【楽園怪談】暗闇
幼い時分から、世に暗闇が満ちていることは知っていたように思う。
東・あゆみにとって、見得ぬ場所は全て暗闇であった。閉じた戸の向こうに俄かに匂い立つ気配が恐ろしいばかりに戸を閉めることを覚えず、背と椅子の僅かな隙間に小さな手を幻視し、父母が淹れたまま机に置いた珈琲の湖面が揺らめくことに怯えていた。
育てにくい娘であっただろう。事実、両親はあゆみをよく叱った。存在しない何者かに過剰に怯え泣き叫ぶ彼女を必死に|矯正《・・》しようとした彼らの奮闘は、あゆみの心に新たな暗闇を幾つも刻むための儀式に過ぎず、願い虚しく彼らの一人娘は世の漆黒の一端へ続く階段を転がり落ちた。
家に帰らなくなった彼女が、いつどうやって、この|バイト《・・・》に関わるようになったのだか、正直なところよく覚えてはいない。
少なくとも大した切欠ではなかった。向こうから声を掛けられたことだけが確かである。特別オファーと銘打った、詐欺じみた価格の出所不明のメールに飛びついたのは、とりもなおさず金が底を尽いていたからだった。
電気を全て点けたまま、冷暖房の効率を無視して戸を開け放ち、冷蔵庫の中をスマートフォンで監視する生活は金が要る。部屋そのものはワンルームで事足りたが、兎も角、見得ぬところのない家でなければ耐えきれない。歯止めを失った悪癖はなお加速度的に悪化していた。出入りの折に家の扉を閉めるのも気が重かったし――。
道を歩くのも厭だった。
閉じたドアの向こう側が暗闇であるからだ。
光に照らされない路地裏から覗く気配を直視することが出来ない。足早に通り過ぎる建物の隙間から、俄かに聞こえる音が真実|人間《・・》の足音であるか判別がつかない。斯様な世界で、誘蛾灯に一心に集まる蟲の如く暗闇に目を背けて生きる人間の内側が分からない。
|闇《くらがり》にばかり気を取られ、身なりが次第に閾値を下回るほどに整わなくなったせいで、この頃は単発の仕事も見付からない。怯えたような猫背と伸ばしっ放しの黒髪の間から、周囲を気にして彷徨う目が覗く。服も殆ど買い換えていない――更衣室は、暗闇に己を閉じ込めるのと同じだったからだ。
とまれ。
あゆみの生活は既に行き詰まっていた。寝て起きるたびに拡大していく暗闇への恐怖心が、彼女の人生の大半を埋めていたのである。
破格の条件を怪しみながらも、奇妙な面接依頼を許諾した。二十八にして間延びし続けた履歴書は、面接の最中には一顧だにされなかったが、彼女のことは全て知られているらしかった。
半年ぶりの雇用通知書の代わり、危険業務に関する承諾書への許諾印を押して――。
業務が始まった途端に、己には最早逃げ場の一端もないことを悟った。
奇妙な機関からの仕事は、継続雇用であるにも拘わらず単発の日雇いに近い。幸か不幸か舞い込む頻度は少なくなかった。
問題は内容である。
数時間、何もない部屋の中で待機させられる。中身が不詳の荷物を他部署に運んでくれと命ぜられるが、行った先には置き場の張り紙がされているだけで誰もいない。時には拘束具を着せられ、あからさまに実験じみた状況でどこぞに放り込まれることもあった。
しかし、実際のところ、あゆみに|内勤《・・》への不満はなかった。
最初のうちに同意のサインをしている。元より|おかしい《・・・・》と承知のうえでここにいるのであるし、給与自体は帰宅時に手渡しで契約通りの金額を渡されているのだから、否やはない。それに。
彼女が困っていたのは|外勤《・・》の方である。
大抵は幾つかの仕事のうちから一つを選ぶ形になるが、時折指名を受けることがある。雇用主から提示されれば断ることは出来ない。どんな業務であろうとも従うほかないのは、雇用契約書を渡されたときから理解していた。だが外勤は――。
外勤だけは、幾ら金を積まれていても気分が悪くなる。
指定されるのは専ら夜だった。昏い道を数名で歩く。或いは目的不明のまま手順書だけを渡される。儀式じみたことをやらされるときには、大抵締め切った昏い部屋で手順の通りに物事を進める羽目になる。
何をさせられているのか分からないことが、あゆみの恐怖を余計に増幅していた。分からないものが厭なのだ。見得ないものは全て|闇《くらがり》である。今や慢性的に背後に横たわるそれにさえ怯えている女には、これ以上新たな暗闇を増やされることが耐え難かったのである。
それでも――。
時間が決まっているだけまだましだ。
そう言い聞かせている。|これ《・・》は業務の裡だ。生きる限り増え続け、金を食い続ける|それ《・・》とは違う。
耐えていれば、途方もなく増大していく暗闇を照らし出すための資金が得られる。
限定的な時間給の仕事だと割り切れば慣れるものであるらしい。最初のうちは幾度も暴言を吐かれて引き摺られて臨んでいたあゆみも、今は遅々としながらでも己で歩いて集合場所に向かえる。尤も厭だ厭だと部屋に籠っていても、どこからともなく現れた職員に無理矢理に引き摺り出されるから、己の足で歩いた方がましだと悟っただけかも分からない。
組まされる相手は大抵は柄の悪い男や年齢のよく分からない女ばかりだったが、己が|これら《・・・》と同じ括りにいるのだと悟ってからはどうとも思わなくなった。
職員と名乗る者は時折様子を見に来るか、時には監視に従事していることもある。彼らは一様に――世間の人間がそうするのと同じように――あゆみたちに侮蔑と奇異の目を向けて、言葉を交わす気もないようだった。
このアルバイトに従事する者たちは、曰くDクラス職員と銘打たれているらしい。
職務に従事している間、あゆみたちは割り振られた番号で呼ばれた。誰もそのことを気にしている様子もなかったし、彼女自身も大して気にも留めていない。
職員の中で唯一、彼らに穏やかな目を向ける女――。
