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逆刃・純素

 横断歩道の前で|日野《ひの》・|吉子《よしこ》は足を止めた。
 次から次へと目の前を車が通り過ぎていく。
 走馬燈を想起させるその光景を見つめながら、吉子は思い返した。
 これまでの人生を。

 吉子の両親はネグレクト気味ではあったが、習い事に通わせてくれたし、最低限の家族サービスにも努めてくれた。幼き日の家族旅行の思い出は、吉子にとって大切な宝物だ。
 かつては物理的な宝物もあった。旅行先で両親に買ってもらった安物のキーホルダーである。

 青春期には不良の友人たちとつるむ一方で、受験勉強に励み、難関高として知られる国立大学に合格した。
 そして、就職、結婚、出産。

 四十代で離婚した。専業主夫だった夫に原因がある。少なくとも、吉子はそう思っている。夫が『断捨離』などと称して、あのキーホルダーを捨てたりしなければ……。

 仕事では大成しなかったが、趣味に注ぎ込んだ情熱は無駄にならなかった。二十代の頃からイラストを描き始め、四十代の頃に同人界隈で名を成し、八十代の今ではベテランの神絵師として尊敬と崇拝を勝ち得ている。
『プロの道に進むべきだった』という声も多い。
 しかし、この人生なればこそ、吉子は神絵師となったのだ。ネグレクト気味の両親、不良の友人、離婚、大きな功績を残せなかった本業――それらすべてが神絵師の才能の糧となったのだ。

 信号機が青に変わった。
 吉子は歩き出した。
 彼女が最後に聞いたのは、金切り声めいた急ブレーキの音。

◆

「うーん。悪い友達と付き合っていた経験が未消化のままで終わっちゃったぴすね。いっそ、アウトローな方向性に全振りしたほうがよかったぴすか? でも、それだと後味が悪くなっていたかも……」
 少女の姿をした野良サカバンバスピス――|逆刃《さかば》・|純素《すぴす》は、とある卓上ゲームのソロプレイを振り返っていた。
 冷房の効いた室内。純素の前のテーブルにはゲームのルールブックやダイスや筆記用具が雑然と置かれている。
 それに『日野・吉子』という名前が記されたキャラクターシートも。
「後味といえば、事故死というのは残念だったぴすね。長生きしたんだから、大往生してほしかったぴす」
 長生きと言っても、サカバン四億年の歴史と比べれば、ほんの一瞬である。
 しかし、それでも、純素は思いを巡らせずにはいられなかった。
 吉子が確かに存在した『ほんの一瞬』について。

 窓の外で蜩が鳴き始めた。

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