シナリオ

佳く生きること、善く死ぬこと

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●ひとり消える灯火
 2月の夜。氷の鞭のごとき強風が青年の身を打つ。
 彼の眼下に広がる大学構内はすっかり眠りに就いていた。少し前まで体育会系の学生たちが走り回っていたグラウンドは、いつの間にか投光器の電源が落とされ、しんとした闇に沈んでいる。ぽつぽつと幾つかの窓明かりが向かいの校舎に灯っていたが、夜の黒さを照らすにはあまりにも弱々しい。
 耳に届くのは風の音だけ。なにしろここは8階建ての屋上だ、地上よりもその音は大きく響くだろう。
 青年は惚けた表情で、屋上のフェンスの外側に立っていた。寒さのためか、怯えているのか。かさついて紫がかった唇が、わなわなと震える。
「……いま死んだほうが幸せなんだ。そうですよね、そうなんですよね、⬛︎⬛︎⬛︎さん」
 掠れて聞き取りにくい声でそう呟くと、彼は意を決して冬の空に身を躍らせた。厚手のコートが翻って、一瞬の滞空のあと。彼は自由落下をはじめる。
 1秒ごとに9.8メートル速くなる彼の速度。
 ほどなくして、
 ごきん。彼がだめになる音が響いた。
 若い命が消える瞬間。それを見ていたのは、びかびか瞬く冬の星々と_____。

●正夢予備軍
「と、いう夢を見たんよ」
 早朝、集まった√能力者の前で話す長身の男、一・ラウルス(Rain or shine・h03327)。
 夢とは言うが、これがただの悪夢ではないことはよく分かっている。もちろん、√能力者たちもそれは然りだった。
「今夜、都内の大学で学生の自殺が起こる。……1人くらいなら、現場を押さえたら止められるやろけど。そうはいかんらしいわ」
 曰く、ラウルスが予知した「自殺の瞬間」はひとり分ではなかった。ある者は屋上から飛び降りて。ある者はどこかの小教室で練炭を焚いて。またある者は__とにかく、何人とも知れない学生たちの命が一晩で散ろうとしているようだ。これらの現場をすべて回るのは現実的ではないだろう。
「そこでや。みんなには、この事件の根っこの部分を叩いて欲しい」

 世間的には集団ヒステリーで片付けられてしまいそうな事件。しかし、今回は他√からの簒奪者が関わっているという。
 大学構内に入り込んだ何者かが若い学生の心の隙間につけ込み、唆し、自死に追い込む。そうして発生させたインビジブルを狙っている。
 黒幕たる簒奪者を√能力者たちの手で撃退し、その影響を受けなくなれば。学生たちは、自殺教唆を『忘れようとする力』により忘れていく。その命を自ら投げ捨てる行為を未然に防げるだろう。

●悪夢を防ぐ方法
「敵は、何日前からか大学のどっかに潜んどる。既に接触を受けた学生と話できたら、黒幕がどこに潜んどるか、シッポが掴めそうやな。
 ……ただ 、√EDENに住む人間の特性上、敵と話した内容はかなり曖昧になっとる可能性が高い。そうでなくとも、なんで死にたいん?なんてデリケートな話題や。うまいこと聞き出さなあかんな」
 √EDENにおける『忘れようとする力』は良くも悪くも強力だ。簒奪者たちと接触したときの出来事を、はっきりと覚えている学生は少ないだろう。
 しかし、簒奪者が近くにいる限り。彼らによってもたらされた希死念慮は、棘のように学生の心に残り続けている。
 ……なぜかはあんまり覚えてないけど、もう死んでしまいたい。
 そんな状態にある学生から、『どこで、誰から、どんな話を聞いて』希死念慮が湧いたのか。うまく聞き出す必要がある。
「あるいは。例えば先生とか、学生たちと距離の近い大人から話を聞くのも手やな。
 普段の様子を知ってる人らなら、様子のおかしい学生たちのことを気に掛けてるやろう」
 大学は春休み期間に入っているが、期末考査の成績をつけるために出勤している講師も少数いる。学生と距離の近い者ならサークルなどの様子を見に来ているだろう。彼らを捕まえるのも手かもしれない。
「黒幕が大学内のどこにおるかが分かったら、そこに向かってほしい。夜までに敵をぶっ叩いて、事件を未然に止めなあかん」

 在校生として、卒業生として。部活の臨時コーチとして。はたまた犬の散歩に来た近所の人として?
 それぞれの立場で、学生たちに接触を図ろう。
「未来を担う若者たちの命、よろしく頼んだで」
 ラウルスは立ち上がると、その場の√能力者たちに一礼するのだった。

マスターより

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第1章 冒険 『怪しい事件』


 √EDEN、某大学。時刻は正午ごろ。
 雲ひとつない快晴だ。空気は冷えているが、日なたにいると少し暖かさを感じられる。
 
「ねえ、昨日のライブ配信見た?」
「インターンって行った方がいいのかな?考えたくないよ〜」
「実家が大量にミカン送ってきてさ、ちょっと貰ってくれよ」
 
 校内はランチタイムを迎えた者たちで賑わっていた。屋外のベンチで弁当を広げる運動着の者たち。空き教室で談笑する文化サークルの学生。カフェテリアでパン片手にスマホを弄る、少しくたびれた講師らしき風貌の男。それを囲む女子学生たち。
 なんてことの無い日常。しかし注意深く観察すれば、あなたはその中に幾人か、様子のおかしい学生の姿を見つけられる……仲間たちの輪の中で、あるいは少し離れて、暗い顔で佇む者たちを。
食神・深雪

●暖かい飲み物をあなたに
 とある校舎のエントランス。期末考査が振るわなかった者たちへの補習が終了したようで、学生たちが連れ立って帰路についていた。午後からの遊びの予定を話しながら彼らが去った後……入れ替わるように、ひとりの女学生が姿を現した。
 彼女以外にはすっかり気配の無くなったエントランスにて、女子学生はとあるものに目を留める。
 ……自販機?
 こんなとこにあったっけ、と彼女は見慣れない自販機の前に立つ。新しく設置されたのだろうか。財布から小銭を出すと、エナジードリンクのボタンに指を伸ばして……。
「体温が低いようです。カフェインの摂りすぎにはお気をつけください」
「……え?」
 突如聞こえた案内音声に、女学生は辺りを見回す。誰もいない。困惑しながら視線を戻すと、自販機上部に貼られたPOPに気付いた。
『AI自販機試験運用中。今の気分にピッタリの飲み物をご提案!何でも話してみてください』