森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)に会ったのは、重い足を引き摺って外勤に向かうことに、ようやく慣れた頃だった。
◆
Dクラス|さん《・・》と呼ばれたのは初めてだった。
元より、あゆみが個として認識されることは久方ぶりだった。舞い込む仕事を熟し、|軽作業《・・・》にしては法外の単価を手にするようになって、家の中に徐々に逃げ場を増やすことが出来るようになった折だった。
だからだ、と今にして思う。
だからあゆみは、女性にしては低い声に呼び止められたときに、過剰に怯えることもなく振り向くことが出来たのだ。
彼女にとって、通信販売すらも恐怖の対象になろうかという時分だった。部屋の中の全てを照明で照らし出し、密閉された空間の全てを任意に覗ける場所にしたと思えば、新しく持ち込まれるものが恐ろしくなる。届いた段ボールの中の暗闇の悍ましさに耐えかねるようになったのだ。
その中から――。
|何か《・・》が飛び出して来るような気がするのである。
判然としない気配は、このアルバイトを始めてから日増しに膨らんでいた。追い詰められた精神は余計に暗闇を厭い、見得ぬものの全てを暴くことをあゆみに強制し始めた。
しかし彼女には金があった。
安い家賃と親しんだ安価な食事――生活に必要な金銭を増やすことはしなかった。生活水準を上げる代わりに幾つも買い足していく暗闇を暴くための手段を駆使すれば、幾らか安穏として眠りに就くことも出来るようになったのである。
だから、背を振り向くことに躊躇もしなかった。
春を幾らか過ぎた頃のことである。珍しく状況説明を受けてのち、現場に向かう職員らに同伴して何らかの荷物を運ばされていた。
曰く心霊映像の検証であるという。
そんなものに何故検証が必要なのだか、あゆみは知らぬ。昏い路地の前であれやこれやと機材を持ち出す職員に紛れていただけである。何を訊いても碌に返答がないのは疾うに理解していた。
早々にやるべき職務をなくし、しかし|帰れ《・・》とも命ぜられないまま所在なく立ち尽くしていた女に、不意に珈琲を差し出したのが依鹿だった。
「お疲れ様。もう大丈夫だと思うから戻って良いよ」
「でもお金が」
「あ、あー。ちょっと待ってて。訊いて来るね」
片手を翳した女はやけに背が高かった。彫りの深い顔立ちは日本人のそれとは思えなかったが、名札には確かに|森本《・・》と記されている。やはり立ち尽くしたままのあゆみのところに戻って来るや否や、夏に似つかわしくない不自然な厚着をした眼鏡の女は首を横に振った。
「もう少しかかるって」
そうですか――だとか言ったような気がする。
記憶は曖昧だ。それよりも、一刻も早く路地の奥を暴きたかった。家に常備している、明るいばかりが取り柄の巨大で重い手持ちの懐中電灯が恋しい。持ち込みを禁じられているからには泣く泣く諦めて来たが、これほど長くいることになるのであれば、叱られるとしても持ち込めば良かった。
今もぬめる暗がりの奥から視線を引き戻せない。
奥に|いる《・・》からだ。
幼い頃から感じ続けた気配が膨らんでいる。|妄想《・・》という言葉を知ってから、奇妙に歪んだ精神が見せる幻覚なのだと思い込もうとして来たものが、日増しに膨張する暗闇の中から見ている。
世界を。
否。
|誰か《・・》を。
今すぐに暗闇の中に走り出したい気分だった。どれほど悍ましくとも分からぬよりは分かる方がましだ。あるともないとも分からなければ|ない《・・》のと同じである――なぞとは、ただの欺瞞だ。
見ることの叶わぬものがあってはならない。
あるともないとも分からないものは、|ある《・・》のだ。
世の人々は気付かないふりをしているだけである。
正気の沙汰ではない。
暗闇の向こうを凝視するあゆみを踏み止まらせているのは、ひとえにもうじきこの場から離れられることの理解と、人目のあるが故だった。隣に職員がいるというのに、脇目も振らずに走り出すわけにはいくまい。
そんなことをしても暗闇の中に霧消するわけでもない。結局のところ、引き摺り戻されて生活を続けていかねばならない。確かに他者と比すれば一般的な|人生《・・》と縁遠く生きているのだとしても、あゆみはそこまで気をおかしくしているつもりはなかった。
彼女の様子を横目に、依鹿は幾つかの会話を投げかけていた。やけに済まなそうな目をしていたのを覚えている。Dクラスに斯様な目を向ける者は、彼女の知る限り、片手で数えるほどだったからだ。
他愛ない世間話をするのは久方ぶりだった。ネームタグを見せながら苗字を名乗った女は、自身の手にした缶コーヒーを呷りながら、あゆみに穏やかな語調で話し掛けていた。
「今日は私も似たようなものだよ。クーラーボックス係、みたいな」
言われて初めて、夏の蒸し暑さがやけに遠退いていることに気が付いた。
親しげというには距離のある、正しく初対面の|人間同士《・・・・》の距離を保つ依鹿の言葉にどう応えていたのだかも曖昧だ。
暗闇の中からこちらを凝視している気配を見返すことで頭が満たされていたからだ。こうして見詰め返しているうちは、少なくとも背に|いるかもしれない《・・・・・・・・》と思うよりは気が楽だった。
あゆみの挙動に肩を竦めるでもなく、依鹿は曖昧に苦笑していた。同じ|闇《くらがり》を見ているはずの目はやけに凪いでいる。
他者とは違うのだ。あゆみの感じているものとは違うにせよ、依鹿は何か、他の誰しもが見ぬふりで目を逸らすものを直視している。
それに何か感情らしいものを抱く前に、あゆみの手には今日の分の報酬が入った茶封筒が渡された。
それ以上言葉を続けている理由もなく、曖昧な世間話は解散の運びとなる。当然ながら職員にはやることが残っているようだったし、あゆみも特段、依鹿を引き連れて行こうとは思わなかった。
組織のありようは何とはなしに察している。職員一人を連れて行ったところで、Dクラスなるアルバイトの地位が向上することもなければ、待遇交渉の余地すらない。
