緒言
●いのちの冠
春の森には冬の名残があった。
木々はまだ完全には目覚めていない。枝先には淡い緑の芽が膨らみ始めているものの、冬の間に剥き出しになった枝の多くは灰色のそらへ細い指を伸ばしたままだった。けれど、その足元にはもう春が来ている。
しろい花、黄色い花。名も知らない小さな紫の花。まだ寒さの残る風に揺られながら、それらは草地のあちこちで咲いていた。森の奥からちいさな街を見下ろすと、赤茶けた屋根が連なっていて――丁度その中央に座するように教会が建っていた。
古い石壁に煤けた尖塔。屋根の上の十字架。鐘楼から伸びる綱が風に揺れ、時刻を告げる鐘が鳴るたび、鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。
ヤエル・エーデルシュタインにとってその朝はすこしだけ違うものだった。
教会の裏手にある草地で、少女がせっせと花冠を作っていた。見つけた瞬間に、ヤエルは『それ』が欲しくてたまらなくなった。
理由などない。
しろい花が陽を受けている。黄色い花がその隙間から顔を出している。紫のちいさな花が、ところどころに混ざっている。綺麗だった。だから欲しかった。それだけ。ヤエルにとって、それは何よりも簡単な理屈だった。
「それ、ちょうだい」
「え?」
少女が顔を上げると、おひさまに愛されたいろの髪の毛がふわりと揺れた。
「わたしにちょうだい」
「い、いやよ」
ヤエルが花冠を指差せば、少女は花冠を胸へ抱き寄せ、ふるふるとかぶりを振った。
「わたしが作ったんだもの」
「だから?」
「だから、わたしのよ」
ヤエルは瞬きをする。少女の放った言葉の意味が、よく分からなかった。
「わたしも欲しい」
「でも、これはわたしのよ」
「じゃあ、貸して」
「いやよ」
少女の返事は同じだった。ヤエルは次第に眉を寄せていく。
あれは自分のものになるべきだ。それだけなのに。
「貸してよ」
「やだ!」
「なんで?」
「わたしのだから!」
その言葉を聞いた瞬間、ヤエルの中で、何かがぷつりと音を立てて切れてしまった。
「じゃあ、ちょうだい!」
「だから、やだってば!」
手が伸びる。少女が逃げる。ヤエルが追う。朝露を含んだ草が靴の下で潰れ、つめたい水が裾を濡らした。
「やめて! だめ!」
少女が花冠を背中へ隠す。ヤエルは咄嗟にその腕を掴んだ。
ふたりとも幼かった。ちからだって大して強くない。それでも、欲しいものを前にしたヤエルには加減というものがなかった。
少女が転ぶ。ヤエルも転ぶ。しろい花がひとつ、地面に落ちた。踏み付けられた黄色い花弁が泥に塗れる。
「あっ、」
少女が声を上げる。けれどヤエルは花冠だけを見ていた。
欲しい。欲しい。
だから手を伸ばす。少女が泣けば、程なくして誰かが止めに来る足音が聞こえた。
「ヤエルちゃん、やめなさい!」
「いや!」
手を振り払えば、別の子どもが近づく。
「クララちゃんが作ったんだから」
「知らない!」
足が当たった。子どもが尻餅をついて、泣き声が重なる。
花冠を掴んだ。少女も決して離さない。細い茎が、一本。また一本。ぷつり、ぷつりと切れていく。最後には輪がふたつに裂けた。少女は大粒の涙を溢しながら、残った花冠を抱えて走っていった。
ヤエルの手には何も残らなかった。
あるのはほんの少しの花弁だけ。それすら、指の間から風に飛ばされていく。
「……やだ」
胸の奥が痛かった。
罪悪感などではない。ただ、ただ、『欲しいものが手に入らなかった』という、悔しさだけが焼き付いている。
「やだ……」
遠くにいる子どもたちの視線が、嫌だった。心配しているのか、呆れているのか。それとも怒っているのか。|茨娘《ドーン・ブッシュ》には分からない。ただ、得体の知れない不快感だけがあった。
誰も近付いてこない。誰も自分の欲しいものをくれない。
誰も、自分を抱きしめてくれない。
ヤエルは膝を抱えた。黒い髪が落ち掛かって、涙が膝にぽたりと落ちた。森の木々がざわめいている。教会の鐘が遠くで鳴って、ヤエルの頭上を通り過ぎていく。
