屍蝋の仔
●視肉
闇が澱んだ油のように、重く、重く纏わりついてくる。
ものの輪郭が分からないほどの昏い、陰気なじっとりとした廃屋の中から不釣り合いなほどに張り上げられた歓喜の声が絶えず響き渡っていた。
「我らが母よ、慈しみ深きものよ!」
「我らが母よ、その恩寵に祝福あれ!」
顔までもを覆い隠すローブに身を包んだひとのかたちが幾つも、幾つも嗤っている。
彼らの中心に座するそれは赤黒くぶよぶよとした不定形の肉の塊であった。幼い子どもが母を探すかのようにうぞうぞと触手を這わせて地を蠢くその姿に、黒衣のものたちは目を血走らせながら目に見えぬ母なるものからの授かり物に狂喜していた。
そんな狂乱の宴を外から観測する傍観者の姿があった。
隻眼を眇めながら狂信者たちの様子をただ黙って見据えていたのは、束の間の『ぬか喜び』に浸らせてやろうという彼なりの慈悲であったのか。
「凡愚には手に余るものだと云うのに。……まあ、そうさな。これを吸い終わる程度の時間なら構うまいよ」
これは『教育』である。
愚かなる無辜の民衆に何が正しいかを示す良い機会だ。
風はもう止んでいた。紫煙が一筋、昏い空に向かってゆらゆらと糸のように立ち昇っていく。
男の名はリンドー・スミス。
連邦|怪異収《FBPC》容局を名乗る――簒奪者のひとりだった。
●兆し
「星を視たの」
暗い、昏い。閉ざされた夜を突き破らんとする、血肉が如く赤黒いひかりを放つ星が。
おぞましいものをみた。そう告げて唇を震わせたアン・ロワ(彩羽・h00005)は一度だけぎゅっと強く目を瞑ったのちに己のつとめを果たさねばならぬと意を決し、顔を上げるとましろの法衣の裾を摘んで集まった√能力者たちにちいさくお辞儀をして見せた。
「みんなに向かってほしいのは、√汎神解剖機関のニホンよ」
仔産みの女神『クヴァリフ』。それは数多の怪異の母たる仔産みの女神。
人間を取り込み、忘我のうちに自らの仔として変異させる。まさにその女神の仔こそが今回の鍵になるのだとアンは語る。
「彼女を信奉するひとびとに、仔産みの女神は自らの仔を授けるの。あたしが視たのは、そんな、ほんの少し先の未来」
狂信者たちが密かに儀式を執り行っている廃墟の中に、『それ』は存在する。
怪異の幼生を研究することで人類の延命に利用可能な|新物質《ニューパワー》を得られる可能性は決して低くない。けれど、その力を欲するのは簒奪者にも同じこと。
「敵はひとりではないの。それは儀式が成功した直後のことよ。『リンドー・スミス』と名乗る簒奪者が、クヴァリフの仔を奪いにやってくるの」
即ち√能力者たちは、狂信者たちの暴挙を制圧すると同時に簒奪者の蛮行も食い止めなければならないということ。
決して容易ではないだろう。それでも。
「今はまだ無垢なその魂が悪しきものに染まってしまうよりも前に……どうか、おねがい」
みんなを信じているからと。祈るアンの視線の先に、遠く、星が輝いていた。
第1章 冒険 『カルト教団調査』

●虚なる影
この空間だけ時が奇妙な流れ方をしているかのようだった。
内も外も確かに闇の中に閉ざされている。とうに見捨てられた筈の建物の中で、生と死の境界線が曖昧になったかのような、湿り気を帯びた黴と埃の混じり合った臭いが辺りに充満していた。
惣暗の中に脚を踏み入れ――いや。実際にはほんの少し風が揺れただけ。気配だけを薄らと漂わせながら、誰にも気付かれることなく『そこに居る』のは、かり|そめのか《実体化》らだから戒めを解いた東雲・夜一(白黒幽霊・h05719)であった。
夜。暗闇こそ己が庭と呼ぶに相応しい。月明かりさえも厭うように慎重に影の中を進めば、次第に張り詰めた空気を破るような笑い声が幾つも響いた。恐らくはそう、今まさに彼らの儀式なるものが成功したのであろう。
最早呼吸の仕方さえ曖昧なこの身なれど、意識を集中させれば最低限の吐息さえ殺せる。そうしてそのまま微かに漏れる空気だけが夜闇の中へ溶けていった。
「――、」
舌を打ちそうになって空気を噛む。夜一の行手を阻むかのように聳える瓦礫の一角の周囲には、嵐か何かの影響だろうか、大量の厚い硝子片が散らばっている。
硝子程度で傷付くような肉のからだはとうに失くして久しいが、それで大きな音を立ててしまっては元も子もない――で、あれば。
インビジブル・ダイブ。
モノクロームの輪郭にノイズが奔り、僅かに残されていた気配さえもが闇に溶けて消えていく。かと思えば、夜一の身体は煙が風に運ばれるかの如く音もなくひと飛びで瓦礫の山を追い越していた。
彼らは自身と薄氷の膜を隔てた程度にしか変わらぬもの。一体どれほどの犠牲がこの廃墟の中に刻まれているのだろうか。ひとのかたちであったり、弱々しい獣のすがたであったり。視認しない方が難しいくらいに漂う|透明な存在《インビジブル》の多さに形の良い眉を顰めながら、夜一は生きたものの気配がする方へと脚を早めた。
●紫煙の先
カルト教団による邪神召喚の儀。『よくある|こと《ヤマ》だ』。警視|庁異能捜《カミガリ》査官たる静寂・恭兵(花守り・h00274)にとっては、の話である。
終末論者の末路であったり、寄る辺を求めて深淵に手を掛けてしまった存在であったり。多くは『カネ』の問題、人間同士の諍い程度に留まるが、時折『カミ』に触れてしまう者がいる。今回もきっとそういう手合いのものなのだろう。
だが。
「……クヴァリフ、か」
この黄昏の世界で仔産みの女神を召喚せんとする狂信者は決して少なくない。一部のものに至っては彼の女神を利用できることさえも知り得ている。
それでも、だとしても。多くは至ることが出来ずに、直向きにかたちなき神の姿を崇め救いを求めるだけの存在が殆どだった。
だからこそ解せぬ。刑事の勘と敢えて言おう。この舞台は、『あまりにも整いすぎていた』。
「(まずは現場への侵入、だな)」
携帯灰皿に吸い殻を押し込めば喉の奥にいがらっぽさと少しばかり視界の冴えが残る。
踏み出したその先で、隘路とも呼べるほどの瓦礫の合間を縫うように、出来得る限り慎重に脚を運ぶ。そんな緊張感の中でも、場数の分だけ恭兵には想いを巡らせるだけの幾分かの余裕があった。
|新物質《ニューパワー》、大いに結構。
人類の存続のために使われるのであれば邪神の落とし仔とて最大限利用するべきだ。……だが、それを奪い合い人間同士が争い啀み合っては本末転倒のような気がしてならない。
「(事件が起こってからでないと動けない。刑事ってモンは厄介だよ、全く)」
狂信者の宴を狙うあの男も。教育などと嘯くが、それが守るべき命にとっての救いになるとは到底思えなかった。
とにかく、今は進まなくては。
影に脚を浸すように。|静寂《シジ》と呼ばれる男は一人、足音ひとつ立てずに闇の更に奥深くへと進んでいった。
●魔祓の陰
仔産みの女神『クヴァリフ』より産み落とされたもの。
それ自体は然したる戦闘力を持たぬものの、他の怪異や√能力者と融合することで宿主の戦闘力を多大に増幅させると云う。
「……せめて悪しき者の手に渡らぬようにしなければなりませんね」
花のかんばせが俯くことで艶やかな黒い髪がはらりと零れ、篠宮・詩乃(魔血ノ巫女・h05394)の憂いを帯びた横顔を僅かに隠す。
悪しき者の手に染まれば正しく女神の思うままに。けれど、彼らの――或いは、今は未だ姿を見せぬ『彼』の思い通りにならなければ? その膨大な力を究明することで、人類のちいさな希望になり得るのならと。詩乃は本来己が厭う|魔性《陰》の力を呼び起こす。
「(実を言うと、隠密行動はあまり得意な分野ではないのですが)」
陰は影となり、影は闇となり詩乃の存在そのものをまるで暗澹たる空気に溶かしてしまったかのように掻き消してしまう。気配までを殺すことは出来なかったが、狂乱の最中にある信者たちに目に見えるもの以外のものを感じ取ることは恐らく難しい。状況は決してよいものではないが、それでも詩乃にとっては幸運だった。
「(皆さんの足を引っ張らぬよう、つとめなければ)」
今この場に、時を同じくして廃墟に潜入している仲間たちが何人居るだろうか。
いくさは起こる。だが、きっと唐突ではない。その前に出来る限り、自分が、そして仲間たちが優位な状況に立てるように。闇に潜む彼らに注視しなければ。
廃墟は一見して一階建のように見えるが、実際のところは地下に更なる深淵を抱えている。
見張りの姿は『今は』ない。
車庫から続く裏口には比較的新しい南京錠が掛かっている割に、正面の入り口は扉が壊れているのか開け放たれたままになっている。彼らは果たして、この混沌に全ての迷える子羊を招こうとでも言いたいのだろうか――。
●みなもに映る
神への信仰心のお陰で何事もすべてが上手くいき、無病息災で友人にも恵まれ、毎日が万華鏡のように煌めいて見える――とは、『よくある話』だ。この世界に於いては、特に。
信じるものは救われる。果たして、本当にそんな都合のいいことがあるのだろうか?
誰もが『それ』を信じたなら、誰もが皆、幸福で、平穏に生きていけるのだろうか?