形ばかりの会釈をして、未だ開けていない缶コーヒーが手許にあることを思い出した。握り締めていたせいで体温を吸って温くなっている。汗をかいたそれから地面に水が滴り、黒ぐろとした痕を描いていた。
気味が悪い。
「森本さん、これは」
「ああ、持って帰って良いよ。最近暑いでしょ。まだ沢山あるんだ」
クーラーボックスを軽く叩いてみせる依鹿のいう|暑さ《・・》は、まるで他人事のようだった。
直行直帰といきたいところだが、業務終了の顔出しはしなくてはいけない。たかがアルバイトとして使い潰されているにも拘わらず、こういうところばかり厳重なのも、この仕事が決して良いものでないことを伝えて来るようだった。
それを承知で頷いているのだから、やはりDクラスと銘打たれた連中は碌でもないのだ。あゆみも含めて。
報告自体は簡易だ。少なくとも、あゆみの回された仕事で|重大な危険《・・・・・》とやらが起きたことはない。チェックを入れなければそれ以上引き留められることもなく、兎小屋以下の自宅へ戻るだけだ。
帰る前に飲んでおくべきだろうか。
缶コーヒーのプルタブを捻ろうとして――。
止めた。
暗闇の中から|あれ《・・》が出て来たら。
あの気配が這い出て来たら。
厭だ。
Dクラスから物を受け取る職員はいない。結局は内勤の、幾らか顔を知っている角刈りの男に押し付けて、そのまま帰った。
それで。
奇特で親切な職員のことは忘れた。
あゆみが再びその顔を見ることになったのは、一月以上が経ってからのことである。
◆
夏になると毎日のように仕事が舞い込むようになった。冷房効率の悪い隙間だらけのアパートに酷暑は耐え難い。内勤の間は明るい部屋でクーラーの風に当たれることだけが幸いだったが、外勤の過酷さは増していた。
否。
増していたのはあゆみの恐怖の方だったのやもしれぬ。
その頃にはありとあらゆる|闇《くらがり》が耐え難くなっていた。家に鍵を掛けずとも、盗むものも何もないから構わないとさえ思っていた。実入りと裏腹に乱雑で異様になっていく生活を、しかし今更元に戻すことが叶うはずもない。闇の帳の中に正気を落として来たかの如くして、あゆみは与えられる仕事に従事し続けた。
何をしているのかは相変わらず分からない。中身を覗くことの叶わない箱を運ばされるのにも随分と慣れた。内勤のときばかりは気が楽だ。たとえ暗闇を手の中に抱えているのだとしても、己が開けるのでなければ――。
己に関係するのでなければ、あれほどまでに恐ろしくはない。
長ったらしく紛らわしい名前のついた部署ばかりが並ぶ廊下の中から、伝票に記載された通りの場所を探す。超常現象監視管理室。
ようやく辿り着いた部屋からは、やけに涼しげな空気が漏れ出している。
出入り口となる扉に硝子窓が付いている。気が楽だ。中が覗けるならば暗闇ではない。暗闇でなければ暴く必要はない。
ノックの音を聞きつけてか、立ち上がった黒い髪が見えた。白髪交じりの女はどうも背が高い。眼鏡をかけた、日本人離れした彫りの深い顔を見て、あゆみは|奇特な職員《・・・・・》のことをようやく思い出した。
「ああ、Dクラスさん。お疲れ様です。そこに置いておいてもらって」
「はい」
――やはり覚えてはいないか。
あゆみにとっても大したことではなかった。勤める期間が長引くにつれ、アルバイトの入れ替わりがやけに激しいことに気付いたからだ。
同じ者と組まされることは滅多にない。それだけ数が多いのだと思っていたが、どちらかといえば消耗が激しいのだ。むろん、人事について問うたところで素っ気ない返答が戻るばかりであるが、|辞めた《・・・》とだけは誰でも聞かせてくれる。
あゆみほど長く続けている者の方が珍しいのだ。
確かに奇妙な仕事ではあるが、それほど辞めていく者の多いことは気になった。とはいえ一つ一つの案件は殆ど単発のようなものだ。場合によっては一度試して性に合わずに辞退する者も多いのだろう。透明性のなさを気にする者は気にするのであろうし――。
それこそ、あゆみが暗闇をやけに気にするのと同じようなものやも分からぬ。
ともあれ個人にそこまで興味があるわけではなかったから、そういうものだとして納得するのにも否やはなかった。Dクラスの間ですら斯様な認知であるのだから、職員の方はいちいち顔も覚えていられまい。
初対面の|ふり《・・》で荷物を手渡し、顔を上げたとき――。
部屋の中に暗闇を見た。
並んだデスクの上に鎮座するモニタは大半が沈黙していた。安っぽいLEDをぬらぬらと反射している。黒ぐろとした光沢の中に。
|闇《くらがり》が。
思わずそちらを凝視した。何かの気配が|こちら《・・・》を見ている。瞬きも忘れるあゆみの視線を奇妙に思ったか、依鹿は振り返って何かを探すような仕草をした。
見えて――いないのか。
あのときには似たようなものを見ていた気がしたのに、依鹿は既にただの一般人とさしたる変わりのない反応を示すようになっていた。落胆とも安堵ともつかぬ曖昧な感覚を背負ったまま、猫背をますます丸めた小柄な女は、相変わらず伸ばしっぱなしの前髪の中からモニタを見ている。
|何もない《・・・・》ことを確認したのか、依鹿の視線は再びあゆみに戻った。
「ごめんね、映像確認が主な仕事で……煩かった?」
違う。
何故分からないのだ。何故|あれ《・・》から目を逸らせるのだ。何故。
何も言えぬまま、あゆみは廊下を引き摺るように引き返した。
まざまざと思い出したのは、暗闇を見詰めるにしてはやけに凪いだ眼差しだった。赤い双眸が何を見ていたのか知る由もない。知らないことは――。
見得ぬものは全て暗闇である。
暗闇は暴かねばならぬ。
さもなくば。
それから、あゆみは依鹿のいる庁舎に向かう仕事を積極的に受けるようにした。何がいるのかを知らねばならない。|こちらを見る《・・・・・・》暗闇を暗闇のままにしておいてはいけない。しておいたら――。