(無機物相手にしか話せぬようなこともあるでしょう)
 そう思案しているのは、何の変哲もない自販機……ではなく、食神・深雪(旅する『私』・h03643)。大抵のものに変化できる彼女は、喋る高性能AI自販機、という体で学生達に接触することにしたのだった。
 サーモグラフで体温を検知!目線センサーも搭載!日進月歩のAI技術はすごいなぁとこちらを見上げる女子学生を、深雪は堂々と観察し返してみる。長いまつ毛、寒さに負けないミニ丈のスカート。今どきの女の子だ。しかしその瞳はどんより暗く、ぷっくりした涙袋メイクでも誤魔化せないほどの隈が見受けられる。
「今の気分……何でも話してみてください、か」
 深雪がこしらえたPOPを読み上げて、学生はちょっと考えて、
「うーん、全然寝れてなくて。気分良くはないです」
 再びの静寂。あれ、もうちょっと詳しく話さないとダメ?と再度考えて、やがてぽつぽつと話し出す。
「夜ずっと悩んじゃって。痩せたいなーとか、かわいくなりたいなーとか。……整形したいな、とか」一旦言葉を切って、おそるおそる、続ける。「死にたいな、とか」
 深雪は黙って聞いていた。今の自分はあくまで機械。慰めも相槌もない相手との対話は、自分自身との対話にも等しい。だからこそ、さらけ出せることもあるはずだ。
 エントランスには空調の音と、自販機のわずかな駆動音だけが響いていた。その静けさに寄り添われて、学生は少しずつ饒舌になる。
「……だってあたし、ぜんぜん可愛くないから。自分の顔が嫌いなんです。そのくせ、すれ違う女の人の顔とか体型とか勝手に品定めして、あたしの方がマシかな、とか考えちゃうの。そんな最低なことばっか考えて、顔に縛られて生きるよりは———死んじゃったほうが、幸せって思う」

 かつては土地を守る神として、いまは釣銭をいただく妖「アクジキジハンキ」として。悠久を生きている深雪は、この悩みを些細だと流すこともできたかもしれない。外見を理由に命を捨てるなど、人間は生き急ぎすぎだと一笑することも。
 しかし。程度はどうあれ、見て呉れに苦しむその心を深雪は知っていた。土地神としての姿に石を投げられた痛みを、覚えていた。
 この学生は、自分で自分に石を投げている。
(ほんとうに。人の心は奇怪です)
 それとも。奇怪だからこその心なのかもしれない。

「長い間、悩んでいるのですか?」
 学生が落ち着くのを待ってから、深雪は声を掛けた。学生は首を横に振り、「……よく覚えてないけど。三日くらい前からひどくなって。補習のストレスかなって思うけど、死ななきゃって思いが止められなくて」
 (簒奪者の影響でしょうね)
 彼女の中に元々あった外見の悩みは、性急に死に向かわせる程のものでは無かったはずだ。それにつけ込み、増幅させている者と接触したのだろう。
 もう少しだけ、踏み込む。
「他に、なにかきっかけを思い出せますか?」
 学生は目をぎゅっと瞑って思案した。深雪相手に苦悩を吐露したことで心が幾分クリアになっているようだ。『忘れようとする力』に抗って少しずつ記憶が手繰り寄せられる。
「……補習のあいだ窓の外を見ていたの。教室からは、中庭がよく見えて。そこにいた誰かと目が合って、会いに行かなきゃって、思ったの」
 それを思い出すだけで随分骨が折れたようで、彼女は大きく息を吐く。‪
 中庭。位置的には、この校舎のちょうど裏にある空間だったはずだ。
 行ってみる価値はありそうだった。

「落ち込んでいる時は、甘くて暖かい飲み物がおすすめです。いかがですか?」
 学生は素直に深雪の助言に従い、ホットココアのボタンを押すと——ぴぴぴ、軽快な電子音が響いた。自販機によくある、あたりが出たらもう一本!のルーレットだ。
 ぴぴぴ、ぴ。7が四つ横並びになり、がこんがこんと音を立ててココアがふたつ落ちてきた。「おめでとうございます。当たりです」
 飲み切れるかな、と取り出し口に手を入れながら僅かに笑みを浮かべる人の子を、深雪は見守る。自販機としての深雪ができる、最大限の慰めであった。

テルティウス・プラエタリタ

●約束は果たされずとも
 テルティウス・プラエタリタ(遺産ショップ店主・h04617)がカフェテリア内に足を踏み入れると、にわかにどよめきが起こった。
 翼こそ『ヘイロー』の欺瞞機能で隠されているものの、金に輝く髪と瞳、白い肌、およそ日本人離れした___セレスティアルである彼は国籍どころか種族すら違うのだが___容姿に、女子学生たちは色めき立っている。
(うーん、潜入にはあまり自信がなかったが。予想以上に潜めなかったな)
 まあ、そのうち『忘れて』くれるだろう。今は周りの視線を気にするよりも、手がかりを探すのが優先だ。
(自殺教唆……。さすがにこんなやり方は見過ごせないからね)
 購入したばかりのドリンクをトレイに載せて、テルティウスは『以心伝心(サイコメトリック・チャネル)』を使用した。半径20メートル弱の認識伝送路が、カフェテリアにいる全員に繋がれる。‪この場では彼にしか見えていない透明な伝送路を辿り、学生達の内心を伺う。若くみずみずしい心たちだ。
好奇、関心、羨望、そんな感情に混じって、仄暗いものが混じっているのを感じた。自己嫌悪、逃避、そして希死念慮。
 ……見つけた。
 奥まった場所にあるテーブルへと歩みを進める。テルティウスの視線の先では、スーツ姿の男子学生がぼんやりとした目つきで手帳を眺めていた。
「こんにちは。お隣いいかな?」

 *

「ポークカレーにトッピングでカツ載せるんすよ、これが至高。先生もぜひ食べてください」
 もともと性根が明るいのだろう、よく喋る男子学生の話を、テルティウスはにこやかに聞いていた。
 ——春からここに勤めることになってね。今日は下見なんだ。折角だからここの学生さんに色々聞きたいんだけど、いいかな?
 そんな申し出を少々ビビりながら引き受けた男子学生だったが、テルティウスの柔和な笑顔と雰囲気のおかげで警戒はすっかり解けていた。突如現れた金髪の男性のことを「新しい外国語の講師」と思い込んでいるようで、早くも「先生」と呼んできている。
 おいしい学食のメニュー、近所の遊び場。取り留めもない話を重ねながら、テルティウスは認識伝送路を通じて彼の内心を探り続けていた。
「カレーかあ、今度来たらぜひ頼んでみることにするよ。……そういえば、この大学なかなか広いみたいだね。空き時間はどこで過ごしてるんだい?」
「そっすねえ、うち、デカい校舎三つ建ってるじゃないすか。その真ん中に中庭あって。芝生に寝転がったりしに行くっすよ。一昨日はちょっと暖かかったんで、模擬面接のあとにぼーっとしてから帰りました」
 側から見れば、とても今夜死ぬとは思えない明るさだ。しかしテルティウスには、彼の中にある「種」が見え始めていた。
「この国の学生さんは大変だ。一昨日が面接練習で、今日も就活の準備かい?頑張っているんだね」
 ‪日本の就職活動の知識は少しだが仕入れてきた。春から四年生だという彼がスーツ姿なのは、学校による就活対策に参加しているのだろう。
「ああ……まあ、はい」
 学生の歯切れが明らかに悪くなった。……これが彼の「種」。ちょっとした憂いや心配事の種。今回の黒幕たる簒奪者はそれを利用しているのだとテルティウスは踏んでいた。そこを突けば、心の中に残された敵の痕跡を追えるだろうとも。
 ただし、慎重に。無闇に刺激して、この種を芽吹かせては危険だ。柔らかな表情を崩さずに、テルティウスはゆっくりと言葉を選ぶ。
「まだまだこれからなのだから、無理はし過ぎないようにね」
「ありがとうございます。その、模擬面接のあとからちょっと自信が無くなってきて」
 いつの間にか、カフェテリアの人数は随分と減ってきていた。「大丈夫、誰も聞いていないよ」と微笑むと、学生は意を決したように話し出す。
「……世の中、デキる人がたくさんいるじゃないっすか。俺は勉強もあんまりで、特技も無いんすよ。俺ひとりサボっても、……俺が消えても、世間って全然回るよなーって思うと」
 認識伝送路を通じて、テルティウスは波打つ彼の心の中に何者かの影を見た。長い髪をひとつに縛っている、少女だろうか。
『そんな、必要とされてないのにがんばって生きるなんて、辛い。それならいっそ、死んだ方が』
 学生の言葉に重なるように、少女らしき声がテルティウスの脳裏に響く。……これが彼を希死念慮に誘導した簒奪者だろう。
 一昨日、彼は中庭に寄ったと言っていたな、と思い返す。彼のこの記憶は、その時のものだろうか。
 