もしそうなのだとしたら、俺は――。
「はあ。ったく、|狂信者《あいつら》のこういう儀式ってなんで何処も騒がしいンだか」
涙の潤みとは僅かに異なる。
眼球そのものがまるでひとつの海であるかのように、さざめき、畝り、瞬きと共にちゃぷんと揺れる。白片・湊斗(溟・h05667)の瞳の表層に在るみなもの中で、水の|怪《ケ》が『ぷわ』と笑った気がした。
彼ら越しに見てもなお仄暗い闇の中で、それでも湊斗が足を滑らせることが無いのは暗幕の隙間からほんの僅かに溢れる光の輪郭を追うことが出来ているからだ。この双眸は降霊術ほどの戦闘力を有する訳では無いが、こうした潜入術に於いて身軽な状態で動き回れるのは大きな利になる。
|豹模様の蛸《ブルーリング》。或いは|硝子箱の海月《シーワスプ》。彼らが視力を補正して――し過ぎてくれているせいで、極彩色が光を殆ど失った眼球を灼くこともしばしばある。呪毒は時に湊斗の身をも蝕むことだって決して少なくはないけれど、今はただその恩恵だけを活用すれば良い。
ベルトに提げた銃身の重みが、己が生を確かめさせてくれる。
饗宴の中心部まで――あと、すこし。
●観測者
この世に真なる救済などありはしない。
誰が為に己は戦うのか。進化の足を止めた黄昏の世界の中心で、この手を伸ばすことに一体何の意味があるのだろうか。
綺麗事だけでは救世など到底成し遂げられぬことを知っている。嫌というほど理解している。だが、それでも。だからこそ。
「俺は命を弄ぶ選択を否定する」
天の御使に見紛うほどのうつくしい輪郭を黒く染め上げ、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)は赤錆びた深淵の中へと身を滑らせた。
からくり仕掛けのつばさが、ついと伸ばした指先から導かれるように飛び立っていく。『終夜』と銘打たれた夜雀の宿る半機半妖は宵のかたちを模り、塒に帰ってきた鴉たちに紛れて廃墟を外側から情報収集を担ってくれる。
暗がりの中、視界は二つ。儀式の出所を探ると同時、そもそも『なぜ、彼らが儀式を成功するに至れたのか』。汎神解剖機関に籍を置く澄夜にとって、原因の究明と根絶も決して放置できない事象であった。
「(……ただの偶然か? いや)」
陽の光を厭うように割れた硝子窓を分厚い暗幕が覆っている。終夜から得られる情報は『彼らは車で移動していること』と、『車のナンバーは何れもばらばらで、大きさや台数から見るに、中に最低でも十数人は存在しているだろう』ということ。
闇雲に正面から仕掛けるのは避けた方が良いのかもしれない。いや――時を同じくしてこの場所に向かっている仲間が居る筈だ。であれば、その時は今ではない。
宴の傍で澄夜が辿り着いたのは物置と呼ぶにしてもお粗末なガラクタ置き場だった。
べっとりと赤黒い、膠の如きものに塗れた鉄杭。斧に鉈。解読するのが困難なほどの走り書きが抉り込まれ散乱する紙の束。それらはまるでこの廃屋の臓物そのもののように、黴びと鉄臭さを多分に孕んでいた。
●胴の嘴
午前のうちは執拗なくらいに暗く濁っていた空が、未だにじっとりと湿り気を残して、まるで世界中が暗澹としているかのようだった。
首から下を夜のいろで覆い隠した黒南風・螢(毒雨入之刻・h01757)は一度だけ、ふう、と細く長く息を吐き出して暗がりの廃墟を仰いだ。
「こういう暴挙を制圧するのも、無粋な横槍をお断りするのも職務だからねぃ」
足取りは軽く、然れど革靴が地を叩く音は決して感じさせない。
まろくやわらかく、飄然とした態度や声音とは裏腹に。螢の歩調も周囲への警戒を怠らぬ双眸も何もかも、彼女の所作すべてから場慣れした捜査官として無駄の無さを感じさせた。
恐らくは儀式を執り行う場にほとんどの狂信者がひとかたまりとなっているのだろう。潜入こそ容易いものではあったけれど、
「うっわ、趣味悪っ」
視界の確保に難がある状況下ではあるが、僅かな明かりの先に浮かび上がるのは瓦礫に混じる大量の黒点、否。数多の現場をこの目で見てきた螢にはわかる。理解出来てしまう。
その黒点、或いは黒ずんだ飛沫か。口元を覆いたくなるほどにつんと鼻腔をつくその臭いは古いものから新しいものまで様々ではあるが、全てが綯い交ぜになったその痕跡は明らかに生きたものを酷い手段で以って害した血痕に他ならない。
「(いや、趣味なんてそれぞれだけどさぁ)」
螢が属する警視庁捜査三課にも『仔産みの女神』に関する|事件《ヤマ》は幾つか上がってきている。何れも一見統一性が無いように思え、捜査は難航を極めていたが。こうして直接現場に乗り込む機会を得られたのだ。決してひとり足りとも逃すわけにはいかない――と、云う建前はあるけれど。
死体こそこの場には見当たらないが、それでも現場は何よりも生々しく今日までの惨劇を伝えてくる。それを放置することなど出来はしない。
「(おまわりさんとしても……それ以外としても、さ)」
逮捕するにせよ、打ち倒すにせよ。物的証拠も確り押さえておかねば。
脳裏に過った光景を振り払うように一度緩くかぶりを振って、螢は歩調を早め先を急いだ。
●狼煙には未だ遠く
よもや、リンドー・スミスが直々に奪い取りに来るとは。
連邦|怪異収《FBPC》容局にとって『クヴァリフの仔』なる存在は、彼の存在が直接動く必要があるほどに特別な個体なのだろうか――。
「否、彼奴の事だ……只の興味本位やもしれぬ」
米国の考えることなど知るものか。アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は左目に被さった前髪を仰々しく掻き上げ、ふう、と大きな溜息を吐いて見せた。
無論単独潜入調査であるからして、彼の周囲にオーディエンスが存在する訳ではなく。彼のパフォーマンスは全て『覇王が覇王であるが故に無意識に漏れ出てしまう|大いなる威光《不治の病》』に他ならないのだが、然もありなん。
ともあれ、アダンとて警視|庁異能捜《カミガリ》査官のひとり。この手の事件に適任の人物が一瞬脳裏を過ぎったが、今は一人で対処せざるを得ない。多少の無理があろうと乗り越える。それも覇王が覇王たる所以に他ならないのだから。
ひたり。ひたりと、アダンの影から波紋が広がるかのように延びゆく影が、獣の顎門となって空気を震わせる。今は未だ馳走にありつく時ではないと、音もなく影を撫ぜれば唸り声が頭の中に響くようだった。
光ささぬ暗闇の中。壁伝いにより闇の深い方へ、狼影を目眩しの代わりに進む。本来であればアダンは『大捕物』の方が得意分野であり、些かもどかしい気分ではあるけれど。
「(此れは闘争の際に発散するとしよう)」
ちりちりと。じりじりと。燻る戦火の兆しを諌めながら闇の中を音を立てぬように進み続ける。
起爆の時はそう遠く無い。すべて、すべて焼き尽くすその瞬間までは殺気の欠片も見せてはならぬ。
――|獣《王》の狩りとは、そう云うものなのだから。
●齎されるは
異形も怪異も、この世ではすぐ傍に息づく程の距離に『居る』。
角の先影に、路地の切れ目に、在る筈のない階段に。点と点が繋がってしまった先を一度覗けば、此方が理解するよりも早く彼等はひとを瞬きの間さえも許さずに捉えて喰らうてしまう。それなのに、彼等の力を求め盲信してしまう者たちは後を絶たない。
「実際、すごい力ですしね」
誰に訊かせるともない呟きが白い吐息と共に溢れては消えていく。賀茂・和奏 (火種喰い・h04310)は伊達眼鏡の奥の双眸を僅かに細めた。
今まさにあたらしいいのちが産声を上げたその瞬間に違いないのに空気はずっしりと湿気を吸ったように重い。澱みが肺に満ちていくようで、少なくともこの目前に在る廃墟には祝福の欠片も感じられなかった。
クヴァリフ。仔産みの女神。いのちを媒体にして|赤子《災厄》を齎すその存在を軽々しく利用するなどと考えるには、ひとは余りにも無知で脆弱過ぎる。それが慈しみかさえも、決して分かりはしないのに。
「……ま、女神の意図はともかく」
狂信者らも、無論簒奪者にも。ひとに害なす為に扱われるのであれば。
「(自分は妨害しますよ、仕事でも――そうでなくとも)」
見張り番の類は居らず、屋内への侵入は容易であった。それほど狂信者たちにとってこれなる生誕は悲願の成就に他ならず――端的に言えば『浮かれている』のだろう。
それでも。乱痴気騒ぎの声が遠く聞こえる中で、ざりと靴底が埃と砂利を踏み締める音は酷く響いた。
「(……響くな)」
一歩踏み出した時点で音の響きを肌で感じ、寄り添う青の翼に胸の内で語り掛ける。藍方石の如き煌めきがぱちりと瞬いたかと思えば、ふ、とほんの僅かだけ和奏の身体が重力から解き放たれ、烏羽の恩恵を受けた足はそれ以上の音を一瞬の内に掻き消した。
自分に気付いた存在は未だ居ない。
一瞬の静寂に呼吸を整えると、和奏は更なる深淵へと足を踏み入れるのだった。
●ブルゥ・ソーダにゆらめいて
お気に入りの下駄とブーツ、賑やかな靴音を響かせるあの子たちは今日は靴箱の中。だってだって、これはと〜〜っても大事でキケンな潜入調査、そして悪者との大捕物であるからして!