あゆみは捕まってしまうのだ。
◆
最初に暴いた暗闇の中には目があった。
未だ物心のつくとも分からぬ時分のことである。母から初めて買い与えられたおもちゃ箱を開けたのだ。今にして思えば早すぎる|お片付け《・・・・》の練習を言い渡された素直な子供は、わけもわからぬままに手にしたものを箱の中に放り投げようとした。
蓋は閉じなくてはいけないと言われていたのだか、最初から母が閉めた状態で渡したのだかは覚えていない。
否――。
|そのとき《・・・・》以外の記憶はない。
兎も角、|幼気《いたいけ》な指先は懸命に蓋を開いた。幼児には大きなそれを両手で持ち上げたのを覚えている。体全体で勢いよく押した蓋の下の、大人にすれば膝下にも届かぬような浅い箱に、毛糸で出来た玩具を入れようと覗き込んだ。
覗き込んで。
目が合った。
|凝々《ぎょろぎょろ》と動く人間の一つ目が、幼い娘の顔を通り過ぎて部屋の中を見渡していた。何かを探すように懸命に動き続けるそれを凍り付いたまま凝視して、あゆみは叫び出しそうになるのを必死に堪えた。
声を出してはならない。開いたときのように閉めてもならない。|まだ見付かっていない《・・・・・・・・・・》。言葉すら覚束ない娘は、直感したまま硬直を続けた。
見付かってはいけない。
瞬きも出来ないまま、あゆみは息をするのも忘れて眼前の目を見詰めた。二十余年が経ってなお鮮明に思い出せる。買ったばかりのおもちゃ箱の派手なピンク色をした縁。あゆみが誤って頭をぶつけても問題のないよう角に貼られたクッションシール。裡側の暗闇。その隙間から覗くぬめる眼に走る血管の一本すらも。
女だ。
女だった――と思う。
目の主は、あゆみの思った通り彼女を探し出すことが出来なかったようだった。やがて諦めたように閉じた目が暗闇の中に沈む。それでも、あゆみは動くことも出来ぬまま、おもちゃ箱の中を凝視していた。
やがて気付いたときには、昼のリビングに照らされた浅い箱の中から、|闇《くらがり》は消え失せていた。
ようやくあゆみは泣いた。大きな声を聞きつけた母に抱き上げられて、必死に要領を得ない説明をしても、幼い世界で絶対の味方であるはずの彼女は首を傾げるばかりだった。
以来、あゆみは|見得ないこと《・・・・・・》を極端に厭うようになった。
あの眼差しがあるような気がするのである。閉まった蓋の中、見通せぬ扉の向こう、壁越しの|内側《・・》に、あの目が今も何かを探しているように思えてならなくなった。全ての戸を開け放ったのは、|あれ《・・》がいないことを確かめるためだ。
開け放っておけば、いてもすぐに分かる。
そうすれば逃げおおせる確証があった。幼い日に息を殺していたとき、眼前にいるあゆみを見付けることの出来なかった|あれ《・・》は、きっと今も同じようにすれば彼女を眼差すことが出来まい。だから。
開けておけば大丈夫だ。
閉まっていたら――。
開いた瞬間に、また|あれ《・・》が現れるのだとしたら。
あゆみは今度こそ悲鳴を上げるかもしれない。反射的に扉を閉じてしまうかもしれない。そうしたら。
見付かってしまう。見付かってしまったら。
どうなるのだ。
捕まるのだろうと思っている。捕まってしまったら終わりなのだ。あの暗闇の向こう、誰しもが目を背けていられる先に、あゆみは独りで連れ去られる。それが悍ましい。自ずから深淵の中に身を投ずるよりも。
であるから、彼女は扉を閉めることが出来ない。暗闇を暗闇のままにしておくことにも耐えられない。
冷蔵庫の中身を腐らせるかどうか、最初は心底悩んだ。いっそ電源を抜いて開け放し、自炊を諦め都度買ったものを食べようかと思ったこともあった。しかしそれでは冷蔵庫の中が照らされないと気付いて、結局は監視することに決めた。
届いた段ボールは全て玄関の外で封を開けた。覗き込まないように開封するすべを身に着けるのは苦労したし、近隣住民に見られたときにはまるで悍ましいものを見るような目で睨まれたこともある。何やら通報をされたのか、警察が注意を死に来たこともある。
あゆみからしてみれば、|あれ《・・》に目を背けていられる方がおかしい。
それでも、|あれ《・・》は幼い日に見たとき以来、ずっと気配の如くして彼女に纏わり続けるだけだった。振り返れど背には何もいない。戸の向こうに何かが蠢くような気がするのも気のせいだった。意を決して開いても、先にあの目が何かを探していることはない。
だが。
アルバイトを始めてから、日増しに気配が増大している。
影を見るようにさえなっていたが、裏腹にあゆみは安心してもいた。暗闇を極力排除している彼女には既に対抗策がある。見得さえすれば、息を止めるのも、声を出さぬのも、不用意に物音を出さぬのも簡単なことだったのだ。
日ごとに追い払うことにばかり気を向けるようになって、あゆみの生活はますます荒れていた。それを補って余りある金でありとあらゆる|闇《くらがり》を払う。ベッドの下の隙間を巨大なライトで照らし、乾電池は切れる前に取り替えた。家に鍵を掛けずにいたのを大家に咎められてからは、ありとあらゆる場所に死角の出来ないよう監視カメラを仕掛けた。スマートフォンの一画面で全てが確認出来るようにする設定には苦労したが、お陰で鍵を掛けた部屋に帰宅するときには、画面を凝視しながら扉を開くことが出来るようになった。
いよいよ異様な生活を、誰かが咎めることはなかった。
既にあゆみは気味の悪い隣人として周知されていた。部屋を荒らすわけでもないから大家も表立って注意をすることはない。職場は――。
あゆみをDクラスという一括りの呼称として扱う。
何一つとして正常にはならぬまま、それでもあゆみは、それなりに安心した生活を送れるようになっていた。
得体の知れない荷物を届けたあの日、依鹿の後方から彼女の方を見ていた|暗闇《・・》の存在に気が付くまでは。