誰も来ない。誰も来てくれない。
そう思った瞬間、陽射しが、ふっと遮られた。
草の上に細長い影が落ち、ヤエルは恐る恐る顔を上げた――その先に、男の子が立っていた。自分とよく似た黒い髪が春の風に揺れている。彼も教会から来たのだろう。しろいシャツの袖には、少しだけ泥がついていた。
「ごめんね」
男の子は泣き腫らしたヤエルの瞳を見ると、困ったように笑ってみせた。
「妹が。凄く大事だったみたい」
「……妹?」
「うん。クララのこと」
男の子は教会のほうを振り返り、それから、手にしていたものを見せた。さっきのものより少し歪んでいるけれど、それは確かに花冠だった。
「あんまり上手く作れなかったんだけど」
男の子は照れくさそうに笑う。
ヤエルは泣くのも忘れて、その子のことをじっと見詰めていた。
「もらってくれる?」
湿った花のにおいがした。土と若葉と、つめたい朝露のにおい。それから、かすかに、男の子の服に染みついた薪の煙のにおい。男の子は少し屈むと、花冠をヤエルの頭へと載せた。
「うん」
彼は満足そうに頷いた。
「似合うよ」
世界が、ぱっと明るくなった気がした。
さっきまで何もかも灰色だったのに。花が、綺麗に見える。そらがあおく見える。森の緑が、眩しい。遠くの教会さえ少しだけ優しい場所に見えた。胸の奥に詰まっていた悲しさが、嘘みたいに消えていく。
「……きみの、なまえは?」
「ぼく?」
男の子――ヨシュア・ヴァルトシュタイン(「森の石」・h09600)が目を丸くする。
それから、笑った。
「ヨシュア。ヨシュアだよ」
「……わたし、ヤエル」
「知ってるよ。ヤエルちゃん」
その呼び方が、とても嬉しかった。
ヤエルはヨシュアの手を握った。その手を握っていると、世界の全部が自分の味方になったような気がした。花冠も、森も。そらも。陽のひかりも――そして、この男の子も。みんな、自分のものになったような気がした。
ヤエルは知らなかった。
それが恋と名のつけられた淡い感情なのか。それとも愛という、世界に唯一のひかりだったのか。ただ、この男の子だけは絶対に手放したくないと。ヤエルはこの瞬間、確信めいた思いをその胸に抱いていた。
● 普遍なる『あい』
それから、ヤエルは教会へ通うようになった。
教会が好きだったわけではない。祈りは退屈だったし、司祭の話は長い。聖書の朗読も、ヤエルには面白く感じられなかった。窓の外を見れば森がある。森にはもっと面白いものがある。
ちいさな獣に鳥。知らない花、苔、水――そして何より、ヨシュアがいる。
教会の鐘が鳴ると、ヤエルは屋敷をそうっと抜け出した。
朝の街はまだ冷たい。石畳には夜露が残り、馬車が通った跡に泥が溜まっている。街の人々が忙しそうに動いている。けれど、ヤエルにはそれらの全てが関係なかった。ヨシュアが来るまで、街の入り口で待つ。最初にヤエルを見つけると、ヨシュアはいつも驚いた顔をしていた。
それからふたりで森へ行く。
森は季節ごとに姿を変えた。春は色とりどりの花。夏は深く、青々と伸びるみどり。秋には黄金のいろ。冬は一面の雪が。ヤエルにとって、ヨシュアと一緒に歩く森はいつでも宝物でいっぱいだった。
秋には、あかい木の実があった。
「これ、食べられる?」
「うん。たぶん……毒じゃないと思う」
「じゃあ食べて」
「ぼくが?」
「うん」
ヨシュアは笑った。
「ヤエルちゃんが先に食べてよ」
「やだ」
「じゃあふたりで食べようか」
ふたりで一粒ずつ食べる。甘くて、少しだけ酸っぱかった。
冬には、雪の下からちいさな石を見つけた。
透明で、ひかりを当てるとあおくきらきらと輝いた。
「これ、きれい」
「そうだね」
「欲しい!」
「いいよ。……宝石は、ぼくの持ってるおカネじゃ買えないから、大きくなったらね」
ヤエルはそれを自分だけの宝箱へ入れた。
石や羽根、木の実や花に、ちいさな硝子片。何でも入れた。そして、そのほとんどはヨシュアが見つけてくれたものだった。
「やっぱり、わたしのことを分かってくれるのはヨシュくんだけだよ」
