Litus Caeli Stellati
●Mare Pallidum Ardens
昼間ならば太陽の下に姿をさらしているはずの水面も今は濃紺の闇を湛え、月明かりを細く長く呑み込んでいる。波は低く、寄せては返し、砂浜に淡い泡の縁取りを残していく。
そらには数えきれないほどの星があった。
先を歩くノーチェ・ノクトスピカ(Nachtsängerin・h06452)の紫銀の髪は月のひかりを受けて淡く輝き、宵に翳る双眸にはそらいっぱいの星々が映っていた。その傍らを、星花蝶のデネブがひらひらと舞っている。ステンドグラスを思わせる美しい翅は星のひかりを受けるたび、夜空の欠片を散らしたように煌めいた。その傍らを歩くトゥバ・コルヌコピア(凱風・h09459)の若草色の髪も、月明かりの下では森の葉よりも深い色に見えるようだった。
「へへっ、今日の僕は夜の海を疾る銀河鉄道の車掌さんだよー! なんてね」
ノーチェがくるりと振り返る。浅瀬に足先を浸せばひんやりとした冷たさが心地いい。水は夜の空気よりもさらに冷たく、細い波が足首を撫でてゆく。そのたび、ノーチェは擽ったそうに翼を揺らした。
「銀河鉄道? それって、ノーチェが前に話していた……そっか。そらの列車では、みんなが星を纏うんだ」
そらを見上げれば、星は森の樹冠に遮られることもなく、どこまでも広がっている。それならば星を纏うというのも、なるほど分かる気がする。
「ふふふ。そうだよ! ねえ、トゥバも一緒に遊ぼう!」
返事を待つより早く。待ちきれなくって、お月様みたいなボールをぽんと投げてみる。星飾りのボールは月あかりを受けて、夜空から落ちてきたちいさな月のように弾む。ばしゃんと海に飛び込めば翼が少し重たくなるけれど、全然へっちゃらだった。水しぶきが舞い、銀色の雫が宙に散る。トゥバは思わず笑いながら、その後を追った。
「浅い所だから、まだお魚はいないかな?」
ノーチェは水面へ顔を近付けた。水面は昏く、月明かりが届くところでさえ、その下にはもう深い藍色が広がっている。
「魚たちは眠っているかもしれないけれど、カニや貝なら見付けられるかも。……ほら、そこ! 今ひかった!」
「えっ、どこ、どこ!」
ノーチェが慌ててそちらを見る。波が引いた砂の上で、ちいさなものが月光を弾く。さくらいろのひかりを宿したましろの貝殻をみとめ、ノーチェはしゃがみ込むと、そうっとそれを拾い上げた。
「えへへ……見て見て! これ、星みたい!」
ノーチェが嬉しそうに掲げれば、トゥバも覗き込み、うん、と頷いた。
星と貝殻。空と海。
遠く離れているはずのものが、夜になると少しだけ似て見える。
「海の底って、星空みたいって聞いたことがあるんだ」
ノーチェがぽつりと呟けば、その声につられてトゥバも暗い海の向こうへ目を向ける。
「うん。みなそこから見上げた水面は、ひかりの雨が落ちてくるみたいに見えて……星が涙を溢しているみたいにも見える。すごくきれいだ」
トゥバは実際に見たことがあるのだろうか。
或いは、どこかで聞いた話を自分の中で育てているのかもしれない。
「やっぱり! いいなあ、見てみたいなあ……」
今はまだ、ノーチェは浅瀬しか知らない。この先には知らない世界がずうっと先まで広がっている。それを思うだけで、胸の奥が星あかりが灯るように明るくなった。
「僕はその……まだ泳げなくて深いところにはいけないんだけどさ……。……いっぱい練習して泳げるようになったら探検してみようよ!」
言いながら、ノーチェは少しだけ胸を張る。
できないことを認めるのは、きっと悔しい。それでも『いつかできるようになる』。それは、他ならぬ竜の少年が教えてくれたこと。
