『恋という名の庭に咲く花』お屋敷メイド失踪事件
●『花の名前を知りたくて』
それはまだ、この世界が正しく人類史の中にあった頃。
大規模な戦争が終結した後、大変な混乱の只中にあった日本で起きた、小さな小さな出来事である。歴史に刻まれない程度のその小さな出来事は、今やもう、あまりにもありきたりで、あまりにもありふれたつまらない話であるのかもしれない。
戦争孤児という言葉がある。戦渦によって家族や住む家を失った子供達の事だ。
当時としては珍しくもないありふれた子供達のその中に、大層醜い少年がいた。
その見てくれは凡そ人間とは形容し難く、人々は彼を化物だと口々に罵った。
戦火に焼かれ酷い火傷を負ったのであろう顔の半分は、既に瞼を失った眼球がぎょろぎょろと、まるで目玉の怪物のように人々を凝視し。もう半分、僅かに人の面影を残すそこも、整ったとは決して言い難い、潰れたヒキガエルか魚の化身のような容姿でもって存在していた。痩せた体は餓鬼のように腹部だけが大きく膨らみ、焼けて髪の死んだ頭部は、それの代りに痛々しい火傷痕を残していた。いっそ布切れか新聞紙の方がましかと思えるぼろぼろの衣装に、痛々しい裸足で焼け野原となった街を闊歩する彼は、まさに亡霊か物の怪か、今であれば怪異と間違われてもおかしくない程に見るも無残な姿であった。
誰もが彼を忌み嫌った。戦争の遺物であり汚物であると奇異の視線を向け、手を差し伸べるどころか、その手を払い除け、口汚く罵っては塩や石を浴びせかける始末。
家族を失い、行き場を失くし、今日食う飯すら手に入らぬ。
ただただ醜く生まれ、より醜い姿となってしまっただけ。
何一つとして非の無い筈だ。それとも醜いだけで罪だとでもいうのだろうか。
己が絶世の美丈夫であったのなら、このような仕打ちは受けなかったのだろうか。
どうして、どうして、人々はこんなにも自分を忌み嫌うのだろう。
そうして、日々深い深い悲しみの只中にいた少年。
日に日に貧困と空腹に喘ぎ、とうとうあの世の迎えが来たのだろうか。
それはこの時代であれば、彼でなくとも極々当たり前の事で。覚悟を決めたようにゆっくりと目を閉じ、少しでも苦痛を和らげんと体の力を抜いた時だった。
「嗚呼あなた見てください!あの子にそっくりな子がいます!!」
「嗚呼本当だ!まるで生き写しだ!!」
そう言って少年を拾った夫婦がいた。
彼らはとある大金持ち、時代で言えば『財閥』と呼ばれる家の夫婦だ。
彼らは倒れた少年を拾い、その体を清め、綺麗な服とあたたかい食事を与えた。
彼らは言う、その半身の大きな火傷が子供のそれとよく似ていたそうだ。
赤子のまま、半分を焼け落されて命までも焼かれてしまったあの子の生き写しだと、彼らは目に涙を溜めて語ったのだ。是非とも家の子供になって欲しいと、地獄であれば蜘蛛の糸のような話を差し出された少年は、しばらく押し黙った後にこう答えた。
「お言葉は本当に有難く。心に浮かぶ感謝の言葉を生涯かけて尽くしたとて、到底足りるものでは御座いません。然しながら、かように醜い化け物を貴方様方のような立派な方々の子供としてしただくのは、大層気が滅入る思いに御座います。この身に余る光栄と贅の極みに御座います。僭越ながら、わたくしめの望みはそこに御座いません。その仏のような御心でわたくしめを憐れんでくださるというのならば、どうかどうか、子供ではなく召使としてお抱えください」
少年はそうして財閥の家に住み込みで働く庭師となった。
彼が来て、幾年かの月日が流れて。その財閥の庭は、どんな家よりも立派で美しい花を咲かせる庭として評判になったのだ。
誰よりも醜かった筈の少年は、誰よりも美しい花を咲かせる庭師となったのだ。
●案内人:クルス・ホワイトラビット
ぱたん、と、本が閉じられる音がする。
まだまだ相当の厚さを残したそれは、その続きがある事を容易に想像させるだろう。然し、星詠みたる少年の口は別の話を語り出す。物語の余韻を打ち壊すが如く、現実を眼前に突き付けんが如く、貴方達へと向き直り、今回の任務を告げたのだ。
「……とまあ、少しばかり回り道をしたけれども、今回は今の話に出て来た財閥の屋敷が事件の舞台だよ。今は製薬会社として様々な医療品を開発している場所でもあるし、√汎神解剖機関ではちょっと名の知れた企業だ、お世話になった事がある人もいるんじゃないかな」
そう言って、彼はそっと貴方達の前に資料を差し出す。
『|木蔦《キヅタ》製薬』
戦後の日本において、多大な功績を残した財閥の一つ。
元々は別の会社名であったが、2代目当主から改名されて現在に至る。
現在は製薬会社として様々な医療品の開発・販売をしている。
初代当主は家族や従業員を何よりも大切にする人間で、戦後の混乱期、貧しい時期であるのも関わらず多くの戦争孤児や浮浪者を救った人間として有名である。
現在当主は4代目、3人兄弟の長兄である|木蔦 義明《きづた よしあき》がそれを務める。彼は近々結婚を控えていたそうだが、つい最近になってその相手が失踪してしまった為にやや憔悴気味らしい。
『家族構成』
長兄:|木蔦 義明《きづた よしあき》。
人柄のいい敏腕経営者という印象。部下や使用人達からも慕われている。
出来る男ではあるが、恋愛面はポンコツらしい。
次男:|木蔦 明正《きづた あきまさ》。
研究者気質でやや根暗な印象。血は繋がっているが、あまり義明には似ていない。
会社では開発責任者兼副社長という立場にある。
末娘:|木蔦 百合花《きづた ゆりか》。
3兄弟で唯一の女性であり養子。まだ遊びたい盛りの小学生。
ある日家の前に捨てられていたのをそのまま引き取って育てたらしい。
両親:海外出張中との事で不在(事件には無関係)。
「さてさて、資料に目は通したかな?
そんな感じの、世間的にも名の知れたご企業様のお屋敷で起こったのは失踪事件さ。
今回失踪したのは使用人とその家族の計3名。行方不明になる前は普通に屋敷で勤務していたらしいね。彼ら自身、勤勉で真面目で職場でも評判も良かったし、家族仲も良かったみたいだ。失踪する理由を探す方が難しい家族だよ。
企業自体にも仄暗い噂や後ろめたい話はないけども……ちょっとね、個人的に引っ掛かる事はあるのさ。いつからかは知らないけど、どうやら人ならざる者が屋敷に紛れ込んでいるらしいんだ。それが復活した怪異である可能性は非常に高い。詳しい事は現場に赴かないとわからないけれども、それが人類社会を崩壊せしめる危険がある以上、見て見ぬふりは出来ないのさ」
やれやれという感じで、少年はひとつ息を吐き出す。
「兎にも角にも、事件が大きくなる前に急いでおくれ。
白い薔薇を赤く塗るのが間に合えば、飛ばなくていい首は増えるからね」
第1章 冒険 『洋館を調査せよ』

●潜入開始!花咲く屋敷を大捜査!!
やわらかな風に運ばれて、ふわり、ふわりと花の気配。
鼻腔を擽るその優しい香りは、なんともまろく心地よく。思わずほっと、胸にやわらかな安堵と癒しを覚えさせてくれる。
√汎神解剖機関という比較的発達した技術と文明を有する世界で、そこはまさに豪邸という名に相応しい立派な建物が佇んでいた。賑やかなオフィス街からやや離れた閑静な住宅街の一角には、真っ白な壁をした4階建てのフランススタイルの西洋建築の邸宅。その奥にはちらり、ヨーロッパ式の広い庭園が広がっているようだ。もしかしたら、木蔦の家が財閥となった時代からの建築物なのだろうか。どこか歴史を感じるその建物のあちらこちらには、丁寧に大切に修復された箇所があるのが見て取れた。
一目で格式の高さを感じる立派な門構えも相俟って、思わず気圧されてしまう客人も少なくはないだろう。けれどもそんな人々の小さな緊張を解してくれるかのように、やさしく漂う花の香り。
自然とほっと、何故だかそっと、息を吐く。
ともすれば欠伸にもなってしまいそうなそれを、小さな咳払いとやわらかな微笑みでもって制したのは、ここ、木蔦の家の4代目当主・|木蔦 義明《きづた よしあき》、その人だ。
「ふふふ……えっと、|見下・七三子《みした なみこ》さん、でしたね。大丈夫ですか?もしかして緊張して眠れませんでしたか?」
「ふぇ……?あ、いえいえいえいえいえっ!!す、すすすすみませんっ!!あのっ、ですねっ!ちょっと、緊張し過ぎて息をするのを忘れそうになったというかっ!!それで酸欠になってぼーっとしちゃったというかっ!!と、とと兎にも角にもすみませんでしたぁぁぁぁぁっ!!!」
大慌ての見下の声が、屋敷の大広間中に響き渡る。
おそらくは昔、社交界などが開かれていたであろうそこは、木蔦の豪邸の中にあって、一層の広さを誇っている。今は簡単な朝礼やイベント事の会場に使われているらしいそこには、木蔦の性を持つ義明と、屋敷中の使用人という使用人が勢揃いしていた。
カーテンを揺らす優しい風が、雀の声を連れて来る。穏やかな朝日が、一日の始まりを優しく告げる。
シンプル且つクラシカルな装いの彼らに「大丈夫よ、気にしないでね」「初日だもん、緊張し過ぎても仕方ないわ」「いやー元気な子が入ったなぁ」なんて、あたたかい声と視線でもって出迎えられた見下は、羞恥のあまりに下げた頭の上げ所を忘れてしまいそうだった。
顔を上げれば、ずらりと並ぶ使用人の列。横を見れば、共にクラシカルロングメイド服やコック服など、それぞれの役割に合わせた衣装に身を包む仲間達と、その少し奥で当主が気にしなくていいよと言わんばかりの優しい笑みを浮かべている。
申し訳なさに思わずと俯けば、見下の右隣にいたシアニ・レンツィとリリンドラ・ガルガレルドヴァリスの二人が心配そうに見上げて来た。小さな声で「大丈夫?」と零す二人のその顔にも、どこか懸命に欠伸を噛み殺したような余韻が残されている。こくこくと頷きながら見下が顔を上げれば、今度は左隣で|渡瀬・香月《わたせ・かづき》が、もごもご、もぐもぐと、睡魔を噛み殺していた。目が合った瞬間、彼はにいっと口元を緩める。悪戯っ子のようで爽やかな好青年かくもやと言わんばかりのその笑みで、彼は、小さな声で言葉をくれた。
「ドジっ子メイドさんキャラ、良い感じじゃん」
「あは、あはははは……どーもです……」
コレ、お芝居じゃなくて素なんですけどね……。
なんて、そんな事、言えない。死んでも言えない。屋敷全体を包むようなやさしい花のにおいに充てられてついつい極限までリラックスした結果のあれである。言えない。言えるわけがない。それに、コンセプトとしているのはオロオロしつつ情報を欲しがっている新米メイドだ。ドジっ子とはまた違うというかなんと言うか……ッ!!
そんな心の中の苦い苦い呟きは、そのまま見下の表情として漏れ出す。
「なるほど、さっきのはパフォーマンス、自己アピールの一種という訳ね」
「おぉーなるほどー、確かにそういうのって大事かもっ。見下さん凄いっ」
「あは、あははー……ソレホドデモー……」
やめて、素なんですっ。あれは、素だったんですぅぅぅぅぅぅ。
ドラゴン娘二人からのきらきらと無垢な視線が痛い。ああ、どうして今日は仮面をつけていないのだろうか。引き攣りまくった笑顔を浮かべた瞬間、渡瀬の隣にいる|赫夜・リツ《かぐや・りつ》が目線だけをこちらに寄越し、自身の口元に人差し指を添えた。
「ほらほら皆、まだ当主様のお話が済んでないよ?」
「「「「あっ」」」」
全員がしまったと言わんばかりに義明を見た。
なんとまだ30代前半だという彼は、当主という名に相応しい仕立ての良いスーツから、そのあたたかい人柄を滲ませている。高い身長に涼し気な切れ長の瞳が印象的と言えば印象的だろうか。然してそれ以外に特質すべき特徴はない。ともすればどこにでもいる極々平凡な容姿をした義明は、失礼ながら威厳も風格も感じられないのだ。知る人でなければいい服を着ただけの一般人と間違われてもおかしくないだろう。
けれども、そんな彼だからこそなのか、先の4人のちょっとした|お喋り《脱線》にも、苦笑い以外の咎めはない。あたたかい視線にちょっとした困惑を込めつつ、義明はそっと口を開いた。
「うん、皆さんの緊張は解けたみたいですね。それでは改めてご紹介させていただきます。えー、皆さん、おはようございます。もう御察しの方もあるかとも思いますが、こちらにおられます5名は、本日より屋敷の使用人として勤めていただきます方々です。
些か急なお話ではありますが、皆さんご存じの通り、現在屋敷は急な人手の不足があり、猫や孫の手を借りたい程に大変な状況でもあります。5名の中に使用人の経験のある方は少ないですが、それでも心強い事に変わりはありません。どうぞ皆さん、お忙しい中恐縮ですが、ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願いいたします」
そうして小さな礼をした後で、朝礼という名の義明の話は続く。
穏やかな声の中にあって、確かな説得力を持った話し方は流石経営者というべきか。
いかにも話を聞いていますという姿勢は崩さぬまま、渡瀬が口を開く。
「……とりあえず、まずは潜入成功ってとこか?」
「そ、う、ですね……特に怪しまれてはない、と、良いんですけど」
「大丈夫じゃないかな?印象には残ったけどね。ああ、悪い意味ではないよ」
「うっ、そ、それならいいんですけどぉ……っ!」
困り顔の見下にどこか楽し気な笑みを零す赫夜。
彼らをちらりと横目で見つつ、渡瀬は小さく息を吐き出す。
「印象と言えば、赫夜にも驚いてるけどなー……まさかメイドになるなんて」
「うん?そう?似合ってるかな?」
その微笑みに、似合わないという言葉を放つ方が難しいだろう。
最初に言っておくが、赫夜・リツは男性である。普段であれば、女性に間違われるのも難しいくらいのれっきとした男性だ。然して今、彼は彼女と形容する他ない、美しい女性の使用人の姿になっているのだ。年の頃は20代中盤から後半。元々の髪色と整った顔立ちはそのままに、大人の落ち着きとミステリアスな魅力たっぷりの美人といった風貌に変化している。『リアルタイムどろんチェンジ』、という彼の√能力の仕業らしいが、いやはやこの時代、なんでも有りだな、なんて、渡瀬は感心とも驚きとも付かない感想を抱かずにはいられない。
「似合う以前に、なんつーか、√能力の可能性を見てる感じ?」
「はい、私もです」
「ふふっ、そっか。それは誉め言葉として貰っておこうかな」
赫夜が穏やかな笑みを零せば、見下も渡瀬も一言、「はあ」。
「……それでは、最期に自己紹介をお願いしますね。では、一番奥の、元気の良さそうなお嬢さんから、お願いできますか?」
「あ、はいっ!えっと、あたしはシアニ、シアニ・レンツィです!!えーっと、ショクバタイケンに来ましたー!!」
勢いよく前に一歩、半ば飛び出すように踏み出して、シアニが大きく片手を上げる。
多少の緊張はしながらも、元気いっぱいに挨拶をする彼女に、義明や使用人達の表情は優しい。最後に「いっぱい褒められたいです!よろしくお願いします!」と頭を下げたシアニに、あたたかい拍手が贈られる。
「ありがとうございます。それでは」
「ええ、次はわたしね……こ、コホンっ!えっと、わたしはリリンドラ・ガルガレルドヴァリスよ。その、シアニさんと同じく、ショクバタイケン?に、来たわ」
多少の硬さを残しつつも、リリンドラが堂々と挨拶を続ける。
普通ならば、こういう場で敬語が使えない事に異を唱える者もいるのだが、不思議と誰もそれをしようとしない。むしろ、これから覚えて行けばいいよと云わんばかりに見守ってくれているのがありありと伝わってくる。そこに不思議な気恥ずかしさを覚えつつも、リリンドラが「ち、力仕事なら任せてちょうだい。よろしくお願いするわ」と、挨拶を追える。小さなお辞儀、あたたかい拍手。それを少々の緊張と共に聞き入れながら、見下が一歩前に出た。「先程は大変お見苦しいものを……」から始まる自己紹介に、大広間がどっと笑いに包まれる。
渡瀬がまた、静かに口を開く。
「……さてと、ここからが本番だな」
「そうだね。上手くいくと良いけど」
「それはこっからの動き次第だろ。他の連中はどうしてんだろうな」
「さあ?けど、そこはまあ、上手くやるでしょう」
「……よ、よろしくお願いいたしますっ!!」
また勢いよく頭を下げる見下に、贈られる拍手。
さてさて次は自分だなと、渡瀬が一歩前に出る。そうして始まった自己紹介をやんわりと聞きながらも、5人はそれぞれ、今から始まる潜入調査へと気持ちを切り替えていった。
———思い返すのは、潜入調査開始前。
この世界に降り立った面々は、屋敷の確認をそこそこに、その近くで作戦会議を行っていた。住宅街の中にある小さな公園には人影はない。まだ随分と朝が早い事も関係してか、時折早朝ランニングに務めるジャージ姿の人や、犬の散歩をする人等が、公園の側を通り過ぎていくだけだ。真っ先に口を開いたのは誰だったか。作戦会議に先んじて、5人が使用人として潜入する旨を話し始める。大方話も終わり頃、それに小さく頷きながら、ふむと声を零したのは天國・巽《あまくに・たつみ》だった。
「なるほどなァ。そんじゃあそこの、見下、渡瀬、シアニ、リリンドラに赫夜か?その5人が使用人として屋敷の潜入を試みる、使用人潜入チームって感じか」
「はいっ、そんな感じですね!」
「俺らで使用人周りは一通り探ろうと思うから、そっちは任せてくれ」
「ひひひ、了解だよ。それじゃあ使用人との接触や屋敷の内部調査はソチラさんにお任せしようカナ。僕は僕で招待客というか、押し売りの古物商にでも扮してみるよ。一応骨董屋の店主だからね……ちょいとばかり面白そうな|物《ブツ》でも持って参上しようかな」
「あら、いいわね。面白そうな|物《ブツ》は、個人的に、少し、気になるわ。一体、どんな品物を?」
「んー、それは企業秘密ですぜ?興味がお有りなら今度是非ご来店を。飛び切り面白い|物《ブツ》を取り揃えてお待ちしておりマス」
にやりと口を歪めて、|秋津洲・釦《あきつしま・ぼたん》は恭しく、まるで執事が客人を出迎えるかのようなお辞儀を贈った。「楽しみにしてるわ」と優雅な笑みで柏手・清音も応える。
「それにしても、そんな仕草が、出来るのなら、あなたも、使用人として、参加すればいいのに……」
「お褒めの言葉は有難いけど、柄じゃないんだよねぇ……オモシロイお客サマ相手だったらいくらだって|下手《したて》にも出られるんだけど、ただただ誰かに使われるって言うのはちょっとね。性に合わないんだ」
ひひひ、と笑い声を上げた秋津洲の、その表情は伺えない。
然してそれに賛同したように、うむっと頷くのは、天國だ。
「おや?ソチラも同意してくれるのかい」
「まあな、俺も人の下に就くのは苦手でねェ。おまけに勝手もわからん使用人とくりゃあ御免被りてぇことこの上なし。とりあえずは、お家御用達の呉服屋って事で入り込もうとは考えてんぜ」
「はぁ。ナルホド、呉服屋さんねぇ……失礼だけど、大丈夫?威勢の良い魚の叩き売りの方が合ってる気もするんだけど」
「ハハッ、言うじゃねぇか。心配すんな、そこは亀の甲より年の劫ってなァ。まあ見とけや」
「そうかい」
どこか神聖さも感じる見た目に似合わぬ豪胆さで、からからと天國が笑う。
少々呆然としながらもまあいいかと軽くキャップを直す秋津洲の横で、くすくすと肩を揺らしながら、柏手も静かに頷いた。
「私も、使用人は少々、抵抗が、あるから……そうね、あの、小さな、レディに、淑女の嗜みを、享受しにきた人間、とでも、言おうかしら」
「いいんじゃねぇか?んじゃ、俺達3人はお客人として潜入させてもらわァ」
「ん、リョーカイ。入るタイミングなんかはまた追々適当に相談するとして……ああ、そうだ」
秋津洲が、使用人潜入チームの方を向いた。
誰がどの役割でどう動くかの相談をしていたらしい彼らは、秋津洲の視線に気が付き、揃って小首を傾げる。この情景を言葉として表すなら、「どうしたの?」が何よりも正しいだろう。
「使用人で潜入する方々に、ちょっと頼み事なんだけど。できればでイイから、顧客の好みなんかを小耳に挟んだら、教えてもらえると有難いカナ」
「ああ、それは、いい、考えね。なるべく、木蔦の方が、一人になる時間、とかも、わかれば、こちらも都合がいいし」
「うん、了解。それくらいなら問題ないと思うけど。連絡手段はどうしようか」
「連絡、手段?」
聞き返す柏手に、赫夜が「うん」と頷く。
曰く、使用人として潜入している手前、連絡の際には用心した方がいいかもしれないとの事だ。特に、使用人としては初日の勤務になる。世話係として誰かしらの目があるというのは意識しておいた方が良いのでは、という事だった。
「流石にトイレとかは大丈夫だと思うけどね。そもそもそういった機器を勤務中に持ち込めない場合もあるし、絶対に下手に携帯等で連絡を取るのは危険かなぁって」
「あー、確かにそうですね。怪しまれたりする可能性もあるし、これは私のしがない戦闘員だった頃の潜入捜査経験からなんですけど。連絡をするのって、本当に気を付けないと危ないんです。どんなに警戒していても、話に夢中になって、人が来るのに気付かなかったりとかはベテランの方々でも割と起こりうることらしいので」
「そうなのね。じゃあどうやって連絡取り合う?ぱっと見た感じだけど、屋敷自体もものすごく広いから、一度バラバラになってしまったら何もなしに落ち合うのは難しいわよ」
「うーん、そうだなぁ……」
「ああ、それなら、俺の能力が役に立つと思う」
そう静かに声を上げたのはクラウス・イーザリーだった。
彼が徐に指を鳴らせば、何もない空中に小さな幾何学模様の並ぶ魔法陣が展開される。それは、蛍光灯にも似た薄く青白い光を放つと、そこに赤子の掌サイズの小さなレギオンを顕現させた。どこか愛嬌のある丸いボディに中心にはカメラアイ。それはふよふよと他の面々の側を漂いながら、まるで挨拶をするようにカメラアイを下に下げ、そしてまた面々へと向き直る。
「コイツは———レギオンスウォーム。遠隔操作型探索機だと思ってくれていい。コイツに簡易通信装置を付けたものを一人一機付ける。なにかあったら、そうだな、これに向けて瞬きを三回してくれ。その合図を受けたら、レギオンを通じて俺や他のメンバーにも即座に連絡できる。ああ勿論、強制じゃないから、不都合がある奴は言ってくれ」
言いつつ、他のメンバーの顔を見れば、特に反対する事も無く、皆さんどうしたように小さく頷く。「この子可愛いねー!」なんて、無邪気な感想を口に出しながらレギオンに向かって笑顔を浮かべるシアニ、見下、リリンドラ。彼らやれやれと肩を上下させつつ、クラウスは続ける。
「あとは、そうだな……俺自身はこっそり裏口から潜入する予定だ。情報収集もするが、何かあった時の為に出口や建物の構造を詳しく把握しておくよ」
「因みにクラウス、お前のそれってインビジブルは映せるのか?」
そう言ったのは渡瀬だった。
「インビジブル?」と少々訝し気に聞き返すクラウスに、渡瀬は頷く。
「ああ、正確には、√能力で実体化させたインビジブル、かな?俺の能力にね、そんな感じの、インビジブルと会話できるもんがあってさ。もし手が離せない時や緊急の対応をしていたりしたら、そいつで合図しようかなって」
「なるほどな……実体化しているなら問題はない。が、大丈夫か?屋敷内に√能力者がいたら見つかるリスクも高いぞ?大丈夫か?」
「あーね。んー……まあ大丈夫だと思うわ。ほら、万が一見られたとしても俺は料理人だからさ。人手が足りない時にはいつもこうやって手伝ってもらってるって言えば怪しまれないかもだろ?」
「うーん、そこはケースバイケースな気がするけど、まあなんとかなるんじゃない?わたし達が側にいたらフォローもするから、とりあえずは出来る事を全力でやりましょう」
リリンドラがそう胸を張る。
うんうんと頷くメンバーたち。
「じゃあ、私達は早速準備といたしましょうか!」
「うんっ!キュージンコウコク?だっけ、探さなくっちゃだもんね!」
「ん、俺も潜入したらレギオンを飛ばす。ああ、勝手に探すから、気にせず各々の仕事に専念しててくれ。レギオンを見付けたら一度合図を頼む」
「はーいっ!」「了解です!」「りょーかいっ」「わかったわ」「うん、了解」
「じゃあ、そいつを合図に俺らは俺らの潜入作戦と行くかァ」
「そうだね、じゃあそれまで軽―く打ち合わせでもしとこうか。ターゲット被らないようにするのと、まあ、潜入のタイミング、とかねぇ」
「そうね、賛成よ。それじゃあ、私達は、レギオンの範囲で、待機、してるから、お願いね」
「わかったわ」
そうして各々が各々の作戦を決行すべく、それぞれの方向に向かって歩き出す。
「あ、そうだ!クラウスさん!!」
「ん?どうした見下」
公園の入り口から、見下が大慌てで駆けて来る。
これだけはお伝えしなきゃと思いまして。と、前置きをする彼女に、小首を傾けたのはクラウスだけではない。一体全体どうしたのだろうと、全員が目を丸めるその中で。
「大変申し訳ないんですけどっ、そのっ、お、おおおお手洗いと着替えは覗かないでくださいっっ!!!」
「はぁ?!……誰がするか!!!!」
●お仕事は○○の後で
「———それでは早速、お仕事に入って頂きます。まずは各々の役割に沿ったオリエンテーションがありますので、渡瀬さんは厨房の方へ。残りの皆様はこちらでお願いいたします」
そう告げる義明の後ろに、ちらりと小さな丸が5つ。
その愛嬌のある丸みはつい最近どころかつい先ほど見たと言っても過言ではない。見覚えしかないそれに、思わずアッと声を漏らしそうになったシアニと見下、それに赫夜は、然してそれを寸前のところで喉奥へと押し込むことに成功した。
「えっと、どう、しました?」
「「「い、いえいえ……」」」
その代わり、表情がかなり残念な事になってしまったのだが。
揃って横に首を振った三人に、義明が首を傾けた時だった。
大広間の扉が開け放たれ、執事服の使用人と小さな女の子がやって来る。それは真っ直ぐに義明の前へとやって来ると、片手を胸に当て静かに頭を下げた。
「義明様、お客様がお見えです」
「お客様……?すみませんが、今日はそう言った予定は入っていなかった筈ですが」
「ええ。私共の方でも把握しておりません。なので一度はお帰り願ったのですが、どうやら奥様の方で手配されたもののようで。その、結婚式に差し当たって、衣装の見積もりをと、」
「……ああ、なるほど」
一瞬、義明が酷く悲しそうな顔をしたのが見えた。
申し訳なさそうに頭を下げようとする使用人を優しく制して、彼は無理矢理に作った笑顔で「わかりました」と告げる。
「……確かに、母はいろんな業者に声を掛けていましたからね。連絡漏れが幾つかあったのでしょう。わかりました。対応致しますので、私室の方までご案内願いますか?」
「かしこまりま、」
「お兄様」
使用人が頭を下げようとした直後、彼らよりもずっと地面に近い場所から声がした。
どこか仔犬を連想するようなふわふわのくせっ毛を二つに結んだ小柄な少女・|木蔦 百合花《きづた ゆりか》だ。彼女の頬は、不平不満を一杯に詰め込んで随分と膨れてしまっている。片手には少し厚めの本を、もう片手で兄のズボンの裾をきゅっと引っ張って。そうして見上げる彼女の視線は寂しさに満ちているように感じる。
「お兄様、お仕事が入りましたの……?」
「ああ、うん、そうだね。ごめんね、折角遊ぶ約束をしていたのに。この埋め合わせはまた今度するよ」
「……ううん、お気になさらないで。仕方ありませんわ。お仕事ですもの、お仕事は大事ですもの」
ぽつりぽつりと吐き出す言葉は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
俯いて、けれども名残惜しいのか、ズボンを離さない彼女の頭を義明が撫でる。「ごめんね」と贈られる言葉の優しさに、少女は駄々を捏ねるのも我が儘を言うのも我慢しているように見えた。やがて、ゆっくりと、少女の手が離れる。
「あ、あの……っ」
おずおずと、言葉を零したのはシアニだった。
「どうしました、シアニさん」
「あ、えっと、その、入ったばかりの身で烏滸がましいかもなんですけど……良かったら、遊び相手に、なれないかなって思って。あたしと、百合花ちゃ、様、年も近そうだし、迷惑じゃなければって思って……」
「それは……ええ、願ってもない事です。百合花が良ければ、是非」
「「!」」
その瞬間、ぱっと、目と目が合う。
本当は兄と遊びたかったんじゃないだろうか。
こんな見ず知らずの使用人見習いに遊ぼうなんて突然誘われても、迷惑なだけじゃないだろうか。
シアニの胸にふっと浮かんだ不安は、けれども少女のきらきらと光る瞳がかき消した。「いいの?」と自分を見つめたまま頬を紅潮させる百合花に「勿論!」シアニは元気いっぱいに返す。
「嬉しいわ、とっても嬉しい!!ありがとう!わたくしは百合花よ、木蔦百合花」
「えへへ!喜んでもらえてよかった、ですっ!あたしはシアニ、シアニ・レンツィ!」
「シアニ、シアニね!覚えたわ、素敵な名前ね!わたくしのことは百合花と呼んで結構よ。敬語もやめてちょうだい。あなたお花はお好き?」
「うん、大好き!百合花さ、百合花は好き?」
「ええ、わたくしも大好き!だったらねぇ、お庭に行きましょう!今、とっても素敵な場所なの!!あなたに見せてあげる!」
「ホント?!嬉しい!ありがとう!」
小さな手と手を繋いで笑い合うと、二人は元気よく駆けて行く。
「こらこら、はしたないですよー?」なんて、冗談めかして告げる使用人たちの顔は、相も変わらずあたたかい。すっかりと遠くなった二人の背中を見送って、「それでは」と義明も大広間を後にする。やって来た使用人が渡瀬を厨房へと連れて行く。そうして大広間に残されたのは、見下、リリンドラ、赫夜の三人と、彼らの教育係になるであろう使用人達だけだった。その中でも長であろう風格を持つ女性が、静かに3人に向き直る。
「では、あなた達もお仕事ですよ」
「「「はい」」」
穏やかな空気の中に、小さくぴりり、緊張感が走る。
さあ、ここからが本番だ。業務をこなしつつ、事件解決の手掛かりを集めなければ。
それぞれが抱く緊張の大きさはさまざま成れど、そこにある志は同じ。
それぞれの感情を胸に、3人は小さく息を吐く。
「いよいよね。気を引き締めなくっちゃ」
「うん、そうだね」
「ええ。一体どんなお仕事が……
——————って、
お仕事って、お茶ですかぁぁぁぁぁっ?!」
予想外が過ぎます、と、見下はその表情をそれはそれはくしゃくしゃに歪める。
目の前には、真っ白なテーブルクロスが眩しい、それはそれは上品なテーブル。その上にはおいしそうな匂いを放つ綺麗な琥珀色の紅茶に、アフタヌーンティーでよく見るケーキスタンド。勿論、スタンドにはプチケーキやサンドイッチ、マフィンといったお菓子も乗せられている。
「あら?見下さんはこういうのはお嫌いですか?」
「い、いえいえいえいえっ!そんなことないです!むしろ大好きです!ただ、私が想像していたお仕事とかオリエンテーションとは全然違ったので、ちょっと驚いてしまって」
すみません。と頭を下げる彼女に、あらあらと告げるメイド長の視線は優しい。
丁寧に、けれども洗練された動きでケーキを数個とお皿に取り分けながら、
「ふふふ、『社員を知る事は会社の為、人を知る事は社会の為。人が作る社会であるならば、人を蔑ろにするべからず』これが創設当初からの会社の方針ですからね。オリエンテーション兼お茶会は、新しく入られる方を知る為に行う伝統行事みたいなものですよ」
私も最初は随分驚きましたけどね。
茶目っ気たっぷりのウィンクと共にケーキの皿を手渡され、見下は「はぁ」と呟く他ない。そしてそれは彼女だけでなく、リリンドラと赫夜も同じようで。皿の上のケーキをのんびりと眺めつつも、どこか拍子抜けしたような表情を浮かべていた。
「はい、それでは皆様、ケーキとカップは行き渡りましたね。長くおられる方は、もうすっかりとお馴染みの行事になったかもしれません。ここにおられない方もありますが、新しく来てくださった方々に等しく感謝を。そしてこれからに激励を」
メイド長が高々とティーカップを掲げる。
それに倣って、他の使用人達も、そして3人もカップを持ち上げる。
「それでは、まずは屋敷の味を覚えていただきましょう。どうぞご賞味くださいね」
最後に乾杯と付け加えて、カップをくいっと持ち上げる。
刹那、大広間中に陶器の優しい音色が響き渡った。それを合図に、使用人たちが思い思いにケーキを食し、紅茶を啜る。どこか穏やかなカフェにも似た華やかな賑わいが大広間に溢れ出す。
「ん……これ、美味しいね。アッサム、かな?」
「あら、大正解よ。赫夜さんは紅茶にお詳しいのね」
「あはは、たまたま、かな。紅茶とかカフェの好きな人が近くに居るせいかも」
「ふふふ、そうなの」
「ええ」
なんとなく、いつも自分のだらしない部分を管理してくれているあの人の事を思い出す。はっきりと好き嫌いを伺った事はないような気がするけれども、それでも紅茶や甘いものは嫌いではなかった筈だ。紅茶を口に付ける。美味しい。あの子も確か、美味しい物を食べたら美味しいと素直に笑みを零す、そんな子だっけ。
「あの、それってもしかして恋人とか、ですか?」
「へぇ?」
「赫夜さん、綺麗だもんね。どんな人?かっこいい?」
「はい?」
些か予想外の場所から殴られたような気分ではあったが、すぐに、ああと納得する。
そうだ。自分は今、女性の姿になっていたんだっけ。
「こらこら、そういう不躾な質問は感心しませんよ?」
「はーい」「すみませーん」
「まったくもう、すみませんね」
「いえいえ、お気になさらず。聞かれて痛い腹ではないから……ああ、でもまあ、どんな人でどんな関係なのかは、ご想像にお任せしちゃおうかな?」
ふふっと意味有り気な笑みを零せば、周囲がきゃーと色めき立つ。
いつの時代にあっても、花も恥じらう乙女の話題は恋の話らしい。
「いいなぁ!私も素敵な方に出逢いたいなぁ!!」
「ねー?リリンドラさんは、そういうの興味ある」
「わたし?わたしはよくわからないわ」
「そうなの?じゃあ、どういう人が好きとかは?」
「うーん、そうね……」
そう言われてみてふと考えてみる。
どういう人が好き。そのどういうの意図は、一体どういう意味なのだろう。
好きな人間はいっぱいいる。それこそ、今回の事件にかかわった仲間たちの事は信頼しているし、好ましい。この家の先代だって、財閥と言われる程の財を成しておきながら、後世に言い伝えられ程弱者救済をしている。まさにノブレス・オブリージュ精神を持った正義を感じる人間だ。そういう人も大変に好ましい。けれど、恋とか愛とか、そういう感情になると、ただ好ましいだけではいけないような、不思議な気持ちになるのは何故だろうか。