◆
足繁く通う――といってもDクラスが出入りを許されるのは専ら仕事のあるときだけなのだが――依鹿の職場を観察している。
その頃には、あゆみの容貌はDクラスの中でも異様なものになっていたようだった。彼女自身がそれをきにしたことこそないが、誰もが不気味そうな一瞥をくれて目を逸らすのは理解していた。
やはりそうだ。
誰も見たくないものは見ない。
あゆみにはそれが理解出来ない。見得ないものこそが恐ろしいのではないのか。見得さえすれば、それは現実に存在するものと同じになるのではないのか。
誰しもが当たり前に蓋を閉めるのと同様に――|あれ《・・》を何とかすることも容易なのではないのか。
「最近よく顔を合わせるね」
時折すれ違うDクラスの顔を覚えていたらしい依鹿が、時折そう話し掛けて来るようになったのがいつだったか、精確なことは思い出せない。
少なくとも夏の間にはそうなっていた。思えば積極的に内勤を引き受け、伝書鳩のように甲斐甲斐しく行き来するDクラスは少ない。大抵の場合、外勤の方が時給が良いのだ。こうして職員しか内情を知らぬ正体不明の代物を運ぶのは、楽な代わりに危険手当も少ない。
手当が出ないわけではないのだから、危険はあるのだ。それを承知している、多少頭の良い者は、当然ながらこんな仕事には手を付けない。
ともあれ、あゆみは依鹿と顔を合わせる機会を増やすことに成功していた。殆ど適切な応答が出来ている気もしなかったが、何か上の空にわけのわからないことを言っても、女は曖昧に苦笑して話題を流すだけだった。
温厚なのだ。やけに周囲が冷えていること以外は、特別害意のあるようには思えない。
ただ。
彼女と声を交わしているとき、必ず|暗闇《・・》があゆみを見ている。
何の気なしに依鹿が開ける缶コーヒーの内側。彼女の背が隠した影。座った小さな椅子の、足許に出来た|闇《くらがり》。その赤い眸と眼鏡の間に出来た僅かな隙間にさえも、あゆみは増幅されきった暗闇の気配を感じていた。
何度目に顔を合わせたのか分からない。何と言って引き留めたのだかも覚えていないが、ともあれあゆみは依鹿を引き留めて、他愛のない世間話を交わすことになった。
「休憩室って入って良いんですか」
「職員の許可があればね。私と一緒だし、大丈夫だよ」
成程カードキーで開閉出来るようになっているらしい。全面が硝子張りの、休憩室と銘打たれたそこは暗闇ではないから、気にしたことがなかった。
自動販売機の影に、かの気配が蟠っているのを見詰めていた。煩わしい前髪を払うことをしなくなって久しい彼女の目は、僅かに日を透かす隙間から、あらぬ眼差しと視線を合わせることに腐心していた。
あゆみに背を向けて、依鹿は自販機に向かい合っている。
己の足許に影のあることなど気にも留めていないようだった。他の誰とも違う、しかし他の誰にも似た眼差しが何を捉えているのかを知らねばならない。あの暗闇が――。
|こちら《・・・》を見ている|闇《くらがり》が。
依鹿にとってどういうものなのかを暴かねば、最早あゆみにはこの仕事すら続けてはおられぬ。
緩慢な仕草で、厚着の女の手は珈琲を取り出すために自動販売機の蓋を開けた。迷いも躊躇いもなかった。
その中から何かが覗いているかもしれないことなど、思いもよらないらしかった。
当たり前のように閉じる蓋に背を向けた依鹿が戻って来る。目の前の缶コーヒーのプルタブも、やはりあゆみが思うよりもずっと簡単な仕草で開かれた。
「ごめんね、最近は届け物の仕事が多いでしょ。夏になるとどうしても忙しいから、みんな運んでる暇も惜しいんだ」
首を横に振ったのは、あゆみが望んで斯様な仕事を受諾しているからだった。
外勤の仕事が回って来れば断れないが、先んじて誰もやりたがらないものをやっているのは、依鹿に纏わり|こちら《・・・》を見詰める暗闇を暴くためだ。やはり済まなそうな顔をした女は、深い彫りに落ちた影を気にも留めず、ペットボトルのジュースをあゆみの方に差し出した。
まるで供え物のようなそれをまじまじと見詰めてから、女は|鈍々《のろのろ》と蓋を開けた。
缶ほどの暗闇ではない。
容器は透明であるし、中の液体も黒くはないからだ。
手許の|闇《くらがり》を覗くこともせずに呷る依鹿の仕草越しに、あゆみは|凝《じっ》と暗闇を探した。息遣いがある。このアルバイトを始めたときから膨らみ続けて来た女の感覚は、今やそれがどこから|こちら《・・・》を見ているのかさえ分かるようになっていた。
頻りに眼球を動かすさまが奇妙だったのだろう。依鹿の視線はあゆみが見遣るのと同じ方向を振り返り、しかし何も見付けられなかったかの如く首を傾いで瞬いた。戻って来た眼鏡越しの眼差しが遠慮がちに黒い眸を見ている。
「何か探し物でもしてるの?」
「いいえ」
探しているのではない。
「探されてるんです」
細い声のうち、そればかりは明瞭だった。
言っていることの意味を掴みあぐねたのか、依鹿は幾度か呑み込みづらそうに瞬いていた。暫しの沈黙の後、言葉を探すように机の上をなぞっていた指先が、ようやく一つを定める。
「この仕事、色々とあるよね。無理はしないようにした方が良いよ」
最大限の譲歩といって差し支えのない言葉だった。
あゆみの思うより、依鹿はこういった場面に慣れているようにも思える。言葉ばかりは極めて慎重に選ばれたように思えたが、声音は腫れ物を扱うようにも、或いは何か得体の知れないものを撫でるようにも感ぜられなかった。
ただ|普通の人間《・・・・・》を労わるのと同じ声色であゆみを労わった直後、無機質な振動がやけに大きく響いた。
机上に置かれていた依鹿のスマートフォンが通知を示したのだ。軽く手を挙げてから画面を覗き込んだ女は、ああ――と溜息めいた声と共に髪に手を遣った。そのまま立ち上がりかけて――。
あゆみを見る。