「話してくれてありがとう。とても悩んでいたんだね」
 声をかけると、学生は我に返った。すみません、こんな話。
 萎縮する彼に、テルティウスは笑いかける。
「実は僕も、最近すごく悩んでいる事があるんだ。聞いてくれるかな?」
「先生も?」
「うん……四月になって、僕の授業を誰も受けてくれなかったらどうしようってね」
 学生はぽかんと口を開くと——気が抜けたようにくすくす笑った。テルティウスは大仰に肩を竦めてみせて、
「きみが僕の生徒になってくれたら、すごく安心できるんだけど」
「先生の授業なら絶対人気出ると思いますけどね。でも、全然いいっすよ。四月からよろしくです、先生」
 
 ここは‪√‬EDEN。セレスティアルとの口約束など、一般人たる学生は夜までも覚えていられないかもしれない。
 しかし今この瞬間だけでも、この約束が生きる意味となってくれればと、テルティウスは思うのだった。

黒鉄・彪

 黒鉄・彪(試作型特殊義体サイボーグ・h00276)は、剣道部の高校生といった装いで大学に潜入した。
 背中に背負った竹刀は、彪をいつも助けてくれる鳥型支援ユニット『アオタカ』が√能力により変化したものだ。事件が発生するのは夜。とはいえ、既に敷地内に敵が潜んでいるのは分かっている。持っていても怪しまれないが、何かあれば直ぐ臨戦体制を取れるような武器を——彪のそんな考えに、アオタカは臨機応変に応えていた。
 そんな彪が真っ先に向かったのは、食堂。
「まずは腹拵えといくか!」
 朝から星読みの話を聞いて、その足で大学までやってきたのだ。食べ盛りの少年としては、とりあえず腹いっぱいに食べておきたいところ。
 それに、情報は人が集まるところにあるものだ。腹を満たしながら事件の手がかりを集められれば、これほど効率的なことはないだろう。

「佐藤さん、今日の日替わりって何?」
「アジフライ定食だよ!コールスローも付いてるからね」
「佐藤さーん、補習疲れたからご飯大盛りにしといてー」
「はいよ!お疲れ様、次は受けなくてもいいように頑張るんだよ!」
 春休みではあるが、食堂は学生達でそれなりに賑わっていた。学生達のお喋りに混じって調理員の明るい声も響く。
 彪は手頃な空席を探すそぶりをしながら、周りの様子を窺った。ぱっと目についただけでも気になる学生が数人見受けられる。仲間たちと席に着いているが、ひとりだけ全く弁当に手をつけていない女子学生。頭を抱えて突っ伏している男子学生。
(全員がそうだとは限らないけど。簒奪者の影響を受けている人、思ったより多いかもしれないな……)
 黒幕を見つけ出さないと、一体何人が犠牲になるのだろう。

 鞄を空席に置いているうちに、食券販売機周辺は混雑が落ち着いてきたようだ。彪は先ほど「佐藤さん」と呼ばれていた五十代くらいの職員に近付くと、明るく話しかけた。
「こんにちはー!おばちゃん、先輩からここの飯めっちゃうまいって聞いたんだけど。おすすめって何?」
 あらあらまあまあ、若い子が来たねえ。佐藤さんはにこにこ笑って答える。
「あんた高校生かい?オープンキャンパスのときに人気なのはカレーかねえ。ウシ肉じゃなくてポークカレーなんだけど、大丈夫?」
「うん、じゃあそれで!」
 彪は背後にあった食券販売機に小銭を入れると、カレーのボタンを押して佐藤さんに渡した。佐藤さんは厨房に「一番カレーひとつ!」と声をかけると、彪の背負っている竹刀袋を改めて眺める。
「大きいの持ってるねえ。剣道部かい?」
「ああ!朝から先輩たちと合同練習してんだ。もう腹減っちゃってさあ」
 そんな他愛のない話を重ね、頃合いを見て彪は本題に入る。
「なんか今日、先輩達の元気がなかったんだよな。変な噂が流行ってるってのも聞いたんだけど、おばちゃん知らない?」
「噂かい?うーん……」
 佐藤さんは腰に手を当てて考えると、そういえば、と声を上げた。
「噂かは分かんないけど、さっきダンスサークルの子たちが何か言ってたねえ。遅くまで残って自主練してたような真面目な子たちが、最近来なくて心配だ、ってさ。なんでも大会直前らしいんで困ってるらしいよ」
「それ、いつからか知ってる?来ない人と連絡は取れてるの?」
 ぐっと身を乗り出した彪にちょっとびっくりしながらも、佐藤さんは答える。
「ここ三日か四日くらいって言ってたと思うよ。連絡は、どうだかね……いつも中庭で練習してる子たちだから、気になるなら行ってみたらどうだい?」
 食堂からも見える三棟の校舎。それらに囲まれるように、学生達の憩いの場である中庭があるという。そこで活動している学生の様子がおかしいと言うなら、足を運んでみる価値はありそうだった。

「はい、お待たせ!」
 ちょうどその時、厨房の奥から他の調理員がカレーを運んできた。大きなカレー皿にふっくら盛られた白米と、たっぷりのカレールーが白い湯気をあげている。そして、その上には豚カツが五切れ。「ちょうどカツを揚げてるとこだったみたいで、待たせちゃってごめんねえ」にこにこ笑う佐藤さんに、彪は慌てて言う。
「おばちゃん!おれトッピング頼んでないよ?」
「あたしからのサービスさ。部活がんばりな!剣道部の子たちも、元気がないならゴハン食べに来なって伝えといてね!」
 お節介だが、時にありがたい。それが食堂のおばちゃんという存在なのだった。

