シナリオ

『ひとさらい』

#√EDEN #√汎神解剖機関

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 #√EDEN
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 ――この前やべーもん見たわ。
 いや、見たっつーか、多分見たんだけどさ。よく覚えてないんだよな。フワフワしてるっつーの?
 いや真面目に聞けし。ちょうどこの辺だよ、この辺でさ、何か変なもんが浮いてんの見たんだって。
 どんなんかって、知らねえ。何か、丸っこかっけど。やっぱ夢でも見たのかな。
 あんな子供騙しの都市伝説なんか信じてねえっつーの。でも何か、やべーもんがいたら嫌じゃん、この辺。
 だから早く帰ろうぜ。明日からルート変えても良いけど――。
 ――あ?
 何だあれ。
 あっ。


「来てくれたようだね。堅苦しい挨拶は抜きにして、早速本題に入ろうかな」
 炎の如く赤い双眸が瞬く。穏やかな笑みを浮かべたオルテール・パンドルフィーニ(Signore-Dragonica・h00214)と名乗った星詠みは、手元のノートを閉じるや、能力者に視線を向けた。
 此度|降りてきた《・・・・・》のは、√汎神解剖機関よりの侵略者の兆候である。
 およそこの世に存在すべきではない怪異が人目を掻い潜っているのは、ひとえに忘却の力の強大さによるところが大きい。目撃者たちの証言は非常に曖昧だ。中には当時同行していたにも関わらず、被害者が単なる行方不明として片付けられている件さえある。
「それでも噂は流れるものさ。人の口に戸は立てられないものだね」
 ――午後四時四十四分、とある田園地帯の畦道を通ると、行方不明になってしまう。
「勿論、子供騙しだよ。近隣の学校では流行っているようだがね。しかし、事情を知っている者としては、単なる|子供騙し《・・・・》として片付けることは出来ないな」
 その付近一帯での行方不明事件は増加している。流石に四時四十四分の怪そのままではないにしろ、インターネットでもちらほらと話が上がっているようだ。
 そのせいか付近を訪れるオカルトマニアは増えているらしい。近隣に住まう住民と合わせ、話を聞くには充分な環境だろう。
「インターネットでも現地に赴くでも、兎に角情報を引っ張り出さなくては始まらないだろう。まずは下調べが重要ということだね」
 首魁を引っ張り出せば、後は撃破するだけだ。
 とはいえ。
「敵はこちらと同じ√能力者だ。その点だけ覚えておいてくれれば良いよ。とはいえ、君たちなら大丈夫だと思うがね」
 オルテールが暢気に笑う。その表情に違わず、竜はまるで友人と別れるような気軽さで手を振った。
「では、朗報を待っているよ! くれぐれも、身の安全には気を付けてくれたまえ」

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第1章 日常 『変わったこと、変わらないこと。』


逆刃・純素
ハスミン・スウェルティ


「楽しそうだけど大変そうだよね、学校。まあ、私はぼーっとできないのはあんまヤだけど」
「そうですぴすね。毎日同じ時間に通うのは大変そうですぴす」
 一頭の犬を連れた金髪の少女が夕方の田園をジョギングしている――という光景になろうか。前情報通り人通りのほとんどない一本道を連れ立って回るのは、ハスミン・スウェルティ(黄昏刑務所・h00354)と逆刃・純素(サカバンバの刀・h00089)である。
 一般人に備わる強烈な辻褄合わせの本能は、銀の毛並みの犬に化けたハスミンが喋っていようと、日常の一場面として処理してくれる。一瞥をくれた人々が一瞬だけ目を見開くのは、人に擬態した純素が足音も声も伴わずにいるからだ。
 人々の知覚に作用するだけではない。施されているかもしれない魔術的な探知にさえ、今の彼女が認識されることはなかった。代わりにウォーキングと大差ない速度になってしまった純素の移動能力に合わせ、並走する犬を演じるハスミンもゆったりとした歩様で畦道を移動している。
 周囲を散策して分かったのは、ここが学生のショートカットに使われる農道のようなものだということだ。新興住宅はちらほらと見受けられるが、大半の家は旧い農家のつくりをしていて、出入りする人間も老人が多い。殊に冬であれば、ひと気が少ないことにも納得がいく。
「……なにか見つかるといいんだけど。ぴす」
 本来はサカバンバスピス――|ンバ《・・》は欠落したが――の純素にとってみれば、これは陸上に出て初めて出くわす簒奪者絡みの事件だ。魚の如き無表情に揺れる不安げな色を一度見上げてから、ハスミンの方は周囲を見渡した。
 ちらほらとすれ違う人々の会話の断片は聞き取っている。並走する純素の移動速度が低下していることが幸いして、一介の野良犬がただ通り過ぎるより長く、自然に話を聞いていられた。
「そうだね。夕方の――それも五時前に情報が集中してるのは本当みたいだし」
 彼女の感情は希薄だ。散歩がてら自らのルーツとなった世界絡みの事件に足を進めた人間災厄は、しかし情報の整理は行っている。
 どこか不安げな顔をしている近隣住民の噂話によれば、|行方不明事件《・・・・・・》のピークタイムは五時前である。インターネットを根城にしているのであろう人々は浮かれたような興奮したような表情で盛んに情報を交換し合っていた。彼らの言を総合すると、前兆として必ず非現実的な|何か《・・》を見るが、その核心は誰も覚えていない。ただ|見た《・・》という記憶だけが妙な現実感を伴って記憶に残る――。
 インビジブルの様子も逐次確認しているが、もう少し情報が欲しいところだ。日頃より低い視線を巡らせたところで、新しい聞き込み相手を見つけて、ハスミンが純素を静止する。
 足元にいるのは野良猫である。
 唐突に近づいて来た人間と犬に警戒の仕草を見せる猫に向け、犬の姿をした人間災厄が人には解読出来ぬ唸り声を上げれば、幾分か態度が軟化した。
 それを見ていた金髪の少女が首を傾げる。
「喋れるんですぴすか?」
「まあ、ちょっとは?」
 とはいえ彼女も得意なわけではない。ハスミンが単語でのやり取りを試みる間に、純素は付近を散策する。
 犬に化けたハスミンが人々の噂に耳を傾けている間、人に化けたサカバンバスピスは周囲の様子に目を光らせていた。無害そうな見目の古代生物とはいえど、彼女もまた過酷な野生の生存競争を生き残って来た者だ。鋭敏な感覚は生粋の人間には分からぬ違和さえ感知しうる。
 ちょうどハスミンが足を止めた周囲に奇妙な気配を感じていた。その出所を探りながら、何もない田んぼを覗き込むそぶりでしゃがもうとした彼女が、不意に何かに気付いたように跳び上がる。
「わ」
「大丈夫?」
「大丈夫ですぴす! 何かありますぴすから、気を付けてください。ぴす」
 示された場所を避けて、猫に別れを告げたハスミンが純素の隣に立つ。通常の人間よりも僅かに長く宙に留まっていた人型の足が慎重に着地して、草むらの中を指差した。
 純素の野生の勘が、ハスミンの霊的なものへの感受性が告げている。
 見得ず聞こえぬ何らかの儀式の痕跡が、僅かにそこに留まっている――。
「――何ですぴすかね。あんまり良いものじゃなさそうですぴす」
 冷たい風が夜に傾く田舎を吹き抜けていく。すっかり短くなった日に鎖されていく空を見遣りながら、純素の言葉に頷いたハスミンが僅かに目を眇めた。
 ――ちかよらないほうがいいよ。
 ――もうすぐかえらなきゃ。
 ――よるになると、こわいものがくるよ。
 辛うじて聞き取れた、猫の平易な言葉が脳裡を過ぎる。ここに何らかの仕掛けが成されているのは明らかだ。まじまじと見得ぬものを見ようとする人型のサカバンバスピスを見上げて、犬へと化けた人間災厄が|独《ひと》り|言《ご》ちた。
「鬼が出るか蛇が出るか、って感じだね」
 五時が来る。

黒戸・孩

● 
|都市伝説《そういう》話ならば現地に飛ばぬ道理はない。
 かくしてちらほらと畦道に集まっている人影の一つとなった男は、自身の長く伸びる影を眺めながら、前を通る人々を品定めしていた。
 話を聞くならば警戒心のなさそうな者が良い。先入観がなく、そういう話が好きそうな、中学生か高校生か――。
 黒戸・孩(此処にいて何処にも居ない・h01570)の望む通りの一団が通るまでに時間はかからなかった。集団になった男子学生たちだ。真面目一辺倒といった風貌ではないが、あからさまに他者に突っかかる性質にも見えない。
 それで歩みを進める。此度の演技は気安く軽そうで、精神年齢の幼げな男だ。
「どーも、こんちは」
「ちわーす。最近人多いすね」
「この辺噂になってんだよねぇ。知ってる?」
「もしかして行方不明の話すか?」
 声を低くした彼らが顔を見合わせて色めき立つ。やはり都市伝説に心躍る年頃ではあるようだ。この道を通っていることからして予想は出来たが、近しい関係性に消えた者はいないようである。
 なら話は早いや――目を細めた孩がひときわ声量を落とせば、興味津々の彼らが勢いよく耳を寄せて来る。
「消えちゃったヒト、なぁんか見てるみたいよ?」
 あ?
 何だあれ。
 ――あっ。
 日常と心が砕ける瞬間は呆気ない。気の抜けた声で締めくくられる怪談の後に、語り部は畳みかけた。
「さぁ、それさ――」
 なにを見たんだか。
「なんだと思う?」
 一様に口を噤んだ全員が、小さく恐怖を共有しあう声を零していた。中には腕をさすって鳥肌をアピールする者さえいる。
 一連のじゃれ合いが終わるより前に――。
 一人の男子が思い出したように頓狂な声を上げた。
「あ、そういや北原が似たような話してなかったっけ」
「キタハラ? 友達?」
「男テニのマネっす。北原・ひとみ。あいつも行方不明になっちゃって」
 曰く少女は数日前に姿を消してしまったらしい。直接の関わりはないものの、運動部のマネージャーとあって交友関係の広かった彼女の話は、巡り巡って彼らの耳にも届いていたようだ。
「何か預かりものとかしてない? ちょっと調べたいんだよね」
 言えば全員が顔を見合わせた。一斉に鞄を漁り出すのは年相応の純真さゆえだろう。
 最終的に、孩の手には一人の男子の鞄の最下部で潰れていたポケットティッシュが渡った。以前に怪我をしたときに押し付けられたというそれに向け、男は囁くように問うた。
「ひとみちゃんさぁ、まだ生きてる?」
 持ち主の記憶が呼応する。数日ぶりの人の声に歓喜するような小さな煌めきののち、果たして応答が弱々しく戻る。
 ――たすけて。
「助けてやれると思うんだけど、今どこにいるの?」
 ――うえ。
「上?」
 見上げた先に広がる空は夕景を夜に傾け始めている。目を眇めた孩の耳に、再び聞こえぬ声が囁いた。
 ――|あれ《・・》のなかにいるの。

夜縹・熾火


 夜縹・熾火(精神汚染源-Walker-・h00245)が噂に触れたのは、ネットカフェで暇を潰していた折である。
 掲示板やそのまとめサイトは定番だ。SNSが主流となった今であればこそ、チャットルームには熱心な怪奇ファンが夜な夜な集まっている。ログを追い、さしたる反響もない小さなものから絶賛される|よく出来た《・・・・・》ものまで、信憑性を問わず収拾する。
 画面に映し出される文字の羅列を眺め出して幾らか――。
 不意に、彼女は見覚えのある話に行き当たった。
 どちらかが転載だったのか。インターネットには付き物の話を疑ってみたが、語りや内容は先程見たものとは違う。同じなのは大筋だけである。
 ついたレスポンスは数えるほどだが、そのどれもが同じ体験をしたと語っている。他にも考えてみれば同種のことを語っていたのだろう話には思い当たった。往々にして、都市伝説には元ネタがあるというが――。
 熾火は目を眇める。
 それにしても引っかかる。一様に同じ畦道での出来事を語り、また同行者が連れ去られていったところまで一致している。更に言えば、|何か《・・》を見たはずなのだが、その|何か《・・》に纏わる記憶のほとんどが消えているということも。
 噂の出所を探るのも重要に思えるが、それよりもまずは現地の特定をした方が良いだろう。これだけの体験談が集まっているのであれば探すのは容易だ。近年になって行方不明者が多数出ている地域があるのだとすれば、ローカル止まりだとしてもニュースにならぬはずがない。
「――ま、何か見つかれば儲け物って事で」
 片割れを必ず残していく。しかし片割れは攫っていく。
 まるで自らの存在に注目を集めようとでもしているようだ。この噂話を大量に目にすれば、好奇心旺盛な者はその詳細を調べ始めるだろう。そうして拡散されていくための、何かの罠のようにさえ思える。
 ならば一人で見掛けたものはどうなっているのか。全ての体験談が|気付けば《・・・・》同行者は消え果てて、警察に散々疑われるも身の潔白は証明されて、しかし相手はそのまま行方が分からなくなってしまった――という締めくくりに落ち着くのは妙である。
 それも、どの話もそこまで衆目を集めていない。話の筋を勝手に自らのものにするのであれば、もっと反響のある話を選ぶだろう。そう考えれば――。
「やっぱりね」
 独り呟く女の前には一枚のページが表示されている。ローカルニュースのネット記事、その中でも非常に些末なものだ。恐らく、一年も経つ頃にはサーバーの圧迫を避けるために消去されているだろう。
 表示されたトップ画像に映る田園風景と、そこに示された地名を見詰めながら、彼女は幽かに眉間に皺を寄せた。
 ――また女子高生が消える。今年で十件目。

叢雲・颯


 インターネットには誘惑が多い。
 その波に呑まれるのもむべなるかな、画面に向き合っている、一見すれば少年のようにも見える女の表情は、真に好きなものを目にしたときの緩みを隠し切れていなかった。
「あはは……やっぱ電光レッド・マスターは最高だなぁ……」
 ――さて、叢雲・颯(チープ・ヒーロー『スケアクロウ』・h01207)の前に映し出されているのは一本の動画である。
 これは本題の都市伝説とは特に関係ない。彼女の個人的な好みだ。ぶつぶつと呟きが零れてしまうのも熱烈なファンであれば当然だ。
 シリーズの中でも屈指の人気作ゆえに、幾度かリマスターが成されている電光レッド・マスターは、幅広いサブスクリプションサービスでの配信が行われている。昭和に特有の音声技術や場面のつくりの妙は時代が二度移り変わっても根強い人気を誇っている。
 インターネット検索を行っている間、ついブックマークバーに目が行ってしまうのは人の性。そこに登録されている大好きなヒーローの配信に気を取られてしまうのも致し方のないことである。
「レッドマスターの愛犬、バロンが鰹節を咥えて助けに来てくれたから助かったんですよぉ! 神回ですよねぇ! この18話!」
 何度見たか分からないほど見ている場面だ。倒れかけた主の元へ、中盤から行方不明になっていた精悍な顔つきの柴犬が駆け寄って来る。その口には彼を助ける鰹節――それもひときわ高級で新鮮なもの――が咥えられているのだ。
 唯一の弱点を鰹節によって炙り出された怪人が消えていくのを見届けて、レッド・マスターがバロンと共に踵を返す。相棒たちの確かな絆の余韻を噛み締め、次の話が自動再生されそうになったところで、颯ははたと己に立ち返った。
「あぁ、ごめんなさい。仕事中でしたね」
 大好きな話で栄養を補給したのだ。真面目に考察をするにも頭が冴えている。
 当たりを付けて、機械の右手と血の通う左手でキーボードを叩き始める。必要な情報には当たりが付いていた。
 被害者には何らかの共通点があるはずだ。例えば性別。例えば直前に何かしらの行動を取っている。敢えて核心だけを消しながら、曖昧な記憶のうち誰しもに|見た《・・》ことを印象付けているということは、ミーム汚染の一種である可能性もある。
 颯の半生に深い傷を残した怪異の置き土産とでもいうべきか、狂気に対する防護は万全だ。万一にも視覚から|感染《・・》するのだとしても、彼女には何らの危険も及ばない。
 幾つかのサイトを回り、警察の行方不明者情報やニュースにも手を伸ばす。そうして得た情報を総括すれば――。
「――なるほど?」
 消えているのは全員が噂盛りの高校生である。それも必ず誰かと一緒に下校している。
 それはまるで。
「噂、広げて欲しがってるみたいですねぇ」
 そうして人が集まるのを待っているように見える。普段はひと気のない畦道に。
 ちょうど――今のように。

ナチャ・カステーラ


「ここの辺りは長閑で良いところね」
「ああ、前はそうだったんだけどね。最近は本当に物騒でね」
 朝のウォーキングを趣味としているのだという老婆は、同じくウォーキング仲間であると名乗ったナチャ・カステーラ(スイーツハンター・h00721)の言葉にごく自然に応じた。
 彼女は周到である。インターネットで情報収集を終えたのち、その断片の中から重要そうなものを拾い上げてメモに纏めて来た。今日も日の出前から現地へ赴き、さも日課の運動を行っているかの如く穏やかに田園の中を歩いている。
 その中でたまたま行き会った小柄な老婆は、冬の田園を横目に溜息を吐いた。
「うちの孫の同級生とかがねえ、行方不明になっちゃってるみたいなの」
「それは――物騒ね。誘拐じゃなければ良いけれど」
「それがね、聞いてよ。何か変なものを見たって話があるんですって。いなくなるのは高校生ばっかりだし、何だか怖くてね。私も運動がてら見回ってるんだけどね」
 興奮した口調で語る彼女の話によれば、不審者や危険人物は見たことがないそうだ。警察も現場検証に来て困惑しているようである。警察犬も導入されたが、やはり困ったようにその場に伏せて動かなくなるそうだ。
 消えるのは必ず下校途中である。それ以外のことはやはり不明だ。そろそろ帰宅するという老婆に別れを告げて、ナチャはもう一つ、気になっていた場所へ足を向けることにした。
 時計だ。
 四時四十四分の怪――まるで小学生が語る怪談のようである。しかし、事件を語る噂話が夕方に集中しているということは、少なくともその時間帯でなければならない理由があるはずだ。
 町内には古びたアナログ時計台が幾つか設置してある。その位置を確認して回りながら、彼女は己の推察と現況を見比べた。
 時計の針が何かを示している可能性がある。その作り出す影がトリガーとなって、何らかの大きな術式を起動しているのかもしれない。長針と短針の向きをメモして次の場所に向かう。
 幾度か繰り返して――。
 ナチャは己の足にかかる影を見た。
 いつの間にか太陽は随分と位置を変えている。幾らそこまで広くない町内といえど、徒歩で移動して回っているのは時間を食うものらしかった。加えて詳細なメモを作っているのだから、半ば当然である。彼女はこれを見越して、日も昇らぬうちからここに来たのだ。
 意識せぬまま、視線は影の先を追った。ちょうど日が傾き始め、長く伸びた影は一方を示すように見える。
 その先にあるのは。
 ――あの畦道。
 思わずメモを見下ろす。思えば時計台の位置は全て田園の西側だ。つまり時計台の影は全て、夕刻には東にある畦道を指し示す。
 強大な忘却の力で核心を忘れる人々に、しかし要点だけは覚えさせておく。噂好きの人間たちは瞬く間に階段を広げるだろう。それは。
「――新たな被害者を呼び寄せるいい罠よね」
 女の足は急く。来た道を引き返し、彼女は再び田園を目指した。

