淡くて儚い恋の味
●Accident
|昏《くら》い。
喫茶店を出るとすでに日は沈みきっており、辺りは夜の闇に呑まれていた。町の灯りがあたたかく投げかけられているとはいえ、家路を思うと少し不安がよぎる。
しかし、帰路につく少女たちの足取りは軽かった。教材の詰まった重いバッグを片手に提げ、空いたほうの手にはラッピングがほどこされた可愛らしいギフトボックスを抱いている。
友人たちと別れて一人きりになっても、少女の心は高揚して、いつまで経っても頬は熱い。きっと林檎のように赤くなっているかもしれない。もしかしたら、受け取る時からすでに――。
意味もなくじたばたしたくなる気持ちを噛み締めながら、急くように歩を進めていた、その時だった。
ひゅっと風が吹いた。
目の前を奔ったその鋭さに驚いて立ち止まると、なぜだかどんどん、腕が熱くなってくる。恐る恐る視線を落とすと、プレゼントを抱いているほうの腕がすっぱり切れていた。覗いた肌から、ぷくりと赤い血が盛り上がって、「あ」と思う間にそれはどんどん溢れて制服を濡らしていく。
「え、あ……?」
混乱して思考が真っ白になる。
己の血だまりに膝を突くと、前から誰ぞがやってきて、何が面白いのか頭上でケタケタ不気味に笑いはじめた。
「美少女の絶望顔いただきましたー」
かろうじて顔を上げると、ころりと太った月を背にして、恐ろしくも美しい輝きを放つ刀身が、己に向かって落ちてくるのを見た。
●Caution
『今年は逆チョコ』
それは、ほんの一部の界隈にだけ広まった、バレンタインのルールなのだと物部・真宵(憂宵・h02423)は言った。
「高校を卒業する三年生が発端だったそうです。それが後輩に伝わって、結果的にその高校全体に広まるほどになったとか」
だが不幸なことに、この高校近辺で近ごろ辻斬りが発生しているという。これは、古妖の復活に呼応するようにして起こり始めた事件の可能性が極めて高く、被害者は日に日に増えていく一方であった。
「まずは皆さんに、この辻斬りの犯人を突き止めてもらいたいのです」
同じ夜、同じ時間帯に事件が複数発生していることが分かっているため、辻斬りは単独犯ではない可能性がある。被害者に共通するのは、少女、あるいは若い女性で全員何かしらの小包を抱えていたという。おそらくはバレンタインのプレゼントだろう。
「辻斬りは女性たちを斬り付けたあと、小包を奪ったり目の前で踏みつけたりといった行為を行っているようです」
現場はいずれも細道であったり路地や袋小路といった、人気も灯りも少ない場所。だが、それを逆手に取れば辻斬りを待ち伏せしたり、捕まえることが出来るかもしれない。
「それと、ですね」
真宵が手帳をめくる手を止めた。
「実は、この逆チョコイベントが開催されている高校に、古妖を解き放ってしまった学生さんが在籍していらっしゃるんですよ。……しかも、女学生です」
いささか空気が重くなったのを肌で感じ、真宵は微苦笑を浮かべて、なるべく場をやわらげるように、やさしく言った。
「この女学生さん、お菓子作りが得意な幼馴染の恋人が居たようで、毎年彼がバレンタインのチョコレートを手作りしてくれたそうなんです」
今年は逆チョコ。
だから、今年は自分がチョコレートを手作りして彼に贈る、そのつもりだったのに。
「彼は事故で帰らぬ人となってしまった。最愛の人を失ってしまった彼女は古妖の呼びかけにあらがうことが出来ず、封印を解いてしまった、とそういう次第なのです」
彼女は自責の念に駆られながらも、手作りしたチョコレートを彼の墓前に供えるつもりのようだ。墓所は灯りも少なくその道中は辻斬りにとって格好の餌食とも呼べる。
もちろん脅威となる古妖を再封印することが目的ではあるが、まずは辻斬り事件から解決していこう。
「想いを踏みにじる悪逆を見過ごすことはできません。どうか皆さん、よろしくお願いいたします」
真宵は深く頭を下げた。
第1章 冒険 『辻斬り事件を追え』

(「辻斬り、ねぇ……」)
町の灯りから逃れるように、路地裏の暗がりに背を預けるようにして煙草を吸っていた三戸部・ジン(怠惰を貪る巡査官・h00963)は、細く切り取られた虚空に向かって紫煙を燻らせた。
目抜き通りは帰路に着く者や夜遊びに向かう者などで賑わっており、下校途中と思われる女子学生たちもまだあまり警戒していないように思われた。駅前といった人通りの多い場所よりも、自宅にほど近い住宅街のほうがひとりになりやすい。存外、自宅周辺で犯罪に遭うケースは多いのだ。
(「"汚職"警察なもんで、使える情報は遠慮なく」)
古い家屋が密集した住宅街だった。それゆえ家の裏側を通るような細道が幾つも巡らされており、土地勘が無ければ迷うほど複雑に入り乱れている。そういった道に限って街灯はなく、空き家や物置きといった場所も多いのでこの辺りの住民は不安を抱えているという。
月だけに照らされた通路は、まるで死出の旅路のよう。ジンはひとりの女子学生が眼前の闇に吸い込まれるように小道に入っていくのを見てしまい、後ろ頭をがりがりと掻いた。ある程度のあたりをつけてはいたが、よりにもよって。
(「そりゃ近道があるんなら、使えるもんは使って早く帰りてぇよな」)
煙草を咥えたまま、ジンは即座にデッドマンズ・チョイスを発動。|かつての同僚《誰か》の鼓動が重なる感覚を得て<隠密>の能力が倍化するのを覚えると、闇に乗じて女子学生の後を追いかける。あらかじめどこに通じる道であるのか把握していたので、彼女を横目に先回りして空き家の垣根の裏に身を隠して息を殺す。
小さな足音が、こちらに向かって近づいてくる。研ぎ澄ました神経は、そのあとに続くもう一つの足音を捉えて離さない。心の内で辻斬りを"悪"と定め、視線は前を向いたままジンは帯革の後ろに装着した壊れた手錠を片手に取り、その黒ずくめに向かって捕縛を試みた。
