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ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

 生薬の素にもなる桔梗の株を診療所に分けた帰り、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)はそこから数メートル進んだ先にある陣屋の子供に呼び止められた。子供と言っても妖怪だ。ツェイ程ではないがそれなりに年数を経た狛犬の片割れで、名前は|吽《ウン》という。ちょこんと三角の耳を立て、くるんと丸まった犬の尾をよく揺らす所為で、ご近所の子供ですらも猫可愛がりするものだが、これでご意見番の様な役割を全うしている。
 ツェイの前を進む吽の後ろ姿はスス・アクタ(黑狐・h00710)によく似ていて、もうすぐ訪れる黄昏時の前に帰らねばなあと未だ遠くの住まいへ視線を投げた。風の通りに身を任せてはらはらと紅葉が舞い降りる季節に片足を入れてから、日暮れが随分と早くなった。当人はツェイが遅くなっても一人で留守番程度問題ないと常日頃から豪語しているが、それでも心配になるのが親心、否、お節介心というものだ。ただ一時面倒を見ているだけで親と言うには忍びない。
 陣屋の奥にはこぢんまりとした平屋があり、吽は此処で少し待っていてとツェイに告げて小走りで玄関扉の奥へと消えていく。一先ず言われた通りに、ツェイは平屋の側面にある開いた縁側に腰かけた。横開きのガラス扉の向こう側では片割れの|阿《ア》が大きなビーズクッションに埋もれて昼寝している。一時話題になっていたヒトをダメにするクッションは、どうやら妖怪をもダメに出来るらしい。
「長閑な昼下がりよな」
 今日は風が心地よく過ごしやすい一日だ。真夏の日差しも影を潜め、柔らかい光に誘われるままに眠気に身を委ねてしまう。ツェイも釣られてかふわあとひとつ欠伸をした。
「またせた」
 程無くして、吽が丸いお盆を両手で支えて戻ってくる。ガラス扉を如何したのかと見やれば、妖力で開け閉めしていた。成程便利である。吽はツェイの隣に湯呑ふたつと小包の和菓子をいつつ乗っけたお盆を置いて、その隣に正座した。早速包み紙を解いて楊枝を取り出し、わらび餅を一粒放る。
 美味そうに頬張る吽を眺め、ツェイは小包に書いてある店の名前を確認した。この和菓子屋の名前には見覚えがある。以前、別の御茶請けを買ってススと一緒に食べたような。頬に砂糖菓子を詰め込んで一言「悪くない」なんて述べたススの顔を思い出して、帰りに立ち寄るかと予定を入れる。
 有難く玉露を頂いて、ツェイはほっと一息ついた。
「して、我に何用かあったかの」
「そう。数日前、御前に話があるという御仁が訪ねてきた」
「ほう?」
 吽はわらび餅二粒目をもちもちと味わいながら両耳を二度折る。妖力の流れを感じたツェイは、先んじて縁側に面する庭へと視線を向けた。案の定、ぽっと小さな火の玉が浮かび上がり、空気に解けて一人の男の姿を形作る。番犬の役割も果たす狛犬は、こうして一度見た人間や妖怪の姿を詳細に映し出す術が使えた。
 ツェイはその姿に薄らと見覚えがあった。この近辺に住まう者であれば誰もが一度は目にする妖怪だ。しかし、彼の妖怪としての姿を見た者は一人としてなく、最早自身の本来の姿さえ忘れてしまったのではないかと囁かれる程となっている。事情を知らぬ者が見れば、間違いなく全員が人間だと答えるだろう。
「彼は|夜刀神《やとのかみ》の末裔、名を|紹運《ショウウン》。吾から見てもヒトに見える、バケモノだ」
「武術の教えを啓いておった覚えがあるなあ」
 この辺りから一里ほど先に、それなりの規模の屋敷がある。元来は神を鎮める為に建てられたという話だが、現状ではただのお稽古場として認知されていた。由緒正しい場所も忘れられれば力を失うとの先祖代々の教えもあり、紹運よりも数代前から武道場として門戸を開いたままにしてあるらしい。近所の子供たちは皆足繁く通い、護身術程度の武道を身につける。
