√デミ・オルクス・マギウス『礎』
●√
「――この化物!」
人と化物の境界はどこにあるのだろう。
もしも、それを自分と他者との差異を言うのならば、自分以外の全ては怪物なのではないか。
桂木・伊澄(普通の警視庁異能捜査官・h07447)は、幼い頃に思った。
目の前にいる人間の瞳。
そこに映る自分。
けれど、自分の瞳に映る彼はどうだろうか?
果たして人間と言えるだろうか。
どうしてそんなことを言うのだろうか。
疑問に答えてくれる人間は多くはなかった。まったくいなかったわけではないということだけが彼の人間性の救いであったことは言うまでもないだろう。
それは脳裏にこびり付いた記憶だった。
何度も何度もこすっても拭えぬ汚れめいた記憶だった。
化物と謗られた事自体は、別段構わないことだった。自分だって、こんな『眼』を持ちたくて生まれたわけではない。
この『眼』のせいで辛い目にあったことは、一度や二度ではない。
実験体のような扱いを受けて、当たり前のように痛みと苦しみとだけの生活に漬け込まれていた。
偶然にも助け出されて、今こうして普通の人間に紛れて生活することできている。
それは喜ばしいことだ。
けれど。
「結局、自分と他人の境目って何処にあるんだろうな」
彼の『魔眼』とて、万能ではないのだろう。
その境目というものは、『魔眼』は捉えてはくれない。教えてはくれない。
何を以て人間というのか。
何を以て化物というのか。
答えはでていない。
けれど、それでも『普通』ということに憧れてしまう。
『魔眼』の力は、自分を周囲から浮き上がらせる。
自負はあれど、自尊はない。
なぜなら、これは不要らない力だからだ。なければいい。『普通』は、こんな力など持ち得ていないのだ。
他人は違う。
自分は『化物』。
その自覚こそが、『普通』という得難い評価に繋がる。隠す。ひた隠す。
自分に特別なものはない。
特別なことは、差異だ。
人は、その差異を見つけては、排斥する。
「出る杭は打たれる、とはよく行ったものだよな」
息を吐き出す。
「なーに、黄昏れてんだよ」
「黄昏れてないよ。ただ、故事成語ってあるじゃあないか。あれって、出る杭は目立つとかそういう意味だよな」
「まあな」
クラスメイト。
伊澄も今年で高校生になっていた。
幼い頃は、その境遇から人間不信になっていたものであるが、年々『普通』というものを学び、それなりに上手く擬態することができるようになったと思う。
この人間の社会というものは、一人で生きるにはあまりにも大変なことが多すぎる。
少なくとも、自分の保護者としているオカルト小説家を見ているとそう思う。
彼にいわせれば、己はだいぶ丸くなったのだという。
『それはそれは可愛くないガキだったぜ』
うるせえ、と思う。
とは言え、自分でも思い当たる節というものがある。あの頃は若かった、などと老人を気取るつもりはないが、少なくとも高校生になってから思い返してみれば、なんて不義理な、斜に構えた可愛くない子供であっただろうとも思う。
自分だったら放り出しているかもしれないと伊澄は自分のことながら思った。
『普通』じゃない。
それを自覚して、伊澄は生きている。
『魔眼』の力を抑え、隠し、悟られないように上手く立ち回っている。
己の『魔眼』は、故事成語の『出る杭』なのだ。
知られれば、恐れられ、叩かれる。
打ち据えられる。
それは彼が汎神解剖機関にて人間災厄として認定されかけるほどに制御の効かぬ力を放っていた時を想起させた。
痛みと苦しみ。
脳裏にフラッシュバックする光景。
神経を締め付けるように、幻痛が体中に走る。
わかっている。
あれはもう過去のことだ、と。
「だからさ、『出る杭』っていうのは、他と違って優れたものってことなのならば、それが本当なら打たれても平気へいちゃらなはずなんだよな」
「頑丈ってことか? 確かにいわれてみればそうかもしれないな。でもさ、ぶっ叩かなくたっていいと思うんだよな」
クラスメイトの言葉に伊澄は顔を上げた。
「なんで?」
思わず、そう尋ねた。
どうして、そう思うのか、と。
「いや、別にいいじゃんね。他人とちょっと違ったってさ。多様性の時代だぜ、たよーせー」
クラスメイトはなんてことのないように笑った。
「いいから、飯食いにいこーぜ。飯。学食、今日の日替わりなんだと思う?」
「話変えすぎ。でもまあ、そうだな……日替わり、ハンバーグ定食じゃない?」
「ハンバーグて。普通かよ」
「いいじゃないか、『普通』。『普通』万歳」
伊澄は、笑う。
普通でいい。
魔眼の力などなくてもいい。『普通の人』として周囲に溶け込んで、集団の中で暮らす。それは素晴らしいことだ。
今もそうだ。
クラスメイトは友人と呼んで差し支えのないだろう。
それは『普通』だ。
そして、自分も『普通』だと思って接してくれている。
他愛のない、中身のない会話だって、心地よかった。意味があることが素晴らしいことなのではない。
意味があることを無意味の中に見いだせることこそが素晴らしいことなのだ。
けれど、やはり伊澄の『魔眼』は『見えて』しまう。
クラスメイトの肩に掴まる奇妙な怪異。
『普通』の人間には認識できない存在。
仮に見えていたとしても、それはきっと『忘れようとする力』によって記憶から消えてしまう。
だから、やりすごせばいい。
「みてるぅ?」
声が聞こえる。
見えるだけではない。
伊澄は、クラスメイトの腕から背に張り付く怪異を見た。
まるで虫のような体躯。青白いといより、胆汁のような色。吐き気を催すような造形に、色。
ぞわぞわと人の心の柔らかい部分を触るような怪異の姿に『魔眼』を抑えながら、伊澄は言葉を噤んだ。
「なあ、ほらやっぱり今日の日替わり定食、からあげじゃん。タルタル乗ってる! おい――『みてるぅ?』」
クラスメイトの言葉にかぶさるように、それ以上に彼の頭に覆いかぶさる異形の怪異。
総毛立つ。
放っておけば良い。
見えていないふりをすればいい。それが『普通』だ。普通であればいい。
こんな時『普通』は、見えない。
だから、素知らぬ顔をしていればいい。
上手くやれるだろうか?