「うわっ」
「きゃあっ!」
二つの悲鳴が道路に転がり落ちる。
突然なにかに手元を捕らわれた黒ずくめの男と、その悲鳴に驚いた女子学生は、物陰からゆらりと姿を現したつぎはぎだらけのジンを目にして息を呑む。
「それは、人違いなら鍵はかからねぇ。そもそも、女の子が一人の時に近づくなんて碌な奴はいねえんだよ」
「まだ何もしてねぇだろ!」
「……まだ、ね」
黒ずくめの男が失言に気がついたらしかったが、ジンは男の右手にサバイバルナイフが握りしめられているのを確認すると、矢庭に長い脚で手首を蹴り上げる。苦悶の声が男から漏れる間もなく、ジンは男が羽織ったパーカーの襟元を掴み体を崩したあと、相手の膝裏に脚を差しこみ上体を奥に倒して、その勢いのまま地面にねじ伏せた。
背中を強打したことにより、男は息が出来なくなる。
掠れた呼気が唇の端から逃げていく音を聞きながら、ジンは男の上にどかりと座り込む。咥えたままであった煙草を、仰向けに倒れた男の顔横の地面に押し付けるようにして掻き消すと、一仕事終えたとばかりに月に向かって紫煙を吐き出した。
夜風に当てられ、寒い寒いとはしゃぐ少女たちの手には、皆一様にチョコレート専門店の紙袋が提げられている。肩を寄せ合って笑う仕草は二月の寒さに震えて互いを暖め合うというより、バレンタインデーという催事に浮かれている気持ちを共有しているように思われた。
(「自分には縁のないイベントですけど、彼女達にとっては一大イベントでしょうね」)
陰翳の底で眠っていたら、瞼の裏を刺すほど強い光を寄こされたような眩しさを覚えた井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は、彼女たちの笑顔から逃れるようにその場から立ち去った。
(「異常な犯人と出会うことは慣れてるんで、待ち構えておきましょうか」)
物陰に隠れつつ、細い路地にぬるりと身を滑り込ませた靜眞は、通り抜けのできない袋小路で待ち伏せの態勢に入った。左右に軒を連ねる家屋は窓のない壁になっていて、誰ぞが悲鳴を上げても声が届かないような場所だった。手入れの行き届いていない鬱蒼とした樹木の影に身を潜めてしばし【第六感】があるものを察知した。
それはどこか頼りない足音だった。ゆっくりとこちらへやってくる。重なり合う葉の隙間から窺うと、一人の女子学生がスマートフォンに視線を落としたまま歩いてくるところであった。腕には誰もが知っている高級ブランドのチョコレートの紙袋を提げている。
彼女はふと顔を上げて「あれ」「道間違えた」誰もいないと思っているのだろう、そんな独り言を口にして踵を返したのだが。
「歩きスマホは危ないよ」
女子学生の進行方向をふさぐように、一人の男が立ちはだかった。表の通りからわずかに漏れてくる灯りが図体のでかい輪郭を浮かび上がらせているが、顔は暗くて表情すら分からない。ただ決して好意的ではない異様な雰囲気を放つ男に退路を塞がれて絶望する女性へと、左手が伸ばされる。右手には、月光に照らされたすらりと長い刃物があった。
瞬間。
男が突然、短く悲鳴をあげて、ぐらぐら揺れ出した。大地に足を踏ん張っても、世界を搔き乱すように激しい揺れは己の力ではどうすることも出来ない。脳を揺さぶられるほどの震動は得物を取り落としてしまうほどだ。
「そのまま倒れてください」
樹木の影からのっそりと姿を現した靜眞は、何が起こっているのか分からずぽかんとしている女子学生に明るい場所へ向かうよう指示してから、四肢をめちゃくちゃに暴れさせて抵抗する男――辻斬りに【殺気】を放ってその動きを止めてみせた。
「大人しくしてくださいね……自分は、加害者を多少怪我させることを厭いませんから」
帯革から手錠を外しながら眼前にしゃがみ込み、何の感情も感じさせない声音でそう呼びかけると、巨躯の肩がみっともなく震えだす。抵抗はもはや何の効果も得られないことを身をもって知ったのだろう。その様に、靜眞は唇の端を歪めるようにして|嘲笑《わら》い、逃げられぬよう辻斬りの片手と建物のパイプを繋ぐよう手錠をかけた。
かしゃん。
それは、非力な者たちを傷つけ甚振った犯人を捕らえるには、あまりにも軽い音だった。
「こんなのが同時に複数現れるとは、世も末ですね」
立ち上がり、天を仰ぐと月がこちらを覗いている。皮肉なほどに、何の翳りもなく、ぴかぴかと。
(「……いや、いつの時代も、ですか」)
(「辻斬りってさぁ……。今は令和ですよ? 江戸時代じゃないんですよ?」)
誰もが知っているチョコレートブランドの紙袋をこれ見よがしにぶら提げて、|人気《ひとけ》の少ないほうへと歩を進める八木橋・藍依の表情は苦い。
(「まあ、そこは百歩譲って目を瞑るとしても。女子供ばかり狙うってどう見てもクソ変態じゃないですか! ドン引きなんですけど!」)
駅前や表通りには、バレンタインという一大イベントに浮かれた少女たちが大勢居て、どきどきした気持ちを抱えて帰路につく彼女たちの笑顔を思うと、腹の底が煮えるような怒りが湧いてくる。|赫怒《かくど》する藍依は、正直関わりたくない気持ちもあったのだが、このままだと女の子達が可哀想だ。事件に協力することで一人でも多くの人が救えるのならば、己が囮となって辻斬りを捕まえようではないか。
自分より弱い立場の者しか狙わない奴は、大抵が派手な見た目を嫌い大人しそうな者を狙う。よって、普段ならば輝くような明るさをした性格を押し隠すような変装をした藍依は、気弱そうな女性を意識した立ち居振る舞いで、暗い夜道へと入ってゆく。
(「想像より街灯が少なくて、危ないですね」)
格好の餌食ではないか。
|千里眼カメラ《ドローン》で己の目の届かない場所も注視しているが、忘れたころにぽつんとおざなりに光を投げかける街灯がちらほらある、といった具合だった。しかも、藍依の視線の先にある街灯など、ぶぶぶ、と明滅してはフッと暗くなったりして、ずいぶんと気味が悪い。
