うまれて嘆き、ゆめに堕ち
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青い薔薇が咲いている。
奇跡と称される花が咲き誇る園で、カトレーヌは笑っていた。幼い頃に事故に遭い、両足を失ってから世界の色を失って久しいというのに、カトレーヌの両足はしっかりと地面を踏みしめ、自分の力で歩くことさえ簡単に出来る。
もう、自分の両親に感情のない目で見られることも、ない。
もう、親しかった友人たちに哀れみの目で見られることも、ない。
「素晴らしいでしょう?」
青薔薇に祝福された乙女がカトレーヌに笑いかけた。少女の望みを感じ取ると、乙女は微笑んで祈りを捧げる。
瞬間、花園は綺麗な海岸線へと変化した。急に足元が砂浜に変わったカトレーヌは驚いてふらつくが、迷いなく両足で体を支える。もはや現実では行くことも叶わなくなった透き通った海を見て、少女は静かに涙を流した。
――ああ、なんてしあわせなせかいだろう。
●
「みんなにとって、死はなんだと思う?」
ぼんやりと雨の降る外を眺めながら、天泣・吟(鈴が鳴る・h05242)はぽつぽつと言葉を発する。
今回も、例に漏れず危険な怪異の討伐だ。しかし、やや複雑な事情がある。根本を解決しなければ、再び事件が起こってしまうことは予知の段階でも察せられた。
希死念慮という言葉があるように、ヒトは生きたくない、死んでしまいたいと考えることがある。それは性別、年代問わず起こり得ることで、どんなに健常な人間でさえストレスが重なるとふと頭を過ることもあるぐらいだ。感情を強く持ち社会を形成する人間にとって、生物の原点である生存するということすら危うくなる場面は多い。
その隙を狙ったのが、今回の怪異である。
あるいは、狙ったのではなく、救いたかったのかもしれないが。
「まずは、相談にのってあげてほしい。それでもダメなら、力づくでも、いいよ」
とある怪異の影響か、自死を望むだけでなく実際に行動に移そうとしているヒトが多くみられるようになった街がある。
彼らは一様に深い森の中へと足を向け、穏やかな眠りについて二度と目を覚まさなくなる。既に被害は出ており、このまま放置すれば街の住人全てが眠りにつく日も遠くない。
「みんなのお話を、してあげてね」
根本的な原因は人それぞれ違う。直接関与し癒すには、あまりに時間が必要だ。今回は一時的な対症療法とはなるが、各自それぞれの「生きる理由」を教えてあげることで怪異の影響を減衰させることができる。負の力には、正の力をぶつけるというわけだ。
死を克服した√能力者にとって、生きる理由などないのかもしれない。死なないから、生きている。死ねないから、生きている。
しかし、それだけで生きられない人々も世の中には大勢いるのだ。もしさらに寄り添いたいと思うなら、ターゲットを絞って色々試してみてもいいだろう。
少年は目を伏せて、それから困ったように笑顔を作った。
「それとね、もう亡くなった子たちが、近くにいるみたい。解放してあげてほしい」
曰く、深い眠りに誘われて、そのまま亡くなってしまった人達のインビジブルが周囲を漂っているそうだ。件の怪異に辿り着くまでに、その力なき一般人たちをきちんと死者の国まで送り届けてほしい。自然に消えていなくなるはずの彼らが、怪異の所為で縛りつけられてしまっている。いつしか本人の望みとは無関係に害を及ぼすようになってしまう、その前に。
どんな方法をとるかは委ねられるが、ひとつの手段として倒してしまうことは可能である。それもまた、解放のひとつだろう。
「何が正しいのかはわからない。でも、……死んでしまったら、もう、どうにもならないんだ」
最後に小さな星詠みはよろしくねと√能力者たちを見送った。
第1章 冒険 『Restart』

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かつては賑わっていたであろう街並は、今は伽藍として静寂だけが満ちている。すれ違う人々の足元は覚束無く、道端に溜まってお喋りをするでも店先で気になる物を物色するでもなく、不気味なほどに皆同じ方向に歩いていった。
向かう先には森がある。誰もが何を待ち受けているか知らないまま、眠気に誘われて夢見がちに足を運んだ。意識すると、薔薇の香りが微かに漂ってくる。
なんとなく仕事がうまくいかなかった。だから、死にたい。
近くで話している声が自分を責め立てている。だから、死にたい。
どうして生まれてきたのかもわからなくなった。だから、死にたい。
全ての結論が死に繋がる異様さに違和感を感じる人は誰もいない。ぼんやりとした思考の中、夢の甘さに惹かれていく。
止めなくてはならない。例え今だけの感情に囚われているのだとしても、この誘惑が心臓に楔を残さないように。
●日々に彩を見つけて
「おひとりで、どちらへ?」
声を掛けられ振り返った女性が目にしたのは、全身真っ白な少年だった。茶治・レモン(魔女代行・h00071)にこりと微笑むと女性の隣へ寄り添う。
「よかったら、僕もご一緒させてくださいませ」
何処へとも言わず。無言のまま、レモンを一瞥した女性は再び歩き出す。少年の供を許したかどうか返事はなかったが、追い払いはしなかった。それを是として、レモンは隣を同じ速度で歩く。
街は静まりかえっていた。この街を救おうと集った√能力者たちの話し声が一番賑やかな音だ。迫る死の気配に無邪気になれる者などそう多くはないだろう。彼女にとっては見慣れた、彼にとっては見慣れない街を二人で歩く。
「あ、今の見ましたか? あそこに猫がいましたよ!」
二人の歩調は同じではなく、少年が度々足を止めては女性に声をかけた。やれパン屋の看板が可愛らしいだとか、やれあそこの雑貨店のドアがオシャレだとか。女性もその度に足を止め、少年の声に耳を傾ける。最初こそ無反応で歩みを再開したが、少しずつ、レモンの献身が彼女の歩みを鈍らせた。
平日の昼間だというのにCLOSEの看板をぶら下げたオープンカフェの前に差し掛かり、レモンはひらりと女性の前へと歩み出る。進行方向を塞がれた女性は歩みを止め、疲れ切った目で少年を見た。
「ねぇ、あなたの好きなものって何ですか?」
このカフェが開いていたら温かい飲み物でも買って、焼き立てのパンでも食べながら話に花を咲かせられたことだろう。
悪いなとは思いつつも、汚れの少ないテラス席を探して女性を手招きする。軽く拭いて手を差し出すと、女性は大人しく座った。何もないテーブルに、いつかの未来で素敵なものが並んでいるといいなと願いながら、レモンは穏やかに話を続ける。
好きな動物。好きな食べ物。好きな色、好きな休日の過ごし方。返事はなくとも話し続ける事で、少しずつ女性の口から言葉が零れるようになっていく。毎日同じ事の繰り返しで、どうして生きているのかも分からなくなって死を求めた。