ぱちん、ぱちん。あぶくが弾けるように、僅かな青い軌跡が泡沫のように浮かんでは消えていく。捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)の身体はふわふわと宙を漂うインビジブルと入れ替わり立ち替わり、影の隙間を縫うようにほどけては編まれて奥へ奥へと進んでいく。
|新物質《ニューパワー》。
それなるものを研究、究明することで人類の延命に繋がるということは、即ち黄昏に沈む人々に歌を届けられる機会が増えるということ。つまりはそれって、|私《あいか》にとって、この世界のファンを増やすためには必要不可欠なものだということ。
「(あのおじさんは教育なんて言っていたけど)」
けろりん堂のペンギン人形さん――が、こころを得ていのちを得た、ツクモガミのお薬屋さんだって言っていた。
『新しい薬はなんで時間がかかるのかって? そりゃあ、大勢の人が試して初めて安全かどうかがわかるんだ。だからアイスクリームだって、今じゃどこでも食べられる』
女神の恩寵と言えば耳触りは良いが、実際のところそれがどのような力を齎すのか。そもそも取り込んだことで宿主となった者はどうなるのか――それさえ現時点ではわからない事だらけで。
教育と嘯く簒奪者の真意とて不明瞭だ。許可を得ない人体実験のための『撒き餌』であるならば、それも確りと阻止して女神の恩寵なるものを正しいかたちで人類のために役立てねばならない。
「(でも……お薬屋さんはきっと、アイスクリームが食べたかっただけね。きっと)」
暗闇の中。頭の中で考えをまとめたあいかはうんうんと頷くと、再び混沌の奥深くへ、無窮の青へとその身を溶かしていった。
●いのりのかたち
――悍ましい。
ベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)は眉根を寄せながら喉まで出掛かった言葉を寸での所で飲み込んだ。『この星』を詠んだものはきっと、儀式の終焉からなれの果てまで全てを見通したのだろう。涙で濡れたそのかんばせを、それでもと持ち上げた彼女の為にも。
「……頑張らねばな」
尾を仕舞い、角を仕舞い、ただびとの見目に成りすますがそれだけでは足らぬ。この身は大きく、ただ立っているだけで目立ってしまうから。
顔の半ばまでもを覆い隠すローブから、ひとつ、ふたつと緑が芽吹く。然して萌芽の力は古竜の身体を覆い尽くしたのちに、まるでこの廃墟一面に漂う死の気配と同化するように蔓葉を伸ばしては枯れていく。ほどなくして、壁面を這う枯れた蔦とほぼ同化したかのような影と成ったベネディクトは霜を踏み鳴らす音さえも許さぬ足運びで狂信者たちの名ばかりの祭儀場へと足を踏み出した。
大概の悪事は他者に見付かり難い場所で行われるものだというのに、廃墟の管理は非常に杜撰で女神を奉る場所にしては余りにも荒れ過ぎていた。
声のする方へ、生きたものの気配がする方へと足を進めるに連れて、血の臭いが濃く、酷く、膿を孕んだかの如き澱みを連れて来る。それ程までに追い詰められていたのだろうか。或いは形振り構わぬ程に彼等はこれなる儀式に全てを注いでいたというのだろうか。
ベネディクトの知る信仰とは、神なるものとは、もっと清廉で慈愛に満ちたものだった。だからこそ理解出来ない。否、|失望したくない《憐れみたくない》と言うべきだろうか。
「(人類延命の為の新物質を怪異の肚から得る、か)」
それ程までに。この世界のにんげんは――。
「(……いや、詮無い事か)」
今はただ、目の前のことに集中しよう。
そうして拓けた道の先に、必ず光は射すと信じて。
●アンダー・カバー
「折角ならクヴァリフ本体と遊びたかったなぁ」
まるで幼い少年が唇を尖らせるように、逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)は頭の後ろで手を組んで『あ〜あ』と弱々しい声を上げて殊更にがっかりして見せる。
「任務前ですよ。しゃんとして下さい」
傍らから自分を諌める言葉に即座に反応して、ぱっと大洋の瞳に星が散る。振り向けば今回の任務で初のツーマンセルを言い渡された――謂わば相棒と呼んでも差し支えないだろう。道明・玻縷霞(普通の捜査官・h01642)が眼鏡越しに真っ直ぐ廃墟を見据えるその姿に、踊る胸を隠せぬままににんまりと歯を見せて笑った。
「まぁいいや、目障りな|禿鷲《FBPC》撃ちといきましょ!」
狂信者の起こす怪異事件。そんなものは『よくあること』で警視|庁異能捜《カミガリ》査官の二人にとっては日常茶飯事だ。規模の大小こそあれど、それより大洋が強く関心を持っているのは連邦|怪異収《FBPC》容局の方だった。
「まずは潜入を。行きますよ、逝名井さん」
「はい、道明さん!」
玻縷霞は何方の事件にも優劣をつける事はない。
自分たちの利になるか以前に、怪異の母たる仔産みの女神――その落とし仔を狂信者達にも、簒奪者にも利用させる訳にはいかないのだから。
見張りの気配はない。それこそ、『ようこそ』と言わんばかりに正面の入り口は開け放たれている。
「って言ってもぉ。そう簡単にノってやるのも癪なんだよね」
大洋と玻縷霞の姿は廃墟の裏手側、車庫から通じる扉の前にあった。
「……まだ温かいですね」
解体された古自動車の隙間に押し込まれるように、中古のセダンやワゴン車が乱雑に駐車されている。何れも汚れや凹みが目立つが、一眼で分かる程度にはついさっきまで誰かが乗っていた痕跡が残されていた。それは今まさにこの廃墟の中に複数の人間が存在している証左に他ならない。
扉に仰々しく施されたチェーンと南京錠は比較的新しい。朽ちゆくばかりの建物の中で、それだけが酷く浮いていた。
「――、」
開きますか、と。玻縷霞が口にするよりも早く振り返った大洋がにっと唇の端と共に外れた南京錠と曲げたヘアピンを持ち上げて見せたなら、それが潜入開始の合図となった。
瓦礫の世界に厭と言うほど嗅ぎ慣れた死の臭いが充満している。
車庫の入り口には火が点けられた痕跡が見えたが、それが儀式に依るものなのかこの建物自体が廃墟になる要因のひとつであったのかまでは判別が付け難かった。
二人の間に言葉はない。角を曲がるか、或いは陰から影へと移動する際に端的なハンドサインと視線を交わし――その後は、一瞬の出来事だった。
「が、ッ」
「ぁぐ、く」
√能力者か、否か。地下に続く階段からまろび出て来た黒衣の影を、方や警棒の柄が、方や黒き手刀が一撃のもとに沈黙させる。抵抗する暇さえ与えなかった二人の手腕は勿論だが、その呆気なさはこのふたつの影が単なる一般信者なのであろう事を伝えてくる。……とは言っても、警視|庁異能捜《カミガリ》査官からすれば彼等も重要参考人に違いない。柱に巻き付いていた鎖を噛ませて手錠で拘束すれば、後で回収することも容易だろう。
「へへへ。どうです道明さん、似合ってますぅ?」
ただで眠らせてやるほど甘くはない。柱の影に鎮圧した信者たちを隠すついでとばかり、剥ぎ取った黒装束を身に纏った大洋は場に不釣り合いな程明るく、ぱちんと片目を瞑って悪戯に微笑んだ。
「なるほど、装束で紛れるのも手ですね」
それならば、自分も迅速に彼に倣うのが良いだろう。
羽織る装束の厚い布地に、確かな血の臭いが染み付いていた。
●無垢なる幼体
白に虹。暗闇の中で余りに異彩を放つであろう鮮烈ないろを黒く染め上げ、一・唯一(狂酔・h00345)は他の√能力者たちよりも一足早く深淵の澱みの奥に潜り込んでいた。
自身はこれより執り行われる『母の恩寵』の儀に於ける協力者である。其方側の怪異解剖士であると殊更にあまく囁けば、儀式に直接参加する権利を得ていないのであろう敷地内を興奮気味に徘徊する一般信者は容易く欺くことが出来た。嘘を吐くには半分真実を織り交ぜれば良いとは言うものだけれど、こうも単純なのはとっくに彼等が正気の沙汰ではないのであろうことを暗に伝えてくる。
怪異解剖士であることは本当。ある意味で儀式の協力者であることも嘘ではない。その結果を|保護する《掻っ攫う》ことが主目的であることを除けば、だけれど。
「(……後で爆破でもしたろかな)」
階下へ降り地下への道筋を辿りながら、気取られぬように白き死霊の紋をひとつずつ敷いていく。逃走経路はこの赤錆びた階段ただひとつ。であれば今すぐに起爆させるのは得策とは言い難いけれど、手段の一つとして先んじて手を打っておくのは決して無駄ではないはずだ。
動機なぞこの胸を満たす好奇心ひとつあればいい。
唯一はこの千載一遇の機を逃す訳にはいかなかった。数多の怪異の|研究をしている《腹を掻っ捌いた》身としては――何としても。
にんげんと云う生き物はその場に於ける空気に対して直感的、或いは本能的に危険をある程度察知出来るものであると唯一は認識している。そんな中で彼等の存在、或いは彼等を囲む状況は余りにも常軌を逸脱したものであった。
ああ――まるで臓物そのもののような『仔』と視線が重なったのなら。孵ったばかりの雛に自らが母であることを刷り込ませるように、唯一は柔らかく微笑んだ。
後で手を差し伸べた時に迷わず此方を選んでもらう、その為だけに。
第2章 集団戦 『狂信者達』

●饗宴
深淵の最奥に闇があった。
闇の中に赤黒く濁った、未だあたたかささえ感じさせるヒトか獣かともつかぬ肉片と――夥しいほどのそれは最早飛沫や痕と呼べる範疇には収まらず、まるで壁や天井までもを噴霧器で滅茶苦茶に塗り潰しているかのようだった。ああ、これこそが儀式の全容だとでも言うのだろうか。
「我らが母よ、仔を、愛を、どうか、どうか――げき、キ」
男が叫んだ。
黒ずんだ血を腹から撒き散らかしながら、薔薇の花が散るかのように、くるくると黒衣を翻しながら狂信者のひとりが狂喜のままに硬い床の上に倒れ伏し絶命した。
誰が?
√能力者の誰もがそう思った。
仔なるものを囲むように祈りの言葉と歓喜の声を腹の奥底から張り上げていた狂信者たちが、新たな血肉を仔に浴びせんとばかりに互いを傷付け合い始めたのだと、誰が最初に気付いただろうか。血の泡と涎を垂らしながらそれぞれの武器を振り上げる狂信者にとって、√能力者たちは新たなる贄でしかなかった。
彼等には最早何も見えてはいない。
であるならば、せめてもこの場を一刻も早く鎮圧せねばならない。
鮮血の舞う闇の中で、クヴァリフの仔は未だ見えぬ母の姿を追い求めて地面をずるずると這い擦り回っていた。
●起首
始まりはひどくスロウに映る。
瞬きほどの出来事だったに違いないのに、呆気なく齎された死の概念をこの瞳はあまりにも鮮明に捉え過ぎていた。
「(間近でこの惨状を見ると、中々キツいものがあるな)」
皆全てがもう『あちら側』に行ってしまったのだと、分かっていても飲み下せないことは山ほどある。白片・湊斗(溟・h05667)はそれらの全てを否定しようとかぶりを振って一歩後退るが、然してそれは本能に責め立てられたからではない。
『ぷわわっ』
楽しげに鳴く水怪の触手が面白がって伸びるのを湊斗が手にした刺胞が諌めるように絡め取る。――かと思えば、瞬きの内に澄んだ銃身は水怪の猛毒ごと吸い込んでいくかのようにその内へと|弾丸《シリンジ》を装填した。
「大人しくしてくれよ」
怪異の毒を弾にする。
それこそが一介の研究者を一人の能力者たらしめる、抗う力そのものに他ならなかった。
「勘弁してくれ」
満ちて、溢れる。舞い散る血の匂いのせいではない。
賀茂・和奏(火種喰い・h04310)が零した音が微かに震えたのは、怒りか、それとも。
「(気は、合いそうにないや)」
余りにも呆気なく失われてしまういのち。
生まれ落ちて息をしたその瞬間から『そう』であった訳ではない。彼らにだって大切なものが、日々が、掛け替えのない人生があった筈。それなのに、全てをこんなにも容易く投げ打ってしまう、捧げてしまう。それで彼らの手に、何が残るのだろう?