(「これはきちんと整備してもらわないと、住民の皆さんも不安でしょうね」)
背後から狙われる可能性を視野に入れて千里眼カメラを起動させてはみたが、どうやら正解のようだ。これでは警戒する方向があまりにも多い。
街灯がちかちか瞬いて、また消えた。
暗くなるその一瞬、街灯の影に何者かが立っているのが見えた気がして藍依の足が止まる。ほんの数メートル。呼気を漏らせば聞こえるのではないかと思うほどの静寂が耳を突く。
藍依が詰めていた息を吐いた、そのとき。
黒い人影がこちらに向かって走ってきた。街灯が点く。頼りない光が、頭上に掲げられた包丁を照らし出したのを見て、藍依は唇を噛み締めた。降り下ろされた凶刃が藍依の柔らかい肌を突き刺す――と、思われたその刹那。
「ギャッ!」
人影が何もないところで躓き、顔面から地面にすっ転んだ。歯をぶつけたのか、包丁を手放して両手で口を押えてもんどり打つさまは活きが良い。
|号外新聞出版!《エクストラ・ニュース》
それは一度だけ行動を失敗させる藍依の√能力。まんまと作戦に引っかかった人影――辻斬りは、痛みで涙をぼろぼろ零しながら、悲壮感たっぷりの眼差しで藍依を仰ぐも、そこにいるのは気弱な女子学生などではなくHK416の|少女人形《レプリノイド》。
「お縄につきなさい!」
容赦なく全身をみっちり締め上げられて、しばらく陸に打ち上げられた魚のようにびちびち跳ねていたが、抵抗は無駄だと痛感したのかほどなくして辻斬りはぐったりと大人しくなった。
「事件も事件、大事件」
今日も今日とて、サボりに馴染みである刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)の時計屋に足を踏み入れたら、つかまった。何のこっちゃと事情を聞けば、噂には聞いていた辻斬りとやらをとっ捕まえに行くから力を貸せとのことだった。
「花咲く乙女を狙った辻斬りと聞いたら放ってはおけない。だろう?」
柔和な眼差しで微笑まれ、狗枷・ほどろ(雲遊萍寄に揺蕩う獣・h06023)は寸の間考える素振りをしてみせたが。
「はァ……仕方ねぇな。貸しイチだからな」
この案件にゃ、どうせ出向くつもりだったから良いかと、ほどろは独りごちて、懐古と共に夜街に繰り出し張り込みを行うことにした。
うまく汚職警官……ではなく、みんなに慕われる“いぬのおまわりさん”を出勤させることに成功して満足げな懐古は、|昏《くら》い路地裏の更に暗い建物の影に身を隠しながら、袖の内からとあるものを取り出して、ほどろに向ける。
「はい、ほどろ」
「……なんだよ、それ」
「何って、あんぱんだよ。ほら、刑事が張り込むなら必要だろう?」
これ見よがしに差し出されたあんぱんに、ほどろは思わずため息をついた。しかも、まぁまぁな大きさがある。食べ終わらない内にもし辻斬りが現れたら、口に咥えて出ていけというのだろうか。
「お前さん、最近そういう小説でもハマってんのか?」
きらきらしい通りから幽かに聞こえてくる町の喧噪は、まるで別世界のそれのように思われた。光の見当たらない闇の中というものは、確かに存在しているのに自分だけが常から弾かれたような不気味さを寄こしてくる。この闇の中にあって、若い女性が襲われるというのだから、形容しがたい様々な感情がない交ぜになって喉元を圧迫した。
「てかよ、懐古。ちぃと耳貸せや」
「なんだい?」
手っ取り早い案があると口にしたほどろに耳を傾けると、彼は少しばかりごにょごにょしたまどろっこしい調子で「囮役を頼めるか」と言った。
「能力を使って女学生に化ける?」
確かに懐古の√能力に【幽玄の神妙】というものがある。これは好きな姿に変身できて身体の大きさによって上昇する能力が変化するものなのだが、なるほどこれを用いれば一般の女子学生が襲われることもないし、自分たちで捕まえる分にはもっとも近道になる。
「致し方ない」
これ以上、若い芽を摘ませる訳にはいかないからね。
女学生の姿に化けた懐古は、一旦表の通りに出て行った。その間にほどろは大きな毛むくじゃらの図体を夜闇に隠して、辻斬りを引っ掛けてくる懐古の姿を待つ。
その懐古はと言うと、儚げな女学生を演じていた。歩みは小さく、少し肩を寄せて夜道を帰っていますと言わんばかりの弱弱しさを演出しており、昏いほうへ、暗いほうへとゆっくり歩を進めていく。
物騒な気配を背中に感じたのは、それからすぐのことだった。こつこつと小気味よく鳴る靴音は革靴だろうか。カーブミラーに一瞬だけ映った姿は、スーツを着ているように見えた気がした。
(「自分の巣にお持ち帰り系辻斬りのようだ」)
突然。
背後から腕が伸びてきた。己を捕らえようとする悪しき指先が懐古の腕を、顔面を掴もうとする。
しかし、懐古はその膚が己に触れるより先に、半身になってするりと躱す。まるで煙のように感触のないあしらいに、スーツの男――辻斬りが小さく息を呑む。
「頼んだよ」
ひとこと。
懐古が柔らかな色をした茶の髪をなびかせて路地の端へと引いた途端、その奥の暗がりから何かが飛び出してきた。すでに距離を詰めていたほどろは、己の名を呼ばれると同時に、獣の如く辻斬りに向かって飛び掛かった。
牙を剥いて真っ直ぐ突進してきた巨躯に悲鳴をあげた辻斬りは、タックルを回避できず、片足を持ち上げるように組みつかれてしまい、体勢を崩してそのままほどろと共に地面に倒れ込む。
ほどろはすぐさま辻斬りをうつ伏せに寝かせ、腕を背中に捻り上げて腰に差し込まれていたナイフを抜き取り没収する。
「あー、抵抗すんなよ。もっと痛ぇ目に遭いたいってンなら別だけどな」
「そうそう。いぬのおまわりさんは強いから、腕の一本や二本、ぽっきりいってしまうかもだねぇ」