 彪は席に戻ると、いただきます、と手を合わせてスプーンを手に取った。ポークに豚カツ、豚づくしカレーをすくい取ると、ふーふー冷ましてから口に入れる。
「……!うまい!」
 ほどよい辛さのカレールーが、少し硬めに炊かれた白米によく絡む。喉奥に残る風味はクミンか何かのスパイスだろうか。揚げたてでサクッとした豚カツも食べ応えがあり、彪の空腹が一口ごとに満たされていく。
 カレーなんてどこで食べても大抵うまいが、これは確かにおすすめされるだけのことはある一品だ。
「ごちそうさまっした!」
 大盛りのカレーをあっという間に完食すると、彪は竹刀を背負いなおす。
 情報は手に入れた。腹も膨れた。あとは、敵を討つだけだ。

カデンツァ・ペルッツィ

●特別だからこそ
 √能力者は死後蘇生という素質を持つ。身体が木っ端微塵になったとしても、時間をかければ甦る。それは、考え方を変えれば「死にたくても死ねない」ということだ。

(だが本来、生き物って案外簡単に死んじまうんだよな)

 飛び降りて身体を強く打てば。首が締まって酸素供給が途絶えれば。たったそれだけのことで命はぷつんと途絶えて、二度と戻りはしない。

「止められるなら、止めてやりてえもんだ」
 カデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)は黄金の瞳を細めると、校内へと足を踏み入れるのだった。

 *

「あ、ネコチャンだ。かわい〜」
 道の反対側から声をかけてきた女子学生たちに、「にゃあ」と愛想を込めて応える。返事した!かわいすぎ!盛り上がる彼女たちを横目に、カデンツァは校内散策を続行した。あれは今回のターゲットではないだろう。
 たとえば、身なりに気を配らなくなったり。
 突然身辺整理を始めたり。
 周囲にこれまでのお礼を言っていたり。
 そういうヤツは居ないかと、黄金の瞳をした黒猫は周囲を見回して歩く。

「あのさ、今まで本当にありがとうな」
 ふと耳に入ってきた声に足を止める。
「おい、急にどうしたよ」
「お前と過ごしてめちゃくちゃ楽しかったから、伝えときたくて。……これ、俺のスマートウォッチ。初期化しといたから、良かったら使ってくれ」
 植木の隙間から言葉の主を観察する。乱れた黒髪に無精髭の青年が、「いや本当にどうした!?そんなの貰えねえよ!」と慌てる友人らしき男に腕時計型端末を押し付けようとしている。
 身なりに無頓着で、友人に感謝を伝えていて、身辺整理をしている青年だ。
(……流石に役満すぎんだろ!)
 カデンツァは内心ツッコみながら、がさがさと音を立てて茂みから躍り出た。にゃあん、と無精髭の青年の足に擦り寄ってみる。
「うわ、猫!?……かわいいけど、俺アレルギー持ちなんだよ、また後でな!」
「あ……」
 友人らしき男は小走りでどこかに去ってしまい、残された青年は途方に暮れる。
「どうしよう……」
「どうしたのにゃあ」
「スマートウォッチ。勿体ないからあいつにあげたかったのに」
「もう使わないのにゃあ?」
 うん。青年は足元のカデンツァを見遣って、目が合った。そこでようやく自分が猫と会話していたことに気がついたようで、「うわあ!?」と声を上げる。
「ネコチャンが喋ってる!?」
「にゃ、猫がしゃべるなんて不思議だにゃ〜?」
 口をぱくぱくさせる青年に、カデンツァはごろにゃんと『へそ天』の姿勢になった。「これもご縁ってやつだにゃ。お近づきのしるしに、ぼくをもふもふしてはどうかにゃ?」
 喋る猫への警戒心と、もふもふの誘惑を天秤にかけて——おっかなびっくり、青年はカデンツァに触ってみる。
 もふ。ふわふわのおけけと、あたたかくて柔らかいおなかの感触。かすかに香るおひさまの匂い。
「ネコチャン、あったけ〜……」
 もふもふもふ。無心でおなかを撫でくりまわす青年の顔に少し生気が戻ってきたのを見計らい、カデンツァは声をかける、
「さっき、どうして時計をあげようとしてたにゃあ?」
「あ……えっと。何て言ったらいいか」
「ゆっくりでいいから、なんでも話してほしいにゃあ」
 くりんとした瞳で青年を見つめると、彼はしばらく考えてから、ぽつぽつ話し出した。
「……俺、四月から社会人で。看護師になるんだ」
「看護師さん。すごいにゃあ」
「ありがとう、夢だったんだ。……母さんが昔から病気がちだったから。助けられる人になりたくて」
 青年は少し笑うが、直ぐにその表情に影が射す。
「でも今年に入ってから、母さんかなり悪くてさ。在宅で色々治療しなくちゃいけなくなって。就職先は夜勤があるんだけど、母さん一人にさせられないから、仕事、無理かもしれなくて。『お母さんがいたら、やりたいことできないんじゃない?そんな縛られてる人生、苦しいよね?』って。言われたんだ」
 だから、もうこれは要らないんだ。青年はスマートウォッチを握りしめる。

(黒幕は家族をダシにしてやがるのか)
 良かれ悪しかれ、たいていの者にとって家族は特別な存在だ。……ある日唐突に両親と姉を喪ったカデンツァも当然、例外ではなかった。今回の簒奪者はその「家族」という心の隙にうまく付け込んだらしい。
「気に食わねえな」
 小さく呟いたカデンツァに、「何か言った?」と青年。「なんでもないにゃ〜ん」と答えて、ちょっとだけ毛並みを逆立ててみせる。
「そんなことより、きみにそんなひどいことを言ったのは、どこのどいつにゃん!」
 え、と青年が言葉に詰まった。そういえば誰だっけ、たっぷり数十秒思案して、ぽつりと漏らす。
「あがり、さん」
「あがり?その人に言われたのにゃん?」
「うん、苗字は覚えてないけど、昨日……会ったんだ、あそこで」
 青年が指さす先は、校舎と校舎のあいだにある中庭のような空間。遠目にも、数本の木やベンチが視認できる。
 まだ簒奪者と接触してから日が浅いためか、カデンツァとの邂逅がひとつの刺激になったのか。青年は比較的多くを覚えていられたようだ。
 あがり。それが今回の黒幕の名前。
 そしてそいつは、あの中庭にいたのだ。

「お母さんと話してみるにゃん」
「え?」
「夢を諦めてって、お母さんから言われたわけではないにゃん?なら、ちゃんと家に帰って話すにゃ」
 家族と話せるのは、家族を持つ者の特権なのだから。カデンツァは青年の返事を待たずに中庭の方へと駆け出した——簒奪者を倒すべく。