どんな正義も、信仰も、超常への期待も。盲目に求め掲げるばかりで彼らは最早『それを欲した理由』さえ見失ってしまった。
かみさまでも、異形でも、怪異でも。
こんな残酷なかたちで奪い合うのではなく、共に知り、分かち合うことが出来ればよかった。人々が共生出来ないのなら、黄昏の先に待つのは――、
「……それでも、俺は」
白刃が稲妻の如く迸る。それはひとたび、黄昏の世界に青く鮮烈に閃いた。
「ありゃりゃ。こりゃまた賑やかにやってるねぇ」
黒南風・螢(毒雨入之刻・h01757)の所作と声音は場に不釣り合いなほどに暢気なものだった。
「ほらほら、警視|庁異能捜《カミガリ》査官だ。お前さん達は完全に包囲されているので大人しく投降……うわっ」
どう、と音を立てて倒れ込んでくる狂信者の体をひょいと身を仰け反らせることで軽くいなす。一応こちらから手出しはしないよう形ばかりの投降呼びかけては見るけれど。
「まぁ聞くわけないよねぇ」
っていうかこれ聞こえてないよねぇと肩を竦めながらも、それでも螢は決して職務を忘れた訳ではない。振り上げられた刃が無遠慮にこちらへ向けられるならば話は色々と変わって来る。
未だ紫煙の名残を残した吐息を深く吸い込んで。再び瞳を開いたその先、螢のかんばせから飄々とした笑顔はひたりと止んでいた。
炎が√能力者たち全てを舐め尽くさんとざらりとした異様な風を巻き上げながら襲い来るのを、湊斗だけがただ静かに凪の海の如き静けさで見据えていた。
「溺れる時間も与えねえ」
破裂音が空気を跳ね返すように響き渡り、宙空で割れた|銃弾《猛毒》が雨となって降り注ぎ――その全てを煽り立てるかのような風が、否。限りなく無色透明に近いが、その|風《羽》には緑の面影が浮かんでいる。
「ぎ、が……ァ、ああ、あ――」
螢の手繰る鴆の羽に依って霧と化したふたつの猛毒が炎を諌め、吹き荒ぶ嵐が狂信者たちを容赦無く包み込む。黒い、黒い。タールのような泡をごぼりと吐きながら、ばたり、ばたりと狂信者が倒れ伏していく。
「おっとぉ。同業かな?」
「アンタたちは、……すまない、恩に着る」
ふたりの毒は相性が良かったのだろう。そして、今なお唸り声を響かせながら追い風を送り続けていた和奏が仲間を刺し貫かんとする狂信の斧槍を身を割り込ませる形で刃を振り抜けば、焦点の定まらぬ力任せの兇刃は容易く逸れて。即座に撃ち込まれた湊斗の弾丸が、螢の猛禽類を思わす鋭い爪が狂信者を貫いていく。
「贄を求める攻撃は無差別か。厄介ですね」
「だが、『それだけ』だ」
統率の取れぬ集団など軍に遠く及ばない。
三者はそれぞれの是を交わし、未だ尽きることのない狂乱の宴の中へ身を踊らせた。
惑うように蠢き這いずる仔。
まだ何にも染まらぬそのいのちにこれ以上の穢れが注がぬように――誰よりも、風のように、疾く。
●慈悲のかたち
「なんて凄惨な……」
そこでは命が余りにも軽んじられていた。
敵も味方も見境がなく、火の粉が上がるように鮮血が舞い散っては何の感慨もなく地に落ちていく。
時間にしたら瞬きほどのものだったのかもしれない。そんな一瞬のうちに失われていく命たちに、篠宮・詩乃(魔血ノ巫女・h05394)は込み上げる嗚咽をなんとか理性でやり過ごす。
魔を打ち祓う者として知れず暗躍してきたこの身なれど、ここまで醜く、そして無意味な血に溢れる場などそうない。盲信の果てに魂までもを捧げてしまった者たちを見据え、詩乃は一度強く唇を噛み締めた。
「あなたたちの狂気を終わらせるのに、このようなやり方しかできない私をお許しください」
炎の気配はふたつ。けれど狂信者たちの祈りに依って編み上げられるものよりも、幽焔を纏いて詩乃が己の間合いに飛び込む方がずっとずっと早かった。
「――――ァ、」
燻る炎のさきぶれごと貫いて、微かに、籠った音がして――それで仕舞いだった。
捻り込むように身体ごと押し込めば、肋骨を僅かに抉る重みが不快さを連れて生々しく伝えて来る。それを振り払うかのように一瞬で幽月を引き抜けば、あとには静かに倒れ込む黒衣のものだけが残った。
「(この薙刀は本来人を傷つけるものではなく、怪異を滅ぼす為のもの)」
決して。決して、人同士の為に振るうものではなかった筈だ。やり切れぬ思いばかりが胸に募るけれど、それでも戦いは終わらない。否。この無意味な血の狂宴を終わらせる為に詩乃はこの場所まで足を踏み入れたのだ。
だからこそ、この手で、せめて苦しまぬように。
詩乃は再び神薙の刃を静かに構える。怪異殺しと呼ばれたその穂先が、幽玄なる月のように白く閃いた。
●幽鬼は踊る
自身は多少夜目が利く方だったのかもしれない。慣れぬことへのもどかしさはあれど、こうして大きな障害もなく深淵まで辿り着けたのは僥倖であった。
「斯様な知見を得る事が出来たのは幸……い……?」
アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)が今まさに場に踏み込もうとしたその瞬間。一瞬、本当に一瞬ではあったけれど、確かに視界の端に捉えた見粉うことのないその姿に急カーブを交えてつかつかと歩み寄る。
「──静寂!?」
「……ん?」
精一杯の小声でその名を呼べば、悍ましい儀式に眉を顰めながらも確かに狙いを定め澄ましていた静寂・恭兵(花守り・h00274)が視線だけで振り返る。
「お前も此度此の地へ志願していたのか、我が相棒よ」
よもやこんな場所で見知った顔に遭遇するとは思っていなかったのか、片眉を上げて僅かな驚きのいろを浮かべる恭兵の様子にアダンは『其れならば事前に連絡くらい寄越せ』と口を尖らせ抗議の姿勢を見せた。
「正直、お前はこう言う隠密行動は苦手だと思っていたのだが……」
「隠密? 心底苦手だが、お前が居たら変わっていただろう……!?」
呼べば多分アダンは来たのだろう。けれど苦手なものに付き合わせるのも座りが悪いか。そう思っての単独行動だったのだが、言葉に出さずとも同じ場所へと導かれた偶然は必然とも呼べるのかもしれない。
「まぁ、せっかく合流出来たのだから共闘と行くか……」
このまま談笑せんばかりの空気が一瞬満ちるけれど、ふたりとて任務を忘れた訳ではない。恭兵が促せばアダンも視線を狂宴の中へと戻し、静かに身構える。
「遅れを取るなよ!」
「分かった分かった」
ふたつの影が躍り出る。
周囲は未だ、正気を失った甲高い笑い声に満ちていた。
「血を、命を、魂を、ああ――捧げ給え、もっと、もっと――」
狂信者たちが血と涎の入り混じった体液を口から溢しながら祝詞紛いの言葉を壊れたラジオのように繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も吐き散らしてはがむしゃらに武器を振るっている。
恭兵もアダンも宗派こそ異なるだろうが『狂信者の塒』を幾つも鎮圧してきた筈だった。けれど、ここまで見境を失くしている者たちを見ることは稀であった。
「此奴らはまるで飢餓に狂う獣の様だな」
「自らすら供物にするとはな。だが」
追加の供物になってやる程互いの命は安くない。黒衣の群れが新たに動くものを視認するのとほぼ同時、恭兵が抜き放った霊刀の一閃が風となり――横へと、薙いだ。
「ギ、ぎゃッ!!」
言葉通りに獣が如き醜い咆哮が、絶叫が響くと共に赤黒く醜い穢れが咲いていく。間を置かずして顎門を開いた魔狼の影が漸く馳走にありつけたとばかりにその穢れごとばくりと全てを飲み込んだ。
「飢えた獣には此方も近しき存在にて相対しよう。だが、」
恭兵に迫る炎の気配を悟ったアダンに一切の躊躇はなかった。
「――|暴食の狼《アンシェネ》!」
好き放題に狂信者たちを食い散らかしていく魔狼の影が、ゆるしに応じてその牙を主へと向ける。骨にしゃぶりつくかの如き貪欲さで自らに喰らい付いて来る魔狼の牙に脂汗とも冷や汗ともつかぬものが一気に滲み出て来る。鳩尾にぽっかりと空洞が生じてしまったようだ。ああ、だが――『それでいい』!