ノーバディ・ノウズ
久瀬・彰


 世界も辛気臭ければ染み出てくる怪異も辛気臭い。とあらば、現れる簒奪者もまた然り。
 やる気は兎も角気分が上がり切らぬのはそのせいだ。じっとりと烟る霧雨のような感覚が背筋に纏わりついて敵わない。その点において、同時に溜息を吐いた二人の意見は合致していた。
「ちゃっちゃと終わらして煙草でもふかしてぇぜ。そー思わねえかクゼ?」
「俺はとにかく帰って寝たいよ……」
 バイザーに不満を示す顔文字を浮かべる|首無し騎士《デュラハン》に賛同を求められ、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)は猫背をますます丸めた。
 しかし彼が、唇から零れる溜息に違わぬ疲れ果てた表情に、束の間の休息を思い描いたのも僅かの間である。
「いや、書類がまだ終わってないな……これ終わったら病院戻んなきゃかも。まいったね」
「お、応。相変わらずコキ使われてんな……」
 相も変わらず三足の草鞋を履き替えて駆けずり回る羽目になっているらしい同僚に、ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)のフェイスメットも同情と呆れを示す。そのうち二足に便利屋の如く走らされているのも変わらぬようだ。
 未来の展望はともあれ――。
 今の仕事を終わらせぬことには煙草にも睡眠にも次の仕事にもありつけぬ。歩み出すのはほとんど同時だ。
「ま、さておきやるか」
「だね。せめて早く終わらせよ」
 となれば効率良く情報収集を終わらせねばなるまい。へらりと笑ったのは彰が先である。
「聞き込みは得意だし、任せてくれていーよ、ホロウヘッドくん」
「んじゃあ俺ぁ現地調査担当だな。何かありゃ、後で合流したときに共有する」
「おっけー」
 ひらりと手を振って此度の相棒に背を向けた彰の視線が、集まった人々へと向いた。
 医療従事者も警察も本義は|人の話を聞く《・・・・・・》ことである。違いといえば、未来に長らえる生を追うか、過去に齎された死を追うかというだけだ。
 人に話を訊くすべは心得ている。近寄ったのは付近に立っていた初老の夫妻である。
「こんばんは。見回りですか?」
 蓄光性の腕章には|巡回中《・・・》の文字がある。
 二人以上となると一人でいるときよりは警戒が解けやすいのが人の性であるから、この場においては彼らが適任であろう。加えて腕章は話のきっかけづくりに丁度良い。好奇心から声を掛けるに値する情報だ。目論見通り、夫妻は僅かに訝しがりながらも口を開いてくれた。
「ああ、こんばんは。そうなんですよ。最近物騒ですからね」
「長閑そうなのに。何かあったんですか? 連れと近くに旅行に来たんですけど、あまりこの辺りは詳しくなくて」
 有名な観光地から電車で来られない距離ではない。仕事疲れを癒しに長閑なところを目指して来た――と重ねてやれば、地域の見守り活動に積極的に参加する善性を持った彼らは納得したらしかった。彰に同情的な視線をくれたのも見逃してはいない。
 ともあれ夫妻に曰く――。
「高校生がね、このくらいの時間帯にいなくなっちゃうんですって。最近変な人たちも増えましたから、少しでも役に立てばと思ってね」
「この辺でこの前も何か妙なことをしているのがいたみたいです。警察が来る前に逃げてしまいましたがね。子供たちは呪いの儀式だとか言ってますし、本気にしている大人もいるようですけどな、ばかばかしい話ですよ」
 夫にあたる人の言葉はそのまま愚痴に縺れ込んだ。それ以上の詳しいことを訊ける様子でもない。
 やはりへらりと笑って夫妻に別れを告げ、彰は踵を返した。

   ◆

 ノーバディの頭は挿げ替えが可能である。此度持ち込んだのは集音器と虫眼鏡だ。
 物品をフェイスメットの代わりにしてやれば、滞りなく欠落した頭部の代替を成してくれる。それだけでなく、物品の特性を忠実に五感に再現するのが、彼が代償と引き換えに扱う主たる異能だ。
 明瞭になった視界は遠くのものを見通してくれる。ほんの僅かの塵でさえ、まるで虫眼鏡で拡大したかのごとくよく見えた。遠くの猫の鳴き声、幽かな葉擦れの音――。
 そのうちの一つに違和を覚えて、首無しの男は歩を進めた。
 しゃがみ込んだのは路傍の枯れかけた雑草の脇である。その上に小さな破片が散らばっていて、風で擦れるたびに耳障りな高音を立てていたのだ。
 念入りに踏み砕かれたそれが本来何であったのかを知るのは難しい。だが恐らく、この周辺に飛び散っているはずだ。これを成した何者かが気付かぬような場所を探して視線を巡らせた彼は、ふと夕日を反射するものに近寄った。
 乱雑に破壊された木枠の一かけら。その周囲に残っている、小さな硝子の欠片。何であるのかを想像するより先に直感する。
 手鏡――。
 立ち上がる。そろそろ此度の相棒も戻ってくるはずだ。
「ホロウヘッドくん」
「応」
 後方に近寄る足音に向け、ノーバディが手にした鏡の破片を差し伸べた。一瞥した彰もまた目を眇める。
「変な儀式をしてるのがいたらしいよ。呪いの儀式かもしれないんだって」
「そりゃ大儀なこって」
 鏡。儀式。呪詛。飽きるほどに見て来た定番の組み合わせである。何かを呼び出すには充分すぎる環境だ。
「本当に辛気臭ぇ話だなぁ」
 悪態を吐くフェイスメットのバイザーに、ブーイングの絵文字が点滅した。

山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世
ケヴィン・ランツ・アブレイズ

 情報は足で稼ぐ。
 旧知が日頃零していた古臭いながら芯の通った理念の賛同者である人間災厄と、他の方策に明るくない竜の思惑は合致していた。
 燃えるような紅色の髪を夕景に溶かし、ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)は畦道を見渡した。話通りちらほらと見える人影を興味深げに見遣った竜の眼差しが、最後に行き付いたのは隣の少女である。
 山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)の白い髪の合間から、人ならざる金色が青年を見上げる。見目には非力ないち少女にしか見えぬ彼女へ、未だ人の作法に疎い竜が首を傾げる。
「ニンゲンはこういう時『聞き込み』とかいうのをするんだろ?」
「そうだな。私も人間ではないし、定石なんぞ知ったことじゃないが――」
 皮肉めいた言い回しと共に、シャネルの指先が懐を探った。どこかあどけなくも見える表情で瞬くケヴィンの前に突き出されたのは一枚の薄い手帳である。
 ――彼女もちょうど手近な学生を捕まえようと思っていたところだ。
「聞き込みなら便利なものがある」
 歩み出す彼女が声を掛けたのは手近な学生だ。大人しそうなボブカットの少女は、一見すれば己と同じ年頃にさえ見えるシャネルが見せた警察手帳――偽装である――に眼鏡の底の目を瞬かせた。
「この辺りで起きている失踪事件について、少しお話を聞いてもいいですか。私こういうものです」
「わ! は、はい!」
 姿勢を正した少女の姿を感心したように見遣るのは、後から追い付いたケヴィンだ。聞き込み相手の方は自然と人間と何ら変わりのない赤髪を見上げた。
 視線が交錯したところで、次は彼が口を開く。
 回りくどい駆け引きは苦手だ。直截に疑問を口にする方が、竜の性に合っている。
「その話絡みで、最近何か不思議な話とか、怖い話を聞いたことはないか?」
「え? あー――返田くんが――クラスメイトが、この辺で怖いものを見たとか見てないとか。でも、そのあとから学校を休み始めちゃったので、多分本当に見たんだと思います」
 曰く数日前のことであるという。
 混乱した様子の返田という少年から電話がかかって来て事態を知った。もっと親しい人間は幾らでもいたはずなのに、何故自分を選んだのかと思ったが、前日に課題についてのやり取りをしていたせいでメッセージアプリの一番上に名前があったようだ。
 空から変なものが降って来て――。
 支離滅裂なその話の詳細は、彼女も良くは知らない。ただ、そう切り出したのは覚えているという。
「成程。そのときご友人はお一人でしたか? それとも誰かと一緒にいたと言っていましたか?」
「北原さんが一緒だったって言ってました。隣のクラスの女の子で」
 男子テニス部のマネージャーであった彼女と返田少年は懇意にしていたようだ。だからこそ、このひと気のない抜け道を使って、二人でゆっくり帰っていたのではないか――と少女は言う。
「そのキタハラという女子生徒は、今は?」
「それが、その――」
「失踪したか?」
 ケヴィンの問い掛けに、口ごもった彼女が小さく頷いた。
 ひとみが連れてかれた――と、彼は言ったという。
 空から降って来た何かによってどこかに連れ去られていくのを茫然と眺めていた彼は、パニックになって同級生に連絡を取った。困惑した彼女の方は、兎に角そういうことは警察に連絡した方が良いとだけ告げて、混乱したまま一夜を過ごす羽目になったという。
 学校に行ってみれば本当に北原少女は消えていたというのが顛末のようだった。
「だ、だからわたしも、本当はここは通っちゃ駄目ってお母さんに――あ! 警官さん、内緒にしてください!」
「誰が相手でも個人情報を漏らしたりはしませんよ。安心してください」
 ほっとしたような少女から引き出せる情報はここまでだろう。あらかたの話が聞けたら用はない。要救助者を無暗に増やさぬためにも早く帰ってもらう方が助かる。
 それでも|目的《じゆう》のために在るべき人の皮を被って、フィボナッチの兎は礼儀正しく彼女を解放した。
「とても助かりました。暗くなる前に気を付けて帰りなさい」
 ――|私《わたしたち》の気が変わって頭から喰ってしまう前にな。
 僅かに眇めた眼差しに宿る昏い色に気付かず、少女は頭を下げて去っていった。その背にケヴィンが手を振る。
「不審者にも気を付けるんだぞ」
 よく通る声を振り返ったシャネルが隠れる場所もない一面の田畑に目を遣る。それから、赤い双眸に視線を移した。
「不審者はいなさそうだがな」
「俺の故郷だと、こういうのは盗賊団とか人買いとかの人災だったもんでな」
 たとえ此度の敵がそうでないとしても、年頃の少女には注意を促すに越したことはないだろう。体得した騎士としての振る舞いの延長である。
 しかし。
「それが|√能力者《ごどうはい》の仕業とは、笑えないぜ」
 人ならざる本性を眸の奥に揺らがせ、竜は吐き捨てるように長閑な田園へ目を遣った。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ


 行方不明だという。
 パンドラの匣を開けて災厄に呑まれてしまったか。或いは他の√に迷い込んで出られなくでもなったか――ひどく醒めた表情をする桃色の少年の横で、彼よりもなお幼い真白の聖女が眉尻を下げた。
「一体誰が、彼らをたべてしまったのかしら」
「聖女サマは慈悲深いことで」
 詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)はララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)の如くは在れない。どこまで突き詰めても畢竟兵器の身に過ぎぬ彼にしてみれば、何もを傷付けぬ顔に魔性を纏う彼女の、同情的な言葉には共感しかねる。
 それでもその足が隣から離れることはない。街の中心にある商店街を目指す少女に歩調を合わせた彼を見上げて、ララの長い睫毛が瞬いた。
「都市伝説……イサはそういうのに詳しいのかしら」
「俺? 俺は……詳しくは無いな」
 怪異であろうと何であろうと関係はない。兵器の役割は破壊と殺戮だ。相手のルーツがどこにあるとしても、イサのかかずらうところではなかった。
「ララもよくわからないけれど」
 白魚の如き指先が跳ねる。
「なんて事のないお話が虚構のスパイスによって現実味を帯びてしまったもの。語り信じれば、力を得られる……そう、存在を獲得できるのよ」
「そりゃあ……大層な味付けで」
 だから人は消えた。都市伝説の通りに。
 卵が先か鶏が先かなど、今この場にいる災厄の卵には関係がない。それを見付けて腐った中身を掻き出さぬ限り、この災禍は孵り続けて、人々を覆い隠していくだろう。
「……そうして虚実は真実になっていくんだろうな」
 止めねばならぬ。そのためにララがここに来たから、イサもまたその身の隣に在るのだ。
 商店街に足を踏み入れる。夕刻が近いこともあってか賑わったそこをすり抜けながら、先を行く少女の目は些か本題とずれたものを探しているようだった。
「この辺で有名なお菓子のお店は……あ、あそこね」
「……お前、お菓子食べたいだけじゃないのか?」
「む。人が集まるところに情報は集まるの」
「そんなもんかね」
 まあ――イサが止めるようなことではない。聖女の指差した看板の付近では確かに塾帰りの小学生と思しき一団が買い食いをしているようだし、目的は果たせるだろう。
 まずは菓子を買い込む。小さな両手に溢れるほどの量は、何も彼女たちだけで消化するためではない。
 店外にいる小学生たちはお喋りに夢中だ。それでも無垢なる聖女の纏う空気は彼らの注目さえも集める。柔らかく微笑んだ同年代の少女の存在に、目を瞬かせた五人の集団は、続く穏やかな声に元気よく応じた。
「こんにちは。気になって買ってみたのだけど、ここのお菓子って、おいしい?」
「こんにちはー! おいしいよ!」
 彼女が上手く輪に入り込む一方で、僅かに後方から様子を窺っていた彼もまた遅れて歩みを進める。問い掛けは常の調子だ。
「なあ、最近流行ってる噂とかないか。身近でいなくなった人とか」
 途端に小学生たちは口を噤んだ。どうやら自分よりも年上の少年が、笑顔なくぶっきらぼうな言葉を零したことに怖気づいているらしい。
 どこかつっかえるような雰囲気の彼らからイサへと視線を移したララが、自身の口角を示して自らの護衛に苦言を呈する。
「……愛想が悪いわよ、イサ。ほぅら、わらって」
「は? 十分にいい笑顔だろ?」
「全然だめよ。こう」
 無理矢理に持ち上げられる口角にこれでもかと眉根を寄せた少年の表情を見るや、弾けるように小学生たちが笑った。
 それで緊張を忘れたらしい彼らは、きゃらきゃらと黄色い声で噂話を語り出す。
 四時四十四分の怪とは、主に小学生の間で流行っている怪談らしい。田んぼの畦道を一人で通っていると、どこからともなく雲が覆い被さって来る。空を見れば奇妙な風船に埋め尽くされていて、逃げようとする前に降りてきた一つに捕まってしまい、異世界に連れていかれる――。
 そのまま、二度とこの世界には戻って来られない。風船の中に閉じ込められて、異世界の中を漂い続けるのだ。
「隣の隣のお姉ちゃんがこの前いなくなっちゃったんだよ」
「どこで?」
 少年人形の問いに応じて、五人はいっせいに同じ方向を指差した。商店街の時計台が落とす影が、まるで道しるべのようにその方向に伸びている。
 彼らに礼を言って別れた少女の足が迷いなく進みだす。
「じゃあ、イサ。そちらに行ってみましょう」
「ララ」
 歩み出す足を少年が止める。振り返るララの丸い眸を真剣に見返して、イサは低く声を零す。
「何がトリガーなのかはまだわからない。噂に触れるにしても気をつけろ」
「ララは大丈夫よ。お前が守ってくれるんでしょう?」
 傲然とした台詞だった。歩み寄る少女の紅色の双眸が真っ直ぐに少年を見詰めて、いとけない相貌に似合わぬ笑みを描く。
「ララを守れる栄誉を噛み締めて……然りと務めることね」
 細められた眸に僅かに目を眇め、護衛の務めを果たす少年もまた不敵に笑った。
「ありがたくその栄誉を受けさせていただきますよ」

叶・千絃


 噂話の拡散はいつの時代も早いものだ。
 生まれた頃には既に世界中にネットワークが張り巡らされて久しかった。SNSの台頭以来、加速度的に広まっていく有象無象の噂が示すのは、いつの世であれ人が巷談に心惹かれてやまないという事実だ。
 叶・千絃(千の夢見し・h01612)にはその一片さえも分からない。それでも|興味を持つ《・・・・・》ことへの興味は存在する。
 ――惹かれる理由を分かってる方が、人らしいんだろ?
 山羊の如き、人ならざる瞳孔に映し出しているのは小さな画面だ。手元でスワイプするスマートフォンの存在は便利なことこのうえない。どこでどう触っていようとも不自然な印象は与えないし、あらゆる情報網に素早く手軽にアクセス出来る。
 彼の目が追っているのはまとめサイトである。本来のスレッドでも構わなかったが、あれはノイズが多いのだ。手早く纏まった情報を得るならば、些少の情報が省かれているこちらの方が効率が良い。
 千弦の本来の|同業者《・・・》とは毛色が違うが、どちらにしても怖いもの知らずと好奇心の的になることに違いはない。都市伝説の情報はどこを見ても転がっている。別件の同伴募集や面白い話を幾らか探しながらも、その目が本題を忘れることはなかった。
 幾つかレスポンスの多いものをピックアップして、次に開くのは動画サイトだ。
 検索すればまとめ動画が出てくる。既に知っている情報を聞くことはしない。彼の本命はその下にあるコメント欄である。
 ほとんどが感想だ。だが時折、それに絡めて自らの体験談を語る者もいる。大人になれば鳴りを潜めることの多い顕示の欲求は、しかし若い世代には未だ豊富に満ちているものでもある。
 そういうコメントは語り出しでおおよそ分かるものである。流し見ながらスワイプをしていた指が、ふと一か所で動きを止めた。
 ――昨日先輩がいなくなってしまった。
 書き込みの日付を見る。三日前。|続きを見る《・・・・・》の文字をタップすれば驚くほど長い文章が並んでいるが、必要な情報は多くない。
 消えた先輩は高校二年生。男子テニス部のマネージャー。彼氏と一緒に帰っているとき、畦道の途中で何かが空から降って来るのを見た。何故か金縛りに遭ったように動けなくなった彼の前で、降りて来た何者かによって少女は連れ去られ、我に返った彼氏が警察に通報し――。
 しかし、何も遮蔽物のない田畑の真ん中にもかかわらず、彼女は見付からなかった。
「――ビンゴ」
 横長の瞳孔を眇めて、千紘は|独《ひと》り|言《ご》ちた。スマートフォンをしまって歩き出す。
 行方不明の四文字で処理されて終わるのも面白みに欠ける。下調べが済んだならば――。
 後は直接、この目で見るだけだ。