 また、人間と妖怪が共に暮らす為の技術として、人化けの術も妖怪達に教えていた。むしろ、紹運としては此方が中心だと聞く。かつて人々に追いやられた夜刀神の末裔が編み出した、人と共に生きる術だ。ただ化けるだけでは終わらず、その姿を維持する方法や体の動かし方、妖怪に戻らずとも相手を制する為の武術も確りフォローしている。
 ツェイが心当たりのある妖怪の話をすると、吽はひとつ首肯した。ついでに三粒目のわらび餅も口にする。
「御前の所にいる黒狐の話を聞いてか、是非にと」
 ツェイは手に湯呑を持ったまま口を閉ざした。是非の意味を察するのに数秒かかった。
 そう、今はただ|預かっている《・・・・・・》だけの関係だ。ツェイが助けを求める子狐を前に手を伸ばすのは当たり前の事象であったが、その先さえも全て請け負うには未だ決心がつかぬままである。肉親も殆ど知らない身が、本当に親など務まるのかと常に疑念が内側にあった。その上、親代わりは向かぬと言い訳をつけながら、師弟の関係を持つ事もツェイが拒んだ。術士としての道を歩みたいと願うススの気持ちに、ああなれこうなれと嘗てのツェイの故郷の人々のように望みを押し付けてしまう結末を迎える事を恐れた。
 何より、成り損ないの自分に相応しい覚悟も資格もない。
 そうして迎えた今、確かな枠組みなどないまま肩を並べている。そこに確かな心があったとしても、ツェイとススは未だ他人のままなのだ。
 そんな状況を知った者が行動を起こすのは何も考えられない話ではなかった。ススには力がある。伸びしろがある。誰がススの話を紹運にしたかは定かではないが、ススも仕事の手伝いを通してこの町の住民達と交流が生まれていた。時に友人の元へ遊びに行くと出掛ける事もある。自分の知らない所で、世界が広がっていてもおかしくない話だ。
 きっと、お節介心というやつだ。――自分と、同じ。
「後継の事もあり、一度検討して欲しい、と。門戸は何時でも開いている」
「そうか。そうかあ……」
 一度目は相槌。二度目は独り言。ツェイの抱える湯呑は飲みかけの事もあってすっかりぬるくなっていた。此処で二つ返事で送り出せる話ではない。最終決定をくだすのはススだ。提案を受け入れるのも断るのも、ツェイがひとりで決めるべきではないと、頭では理解していた。
 それから一言二言何か話した覚えがあるか、ツェイの頭はぼんやりとしたままだった。ススにとって良い事は、一体何方なのだろうか。ススと同じ人化け獣妖の袂の方が、ススも生きやすいのではなかろうか。ツェイは此れからススが成長して困る事に知見がない。人化け獣妖ならではの悩みを解決してやれるかも分からない。知識と経験は別物だと、十分身に染みている。
 吽から渡された風呂敷を片手に、ツェイはふらふらと帰路についた。

「遅い」
 扉を開けてまず最初にそんな言葉が飛んできた。
「何処ぶらついてたんですか。迷子になったんですか」
「はは……否、すまぬ」
 じっとねめつけるススの顔を見て、ツェイは流石に笑って誤魔化せないなと謝罪の言葉を口にした。ふと思い出して風呂敷を差し出すと、ススがさっと回収して中を見る。出掛けた目的の桔梗がちゃんと入っている事を確認した後、ススは不思議そうに瞬いた。
 あまりにじろじろと確認するものだからツェイもそうっと覗き見る。中には桔梗の束の他、わらび餅の小包がよっつ収まっていた。そういえば、帰り際に吽が包んでくれたような。数刻前の話なのにあまりにうろ覚えすぎる。
「和菓子屋にでも寄ったんですか」
 ススの口調は殆ど変わらずだったが、何処か嬉しそうな気配が滲んでいた。風呂敷を抱えて踵を返すと、居間へと入って顔だけ戻す。
「今日は勝手に魚の煮つけにしました。誰かが遅いので」
「う」
 チクチクと言葉の棘がツェイに刺さる。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、ツェイはススの成長を感じていた。いつの間に一人で料理が出来るようになったのだろうか。レシピを教えた覚えはないが、勝手に見て盗んでいたのだろう。部屋はきっちり綺麗になっているし、術に使う材料をどう保存するかも最早教える事が少なくなってきた。
