ぬくもりのありか
●My beloved
雪の降る夜だった。
けれど、この部屋のなかだけは、冬という季節から切り離されたようにあたたかかった。暖炉の火がぱちりと鳴り、橙色のひかりが壁を揺らしている。テーブルにはふたり分の料理が並び、焼きたての肉料理からは香ばしい匂いが立ちのぼっていた。粉砂糖を纏った焼き菓子に、硝子の器に盛られたちいさなデザート。蝋燭の炎はそれらをひとつずつ照らし、まるで食卓そのものが夜のなかに咲いたちいさな花園であるかのようだった。
その花園を、ましろの髪をした娘がたいそう熱心に眺めている。クラシカルな愛らしい髪色とそろいのましろのワンピース。膝の上に置かれた両手の爪には鮮やかな朱色。しろとあかという色彩の取り合わせは、雪原を彩るあかい果実にも似ていた。
ナギ・オルファンジア(宙からの堕慧仔・h05496)はじいっと料理を見つめている。その横顔には普段よりいくらか浮ついた気配があった。それを見逃すようなアダルヘルム・エーレンライヒ(夜に徒華・h05820)ではない。彼は黒いニットのカーディガンに身を包み、椅子へ深く腰掛けており、あかい瞳が向かいの恋人を楽しげに追っていた。
穏やかな時間だ。死も、傷も、明日へ持ち越される戦いの気配も、今夜だけは扉の外へ置き去りにしていいと思えるような、そんな夜だった。
「いつぞやの猫耳の件、忘れたとは言わせないからなぁ。今度はニャギ殿が付ける番では??」
ナギは一瞬目を瞬かせた。それから何を思ったのか、ててーん、とばかりに白い猫耳のカチューシャを頭へ載せた。髪の上にふわりとしろい、愛らしい耳がふたつ。ナギほんの少しだけ得意げに顎を持ち上げる。
「ふふん。今日のナギはとても寛容なのです」
「おや、まさか素直につけるとは……。今日はどうしたんだ?」
問い掛けられて、ナギは猫耳を指先でちょん、と触れた。
どうして、と言われても、答えは簡単だ。今日はクリスマスだから。そして、隣にいるのが彼だから。それだけで普段なら少しばかり勿体ぶってみせるような悪戯さえ、素直に差し出してしまえる気がした。
「ふは、もしや……美味しい料理がたくさん食べられるから、とてもはしゃいでいるな?」
それも図星だ。
ナギは料理から視線を離さぬまま、淡々と答えた。
「そう、おいしいごはんとデザートの前には何も考えられないとも無力とも言います」
アダルヘルムは堪えきれず、くつくつと喉で笑いながら肩を揺らす。
「ふふ、ご飯とデザートの前に無力なのは、何ともなっちゃんらしいなぁ」
その言葉に、ナギはようやく彼を見る。
淡い輝石の如き瞳が、蝋燭の炎を映して淡く揺らいだ。それはひとのかたちをしていても、その瞳の奥にあるものは人間のひかりとは少しばかり違う。けれど今夜ばかりはその不可思議な色彩も、ただ恋人を見つめるために存在している。
「……でも、食事に夢中で構ってくれないと、流石の俺も拗ねてしまうぞ?」
「んふ、ふ、拗ねてしまうのなら、では、君のお膝でごはんを食べましょうかね?」
言った本人は至って真剣で、アダルヘルムのほうが言葉を失ってしまった。
「む、膝の上とは幼女の様だなぁ。ほら、こうプラーンと」
そう言いながらも、彼はどこか嬉しそうだった。
「はい、乗せて下さいな」
両脇の下を持たれ、ナギの身体が本当に猫の子のように持ち上げられる。しろいワンピースの裾がふわりと揺れ、ふわふわの猫の耳も一緒に揺れた。
ぷらーん。
あまりにもされるがままなので、ついつい吹き出しそうになってしまう。やがて彼の膝へ収まったナギは、当然のように食卓へと向き直った。
「しかし、猫兼幼女扱いとは……では、お膝の上で伴侶らしくあーんされましょうね」