神咲・七十


 情報収集とあらば現地に赴くほかになく、現地に赴いたからにはより個人的な欲求を満たそうとするのも当然のことであろう。
 商店街に並ぶ店の間を歩き、神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)は両手に抱えた袋いっぱいの菓子を一つ口に放り込んだ。田舎であるという話だったが、近隣から買い物に来る客が多いのか、賑わう店は多いとみえる。特に時期柄か彼女の目当ての甘味に類するものはどこも盛況だった。
 人が並んでいると良いものに見えるのは人間災厄であっても同じだ。まして|期間限定《・・・・》の看板があるとなれば余計に魅力的に感じる。翻り、閑散とした店であっても穴場の可能性を捨てることは出来ない。甘味がなくては心の安寧を保つことのできない七十にとって、その全てを口に入れることは使命と同義だった。
 食べ歩きの出来るカップケーキを頬張りながらも、彼女は自らの|本題《しごと》を忘れてはいない。
「すみません、この辺りで変な噂があるって聞いたんですが――」
 手持無沙汰にカウンターに立つ店員や、学校帰りの買い食いと思しき中高生。見回りの腕章を付けた大人たちに、付近の交番に立っていた警官。観光の切り上げ時に迷うふりをすれば、少女の見目をした人間災厄を訝しむ者はなかった。
 曰く。
 この地では確かに行方不明事件が頻発している。その全てにおいて不審な点は共通していた。高校生を狙うが男女の別はなく、必ず二人組のうち片方が消える。もう片方は皆記憶が曖昧で、錯乱に近い混乱をきたした状態であるらしい。
 気付いたら同行者が消えていた――となれば、さもありなんといったところかもしれないが。
 畦道には近付かない方が良いという善意の声に礼を述べながら、七十は食べ終わったカップケーキの包装を手元の袋に入れて、新しい甘味を取り出した。
 ソフトクリームは今の時期には冷えるが、それをおしてでも食べたくなるほどにパルフェの甘みは格別だ。思わず声も漏れようというものである。
「んぅ、美味しいですね♪」
 ――しかし、あらゆる噂話が本当に都市伝説程度まで薄められてしまっているのは事実のようだ。忘れようとする力の強大さを逆手に取ったとでもいえよう。
 何しろ、人は曖昧なものを厭い恐れる割に、それを暴こうと首を突っ込むものであるから。
「それで人が集まってくるのなら相手の思うつぼですね……あっ」
 ぽつりと零した愚痴が溜息に変わるより先に、七十の紅色の眸が煌めいた。視線の先には看板がある。期間限定生チョコレート販売中、お持ち帰りOK。
 一も二もなく列に並んだ彼女が、前でスマートフォンをいじっている少女を見る。声を掛けるか否かで少し迷って、喉を整えてから声を上げた。
「すみません、この辺って――」

櫂・エバークリア
黒野・真人


 櫂・エバークリア(心隠すバーテン・h02067)が日頃テリトリーとしているのはこの世界ではない。
 √ウォーゾーンには詳しくとも他の世界には明るくない。それゆえに案内を頼んだ青年――黒野・真人(暗殺者・h02066)の手持無沙汰な表情を一瞥し、しがないバーテンは小さく笑った。
「てかカイ、アンタ別に俺いなくてもこーゆーのデキるだろ?」
「なーに言ってんだ。心強いぞ?」
 店の食材の買い出しも必要な頃合いだ。さりとて櫂の腕は二本しかなく、それでは一店舗の買い付けとしては到底耐荷重が足りない。そこで荷物持ちついでに案内人兼同行者として指名した――などと本心を言えば、真人は感情的になるだろう。軽口めいた言葉に、当の暗殺者は溜息を吐いた。
 殺しこそが彼の仕事で役割だ。出自柄、それ以外の機微に聡いとはいえない彼にしてみれば、一見して平和な街をただ歩いて回るのには馴染めない。
 どこか居心地の悪そうな彼を連れて、櫂は何やら話し込んでいる三人の女子高生に近寄った。相手が少女たちであると分かった途端に歩を緩め、後方で待機するような格好を取った真人を一瞥し、黒い双眸が人懐こく細められる。
「失礼、お嬢さんがた。ちょっと道を訊きたいんだけど――」
「あ、えっと、はい」
 見立て通り純朴そうだ。商店街の位置と畦道の方向を無警戒に告げる彼女たちに礼を述べてから、人当たりの良い顔で男が続ける。
「あぁ、あと、この辺で妙な噂聞いたんだよね。詳しかったりしない?」
 全員が押し黙る。顔を見合わせた女子高生たちのうち、ひときわ暗い顔をした一人を庇うように、残る二人が矢継ぎ早に話を始めた。
 この子の友達がいなくなっちゃって――。
「ひとみちゃんって言うんです。四日くらい前に、帰ってる途中に行方不明になっちゃって」
 学校では怪奇現象のせいだと専らの噂である。同行者は学校に来ていない。教師たちは不謹慎な話をするのではないと子供たちを叱るが、そのようなことで噂話が収束するはずもない。既にインターネットに書き込みを行ったものも多く、畦道には遠方からの来客も増えたようだ。
 それで、三人はその噂を確かめに行くべきか否か、随分と迷ってここにいたらしい。証言と噂によれば二人でいると片方が攫われるとのことで、三人であれば大丈夫なのではないかという見たてだったようだ。
 しかし踏ん切りはつかなかった。結局ここで蟠っていたところに、櫂が声を掛けたというのが顛末のようだった。
 暫し考えるように唸る彼の横に足音が並ぶ。
「ふうん。それって四時四十四分とかだったりする?」
「真人」
 夜闇の如き漆黒の髪を揺らし、ちょうど高校生たちと同年代の青年がぶっきらぼうに問う。
 整った目鼻立ちに甘い表情を浮かべ、軽やかな声で軽妙に話を運ぶ櫂とは違って、真人は人付き合いの立ち回りに疎い。女性や子供を安心させて優しく接する方法が分からぬ彼は、それゆえの危惧で――。
 否。
 そういった人との慣れ合いは、人殺しの稼業に身を浸す者としての|性《さが》と相反する。
 しかし聞き込みによって得られた情報には興味があるし、櫂が気付かぬのであれば糸を手繰ることに否やはない。一見して複雑に絡まった現況も、解いて束ねれば唯一の真実を指し示す導になる。
「分かんないけど、返田くん――あ、ひとみちゃんのカレシなんだけど――その子が警察に電話したのが五時前だったって話だから、そうかも」
 暗い声の少女がそう返したことで、真人の中でおおよその解は出た。
 誰そ彼時の死の数字。近くに聳える時計の、長く伸びた影が示す方角には例の畦道がある。現場のどこかで儀式のようなものが行われたのだろうことは明白であろう。
 現場に血痕の一滴さえないから行方不明事件として扱われているのだとしたら、異世界よりの侵略者は人を連れていく。目的は恐らく、その後にある。
 真人と視線を交わした櫂は、少なくとも同行者が一歩踏み込んだ真実の一端を掴んだことを理解した。
 話を切り上げる前に一つだけ問う。
「そのお友達、取り戻したい?」
 真摯な声に少女たちは一斉に顔を上げた。銀の髪を暫し見詰めて、半信半疑の表情が確かに浅く頷く。
 それで、彼は笑った。
「有意義な話が聞けたよ。ありがとね。ついでにお茶でもいかが……」
「ええと、知らない人についていくなってお母さんが」
「あぁ、そりゃ失礼」
 抜け目のないナンパはしっかりとした教育に阻まれる。呆れた表情の真人が、彼の背を押すようにして彼女らから遠ざけていく。
「ハナシ分かったじゃん。ほら、いこーぜ」
「はいはい」
「あと、アンタらは帰りな。俺らが調べとくから」
 ぶっきらぼうな言葉を残す暗殺者にやはり小さく笑う。しかしすぐに表情を改めた。
 ――しかし噂とは厄介なものだ。身近な人間が消えてなお、危険に首を突っ込もうとする。
 だがそのお陰で情報が得られるという側面を否定も出来まい。今はなりふりに構って手をこまねいている場合ではない。子供たちにこれ以上の犠牲を出すわけにはいかないのだ。
「頑張るとしますかね」
 強く背を押されながら、バーテンは黒い眼差しで聳える時計を見上げた。
 ――時間だ。

第2章 集団戦 『インビジブル・クローク』



 五時のチャイムが鳴るより前に、能力者たちは畦道に辿り着いただろう。
 町中に点在する時計台が落とす影が一点を指し示す。入念に砕かれた鏡の破片を依り代に、嘗て成った儀式に|喚《よ》び寄せられた怪物が夕景を覆う。
「何あれ」
 空に掛かった影を最初に見上げたのは誰だったろうか。田園に集まった疎らな人々は、誰ともなしに発されたその声を皮切りに、一様に空に蓋をする|それ《・・》を見た。
 夜に移り変わり行く夕暮れの光を帯びて赤く発光する|海月《くらげ》は、冷えた風に揺蕩うように現れる。連れ去られた誰かの懇願を知る者も、その生存を確信する者も、子供たちの間で流れていた噂を思い出す者もいるだろう。
 ――午後四時四十四分に畦道を歩くと、風船に連れていかれてしまう。
 何も知らぬ人々は茫然と空を見上げているが、能力者たちは違う。幸いにして一般人は驚愕と不可解で困惑しているだけだ。一声でも発せばすぐにでも我に返り、脅威を理解して退避を始めることだろう。
 勿論、彼らの安全を確保する者があればより万全ではあるが、能力者の本義は別にある。
 黒幕を引き摺り出すために、願いに応えるために、行方不明事件に歯止めをかけるために――。
 かの侵略者を地に落とさねば。
逆刃・純素
神咲・七十


 プランクトンは魚の主たる養分である。逆刃・純素(サカバンバの刀・h00089)も、本来の種族を思えば|海月《くらげ》は一息に丸呑みする相手だが――。
「ちょっとこれはお腹こわしそうですぴす」
「ふにゅ……あれはちょっと、体によくなさそうですね」
 赤く発光する巨大なそれらを、まさか食そうとは思えない。神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)も思わず自身の声を零して同意した。美味くも甘くもなさそうである。
 思わず顔を見合わせた相手の無表情な橙の双眸を少女が見詰める。擬人化したサカバンバスピスの方は瞬かぬ眸を人間災厄に向けたまま、小さく首を傾いだ。
 退避する人々の|殿《しんがり》を務めるには|一匹《ひとり》では手数が足りない。誰かの手を借りたいと思っていたところだ。
「避難をお手伝いして来たいんですぴすけど、援護ってお願いできますですぴすか?」
「んぅ、任せてください♪」
 純素の申し出は七十にしても好都合だ。対空戦は得意分野とはいえないないが、それならばそれなりに戦うすべは思い付いている。誰かが避難に専念してくれるなら、力を十全に振るうに支障もなかろう。
 快諾の声に礼を述べ、金髪の少女は踵を返した。茫然と空を見上げている人々に届くように声を張る。
「はーい、ちょっと天気が急変したから急いで避難してくださいぴす~~」
 ――どう呼び掛けるにせよ、後になれば忘れてはしまうのだが。
 周囲に広がっているのは田園で、避難経路は舗装の甘い畦道である。人の数そのものは多くないにしても、最初から危機感を煽りすぎてパニックを起こせば二次災害に繋がりかねない。
 集まり始めた他の能力者たちも声を上げるだろう。あれらが本格的に地上に降りて来ないうちに移動を始めるだけならば、今は急かす必要は薄い――と、彼女は判断した。
 危急を訴えるには穏やかな言葉に近くの夫婦が首を傾げた。近寄って来た純素を見る彼らの眼差しは、彼女の目論見通り落ち着いた色をしている。
「あら、そんな予報出てたかしら?」
「最近は天気も不安定ですぴすからね。きっとそのせいですぴす」
「確かにそうですなあ」
 踵を返した彼らに従い、周囲の人々もめいめい足早に去り始める。その最後方で刀を構える金色を見送り、人間災厄は徐々に近寄って来る海月の群れに手を翳した。
 ――管理名『万理喰らい』は、その身中に異界を飼っている。
 現れた奇妙な植物が、銃口の如き丸穴を空に向けた。あらゆる動物の特徴が混沌と混ざり合った眷属が背の翼で飛び立つ。発射された巨大な種が砲弾じみて中空の怪物を撃ち抜き、爪を持った眷属が絡みつく触手ごと地に引き摺り下ろす。
「よし、では追加でお願いしますね♪」
 地に落ちた海月を蔦植物が鎖のように固定するや、その先端にあるナイフめいた構造物で中核を貫く。成すすべなくしぼんでいくそれらを横目にチョコレートを取り出した七十は、体内の異界の空白を補うかの如く甘味を噛み砕いた。
「んぅ、このお菓子も美味しい♪」
 しかし怪物の全てをたちどころに撃ち落とすことが叶うわけではない。ゆっくりと移動を始める人々の背に向け、七十の頭上を飛び越えるものが幾らかいるが、彼女が特段心配の表情を向けることはなかった。
 人の腕を得た古代魚の剣豪が、腰に差した刀に手を遣っている。
「|不殺《チェスト》!」
 一息に引き抜かれた白刃が翻る。一刀の元に切り伏せられた海月は、不殺の叫びとは裏腹に中核を精確に引き裂かれ、力なく地面の染みへ溶けていった。
「こっちはお任せくださいですぴす! そっちはお任せするですぴすよ!」
 残った触手は、サカバンバスピスの手により充分食用に堪える部位となっている。しかし幾ら食べられるといえど、主を失って尚跳ねるそれを口に入れることは憚られよう。
 手慣れた調子で刀に纏わりつくぬめった体液を拭き取り、再び居合の体勢に移る純素ににこりと笑ってみせて、人間災厄は地に落ちていく海月の群れを見た。
 七十の異界に対空戦力は多くない。殊に空中戦力といえばキメラじみた眷属ばかりだ。
 ならば。
「ふむぅ……この後、案外使えたりしますかね?」
 潰れていく海月に与える一撃は奇妙な力を纏っている。全てを取り込むことは叶わぬまでも、自らの異界の住人として隷属する幾つかを、七十は上機嫌に歓迎した。
 純素の白刃が夕景を反射する。知性の強くないそれらは、幸いにして最も後方にいる金色の剣豪――己らが標的とする年代に最も近い者に狙いを定めたようだ。本来の姿が持つどこか能天気にも見える笑みとは裏腹に、人の姿となれば全くの無表情を保つ双眸に覚悟の色を滲ませて、古代より息衝く命は捕食者の如く刃を振るった。
「わたしの刀に掛かって、カンブリア期からやり直すぴす」

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ


「みて、イサ」
 細く白い小さな少女の指先が空を指す。
 宙より来たる赤い煌めきは無機物に似ている。揺蕩うばかりで意志の見えぬ虚ろな|風船《・・》の群れを前にして、少年人形は透徹な少女の眼差しを庇うように前に立った。
「あいつらか」
 己と同じ海に属する物どもの群れを睥睨し、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が唸る。警戒に満ちた背越しに赤く染まった陽を見るララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)は、護衛とは裏腹に常の調子を崩さなかった。
「赤い風船、綺麗ね」
「風船? ララ、あれはそんな可愛いもんじゃない」
「ふふ。わかっているわ。|海月《くらげ》でしょう?」
 でもね――万物を虜にする美しい双眸が無垢に瞬いた。その柔らかな唇が、聖女と呼ぶには毒々しく笑う。
「ララはね、風船を割って地におとすのも好きなのよ?」
「……聖女サマの趣味も可愛いもんじゃなかったな」
 諦めのような受容の言葉を纏い、イサの嘆息が夕景に融ける。護衛の少年が首を横に振るのを満足げに眺め遣った真白の聖女は、唯一の紅色を瞬かせて踵を返した。
 他の能力者の呼びかけに応じ、人々は緩やかに移動を始めていた。しかし子供たち――といってもララやイサより年上だが――の中には、当惑したように動きを止めている者もあった。その少女の一団の一人に寄った彼女が声を発する。
「あの風船はララのものだから、お前たちは去りなさい」
 幼い少女の声は、しかしその愛らしい見目には不釣り合いな色を孕む。従わなければならない――とさえ思わせるそれに顔を見合わせた彼女らの耳朶を、未だ声変わりの終わらぬ少年の鋭い声が打った。
「ほら、見世物じゃないんだ、さっさと行け!」
 一般人に被害を出すわけにはいかない。ララの後方に立ったイサの声を受けて慌てて走り去る背を見送る。空を覆う海月の影が地に落ちるのを見遣りながら、聖女は一つ、良いことを思い付いた。
「イサ、どちらがたくさん捕まえられるか競争よ」
「また突然だな……」
 だが彼女の突飛な提案は半ばいつものことだ。熟考するまでもなく、少年は不敵に頷いた。
 どうせ全て墜とすのだから、面白い方が良いと思うのは、ララだけではない。
「いいぜ。どちらが多くおとせるか……やってみよう」
「良い返事ね」
 屈託のない紅色が嫋やかに笑った。|よーいどん《・・・・・》は行ってやらない。空を駆けるように跳ねた聖女が紡ぐ桜色の牡丹一花が吹き荒れて、彼女をめがけて降下していた海月の触手を切り落とす。
「鬼ごっこ、しましょう。さいしょはララが鬼」
 ――相手の手番は永劫回って来ないけれど。
 脅威とみなされ延びる毒針は純白を汚すに能わず、返しの一撃が空を泳ぐ怪物を叩き落す。数が集まれど横合いの水激が押し流すから、ララの体には傷一つ付きはしない。
「聖女サマに花をもたせて、なんて軽口言ってられないな」
 競争といえど協力は怠らない。彼女の遊びに付き合うのだとしても、イサは護衛の本分を忘れてはいない。
 冥界の流域を作り出した少年人形が銃口を向けるが如く人差し指を立てた。|昏《くら》き海より来たる海流を凝集して打ち出せば、科学兵器と遜色のない水圧がその核を撃ち抜く。ララを狙う渦となり、空を覆い尽くす海月を本来の在処に引き摺り墜とす。
 成すすべなく地に落ちるそれらをカトラリーが貫いた。ナイフにひとつ。フォークにふたつ。地に満ちる水溜りになることさえ許されず燃え尽きるそれらは、ララの指先が|喚《よ》び出した界を越える銀災を払いのけることも叶わない。
「まだまだよ」
「ほら、まだまだだ!」
 海流のレーザーに核を貫かれてみっつ。フォークの先に纏めて貫かれてよっつ、いつつ、むっつ。渦が飲み乾したのが幾つであるのか、最早数えるすべもない。
 イサにとっては勝敗などどちらでも良かった。ララも既に数えてはいない。この|お遊び《・・・》の本質は、勝った負けたで一喜一憂する拠点での和やかな時間とは違う。
「攫った奴らを返してもらわないと──お前たちの裏側に、何がいるのかも突き止めないとな」
「そうね」
 忌々しげに地に落ちていく怪物を睨み遣り、少年人形は唸るように声を零した。この怪物の群れが実働隊に過ぎぬのであれば――そしてそれらが人々を攫うばかりで殺すようなことをしていないのならば、そう命じた存在を壊さねば、知られざる惨禍は本当の意味で終わりはしない。
 ゆっくりと頷いた聖女が、空を本来染め上げていたはずの夕陽を見上げて手を翳す。
「お前たち、皆をどこに連れていったのかしら」
 撃ち出される花嵐が群れを呑み込んだ。逆巻く桜色の風の中で、真白の聖女が静かに目を眇める。
 ――良い子には聖なる祝福を。
 ――皆をつれていった悪い子には、懺悔の罰を。
「かえしてちょうだい」