うんうんといつもより少しばかり考えて、リリンドラが出した答えは、
「……そうね、自分の中にちゃんと自分があるっていうのかしら。芯のある考え方を持っている人は素直に尊敬出来るかしら」
「尊敬かぁ、確かに大事だね。そういう人は素敵だってすっごくわかる」
「うん、わかるわかるっ。見下さんは?」
「わ、私ですか?私はえーっと、し、しっかりしてる人ォ?」
半ば条件反射のような形で吐き出した言葉に、大広間がまたどっと笑顔で溢れる。
「しっかりしている方も素敵よね。わかるわかる」
「ね?ああ見えてね、義明様とかは結構そういうタイプよ」
「そうなの?」
「ええ。どんな人にも凄く優しいけど、会社や社員の為には一本筋の通ったところがある素敵な人よ。普段は腰が低いところとか、2代目のご主人に凄くよく似ているらしいの」
「二代目のご主人、ですか?えっと、その言い方だと、二代目ってもしかして女性だったりします?」
「ええ、そうですよ」
ゆっくりと口を開いたのはメイド長だ。
彼女は優雅に紅茶を啜った後で、静かに二代目について教えてくれた。
木蔦家の二代目当主は女性。
戦後の混乱期の荒波にもまれて育ったのもあり、気が強くて男勝りで、おまけに切れる頭と経営手腕を持った大層なおてんば娘として評判だったらしい。彼女には弟がいたが、生まれて間もなく、戦火に焼かれて死亡。その後、両親が拾ってきた少年と日々を過ごすようになる。見た目は身の毛がよだつほど悍ましい少年であったそうだが、その心は誰よりも優しく美しく、彼のそんな部分に惹かれた二代目は、やがて結婚するに至ったという。
「二代目様のご当主様は、酷い火傷があるのもあって失礼ながら容姿は大変な有様では御座いましたが、この屋敷の誰よりもお優しく慎ましく、人の痛みを知る美しい方で御座いました。私も若い頃にお世話になっておりますが、本当に良くしてくださいましたよ。義明様は、そんなご主人様の気質を色濃く継いでおられますね」
「へぇ~そうなんですね。身分も見た目も何もかもを超えた愛って感じだなぁ……」
「そうそうそうなのよ!凄くない?当時の財閥なんて政略結婚が当り前の時代でさぁ~。そんな中、身分を超えて、心の美しさに惹かれて、なんて、本当にロマンチック!!憧れるわぁ~」
「ねぇ~!!」
うっとりと陶酔する使用人たちに困った笑みを送りつつ、見下は紅茶に口を付ける。
心がほっとする味、優しい味。なんとなしにそんな事を呟けば、それは先に話した二代目のご主人が考案した紅茶のブレンドらしい。当時、紅茶が苦手だった二代目の為に、色々と試行錯誤をしてくれて作られたものだそうだ。
「ふぇぇぇ……愛が深いなぁ……凄いです……」
「ええ、本当に……義明様はそんな凄い人の気質を継いでおられるのね」
「そうですよ」
「なるほどなぁ。ああ、じゃあ、明正様は二代目によく似てるのかな」
その言葉を発した瞬間、場の空気が静かに凍り付いたのを感じた。
意図せず触れてはいけない話題に触れてしまったような、そんな気まずさを胸に覚える。
「えっと、もしかして聞いちゃ駄目だった?」
「あ、ううん。そんな事はないんだけど、明正様は……なんていうか、ね?」
「うん……」
「?」
使用人たちがあからさまに目線を逸らす。
聞いてはならない情報というよりも、話し辛い情報と表現するのが正しいのだろう。誰もが目線を彷徨わせながら、何をどう伝えればいいのかを言いあぐねいている様が見て取れた。
「……そうですね。明正様は二代目にお顔が良く似ておりますよ。この辺りでも、業界でも有名な美男子です。おまけに頭も良くて、そうですね色恋の話で言うのならば、大変一途な方でもありますよ。ただ、その素行に少し問題がある方でもありますので、私共使用人たちの間ではあまり話題に出す事は少ないですね」
「そうなのね。素行に問題って、よくある家への反骨精神みたいな感じかしら」
「んー、そういうのとはまた違うのよね。家の事はお好きみたいだし、研究熱心で真面目と言えば真面目な方だから」
「ただ、研究熱心なあまり、色々なものを顧みないというか…………その、少し昔の話になるんだけど、火傷の薬を開発するときにね、使用人の一人にガソリンをかけて燃やしたことがあって」
「「「え?」」」
あまりにも予想外の所業に、3人は一瞬言葉を失くした。
被害に遭ったのは入ったばかりの新人で、ミスばかりする彼女に腹を立てて被検体にしたのではないかと噂があったそうだ。幸い、義明がすぐに見つけてくれたおかげで大事には至らなかったらしいが、下手をすれば殺人事件にまで発展する事態であったらしい。
「あと、そうだ。切り傷とか骨折とか、そういったものの経過観察をする為にって言って、同じように使用人を痛めつけた事もあったわ。屋敷で犬や猫とかペットがいないのは、明正様が全部被検体にしちゃうからなんだって……以前、明正様のお部屋でね、百合花様の可愛がっていた子猫のご遺体があったって噂もあって……」
「ちょっ?!ちょっちょっちょっちょっ?!待ってください!それって犯罪じゃ……!!いろいろアウトですよ?!」
「ええ、そうよ。普通はそう思うんだよ。おかしいの、やってること全部おかしいし気持ち悪いの。でも、明正様はそうじゃなくって、えっと、なんて言ってたっけ」
「えっとね、確か『殺すつもりなんてあるわけないじゃないか。僕は薬を作る為の被検体を作っただけだ。そこになんの罪がある。大体こんな実験で死人が出るのはざらな話だろう?ド底辺の一般庶民や小汚い下級生物が木蔦の家に貢献できて死ねるんだ、名誉じゃないか』って、そんな感じのこと言ってた」
「なにそれ」
「……そういうお方なのよ、明正様って。人をゴミのような目でいつも見てるって言うか、人を人と思ってないというか。義明様と血が繋がってるとは思えないくらい残忍な人なの」
「昔は素直でいい子だったんですけどねぇ。いつからああなってしまったのか、誰にも見当が付かないんですよ」
「気に入らないからって理由で辞めさせられた子も何人もいるし、ご機嫌が宜しくないときにお部屋に伺うと暴力を振るわれることもあるから、皆さんも気を付けてね」
「……ええ、わかったわ。ご忠告ありがとう」
「は、はい、気を付けますね……」
「ぼ、私も肝に銘じておくよ」
ふうっと、誰とも付かない口から重たい息が零れる。
先の微妙な空気も相俟って、その場の雰囲気は最悪と言ってもいい。
誰が、何を、話すべきか。否、誰かが、何かを話してくれるのをずっと待っているかのような落ち着かない空気に誰もがそわそわと身を動かした時だった。
ばーんと、勢いよく扉が開け放たれる。そこから空気をぶち破る様にして姿を現したのは、フードワゴンを押して登場した渡瀬だ。この陰鬱さなどどこ吹く風か。まるでからりと晴れた青空のような爽やかさでもって彼は告げる。
「ほーらお嬢さん方、話しに夢中になるのは良いけど、そろそろ仕事してくれってさ」
「あらあら、もうそんなお時間でしたか。それでは皆さん、速やかにお片付けを」
メイド長が手を打ち鳴らす。それそれが大きな声で返事をする。
勝手の分からない三人も、出来る仕事をこなさんとあくせくと動き出す。その動きに若干のぎこちなさを感じつつも、渡瀬は軽く小首を傾けるだけに留める。
「あ、そうだそうだ。なんかお客様が見えたらしいから、誰かコレ、明正様のお部屋まで運んで欲しいんだけどさ」
そうして他意無く見回した筈の視線が、あっという間に逸らされる。
それもそうだろう。あんな話の後で、申し出る人間はそうそういない。3人も様子を見ているのか、苦い笑みを浮かべるに留めているようだ。然してそんな事情を知らない渡瀬は、周囲を見回しつつもその異様な空気に目を丸める他ない。
「えっと?」
「ああ、ぼ……私で良ければ行きましょうか?」
赫夜がゆっくりと手を上げた。
「お?いいのか?」
「うん。ちょっとね、気になっちゃったから、行ってみようかなと」
「気になっちゃった?」
再び目を丸める渡瀬に、赫夜は彼にしか聞こえないような声でこう呟く。
「あとで教えてあげるよ」
「ん、りょーかい」
●愛し君へ
利休鼠の袷の着物に揃いの羽織、ボルサリーノ帽を粋にかぶり、刀の拵えを仕込み杖に変えて。それはそれは強かに、狡猾、かつ大胆に屋敷の敷居をまたぐ。
そうして通された部屋を見回せば、このご立派な屋敷にしてはあまりにも質素な私室が広がっていた。当主様のお部屋、というのは、もっとこう、嫌みな程に豪華絢爛な調度品で溢れていたり、悪趣味な毛皮のカーペットでも広がってるもんかと思ったがよォ。
質のいい執務机と、寝心地の良さそうなベット、来客用のソファセットが一式に、後は壁一面の本棚広がるばかりの、極々ありきたりな部屋だ。執務机の上には、今日の仕事であろう書類の山とパソコンと、写真立てが3つ程並んでいる。
ひとつは家族写真なのか、両親と思わしき男女と3兄弟が。
もうひとつは随分と古いもので、見知らぬ男女の姿が映っている。女性の方は勝気な美人といった感じだが、男性の方は見るに堪えない化け物と言っていいだろう。けれども仲睦まじそうに並ぶ二人の写真は、いつぞや聞いた美女と野獣という感じで。そこにある確かな幸せを伝えてくるようだ。
最後のひとつは、義明とこれまた見知らぬ女性のものだった。利発そうな美人と言った印象が浮かぶその人は、この屋敷の使用人服を着て彼と仲睦まじく並んでいる。互いの指についているのは、ダイヤモンドのような宝石の中に小さな小さな花の加工が施された、なんとも珍しい指輪———、
「すみません、どうもお待たせいたしました」
「!!」
扉が開いた音とともに、天國は何事も無かったかのように、入って来た男の方へと向き直った。
「いやいや、こちらこそ急な訪問で誠に失礼いたしました。木蔦さん、随分とご無沙汰でしたね、しばらくご厄介になりますよ」
「あはは、そう、ですね……どうぞ、ご遠慮なく」
そう言いつつも、義明がこちらの様子を伺っているのがわかる。
それもそうだろう。義明には天國に全く覚えがないのだから。一体どこの何者なのだと、そうして一体何をしに来たのだと疑われても仕方がないのだ。
母親の名前をちょいとネットで調べ上げて、結婚式にかこつけてみたら案外あっさり行けちまったなァ。なんて、どこか他人事のような感想を抱きつつ、天國は素知らぬ顔をして言葉を繋ぐ。
「まあ、と言っても、私と木蔦さんでお会いするのは初めてですから。お付き合いがあったとはいえ、ほぼ初対面のようなものです。ご縁の始まりは、ほら、会社がお名前を変える前に先々代と少しあった程度なのでね、今の代になってからは本当にはじめてなんですよ。失礼ながら、以前の会社名すら思い出せないくらいに久しいのです。お恥ずかしい」
「|華能《かのう》製薬ですよ。なるほど、それで母と……」
「ええそうですよ。ああそうだ、自己紹介がまだでしたね。私は天國 巽と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、失礼いたしました、木蔦 義明です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
立ち話もなんですから、と、来客用ソファに案内された。
向かい合う形でこちらを見つめてくる義明は、朗らかな笑みを浮かべつつも確かに疲労が滲み出ているかのようでもある。
「随分とお疲れのようですが、やはりあの、失踪事件が関係されてますかね」
「ああ、ご存じだったんですか。ええ、まあ……そんなところです」
「そうですか……やはり、結婚相手の失踪となると、それはそれは心苦しいものもおありでしょう。心中お察しいたします」
「……すみません、ありがとうございます」
ふーん?否定も肯定も無い、か。
失踪したメイドが結婚相手の可能性はこれで半々ってとこだな。
もう少し、発破かけんのも悪くねェだろ。
「その、傷を抉るような真似になってしまったのなら申し訳ございませんね。何分、花嫁のご家族もご一緒だったと大奥様から伺っておりまして。そんな大変な時に結婚式の衣装だなんだと言ってられないだろうと思いまして足を運ばせていただいたんです。今回の件、落ち着くまでは気が気じゃないと思いますからねェ。うちとのお約束は一旦保留か、無しって事でいかがでしょう」
「っ、そうか、母はそんな事までお話されていたんですね……」
「まあ、先々代からの付き合いの賜物ってやつですよ。何よりも息子さんの幸せを考えておられた人なので、親として出来る事が無いかと、色々苦悩されていましたよ」
「そう、ですか……母が、随分お世話になったんですね。本当に、何から何まですみません」
そう言って静かに顔を上げた義明の表情は、先程の朗らかさから打って変わったかのように暗く、鬱蒼と茂る不気味な森のような陰鬱さでもってそこに存在していた。浮かべた笑みが仮面のように張り付いている。
「天國さん」
「はい、なんでしょう」
「……母のよしみで、僕のお話も聞いていただけませんか。情けない事ですが、こんな事、誰に相談していいか、誰に話せばいいか、皆目見当も付かなくて……っ!」
「私で良ければ喜んで」
「ありがとうございます……ありがとうございますっ!!」
それはまるで、木蔦 義明という当主の仮面が脱げたようだった。
声を荒げ、ボロボロと大粒に涙を流しながら、彼は話し始める。
結婚相手の名は|花枝《はなえ》。年は20代後半だ。
家族と共に、屋敷に住み込みで働いていた使用人の一人で。どうやら幼馴染という間柄だったらしい。昔から、身分は違えど家族ぐるみの付き合いがあったようで。常に一緒にいる事が当り前で、気が付けばお互いにお互いの事を意識していたという。
そんな彼女が失踪したのはつい先月、婚約発表を終えたその3日後だったらしい。
前日の夕方まで一緒にいたのだが、会議の関係で屋敷を留守にした後に居なくなったそうだ。直前まで、何らいつもと変わらない様子で、会議頑張ってね。と、笑顔で送り出してくれてもいたのに。
「一体なにがどうして、彼女が消えたのかはわかりません。突然、でした。嵐にでも攫われたかと思うくらいに突然でした。何か痕跡を探したくて彼女の部屋をくまなく探したけれども、遺書だったり、僕への不満だったり、そういったものはまるでありませんでした」
むしろ、これから幸せについて、希望を寄せていた様がありありと見えたそうで。
それを思い出したのか、喉を引き攣らせるほどの嗚咽を零して、彼は泣き出す。
「ご無理をなさらず。泣きたいだけ泣きたいんだったら、もうそれでもいいですからね」
「あ、ありが、っ、と、ございます……!すみません、本当に、すみませんっ!」
「いえいえ……」
なんというか、心底憐れでなんねェわ。
小さく息を吐き出しながら、ぽんぽんと背中を撫でてやれば、ますます嗚咽を零して義明は泣き出す。
「彼女、も、彼女の家族、も、みんな、みんな、しあわせになれるって、結婚式、楽しみだって、そんなこと、ずっと言ってて……彼女が、消えて、次に、彼女の父親が消えて、最後に母親まで、いなくなって……!!僕らの、幸せを、願ってくれた人たちが、どんどん、どんどん、いなくなってしまって……!!」
家族の部屋もそれはそれはくまなく探したけれども、結果は彼女と同じだった。
父親の文字で、書きかけの結婚式の祝辞を見付けた瞬間、これは何かの事件に巻き込まれたのではないかと確信したらしい。警察にもその事を告げたが、如何せん情報が少なすぎるが故に、今も調査は難航続きだそうだ。
最早ひと月と時間が経ち、生きているのは絶望的かもしれない。
ただただ愛しい人が、自分たちの幸せを願ってくれた優しい人達がいなくなってしまった。訳も無く、何の前触れも無く、突然と、忽然と。この事実がどうしたって辛くて、未だ飲み込みきれないと義明は告げる。
「……すみません、本当に」
「いえいえ。少しでも吐き出せたのなら良かったですよ。この話を知ってる人間の間では、別に想い人がいてそいつと駆け落ちしたかも、なんて言われてましたからね。どうもお話を聞く限り、そうでないようで安心しましたよ」
「駆け落ち、か……いっそ、そうだったら諦めも付くんですけどね……残念、なのかな。彼女に言い寄る人は多かれど、彼女はいつだって僕の側にいてくれたんです……部屋に証拠が何一つなかったこともあって、浮気を疑う事もなければ、僕は彼女を信じて止みません……」
彼女は、僕にはもったいないほど素敵な人ですから。
そう呟く義明の目には、またしても涙の膜が張っていく。
今まで抑えに抑えていた分、爆発してしまったのかもしれない。またぽんぽんと背中を撫でてやりながら、天國は辛抱強く待った。いや、ほっといて別のところで情報収集しても良かったんだが、ここでほっとける程、魂が腐り切ってはいない。暫くして、漸くと落ち着いた彼が真っ赤な瞳で頭を下げる。
「すみません、本当に……なんとお礼をしたらいいのか……」
「いえいえいえ、お気になさらず……私の方のご用件もお伝え出来ましたので、とりあえず、お取引は白紙にいたします。どうぞ今は、一日でも早く元気になってください」
「はい、ありがとうございます」
「それでは」
帰りがてら庭園でも見に行くか。
そんな事を考えながら天國がソファから立ち上がった時だった。
「あ、そうだ……」
「?」
「駆け落ち、じゃないですけど、なんだか困った事にはなっていたみたいで」
「困った事?」
「ええ。彼女の日記に、気になる事が書いてあったんです」
———早く結婚して、あの人に諦めて欲しい。って。
●淑女たれ
そこはまさに、天国のような場所だった。
眼前に広がる花々は生き生きと咲き誇り、その鮮やかな色彩をますますと鮮やかに輝かせる。敷地面積は屋敷よりも随分と小さい筈なのに、どうしてだかそこは広々と、永遠に続く花畑のように思えてならない。とりわけ目立った装飾や、電飾などの華美た設備は無い。ただ花があるがままの美しさを存分に発揮し、見る者の目と心を癒すかのような、優しい空間が広がっているのみだ。
さらさらと、花弁が風に舞う。
花びらとふんわりと香る花の香で溢れた花畑の真ん中に、休憩用のベンチが置かれていた。そこに並んで座って、本を読んでいるのは百合花とシアニだ。その前に散々と走り回っていたのだろう彼女達の衣類や髪には、色とりどりの花弁がくっついている。「星の王子様は言いました」と懸命に本を読む百合花に寄り添いながら、シアニは相槌を打つ。
「……ふぅ、こんなものかしら」
「お疲れ様ぁ、なんだかいろいろ考えちゃうお話だね」
「ええ、そうなの。何度読んでも、わたくしには難しい事がいっぱいなのよ」
「確かに難しいねー!大人向け、かも?でもでも、これが理解できるようになったら、大人の女性に一歩近づいたって事じゃないかな?」
「あ、そうかも、そうね!じゃあ何回だって読まなくてはならないわ」
「うん、何回も読もう?そんで、わかること一個ずつ増やしていこう!素敵なレディになるぞー!!」
「おー!ですわっ!!」
ふんっと鼻を鳴らす二人の耳に、くすくすとやわらかな笑い声が落ちて来る。
それは目の前から、ゆっくりゆっくりと近付いてくる女性のもので。彼女は二人の目の前までやって来ると、優雅で落ち着いた仕草で頭を下げ、そのまま目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ごきげんよう、小さなお嬢様型。素敵な、レディになる、お手伝いを、しにきたわ」
「ご、ごきげんよう……?あなた、は?」
思わず清音さん!と叫びそうになる口を慌てて閉じる。
そんなシアニに軽く片目を瞑ると、柏手は百合花を安心させるように綺麗な笑みを浮かべる。
「私は、柏手 清音。あなたの、お父様とお母様に頼まれて、女性としての作法を、教えに来たわ。ご迷惑じゃければ、仲間に、入れてくださる?」
「お父様とお母様の?」
「ええ、そうよ。素敵な、自慢の娘だから、一人前のレディになる為に、少し知恵を貸して、と、頼まれたの」
そう告げた瞬間、百合花の目がきらきらと輝く。
素敵な自慢の娘と言われたのが、純粋に嬉しかったのだろう。
また頬を紅潮させて、「勿論よ。シアニも良いかしら?」と告げる彼女に、シアニも柏手も揃って笑顔で頷いた。
「それじゃあ、ご挨拶から、はじめましょう。そちらの子も、ご一緒に、ね?」
「「はーい!」」
そうして自己紹介と共に、柏手流、淑女への道が開催された。
お辞儀の角度や、相手から綺麗に見られる座り方。ちょっとした目線や手の置き方などの細かい仕草を習いつつ、二人のレディ見習いは奮闘する。
「うー、レディの道は険しいんだねー」
「そうよ。一長一短で、できるものではないから、ゆっくりと、頑張りましょうね」
「「はーい」」
「それでは、少し休憩、しましょう」
柏手がそう言って、優雅な仕草でベンチに腰掛ける。
それを真似して、百合花とシアニも腰掛ける。
「なんだか、花枝お姉様みたい」
「んー?花枝お姉様って誰?」
「あら、知らないのね。義明お兄様の結婚相手よ。とっても綺麗で、優しくって、素敵な方なの。時々すっごく怒るけど、ちゃんと怒ってくれるから、わたくしは大好きなのよ。あの方が義明お兄様の花嫁になると伺った時は、しあわせでいっぱいだったわ!」
「もしかして、百合花が花枝さんの事お姉様って呼んでるのはそのせい?」
「そうよ。わたくしのお姉様だから、花枝お姉様。ずっとずっと思い合っていたお二人だから、こう呼べることが本当に嬉しいの」
「そう。百合花ちゃんにとって、その人が、目標の人、なのかもしれない、わね」
「目標の人……ええ、そうかもしれないわ。わたくしも早く、花枝お姉様みたいになりたいってずっとずっと思っているもの。このお庭だってね、花枝お姉様のお父様とお母様が作ってくださったの!ご存じかしら?お花はね、育てた方の愛情でどんどん綺麗になるのよ!」
「そうなの?知らなかったわ、素敵な、言葉ね。それも、花枝お姉様の言葉?」
「ええそうよ!ここで遊ぶときにね、教えてくれたの!」
そう言って純粋に目を輝かせていた百合花が、けれどもふっと、思い出したようにその光を消す。「どうしたの?」と問いかければ、彼女はぽつりと、
「花枝お姉様、今、行方不明なの……」
「……そうなの、心配ね」
「うん……義明お兄様も、どんどん元気がなくなっているわ。使用人達も、それはわかっているみたいだけど、どう元気付けていいかわからないの。だから今日、わたくしが花枝お姉様の代りにお兄様に元気をあげたかったのに……」
「百合花……」
俯いたまま、百合花は話し出す。
「でも、良かったのかもしれないわ。わたくしじゃ、お兄様を元気に出来ないかもしれないもの」
「そんなこと、」
「いいの……わたくし、知ってるの。わたくしだけ木蔦の血が流れていないって。わたくしだけ、偽物の家族なんだって。明正お兄様が言っていたわ……だから結局愛されないんだって。いつか捨てられるんだって……」
「酷い、明正様ってそんなこと言う人なの?!」
「そうよ。わたくしが血の繋がってない捨て子だって、木蔦に混ざる紛い物だって、そう言ってよくぶつの……木蔦に相応しくないからって、いつか絶対捨てられるって……だからね、わたくし、一刻も早く木蔦のお家に相応しい人間にならなくちゃいけないの……」
「百合花ちゃん……」
「ねえシアニ、柏手さん。相応しい人間になったら、お兄様も元気になるかしら?花枝お姉様も帰ってきてくれるかしら?明正お兄様に、意地悪されないかしら?」
最後の言葉は、涙と共に溢れた。
懸命に堪えていた涙の膜が、決壊したのだ。
百合花が首を大きく横に振る。違う違うと、自分に言い聞かせているみたいだ。違うと、これは泣いている訳じゃないと、そう言い聞かせているみたいだ。
「百合花ちゃん、素敵なレディ、は、涙を人に、見せない、のよ?」
そう言って、ゆっくりと抱き締める。
だからね、私が、隠してあげる。耳元でそう告げた瞬間に、百合花が声を押し殺して泣くのがわかった。
「お兄様の、元気が、このままなくなっちゃったら、どうしよう……!花枝お姉様が、帰って来なかったら、どうしよう……ッ!!」
何も言わず、柏手は抱き締める。
シアニもそっと、側に寄り添う。小さな手を握れば、必死に握り返してくれた。
「どうして、わたくしに優しくしてくださる方が不幸に遭うの?わたくしが悪いの?異物だから?木蔦の家の人間じゃないものが混ざったせいで不幸になったの?」
「……それも、明正様に、言われたの、かしら」
「そうよ、そう言ったわ。お前のせいだって、お前がいなかったら良かったんだって。こんなこと、思うのも嫌だけど、明正お兄様が不幸に遭えばいいのに……どうして優しい方が苦しむの?わたくしね、わたくし、明正お兄様が大嫌い……っ!いつもいつも意地悪するし、あんなに優しい使用人達に酷い言葉を掛けたり、酷い暴力を振るうの!花枝お姉様だって、あの人に言い寄られて、付け回されて、酷いことをされそうになったのよ……!!お姉様がいなくなったのは、絶対に絶対にあの人のせいだわ!!」
だって、わたくし聞いたのよ!と、続く百合花の言葉に、二人は一瞬、目を見開いた。
つい数日前に、屋敷の離れにある倉庫で、花枝の声を聞いたというのだ。
気になって近付いてみれば、倉庫には誰の姿も無く、何故か明正がいたという。
目が合った瞬間、それはそれは恐ろしい表情で髪を鷲掴まれ、何度も何度も体を蹴り飛ばされたという。
「こ、この事を誰かに言ったら、お前を生きたまま硫酸のプールに落としてやるって……っ」
その瞬間を思い出したのだろう。大きく身を震わせ、再び声を押し殺して彼女は泣き始める。それ以上、話は聞けなかった。ただただ震える小さな体に、二人はそっとぬくもりを与えてやるだけで精一杯だった。そうして随分と泣いて、泣いて、漸く彼女の涙が枯れた頃、屋敷の方から使用人がやって来る。
「百合花様、そろそろお勉強の……どうされました?!」
「ああ、これは、」
「心配なさらないで。悲しいお話を読んで貰っただけよ。あまりにも素敵な朗読だったから、泣いてしまったの。なにもされてないし、怪我もしていないから安心してちょうだい」
そう言って、彼女は柏手の腕を解いて地面に立つ。
そのままゆっくりと二人の方を振り返ると、スカートの裾を両手でちょんと摘まんでそのまま綺麗にお辞儀をした。上げた顔は、木蔦の令嬢たる気品で溢れている。
「お二方ともごきげんよう。シアニ、また遊びましょうね!」
「うん、またね……?」
手を振るだけの刹那の間、年相応の笑顔が百合花に浮かぶ。
どうしてだか、その笑顔に、ちくり、と、胸が痛んだ気がした。
●陰鬱なる美貌
何代も続く名家なら、呪いの煮凝りのような呪物もあるんじゃないのと踏んだけども。
これはこれは、随分とまあ不機嫌な|特級呪物《にんげん》だねぇ。存在自体が悪意の塊とでもいうのカナ。星詠みの語ったあの、お優しいお話の残るこの家では、異端も異端な存在だろう。
ひひひ、と、思わずあの独特な笑い声が零れそうになるのを堪えながら、秋津洲は目の前の人物と向き合う。
花も狂うような美形とでもいうのだろうか。
整った目鼻立ちは勿論の事、人としての黄金比がどこもかしこも完璧なその容姿は、そんじょそこいらにいる芸能人ではその存在が霞んで消えてしまうだろう。不機嫌そうな顔も、人を射殺さんばかりの眼光も、皮肉なことにその造形美の一つと思えば陶酔する人間も少なくない。|木蔦 明正《きづた あきまさ》とは、そういう人間だ。
「……それで?その珍しい骨董品とやらはいかがなものなのかな」
人を心底馬鹿にしたかのような、それでいて腹の底から凍えるような声。
然して其れに臆することなく秋津洲はいつもの笑みを浮かべると、些か手を揉むような胡散臭さを纏いながら、アタッシュケースを開いた。
「お気に召すものがあればこれ幸い。無ければ無いでご縁が無かったと諦めるが吉日。どのようなものがお望みかは存じませんがねぇ、中には世に出しちゃいけないヤバいもんもあるから、許可なく触るのは勘弁して欲しいですね」
「ふぅん、そんなものまであるのか……呪いに対抗できる特効薬の開発にはいいかもな」
「うーん、薬が出来る前に、10人はあの世行きになるかもしれませんがねぇ。呪いと一重に言っても、その種類は千差万別、それこそ人の数だけあるんでね。それに特効薬が出来るのなら、ノーベル賞総なめ程度じゃあ済まない栄世が待ってると思っていいでしょう」
「……それは、やれるもんならやってみろ、みたいな風にも聞こえるが?」
「滅相も無い!けど、興味が無いというのも嘘にはなるかもしれませんねぇ」
ひひひ、と、声を零せば、心底面倒くさそうに明正が溜息を吐く。
そんな態度を取りながらも、それでも彼は興味深そうに、品物を一つ一つ、丁寧に見定めていく。随分と熱心だなぁと思いつつ、秋津洲は何気ない風を装って室内を見回す。
研究熱心、職人気質、そんな前情報を裏付けるように、明正の私室はありとあらゆる研究資料で溢れていた。書類に紙束、参考書と言ったものは勿論の事、タブレットが数台と最新鋭のPC、簡易の実験スペースなんかも存在している。唯一人間らしさがある空間と言えば、ベットだろうか。そのサイドテーブルには、間接照明と写真立てが置かれていた。
目を凝らす。義明ともう一人、綺麗な笑みを浮かべる女性だ。
利発そうな美人という印象がしっくりくるだろう。幸せそうに微笑む2人の写真は、然して義明の部分だけがくしゃくしゃに握り潰されるかのような形になってそこにある。
故意に、ではない。そこに明らかな悔恨を見た秋津洲は、随分とまあ、お嫌いなんだねェ。と、心の中でほくそ笑む。
「おい、これはなんだ?」
「ん?ああ、こいつはメモリアル・ジュエリーってやつですよ。遺骨や遺灰を入れることのできるペンダントやリングって言えばわかりやすいカナ。一見すると、死者への冒涜だの恐ろしいもののように見えますがね……ずっと身近にその人を感じられるんですよ……ひひひ……」
「ふぅん、なるほどな。時にこれは、ひとつのジュエリーの中に何人も詰め込んでいいものなのか?」
「んー、支流は一人ひとつって感じですかね。まあ、明確な決まりはないんで、入るんなら何人詰め込んでも構やしないでしょう。誰か入れたい方でも?」
「ああ、まあね。大事な人の大事に人達が亡くなったからさ……せめて側にいられるようにしてあげたいなと思ってね」
「ほうほう、それはそれは愛情深い事で……それなら、容量的にペンダントをおススメしますぜ。勿論、指輪とセットにしてひとりひとり別個で入れる形にしてもいいでしょう。まあ、中にはいわくつきも勿論あるんでね。未来永劫、その中に閉じ込められたままになる人がいても恨まないでくださいよ」
「はっ!未来永劫か、いいじゃないか。最高だよ。じゃあペンダントと、指輪をひとつずつくれ」
「毎度。それではデザインをお選びいただいたら、また声を掛けてください」
簡素な返事をする明正にバレないように、秋津洲は小さく息を吐く。
大事な人の大事な人達、とは、誰の事だろうか。ぶつぶつと零される小言に耳を傾ければ、僅かに『彼女』という単語が聞こえてくる。彼女、彼女、この部屋で女性に関連するものといえば、やはりあの写真か。|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》で記憶を覗き見たいところではあるが、隙がない。はてさてどうしたもの———
「誰だ?」
こんこんこんと、戸を叩く音がした。
続けて扉越しに聞こえてきたのは、「失礼いたします。明正様、お茶をお持ち致しました」という、つい最近に聞いた声だ。舌打ち交じりに明正様が入室許可をすれば、直後に開かれる扉。カラカラと控えめにフードワゴンを押して登場したのは、メイド姿の赫夜とコック服の渡瀬の姿だった。
「ちっ、新顔か。どうせ挨拶がてら来たんだろう?悪いが興味も欠片も無い、さっさと用事を済ませて出て行ってくれ」
その取り付く島もない言い方に、流石の三人も口元を引き攣らせる。
元より、使用人とは口もききたくないのだろう。その態度は、使用人が嫌いというよりも、自分よりも身分が低い人間を心底馬鹿にするが故だ。溝鼠と人間では会話が出来ないと言わんばかりの無言の圧力で扉の二人を無視すると、明正は秋津洲に声を掛けた。
「店主、これとこれを」
「かしこまりました。生憎と店舗じゃなきゃ電子マネー的なものでの決算が難しいので、現金でお願いしているのですが」
「ああわかった。待ってろ」
明正が後ろを向いた隙に、三人が静かに目線を合わせる。
秋津洲が静かに、写真立てを指差した。お茶の準備をしつつ、室内を見回していたのだろう二人も、すぐさまそれに気が付く。
ど う し た ら い い ? 渡瀬が唇だけで言葉を作る。
も っ て き て ほ し い 。秋津洲も同じようにして言葉を作る。
任せとけ、と、渡瀬が指を立てた。直後、静かに息を吐いた彼が繰り出したのは、———ゴーストトーク。室内にいた子猫のインビジブルを静かに顕現させ、写真立てをこっそり持ってくるよう指示を出したのだ。
にゃーんと鳴く子猫、振り返る明正。
「明正様、お茶の準備が整いました。お茶請けにマフィンとスコーンが御座いますが、どちらが宜しいでしょうか?」
然して明正の視線は、そう声を掛けた赫夜の方へと動く。
「ジャムは?」
「苺とマーマレード、それにベリーの詰め合わせをご用意しております。ご気分でないのなら、蜂蜜とバターのご用意も御座いますので、なんなりと」
「ふぅん」
子猫がサイドテーブルに飛び乗った。
その小さな口で写真立てを咥える。かたん、と、音がする。
「ん?」
「ああ失礼。別の商品を片付けていたら落としまして、どうぞお気になさらず」
「……そうか」
動きかけた視線が、フードワゴンの上に戻った。
渡瀬は子猫を誘導するように、静かに、こっそりと、ハンドサインを駆使して方向を指し示してやっている。
「ならばマフィンを。ジャムはマーマレードで頼む。他は邪魔だから片付けてくれ」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げて、赫夜は遅いか遅くないかのぎりぎりの速度を見極めつつ作業する。
子猫は、うん、秋津洲のすぐ後ろだ。先程物を落としたという言葉通り、彼はあたかもその風を装って写真立てに触れる。———|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》!