ずっしりと岩のように重いほどろに捕獲され、痛みで呻くことしかできない辻斬りは一瞬で今後の生活を予感したのか、顔を突っ伏して「くそぅ」と呻き声を一つ漏らした。
すん、と鼻を啜る音がした。
とろりとした琥珀色の瞳で傍らを盗み見ると、眦からひとつの涙が頬を伝うのが見えてしまい、エレノール・ムーンレイカー(怯懦の精霊銃士エレメンタルガンナー・h05517)は憂うようにそっと睫毛を伏せた。
ユキは、普通の女子学生だった。
駅前や喫茶店で顔を突き合わせて笑いあう彼女たちと何ら違わない。けれど、幼馴染という長い付き合いを経た恋人を若くして喪ってしまった悲劇のひと。そういった悲しみを乗り越えることが出来ずに一縷の望みに縋りついてしまう、そんな人を、事件を数多く見てきたエレノールは、そのたびに自分が喪った家族のことを思い返すことも、また多くなっていた。
(「わたしはそれを良しとせず、家族の分も精一杯生きると決めたけれど。――でも、彼女たちの気持ちもわかります」)
だからこそ。
(「そんな想いを利用する輩は許せません」)
ブロック塀には「目撃者を探しています」という小さな張り紙がしてあった。皮肉なことに街灯の明かりを木々が遮っているせいで、夜間の今ほとんど見えはしない。女学生に扮したエレノールとユキは手にチョコレートを持って、寄り添うように闇に包まれた現場を通りかかった。この先に自宅があるのだと言うかのように。
(「制服を着れば女学生に見える……はず」)
それにこの暗さだ、正真正銘本物の女学生であるユキと並べば、差異など分かりはしない。相手は卑劣な辻斬りだ、獲物をちらつかせればきっと喰らいついてくるはず。
二人の足音と息遣いだけが耳朶に届く静寂の中、神経を研ぎ澄ましていたエレノールは前方に何かの気配を察知する。隣のユキを見れば、彼のことを考えているのか、あるいはこの辻斬り事件の発端を生んでしまった罪を悔いているのか、ずっと俯いたままで顔色は分からない。
さりげなくユキより前に出て、あえて隙だらけの背中を見せるように彼女の前で振り返った、そのとき。
地面を蹴る音と、意味を成さぬ言語を発しながらこちらに飛び掛かってくる者があった。「ヒッ」と短く悲鳴を上げたユキが怯えてその場に立ち尽くす。エレノールはその人物からは見えないように己の身体でユキを隠したまま、一度頸だけで後方を見やり間合いをはかる。持ち前の素早さを生かして切っ先が降り下ろされるより早く、その腕を掴み、捻り上げると同時に足を蹴とばし仰向けに突き倒せば、手からは折り畳みナイフが転がり落ちた。
「く、そ……何なんだよ、お前ぇ」
驚いたことに、辻斬りはユキと同じ年頃の未成年だった。大人になりきれていない少年が、辻斬りなどという卑劣極まりない手段で人を傷つけていたのかと思うと、口の中に苦いものがじわりと広がる思いがした。
「ごめんなさい……」
身動きが取れぬよう手早く四肢を縛りあげていると、か細い声が聞こえてきた。顔を上げると、地面にへたりこんだユキが繰り返し繰り返し謝っている。胸に手作りのチョコレートを抱きしめて、己の弱さを、そして傷ついた人たちを想い、泣いている。
第2章 集団戦 『カラクリコガサ』

捕らえた辻斬りたちを一絡げにして突き出すと、身柄を回収されてゆく彼らは大層醜く罵り合った。曰く「お前が下手を打ったせい」だとか「調子に乗って連日やるからだ」だとか、あたかも他人のせいで捕まったのだと言い張っている。
無様な最後に呆れて言葉も出ない。どこかすっとしない、小さなわだかまりを身の内に抱えながらその場を後にする。辻斬りを捕らえたとて、まだ元凶の古妖がどこかにいるのだ。
偶然――あるいは何か目には見えぬ導きによって連れてこられたのか。通りかかったのは、間口の広い庭付きの家屋であった。温泉宿だったのか、微かに鼻をつく硫黄の匂いが当たりを揺蕩っている。何とはなしに足を止めたとき、ついてきていたユキが小さく息を呑んだ気配がして、振り返る。
「こ、ここ……」
その時だった。母屋の前面に広がる庭の暗がりで、ぽっ、ぽっと青く妖しい光が灯りだした。ひぃ、ふぅ、み……。数える間もなくそれは輝きを増して、次いで届いたのは可憐な鈴の音色。
「あまぁい匂いがする、ヨ?」
「知ってる。知ってる。チョコレイトっていうんだよネ?」
現れたのは複数体のカラクリコガサであった。
にんまり笑い、囁くように笑いあう。朽ちた傘をくるりくるりと回せば、淡く光る毒茸の胞子が夜の闇の中で蛍のように舞い上がるさまが不気味で美しい。
「あの扉を、開けてしまったんです。そうしたら、白髪の男の人が出てきて、それで」
ユキが叫ぶように言った。
指を差したのは、古びた母屋の玄関であった。辺りに散らばった札が異質を物語っている。ここに古妖がいるのならば、まずはこのカラクリコガサたちを一掃しなくては。
「辻斬りもお縄についた事だし、さて帰るか」
くあ、と牙を剥くように大きな欠伸をした狗枷・ほどろが、カランと下駄を鳴らして歩き始めたかたわら、横目で刻・懐古を見やれば、なぜだか帰る気配がまったく無い。ふむ、と思案するように虚空を仰ぎ顎下を撫でる。これはそうっと去るのが吉かと背を向ければ、
「ああ、もちろん君も行くよね」
ふさりとした大きな尻尾が、細い指先にむぎゅりと掴まれる。
「クソッ……分かったからその手ェ離せっての」
不服だが、これは逃げられそうにない。
辻斬り退治に首を突っ込んだものの元凶が彼らではないと知り、乗りかかった船だと|漸《ようよ》う歩き出した懐古のあとを、大きなけむくじゃらがのっしのっしとついていく。
「ふむ、成程この奥か」
どこか寂れた家屋の前で、二人の歩みが止まる。門前に居たユキへと隠れているように促し、目を凝らす。
「チョコレイトっ。チョコレイトっ」
「なんだかいっぱいあるよネ、あまぁい甘味」
