さんざめく星々よ
●泡沫人
夜の海は、昼とはまるで別の生き物のようだった。
太陽が沈み、最後のひかりが水平線の向こうへ溶けてから。海は月を映す巨大な鏡となった。遠い沖を行く船のあかりさえ、ここでは星よりも低いところで静かに瞬くだけ。
海の彼方から現れた島は、まるで誰かが忘れていった夏そのものだ。
しろい砂浜には月光が降り積もり、森の奥では淡い燐光が草葉の間に揺れている。魔法灯の普及した世界にあって、ここだけは夜を夜のままはっきりと残していた。
その浜辺へ続く道には、近隣の島々からやって来たのであろう屋台が幾つも並んでいる。木組みの店々を飾る魔法灯が夜風にゆらゆらと揺れていた。香ばしく焼けた肉、揚げたポメスに焼きたてのワッフル。果実をそのまま凍らせて削った氷菓子からは、ひやりとした心地よい冷気と甘酸っぱい香りが漂っている。
潮のにおいと菓子のあまさが混ざる夜の中を藤代・玲慈(桜香の守り手・h12755)はゆったりとした足取りで以って進んでいた。その隣では、ヰ弐琉・祀ヲ(月空フェルメニー・h12746)が星を散らしたような瞳を輝かせながら、屋台から屋台へ駆け回っていた。
「玲慈にいさん、こっちこっち!」
ちいさな手が伸びてきた。玲慈は手を引かれるまま歩きながら、柔らかな笑みを浮かべ視線を落とした。
「祀ヲさん、あまり急ぐと転びますよ」
「ボク、お祭りって初めてなんだよう。こんなにも屋台があって、人もいっぱいいるんだねえ」
忠告など聞こえていないらしい。その声には、心からの驚きがあった。
あれもこれもと指差していく祀ヲを見つめる。ケバブにポメス、ワッフルに氷菓子。見るものすべてが珍しくて仕方がないらしい。その無邪気さに、玲慈の目元がほんの少しだけ和らいだ。
「玲慈にいさんはどれが食べたい? ボクはね、ぜんぶっ」
「全ては食べきれないでしょうに」
「う〜ん……じゃあ、半分こしよう?」
「ええ。それでは、少しずつ分けるようにしましょうか」
そうして始まるのはちいさな宴。ひとつを買えば、また別のものが気になる。半分に分ければ、今度は別のあまい香りが鼻を擽ってくる。
笑い声に屋台の呼び声。遠くで弾けた軽やかな音色は、きっと名も知らぬ異国の打楽器が響かせたもの。それらはみな、夏の夜というひとつの大きな音楽になっていた。
やがて遠くから歓声が上がり、夜空に最初の花火が咲く。轟音が遅れて届き、海面にも鮮やかなひかりが散った。リラが海の方を示せば、祀ヲはすぐに玲慈の手を引いた。
「玲慈にいさん、向こう行こ!」
人の少ない浜辺へ出ると、祭りの喧騒が少し遠ざかる。
代わりに近くなったのは、波音と夜風だった。波がしろい砂を撫でている。祀ヲはそのまま波打ち際へと駆けていった。
「濡れすぎないようにしてくださいね。帰り道で冷えてしまいますから」
「うん!」
ちゃぷ、ちゃぷ、とちいさな足が水を蹴るたび、月の欠片が足元で砕ける。まだ夏の熱を残した夜だった。玲慈はそれ以上止めようとはせず、少し離れたところからその姿を見守った。
程なくして祀ヲは立ち止まり、月を見上げる。
あまりにも高く、あまりにも遠い。
それなのに、手を伸ばせば届きそうなほどにうつくしかった。
子供のように笑っていた祀ヲは、時折今のようにひどく大人びた顔をする。
どこか遠い場所を見ているような。失くしたものを探す人間だけが持つ、静かな眼差し。故に玲慈は何も訊ねず、ただ、隣にいることを選んだ。
「(どうしてこんなにもボクは、月ばかりを追いかけちゃうんだろう)」
音になり切らぬ声は波音に溶けていく。
祀ヲがはっとして振り返れば、そこに居るのは月ではない。