第2章 集団戦 『さまよう眼球』


 校内に散らばっていた‪√‬能力者達が、一人また一人と中庭に集まる。
 三方向を校舎に囲まれているが南側が開けており、晴れていれば陽当たりは良さそうだ。木造のベンチやフラワーカートが並ぶほか、立ち入り自由の芝生のスペースもある。平時であれば生徒達の憩いの場なのだろう。
 しかし、今は息の詰まりそうな閉塞感だけがあった。それはいつの間にか空を覆っている、灰色の雲だけが原因ではないように思う。
 普段はここで課外活動をしているという学生たちも、今は見当たらない。周りの校舎からも物音ひとつ聞こえなかった。この異様な空気にみんな撒かれたのだろうか。
 
 不意に、√能力者たちの背後で大きな音がした。重たくて柔らかいものがぶつかる湿った音。振り返ると、黒々とした巨大な肉の塊が僅かに震えながら横たわっている。
 すぐに肉塊は目を開けた。……目玉が生えてきたという方が適切だろうか。無数の瞳が忙しなく動き、そのひとつひとつが√能力者達を見つめている。
 √汎神解剖機関をよく知る者なら、見覚えがあるかもしれない。『さまよう眼球』——数多の眼球と、牙と、肉が混ざり合った怪異。

 肉塊の中心部が大きく裂けた。無秩序に生えた牙の隙間から、くぐもった声らしき音が渾沌と漏れ出す。
『アタシヲミナイデ!アタシヲミテ!』
『オカアサン!オカアサン!』
『サワルナ!ホウッテオイテ!タスケテ!』
 いやに耳に残る、悲鳴じみた鳴き声。これは今回の事件の黒幕ではないだろう。好き勝手に喚き散らすその姿に、学生を惑わせられるような知性は感じられない。ただただ鳴きながら、じりじりと近付いてくる。
「……上にもいる」
 誰かが指差した先、三棟の校舎の屋上にも複数体の『さまよう眼球』が蠢いていた。それらはなんの躊躇もなく、地上の√能力者たちに向かって飛び降りて来る!
食神・深雪
テルティウス・プラエタリタ

 √能力者達を押し潰さんと、次々と身を投げる『さまよう目玉』たち。曇天の薄暗さが、彼らの影によりいっそう増していく。
 しかしそのうちの何体かは、地上に辿り着くことさえ叶わなかった。
 『ギャ……』
 突如として眼前に迫り来た黒色に捕えられ、何が起こったかも分からぬ怪異。ぎょろぎょろと動く目玉を、白い歯がすり潰した。
 ……中庭に姿を現したのは、黒々としたへどろのかたまり。手足も、目も耳も見当たらない。ただ、怪異たちのそれよりも大きな口と歯だけがある。
これが、食神深雪の本来の姿。幾度も濁流を呑んでは流域を守ってきた、誇り高き『土地神』としての姿だった。
 落ちてくる怪異たちを、深雪はその巨大な口の中に迎えていく。肉も目玉も、特段味わうほどのものではない。噛みついて、呑み込んで、また次を食べる。がぶがぶ咀嚼と嚥下を繰り返す深雪の口の端から、怪異たちの肉片とも体液とも分からぬものがぼたぼた滴り落ちた。

『イタイ!ヤメロ!ヤメロ!』
 他の目玉をなんとか押しやり、一体が深雪の口内から脱出した。眼球と牙を真紅に輝かせた怪異は、深雪の無防備な胴体部分へと牙を突き立てようとし……。
「おっと、させないよ」
 眩い光がそれを撃ち抜いた。怪異は苦しげな声を上げると、そのまま黒い霧となり消えていく。
 光の出所は、テルティウスの周囲に浮かぶ|霊光結晶《オーラフォトン・プリズム》。彼のオーラで形成された結晶状の浮遊砲台は、薄暗さの中でもステンドグラスのように輝いている。

「助かりました」
 深雪から降ってきた存外普通の発声に少々驚きつつも、テルティウスは軽く手を上げて応えた。
「頼りになる姿だ。こんな‪√‬能力もあるのか」
「能力と言いますか……。人の姿で人助けをするのは、少し思うところがありますので」
 含みのあることばだが、なにぶん口しかない造形ではその表情は窺い知れなかった。怪異たちの身投げの中心地にいながらも、冷静な様子で二人は言葉を交わす。
「これらは、この騒動の発端ではないでしょうね」
 深雪の言葉に、だろうね、とテルティウスは同意した。敵意こそあれ、悪意を持てるような知的さは持ち合わせていなさそうだ。とはいえ無害ということもあり得ないだろう。
「まあ、どちらにせよ。このまま放っておくわけにもいかないよね」
 テルティウスは呟きざまに降ってきた怪異を飛び退って避けると、すぐさま|結晶《プリズム》を煌めかせてオーラレーザーを叩き込んだ。光の剣山となった怪異は音もなく崩れ落ちる。その隙に背後を取ろうとした怪異にも、主を守るように展開された結晶が次々と光を浴びせてゆく。
 自在に動く浮遊砲台に死角はない。テルティウスの軽やかな身のこなしと彼に随伴する結晶の高度な連携に、怪異たちは成す術なく一体ずつ数を減らしていていった。
 
『ギギ……』
 先陣を切ったものが次々と処理されていくのを見た屋上の目玉たちは、ぐしゃりと音を立てながらその姿を変貌させた。目玉は腐り落ち、代わりに凶悪な口と牙が大きさを増す。酸でも漏れ出しているのか、呼吸に当てられた屋上のフェンスがみるみるうちに錆びて朽ち果てる。
 「あれを食らうとまずいかもしれませんね」
 深雪の声に顔を上げたテルティウスは、結晶の砲台を屋上に向けて放物曲面状に展開する。
「なら、降りてくるまでに終わらせてしまおうか」
 空を仰ぎながら長髪を耳にかけた、それを合図に砲台から一斉にレーザーが放たれる。光は一直線に伸び、その先にある結晶に衝突すれば屈折と同時に拡散し───それを繰り返すうち、光線は空中で網目状に広がり、中庭は雲の上のような眩さに包まれていた。
 まさに飛んで火に入るといった様子で光の網に飛び込んでくる怪異たちを、数多の光線が貫いた。【ヒュージ・ファング】の能力により、怪異は傷ひとつ付かないが───代償として、生命力が大幅に削られていく。威勢よく牙を剥き出しにしていた怪異たちは、一体、また一体と口元を弛緩させて墜落していった。
 「では私も。口だけ同士のよしみです、ころっと逝かせてあげましょう」
 力無く蠢く怪異たちに向けて、深雪は身体を折り曲げて咆哮した。地の底より響くような|自販機怪異の裏技《アクジキジハンキノノロイ》をまともに受けた怪異たちは、耳障りな断末魔とともに口から色とりどりの液体を吹き出す。
 コーラ、メロンソーダ、オレンジジュース。凄惨な現場に似合わぬ、甘い匂いと炭酸が弾ける音とともに、怪異たちはゆっくりと霧散していくのだった。