幾らか考えるように視線が中空を彷徨った。スマートフォンを握った指先が、机を離れるか離れまいか迷うように曖昧に浮かぶ。
結局は女に向き直った依鹿が、苦笑して硝子張りの扉を指差した。
「ごめん、一人で残すのは駄目なんだ。ちょっと外で待っててくれる?」
呼び出しに応じて慌ただしく去っていく背を見送るともなしに見送ったあゆみは、彼女に纏わる気配の主を無遠慮に探した。
奇妙だ――と思う。
彼女が感ぜられるのは、今まで戸の向こうの気配や、暗闇の中を横切る僅かな影や、湿った眼差しだった。それが依鹿越しに|ある《・・》ものは、暗闇のどこからも視線を感じられる。
厭だ。
どこを見ていれば良いのか分からないではないか。
見得ていさえすれば動かぬことも容易だが、場所が定まっていないのでは見返すことも出来ない。周囲を無意味に一周するあゆみの視線は、結局は最も大きな暗闇――己の足許へと落ちていた。
何もない。
久しく感じていなかった安堵が、沸々とあゆみの裡から湧き上がった。視線を感ずるのも気のせいなのではないか。依鹿とて何も気付いていない様子だったではないか。これだけ入念に調べて|ない《・・》のであれば、ここには|あれ《・・》はいないのではないか。
深く溜息を吐いてみると、全てが馬鹿らしくも思えて来る。
何を懸命になっていたのだ。何一つ確かめていないではないか。数十年ぶりに正体を取り戻したような気がする。長らく閉じ込められていた暗闇の中から這い出して、光の許に戻れたような思いだ。
久方ぶりに、あゆみは起きたまま目を閉じた。
途端に。
|背から《・・・》声がした。
「最好唔好望得太多」
息を殺す。悲鳴を呑み込む。振り返ってはならない。動いてはならない。
そうすれば。
|あれ《・・》は消えるのだ。
「好奇心會害死貓」
気配が霧散する。
よく磨かれた床にLEDの光が反射していた。室内灯がしらじらと照らす廊下へ落ちた己の影を見下ろし、あゆみは吐き気を堪えて荒れ切った唇を引き結ぶ。
低く忠告めいた声を残したのは、確かに女の声だった。
ひどく暴れ回る心臓に冷たい汗が流れる。上手く息を吐き出すことが出来ない。瞬き一つ出来ぬまま乾ききった目に、あの日におもちゃ箱の中で見た胡乱な眼差しが焼き付いて離れなくなる。
やがて近付いて来た足音にも、あゆみは顔を上げられないままだった。
「ごめんね。待たせて――」
依鹿の声は先と何ら変わりない。穏やかな低い女の声は先に聞いたものとは違う。
幻聴だ。
というにはあまりに悍ましい。
絡みついた妄想が現実になる。染み出した暗闇からあの声が見ている。あの目が語り掛けて来る。動くことも出来ぬまま凍り付いたあゆみを気遣わしげに覗き込む紅色の眼差しは、しかし彼女の体には一片も触れぬまま、自身のカードキーを取り出して優しく問い掛けるばかりだった。
「大丈夫? 救護室なら案内出来るよ。それとも中で休む?」
「だ」
声が裏返る。
だが。
もう彼女と共に同じ空間にいる気にはなれない。
「大丈夫です」
依鹿は|お手付き《・・・・》だ。
|あれ《・・》は彼女の中にいる。
◆
暗闇は暴かねばならない。
高校を卒業すると同時に家を出ると言っても、疲弊した両親は反対しなかった。
結局のところ、両親でさえ日増しに手に負えなくなる娘の奇行について行けなくなっていたのだ。どれほど注意したところで改めることもなく、どれだけ熱心に病院に通わせても悪化するばかりのあゆみの異常な行動に、これ以上出来ることを見出せなかったのだろう。
当然ながら就職は立ち行かなかった。誰もが心の裡から余裕を失っている。ありふれた生活のために必死に世の|闇《くらがり》から目を逸らし続ける人々にとって、それをこじ開けて中を覗こうとするあゆみの存在は、元より悍ましい怪異と何ら変わりないのやも分からなかった。
あゆみのことを理解する者はなかった。悪癖はなお悪癖のままだ。社会で暮らしていくにはあまりに支障のある彼女を継続して雇用することは難しい。
鍵のかかった扉の向こうに独りで入ることが出来ない。冷蔵庫すら開けない。ありとあらゆる扉を開け放し、ほんの僅かの暗闇――足許に出来る影すらライトで照らし出すあゆみは、いるだけでも厄介であったらしい。
最初の一社が些細な問題を切欠に諭旨退職を勧告し、彼女は為すすべなくそれに従った。正社員としての採用を転々としているうちに職歴は幾つも間延びし、その分だけ再就職は難しくなった。
何故辞めたのか――。
問われて素直に応じれば、皆が怪訝そうな顔をした。
暗闇が怖いからに違いがない。それ以外に何と説明すれば良いのかも分からない。結局は二次面接に進めることすらなくなった。派遣会社は元よりあまりに業種を搾りすぎる彼女に殆ど仕事を回さない。結局はアルバイトと日雇いの仕事で日銭を稼げど、性差の壁が邪魔をした。男性ほどに選べる職務がないのだ。
夜の街には居場所がない。そこかしこに暗闇が口を開けているからだ。
そもそも――。
あゆみにとって見得ぬものは全て恐ろしい|闇《くらがり》だった。人間もまた同じであったのだ。
笑みの裏側にあるものは全て昏い。体という筒の中に出来た真の暗闇からあの目が現れるとも限らない。決して知り得ない己の中身よりも、更に見得ない他者の中身が恐ろしくてならなかった。
だから。
へらへらと笑いながら彼女の腕を掴んだ男はアルバイト先の店長だった。何を考えているのか分からぬ、張り付いた笑みの向こう側に、暗闇があった。
その頃、あゆみは以前から悍ましく思っていた眼前の男の|闇《くらやみ》を暴く方法を必死に考えていた。結局のところ、人間の|中身《・・》を見る方法なぞ限られている。代替案を思い浮かべようにも最後にはただ一つに収斂する思考を振り払うことが出来ぬまま、彼女は暗闇を作らぬように開けたままのバッグの底に、タオルで包んだ|それ《・・》を忍ばせていた。
暗闇は暴かねばならぬ。