刹那、秋津洲の口元が、堪らないものを見付けたとばかりに弧を描く。
「?!」
突然、室内の間接照明が赤々と光を放った。
なんだ?!と、誰もが一瞬、その思考を停止する中、血相を変えたのは明正だった。
彼は盛大に舌を打ち鳴らすと「誰があそこに……!!」という言葉を吐き捨て、部屋を飛び出す。
「ちょ、明正様?!どちらへ?!」
「うるさい!!コック風情が邪魔をするな!どけ!!」
どんっと、乱暴に渡瀬を押し退けるようにして明正が廊下を駆けて行く。
その何処か鬼気迫る様子は、先の間接照明の光も相俟って、ただならぬ事態を想像させる。
と、
『———おい!今すぐここから離れるぞ!!』
「「「?!」」」
その通信は、明らかに自分達へ向けられたものではなかった。
声に驚いた子猫が、渡瀬の胸元に飛び込んでくる。レギオン越しに聞こえるそれは、クラウスの独り言にも近いのだろう。彼の周囲で誰かが困惑する声が聞こえる。
「一体何が起こった!?」
「わからない、でも、なんだか嫌な予感がするよ」
見上げた先で、レギオンが着いて来いと言わんばかりにカメラアイを赤く点灯させ、すぐさま廊下を飛んだ。三人は一瞬だけ目を見合わせ静かに頷くと、それを見失わないよう足早に廊下を駆けた。
●倉庫での出会い
ふぅ……っ、と、静かな吐息が暗闇に落ちる。
監視カメラや人目を掻い潜って、クラウスは一人、屋敷の離れにある倉庫へと身を隠していた。使われなくなった道具達が住人代わりに鎮座し、鼻腔を擽っていた花の香りは、埃とカビと何とも言えない湿気の香りによって掻き消されていた。当然ながら、人の気配は、ない。けれどもつい最近使われた形跡もあったことから、いつだれが来てもおかしくはないだろう。昼間でも薄暗い倉庫の中に光るブルーライト。情報整理用の小型モバイルPCを、休む事無くクラウスは打ち込んでいく。合計25体のレギオンから、次々と送られてくる情報の山を整理しつつ外からの気配に神経を研ぎ澄ますのは、なかなかに難儀だ。
「仕方ないとはいえ、気が休まる暇がないな……」
楽しそうにお茶会をしている使用人メンバーが少しばかり羨ましい。
こんな事なら見張りでいいから誰か手伝ってくれとでも声を駆ければよかっただろうか。然して、人には適材適所というものがあるのもまた事実で。
まあ、貧乏くじを引いたと思って今回は耐えるか。と、クラウスはまたPCに向き直る。
これまでの情報を軽くまとめると、だ。
長男:
人柄に関しては前情報通り。使用人からの評判も上々(こちらも前情報通り)。レギオンで観察している感じ、怪しい言動も無い。だいぶ憔悴している様子は見受けられるが、事件を起こす容疑者としての動機を考える方が難しい。現在、天國がよしよし中。
次男:
顔は良いが性格が人とは思えぬ程残忍。かなり嫌われている、というか恐れられていると言った方が表現として正しい。呪いに興味がある?オカルト的な側面に理解があるとみるか、或いは。現在、秋津洲と赫夜、渡瀬が対応中。
末娘:
遊びたい盛りの子供というよりも、気丈な令嬢という印象。言動から、次男に虐待めいたいじめを受けていた可能性が高い。長男とその結婚相手とも仲が良かった様子が伺える。使用人にも慕われている様子。現在、柏手とシアニがぎゅっとしている。
長男の結婚相手
失踪事件の被害者。名前は花枝と判明。
家族構成は恐らく父親と母親の3人。いずれも花枝失踪の後、同じく失踪している。
全員住み込みにて屋敷で働いており、木蔦の家の人間とは顔馴染み。
職業は屋敷の庭師。現在全員の生死不明。
庭園:美しいが目立って変わった花がある様子は無し。至って普通。
木蔦の家や被害者に関する事は何となくわかってきたが、怪異に関する情報は皆無。レギオンで屋敷の内部をそれとなく探って入るが、構造自体に不自然な点はない。よくある秘密の部屋だとか地下研究室みたいな場所もないな。いっそ関係しているのか疑わしいくらい、気配も希薄だ。事件に関しても憶測はいくつか建てられたとて、核心に迫るものが何一つないな。唯一鍵となりそうなものと言えば、百合花が言っていた離れの倉庫、か。レギオンで探索した範囲内を改めて洗ってみたが、それらしいものはここ以外にないな。
ふむ、と、小さく声を零し、クラウスは改めて倉庫内を見回す。一見すると、何の変哲もなさそうな場所だが、はてさてその真意はどうなのだろう。
「レギオンを2,3体呼び戻してみるか……それでくまなく探れば、」
「あのー、すみません。どなたかいらっしゃるんですか?」
「!!」
素早くPCを閉じて、物陰に身を隠す。
無遠慮に開いた倉庫の扉から、光が差し込んでくるのがわかった。
屋敷の人間か、はたまたこういった倉庫の整理業者か。なんにしても、ここに人が来たのならば、別の場所に身を潜めなければ。予想外、というよりも、予想より早かった、という感じか。息を殺して、耳を澄まして、気配を辿る。然して、クラウスのその行動はほんの数秒で終わりを迎える事となる。
「あれ、誰かいた気がしたんだけどな……気のせいかな」
「?」
その声に、クラウスは大いに聞き覚えがあったのだ。
少し前に別の事件で一緒になった、いつも双子の片割れのような存在と一緒にいたあの少女。
「……アンナ・イチノセ、か?」
「その声、クラウスさん?」
そっと、顔を出せば見知った顔に出逢う。
やっぱりクラウスさんだ。なんて、きょとりとした表情で言われ、クラウスは静かにひとつ息を落とす。人差し指を口に当て、しっ、指で合図を送れば、彼の様子に何かを察したのだろうアンナは、静かに頷き、倉庫の扉を閉めた。
「すみません、なにかの任務中、よね……」
「まあな。お前はなんでこんなところに?同じ任務、というわけではなさそうだな」
「ええ、んーと、なんか、道に迷ってたらこんなところに来ちゃって……」
「み、道に……? そうか」
偶然、されど必然とはまさにこの事なのだろうか。
それなら片割れが心配するから早く帰れ。とか、色々と言いたいことは山積みだが、だからといって、今すぐ彼女をここから追い出したところで、それを誰かに見られてしまっても厄介だ。彼女にどう対応すべきか、困り眉で険しい表情を浮かべる他ないクラウスに、アンナは小首を傾げる。
「えっと、クラウスさんは任務なのよね?」
「ああ、そうだが」
「あー、だったら乗り掛かった舟だし……もし良かったら、何かお手伝いしましょうか?わたしは能力者じゃないけど、そっち側の人間ではあるから、なにか役に立てるかも」
「そう、だな……気持ちは嬉しいが、片割れが心配するんじゃないのか?」
「片割れ、ああ、カレンのこと?大丈夫よ、多分」
「多分」
クラウスは知っている。それを言う奴の最後は大抵大丈夫じゃないことを。
極めて漫画的な表現をするのならば、棒線に四角を張り付けたような目でアンナを見つめつつ、クラウスは両手を組む。先の経験もあって、信用は十分できる。丁度、猫の手も借りたいところだったし。なによりもう、考えるのが少し面倒くさい。こうしている間にも、レギオンは休む事無く情報をこちらに送り続けているのだ。
「わかった、協力を要請する。まずは事の成り行きについて説明するから、外から誰か来ないよう、扉の隙間から見張っててくれ」
「わかった」
———閑話休題。
というわけだ。と、PCを操作しつつ、クラウスはアンナに事情を説明する。
頭で情報を整理しながら、手でそれを打ち込みながら、口はアンナに説明しながらと、最新鋭の高性能PCもびっくりするくらいのマルチタスクをこなしつつ、彼はそれを遂行したのだ。勿論、呼び戻そうとしていたレギオンを戻すのも忘れていない。
レギオンを入り口から招き入れて、クラウスは軽い酸欠状態の脳味噌に空気を送り込むべく呼吸を整える。
「で、百合花の話もあって、俺は今からこの中を少し探ろうと思ってな」
「なるほどね。わたしはどうしたらいい?見張りに専念するか、手伝うか」
「出来れば手伝って欲しい所だが、見張りの方も頼みたい。俺も気配には気を配っているが、レギオンを操作しながらだと流石に余裕が無くてな。とりあえず、見張りをしつつ入り口付近で何か見付けたら教えて欲しい」
「わかった」
そうして暫くの間、二人は倉庫の中をしらみつぶしに探していく。
どうやら、季節のイベント毎の小道具や衣装が押し込まれている場所らしい。薄く埃を被った桐の箱や段ボールはあれど、定期的に掃除や整理なんかはされているようで。古すぎる者や怪しい物は特にみられていない。「特に気になるものはないな」と、若干疲労の色を滲ませたクラウスが、高級な調度品をうっかり落としそうなってしまい、それにアンナがくすりと肩を揺らした時だった。
「待って。床の隙間、何か光ってない……?」
「床の隙間?」
「ここここ!」
アンナが指差した箇所を見れば、そこには確かに不自然な光があった。
入口の隙間から光を受けて反射しているのだろうか、アンナの動きに合わせ、きら、きら、と、輝くそれに目を凝らせば、ちいさな指輪のような形にも見える。徐にクラウスがレギオンを一体消した。そしてその隙間に何とか指を突っ込むと指先から淡い光を放ち、隙間の中にレギオンを顕現させたのだ。
カメラアイが、指輪らしきものを映像として脳に送って来る。
女性もののシルバーリング。まだ新品に近い程新しいそれは、台座に特徴的な宝石がはめ込まれている。ダイヤモンドのような宝石の中に小さな小さな花の加工が施された、なんとも珍しいそれ———。
「間違いない!義明と花枝の付けていた婚約指輪だ!」
「了解よ。棒か何か突っ込んで引っ張り出そうか」
「ああ、そうしよう」
流石にレギオンにアームは付いていないから。倉庫にあった適当な棒を拝借して、隙間に突っ込む。暫くの間四苦八苦として、漸く指輪の輪の中に、棒の先端が引っ掛かった。「もう少し」と、アンナが零す。ぐっと力を込めた瞬間、けれども細くて頼りないそれは、指輪をひっかけると同時にその重さに負け、無残にも先端がぼきりと折れてしまったのだ。
———からんからんからん。支えを失くした指輪が転がり落ちていく。
それは徐々に徐々に遠ざかり、小さくなっていく。物が動きを止めて音が消えるのとはまた違う。文字通り、遠ざかるような形で聞こえなくなっていくのだ。下へ下へと落ちて遠ざかるそれに、二人はぴんと、同じことをひらめく。
「まさか、地下空間があるのか」
「としか思えないわ。もしかして、百合花ちゃん?の聞いた声って」
———と、
刹那、地面が大きく揺れた。
音が遠ざかったはずの場所から、今度は別の音が、その質量と随分と増して聞こえてくる。足音、いや、これは何かが這いずるような、そんな音だ。
指輪を追うようにレギオンを下へと送り込めば、次の瞬間、不気味な目玉の群れを映して、映像が消える。
「おい!今すぐここを離れるぞ!!」
「え?なんで?」
「レギオンが破壊された!それ以上に理由を説明できるだけの情報はない!急げ!下から何かが来るぞ!!」
「下から?!」
「ああ!!」
直後、倉庫の床が大きく揺れる。
鼻腔を擽るのは、腐った死体にも似た吐き気を催す甘い甘い刺激臭。何かが、何かが確かに床下で蠢いている。どんっと、強烈な直下型地震にも似た衝撃に下から突き上げられ、倉庫内のありとあらゆるものがバランスを崩して落下する。小さな崩壊にも似たその音の中で、蠢く何かが、おおよそ言葉とは思えない奇声を発したのがわかる。
来る、来る、近付いて、来る。
何かが——————来る!!!
第2章 集団戦 『さまよう眼球』

●フィルム奥にこびりついた記憶
そこは、この世のどんな黒よりも純粋な黒で満たされていた。
触れた瞬間に覚えたのは、腹の底から冷え切ってしまうような潜在的な恐怖心。それに全身をくまなく舐め回されながら覚えるのは、腐り切った血と臓物にありとあらゆる汚物を混ぜ合わせたような不快感だ。最早不快感という言葉が稚拙に聞こえてならない。
人の感情とは、欲とは、豪とは、時に蟲毒の坩堝のように渦巻いて、底なし沼よりも尚深く重く大きく、どんな毒よりも甘美に凶悪に、人そのものを蝕むものなのやもしれない。
一番最初に見えたのは、少年のそれだった。
兄と思わしき少年の背を、尊敬の眼差しでもって見つめる、小さな小さな少年。
仲良く手を繋ぎ、笑い合う二人に、微笑ましさ以外のものは何一つない。
然して、不意に、そこに、人が増えた。
それは小さな少女だった。可愛らしく可憐な、花のような少女だった。
最初は互いに遠慮がちに、けれども次第に距離は縮まり、いつしか三人で笑い合うようになった。
楽しかった、あの時は。
何も知らなかった、何一つとして、わだかまりも無かったあの時は。
感情が、声になって、響いてくる。
決して自分のものではない。けれども自分のもののようになって、響いてくる。
いつから、この形が終わったのだろうか。
僕が、彼女を愛してしまった時だろうか。
それとも、家を継ぐのは兄さんだと知ってしまった時だろうか。
いつだって、欲しいものは手に入れて来た。
言えばなんだって手に入るという事を、僕は幼心に知っていたのだ。
それは自分が木蔦の人間だからで、他の人とは違う、選ばれた家の人間だからで。
僕はその事が誇りだった。誇りを守る為ならば、どんな手段も厭わなかった。
僕にとって『木蔦』という名は何よりの宝物で、何よりも自分を自分たらしめる証明だったのだ。
僕は木蔦、|木蔦 明正《きづた あきまさ》。
兄よりも優れた頭脳と容姿でもって、木蔦に家に最もふさわしい人間。
そう自分を鼓舞し、家に相応しい人間になろうと努力に努力を重ねてきた。
父や、母に、一日でも早く認めてもらおうと、ずっとずっと、努力してきたんだ。
兄さんよりも業績を上げた事だって、一度や二度じゃない。
兄さんよりも優れていると、他でもない兄さんに称賛された事だって数えきれない。
「お前のおかげで木蔦の家があるようなものだよ」
その言葉に、嘘偽りは無かった筈だ。
そしてそれを疑う者もなかった筈だ。
なのになぜ、当主となったのは兄なのだろうか。
僕がなりたくてなりたくて仕方なかったものに、兄はあっさりとなってしまった。
彼が長男で僕が次男で。
そんな、時代錯誤も甚だしい理由だけじゃ、納得なんて出来ない。
どうして、どうして、どうして、どうして。
どうして僕に欲しいものをくれないの。父さん、母さん、どうしてなの。
どうして兄さん。
いつも、仕方ないなって譲ってくれたじゃないか。
欲しがれば、譲ってくれたじゃないか。
なのに、ねえ、どうしてソレをくれないの。
ううん、それだけじゃない。
「ごめんなさい、明正さん、私ね、私ね……」
木蔦の家だけじゃなくて、彼女まで僕から奪ったんだ。
嗚呼、どうして、どうして、どうして、どうして。
どうしていつも、僕の一番欲しいものは手に入らないのだろうか。
どうしていつも、僕の一番欲しい物は兄さんが持っていってしまうのだろうか。
僕が次男だから?たったそれだけの事で?
せめてどちらか一つで良かった。
どちらか一つだけ、僕に譲ってくれていたのなら……。
「今度、彼女と結婚する事になりまして……」
「私がいなきゃ、義明さん何にも出来ないみたいだから、側にいて支えたいんです」
「花枝さん……」
しあわせそうに笑う二人。
しあわせそうに手を叩く使用人達。
涙ぐむ彼女の両親に、微笑む僕の両親に。
拍手と祝辞で溢れる世界を、僕は遠くで見つめている。
ああ、もう、二度と、手に入らないんだ。
僕の欲しいものは、僕の欲しかったものになってしまったんだ。
なんで?どうして?
僕の祖父の、あの醜い醜い化け物だって、欲しいものを手に入れてたじゃないか。
なんで?どうして?
———嗚呼、許せない。
許せない、許せない、許せない。
そんなの、絶対に、絶対に、許せない。
奪ってやる。何をしても。
壊してやる。何を犠牲にしても。
お前達を、しあわせになんてするもんか ——————!!!
●押し寄せる怪異
どん、と、大きな直下型地震のような揺れが屋敷全土を襲った。
その震源地となった離れの倉庫が、次の瞬間、木っ端みじんに吹き飛ばされる。
まるで、奇々怪々な間欠泉だった。
息を意欲吹き出る腐った膿色は、泉でも温泉でもなく不定形の怪物集団だ。
ぎょろぎょろと蠢く無数の目、無数の口はかちかちと無数の牙を打ち鳴らし、耳障りな奇声と共にだらりだらりと涎を吐き出す。解き放たれた解放感か、それとも苛まれる飢餓感故か。不定形の怪物達は次々と屋敷のあちらこちらへ、|生きた人間《新鮮な肉》を求めて蠢き出す。刹那の間に、使用人たちの悲鳴が上がった。
血の匂いが、怪物達の生ごみに等しい体臭に混じって香って来る。
あのやさしい花の香が、見る見るうちに惨劇のそれへと変わっていく。
不意に、誰かの声がした。
恐ろしく冷徹で、残忍で。けれども匂い立つ花のように美しい声が。
「ちっ……予定よりも随分と早くなってしまったか。
全く、どこのどいつがコイツ等を起こした……まあいい。
醜い怪物共よ!この屋敷の人間を一人残らず食い尽くせ!!!」
直後に上がる、雄叫びのような怪物たちの咆哮。
勢いを増した集団は、あっという間に屋敷へと広がっていく。
地獄絵図と化してゆく屋敷を、声の人物はまるで散歩でもするかのような優雅な足取りで進んでいく。
「……花枝さん、」
小さく呟いた言葉は、周囲の騒音に混じって消えた。
『MSより
ぎょろ目の怪物共との集団戦になります。
怪物は屋敷のあちらこちらに出没し、使用人達や木蔦の家の人々を襲っているようです。迅速に退治してください。
また、ご参加いただけます各キャラクターですが、
戦闘後に『探索・NPCとの会話・その他』のどれか一つだけ行動が出来ます。個人的に気になるもの・調べたいものがある場合にプレイングにご記入ください。
戦闘後ですので、リプレイに記入されている内容は共有されているものとします。
その為、新規参入の方でも継続の方々のように行動可能です。
それでは、皆様のプレイング、お待ちしております。』
●混乱の館
ミルクの注がれたカップが、音を立てて砕け散る。
その衝撃は音のような速さでもって、静かな水面に生まれ落つる波紋が如く、あっという間に広がっては、混沌と混乱という波でもって屋敷中を飲み込んでいく。
「な、なに?!なんの、きゃあああああああああああっ!!!」
「壁が、っ?!ば、化け物!!!!化けも、うわああああああああああああああ!!!!」
「誰か!!誰か助けて!!!」
逃げ惑う使用人たちの悲鳴が聞こえる。まるで、悪戯に鳴らされた楽器達による歪なコンチェルトだ。あまりにも不規則に、無秩序に。声が、崩壊の音が鳴り響く。にたり、と、蠢く怪物達の無数の目が、無数の口が、加虐的な笑みで使用人達を捉える。上がる悲鳴、開かれる口。過る非業の死の光景を、然して刹那の間に切り裂いたのは二筋の閃光だった。
メイド服を華麗にはためかせる二人の乙女。自分の身の丈程の大剣を手足のように扱う少女、リリンドラ・ガルガレルドヴァリス。その華奢な拳に鈍い|鉄拳《凶器》を煌めかせる少女、|見下・七三子《みした なみこ》。
「っ……厄介なことになったわね!」
「本当に、何事……!?」
言い終えるか否かの間に、迫り来る怪物を見下が殴り飛ばした。
別方向からの襲撃は、リリンドラの渾身の横一文字によって切り裂かれる。
使用人達に牙を向かんとする怪物たちのことごとくを、彼女達が迎撃する。
「リリンドラさん、見下さん、貴方達は……」
「メイド長……ううん、今は説明してる暇がないわ。潜入捜査は一旦中止、ひとまず怪異の殲滅と人命救助を最優先よ」
「ええ、勿論です!散々ドジっ子しちゃった汚名の返上も兼ねて、ちょっと全力で頑張りますね!!」
一方で———
「ば、化け物……?!」
|木蔦 義明《きづた よしあき》の体は凍り付いていた。
蛇に睨まれた蛙という言葉がある。第三者が見て、どうしてすぐ逃げ出さない?!という状況をメディアで目撃したことはないだろうか。あれに一度でも出会った人間ならば、そのドウシテの意味が分かるだろう。あの瞬間、思考は恐怖で食い潰されている。度の光景よりも明瞭に浮かんだ死の光景によって、思考が先に死んでしまったと言っても過言ではないかもしれない。一度それに囚われてしまえば迷宮の如く迷い込み、現実に舞い戻るのは容易ではない。気が付けば、胃袋の中、逃れられない苦痛の中、『どうして逃げなかった』と今更の後悔をしながら死へと飲まれていくのである。
義明は今、まさにその状態であった。
逃げなければ、と、頭は理解している。けれども、体が動かない。動かす為に働かねばならない脳が、即座にそれを手放したのだ。駄目だ、動かない、動けない。絶対的な捕食者を前に、思考が、死んでいる。
「う、あ……っ!!」
怪異は嗤う。無数の口が、牙が、迫る。
体はまだ、動けない。嗚呼、駄目だ、そこにあるのは、死——————
「ぼさっとしてんじゃねぇ!!」
「!!」
どんっと、体を突き飛ばす衝撃が、思考を無理矢理に動かした。
どこか遠くだった物音があっという間に近付いて、気色の悪い海のような臭いが鼻腔を刺す。込み上げる吐き気よりも先に、目の前の鮮烈過ぎる映像が義明から言葉を奪う。
切り裂かれ、絶命の声を上げる怪異。刀を振るうわ、呉服屋と名乗ったあの男———|天國・巽《あまくに たつみ》。
先の物腰やわらかで誠実な様は何処へやら。彼は豪胆にして大胆、威風堂々たる振る舞いでもって、次々と迫り来る怪異を蹴散らしていく。「天國、さん?」と絞り出した声に、彼はその鋭い眼光を向ける。
「んだお前ェさん、まだ腰抜かしてやがったのか」
手を引っ張られて立ち上がらせられる。
映画の撮影でも見ているかのような現実感の無さがそこにある。ぽかんと、呆けたように目を見開いたままの義明を襲ったのは、どんっと背中を強く叩かれる衝撃だった。
「走るぞ!ここに居ちゃあキリがねぇ!!」
言い終えるや否や駆け出した天國の背を、義明は半ば条件反射のように追い掛ける。
屋敷中に体当たりでもしているのか、不規則な衝撃が次々とやってきては、何度も何度も転びそうになる。けれども目の前の男は、そんなものをものともしなかった。
時に壁を蹴り、怪異を切り裂き、それすらも足場にしては、また更に怪異を裂く。
天井に下がる灯りも、窓のカーテンも、彼にしてみれば移動手段の一つに過ぎないのかもしれない。「あっちか」と、天國が声を零した。この混乱の中、彼は一体何を聞いているのだろうか。手すりを滑り台のように滑り降り辿り着いた通路の先では、使用人が身を震わせている。彼女が声を発するより早く、天國が怪異を切り裂いた。
「大丈夫ですか?!」
「義明様、これは、一体、それに、あの方は……?!」
「わかりません。ですが、今は身を守る事が第一です、早く、どこかへ」
奇声がすぐ側に聞こえた。
然して振り向く間もなく、それは断末魔の声へと変わる。
「ちっ、使用人の存在を忘れてたわ……」
ああそうだ。屋敷には何人も人がいる。
今現在、屋敷に務めている人間は勿論の事、住み込みで働き、暇を貰って部屋でくつろいでいる人だっているだろう。もしかしたら天國であれば、ぐるりぐるりと屋敷を駆け回って、彼らを守ってやるのも不可能ではないかもしれない。けれどもこの化け物の数が知れない以上、それは闇雲に体力を減らす行為に他ならないのだろう。
天國が舌を打つ。そして、こちらを見た。
「義明、」
「は、はい!」
「屋敷の使用人を一か所に集めて守りてぇ。それだけの人数を集めれて、尚且つ俺らが動き回れる場所と言やぁどこだ?」
「それは……」
力強く頷いて、告げる。
「一階の、大広間、です」
更に一方で———
にたりと口元を歪め、キャップの下の瞳に映るは恍惚の光。
物に蓄積された人の思いとは、感情の煮凝りとは、時に|呪い《のろい》にも|呪い《まじない》にもなって熟成されて育っていく。嗚呼、写真のこの想いよ。堪らないねぇ。これが育ちきった呪物であったのなら、こんなにも最高の逸品は無かっただろうに。
多少の落胆はあれど|秋津洲・釦《あきつしま ぼたん》の胸は、ワイングラスの中で揺らめくワインのように、静かに、確かに、満たされている。
いっそあの、氷の美貌を持つ男、アレの灰を詰めたメモリアル・ジュエリーが欲しいくらいだ。ひひひ、と、あの独特の笑みがこぼれる直前に、けれどもそれは怪物たちの咆哮に寄って遮られた。
「なんだなんだなんだぁ?!何か出て来たっぽい!?」
|子猫《インビジブル》を胸に抱いたまま、|渡瀬・香月《わたせ かづき》が目を丸める。どん、どん、と、大砲が撃ち込まれているかのように壁に伝わる巨大な衝撃が、屋敷中を忙しなく揺らしていく。一層強い揺れが、秋津洲、渡瀬、そして側にいた|赫夜・リツ《かぐや りつ》の片膝を床に着かせる。刹那、聞こえる奇声に、悲鳴に、何事かと顔を上げた瞬間、そこにいたのは無数に蠢く目玉と口を持つ化物の、その集団だった。
「んだこれ?!」
甲高い鳴き声をこぼした子猫を服の中に押し込めて、渡瀬がペティナイフを構える。
さあねと言葉を返した赫夜も、即座に|リアルタイムどろんチェンジ《使用人への変身》を解いて臨戦態勢に入った。
「ホント、なにがなんやらサッパリだけど……しかし……ひとまず事態を片付けないとねぇ……」
「だな!他の連中も無事だと良いんだけど……!!」
「多分大丈夫だと信じたいな、っ!」
人の都合など、怪異達には構うものですらない。
飛び掛かってくる怪異の一体を赫夜が異形と化した腕で薙ぎ払う。秋津洲の手の中、不気味な光を放つ赤い誘蛾灯に誘われた怪異達を、渡瀬が、赫夜が、不意を突く一撃でもって黒い塵とも灰とも付かない存在へと変えていく。けれども息を突く暇は無かった。一体倒せばまた一体。また一体倒せばもう一体。湯水の如く溢れ出る怪異達、その数に際限は無い。
「そういや明正は?!」
「ああ、この混乱に紛れて見失ったねぇ。どこへ行ったのやら」
「そうだね。それにこいつら、一体どこから———」
赫夜がその銃口から猛毒の弾丸を撃ち放った時だった。
鳴り響くのは、小さく、明瞭な、———電子音。
『———各自に通達!!』
同時に、レギオンが光を放った。
淡い青色に発光するそこから聞こえてきた声は、間違いない、クラウス・イーザリーのものだ。通信環境があまり宜しくないのだろう。ノイズ交じりの、不明瞭さも感じる音の中で、けれどもはっきりと彼が言葉を紡ぐ。
『屋敷の離れにある倉庫から、多数の怪異が出現!