 このまま、で良いのだろうか。
「……」
 愛し子の成長程嬉しいものはない筈だ。いつまでも変わらないものはない。世界は目まぐるしく変化していき、ススも気が付けば大きくなった。
 吽も紹運には世話になった事があるらしく、変化の術は紹運から教わったものだと言った。そもそも吽の紹介が通る時点で紹運に大きな問題はない。少し無口だが不器用なだけで、人柄の良さには保証がある。資産の面でも、代々あの広大な屋敷を守っていけるだけの安定性があり、養子として出す先としては完璧とも言えた。見知らぬ人間が急に養子にと言い出す怪しさも、吽という町のご意見番に託す辺り礼儀を弁えている。
 ぐるぐると巡った思考にも、そろそろ結論が出そうだ。ススの呼ぶ声を聞いて食卓へ向かい、こうして食卓を囲むのもあと数回になるのかという現実が急に襲って、ツェイは少しだけ凹んだ。そんなツェイの様子を訝し気にススは眺め、少ししょっぱい煮つけをごはんと共に飲み込んだ。
 その晩、ツェイはススを呼んで養子の提案が来ている事を話した。ツェイの胸中には色々と渦巻いてはいたが、全てツェイの都合だ。それらは全て吞み込んで、例の屋敷に行くことのメリットを訥々と告げた。正直あまり詳しくない相手だが、吽の言葉と自分の知る微かな記憶を頼りに紹運を紹介する。
「彼奴も人化け獣妖の仲間と聞く。学べる事も多かろう」
「……」
 とにかく、ススがきちんと選べるようにツェイは言葉を選びながら話を進める。吽が包んでくれた風呂敷には、ご丁寧に紹運が指導する武術の習い事広報ポスターが折り畳まれて入っており、紹運の姿も映っていた。吽の様な術を使う必要もなく、人と成りを知れるのは大変有難い。
 ススはツェイが話すのを聞きながら、ポスターをじっと見下ろしていた。ポスターを広げている手には力が入り、微妙に皺が出来ている。ツェイがそれに気づくことは全くなかったのだが。
 この人、本気で言ってるのか。
 もし今口を開いたらそんな言葉が飛び出そうで、ススはじっと無言を貫いていた。ポスターを眺めていれば隠れている表情の変化も殆ど見えない。これ幸いにと、睨みつけるように紹運の顔を眺めていた。
 彼が悪いのではない、目の前の朴念仁が悪いのだ。気持ちが理解されていないのは分かっていたが、まさか弟子入りしたいと告げた相手に養子の話を勧められるとは青天の霹靂だ。暗に弟子を取るつもりはさらさらないからさっさと出ていけと言っているのと同じではないのか。とはいえ、ススはツェイの性格も良く知っている。ツェイにその気がない事は理解しているし、ツェイの事だから熟慮した上でこの結果に着地したのだろうことも理解している。
 だが、理解と納得は別物だ。
 沸々と起こる怒りの感情を無言で押さえつけて、ススはツェイの話を右から左に聞き流しながら作戦を練る。最早ここまで来たら、ツェイに何を言っても暖簾に腕押し状態だろう。今回嫌だと言って拒絶したところで、この男はどうせまたそれらしい話を聞いたら悩みに悩んで提案してくるに違いない。
 ならばもう、解らせてやるしかない。徹底的に。
「……スー? 我の話、」
「聞いてる」
 嘘、聞いてない。
 ただ、ツェイはこう言われてしまっては弱い事も知っていた。ちゃんと聞きなさいと問い詰める事もなく、ススがそう言うなら聞いているよなと勝手に納得する。その性格でどれだけ損してきたのかを理解する気はあるのだろうか。一面では美徳のように謳われるが、ススにとっては悪徳でしかない。この美徳によって救われた過去があるせいで、強く言えないのが今の所一番の後悔だ。そして、この出来事がなければ出会う事もなかったのだろうというのも癪に障る。
 解決策のないもやもやを一旦横に追いやって、ススはツェイのお経という名の養子話をBGMにどうするかの作戦を詰めた。向こう側の提案は善意によるものだろう事は、このBGMのお陰で十分伝わっている。それを無下にしようというのだから、相応の礼儀は携えていかねば|蓄音機《ツェイ》の評判にも関わる。
 ふと、視界の端にわらび餅の文字が見え、これだとススはひとつ手に取った。