「……人なんて、どうせいつかは死ぬんです」
俯きがちの女性を真っ直ぐに見たまま、レモンは続ける。
「ならせめて、今は好きなもので満たされて生きてみませんか?」
つまらない日常を彩るのは、日常には不必要で個人には大切な、好きという感情だ。嫌な事があっても覆してくれる。これがあるから大丈夫。そう思えるものの存在が日常に変化を与える。そうして動かなくなってしまった心臓を満たすのだ。
女性からの返事はなかったが、足を止めて考える時間は出来たらしい。
彼女がこの先どの道を選ぼうと、レモンは隣に立つことを決めていた。一人で死ぬのは寂しすぎるからなんて謳って、自分の所為にして彼女の生を引き延ばす覚悟は出来ている。
どうせいつか死ぬののなら、楽しく生きた方がいい。その言葉に偽りはない。
●選択権
人の死生観など千差万別だ。幸せの絶頂期にこそ死にたいと願う者がいれば、全てを失った絶望ゆえに死にたいと願う者もいる。多くの者が大病などせず苦しみのないまま逝けたらと願っているだろう。そのうちのひとつに、眠った時にそのまま死にたいと思う者も存在する。
しかし、今回の怪異はまた別だ。望んでもいない者に望ませて、深い眠りに誘うのだから悪質と言って差し支えないだろう。自分の意思で死に向かうならまだしも、他要因で自死へ向かわせるのは止めなくてはならない。
「うーん、なんか皆しょーもない理由で死にたくなってない?」
漏れ聞こえてくる話を聞いたアドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)は眉根を潜めた。既に数人声をかけてみたはいいものの、誰も彼もが大した事ない理由で自らの権利を簡単に行使しようとしている。怪異によって引き起こされた事件だとしても、あまりにも理由が軽い。軽すぎる。
問い詰める段階で自ら死を手放した者も中にはいたが、アドリアンの問いかけは生きる気力の奪われた者の力を取り戻すには至らず実力行使に出る事もままあった。どうしたものかと気絶した住人を眺めていたところ、通りかかった七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)が良い案があるとのことで今は安全な場所にせっせと運んでいる。車も通らない街なので放っておいても良かったのだが流石に良心が勝った。
七々口の言う案とは、青薔薇に訳の分からない夢を見せられる前に見せてしまえというものだ。怪異ほど広範囲に無秩序に影響を及ぼす事は出来ないが、幸い夢を見せるだけの力は色欲の魔手が持っている。
「はいはい、良い夢行だよー」
黒猫が歩く。その後ろをふよふよと漂う魔手が往く。静かな街によく響く歌は、多くの人へ都合の良い幻影を見せた。ある者は愛する子を、ある者は気にかけたペットを、ある者は一番の友人を。そこに矛盾は生じない。幻影なのだから、同じ人物が現れていたとしても問題ないのだ。
心残りがある者は足を止め振り返る。夫婦で森に向かっていた者も、隣に本物がいるのに幻影に視線が取られる。大事な者を遺しては逝けないと、一欠けらでも思う心があれば足は鈍るのだ。
しかし、幻影全てがうまくいくとは限らない。彼らにとって都合が良いのだから、自死を望む人間にとって都合のいい言葉をくれる幻影もいるだろう。それに、想い人がいない人も中にはいる。
「あー、流石に全員はムリかあ」
「おいおい、呑気にしてる場合じゃないだろ」
引き返す人々を眺めていたアドリアンも重たい腰を上げて、いつでも力で止める準備はしておきつつ未だに森へ向かう人々の元へと向かう。
アドリアンが追い付く前に、幻影に背を押されて足早になった人々が急に歩みを止めた。正確にはナマケモノくらいの速度で森へ進もうとしてはいる。不審に思ってアドリアンが振り返ると、サムズアップした怠惰の魔手がいた。
「足止めはしといたから後は任せたー」
それだけ言うと七々口は気絶している人達の元へ歌を聞かせに行く。目が覚めた時、再び森へと向かわないように幻影を仕込んでおくのだ。
ちゃっかりしている黒猫を呆れ顔で見送り、アドリアンは改めて前へ進もうとする男性へ向き直る。
「なあ、森に行く前にもう一度よく考えてみてよ」
自死とは、生きる者がもつ最も大きな権利だとアドリアンは考えている。死んだ者にその選択は出来ず、また、生きた者も一度しか選べない不可逆の選択だ。今まで生きてきた軌跡を無に帰すに等しい行為でもある。動く体、考える頭がある事は当然ではない。
「やり残した事はない? 悔いは残らない?」
問いかけの返事は特にない。男性は胡乱な目でアドリアンを見たが、歩みを止める気はないようでふらふらと足を進める。
やっぱりこうなるかと拳を構えた所で、男性がぽつりと言葉を漏らした。
「ただの穀潰しに生きてる価値なんて……」
悔いもやり残しもあるが、それ以上に上回る自分の生存の無駄を嘆く声だった。
沈黙が降りる。どう応えたものかと悩める間はあった。完全に足を止めてうなだれる男の横を黒猫がすり抜けた。
「オレが今楽しいから」
七々口が両者の間に座り見上げる。
「それぐらい雑な感じで良いんじゃねーかと思ったりするけどね」
尻尾のない猫が交互に見て首を傾げた。世の中にはよく分からない事も理解できない事もあるが、そこに精神を削って弱る必要はどこにもない。楽しくなければ楽しくするし、楽しければもっと楽しくする。生きる事に深い理由なんて、価値なんて必要ない。
「まあ……そうだな。好きなことして、好きなとこに行く。後悔しないように」
少なくとも、今は自死すべき時ではない。この感情が何者かによって隆起させられたものなのであれば、自分で選んだ権利ではないからだ。
「改めて考えて、それでもまだ死にたいなら……」
続いた言葉に男性は深く考え込んでその場に蹲る。死の森へと向かう男性の足を止められただけでも、今は良しとしよう。
全て終わらせたその時が、生者のもつ権利の是非を決める時なのだから。
●終着点
青薔薇に囲まれ穏やかな眠りに就き、死に導かれる。それが悪い事なのだろうか。
生きる理由と問われてから、緇・カナト(hellhound・h02325)は数度首を傾げていた。人生山あり谷あり。突如事故にあって命を奪われる者も世の中には存在し、死にたくても死ねず痛みの中で生きるしかない者もいる。その中にあって、穏やかな眠りはかなりマシな部類だろう。
「生きる理由ねェ……」
そんなボヤキを聞いた野分・時雨(初嵐・h00536)はなんだか呆れたような顔をしていた。
「来月末まであるパンの春祭りポイントが貯め途中で勿体ないとか」
まあ、そういう理由もあるかもしれないけど。
「来週くらいには時雨君の面白シーンが見られそうな予感がするかもなァとか」