黒戸・孩
ケヴィン・ランツ・アブレイズ


「ひとみちゃんをそこに攫った風船発見したよ。ただ俺ね、丸腰できちゃったの。ちょい力を貸してくれる?」
 くしゃくしゃに潰れたティッシュに向けて男が問い掛ければ、呼応するように真白の剣が現れる。
 手中の武器を握り閉めた黒戸・孩(此処にいて何処にも居ない・h01570)の演ずる人格は多岐にわたる。さりとて人間であれば得意も不得意もあるものだ。この場を押さえるに最も適した寸劇を演ずるうえで、彼が最も自然に演じられるのは――。
「――丁度|主役《レッド》にうってつけの人もいるし」
「ん?」
「いいえ、僕も協力します」
 燃え立つような赤い髪と真っ直ぐな正義感を宿す赤い眸――まったき竜騎士ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)は、零された声に首を傾いだ。とまれ穏やかな声に頷きを返し、彼は中空の怪物を睨み遣る。
「ったく迷惑千万な連中だ……! 前哨戦だからって油断出来ないな」
 何しろ後方には一般人を庇っているのだ。既に交戦を始めた者たちの呼びかけによって移動を始めてこそいるが、その歩みは空を泳ぐ|海月《くらげ》から逃げおおせるほどの速度ではなかった。
 既に人々は列をなしている。今ならば多少無理矢理に離脱を促しても無用の累は及ばぬだろう。ケヴィンの双眸が隣に立った男を一瞥した。
「ちょっと強引に逃がすぜ。良いか?」
「ええ、合わせますよ」
 ――あらゆる役柄を演じ分けることこそが、孩の命題であるが故に。
 快諾の声を受けて不敵に笑った騎士が跳躍する。ちょうど間隙を縫って少年に接近していた一体の触手を拳一つで弾き飛ばし、その喉が低く唸る。
「今すぐここから離れろ! さもないと、死ぬより酷い目に遭うぞ……!」
 怯えるように息を呑んだ人々は、その声と言葉のみに反応したのではない。
 転生によって記憶を取り落とせど、ケヴィンはれっきとした竜の一柱だったのだ。人の身に堕ちてなお宿す、人ならざる破壊の力の片鱗が赤い眸の奥底に燃え立てば、抗えぬ本能的な恐怖が彼らを突き動かす。
 縺れる足のままこの場から――或いは竜から――逃れようとする彼らが転ばぬように、そしてケヴィンが恐怖の対象とならぬようにするのは、孩の役目だ。
「大丈夫。ここは僕たちに任せて、あの赤いのから離れてください!」
 再び伸びる触手を一刀のもとに断ち切り、まるでテレビの中からそのまま出て来た特撮ヒーローの如く声を張る。大きく手を広げるオーバーリアクションと、分かりやすく区切り気味の台詞もそれらしい。演技の素人であっても違和感なく|見られる《・・・・》よう計算されたキャラ付けだ。
 孩の体格と風体では情熱のヒーローには見えまい。適役は|緑《グリーン》――真面目で物腰穏やかな青年であろう。
 指差した先にあるのはケヴィンではなく赤い海月の群れだ。この心胆を寒からしめる怖気はかの怪物より齎されていると刷り込めば、人々は二人のヒーローに礼を述べるや、慌てて走り去った。
「ありがとよ。助かったぜ」
 避難が済めば心置きなく暴れられる。快哉と笑ったケヴィンが左手に構えた無骨なポール・アックスを掲げれば、空間を飛び越えて現れた牝馬は勇ましく嘶いた。美しい毛並みを夕景に晒した彼女は背に飛び乗る主の意を汲んで、その力を借りて空へと飛び立つ。
 中空を自在に駆け回る愛馬の背で屠竜の斧が唸る。群れに突っ込んで来る外敵に纏わりつく触手は両断され、直後には竜の|膂力《りょりょく》を込めた一撃で地に落ちた。
 歴戦の騎士の前には漂うばかりの海月の一撃など取るに足らぬ。些少の傷なぞ容易に弾く竜の鎧鱗は失くしたが、切り裂かれる柔らかな人間の皮膚が訴える痛み如きで、ケヴィンの進軍が止まることはない。
 触手の大半を失い、地に落とされていく怪物が体勢を立て直すより前に、白刃が閃く。
 孩の手にした剣には因果が宿る。その主と結んだ因縁が深ければ深いほど切れ味を増す刃は、今は最大限の力を発揮していた。
「痛い筈ですよね」
 ――弱り果てた声で助けを求めた少女の、まさしく|因縁の相手《・・・・・》だ。
 たちどころに核を破壊されて水に変わる海月の一体が藻掻くように刃を逃れた。苦し紛れの一撃が孩の腕を切り裂く。
 直後に重い蹄の音が地を打った。彼を襲った一体を叩き潰した斧の向こうで、深紅の竜騎士が顔を上げる。
「大丈夫か!」
「ありがとうございます」
 頼もしい仲間が、弱った|獲物《・・》を狙う赤い触手を打ち払う。その後方で――。
 孩は顔色を変えることさえしない。ただ、萎んだ風船のように地をのたうつ怪物に、静かに目を眇めるだけだ。
「生憎と僕は痛みを感じなくてね」
 低く零れる声が、海月が断末魔もないまま水溜りに変わると同時、剣戟に掻き消えた。

ハスミン・スウェルティ
ナチャ・カステーラ


 空を埋め尽くす|海月《くらげ》を見上げる。
 赤い光に照らされた色のない髪に黄色の光が宿った。見開かれていく眸と唇に隠さぬ喜色を湛えたハスミン・スウェルティ(黄昏刑務所・h00354)――その裡に宿る|歓喜の黄色《・・・・・》が、歓待の声で笑った。
「最高だ! 的が沢山ある!」
「あら、頼もしいことを言ってくれる人ね」
 一見して丸腰の黄色の隣で双眸に戦意を漲らせるナチャ・カステーラ(|スイーツハンター《甘いもの好き》・h00721)の手には、既に得物が握られている。慣れた手つきでトランプカードを箱から取り出した彼女がはしゃぐ人間災厄を一瞥してから後方を見る。
 人々は移動を始めているようだが、全員が安全圏へ撤退するには時間を要するだろう。見渡す限り田園の広がる田舎道は、遮蔽物がない分だけ安全性の確保が困難だ。
 この宴を存分に楽しむためにも、任務を滞りなく熟すためにも、協力者を求めていたのは互いに同じ。ならば役割分担をするに否やはない。顔を見合わせた二人の能力者はほとんど同時に頷いた。
「時間稼ぎを兼ねて、牽制は請け負うわ。戦線を押し留めてくれない?」
「任された!」
 喜びの感情の他は全てを取り落としたように黄色が笑う。無邪気な子供のようにも見える表情で、彼女は飛来する敵を見上げた。
「いやぁ楽しいなぁ! これ自由に撃ち落していいんだもんなっ!」
 むろん反撃もされるだろう。しかし黄色はその身に傷がつくことを厭うてはいない。痛みも傷もまた戦いの一部であり、楽しむべき宴を盛り上げる大切なスリルの一つであるのだ。
 |戦い無くして己が価値無し《ノーバトル・ノーライフ》を信条とする彼女にとって、異界の武器庫にしまわれた無尽蔵の武器は全て大事な相棒だ。出番を待ち望む彼らのうち、選び取るのは最も現況に即し、最も現状を楽しめるものにすべきである。
「どの武器で落とそうかな……これにしよう!」
 空に向けた銃口が人間災厄の気を纏う。暮れ行く陽光に黄金に煌めく銃身を察知した海月の群れに向け、黄色は心底楽しげに双眸を細めた。
 無用な混乱は避けるべきだ。いかに|戦闘中毒者《バトルジャンキー》であろうと、彼女は節度を弁えている。|消音器《サイレンサー》は忘れていない。
 音を伴わぬパーティークラッカーの如く散弾銃が唸る。後方を請け負ってくれている者がいるから遠慮は要らない。
 弾切れを知らない派手な炸裂のさなかに飛び交うのはトランプだ。黄色の散弾が触手も核も纏めて撃ち抜くのとは裏腹、ナチャの放ったカードは精確に制御されている。破滅の炎を纏ったそれが刃じみて触手を切り落としていく。
「良いね! 花火みたいだ」
 黄色の声がなお喜びを湛える。弾幕めいた殲滅を辛うじて逃れた怪物も傷は免れない。彼女の前に落ちるように千切れた触手を振り回すそれは、すぐに金色のナイフに切り裂かれて水溜りに変わる。
 ぶつかり合って弾けていく海月たちの中には、運良く些少の損傷で地上に辿り着くものもある。それらが外敵めがけて伸ばした触手が、不意に掻き消えた。
 ナチャの纏った世界の歪みが干渉を阻んだのだ。追撃を影に紛れることで避けたその身が、やはり影の裡より混乱する知能のない怪物に笑いかける。
「逃げられたと思った? 甘いわね」
 ――夕景に長く伸びる影が、宵闇の如く濃くさざめいている。
「夕暮れだもの。影が一番よく伸びて――お誂え向きよ」
 くゆる影が実体を持つ。怪物の落とす薄い影を呑み込むように、巨大なそれが夕陽を受けて延伸する。破滅の炎に焼き滅ぼされていくそれらを背に、世界の狭間より再び現世に降り立ったナチャを見遣って、黄色が笑う。
「キミ、もう少し前に出る? ならこっちを使おう」
「ありがとう。器用なのね」
 少女の手には散弾銃の代わりに弓がある。本格的に殲滅へ参加しようとするナチャを慮ってのことだ。
 戦闘は黄色にとってのパーティーだ。ならば敵も味方も構わずに、皆で盛大に楽しむに限る。それがどんな催しであれ、配慮を忘れては|楽しさ《・・・》は半減してしまうものだろう。
「ワタシは良いけど、大抵、フレンドリ・ファイヤは面白くないみたいだからね!」
 引き絞った矢は殲滅には散弾ほどの殲滅力を有してはいない。だがその分はナチャの燃え盛るトランプと伸びる影業が補ってくれる。
「これで黒幕の姿が見えると良いけれど」
「そっちもきっと楽しいな」
 成すすべなく地を這う海月の一匹をナイフと影が同時に切り裂く。ナチャの呟きに応じる黄色の声は、やはりいたく楽しそうに、夜へ移り変わる冬の空を見上げた。

黒野・真人
櫂・エバークリア


「化物だ!」
 よく通る声が人々の耳朶を打つ。途端に我に返った彼らがめいめいに散っていくのを横目に見届けて、黒い双眸が静かに眇められた。
 ――守らねばならぬ者がこの場を去ってからが、真実の仕事の時間だ。
 櫂・エバークリア(心隠すバーテン・h02067)が一般人に向き合っている間、黒野・真人(暗殺者・h02066)は空を忌々しげに見上げていた。
 櫂が人々へのアプローチに向いているならば、真人には戦いの方が向いている。
 さりとて如何なる分野でも得手不得手はあるものだ。伝説の傭兵もかくやの器用万能な戦いぶりに手が届くのはほんの僅かの天才だけである。そういう点で、対空手段の限られる彼にとって、この戦場は有利とは――。
 否。
 どんな戦場であれど生き残り、対象を抹殺するのが暗殺者の職責である。断じて弱音が心を過ぎったりはしていない。
 後方を見れば既にバーテンも態勢を整えている。案のあることを察した彼の眼差しを受けて、漆黒の暗殺者は同行者に声を飛ばした。
「カイ、アンタは地上から!」
「りょーかい、合わせる」
 手に馴染んだハチェットを空へ向けた彼の後方より、櫂は軽やかに駆け出した。敢えて標的に強く向けられた真人の殺気は知性なき|海月《くらげ》の群れを何より強く惹き付ける。
 一斉に移動を始める群れの下に滑り込む銀色を横目に、真人は殺到する怪物の群れが刺胞を向けるのを見た。
 ――待ってた!
 元より磨かざるを得なかった殺戮の腕は、能力者としての覚醒を経たことで異能へと変容した。攻撃の合図がよく見える。足にどれほどの力を籠めれば鏖のハチェットが相手に届くのかさえ、認識するより前に理解している。
「くらえ!」
 跳躍した体は軽い。今にも触手を伸ばさんとしていた一体を、その後方に構えていた海月の核ごと貫いて、手斧の一撃が怪物を地へ叩き落とす。
 同族の信号に気付いた周囲が真人を探そうと、もう遅い。纏った闇は宵に傾く光の中に紛れ、墜落していく赤色の海月をもう一度撃ち抜いた。
 ――勿論、これは痛み分けだ。攻撃に対応出来るといえども群れの全てを捌くには至らない。殊に自ら敵陣の中央に躍り出るとあらば、四方八方から伸びる毒の刺胞を防ぐことは不可能だ。
 しかし。
「そっちばっかり見てたら寂しいだろ」
 地上の銀色は、案内人の身に新たな傷を負わせることを良しとはしていない。
「――俺の相手もしてくれよ」
 暗殺者の確殺の殺気には敵わぬまでも、地上からの銃撃は十全に怪物の気を惹いている。伸縮する触手の一撃を喰らえど、即座に銃砲を浴びせてやれば切り裂かれた皮膚も元通りだ。
 銃撃の間に合う限り櫂は傷を負いはしない。警告色の信号を発する知恵なき海月の群れを相手取るには絶好の力だ。そうであるからこそ――。
「真人、むちゃしすぎんなよ!」
「お気遣いどーも」
 地に戻った真人は悪態めいた声を零した。傷を負わぬことは不可能だ。これが最も効率の良い|殺し《・・》であり、最も簡単に空に手を届かせる方法なのである。
「気になんかしてられっか!」
 唸るように吐き捨てる真人が再び跳び上がる。櫂の銃撃がその背後に迫る触手を撃ち落とした。次々と地に落ち、或いは高度を落とすそれらを真人が纏めて切り刻む。中に詰まった遺留物は地上の櫂が受け止めた。汚れたスポーツバッグ、学生鞄、ローファー、スニーカー、学生証――。
 零れて来た教科書を地上のバーテンへ投げた暗殺者が、何度目かに地を蹴ったときだ。
 その巨大な頭の中に、幽かに揺らぐ手が見えた。
 標的としていた海月を踏みつけ、真人はその一体に手を伸ばした。ハチェットが切り裂いた薄皮の中に迷いなく掌を差し入れながら、地上のバーテンに向けて吠える。
「カイ!」
「りょーかい!」
 暗殺者の意を寸分たがわず汲み取った櫂の銃撃は精確に彼の周囲に迫る刺胞を撃ち落とす。出来た隙に惹き付けていた毒針の幾らかが身を掠るが、その痛みよりも重要なものをかの腕が掴んでいると、漆黒の眸は確信していた。
「掴んでろ、離すなよ――」
 意識などないのであろう腕の主に向けて、真人は呟くように呼びかけた。助けると約した少女の判別は出来ずとも、届いていないはずの呼びかけに応じて掌を握り締める細腕を、彼が離すつもりはない。
 引き摺り出した少女の体を抱えて闇を纏う。不可視の相手を探す怪物を横目に地に降り立つ真人の腕の中を見て、櫂も浅く頷いた。
 ――潮時だ。
 回収した遺留品と、か細く呼吸をする学生服の少女を抱えて戦線を離脱する。能力者の身体能力であれば、群れが殲滅されるより前に、彼女と物品を安全な場所に移して戻って来られるだろう。
「この噂は、永遠に此処までだな」
 約束は果たした。
 遺留品を抱え、少女を抱える真人の代わりに|殿《しんがり》を努めるべく銃を構えた櫂は、空を睨むように仰ぎ見た。

ノーバディ・ノウズ
久瀬・彰


 頭は既に日頃扱うヘルメットに戻していた。そのバイザーに点滅する|Finally《ようやく》の文字が、ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)の忌憚ない内心を示している。拳を掌に打ち合わせ、夕景の中に現れる風船の如き|海月《くらげ》の群れを見上げた彼が不敵な声を上げる。
「おーおー漸くお出ましか。正直調査とか性に合わねぇんだよな!」
「まぁ、調査も根気のいる作業ではあるよねぇ」
 他方の久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)は、やはり常の調子を崩さずにへらりと笑った。
 二人の考えはやはり同僚と合致している。こまごまとした調査よりも――人間の心の深淵よりも――シンプルで、分かりやすく、簡単だ。
 故に。
「さぁ、さくっと片付けちまおうぜクゼ!!」
「そうだね。それじゃ――ぱぱっと解決しちゃおうか」
 ――よりシンプルで、分かりやすく、簡単な方法で排除出来る。
 とあらばその|シンプルさ《・・・・・》を洗練させることも技術のうちだ。ノーバディの顔が彰の方を一瞥した。表情のない分、バイザーに映す内心と感情を大きく示す身振りで、|首無し騎士《デュラハン》は猫背の同僚に提案を投げる。
「クゼ、わりーけど最初だけ囮になってくれ」
「おっけー。何かあるんなら早めに宜しく」
「安心しとけ。ちゃっちゃとあいつらの隙作るからよ、その後は任した」
 ひらりと手を振った彰が前に出る。足元に付き従う影がさざめいて質量を持ち始める。
 夕暮れは最も影の伸びる時間帯である。そういう意味で、遮蔽物のない逢魔が時は絶好の機だ。
 本義が|防御《おとり》であるのだから、必要以上に前には出ない。大袈裟に怪物めいた脅威を描くのは影業だけだ。ノーバディの準備が整うまで、彰が自ら攻め入ることはない。
 しかし空を揺蕩う海月は、音もなく立ち上がる影に危険信号を上げた。一斉に地上めがけて伸ばされる触手が次々と影に撃ち落とされるのを、首無しのヒーローは見逃していない。
 目玉がどこにあるのかも分からぬ図体だが、どうやら認識のうえでは視覚が優位であるようだ。成程、完全に陽が落ちてから現れるわけでないことにも納得がいく。夜間は獲物の視認が出来ないのだ。
 ならば話は早い。
 ポケットに手を突っ込めばすぐに目的のものに触れる。取り出した電灯は夕陽の中にあってなお煌々と輝いている。|:)《えがお》のフェイスメットを外したのちに、頭に挿げ替えてやれば、単なる物品もノーバディの手足――否、|頭の如く《・・・・》使える体の一部に早変わりだ。
 信号を共有した怪物の群れが彰を取り囲む。一斉に毒の刺胞を伸ばしたそれらの中央に滑り込むように、ノーバディが跳躍した。
 ――白光が辺りを満たす。
 宵に移り変わる空さえも白昼の如く照らした電灯が、海月たちの視覚に暴力的な刺激を齎した。俄かに眩む視界に混乱をきたした群れには大きな隙が出来る。
 ここからが攻守交代だ。
「一気にやれるよなクゼェ!!」
 腕で光から目を守ったまま、呼ばれた男は同僚を見上げた。
「お膳立てありがたいねぇ」
 彰の影が伸びる。夏の日差しに落ちるそれよりも強く、濃く、長く――全てを呑み込まんとする漆黒の影の鎌が、男の足許から立ち昇った。
「じゃ――そろそろ遊びもおしまいってことで」
「かましてやりな!!」
 ノーバディが手近な海月を踏み台に更に上方へと逃れると同時、長く伸びた彰の影が核を貫くと同時、断末魔もなく地に落ちた怪物の群れが水溜りへと変わって、付近の田園に流れ出ていった。
 残ったのは僅かに赤みを帯びた薄皮一枚である。
「もう風船遊びが楽しい歳じゃないんだよねぇ、俺たち」
 怪物の残滓を見下ろした彰が僅かに目を眇めて零す。頷いたノーバディの方は、電灯に挿げ替えていたフェイスメットを元に戻した。
 まさしく潰れた風船とでもいうべき名残が風にひらひらと揺れている。しゃがみ込んだ彼が|おかわり《・・・・》が来るまでに思考しているのは、自らの特性と海月を喩える先の親和性だ。
「風船頭って何かに活かせねぇかな。その場で膨らませんのは流石に無茶か?」
「うーん。どうだろう。ふわふわ飛ぶとか? 破裂したら凄い音しそうだよね、風船だし」
「飛ぶのは兎も角、割る発想はなかったわ」
 何しろノーバディにとっては己の頭になる部分であるので。
 純然たる|風船《・・》を頭に思い浮かべる彰の言葉が着想になるかどうかは兎も角として、見上げる空には再び海月の群れが現れている。彼方より現れるそれらを前に、無貌の男は立ち上がった。隣に立つ男の影もまた、戦意を具現するかの如く実体を持つ。
 ――お喋りはここまでにしておこう。