「嗚呼、そうだ、土産に貰っての。スーもお食べ」
「うん」
 此処の和菓子は前にも食べたが美味しかった。まず手始めにお土産を差し出して、ススが自身で丁重にお断りしよう。期待を持たせてしまっては悪い。道場の様な事をしていると言っていたから、小分けされたものをそこそこ数を用意した方が良いだろう。
 ツェイの事だ。ススが帰ってきたら慌てて謝罪に走るかもしれない。その必要がない事もちゃんと見せつけて、全部完璧に終わらせよう。突き放しても無駄だと、自分が関わる事になった途端にすべての察しが悪くなる男に植え付けなければ。
 考えているフリをしていたススが手のひらで口元を隠す。その後ろで、にやりと計画通りの顔をしていた。まだ始まってすらいないが。
 
 あれから数日後。
 吽を通じて顔合わせを済ませたツェイとスス、紹運の三人は今後のスケジュールを取り決めて順調に話を進めた。そうして、いよいよお別れの日がやってくる。
「ではの。よう励むのじゃぞ」
「はい」
 目を細めたツェイと、やる気に満ち溢れたススが、互いに挨拶を交わして背を向けた。

 数時間後。
 仕事に赴いた帰りに、すっかり寄り道し損ねた和菓子屋にツェイは来ていた。子狐と食べたわらび餅はなかなかに美味で、ふとした瞬間に食べたくなる。訪れた和菓子屋は小包をいくつか並べるスタイルで様々な和菓子を売っており、ひとつだけ食べたいけどという欲求を簡単に満たしてくれた。奥の方にはファミリーパックも売っていたが、最早独り身でそこまで必要になる事はない。
「いらっしゃあい」
「ああ、邪魔しているよ。久方振りだのう」
「なあんだ、ツェイさんか。今日はどんな趣で?」
 のそりと姿を見せたのは人間の女性だ。店番を任されている琴子は和菓子職人の夫の代わりに接客に務めているからか、店に良く来る人の事はよくよく知っている。一度二度訪れただけの来客も覚えているのがなかなかすごい。その上、井戸端会議で情報収集も怠らないため、町の肝っ玉母さんみたいな面もあった。
 彼女とは此処よりもよく診療所で顔を合わせた。ツェイが懇意にしているお婆ちゃんとも仲良しで、来訪がない時間帯にお茶をする仲だとか。ともあれ、こんな妖怪と人間が入り混じる町でかなりうまく生きている。
 琴子がこの和菓子屋の女将だと知ったのはつい最近だ。しかも情報源はススである。自分よりも先にススが知っていた事に驚いた。やはり子供はようく成長するものだと感心さえした。同時に、少々寂しさを覚えたものだが。
「前に食べた餅が美味でなあ。ひとつ買って帰ろうかと」
「うちの一番人気だからね。ひとつでいいのかい?」
 女将の一言でツェイの手がぴたりと止まる。右手に既にひとつ乗っているのに、左手はもうひとつ取ろうとしていた。いつも買い物に行けば二人分買っていたのだから当然の癖だ。
 掴もうとしたまま静止しているツェイを不思議そうに見る琴子の視線に気が付き、苦笑を交えてもうひとつ取った。勿論、どちらも自分の分だ。
「ふたつにしておこうかの」
「それがいい。ススくんも食べるでしょ」
「ああ、……そうじゃの」
 そんな彼は、今日出立した。最初こそ乗り気でないように見えたが、今朝には随分と張り切った様子で出掛けて行ったのでもう戻る事はないのだろう。そもそも、養子になった者が戻ってくるという事は家出になる。何の関係もない今、戻って来ても送り返してやるのが道理だ。余程の事、というのは起こり得ない人選をしたつもりである。
 他にいくつか和菓子を買って、ツェイは店を後にする。事情も言えずに買った和菓子は何だか重たい。数日のうちに一人で食べきれるのだろうかと、日の暮れる道を一人で往く。
「ほんの数年前に戻るだけのことさ」
 零れた言葉は心の内で何度も繰り返した言葉。ススの顔が過る度、もういないのだという現実を思い出して繰り返す。何をするにもあの子の事を考えていたのだと、いなくなってから自覚した。思えば、吽に声をかけられた時もススの事を案じ、わらび餅を見てススの事を考えてきた。日常のどんな動作にもあの子の事が過って、自身の決定さえもあの子のより良い選択になるように変えてきた。