それはない。と思う。
「人をバラエティのように言ってるお隣さんもいますが!」
立ち去ろうとする青年の前にちょっと待ってと慌てて割り込む時雨は、これは置いといてとカナトを横に追いやった。話が進まないので。進行方向を塞がれた青年は怒りを顕わにするでもなく、ぼんやりと森の方を見たまま立ち止まっている。無気力な姿、虚ろとした瞳は怪異のせいだろう。
まだ若く未来輝かしい彼がどうして自死を望んで森へと向かう事になったのか、その闇深さを推し量る事は出来ない。根本的な問題があるかも分からないブラックボックスを前に出来る事は限られていた。
まずは、と咳払いと共に時雨が切り出す。
「休むことは基本!」
精神に余裕がない時こそ、人は邪念を抱いてしまう。それが内向的でも外向的でも起こり得ることだ。自死という単語が過る事もあれば、多方面に悪意を振りまく事もある。
意見としてはカナトも同じだ。だが、今回はただそれだけを勧めていては解決しない問題である事も同時に理解していた。生物にとって眠るという行為は休息とほぼ同義だが、青薔薇の所為で眠りについたら一生目覚めない夢の中に囚われる事になる。夢の牢獄を作らないために派遣されてきたというのに、それを推奨することはあまりに利敵だろう。
さて、このどん詰まりを解消するために、違う方向から突く必要がある。
「ですが、独りの時こそ考える時間はありますもんね」
「例えばそう、終わり……とか」
カナトの言葉にぴくりと青年が反応した。淀んだ瞳をようやく二人へ向けて嘆息する。
「生きものとして追い詰められてる時って、周りを見る余裕もないし」
人差し指が青年の心臓を指差した。どくどくとまだ脈動しているその臓器が止まる瞬間が脳裏を過る。
「終わりを意識してしまうよね」
言い終わってから数秒置いて、ぱっと両手を挙げた。害する気ない。話を聞いてもらえるように少し脅かしただけだ。
「あなたたちは……」
「まあま、話を聞いてからでも遅くはないでしょう」
ようやく初めての言葉を発した青年を前にして、時雨が話の終わりを引き取る。
「この世は無常です」
話し始めの言い切りは、人を会話に引き込むのに役立った。困惑した様子を見せた青年も、ひとまずは時雨の話を聞くことにしたようだ。隣でカナトも神妙な顔で頷いている。理解しているかは本人のみぞ知る所だが。
全ては常に変化し、最終的には必ず死という終わりが訪れる。あるいは、死という名を持たずとも同様の事が起こるのだ。生命はどのような種でも体を動かす器官が存在し、それらが役割を終えた瞬間に死を迎える。作られた物はどうだろう。これらもまた、劣化や故障などによって物としての役割を終える。概念的には死と同等と言えよう。
では人に絞って考えるとして、個々人が理解できるように人には感情が存在する。壊れた物でも愛着があり捨てられない。もう亡くなった友人をふと思い出し懐かしむ。一言で表すならば執着だ。
「本当に終わりたい、執着を手放せているなら、ぼくが見習うべき大悟の境地でございましょう」
さて、目の前の男が果たしてその境地に至っていると言えるのだろうか。
問いかけるまでもなく、青年の視線は揺らいで地に落ちた。人は図星の事があると動揺するものだ。どうやら更に問いかける必要はないらしい。その場から地蔵のように動かなくなった青年を横目に時雨は隣を見た。
「カナトさんはありますか。何かしらの未練、執着」
「……オレ?」
「そう。ぼくは甘えたなので。どうにもならずとも、自裁は試みません。他人に手を下してもらいます。怖いから」
「そうだなァ。執着あったり怖いからって理由、人間らしくって良いことだよねェ」
ぼんやりと考える時間が過ぎていくが、カナトの答えはもう殆ど出ていた。自らの部屋を顧みれば、目を逸らしてみても矛盾してしまう。自らの裡に留めておくよりもずっと、外側に理由を残していくだろう。そうやって生きてきて、これからもまた変わらない。
「あァ、結局まだ、自分で在りたいかの話……かな」
生きるという事は、足跡を刻むという事だ。
●心雨
「こんにちは」
片手に携帯電話を持ったまま、画面も見ずに茫然と森を見つめる学生がいた。誰かと待ち合わせの雰囲気でもない。虚ろな目が声に気付いて、ゆっくりと戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)の方を見た。同じくらいの背丈の女の子だと認識すると、ぺこりと礼儀正しく頭を下げる。
くるりが街に来てすぐに感じたのは、この街に漂う寂寥感だった。言葉にせずとも伝わる感じた事のない空気が死のにおいに近いのだと気付けたかは分からない。それでも、どこか力になれる人がいないかと街を訪れて、同じくらいの年代の子を見かけた。
遠くから見てても分かる胡乱な瞳。真っ暗な液晶に映り込む痩せこけた頬。
彼女もきっと、なんだか死にたいと思って気持ちが持ち上がらずに、そのままずるずると眠りの気配に引き寄せられたのだろうと想像するに難くない。
「少し、私に時間をくれませんか?」
返事はなかったが、立ち去る事もなかった。
希死念慮はいつだって誰の足元にも忍び寄って、ふとした瞬間に死にたいと思わせてくる。
仲の良い友達には自分よりも仲の良い友達がいる。家に帰ってもなんだか孤独な気がする。そんな居場所のなさ。
本当は好きなものを、周りに合わせてそんなに好きじゃないなんて言ってみて、胸に小さな棘が刺さったみたいに残り続ける。自分の弱さが嫌になって、落ち込んだ。
些細な切欠で、口からするりと死にたいなんて零れ落ちる。
勿論、誰もが理解しているのだ。死ぬのはいけないこと。当たり前のことだと。そうやって常識と非難で雁字搦めになって息も出来ない。
「……私、知り合った人が目の前で苦しそうだと、心臓がぎゅっとして、何か出来ないかな、って思っちゃうんです」
言葉を選びながら慎重に語るくるりのことを、彼女は先ほどよりも生気のある目でじっと見つめていた。
「ええと、その。だから、私の為に、しんどくなったこと、話してくれませんか?」
会話とは、薬にも毒にもなる。何もかもを否定され、どん底に落ちた人間を救うのもまた人間なのだ。語る言葉が、差し出す手が、何よりの薬になる。
たとえそれが解決方法に直結しないとしても、感情というこころが必要としているのだから。
「わたし……」
「うん」
「もう、耐えられない……」
はらはらと頬を伝う涙が地面を濡らす。整理されていない言葉が唇から零れ、胸の内を明らかにしていく。
「えらかったねぇ」
何の解決にもならない。でも、これが彼女には必要な言葉なのだ。
●名も亡き悪役
街道から外れたところ。心の奥底で助けてほしいと願わない、自死だけを求めた人間たちはそうしてひっそりと森の中へと消えていく。止めてくれる事を願わない魂でも今はまだ生きていて、明日の朝日を見れば気が変わるかもしれない。感情とはそれ程までに揺らぎやすく、また、単純な電気信号に過ぎないのだ。