そう言えば、ヨシュアは少しだけ困ったように微笑んだ。
「そんなにぼく、分かりやすいかな」
「ちがうよ、わたしのことが分かるの」
ヨシュアは笑った。
「それなら、そうかもしれないね」
その声を聞くだけで、ヤエルは嬉しかった。ヨシュアだけが、自分のことを本当に理解してくれる。だから、ヨシュアの手を強く握った。
決して、離れないように。
●仔羊の血
けれど、ヨシュアにはヤエル以外にも大切なものがあった。それが、ヤエルにはどうしても理解できなかった。
教会の子どもたち。
ヨシュアは彼らを大切にしていた。それらをひとつ知るたび、ヤエルは胸の中がざらざらと嫌な音を立てていくのを感じて、とても不愉快だった。
昼下がり。
教会の庭には初夏の花が咲いていた。古い石壁の隙間から蔓が伸び、しろい花が幾つも咲いている。噴水の水は澄んでいて、陽のひかりを反射しながら絶えず流れていた。ヨシュアはベネディクトと一緒に薪を運んでおり、ヤエルはそれをじっと見ていた。
面白くなかった。
ベネディクトが笑って、ヨシュアも笑う。ヤエルは花を一輪摘んで、それを踏み潰した。花弁が靴の下で潰れる。それでも気持ちは晴れなかった。
「ヤエルちゃん、どうしたの?」
「何もしてないよ」
ヨシュアは地面の花を見る。
それからヤエルを見た。
「……花、踏んだ?」
「知らない」
「そっか」
ヨシュアは怒らなかった。それが、少しだけ嬉しかった。
「ねえ」
「うん?」
「わたしとベネディクトくん、どっちが好き?」
ヨシュアは困ったように眉を下げた。
「比べられないよ」
「じゃあ、いま決めて」
胸の奥が、じくじくと熱くなる。言葉尻が強く、低くなっていく。すっかりへそを曲げてしまったヤエルを見つめ、ヨシュアはしばらく考え込んだ。
「ヤエルちゃんも大事だし、ベネディクトにい様も大事だよ」
「やだ、やだ! わたしだけ大事にして!」
「ううん……でも、ヤエルちゃんは特別だよ」
「!」
その一言で、ヤエルはすべてを許した。
けれど、心の中にはちいさな棘が残る。ヨシュアの中には、自分以外の人間がいる。それがどうしても許せなかった。
●沈黙、それから、祈り
クララがまた花冠を作っていた。
しろい小花。黄色い花。薄紫の花。あの日と同じ。ヤエルはそれを見た瞬間、胸の奥がざわついた。少女は花冠を頭に載せて、嬉しそうに笑っていた。
「見て!」
ヨシュアが振り返る。
「綺麗だね」
クララが笑う。その笑顔を見た瞬間に、ヤエルは捥ぎ取るように花冠を奪った。
「ヤエルちゃん!」
クララが叫ぶ。
ヤエルは走った。教会の庭を抜け、石畳を走る。花冠を抱えながら。
クララが追いかけてくる。
「返して!」
「やだ! わたしのだもん!」
また、同じ。
クララが転んだ。膝を擦りむいて、血が滲む。ヤエルはそれを見ても止まらなかった。少女が泣き出し、ヨシュアが駆け寄ってくる。
「クララ!」
ヨシュアは膝をついて、クララの傷を見る。
ヤエルは花冠を持ったまま立ち尽くしていた。胸の奥が少しだけ痛かったのは、クララを泣かせてしまったからではない。ヨシュアがクララを心配している。自分ではない。そのことが嫌だった。
「ヤエルちゃん」
ヨシュアがこちらを見る。
あかいひとみが、いつになく真剣ないろを帯びていた。
「駄目だよ、ヒトのものを取ったら」
「……やだ! 全部わたしのにしなきゃやだ!」
「クララが悲しむでしょ。ちゃんと貸してって言えば、きっと貸してくれるはずだから」
「知らない、……知らない!」
ヤエルは花冠を地面へ叩きつけて走り出す。森へ。木々の間へ。葉を掻き分ける。枝が腕に当たって、土に足を取られる。それでも走った。走り続けた。
森の奥で、ヤエルは倒木の上に座った。
木漏れ日が頬に落ち、遠くでは水が流れている。世界は綺麗なままだった。それなのに胸がぎゅっと苦しくて、少女は声を押し殺して泣いた。
どうして。
どうして自分だけを見てくれないの。
どうして。
その問いには、誰も答えてくれるひとはいなかった。
●ふたりの証人