 すっかり、日常だったのだ。分かっていた筈だ。
 玄関扉を開けて遅いと出迎える姿はない。今日のご飯は何にするかと話しかける声も、いつもの決まった時間に簡素な学び舎になる事も、もうない。
 暗い廊下を眺め、静かに目を伏せた。
 ほんの数年前に戻るだけのこと。

 一方その頃。
「すみません」
 ススは深々と紹運に頭を下げていた。
「今回の話、お断りします。ただ、数日置いてくれませんか」
 予め何度も練習した言い回しがスラスラと口をついて出る。迎え入れた紹運は最初こそ驚いた様に目を見開いたものの、|察しが良く《・・・・・》、ふたつ返事で頷いた。
「事情は、教えて貰えるのかな」
「はい」
 紹運は穏やかに笑った後、ススからお土産の和菓子を受け取り踵を返す。
 ススから見ても、紹運はとてもじゃないが妖怪に見えなかった。妖気の隠し方が異様に上手く、化ける加減も丁度良い。聞いた話では蛇神の末裔だと言っていたが、瞳も確りと擬態している。歩き方にクセがなく、毛のない種族だというのに髪の流れも自然だ。彼の元に従事すれば学ぶことも多そうというのは直感出来た。
 ススは今回の「ツェイを解らせよう作戦」を、お土産に持参した和菓子を食べながら紹運に伝えた。紹運も用意した抹茶を飲みながら話を聞いて、終始苦笑いを零していた。親子喧嘩だなと出そうになった言葉は抹茶と共に飲み干したため、ススは知らないままだ。沈黙は金というだろう。
「本当、酷い人です」
 まだ会って数日、どころか数時間だと言うのに、紹運の空気感がそうさせるのかススはツェイへの文句を零す。否、これは拗ねているだけだ。ここ数日ずっと抱えていたものが、堰を切ってひとかけら溢れただけ。
 紹運は眦を細め、ススの選んだ和菓子をひとつ手元に寄せながら口を開いた。
「でも、離れがたいんだ」
「…………」
 ぎゅっと唇を引き結んだススは何も返せず俯いた。今口を開けば何が出るか分からない。折角作戦通りに上手くいったというのに、全て壊してしまいそうで口を噤んだ。
「空けた部屋が空いたままというのは寂しいが、君たちの決断を私は尊重するよ」
 紹運はそう語り、小包を開いて和菓子を齧る。ねりきりは紹運用に別で買ったもので、程よい甘さが抹茶に合う。この辺りは和菓子屋の琴子がファミリーパックを買おうとするススから口八丁で根掘り葉掘り聞き出して持たせたものだ。ただ、こうして力になろうと手を貸してくれるのは、日頃からススが素直に働いているのを知っていたからでもある。
 まだ年端もいかないように見える少年がここまでしたのだ。これ以上、紹運が首を突っ込む話ではない。
「落ち着いたら道場の方に来てくれ。数日、お客人が増える事を紹介しなくてはね」
「……はい」
 ススの肩を紹運の大きな手のひらがぽんと叩き、程無くして扉の閉まる音がした。一人部屋に取り残されたススは顔を上げる。
 広い居間だ。食卓は四人が十分に座れる程に広く、椅子も確り用意されている。ソファも広々として座りやすく、大きなスクリーンを並んで見られるようになっていた。広々としたキッチンも見え、ガラス窓になっている棚には数人分の皿が積まれている。
 下宿している門下生もいるとススは聞いていた。普段ならばここは武術を習いに来た子供たちが行き交う場所なのかもしれない。だが、今は誰もおらず、深と静かで囁き声すら何処からでも聞こえてしまう。
 ツェイは、寂しくはしてないだろうか。
 別れ際、目元を緩めたツェイはススから見て明らかに寂しそうだった。素直に口にしないのは、それが自分の足枷になってしまうかもしれないと思っているからだとススは知っている。正直、当人にバレるぐらい駄々洩れなのだが、ツェイ本人は上手く隠せていると思っているのだろう。
 振り返って見た、小さな背中を覚えている。ちくりと胸が痛んだが、そもそも理解してくれないのはツェイの方ではなかろうか。
「……ムカついてきた」
 また怒りの炎が着火する。勢いよく立ち上がったススは、せめてこの数日で得られるものは手に入れて帰ってやろうと、意気揚々と道場へ向かった。

 また数日。
「ぼーっとしてる」