現在、怪異は倉庫から屋敷全体向かって進行中!!
こっちも応戦しているが、如何せん数が多くて抑えきれん!
各自、怪異への対応を頼む!!』
冷静さの中に確かな焦燥と怒気を孕んだそれは、言葉の合間合間から銃声や怪異の奇声が聞こえてくる。不意に聞こえてくる舌打ちと忙しない足音は、その場所が逼迫した状況である事をありありと想像させた。響く一発の銃声。その直後に、レギオンのカメラアイから一筋、あの青白い蛍光灯のような光が放たれる。それは空中で四角く広がり、そのまま大きな長方形を描き出す。次の瞬間、ピッという短い機械音と共に、その長方形の中に屋敷の全体MAPが表示された。庭や倉庫を含む1階~3階までの簡単な見取り図のようなそこに、ピコピコと光る10個の光がある。
『完璧じゃなくて申し訳ないが、今までの情報から作り上げた屋敷の全体図を送る!光る点は各々の現在地だ!!悪いが、誰が誰かを表示している暇がない!なんとなくで把握してくれ、ッ?!!』
声と同時に、ガキンッ———甲高い金属音が鳴り響く。
クラウスの舌打ちが届いた。次いで『コイツ……ッ!』というどこか焦りを孕んだ声も。
鋭い金属同士の擦れ合う音がした直後、それが弾かれ、次いで肉が断たれる瞬間のあの嫌な音。その明らかな攻防の気配に、声を荒げたのは渡瀬だ。
『クラウス!大丈夫か?!クラウス!!!』
『———ッ、ああ、問題ない!』
『なら良かったけど、お前今一人だろ?!大丈夫かよ?!応援に、』
『それには関しては追々でいい。一応、応援はいる』
応援?と誰とも付かない声がする。
その疑問に答えたのは、銃声とクラウスではない別の声だった。この混乱の只中において異様な程の落ち着きを感じるその声は、極めて抑揚の無い言葉でこう伝える。
『はじめまして、応援だよ。わたしはアンナ・イチノセ。クラウスさんとは一応というか結構顔見知りだね。武器が使えるだけの一般人だけど、それなりに修羅場は潜ってるつもり』
言い終えるか否かで、至近距離から銃声が聞こえた。
直後、風船が萎むような甲高い奇声と共に怪異の気配が消える。
『実力は俺が保証する!とりあえずこっちは大丈夫だ!!倉庫周辺は任せてくれ!屋敷の方は頼んだ!!』
各自の了承の返事が、複数の銃声と奇声に紛れていく。
「……とりあえず、僕らがいるのは3階カナ?」
「そうだね、この階にいるのは、今のとこ僕らだけだし、ここにいる使用人さんは助けちゃおうか」
「おうっ!そしたらまあ、あの|カッコ付け野郎《クラウス》のところに急ぐか!!」
各々の返事と同時に窓ガラスが割れた。
飛び込んでくる怪異達に、三人は臨戦態勢を取る。
ぐずぐずしている暇は、無い———。
●アスファルトの隙間に咲く
花の香が、浸食される。
甘い甘い腐乱臭に、饐えた化物の体臭に。
暴れる怪異が土を抉り、花々をただの残骸へと変えた。水を浴びた花弁は、怪異の体液に濡らされては見る影も無く解かされていく。百合花と話したベンチが、ばきりと潰された。そんな些細な思い出が、花に込められた愛情が、どんどんと蹂躙されていく。あんなにも美しい庭が、花の命ごと刈り取られるかのように滅茶苦茶に荒らされていく。
「っ、庭にいた、使用人さん達は、一通り、逃げたわね。これ以上、ここで、こうしていても、キリがないわ」
「そうだね。お庭、守りたかったけど……っ!」
互いの背を預けるようにして、柏手・清音とシアニ・レンツィは怪異達を睨み付ける。
屋敷の敷地内においてあの倉庫から一番近いそこには、最前線と同様の怪異が次々と出現し、暴れ回っている。屋敷にいる人間を襲う、という、明確な目的がある分、その攻撃はより苛烈なものなのかもしれない。
神経を研ぎ澄まし、庭で作業しようとしていた使用人達を、彼女達は逃がして回っていた。
「ひと先ず、ここは安心かしら。レギオンの、おかげで、私達の現在地は、わかるけれど……使用人達の、居場所までは、わからないのね」
「……百合花」
大槌を振るいながら、シアニの頭に浮かぶのは先の光景だった。
あれだけ泣いて泣いて泣きじゃくる程に、苦しい胸の内をひた隠しにしてきた少女。
木蔦の家の令嬢であれと、気高く気丈に振る舞う|木蔦 百合花《きづた ゆりか》の姿だ。
わたくしのせいで優しい人達が不幸になったのかもしれないと、わたくしに木蔦の血が流れていないからだと、わたくしは異物だと、そう自分を責めていた彼女。
不意に、ポン、と、肩を叩かれた。清音だ。彼女は片手で銃を鳴らしながらも、横目で優しい眼差しを贈ってくれている。
「同じ事、考えていたのね……私も、百合花ちゃんが、心配よ。あの子、また、自分を、責めていない、かしら」
「……うん、あたしも心配。早く、探さなきゃ」
「ええ、そうね」
やわらかい微笑みが一転、嘘のような冷酷な表情となって清音が弾丸を放つ。
こうして話している間にも、怪異の群れは休みなく牙を向く。大槌を振り回し群れを蹴散らしながら、シアニが叫んだ。
「清音さん!少しでいい!時間を稼いでほしい!!」
「……ええ、わかったわ」
理由は聞かない。だって、清音は知っている。
一緒に戦ったのは片手で数えるほどかもしれないけれども。それでも、その中で知った、シアニ・レンツィというこの少女は、いつも真っ直ぐに誰かを救う事を考えて、いつも懸命に進み続けているのだ。だからね、シアニさん、思いっきり、やりなさい?
清音の弾丸が次々と怪異を討ち抜いていく。ひとつ消してはまた新たなものが。またひとつ消しては新たなものが。そうして次々と襲い来る怪異に眉ひとつ動かすことなく、彼女は弾丸を放つ。その背が、存分にやれと告げていた。
「ありがとう、清音さん……お願い、ミニドラゴン、力を貸して……」
シアニが目を閉じ、そのまま顔は天を仰ぐ。
その身に眠る竜の力が、声なき声となって異界の先へと呼び掛ける。
———|幼竜の集会所《サモン・ミニドラゴン》。
淡く優しい新緑にも似た光が、小さな竜を形作る。
一体、また一体、シアニがその力の限りに呼び掛ける。
そうして生まれた総勢10体のミニドラゴンが、一斉に産声を上げた。
「来てくれてありがとう!お願い、このお屋敷の皆を助けるには手が足りない。力を貸して!」
シアニの声に、ミニドラゴンたちが甲高い鳴き声を上げた。
彼らはその翼を大きく羽ばたかせると、怪異の群れに臆することなく屋敷の方へと突っ込んでいく。ミニドラゴンに詳細を伝えようとしてテレパシーを試みた瞬間、シアニの脳内に、10体分の情報が次々と流れ込んで来た。それはミニドラゴンの言葉であったり、彼らの拾った音であったり、映像であったり。その形も方法も様々に、不規則に、無遠慮に、どんどんと投げ込まれてくるのだ。
「っ、クラウスさん、こんな事ずっとやってるんだ……!!」
しかも彼の操るレギオンは25体。これの倍以上だ。
すごいな。感想を噛み潰す。感心する暇も何もかもを、今の現状が許してくれない。
ぐらりと揺れそうになる頭をぶんぶんと振って、シアニは再度大槌を構える。ふっと、清音が笑みを零した。
「頑張って、なんて、頑張ってる人には、言わない……一度やると決めた、なら、きちんと、やり遂げるのよ。手伝いが、必要なら、全力でサポートする、一人じゃないわ」
「ありがとう清音さん!」
「いいのよ、でもね、」
追いていったら、ごめんなさい?
———|全賭け《オールイン》。
そう言って、清音の両目に負う語に炉の輝きが宿る。刹那、彼女の足が爆発的な加速力を持って駆け出した。あっという間に見えなくなる背中に、シアニも唖然とすることなく追い掛ける。大丈夫、だって自分にだって負けない力があるのだから。
こっからは先に止まった方の負け!!
———|不完全な竜は急に止まれない《フォルス・ドラグアサルト》。
黄金の光と空色の輝きが、駆ける、駆ける、駆ける。
———
どん、と、部屋が揺れる度に、胸に覚えた恐怖が膨らむ。
否が応でも聞こえてしまう誰かの悲鳴と化物の声が嫌で嫌で、百合花は両手で蓋をした。
ぱらぱらとひび割れた壁や扉から欠片が落ちる。隙間から洩れる嫌なにおい、そして、ぎょろりと光る、不気味な目。
「ひっ!」
「百合花様、大丈夫、大丈夫ですよ」
「私達が付いておりますから」
勉強を教えてくれていた使用人達が、優しく体を抱き締めてくれる。頭を撫でてくれる。
やめて、優しくしないで、と、思わず叫び出しそうになった。
だって、だって、だって、わたくしに優しくしてくれた方は、みんな、みんな……。
「!!」
どんっ、と、また部屋が揺れる。
限界を訴えた扉が、いよいよとひび割れて、裂けて、崩れていく。
頭の上で、使用人達が頷いたのがわかった。それぞれが一度、優しく優しく頭を撫でて、そしてひとりが、離れる。
「百合花様、こちらへ」
「え?え?待って、貴方達」
問答無用で、クローゼットに押し込められた。
隙間から見る。離れた一人が、部屋の扉の前に机を置いて一生懸命に這い寄る気色の悪い色を外へ外へと押し込んでいる。そこに自分をクローゼットへと押し込めたもう一人が加わった。「あっちに行け化物!!」なんて、聞いたことのない暴言を吐きながら、彼女達が泣きながら戦っている。
ばきり、ばきり、と、扉が、机が、壁が、怪物と自分達を隔てた全てが割れていく。
何も、かもが、壊れた瞬間、一人の首が、怪物の口の中に飲み込まれた。
それ以上はもう、何も見えない、見たくない。怖くて怖くて怖くて怖くて、クローゼットの中で蹲ってしまった。悲鳴が聞こえる。ぼりぼりと硬いものを齧る音も、ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼する気持ちの悪い音も。怖い怖い怖い。震える体を抱き締める。いつの間にか、悲鳴は聞こえない。人の気配を感じない。ああ、あの人は、もう。
やっぱり、わたくしがここに来たからいけないの?
異物があるから、みんな不幸になるの?
わたくしがいなければ、優しい人達はしあわせだったかもしれないのに
わたくしのせいで、わたくしのせいで、また、誰かが不幸になってしまった
義明お兄様も、花枝お姉様も、使用人達も……明正お兄様も?——————
だったらいっそ、
ここで、いっそ
直後、クローゼットの扉がはじけ飛ぶ。
眼前に広がる惨劇の現場。首を失い貪り食われた使用人、内臓をパスタのようにして吸われながら息絶えた使用人。血溜まりと生き物の死んだ匂いに、こちらを嘲笑う、怪物たちの姿。
「いや……」
浅ましいと思った。
人を不幸にしておいて尚、
思う事はそれなのかと。
それでも、
心は正直に、
それを叫んで止まないのだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ
死にたくない、
死にたくない!!!!
「誰か、助けて……っ!」
「百合花あああああああああああ!!!!!!」
壁をぶち破る破砕の音。次いで、ぶぉんと豪快に風を切る音がした。
圧倒的な質量と威力でもって、怪異を弾き飛ばしたのはシアニの大槌だ。
気色の悪い断末魔をあげて一体が黒い灰とも塵とも付かない存在へとなり替わる。
「シアニ、」
「百合花、大丈夫?!」
「う、しろっ」
牙を向く怪異が、けれどもその口を開き切る前に塵となって霧散する。
響いた数発の銃声。その音の主は清音だった。彼女は使用人たちの姿に軽く目を閉じると、その体をそっと綺麗横たえて、ベッドのシーツを被せてやる。
「遅かった、のね……」
「柏手、さん……」
目の奥が、熱かった。
いや、もうとっくに熱かったけれども、漸くそれを知覚出来た。
まばたきをせずとも、表面張力を超えた涙が頬を伝った。震える体でシアニの元へと近付けば、自分よりもずっとずっと泣きそうな顔をした彼女がそこにいる。
「百合花、大丈夫?怪我は?」
「シアニ……シアニ……!!!」
両手を伸ばせば、抱き締めてくれた。
その体温に、いろんなものを溶かして流してしまいたかった。
いっそ大声で泣いてしまったかったけれども、今はきっと、そんな場合ではないのだろう。「大丈夫よ」と言おうとして、けれどもその言葉は、別の声が遮った。
『あー、あー、えーっと、』
なんだか愛嬌たっぷりの丸い物体から、声がする。
酷く戸惑ったような其れは、間違いない、お兄様、義明お兄様のものだ。
『こ、これに向かって話せばいいんですか?』
『おう、良いからさっさと話せ!こちとら一分一秒も惜しいんだよ!!』
『は、はい!すみません!
え、えーっと、えー、皆さん、木蔦 義明です。突然の事に酷く混乱しているかと思います。僕自身、今現在何が起こっているかを理解出来ずにいます。けれど、今起こっている出来事は確かに現実です。夢ではありません。はっきり言います。死んだら終わりです!
だから、どうか皆さん、逃げて逃げて逃げ抜いて、生きてください!!屋敷から脱出できれば一番かとは思います、けれども今、得体の知れない化け物に囲まれている為にそれは不可能です。皆さん、1階の大広間へ集まってください!幸いにも、今、この屋敷には戦える人達がいます!皆さんを守ろうと懸命に尽くしてくれる方々がいます!その方々に、なるべく一か所に固まって欲しいとお願いされました。僕たちを守る為、被害を最小限にする為です!仮にもし、得体の知れない誰かを信用出来ないというのであれば、木蔦家の当主として皆さんに命令します!!大広間に集まって、自分の身を守ってください!!』
『っと、そこまでだ!!!』
丸い物体から、奇声が聞こえた。あの化け物のものだ。
何かが空気る様な音、断末魔、色々な音が聞こえた後で、それはもう、なにも発さなくなってしまった。今のは、一体、なんだったのかしら。
「……百合花ちゃん、走れる?」
その声にはっと目を見開く。頷くよりも前に涙を拭った。髪やワンピースに付いた埃を軽く払うのは、どんな場所でも淑女たれと、目の前の女性が教えてくれたからだ。
わたくしは百合花、木蔦 百合花。流れる血は違えども、木蔦の家の人間よ。心の中で覚えかけの社訓を唱える。『社員を知る事は会社の為、人を知る事は社会の為。人が作る社会であるならば、人を蔑ろにするべからず』。そうよ、木蔦はなによりも人を大切にする家。人を守る家。今の自分が、人の為に出来る事がなんなのかを、常に全力で考えてきた家。さあ百合花、背筋を伸ばして、胸を張って。目の前の人を信じる事が、今のわたくしに出来る事。ならば、
「ええ。参りましょう!」
躊躇わず、手を伸ばす。
「わたくしを、わたくしの大切な人達を守って頂戴!」
「ええ、任せて」
「うん、全力で守るよ!守るから!!」
だから、と、続けるシアニの言葉は聞こえなかった。聞こえないふりをした。
だって、わたくしは百合花、木蔦 百合花。誇り高き|淑女《レディ》。
今はまだ、無理をするの。今はまだ、気丈に振る舞わせて頂戴。
●駆けよ拳、舞えや黒竜
大広間の扉をいち早く潜り抜けたのは、他でもないリリンドラと見下の二人だった。
元々、一階で清掃業務に当たっていたのもあり、怪異達で溢れかえる前に大広間へと飛び込めたのが不幸中の幸いだったのだろう。彼女達に引き連れられる様にしてやってきたメイド長を含む使用人達は、大広間の中央で固まっている。
不意に、メイド長が手を叩いた。
「さあさあ皆さん、あの化け物が壁を壊してしまう前に、テーブルで四方を固めてバリケードを作りましょう!長い棒みたいなものや椅子があれば、出来る限り集めて。いざという時は、それで化け物を叩くんですよ!!」
「メイド長……」
「お恥ずかしながら、私も、戦火を潜り抜けた|人間《残りもの》で御座います。出来る悪あがきはさせて頂きます———さあ皆さん急いで!!戦ってくださるお二人の負担を少しでも軽くする為にも、迅速に!!こんな時だからこそ、助け合いましょう!!」
パァンと、メイド長の掌が一層大きく鳴らされる。
「こんな時だから、か……確かにそうですね!」
「ええ!流石はノブレス・オブリージュの精神を持つ家の使用人だわ!」
負けては、いられない。
すぐにでも逃げ込めるようにと開け放たれた入口から、続々と使用人達が飛び込んでくる。混乱する彼らを案内するのは、クラウスのレギオンとシアニのミニドラゴンたちだ。それを追って飛び込んでくる怪異を、見下の拳が、リリンドラの大剣が、ことごとく打ち払った。時折レギオンが、ミニドラゴンが、彼女達の攻撃を手伝う。
数が多い、とはいえ、有象無象の集団である事には変わらない。
このまま減らし続けていれば、いつかは終わるだろう。けれどもそんな甘い考えが幻想と消える程に、怪異達の攻撃は苛烈を極めていた。屋敷の人間を襲えと、そう命令されたのもあるのだろう。大勢の人間が集まる場所には、必然的に怪異も大群となって襲い来る。
「これはかなりキッツいかもですね……!!」
「そうね、油断が出来ないわ……!!」
綻びた隙間から異物が入り込むように、気を抜けば最後、怪異の侵入を許してしまうだろう。入り口からの猛攻は勿論の事、どんどんと壁を打つ衝撃は、今にもそこを打ち崩さんとしている。同時に、壁の向こう側には、まだそれだけの軍勢が控えていることを容易に想像させた。
「っ、最悪の想像を、してる場合じゃないんですけどね……っ!!」
「気持ちはわかるわ!!っ!このっ!!!」
大剣と牙がぶつかり合い、鋭い金属音が鳴り響く。
肉をぶん殴る鈍い音が、蹴り飛ばす衝撃音が、止むことはなく続く。
「ねぇ、あの子まだ来てないの?」
「うん、大丈夫かな……もしかしたらもう、怪物に……」
「やめてよ!考えたくない!!」
「嗚呼、義明様、それに百合花様はご無事かしら……」
「わからない。誰か知ってる人はいないの?!」
戦いが長引けば長引く程に、人々の不安は募る。
怯える使用人達をメイド長が何とか宥めてくれてはいるが、それももう長くは持たないだろう。
「ふーっ……まだ、もしかして、屋敷に残された人が、居る……?」
「そう、みたいですね……っ、確かに、義明さんのお姿、ありませんし」
「……」
攻撃の合間を縫って言葉を交わす。
シアニのミニドラゴンが、レギオンが一体、また一体と、活動限界のように姿を消す。
「見下さん、あなた、足には自信がある?」
「え?は、はい!自慢じゃないですが、割と速い方だと思いますけど、」
「そう、それならお願い。ここに居ない人達を探しに行って!」
「え?」
その言葉は、全くの予想外ではなかった。
リリンドラの最初の質問を答えた時に、彼女の瞳が強い強い光を宿していたことに、見下は気付いていたからだ。けれども、こうして思わず疑問符を浮かべてしまう程に、その言葉の持つ重みは、衝撃は凄まじく。軽い身構え程度ではその全てを受け止めきれなかったのだ。
「え、そ、それって!」
「言葉の意味のままよ!行って!ここはわたしが守るから!!」
「で、でも、リリンドラさん!!」
「大丈夫、わたしも無謀と勇気は弁えてるつもりだから。ほら見て、きっとすぐに応援は来てくれる」
そうリリンドラが差したのは、レギオンのMAPだった。
多数の光が、確かにこの大広間の方へ向かっている。
「だから大丈夫。少しの間くらい持ち堪えてみせるわ!だからあなたは行って!一人でも多くの人を!!」
「……わかりました!!ご武運を!!」
きゅっと、一度だけ唇を噛み締める。
不甲斐ない。覚悟を決めるまでの時間が長過ぎる。目の前の事に必死になるあまりに、その先や周りや、何もかもが見えない時がある。真っ直ぐで、一生懸命で良いと言ってくれる人もいるけれども、いい加減、それだけじゃ駄目だ。いつまでも下っ端戦闘員だったからという、自分自身への言い訳が、慰めが、そんな自分自身への甘えが嫌になる。
思いを振り切るように、走る。リリンドラの言う通り、一人でも多くの人を救わなくては!
「……さあ、正念場ね」
そんな風にして駆けて行く見下の背中を見送り、リリンドラは深く息を吐き出す。
迫り来る怪異の勢いは、未だ衰える事を知らない。どうしてだか、自分が今この瞬間に酷く高揚している事にリリンドラは気が付いた。口元に浮かぶ笑みは、体を震わすこの衝動は、ああ、飽くなき闘争本能と生への執着だ。竜の血が、騒ぐ、燃える。
切り開く、切り裂く、守り抜く。絶対に、絶対に、ここを、生き抜く!
「あれだけ啖呵を切ったんだもの、やり遂げてみせるわ!!」
大剣が空を裂く。
有象無象の集団、とはいえ、数は暴力だ。
上がる息を整える事もせず、リリンドラは武器を構える。
と、
「?!」
屋敷が大きく揺れた。
恐らくは外からの怪異が集団で体当たりをしたのだろう。
これまでにないその揺れは、その衝撃は、既に限界の近かった建物に決定的で致命的なものとなって、その崩壊を促した。がらり、と、屋根が、壁が、崩れる。
「きゃあああああああああああ!!」
「皆さん、落ち着いて!動いてはなりません!頭を守って!姿勢を低く……っ!!?」
防災の知恵とは、人が逃げ切れる程度のもの、防げる程度のものでこそ有効だ。
然して、圧倒的に絶望的なものの前では、そんなもの、無にも等しい。
全てを押し潰さんばかりの、巨大な瓦礫が、雨霰と、礫となったそれらに混じって振って来る。
「リリンドラさん!あなただけでも———!!!」
「メイド長!」
確かに、自分の位置ならば、すぐさま逃げ出せば助かるだろう。
けれども、だからといって、使用人達を見捨てられるかどうかと問われれば、答えは否。
ここで、舞えない竜など、竜に非ず。
人を守れぬ為に振るえぬ力など、|力《せいぎ》に非ず———!!!
「わたしも、負けられないから!!」
—————— |正義完遂《アクソクメツ》!!
崩壊する屋敷の中、瓦礫の雨の中、その黒竜は高らかに産声を上げる。
大きく広げた漆黒の翼が雨を防ぎ、人々を押し潰さんとする巨大な瓦礫を葬り去るは、雷撃にも似た眩い息吹。目を焼く程の閃光が打ち放たれた直後、それはただの砂塵と化し、風に流され消えていく。休む事無く襲い来る怪異の群れに、黒竜は吠えた。
「りゅ、竜だ……黒い、竜がいる……!」
「リリンドラ、さん……?」
視界の隅に、怯えた瞳で自分を見上げる使用人達。
この|黒曜真竜《オブシディアンドラゴン》の姿を、彼らは何と捉えるだろうか。
醜い異形の姿と揶揄され、畏怖の念を抱かれるかもしれない。酷い嫌悪感を覚える者だっているかもしれない。人の姿を成さぬ己の禍々しさは、誰よりも理解している。それでも、
『わたしはわたしの正義を貫く!誰一人、貴方達には奪わせない!!』
咆哮が、息吹となって怪異共を焼く。
その瞳に正義を宿し、気高くも高らかに、黒竜は舞う。
全てを鼓舞するようなその咆哮を耳に、見下も屋敷の中を駆けていた。
リリンドラさんが、皆さんがあんなに頑張ってるのに、私だけ楽するわけにはいけませんからね!!
「どいてどいてどいてっ!!!」
立ち塞がる怪異を殴り飛ばす。時には蹴りも加えた素早いコンビネーションで、見下は道を切り開いていく。遠くで悲鳴が聞こえた。今も尚、怪異の脅威に晒されている人が助けを求めている。走れ。呼吸を整えている暇も惜しい。走れ。そして研ぎ澄ませ、感覚を研ぎ澄ませ。不審な物音ひとつ、悲鳴ひとつも聞き漏らすな。一人でも多くの人を救うんだ。
蹴り飛ばした怪異の向こうで、震えて泣いている使用人を見付けた。可哀想に、悲鳴すらも上げられなかったのだろう。あ、あ、と、言葉を失った彼女の背を優しく撫でながら、
「大丈夫です、もう大丈夫ですからね?大広間へ行ってください。そこに、えっと、とんでもなく強いドラゴンがいて、皆さんを守ってますから」
「は、はい……っ!ありがとうございます、ありがとうございます!」
道すがら、怪異に襲われない可能性はないけれども。
それでも逃げ切って欲しい。大広間まで逃げ切れば、|黒竜《リリンドラ》がきっと守ってくれるから。大丈夫、きっと逃げ切れる。彼女に送った言葉を、自分にも言い聞かせて、それを信じて自分も走る。
そうして、二階へと続く階段に辿り着いた時だった。
「うお?!どいたどたどいたァァァ!!」
「ふぇ?!ほぎゃああああああああああああああっ!!!!?」
どーんと、上から降ってきた、いや、正確には、滑り降りて来た誰かと激突した。
ちょっとぉ!折角のシリアスなのにぃ!!じゃなくて、こんなギャグ展開、やってる場合じゃないのに!!心の中の叫びは、そのまま見下の表情となって溢れ出る。
「悪ィ悪ィ!まさか向かって来る奴がいるとは思わなかったからな!大丈夫か?」
「大丈夫です……って、天國さん!義明さんも、ご一緒だったんですね!!」
ご一緒、というよりも、脇に抱えられていたと言った方が正しいが。
右に義明、左に使用人を抱えて、彼はこの屋敷を走り回っていたとでもいうのだろうか。そうだとしたら凄い事この上ないが。思わず丸まりそうになる目をぐっと引き締めて、見下はそれを周囲へと配らせる。
「……大広間に行くなら、そこを真っ直ぐ行った方が早いです。私はまだ、屋敷に残ってるかもしれない人達を探さなくっちゃいけないので一緒にはいけませんけど」
「そうかい。そりゃあ良い情報を有難うな。そんじゃ、義明、お前はここから自力で行け。こっちの嬢ちゃんも、もう自分で走れるよな?」
やや乱雑に床に下ろされた義明と使用人は、戸惑いながらも頷く。
「よっしゃ、んじゃ俺ァここでな!見下、残りの使用人は任せたぜ!」
「あ、はいっ!了解です!えっと、天國さんはどちらへ?」
「あ?俺かァ?」
「限界ギリギリの奴ァ、もう二人いんだろ?」
●限界ギリギリサバイバー
銃声ひとつ、肉を断つ音がひとつ。
ひとつ消えてはまた生まれて。ひとつ生まれてはまた消えて。永遠と続くかのような戦いという作業。あとどれだけ、あと何体、コレを倒し続ければいいのだろうか。最早これは、ただただ苦痛を覚えるだけの行為に他ならない。
木っ端微塵になった倉庫だった場所を睨み付ける。尚も間欠泉の如く、怪異達はひっきりなしに生まれては、無遠慮に、無作為に、屋敷のあちこちへと飛び立っていく。新鮮な|血肉《エサ》を求め、破壊を求め、その衝動のままに蠢き、飛び立つ。無論、こちらに牙を向く数だって少なくはない。唇を噛み締める。武器を振る。動きが鈍い。腕が、足が、脳からの命令を拒否している。くそッ。とっくに限界を迎えた体は悲鳴すらも上がらない。既に武器を握る力すら危うく、ほんの一瞬でも気を抜けば、そのまま意識が暗闇へと引きずり込まれてしまいそうだ。
「っ、アンナ!頼む!!」
「任せて!!」
怪異の声がする。自分の武器が肉を断つ音が、アンナのモシン・ナガンが奏でる銃声が、こんなにも近くでこんなにも鼓膜を揺らしている筈なのに。何故だかそれが酷く遠く感じてならない。脳の中ではレギオン達が、相も変わらず膨大な情報を送り付けて来る。嗚呼、指示を出さねば。注意を引かねば、使用人がやられてしまう。まだ、屋敷を駆け回っている人間がいる以上、MAPを途切れさすわけにはいかない。体は疲労困憊、頭はショート寸前。壊れかけた機械兵とはこんな気分なのかもしれない。嗚呼、足りない、足りない、足りない。頭が、体が、足りない。せめてあと3つくらいは欲しい。ふっと、クラウスが自嘲気味に笑みを浮かべれば、アンナがその背中に自らの背中を預けるような形で合わせて来た。
「流石に最前線で二人だけはキツイね。無理せず応援を要請した方が良かったんじゃないかな?」
「……ッ、出来れば、そう、したい、はぁ、っ、ところだがな」
横目で屋敷の全体図を覗き見る。
自分達のいる場所は、離れの倉庫周辺という事もあり、屋敷まで少しばかり距離がある。不幸中の幸いか、近くには人の気配がない。つまる所、屋敷の中やその周辺に使用人や木蔦の人間がいるという事に他ならないのだ。自分達を襲う怪異の姿もあるが、それ以上の怪異達が屋敷へ向かっている以上、彼らを守り、その安全を確保するのが最優先だ。
「俺、は、√能力者、だからな……ッ!死んだって、死にきれない。死ぬことを、許されていない……!!」
だから体がぶっ壊れるような無茶なんて大した事じゃない。
そう告げるクラウスの顔は、アンナには見えなかった。同時に、それを聞くアンナの顔もクラウスには見えなかった。言葉の代りに、銃声が鳴る。肉を断つ音が、激しい金属音が鳴り響く。一体、いつまで、続くのか。過る弱音を、頭を振る事で追い出せば、
「?!」
そこに、人影が見えた。
氷の大地で咲き誇る様な、花の|顔《かんばせ》。鋭い眼光。
「|木蔦 明正《きづた あきまさ》……?!」
その姿を見間違うはずがない。人の持つ美という美を集結させて作られたようなその人物は、まるで庭でも散歩をするかと言わんばかりの優雅な足取りで、けれどもはっきりとした目的をもって、倉庫の残骸へと向かっているようだった。
嗚呼、と、頭が急速に回転して結論を導き出す。
秋津洲とのやりとり、百合花の話、そして怪異達が活性化する寸前のあの声。
「クラウスさん?!」
気が付けば、足は駆けていた。
|通常時のクラウスであれば《・・・・・・・・・・・・》、あっという間に詰められる距離だった。たかだか数メートル、そこに無数の怪異が障害となろうとて関係なかった。持ち前の冷静な判断で道を切り開き、明正の元に辿り着き、戦闘をこなしつつも尋問していた筈だ。そして|通常時のクラウスであれば《・・・・・・・・・・・・》、こんなにも無茶な判断はしなかった。自分の体力、周囲の状況、優先順位の判断を危ぶめば、それが取り返しのつかない結果を招く事を理解していたからだ。然して、今のクラウスは、それが出来なかった。疲労が、|冷静な判断《普段のクラウス》を食い潰したのだ。
こちらに気が付いた明正が、忌々しそうに舌を打ち鳴らし、同時に手を翳す。
気が付けば、目の前を、背後を囲む、怪異、怪異、怪異の壁。
「クラウスさん!!!」
アンナの銃が立て続けに怪異を吹き飛ばす。
それでも尚、目の前に迫る無数の牙。無数の目。
言葉よりも早く武器を振る。レギオンを飛ばす。銃を構えた腕が、けれども、激痛と共にその動きを止める。そこにがっぷりと食い込むのは、ナイフよりも鋭利な、牙。
しまった、———!!