影とひとつになったアダンの跳躍が、今まさに撃ち放たれた信仰の炎を自らの腹から湧き出でる黒き炎で舐め尽くしていく。それは魔焔。万象を灰燼へと帰す、覇王の力の一端そのものであった。
「お前はまた、……ああ、くそ」
アダンからの直向きな信頼を、自己犠牲とも呼べるその一撃が齎した機を決して無駄にはしない。
双つ花がちかりと一瞬閃いたその先で倒れていたのは、黒衣のものたちだけだった。
●酸の雨
「嗚呼――」
随分と気味の悪い儀式になってしまった。
『狂信』と名の付く者たちに相応しい末路だと分かってはいるけれど、と。儀式の一番近くで成り行きを何処か冷めた目で眺めていた一・唯一(狂酔・h00345)の心は、然して澄んだ水のように揺るがなかった。
「おいで、深淵」
守りの陣を組むよりも早く呼ばうその声に応じて唯一の足元から噴き上がるように白き大蛇が湧き出づる。無差別に振り回される斧槍をその鋼鉄の膚で弾き返したなら、力の軸を失った狂信者が勢いのままに地に転がった。その間にも唯一は止まらない。止まってやる義理もない。触れようとする穢らわしい手を。引き裂かんと、貫かんとする無粋な斧槍を、大きく振り回した機銃の銃身が鬼の剛腕が如き勢いでそれら全てを跳ね除けていく。
それでも彼らも止まらない。止まれない。彼女が齎すそれが『協力者の抵抗』などではなく、今まさにこの場を制圧せんとする反勢力であることに、とうの昔に正気を失った者たちは至れない。
だから、唯一が今まさに銃身を『正しい扱い』で構えきったことにも、気付けない。
「近寄らんで。鬱陶しい」
連装式の機関砲が、シリンジの弾幕を噴き上げて黒衣の群れを舐め尽くす。
「あ……ぁ、あああぁ、ぎぃゃぁああ!!」
宵の空を思わすうつくしい液体に満ちたそれは普くものを死に至らしめる猛毒。
肉も、骨も。何もかもを溶かす毒薬は幾度にも重なる破裂音と共に撃ち出され、唯一を囲んでいた最も近くに居た狂信者たちを悉く沈黙させていった。
ぽつりと取り残されたクヴァリフの仔にはまだ誰の手も届かない。
もしかしたら、はじめに微笑んでくれたものを偽らざる愛だと信じているのかもしれない。肉の塊に付いた頼りないふたつの瞳が、唯一の姿を懸命に追い掛けていた。
●聖なるかな
「悍ましい」
今度こそ口をついて出た言葉を訂正することはない。
鼻が曲がりそうなほどの鉄錆の臭い。飛び散った肉や骨の塊の数々が、この赤黒い惨状が一日や二日で至ったものではないのだと生々しく五感全てに訴えかけて来る。ベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)は隠すこともなく眉を顰め、『ひとのなれはて』達を強く見据えた。
――なんと愚かな。
血と臓物を捧げて育つ神なぞが如何な救いを齎すと言うのか。たとえひと時満足したとして、その先に残るのは血塗れの手だけ。そんなことさえも分からないと言うのか。
ベネディクトの知る救済とは、信仰とは。神とは、断じてこのように醜く悍ましいものではない。
「血を、肉を――愛を、捧げよ、捧げヨ、捧ゲ、」
愚集の群れが竜を囲む。その血肉を、魂を寄越せと嗤う。血走った目を一斉に向け、斧槍を突き出し向かって来るのを迎え打ったのは花楸樹。その先端に宿る雷火の予兆だった。
「刃を向けるのならば覚悟しろ。手加減などしてやれん」
ひとたび、ふたたび。巡り、迎え、七度焚べられても決して燃え尽きぬ。
槍のかたちをした樹が目覚め、本来の姿を思い起こす。魔祓いの雷火は竜の怒りに応じてその勢いを増し、貫いた一閃から燃え上がり、血潮の一滴さえも残さずに穢れを焼き尽くしていく。
ベネディクトの動きのひとつひとつはそう大きなものではない。けれどその全てに迷いがなかった。手にした凶器をがむしゃらに振り回すことしか出来ぬ者たちに、竜の身体を傷付けることなど到底敵わない。
「ァ、あ――」
「反応が遅い、それでは私を仕留めることなど永久に叶わん」
信仰とは清らかで、慈愛と光に満ちたうつくしいものである筈だ。
この身も、命も。何ひとつとてくれてやるものか。
こんなにも赤黒く穢れた祈りに恩寵などあるものかと――再び振るわれた竜槍から、聖なる炎の軌跡が鋭く奔った。
●魂の行き先
些か出遅れてしまっただろうか。いや――、
「始まったばかりのようだねェ」
仮面の下の目を眇め、緇・カナト(hellhound・h02325)は静かに身を低くする。その姿は獣の如くしなやかで、強靭な発条を秘めた脚は地を蹴る音さえも感じさせない。
「(命捧げよ、か)」
狂って、堕ちて。彼らの信じた先にあるのは果たして楽園だったのだろうか。
望む救いなど何処にもありはしないのに。とうの昔に理性を捨て去った『ひとの皮を被ったものたち』にとって、最早結果などどうでもいいことなのかもしれない。
狂信者たちにも、勿論簒奪者にも。かのいのちある肉塊を捧げさせる訳にはいかないと言うのなら。
「オレ達で一滴残らず食べてあげようねぇ」
死のさきぶれを連れて、黒き妖犬が踊り出す。
昏い月夜に、血塗れの爪牙を閃かせながら。
カナトの足元より伸びていた影が意思を持ち、仮初のいのちを得て。千疋狼の群れとなって黒山のように集まり身動きさえも出来ないものたちの頸に、腹に、次々と喰らい付いていく。悲鳴を上げながら痛みで半狂乱になったものから、カナトが振り上げる手斧が容赦無く刈り取っていく。
楽な狩りだ。
互いを傷付け合うことも厭わぬ集団をひとりずつ丁寧に地獄送りにするその姿は、正しく|ブラックドッグ《墓守の黒犬》と呼ぶに相応しいものだった。
ああ、だが、しかし。
「(……もし一抹でもコイツらに正気が遺されていたなら)」
せめて生き延びたいと、そう思っただろうか。
一瞬過ぎった『もしも』を否定するのは、皮肉にもその当事者たちが巻き起こした狂信の炎。小さく舌を打ったカナトは、地を這うほどに身を低くして獄炎を躱すと跳ね起きる勢いのそのままに斧を振り上げて狂信者をまたひとり斬り倒した。
「あーあ。ケモノの宴に加減しろってのが、土台ムリのある話だよねェ」
慈悲ならきっと。このかたちが相応しいのだ。
●冥冥
「(……儀式の為に己らを犠牲にする覚悟があるならば、最初からそうしていれば良いものを)」
獣の咆哮じみた声を上げながら狂喜のままに命を互いに散らし合う狂信者たち。
それは女神に魅入られ、黄昏の最奥に『触れて』しまったが故のものなのかもしれない。偶然にせよ必然にせよ、こうまで堕ちてしまったものを引き戻すことはもう出来ない。狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)はあどけなさの残る顔立ちに僅かな憂いを敷いて一度だけ瞑目し、微かに唇を震わせた。
「クヴァリフの仔の生存、及び被疑者達の暴走を確認。至急制圧を行い、仔の確保を実施する」
氷蒼の瞳を再び開いた次の瞬間。何時からそこに、或いははじめからそこに居たのだろうか。淡き月影が、地這いの獣が澄夜の直ぐ傍に寄り添っていた。
「月白!」
主の呼び声に応じた霊狐が微かなひかりの輪郭を浮かべながら澄夜を背に乗せ疾駆する。黒衣の群れの中を縫うように駆け抜けながら、纏った妖火を先へ先へと広げて――そして。
「ひぎッ、」
「ぎゃっっ!」
濡羽の闇が羽搏くたび。澄夜の身が宙で翻るたび、撃ち出される天狗礫がこの場にいる狂気に蝕まれた者全てを穿ち貫いていく。ひとつひとつの礫こそそう大きくはなくとも。手帳に刻まれた者、それすらも許されなかった犠牲者達の無念や憎悪。すべて、すべての惨苦の念が込められた殺生石が如き昏き礫は命中した箇所から確実に、着実に生きる者の生命力を奪い削り取っていく。
短い悲鳴を上げて悶え苦しむ狂信者を、それでも悪戯に長く苦しめはしないと。巻き起こす風の刃は嵐となって盲信に溺れた者たちのいのちを攫っていった。
戦いの最中、澄夜は天弓の気配を肌で感じていた。あの子もきっと、ここに居るのだ。勿論本音を言えば可愛い義妹が心配ではあるけれど。
――あの子は強い。きっと大丈夫だ。
澄夜は再び月白と共に走り出す。助けが必要な仲間も、きっとこの戦場の何処かに居る筈だからと。
●一条の青
捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)の眼前に広がっている光景は『しあわせ』とは到底程遠くて、この惨劇を止められるのは最早自分たち√能力者しか存在しない。
「殺人の現行犯ね。本当は荒事は得意じゃないけど……仕方ないわ」
|偶像《スタア》は誰をも見捨てない。だからこそ、あいかはこの惨劇から目を逸らしはしないのだ。
「触れられぬ青。無窮のそらよ、果てなきものよ。――染まらない夢を、差し上げるわ」
滅茶苦茶な軌跡を描いて撃ち出される盲信の炎は、然してあいかを捉えるに至れない。この場所に来た時と同様に、あぶくが弾けるようにあいかの身体は瞬時に掻き消え、後に残るは無窮の青だけ。
ぱちり。ぱちり。
あいかの姿が浮かんでは消え、消えては青の残影を残して赤黒い部屋をあおぞらで塗り潰して行ってしまう。
「女、だ。ひとり。女子供、は。贄に、相応し――、ッッ!?」
ぶつりと途切れた狂信者の声が今度は少女の頭上から響き、重力に従い落ちていく黒衣が次なる無窮の青へと、大きな水溜りに落ちたかのような水音を立てて沈んでいく。あいか以外の存在が触れた無窮の青が導く先は水中であったり宙空であったり。すべての均衡状態が滅茶苦茶になって、やがて己が今何処に立っているのかさえも曖昧にしていく。
あいか自身が直接手を下した訳ではない。だというのに周囲を取り囲んでいた黒い影は、何時しかその殆どが青の世界へと迷い込み、辺りに束の間の静寂を齎していた。
道が拓けたことで、あいかはクヴァリフの仔の元へ辿り着く。
幾らか血を浴びているようだが、特に変異や凶暴性を増すような兆候は見られなかった。
「ここに隠れていてね。大丈夫よ、ちゃんと迎えに来るからね」
くにゃくにゃの肉の身体が微かに震えて揺れる。
あいかの言葉を理解しているのだろうか。布を被せられた落とし仔は『ぴぃ』と小さく鳴くと、その場から動かなくなった。
●クラクション・ギミック
「コイツ等の血ぃくっさ! ちゃんと野菜とか食べてるぅ?」
羽織った黒衣の余りの血生臭さに逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)の人懐こい貌がぐしゅぐしゅに窄まる横で、道明・玻縷霞(普通の捜査官・h01642)は冷静に状況の分析に努めていた。
「殺し合いを儀式なんて、大層な名を付けたものです」
かと言って大洋も文句を言うばかりではなく、その所作は場数を踏んだ警視|庁異能捜《カミガリ》査官と呼ぶに相応しいものだった。――実際のところ、普段より少しばかり口数が多くなってしまっている自覚はなくもない。それだけ玻縷霞とのツーマンセルが誇らしく、嬉しかったから。