得意げな顔。いや、無表情なのだから正確には得意げな雰囲気だけだけれど。しかしアダルヘルムには、彼女が何を考えているのか手に取るように分かった。
この小憎らしくも愛らしい猫は、甘やかされる気満々なのだ。
ちいさく息を吐きながら、料理を取り分ける。こうして誰かのために皿を整えることなど、かつての彼にはほとんど縁がなかった。戦うために食べ、眠るために横になる。それだけだった人生のなかへ、いつの間にか『誰かと食卓を囲む』という時間が入り込んでいる。不思議で、ひどく心地よかった。
湯気とともに立ちのぼる香辛料の香りが、冬の夜にはよく似合う。アダルヘルムがグリューワインのカップを傾けていると、ナギの視線がそこへ吸い寄せられた。
「ルル君、ナギにもワイン下さい」
「……ちぇっ。見つかってしまったか」
ナギが手を差し出す。その素直さに、アダルヘルムは一瞬だけ目を細めた。
「仕方ないなぁ。承知したぞ」
差し出されたのはキンダープンシュ。温かなものには違いないが、それは酔い痴れるためのものではない。何も疑わず、一口――そして。
「……」
ナギのじとりとした視線がゆっくりとアダルヘルムへ向く。
「これはこれで……ですが、騙されませんよ。ノンアルではないですか」
唇がほんの少し尖る。
とはいえ、味そのものは気に入ったらしい。不満げなまま、もう一口飲んでいる。
「バレてしまったか、仕方ないな」
今度こそ、観念したようにナギのカップにあかいワインを注いだ。その様子を見ていたナギは満足げにカップを両手で包む。
あかい液体の向こうには、暖炉の炎が揺れていた。
世界には、もっと大きなものが数えきれないほど存在している。星の彼方から降りてきた異形の色彩も。幾度となく死を越えてきた騎士の運命も。けれど今夜の彼女にとって大切なのは、目の前の料理と、温かな酒と、隣にいるたったひとりのいとしいひとだけだった。
「あーんしてやろうか?」
それはからかい半分の申し出だった。けれどナギは、ぱかっと素直に口を開けると、夢中で舌鼓を打ちながらひとくち、もうひとくちと、次から次へもりもり食べる。
「む、うちのひな鳥は随分と素直だな」
言葉とは裏腹に、耳の先は僅かにあかい。それでもまた料理をひとくち分、ナギの口元へ運ぶ。そのたびナギは嬉しそうに、けれど無表情のまま口を開く。そのうちアダルヘルムのほうが照れ臭さに耐えられなくなったのか、ぽつりと意趣返しの言葉を溢す。
「……折角のクリスマスなんだ。口移しの方が良かったか?」
たぶん、冗談。
ナギはそこでようやくぴたりと動きを止めた。
「口移し、……君が? ナギが、ではなく?」
「む、ニャギならできると?」
「ナギはきっと出来ますよ!」
あまりにも自信満々な様子。アダルヘルムは何とも言えない顔をして、しばし沈黙した。この恋人は、ときどきこちらの想像を軽々と飛び越えてくる。だが、それもまた愛おしい。そう思ったところで、テーブルの上に並ぶ料理が視界へ入った。
「そうだ。俺の分の料理は残しておいてくれよ? またクッションの海に埋めて欲しくなければな!」
「ルル君の、分を残す……、……?」
視線が、徐々に逸れていく。
「おい、その反応――やっぱり一人で全部食べてしまうところだったな……!?」
咎めるような言葉に、ナギは神妙な顔で考え込む。
「このままでは、またクッション生き埋めの刑に……あれは身動きがなかなか取れないのです」
「まったく、自業自得だろう」
そう言いながらも、アダルヘルムの声は笑っている。
「む? おや、口元にソースが付いているみたいだぞ。夢中で食べるからだな、ふふ」