カデンツァ・ペルッツィ
黒鉄・彪

「うわぁー、変なのがたくさん湧いてんな」
「ほんとだぜ。うるさいったらありゃしねえよ」

 屋上で波打つ『さまよう目玉』を見上げて、彪とカデンツァは呟く。彼らの放つぎゃあぎゃあした鳴き声は、校舎に反響しひどく耳障りだった。

「ま、うまいカレー食ったし。そろそろ|仕事《任務遂行》の時間か」
 彪は背中の竹刀の柄に手を掛けて、抜刀。先程まで何の変哲もなかった竹刀は、黒光りする真剣へと姿を変えていた。
 見れば彼の背には鋼鉄の羽が一対。尾骶骨や肩甲骨から幾本も伸びる、|黒色《こくしょく》の連結刃。
 能力【|蹂躙乱舞《ジュウリンランブ》】により、彪の装備は大きく変化した。特殊義体に多数の拡張ユニットを装備した、サイボーグとしての彪の姿。無邪気にカレーを頬張っていた快活な高校生の面影はなりを潜めている。眼光鋭く怪異を睨め付ける今の彪は、冷徹な兵士だ。
「迷惑な奴らだ。とっとと片付ける」
 吐き捨てるように言うと、彪は頭上に降ってきた怪異を『オロチ』で串刺しにした。怪異の体液が雨のように彪を濡らすが、すぐに霧となり蒸発する。
 神経に直接繋がれた伸縮する刃『オロチ』は、彪の手足が如く滑らかに動く。次々に湧いてくる怪異を刺し貫き、締め上げ、薙ぎ払う。怪異の残骸である黒い霧が、彼の姿を隠してしまう程だ。
「……!」
背後から牙を剥き出しにして襲いかかってきた怪異の攻撃を、彪は背中の『コクヨク』で身を覆って防いだ。あと少し防御が遅ければ肉を抉り取っていたはずの凶悪な牙は、鋼鉄の翼に防がれてぼろぼろと抜け落ちていく。
「甘いッ!」
 彪は真剣に変化した『アオタカ』を閃かせ、歯抜けの怪異を切り伏せた。

「気を付けろ、なんか様子のちげえ奴が来てる」
 カデンツァの指し示す先、中庭の隅に着地した怪異。目玉を失くした代わりに巨大な口と牙だけを持ったそいつは、じりじりと彪たちの方に近付いてくる。
 彪は『オロチ』の切先を巨大な口に叩き込むが、泥に刃を突っ込んだかのような心許ない感触。敵も全く怯んでいないようだ。
「……効いてないな」
 気づけば、攻撃を無効化する口だけの怪異がかなりの数を占めていた。彼らの奥の手となる形態なのだろう。
 そんな中庭に、低い爆音が響き渡った。
「体力切れを狙うしかねえ。俺が引きつける!」
 大型───彪から見れば全然そんなことはないが、猫からすると大型なのだ───の魔導バイクに跨ったカデンツァは、エンジン音を響かせて巨大な口どもを挑発した。視覚器官も聴覚器官も持ち合わせていなさそうな彼らだが、吸い寄せられるかのようにカデンツァを追いかけ始める。
「かっ飛ばしていくぜ!」
 バイクの轟音に負けずとも劣らない、怪異たちの喚き声を背中で聞きながらカデンツァは走る。ハンドルを握ってさえいなければ耳も防ぎたいくらいだ。聞くだけ無駄だとは分かっていながらも、眉を顰めずにはいられない。
 ただ走るだけでは追いつかれる。カデンツァは深いドリフトでベンチの下を走り抜け、怪異の大群が吐く強酸の吐息をやり過ごした。木製のベンチはみるみるうちに腐り崩れ、その残骸を怪異の群れが踏み荒らす。
 おっかねえ、と肝を冷やしたカデンツァが前方に目線を戻すと、数メートル向こうにぎょろりとした目玉が屋上から落下してきた。避けきれない!
『ギュ……!』
 そのとき、黒鉄の鳥が真横から突っ込んで目玉を弾き飛ばした。彪の√能力で増殖した『アオタカ』の一つだ。間一髪で衝突を免れたカデンツァはそのまま中庭を駆け抜ける。
「次、また正面に来るぞ!」
「おう!」
 攻撃が通る目玉は確実に切り伏せながら、彪はバイクの進行方向に入りそうな怪異たちを警戒する。カデンツァは操縦に集中すると、僅かな段差や植木を利用して怪異たちと距離を取り、ブレスを躱し続けた。
 走り回ってついに体力切れを起こし、折り重なるように気を失う怪異たち。カデンツァはブレーキを効かせ、アスファルトを削りながら転回する。一転攻勢、怪異に向かって一直線に魔導バイクを走らせた。
「終わらせてやるよ!」
 ハンドルを離し、爆走するバイクから勢いよく跳躍。ローブの裾がはためき、尻尾が弧を描く。宙でくるんと一回転したカデンツァは、そのまま真っ直ぐ足から着地し───怪異の中心地へと強烈な【|猫の宙返り《キャットツイスト》】を食らわせる。どおん、と体躯の小ささに見合わない衝撃が地面を揺らし、怪異たちは黒い霧となって消えていった。


「……結局こうなっちゃうんだね」
 怪異たちがいなくなり、静けさを取り戻した屋上。
 彪の放った『アオタカ』のひとつが、面白くなさそうに呟く少女の姿を、捉えていた。

第3章 ボス戦 『人間災厄『善意の死滅天使』高天原・あがり』


 ショーペンハウアーのエントロピー。
 樽いっぱいのワインに、ひとさじの汚水を入れてしまえば、樽いっぱいの汚水になってしまうという言説。
 そして、後からどれほどのワインを注いでも、二度と純粋なワインには戻らない。
 
 
●善意の死滅天使
 黒幕はすぐそこにいる。その情報を得た√能力者たちは臨戦態勢を崩さない。
 そしてすぐに、『彼女』はやってきた。校舎の昇降口が音を立てて開き、そこからひとりの少女が姿を現す。遠目には在校生くらいの年齢にも見えるが。
注意して、彼女だ。ひとりが呟いて、√能力者たちは武器を構えた。見た目には普通の少女だが、普通の少女はこの短時間で屋上から地上には来られないだろう。
少女は彼らの警戒など気にもとめない様子で、小走りで背の高い植木へと向かう。
「お疲れ様。|やっと《・・・》眠れるね」
 少女は植木の影に転がっていた怪異をすくい上げた。死に体で生き残っていたのだろう。慈愛の手付きで包み込むと、目玉は白い光となり消滅する。
—— 触れたものの命を奪えるらしい。ならば、なぜ自殺教唆という手の込んだことを?
 そんな疑問を見透かしたように笑うと、少女はこちらに向き直る。
「私が直接みんなを|救って《死なせて》あげると、あなた達の予知に引っ掛かっちゃうと思ったの。……結局、気付かれたみたいだけど」
 それにね、と少女は付け加える。「私はお手伝いしただけ。|救われよう《自殺しよう》としたのは、学生さんたちの意思だよっ!」と、無垢な表情で。
 死を救済だと宣うこの少女は、高天原・あがりと名乗った。残虐と狂気を宿した瞳が、彼女が単なる偏向思想ではないことを証明している。
「どれだけ幸せなことがあっても、一度起こった不幸は消せないよね。そんな苦しみを抱えながら生きるなんて……悲しすぎるよ。
だから、みんな死ねばいい!死ねば不幸から解放される、みんな心の底ではそれを願ってるよね!」
 樽いっぱいに汚水をたたえているのなら。
 その樽ごと壊せば幸福だと、心の底から、信じている。
人間とは相容れない存在となった人間災厄・高天原あがりは、凶悪な光を放つ光輪を召喚すると、あなたたちに突き付けた。
 