誰かに何かを分けるとき。誰かを慰めるとき。誰かを許すとき。誰かが自分を傷つけても、怒らずに笑うとき。ヨシュアはいつも『愛』という言葉を使いたがった。
「愛って何?」
ある夕方にヤエルは訊いた。
教会の屋根が夕陽に染まっていた。西のそらは次第にいろを変えていく。森の木々は黒い影になり、その向こうから夜が少しずつ押し寄せていた。教会の鐘が夕べの祈りを告げる。そんな街を、ヤエルとヨシュアは教会の階段に座って眺めていた。
「愛?」
「好きっていうこと?」
「く、ふふ。それだけじゃないよ」
「じゃあ、何?」
ヨシュアは少しだけ考える所作を挟む。
「相手のことを大切に思うことかな」
「わたし、ヨシュくんを大切に思ってるよ。……これって愛?」
「そうかもしれないね」
ヤエルは嬉しくなった。
けれど、次の言葉を聞いて、すぐに眉を寄せた。
「でも、愛って、自分が我慢することもあるんだ」
「……どうして?」
「相手のためだからだよ」
また、そんなことを言う。
ヨシュアは誰かにもらったものは『愛が籠ってるから』大切にしているけれど、そうではないものはすぐに他の誰かにあげてしまうことが、ヤエルには不思議でならなかった。
「どうして他のヒトのことを考えなきゃ駄目なの? そんなのヘンだよ」
彼が誰かに何かをあげるのは嫌だから、全部自分が貰ってしまいたかったのに。それだけは怖い顔をして『これは別のヒトのものだから駄目だよ』と言うヨシュアに、どうしても逆らえないことも気に入らなかった。
「ぼくは、みんなが笑ってくれたらそれが一番良いかな」
「いや」
ヨシュアが言い終わるよりも早く、ヤエルは否を唱えた。
あかいひとみが、ぱちりと瞬く。
「愛は誰もに分け与えて、誰とも分かち合わなくちゃいけないものなんだ」
「……そんなの、ヘン! だってそれじゃわたしは全然幸せじゃないもん。どうしてわたしのものにしちゃいけないの? 大事なものほど、自分だけのものにしたいんじゃないの?」
幸せになるためにそうするんだって言うのなら、自分には全然、ちっとも必要ないことだ。だって、欲しいものは欲しいのだし、要らないものは要らないのだから。
誰かに自分のものを分け与えて、悲しかったり悔しかったり、残念だったりすることを受け入れなければならないことが『愛』だというのなら、そんなもの気持ちが悪い、絶対に受け入れられない。
「……そっか」
それ以上、ふたりは何も言わなかった。
ヤエルはヨシュアの肩へ頭を預けた。あたたかい。このぬくもりがあるのなら、愛が何なのかなんて、どうでもよかった。
自分がヨシュアを欲しいと思う。
ヨシュアも自分を好きだと言ってくれる。それだけで十分だった。
●予兆
秋が来て、森はきんいろに染まった。
風が吹くたびに木々の葉が舞い落ち、地面には何層もの落ち葉が積もり、歩くたびに乾いた音を立てた。教会の煙突からは朝晩になると煙が上がる。冬へ向けて薪が積まれ、窓には冷気を防ぐための布が掛けられた。ヤエルはそんな季節が嫌いだった。理由は分からないけれど、秋になると何となく胸がざわついた。
そして、その年の秋――父と母が、大きな街へ行くことを告げた。
「栄転なのよ。もっと大きな家になるわ」
「もっと綺麗な服も買ってあげよう」
母は嬉しそうだった。父も笑った。だが、
「行かない」
「ヤエル?」
「もう決まったことなのよ」
「嫌!」
屋敷の窓から見えるそらは、薄い灰色だった。庭には落ち葉が積もっている。風が吹くたびに木の葉が舞い上がった。ヤエルは泣いて、そして叫んだ。床を叩いた。皿を投げて、家具を思い切り蹴った。
「ヨシュくんのところに行く!」
「もう会えなくなるわけじゃないでしょう」
「一緒にいられれば良かったのに! どうして離れなきゃならないの!?」
「新しい街でも――」
「嫌! 大きい街になんか行きたくない、もっと良い暮らしなんか要らない!」
「ヤエル、聞きなさい」
「嫌ったら、嫌!」
その日の夕方、ヤエルは窓辺に立って遠くの森を見ていた。
あそこに、ヨシュアがいる。秋の森で。きっと落ち葉を踏みながら歩いている。きっと、自分のことを待っている。そう信じた。