ぽつりぽつりと浮かび上がる妖しい光。ほどろが溜息をひとつこぼす横では、懐古がさっと羽織の裾で口鼻を覆い隠して、少しばかり呼気を潜めている。
「彼の妖怪はチョコレイトを好むのかな」
呟かれた疑問に対して、ほどろはガシガシと頭を掻いて、
「さァな」
知ったこっちゃないとばかりに吐き捨てた。
きゃらきゃらと笑うカラクリコガサが、くるりとオンボロ傘を回せば、青白い胞子が夜闇のなかでふわり舞い上がる。ちらちらと細かなきらめきを瞬かせるそれは、ひと吸いしただけでも肺が壊れてしまいそうな危険性のあるものに感じられた。
「胞子は厄介だね。花を降らすから、隙を見て切ってくれるかな」
懐から懐中時計を取り出した懐古が竜頭を押し開く横で、算段に乗ったとばかりに刀を構えるほどろ。【飛化の刻】にて幻想の金木犀を発現させると、たちまち辺り一帯がやわらかな黄金に満ちる。ちいさな花々が、ぶわりと周囲に舞い散れば、庭先が明るく華やかに化ける。むせかえるほどの絢爛な景色にカラクリコガサたちから感嘆が漏れた。
「わぁっ、きれいだネ」
花吹雪の中で一体のカラクリコガサが、くるりくるりと踊っている。だが、すぐにその笑みを浮かべた唇からは、悲痛なうめき声が漏れることとなる。
「なに、これェ」
幻影の金木犀は、ただ美しい景色をみせるだけのものではない。舞い散る幻影の金木犀が、細かな礫のように華奢なカラクリコガサの躯体を容赦なく撃ち付ける。
花吹雪と共に胞子を散らし、足止めの隙を作った懐古の一動に乗じてほどろは【百世不磨の信仰】を発動。御霊犬神の神力を纏ったほどろは、古鈴を創造している一瞬の隙を見せたカラクリコガサに狙いを定めて、三倍に跳ね上がった移動速度を利用して距離を一気に詰めていく。きつく刀を握る指先から神力が奔る。
「悪ィが、さっさと帰って晩酌したいんでなァ!」
懐に飛び込んだほどろが咆哮する。続けざま紫電の一閃を放つと、それは構えられた唐傘ごとカラクリコガサの薄い胴を真っ直ぐ斬り裂いた。躯体が後ろに傾く。袂が翻り、あかい飛沫が舞う中で、古鈴がさびしく鳴るのをほどろだけが耳にした。
ぐしゃりと醜い音を立てて地に伏したそれは、ほんの少しのあいだ震えていたが、ほどなくして沈黙した。
「ここに元凶がいるんですね」
己の半身であるアサルトライフルを右手に構えた八木橋・藍依は、鋼鉄の銃身を家屋のいずこかに潜んでいるであろう彼の者に向けながら、傍らで小さく肩を寄せているユキの方を振り返ると、安心させるようにやさしく声を掛けた。
「教えてくれてありがとうございます」
真っ直ぐと、それでいて力強い眼差しに見つめられ、ユキは何かを喋ろうと口を開いたが、わらわらと近付いてくるカラクリコガサたちの姿を目にして短い悲鳴をあげることしかできなかった。
「知ってる。それ、チョコレイトが入ってる袋だよネ」
「このチョコレートはお世話になった人達や、新聞社の皆に渡すものだから貴方達にあげる訳にはいきません。そんなに欲しいなら自分でお店に行って購入してください」
すぐさまカラクリコガサたちに銃口を突き付けた藍依の横へ、エレノール・ムーンレイカーが肩を並べて立つ。水の精霊の加護を受けたライフル型の竜漿兵器「オンディーヌ」を構えて、頸だけでユキのほうを振り返りエレノールは言った。
「ここはわたしたちに任せて。あなたは下がっていてください」
足手まといになるのが分かっているのか、ユキはコクコクと何度も頷き、道路に飛び出すとブロック塀の影に身を隠したようだった。
「あの毒の胞子が厄介ですね……できれば距離を取りながらあまり時間をかけずに一気に一掃したいところです」
「そして効率的に各個撃破していきたいですね」
ふわふわと漂うように距離を詰めてくるカラクリコガサたちを視線のみで端から端まで捉えて、エレノールの言葉に思案する藍依。
「……よし!」
「何か閃きましたか?」
「はい。我が妹に巨大な掃除機を発明してもらいます」
言うなり、藍依は|新兵器登場!《パワードウェポン》を発動。
自身のAnkerである妹に掃除機の発明を頼む隙を見て、カラクリコガサが唐傘から青白い毒の粒子を放ち始める。ふわふわと、ただ舞うだけならば綺麗な光が藍依に向かう。しかし、敵の攻撃よりエレノールの方が速かった。
「悪い子ですね」
オンディーヌの引き金を引いたその刹那。水属性の弾丸が射出。密集したカラクリコガサたちの中心部へと発射されたエレメンタルバレットは巨大な水撃弾となり、周囲一帯の敵の躯体を巻き込んで粉砕する。激流のように苛烈な|水天破砕《ハイドロバスター》は、揺蕩う胞子すら洗い流して一絡げに敵を衝く。
痛い痛いとあえいで塵と消えていくカラクリコガサたち。それを見てムムッと怒りの様子を見せる別個体を狙撃しながら迫る敵を抑え、時間を稼いでいたエレノールの背中に、待望の声がかかった。
「お待たせしました。さぁ行きますよ!」
びしっと人差し指を敵の軍団に突き付ける藍依の背後には、青白い光によって不気味に照らされた巨大な掃除機が吸い込み口を開けて待っている。合図と共にスイッチがオンになるや否や、ゴォォと唸り声をあげて空気中に蔓延した胞子や創造された古鈴がどんどん吸い込まれていって、悲鳴すら飲み込んでいく。
「ひぃー、なにアレ」
「逃がしません」
逃げ惑うカラクリコガサの背や脚を撃ち抜くエレノールと、ドローンの千里眼カメラを駆使して隠れた敵も逃さず確実に仕留めていく藍依。
戦いのさなか、ふと思う。
発明が成功して瞬間移動した際に、購入していたチョコレートを妹に渡しておいた。瞳を細めるようにして笑った表情を思いだしながら、笑顔を奪われた人がどれほどの数いたのだろうかと考えて、藍依は少しだけやるせない気持ちになりながら、引き金を強く押し込んだ。
「あれだけの数の下手人が居るとは。古妖のせいと一括りにしていいのかわかりませんね」