少なくとも、怪異によって増幅させられた自死への判断力によって命は失われて良いものではない。
「……俺には向いてない」
整っていない小道を幽霊のように行進する男を見て、ぽつりと七・ザネリ(夜探し・h01301)はぼやいた。口のうまい誰かがいたなら代わりに口説いて足を止めさせることぐらいは出来ただろうが、生憎今はひとりだ。向き不向きが世の中には存在し、今回は後者だっただけのこと。
元より解決策は他にある。
人間とは、明確な指標があると安心するという。整理された推測や曖昧な結論よりも、より単純明快に断言された方が不安は解消される。それは言葉に限らず、立場にも言えた。分かりやすい敵がいると一致団結しやすく、また心持ちも整えやすい。
「アア、悪役らしく、な」
ゆらり浮かぶは、こどもの傘。赤い涙が幾数本。キャンバスの中に迷い込んだのかと錯覚するような、鮮やかな赤色の低木が茂り死へと歩む男の足を戸惑わせた。現実味の薄い光景を目の当たりにし、狼狽えた様子の住人は振り返り顔を蒼褪めさせる。
目が合った。
赤い傘の群れの中佇むザネリの姿を、男はどう捉えただろう。死へと招く悪魔か、はたまた命を取りに来た死神か。いずれにせよ、男が声を上げる間もなく恐怖が意識を刈り取った。抵抗する力などない。怪異によって低下した意識が今回は功を奏した。
崩れ落ちる男の体を掴み、衝撃を和らげてから地面に転がす。直前に見た光景が残っているのか魘されている様子だったが、起こしては元も子もないので放置する。
死にたいなどと思ったこと。それ自体を夢にする。
「……」
肩を竦めた。息が漏れる。
「仕方ねえ、手伝ってはやる」
目が覚め、明日を生き、その先を進むために。
抱えた闇がどんなものであれ、いらないいのちだったと嘆く男を救う道はまだ残っている。
「復路の切符を握って離すな。お前は、まだ戻れる」
ヴィランの独り言は静寂に溶けた。知らぬままの男に届く日は、未だ。
●雷鳴
柔らかな黒髪を掻き、トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は少年を見上げた。いわゆる人間の子供の身長で見上げるには大きく、しかし力を貸す青年よりは幼い程度の少年さえも惑わす怪異の力には呆れが出る。人間をこのように惑わせて、何が楽しいのだろうか。
言葉での問答はやはり、言葉を日常から用いる人間の方が一枚上手だろう。同じ土俵に立たねば、意味のない言葉を上手に繰れたとして少年の足を止める事は出来ない。ぐるぐると喉を鳴らしたトゥルエノは調子を整えて声を出した。
「暗い森を求めるか、少年」
死へ誘う森の入り口で少年を呼び止める。人間とは異なる生き物である黒い麒麟が出来る事と言えば少ないのかもしれない。それでも、自ら命の灯を消そうとしている人間を見捨てる事は出来なかった。精霊は精霊なりに、力になれる事がある。
生きる理由。
誰しもが生を謳歌する日々で考えた事があるだろう。なぜ生命は生きるのか。社会を形成する生物には、生存本能を上回る思念によって自死を選ぶ個体が存在する。彼らが一度として考えなかった事はない議題だ。
トゥルエノは人間と出逢い、様々な経験を経て、知った事がある。
自らの足で歩むこと。
自らの手で触れること。
自らの言葉で通わせること。
他者との交わりは独りでは得難く、素晴らしいものだった。たったひとつの意味しか持たなかった言葉が、多くの者と触れ、交流し、知識を広げた事で様々な意味を持つようになった。
纏う空気の冷たさを、ただ冷たいと表現する者もいれば寂しいと語った者もいた。その冷たささえ温かいと笑った者もいた。
吸う息の心地良さを、喜びと感じる者もいれば、刹那的と嘆く者もいた。混じったにおいが真逆の感性を呼び起こす事もあった。
全てはひとりひとりの感覚で以て得られる感情で、他者と交わらねば知る事もなかった感情だ。
少年の手を取る。すっかり冷えた手をトゥルエノの手が包み込むと、じんわりと温度が移っていった。
「嗚呼、勿体ない」
闇は全てを受け入れる。年端もいかない少年の未来をも呑み込んで、胸の裡に秘めた灯火すらも消し去ってしまう。
「どうか未だ、伝えたい言葉、逢いたい者の顔が浮かぶのなら」
手を引いた。語る言葉を静かに聞いていた少年の足が、トゥルエノの方へと一歩進む。
「おいで」
夜明けの光が、押し寄せる闇を払うだろう。
●傾聴
嘆く声を聴いてきた。嫌がる叫びを聞いてきた。
「√汎神解剖機関じゃ、珍しいものじゃないけど、流石に異常……だよねぇ」
死にたいと嘆く人間の話を聞けば三者三様の語り口で物事が進む。ある者はやっぱり死にたくないという心境に気付いてほしくて泣きごとを零し、ある者は引き留めてほしいという強い願いで他者からの執着を求めた。
しかし、この街は異常だ。誰もが口を揃えて、ただ茫然と死にたいと言う。感情に呑まれている。
同業が声をかけるのをちらほらと見かけながら、久瀬・彰(宵深ヨミに浴す禍影マガツカゲ・h00869)は十代くらいの子供を見かけて足を止めた。軽い調査の結果、眠りへと誘われている人の特徴として覚束ない足取りであること、虚ろな目をしていること、そして森がある方向を見ていることが挙げられる。目についた子供は全てに当てはまった。
昔から、どこか感情に乏しかった。
嫌だと思う事もなく、悲哀や今日も感じた事がない。ましてや、死にたいほど苦しい気持ちになった事も、生に執着し何が何でも生き抜こうと思った事もない。それはなにも、平々凡々な生涯を送ってきたからという訳ではなく、どんな境遇だとしても変わらないだろう。久瀬彰という人間がそういうものというだけだ。
だからこそ、目の前の子供の糧になるような言葉を紡ぐことは出来ない。共感することも、助言もしてあげられない。ないない尽くしだ。
それでも、出来る事がある。
「お嬢さん。これからどこに?」
胡乱な目をしていた子供は立ち止まり彰を見上げた。
「よかったら君の話を聞かせてくれないかな」
今にも泣きそうな子供の言葉を急くことはない。いつまでも待つし、きちんと聞き届ける。どんな出自か、どんな理由かは関係ない。人はふとした瞬間に死神に足元を掬われる。その鎌を、止めるための手段なら何でも取る。
言葉とは不思議なものだ。吐き出す事で胸のつっかえが取れることもあれば、誰かの心を傷つけることもある。幸い、彰は言葉を聞くのには慣れていた。目の前の人間が楽になるのなら、それで自分を見直し生きる理由を拾えるのなら、どんなに時間がかかっても問題はない。心を寄り添わせることはできずとも、力になれることはあるはずだ。