暴けばそれ以上怯えることはない。分かっているものは分かっているのだ。彼女に理解出来るところまで|開かれて《・・・・》しまえば――。
どうすれば良いのか分かるだろう。
あのおもちゃ箱の中身も。
恐ろしい笑みの中身も。
開いて確かめてしまえば同じなのだ。
◆
「お疲れ様。珈琲、飲む?」
「あ……お疲れ様です」
次に依鹿と顔を合わせたのは、例年に比べれば早いうちに気温が下がった晩夏のことだった。外勤の報告のために向かった建物の裏手で、たまさか戻って来る依鹿と報告を終えて帰るところだったあゆみがすれ違ったのだ。
相変わらず厚着の依鹿が纏う暗闇の気配は濃くなっている。|こちら《・・・》を見るそれを見返すことが出来るようになったのは、ひとえに彼女の裡から余裕が取り払われていたからだったに違いない。
依鹿の様子は気遣わしげだったが、ますます異様になったあゆみの風体に言及はしなかった。代わりに差し出されたのは以前と同じペットボトルに入ったジュースだった。
「ちょっと話さない?」
その声は、やはり他者を労わるときとさしたる違いがないように思えた。
世間話の内容は先と大して変わりはしなかった。相槌を打ちながら地を見詰める。半袖では些か寒いほどの冷気に鳥肌が立つことと、胸中に蟠る|泥濘《どろどろ》とした熱が、あゆみから自意識を分離していた。
暫し奇妙な対話が続いたのち、ふと声が途切れて――。
あゆみはようやく顔を上げて依鹿を見た。
眼鏡越しの眼差しは手許のスマートフォンに向けられている。やがていつもと同じように、済まなそうな顔をした厚着の女が立ち上がった。
「ああ、ごめん。いつもちょっとタイミング悪くて。帰ってて良いからね」
どうやら呼び出されたらしい彼女を見送る。
立ち上がる気はなかった。
人間の中身を暴くのは止めていた。猟奇殺人の末に逮捕されても人生が続くことを理解したからだ。一度起こした失態を挽回する機は与えられず、情状酌量の余地を見出されて幾らかの減刑が為されたとはいえ、人殺しは人殺しに違いがない。
どれほど悍ましくても覗いてはならぬことはあるのだろう。
だとしても。
夜毎魘される悪夢から逃れねばならなかった。
|あれ《・・》がこちらを眼差している夢である。一度きり、依鹿越しに見ただけのオフィスに立っている。誰もいないそこは密閉されていて、あゆみ以外の気配は何もしない。
電気のスイッチは反応しない。窓の外には暗渠が広がっているばかりだ。光の一片も差さない暗闇の中に閉じ込められて、光源もないのにぬらぬらと光るモニタが延々と並べられている中を彷徨っている。
やがて――。
暗闇があゆみを飲み干すのだ。
|あれ《・・》が彼女を見詰めている。動かず、息を詰めて、声を呑み込んだ彼女を探して|凝々《ぎょろぎょろ》とオフィスを彷徨っている。このまま遣り過ごそうというときに。
背後から声がする。
最好唔好望得太多。
絶叫して飛び起きる。そのたびに|あれ《・・》がいないことを確かめる。監視カメラのモニタをスマートフォンに映し出し、全ての暗闇を光で照らし、戸を開け放って何もないことを確かめてようやく、安堵の溜息と共にへたり込む。
あれが――。
夢でなくなったら、そのときこそあゆみは|あれ《・・》に捕まるのだ。
声を上げさせるためにありとあらゆる手段を使うだろう。どの暗闇からもこちらを見詰めている眼差しを暴かねばならない。
|あれ《・・》が依鹿の中にいるのなら。
依鹿を。
あの日にそうしたのと同じように、タオルに包んだ|それ《・・》を確かめようとした。暗闇を作り出さない方法は学んでいる。チャックを閉めなければ良いのだ。
前髪の隙間から、冷たい金属の感触を確かめようとした手を。
|開いたバッグ《・・・・・・》の中から伸びた腕に掴まれた。
息を殺す。
悲鳴を辛うじて呑み込む。凍り付いたように動きを止める。
遅かったのか。
|あれ《・・》に見付かってしまった。捕まってしまったら終わりだ。
――違う。
|これ《・・》が見ていたのは|あゆみ《・・・》ではない。
覗いてはいけない。
覗かないために幾つもの策を講じて来たのではなかったか。段ボールを家の外で開くとき、上から商品を覗き見るのではなく、外側の角からカッターを通して箱を分解した。|あれ《・・》は覗いたときにしか現れないのだと、何故だかあゆみは強く確信していたからだ。
だというのに。
伸びて来た腕のある方を反射的に見た。
ちょうど|鞄を覗くように《・・・・・・・》。
幼い時分から、見得ぬ場所は全て暗闇であった。戸の向こう。背と椅子の間。珈琲の湖面。人間の中身さえ。
底知れぬ闇の淵より何か得体の知れぬものが這い出して来る妄想を振り払うために、何らの労苦も厭わなかった。戸を開け放つ。背凭れに貼りつく。珈琲は一気に飲み干す。独りで暮らすようになってからは缶を買うのを止めた。何にも蓋はしなかった。冷蔵庫の中にカメラを差し入れた。
人は。
裂いて。
裂いたから。
「都話唔好睇」
暗闇から、無数の赤い眼差しが|こちら《・・・》を見ていた。
女は絶叫した。
◆
依鹿が呼び出しの用向きを済ませて戻って来たとき、女のいた場所には黑・宵刃(|无貌《Wúmào》・h12479)が立っていた。
大きな犬の耳を揺らした漆黒の女が振り返る。背の高い中性的な面立ちを隠すためのサングラスは、依鹿の言いつけ通りしっかり掛けているようだ。花嫁を見るや満面の笑みを浮かべる姿は、正しく犬によく似ている。
業務中だろうに――とは思えど、特段驚きはしない。宵刃が|増える《・・・》ことも、どこからでも現れることも、最早依鹿にとっては慣れたことだった。
本体だか分身だか分からぬが、少なくとも宵刃のうち一人は今も真面目に業務にあたっているのだろう。目を借りてあらゆるものを見ているらしい怪物は、先の遣り取りを見て依鹿がここに来ることを見越していたのやも分からない。