叶・千絃
久瀬・八雲
山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世


 どこからどう見ても食用ではないが、それを気にするような存在でもない。
「漸く食事にありつける」
「た、食べるんですか……? あれを……?」
 現場に駆け付け合流したばかりの久瀬・八雲(緋焔の霊剣士・h03717)が信じられぬとばかりの表情で山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)を見た。十字の瞳孔が至極当然とばかりに瞬く。
 刻限はぴったりだ。目的地に到着したところでスマートフォンの地図アプリを閉じ、現れた山羊は兎に目を遣った。人の形をあつらえた|人間《じんかん》における異端という意味では、|取り替え子《チェンジリング》の異能を自覚する叶・千絃(千の夢見し・h01612)も大差ない。
 故に、衝撃を受けている人間を横目に発する問い掛けはある種の軽口のような色を帯びた。
「あんなゲテモノじゃ腹壊すんじゃねえの」
「まさか。人間じゃあるまいし」
 山羊の横に長い瞳孔は、首を傾げば地面と水平になるように同じだけ傾く。二分にされた眸の色を一瞥して、シャネルが鼻を鳴らす。同じ人外の者が相手となれば、冗句じみた言葉も零れようというものだ。
「それに昔から言うだろう。ゲテモノ程旨いものはない、とな」
 草食動物とは思えぬ飢えを強く刻んで、人ならざる双眸が獰猛にぎらついた。
 今は自ら軛を打っているが、本来『フィボナッチの兎』は万象全てを喰らう災厄だ。世界の全てを喰らい尽くしてなお止まぬ渇望を僅かでも潤す機に恵まれたなら、|彼女《かのじょたち》は決して獲物を逃がさない。
 舌なめずりをする肉食獣に似た表情を瞬きながら見詰めて、八雲は大きく見開いていた眸を山羊の方へ向けた。
「そういうものでしょうかね?」
「本人が良いなら良いんじゃねえの。俺は喰わねえけど」
 ――兎も角、|奴ら《・・》が眠れる兎を起こしてしまったことだけは事実だ。
「しかし、危機管理ってモンがなってねえ証だな」
 呆れたような千絃の声は、退避していく一般人と空を埋める怪異のどちらにも向けられている。インターネットの|表層《サーフェイス》を軽くなぞっただけで容易に得られた符号に飛びつくのも、そうして残した痕跡ゆえに簡単に動きを捕捉されるのも、まるで|食べてください《・・・・・・・》とでも喧伝しているようだ。
 そうして次の餌食が増えていく。小魚を食して悦に入る大型魚が、鮫の牙に掛かることもまた然り。
「――まあ、ンなことはもういいか」
 見上げた先の|海月《くらげ》は確かに群れ成す赤い風船のようだ。子供の無垢な感性から引き出される比喩は存外に的を射ているといえよう。
 しかし見下ろされているのは癪に障る。故に。
「引き摺り落としてやるよ」
 黒い触手がのたうつ。
 空舞う怪物の伸ばす触手を喰らい、|饗宴《コルヌコピア》は始まった。地上より這い出す漆黒が毒の刺胞を一纏めに絡め取る。
 危機を告げる信号を受け取って、未だ自由の利く海月たちが千絃の|喚《よ》び出した触手に殺到する。その間を割るように飛ぶのは一本の長巻だ。
 自らのAnker――霊剣・緋焔を迷いなく全力で蹴り飛ばしたのは八雲である。サッカーボールよろしく勢い良く飛び出した剣はたちどころに深紅の槍へ姿を変え、纏う轟雷と共に赤い風船の群れへと突っ込んでいく。
 |紫電《シデン》の槍は物理法則さえも貫く。空に突き抜けていくはずのそれが突然九十度に曲がり、或いは先まで辿っていた軌道を引き返し、混乱をきたした海月たちのさなかを跳ねるように飛び回った。
「皆さんには触手一本触れさせませんよ!」
 叫ぶ八雲は、既に敵陣の真下に潜り込んでいる。霊的防御の術を纏った彼女こそが目下の脅威であると判定したらしい怪物が一斉に彼女を標的とした。退避していく一般人たち、或いは千絃やシャネルから注意を逸らすように、少女は殊更に激しく槍を制御してみせる。
 頭を狙う毒針をスライディングで躱し、地を滑る身を狙う刺胞を踏み台にして跳躍する。海月を踏みつけ、或いはそのまま地に降りて、不規則に戦場を変える八雲を補助しているのはシャネルの放つ震動波だ。
 怪物たちに霊的な干渉を防ぐすべはない。体中に走る異常な震動は、体の殆どがゲル状の海月には覿面に効果があるようだった。
 人間でいえば内臓を掻き回されているような状態に近いのだろう。深紅の槍が貫くものも含め、次々と気絶に似た形で力を失って地に落ちていくそれらを、黒くのたうつ触手が絡め取っていく。
「どーも。手間省けるな」
 その先に待っているのは横長の瞳孔である。
 本来の姿を露わにするのも久々のことだ。人をかたどり人に溶け込む千絃の足は、今は暴虐の蹄と巨大な爪を持つ山羊のそれへと変容していた。地を駈るものの特質を遠慮なく発揮して、大きく跳躍した獣の武器が、抵抗のすべさえ失った怪物を一思いに踏み潰した。
 まさしく風船のような音を立てて割れる体から水が飛び散る。縦横無尽に飛び回る槍と小柄な八雲の体、地から伸びる漆黒の触手と海月たちを叩き潰す千絃の蹄――その生命力に満ち満ちた姿を見上げ、兎は金色の双眸を細めた。
「どいつもこいつも活きが良いな」
 だがこの場でシャネルが食すべきは宙を舞う海月だけである。足許に生まれた一羽の兎は、その主を見上げて戦場に跳ねていく。草食動物としては遅々とした、警戒心のない足取りが、十秒ののちに二つに殖えた。
 二が三に。三が五に。五は八に。八が十三に――人間災厄、名を『|フィボナッチの兎《カタストロフィックバニー》』。数列に従い無数に増殖していく兎の全ては、満たされぬ飢えの許、存在するだけで万象を喰らい改変する。
 むろん一羽あたりの力はたかが知れている。今も海月の毒針によって幾らか消えているのが見えるが、フィボナッチ数列は数が増えれば増えるほどに加速していく。既に百を超えた兎は、次の瞬間には二百を超えて押し寄せるのだ。
 |霊震《サイコクエイク》によって身動きを封じられ、八雲に掻き回されて、槍と千絃の蹄で数を減らしていくばかりの海月に対処しきれる物量ではない。
「大人しく|私《わたしたち》の贄になるがいい」
 一方的な蹂躙に近しい状況を伝えるためか、群れからふいに一匹が逸れたのが見えた。既に触手を切り落とされてバランスを取ることすら危ういようだ。よろよろとどこかに去らんとするそれを、誰も見逃してはいない。
 最初に反応したのは八雲だった。囮としての役割が必要ないほどに数が減り、シャネルの横まで下がった彼女が空を睨み上げる。駆け回る深紅の槍の切っ先が、逃げおおせようとする残党を真っ直ぐに捉えた刹那。
「逃がしませんよ――」
「待て」
 白い兎の手が、逃げる一匹を追おうとする腕を制した。
 シャネルにはきょとんとした表情で瞬く八雲を本気で止めるつもりはない。だが黒幕が次なる手を隠し持っていないとは限らないだろう。海月を全て撃ち落とせば変調に気付いた主も現れるだろうが、それで同じことが起きるようでは片手落ちだ。
 中途半端な捜査をすればまた報告書を憎き|奴《・》に笑われる。それだけは避けたい。
「泳がせて本拠地を叩きたい。攫われたとかいう人間がそこにいるかも知れないからな」
「ふうん?」
 山羊の半身を隠さぬまま、片眉を持ち上げて応じたのは千絃である。蹄の音を響かせる彼が兎の十字を一瞥する。
「面白い推理じゃん」
「ただの警官ごっこだ。殲滅するならそれでも構わないさ」
 どうにせよ仕事は達成出来よう。報告書が始末書にすり替わらないのであればシャネルは構わない。
 八雲を押さえていた手を持ち上げる。ひらりと振られたそれに目を細めて、横長の瞳孔が頷く。
「俺は乗った。そっちはどうする?」
 行方不明の四文字で片付けられるのは面白くない――というのが、彼がここにいる理由だ。快諾を示した二色の双眸が、考え込んでいる人間に落とされる。
 八雲の行動はなべて良心に基づいている。一人でも多くを救えるというなら否やを唱える理由もない。故にすぐに腹は決まった。
「――確かに、黒幕のところに他の方々がいてもおかしくありませんもんね。わたしも行きます」
 大きく頷いた人間と二人の人外は、その心情がどうあれ逃げていく怪物を追うことに合意したことになる。シャネルの眼差しが遠ざかる一体を追って眇められる。
「決まりだな」
「なら、逃がさねえうちに移動した方が良いんじゃねえの」
「そうですね。逃がしませんよ!」
 三人分の足取りがばらばらの音を立てて歩き出す。沈みゆく夕景の向こうに、錆びた校舎の影を見ながら。

夜縹・熾火
叢雲・颯


 銃砲はけたたましく炸裂した。
 田舎の田園地帯には不釣り合いなその音に悲鳴が上がる。既に畦道の終端に差し掛かっていた人々の群れが恐慌をきたす中に、凛然と声が響いた。
「逃げろ!」
 空へ銃口を向けた夜縹・熾火(|精神汚染源《Walker》・h00245)の命令は極めて簡潔かつ単純だ。それゆえに、パニックに陥った一般人を従わせるに充分な力を宿している。悲鳴を上げながらも声に従う彼らの背に、女は更に続ける。
「何処でもいい、遠くへ! 見えなくなるまで、走れ!」
 ――田園を抜けて走るのを止められてしまっては困るのだ。
 日常に紛れ込んだ分かりやすい脅威の象徴を突き付けてやれば、権能を使うまでもなく人心は簡単に動かせる。だがその後の行動までを完全に熾火がコントロール出来るわけではなかった。完全な安全圏に移動させるまでは、人間災厄の側としても面倒を背負うことになるから、迅速に避難してもらう必要がある。
「死にたくなければ這ってでも逃げろ!」
 駆けていく背が完全に消えていくのを見送る熾火の横で、空を見上げているのは叢雲・颯(チープ・ヒーロー『スケアクロウ』・h01207)だ。少年の如き相貌は特撮ヒーローの――電光レッド・マスターの仮面に覆われ、僅かにくぐもった声で|海月《くらげ》の群れを睨みつけた。
「本命のお出ましか……」
 噂に聞く|怪異《・・》の見目はおよそ空を泳ぐには似つかわしくない。しかしかの超常の存在に物理的な整合性や合理性は期待するだけ無駄だ。|警視庁異能捜査官《カミガリ》としての経験則として、或いはかの存在と類似するものどもの被害者として、彼女は嫌というほど学んでいる。
 勿論――。
 その|副作用《・・・》とでもいうべき形で意図せぬ霊性を獲得した颯には、人間の形をした災厄の持つ超常性が感じ取れている。
 しかし、その力がどうあれ、熾火は颯の味方だ。証拠に――とでもいうべきか、彼女は緩やかに琥珀色の双眸を細めてみせた。
「人払いは済んだ。後の仕事は討伐のみだね」
「ですね。合わせられますよ」
「なら頼むよ。仕事は早い方が良いよね、お互いに」
 緩やかに目を細める少女の表情は、やはり年頃の娘の見目には不釣り合いだ。浅く頷き返し、颯の眼差しは再び空を見上げる。飛び回る海月たちは他の能力者たちの戦闘で随分と撃ち落とされているようだが、未だ数は莫大だ。
 だが。
 その動きは単純である。どうやら信号によって意志の疎通を図っているらしい点から見て、それぞれが独立した行動を行えるつくりではあるようだが、それは即ち|思考《・・》があることとは違う。
 フェロモンや本能に基づき群体で個を構築する――ある種の昆虫のようなものだ。一匹一匹の神経回路は決して発達してはいないだろう。フェロモンや信号に基づき、プログラムの如く堅固な連携を生み出しているにすぎない。
 即ち、この誘拐にも何らかの目的があるはずだ。|あれ《・・》らが自らの習性に基づいてそうしているのか、或いは――。
 誰かに操られているか。
 そこまで考えたところで群れが近付いてくるのを察知する。あらかたの考察を打ち切って、仮面の下の眼差しは揺蕩う赤の一つ一つに目を走らせた。
「1……2……3……匹。いや、まだいるな……」
 やはり夥しい数だ。これほどの群体を前にして不用意に攻撃を仕掛ければ、たちどころに劣勢に追い込まれることは必至であろう。
 そう考えているのは熾火も同じだ。
「わざわざ近寄ってやる意味はないね。迎撃の準備はある?」
「はい。|誘《おび》き寄せて頂けますか?」
 横合いの声に颯が頷く。返す問いにはっきりとした応答を戻すより前に、人間災厄は手にした銃を空に向けた。
「誘き寄せたいわけではないけど――」
 グレネードを空いた手で取り出す。
 炸裂音は強烈だろう。その余波も当然ながら周囲に被害を齎す。その点において、教導相手が|後《ご》の|先《せん》を是としてくれるのであれば、熾火の思考しなければならないことは一つ減る。
 幾ら倫理を欠落した怪物であろうと、友好的な相手に対してむやみに敵対しようとは思っていないのだ。
「撃ち落としていれば勝手に寄って来る」
「成程」
 頷いた颯が右腕を持ち上げた。怪異によって喪ったそれを補う義手は、彼女の所属する機関の作り上げた特別性だ。
 ――ヒーローは負けない。たとえその中身がただの|案山子《スケアクロウ》であろうとも。
 言い聞かせるように目を閉じる。覚悟の炎を灯した紅色の双眸が開かれると同時、漆黒の妖気が両足から噴出した。
「なら、これで行くか」
 怪異殺しの右腕に装填するのは、やはりかの悍ましい怪物たちを殲滅するために作られた弾丸だ。名を『火喰鳥』と称されるそれを空の海月たちへと向けて、颯は隣の少女に声を投げた。
「寄って来た連中は私が蹴散らします。上に集中してください」
「良い分業だね。乗ろう」
 彼女が準備を整えている間、熾火はグレネードの投射距離を測っていた。自らとその教導者を巻き込まず、かつ運任せの投擲をしなくて済む――今が十全の機だ。
 開戦の合図としてはなにげない仕草だった。手にしたボールを軽く放るが如く群れの中へと投げ入れた爆弾を起点として、降り注ぐのは強烈な酸性雨だ。
「水の中を泳げて嬉しいんじゃないか?」
 嘲るような言葉に笑みは乗らない。唐突に降り注ぐ強酸性の雨に混乱する群れを狙う照準が最初に撃ち抜いたのは、彼女が先に投げたグレネードだ。
 途端に広がるのは爆発だけではない。中に込められていた神経毒ガスが刹那に拡散し、宙を舞う海月の自由を奪っていく。よろよろと地に落ちてくるそれをめがけて銃声が轟いた。
 熾火の射撃は乱射というには精確である。しかし一度目の奇襲から逃れた群れが信号を感知することは避けられない。殺到する群れに対処するのは、隣で身を低くしていた颯である。
 二人が共に並び立っている以上、かの触手にはどちらもが同じ外敵だと判断されるはずだ。高度な思考能力を持たないがゆえに、それらは銃を手にする人間災厄だけを狙うことはしない。取り囲むように移動するそれらが毒針を伸ばした刹那、反応した仮面のヒーローが跳躍した。
 踏み込みと同時に繰り出した右腕が核を捉える。燃え上がる『火喰鳥』は赤々と立ち昇り、逆巻く深紅の光となって颯の身を隠す。
 視認が出来ないだけではない。今や彼女の視界は極めて延伸された状態だ。反応速度の上昇――僅かな予備動作すら見逃さず、叩き込む拳から弾丸を発射しながら、駆ける深紅の光が絶えぬ銃声を守り抜く。
「確かに四方八方からの触手は脅威だ。だが……」
 酸の雨から逃れるすべを持たず、銃撃に落とされる。危険を感知して仲間に伝える信号も、その|仲間《・・》がいなければ意味がない。
「お前達は人間のように|意地汚く《・・・・》、|姑息じゃない《・・・・・・》」
 スケアクロウは唇を笑みの形に持ち上げた。
 かの怪物たちは|不公平《アンフェア》を知らない。命乞いの後ろ手にナイフを隠し持っていることもなければ、夥しい血のついた凶器を処理した手で流れた涙を拭うこともない。無辜な善人を装うことも、人に紛れてその命を喰らうこともしない。
 実に――相手取りやすいものだ。
 熾火の銃声が止むのと、颯が身を持ち上げるのとは、殆ど同時だった。
 周囲に満ちていた戦禍の気配は急速に遠のいた。後に残っているのは能力者たちと、戦闘の痕跡が満ちた静かな田園だけだ。
 逃げた人々もじきにこの混乱を忘れるだろう。道も|いつの間にか《・・・・・・》こうなったことになって、そのうちに工事が入り、全てが元に戻っていく。
 しかし。
「これで終いかな。呆気なかったね――おっと」
 能力者たちの仕事はもう一つ残っているとばかり、人間災厄の足許を兎が掠めていく。たった一羽の白い非力な草食動物は、しかしそうであるがゆえにこの場には不釣り合いだ。
 二人を振り返り再び走り出したそれに颯が首を傾げる。周囲を見渡せば、同じように導かれて移動を始める者もいるようだった。
 それに|人間災厄《どうぞく》の気配を感知したのは熾火だけではなかった。颯もまた、仮面の下から霊性を纏う兎をじっと見詰める。
 満ちた沈黙を破り、反応したのは熾火が先だった。
「どうやら面白いことになってそうだ」
「行きますか?」
「勿論。きっと他の能力者が何か見つけたんだね」
 ――夕景が沈む。伸びた影は薄く宵闇に紛れていく。静寂を取り戻した田舎道の向こう、二人が足を進める先に、廃校舎の影が揺らいだ。