ナギが反射的に頬へ手をやる。そこへ、ほんの一瞬だけ柔らかなものが触れた。あまりに短くて、雪片が窓へ触れるよりも儚い。
それが口付けであると知れば、ナギは大きく瞬きをした。
「しかも今やクッションだけでなくぬいぐるみも追加されるやもしれません」
怒るでもなく、驚くでもなく、ただ淡々と続ける。その頬には、まだ微かな熱が残っている。
「ふは、お望み通りぬいぐるみもいっぱい追加してやろう」
そんな他愛もないやり取りをしながら、料理は少しずつ減っていった。
そして食後、暖炉の火が少しだけ低くなったころ。アダルヘルムはひとつの包みを手に取る。それを見つめる顔は、戦場で敵を睨むときよりも真剣だった。
何しろこれは武器ではない。ただ好きな相手へ、自分の気持ちを形にして渡すだけのもの。そのほうが、よほど難しい。
「メリークリスマス、という訳で。俺からのプレゼントだぞ」
彼は照れ隠しのように、少しぶっきらぼうな手つきで包みを押し付ける。ナギは受け取るやいなや、待ちきれないとばかりに包みを開く。
現れたのは、柔らかな薔薇のブーケを模したブランケットだった。肌触りがよく、指先を滑らせれば布が雪のように静かに沈む。
「素晴らしいですね、ふわふわで何と愛らしい!」
ナギはブランケットを両手で広げる。表情は変わらない。けれど、瞳だけがぽわぽわと柔らかなひかりを帯びて、声は無邪気な少女のように弾む。
その様子を見たアダルヘルムは少しだけ視線を逸らした。実は、自分用にも色違いをひとつ用意している。けれど、それは言わない。絶対に言わない。そんなことを言えば、きっとナギは嬉しそうにして、すぐに自分のものと並べて見せてくるに違いない。
ナギも自分の用意していたプレゼントを差し出す。ハートと花をかたどったクッション。受け取ったアダルヘルムは、目を細めた。今夜は、どうやらクッションがずいぶんと増えるらしい。
「もうこれはナギのブランケットですが、君の体に掛けてもとてもお似合いでしょうね、うんうん」
そう言うなり、
「よいしょ、」
身を乗り出した。
アダルヘルムの身体へ軽く乗り上げ、そのままふたりを丸ごと包むようにブランケットを広げる。薔薇の花に似た柔らかな布が肩を覆った。
「おっと。どうしたんだ? ふふ、今日は随分と悪戯ネコだな?」
目を丸くしたアダルヘルムを見て、ナギはちいさく首を傾け――そして、ほんの少し躊躇った。いつもならもっと簡単に言葉を選べる。けれどこれは、言葉だけでは足りないものだった。
「ああほら、じっとしていて」
「じっとって、おい……!?」
たどたどしい声。それから、唇に唇をそうっと押しつける。
本当に、触れるだけ。柔らかな接触は一瞬で終わる。けれど、たったそれだけでアダルヘルムの顔は見る間に薄赤く染まった。ナギは少しだけ身を引いて、彼の驚いた顔を見ている。それから、自分の唇へ指先を触れた。
胸の奥に、知らないひかりがともっている。自分が誰かを愛していると知るたびに、ひかりは次々と増えていく。
「……随分と熱烈な『クリスマスプレゼント』だな」
アダルヘルムはまだあかい顔をしている。それでも、逃げようとはしなかった。
「ふふ、然し……本当に悪い子だ、何処でそんなことを覚えて来たんだか」
そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに呟く。
ブランケットの下で、ナギの指先を探す。触れて、指を絡める。その仕草だけは、ひどく慎重だった。まるで壊れ物を扱うよう。ナギはその指を見つめて、それから、自分のほうからきゅっと握り返した。
「おや、ナギはいいこでしょう? ちゃんと君に愛情表現が出来ますもの」