静かな夜の中に居ると、あの醜い合唱が聞こえてくるような思いがして、井碕・靜眞はひどくうんざりした様子で独りごつ。じとりとした眼差しで|涯《は》ての暗闇を睨めつけながら歩を進めていると、前方に人影がふたつ。
「ここが本当の|古妖の封印場《現場》か」
ブロック塀に隠れるようにして座り込んだユキを見つけたのは三戸部・ジンだった。音もなく近付いた彼は、ユキの隣にしゃがみこんで頸だけ伸ばして庭先を窺ってみる。ふよふよと青い胞子を撒き散らして庭を妖しく照らすカラクリコガサたちは、どこか負傷していながらもまだ数体残っているようだった。
「よく言えたな」
己の罪を涙ながらに告白した少女の頭をポンと撫でるように手を置いて、それから膝に手を突き立ち上がる。塀の影からゆらり姿を現すと、カラクリコガサたちが「あ」とジンを指差した。
「見ぃつけタ」
「さっきと違うネ」
ひそひそと囁き合うカラクリコガサから守るように前に踏み出したジンは、腰の帯革から術式回転式拳銃を引き抜くと、すぐさま発砲。乾いた音が空気を裂いて、カラクリコガサの皮膚を撃つ。
「悪いが、この時期に渡すチョコっつーんは、想いを渡すためのもんでね。一見サンに渡すもんはねえんだよ」
「おいしそうに見えましたか? 残念ながら、食べられませんよ」
己の言葉に続いた台詞。ジンが横目で傍らを見やると、髪の隙間から温度の感じられぬ眼差しを敵に向けた靜眞が居て、彼はスンと小さく鼻を鳴らしたかと思うと、
「硫黄のにおいと、チョコレートの甘さがまざるのはどうなんでしょうね」
心底分からないと言った風に肩を竦めてみせた。
塀の暗がりから少しだけ顔を出して、心配そうにジンと靜眞を見上げているユキを見つけた靜眞は「しぃ」と唇に人差し指を当てる。そのまま奥を指差し、離れた場所に隠れるよう指示。
気配が遠のいたのを感じて、靜眞は即断|霊震《サイコクエイク》でカラクリコガサたちの足場を揺らす。
「飛び跳ね続けるのも疲れるでしょう?」
立っていることもままならぬ震度で大地を揺らされ、負傷した者たちからバタバタと倒れていく。それでもなお近付いてくるカラクリコガサが在れば、ジンが顔面目掛けて紫烟碌黙の煙を吹きかけた。
「ぎゃっ」
煙草の煙を浴びて目をこしこしと擦るカラクリコガサに、ゼロ距離射撃で肩を撃ち抜いた。数歩後ろに躯体がよろけたが、カラクリコガサは自身の右目を真紅に輝かせてジンと靜眞を視界に捉えた瞬間。細い石づきの足で地を蹴り上げ、瞬きする間にこちらの頸を目掛けて振り抜いてきたではないか。それも一度ではなく、二度、三度と目にも止まらぬ速さで連続の蹴りを寄こしてくる。
しかし靜眞はうろたえない。【第六感】でカラクリコガサの石づきや突き出される傘の軌道を視線のみで捉えつつ、的確に一撃一撃を回避。
(「あぁ、揺れる鈴の音がうるさい」)
移動速度が上がったことで、唐傘に結びつけられた大きな鈴がりんりんと激しく耳朶を打つ。
わずかに眉根を寄せた靜眞の一方で、続けざま傘から青白い毒の胞子が放たれたことに気付いたジンが、光の粒子の中を構わず突っ込んでいく。微弱と言えどダメージを喰らう毒の中を真っ直ぐ突き抜けてくる姿に驚いて「え」と目を見開いたカラクリコガサ。その華奢な鳩尾に膝蹴りをかまして後方へと吹っ飛ばすと、それはブロック塀にしたたかに背を打ち付けた。
げふ、と口から吐血しながらもよろよろと立ち上がり、そうして気付く。
あんなに居たのに、もう誰も残っていない。
最後のひとりになっていたカラクリコガサは、地面を汚すだけの塵となった仲間たちを見て立ち尽くす。己ももう、立っているのが限界だった。恐らく膝を突けば二度と立ち上がれなくなると思う。
「あなた達にあげられるお菓子はありませんよ。自分は錠剤くらいしか持っていないので」
ゆっくりと靜眞が近付いてくる。月が昇ってしばらくした夜は冷たくて、からだが震える。寒いから? ――違う。
瞬きが聞こえそうなほど近くに顔を寄せた彼は言った。
「大人しく、壊れて消えろ」
膝から、力が抜けた。
第3章 ボス戦 『八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅』

ひとつまたひとつと青い灯火が消え、ついには薄ぼんやりと頼りなさげに町を照らす街灯だけの暗さに戻ったとき。突然、少し建て付けの悪そうな音を立てて玄関の引き戸が勢いよく開かれた。
「何を騒いでやがる」
赤い爪紅を刷いた素足で、ほとんど音もなくやってくる。黒いジャケットをぞろりと羽織り、袖を通していない左手には黒々とした煙管が持たれている。それは、月の光を重たく反射して、ずいぶんと硬質に見えた。
切り揃えられた真っ白な長髪が夜風を浴びて扇のように広がると、すらりとした男の躯体を強調する。しかし、白皙のこの男がただ者ではないことだけは、分かっている。
男――八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅は、塵と消えて行ったカラクリコガサたちを一瞥したものの煙管を口に咥えただけだった。
「ま、準備運動にはなるか」
ふぅっと白い煙を天へと吐き出して、煙々羅は挑むように不敵に笑った。
その姿を一目見て、理解した。直感が働いたと言ってもいい。
おもむろに姿を現した八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅に視線を向けた刻・懐古と狗枷・ほどろは、少しだけ意外そうに目を丸くする。家屋の中に敵が在るならば、土足でお邪魔する覚悟でいたのだから。あちらから顔を出してくれたのは僥倖と言えた。
「あン? 向こうさんからお出でなすったぜ」
「良かった。家屋の中じゃ少々手狭だと思っていたのだよ」
煙々羅は扉を閉めなかった。ゆえに、灯りの点いていない暗い家屋の内部が、闇に慣れた目に薄っすらと映る。懐古の口調は軽いが、此度の元凶である煙々羅のその力を見くびる気は毛頭ない。