第3章 ボス戦 『仔産みの女神『クヴァリフ』』



 付近に本拠地がある――。
 そう能力者に声を掛けられたかもしれない。導きに従ったのやもしれない。或いは、宙を泳ぐ満身創痍の海月に何らかの意図を感じ取ったのかもしれない。
 いずれにせよ、能力者たちは中空を逃げる一匹の怪物を追い、朽ちた校舎を携える校庭に辿り着いた。全員が足を踏み入れた刹那、どこからともなく声が降って来るだろう。
「自ら此処に至るとは。迎えにゆく手間が省けたぞ。まこと、殊勝な『仔』らよ」
 空間を裂くように、宵闇の中から|それ《・・》が現れる。
 妖艶な女の肢体を覆う、海洋生物を思わせる巨大な触手が蠢く。喜色を湛えた生白い肌の横で、髪に似た器官に連なる巨大な緑の眸が能力者たちを見据えた。
「数多を迎え入れられることを、妾は嬉しく思う。態々『仔』を使って魔術式を使わせた甲斐もあろうというものだ。お陰で産み直す暇もない」
 両手を広げ、廃校舎を一瞥する女――仔産みの女神『クヴァリフ』の言葉を信じるならば、後方の影に沈む建造物の中には未だ生存者がいる。この場でかの悍ましき女神を下すことが叶ったならば、生きている者は完全に解放され、元の生活に戻ることが出来るだろう。
 そのためにも――。
「褒美をくれてやろうではないか。妾の『仔』となるべき汝らに、祝福を与えよう」
 笑みを湛えて能力者たちを『仔』と成さんとする怪物を、早急に滅ぼさねばならない。
ナチャ・カステーラ


 舞い散るトランプカードが戦いの幕開けを告げる。
 クヴァリフの構えは一見して実に無防備だ。しかしその絶え間なく動き回る緑の眼球も、深海生物を思わせる青黒い触手も、広げられた彼女の腕ですら、人を喰らい新生を与える悍ましき|攻撃《・・》の予兆に他ならない。
 故に、ナチャ・カステーラ(|スイーツハンター《甘いもの好き》・h00721)は瞬時に全てに対応するだけの策を巡らせた。何の変哲もないように見えるカジノトランプこそが彼女の持つ能力の源流である。風に任せて地に落ちるはずのそれは物理法則を無視して中空に浮かび上がり、五十四枚それぞれが意志を持つかの如く、仔産みの怪物へと飛来した。
 飛び交うそれらを髪に似た構造物が迎え撃つ。ナチャを捕えようとしていた触手と女の腕もまた、ナイフじみた鋭さで迫るカードの群れへと向けられた。
 それが致命を狙うものであれば、かの恐るべき女神は容易に全てを撃ち落としただろう。
 しかしトランプが狙うのはクヴァリフの頸ではない。ふいに白んだ視界に、触手は反射的に巨大な眼球を庇う。飛び交うトランプが破滅の炎を纏い、白昼の如き明瞭さで怪物を照らしたのだ。
 逢魔が時も過ぎ、宵に傾く周囲には電灯もない。暗がりに慣れた視野を埋めつくす鮮やかな光に呻く女は、一時的に失われた視覚を捨て、聴覚を頼りに触手を宵闇へ繰り出した。
 だが既に遅い。
 昼光めいた光が影を作り出している。宵にあって揺らぐ影の中を移動するのは、ナチャにとっては容易だ。
 影に紛れながら時にわざと校庭の砂を踏む。音を狙えど既に伸ばした影業によって別の影に移動した女には届かない。砂嵐を巻き上げ、破壊的な威力を生む触手を叩きつける女神の背後に、既にナチャが迫っている。
 気配を鋭敏に感じ取り振り返った先、朧に霞む視界の中で至近に迫る金色の髪に向け、なおクヴァリフは嗤った。
「良い力だ。実に善き『仔』となるであろうな」
 だが――決着は既についている。
「お生憎様ね」
 目を眇めたナチャの纏う影は昏く濃い。闇より覗く僅かな金色が宵の色に覆い隠された刹那、彼女の碧眼には不可避の距離で触手と髪が蠢くのが見えた。
「あなたの思い通りにはならないわ」
 不可視の防壁がクヴァリフの触手を阻んだ。同時に胸元より煌めく霊鏡が、周囲に満ちる破滅の炎を反射した。再びの目眩ましは目を瞑ったところで避け得る程度ではない。
 その隙に影業が迸る。四方を取り囲むようにして自らの身を貫いた影の鋭さに、女神が苦悶の悲鳴を上げた。

夜縹・熾火
ハスミン・スウェルティ


 人の手には余る代物も、人間災厄にとっては児戯に等しく扱えるものだ。
 それは夜縹・熾火(|精神汚染源《Walker》・h00245)にとっては即座に抜き放ったおよそ通常の銃とはいえぬ火器であり、ハスミン・スウェルティ(黄昏刑務所・h00354)――歓喜の|黄色《・・》にとってはどこからともなく取り出したハルバードである。楽しげに笑う管理名『ザータクラの手錠』が動き出すより前に、管理名『異形の精神』の手にした銃砲が唸る。
 射出されたグレネードは即座に起爆する。神経を蝕む猛毒のガスを巻き込み、|化学的《ケミカル》な色をした爆炎が上がるのを、黄色が歓声と共に歓迎した。
「こっちも花火みたいだ! 良いね」
「少し劣勢を演じられるかな」
 他方、熾火はこの後の計画に思考を巡らせている。マガジンの交換は手慣れたものだ。立ち込めるガスがどこまで作用するかは未知数だが、土煙と合わせて弾幕を展開するには充分な時間が稼げる。
 クヴァリフは問答に律儀に応じそうな相手ではあるが、此度はそうして注意を惹き付けることで隙を捻出するよりも、圧倒的な速攻で片を付ける方が合理的だ。敵と言葉を交わしている時間も惜しい。
 故に――。
 熾火を見遣る少女との連携の打ち合わせも、手短に済ませるべきだ。
「ぽこぽこ『仔』を産むような相手に時間は掛けてられないからね。一点集中で突破しよう」
「もっちろん良いよ。そういうのも楽しそうだね」
 その点において黄色は絶好の協働者である。彼女の喜びはなべて戦うことにあり、戦闘に伴うあらゆる手段は歓迎すべき|遊び方《・・・》の一つだ。
 劣勢を敢えて演じる――というのは、今まで一度も試したことのない方法だ。加減を間違えて早々に戦闘不能に陥ることは避けたい。
 まあ。
 何にせよ、強い相手と武器を交えるのは、雑魚を撃ち落として射撃場代わりにするのとは違ったスリルがある。武器庫より|喚《よ》び出したハルバードを手に、彼女は爆炎を割いて現れる触手に斧先をぶつけた。
 鍔迫り合いは一瞬だった。クヴァリフの触手が黄色を絡め取り中空に投げ出して、展開された弾幕を容易に弾けるのは、ひとえに熾火が能力を使わず、黄色が彼女らしい方法で劣勢らしさを演出しているからにすぎない。
 完全に捌き切られた銃弾はぬめる触手に僅かな弾痕を残すに留まった。自由落下の最中に己を制動し、着地と同時にハルバードを叩きつける黄色もまた、髪の如き器官に備わる眼球の視線に晒された。
 不可思議な力を纏ったそれが否応なしに走らせる怖気さえ、彼女にとっては余興にすぎぬ。人間災厄の強すぎる力が発生させた歪みは、人間であれば心ごと恐怖に沈められるのであろう睥睨をじっとりとした注視に留めた。
「この程度かえ」
 仔産みの女神が目を眇めながら放つ言葉に、熾火は応えない。代わりに銃口が吠えた。
 此度のそれはただの弾幕ではない。紛れもない能力を宿した銃弾は、先のそれを簡単に撃ち落とした触手を貫いて、女神の本体に一撃を加えた。
 怯んだ隙を逃しはしない。次いで射出されたグレネードが再び炸裂する。あらゆる手段を用いて連撃を加える熾火は、次の一手が尽きたとなれば間髪入れず懐のグレネードを放り投げた。
 怪力を以て投擲されたそれを、クヴァリフの触手は反射的に叩き落そうとするだろう。衝撃を加えたが最後、再び爆炎を巻き上げたのを見届けず、既に人間災厄は詠唱に入っている。
 晴れる土煙を掻き分け、巨大な異形が露わになった。長く鋭い足が砂を踏む音を立てることはない。蒼炎を纏う髑髏蜘蛛は、禍々しき神性と共に、己を見上げている協働者へと語り掛けた。
 ――待たせたね。そろそろ攻勢に移ろう。
「待ってたよ! しかしキミ、爆発が得意なんだな」
 派手なのは良いことだ。クラッカーは大きければ大きいほどパーティーが盛り上がる。しかし爆発を見てばかりでは気が済まないのが性分でもあるから、手の中のハルバードは意気揚々と構えられた。
 彼女が飛び出す前に熾火の炎が迸る。|凍てる灰色《アフーム・ザー》の焔がクヴァリフを呑み込み、同時に校庭の地面を抉った。その炎が消える刹那、銀の髪に黄色を混ぜた少女のハルバードが唸る。
 動きが鈍り、ぬめる液体の防護を失った触手と、しらじらとした光に灼かれた眼球の齎す攻撃などさしたる傷にもならない。まして射程の長い斧槍であればなおのこと捌きやすかった。力を失った触手を受け止め、黄色は眼前の生白い肌に問う。
「戦う機会が増えるのは嬉しいけど、具体的に『仔』となるとワタシはどうなるんだ?」
「興味があるのかえ。まこと殊勝な『仔』よ」
 仔産みの女神は、悪しき神性の炎に巻かれてなお満足げに笑った。
「妾の『仔』となりて全てを忘却するのだ。妾は『仔』らを咎めはせぬ。汝らの痛苦も絶望も妾の胎に置いてゆき、思うさま振る舞うが良いぞ」
「ふうん」
 ――黄色は|喜び《・・》の感情を請け負う人格である。
 故にその他の思いに疎い。快でないものは、彼女にとっては感情を動かすにも足りぬ些事だ。故にその表情と声は、極めて無関心な子供の色を帯びた。
「つまんないな」
 眼前に差し出された触手を、向けた斧の先で叩き割るように引きちぎる。地に落ちてなお暴れるそれを一瞥して、ようやく少女に笑顔が宿った。一目見たときから、これを叩き切ってみたら面白そうだと思っていたのだ。
 粘液にまみれたハルバードを軽やかに回す。握り直して突撃する彼女を援護する熾火のレーザーは、黄色は勿論のことながらクヴァリフの視界外から発されている。
「まあ現状、|この世界《√EDEN》を護る方が戦闘機会には困らないよね」
「そうかえ。全く聞き分けのない『仔』らよ」
 二人がかりの攻勢だ。触手では対応出来ぬと悟ったか、クヴァリフの生白い腕が少女に伸びる。光線に焼かれながらなお迫るそれ目掛け、黄色は迷いなく手にした斧槍を投擲した。長物では対応出来ないとなれば執着している意味もない。
 間髪入れずに握るのは脇差だ。斧槍に潰された目玉から触手がそれを引き抜くから、即座に斬り落としてみせる。
 ――その間にも既に至近にある抱擁から逃れるすべが、一つだけある。
「キミの祝福は要らないけど――」
 触手に身を裂かれ、血を流す黄色が心底楽しげに笑う。
 彼女にとっては自らの痛みさえもパーティーを盛り上げる飾り付けにすぎない。ならば傷付くことを恐れる道理はなく――。
 死を恐れることもまた然りだ。
 黄色の持つ武器庫から取り出されたそれが何なのかは、仔産みの女神には理解出来なかったやもしれない。認識が追い付くよりも早く、黄色の指先は迷いなくその贈り物の|封《ピン》を|開け《ぬい》ていた。
 眼前に投げつけられる無骨な火器に緑の目を見開くクヴァリフの耳に、いたく面白げな歓喜の声が聞こえる。
「ワタシからは|手榴弾《パイナップル》のプレゼントだ!」
 ――炸裂。
 刹那に影が馳せた。自爆上等の爆発に身を晒す黄色を攫った黒髪は、先まで己がいたクレーター――彼女が変じた異形が校庭につけた傷跡だ――に転がり込んだ。種火を燃やし尽くして気絶するより以前に人の身へ戻っていた彼女は、再び響く爆発音と苦悶の声をよそに、腕に抱えていた少女を見遣る。
「無事かな?」
「おお! 五体満足だよ! キミ凄いな!」
「楽しそうで何より」
 倫理の欠如した怪物は、それゆえに人らしく振る舞うすべを知っている。ともあれ熾火は協働者が無事であったことに|人間《ひと》らしい笑みを浮かべた。
 傷に塗れたその体を再び抱え上げ、クレーターから脱する。二人の人間災厄は、再び女神へ向き直った。

逆刃・純素


 実に大物らしい大物である。
 対峙した触手の群れと、その中央に座す女の生白い肌はどこか馴染み深い深海を思わせる。しかしそれが嘗て抱いた穏やかな|古代海底都市《こきょう》とは真逆の感覚を呼び起こすのも理解していた。
 故に迷いなく女神に向けて、金色の髪をした少女――逆刃・純素(サカバンバの刀・h00089)は高らかに宣言した。
「海ならわたしも負けてないですぴす!」
「また面妖な。太古の海の『仔』かえ」
 陸生に適応するために両腕と両足を得た魚類の本質を見透かしてか、さしものクヴァリフも目を剥いた。触手がのたうつように土煙を立て、自らの本体を夜気に晒す。
 全てを胎に呑み込む神は純素に両腕を広げてみせるや泰然と笑む。歩んで来た時の長さなど、新生の女神には関係がないのだ。
「まあ、良い。大絶滅をよくぞ生き延びたものよ」
 『仔』となるべき生命に慈愛の笑みを浮かべる女が目を閉じる。純素は動かない。代わり、腰に佩いた刀の鯉口を切り、静かに身を低くした。
 纏うは古龍の霊気。白く立ち昇る霊力の力を自らの裡に同調させた刹那、クヴァリフの前に現れたのは鋭く尖る貝である。
 巨大な長い殻の内側からイカに似た本体が姿を見せる。奇しくも|純素《サカバンバスピス》と生きた時を同じくする巨大なる捕食者は、やはり感情の読めぬ眼差しで居合の構えを取る彼女を捉えた。
 伸びて来る触手を斬り落とす。間髪入れずにその場を飛び退けば、先までいた場所に巨大な貝の切っ先が突き立つ。
 抜き放つ刃に追撃を沿わせ身を翻した。返す刀で追撃の触手を阻みながらも、純素が踏み込むことはなかった。
 彼女の狙いはクヴァリフの『仔』の活動限界だ。どれほど強力であろうと、身体を増強する霊気を以て防御に専念すれば捌けぬ相手ではない。揺らぎもせぬ、本来の姿と変わりない笑みを浮かべながら機を待つ。
 狙える隙は多くはない。だが膠着した戦場に、『仔』を殖やすことを本義とする女神は必ずや焦れるだろう。正気は必ずやそこにある。
 故に。
「実にしぶとい。だがそうしていても、妾の祝福を拒むことは出来ぬぞ」
 ――さしもの仔産みの女神も眉を顰める瞬間を、純素は見逃さない。
「祝福も産み直しもお断りぴす」
 鋭く頸を狙う触手を蹴り、少女は跳躍した。月光を浴びて煌めく刃に古龍の力を宿し、清廉なる神気を帯びた金色の髪が宵を切り裂く。
「海のものは海に還るですぴす!」
 |不殺《チェスト》。
 迷いなく振り下ろされた白刃が、今にも生まれ出でようとしていた新たなる『仔』ごと、女神を貫いた。

ケヴィン・ランツ・アブレイズ


 幾多の傷を負いながらも、仔産みの女神は笑っている。
 彼女にとってはこの場にある全ての生命が『仔』となるべき者である。さながら|やんちゃ《・・・・》を受け止める母の如き表情で、邪悪な神性は新たな触手を露わにする。
 そのさまを見遣り、赤き双眸が眇められた。
「なぁるほど、手っ取り早く『仔』を増やしたいからこその、この騒動ってわけか」
 合点することと受容することは別だ。ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の嫌悪と義憤に満ちた表情がそれを証明している。手にした斧槍の切っ先に満ちる戦意は紛れなく竜の暴威を宿すが、眸に燃え立つのは|人間《ひと》らしい感情だ。
「人竜か。矜持に傷でもついたかえ」
「……いや、正直言や、スッキリしたぜ。テメエがそんな外道なら――」
 情けも要らない。騎士としてこの刃を振るう理由もある。
 斧槍の刃先を向けながら、人ならざる破壊の焔を双眸に宿し、竜騎士は唸った。
「大手を振ってテメエを討伐できる」
「実に勇ましきことよ。されど」
 仔産みの女神は大きく両腕を広げる。ぬめる触手の向こうから、緑の眼球がケヴィンを捉える。
「その武勇、蛮勇にあらぬと、|妾《はは》に証明してみよ」
「言われなくても」
 笑みを深めるクヴァリフを前に横を見遣れば、竜騎士の愛馬が言葉なく在る。蹄を砂に打ち付ける彼女に飛び乗れば、主に忠実な牝馬は待ちかねたように飛び出した。
 戦意充分の嘶きが宵に満ちる。本能的な恐怖を喚起する悍ましき怪物の視線は、しかし消えることなき闘志を胸に馳せるケヴィンを押し留めることは叶わない。
 触手の動きは致命を狙うがゆえに見切りやすい。時に身を反らし、時に愛馬の足を狙うそれを射程の長い斧槍で打ち払い、或いは彼女自身の野生の勘に従う。竜の鱗に比べひどく薄い人間の皮膚は容易に紅色を散らすが、その傷が竜騎士の命に肉薄することもなかった。
 触手の攻勢が途切れる。巨大な眼球が瞬いた刹那を逃がさず、ケヴィンは手綱を強く握った。
 ――今こそ好機だ。
「子供って存在にそこまで執着があるんなら、その子供が親に反抗することもあるって事実を、その身に刻んでやるよ。女神クヴァリフ!」
 小細工はなしだ。
 ジャケットを脱ぎ捨て手中の斧を構える。疾走する牝馬の速度を緩めるためか、或いは正面に捉えるケヴィンを狙ってか、触手が鋭く飛び出すのが好機だ。
 その軌道は槍に似る。遠方から真っ直ぐに伸びる武器に呼吸を合わせるのは簡単だ。海洋生物じみたぬめる粘液を利用して柄を滑らせ、竜の|膂力《りょりょく》で以て弾き返す。
 真正面に迫る斧槍に仔産みの女神が顔を歪めるのが見えた。伸びる生白い手と眼球の怖気を纏う視線に騎士が屈することはない。
 竜騎士の刃が、触手ごと怪物の胎を切り裂いた。