「う、ぐあ、ああっ!うわああああああああああああああっっ!!!!」
「クラウスさん!!!」
肉が千切れる、骨が軋む、腕が、千切れる……!!
「させねぇよ」
『うつるとは 月もおもはず うつすとは 水もおもはぬ 己が身の内』
———|帰神法 応龍《キシンホウ・オウリュウ》・霊剣抜刀 |天地《あめつち》
ふつり———
それが断ち切ったのは、精神の糸だろう。
無色透明の刀身は、鋭い一閃を次々と繰り出し、怪異を討つ。目に見えぬ大傷を、それでもしかとその身に負った怪異が一体、また一体と、その眼球を真っ白に染め上げ地に転がる。
解放された腕から鮮血が噴き出した。その飛沫の向こうで、不敵な笑みを浮かべるのは天國だ。彼はあっという間に怪異達の意識を消失させると、腕を抑えて蹲ったクラウスに「よぉ!」と豪快な声をかける。
「待たせたな、まァだ五体満足か?」
「っ、はぁ……はぁっ、おかげ、さま、でな……」
にやり、と、互いに口元を歪めれば、視界の端でアンナが。彼女とは別方向から秋津洲、渡瀬、赫夜の三人が駆けて来るのが見える。
「クラウス!!ひっでぇ傷……大丈夫、じゃないよな?!誰か、応急処置、」
「わたしがやる。皆さん、√能力者ですよね?皆さんが戦った方が、多分、効率良いから」
「君が、アンナ・イチノセさん?」
「はい。でも自己紹介は後で」
空を睨む。怪異がまだ、そこにいる。
「任せとけや、こちとらやる気満々でねぇ。あと100は斬りてぇと思ってたとこだわ」
「ふふふ、頼もしいね。僕も、ずっと女の子らしくしてた反動かな?ちょっと暴れたいんだ」
「おー怖い怖いっ。ま、俺も暴れたいのは一緒だけどな!」
「やれやれ、皆さんお盛んな事で……」
くっと口の端を吊り上げて、秋津洲が誘蛾灯を空に放り投げる。
怪異が一斉にそれに群がるのを合図に、4人は各々の武器を振るった。
次々と怪異が倒れ伏す。あれだけ防戦一方だった戦況がひっくり返っていく。
アンナの応急手当を受けながら、クラウスがレギオンを一体呼び寄せた。展開されているマップには、光が集結する場所がふたつ。単独行動をしているのは、屋敷を駆け回っているであろう見下のものか。
「光がひとつの場所に集まってるね」
「ああ、っ……屋敷内の、殆どの人間も、はぁっ、そこに、集まってる……ッ!」
「そっか、じゃあもうひと踏ん張りだ。まだ倒れないでよ?わたし、√能力者じゃないから、死んだらそこで終わりなんだ。悪いけどここで終わるつもりないから」
「フッ、ああ、そうだな……だが、頃合いだ逃げろと言っても、お前は、そうしないんだろ?」
「当り前じゃん」
二人が同時に口の端を吊り上げた。目の前のでは、次々と敵を迎撃する仲間達。赫夜の拳が、怪異を一体殴り潰す。刹那、屋敷の方から鋭い咆哮が上がり、同時に天を裂く様な閃光が空を白く染め上げる。あれは。問い掛けに、レギオンが回答を寄越す。ああ———リリンドラか。合流した清音とシアニも、彼女と共に使用人達を守っている。
「っ、屋敷の、怪異は……ほぼ、消滅、もう少しだ……」
「リョーカイ。こっちの勢いも衰えて来たみたいだねぇ。個人的には、ひひひ……もう少し暴れてくれても良かったんだけどなぁ」
「「馬鹿野郎っ!!」」
渡瀬と天國の怒声が重なる。そんなもん御免被るわ!と言わんばかりに二人の攻撃が怪異を吹き飛ばす。おやおやと肩を竦めつつも、秋津洲はあの誘蛾灯で敵をおびき寄せ、もうひとつの呪物めいたもので敵を絡めとり、そうしてクラウスとアンナから怪異を遠ざけてくれているようだった。朗らかに笑いながら、赫夜が異形の腕で怪異を殴り飛ばす。
ちらり、と、倉庫の残骸を見る。秋津洲の言う通り、間欠泉の勢いはない。無限と思える時間に終わりが見えた。もうひとつ、ふたつ、踏ん張れば、この山は越えられる。
「ちょっとは寝ててもいいと思うよ」
「ばーか……俺が、寝た、ら、|コレ《レギオン》が消える、っ、だろうが……見下が迷う」
「そうだね」
それにまだ、全て終わってないからな。
苦痛に顔を歪めながらも、クラウスは笑った。
●一輪の|野草《はな》
嵐の後、というには、あまりにもあんまりな光景が広がっていた。
あんなにも豪華だった屋敷は、元の姿を思い出すのも難しい程に荒れ果て瓦礫の山にその面影を残すだけとなってしまっている。あれだけやさしく香った花の香は、今、怪異の醜悪な残り香と血肉の臭いに埋もれてしまった。
誰もが安堵と共に覚えたのは、確かな疲労と虚無感だった。精神すら困憊するその中で、少女の足音が鼓膜を揺らす。
「お兄様!」
「……百合花!無事だったんだね!!」
「ええ!ええ!お兄様もご無事で何よりです!!」
飛び付いた体を優しく抱き留めてやれば、少女の目に涙の膜が張るのがわかった。
今にもきっと、泣き出したいのだろう。全力でこのひとときの安寧を抱き締める為にも、彼女の目の前で彼女の為に命を落とした使用人達の為にも。けれども、それすらも飲み込もうとする彼女に、口を開いたのはシアニだった。
「百合花、泣いていいんだよ?こういう時にね、ちゃんと気持ちを抱き締めないと、生まれた気持ちがわかんなくなっちゃうんだよ?だからね、」
「シアニ」
百合花が顔を上げる。
そこに浮かぶ表情は、やはり木蔦の家の令嬢たるそれで。百合花のそれではない。
「……お気持ちは受け取ります。でも、わたくしにはその資格はございませんわ。
やはり、わたくしは異物なのでしょう。きっと今回も、わたくしのせい……わたくしのせいで、また、優しい人達が不幸な目に遭ってしまったの」
「百合花?何を言ってるんだい?」
目を丸める義明に、百合花はそれ以上何も言わない。
小さく俯き、最愛に兄から体を離そうとする彼女を制したのは、やはりシアニの言葉だ。
「そんなの違うよ。絶対違う」
「違わないわ」
「違う!絶対に絶対に絶対に違う!!
百合花に木蔦の家の血が流れてないから、そんな子が家にいるから不幸になるなんて、そんな事、絶対に絶対に絶対に違うよ!!だって、百合花は自分よりも誰かを気遣える子だって知ってる!辛い気持ちを押し殺しながら、ずっと頑張ってたんだって事も、あたし知ってる!短い時間だったけど、そんな事もわからない程、あたし馬鹿じゃない!!
百合花は不幸を呼ぶ子じゃない!皆の事を考えて、皆を笑顔にしてくれる素敵なレディだよ!!」
「シアニ……でも、わたくし、」
「それにね百合花、あたしだってね、拾われっ子なの。世界中の拾われっ子が拾ってきた家に不幸を招くなんて事、絶対にない!だって、それならうちはもう10回は不幸になってるかもしれないんだから。だから、だからねっ! だから……っ!百合花は、何も悪くないんだよ……悪くないから、お願い、自分の事をそんな風に思わないで。必要以上に気丈であろうとしないで。あなたがみんなの笑顔が見たいようにね、みんなだってあなたの本当の笑顔が見たいの。無理してる姿なんて見たくないの、だから、だから……!」
言いながら、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
どうして、自分が泣くのだろう。わからない、わからないけれども。
ただ一つ言える事は、百合花がこのまま、涙を忘れる人になったら嫌だという事だ。シアニが素直であれるのは、気持ちを誤魔化しちゃいけないよ、自分の気持ちを大事になさいと拾ってくれたあの人達が教えてくれたからだ。そうすることで、大切な気持ちがわからなくなって消えてしまうからね、とも。百合花にも、わかってほしい。少しでいい、ほんの少しでいいから……。
「う~~~……」
「……馬鹿ね、なんであなたが泣いているのよ」
「だってだって、百合花が泣かないから、馬鹿みたいに強がってるからァ!!」
「……ふふふ、そうね、そうね……っ」
くしゃり、と、表情が歪んだ。
木蔦の家の令嬢という仮面が静かにはがれて、百合花の素顔が見える。
「シアニさん、すみません」と声がした。義明が百合花ごと、シアニも抱き締める。ぼろぼろと大粒の涙を流す妹と、その友達をあたたかい視線で見つめながら、彼もそっと、「ごめんな」と呟いた。
「暫くは泣き止みそうにないかしら」
「そうね、そっと、しておいて、あげましょう?」
「ええ、それじゃあ……」
ふーっと、リリンドラが息を吐いた。
|黒曜真竜《オブシディアンドラゴン》になったことで竜漿をかなり消費してしまったのだろう。軽い眩暈を覚える体を包むのは、思い思い疲労感だ。けれどもそれに鞭打つようにして、彼女は一歩、大広間の入り口だった場所へと足を進める。
「リリンドラさん、どちらへ?まだ、あなた、ふらふらよ?」
「清音さん、お気遣いありがとう。でも、まだすべてが終わってない。だからわたしは、ここに居ない人物を探すわ」
「ここに、居ない、人物?」
「木蔦 明正」
その言葉に、その場にいた全員が目を見開く。
そういえば、と言って周囲を見回す使用人も少なくはない。
大広間に彼の姿はなかった。あの混乱の最中、屋敷で彼の姿を見たものはいない。
そしてなによりも、死んだと仮定出来ない彼の言動がリリンドラの中にあった。
———この屋敷の人間を一人残らず食い尽くせ!!!
彼を監視していたクラウスのレギオン越しの声だった。
不明瞭で、けれども彼としか思えない声で、確かにそう告げたのを覚えている。
「リリンドラさん」
「なに?」
「明正が、何処にいるか、何か見当が?」
「ええ。わたしだけじゃなくて、多分、ここに居る、そうね、戦う力のある人間は皆ついていると思うわ」
言いながら、リリンドラは清音を、シアニを見た。
彼女達は静かに視線を返し、そして静かに、けれども確信めいたものを持って頷く。
「見当を確信に変える為に、行ってくる」
「……そうですか。あの、それなら僕も連れて行ってください」
百合花とシアニからそっと身を離し、義明がリリンドラと向き合う。
「アイツの無事を確認したい……だから、」
「待って」
制したのは清音だった。
「義明さん、あなた、明正さんを、どう、思っているの?」
「明正ですか」
「ええ。彼の、今までの所業を、知らなかった、なんて、言わせないわ。それを踏まえて、どう、思っているか、教えて頂戴」
「……それを聞いて、どうするんですか?」
「聞かないと、駄目なのよ。彼は……木蔦 明正は、この、一連の騒動の、首謀者かも、しれないの。もし、あなたが、彼と、同じ思想なり、彼を、必要以上に、かばい立てするの、なら、連れて行く、わけにはいかないわ……ご理解、下さる?」
清音は極めて優しい声音で、けれどもその言葉には芯のある強さでもって語り掛ける。
彼女の表情は穏やかだった。けれどもその目は、強く、曇りのないものだ。それをしっかりと真正面から見据えて、義明は静かに頷く。躊躇うように、言葉を選ぶように視線を泳がせ、ひとつ、小さく息を吐く。
「……僕には、明正が何を考えているかがわかりません。勿論、アイツがしてきた数々の事は僕の耳に入っています。実際にその現場を見たものだってある。その度にきつく咎めたりしてはいるものの、暖簾に腕押し、糠に釘だ。改善する様子も無く、かといって、いくら問い詰めたところでアイツが何を考えているのかを教えてもらえることも無かった。僕の知っている明正は、そんな奴じゃない。偏屈で、我儘で、強引で、生意気で、ひねくれてて口の減らない奴ですけど、根は優しい、繊細な弟です。この数年で、アイツは変わった。いや、何かがあって変わってしまった。話をしなきゃいけないんです。ずっと避けて来たけど、もう、逃げたり避けたりしてはいられないところまで来てしまった……」
「……でも、話しても、わかり合えないかも、しれないわよ」
「そう、ですね……でもね、男ってね、馬鹿なんですよ……どんなに頭が良くても、自分の気持ちを表す言葉を知っていたとしても、結局ね、言葉じゃない部分でぶつかり合わなきゃわかんないんです。僕たち、こう見えてかなり兄弟喧嘩もしてきましたから……最終的にはね、いつもコイツで仲直りしてたんですよ」
ぐっと、こぶしを握る。
そこにあったのは、木蔦の家の当主ではなく、義明というどこか少年のような彼だ。
「ぶつかり合う事を怖がっていたら、何も出来ません。わかり合う事を避けて出来るのは、溝と誤解だけです。だから、僕も行きます。アイツの兄として、目を覚まさせてやらなきゃ。だから、お願いします。どんな形になるかもしれませんが、覚悟は出来てます。どうか、僕を連れて行ってください」
そう、静かに頭を下げる彼を、止める者は誰もいなかった。
●子猫の導き、隠されていたやさしさ
———い“っででででででででででででででっっ!!!!!
ひとまずの脅威が去った離れの倉庫周辺で、歯車が軋むような悲鳴が聞こえる。
普段ならば、まず聞けないだろう、冷静な男・クラウスが、激痛にその顔をくしゃくしゃに歪めている。怪異に食い千切られそうになった腕の負傷は激しく、応急処置を施した程度ではまともに動きそうも無かったそこに、シアニのあのドラゴンが施しに現れたのだ。何とも有難いことこの上ないのだが。その方法がなんとも苦痛を伴うもので。無遠慮に、牙の穴が開いた穴に顔を突っ込まれて施されるそれは、ドラゴンキッス。
「い“————っだだだだだだだだだだだだだ!!!!」
「我慢だよクラウスさん。なるべく早く治してくれって言ったの、クラウスさんなんだからね」
「わかって、るぅっ?!!!」
確かにこの方法ならば、表面からゆっくりと治癒の力を送り込まれて治されるよりは、怪我の最深部から一気にその力を送り込んでくれた方が効率はいい。効率は良いが、損傷した部位が急速に治癒、再生、再構成されていく痛みは、ある意味で傷を受けた時以上だ。
クラウスが声を上げる度に、にやにやとアンナと秋津洲が口の端を吊り上げる。豪快に声を上げて笑うのは、天國と渡瀬か。本来ならばこんな和やかな空気でいる場合ではないのだが、クラウス以外の面々もそれなりに傷を負い、体力を消費している。一時の休息としては丁度いいだろう。
「痛みに恨み辛みがあるんでしたら、いい呪物がありますよ……?」
「いらん!営業を掛けるな、いって!いててててててて!!!!」
ケラケラと笑い声をあげる渡瀬の服の下で、にゃん、と、声がした。
ああそういえばという感じで襟元を緩めれば、そこからぴょこんと飛び出す子猫の頭。
「あ、結局その子、ここまで連れてきちゃったんだね」
「おー。俺もすっかり忘れてた。インビジブルだからアレか、苦しくなって藻掻くとか、そういうのも無かったんだな」
「なんでもいいがよォ、クラウスの治療が終わったら、なんだァ?明正が向かったっつー地下に行くからよ、それまでには放してやれよ?」
「おう、そうするわ」
忘れててごめんなーと言いつつ、指先で頭を撫でてやれば、子猫がごろごろと喉を鳴らす。
アレ?そういえば、なんでコイツ消えてないんだ?
通常であれば、役目を果たしたインビジブルはそのまま元の形に戻るのがセオリーだ。
しかしこの子猫は、明正の部屋で実体化して以降、消える事はない。得た情報によれば、確か、百合花の可愛がっていた子猫らしいが。彼女に逢いたい、という様子も無ければ、なんと言うか、別の何かを伝えようとしているようなそんな感じがする。
「お前、まだ、役目があるのか……?」
「にゃーんっ」
「あ、おい!!」
子猫がぴょんと飛び出し、そのまま駆け出した。
崩壊した屋敷に向かって一直線に駆け出す子猫を、渡瀬が追いかける。
「すまん!後で行くわ!!」
「わかった」
いってらっしゃいと手を振る赫夜に片手を振り返しながら渡瀬は駆けた。
———
走って、走って、走って……流石に走り過ぎだ!と突っ込みを入れたくなったところで、子猫がぴたりと足を止めた。そこは屋敷の一角、庭に程近い小さな部屋だ。既に怪異によって壊滅状態ではあるが、肥料や農具、それに花の苗なんかの残骸が多く転がっている事から、庭関連の倉庫か、庭師の作業場ではないかと予想出来る。そこまで来て、にゃーんと声を上げて、子猫がまた元の通り、透明なインビジブルへと舞い戻った。
百合花の部屋でもなく、彼女に関係する者でもなく、何故ここなのだろう。消える直前、まるで後は任せたと言わんばかりにこちらを見つめて来た子猫に小首を傾げていれば、残骸の影に見知った人の姿を見付けて、渡瀬は思わず声を上げた。
「あれ?見下ぁ?!」
「うんん?!あ、渡瀬さん!!どうしたんですか?」
何でもない風を装って入るものの、ボロボロのメイド服が、所々に付いた傷が、あの混乱の最中、いかに彼女が奔走していたかを物語っている。そっか、コイツ、一人で屋敷のあちこちにいってたんだっけ。一瞬、なんとも言えない表情を浮かべた渡瀬に、見下が小首を傾げる。
「渡瀬さん?」
「ああ、いや。無事でよかったって思っただけ。見下こそ、こんなとこでどうした?武器でも落としたか?」
「落としませんよ!いえ、ちょっと明正さんの言動が気になったので、彼の痕跡でも探そうかなーって。そうしたら、助けた使用人さん達が、時々ここに出入りしていたことを教えてくれたんです」
「なるほどなー。んで?なんか見付けた?」
「んー、まだ何も。こうも酷い状態だと、綺麗なものを見付けるのが難しいですね」
「あー、だよな。んじゃ、俺も手伝うわ。俺も俺で、なんか、ここで見つけて欲しいもんがあるみたいでさ」
「?」
「時間が持ったいねぇや。手を動かしながら説明する」
「はい、わかりました!」
荒れ果てた室内を見回す。
酷い状態と見下が言った通り、瓦礫や血痕で埋め尽くされたそこは、探し物でもない限り立ち入るのを遠慮したくなる。小さな農具から破れた肥料の袋から、そういったものを丁寧にどけつつ、先の子猫のインビジブルの事を話しつつ、二人は作業の手を進めていく。
「子猫のインビジブルが?百合花ちゃんの関係ならわかりますけど、ここに案内するのはなんででしょうね?確かにお花は好きな子ですけど……」
「だろ?なんだろうなーってな、ちょっと気になったんだ……お?」
「お?何かありまし……おぉ?」
そうして、二人はほぼ同時に、けれども全く別のものを探した当てたのだ。
「随分と古い農具だな……今も使われてんのか?」
「日記帳……?割と新しいですねぇ……」
渡瀬が手にしたのは、随分と形の古いじょうろだった。
ブリキで出来たそれは、何度も何度も錆を落とし、丁寧に手入れをされて使われて来たのだろう。あちらこちらに痛みや凹みはみられるものの、愛着のある逸品として大事にされているのが見て取れる。「庭師の道具、か……」そう呟いて、渡瀬は静かに目を細める。そうだ、確か被害者、花枝だったか?あれの両親は庭師だったはずだ。あんまりこういうのは得意じゃないのだが、まあ出来たら設けもんだろう。小さくひとつ息を吐き、渡瀬はそのじょうろに意識を集中させる。
さ、アンタに何があったか教えてくれ!
———|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》
一方で、見下が見つけたのは日記だった。
鍵付きの日記帳のようだが、瓦礫に当たって砕けたのか、粉々になった錠前が表紙の上に転がっている。誰のものなんでしょうか。名前はない、わからない。けれどもページを開いた瞬間に、その几帳面で綺麗な文字が、いっそ神経質とも思える程、行間や文字数の揃った様子で書かれている。「兄さん」「百合花」「花枝さん」この文言から察するに、これは、きっと、明正のものなのだろう。読んで、読み進めて、見下は言葉を失った。
そして、渡瀬もまた、農具に宿った記憶に言葉を失う。
「これって……ああ、マジかよ」
「私も、とんでもないもの、見つけちゃいました……」
二人は顔を見合わせ、意図せず同時に頷く。
———早く、この事を知らせなければ!!
●嘆き
「花枝さん……」
仄暗い地下に、声が一つ落ちる。
酷く淡々としているようで、そこに複雑な感情が綯い交ぜになり過ぎた故に、そんな風になってしまった、そんな声だ。
名前を呼ばれた女性が、すっかりとやつれた顔を上げた。
冷たい冷たい鉄格子の中、涙の跡が消えない頬と赤く腫れた瞳が痛々しい。
彼女の目が、名前を呼んだ人物を捉える。
「明正さん」
ゆっくりと身を起こした。
のそりのそりとした足取りで彼に近付く女性は、信じられないものを見るような目で彼を見つめ続けている。やがて、鉄格子越しに彼らは向き合った。ぽろり、ぽろりと女性の目から流れる涙を拭おうとして、明正はその手を止める。まるで何か、いたたまれないようなものでも見るようにして彼女を見つめる彼の表情は、酷く、悲しそうなものだった。
「あの怪物たちは、どうしたの……その魔法陣?から、次々と外に出て行ったわ……あんなものが外に解き放たれたら、屋敷の人は?義明さんに、百合花ちゃんに、私の両親は?」
「多分もう、みんな死んだよ。今頃は怪物の腹の中じゃないかな」
「……っ?!どう、して?どうして、そんな事を……?」
「どうして、だって?そんなの、簡単じゃないか……君だってわかってるだろう?」
「……私が、あなたの告白を断ったから?義明さんと結婚するから?」
「そうだよ」
「そんな……!そんなの、ねえ、嘘、嘘よ。私知ってるから、明正さんは、こんな酷いことをする人じゃない。優しくて、努力家で、誰よりも木蔦の家を愛して大切にしてる人よ。こんな事、するはずがない。ねぇ、何があったの?あなたの中で何が変わってしまったの?」
「もう昔の僕じゃない、それだけだよ……もう僕は、君の知っている僕じゃないんだ!!優しくて努力家?笑わせないでくれよ、本当にそんな人間がこんな事するわけないだろう?!僕はねぇ花枝さん、そうだよ、貴女が欲しかったんだ。貴女と、木蔦の家が欲しかったんだ。けれどもうどちらも手に入らない、全ては兄さんの物になってしまった。僕が世界中のどんなものよりも欲しくて欲しくて仕方のなかったたったふたつは、もう2度と手に入らないんだよ!!!それが僕にとってどんな絶望か、君にはわからないだろう?!!」
「明正さん……」
「……でもね、絶望したおかげで僕は気が付いたんだよ。手に入らないのなら、いっそ壊してしまえばいいってね。そうしたらね、ひとつ、別の夢が出来たんだ」
「別の、夢……?」
「ああ、そうだよ。全部全部、壊して、壊して、そうして壊れた場所で、君が絶望する様が見たいんだ。手始めに教えてあげるよ花枝さん、君が今まで食べて来た、ああいや、無理矢理に僕が食べさせていた食事。その中に入っていた肉はね、君のご両親のものだよ」
「……!!」
「嗚呼、良いね、いい顔だね。自分の最愛の人を腹に収めた気分はどうだい?自分の血肉になってもらった気分はどうだい?嗚呼本当に、実にいい顔じゃないか。そうだよ、その顔が僕はもっと見たいんだ。今頃はあの怪物たちが、兄さんも百合花も使用人達も食い尽くしているんだろうね。生きていたとしても、体が五体満足の保証はどこにもない。見せてあげるよ。その地獄みたいな世界を、無残な死体に群がる化物共を。その後、ねぇ、花枝さん、僕と一緒に死んでくれ。絶望したまま、絶望したもの同士で、一緒に、死のう?これが二回目のプロポーズだ。断る事は許さない!」
「明正さ、」
がちゃんと鉄格子の鍵が外された。
おいで?と、酷く優し気に告げる明正の、その目はすっかりと狂気に染まっている。
花枝の手が掴まれた。人と思えぬその力に、痛いやめてと声を上げる。それを聞き入れる様子も無く、彼は強引に彼女を引っ張ると、一歩、また一歩と引きずるようにして鉄格子の外に出る。「さあ、行こう?」と微笑む彼の顔は、花のようで、毒よりも恐ろしい。ひっと、引き攣った声が花枝の喉で上がる。
「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ……てか」
「?!誰だ……?」
のそり、のそりと階段を踏みしめて、地下へと足を踏み入れる。
片手に刀を顔には睨みを携えた天國が。彼の後ろには、リアルタイムどろんチェンジにて、再びメイド姿になった赫夜、どうもー?とあの笑みを浮かべる秋津洲、満身創痍のクラウスにアンナの姿もある。
「ご無事で何よりです、明正様」
「お前は……部屋にいたあの使用人か?それに店主まで……なんだ?外の怪物共はどうした」
「悪ィが、全員無事だよ。ま、多少の犠牲はあったし怪我はしてるがな。生きてる人間は皆、五体満足の御の字さ」
「なんだと……?」
鋭い眼光を浴びせる明正に、臆することなく赫夜が近付いた。
「明正様、大変申し訳御座いませんが、先の会話にてご事情は伺いました……しかしながら、この先は決して踏み越えてはいけない領域です」
「踏み越えてはいけない領域だと?一介の使用人風情が何を言う」
「……あなたはきっともう、おわかりのはずです。研究者気質のあなたであれば、興味を持った時点で呪いや、怪異がどんな存在であるのかを、きちんと調べておいでだ。そしてそれがどうしたら生み出せるのかも熟知しておられる。でなければ、あんなにも大量の怪異を、ただ呪いを齧った程度の人間が生み出せるはずがありません。あれは、人の恨み辛みを、負の感情をもってして生み出された怨嗟そのもの」
「ふぅん、ただの無知な使用人とは違うみたいだな。
ああそうだ。その通りだ。僕は呪いを、怪異を生み出す術を知っている。
そしてそれを利用し過ぎると最後には負に呑まれてしまうという事もな」
「っ!それを知っているなら何故こんな事をしたんですか?!もうやめてください!このままでは本当に飲まれてしまう!飲み込まれて、二度と戻れなくなってしまう!!まだ、まだ今なら戻れます!!あなたが人間であり続けたいのならば、」
「女、戻るとは、何処に戻るんだ?」
「それは、元の日常に……」
「はっ!綺麗事だな、全くもって、単純明快な馬鹿が言いそうなことだよ。いいか?一度壊れたものは二度と元に戻らない。それが完全に壊れる前の、僅かな綻びであったとしても、だ。元の日常なんてもんはな、もうどこにもないんだよ!!」
声を荒げた明正が、花枝の体をこちらへと突き飛ばす。
よろけた彼女を天國が受け止めた。彼女に気を取られた一瞬、ほんの瞬きの間に、明正は魔法陣の方へと駆け寄る。床に書かれた精巧なそれは、おおよそ普通の人間が書いたとは思えないくらいに呪詛と邪念で満ちている。
「なにを、」
「女。最後にひとつ、教えておいてやる」
明正は静かにそう言って、微笑む。
その笑みは残酷なまでに美しく、邪知暴虐を表すかのように腹の底から恐怖が湧き上がる程に残忍でありながら、なぜだか酷く物憂げで苦しげだった。
「……その先が奈落の底と知っていても、そこに踏み出すのが人間だ」
明正が魔法陣を踏み込む。刹那、彼の体が光を放つ。
彼の体がごぼごぼと、その皮膚の下がまるで沸騰するかのように蠢き出した。あの黄金比で形作られた彼の姿が、見る見るとそれを崩壊させ、瓦解させ、崩落させ、異形の存在へと成り替わっていく。沸騰した皮膚が、膿でも巻き散らすかのように弾け、肉が溶け、骨が露出し、しゃれこうべとなったその顔で、瞳は冷たく凍える氷にも似た不気味な光を。髪はどろどろと泡立ち溶けた異形の触手の塊へと成り替わる。変化の度に凄まじい苦痛に苛まれるのか、明正の口からは声にもならない絶叫が轟く。
誰かが彼の名前を呼んだ。
誰かがその手を伸ばした。
駆け出した誰かは、けれども光と衝撃によって弾き出される。
全てを嘲笑うかのようにして、彼の姿はあっという間に|ソレ《・・》へと成り替わっていく。
———|『影牢鬼将』翳鬼《『えいろうきしょう』えいき》
人の怨念、怨嗟、怨恨……。
ありとあらゆる負の煮凝りが生み出した悲しき怪異が、そこにあった。
第3章 ボス戦 『『影牢鬼将』翳鬼』

●埋もれた記憶
瓦礫に埋もれるようにして隠されていたそれは、どうやら日記帳らしかった。鍵付きの、普通の日記と比べると随分と分厚いそれは、所謂5年日記というものだ。
教科書のような綺麗な字が、行間や文字数すら完璧な、いっそ神経質とも思える程に几帳面に綴られている。一番古いものの日付は今から5年前のものだ。毎日欠かすことなく綴られているそれは、家族の事や親しい人間の事で埋め尽くされている。とりとめのない事が多い中、気になる文面をいくつか見付けた。
【4年前の日付】
―月—日
妹が出来た。3歳くらいの、随分と年の離れた妹が。
家の前で行き倒れていたらしい。母親みたいな亡骸に抱かれたまま、意識が混濁していたところを花枝さんのご両親が見つけたそうだ。運が良かったな。
父親の暴力が酷くて逃げて来たと教えてくれた。
名前は百合花。僕に下の兄弟がいた事はない。仲良く、出来るかな。
【4年前の日付】
―月—日
百合花が子猫を拾ったらしい。けれども全く元気が無くて、百合花が悲しそうにしている。
兄さんに相談されたのもあるから診てやったら、酷い感染症を患ってた。この辺で今、野良猫や野良犬が発症しているものだ。特徴的な皮膚の異常があったからすぐわかった。
特効薬を作れるかはわからないけど、預からせてもらった。
―月—日
試作ではあるが薬が出来た。投薬治療を開始する。
感染症自体には効果があるみたいだが、如何せん子猫の体力が少ない。
投薬量と投薬時の猫の状態をもっと観察しないとすぐに死んでしまう。
厄介だな。人じゃないものは体の構造からして違う。
自分の知識不足を痛感する。もっと根本的な部分、構造的な部分から勉強し直そう。
―月—日
皮膚症状が悪化している。排尿障害と反応の鈍化も見られる。おそらく聴力か視力が低下している。触角はきちんと機能しているらしく、撫でると甘えた声で鳴く。食欲があるのが唯一の救いか。もう少し食べやすい食事を考案して、薬も改良しよう。
―月—日
百合花に子猫の様子を聞かれた。逢いたいとも。
皮膚症状の悪化もあって、元気かどうかの判別が僕には出来ない。無責任なことは言えない。酷い様子である事には変わりないので、逢わせるわけにはいかない。それをそのまま伝えざるを得なかった。随分と、悲しい顔をさせてしまったな。
―月—日
猫になつかれた。多分、いや、絶対。
動物に懐かれるのは優しい人だと花枝さんが言っていた。そうなんだろうか。
僕としては必要だから世話をしてやってるだけだ。
でもまあ、悪い気はしないか。治ったら名前を付けてやろう。
何がいいだろうか。生憎と僕は得意じゃない。百合花は一緒に考えてくれるだろうか。
―月—日
すまない。助けられなかった。僕の力不足だ。
苦しまずに、眠るように逝ってくれてよかった。
百合花には兄さんから伝えてもらった方がいいだろう。
―月—日
使用人達の間で、百合花の猫を僕が投薬実験で殺したと噂が立っているらしい。
間違ってなんてない、僕が殺した。助けられなかったものは、殺したも同然だ。
兄さんと花枝さんがかばい立てしようとしてくれていたけど、丁寧に断った。
いいんだ。あれは僕としても忘れたくない、忘れちゃいけない出来事だから。傷を抉るぐらいの、悪意に塗れた棘で刺された方が、いっそ楽だ。
【3年前の日付】
―月—日
薬品には触るなと言ったのに、あの使用人め。
割れた薬品同士が化学反応を起こして大火傷をしたらしい。
薬品の処理がある。すぐに兄さんに頼んで病院に運んでもらった。薬品棚の鍵が壊れかけていたのに、忙しさにかまけて放置した僕の落ち度か。ついでに薬品棚の新調も頼んでおいた。
―月—日
使用人から謝罪の言葉を送られたが、そんなものより自分の身を案じろ馬鹿が。
綺麗に治せるかはわからないが、火傷の薬の開発の為に被検体になってもらった。
―月—日
顔に多少の跡は残ってしまったか。
それでも綺麗になったと喜んでいたようだし、まあ良しとする。
火傷の際に神経組織も傷付けたのか、手指の動作困難も見られる。あれでは細かい仕事は無理だろう。失明しなくてなによりだけど、そこを改善できなかったのは僕の落ち度だ。謝罪代わりに別の仕事を紹介した。
【3年前の日付】
―月—日
兄さんが家を継ぐことが正式に決まった。
わかっていたけどね。わかっていても釈然としない気持ちがある。
父さんから言われたのは、兄さんには人を惹きつける力と導く力があって、僕には何かをやり遂げる力と人を支える力があるらしい。実質、二人で当主みたいなものだから、これからも二人で会社を支えていって欲しい、か。虫がいいな。でも、二人で当主ね。それを聞いて少し安心した自分もいる。その安心で自分を納得させよう。
【2年前の日付】
―月—日
会社同士の親睦会に付き合わされた。昔から、僕は華があるからとお飾りで付き合わされる。最悪だ。羨ましがる連中もいるが、僕はこんな見た目に生まれたくなんてなかった。
酒は強くない。兄さんもそれを知ってるから、早々に帰してもらったけど、最悪だ。強いやつを飲まされてくらくらする。帰りの車を待つ間、思わず蹲っていた時に、誰かに話し掛けられた。そこからよく覚えていない。
何か、気付け薬?を貰ったような。わからない。夢だったのかもしれない。
―月—日
胸に変な痣がある。なんだこれ。
念の為、病院に行った。自分でも色々調べてみたけど、特段変わったところはない。
なんだか気分がいい。なんだろうか、昨日の酔いが残っているのか?