翌朝、ヤエルは馬車に無理矢理乗せられた。
車輪が回り、石畳を踏む。街が流れていく。教会がちいさくなっていく。森が遠ざかる。ヤエルはそれを止めたくて、馬車の窓を強く叩いた。
「戻って!」
誰も止めてくれない。
「戻ってよ!」
馬車は進む。
「ヨシュくん!」
声が枯れる。口の中に鉄の味が広がっても、それでも声を張り続けた。彼だけがいてくれたらよかった。彼さえいれば、自分はどうだって良かった。
それなのに、どうして。
どうして。
「――ヨシュくん!」
最後に見えたのは秋の森だった。
きんいろの葉が風に舞っていた。それが、憎らしいほどに変わらずに綺麗だった。
ヤエルはその瞬間に思った。
綺麗なものは、全部自分のものにしたい。そうすれば、二度と失わなくて済む――それは幼い少女の胸に初めて芽生えた、ひどく歪な執着のかたちだった。
●新天新地
十歳の誕生日。
窓の外には雪が降っていた。大きな街の雪は、森の雪とは違って見えた。しろく積もっても、すぐに人の足跡で汚れる。馬車の車輪が泥を跳ねる。屋根から落ちた雪が石畳の隅に黒く溜まっている。それでも、空から降ってくる雪だけは綺麗だった。
ヤエルの部屋には大きなケーキが置かれていた。しろい砂糖衣にあかい果実。ぎんいろの飾りに、蝋燭。テーブルには、贈り物も幾つか並んでいる。
けれど。
「もっと欲しい。これだけなの?」
「十分でしょう」
「嫌」
窓の外では雪が降っている。しろい雪片が風に吹かれて窓硝子へぶつかる。
母が溜息を吐く。父が苦笑する。
「十歳にもなったんだから、少しは我慢を覚えなさい」
その言葉が嫌だった。
「……ヨシュくんに会いたい」
父と母が顔を見合わせた。
「誰のことだい?」
「そんな子、知らないわ」
「いるの! ヨシュくんなら、わたしのこと何でも分かってくれるもん。わたしはヘンじゃないって言ってくれるもん!」
「ヤエル」
「いるもん!」
「もう昔のことでしょう」
「違う!」
どうして。
どうして誰も分かってくれないの。
「ヨシュくんに会いたい!」
「無理だ。もう、あの街にはいないさ」
「どうして? どうしてそんなことがわかるの!」
「どうしてもだ」
「じゃあ探して!」
「そんなこと、」
「……パパとママなんて、大っ嫌い!!」
いつもの言葉。いつもの癇癪。
その、はずだった。
「――死んじゃえばいいんだ!」
その瞬間に、世界が止まった。
蝋燭の炎が揺れ、雪が窓の外で静止したように見えた。時計の針の音が消える。
そうして、胸のいちばん奥深くで、ぱちん、と何かが弾けた。痛みではない。寧ろ、足りなかったものが、突然すべて満たされるような感覚だった。
世界の裏側が見える。
人間の魂も、夢や祈りも。
恐怖、信仰。契約。命のありか。炎。硫黄――そして終焉。すべてが繋がる。
|経典の魔《あくま》。
名前。自分の、名前。
人間の想像が形を得たもの。魂を奪うもの。終焉へ人間を連れていくもの。それから――ヨシュア。その名を思っただけで、胸の奥が歓喜に震えた。
分かった。漸く分かったのだ。
なぜ。
なぜ、あの子だけが特別だったのか。
なぜ、あの子だけを欲しかったのか。
なぜ、誰かがあの子へ触れるだけで嫌だったのか。
なぜ、あの子の声を聞くだけで世界が明るくなったのか。
ヨシュアは、自分の半分。自分も、ヨシュアの半分。本来はひとつの存在だった。ひとつとして生まれ、終焉を齎すはずだった。それなのに、分かたれてしまった。
「……ああ」
ヤエルは笑った。
目の前に父と母が倒れている。母のてのひらから、あおいリボンがはらりと落ちる。しろい床の上へ、静かに。ヤエルはそれを拾い上げた。
綺麗だった。ひかりを受けて、淡いあおいろがぎんいろに見える。それを眺めながら、ヤエルは笑った。
「そうだったんだ」
怖くなかった。悲しくもなかった。
嬉しかった。
自分がずっと感じていたものに、初めて名前がついたから。自分が欲しかったものに、理由があったから。ヨシュアを欲しがることは、間違いではなかったのだから。
当然だった。
