されている様子。それでも彼女を大切に思う家族や友人たちを悲しませてしまう事態だけは引き起こしたくない。それは|警視庁異能捜査官《カミガリ》としてではなく、ひとりの大人として当然の責任だから。
「私もずっとこのスライダー気になってたの! お酒はもっと大人になった時にあったら挑戦したいな……!」
大人になったときのお楽しみはひとつでも多い方がいい。
ツィリはあちらこちらから寄越される誘惑に目移りしながら、今にも駆け出しそうになっている。
「待ちなさい」
その背中に向かって一青はすかさず待ったをかけた。
ぴたり、とツィリは素直に立ち止まり、振り返る。生真面目な表情が真っ直ぐこちらを見ていることに気付いたツィリは、ふしぎそうに首を傾げながら身体ごと彼の方を向いた。
「√能力者といえども、水の事故を舐めてはいけない。まずは準備運動からだ」
「……準備運動?」
溺れることはない。
自分のことは自分が良く知っているから、ツィリは真っ先に頭の中で否定した。でも一青がツィリの何もかもを知っているわけではないから、知らなくても至極当然のように気に掛けてくれるやさしさと、お兄さん心がくすぐったくって、うれしくって。そんなあたたかな思いを否定したくないから、ツィリは素直に「はーい」とよいお返事を。
通行の邪魔にならぬように隅っこでレクチャーしてもらいながら準備運動をしていると、通りがかった鬼が「感心感心」とふたりに彼岸花が描かれた飴玉をプレゼントしてくれたのだけれど、それが噂のオーナーだということにふたりは全く気が付いていなかった。
まずやってきたのは定番のウォータースライダー。
水色のスライダーには透き通った綺麗な水が勢いよく流れており、最初の一歩を踏み出すのはちょっと勇気が居る。けれど、空に打ち上がる花火のきらきらしい光を反射する水流に思い切って飛び込むと、あとはもう勢いに任せて身体がぐんぐん滑ってゆくのが爽快だ。
――それに。
「わっ」
こつん、と何か身体に触れた気がして覗き込む。黄色いアヒルが一匹、二匹。ぷかりぷかぷかと浮いて一緒に滑っていることに気が付いた。
「ほら、前を向いて滑らないと危ないよ」
とっさに背後を振り返ると、すぐ後ろを滑ってくる一青にそんな風に注意されるのだけれど、ツィリの視線は一青のもっと奥、滑って来たばかりのスライダーの上方を向いている。
「アヒルこんなに流れてるものだと思う……?」
じぃっと後ろを熱心に見つめているので、さすがの一青も気になってしまう。
「後ろ? 後ろになにが……って、うわぁ!?」
ちょうど一青が振り返った瞬間、大きなうねりをあげて大量のアヒル軍団が押し寄せてきた。
「アヒルに流されちゃう……!」
でも逃げ場なんてないから、押し合いへし合いしながら襲来するアヒルたちにぴよぴよぴいぴい押し流されるようにしてふたりはゴール。
「あ、それ」
「え? わあ!」
気が付けば両手にアヒルが一匹。それも泡を模した透明なボールに入っている。液体が入っていてアヒルはどんなに転がしても浮くようになっているらしい。思いがけぬ幸運に巡り会えてツィリの心はうきうき弾む。
そのまま続けて向かったのは花筏の美しいフラワースライダー。近付くたびにやさしい香りが鼻腔をくすぐってうっとりしてしまうそのスライダーは、やはりというか案の定というか、女性が多くて一青はちょっぴり気恥ずかしさを感じてしまう。
「でも、この香りには抗えないな」
やさしいのに時おり強く香ったり、鼻先をふわりと撫でてゆくのはまるで誘っているかのよう。流れも穏やかで春に揺蕩うそれと変わりがない。ゆったりとした滑り出しで、ツィリは降り注ぐ花びらを両の手のひらにそうっと受け止める。
「この香りと白い花……梔子かな?」
「梔子かあ、綺麗だね。佇まいというか、どこか夕星さんに雰囲気も似ているね」
思いがけぬ言葉にパッと朱を散らすように白皙の頬を赤くしてはにかんだツィリは、照れ隠しのように一青の手元を覗き込む。
「百日草……! カラフルで可愛い!」
鮮やかに色付く赤やピンク、黄色に橙の小さな花を手にした一青は眦をほんの少しだけ和らげるようにして笑った。
「名前のわかる花で良かったよ」
「一青くんの思い出のお花?」
「実家の庭に、これがたくさん咲いていてね。懐かしいな」