 壁に貼られた広告を眺めていたツェイの足元で声がした。視線を下に向けると同時にぽんっと煙幕が炊かれ、風が煙を晴らすと小さな女の子がツェイを見上げていた。
「阿だよ」
「お前さんか」
「吽から聞いた。元気ないね」
 ツェイが返事をする前に阿はツェイの手のひらをむんずと掴んだ。そのまま見た目からは考えられない程の怪力でツェイを陣屋内に連れ込む。最初こそ驚いたツェイだったが、見知った顔であった事もあってずるずると簡単に連れていかれた。こんなに誘拐し甲斐のないお爺ちゃんはなかなかいない。
 今日は平屋の方ではなく、庭の方へと案内された。紅葉が立ち並ぶ庭は随分と壮観で、小さな池に浮かぶ紅葉にも風情を感じる。鹿威しが水をいっぱいに溜めた所で傾いて、間延びした心地よい音を立てた。木漏れ日の中進んでいくと、大理石で出来た椅子とテーブルが見えてくる。
 阿は椅子に積もった葉を払い、ツェイが止める間もなく着物の袖で座面を拭くと力強い単音と共に椅子を指差した。
「ん!」
 座れということらしい。
「はいはい」
 若者に振り回されるのはなんだか久しい。久しい、と数日ぽっちなのに感じてしまう。阿も隣の椅子に座って満足そうにしていた。
 取り留めない話が紡がれる。明日の天気が良くないとか、近所の爺さんが腰をやって診療所の婆に怒られたとか、道場の新入りがすごいとか。深掘りしたい話題が途中出てきたが、ツェイはそれをぐっと飲みこんで何でもないようにへらへら笑った。
 話は空の色が変わる頃まで続き、そろそろ帰らねばとツェイが腰を上げた所ではたと現実が戻ってくる。もう、いつ帰っても良いのだ。言いようのない感情が胸を占めたが、再び腰を下ろして潰し見なかったこととする。
 見なかった、事にしたかったのだが。
「時間」
 ぴょんと跳ねた阿がまたツェイの手をむんずと掴み、陣屋の外へ放り出す。突然のことに目を白黒とさせていると、阿はふんと胸を張ってツェイを気持ち見下ろした。
「お饅頭でいいから。伝えといて」
「はあ」
 一体誰に。呼び止めもむなしく、阿は意気揚々と平屋へ帰っていった。
 ぽつんと取り残されたツェイが出来る事と言えば帰路につくことぐらいだ。なんだか妙に疲れた気がする。ああ、振り回されるってこんな感じだったなとか、でもあの子は結構お利口な方だなとか、何を考えていてもススの姿が過ぎって頭を振った。
 さっさと帰るべく空を浮いてツェイは住まいの入口へと着地する。顔を上げ、ぽかんと口を開けた。
「遅い」
 フンと鼻を鳴らしたススが玄関前に待ち構えている。両手を腰にあて踏ん反り返った姿は、間違えようもなく子狐だ。ツェイはこんな短時間でもう一度目を白黒させる羽目になるとは思っておらず、ススの姿をジロジロと見た。本物?幻覚?と目が雄弁に語っている。
 ススは得意げにツェイを見た。不敵に口の端を吊り上げたまま、お説教の構えだ。
「いい社会勉強になりました。その間にツェイは迷子ですか」
「ええ、否、話し相手に……」
 お饅頭。
「あ」
 もしかして、彼女の伝言はスス宛だろうか。今でなくては困るような話題は確かにひとつもなかった。これをするために足止めを?
 じわじわと事態を呑み込み始めたツェイを前にしたススが、ツェイの表情変化と挙動不審を満足気に眺めていた。
 こんな、悪戯があるものか。
「……ふ、ははは! 参った、愛い子には敵わぬ」
 胸中を占めていた、あの暗雲はもう何処かへ行ってしまった。何時でも会える距離だからと、何処とも分からぬ場所に行った訳ではないのだと、言い聞かせていた心がスッと晴れやかに軽くなっていく。帰って来た、という事実がどうしてこんなにもいとおしいものか。
「おかえりなさい、ツェイ」
 扉を開けて、住まいに入るススの背中を眺め、ツェイはもう一度小さく笑った。どこか冷静な自分が本当にこれで良かったのかと問いかけてくるが、その事で悩むのはまた後でだ。
 ススの後ろに続き、振り返ったススを正面から見る。嗚呼、いつもの光景だ。
「おかえり、スー」

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