ノーバディ・ノウズ
久瀬・彰


 ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)が着目していたのは、周囲を触手で覆う女の肢体である。
「わーーお、見ろよクゼ。なかなかグラマラスなレディだ。どうやら子供にしてもらえるらしいぜ」
 眺め遣るようにしながらのオーバーリアクション――或いは感情を大きく表現する声――で、首無しのヒーローは横にいる同僚を見る。ハードワークの代償のように背を丸め、うんざりしたような表情を見せている彼へ、ノーバディが冗談めかして問いを零す。
「ママって呼んでみるか?」
「え、やだよ。俺こいつにひどい目に遭わされた経験しかないもん」
 他方、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)の返答は実に現実的であった。
 政府の秘密機関に属する者として、彰はかの仔産みの女神にかかずらう機が多い。クヴァリフの名を冠した装置は皮肉にも彼のよく知る世界を支える一柱であるから、職務上逃れることの出来ない対面ではあるが、知っていればこそ冗談でも遠慮願いたいところである。
 同僚の反応に一つ笑ったノーバディが肩を竦める。彼とて本気でかの悍ましき怪物に忘我の眷属として取り込まれたいわけではない。幾ら艶めかしい女の姿をしていたとて、その本質は世を破滅に導く災厄だ。
「海産物を親にする趣味はねぇさ」
「安心した」
 心底からと思しき台詞にまた笑声を零し、|首無し《デュラハン》が徐に己の首に手を掛ける。骨を鳴らす彼の派手な音を聞きながら、彰はやはり疲れたような調子で嫌というほど見て来た女神へ視線を遣っていた。
「しっかし子供を戦わせるなんて、客観的に考えたらひどい親だよねぇ……」
「全くだ。それよか──来るぜ、強そうなベイビーが」
「っと、お喋りはここまでか」
 能力者たちの負わせた|深傷《ふかで》を晒し、尚もクヴァリフは笑っている。心胆を寒からしめるその肚が、人とも獣ともつかぬ四足の怪物を産み出した。
 威嚇するように唸る|それ《・・》ごと邪悪なる神性を穿つべく、二人は視線を交錯させた。ノーバディの指先が自身の頭――その欠落を埋めるフェイスメット――を小突く。
「さーて頭は――任して良いか?」
「おっけ。仕込みも準備も任せておいて」
「よっしゃ。一丁いい『|道具《エモノ》』頼むぜ」
 信頼すべき同僚の心強い言葉に頷く男のバイザーには|Thanks!《ありがとう》の文字が浮かぶ。その場に立ち止まる彰を置いて、ヒーローは力強く土を蹴った。
「俺ぁ一足お先!!」
 今の彼の武器は|喧嘩殺法《ステゴロ》だ。身一つで最も苛烈な戦場に飛び込んだノーバディに取り付こうとする『仔』の動きはおよそ動物のそれではない。両手と思しき器官を伸ばし、巨大な口を開く|それ《・・》を、伸びる影が咎めた。
 彰の役割は後方よりの飽和攻撃だ。彼の足許で質量を持つ影業に流し込む霊力は常よりも多い。薄く伸ばしていくような意識を巡らせれば、意志に従う影は長大な射程を持つ無数の槍となる。
 影が作り出すそれは質量を持つ武器とは違う。しなやかに、自在に動く刃が多量に押し寄せれば、いかに強大な相手であれども動きを制限されるものだ。四方より迫る影業に貫かれて苦悶の声を上げる『仔』をよそに、クヴァリフは泰然と笑んでみせた。
「仲の良いことは善きことよ。褒美に纏めて|産み直《きょうだいと》してやろう」
「バケモンとしてか? 勘弁願いてぇとこだな!」
 せせら笑う怪物と、拳を振るい派手に注意を惹き続けるノーバディの声は彰にも届いている。影業に巡らせる霊力の制御は怠らぬが、思わず溜息が口を衝く。
「本当にやだ……」
 仔産みの女神は悲鳴を上げる『仔』を一顧だにしない。呑み込まれた後に訪れる末路を悟るには充分すぎる。
 そうならないためにも――彰が幾度目かに伸ばした影がノーバディの横を掠める。刹那に切り離され、|首無し騎士《デュラハン》の手に渡ったのは、黒く塗り潰されたような手である。
 彰が|飽和攻撃《ブラフ》を展開したのは最初からこのためだ。ノーバディが女神に肉薄し、『仔』が活動限界を迎える刹那、無防備になった身に絶大な一撃を叩き込むための媒介を彼の手に渡すためだった。
「他の神性と喧嘩するかもだから、使用は一回限りで宜しく! それ以上は自己責任ね!」
「了解!」
 フェイスメットを外すのは一瞬だ。眼前のクヴァリフが対応しようとしたところで既に遅い。黒き影の手はノーバディに応え、その腕に霊性の手甲を作り出す。
「流石クゼ、頭に馴染むぜ」
 堅牢な鎧に守られた腕には力がよく入る。拳に己の力を纏めて握り込み、昏き影の腕を思い切り振り上げた男を前に、今や悪しき神性が取れる防御行動など存在しない。
「|SMAAASH《ドォォーーン》!! といくぜ!!」
 校庭の砂を巻き上げるほどの出力が女神を穿つ。地を揺るがす衝撃が、宵の街に響き渡った。

久瀬・八雲
一百野・盈智花


「結構です!」
 高らかな宣言と共に、久瀬・八雲(緋焔の霊剣士・h03717)がクヴァリフへ剣先を向けた。
 その手の長巻が纏う霊気は、現在の主の義憤と宿す無数の魂に呼応して、燃え立つような色を帯びている。黒い双眸が真っ直ぐに睥睨する先、生白い肢体を晒す女の形をした|化生《けしょう》へ目掛け、彼女は更に続けた。
「『仔』とやらになる気はありませんし、祝福も必要ありませんので! ここでぶっ飛ばさせていただきますよ!」
「同感だな。お前の祝福なんていらねーよ」
「つくづく聞き分けのない『仔』らよ」
 吐き捨てるように同調する一百野・盈智花(|真理の断片《フラグメント》・h02213)の乱暴な言葉尻に、なおも仔産みの女神は泰然と首を横に振る。まさしく子の無体を許す母のようなそぶりだが、それが真実の|母性《・・》から齎される反応でないことは、その身が纏う悍ましいほどの悪性が証明していた。
 その態度に鼻を一つ鳴らして、盈智花が腕を横薙ぎに振るう。
「逆に私のアダムの経験値になる栄誉をくれてやる」
 ――地を揺るがすのは意志持つ鐡だ。
 主の後方より立ち上がるのはただの|鹵獲殺戮兵器《ウォーゾーン》ではない。本来であれば搭乗者を必要とするそれは、盈智花によって手ずから意志を与えられた。√ウォーゾーンにおいて世界を滅亡させんとしている自律式の兵器と根本から異なるのは、彼女が|最高傑作《・・・・》と称するほどの|それ《・・》が、怪異の片鱗を宿してもいることだ。
「お前の『仔』と私のアダムのどっちが上か、わからせてやるよ」
「ほう、鉄の巨人かえ。しかし随分と妾たちに近くある」
 殊に面白げに笑うクヴァリフへ向け、金色のツインテールを靡かせる少女の双眸が獰猛に眇められる。その細い指先が、控える|原初の男《アダム》の名を冠した兵器に無言の指示を与える刹那、銀閃がひらめいた。
「先手必勝です!」
 校庭の砂は土やアスファルトよりも柔らかな感触で体を受け止めてくれる。スライディングで懐に飛び込んだ八雲の手が長巻を構え直し、己に迫る触手を斬り落とす。無防備に目を閉じた本体を狙うそれを、髪の如き器官が受け止めた。
 鍔迫り合いの姿勢を先に解いたのは八雲だった。彼女の目的は少しでも傷を蓄積させることだ。その意志に勘付いたか、殺到する触手に刀から立ち昇る霊気が呼応する。
 赤熱したそれが放つ焔は清澄な気を纏った。邪悪なる神性の眷属にしてみれば覿面の効力を発揮するだろう。爆発するたびに散る煤と炎が宵に沈む廃校舎を照らし出した。
 十秒――極めて長い隙であるように思えるが、自律する触手と髪の如き器官に阻まれればごく短い時間でもある。その肚から産まれる奇怪な生命体の鳴き声をいなすために、八雲が霊剣を構え直した直後である。
 彼女を捕えるべく蠢いた触手の群れを、巨大な機械の腕がいとも容易く薙ぎ払った。その腕を借りる形で早急に後方へ下がった八雲が、着地した横に立つ盈智花に屈託のない笑みを向ける。
「ありがとうございます!」
 今しがた彼女を援護した鐡の主は、己より幾らか年上の少女に大人びた厭世の眼差しを向ける。鼻を鳴らして応じる言葉はやはり、弱冠十二の娘には似つかわしくない色を孕む。
「アダムのついでだ。アンタも恩恵に与っとけ」
 ――彼女の腕が手繰るのはワイヤーである。一見して何の変哲もないそれこそが、盈智花がアダムの|経験値《・・・》のために用意した代物だ。
 このワイヤーの届く限り、無機物であれ有機物であれ、彼女が味方と判じた相手は身体能力が底上げされる。動きの精度と反応速度が向上する力は近接戦闘を得意とする八雲にとっても心強い能力だ。
 顔を輝かせて再び礼を述べ、八雲はアダムに蹂躙される『仔』――或いはそれを今にも呑み込まんとしている仔産みの女神に視線を向けた。
 『仔』の奇妙な特徴を残した怪物が鉄の腕を跳ね除ける。悪しき神の力と軟体動物の如き動きを得たそれが鐡の巨人に纏わりつく。その粘性を帯びた体を見遣りながら、しかし盈智花に動揺はなかった。
 彼女には二次プランがある。ゆえに手にしたシリンジシューターは既にかの怪物へ向けられていた。撃ち出された毒薬が突き立つや、奇怪な苦悶の声を上げてのたうつ隙を、八雲は見逃さない。
「――そこですね!」
 投げ込んだ霊剣こそが彼女の本命。その長巻を手にするまで戦場を知らなかった少女には、身体能力を頼りに一瞬で距離を詰めるすべはない。しかし能力があれば話は別だ。
 発動条件は単純だ。敵の周囲三メートル以内に自らのAnkerであり愛刀である緋焔が存在し――。
 その剣が敵に接近した理由が、投擲であること。
 刹那に霊剣のある場所へと現れた八雲の手が愛刀を握る。振り上げた剣を、その勢いのままに振り下ろせば、動くことすら儘ならぬ軟体が断末魔の如き悲鳴を上げた。
「まだまだ強くなれ、アダム」
 白刃と鐡が地を揺らすのを後方から見守る盈智花は、自らの最高傑作の働きに目を細めた。

叢雲・颯
神咲・七十


 力なき一般人を攫う――という行為は、相手に意志がない場合には想定しにくい。
 本能に従って生きるものどもが他者に害を成すのは、大抵が殺し食すためか、或いは縄張り争いのためだ。敢えて命を奪わず連れ去るのだとしたら、本能に根差した理由があるはずである。
 大別するならば二つに一つ。隷属か、養分かだ。
 その点で、叢雲・颯(チープ・ヒーロー『スケアクロウ』・h01207)の推測は正しかった。後方に控える黒幕――仔産みの女神の養分とするために、制御されていたというわけである。
 まるで女王蟻の元に懸命に餌を運ぶ働き蟻のようだ。違いがあるとすれば、昆虫のシステム化された社会性と比べ、怪異のそれは歪な災厄であるということだけか。
「さて……と、ようやく見つけましたね」
「親玉はお前か……」
 片手で食べられるよう設計されたカップケーキを齧り、神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)が颯の隣に立つ。彼女が手にした袋の中身は随分と軽くなったが、目の前に他に食すものがあるのなら、人間災厄――管理名『万理喰い』の重篤な甘味中毒も軽減されようというものだ。手にしたケーキを空にしたのちに新たな菓子が取り出されることはなかった。
 唇を丁寧に拭う少女の形をした災厄の横で、ヒーローは仮面の奥で目を眇める。
「せこせこと巣作りご苦労な事だが……いずれ私達のような√能力者に嗅ぎつけられるのは分かっていた事だろう?」
「勿論だとも。汝らから訪れるとは思わなんだが、いずれにせよ『仔』となるべき者は歓迎するべきでないかえ。殊勝であれば猶のこと、祝福してやらねばならぬ」
「そっちの褒美はいらないですし、褒美の方は勝手に持っていきますよ」
 颯の声に傲然と応じるクヴァリフの言葉に、問い掛けた彼女は勿論、七十も耳を貸す気はない。
「と、言うわけで行きますね」
 ――瞑想の後に産まれるという『仔』も、彼女にとっては前菜にすぎぬ。獰猛に笑う少女の形をした災厄は、しかし仲間には穏やかな顔を向けた。
「『仔』の方はお任せください♪」
「では本体の足止めは請け負います」
 義手を構える颯が頷く。見届けて一歩を踏み出した人間災厄は、女神の肚より出でる怪物を頸を傾いで見仰いだ。
 巨大だが――それだけだ。
「んんぅ……それが貴女の一番の壁ですかね? では……食い尽くさせて貰いますね?」
 寧ろ|可食部《・・・》が増えることは歓迎すべきであろう。彼女が裡に飼う隷属者たちは、誰もかれもが腹を空かせている。
 蔓を足の如く扱う植物の花は、食虫植物の如き消化器官となっている。奇怪な怪物であれどたかが一体だ。無数に近しく現れる『万理喰い』の世界の住人に取り付かれ、動きを制限されれば、後は成すすべなく喰らわれていくだけである。
 その間に、颯は自らの義肢に二つの怪異に抗するための弾丸を装填する。先まで使用していた『火食鳥』に破魔の術式を纏う『金糸雀』を重ね、己へ肉薄する女神を見据えた。
 人間災厄の七十に比べ、肉体を換装しているとはいえ一見して厄介な能力を有していないように見える颯の方が取り込みやすいと判じたのだろう。
 ――クヴァリフの真なる目的は勝利ではない。この場にある能力者たちを『仔』と成すことだ。
 ならばあちらから仕掛けて来ない道理がなかった。颯はその隙を決して逃さない。
「ただの|案山子《スケアクロウ》に見えたか?」
 触手と交錯する拳は、しかし絡め取られることはない。『火食鳥』の真なる効力は敵を貫くことではなく、この一撃を確実に相手に見舞うための身体能力の底上げにある。
 颯には見えている。殺到する触手の群れと睥睨する緑の眼球の視線を避け、なおかつこの拳をかの悍ましき女神の懐に届かせる、ほんの僅かの道筋――。
 頸を掠める切っ先を身を反らして回避する。そのまま髪に似た器官を蹴り飛ばし、己に迫る一本を踏み台に跳躍する。上方の颯を狙うそれらを受け流して、着地と同時に地を蹴れば、女を模した生白い肌は目前にある。
 目も眩むような閃光が宵を染めた。発火した『金糸雀』に込められた破魔の力がクヴァリフの身に宿る悪性を焼き尽くす。
「ぐ――」
「効くだろうな。お前のその勝利への確信と自信は、|能力《・・》に裏付けられているものだ」
 宙を漂う海月がわざわざ根城を晒すような真似をしたことを、この強大な女神は察知していたはずだ。それを咎めず、敢えて能力者たちに最も重要な拠点を見付けさせ、あまつさえそれを歓迎してすらみせた。
 その揺ぎない勝利は、何も神の持つ傲岸さゆえに齎されたものだけではないと、颯は看破していた。既に十全の準備がある。それこそ、攫って来た人間たちを使っての産み直しの必要すら薄いほどに。
「じゃあ――それを失えばどうなる?」
 |案山子《スケアクロウ》は仮面の向こうで嗤った。視線が纏う悍ましい気配がたちどころに遠のき、忘我の抱擁は女の細腕に変わる。仔産みの権能さえ一時的に喪失したかの女神は、始めて眉間に皺を寄せて苦悶の表情を見せた。
 それを見届け、颯は後方へと下がる。先に|過熱状態《オーバーヒート》に陥った義肢をこれ以上酷使することは危険だ。颯の眸は、離れた場所に立つ少女へと向けられた。
「後は頼みます!」
「んぅ、全部もらって良いんですか? 嬉しいです♪」
 前菜を喰らい尽くした七十が嬉しげに笑う。望外の|お裾分け《・・・・》を前にして、彼女は手負いの草食獣を前にした肉食獣が如く目を細めた。
「では、メインディッシュ……行きますね?」
 『万理喰い』の裡より奇怪な植物が顕現した。彼女が飼う世界の奇妙な植生は、自らの主と、その世界の住人たちへと祝福を齎す。少女の柔らかな手に構えられた巨大な鎌が隷属の力を纏って迸った。
 七十の裡に住まう者どもは揃って大食らいである。『仔』を食らい尽くすに飽き足らず、颯の一撃によって能力を喪失した触手を容易に押さえこむや、深海生物じみたそれに躊躇なくかぶりつく。
 その間にも、常を遥かに越える速度で懐に入り込んだ人間災厄がクヴァリフの眼前にある。さしもの怪物も顔を歪めて髪の如き器官を盾にせんとするが、もう遅い。
「私ばかり見てると危険ですよ?」
 鎌の一撃がその身をまともに切り裂いた。溢れ出す血に群がる七十の隷属者たちが殺到した。血肉を喰らえば喰らうほど――それこそ仔産みの女神を遥かに凌いで――奇怪な住人は増殖する。
「ふふふ、とても美味しいですね♪」
 いたく満足げな人間災厄の声だけが、喰らう音の中に軽やかに響いた。