きっとそのお庭は一青の日々にささやかな彩りを添えるものだったのだろう。ツィリはまるで自分のことのように微笑みを浮かべると、手のひらに閉じ込めた花びらをそうっと抱き込んだ。
「軽食くらいはご馳走するよ。買ってくるから、すこし待っていてくれるかい」
ヒュッテ風の受付でサシェを作っていると、ふと思いついたように一青が席を立った。他にもサシェ作りをしている人たちがいるから、ここなら自分が離れても大丈夫だと思ったのだろう。
「いいの? ありがとう、ご馳走様です!」
「知らない男に声を掛けられてもついていっちゃダメだぞ!」
「大丈夫。戻ってくるまでちゃんと待ってます……!」
「いってらっしゃーい」
「ああ、いってきま……誰だっ?」
「スライダーを楽しんでくれてありがとう。緋幽楼のオーナーです」
ちゃっかりツィリの隣に腰掛けたオーナーは一青が戻ってくるまでツィリの話し相手になってくれた。お腹が膨れてしまわないように、エディブルフラワーがちょこんと添えられた海色の鮮やかなショートサイズのドリンクを一杯、お供にして。
「わー、すごーい! 花びらが降ってきてます!」
夜空に架かる花筏から、はらりひらりと零れ落ちてくる花びらを捕まえようとしている少女の姿を目にして、鳰はほうっと安堵した。
「良かった、アンテロスさんの楽しそうな声が聞こえます」
あの様子だと、もう推しカプ養殖計画だなんて馬鹿げた真似はしないだろう。少なくとも、今日だけは。
「んー? 本当だね、ちゃんと諦めて楽しんでるのなら良かったね」
えいっえいっとジャンプして花びらを両手に閉じ込めようとしているアンテロスの後ろ姿を、額に手を翳してのんびり見やるガクトは、
「ガクト様、此度もお疲れ様でした!」
律儀な鳰の言葉に視線を落とす。
「んー、鳰もお仕事お疲れ様。今日も頑張ったね、ご褒美に何か……」
ないものだろうか。
翳していた手を丸めて顎に添え、きょろりと緋幽楼の敷地内を見渡してみる。ヒュッテ風の建物があちらこちらに建てられており、どうやらそこでドリンクを配っていたり景品を貰うことができたりする様子。探せば土産物屋のひとつくらいでもありそうだ。
「褒美だなんて。お側に侍る事が幸せですのに」
鳰は慌てて主を止めようとする、けれど。
ちらり。
視線がすぐそばを駆け巡るスライダーを一瞥する。
「でも……折角ですし。ウォータースライダーに乗ってみませんか? 色々コースがあるそうで!」
「ウォータースライダー? あぁ、プールにある長い滑り台だっけ?」
次々と打ち上がる花火が照らし出すそれらは幾本ものコースがそれぞれに干渉しないように巡らされている。さきほどアンテロスが花びらを捕まえようとしていたのは、向日葵や朝顔などの夏の花が揺蕩い流るるフラワースライダー。そのさらに上に見えるのはしゃらしゃらと星の囁き声が聞こえてくるスタースライダー。なんだかとっても甘い香りのするしゅわしゅわぱちぱちと炭酸が弾けるスライダーもあって鳰が興奮してしまうのも頷ける。
我が主は何を選ぶのだろう。
|珍《めずら》かな遊具を眺めているガクトを仰ぎ見て、鳰はそうっと問いかける。
「コースは、どちらになさいますか?」
「んー、コース?」
「はい。茶屋処の店主としてマシュマロスライダー? 藤は晩春ですが夏藤のフラワースライダーならあるかも」
「ふむふむ、マシュマロのスライダーにフラワースライダー。確かにふたつとも興味あるね。鳰は?」
当たり前のように問われて、鳰は瞬く。
「私? ですか?」
鳰は口を噤んでから、ほんのりと眦を赤くしてその方へと視線を遣る。
「……アヒルのスライダーが気になり、ます」
「鳰はアヒルさん? お風呂に浮いてるアレかな? ご褒美だから鳰が滑りたいのにしようか」
「わあっ、ありがとうございます……!」
鳰は少女めいた笑顔を咲かせて、歩き出すガクトについてゆく。その足取りはちょっぴり弾んでいることに、もちろん気が付いているガクトであった。
「このボートに乗って滑るのですね」
そのまま滑ってもいいそうだが、ボートがあると水流の勢いをすこし相殺してくれるように仕掛けを施しているので、ゆっくり楽しむことが出来るのだとか。
「ヨイショ、と」
「ガクト様お早い!」
鳰がしげしげと眺めている横で、ガクトはさっさと乗り込み先に座っている。案外乗り気なのかも? なんて小さく笑んでいると「はい」手を差し出されて、ふわっとしたあたたかさが胸に咲く。
「恐れります」