しろい髪に、さくらめいた薄紅色の瞳。うつくしくて、届かなくて。
まるで月のようなひと。
「(もっと、もっと|あなた《・・・》の近くにいたいのに)」
胸の奥で、何かが疼いた。
懐かしいような、怖いような。名前さえ持てぬままの感情。
「(これは、ボクが失っていた――、――)」
けれど、その先へ踏み込む前に祀ヲは玲慈の隣へ戻ってきた。
砂浜に腰を下ろし、花火を見上げる横顔を覗き込む。
「(違う、玲慈にいさんは手が届くから――|あのひと《・・・・》みたいに消えちゃうなんてことは、きっとない)」
そう思いたい。けれど、失うことを知っている心は幸福さえも失う前提で抱きしめてしまう。祀ヲのほそい指先が、玲慈の服の裾を軽く摘まんだ。
「祀ヲさん?」
「えへ、なんでもない」
一際大きな花火が夜空を覆った。
そのひかりの中で、玲慈は指先へ視線を落とす。
ちいさな手。服を摘まむ、ほんの僅かな力。これが、なんでもないと言うのなら。
「そういうことにしておきましょう」
それ以上は訊かなかった。
その間にも花火は次々と咲き、夜空と海を彩っていく。
「玲慈にいさんはきれいだね。花火よりもうんときれい」
いつものように笑えば、玲慈も微笑みを返してくれる。潮の匂いに混ざって、ふ、とあまい香りが漂う。
「……玲慈にいさんっていつもいいかおりがするね。おちつく、ボクのすきな匂い」
その言葉に、玲慈は少し困ったように眉を下げた。
否定することもなく、ただ目を伏せる。
香りは、ときに言葉よりも雄弁だ。
人の心へ入り込み、気付かぬうちに距離を変えてしまう。
それを知っているからこそ、玲慈は一瞬口を閉ざした。けれど祀ヲは、もう一度そっと手を伸ばす。花火の音に紛れるほどにちいさな仕草。
近付きたい。もっと近くへ。そう願う心を、押し込めたくはなかったから。
「……祀ヲさん。あまり、簡単に近付きすぎるものではありませんよ」
穏やかな声だった。けれど、その瞳には一瞬だけ花火とは違う危うい影が差した。
香りも、距離も。言葉も。近付き過ぎれば、形を変えてしまうものがある。玲慈はそれを知っている。それでも、伸ばされたちいさな手を拒みはしなかった。
「やだ、ボクの意思で近づきたいの」
きれいで、飄々としていて。
危なっかしくて、だから目が離せない。簡単に近付いたわけじゃない。
玲慈はちいさく息を吐き、それでも手を離さなかった。幼いてのひらをそっと取れば、触れた温度は、夜の海よりも静かなもののように感じられた。
「ありがとうございます。ですが、今は――」
玲慈はほんの少しだけ微笑み、祀ヲの視線を夜空へ導く。
「花火が、綺麗ですよ」
「……うん」
そらを見上げれば、大きな花がまたひとつ咲く。そのひかりは海にも映り、ふたりの足元までもを淡く照らした。
祀ヲは繋いだ手を、ぎゅ、と握る。それは何かを確かめるような仕草だった。
ここにいる。消えない。少なくとも、今夜は。
夜の海は、失くしたものを返すという。
けれど、返されたものが何なのか祀ヲにはまだ分からない。もしかするとそれは遠い記憶の欠片なのかもしれない。或いは、ずっと胸の奥で眠っていた感情なのかもしれない――それでも今は、それを確かめなくてもよかった。
夏の残響はすぐに消えてしまう。花火もやがて終わるだろう。月だって、いつかは海の彼方へ沈んでいく。だからこそ、この瞬間だけは。隣にいるひとの温度だけは、夜が終わるまで失くさずにいられればいい。
花火が最後の一輪を咲かせた。
しろいひかりが夜空いっぱいに広がり、海面へと降り注ぐ。それはまるで、終わりゆく夏が最後に見せた鮮烈な夢のようだった。