本能だった。
運命だった。
衣服が裂ける。黒い翼がゆっくりと開いて、部屋の壁いっぱいに広がる。ひらいたばかりの翼が音もなく揺れ、窓から冷たい風が入ってくる。ヤエルは自分の姿を窓硝子に映った影で見た。大きな角も、黒い翼も。怖いとは思わなかった。綺麗だと思った。
新しい自分。本当の自分。ようやく見つけた、自分。
窓の外を見た。遠い。あの街は、遠い。けれど、飛べる。
もう馬車なんか要らない。誰かに連れて行ってもらう必要もない。自分で行ける。自分で欲しいものを取りに行ける。
けれど、今すぐヨシュアのところへ行く必要はない。
世界には、綺麗なものがたくさんある。大きな街には、たくさんの宝物がある。
王侯貴族の宝石や、教会の聖遺物。錬金術師たちが何年も掛けて作った品。古い絵画に楽器、本。誰かが何十年もかけて育てた庭、誰かが大切に守ってきた家。誰かが愛しているもの。それらは全部『価値』がある。
だから、自分のものにすればいい。誰にも渡さない。誰にも取らせない。失わないように。奪われないように。全部、全部、自分のものにする。
その最後に、ヨシュアをもらう。そうして、ヨシュアに殺される。そうすれば――ふたりはひとつになれる。それは、この世で最もうつくしいことだと思った。ヤエルには、それ以外の結末など考えられなかった。
「待っててね」
窓辺に立ったまま、少女は呟いた。
雪が降っている。月は雲に隠れている。
街の明かりが雪へ反射して、夜空そのものがしろく霞んでいた。
「|おにいちゃん《・・・・・・》」
ヨシュアは、きっと自分を覚えている。花冠のことも、森で起こったことも。手を繋いだことも。全部。きっと覚えている。
そして、いつか。また会える。そのときには、ヨシュアも分かるだろう。
自分たちが何なのか。どうして出会ったのか。どうして離れてしまったのか。どうして、もう一度ひとつににならなくてはならないのかを。
「愛なんて下らないものは、早く捨ててね」
少女はきゃらきゃらと可笑しげに笑う。それは、七歳の春に花冠をもらったときと、ほとんど変わらない笑顔だった。
「わたしたちが、本当にやらなくちゃいけなかったことをやらなくちゃ」
黒い翼が大きく揺れる。窓から雪が舞い込む。床に落ちた雪は、すぐに溶けてちいさな水滴になった。その水滴へ、蝋燭の炎が映っている。
父も、母も、もう動かない。
ヤエルは振り返らなかった。彼らが死んだことに、大きな意味を感じていなかった。
自分の邪魔をした。自分の願いを聞かなかった。だから死んだ。花冠を壊したときと、大して変わらない。欲しいものを邪魔するものがあれば、取り除けばいい。少女にとって、それはあまりにも自然なことだった。
雪の降る街の向こうに、夜が広がっている。そのさらに向こうには森がある。森の向こうには、あのちいさな街がある。そして、その街にはヨシュアがいる。
雪の中へ一歩踏み出す。黒い翼が開いて、しろい雪の夜に黒い影が浮かぶ。それは天使のようでもあり、ああ、正しく『あくま』のようでもあっただろう。
人間が夢見た『悪』のかたち。
人間が恐れた『終焉』のかたち。
ヤエルはそらを見上げた。雲の隙間から、月が見えた。そのひかりを見て、ヤエルは不意に、あの春の日のことを思い出した。花冠に、ヨシュアの手。優しい声。似合うよ、と言ってくれたこと。たったそれだけで胸の奥が温かくなる。だからヨシュアも、きっと喜んでくれる。
自分が集めたものを見せたら。綺麗なものを全部、自分のものにしたら。世界で一番綺麗なものを、最後にヨシュアへあげたなら。きっと。きっと、笑ってくれる。
その笑顔が欲しい。たったそれだけが、欲しい。
故に少女は宵のそらへと飛び立った。雪の降る夜へ。未だ誰の痛みも理解しないまま。たったひとつの願いだけを胸に抱いて。世界の終わりへ続くそらを、嬉しそうに、無邪気に。まるで春の野原へ遊びに行くように飛んでいく――そうして、うたう。幼い日の花冠をくれた男の子へ、最初で最後の、約束を告げるように。
「――本当のパパとママを、喜ばせてあげようね!」