やれないかもしれない。
「なあ、おい、早く行かねーと!」
そう言って食堂に走り出すとするクラスメイトの腕を掴む。
怪訝な顔の彼の目の前に伊澄は両手を打ち据えた。
猫だまし。
破裂音が掌と掌を打ち据えることによって響き渡り、クラスメイトは目を瞑った。
反射的に、だ。
瞬間、伊澄は己の『魔眼』の力を解放する。
煌めく光。
それは√能力であり、引き出したインビジブルのエネルギーによってクラスメイトに張り付いた怪異を一瞬で焼き切った。
「おい、おいおい! 急に猫だまししてなんだよ……あっ、おい! 抜け駆けか!? 抜け駆けなのか!?」
「早いもの勝ちかもしれないだろ」
そう言って、伊澄は笑って走り出す。
上手くごまかせただろうか。
怒る振りをして追いかけてくるクラスメイト。
彼に追いかけられながらも、伊澄は自分が思った以上に浮かれているのだということを知った。
そう、浮かれている。
自分が『普通』にできているということに。
だから、伊澄は思ったのだ。
自分が『普通』でいられるのは、この人間の社会があればこそだ。
人間社会の規範。
それこそが、己を人間にしてくれる。
「そーいえば、進路希望の紙、どーした? もう出した?」
クラスメイトの言葉に伊澄は、少し考える顔をした。
目の前にはハンバーグ。
箸で切り分けるようにしてつまみながら、白米の上にバウンドさせて運ぶ。
咀嚼し、少し考えるふりをした。
いや、考えるふりというより、間を持たせたかった。
すぐに答えるのはなんていうか、気恥ずかしかった。
「……警官になろうかと思ってる」
「けーかん? ケーカンって、あの警官?」
「そう、警察機構の。あの警官」
「マジか。いや、というか、大学は? 進学しねーの? いや、それよりまず警察学校か? 結構厳しいんじゃなかったけ?」
クラスメイトは、げー、と舌を出している。
確かに『普通』だったのならば、親のスネかじりながらモラトリアムを謳歌するものなのだろう。
けれど、伊澄は思う。
自分の『魔眼』は『普通』ではない。
もしかしたら、彼らと一緒にモラトリアムを楽しむのが普通なのかもしれない。
怪異とまるで無関係に。まるで見えていないかのように振る舞って、見過ごして生きれば良い。
だが、それができない性分であることはもう自分でもわかっていた。
自分の『普通でないもの』がなんのためにあるのかを考えた。
それはきっと『普通』の人達を守るためにあるのではないか。出る杭は打たれるのではない、と証明した。出る杭は、きっと他の杭を守るために、自ら頭を差し出したのではないか。
そう思うのだ。
他の杭は、友人たちでもある。普通に生きる人々でもある。
彼らがいるから、自分がいる。
それを自覚しているからこそ、伊澄は思うのだ。
守りたい。
役に立ちたい。
役割がほしい。『仏ではない』『化物』以外の役割が欲しいのだ。
「でもまー、目標があるのはいいことだよな。うん」
「素直に言うな、今日は」
「まーね。それって夢ってことじゃんね。他人の夢を笑うほど落ちぶれちゃいないぜ」
「そうかよ、なら、無事警官になって初任給もらったら奢ってやるから飯食いに行こうぜ」
「焼肉な」
「バカ言え、ファーストフードだ」
「そこは嘘でも焼肉っしょ」
「だから」
誰かのために。
この他愛ない日々を守るために『普通』ではない力を役立てる。
それが伊澄の真芯だった――。