沈黙を保っていた子供がぽつぽつと言葉を漏らし、そのうちに嗚咽をあげ、泣きじゃくるのを隣で聞いていた。無責任な大丈夫は必要ない。まだ生きたいと嘆く小さな声を、ちゃんと聞いていた。
●切望
まだ年端もいかない子供たち。深い皺を刻んだ老夫婦。道往く人にまとまりはなく、街全体が怪異の影響を受けているのが一目瞭然だった。それぞれの足取りは重く、確実な死への階段を一歩一歩登っていく自覚もないまま眠りに誘われていく。
「……酷い有様ですね」
「ええ」
活気のある人間は来訪者しかいなかった。彼らもまた同じように星詠みの声を聞き訪れた仲間たちだろう。ある意味では声をかける相手が分かりやすいとも言えたが、喜ばしい事ではない。
戸惑いの気持ちを隠せないまま、廻里・りり めぐり(綴・h01760)はふと目に留まった青年に視線を止める。気になったのは彼の胸元だ。ゆるい装いのまま外を歩く彼の胸ポケットには所在無さげに万年筆が収まっていた。思わず、隣人の裾を引く。
「ベルちゃん、あの方の胸元にある万年筆が見えますか?」
囁き声を受け取ったベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)も視線を同じ方へとやった。確かに言われた物が収まっている。
「見えているわ」
「ずいぶんと使い込まれているみたい。きっと、ずっと大切にしてきたのではないでしょうか」
「ええ、そうね」
万年筆はぱっと見ただけでも型が古そうであった。にもかかわらず、新品同様に暗い街に薄く光を落とす日の光を受けて煌めいている。もはや幻想に囚われてしまった持ち主の代わりに訴えかけるように。
「彼はきっと、本来死には向かっていない人だわ」
互いに目を合わせると頷いた。驚かせてしまわないように静かに近付き視界に入る。やや俯いたままの男性の足取りは重く、追いつくのにそう苦労はなかった。
ぱっと見の印象は陰気そうな男性だ。街の雰囲気がより拍車をかけていて、痩せこけた頬の彫りが深く見える。極端に青白い肌ではないものの、不摂生をしている人間のようにも見えた。目立った特徴はといえば、骨に皮がついただけのような武骨な手にあるペンだこだろうか。
「御機嫌よう」
ベルナデッタが穏やかに声をかけると男性は足を止めて顔をあげる。ようやく目の前に人間がいたことを認識したようだった。どこか虚ろな目をしたまま、声を掛けられるままにお辞儀を済ませる。
「貴方、素敵な万年筆をお持ちね?」
「あ、ああ……」
ベルナデッタの声に反応した男性は両手で万年筆を握った。すっかり手のひらに包まれて見えなくなってしまうが、だからこそ大事にしていることが伺えた。男性の目からは警戒の色が見える。
街中でいきなり声を掛けられて話をしろなんて言われても無茶ぶりだろう。通常であれば違和感を感じる流れでも、今の彼らにとっては必要なことだ。多少強引でも話の流れを持っていくしかない。
「長い時間を共にしてきたのでしょう? その子の話を聞かせてくれないかしら?」
「ぜひ、あなたの思い出を聞かせてください」
ベルナデッタの提案に合わせてりりも声をかける。本来なら長話をするなら日陰にという所だが、今は少しでも日の光を浴びた方が力になるかもしれない。どこにでも席を用意できる二人はあえて邪魔にならない街道の端、日向とも言えない日向に手招いた。
会話に良い効果が見られるとして、その本人の精神状態も重要だ。自分よりも立場が上の人間に囲まれてする会話よりも、同じ趣味を持つ仲間や友人たちとする会話の方がリラックス効果は高い。勿論、シチュエーションも大事になる。身体の一部に負荷をかけたまま話し続けるよりも、よりくつろいだ姿勢の方が良い。
ベルナデッタのランドスライム、宵闇がぽよぽよと揺れながらとっておきのお茶会会場を占拠した。動く度にきらきらと内包した星の輝きが揺れるのも趣がある。何度か手で座り心地を確認した後、男性をそこへ座らせた。代わりにベルナデッタは黄昏に椅子をお願いする。
りりもまたアステリズムにお願いすればセッティングは完了だ。初めての座り心地に困惑する男性も、少しすれば慣れてきたのか落ち着いてきた。
万年筆を手に入れた切欠だとか、手入れはどのようにしているのかとか、些細な会話のきっかけを与えると男性はぽつぽつと語り始めた。この万年筆は妻から貰ったものだという。結婚する前の彼女が、作家である自分のためにわざわざ探してきてくれたプレゼントだ。男を支える妻として、そして、作家を支える相棒として、傍にいられたらと願い買って来てくれた。大事にされているのも頷ける。
しかし、不慮の事故で妻を亡くし、この万年筆もインクが詰まり、それからふとした瞬間に自死が過るようになったのだとか。いつも心を埋めていた存在を失い、魔がさすようになったのだ。今日の誘いも、その隙間によって起こされた。
「私は……」
男は言葉に詰まる。本当は亡き妻がまだこちら側に来ることを願っていない事は分かっている。理解と感情は時に乖離する。
「……もし」
静かに話を聞いていたりりが万年筆へと視線を落としてから男を見た。
「まだお話したりないのなら、わたしのお店に来ませんか? お直しもきっとできますから」
「ふふ、お店の宣伝、大切だわ。メンテナンスの相談にも、新しい出会いを探すのにも、りりの店はとても良い店よ」
よければと差し出された名刺と、付け加えられた約束の言葉を受け取ると、男性は再び頭を下げて立ち去った。今度は、森と真逆の方向へと向かって。
●存在理由
本来の生物に、生きる理由など必要ないのかもしれない。ただこの世界に生まれたから生きている。それでもきっと、良いのだろう。同時に、生きる理由がないから死んでしまいたいと願う事もまたひとつの権利だ。しかし、死は不可逆である。選択は慎重に行わなければならない。
夕暮に染まる街の片隅で終夜・夕陽(薄明の巫女・h00508)は今日知り合ったばかりの住人と隣同士で並んで座っていた。背もたれに隙間のあるベンチから尻尾を垂らし、隣人の話を聞いている。時に問いかけに応えながら、己の中に湧き出た死にたいという感情が本物なのか疑問視させた。
「君はまだ選べる」
自分よりも少し年上らしい青年へと向けた声は、言葉を選んでいるようで途切れ途切れだった。こんな話を具体的に言葉にするのはそうそうない経験だ。それも死にたいという一本橋の上にいる人間にかける言葉はより慎重にならなければならない。それでも、言葉にしなくては伝わらないから言葉にする。
彼の死にたい理由はまだ分からない。少なくとも自分の居場所がどこにもなくて全てを手放す判断をしたというのなら、止める術を夕陽は殆ど持ち合わせていなかった。そこに至るまでにたくさん傷付いて考えてきたのだから、安っぽい言葉で命に責任を負うべきではないからだ。
しかし、生き方が分からなくて、苦しみから逃げたい一心で自死を選ぶというのなら、止めなくてはならなかった。