「最早救う手立て無し……時間を掛けるだけ無駄というもの。逝名井さん、速やかに終わらせましょう」
「ですね、道明さん……さっさと畳んじゃいましょ!」
黒衣を目深に被り直す。その視線の先に、布を被せられてもぞもぞと触腕を動かしているクヴァリフの仔の姿があった。仲間たちの誰かが仔を少しでも被害のないようにと移動させたのだろう。駆け抜け際、大洋はぱちんとその肉塊へ片目を瞑って見せた。
いつか殺すであろう相手に優しくしてはいけないルールなんてない。
少なくとも今は、かの存在は公務により回収しなければならない庇護対象に違いないのだから。
重く、低く、建物そのものが地の奥深くから突き上がるような、どぉん、という音が大きく戦場に響いた。
ぎゃあぎゃあと濁った声を上げて飛び立っていく烏たちの声は今は遠い。その場にいる全てを転がさんばかりの激震は、踏み出した玻縷霞の足から齎された衝撃波に依るものだった。
不意を突かれた狂信者たちは突然の災害に武器を手にしたまま倒れ、ある者は自滅し、殆どの者が一瞬無防備になる。その隙を見逃してやる程甘くは無い。
「それでは皆サマご静粛に。全員ボクの監獄にご招待しちゃいまぁす!」
大洋がぱちんと手を鳴らした次の瞬間、辺りは69の監獄の檻の中へと様相を変えていた。
幻覚なのだろうか? いや、いや。真実だとして、それを理性的に知覚出来るものなどこの場にはただのひとりも存在しない。命よりも大事な儀式の場を台無しにされたと判断した狂信者たちは、最早人間の言葉にも満たぬ怒号を上げながら無我夢中で大洋と玻縷霞に向かっていく。
炎を編もうとするも、監獄に囚われた中では主の御声が聞こえない。それならばと振るわれた斧槍が大洋の胴を貫かんと一斉に突き出されるのを、音もなく駆け寄った玻縷霞の黒い拳が狂信者の腕の関節ごと弾き飛ばした。
「ひぎッッ!!!?」
「ひゅう。道明さん、ありがとうございまぁす!」
自らも警棒で斧槍の軌道を逸らしながら燥ぐ声を上げたなら、玻縷霞から微かな頷きが返ってくる。それに満面の笑みを浮かべ、軸足からぐるりと身を翻した大洋は勢いをそのままに狂信者の頭部を的確に打ち砕く。倒れ込む手応えをそのままに、左手でホルスターから抜き放ったクサリヘビの名を冠する愛銃の引き金を躊躇なく引いた。
視線さえ見ぬまま。けれど、乾いた発砲音を立てて射出された銃弾は狂信者の側頭部を貫き、赤い飛沫を撒き散らかしながら即死した黒衣のひとりが硬い地面の上に倒れ伏した。
如何なる精神を持ち、痛みさえ感じ辛くなりつつある狂信者とて所詮人。急所を潰せば呆気なく終わることを、ふたりの捜査官は知っている。だからこそ躊躇わない。一切の手心を加えない。
腰を回転させた玻縷霞の拳が狂信者の顎を目掛けて一気に振り抜かれたかと思えば、顎を砕いた勢いのままもう一人の黒衣の後頭部を掴んで思い切り監獄の石床へと叩き付けた。鈍い音と手応えは確かな重みとなって玻縷霞の胸に僅かな影を落とすけれど、それを表に出すほど青くはない。
何時しか完全に沈黙したその場所に残ったのは√能力者たちだけ。その筈だ。
「そろそろダンスのお誘いの時間だね。――おいでよ、FBPC」
息も荒げずに告げた大洋の声に、確かに応える『何か』の気配があった。
第3章 ボス戦 『連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』』

●妖言
ぱち、ぱち、ぱち。
態とらしい疎らな、おざなりな拍手が響く。
何時の間にそこに居たのだろうか? 海外製の仕立ての良い背広を纏ったその男は、それが気取ったものであったり嫌らしいものであると思わせぬ余裕を感じさせた。洒落た臙脂のタイを締め、如何にもゆったりと構える男からは一切の隙が感じられない。ただそれだけの事象が、この場に絶対的な緊張感を齎していた。
「素晴らしいじゃないか。無駄な労働が省かれたよ。感謝する」
声音だけは友好的な。然し隻眼の青い瞳は欠片も笑っていない。
「我々は互いに無駄な争いを望まない。違うかね?」
幼い子どもに言い聞かせるかのように、低く、柔らかな声音が落ちていく。
祭壇に足を組んで座っていた男はゆっくりと立ち上がると、カツンと革靴の底を鳴らして√能力者たちへと歩み寄る。
「『クヴァリフの仔』を渡したまえ。それは諸君等の手に余る」
男は語る。連邦|怪異収《FBPC》容局の使命は何も知らぬ無辜の民衆を守る事だと。その為の第一歩が女神クヴァリフ胎から産み落とされた落とし仔に他ならないのだと。
――今、言うことを聞くならば。見逃してやっても良いと。
傲慢なる男はそう告げているのだ。
√能力者達が否を唱えれば、男は『残念だよ』と小さく嘆息して肩を竦めた。
「で、あるならば――諸君等もこの『廃棄物』として処分しようじゃないか」
無造作に。無慈悲に。狂信者であったものの遺骸をなんの感慨もなく蹴り砕いた男の目に明確な殺意が宿る。
この男こそがリンドー・スミス。
今まさに√能力者たちの全てを葬らんとする、簒奪者の姿に他ならなかった。
●折れぬ魂
「話し合いの余地は無いのですね」
篠宮・詩乃(魔血ノ巫女・h05394)の紅の双眸が憂いに揺れる。黄昏の世界で人々が手を取り合うことが出来たなら。もっと早くに手を打つことが出来たなら、この場所だって血の海で満たされずに済んだかもしれないというのに。
「勘違いをされては困るな。――何時から諸君らと我々が対等だと言ったかね?」
この男はその須くを一笑に付してしまう。慈悲も憐憫も、何もかもが無駄なものだとでも言うかのように。
「(とても残念です……心からそう思います)」
幽月を握る手に力が籠る。こんなことの為に振るう刃では、決して無い。
けれど、それでも。
「……ですが私も使命を帯びてこの場に参じているのです」
詩乃は守る為にここにいる。これまでに至る覚悟はとうに出来ている。
正気を失った狂信者たちとは違う。余裕さえ漂わせる目前の男はきっと手練れなのだろうが、臆するほど未熟でも無い。
「で、あるならば。どうするね?」
「あなたを、……倒します!」
内なる魔性の力が詩乃の全身から炎のように噴き出すのとほぼ同時、男の影から異形なるものの群れが顎門を開きながら溢れ出す。
深く、昏く。影の中からぎらぎらと明滅する光は夥しい程の目であった。それら全てが詩乃を捉えたかと思えば闇の触腕が何重もの波状となって一斉に襲い掛かる。
「ぐ、……ぅ……っ」
全てを受け切るには余りに相手の手数が多い。腕を、脚を、脇腹を引き裂かれる痛みに眉を顰めるけれど、詩乃は決して怯むことも膝を突くこともしなかった。
この身は簡単には滅びはしない。覚悟が折れぬ限り、この胸に宿る誓いの炎が消されぬ限り、何度でも、何度でも――!
「人々の……|あの子《千早》の為なら、何度でも!」
「……小賢しい、」
必ず。必ず、守ってみせる。あの子の元へ帰ってみせる。
影から影へ、怪異から怪異へと移り渡る刹那。|魔性《陰》の念動力が男を捕らえ、僅かに怯んだその瞬間に、詩乃は渾身の力でリンドー・スミスへ幽月を突き込んだ。
●天狗風
「随分遅い|狩猟犬《パピー》の登場だな。|King's English《パパの綺麗な鳴き声》でも学んでいたのか?」
「成程? ……其方はどうやら『ママにきちんとしたお片付けを習わなかったようだ』」
狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)が見据える先、リンドー・スミスもまた笑顔であった。互いの間に冷えた沈黙が落ちる。雨漏りでもしているかのように陰湿な空気が漂う中、『は、』と鼻で笑う女の声が響いた。
「阿呆か」
唇だけで嘲笑うつもりでいたが、余りの馬鹿馬鹿しさに言葉は口をついて出た。
一・唯一(狂酔・h00345)は義兄たる澄夜に軽く目配せをひとつ交わして走り出す。首尾は任せろ――まるでそう告げるかのように。彼女の方がよほど冷静だと、気付けば澄夜は小さく笑みを溢して頷きを返した。
「(……無理は禁物と諭すつもりが、俺もまだまだ青いな)」
彼女が仔へと辿り着くまで、自分はこのいけ好かない男を押し留めなければ。
大丈夫。下手は打つまい。
手を広げた澄夜の周囲から、数多の浮遊砲台が今まさに激鉄を起こそうとしていた。
「小癪な真似を」
「――行かせるか!」
蟲の翅が。刃を剥き出しにした腕が、どろりと鉛状に変化した脚が行手を阻む澄夜を丸ごと侵食せんとするのを曳光が如き焔の弾幕が押し留める。伸びる翅には霊狐の牙が、液状化した脚を焼き尽くさんとするのは火車の獄炎であった。
交霊呪術プログラムのひとつ。『阿吽』と名付けられたそれは周囲の最適化を、即ち不適|切な《バグ》存在を排除することに重きを置いたもの。この場に於ける不純物はそちらに他ならぬと、澄夜の集団による波状攻撃は決定打こそ与えないがこと足止めに於いては卓越した技術を誇っていた。
――それと、ほぼ同時。
掠め取られるよりも先に、奪われるよりも早く。義兄を信じ背を向け走り出した唯一は幾つかの布の中に埋もれて蠢いていたクヴァリフの仔の元へといち早く辿り着くことが叶った。
唯一を見た落とし仔は『やっと母を見つけた』とでも言いたげに短い触腕を伸ばし、抱き上げれば暴れることも敵意を露わにすることもなく、言葉はないが安堵したかのようにちいさく丸く収まった。
血に濡れることも臓腑に見える異形も慣れたもの。落とし仔に優しく微笑み掛ける唯一の姿は果たして母であったのか、研究者のそれであったのか。仕草ばかりは優しく柔らかく、羽織で包んでやれば血塗れの異形は『ぷきゅ』と短く鳴き声を上げて唯一の腕に縋るように力を抜いて大人しくなった。
「!」
不意に自身の影が揺らいだか。否、それは墨を溢したかのように周囲を侵食するリンドー・スミスの|影《怪異》そのものであった。
「言っただろう。諸君らの手には余ると」
『それ』を寄越せと。異形に身体を喰わせ、皮膚を食い破らんばかりに血管を浮き立たせた男が低く短く吐き捨てる。
がくん、と唯一の身体が傾いだ。絡め取る怪異の剛腕にみしりと骨が軋む音を立て、小さく舌を打つけれど――何、安いものだ。
「はは。やらんよ、コレは」
にい、と。脚を完全に捕らわれ状況でなお、唯一は笑う。
男とて脳はひとつだ。であれば唯一にばかり構っては居られない。唯一の足止めの為に、本来の目的を奪うべく向けた意識がそれを許してしまう。至近距離まで間合いを詰めた澄夜の降霊銃が、がちりと音を立てて簒奪者の米神を捉えた。
「生憎ジャーキーは切らしていてな、代わりに是非とも味わってくれ」
「小、僧……ッ!」
大きく身を退け反らせたリンドー・スミスの頭部を銃弾が掠める。