「あなた達も√能力者なら分かるでしょ?──生きてる限り、ずっと苦しいまま。だから私たちは、幸せに死ぬべきなんだよ!」
黒鉄・彪

⚫︎|黒赤《こくせき》の使命

「どうでもいいな」
 あがりの言葉に真っ先に応えたのは、彪だった。『オロチ』に付着した怪異の残骸を拭い取りながら、前に進み出る。
「おまえのやっていることが救済かどうかなんて、俺にはどうでもいい」
「うーん、すんなり受け入れてもらえるとは思ってなかったけど」
 あがりはちょっと眉を下げて苦笑して、「どうでもいい、はちょっとショック……かもっ!」
 その言葉と共に腕を振り上げると、光輪を次々に彪に飛来させる。彪は刀の形状をした『アオタカ』を抜刀して弾き、光輪は力を失いその場に落ちていく、が。
 最後のひとつが、『アオタカ』の刀身をすっぱりと切断させてしまった。まともに直撃すれば、金属を切断できるだけの威力を持っているようだ。
「どうでもいいなら放っておいてくれてもいいじゃん!なんで邪魔するの?」
 新たな光輪を召喚しながらも、あがりはそれを彪には向けない。自分の方が強いという簒奪者ゆえの慢心か、彪の「どうでもいい」という無関心がよっぽど引っかかっているのか。
「お前は、この世界にとっての脅威と判断された───俺の敵だからだ」 
 彪は刃渡が半分以下になってしまったアオタカを地面に放ると、あがりから目を逸らさず対峙する。
「俺は、|相棒《Anker》を守る為に、この世界を守る」
 幼馴染で、相棒で、彪の|Anker《帰る場所》。彼が屈託なく笑える世界を守ること。それが黒鉄彪の役目だ。

「そうなんだ。大切な人のために頑張ってるってことだね」
 意外にもあがりは、彪の使命に共感を示した。そして、にこやかに言う。
「じゃあ、その人と一緒に殺してあげる!」
「……」
 電脳ゴーグルの下で、彪の目線が殊更鋭くなったことに、あがりは気づかない。
「私、√能力者を本当に殺せる力を探してるの。それが見つかったら、あなたとあなたの大切な人を一緒に|救済《殺》してあげるね。それなら安心でしょ?ひとりだけ残されるのって、寂しいもん」

 戯言だ。これ以上聞く必要はない。
あがりの声を『オロチ』が遮った。彼女の手足を黒鉄の鎖が絡めとる。不意を突かれて抵抗が遅れたあがりを取り囲むように、幾枚もの風切羽───『クロハ』が放たれた。
 やれ、と彪の指示で。クロハからエネルギーが射出される。360度全方向からのオールレンジ攻撃が、捕縛され防御ができないあがりに降り注いだ。
 並の相手ならこの一撃で勝敗がついていただろう。しかし、轟音と閃光が収まった時、あがりは未だゆらりと立っていた。ただ、その瞳に先程までの余裕は無い。
「√能力者を殺せる方法か。そんなものがあるなら、先ずはおまえ自身を救済してやったらどうだ?」
 再び召喚された光輪が彪を襲う。彪は腰から『翔天』を抜刀してそれを受け流した。挙動は多少違えど、同じ手を二度も食らう彪ではない。そして師から賜ったこの刀も、光輪が鉛直に当たりさえしなければ易々と切断されるようなものではないのだ。無銘の名刀を振るった彪は地を蹴って一気に距離を詰め、あがりの懐に飛び込む。
 ゴーグル越しに、目が合った。
「嫌だってんなら、俺がおまえを|救済《殺》してやる。本望だろっ!」
「……!」
 柄を握り、脇腹から肩にかけて斬り上げる。あがりが呻いて、鮮やかな赤が舞った。

食神・深雪

●形をもたないということ

「私もどちらかと言えば、あなたの論はどうでも良いのですよ」
 手負いのあがりの前に、着物姿の深雪が立つ。その姿は、先程まで猛威を振るっていたへどろと比べると随分と儚い。しかし、どこか凛とした威厳があった。
「人の生き死にの綺麗汚い、幸せ不幸せ。……どうでもよろしい、好きになさい」
「だったら、」
 どうしてあなたも私の邪魔を。疑問を口にするあがりに、深雪は返事代わりに卒塔婆を振り下ろした。あがりはそれを間一髪で避け、反撃の光輪を深雪に差し向けた───が、それらは宙で霧散する。深雪の√能力で【載霊無法地帯】が形成されているのだ。
 己の行動に制限がかけられたことを悟り、一旦深雪から距離を取ったあがりに、深雪は言う。
「私は、人に蔑ろにされた過去があります」
「だから、|人間《みんな》が救われて欲しくないってこと?」
 徹底的な話の通じなさに、深雪は薄く微笑んだ。
「青いですねぇ。誰も彼もがあなたのように単純ではないのですよ」
 きょとんとしているあがりに向き合うと、深雪は両手で卒塔婆を身体の前に立てた。
「私は、人に心を救われた経験もあるのです」

 ひとの営みは水流に似ている。
 時には誰かに恵みをもたらしたり。また時には流れを荒くして誰かを害したり。とどまることなく、身勝手極まりなく流れていく。
 そして、その流れの中に永く身を晒してきた深雪もまた、『そう』あろうと決めた。
 救われないことに絶望したその先でも、救いの手が差し伸べられることがある。人に与えられた痛みが、人により癒されることもある。
それを知った深雪は、時には救ったり、また時には救わなかったり、人と同じように清濁を重ねていく存在になろうと思ったのだ。
 綺麗事だけでは在れなくとも。それが、人と共に生きるということだと。
「ですので、今回は人助けをすることにしました」

「そんなの……なんか、自分勝手だよ!」
 叫びと共に、あがりはひときわ大きな光輪を招び出した。その太陽のように暖かな光を浴びていると、どこからか満ち足りた感情が湧いてくるのを感じる。これをもってして彼女は『幸福な死』を相手に与えているのだろう。
 だが、そんなはりぼての幸福など、深雪には必要ない。
 接近する光輪を打ち返すが如く、深雪は卒塔婆を振り抜いた。水晶が割れるような澄んだ音が響いて、幸福な死は粉々に砕ける。
「勝手はお互い様でしょう?」
 ひとの営みは水流に似ている。
 生きたかったり、時には生きたくなくなったり。
 人間とは、そういうものなのだ。常にかたちを変え続けるものに、画一的な死を与えようとする、あがりの論こそ勝手と呼ぶべきだ。
「うそ……」
「さて、青い果実は熟す前に食べてしまいましょう」
 無防備となったあがりに向けて、深雪は卒塔婆を再び振り上げた。今度は外さない。
 時には自販機の姿で、へどろの姿で、そして、ひとの姿で。
「私は、悪食ですから」
 卒塔婆で人を殴るという冒涜をもってして、深雪は人を救うのだ。