「珊瑚の森や、海月の月もたくさんみられるかも。僕、鯨の唄もきいてみたいんだぁ……」
夜の海から波の音が返ってくる。
まるでその願いを、海そのものが聞いているようだった。
「いいよ、もちろん。それならさ、帰りは飛行船じゃなくて、船に乗ろうよ」
トゥバは尖った歯を見せて大きく笑った。その提案に、ノーチェは目を丸くする。
「イルカっていう海の生き物は泳ぐのがとても速いんだって。それから、それから……えっ、いいの!?」
「そうしたら、運が良ければ鯨やイルカに会えるかも。こんなに星がきれいなんだから、明日もきっとよく晴れる!」
トゥバは潮風を詠むようにそらを見上げた。星がこれほどよく見えるのだから、明日も晴れる。それは人間の天気予報とは少し違う、竜の少年なりの理屈だった。
風が穏やかならば、そらもきっと穏やかだ。星がよく見えるなら、きっと明日もよい日になる。そんなふうに世界を眺める彼の言葉を、ノーチェは疑うことなく信じた。
「……えへへ、たのしみ。ねえ、来年は海底にまで行けるようになってるかもよ、僕達!」
その言葉はまだ遠い未来のことなのに、不思議とすぐそこにあるようだった。
月の光が心地いい。夜風が濡れた髪を撫でてゆく。
ふたりはしばらく波の音を聞いていたけれど、徐に立ち上がったノーチェは秘密を明かすように声を弾ませる。
「昼間の海でたくさん遊ぶのもいいけどさ。夜に誘ったのは理由があるんだ!」
トゥバが振り返る。それはどうして、と問いたげなみどりの瞳に、ふふん、と満足げに鼻を鳴らして見せて。
「なんと! ……じゃーん! この海、光るらしいんだ!」
その言葉を合図にしたように、波間でちいさな光が瞬いた。
ひとつ、ふたつ。
それから、幾つもの青白い光が、水の中から浮かび上がってくる。ちかちか、きらきら、あぶくのひとつひとつが浮かび上がるように輝き出す海。波が動くたびひかりが生まれ、足先を浸せば、その周囲にもぱっと星が咲いた。
それはまるで、海そのものが夜空を真似て、無数の星を抱いているようだった。
「うわあ、すごい! うんと沖までひかりが続いている……、……これ、ノーチェが見付けたの?」
「すごいでしょ、海に星空がおちてきたみたいにピカピカするんだ!」
得意げな顔をしたノーチェは、少しだけ間を置いた。
「……それをさ、きみと一緒にみたかったんだ」
「あははっ。すごい、すごい! こんなの、俺も全然しらなかった!」
デネブがひらひらとふたりの周りを舞う。
星花蝶の翅が海のひかりを拾い、青と銀のきらめきを彼方此方に散らしていった。
「ねえ、ラムネももってきたから、乾杯しようよ!」
「やった。そうだ、乾杯したら……ちょっとだけ水に顔をつける練習でもする? きっと、いまなら明るくてこわくないよ」
トゥバがひかる海を指差す。ノーチェはしばらく黙って、その水面を見た。
今夜の海は明るい。
星があり、月があり、水の中にも星がある――だから、少しくらいなら。
「えっ! で、できるかな? ……ううん、やってみる……!」
夜は深くなっていた。
けれど、帰りを急ぐ必要はない。今夜の海は静かで、優しく、まだまだたくさんの秘密を隠している。いつか泳げるようになったら、その秘密をひとつずつ見付けに行こう。海底の珊瑚を見て、月のような海月を見て――それから、鯨の唄を聴いて。
イルカと並んで、もっと遠くへ。
その未来をまだ知らないまま、少年たちは笑っていた。
そらから零れた星々は海に沈み、海から生まれたひかりはまたそらへと帰っていく。その間に立つようにして、ふたりの新たな冒険が始まろうとしていた。