鮮血で視界を曇らせた男の目の前から、瞬きの内に捕らえた筈の女の姿は静寂の帷の如く掻き消えていた。
●さんざめく星々よ
「困ったおじさまね……意外とせっかちさん」
お互いに譲れない。譲らない。戦う選択しかないことを憂いて捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)は曹達色の双眸を僅かに俯けるけれど、ううん、と一度だけ大きくかぶりを振ったあとにはもう、その瞳に確かな決意を宿していた。
あいかは花形のポップスタアだ。昏く塞ぎ込んだひとがいれば手を差し伸べ、岩戸に引きこもってしまったかみさまがいれば外の世界はこんなにも煌めいているのだと歌い明かす。ブルゥ・ソーダにゆらめいて。一条の青に希望を乗せて。普くものを笑顔にする。そのために少女は歌う。
――鮮血の祭壇に、刹那、夏空の青が弾けた。
「悪いが、お遊戯会に参加するほど此方は暇ではないのでね」
男が内に宿した怪異が、皮膚を、脈を、肉を食い破って悍ましき姿を顕にする。怪異の群れを我が物として扱うだけには飽き足らず、その身をも媒体にしているのだと。知れば嫌悪よりも『そうまでせざるを得なくなった』この世界への悲しみとやるせなさが強く引き起こされた。彼とて光に焦がれたからこそ、生きようとするからこそ『こう』なってしまったに違いない。
けれど、だからこそあいかはここにいる。
リンドー・スミスが一歩を踏み出すのと、あいかが大きく息を吸い込み歌を響かせるのはほぼ同時。歌っている間のあいかは無防備だ。人間の少女ひとりなぞ、頸を軽く捻ってやれば簡単に幕を引ける――その、筈だった。
ちりん。ちりん。
鈴の音が聞こえる。何処からか、何時からか。青い鈴を尾に括りつけた黒猫たちが、闇に紛れては幾つも、幾つも現れ出づる。
『ねえ。黒い猫が不幸の象徴だなんて、一体全体誰がはじめに決めたのかしら?』
マイク越しに囁いた、あまい少女の声と共に。一斉に|グリマルキン《魔女の使い魔》たちの瞳が見開かれると、伸ばされた鋼鉄の触腕が|幸運なことに《不幸なことに》、儀式に用いるのであろう祭具が音を立てて崩落して男をその場に押し留める。なればと粘液の如く融け出した脚を繰り出せば、『何故か』その瞬間に閃光が弾け、男は僅かに怯みその軌道を揺らがせた。
「何を、している――ッ!」
吐き捨てるように男が呻く。その間も一歩も動かずに、あいかは歌う。歌い続ける。
|メロディのサビ《42秒を歌い切る》まで――3、2、1。
一斉に弾けた青が、夏が、星々が降り注ぐ。
空なき祭壇の彼方から、無数の煌めく星がその輝きを撒きながらあらゆる澱みと混濁を濯ぎおとすかのように落ちていく。希望を見るものにはさいわいを、心なきものには洗礼を。少女は眩いばかりの夏を歌声に乗せてこの場一帯を己のステヱジへと変えてしまった。
「(簒奪者ね、立場が逆なら協力者にもなれると思うのに……分かり合えないのは悲しいわね)」
せめて手を取り合うことが出来たなら。この黄昏の世界にももう少し光明が射すに違いないのに。
でも、それでも。
「ね、おじさま。もしオフの時……利害もなにも、立場もお忘れになれるときがあったなら」
私のコンサートにいらして、一曲聞いてもらえたら嬉しいです。
はにかみながら齎された少女の願いに、男は『考えておくよ』と皮肉混じりに嗤った。
●煙火に踊れ
『廃棄物』だと、男は宣った。
刹那、いつかの日々が蘇る。からっぽの胃から液が込み上げてくるようだ。低く、太く。おそろしいあの声が、何時までも耳にこびり付いて離れない。その|再現《デジャヴ》のような心地がした。
「(あの傲慢な簒奪者は苦手です……)」
組織にいた人間たちを否応にでも思い起こさせる。非人道的で、残忍で、自分たち以外の命を塵屑のように扱う『あのひとたち』と、かの簒奪者の在り様は酷似しているようで、魔花伏木・斑猫(ネコソギスクラッパー・h00651)はそれが堪らなく恐ろしかった。
それでも。否、だからこそ。男の申し出は丁重に、武力を以ってして跳ね除けねばならない。連邦|怪異収《FBPC》容局なぞの手にクヴァリフの仔が渡ってしまう方がよほど恐ろしい。
闇に紛れ、地を蹴り、斑猫は恐怖に噛み合わぬ歯の根を無理矢理食い縛ると思い切りスターターハンドルを引き上げた。
死角から唐突にチェーンソーの駆動音が不気味な排気音と共に吹き上がり、咄嗟に一歩飛び退った男の脇腹を僅かに掠める。
「――ッ」
然して噴き出すのは鮮血ではない。暗く、昏く、怪異に臓腑を捧げた男の血は酷く澱んで濁っていた。自分を『愚図』だと実験のたびに吐き捨てた男のはらわただって、結局は真っ赤なにんげんのものだった。だのに、目の前の男の血液ときたらまるで重油のように黒ずんだ、穢らわしい怪異のそれのよう。
ああ――そうか。
これは狩猟だ。相手は獣だ。それならば解体できる。
熱気が焦げる。連鎖する。光と音が僅かにずれて、辺りを鈍い音と炎が支配する。斑猫が敷き詰めたチェーンマインが一斉に火を噴き男の影から出づる怪異を舐め尽くすかのように蹂躙し、男が距離を取れば取るほど、爆撃は連鎖し斑猫の姿ごと煙の中へ覆い隠していく。
「リンドー・スミス。あなたの手に余らない保証もない……私は、そう思います」
黒煙が支配する鮮血の広間の中で、斑猫の彩を違えた瞳だけが残火のように光を帯びていた。
●汝とは何か
「彼が件の……なるほど」
道明・玻縷霞(普通の捜査官・h01642)はこの場に於いて誰よりも冷静であった。
成る可くは理性的に、穏便に物事を済ませたくはある。あるが、武力による制圧でしか解決しないのであれば話は別。何時。誰が。何故――その全てが玻縷霞にとって関わりのないものであり、敵が単なる怪異であろうと簒奪者であろうと任務内容に変わりはない。相手の戦い方さえ分かれば最早問答さえ必要ないと身構える玻縷霞とは対照的に、逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)は漸く目前に現れた『本命』の姿に知らず声を弾ませていた。
「無駄な争いなんてつれないなぁ、パーティーはこれからだってのに!」
どーせこの顔だって憶えてないんでしょ、なんて軽口混じりに揶揄すれば、簒奪者の口元が歪な笑みの形に歪む。
「……であれば、こう答えようか。『殺りに来るなら、殺られる覚悟も済ませておく』……だったか?」
「ハハ……、……上等じゃん」
刹那、大洋の瞳孔がかっと見開かれ、直ぐに愉悦の色に揺らいだ。――成る程、彼は『一度ぶっ飛ばされたこと』を憶えているらしい。そいつは中々どうして、『最高』じゃないか!
「逝名井さんは以前も会ったことがありましたね」
身体中の血管が興奮して暴れ出すのを、今にも飛び出しそうになるのを、玻縷霞の静かな声が引き戻す。今は任務の最中。初めてのツーマンセルを目先の快楽に囚われてぶち壊しにしてしまう訳にはいかないと、大洋は深く息を吸って相棒へと頷き返した。
「はい、道明さん。……ヤツは身の内の怪異に騎乗してきます。着地点にご注意を」
一度ではない。相手の手の内は分かっている。
ボクが道を作りますと、大洋が銃を構える姿勢を取ると同時に玻縷霞は視線で応じると簒奪者の前へと躍り出た。
「『見逃す』などと。連邦|怪異収《FBPC》容局は随分と甘いやり方を許しているようだ」
――やらねば、決して終わらぬというのに。
銃声が幾度も、幾度も、聖堂とは名ばかりの血塗れの部屋に響き渡る。
男の四肢から、影から、背後から。全てを覆い尽くさんとばかりに噴き上がる怪異の群れが顎門を開いて襲い来るのを、大洋の放つ銃弾が押し留めていた。
鎖を引き千切った獣が如き勢いでリンドー・スミスへと距離を詰めた玻縷霞の拳が風の唸り声を上げながら男の胴へと叩き込まれる。然し、連邦|怪異収《FBPC》容局に名を連ねる者もそう易々とその身に攻撃を受け入れることはなく、拳の勢いを削ぐように怪異を膨れ上がらせその度に力を受け流していく。
埒があかない。互いに焦れるほどに拳を、銃弾を交わすけれど――そんな時、無作法に火種を放り込んだのは簒奪者の男の方であった。
「ああ。獣臭いと思ったら――君は『狗の成り損ない』かね。道理で」
であれば多少の解体の価値程度はあろうかと。せせら笑う男の言葉に、大洋は耳奥で太い血管が音を立てて切れてしまったような心地がした。
この男は。今。道明さんに、何を――、
「Hands off!! ボクの相棒をテメェの|捨駒《怪異》と一緒にすんな!!」
地を蹴る靴底から火花が散るようだった。急激に身体の限界を超えて加速する大洋の足の筋肉がみしみしと悲鳴を上げるが、構うことはない。一気に詰めたその距離を保ったまま、軋む体を捻りながらリロードを終えたANARCHYの銃口を男の背後に向ける。
「道明さ……ルカさん!!」
言われた事に何の感慨もない。けれど、ああ。ひとつだけ訂正しなければならない。
「……私はただの狗ですよ」
二人の警視|庁異能捜《カミガリ》査官が交差する。
大洋の零距離射撃が、玻縷霞の冥土行きの一撃が。全霊を込めた一手が、リンドー・スミスを確かに貫いた。
「が、ッ……!」
「彼の相棒ということを除けば、ね」
●化生の饗
「無駄な争いかァ……こういうの何て云うんだったっけ」
「漁夫の利? うーん。お褒めに預かりって言うべきなのかね、これ」
肩を竦め合う緇・カナト(hellhound・h02325)と黒南風・螢(毒雨入之刻・h01757)の言葉には多分に呆れの色が含まれていた。潰し合いが彼の目的の内だったにしても、こうまで露骨にされてしまっては決していい気はしないというもの。
高みの見物を決め込み命が散らされるのを傍観し、横から獲物を掠め取る。狩猟者としての矜持はないのかと、カナトは思わず鼻で笑ってしまうけれど。
「おにーさんさぁ、いきなり来ていいとこどり、ってのはどうかとおもうんだよねぇ」
喉まで出掛かったものは螢が全て口にしてくれた。飄々とした笑みを浮かべた女の調子は常とは変わらずとも、それらの『御心遣い』を素直に受け取ってくれるような可愛げのある相手ではないことは百も承知。『無駄な労は惜しむ性質でね』と口内に溜まった血液と共に言い捨てるリンドー・スミスの物言いに、白片・湊斗(溟・h05667)は揺れる双眸の奥に強い憎悪を滲ませながら低く唸った。
「民衆守るっつうお題目は良いが、毒もゴミも新物質も、もし取り扱いを間違えたが最後。無事じゃ済まない。……無事では帰さない」
言葉にはほんの少しの自虐が滲む。波華を握り締める手が震える。分不相応なものを御そうとした人間の末路を知っている。それ故に軽々しく薄っぺらい救済を唱えるこの男のことが許せない。
「御足労かけて申し訳ない限りだけど。アンタはその|廃棄物《俺達》に目的を阻まれる訳だ」