たとえ辛い選択になったとしても、夕陽はそうすべき理由があった。災厄となった身だからこそ、見えた世界がある。
「君のその想いは……本当に在るべき場所に在る?」
生まれたいと自ら思い生まれた命はどこにもない。漫然と生きる事を強制された上に、生き続ける事を願われる世界だ。家族であれ、友人であれ、他人であれ、繋がりを持たぬ人であれ、人は誰かにそう願われて生きている。
「ボクは約束だから、今を生きるし」
ぼんやりと天を見上げていた夕陽が隣に視線を向けた。動きに気付いた青年が、俯いた顔をあげて目を合わせる。そこにあったのは死への恐怖だ。一瞬望んで足を取られ、なんとなくずっと死にたい気持ちになってしまった憐れな犠牲者。
しっかりと視線を合わせたまま、夕陽はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「生きたいのに生きれないというのなら、手を差し出すよ」
人は、そうやって手を取り合って生きていく。ならば、同じように手を差し出さない理由はどこにもなかった。
●軌跡を問う
死は生きているものの終着点である。
その最期の地に立った時、何が自分の中に残っているか。
それは、命の使い方次第だ。
「こんにちは。そっちには森しかないけれど、貴方は何をしに行くんだい?」
街外れ、覚束ない足取りで遠ざかっていく人影が振り返る。斯波・紫遠(くゆる・h03007)の目線の先には一人の女性が立っていた。傍から見ても健康そうな体躯をしていた彼女だが、目は焦点を定めておらず、踏み出す足に力はない。怪異の影響を受けているのだと簡単に理解出来た。
「……終わりに」
「へぇ。ソレはまた、何で?」
困惑の表情をするでもなく無の顔で紫遠を見ていた女性は、問いかけに対してはぽつりぽつりと言葉を返す。
その間にも紫遠は女性の身に着けた物や服装からどのような人物なのか、情報を集めていた。皺の少ない服ではあるものの、その素材は丈夫なものが使われている。飾り気はなく、シンプルな装いだ。華美なアクセサリーも特に付けていないが、手首には腕時計があった。きちんと身なりを整えているものの、靴は泥が跳ねてしまって汚れている。子供でもいるのだろうか。
ある程度、どのような立場に置かれている人間なのかを推測を立て、それとなく誘導していくのは業務柄慣れていた。
「どうせこの後誰にも会えなくなるんでしょ? なら、僕に話していってもいいんじゃない?」
女性の進路を遮る事はせず、いつでも逃げ出せるようにそれなりに距離を置く。警戒心の強い相手には害のないアピールをこれでもかとする方が近付けるというものだ。両手で自身を抱き締めるように組んだまま様子を窺う彼女の前で少々冷たいと思われるぐらいの声音で話す。いま、強い関心は見せない方が良い。
逡巡する時間が僅かに過ぎ、彼女の意思が垣間見えた。困ったような、縋るような、微かな揺らぎが瞳に灯る。
もう一押しだ。
「ソレは未練になっちゃうかもしれないでしょ」
とうとう、女性は頷いた。
彼女は名をソフィアと言った。
立ち話もなんだからと近くの公園にあるベンチに移動した二人は日除けの屋根の下で並んでいた。ソフィアはベンチに座ったまま項垂れ、表情も陰ってしまいよく見えない。これでは流石に覗き込むわけにもいかないが、声音で判断くらいは出来るだろう。途中寄った自販機のホットドリンクから湯気が立っている。
彼女を死に追いやっているものは、家庭の悩みだった。順風満帆な生活を送っていた彼女だったが、結婚し子供が生まれてすぐに夫が他の女と蒸発してしまった。残された子どもを一人で養わなければならなくなった彼女は貯金を切り崩し、自らも再び働き始め、何とかやりくりして唐突に訪れた地獄を乗り越えてきた。
そこでまた、二度目の地獄が訪れた。成長してきた子供の顔つきが元旦那によく似てきたのだ。
子供に罪はない。それをよく理解しているからこそ、誰に打ち明ける事も出来ず、ただ一人ずっと嫌悪感と罪悪感を抱えて生きてきた。乗り越えようとした矢先、これだ。
「私、もう、耐えられない……!」
「そうだなあ。耐えられなくて、苦しいよな」
紫遠は決して否定せず、ソフィアの口にする言葉を繰り返しながら整理し促し続けた。言葉の節々から伝わる子供への愛情は、当然強い未練となるだろう。子供を残して一人死んでいくことへの後悔。それしか選べなかった自分への絶望。優しく強い母だからこそ踏みとどまっていたものを怪異が崩してしまった。
「……貴方は命の使い方と終わらせ方を決めることが出来たんだね」
このまま肯定し送り出しても、結局囚われてしまうだろう。
「でも、本当にココで終わらせていいの?」
「……え?」
顔をあげたソフィアの目尻には透明な雫が溜まっていた。大分生気も戻ってきているように見える。少なくとも、出会ってすぐの頃よりは顔色がいい。
「貴方の話だと、未だやりたことがありそうだけど」
「やりたいこと……」
「そう」
例えば、成長して学校に入学した子供の勉強を見てあげるとか。例えば、大人になった子供と一緒に写真を撮るとか。例えば、愛した子の愛した人を紹介してもらうとか。
未来に起こり得る具体的な事例を指折り数えて口にすると、ソフィアははっと息を呑み目を瞠った。今ある絶望だけに囚われず、未来を夢見る。生きていれば辛い事も多いが、それでも日々のちょっとした幸せが人生を変えてくれる。
「それをやってからでも遅くはないと思うよ」
死は誰にでも等しく訪れる。それがどんな形であれ、逃れられるものはいないのだ。まだ先の長い未来を、自らの手で終わらせてしまうのは勿体ない。
何か言いたげにしている女性を前に、紫遠は軽く肩を竦めてみせた。彼女が言わんとしていることはもう分かる。活力の戻った瞳が、しきりに森とは反対側を気にする動作が、全てを物語っていた。
「大丈夫、今は僕と話をしただけ。僕は仕事を終えたらこの街を去る」
仕事の終わりに際して、ポケットから年季の入ったシガレットケースを取り出した。火はまだ付けない。
「ほら、納得いくまで命を使っておいで」
「……すみません。ありがとうございました」
ベンチから立ち上がった女性は深々と頭をさげ、振り返ることなく走り去っていった。きっと家に置いてきてしまった幼子が気がかりなのだろう。森へと足を運んでいた頃と違って足取りはしっかりとしており、もう心配はなさそうだ。後はこちらが原因となる怪異を始末さえすれば再び自死の夢へと迷い込む事はないだろう。
誰もいなくなった公園で一本、煙草を燻らせる。
「……僕には、何が残るんだろうな」
ふと、先輩の声がして独り言ちた。
●往時の共
冷たい風が吹いている。道明・玻縷霞(黒狗・h01642)は墓地の傍に来ていた。小さい街とは言えど、何処にだってその存在はある。人は生き、そして死ぬのだから。この街に住む人々も例外ではない。