アダルヘルムは、返す言葉を探すように沈黙した。
戦いしか知らぬ彼は酷く不器用に違いなくて。けれど、それでも。今夜だけは、一歩くらい踏み出してみてもいいと思った。
「……頑張ったご褒美は必要だろうか?」
耳元で囁けば、ナギの肩が僅かに揺れた。
擽ったそうにしながら、それでも逃げない。
「ご褒美を下さっても、美味しいごはんのお礼に私が差し上げるのでも構いません」
その言葉に、アダルヘルムはちいさく息を吐く。そうして、絡めた指へ少しだけ力を込めた。
「今宵、こうして居られることが、幸いなのだからね」
ナギの声は静かだった。
それは雪の夜に灯された、ちいさな燭台の炎のようだった。
彼女の言葉を聞きながら、アダルヘルムは窓の外を見る。雪はまだ降っていて、世界はしろく、音を失っている。こんな夜が来るとは、かつての自分は想像もしなかった。
死に戻りを繰り返し、傷を増やし、戦場の最前線だけを自分の居場所だと思っていた。けれど今は、彼女が隣にいてくれる。その事実が、不思議なほど自然なことになっていた。
ブランケットのなかで、ふたりの体温がゆっくり混ざっていく。それは何かを燃やす熱ではない。凍えた指先を包む湯のような、長い旅の果てに見つけた家の灯りのような。ただ静かに、生きていることを肯定する穏やかで優しい温度だった。
「これから、たくさん一緒におりましょう。ゆっくりと色々な君を見せてくださいね」
ナギの声はいつになく柔らかい。
彼女はきっと、まだ全てを知らない。
戦うこと以外の自分を。傷つかずに眠ることを、誰かの帰りを待つことを。明日の予定を、戦ではなく、ただ、ふたりで過ごす穏やかな時間だけで埋めていくことを。
少しずつ覚えていくのだろう。これから、ふたりで。
かたわらに寄り添う、この奇妙で愛おしい存在と一緒に。
アダルヘルムは、絡めた指を見つめ、それから、彼女へ視線を戻す。
「ああ。これからも俺の傍に居てくれるのなら……とても嬉しいよ」
その言葉を聞いて、ナギはほんの僅かに瞳を撓め、アダルヘルムの指をもう一度握り直した。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
テーブルの上には、食べ終えた皿。その隅には、ふたり分のグリューヴァイン。床には新しいクッション。それから、ふたりを包む薔薇のブランケット。
窓の向こうでは、雪が夜をしろく染めている。クリスマスという一日は、世界中で祝われている。街にはあかりが灯り、教会では鐘が鳴り、遠いどこかでは誰かが誰かのために贈り物を包んでいる。
けれど、ふたりにとって今夜の幸福は、それほど大きなものではなかった。
ただ隣にいること。同じ食卓を囲むこと。くだらないことで笑い合い、食べ過ぎを咎められ、悪戯をして、時折触れ合わせるほどの口付けを交わして。そうして、明日もまた隣にいる約束をすること。ただそれだけでよかった。
ナギはそっといとしいひとの肩へ頭を預ける。アダルヘルムもまた、その重みを受け止めるように身を寄せた。しろい猫耳が、彼の黒い髪へちょこんと触れている。
雪と夜。白と黒。朱色の爪とあかい瞳。
異なる色彩を持つふたりが、ひとつの柔らかな布のなかにいる。まるで世界そのものが、ふたりだけのために静かに包まれているようだった。
やがて蝋燭の炎がほんの少しだけ揺れる。ナギは目を閉じ、アダルヘルムは、彼女の手を離さない。聖夜は静かに更けていく。けれど、ふたりの時間を急かすものなど、どこにもありはしなかった。
これからもたくさん一緒にいるのだから。今日だけではなく、明日も、その先も。まだ見ぬ季節の、そのすべてを――ふたりで、ゆっくりと。