指先の添えられた鳰の小さな手を握り込んだガクトは、そのまま彼女を自分の前へと座らせる。しっかりと腰を下ろしたのを確認したスタッフは「いってらっしゃーい」とボートを勢いよく押し出した。
「結構速いですね!」
ボートの機能でカーブは比較的ゆっくりに曲がってくれたものの、それでもやっぱり体幹を鍛えたふたりの身体は呆気なく重力に振り回される。しっかりと掴まっていなくては、ぽーんと投げ出されてしまいそうだ。でもそのスリルがまた一層楽しさを掻き立てるようであったし、何より速いからこそ風が心地良い。
「んー、一緒にアヒルさんも滑ってるね」
待ってーというふうに後ろから流れてくるのは黄色いころんとしたアヒルたち。水流のウェーブを難なく乗りこなすアヒルたちはあっという間に鳰とガクトに追いつくと、まるで寄り添うようにぷかぷか滑る。
「あちらのスライダーはマシュマロかな?」
「ふふ……後でマシュマロスライダーも乗ってみましょうね」
ふわっと香ってくるのは甘いスイーツの香り。零れ落ちてきたフルーツを運よくキャッチしたガクトは、宝石のようなマスカットを鳰にも分けてやりぱくり。
「なるほど流れながら食べる。面白そうだ。じゃ次はアレを滑ろう」
頬張ったマスカットはたった一粒でも瑞々しく口内を潤して、火照った身体を喜ばせるほどの美味しさだった。これなら他のフルーツもスイーツも期待できそう。
「鳰、気に入ったアヒルさんは居た?」
ちょうど隣をよいしょよいしょと一生懸命泳ぐアヒルを手のひらで掬った鳰は、それを両手に乗せてガクトを振り返る。
「ええ、愛らしいコが来てくださいました。あなた、ウチにおいでなさいな」
やさしく呼びかけると、黒いつぶらな瞳に咲いた花火が映り込む。まるで「やったー」って喜んでいるみたい。莞爾として微笑んだ鳰は前へと向き直り、膝の上にアヒルを乗せて天を仰ぐ。
「丁度流れる方向に花火が上がって美しいこと」
「うん。花火もとても綺麗だね」
まさかこんなに穏やかに夏のひと時を、花火を楽しむことが出来るなんて。それも、主と一緒に。ちょっぴりお騒がせもついてきたけれど、僥倖はやはりうれしくて鳰の表情がもうずぅっとゆるんでいる。
ごごごごごー。
「……? ガクト様、上流から何か音が……!?」
先に気が付いたのは鳰だった。
そっと背後を顧みた鳰に、ガクトの首が傾ぐ。
「ん? 花火の音? では無く」
言い終えぬうちに、それはやって来た。
もうほとんど黄色い波と言っても過言ではない大量のアヒル軍団が、まるで海賊のようにボートを襲ってきたのだ。「あ」と思う間に大群のアヒルに飲み込まれてしまったふたりはそのままゴールにどぼんっ!
空中に身体が投げ出された瞬間、ガクトはとっさに鳰を抱き上げた。おかげで水面に叩きつけられる衝撃も抑えられただろうが、それでも纏わりつくような数のアヒルたちはやっぱり息苦しくて。
「鳰、大丈夫かい? ――おや」
鳰は笑っていた。
「面白かった?」
それはもう。
微笑みを浮かべるといった具合ではなく、ころころと笑う少女のように、おかしさが溢れてたまらないといった様子で。
「ふ、ふふふ…! すみません、主にお守り頂くなんて」
いつもなら、ここで鳰は多いに反省しただろう。
でも今日はあんまり予想外のハプニングが楽しくて、おかしくって、もうこればっかりは仕方がないと零れる笑いを止められずにいる。
ふう、とひと心地ついた鳰は、まだ唇を緩めたまま、大きな主の肩を指差した。
「うん?」
「ガクト様の肩に、アヒルが」
「肩?」
そこには、なんだか眠たげな顔をしたアヒルが一匹、ちょこんとくっついている。
「おや、じゃ私はこの子を連れて帰ろうね」
ちょうどお腹も空いたので最後にお椀ラーメンとドリンクを頂いて行こう。
「アヒルさんのドリンクって、入れ物がアヒル? それともドリンクにアヒルが浮いてるのかな? 楽しみだね」
「アヒルドリンクとは気になりますね。早速参りましょう!」
果たしてその真実は――。
「どっちだと思います?」
なんて、スタッフに答えを秘されたふたりは、もしかするともしかして。二種類あるのでは? なんてわくわくが膨らんでしまって、ちょっと悩んでしまったのだけれど。そんな時間もまた楽しくて、いとしくて。やさしい時間を共に過ごしてゆく。
ひと夏の思い出作りに貢献してくれたアンテロスにちょっぴり感謝したのは、じぶんだけの秘密だ。