La Vampire au Lys Noir
●La sorcière millénaire
百鬼夜行の街にはひとの世では見かけないものを扱う店が幾つもある。古い妖怪の骨董店、夜にしか扉の開かない古書店。ノイル・リースロス(闇に揺蕩い影に詠う・h08142)が普段訪れる場所も、そのどれもが人間の尺度からすれば十分に奇妙であった。
けれど、今日向かう店は少しばかり違う。
それはひとの世と、人ならざるものたちの世のあわい。世界のさかいめにひっそりと存在する魔道具店だった。場所を尋ねても地図を渡してくれる者はいない。住所もなければ看板の写真もない。
三叉路を右に。
古びた階段の影を、一段飛ばし。
あかい自動販売機の横を通り過ぎたら、振り返らずに。そうして最後に、誰も住んでいないはずの古い民家の脇を抜ける。それがこの店へ至る為の正しい作法であった。
どこにでもある日本の街並み。けれど、その街には薄い膜のような境界が重なっていることが、ひとならざるものであるノイルには見えていた。
三叉路に差しかかると迷わず右へ曲がる。すこし歩けば古い階段があった。何の変哲もないコンクリートの階段であり、隅には苔が生え、手摺には赤錆が浮いている。ノイルは一度だけ足を止め、それから一段目を飛ばした。
何も起こらない。
もう一段、飛ばす――その瞬間、世界の音がほんの僅かに遠のいた。
車の走る音も、風の音も、誰かの話し声も消えたわけではない。ただ、それらが薄い水の底から聞こえてくるように遠ざかる。ノイルは振り返らなかった。境界を越えるときに後ろを見ると、道を見失ってしまうから。
階段を上りきった先には、先ほどまでの住宅街とは少し違う風景が広がっていた。
同じ日本の同じ街のはずなのに、そらの色だけが妙に濃い。塀の上には三本足の猫が座り、電線には紙でできたような鴉たちが並んでいる。ふたつの世界は完全に分かれているわけではなく、ただ互いに気付かないふりをして、同じ場所に重なっているのだ。
ノイルはその境目を歩いていく。
やがて、細い路地の奥に一枚の黒い扉が見えた。ノイルが取手に触れるより先に、鍵がひとりでにかちゃりと音を立てて外れたようだった。
口元を僅かに緩め、扉を押し開ける。その向こうには、外から見た大きさとは到底釣り合わない空間が広がっていた。
天井からは無数の硝子瓶が吊り下げられ、その中には青白いひかりや淡い金色の煙、夜露のようなものが閉じ込められている。棚には指輪やペンダントや羽根飾り。ひとめ見るだけでは用途のわからない魔道具まで所狭しと並んでいた。香りは古い木と乾いた薬草、それから、ほんの少し薔薇に似ている。
店の奥に、ひとりの女が立っていた。
艶やかな長いぎんいろの髪に青白い肌。嫋やかな佇まいには人ならざる静けさがあり、その美貌は月明かりそのものをひとの形にしたようだった。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
女は優雅に一礼する。
「『黒百合の雫』へようこそ。お客様がこちらへお越しになるのは、いつも少しばかり不思議なことでございます」
ノイルは店内を見渡しながら、肩の力を抜いてにこりと微笑んだ。
「こんにちは。新しいネイルを探しているのだけど」
「まあ。ネイルポリッシュでございますか」
店主は棚の奥へ歩き、細い指で幾つもの小瓶を撫でる。その中からいくつかを選び出し、ノイルの前へととん、とん、と儀式めいた所作で以って並べ始めた。
「こちらでは、爪を美しく彩るだけではなく、ささやかな魔法を宿したものも取り扱っております」
「不思議な効果があるネイル? 良いね、面白そうだ」
差し出された小瓶の中身は、深いあおいろだった。夜空というよりも、夜の底に沈んだ海の色。傾けるたび、細かな銀の粒がゆっくりと流れる。
「普段は青系や黒を選ぶことが多いかな。……そうだね、夜の色が好きなのかも」
店主は微笑み、別の小瓶を取り出した。
黒とも青ともつかない濃い藍色。その底には、僅かな白銀の星の粒が潜んでいる。
「こちらは『星喰み』。塗っている間は、夜空の流れ星を少しだけ見つけやすくするまじないを秘めております」
「流れ星を?」
ノイルは瓶を目の高さまで持ち上げ、ひかりに透かした。
「随分と可愛い魔法だね」
「願い事をするには、少々便利かもしれませんね」
「良いね。そういうの好きだよ」
その言葉に呼応するように、漆黒の瞳の奥へちいさなひかりが宿る。
「……でも普段と違う色も試してみたいかな。似合いそうな色、ある?」
「では、こちらもおすすめでございます」
店主はその言葉にあまく目を細め、今度は淡い灰白色の瓶を手に取った。それは雪の上へ月光を注いだような、冷たくも柔らかな色彩だった。
「こちらなら、きっとお似合いになるでしょう」
ノイルは瓶を眺め、ちいさく首を傾げる。
「私に白っぽい色は、あんまり考えたことなかったな」
「ふふ。黒をお召しになる方ほど、淡い色が美しく映ることもございます」
店主は穏やかに微笑み、ノイルの目の高さまで小瓶をつい、と掲げてみせた。
「こちらは『月白の祝福』。身につけているあいだ、眠る前に見た夢を、ほんの少しだけ覚えていられる可能性が高くなるまじないを施してございます」
「ああ、それは素敵だ。真昼の微睡にも、よく似合いそう」
ノイルは二本の瓶を見比べた。どちらもおおきな奇跡ではない。
夜が見やすくなること。流れ星を見つけやすくなること。夢をほんの少しだけ、長く覚えていられること。たったそれだけのちいさな魔法。けれど、うつくしいものを身につける理由なんて、その程度で十分なのかもしれない。
「良い色だね。じゃあ、これも貰おうかな」
店主は二本の瓶を丁寧に包み始める。その手元を眺めながら、ノイルはふと尋ねた。
「ねえ。この店って、いつからここにあるの?」
「さて。いつからでございましょうね。……わたくし自身にも、よくわからないのです」
気付いた時には店があり、そうして、こうして客人が訪れる。それだけで十分でしょう? なんて。千年を生きた吸血鬼は、静かに微笑んだ。
「ふうん。不思議だね」
ノイルはそれ以上尋ねなかった。不思議なものは、不思議なままでも構わない。そういうもののほうが美しいこともある。
包みを受け取り、ゆっくりと扉へ向かう。
「またお越しくださいませ」
背後から店主の声が追いかけてくるから、ノイルは振り返って包みを軽く掲げた。
「うん。また来るよ」
扉を開ければそこには薄暗い路地があった。
数歩も歩けば、再び人間の暮らす街へ戻ることができる。電柱に自動販売機。コンビニの明かり、遠くを走る車の音。ほんの少し前まで存在していた異形たちの姿は、もうどこにもない。けれど、掌の中には確かな重みが残っている。
あおい小瓶と、しろい小瓶。明日はさて、どちらから先に塗ろうか――そんなことを考えながら、ノイルは夜の街を歩き出した。
ひとの世と人ならざるものの世は、薄い硝子のような境界を挟んで、今も静かに重なっている。そしてその境目のどこかには、黒百合の紋章を掲げたちいさな店がある。
いつからそこにあるのか、誰にもわからない。ただ、人ならざるものが正しい道を辿ったときだけ、その扉は静かに開く。
――『La Goutte du Lys Noir』。
黒百合の雫。
千年の吸血鬼が営む、夜の片隅の魔道具店である。