―月—日
いつもならなんでもない事に酷く腹が立って、思わず使用人を殴った。
その行動が自分でも信じられなかったけど、どうしてだろうか、気分がいい。
なんでだろうか。わからないけれども、暗闇が晴れたような心地がする。
―月—日
胸の痣が、宝石みたいになっている。
最近、人が変わったんじゃないかと兄さんに心配された。
親睦会の帰りに何かされてないかとも言われたが、わからないと答えた。
わからないものは、覚えていないものは、どうしたってわからない。
人が変わった?以前の僕は、どんな僕だった?
―月—日
今日もまた使用人を殴ってしまった。暴言を浴びせてしまった。
胸が痛い、苦しい。頭も酷く痛い。
何かが流れ込んでくるような感覚がする。なんだろうこの知識は。
冒涜的で不気味な研究レポートや魔術所の類を一気にインストールさせられているような、そんな気分だ。最悪だ。明日、少し休みを貰おう。誰にも部屋に近付けないように言っておこう。
―月—日
呪いや呪いの類は信じていないけど、もしかしたらと思って研究を始める。
僕の中にあるこの知識は、きっとそんなものに近いんだろう。
胸の宝石を何度か抉って取り除いてみたけども、すぐに生えて来る。人面疽のような怪異奇病の一種なのかもしれない。もう少し研究をすればなにかわかるのかもしれない。強力な呪いをかけてみるのもアリだろう。何一つ対処方法がないなら、毒を以て毒を制するまでだ。
―月—日(日付は未記入)
苦しい、痛い。
【ここ数ヶ月前の日付】
―月—日
兄さんと花枝さんが婚約した。今度正式に発表すると伝えてくれた。
いや、前々から二人が互いを思い合っていたのは知っていたけども、やっぱり現実としてそれを突きつけられると駄目だ。失恋で自殺をする人間の気持ちがよくわかる。
祝福の言葉が出なくて、素っ気ない態度を返してしまった。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。祝福しようと思っていたのに、理性じゃなくてもっと根本的な、僕の根幹にある何かがそれを拒否している。祝福の代わりに沸いてきたのは、黒い底なし沼をひっくり返したような最悪で最低な感情だ。飲まれる、溺れる、駄目だ、そんなの駄目だってわかっているのに、どうしてだろう。息が出来ないこの感覚が、酷く、心地いい。
―月—日(日付は未記入)
ああそうか、そうだよね。僕はもう、我慢する必要はないんだ。
壊そう、壊そう、壊そう。全て、全て、壊そう。
僕が何故あんな冒涜的な知識を得たのかが今わかる。この為だ。
全てを使って、壊そう。家も、使用人も、家族も、何一つ、残さず。
―月—日(被害者の失踪日)
| 《はなえさん》
●物に眠る追憶
これはこの醜い化け物への、最初の贈り物でございました。
勝手も作法も何もかも分からぬわたくしに、一人前の庭師となれますようにと願いが込められた、大切な大切な代物で御座います。
花は、水が無ければ生きられません。土が無ければその茎で立つ事すらままならず、太陽が無ければ、その美しい花弁をどこに咲かせて良いかがわからなくなってしまいます。花が花として生きる為には、そのどれもが欠けてはならないと、旦那様は教えてくださいました。
水は花の命の源、それを与える役割をわたくしめにくださったのです。どうかこの庭を、世界で一番のものにして欲しいと、願われたのです。
なんという僥倖で御座いましょうか。なんという誉に御座いましょうか。
然して醜い醜い化け物の咲かせる花など、酷く醜いものになってしまうのではないのでしょうか。そんなわたくしめの卑しい心を諭すように、旦那様は仰います。
『花に瞳はありません。なれど人の心を感じる事は出来ます。綺麗な心を受けて育った花は、それはそれは美しく、愛情を尽くされた花は、それはそれは大きく咲き誇るのです。
人の見た目は心の鏡、さりとていかにその姿が醜くとも、それが人の心の全てを表す事にはなりません。己を化け物と揶揄するあなたの心は、本当に醜いものなのでしょうか。人ならざるそれなのでしょうか。私はそうは思いません。屋敷の人間にどんなに醜いと言われても、嫌悪され、疎遠されたとしても、あなたは決して腐ることなくひたむきに屋敷に尽くしてくれた事を知っています。そんなあなたの心が醜い筈がないと、私は信じて止みません。どうか、あなたの心を見せてください。あなたの花を、見せてください』
わたくしは尽くしました。
雨の日も、風の日も、雪の日も、嵐の日も。
旦那様のおっしゃる通り、心を尽くした花は、想いを込めた花は、こんなにも美しく咲き誇るのでありますね。どこにでもある一輪の薔薇、決して珍しい品種でもないそれは、年々美しさを増し、ついには品評会で最上の名誉を賜るまでになりました。
旦那様は仰います。ほら、あなたの心はこんなにも美しいでしょう。と。
わたくしにとって、この世のどんな最上の名誉よりも、それが何よりの誉、なによりの贈り物でした。いつしか花はわたくしの心であり、わたくしがわたくしである証明となったのです。わたくしはより一層、庭師として励みました。
ある時、お嬢様がわたくしの元を訪ねて来てくださいました。
どうしてわたくしのような化け物の元に、天女のような方がと酷く慌てたものです。
本来ならば、わたくしはこの家の養子として迎えられた身。この方の弟になれた身でも御座います。然して、それは同時に過ぎた幸せに御座います。
わたくしは化け物。醜い化け物。心優しく美しい方々にお心を尽くしていただき、雨風や野党に怯える事無く過ごせる家と、あたたかい布団と、腹を満たせる食事がある。わたくしをわたくしと、醜い化け物ではなく一人の人間として受け入れてくれて仕事もくださる。そんな、それ以上の幸せが御座いましょうか。
さすれど人の欲とは果てしの無いもので、|今日《こんにち》、わたくしの幸せが一つ増えてしまったのです。
貴女の花が好きだと、お嬢様に頂いた言葉が、お嬢様の笑顔が、砂糖菓子の弾丸のようにわたくしの心を射抜いては、甘くもやわく、わたくしの心を満たしてしまったのです。わたくしは愛を知ってしまったのです。
嗚呼、わたくしが絶世の美丈夫であったのなら
この想いを隠す事無く貴女へと捧げられたのでしょうか。
どうしてわたくしは、かように醜い化け物であるのでしょうか。
貴女の姿が、貴女の声が、その残り香が、日に日にわたくしの心を満たしては、悪戯に搔き乱すのです。貴女に想いを伝えたいと、それを受け止めて欲しいと、浅ましい欲が湧くのです。こんなにも醜い化け物の愛など、おぞましいものに他ならないのでしょう。
なによりも、貴方に嫌われて、二度とあの笑顔を拝めぬなど、考えただけでも恐ろしい。
わたくしは化け物。わたくしは庭師。ならばわたくしの出来る事はひとつです。
咲き誇る花の美しさに罪はなく、そこに尽くす心を知る術はない。故に、わたくしの秘めたる思いで貴女様が嘲笑われる事もありませんでしょう。
貴女に花を贈ります。
この庭を、わたくしの想いで埋めましょう。
この庭の花々は、感謝であり愛で御座います。わたくしの想いの結晶に御座います。
どうかこの美しさが、貴女の心を少しでも癒せるものであればいい。
寂しい夜に、泣きたい日々に、心に寄り添えるものであればいい。
そして時にそっと、この花を育てた人間の事を思い返してくれればいい。
いつか貴女が誰と結ばれても、わたくしの事を忘れても、わたくしの想いは、幸せは、揺らぐ事は御座いません。貴女のおかげで、誰かを愛せた事を、誰かを好きになれるという事を、その瞬間のきらめきを知れた事は、今生での最上の幸せに御座います。
貴女の幸せを、笑顔を、その命の尽きるその時まで願いましょう。
どうか、どうか、貴方様が貴女様のまま、心安らかに健やかに過ごされますように。
愛しています——————
不意に、ノイズが混じる。
強い思いに同調するように、それは静かに、言葉となって零れ落ちる。
どうして僕はこんな容姿で生まれたのだろうか。
美しい人。絶世の美男子。財閥の華。
くだらない。僕にとってその言葉は、最早称賛ではなく侮蔑だ。誰も彼もが皆、僕の容姿だけを褒め称える。僕の努力も僕の中身も、何一つとして見てくれない。不機嫌な表情ですら、軽い馬頭ですら黄色い声に塗り潰されて、僕の気持ちなどまるで知らん顔だ。
器だけを褒められる空しさを知っている人間がどれだけいるのだろうか。
顔だけで勝手なイメージだけを付けられて、それを押し付けられる苦痛を知っている人間がどれだけいるのだろうか。
僕を僕として見てくれるのは、家族と、花枝さんだけだ。
いっそ僕がおじい様のように醜ければ、こんな思いはしなかったのだろうか。
兄さんのように普通の容姿であったのなら、花枝さんももっと僕を見てくれたのだろうか。
容姿も整ってて、頭も良くて努力家で、そんな明正さんみたいな方、私には勿体ないくらいだわ。あなたにはもっと素敵な人が見付かるわ。
なんて、そんな告白の断られ方もしなかったのだろうか。
嫌だ、嫌だ、こんな自分、嫌だ。いっそ、醜くなりたい。
人に蔑まれて疎まれて、それでも本当の自分を愛してくれたおじい様のようになりたい。
誰か、僕を、本当の僕を、見てよ———
●バケモノ
満ちる、満ちる、憎しみが、悲しみが。
溢れる、溢れる、殺意が、悪意が。
|『影牢鬼将』翳鬼《『えいろうきしょう』えいき》の出現により、冷たく無機質な地下空間は、一触即発の空気で包まれた。
「明正、さん……?」
花枝の声に、それは答えない。
受肉の産声を上げるかのように、それは高らかな笑い声を上げ続けている。
天高く掲げた両手が、不意に下ろされる。
しゃれこうべの顔が、こちらを向いた。
その目に宿る冷たく不気味な光は、そこに映るもの全てへの殺意に満ちている。
『嗚呼、最高の気分だよ。
力が満ちて来る、溢れて来る、今なら僕の望みが全て叶えられる、そんな気さえするよ』
その声は、幾多の音声が重なって同じ言葉を発しているようだった。
その中に、僅かに、微かに、明正の気配がする。
『手始めに屋敷の人間を壊さなくちゃね……
全部、全部、壊さなくちゃいけないんだ……
さあ、そこをどいてくれ。邪魔立てするなら、君達も———壊す!!』
『MSより
お待たせしております、最終決戦となります。
ビターテイストのお話ではない為、きちんと救いはご用意しております。
明正の事を救いたい方は、今までの情報をよく吟味の上、敵を打ち倒してくださいませ。
他、やりたいことがありましたらご遠慮なくプレイングいただければと思います。
今回で最終章です。どうぞよろしくお願いいたします。』
●開幕
———それは、最悪な産声とも言っていい高笑い。
『壊す、壊ス、壊す、壊す、壊す!!!
何モカも、全テ、全て、全テ、壊れてシまえ!!!』
ごうっと、地下空間全体を猛炎にも似た瘴気が包み込む。
噴出した負の感情群はその禍々しさを具現化するが如く、無数の触手へと成り替わり、ぐるりぐるりと空気を搔き乱すようにして暴れ回る。ちぃっと、舌を打ったのは誰だったか。刹那、空を切り裂く銃声が強かに鼓膜を揺らす。それは意図せぬ合図———決戦の火蓋が、切って落とされた瞬間だ。
「お姉さん、こっち!」
アンナ・イチノセが呆然自失とする花枝の手を引き、地下空間の出入り口へと駆ける。愛銃のモシン・ナガンを片手に、それをロングソードのようにして振り回す。慣れた武器、とはいえ、流石にライフル銃を片手で扱える技量は無い。めちゃにくちゃにとのた打ち回り暴れ回る触手の群れは、まさに壁だった。一瞬にして場を満たした、酷い悪臭にも似た瘴気。隠す事無く放たれ続ける凄まじい殺気は一般の人であれば当てられただけで震えあがってしまうだろう。事実、花枝はすっかりと怯えきって、驚愕の表情のままにその身を震わせ立ち竦んでいるだけだ。それでも無理矢理にでも隙間を潜れば、何とかいけない事も無いけれど。小さく思案して、アンナは足を止める。それはあくまで動ける人間ならばの話だ。
「駄目、進めない。お姉さん、わたしから離れないで!!」
素早く愛銃を構えて、迫り来る|触手《ソレ》を迎撃する。
じりじりと後退するように距離を取れば、同じく銃を構えて牽制の体制を取っていたクラウス・イーザリー、刀を構えた|天國・巽《あまくに・たつみ》の姿が視界の端に映る。背後に感じる気配は、ああ、もう一人のものか。
「ちぃっ!こう狭くちゃ動きも儘ならん!!」
「だね。だからって、そう簡単に外に出させてはくれないみたいだけど?」
|使用人《美人メイド》の姿から元の姿へ。
次いで自らの腕を異形のものへと変化させた|赫夜・リツ《かぐや・りつ》が、ちらりと後ろを覗き見た。
蠢く触手群が、まるで林や森のように有象無象とそびえては地下空間の入り口を塞いでいる。それは|木蔦 明正《きづた あきまさ》の、いや、|『影牢鬼将』翳鬼《『えいろうきしょう』えいき》の言葉無き主張だった。四方八方から這い寄り飛び交うようにして襲い来る触手群は、ここにある全ての命を刈り取らんとしている。
ひゅんと音も無く閃く刀の残像が、複数の触手を一気に切り裂いた。然してその攻撃をけたけたと、嘲笑うかのように触手が倒れ伏した瞬間、それよりも固く巨大な|触手《ソレ》があっという間に姿を現す。
「キリがねぇな、クソっ!!」
「厄介だね。倒してもすぐ別の触手が生えて来る。しかも、こっちの攻撃を受けて学習までしてる、か……下手に攻撃するだけじゃ悪戯に数を増やすだけかもね」
「だな。だからと言って耐久戦は勘弁願いたいがな……」
「それはわたしもかな」
誰とも言わずふっと息を吐いた瞬間、胃に巨大な鉛玉を詰め込まれたかのような自覚したくも無い疲労感を覚える。現段階で、体力を消耗していない人間はここに居なかった。特に、先の戦いで最前線にいたアンナとクラウスのそれは重く、既に肩で息をし始めた二人に、無理をするなと天國と赫夜が促した。そうこうしている間にも、ずる、ずると触手の壁は迫り来る。
「分が悪ィ」舌打ち交じりに天國が触手を切り裂く「全くだよ」赫夜が異形の腕———|荒れ狂う剛腕《アレクルウゴウワン》でそれを殴りつける。二人を援護するように、アンナとクラウスは銃声を響かせる。
「せめて奴の懐に飛び込めれば……」
「よしとけ。下手したら今度は腕だけじゃ済まねぇぞ」
「ちっ、|この壁《触手共》を何とかするのが先か……」
距離にして僅か数メートル。
壁さえなければすぐさま懐へと飛び込んで、首でも掻き切ってやったのに。
思わず眉間に皺が寄る。ふと、触手に集中していた意識を翳鬼へと向けた瞬間、クラウスは大きく目を見開いた。翳鬼が、大きく掲げたその両手の間に、凄まじいエネルギーの塊を生み出していたのだ。
「ちぃっ!!」
クラウスが弾丸を撃ち放つ。気が付いたアンナも、同じく弾丸を撃ち放つ。
阻もうとする壁は、天國が、赫夜が、その全力と全身でもって打ち払う。
然して怪異の体に弾丸が届くよりも早く、翳鬼がエネルギーの塊を投げ付けた。それは轟々と、あの猛炎のような瘴気を薬莢に、怨念と怨嗟と、あらゆる負のエネルギーを火薬に撃ち放たれた大砲だ。弾丸を飲み込み、自らの触手をも飲み込み、一切の情けも合切の慈悲も無く、それはこちらへと向かって来る。
「みんな、伏せて———!!!」
赫夜の声が、直後の轟音が、目を焼く眩しさと共に、響く———。
●静かなる決意
駆ける、駆ける、駆ける。
切れる息も構わず、更なる疲労が全身を蝕むのも構わず、|見下・七三子《みした・なみこ》と|渡瀬・香月《わたせ・かづき》は地下へと続いているであろう倉庫跡へとただひたすらに足を急がせていた。
二人は知ってしまった。明正の行動の裏に遭った事実を。この事件の黒幕が別にあるという事を。ある意味で、知りたくなかった事実かも知れない。単純に彼を滅するだけで終われば、いっそどれほど楽だった事か。それでも、
「早く……早く伝えなくちゃな!」
「ええ!全部が手遅れになる前に急がないと!!」
目の前には、着いて来いと言わんばかりにあの子猫が駆けている。
もう、クラウスのレギオンは無い。小休憩とも言えるあの時間で、体力温存の為に一時的に消したものかと思っていたけれども、これだけ時間が経っても一向に姿を現す気配が無い。もう必要ないと判断されたか、それとも、出せない要因があるか……。おそらくは後者だと踏んだ渡瀬は、再びゴーストトークで子猫を呼び出したのだ。「屋敷が広すぎる、道案内してくれ」と。
「なんか、凄い禍々しい気配に近付いてるかんじがするんですけど?!倉庫の皆さん、大丈夫ですかね?!!」
「わかんねぇけど、そうだと信じよう!子猫ちゃん、悪いけどもっと急いでくれ!!」
「にゃあっ!!」
こんな状況でなければ、思わず頬を綻ばせていたかもしれない。任せとけと言わんばかりにきりりと表情を引き締めた子猫に、二人もうっかり和みそうになった表情を引き締める。直後、速度を速めた子猫が巨大な瓦礫の角を曲がった。見失わないように二人も足を急がせた時だ。
「わわわっ?!!」
「っ?!」
自分達とは反対側からやって来た影に、ぶつかりそうになってしまったのだ。
条件反射というかなんというか。大慌てで「すすすすすみません!!ちょっと急いでまして!!お怪我は無かったですか?!!!」と見下が勢いよく頭を下げる。子猫が何やってんのと言わんばかりに短く鳴けば、その直後、聞き慣れた声が聞こえて来た。
「あら、見下さん、と、渡瀬さん、じゃない」
「え?……柏手さん!それに、シアニさんとリリンドラさんに、義明さんまで……!」
互いにぱちりぱちりと目を瞬かせ、次いで軽い会釈を交わす。
見れば、柏手・清音も、シアニ・レンツィも、リリンドラ・ガルガレルドヴァリスも、|木蔦 義明《きづた よしあき》も、誰もが息を荒げていた。有象無象の怪異集団であった、とはいえ、第三者を守りながらの戦いだ。気付かぬ内に、普段の戦い以上の疲労は蓄積しているらしい。特にかなりの竜漿を消費したリリンドラの疲労は酷く、シアニに肩を借りるようにして足を進めていた彼女は、その動きを止めた瞬間、大袈裟な程に体を揺らした。
「だ、大丈夫かリリンドラ、お前ふらふらじゃん?!」
「心配ご無用、これくらい平気よ。あなた達も倉庫に向かっていたのかしら」
「え、ええ、そうです。ちょっと、信じられないものを見付けちゃって」
「信じられないもの?」
「あー、立ち止まってる時間が惜しい。少し早足でさ、歩きながら話そっか?」
「ええ、わかった、わ」
こうして言葉を交わしている間にも、禍々しい気配が強くなる。
倉庫跡、いや、その地下では既に戦闘が起こっているのだろう。
のんびりと立ち話をしている暇は、無い。見下が日記帳を取り出して、清音に渡した。足を止めることなく、ぱらぱらと中を覗きながら、そして見下と渡瀬の話を聞きながら、4人はそれぞれの感情を表情として露見させる。
「明正が……そんな……」
そう言って、足を止めたのは義明だった。
目の前に突き付けられた現実が信じられないとでも言うように、彼は愕然と自分の足元を見つめている。頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われたのかもしれない。次の瞬間、彼は縋る様な眼差しで見下と渡瀬を見た。
「嘘、じゃあないんですよね……」
「……はい、その、残念ながら、本当です」
「ああ、俺も確かに見たよ」
「……そうですか」
義明が軽く片手で顔を覆う。
今にも泣き出しそうなのを必死に堪えているような、今にも叫び出したい衝動を必死に抑えているような、いろんな感情が綯い交ぜになって今にも爆発してしまいそうにも見える。義明がぐっと唇を噛み締めたのがわかった。たくさんたくさん苦しんで、悲しんで、それでも気丈に耐えている姿に、どうしてだか、シアニの目にはつい先程の百合花の姿が重なって見える。
「やっぱり家族だね」
「?」
思わずポツリ、言葉を零していた。
酷く優しい声で、どこかやるせなさを覚えるような笑みで、彼女は続ける。
「あのね、あたし思うんだ。苦しい気持ちを隠して一人で抱え続けると、いつか淀んで溢れてひどいことになるって。百合花も義明さんも、一生懸命気丈に振舞おうとしてるけど、明正さんはずっと前から一人でそうしてたのかなって思ったら、みんなよく似てるなって、家族なんだなって思った」
「……家族、か」
義明が顔を上げる。
シアニに肩を預けていたリリンドラが、その顔を見て小さく笑った。
「家族、そうね、家族ね……ねえ義明様、あなたは何を望む?」
「望み、ですか?」
「ええ。わたしは今、|ここ《木蔦》に雇われている身よ。だから、雇用主の願いは叶えてあげる。わたしも思うの。きっとね、あなたの願いは百合花様の、花枝様の、そして明正様の願いよ。きっと皆の意見は一致するわ、短い期間だったけどここにいる人達は皆等しく同じ気風を感じたもの……使用人も、何も関係ない、ここに居る人々は皆、あなた達の家族、そうでしょう?」
「リリンドラさん……ええ、そう、ですね。そうかも、しれません……」
酷くやるせない様子でそれでも義明は笑みを零す。
そのまままた足元へと視線をやった彼は、僕は、僕は、と、何かを確かめるようにぽつぽつと言葉を零して、そしてそっと目を閉じると、その開眼と同時に彼女達を見据えた。
「……僕の気持ちは、変わっていません。明正……アイツは、僕の弟で、大事な家族です。日記の内容を全て信じていいかも今は分かりませんけれども、一人でずっと、こんなにも苦しんでいたアイツを今更見捨てる事なんて僕には出来ない。アイツが何をしたかはまだわかりません。だからこそ、しっかりこの目で見て、それが本当にいけない事ならば、しっかり生きて貰って罪を償わせます。僕の我儘でしかないけれども、死んで欲しくなんてない。自分を見失ってしまっているのなら、取り戻させてやりたい」
「そう……なら、改めて、覚悟をして……明正さんが、どんなことに、なっているかは、知れない。でも、この禍々しい気配、きっと、あなたの、想像以上の事が、待っているわ」
「……はい」
「その覚悟を、無駄にしないように。後悔しないように、あなたが声を届けるのよ……義明さん」
義明が静かに頷く。その目には、まだどこか不安が揺蕩っている。
「僕の声が、届くと良いんですけど……」
「大丈夫、届かせてあげる。あなたの正義は無駄にしない。わたしに考えがあるの。明正様がどんなことになっていても、彼が彼であり続けようとするのならば、それが本人の意志でなく外部的な要因で齎されたものならば、きっとまだ、間に合うから」
それは、どこかで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
この禍々しい気配とこの悍ましい空気から感じる、人ならざる者———怪異の存在。
これに一抹の不安を覚えない人間はここにはいない。けれども、その暗い靄を振り払うかのように、見下が声を上げた。
「それなら、この不肖元・下っ端戦闘員、リリンドラさんが全力をお出しできるように、全力でサポートさせていただきますね!」
「うん、そうだね!あたしも頑張るよ!!」
「ええ、私にも、任せて頂戴……あなたも、義明さんも、必要あらば、身を挺して、守るわ」
「おいおい、美人にそんな事させる前に、体を張るのは男の仕事ってな!俺も協力するから、五つ星レストランにでも来たつもりでどーんと任せとけよ!!」
「みゅう!」
「お、そうだそうだ!お前もいたな!」
凛々しくぴんと尻尾を立てた子猫に、またうっかり和んでしまいそうになる。
綻ぶ頬をそのままに、然して子猫の存在に、あれ?と、義明が小首を傾げた時だ。
「「「「「「!!?」」」」」
あの倉庫跡から聞こえた轟音。
6人は意図することなく顔を見合わせると、静かに頷き合い、駆けた。
●一筋の希望
ざく、ざく、ざくと、足音が聞こえる。
真上から吹き付ける風は、降り注いでくる嫌みな程に天晴な太陽の光は、ああ、天井が吹き飛ばされたのだろうとその場にいる誰も彼もに確信させた。
体の感覚が酷く遠い。ただでさえ重い疲労感が、更なる質量を伴って体全体に圧し掛かっている。一瞬でも気を抜けば意識を持っていかれてしまいそうだ。今日何度目かも知れないそれにデジャブを覚えつつ、クラウスはその身を横たえたまま片手を抑えた。体の形も、感覚もある。五体満足、か……なによりだ。けれども、その利き腕の拳は、焼け焦げたようにズタズタだった。
あのエネルギーの大砲が当たる直前、咄嗟に展開した能力——— ルートブレイカー。それによって、エネルギーの大半を無効化した代償がこれだ。咄嗟に貼ったシールドの甲斐もあって、命があるだけ御の字だが、暫くは使い物にならないかもしれない。
そうだ、他の奴らは、どうした……?
小さく呻き声を上げて首だけを動かせば、自分の後ろには天國が呻き声を上げて倒れ伏し、そして、少し離れた場所では怪異の腕が肉片のようになった赫夜が意識を失っていた。彼の後ろには、アンナと花枝が同じく意識を失ったまま倒れている。おそらく、無効化しきれなかったエネルギーから二人を守らんと、赫夜が庇ったのだろう。三人の胸が、薄く上下する様に小さな安堵を覚えれば、再び聞こえる、ざく、ざく、ざく、という足音。
顔を上げる。刹那、息を飲んだ。
『花枝サン……』
そこにいたのは、翳鬼だった。
まるで自分達など眼中にないとでも言うように、それは花枝の元へと歩み寄ると、あの不気味な触手で彼女の体を巻き取り、静かに持ち上げる。彼女の瞼が静かに震えた。うっすらと意識は戻りつつあるのだろう。その糸をゆるゆると手繰り寄せるように翳鬼は語り掛ける。
『ネェ、花枝サン、花枝さん、コノ姿ナラ、君ハ僕ヲ見テクレル?愛してくれる?』
「うっ、うぅ……明正、さん……?」
薄く瞼を空けた瞬間、花枝の顔が驚愕に染まる。
怯える彼女を見つめたまま、ぼおっと、翳鬼の瞳が負の感情とは別の色を宿して光った。
『……そんなわけないよな。
君ハ、兄さんを愛してる。兄さんも君を愛してる。それはもう揺るぎない事実なんだ。
僕と兄さん、どちらが先に君の事を好きになったのかな。
おじい様のように一人と一人で出会えていたら、僕の事、愛してくれた?