経験から身についた観察眼は、どの住人が強く怪異の影響を受けているのか見抜くことが出来た。街に訪れてから住人達を怪しまれない程度に観察していて分かったが、怪異によって自死の感情が現れている人間はどこか気もそぞろでぼんやりとしている。また瞳に活力がなく、足取りは覚束無い。全体的に脱力した印象を与え、かつそれを隠そうともしていないのが特徴的だ。
まさに、生気を抜かれたと表現するにふさわしい。
玻縷霞が目を付けたのは墓地に訪れた老婆だった。今日は墓参りをすべき特別な時節ではない。ここにしかないものを求めて訪れているのだろう。
老婆は綺麗にされた墓石の前で何かを語りかけていたかと思えば、数秒無言になり森の方へと虚無の視線を投げた。薄く開いた口は力が抜けている証拠である。恐らく、眠りの怪異の誘惑が入り込んできているのだろう。
老い先短いとしても、人生だ。生があるうちはどの人間も変わらない。
「こんにちは」
彼女の佇む墓石の傍まで来ると、玻縷霞は静かに声をかけた。少し遅れて老婆が首を捻り玻縷霞を見上げる。
「おやまあ、こんにちは」
返答は確りしているものだったが視線は合わない。どこか遠くを見ているように感じられた。
「墓参りでしたか」
「ええ、ええ……娘の……」
老婆はそこまで言うと口を閉じた。どんよりとした沈んだ目が墓石を撫でる。
暫く、無言の時間が続いた。花のひとつでも手向けられれば良かったが、知らない相手に対して適当に手向ける花ほど失礼なものはない。ここで出来得る誠心誠意の対応は、目を閉じ、礼をすることだ。ここに老婆よりも早くに亡くなった娘が眠っているのだろう。
「……少し、お話しませんか」
その場から離れようとした気配を感じ、玻縷霞は引き続き声をかける。問答無用で足を止めさせても今回は構わないが、それでは根の部分が腐ったままだ。完全に取り除くことは出来ないが、言葉によって多少でも癒す事は可能である。
老婆はアンと名乗った。眠る娘はメアリー。アンの話によれば、数年前、離れた街に暮らしていたメアリーが帰省し数日共に過ごした後、メアリー夫妻が普段暮らしている家に帰る途中で怪異に襲われ亡くなったという。老婆に出来た事は何もなかったとはいえ、直前まで見ていた元気な娘がの姿が、無残な物言わぬ死体となって再び帰ってきたことはかなり心労を与えた。
それ以来、アンはうっすらと希死念慮に苛まれていた。そもそも、帰る日を決めたのはアンだったのだ。自分が無理を言ってでももう数日引き留めていれば、メアリーは死ぬことはなかったのだとどこかで考えてしまう。未来を予知することなど人には出来ない。それでも、もし、を考えてしまうのが人というものだ。
老婆の話を聞きながら、玻縷霞もまた自身と交流があった人々の事を思い出していた。似たような立場にある玻縷霞だからこそ、言える話、聞ける話があるのは確かだった。
「話しすぎてしまったわ」
そろそろ行かなくちゃと森へと目を向けたアンは疲れたような表情をしていた。
「お話、ありがとうございます。私も、感ずる処があります」
「まあ、あなたも?」
「80年……長く生きていると、多くの人を見送ります」
玻縷霞の言葉に、老婆は少し不思議そうな顔をした。足を止め、玻縷霞の話を聞く姿勢に変わる。
人にとって、80年は十分に長い年月だ。年齢を変え、見た目を変え、性別すらも意のままに変えて生きてきた玻縷霞にとって見送る事は少なくない。学生時代に切磋琢磨し、互いの健闘を讃えてきた同僚さえも月日には逆らえなかった。新任の頃に面倒を見てくれた上司や知人であれば猶更だ。歳を取り、引退し、老いて死ぬ。
「流れ行く時を止める事は出来ず、やがて終わる。それに意義を唱えるつもりはありません」
「ええ、そうね……」
視界の端で、老婆が左の薬指を撫でていた。彼女の配偶者もまた、残酷な程正確に流れる月日の流れに逆らえず、生という道から逸れてしまったのだろう。
ただでさえ独り身となった彼女が、愛娘を喪った心情は察して余りある。
「ただ……殉職した方は違います」
刑事、あるいは捜査官などをしている身では、いつでも隣に死が潜んでいる。それが誰かを守った末に向かえる名誉の死であることもあれば、あまりにも理不尽に訪れる避けようのない悔恨の死であることもある。
何故、死ななければならなかったのか。
何故、未来のあるものが逝くのか。
何故、――自分ではなかったのか。
「……」
「答えの見つからない問いが己さえも刺して、生きる意味さえ殺してしまう」
しわくちゃの手が墓石を撫でた。娘の名が刻まれた墓石は、今後何があろうとも言葉を発することはない。失われたものが戻ることは二度とないのだ。
「……きっと、貴方もそうなのでしょう」
この答えが見つかる事は、今後一生ないだろう。解のない問いは常に心に楔を差して、いつでも死へと転がそうとしてくる。
しかし、それを受け入れてはならない。
死が安寧ではないことを知っている。
「人は忘れてしまう。身近な死の記憶さえ、他と同様に」
あの日死んだ同僚の声を思い出せるだろうか。人には忘却という機能が備わっている。そうして人々の中に遺された死者の軌跡が全て失われた時、人は二度死ぬのだ。
「だから抗うのです」
「……えっ?」
「生きて、彼等を覚えていること。そして、私が死ぬ時は彼等と共に」
思い出の中にいる大切な人々となら、死も安寧に近付くかもしれない。我儘だろうか。それでも、人生を成し遂げ、否応なく訪れた死と共に逝けたならきっと後悔はないだろう。
「そんな死も、悪くないでしょう?」
玻縷霞の話に老婆も思う所はあるようだった。頭を撫でるのと同じように、墓石を優しく撫でると笑みを浮かべた。
「そうね。そうかもしれないわ」
●謳歌
「ねえ、貴方はどうして死にたいと思うようになったのか教えてくれない?」
訪れた街で、マリー・エルデフェイ(静穏の祈り手・h03135)は住人達に尋ねて回った。話を聞くという行為自体は時間がかかるものの、神聖竜詠唱の補助もあってか苦戦することは殆どなかった。心の奥底に根付いたものを完全に排除することは難しいが、その一部を緩和させることは可能だ。口々にお礼を述べ、森とは反対方向へ去っていく住民を見送ってきた。
いま、マリーは十代ほどの青年を引き留めている。
「話を聞かせてくれたら、きっと手助けができると思うわ」
「でも……」
「こう見えて私、実は結構長生きしてて人生経験豊富なのよ?」
自分よりも身長の低い、年下に見える女性に相談するのは気が引けるのか、あるいは気恥ずかしいのか青年はもじもじしている。それでも、マリーが急かすこともなく優しく促すものだから、ぽつぽつと断片的に言葉を並べた。
