たとえばこんな『もしも』のはなし
●デンジャラス・グレート魔王城(改)にて
鬱蒼と茂る古森の奥。昼なお薄闇に沈む谷を越えた先に、黒い石で築かれた古城があった。遠い山脈の向こうで竜が鳴けば、それに呼応するように淡い燐光を散らす。そこは魔王の住まう居城だと人々の間でまことしやかに囁かれており――この城の主である皮崎・帝凪(Energeia・h05616)も、その呼び名をいたく気に入っていた。
不意に、彼の肩をちいさな黒い影が飛び越えていく。
小憎らしい小妖精だ。さらにもう一匹、その後を追う。三匹目が笑いながら飛び、手には帝凪の竜骨製の筆を抱えていた。
「こら、待て!」
妖精たちは甲高い笑い声を残して螺旋階段へ逃げ込み、帝凪はその後を追う。
「それは古代竜の角から削り出した研究用の筆だぞ! 菓子を食べる道具ではない!」
すると妖精の一匹が振り返り、筆の先端を指差した。
「でも、蜂蜜ついてるよ!」
「なにっ」
怒るべきところではある。しかし、蜂蜜に関しては帝凪も好きだった。結局その日の朝食には竜骨筆を洗浄するための聖水と、妖精たちが勝手に焼いた蜂蜜をたっぷり垂らしたパンが並ぶことになった。
魔王城の朝は、概ねこのようにして始まる。
帝凪は古代語魔術師である。
失われた文明の碑文を読み、竜の血に残された記憶を術式へと変換し、現代では再現不能とされる魔法さえ独力で組み上げる。書斎には古代文字の記された羊皮紙が山をなし、地下研究室には、彼自身が設計した奇妙な魔導機械が無数に眠っている。
その技術は恐ろしく高度でありながら、完成品の姿だけは妙に愛嬌があった。
丸い胴体に短い脚をつけた自動書記機に、ミミミと鳴きながら主人の後ろをついてくる小型ゴーレム。そして――帝凪が三日かけて作り上げた、紅茶を淹れるだけの機械。最後のものに関しては妖精たちから『普通に自分で淹れたほうが早い』と言われているが、瑣末ごとだ。天才とは、必要のないものまで作ってしまうからこそ天才なのである。
地下研究室へ降りれば、そこには森の地上とはまるで異なる景色が広がっている。
天井のない暗闇に浮かぶ無数の星。床一面を覆う巨大な魔法陣は実際の地下室より遥かに広い異空間へ繋がっているらしい。帝凪が古き呪文を唱えるたび、ひかりの文字が水面のように波打っては遠い過去の記憶を映し出す。
中央に横たわっているのは巨大な竜の骨だった。すでに死して久しいはずの竜は、帝凪が掌を掲げるだけで眼窩に青白い火を灯す。
「――古き竜よ、此処に」
骨の隙間をひかりが駆け抜ける。それは生き物の鼓動にも似ていた。帝凪は己が魔力が潤沢に満ちていることに満足げに微笑む。
「どうだ。美しいだろう、俺の魔術は」
何時の間に紛れ込んでいたのやら、小妖精がその手元を覗き込んでいた。
「ダイナさま、これ何するの?」
「竜の記憶を読むのだ」
「なんのため?」
「それは、俺が知りたいからだ」
「なにを?」
「――それを知るために研究している!」
妖精は首を傾げた。
帝凪も首を傾げた。
しばらくして、ふたりとも何事もなかったかのように竜骨へ向き直る。
全知全能、万能たる眉目秀麗の魔王たる帝凪にはひとつだけ説明できないことがあった。自分はなぜ古代竜の言葉を理解できるのか。文字を見れば意味が分かる。竜の唸りを聞けばその奥にある古い意味まで理解できる。そして近頃、その理由を伝えるかのように地下の魔法陣が帝凪の知らない言葉を繰り返していた。
欠けたるものよ。
還るべきものよ。
名を失いし子よ。
その声を聞くたびに胸の奥が奇妙に疼く。
けれど帝凪は深くは考えなかった。今の彼には研究があり、魔術があり、騒がしい妖精たちがいる。それに、何より――。
「ダイナさまー! また人間が来たー!」
階上から叫び声が響き、帝凪は形のよい眉を顰めた。
「追い返せ」
「冒険者だって!」
「では丁重に追い返せ」
「借金取りもいるよ!」
帝凪は沈黙した。
やがて彼は、非常に真面目な顔で研究机の上の財布を確認した。
「……冒険者を先に通せ」
妖精が嬉しそうに羽を鳴らし、きゃらきゃらと楽しげに笑う。
「ダイナさま、お金ないの?」
「偉大なる魔王には常に壮大な財政上の課題があるのだ」
帝凪は長い沈黙の末、威厳たっぷりに答えた。
「働くぞ」
その瞬間、城の最上階で警報代わりに飾っていたダチュラたちがけたたましくラッパの音色を響かせた。森の彼方では何か巨大なものが目を覚ましたらしい。魔王城を覆う銀の文字列が一斉に輝き、夜明け前の森をしろく染めた。
帝凪は窓辺に立ち、琥珀の瞳を細める。
不穏な兆し、失われた記憶。蠢き始めたダンジョン――自分自身さえ知らない、古代竜との因縁。それらはきっと、いずれ彼の日常を大きく変えるだろう。
けれど今は研究に打ち込みたい。そして借金も返さなければならない。帝凪は盛大に溜息をつきながら、それでも楽しそうに笑っていた。