テルティウス・プラエタリタ

●生者の輝き

「……あなたは。さっき私に気付いてたよね?どうして?」
 対峙したテルティウスを見つめ、あがりは問いかけた。中庭に現れた彼女の正体を、真っ先に看破したことを疑問に思っているようだ。
「とある学生さんの心を覗かせてもらってね。その中で君を見たんだ」
 簒奪者たるあがりに対しても、テルティウスは柔らかな態度を崩すことは無い。しかし、目線だけは油断なくあがりに注がれている。
「人の数だけ心と願いがあるからね。世界には、確かに君の救いを必要とする人もいるかもしれない」
 その言葉に、この日初めて賛同を得たあがりの表情がぱっと華やいだ。
 様々な世界で、たくさんの人の心に触れてきた。昏い絶望に沈み、「死ぬことでしか救われない」という思いに囚われている心があることも、テルティウスは知っている。そういう者にとっては、あがりの存在は救済になり得てしまうのかもしれない。
「だが、その救いは、押し付けられたものでは意味がないんだ」
「……押し付けてなんかないよ!」
 あがりは再び表情を曇らせ、心外だと声を上げた。
「心の中を見たんでしょ?悩んで、苦しんでたでしょ?その悩みは、最初からその子の心にあったものだよ。それから逃れたいって思いも!」
 あがりの論に、「確かに、彼の悩みは彼自身のものだった」とテルティウスは答える。
 人生の階段を登るにつれ視界が広がり、世界が大きくなる。───それに比例して、自分がどんどん矮小なものに見える。彼の抱えていたそんな葛藤は、彼自身のもので。たとえ|簒奪者《あがり》の影響が無くなっても、その苦悩が消えることはないだろう。
 しかし、テルティウスが彼の中で見たのは苦悩だけではない。未来への不安、葛藤、羨望、期待、希望……様々な感情が入り交じっていたはずのそれらを総称して、あがりが『希死念慮』という安易な名前を与えてしまった。それは押し付けであり、教唆に他ならない。だから。
「彼が必要としていた救いは、君の言うようなものではなかったはずだ」
「……何それ。あなたに彼の何が分かるのっ!」
 凶悪な光輪を召喚しながら、あがりは叫ぶ。その訴えは空虚だった。心の隙間に付け込んだあがりと、静かに寄り添ったテルティウスでは、比べるべくもないと言うのに。

───これ、おれのお気に入りなんすよ。話聞いてくれたお礼っす!
 テルティウスは、彼から別れ際に渡された飴玉を握り込んだ。瞬間、それは淡い輝きを放つ大剣へと姿を変える。|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》により武装化された彼の記憶を、テルティウスは丁寧な手付きで構えた。
 「君が本当に、皆を不幸から解放したいなら……その傲慢を成したいなら、よく見るんだ」
 巨大な光輪が、テルティウスの身体を切断せんと飛来する。
 「君が|救おう《殺そう》とした彼の心を。願いを」
 オーラソードが、テルティウスに応えるように明滅する。肩口まで迫っていた光輪は両断され、さらさらと砕け散った。そして。

 「彼の輝きを、君は知らなければならない!」

 昏い狂気に染まったあがりの瞳を、オーラソードの煌めきが照らした。その眩さに顔を歪めて、思わず彼女は目を覆う。
「……うそだよ。なんで?あの子、死にたかったんじゃないの?」
生きる希望に満ちた輝きが、あがりの身体を一閃した。

カデンツァ・ペルッツィ

●善く生きること

 この世に幸せなんてない。
 幸せは天国にしかない。
 あがりの幸福論に、一定の理解を示してしまえるカデンツァがいた。
 その身に欠落を抱えながら、時にその爪を血に染めながら、それでも生き続けること。それは簡単なことではなかったし、この人生を幸せだと言い切ることも難しい。
 しかし、それでも。
 「てめえの幸せくらい、てめえで決められる!」
 あがりに向かって跳躍し、カデンツァは爪を振るう。あがりは咄嗟に光輪を召喚しそれを防ぐが、反動でその場に倒れ込んだ。これまでに受けたダメージが大きいのだろう、膝立ちになるのがやっとという様子だ。
もはや勝敗は決そうとしている。カデンツァは光輪に裂かれてしまったフードを脱ぎ捨てると、あがりに引導を渡すために前に進んだ。
 「……私は、みんなを幸せにしたいだけ」
 歪んだ善意に取り憑かれた少女は、満身創痍ながらも呟いた。死以外に幸せを見出せない、√能力者としては地獄のような境遇に身を落としているあがりに、カデンツァは言う。

 「本当に幸せに死ねるのは、精一杯生き抜いたヤツだけなんだよ」

 あがりはゆっくりと顔を上げると、カデンツァたちを見据えた。自分を殺そうとしている全員を見て、口を大きく開いて、叫ぶ。
「精一杯生き抜いて、精一杯苦しんで……そんなの、いやだよ。『苦しみが好きな人なんて、居るはずないよ』ッ!!」
 魂を削るような絶叫だった。√能力者たちはあがりの声に、その場に縫い付けられたように硬直してしまう。……しかし、動けないのはあがりも同じだ。文字通り最後の力を振り絞ったのだろう。立ち上がることもできないまま、開ききった瞳孔でこちらを凝視し続けているのみだった。
 静かになった中庭で、カデンツァは肩で息をするあがりを見つめ返した。
「そうだな、苦しみが好きなヤツなんている訳ねえよな」
 辛うじて口は動くようだ。静かに続ける。
「でもよ、苦しみがあるからこそ、際立って輝く喜びってもんもあるたぁ思わねえか?」
 何十秒、あるいは何分か。静寂が中庭に満ちた。
 あがりは未だ目を見開いている。瞼を引き攣らせ、白目を充血させ、生理的な涙をぼろぼろと零して。長い沈黙のあと、ろくに見えていないだろう視界にカデンツァをとらえながら、あがりは口元を笑みの形にして答えた。
「思わない。全然思わないよ!」
 身を焼くような苦しみと、すべてを照らすような喜び。
 全てひっくるめての人生だと、この少女は一生理解できないのだろう。

 やがて、限界が訪れて。最期まで狂気に染まっていたあがりの瞳が、諦めとともにふっと閉じられる。
 次の瞬間、カデンツァの|死に至る猫の爪《デットエンド・キャットクロー》が、あがりの頚部に突き立てられた。


 
 √能力者である高天原あがりに訪れた、ひとときの死。
 それは彼女にとって、束の間の救いとなり得たのだろうか。
 ───いつの間にか厚い雲は晴れ、空には黄昏と夜が隣り合う。もうすぐ綺麗な星が見えるだろう。

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