黒野・真人
櫂・エバークリア


 ――気持ち悪い。
「『仔』だぁ? 勝手に決めつけるな! ヒトはテメエのペットじゃねえ」
 眉間に皺を寄せて吐き捨てるように叫ぶ黒野・真人(暗殺者・h02066)の表情は、今は明確な怒りと嫌悪に彩られていた。
 己の生業が決して美しいものではないと、彼とて理解している。醜悪な人の心や、或いは復讐の業火に焼かれる魂を肩代わりして、その具現として刃を振るい血を浴びる。他者から忌避されてしかるべきありようは、しかしそれゆえに、眼前の怪物を真っ向から否定した。
 ――命を奪い合うことは、人が人として生きようとするからこそ生まれるものだ。
 執着も欲も謀略も、悲哀も痛苦も恩讐も、全ては人が人でいようとするがために起こる思いに他ならぬ。
 それをかの怪物に奪われてはならぬ――その思いは、目を眇める櫂・エバークリア(心隠すバーテン・h02067)も同様だ。
「目的は俺達だったって訳か」
 少女と遺留品を安全な場所に退避させたのち、他の能力者の足取りを追って戻って来たのは正解だった。例え完全に滅することが敵わぬのだとしても、|これ《・・》は放っておいて良い相手ではない。
 二人の鋭い視線を浴び、既に満身創痍の女神は理解出来ぬとばかりの嘆息を零した。
「言うに事欠いてペットとは。全く、何故そうも拒むのかえ。妾の『仔』が相争うことなどせぬというに」
 肩を竦めるように腕を広げる。まるで真実の母の如き抱擁を思わせながら、なおその髪じみた器官より無数の眼球が睥睨した。
 絶対の悪性は、無辜を演じるように笑った。
「|汝ら《・・》に染み着いた血の香、昏き匂いがするぞ。妾が払ってやろうというのだ」
 ――それが真人の逆鱗に触れる。
 理不尽だ。こんな代物に好き勝手に奪われるのも、こんなもののために命が潰えるのも、分かったような|表情《かお》で虚ろな救済を謳うのも――。
「テメエみてえなバケモンから誰も生まれたくねえよ!」
 今にも飛び掛かりそうな勢いの彼の隣で、櫂もまた深く眉間に皺を刻んだ。悍ましい怪物に人倫を、まして人の心の機微を理解出来るはずもなかろうが、ゆえに|それらしい《・・・・・》言葉が不愉快だ。
「そんな祝福、俺も要らねえよ。『仔』だかしらんがお断りだ」
 櫂に己を捨てる気はない。例えその先にある救済や歓喜を仄めかされたとて、その甘言に飛びつくほどに落ちぶれているつもりはなかった。
 それに――。
 一瞥した先の共犯者は怒りに呑まれかけている。今は櫂のことさえ意識の外であろうことが容易に見て取れた。年頃の少年らしい激情を湛える身を放っておくわけにはいかない。
 クヴァリフが無駄話に花を咲かせている間に準備は整えてある。急場ながら十全の改造を施した武器を隣に放り投げながら名を呼べば、真人も意図に気付くはずだ。
「真人。武器に振り回されんなよ。やっちまえ」
「……っし! すげえ助かる!」
 櫂の想定通り、真人は怒りのあまりに隣の協働者のことさえ意識の片隅に追いやっていた。しかしそれが出来るのも信頼ゆえだ。罪を共有する者として、バーテンは黒き暗殺者を決して裏切ったりはしない。
 真人の手に渡った刃こそがその証左だ。会心の笑みを浮かべた暗殺者が身を翻す。その踏み込みに合わせ、自らの銃口をクヴァリフに向けた櫂が息を詰めた。
 ほんの僅かのブレすら許さない。呼吸と共に上下する幽かな肩の動きさえ止め、眇めた双眸で正確無比な銃砲が二発鳴る。
 狙いは仔産みの女神ではない。その髪より二人を睥睨せんとする眼である。
「髪に目があろうと、ビビるだろ?」
 まともに貫かれたそれが蒼い血を零し、視界の一部を失った悪性の神が怯んだ刹那、櫂の声と共に懐に飛び込んだのは黒き暗殺者だ。
 星詠みの予知はかの女神の能力の一部を暴いている。厄介な能力を相手取るならば使わせないことが最も合理的である。
 目を閉じる隙など与えない。踊る刃に神鳥の霊気を纏い、自らもまた薄らと浮かぶ翼の加護を受けて隼の如き速度を得る。真人の対処を優先しようとするクヴァリフを阻むのは、やはり後方に控える櫂である。
「開けてびっくりの二段構えだ。瞑想なんかさせる訳ねえだろ」
 銃に施した改造は連射能力の強化だ。マガジンが尽きるまで絶え間なく弾丸を吐き出すことさえ可能となったそれから発される派手な発砲音は、否応なしに眼球を穿った一撃を思わせる。
 無数の目は櫂の動向を、クヴァリフ本体の持つ二つの目は真人を追うが、反射的に銃弾を避けようとすることは否めない。その間手薄になった防御を補う触手に着弾すると同時、小規模な爆破を起こす銃弾がぬめる粘液を吹き飛ばして火傷の跡を残す。
「小癪な手を――」
 仔産みの女神の眼差しが櫂を捉える。まずはかの男を捉えねばならぬと判じたか、一本の触手が伸びる。鋭い槍の如く頸を狙うそれを前に、バーテンは既に得物を持ち替えていた。
 二本のナイフがぬめる粘液までもを利用して触手を滑らせる。追撃はない。ないと確信している。
 期待を裏切ることなく、暗殺者の刃は二本目の触手を切り裂いていた。
 バーテンは笑う。
「目は売る程あっても、追いつけないよな」
 常より遥かに速い真人は、既に無防備なクヴァリフの眼前にある。
 今この場で悪性を討ち、生者は皆生きて返す――暗殺者の仕事とはかけ離れたその所業によって、いつか己に応報が巡るやもしれぬことを、真人は理解している。
 だが。
 ここにいた誰しもを、いつかこの手に掛けることとなっても、それは真人の罪だ。
 それを怪物などに明け渡すつもりはない。理不尽な簒奪を働くその身を、弱く脆い幸福な世界と侮る傲岸ごと――。
「ブチのめしてやるよ」
 触手を切り裂き、目を両断する。その不気味な目も、食当たりを引き起こしそうな触手も、人間の女を真似た美しく生白い顔も、全てこの剣の餌食にせねば気が済まぬ。
「ここで死ね!」
 霊剣術・神鳥閃。
 迸る怒りの刃が悪性の女神を貫いた。

詠櫻・イサ
ララ・キルシュネーテ


「何とも……仔供思いなことで」
 思わず嫌味が口を衝こうというものだ。先から『仔』とやらを捨て駒のように扱っていることも含めて、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)の眉間に皺を刻むには充分すぎる悪趣味さだった。
 その腕の一歩後ろで透徹な双眸を細めるララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)もまた、凛然と声を発した。
「お前の仔になるなんてお断りよ」
「俺だって、お前の『|仔《こま》』になるのなんてごめんだね」
 拒絶の声は重なる。まるで寿ぎの如く広げる|腕《かいな》は呪いだ。|この《・・》呪いは、決して祝いには成り得ない。
 或いは――斯様に呪いじみた祝福であるからこそ、厄介なのかも分からぬが。
 少女にとってはどちらでも良い。その本質が何であるかを思ったところで詮無きことだ。ただ、彼女にとって、その|性質《・・》がある種の好ましさを孕んでいることだけが全てである。
「ララは強いものはすきよ」
「実に傲慢なことよ」
「ええ。でも、悪いことではないわ」
 傲然と笑むのは互いに同様だ。およそ無垢な真白を携える少女には似つかわしくない笑みを守るように、イサが一歩前に出た。
 本質の如何が関係ないのは彼にとっても同じだ。ただし、少年人形にとってのそれは決して好悪から齎されるものではない。兵器として、護衛として――後方の聖女を守るために、クヴァリフが与えんとするものが呪詛であれど祝福であれど葬るだけだからだ。
 戦いの始まりを告げるのは、一歩を踏み出した少女のあどけない声である。
「イサ、行くわよ」
「──聖女サマのお心のままに」
 少年人形はその声には逆らわない。真白のスカートの裾が夜気に揺れ、紅色の双眸が腕に抱えたぬいぐるみを見遣る。
 ――隠れんぼ、しましょ。
「おいで、キルシュネーテ」
 |母《ママ》の愛を詰めた桜色の白熊のぬいぐるみより、春の骸が顕現する。大きなものには大きなものを――ララの意図に違わぬ巨大な骸は、歪な桜を散らして立ち上がる。その身を覆うのは聖女の一華だ。燃えるような霊性に彩られたキルシュネーテを一瞥し、イサは己のやるべきことを言葉なく理解する。
 かの骸がいるならば盾は充分だ。少女に従う光鳥が変ずるカトラリーがある以上、彼が成すべきは一つ。
 |死海ノ律《アビスシー》は冥海をも統べる指先に従う。空より雨の如く降り注ぐ水撃が薙ぎ払うように触手を穿ち、ララへ目掛けて繰り出される一撃ごと悍ましい視線の睥睨を烟らせる。
 その間にも金色を纏うナイフが翻る。レーザーを搔い潜らんとする触手の群れを切断するそれに気を取られれば、降り注ぐ銀災のフォークが目玉に突き立った。
 燃え盛る焔は雨の裡にも消えはしない。苦悶の呻きと共に振り回す触手がララの頬を掠め、赤く血の跡を白い柔肌に残す。
 しかしそれもキルシュネーテによってたちどころに癒えていく。一滴の血すら流させぬとばかりに施される|癡《モーハ》に、聖女は穏やかに笑んだ。
 その狼藉の報復を成さんとばかり、這い出すリヴァイアサンが咆哮する。巨大な海蛇じみた胴で女の形をした怪異を締め上げる。その束縛を逃れた触手の一本が、主であるイサに向くのは先から予測していた。
 水を撃ち出せばまるで盾の如く広がった。触手を阻む流水のバリアの向こうより、神造の蛇腹剣がしなる。
 ――守る者が守られていたのでは格好がつかない。
 触手ごと女神の身を切り裂く伸縮自在の剣を満足げに見遣り、春の骸を伴うララが護衛に笑いかけた。
「イサ、やるじゃない」
「無様は見せられないからな」
 それはララに向けた言葉でもあり――。
 一瞥した巨大な木の影で、静かに主へ応援を送る、桜色をしたペンギンの雛に向けた言葉でもある。
 マヒルの懸命な鼓舞は声がなくとも届いていた。その姿に僅かに目を細めたイサは、しかし次の刹那には既に満身創痍の女神を睨み遣る。
 一歩を前に出るのは聖女だ。能力者たちに負わされた|深傷《ふかで》で地に足をつく仔産みの女神が産み出す『仔』が、今やララやイサを倒せるほどの力を持っているとは到底言えまい。
 だから女神はここで潰える。しかし二人にはまだ目的がある。
「生きている子達も返してもらうわ」
 万象を虜にする眼差しを宿した聖女は、傲然と笑んだ。
「ララの世界の可愛い子――お前に渡すなんて、癪に障るじゃないの」
 穏やかな威厳を孕む声はいたく当然とばかりの色をしている。まさしく神の代弁者のような――或いは|そのもの《・・・・》のようなその声に、イサの掠れた溜息が重なった。
「……そういう傲慢なところが、」
「なあに」
「いや、何でも」
 目を伏せた少年人形の指先が律を操る。無事に連れて帰ろう――呟く声が月に照らされる廃校舎に向けられた。
「あいつらには帰る家が、あるんだろ?」

黒戸・孩
叶・千絃
山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世


「――へえ」
 声は重なる。
 片や黒戸・孩(此処にいて何処にも居ない・h01570)は興味深げに目を細め、片や叶・千絃(千の夢見し・h01612)はさしたる興味もなさげに続けた。
「此奴はまた、大層なモンで」
 都市伝説の絡繰りを探ってみれば、飛び出して来たのは悍ましき神性を携えた女神ときた。これで解散となれば話は早かったが、そうも言ってはいられまい。
 そもこの調子でこちらを逃がす気であるとは思えぬ。既に他の能力者によって|深傷《ふかで》を負っているが、かの女神は未だに『仔』を成すことへの執心を捨ててはいないようだ。
「廃校舎か。確かに常々人が出入りするような場所でもない、拐った人間を置いておくにはいい場所だったろうよ」
 翻り、山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)が注目したのはロケーションであった。確かに人々の存在ごと己の所業を秘匿するには絶好の地だ。今まで事が露呈しなかったことにも頷ける。
 だが――十字の眸が眇められる。
「それも今日までだ。お前を喰って仕舞いとしよう」
 獰猛な色を湛える金色の双眸を見遣り、山羊は先も|海月《くらげ》を飽きるほど喰らっていた人間災厄に問うた。
「まだ食えんだ」
「生憎と大食いでな」
「ふうん。折角だし一番の|大物《ゲテモノ》食って良いぜ」
 ――なにしろ、千絃は女神そのものには大した興味がないもので。
 隣の孩も悪食には見えぬ。人間の姿を一瞥し、|取り替え子《チェンジリング》は女神へ肩を竦めた。
「似たもの同士、『仔』の性能比べとでもいこうぜ」
「アンタも呼べんだ。支援要る?」
「あんなら有難くもらうけど」
「そりゃ良かった」
 孩の力は『仔』の弱体化にうってつけである。相手が仔産みの女神などと名を受けた存在であればなおのこと、語る怪談はかの悪しき神性を容易に呑み込みうる。
「アンタ仔産みなんだろ。なら丁度良いや」
 語り出すのは子に纏わる古典怪談。些末な失態を咎められて中指を喪った女は、更なる辱めを受ける己を悲観して井戸にその身を投げた。
 無念は降り積もる憎悪へ変わり、死した身に抱いたそれが呪いに変わる。井戸の底より呪詛を呟く女の念は家にこびりつき、|禍《わざわい》を呼ぶ――。
「――"その産まれる『仔』は全て中指がないのです"」
 これよりここは孩の舞台だ。筋書きの通りに変容する世界の中で、千絃の声が黒き森を呼ぶ。
「偉大なる|神《もの》の代弁だ。迅速にアレを片せ」
 現れるのは山羊の如き怪物だ。四足歩行の草食動物を模しながら、その本質が理を違えていることは一目で分かる。歩くたびに形を変える『仔』が、瞑想の果てに生まれた海洋生物の如き怪物めがけて突進する。
 ――孩の語りはなおも続く。
「お前の『仔』は最も強いらしいが、残念ながら“攻撃する為の全てにおいて欠けているのです”」
「"全てにおいて欠ける"? 実に下らぬ呪詛だな。斯様に荒唐無稽な言葉が通るものかえ」
 クヴァリフがせせら笑うのも無理からぬことである。殊に言葉による呪いは現実を捻じ曲げるだけの力を持つが、その効力は|現実の及ぶところ《・・・・・・・・》に近しい。即ち|あり得ない《・・・・・》ものであればあるほど、実現しえぬ戯言となるが――。
 千絃の『仔』と衝突した怪物は呆気なく消滅した。
「へー、マジで弱くなるじゃん」
 ようやく興味が動いたとばかりの声音で、千絃の眼が瞬いた。横長の瞳孔が怪談を語る孩を一瞥し、半ば茫然としている仔産みの女神を見遣る。
「理由が分からないって顔してんね」
 ――教えてやる義理はないが、折角であるから。
 答えは簡単だ。
「俺が――全てに欠けたものだからさ。|匣《じんかく》の中身がどっかに往っちゃってねぇ、|無い《・・》んだよ」
 孩こそが|全てに欠ける《・・・・・・》ことの体現者。嘗てあったはずの|人格《もの》を喪って、空になった匣そのものが、ただ喋り笑い演ずるだけなのだ。
 女神を神性たらしめる権能を失い、産まれる『仔』は鳴り損ないにも及ばぬ代物ばかり。千絃の|喚《よ》び出す黒き森の『仔』に蹂躙されていくそれを見遣りながら、シャネルは目を細めた。
「これはこれで食い甲斐がありそうだが――」
「空っぽ食ってもつまんないでしょ」
「|目的《じゆう》と引き換えてまで人間は食わんよ」
 彼女はそのために憎き|警視庁異能捜査官《カミガリ》にさえ全面的に協力しているのだ。十字の眼差しは、今やただの木偶の棒も同義となった女神を真っ直ぐに捉える。
「お誂え向きに食卓も整っているしな」
 ――先から触手が全くといって良いほど役を成していないのは、シャネル|たち《・・》がその吸盤に食らいついているからだ。
 管理名『フィボナッチの兎』は二人が気を惹いているうちに充分な分裂を終えていた。今や触手がどれほど薙ぎ払ったところで、千を越える質量が再び押し寄せることになっている。
 シャネル|たち《・・》が取り付いて触手を無力化している間、|シャネル《・・・・》は拳銃と――己の牙を使って周囲の目を丹念に潰していた。幸いにして二人のお陰で煙草を使うまでもなかったが、反撃の予兆を捉えた折には煙を吹きかけるつもりで咥えている。
 図らずして食前酒のような扱いになった煙草を消して、女はゆっくりと歩き出した。随分と喰らったつもりだったが、シャネル|たち《・・》は生憎とまだ満足していない。
 その足取りを追い、既に何一つ出来なくなった女神の残骸を横目に、人間は山羊に問う。
「同族嫌悪ってあるもん?」
「ねえな。ただ、"贄"を捧げられんのは一柱だけだろ。搔っ攫われんのは気に食わねえ」
 相手が|空っぽ《・・・》と称すればこそ、本性を隠しはしない。ここには人波に紛れながら人並みより外れた異端だけが揃っているのだ。
 歓迎も祝福も必要ない。|人間《じんかん》に仇成す者同士でいがみ合うような性分でもない。ただの好奇心が行き付いた果てで、鞍替えを強要する怪物に眼前で人柱を横取りされることが許容出来ぬだけだ。
「一時的な利害の一致、だ。生存者どもの救出とやらに加担してやるよ」
「はは、そう言うと共犯者って感じ」
 孩もまた笑って返した。眼前に這い蹲る生白い肌がそこかしこから蒼白な血を流している。それを見下ろして、人の理を半歩外れた者たちが目を眇める。
「ほら瞑想しろよ、十秒ありゃあ絵巻で撲殺ぐらいはできるぜ?」
「こういう粘着質なヤツにはさっさと沈んで貰わねえとな」
 怪談師が目を眇める。山羊の後方から不定形の『仔』が覗いている。十字の目をした兎の口で、草食獣には似つかわしくない牙が光った。
「さっさと帰って報告書を纏めねばならんのだ。覚悟しろ蛸女」
 ――食事の挨拶はしっかりと。
 忌々しい顔から叩き込まれた|常識《・・》をさしたる疑問もなく口にした。
「いただきます」

 ◆

「こっちこっち」
「あー、起きてるか」
「おはよう。立てるかしら」
「まだ無理だろ」
「あ、無理しないで。手に力は入る?」
「これで全員ですぴす?」
「戦ってる間のことよく覚えてないけど――」
「はい! 数えてました! 大丈夫です!」
「奴に馬鹿にされずに済みそうだ」
「ま、一件落着ってことか」
「全員無事で何よりね」
「ジュースで祝杯でも上げようかな」
「良い経験値稼ぎにはなったか」
「んぅ、お菓子を買って帰りましょう」
「帰ったら報告書上げて病院戻って――」
「ちったあ休めよ……」
「大丈夫か? 肩貸すぜ、ほら」
 自身を取り囲むように立つ共通点のない人々を茫然と見渡す。目覚めたばかりで目を瞬かせる少女の耳朶に、ふいに己の名を呼ぶ知らぬ――それでいてどこかで聞き覚えのある声が届いた。
「ひとみちゃん、彼氏が心配してるって。さぁ、帰ろ」
 かくして能力者たちが無事に帰還した翌日、朝刊の一面を異色の見出しが彩った。
 ――不明者が全員帰還。集団家出か。

挿絵申請あり!

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挿絵イラスト