「仕方ねぇ、此奴を片付けねぇと旨い酒も飲めないらしい」
零れたほどろの吐息を横目に、そろりと片手を挙げた懐古の挙措に伴い【烏雲の陣】より禍鴉たちが呼び出される。暗冥より出づる無数の鴉たちが懐古を中心として羽搏き、虚空をうねる。
「ほどろ」
鴉の羽音に紛れた懐古の耳打ちに、わずかにヨイショと屈んだほどろが、そのふさりとした耳を傾ける。
「また前を頼めるかな」
その言葉に、思わずといった風に「ハッ」と鼻で笑い飛ばしたほどろは、握ったままであった刀を正面に構えた。琥珀の瞳が闇夜を引き裂く月の如き輝きを放ち、敵を捉える。
「俺が後方でじっとしてるタマじゃねぇだろ」
たちまち。
|嗾《けしか》けられた鴉たちが、一斉に煙々羅目掛けて飛翔する。敵の瞳が夥しい数の鴉を見上げた矢庭に、闇を纏った数多の鴉が禍つの唸りとなって痩身を覆い隠す。だが、四肢の先からふわりと身を煙化させて姿が掻き消えてしまったのを、ほどろは見た。耳朶に薄っすらと届く呪詛が、確かにこの場に在ることを証明する。
次の瞬間。
ほっそりとした拳が烏雲の陣を貫いた。高濃度の呪詛にまみれた拳を浴びて耐えられなかった鴉が地に墜ちていく。ほどろはすぐさま、下から斬り上げるように妖刀を虚空へ跳ねさせる。斬りかかってきた巨躯の犬神に、半分ほど肉体を取り戻した煙々羅がにやりと笑えば、突然その場で高く跳躍する。手には毒針仕込みの煙管が握りしめられており、己を斬り付けようとするほどろに向けて一撃を叩き込む。
しかし、その素早さを上回る力強さで斬りかかったほどろの刃をから火花が散る。煙管を用いて鍔迫り合いに持ち込んだ煙々羅と至近で視線を絡ませたほどろは、どちらからともなく退いて間合いを取る。その際、手首を返し水平に薙ぐと、切っ先が肉を裂いた感触を得た。致命傷は与えられなかったものの、確かな手応えを感じていると、どうにも背中がつんつん鬱陶しい。反射的にぱっぱっと振り払うと、それは懐古の鴉たちであった。
「……だッ! 痛ぇんだよコイツら! おい懐古! どうにか言ってくれ!」
頸だけで振り返って咆えるほどろに、おやおやと懐古は肩をすくめてみせる。
「こうでもしないと、君は気づかないだろう?」
ほら、と懐古が指差す先は闇。
鴉にて行動を妨害しながらも、懐古は常にその攻撃を見定めていた。情報をほどろに伝え、鴉たちの攻撃はほどろの支援として動いていたのだ。ゆえにか、懐古は煙々羅が景色に同化した煙を纏い隠密状態に入ったことを知らせようとしたつもりだったのだが。
「かくれんぼが好きなのかな?」
軽く握った手を顎に添えて懐古が双眸を細くした一方で、ほどろは「犬神だからって好き放題しやがって」と悪態吐きつつ闇を睨みつけた。
|霏々《ひひ》として降り注ぐ月の光が闇の輪郭を曖昧にする。
ゆるり、ふわり。形作られていく肉体は変わらずの笑みを浮かべ、揺蕩う。
「現れましたか」
鼻先を掠めてゆく煙を厭そうに見ていた井碕・靜眞が、膚を刺すような緊張感の中で少し猫背気味にじっとりと目を細める傍ら、それまで衣類に付着した胞子の欠片を払いのけていた三戸部・ジンが敵を認めて、すぅっと凍てるような視線で表情を引き締めた。
「さあて、次はお前だ」
関節を鳴らしながらゆっくりと首を回して気合いを入れ直すさまに「威勢がいいねぇ」煙々羅が笑う。
「――貴方が頭ですか」
こつ、とブーツを鳴らして一歩前へと踏み出したエレノール・ムーンレイカーの、肩口で揃えられた銀色の髪が風を含んで広がるさまは、彼女の内に燻る怒りを表しているように思えた。
「乙女たちの想いを踏みにじった責任は、貴方がまとめて取ってもらいますよ。覚悟は、いいですね?」
「面倒臭ぇことを言いやがる」
く、と喉の奥で笑った煙々羅の仕草には、余裕が伺える。
ゆるりと煙化して闇に溶け始めたのを見て、八木橋・藍依は先に作ってもらった大きな掃除機で敵の煙を吸うことができないかと思案していた。
「さっさとお縄について封印されといてくれや」
ジンが牽制代わりにと術式回転式拳銃を発砲。劈くような派手な音を立てて数発撃ち込むと、煙々羅の意識がジンに向く。藍依はその隙に手早く行動に移ろうとしたのだが。
「何をこそこそしている」
背後から飛んできた煙々羅の一撃が、藍依越しに掃除機へと命中した。
まるで核を突かれたかと思うほどに、それは空中分解して鉄屑と化していく。目を見開いた藍依は、およそ反射とも呼べる素早さで振り返り、アサルトライフルの引き金を引いた。乾いた音が空気を撃つ。煙に穴を開けた銃弾は古い木の幹にめり込み、微かな煙を上らせて、一瞬の沈黙を呼んだ。煙々羅は軌跡を尻目に追っていたが、すぐに藍依の懐に飛び込むと薄い腹へと呪煙拳を振り抜こうとする。咄嗟にエレノールが援護射撃でその拳を阻害しようとするが、しかし。
(「今回の元凶をカメラに収めて注意喚起の記事を書かなければ」)
すでにカメラマンとしての根性魂をチャージしていた藍依は、己の間合いに飛び込んできた煙々羅を、これ幸いと激写。|衝撃の瞬間!《シャッターチャンス》の必殺カメラフラッシュを至近距離で喰らった煙々羅が、両目を閉じて数歩後ろへとよろけたところを、射撃してさらに押し込む。
「記事の見出しは『得体の知れない古妖に注意!』としましょうか」
ドローンの千里眼カメラが、ばっちり撮ってやったと言わんばかりに風を切って空中を舞う。駆動音を立てるドローンを、顔を覆った指の隙間から憎々し気に睨みつけた煙々羅は、再び煙化すると呪詛を拳に溜めていく。その際、ほんの一瞬膚が粟立つような気配を感じた。視線を走らせると、思いがけず近くにいたのは賢者の剣を手にしたエレノールだった。
世界樹の根源の力と完全融合しているエレノールは、聖樹の鎖で煙々羅の身を拘束するとそのまま強い力でぎりぎりと締め付け、