「そうそう。異議申し立てなら然るべきルートってやつでどーぞ?」
湊斗の言葉にも螢の声にも男は応えない。
ただ酷薄な笑みを浮かべるだけ。それはまるで『自分よりも『|それ《仔》』に価値を付加出来るものか』とせせら笑っているかのようだった。
「……煽り合いよりは楽しく戯れ合うとしようかねェ」
笑みの形に吊り上がったカナトの唇の端から鋭く尖った牙が覗く。
大口叩くだけに見合った実力はあるのかなァ、と。嗤う黒妖犬が灰狐狼の毛皮を翻すのと、パチン、と男が指を鳴らすのはほぼ同時だった。
爛れたような怪異の赤い眼が、煮え立つ膚が。男の背から、腕から、脚から。至る所から止め処なく蛆のように溢れ出て来る。ああ、なんて――なんて醜い。
「(反吐が出る)」
男の姿はきっと自分と鏡写しだ。
だからこそ許せない。男は剰え、自らの狡智をさも正義であるかのように唱えては人の命を塵屑のように扱うのだ。毒液を溜め込んだ|水怪らの刺胞《シリンジシューター》から撃ち出された弾丸で怪異の細胞を焼き切りながら、湊斗はリンドー・スミスに肉薄せんとするカナトが最大限の力を発揮出来るよう援護射撃を続けていた。
「――愚図がッ!!」
腐乱臭を放ちながらぐずぐずと溶けゆく怪異の様に飛び移ることの叶わなかった男は小さく舌を打つ。夥しい濃緑の、或いは鮮烈な陽の彩を宿した羽の乱舞は螢が常は身の内にひた隠しにする猛毒の翼。蟲翅を震わせ体制が崩れそうになるのをなんとか堪えるも、舞い踊る羽は彩のあるものだけではない。
「こちとらか弱い女の子なもんでね。正面からやり合うなんてのは、ご遠慮願いたいなーってね」
蝋燭の火を僅かに反射するそれは、触れたものを停止させる透明な羽の群れ。毒はあくまで目眩しだと――気付く頃には、もう遅い。男がびたりと不自然な姿勢のまま固まったのは時間にすればほんの僅かの間だったかもしれない。けれど、充分。限界まで速度を上げて跳躍したカナトが血塗れの斧を振り被るには釣りが来るほどに充分な隙だった。
「捕まえたァ!」
増える、増える。蟲翅に、刃と化した腕に深々と喰い込んで、男が地面に強く叩き付けられるのと同時。それまで援護射撃に徹していた湊斗の頬に一筋伝った――否、それは涙ではなく――雫はぶくぶくと泡を立てながら膨れ上がり、硝子の触手を実体化させた|海雀蜂《シーワスプ》が男の裂傷に潜り込み、容赦無く致死の毒を以って腐食させていく。
「が、ァ――ああぁあぁああッッ!!!!」
リンドー・スミスは今度こそ憎悪と苦悶に満ちた声を上げる。けれど、男とて未だ理性を失ってはいない。これ以上の毒の侵食を食い止めんと、自ら刃腕で腐り落ちた蟲翅を切り落とせば、ヒュウ、とカナトは軽い調子で相手への賞賛を送りながら軽く笑った。
「アハ。追い詰められてから見る本性の方が屹度愉しいよ」
「貴様、ら……ァ……!」
諸君等の手に余るなんて云うけれど。着飾るばかりのこの男が手にしたとて、使い道などあろうものか。
「アンタにクヴァリフの仔は渡さない。……アンタを、無事でも帰さない」
それが答えだと、湊斗は今一度銃弾と共に水怪の触腕を手繰った。
●侵食する赤
ぼたり。ぼたり。
落ちる血潮は何方のものであったのか。アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は自らの眷属に脇腹に穴を開けられてもなお。リンドー・スミスは己が異形の一部が腐り落ちてもなお、笑っていた。
「……ハハ、フハハッ! 俺様達を処分するだと? 笑わせる!」
覇王たる己よりも傲岸不遜な物言いをするとは笑止。やれるものならばやってみろと、唇の端から鮮血を零しながらも気丈に振る舞うその姿に、静寂・恭兵(花守り・h00274)は深く溜息を吐き、アダンを庇うように一歩前へと踏み出した。
「相変わらずな態度だな……。友好的な言葉もあんたの口から出ると胡散臭いことこの上ない」
「さて。此方は充分諸君等に譲歩していると思うがね」
嘘は吐いていないとばかりに肩を竦める男には先までの余裕が見られない。形振り構わぬ手負の獣だ。油断する訳には――いや、それよりも。
「ハ! 殺れるものならばやってみろ、俗物めが。相棒、奴の攻撃は俺様に任せ、」
「アダン! お前は下がっていろ!」
アダンの傷は決して浅くない。前線を走らせて傷を広げさせる訳にはいかない。だからこそ、恭兵は常は張らぬ声を大きく張り上げて相棒が駆け出すのを自らの身体で押し留めた。
「――は?」
彼は何を。覇王である自分に、下がれと?
驚愕に見開かれた双眸に怒りの色を滲ませ、アダンは行手を遮る恭兵の背に声を荒げて否を唱える。
「巫山戯るな! お前の言であろうと……っ、」
「理由は後で聞かせてやる。援護は頼んだ」
苛立ちに声を震わすも、恭兵がここまで自分に強くものを言うことは滅多にない。いいな、と念を押されてしまっては一触即発の空気の中それ以上言い募ることも出来ず、『後で理由を聞かせろ』と渋く承諾の意を示せば恭兵は青冴えた刀を構え簒奪者の兇刃がアダンに届かぬように身体を滑り込ませた。
「舐められたものだ。連れを庇いながら私と渡り合う心算かね?」
リンドー・スミスの右腕は最早ひとの腕のかたちを成していなかった。
焼け爛れた膚を食い破るように寄生した怪異の刃腕から血液とも粘液ともつかぬ液体を迸らせながら繰り出される斬撃が全てを薙ぎ払わんとするのを、いなし、躱し――攻勢へと転じるあと一手が、足りぬ。
「(……『相棒』に今まで頼りすぎていたかもしれないな)」
恭兵は内心で苦く笑う。
頬に、顎に。赤い汗が僅かに滲んだ。
「(もどかしい)」
本来なら共に前線で刃を交えている筈。だのに、何故相棒は己に下がれなどと言ったのか。だが、彼は理由なくアダンを叱咤するような男ではない。ならばせめて、守られるばかりでは居られない。自身が対等と認めた男に、地を這い蹲らせるようなことなど決してあってはならないのだから。
「――恭兵!」
魔蠅の羽が闇に浮かぶ。アダンの背から、溢れ出る血液を餌にして広がる翅が、赤い影となって簒奪者の影を侵食して縫い止める。
「ああ、くそ。無理をするなと……!」
名を呼ぶ声に一瞬目を眇めるも、アダンが生み出した勝機を恭兵は逃しはしない。刃腕で受け止められるよりも早く上段から思い切り叩き込んだ一撃が、リンドー・スミスの胸を大きく斬り裂いた。
アダンには痛覚がない。
痛みを知らぬが故に恐怖心がない。
知らぬ内に致命傷を負っていたとしても気付かない。痛みがないから、倒れられない。本来なら気を失っていても可笑しくない失血を憂いてのことだと――恭兵がアダンに告げるのは、これなる幕引きを終えてからのこと。
●いのちの行方
「……不愉快だな」
端的に告げたベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)は朽ちゆく簒奪者へと一瞥をくれて厭わしさを顕にした。
この男が口にする『救い』とやらには一片の希望も感じられない。救済や守護を口にする者の言葉には情や温もりが宿る筈。だのに、この男の言葉は全てが全て冷え切って、何の慈悲も伝わっては来なかった。
長く――そう、きっと。本当に長い間。
ひとのかたちに変じるよりももっとずっと、遥か昔から。ベネディクトは自身が守護者であったのだと云うことだけを朧げに知覚していた。今となってはその殆どの記憶は喪われていたが、それでも長い時間を掛けてこの身に刻まれてきた守護者としての魂が、全霊で己に告げてくるのだ。
「お前にあの子を渡してはならないと」
「――成り損ないが、よく吠える」
竜の姿も取れぬ者が、と。血に塗れながらも男は嗤う。
然し、それに否を唱えるものがこの場にはもう一人在った。
「それを決めるのは、あなたではない」
賀茂・和奏(火種喰い・h04310)はまろい輪郭に静かな怒りを湛えながら並び立つ。
『無駄な争い』ならば避けたい。けれど、今は『無駄』ではない。
「あなたに彼を罵る権利も、あの子を奪う権利もありはしない。だからぶつかる」
それだけですよ、ミスター。
和奏が柔く告げるのとほぼ同時、ベネディクトは自らの裡に宿る樹木竜の力を呼び醒ます。互いに譲れないものがある。だからこそ、自分たちは今此処に立っているのだ。
竜漿を燃やし呼び起こすは樫竜の力。
記憶には残っていない。けれど、ベネディクトの全身を巡る血潮の一滴がその力を覚えている。岩肌にひびが入るかの如く、乾いた音を立てながらベネディクトの腕を覆いゆくのは黒き樫の鱗。常は短く整えた爪ひとつさえ、鉄をも引き裂く強靭な竜のそれとなる。地鳴りと共に踏み出された一歩を助けるように、和奏もまた動き出す。
「稲ちゃん、行くよ」
鯉口を切り刃を抜けば、ばちりと大きく一度稲光が迸った。狐神たる存在は気まぐれで時々そっぽを向いてしまうこともあるけれど、出掛けに用意しておいた|おやつ《供物》をいたくお気に召してくれたのか、今日は和奏の願い通りにその力を受け渡してくれている。
「(無辜の民、に……この国のひとや邪魔になる相手は含まれないのだろうな)」
救いを口にするのなら。教えを齎すと言うのなら。もっと、もっとやさしいかたちがあったに違いないのに。簒奪者の声に差し伸べるものとしての温もりはなく、交渉の余地がないことを否応にも伝えてくる。それが和奏には酷く悲しいことのように思えて――だからこそ、この場は決して譲れないのだと前を見据えた。
虫翅を失ったリンドー・スミスに最早怪異の間を跳躍する力は残されていない。ベネディクトを襲う怪異の群れを雷の斬撃で打ち払えば、竜を押し留められるものはもう何処にもありはしない。
「樹木と侮るならば刈り取ってみせろ。獣と嘲笑うならば屠ってみせろ」
異形なるもの、何足るものぞ。その悉くを轢き潰す。
ベネディクトの竜爪が、和奏が引き寄せた簒奪者の上半身ごと諸共抉り――断末魔の声も残さぬまま、リンドー・スミスは粘着質で耳障りな音と共にどう、と地に倒れ、周囲のインビジブルに溶け合うようにその姿を掻き消していった。
『きゅぷ』
先に戦線から離脱することに成功していたクヴァリフの仔が、所在なげに身を捩っている姿を覗き込む。何処が顔なのかもよくわからないが、少なくともこちらを認識出来る程度には知能があるのかも、しれない。
「大丈夫だよ。俺はお母さんじゃないけど……怪異もいのちも隣人だ」
「ああ。そうだな」
生まれたてのこの存在を悪いようにはするまいと。√能力者達は頷き合うと、血の祭事場を後にした。
ある者は現場の、事件の顛末を報告する為に。ある者は、帰る場所で待つひとの為に。
――マルフタサンロク。
クヴァリフの仔は、無事に√能力者達の手によって保護された。
この存在が人類にとって光明足り得るかは未だ定かではないが、それでも。ひとつの簒奪者の野望を打ち砕いたことは確かであった。