だから、言及はしなかった。
「レンくん。さっきここにいた女の人、見なかった?」
「啊、お帰りになられたようですよ」
明朗な声は思う通りの言葉を告げて笑った。
まあ――。
そうだろう。
依鹿の方から話し掛けることも、向こうから引き留められることもあるが、結果が対話らしい対話になった覚えはない。Dクラスと銘打たれた彼らは替えの利く消耗品のように扱われているから、致し方のないことでもあるのだが。
ともあれ早く帰りたかったか何かに違いはないだろう。最初に部署に荷物を届けてくれたときから忘れがたい容貌をしていたが、今回はひとしおだった。長らく切っていないのだろう、手入れのされていない漆黒の髪の合間から覗く|凝々《ぎょろぎょろ》とした片目は、明らかに正気を失いかけていた。
我知らず考え込むような調子になってしまった依鹿の目を、昏い赤が覗き込む。サングラスを持ち上げた宵刃とまともに目を合わせても問題がない者は数少ない。それこそ、|花嫁《いけにえ》である依鹿も含め、今のところは両の手で事足りる程度か。
「どうかなさいましたか? 依鹿さん。目を掛けていらっしゃるようです」
「ああ、何ってわけじゃないんだけど」
参ってるみたいだったでしょ――言えば宵刃の耳がぴくりと動いた。
「Dクラスで長続きしてる人は少ないし、ここのところよく見掛けたから、大丈夫かなと思って」
何かを探しているのかと訊いたのは、見掛けるたびに周囲を見渡していたからだった。
落とし物でもしたものかと思っていたのだが、入ったことのない場所でも、それはさして変わらなかった。であるから問うてみたのだが――。
答えは判然としなかった。
Dクラスとして雇われているのは誰もが社会の爪弾き者だ。或いは誰かを貶め、誰かの命を奪って来た。それ故に職員の中にもDクラスの扱いに倫理的葛藤を覚えぬ者は多い。
職員が直接触れることを躊躇うような異常にも、彼らは高額の報酬目当てで簡単に飛び込んでいく。短絡的といえばそれまでだが、依鹿には相変わらず、己と彼らの差異がよくは分からない。
あくまでも人間である。誰かが産み、誰かに育てられ、どこかで道を踏み外しただけだ。狂気に身を浸され、或いは何らかの脅威に巻き込まれて何も分からぬままに狂い死にしていくことに、あまり慣れたいとは思わなかった。
宵刃は満足げに依鹿の肩を抱き寄せた。往来があるから――と注意しようとしたが、この周辺の人通りは極めて少ない。それこそDクラスが報告のために裏手から出入りするくらいのものだ。それも、今日のところは彼女を除けば誰もいないようだった。
小さな溜息と共に受け入れる花嫁の表情が満更でもないことは、宵刃には見るまでもなく嗅ぎ分けられる。真っ当な――真っ当で|在ろうとする《・・・・・・》という方が正しいか――依鹿の言葉は、怪物を満足させるのに充分すぎる心の機微を映していた。
だから怪物も花嫁の最も望んでいる言葉を拾い上げる。
「依鹿さんが気を揉むことはありませんよ。彼女も望んでこの仕事に就いたのでしょう。それに、必要ならば|処置《・・》を受けているはずです」
「まあ――それもそうか」
罪悪感も使命感も途端に依鹿の手を離れていった。言い訳を与えられればそれが正しいように錯覚する。確かにその通りだろう。Dクラスといえども|使い道《・・・》があるうちは使われるのが宿命だ。犯罪は日々数え切れぬほど起きているが、その中でしかと判決が下っているものは多いとはいえない。誰しもが出来心で犯しかねない小さな罪を数えていたら職員までも対象者になりかねない。結局のところ、幾ら消耗品の如く扱われるDクラスであっても、人数には限りがある。
思えば一度も名乗らなかった彼女は、|そこまで《・・・・》には至っていなかったということだろう。このところは外勤か何かを忠心に受けることにしたに違いない。となれば、早く帰りたいと思うこともあって然るべきであろう。
肩の荷は簡単に降りていた。目下の心配事が隅に追いやられれば、すぐに次に為すべきタスクの方が思い浮かぶ。もうじきに終わりを告げる期間限定のアルバイトも大詰めだ。盆を過ぎてからは徐々に数を減らしているといえども、年々長引く暑さの中では心霊動画も心霊写真も未だ隆盛に取り沙汰されている。怪異の出現は時期を選んではくれないのだから、気を抜くわけにもいかない。
とはいえ正気を保つため――の名目で交わされる遣り取りには必要なものがある。たとえば会話を弾ませ、頭に栄養を供給する甘いものであるとか。
依鹿も限定的ながら物を食する方策を見出した今、部下たちに選ぶ菓子はより身近なものへと戻って来つつある。隣に立って次の声を待つ宵刃も、きっと楽しげに選定するに違いない。
「よし、じゃあ戻ろう。今日の仕事が終わったら何か買って帰ろうか。ついでに明日の差し入れ選ぶの、手伝ってくれる?」
依鹿の声を余すことなく聞き遂げて、宵刃が笑った。屈託のない犬の如き笑みは、しかし確かに人間らしい情緒を湛えて、大きな尾を千切れんばかりに左右に振って見せた。
「好的!」
――返答を受けて頭を撫でた依鹿が前を行くのを、怪物の足が追う。
緩慢に見下ろした先、茂みに蹴り遣った小さなバッグが、主を失って哀れっぽく残っている。その中に光る包丁の切先が見えぬよう、怪物はやはり無造作に、バッグを長い足の先で転がした。
何をそこまで怯えていたのだか知らない。だが花嫁に手を出そうというものは何であれ赦しはせぬ。|普段の《・・・》彼女があまり直接的な手段を望まぬが故、わざわざ声を使ってまでしてやった邪神の忠告を無視したのであれば当然のことであろう。
元より狂気に陥っていたのであるから――。
それこそ、宵刃とて面白く眺めてやるのも吝かではなかったのだ。今日ここに来るまでは。
花嫁越しに、その狂気の陥った先を見るまでは。
「傻仔」
見得ねば|こう《・・》はならなかったものを。