……そんなわけないよな。おじい様がおばあ様と出逢い、愛し合う事が運命付けられていたとしたのなら、君と兄さんもまたどこかで出会ってまた恋に落ちていたんだろうね。
わかるよ、だって、僕だってあの庭を作り上げた人間の、誰よりも深い愛情で人を想い続けた人間の血を引いているんだ。愛の重さも、恋の儚さも、その痛みも……そんな馬鹿馬鹿しい刹那の感情も知ってる。
わかってたよ、わかりきっていたさ、でも、諦めきれなかったんだ。
だって、君が、君だけが、僕を見てくれた。家も立場も何も関係なく、姿形に囚われもせず、僕を一人の人間として見てくれた。家族以外の唯一無二の存在だったんだ……』
「明正さん……」
『……恋という名の庭に咲くは愛という花に御座います。
一度芽吹いてしまったそれが花開き咲き誇るのは、例え神であっても止められはしないでしょう。色もとりどりの感情が、まろい輪郭と柔いしあわせと、時折ひとかけらの醜悪さを孕んでは溢れて、溢れて、溢れて、いっそ呼吸を忘れ溺れてしまう程に溢れて、わたくしの胸は貴女で愛で満たされ咲き誇るのです。もう、貴女の微笑み無しには生きられぬ体になってしまった。貴女の存在がわたくしの生きる意味となってしまった』
「それは、あなたのおじい様の……」
『そうダヨ。おじい様ノ、言葉。でも、僕にはおじい様のようにはアレなかった』
「っ?!」
直後、花枝の体が弓を折るようにしなった。
めきめきと骨が軋む嫌な音が、母音だけを吐き出すか細い悲鳴が上がる。
「ぁ。あき、ま、さ、さん……っ?!」
『嗚呼、嗚呼、嗚呼、こんなにも浅ましいわたくしをお許しください。
分不相応な身で生涯を掛けて貴女を愛する事をお許しください。
もしも、仮にもしも許されるというのであれば、|花枝サン《貴女を》——— |壊して、壊して、壊シテ、一つニなりタイ《幸せにする権利をください》』
「ぁ、ぐ、ぁぁぁ……っ!!」
花枝が大きく目を見開く。開け放たれた口から赤い鮮血が零れる。
目の前で、命が、握り潰される———
「花枝さん!!」
声の限りに叫んで、拳銃を握った。
ズタズタになった拳の痛みが、どうしたって照準を僅か、ずらす。
悪戯に鉛玉を吐き出すだけの銃口に舌を打つ。ならばと力を振り絞って呼び寄せたレギオンが一斉にビームを照射した瞬間、クラウスの周りを取り囲むように、再びあの触手群が姿を現した。
「なっ」
『サッキカラ鬱陶シインダヨ……邪魔ヲスルナッテ、言ッタダロウ』
言葉を合図に、その暴力的な質量がクラウスを叩き潰さんと一斉に襲い来る。
駄目だ、今、俺が死んだら———
周囲にはまだ、動けぬ仲間達が倒れ伏したままだ。
触手に囚われた花枝は、このままでは確実にその命を散らしてしまう。
死は、怖くなかった。なぜなら自分は√能力者。死んでも死ねない、死を許されない体の人間なのだから。
でも、今は、駄目だ。まだ、駄目だ。ここで俺が死ぬわけには。
見上げた触手の壁、青空が覆い隠される。目の前が、真っ暗に、
——— ヒュンッ
一陣の鎌鼬が通り過ぎた。
一瞬の間を置いて、固いものを切り裂く様な音が、鋭い金属音が鳴り響く。
真っ暗に染まりかけた視界がまた、空の青さで塗り潰される。
ばちばちと、小さな雷鳴が聞こえた。
それは教科書のように綺麗な綺麗な、いっそ、神経質過ぎる程に美しい文字の羅列が作り出す、|光の剣《オーラソード》。くるくると不規則に漂いながら、淡くも強い光の文字でもって作られたそれを構えて立つのは———渡瀬だ。言葉を発する間もなく、彼はすぐさま腰を落として、踏み込む。鎌鼬がまた、通り過ぎる。
刹那、花枝の体が宙に投げ出された。落下する彼女を受け止めるのは、その両の目を黄金色に輝かせた清音だ。着地の瞬間を狙った一撃を銃でいなしながら、清音は素早く翳鬼と距離を取った。
『チィッ、次カラ次ヘト……!!!』
翳鬼が両手を振り上げる。
ばちりとその間で生まれるあのエネルギーの塊を、一刀の下で切り伏せたのは渡瀬だ。させねぇよ!と声を荒げ、次々と剣技を繰り出していく。電子音にも似た光の残響が、翳鬼の体とぶつかり合い、鍔迫り合い、火花を散らす。
「わ、たせ……」
「よぉ|カッコ付け野郎《クラウス》、お待たせ!」
にぃっと歯を見せて笑ったのも一瞬、渡瀬はすぐさまその目を鋭く細め、その場から飛び退く。直後、鋭い岩のように隆起した触手が地面を割った。それを皮切りに、次々とひび割れた地面から、鋭利な触手が付き出してくる。鬼さんこちらと言わんばかりに渡瀬が翳鬼の目の前を駆け回る。今の内に逃げろと目配せする彼にクラウスは小さく頷く他なかった。
カッコ付け野郎は、どっちだ、ばーか。
渡瀬の怒声が聞こえる。空を切る音、ぶつかり合う火花。
時折地震のような揺れを起こしながら、蠢く触手群がまた、次々と徒党を組み、一枚岩とも壁とも、鋭い串ともなって襲い掛かって来る。溢れる瘴気は留まる事を知らず、このままでは屋敷全体を覆う程だろう。目下、地下空間だった場所には完全な安全地帯と呼べる場所は存在しなかった。死角を探して、崩れかけた階段の側で身を寄せ合うようにして、清音、見下、アンナ、天國、赫夜、シアニ、リリンドラ、クラウス。そして義明と花枝の姿がある。
孤軍奮闘する渡瀬の姿を、そして、禍々しい力を揮う翳鬼の姿を眺めながら、口を開いたのは見下だった。
「あの化け物は一体……それに、明正さんはどこに……」
「アレが明正だよ……」
軽く頭を抑えながら、天國が口を開く。
どうやら、あのエネルギーの塊によって吹き飛ばされた彼は、どこかで強く頭を打ち付けてしまったようだった。まだ若干意識のふらつきがあるのだろう、畜生不甲斐ねぇと零す天國の側では、シアニがあのミニドラゴンを召喚して傷の手当てを行っている。
「あれが、明正……」
「そうよ。っ、あれが、明正さ、?!ごほっ!ごほごほごほっ!!」
「花枝さん、無理をしないでください」
真っ青な顔に強い悲壮感を孕ませた花枝の体を義明が支えた。
固く目を閉じて、どうして、どうしてと呟き俯く彼女には、未だ、目の前で起こっている事を現実と受け入れ切れていないのかもしれない。ふっと、清音が息を吐いた。装填の終わった拳銃を片手に、彼女はゆっくりと戦場へ足を向ける。
「日記の内容が、最悪の、結末を、招いたのかも、しれないわ、ね……」
「日記?なんのことだ?」
「シアニさん、説明を、お願いしても、いい、かしら?」
「あ、う、うんっ!治しながらでいいなら……清音さんは、どこへ?」
その言葉に、清音は柔らかくも強く微笑む。
「そろそろ、私も、体を張らないと、ね?殿方は、もう、限界みたい、だから」
「それなら私も行きます!シアニさんとリリンドラさんは皆さんをお願いしますね!!」
「ええ!」「うんっ!」
「……気を付けろ、あの触手、ぶっ壊される度に俺達の攻撃を学習して強化してきやがる。下手にぶっ壊せば相手を強くするだけだ」
「わかったわ」「了解です!」
清音と見下が顔を見合わせ、頷き、駆け出す。
直後、「うっ」という小さな呻き声を上げて、赫夜とアンナが重い瞼を持ち上げた。すぐさまシアニがミニドラゴンを治療へと寄越す。幸い、アンナには大した怪我はないようだ。
「ぅ、赫夜さん、ごめんね……ちょっと、無理、させちゃったかな」
「気にしないで。無事で良かった」
「でも、再生にはだいぶ時間がかかりそうね……酷い傷……」
「これだけで済んだと思えば安いよ、完全に千切れたり壊れた訳じゃないしね……リリンドラさんもかなり消耗しているみたいだけど」
「ええ。情けないけれども、剣を振るのもやっとかもしれないわ」
黒竜に変身した代償が、あまりにも重く圧し掛かる。
使用人達を守る為に行った事だ。勿論後悔はしてないけれども、
「もう少しだけ力の使い方をコントロールしなきゃ駄目ね」
「コントロールが上手過ぎて、無茶ばっかするよりいいと思うよ」
ちらり、と、アンナがクラウスの方を見た。
仲間の無事に安心したのか、それともとっくに限界を迎えていたのか、彼は今、目を閉じて静かにその身を横たえている。まだ、意識はあるのだろう。うっすらと目を開け、何か言いたそうに怪訝な視線を向けたクラウスに、申し訳ないながらも安心してしまう。
然して、その安寧も束の間で。刹那に上がった翳鬼の咆哮が、激しい振動となって空気を揺らす。3人が上手く立ち回ってくれているのもあり、まだこちらには気が付いていないようだが、それも時間の問題だろう。一瞬たりとも気が抜けない。
禍々しい力を振るい続ける翳鬼に、リリンドラが言葉を落とす。
「アレは、明正様なのよね……」
「そうだよ。僕らの目の前で、彼はああなった……」
「そう」
きゅっと、口を噤む。
そのまま静かに目を閉じて、次の瞬間、リリンドラが静かに瞼を開く。
ゆっくりと、その視線が見据えた先にいたのは、義明だった。
「わたしはね、義明様、この家が、この会社が好きよ。
人を常に思いやって、尊重して、尊敬して、とても大切にしている素晴らしい場所だって思う。人の縁を大事にし、善性を信じたからこそ木蔦が4代まで続いてきた事が分かるわ。『社員を知る事は会社の為、人を知る事は社会の為。人が作る社会であるならば、人を蔑ろにするべからず』。その社訓は会社の信念、会社の正義。意図せずとも、あなた達はこれを守り、貫き通そうとしている。だから、わたしはそれに応えたい」
その瞳の中に宿る、竜の紋章。
強く、強く、そして何よりも真っ直ぐに輝くその光は、彼女の決意の強さを表しているようだった。片手をそっと広げるようにして目の前に翳す。手の中に生まれる光は、瞳のそれと同じものだ。
「わたしの中に残った|竜漿《チカラ》は少ないけれども、それでも、全力を尽くさない理由は無いから……!!」
わたしの正義を、思いを形に!
具現化せよ! ———|正義希求《スベテノモノニスクイヲ》
煌々と、手の中の光がその輝きを増した。
白く、白く、何処までも純粋な想いを反映するかのように輝く光は、徐々に徐々に、竜の形を作り上げていく。それは、|運命を司る白き竜《シックザールドラゴン》。まるで光の卵から羽化するようにその翼を広げ、その白き竜は顕現した。
『ようリリンドラ!なんだァ?随分とへろへろじゃねぇか、ちょっと見ない内に随分と弱っちくなったなぁ!!』
「久しぶり、シックザール。悪いけど、無駄話をしている時間は無いの。此方の都合で申し訳ないけど、ちょっと困り事よ。正義のわたしでは出来ない事も運命を司るあんたにならできるでしょ?」
『おうおう、随分と随分な困り事ってか?まあ任せときなよ、んで?お望みは何だ?』
「あれよ」
リリンドラの指差す先にいたのは、勿論、|翳鬼《あきまさ》。
「あの怪異を、元の人間に戻して欲しいの」
「ふーん、ナルホドナルホド……?」
呟きながら、シックザールが翳鬼を凝視する。
片手を口元に当てるようなその仕草は、酷く人間的であるにも拘らず、その眼は一切の感情も合切の思考も読み取れそうにない。うーん、と、頭の痛そうな呟きを前置きに、シックザールは口を開く。
『悪いがありゃあ無理だよ。なんせまだ、怪異としての魂が残り切ってら。
人間に戻してぇってなら、人間の部分だけ残さなきゃなんねぇ。
ありゃあしぶといぞ。怪異としての部分が残っている限り、何度だって蘇っちまう。
こと厄介なのは胸の……なんだ、宝石かぁ?あれが怪異の力を増幅させてやがるな。
怪異の部分を殺して殺して殺しまくった上でアレの浄化をしなきゃ、その願いはきけねぇ』
「浄化した上で人間に戻せないの?」
むっと頬を膨らませるリリンドラに、シックザールはちっちっちと、人間で言う人差し指の部分をリズミカルに揺らす。
『そいつァは駄目だよお嬢ちゃん。俺様の出来る事は、ひとつだけ願いを叶える事、だ。悪いが、浄化をする、で、ひとつ。人間に戻す、で、ひとつ願いを使うぜ?』
「なによ、久しぶりに会ったんだから、それくらいサービスしなさいよね」
『あのなぁ、俺様も慈善事業じゃないんだよ。悪いがそこは出来ねぇ相談だな。
そもそも契約と制約って言葉を知ってるか?ひとつだけ願いを叶えるって言う契約は、同時に叶えられる願いはひとつだけだって制約を負っている事になるんだ。その制約のおかげで何でも願いが叶うミラクルでウルトラでアトミックダイナマイツなパワーが使えるってのに、それを破っちまったらそれすらも出来なくなるんだよ。願いが叶えられなきゃ俺様の存在意義そのものがねぇ。本末転倒って奴だ。わかるかい?』
「あっそう、もういいわよ。わかったわ」
膨らませた頬から不満げに息を吐き出して、リリンドラが腕を組んだ。
「つまるところ、こっち側で殺して殺して殺しまくって浄化をすれば、元の人間に戻してくれるって事でいいのよね?」
『おう、その通りだ。足りない頭で良く理解したなぁ、偉いぞ!花丸を上げよう!!』
「あんたねぇ……今度、覚えていなさいよ……」
もしも万全の状態だったら、大剣の一撃でもお見舞いしてやったのに。
腕を組んだままフンッとそっぽを向いたリリンドラに小さく苦笑しつつ、「リリンドラさん」赫夜が声を掛ける。
「浄化なら、僕が力になれるかも」
「本当?」
「うん、そのドラゴンさんより強力な力ではないけど、それでもないよりマシって感じかな」
いててて、と声を零しながら、今度は赫夜が片手を静かに翳した。
「ヒイちゃん、力を貸して」
———|緋色の舞《ヒイロノマイ》
ひらりひらりと燃え揺らめく炎のように、神聖な炎を纏いて舞う踊り子のように、その蝶は顕現する。邪気を払う炎の蝶、その羽は物質としての確固たる形は成さず、不定形に揺らめく焚火のようなものでもって形作られているようだ。羽ばたく度にきらきらと降り注ぐ鱗粉は、光の粒とも火の粉とも似ている。それが赫夜の呼びかけに答えるようにちょこりと指先にとまる。
「この子には浄化の力があるんだ。シアニさんが説明してくれた日記の、なんだっけ、宝石?だっけ?それに憑依させて内側から一気に浄化すればいけるんじゃないかなって」
「なるほどね」
「ただ、憑依するにはそれなりに相手を弱らせてからの方がいい。万が一憑依に失敗すれば、あの触手の使い手だ、対策されてしまうだろうからね」
「そうね」
リリンドラが静かに頷いた瞬間、
「するってぇとなにか?」
世っという掛け声と共に豪快な動きで起き上がったのは天國だった。
片手を刀に添えつつ、もう片手では世話になったなと言わんばかりにミニドラゴンを撫でている。その穏やかさとは裏腹に、彼の瞳は殺気とも呼べる鋭い光が宿っていた。
「リリンドラ、俺達のやる事は、要はアレを殺して殺して殺しまくりゃあいいんだな?」
「ふっ、ええそうよ。殺して殺して、殺しまくって頂戴!そうすればきっと、明正様は助かるから!!」
「はっ、了解だ!!!」
にやりと口の端を吊り上げて、天國は戦場へと舞い戻る。
触手の壁を逆に足場にでもするかのようにぐるりぐるりと駆け上り、跳躍。上空で抜かれた刀が三日月の様な残映を描き、そのまま力強い上段の構えへとなって翳鬼へと斬りかかる。
———肉と骨が一気に叩き切られる強かな音。片方の腕を切り裂いて、それでも天國は静かに舌を打ち鳴らした。
「ちっ!流石に首を一刀両断ってわけにゃあいかねぇか」
「ふふふ、随分と、張り切っている、のね」
「ああ!みっともねぇ姿を見せた分、きりきり働かせてもらわぁ!!」
「そう。それなら、私も、全力で、サポートさせて、もらうわ……声、聞こえていたの。殺して殺して、殺しまくるん、でしょう?」
黄金色の瞳を輝かせ、清音は妖艶な笑みを零す。
「面白そうな、賭け事は、好きよ……?」
「へっ、俺も危険な匂いのする女は嫌いじゃねぇな。その賭け、俺も乗った!!」
同時に地を蹴る。
閃く太刀筋、響く銃声。
勢いを増したその攻撃に、翳鬼が盛大な舌打ちを鳴らす。
「っ、はぁ、は……っ、見下!俺達も……っ!」
「ええっ!私達も行きますよー!!まだ倒れないでください!ええっと!!えいえいおー!……、です!!」
言葉と共に、見下の体から不可視のケーブルが伸びる。
協調の思念、団結の力、それらを凝縮したケーブルが、仲間達へ力を与える。
「あたしも、まだまだ全然頑張れちゃうんだから!!行くよミニドラゴンちゃん!!」
「ピイ!!」
駆け出していくシアニに笑みを零しつつ、赫夜はそっと隣を見た。
「アンナさん、君は無理しない方がいいんじゃないかな」
「気持ちは嬉しいけど、そういうわけにはいかないなぁ」
愛銃を静かに構えて、彼女は狙撃の体制をとっている。
「わたし、狙撃にはちょっと自信があるんだ。あ、でも、あんまり頻繁に撃ち込むとこっちの居場所がバレて危ないから、ここぞという時に撃ち込ませてもらうよ」
「そっか。頼もしいな」
「うん、頼りにしていいよ。言ったでしょ?こう見えて修羅場は潜って来てるの。一般人だけど舐めないで」
その目は真っ直ぐに敵を見据えたまま、アンナは小さく口元を緩める。
側には、|特殊弾生成小箱《とてもだいじなもの》が鈍く輝いていた。
●光
迷いが人の動きを鈍らせる要因ならば、
希望の光は人に力を与える要因なのだろう。
明正を助けられる。
その希望の光は、確かな力となって溢れ出す。
最早彼らに迷いは無い。仲間の言葉を、尽くす力を、ただ、信じればいい。それだけだ。
「単純明快、まことに結構!やりやすいったらねぇよ!!」
地を蹴り、壁を駆け抜け、時には触手にぶら下がる様にして、縦横無尽に天國は駆ける。閃く太刀筋は、三日月と不可視———霊剣|天地《あめつち》の二刀だ。自らの能力・|帰神法 応龍《キシンホウ・オウリュウ》によって力を得た彼は、目にも止まらぬスピードで一度、二度と、翳鬼の、怪異の魂を屠ってゆく。然してその肉体は決して傷付けず、霊体怪異を的確に斬り裂く彼には、明正への確かな気遣いがあった。
『貴様……!!』
「悪いな、明正。日記読ませてもらったぜ?どうやら俺もお前を決めつけてた、すまねぇ!人には人の理由がある。人には人の想いがある。ならばこそ、俺はお前を止めさせてもらう!!」
居合の構えから放たれる一刀が、翳鬼の体を、その精神を横一文字に切り裂く。
途中、ガキンと硬いものが当たった。これがシアニの言っていたであろう日記の宝石だろうか。翳鬼の瞳とよく似た不気味で禍々しい色と輝きに溢れたそれは、渾身の一撃で切りつけたにも拘らず、その石は、欠ける事無く傷一つも無く翳鬼の胸部と一体化するように存在している。
「流石にそう簡単に壊れる代物じゃねぇか」
「そうね。なら、攻撃あるのみ、よ」
黄金色の残響を残して清音が駆ける。
天國にも負けぬ速度で触手の壁を掻い潜り、至近距離からの連続射撃で宝石を撃つ。しかしてやはり、ひび割れる事も無いそれに軽く舌を打ち鳴らせば、死角からの触手の一撃が彼女を襲った。鋭く尖った先端に、あわや目が貫かれるその時。
「清音さん!!!」
シアニの大槌が豪快な音を立て、複数の触手ごとそれを薙ぎ払う。
その隙に素早く飛び退き、清音はシアニと背中を合わせるような形で銃を構える。
「ありがとう、助かった、わ」
「どういたしまして!お庭の時もこうやって戦ったね!」
「ええ、そうだった、わね」
二人の脳裏に、あの健気な少女の顔が思い浮かんだ。
使用人達はあなたの心からの笑顔が見たいと、そう説得したのは自分だけども。その言葉はそのまま、シアニの気持ちだ。清音の気持ちだ。
「百合花の為にも、負けないよ、絶対に!」
「ええ」
二人は同時に、然し別々の方向へ飛び退く。
大槌を振るいながら、シアニは声を上げた。
「明正さん!あなたの言葉を、不満を、悲しみをちゃんとあなたの言葉で聞かせて!!
化け物の言葉なんかじゃない!あなたの言葉!!もしかしたらもう、最後かもしれないんだよ!!?」
『ダカラドウシタ!!!ソンナモノ不要ダ!!!!』
「そんなこ……きゃああああ!!」
地面から突き出た触手が、シアニの足の甲を貫いた。
体勢を崩した彼女を狙って、再び地面にひびが入る。
銃声がした。分厚い肉をぶん殴る拳の音も。シアニを貫いた触手を清音が打ち砕き、間一髪、難を逃れる。転がるシアニへ追撃しようとしたそれを見下が殴りと蹴りのコンビネーションで吹き飛ばす。尚も攻撃の手を休める事無く腕を揮う翳鬼の懐に、ひとつ、影が飛び込んだ。
「……誤解されやすい人って居るよな」
光の剣が電子音にも似た残響を残して振り下ろされる。
「伝えないのが悪いって言ってしまうのは簡単だけどさ。世の中、伝えたいことをきちんと伝えられる人間がどれだけいるんだって話だよ。アンタだって、誰かに伝えられないくらい他人からの印象と自我の板挟みで悩んでたんだよな」
息は、とっくの昔に上がり切っていた。
本当は、言葉を紡ぐのも苦しい。体を動かすのも嫌だ。上手い料理を作って、それをたらふく食って、ぐっすり眠ってしまいたい。けれど今、そんな自分の願望よりも優先させなきゃいけない事がある、伝えたい言葉がある。
剣を振る。これは彼の言の葉の結晶、この光は、彼の気持ちの輝き。
そこに何一つとして嘘はない。だからこそ感じるのだ。深い深い悲しみと苦しみと、けれどもそれを包んで抱き締めようとする強さを、優しさを。
『同情スルトデモ言ウノカ?!ソンナモノ、僕ニハ』
「するわけないだろ!!同情なんかじゃない!!ただ、アンタ知ってたはずだ。誰がどう思おうが家族はアンタを知ってるし、何よりアンタがアンタを知ってる。そんな呪い染みた力無くったってやっていけるってのを自分自身が知ってるはずだ!!」
いつだって自分が居る。そう叫ぶ渡瀬に、一瞬、翳鬼の瞳の色が変わる。
けれどもそれは本当に一瞬で。すぐさま煩わしいものを振り払わんと振られた腕が、オーラソードとぶつかり合った。火花を散らして鍔を迫る中、横からもう一人、駆けて来る影がある。
「その通りだぜ!!」
天國だ。
彼の鋭い太刀筋を、渡瀬の剣を弾き飛ばす形で間一髪、交わす。
咄嗟に振り下げた腕からマシンガンのように放たれたエネルギーの塊は、清音が、シアニが、その事如くを打ち砕いていく。二つの刃をいなす翳鬼に、余裕は無い。金属が硬い骨とぶつかり合って、火花を散らして。その攻防の中で視線が交わる、言葉が交わされる。
「明正、お前はお前だよ!死んだって生まれ変わったって、何処に居たってな!!」
『ダカラドウシタトウノダ!!!僕ハ僕ダ!!!ダカラコソ僕ノ望ムママニ、願イヲ叶えエタイダケダ!!ソレノナニガ悪イ!!!!』
「お前さんのやった事は悪い事に違いねぇよ。
でも、そうさせた世界も悪いと俺ァ思う。だからよ、いつかお前があっちに行った時、爺さんに云ってやんなよ。おじい様が願った絶世の美男子と生まれた僕ですが、世の中が生きにくいのは全く変わりはありませんでした。ですからおじい様もその容姿が悪かったのではなく、ただこの世が度し難いだけでした……とでもな」
何度目かのぶつかり合い。弾き飛ばされた者同士が同時に着地する。
また一瞬、翳鬼の瞳の色が変わった。ピクリと身じろぐように動きが止まる。時間にすれば一秒にも満たないであろうその隙を二人は見逃さない。
「天國!」
「おうよ!!」
「「せーのっ!!」」
光の剣が、不可視の刀が、交差する。
断末魔のような声を上げて、倒れ伏す翳鬼。
「やったか?!」渡瀬が振り返る。
「いやまだだ!!」天國が叫ぶ。
その身に宿る怪異の魂は根強く、受けた傷をあっという間に癒しながら再生していく。
二人の行動の余韻を狙って、地面から触手が付き出された。素早く飛び退いて、避ける。そのまま着地と同時に地を蹴って———そうしようとして、渡瀬は体の違和感に気が付いた。いつもなら、何無く着地出来ていた筈なのに。限界近くまで疲労を覚えた体は、渡瀬の予想よりもはるかに鈍い反応を返す。足を滑らせ、地面を転がり、漸くと体制を立て直そうとした瞬間、自分を取り囲む巨大な壁。それはあの時、クラウスを叩き潰そうとしていたものと同様のものだ。逃げ場がない。しまった、目を見開く。迫り来る触手、頭を掠める死———
「借りは返すぞ!」
「!」
ぱあんと、肉が弾ける音がした。
そのまま、壊れた断面すら残さず、さらさらと粉になって触手が消える。
「クラウス!この……っ、カッコ付け野郎め!!」
「うるさい、誰がカッコ付け野郎だ!」
あのズタボロの腕で、クラウスが再び√能力を発動させたのだ。
肩で息をしながらも平静を装い、無我夢中で掛けて来た彼を、カッコ付け野郎と言わずとして何と言おうか。渡瀬が歯を見せて笑う。迫り来る触手を、今度は渡瀬がオーラソードで切り伏せる。彼の死角からの攻撃は、クラウスが光刃剣で受け流した。
「ああもう、そういうとこ!」
「どういうとこだ!」
互いに満身創痍、けれども減らす口は持たず。ならばこそ平気であろうと発破を掛け合いながら武器を揮う。
一個、また一個と怪異の魂が消えていく。ひとつ、ふたつ、闘う者たちの傷は増える。
激しく消耗していない者などここにはいなかった。けれどもその目の光を途絶え差す者もいなかった。「うおぉぉぉぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」シアニの|不完全な竜はご近所迷惑《フォルス・ドラグスタンプバースト》が、幾つめとも知れない怪異の魂を打ち砕く。
『いいぞ!もうちょいだ!あと一回でいい、ぶっ殺せ!!!』
しゅっしゅつと、興奮した様子のシックザールが空中に拳を繰り出す。
リリンドラに言葉は無い、彼を現世に留める為に気力を振り絞るので精一杯だ。「もう少し、あと少し」と顔を歪め今にも倒れそうな彼女を、赫夜がそっと支えた。
「踏ん張り時だね……皆、頑張って!!」
回復しきらない怪異の腕が疎ましい。
クラウスのように無我夢中で飛び込むことも視野に入れたけれども、自分にはやるべきことがある。動けないもどかしさを笑顔の下に押し込んで、赫夜はそっと、拳に力を込めた。
『グ、ガァ、再生ガ、追イ付かない、ダト……!!』
「もう、終わりですよ……明正さん……っ」
肩で息をしながら、見下が拳を構える。
忌々しそうに彼女を睨め付ける翳鬼の肉体は、既に限界が近いのだろう。泥人形が骨を纏ったような歪な姿で息を荒げている。その身に宿る怨嗟の炎が、なんとかそれを突き動かしているようだった。息も絶え絶えの彼に警戒しつつも、見下は一歩、また一歩と足を進める。
「ねえ明正さん、もう止めにしませんか?貴方は本当に壊したいの?違いますよね。
花江さんは、義明さんはまだ貴方を心配しています。貴方と向き合おうとしています。貴方を貴方として見てくれてる……ちゃんと貴方の欲しいものは傍にあるんです!醜かったら?綺麗だったら?そんなの関係ない!!そんなのとっくにわかってますよね?!今だって見た目に1番囚われてるのは、貴方じゃないですか!!!」
『っ、五月蠅イ!!!!!!』
どんと、空気が破裂するかのような大きな振動が巻き起こる。
その身に宿る全ての力を放出せんとばかりに噴き出した瘴気は、触手やあのエネルギーの塊となって滅茶苦茶に暴れ回る。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」「きゃああっ!!」
「義明さん!花枝さん!ミニドラゴンちゃん、行って!二人を守って!!」
シアニの指示にミニドラゴンが即座に飛ぶ。
彼と、彼が庇うようにして抱えている花枝を守らんと、天國も、清音も駆けた。
揺れる、揺れる、空気が、地面が、激しく揺れて崩れていく。
その揺れは、エネルギーの塊に防御の構えをしていた見下の足を取り、バランスの崩れた彼女の体をつぶさに触手が巻き取る。まるで巨人の腕に掴まれた小人だった。ぎりりと歯を食いしばる見下に、ゆら、ゆら、と、翳鬼の視線が向く。
「あ、明正さ、っう、ぎぎぎぎぎ……っ!!め、目を、覚ましてください、よっ!!」
『五月蠅い……』
「皆さん、の、声、っ!聞こえてるでしょう?!届いたんで、しょうっ?!まだ、まだ、諦めないで、っ、あの子猫だって、貴方の、事……きっと、ずっと、」
『五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い!!!!!!!!!!!!
僕は、僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は!!!!!!!!!!!!!』
「っ?!!」
「見下ぁぁぁぁぁーーーー!!!!」
骨が、肉が、内臓が、一瞬で一体化してしまうような、そんな圧力。
傷付いた内臓が大声で悲鳴を上げるように、見下の口からは大量の血液が噴き出す。ぐるり、と、彼女が白目を向いたのがわかった。痙攣する腕が、めきりとあらぬ方向に曲げられる。天國が、清音が、シアニが、渡瀬が、クラウスが、誰もがその光景に目を見開いた一瞬、翳鬼の両手があのエネルギーの塊を作り出す。誰かが見下の名前を叫ぶ、誰もが一斉に駆け出す。触手を断ち切る一歩が、絶望的に遠い。全てを嘲笑うかのように、エネルギーの塊が、放たれ、
「みゃうっ!!!」
直前、彼女を庇うように飛び込んできたのは、あの|子猫《インビジブル》だった。
『お前———』
翳鬼の目が、また僅か、別の光を帯びる。
動きが止まった。その刹那の間に撃ち込まれたのは———アンナの|弾丸《とてもだいじなもの》。
『グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!?』
「今よ!シックザール!!!」
「ヒイちゃん!頼んだ!!!」
リリンドラが、赫夜が、それぞれ大きく片手を翳した。
任せろと言わんばかりに高らかな咆哮を上げる白き竜、その周りをひらひらと浄化の鱗粉を散らしながら蝶が舞い踊る。刹那、白き竜より放たれた光が、その場の全てを飲み込んでは、何もかもを白く白く塗り潰していく。あまりに眩く、あまりに優しく、あまりに神聖なそれが、より一層輝きを増す。
——— パキンッ、
音がした。それはとても小さな、囁きのような音が。
誰もが目を細め、眼球を瞼の奥に隠す直前、蝶がひらりと鱗粉を撒く。
やわらかな浄化の炎が、宝石を、その奥深くに根付くなにもかもを、静かに清めていた。
——————
お兄さん、お兄さん、ああ、急に声を掛けてすみません。
大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?救急車呼びましょうか?
え?ああ、お酒に……なるほど、それでお車を待ってるんですね。良かった、今にも倒れそうだったので、ちょっと気になったんです。
ん?えっと、すみません、世間には疎くて。貴方がどなたかは存じていないんですけど……気にしなくていい?ですか、はい、わかりました。あ、そうだ!
良かったらこれ、使ってみてください。
ああこれですか?なんていうか、簡単な気付け薬ですよ。実は私もお酒に弱くって、飲み会の場には持ち歩いてるんです。気付け薬なので、本当に気休め程度ではあるんですけど、多少なりとも楽にはなるので、どうしても辛かったらお車の中とかで飲んでみてくださいね。あ、ほらあれ、お迎えの車じゃないですか?