「なにを、」
煙々羅の痩躯を勢いよく引き寄せた。|世界樹の恩寵《グレイス・オブ・ユグドラシル》の空間引き寄せ能力で自身の方へと手繰り寄せたエレノールに対し、黙ってやられるはずもない煙々羅が拳を放つ。瞬きよりも速い拳を、第六感をフル稼働させて寸前で回避するも、それはエレノールの白い頬を掠めていった。細い熱さが、膚を噛む。だが彼女はそれに動じない。
煙々羅は煙化して拘束から逃れると、後方へと飛びのきエレノールから間合いを取った。次に訪れる攻撃を警戒してのことだったのだが、
「おい」
背後からの呼びかけに、うなじが逆立つ。
煙々羅が後ろを振り返るより早く、ガリと何か硬いものを噛み砕く音が耳朶に届いた。翻る白髪がゆっくりと落ちて開けた視界の先から、こちらを真っ直ぐと見据えたジンが立っている。煙々羅は呪詛が込められた拳を下から振り抜いた。
拳が腹を突き、強い衝撃が身の内に奔って唇の隙間から呼気が漏れる。しかし鎮痛剤で激痛耐性を底上げしていたジンはその攻撃を耐えぬき、奥歯を食いしばると煙々羅のはだけた襟元を引っ掴む。
小さく息を呑んだのもつかの間。己の方に寄せるなり、ジンはその腹に向けて膝蹴りを突き刺した。いやな音が立つ。
「あばらの一本でも、いったか?」
吐血する煙々羅の身を横から薙ぐように蹴り飛ばしたジンが、口元を手の甲で拭いながら唇の端を吊り上げて笑う。軽く咳き込んだ煙々羅は放り出された地面に手を突き、上体を起こす。その姿を、潜んだ闇の中から憂鬱そうな眼差しで見つめていた靜眞は、人知れず吐息した。
(「煙草は嫌いなんですが、仕事は最後まで勤めます」)
拳銃を構える。
途端、煙々羅の頸がぐるんっと靜眞の方を向き、己に向けられた銃口に対し煙管を逆手に持つ。その身が高く跳躍するより早く射撃による牽制を打ち込むが、煙々羅は止まらない。毒針が仕込まれた煙管を高々と振り上げたのを見、靜眞は降り下ろされる角度を第六感で察すると、身を低くして躱す。直感はそのままにリミッターを解除、景色に同化されるよりも速く、降り下ろされた手首に手錠をかける。かちゃん、と小気味よい音が闇の中で翻った。
「くそっ」
煙々羅はしなやかな身のこなしで身体を捻り後ろ蹴りを試みたが、眼前に繰り出された足を寸前で避けた靜眞は構わず霊障を起こす。
(「お誂え向きの廃墟だ、武器になる道具はいくらでも落ちている。一気に飛ばせば避けきれまい」)
錆びたパイプ、崩れた木片、壊れた雨どい、朽ちた灯篭など数多のがらくたが、まるで磁石に吸い寄せられるように煙々羅に向かって飛び掛かる。煙々羅はそれらを煙管で、拳で、蹴りでいなし、撃ち落す。
的確に貫くその様をじぃっと見ていた靜眞は、ふと思い出したように言った。
「準備運動、でしたっけ」
空に浮かぶ月を見上げて、それから煙々羅へ視線を落とす。
「そういう自信は口には出さないようがいいんですよ。大抵ろくなことになりませんから」
「知った風な口をきく」
ハ、と短く笑い声を漏らした。
「そうですか」靜眞は小さく、口の中で漏らした。それから、ふらりと貧血で倒れるように身を傾けた。大きく揺れた身体の、その向こう。
この夜の中で月よりも眩い光を纏った剣が、天を貫くように、あるいは儀式のような厳かさで掲げられていた。両手で柄をしっかりと握り、閉じられた瞼がゆるり開かれていく。
「いま、四精霊の光閃き、悪しき者どもを塵へと還さん!」
地を蹴り上げたエレノールが駆ける。
煙々羅がすかさず煙化しようとするが、藍依、靜眞、ジンの三人が一斉射撃にて、動きを止める。撃たれた反動で身が大きく傾く。衝撃で目を細めた煙々羅は、四大精霊の力を纏った超速の連撃――|精霊剣・閃光の乱舞《セイレイケン・センコウノランブ》を真正面から浴びて、断末魔の叫びをあげることとなったのだった。
●
一晩で辻斬りと妖怪軍団と古妖という怒涛の連続で、もう何が何やらと言った感じでユキはただただぼんやり、封じられた扉を見つめていた。
それからゆっくりと現実が追い付いてきたのか、眦に珠のような涙が盛り上がるのを見て、ユキの前にしゃがみこんだジンが、襟足をガリガリ掻きながら、視線をあっちこっちに向けながら、それでもやさしく言った。
「間違うのが駄目じゃねぇよ……どういう理由で大切な人を失ったかは知らねぇが、その人に胸を張れる生き方が、"ひとつの正解"なんじゃねえの」
ぶっきらぼうではあったが、慰めめいた言葉を贈られてユキの涙腺が決壊する。笑顔が戻りますように。そんな願いが込められたあたたかな想いが、少女をやさしく包む。
うわごとのように繰り返される謝罪、逢えるかもしれないと一瞬でも夢見た想い人への気持ち。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、涙になって流れて、止まらない。
ちいさな背中にエレノールは手のひらを宛がい、ゆっくりと撫ぜる。
(「――これで、彼女の自責の念も少しは晴れたでしょうか?」)
今は未だ辛くても、いつか、きっと――。
「ユキさん、お墓参りがしたいと聞いています」
藍依がスカートに着いた汚れを払ってやりながら、上目にユキの顔を覗き込むと、真っ赤に腫らした目を瞬かせたユキは、下手くそな笑みを浮かべて頸を振った。
「今日はやめておきます。――ハクに、聞いてもらいたいことがいっぱいできたから」
その言葉に藍依がゆっくりと頷く。
「では自宅までお送りしましょう。事件が解決しても、夜道は危ないですので」
力強い笑みにユキは笑って、小さく頭を下げた。
腕に抱きしめられたこの世でたった一つのギフトボックスは少し凹んでいた。
「……チョコレート。割引を買って帰ろうかな」
きっと世界でいちばん淡くて儚いだろうそのチョコレートを眩しそうに見ていた靜眞は、どこかそわりとした様子で昏い夜の中へと消えて行った。