お礼?いえいえそんな、結構ですよ。
私はただ、貴方みたいな方は放って置けないので———
「明正、明正……!!」
「っ、う……?」
目を開けた先で見たのは、抜けるような青空と、今にも泣き出しそうな兄の顔だった。
まだ、意識の半分が夢の中にいるみたいだった。ぼーっと、それらを眺める。一体、何がどうして、どうなったのか。それを考える事を拒否するかのように、意識がまた静かに霞んでいく。このままいっそ、眠らせて欲しかった。いっそ、全てが夢であって欲しかった。
嗚呼、後悔とは、本当に、後になってからしか出来ないからこそ後悔なのだろう。体の感覚がする。あの気味の悪い怪物のそれじゃない、人間としてのそれで。ああ戻って来た。戻って来てしまった。実感が喜びよりも絶望を覚えさせる。どうして僕は生きているのか、その事実こそが悪夢に他ならないというのに。死して二度と日の目を拝めぬ事と、生きて飲まされ続ける煮え湯、嗚呼果たして、そのどちらがより地獄なのだろうか。
「?」
ぽたり、ぽたりと頬が濡れた。
霞みかけていた意識が浮き上がる。
目を開けた先で見たのは、やっぱり抜けるような青空と、兄の泣き顔で……。
「兄、さん……?」
「ごめんな」
「———っ!!」
心臓が、痛いくらいに悲鳴を上げた。
なんで、なんで兄さんが謝るんだよ。
なんで、なんで兄さんが泣いてるんだよ。
意味が、分からない。理解、出来ない。
罪を犯したのは僕で。取り返しのつかない事をしたのも僕で。
それなのになんで、自分の事のようにこの人は泣くんだよ。
込み上げる。ごぼごぼと、暴言にも暴力にも似た大きな感情群が、込み上げる。
苦しい、苦しい。胸が、痛くて、あたたかくて、苦しい。
「意味が、わからない……泣くなよ……っ、馬鹿だな」
「……馬鹿はお前だろ、いつもいつも、ひとりで抱え込むなよ、ばーか」
「うるさい、ばーか、っ」
嗚呼、忘れていた。
頼りなくて、お人好しで、誰よりも木蔦の家の精神を持っていて、放って置けない人。
嗚呼、そうだよ。だから花枝さんは兄さんを選んだんだ。
わかっていたじゃないか。とっくの昔にわかりきっていた事じゃないか。
不意に、言葉が蘇る。
これは、そうだ、フラれた時の花枝さんの言葉———
『義明さんはね、この庭なの。自分が枯れても倒れても、栄養と愛情をたくさんたくさん掛けて花を咲かせようとする庭なの。明正さん、あなたは花よ。あ、勿論ね、容姿の事じゃなくて心の事。花束にも庭にも、メインになるお花ってあるでしょう?あなたはそれ。義明さんの庭で、その庭の中心で、一緒に庭を支えてくれる大事な花なの。
明正さん、私、あなたの事は好きよ。でもね、私が好きなのは、義明さんと一緒に一生懸命頑張って、喧嘩して、彼の隣で、一番近くで、一緒に未来に向かっている彼の弟としてのあなたなの。あなたは気付いてないかもしれないけど、義明さんにとってあなたは唯一無二の存在よ。だから私ね、あなたには嫉妬もしてるんだ。ずるいなって、その隣の席を全部私に譲ってくれないかなっていつも妬いてるの。知らなかったでしょ?私がいくら望んでも望んでも手に入らない、彼にとっての大切だから、あなたの事、好きだけどちょっと憎いのよ。あなたに嫉妬する度に、結局ね、私の世界の中心は義明さんなんだなって思ってしまうの。それも凄く悔しいなって思うの。その顔、ふふふ、やっぱり知らなかったでしょ?
だからごめんなさい。あなたの事は好きだけど、愛もあるけど、恋愛としての好きじゃなくて、家族と同じ愛情を抱いているわ。都合のいい返事だと思うけど、私はあなたとライバルでいたい家族でいたい。ねぇ明正さん、これから一緒に、彼の一番近くで、木蔦の家を支えましょう』
あの時、僕はその言葉をどう受け取ったんだろうか。
覚えてない。覚えてないけど、でも今は、なんでか清々しい気分で受け取れる。
ああそっか、フラれたんだって。でもそれは僕の事が嫌いなんじゃなくて、僕にヤキモチまで妬くくらい、兄さんの事が好きで、好きで、好きで……。その好きだって気持ちが痛い程わかる。成就したかしなかったかの違いなだけで、彼女は僕と同じだ。諦めが悪くて、一途で、欲張りで、自分の中心に誰かを置いて、その誰かを幸せにしたくて頭がいっぱいだ。
空が青かった。酷く青くて澄み渡っていて、次第にそれが滲んで沁み込んでくるみたいだ。
「……兄さん、僕は」
「うん、聞くよ。全部、全部聞く。僕も言う。その上で、罪は、きちんと償ってもらうからな、楽に死ねると思うなよ、覚悟しとけよ」
「……ふ、らしくない台詞だな」
「うるさい」
遠い遠い昔に、いつかの子供の頃に、こんなやりとりをした気がする。
まだお互い幼くて、言葉もしがらみも、そのなにもかもを知れなくて。
だからただ、素肌の心でぶつかり合っていた。素直に無邪気に傷つけあって、笑い合って。
そんな日々に、ああ今、少しだけ戻れた気がする。
「兄さん……すまない……」
「遅いよ、ばーか」
———その後、明正は全ての罪を告白し、その身柄を警察に拘束される事となった。
●エピローグ
「悪いな、付き合わせて」
「いえいえ、お気になさらずですよっ」
そこはあの日記を見付けた場所、庭師の道具が散乱していた部屋の跡だ。
相も変わらず瓦礫と残骸だらけのそこを、見下と渡瀬の二人はあの時と同じく探索していた。瓦礫の破片を踏み付ける音に混じって、いませんねーなんて、見下の呑気な声が聞こえる。
「だなー。もう満足して成仏しちゃったかな」
「可能性は無きにしも非ずですけどっと、あっ!渡瀬さん、あそこ!!」
「お?」
見下が指差す先、よく日の当たる瓦礫の上で丸くなっている|子猫《インビジブル》がいる。実体の伴わないそれは、半透明の体に時折ノイズのような乱れを確かに走らせながら存在している。すやすやと穏やかに、先の戦闘の喧騒などまるで知らん顔をして寝息を立てている子猫を怖がらせないようそっと近付いて、渡瀬は静かに手を翳した。
———ゴーストトーク。見る見るうちに実体となって存在していくそれを、渡瀬は軽く撫でてやる。刹那、ぱちりと目を開けた子猫がみゃあ、と、声を上げた。
「お前も、生き返れればよかったんだけどな」
残念ながら、あの白き竜が叶えてくれる願いは一つだけだ。
曰く、怪異化した人間を元に戻すだけでも、それはそれは莫大な力を使ったらしい。ついでに屋敷も元に戻せないか、死んだ使用人は蘇らせられないかと、あれやこれやと願い事を告げてきた面々に、白き竜は若干うんざりとしながら、これ以上無茶と贅沢を言わないでくれと、そんな小言を言って姿を消したのだ。都合よく何度も何度も叶うものは願いでも何でもない。そう言わんばかりに、リリンドラがもう一度は白き竜を呼び出そうとしても、それは叶わなかった。
みゅうみゅうと声を上げる子猫に見下も手を伸ばす。
指先でマズルから額までを撫でるように上下すれば、心地よさそうに目を細めたそれに、思わず笑みがこぼれる。
「そういえば渡瀬さん、なんでこの子を探してたんですか?」
「うん?あーまあ、なんて言うか、ちょっと、愛着沸いたから?連れて帰ろっかなーって」
「あ、愛着、ですか?」
「うん。可愛くね?コイツ」
「え、はい、可愛いですけど……?」
え?本当にそれだけ?と、目を丸める見下に、渡瀬はたはっと困ったように眉を寄せ、そのまま笑みを浮かべる。明確な理由を付けるとすれば本当にそれだけで。けれどもそれだけかと言えば、理由にもならない小さな憐れみがある。
どうやってこの子が拾われたかは知らない。けれども多分、一緒に拾われていない事から親猫にも捨てられたのだろう。もしかしたら、側でもう冷たくなっていたのかもしれない。名前も付けられることも無く、病によって奪われてしまった小さな命。少しの間だったけれども、触れあってみて、わかった。この|子猫《インビジブル》が|ここ《現世》に留まっている理由は、愛情が欲しいからだ。ひとりぼっちでまた眠るのは、寂しくて寂しくて仕方ないからだ。人懐っこく甘えるそれは貪欲に、誰かのぬくもりを欲しているようにも見える。
「ほら、折角人と触れ合って過ごしたヤツなんだし、せめて名前くらい付けて成仏させてあげたいじゃん?」
渡瀬の、その少しだけ寂しそうな笑顔に、見下は開きかけた口を閉じた。
インビジブルは透明な存在。本来ならば、能力者の力の糧として消費されゆくもの。時と共にやがて薄れて消えゆくもの。それが数年の時を経ても自我を失わず、自らの意志と生前の形でもって留まり続けているのだ。理由がきっとあるのだろう、そしておそらくだが、触れあっていた渡瀬にはそれがなんとなくわかるのだろうと、静かに察する。
「ああ、そっか、そういえばこの子って名前つけて貰ってなかったですもんね」
「うん。多分だけどさ、コイツがあの時ここに連れて来てくれたのってさ、明正にまた可愛がられたかったのかもなって。名前、付けて欲しかったからなのかなって、ちょっと思った」
「明正さん……ああ、そう、そうですよね……この子は、うん、明正さんの優しい部分を一番知ってる子ですもんね」
「ああ」
見下が指先で猫の鼻を擽る。
みゅうみゅうと声を上げて、子猫が小さくくしゃみをする。
拍子にコロンと転げた小さな体を起こしてやりながら、渡瀬が口を開いた。
「俺は明正じゃないけどさ、それでも良ければ俺と一緒に来ない?」
「みゅ?」
くりんとした丸い目で子猫が見上げて来る。
小首を傾けてぱちぱちと瞬く様に、胸の内からくすりとあたたかいものが込み上げてくるようで。渡瀬と見下は揃って笑みを零した。みゃあ、と、子猫が鳴く。「ここに残りたいならいいけど」と、渡瀬がその言葉の全てを言い切る前に、それは大きく伸びをして彼の胸元へと飛び込んで来た。「おっと?!」なんて、大慌てでキャッチする渡瀬に、見下はまた笑みを零す。
「ふふふ、これは一緒に行こうって事で宜しいですか?」
「みゃんっ」
力強く鳴く声。
これからもよろしく、と、その瞳が見上げて来た。
———
瓦礫の山と化した屋敷の中で、それでも使用人達は忙しなく動き続けている。
最早、ここに居る人間だけでは修復不可能となったそれを、それでも少しでも早く元の姿に戻そうと、そうして自分たちの大切な場所を取り戻さんと、一生懸命に尽くしているようにも見える。その中でもパンパンッ、と、高らかに手を鳴り響かせ、使用人達に指示を飛ばしているのは、あのメイド長だろうか。
自らを、戦火を潜り抜けた|人間《残りもの》と称した彼女に、リリンドラは静かに笑みを零すと、一歩、一歩、その笑みと同じ足取りで近付いていく。
「メイド長」
「おや、リリンドラさん。どうされました?」
「……」
無言で差し出したのは、辞表だった。
潜入捜査前に書いておいたそれ。書いた当初は、こんなにも寂しい気持ちで出すとは夢にも思わなかったのかもしれない。ゆっくりと辞表を受け取って、これは?と、首を傾けるメイド長に、リリンドラは静かに頭を下げる。
「今まで嘘を吐いていてごめんなさい。わたしは、わたし達は最初から、この屋敷で起きた失踪事件の調査の為にこの屋敷に潜入したの」
「……そうでしたか」
「ええ。だからもう、ここにはいられない。短い間だった……でした、けど、本当にお世話になっ、なりました。わたしは、その、ここで働けて、凄く楽しかった、です。貴方達の事は、忘れません」
下げた頭を深々と地面に寄せれば、
「顔を上げて頂戴」メイド長の優しい声がする。
「リリンドラさん」
「はい」
「……もしもあなたが全ての使命を終えた時、もしくは、戦いに疲れて普通の生活を求めたくなった時、またいつでも戻っていらっしゃい。あなたの吐いた嘘は、人を救う為、人を守る為に吐いた優しい優しい嘘です。誰も傷付けないその嘘で、あなたが傷付いたり、心苦しく思う必要はありませんよ。私は、いいえ、私達は、いつだってあなた達の帰りを、またお顔を見せてくれる日を楽しみにしています」
目を見開いた先で、メイド長が穏やかに笑う。
すると、その様子を見守っていたのか、あの時、共に話した使用人達が駆けて来る。
「そうよリリンドラさん、またいつでも戻って来て!お茶だけでもいいから!」
「そうそう!旅先で素敵な方が見付かったら報告してよね?待ってるわ!」
「忘れない、なんて、永遠のさよならみたいなのやめてよ!私達、いつでもここに居るからさ!!また来て!絶対、絶対よ?!」
「メイド長……皆さん……」
「これは、義明様にはまだお渡ししません。とてもとても長いお暇という事で私の方でお預かりしておきます。もう二度とここには戻らない、顔も見せたくないと、そう思いましたらご一報くださいね?」
「ええ、それは……困ったわね……」
思わず眉を寄せて、笑う。じんわりと、心があったかい。
だったらもう少しだけ、その決心が出来るまでは預かってて頂戴。
そう告げた瞬間に、メイド長が、使用人達が、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
———
事件の傷は、建物のみならずあの立派な庭にも付けられていた。
えぐり出された地面に、力なく横たわる花々。踏み付けられ、荒らされ、既に事切れたものも多い中、それでも懸命に生きようとする花をひとつ、またひとつと見付けては、シアニと清音は、使用人達と共に植木鉢や比較的被害の少ない場所へと植え替えてやっていた。百合花も、品の良いワンピースを泥だらけにしては懸命にその手伝いをしている。一等大きな花を大きな植木鉢に植え変えて、彼女がふーっと息を吐き出した。
「大方、植え替えは、終わった、かしら」
「そうだね。また元気に咲いてくれると良いなぁー」
「ええ。きっと元気に咲いてくれるわ。おじい様が残したお庭で、花枝お姉様のご両親が手塩に掛けてくださった花達ですもの、そう簡単には亡くならない。わたくしはそう信じているわ」
「そうね、人の想いは、強く、そして、受け継がれていくもの……この家の、方々なら、きっと、大丈夫よ」
そっと微笑んで、頭を撫でてやる。
また少し、肩に力を入れてしまっている小さなレディは、思い出したようにそっと息を吐く。やわらかな花の香りがした。屋敷を訪れたときっよりもずっと弱弱しく微かなそれは、けれども確かに、生命の息吹のような力強さを孕んでいるようにも感じる。「さあ、もうひと頑張りしなくちゃね!」と張り切るシアニに笑みを返しながら、百合花はそっと口を開いた。
「シアニ、柏手さん、」
「どうしたの?」「なあに?」
「……わたくしね、明正お兄様の研究を引き継ごうと思うの」
「「え?」」
それは、意外な言葉だった。
「百合花ちゃん、それは」
「勿論、あの化け物に関係するもの以外よ。明正お兄様のなさっていた研究で、この家の為のもの、新薬の開発や実験、既存製品の改良とかね。そういうのは全て明正お兄様の指示の下で行われていたのをわたくしは存じているの。わたくしは、そういうものをね、罪を犯した人間のものだからって、全て失くしたくないのよ」
「それは……うん、素敵な事だと思うけど、でも、急にどうして?百合花、その、明正さんの事、大嫌いって言ってたからさ」
心配そうなシアニの視線に、少しだけ、百合花は俯く。
何かを言いあぐねいているように、少しの間もごもごと言葉を咀嚼すると、彼女は喉の奥から吐き出すようにして口を開いた。
「…………日記をね、少し、読ませていただいたわ。わたくしね、恥ずかしい事に、あの子猫の事を忘れていたの。ううん、考えると寂しくなってしまうから、考えないように、見ないようにしていたのよ。そうしたらね、シアニの言う通り、その事もそこに覚えた気持ちすら忘れてしまっていたわ」
「そうなんだ」
「ええ……今まで随分と酷い事はされたけども、それには何か原因があったのでしょう?理由なき理不尽は許せないけれども、散々苦しんだ人間を、わたくしは責められないわ。それにあの時、明正お兄様は確かに心を尽くしてくれた。わたくしに歩み寄ろうとしてくれていた。それを忘れたくないの。その為にも、あの方の研究を引き継ぎたいの」
そう言ってゆっくりと顔を上げる。百合花の目は、強く、真っ直ぐだった。
「これから一生懸命勉強して、木蔦の家の人間として、家の為に尽くす。あの方を許すか許せないかはわたくしにはまだわからない。けれどね、帰る場所がない怖さも寂しさも、わたくしは知っているから……」
「百合花……」
眉を寄せて、笑う。
気丈な振る舞いでもなく、かといって百合花本来の笑みでもなく。ただ、こんな時はどんな表情を浮かべていいのかがわからないと言わんばかりの笑みに、シアニがにっと歯を見せて笑う。それを見て、困ったように首を傾ける百合花の頭を清音が撫でた。
「こういう時は、笑っていい、のよ?笑って、そして、胸を張りなさい、百合花ちゃん。あなたの考えは、とてもとても、素敵な事よ……道はきっと、長くて、遠いけど、やり遂げてみなさい」
「ええ、ありがとう。ねえ、二人共、わたくしは素敵なレディになれるかしら?」
「うんっ勿論だよ!百合花なら絶対なれる!あたしも負けないからね!!素敵なレディにも、百合花を守ってくれた立派な人達みたいにもなりたい!まだまだ、あたしのショクバタイケンは続くんだからっ!!」
「ふふふ、それじゃあ、どちらが、素敵なレディになれるか、競争ね……また、私のご指導は、必要?」
「「勿論っ!!」」
青空の下、響くは乙女達の|希望《こえ》。
倒れても尚立ち上がる花のように強く美しく、彼女達は前を、未来を、見据える。
———
ぽっかりと空いた大きな穴。戦闘の爪痕がより濃く残る地下空間だった場所だ。誰かの心の穴を表すかのように広がったそこは、ある意味で地上の屋敷よりも酷い有様を晒している。
一歩、一歩と、瓦礫を踏み分け、天國と赫夜、それに義明と花枝は慎重に足を進めている。明正が放った言葉から、彼らはここに、「花枝の両親」を、その痕跡を探して回っているのだ。彼の発言が真であるのならば、どこかで肉の塊にはなってしまっているのだろうが。それでも見つけたいという花枝の気持ちを、彼らは汲んだのである。
「ねえあそこ、扉があるよ」
赫夜が指で示した先には、重厚な鉄の扉がある。
先の戦闘を受けても崩壊していないところを見ると、耐久性もピカイチなのだろう。
降れればひんやりと冷たいそれのドアノブに手を掛け、天國が義明と花枝に目を配る。
「怪物の残りがあるかもしれねぇ、まずは俺達で見る」
「はい、わかりました……」
不安そうな二人の視線を受けながらも、ゆっくりと扉を開いた。
既に電力は落ちているのだろう。冷気の残りかすのようなものが、ひんやりと頬を撫でる。入り口から差し込んだ光に室内が照らされた瞬間、
「「!!!」」
「どう、したんですか……?」
「……見ない方がいいと思う」
そんな赫夜の言葉を振り切るようにして、その中を覗き込んだのは花枝だった。
ぶらり、ぶらりと揺れる肉。アメリカンダイナーの巨大な冷凍庫や肉屋を思わせるその中で、ふたつの肉が、亡骸が揺れている。ひとつは男性のもので、ひとつは女性のもので。それは手足が無く、また、腹や胸といった体のあちらこちらが虫食いの穴のように抉られている。この極寒の世界の中であっても、ゆっくりとだが腐敗は進んでいるのだろう。空いた穴の縁から、変色した肉が覗いている。死に際、苦痛だけはなかったらしい。どちらの顔も安らかに眠りに就いているようにも見えた。
「お父さん……お母さん……っ!!」
駆け寄った花枝が、目を見開いたまま、それを眺めたまま、がっくりと膝を付く。
その体を支えるようにして義明が彼女をそっと抱き締めた。
寒い寒い空間に、しとしとと泣き声が降る。ふーっと、溜息を零したのは天國だ。
「義明、お前さんこれからどうするつもりだ?」
「どうする、とは……?」
「しらばっくれんじゃねぇ、わかってんだろうが。身内の起こした不祥事とはいえ、こんなにも派手に騒ぎを起こした上、警察も介入しちまったんだ。あっという間に騒ぎになんぞ?会社のブランドイメージとして、大打撃は免れない」
「……ええ、そうですね。わかっています」
「だったら、まァ余計なお世話かもしれねぇがよ、明正を家から追い出すなり縁を切るなりした方が無難じゃねぇか?犯罪者を出した企業って後ろ指差して来る奴はこれからごまんと出て来る。そんな中で明正まで匿ったままとあっちゃ、刺される腹は多くなる一方だ」
「ええ、そうですね。わかっていますよ。でも、わかっていても、僕はそれをしません」
「ほお……?」
天國が片方の眉を吊り上げる。
義明の顔は穏やかだった。然してその目は、確かな決意を宿して輝く。
「天國さんの言う通り、そうやって後ろ指を差してくる方々は出て来るでしょう。きっと、ありもしない誹謗中傷だって受けます。けれどね、そんなの今までだってあった事です。大なり小なり世間に名前を知られている企業ではありますから、全く何もなかったわけじゃない。今回の事で風当たりは強くなるでしょう。でも、それが何だっていうんですか。ただ今までより声が大きくなるだけ、それだけです」
「御大層な事だが、明正のした事に弁解の余地はねぇぞ」
「ええ、確かにアイツのした事は、許されるべきじゃない、許してはいけない。けれど、だからと言って、アイツから全てを奪うのは違うと思います。日記を読んで、そう思いました。許されるべきことではないかもしれないけれども、だからこそ、きちんと罪を償う機会を与えたい。その為に、ここはアイツの帰る場所であるべきなんです。それが家族として僕の出来る事なんじゃないかなって、そう思うから」
「ほお、そうかい。だが、花枝の方はどうなんだ?」
「それは……」
天國に声を掛けられた瞬間、花枝の体が僅かに震えた。
そのまま、少しの間、涙を止めようとして彼女が被りを振る。俯いたまま、それでも言葉を紡がんと、彼女は口を開いた。
「……私は、私は完全に許す事が出来ないかもしれません。
私が受けた仕打ちは勿論、巻き込んでしまった使用人さんや、父と母の事を考えると、どうしたって、許す事が出来ないのかもしれない……」
「花枝さん……」
「……ごめんなさい、でも、」
「いえ、いいんですよ。アイツのした事は決して許される事じゃない。そんな事、僕も重々理解しています。それでもここをアイツの帰る場所にしたいと、そう思うのは僕の我儘です。貴女までそれを背負う事はない……こんな事があった家だ、居たくないというのであれば婚約だって破棄してもらって構わない。貴女が幸せになれる場所で幸せになって欲しいと僕は思うから……」
「義明さん……」
ゆっくりと花枝が顔を上げた。
彼女を見つめる義明の表情は、何処までも優しく、寂しそうだ。きっと、どんな決断をされても受け入れる覚悟をしていたのだろう。貴女の望むようにしてほしいと告げる彼に、花枝の目に涙の膜が張っていく。そっと身を離そうとする義明を、それでも引き留めたのは、彼女の言葉だ。
「あなたっていつもそうだね」
「えっと、ごめんなさい」
「ごめんじゃないよ……何でもかんでも一人で抱え込もうとするんだから。もう、馬鹿だなぁ。ここでこのまま私がいなくなったら、義明さん、絶対に倒れちゃうじゃない」
目を見開く義明に、花枝が抱き着く。
突然の事に、そして少なからず人前という状況に、彼が顔を碧くも赤くもさせていれば、もう、しっかりしてよ、なんて声が掛かる。
「駄目でもいいから一緒にいて欲しいって、そういう気持ちは無いの?我が儘ぐらい言ってよ」
「それは、勿論あるけど、でも、いいんですか?」
「……言った通り、明正さんの事を許せるかどうかはわからない。でも、私は貴方を愛しています。何があっても、側で支えたいってずっとずっと思ってるの。それだけはね、ここに閉じ込められてる間だって揺らがなかったんだから」
いいに決まってるでしょ?と微笑む花枝に、義明もつられて笑う。
やれやれと、天國が息を吐いた。そのままくるりと二人に背を向け、去っていく。
「後はお二人でって感じかな?」
「だな。冷凍庫の中で良かったぜ、あんなの普通に見てたら溶けちまう」
「あはは。チョコレートになっちゃうよね。でも、義明さんにわざと発破かけたんだから、溶けても仕方なかったんじゃないかな?」
「あ?んだよ、バレてたのか?」
「んー、なんとなくだけどね。なんていうか、天國さんって戦闘中も明正さんの事、気遣ってたでしょ?今もさ、気持ちを確かめようとしてたんじゃないかなって思ったから」
「ちっ、お見通しかよ……ま、そんなとこだ」
どこかてれ臭そうに鼻をかいた天國に、赫夜が笑みを零す。
「だがな、———」
———
その様子を、クラウスとアンナは地下への入り口だった付近で聞いていた。
会話に聞き耳を立てる事に集中しているのか、それとも、互いに体力の消費が激しいのもあるのか、二人の間に会話はない。階段部分に腰掛けたまま、重たい疲労感に身を浸している。ふっと、アンナが息を吐いた。
「とりあえずは丸く収まったって感じかな?」
「そうだな」
クラウスのその返答に、アンナはおや?と小さく声を零した。
どこかぼんやりとした彼の表情には、戦闘後の疲労以外のなにかが宿っていたのだ。それは、この場にいない片割れがよく浮かべる顔と似ていて。なんというか、ついつい気になってしまったのだ。
「なんか釈然としない感じだね。この結末に納得してない?」
「そんな事は無い、納得は、してる……いや、わからないな。正直俺はあのまま殺してやることも一つだと思ったから。これが本当にいい結末だとは思えないのかもしれない」
ああ、ほら、やっぱりね。
クラウスのこの顔は、選んだ選択の是非を、正解のない問いに迷っている人の顔だ。
なんとなく側に寄る。無表情で冷静な彼の顔は、落ち着き払ったいつものそれとはやはり違う。どこか陰のようなものが僅かに見え隠れしている。
「……そっか、その気持ちはなんとなくわかるかな」
「そうなのか?」
「うん。私も同じこと考えてたからね。明正さんのやった事を考えれば、殺されても仕方ないって思う。あのまま生き続けても辛いんじゃないかなっていうのもね」
「そうだな……」
空返事だなあ。心の中で指摘する。
こういう時、人は言葉よりも正しさよりも、寄り添う何かを求めているのをアンナは知っている。そっと、背中に背中を預けた。一瞬だけ、クラウスが体を震わせた。そのままひとつ、ふたつと間を置いて、彼が静かに言葉を零す。
「最近、よく迷う気がする……何が正解なんだろうなって」
「そっか」
「ああ。自分でもよくわからなくなる。最適解が多いのか、最善がわからないのか、そのどちらなのかも、わからない事が多いんだ」
「そっか……それはさ、それでいいと思うよ。迷えるのって、ある意味羨ましいなって思うから」
「羨ましい?」
「うん、人間として正しいし人間として強い。わたしにはそういうの無いからさ、だからわたしはわたしの正しいと思った事をやるだけかな」
「人間として、か……そうか、そうだな……」
クラウスはあの時、とどめを刺すのなら自分だと決意していた。どうしても助けられないのであれば優しい仲間にそれだけはさせないと、そう誓ったのも、何者でもない己自身だ。迷いと揺らぎの中で見付けた答えは、導き出した回答は、『仲間』へと通ずる事で、同時に仲間の考えへと依存するものに他ならない。他者の意見を尊重したと言えば聞こえはいいかもしれないけれども、半面、それが自分の中の迷いを、煮え切らない思いを誤魔化す方法であると理解しているが故に、クラウスの胸の内は仄暗い霧に覆われているのだ。
いっそ一人で戦っていたのなら、こんな事、思わなかったのか……?
アンナが言った人間としての正しさと、強さ。それは弱さじゃないのか?
思わずふっと笑みを零す。クラウスのその笑みは、アンナには見えない。それを聞くアンナの表情も、クラウスには見えない。同じだ、あの時と、同じだ。互いの表情も感情も何一つ交わる事のない中で、けれども二人には、いや、事件に関わった全員には、ひとつ、同じ思いがあった。
この事件はまだ、全てが明るみに出た訳ではない。
署へと連行される直前、明正の言っていた事を思い出す。
貴方に気付け薬を飲ませたのは誰?誰かが投げ掛けたその問いに、彼は
「気付け薬……ああ、あれか?
どうだったか、古い記憶なのもあって、しっかりとは覚えていない。確か、黒い髪と、褐色の肌の、女、だった気がするな……見た事は……ない。少なくとも、この屋敷の人間じゃないのは確かだ。すまない、僕にはそれしかわからない」
と、それだけを答えたのだから。
「目出度し目出度しっつーのに、なんか、釈然としねぇんだよなァ……」
「日記の事があるからでしょう?」
「ああ。実行犯は明正だけど、計画犯っつーのか?それは一体誰だったんだ?調べても何一つ痕跡もねぇ、霞を喰わされた気分だ……」
「そうだね……結局僕らは、事件の黒幕というべきものを見付けきれてない。まだ完全にハッピーエンドとは言えないのかもしれないね」
「ちっ。嗚呼、そうだなァ……」
「……」
目の前の光景は、確かに明るい未来と希望に溢れている。
けれども、どうしてだろうか。それがひと時の仮初のように思えてならないのだ。
過るのは、一抹の不安か、それとも、悪趣味な好奇心からくる期待か。
然して、こうして木蔦の家を襲った一連の事件は幕を閉じる。
深く濃い靄に覆われた疑念、黒幕の存在、そんな不穏の影を、確かに胸に残して———
●|星を詠むもの《クルス・ホワイトラビット》
「事件解決ご苦労様。
失われたものも確かにあったけれども、それでも、ひとつでも多くの命を守り抜いた事は称賛に値するよ。きっとあの家は、今後も変わる事無く続いていく事だろうね。
とはいえ、釈然としない部分は残っているんじゃないかな。かくいうボク自身も、今回の事件に関しては大きく引っ掛かっている部分がある。そう、もうお分かりだね。一体誰が|明正に気付け薬?を飲ませたか《・・・・・・・・・・・・・・》、だ。
|物語の結末《事件の終幕》は、夢のように曖昧模糊で終わってはならない。何もかもが曖昧な結末なんて、迷宮入りした未解決事件と何ら変わりはないからね。だから今回も、そうであってはならなかったんだ。黒幕とも呼べるソレを洗い出して、とっ捕まえて成敗!それで終わらなければならなかったのに、今回はそれが出来なかった。
ああ、勘違いしないでおくれ。決してキミたちの情報が不十分だった訳じゃない。事実、キミたちの集めた情報のおかげで、明正の命は救われた。被害は最小限に留められたと言っても過言じゃない。ならばどうしてと問われれば、|黒幕は既にそこに居なかった《・・・・・・・・・・・・・》と言わざるを得ない」
そこまで言って、星詠みたる少年は神妙な面持ちを貴方達に向ける。
こんな事態は初めてだ、と、小さく零し、そして何かを思案するように口元に片手を添える。
「……何の為に、黒幕は事件を起こした?人ならざる知識を人に与え、あまつさえ人を怪異へと変化させる真似までして、黒幕は一体何をしたかったんだ……?世界に小さな綻びを作る?けれどもそれならばもっと手っ取り早い方法だってあったはずだ。数年の年月をかける間もなく、一瞬で事を起こせる方法なんて山のようにあるからね。何故あんなにも時間を掛けて……秘密裏に事を起こしたかったのか?駄目だ、今のボクにはわからない。情報が少なすぎて皆目見当が付かないよ。気持ちが悪いな、実に気持ちが悪い。襟の刺繡を忘れたせいで、ダムとディーのどちらがどちらかちぐはぐになってしまったみたいだ。
キミたちに釈然としない感情を与えてしまったのは申し訳ない。心からの謝罪を贈ろう。
けれども多分、いや、きっと、この事件の黒幕とはいつかどこかで出遭う気がする。これはボクの、星詠みとしての直感が告げる予感だよ。確証はないけど、なんだかそんな胸騒ぎみたいなものを覚えるんだ。それは本当に世界を崩壊へと導く綻びか、はたまた別の何かかは知れない。それでも、もしもまた、今回のような事件が起きたらその時はまた、力を貸して欲しい……」
それだけを言って少年は静かに頭を下げると「兎にも角にもお疲れ様」と会話を打ち切る。
ゆっくりと踵を返す貴方達に、「黒い髪の、褐色の肌をした、女……」少年の小さな呟きが聞こえた気がした。