悩みは、実に単純なものだった。いや、単純というよりは、それで自死にまで至る事が異常なものだった。運動音痴な彼はよく学校でも揶揄われるそうで、つい数週間前に派手に転んで怪我を負ったという。その時にかけられた言葉がリフレインして、ついには死にたいと思うまでに昇華した。
明らかに怪異による異常だろう。呆れてしまう所だが、マリーは真剣に聞き届け頷いた。
「生きるって大変だよね。私も何度も死にたいなって、死のうかなって、思ったことはあるの」
「そうなの……?」
「うん。でもね、そんな時、いつも大切な人の姿を思い出して踏みとどまってきたわ」
貴方にはいない?と問いかけると、青年は瞼を伏せ考え込む。
「家族や友達。あとは、恋人とか。貴方が死んでしまったら、大切なその人達はとても悲しむと思うわ」
まだ家庭から出ていない子供にとって、親の存在は貴重だろう。青年の身なりから見るに、大切にしてもらっていることは窺える。きちんと愛情が伝わっているなら、子供からもまた、愛とまでは言わずとも唯一無二の存在になっているはずだ。
それに、彼の持つ鞄には可愛らしいマスコットのキーホルダーがついていた。もしかしたら、きょうだいや恋人がいるのかもしれない。
大切な相手がいる事は、生きる理由になりやすい。この青年にとって重大な要因にならなかったとしても、一時足を止めるには十分だ。
「人生って良い事も悪い事もあるけれど、それでも生きるってことは素晴らしいことよ」
だから、今は悩み、足を止め、全てが終わってからまた、考えるといい。きっと、馬鹿らしかったと笑い飛ばせる日がくるのだから。
●祝福
「大丈夫」
その一言が心を縛り付けて離さない。苦しくても、怖くても、ただその一言さえ口にすれば不思議と力が入るのだ。
そういう、まじないにかかっている。
「もう、いいか」
幼い声が呟いた。風に乗って届いた小さな悲鳴が、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)を振り返らせる。
彼の見た先には、手を繋いだ幼い兄妹が立っていた。小学校の低学年程であろう背の低い妹が中学生ほどの背丈の兄の手を引いている。強い力ではないものの頑なにその方向を目指しているらしく、少女は兄を振り返ることなくじっと真正面を見ていた。
声は兄のものだろう。ふと視線を滑らせた瞬間、彼の目から急速に光が失われるのが見えた。少女をその場に留めていた兄の力が抜け、よたよたと兄妹の足が進み始める。
顔をあげた。彼等が向かっている方には森がある。間違いなく怪異の影響で眠りを求めているのだろうと推測出来た。
人生は一度きりだ。人は死んだらそこで終わり。自然の摂理に生きていれば、二度目の人生が訪れる事はない。自らの命を捨てるという判断はそう簡単に下していいものではない。自分の意思と責任で、時間をかけて慎重に決めるべきなのだ。
それを眠りという概念でぼやかして、怪異は人々を死へと誘っている。
「こんにちは。二人とも、どこに行くところ?」
思わず駆け出していた。酩酊状態に近い二人の足に追いつくのは簡単だ。それでなくともラムネよりも幼い兄妹の歩幅は短い。進行方向を遮るようにしてまずは足を止めさせる。
兄は少し驚いたような顔をしていた。周囲を見渡して、不安げな顔でラムネを見上げる。一方で、妹は虚ろな目を森に向けたまま反応を見せる事はない。すっかり怪異に取り込まれ、今では死しか考えられない状態なのだろう。
こんな幼い子供達が、なぜ死に向かわなければならないのか。
「お兄さん、誰……?」
「祭那ラムネ。君は?」
「……カイ。こっちはエル」
カイが妹へと声をかけたが、エルは無反応だ。怪異に対抗する気力もないのだろう。幼い子供にそんな力がある訳がない。
心配そうに妹を見たカイが逡巡する。どこへと問われて返すには言いづらい場所なのだろう。あるいは、ここと表現できるものが大雑把すぎて言いづらいのか。ラムネは兄妹の様子を見守りつつ、無害なように振舞った。子供相手には少し腰を屈めて視線を合わせる。優し気な表情を見せ、柔和に努める。
「……森に」
一拍置いて、淀んだ目を見せたエルが口を開いた。
「死ににいくんだよ」
少女から零れるにしては物騒な単語だ。カイは酷く傷付いたような顔をして、一度だけ小さく頷いた。
「もう、いいんだ」
途切れ途切れにカイが言葉を発する。全て諦めたような声が、自分達に何があったのかを言葉にした。
数日前、両親が出て行った。何でもない買い物と同じように外出して、その日は帰ってこなかった。もう十を超えた兄だからと、カイはしばらくエルの面倒を見ながら帰りを待ち続けた。しかし、何の連絡もなく、時間は過ぎた。
そのうちに、エルが無断で外に出て行こうとするのを目撃した。慌てて手首を掴み引き留めると、エルははっと息を吐いて不思議そうに首を左右に振った。最初の頃は玄関で引き留めると足を止めたのに、段々と止まらなくなっていった。
「父さんも母さんもいなくなって、きっと次はエルなんだ」
どんどん家族を失っていく。もう、疲れた。だから死にたい。
「……」
話している間もぼんやりと遠くを見つめているエルを見たラムネは、彼の話している事に嘘偽りはないのだろうと感じた。あの星詠みも既に被害は出ていると言っていたのだから、彼等の両親はもう二度と帰ってくることはないのだろう。様々な経験をしてきた大人からいなくなるというのも、死を連想しやすく頷ける。
ずっと頑張ってきた少年をこのまま行かせてはならない。彼の努力を水の泡にしてしまうのは避けなくては。そのためにここに来た。
「なあ、ほんとに、死にてぇって……思う?」
「……」
カイは唇を噛んで俯いた。それが答えだろう。
「……ちょっと、俺の話聞いてくれる?」
「え?」
ラムネは穏やかに微笑みかけた。生きる理由を語る事が彼等の生に繋がるなら、どんな事でも言葉にする。大丈夫、とひとつ呟いた。
「俺、小さい頃から"ひとには視えないモノ"が視えてて」
「見えないもの……? 幽霊とか?」
「まあ、大体そんな感じ。ほんとにいろんなモノが視えた」
あれは結局なんだったのだろう。インビジブルと結論付けても良かったが、あの頃と同じものをもう一度見る事は出来ない。実際は幽霊なのかもしれないし、幻覚なのかもしれない。本当にインビジブルなのかもしれない。
ただ、見えてはいけなかったものという事だけは分かる。口にしてはいけなかったということも。
「親はそんな俺を不気味がって施設に入れたんだ」
生きているだけで迷惑をかける。
幼い頃にこびりついた記憶は心を縛り付けて離さない。柔らかい心臓の奥まで傷つけて、治す術も知らなかった。
親に怒鳴られ、詰られ、自分を責めた。誰も自分を愛さない。自分ですら、自分が嫌いだった。
「施設ではバレないようにふるまってた。けど……弟妹が怪異に殺されそうになったとき、隠すのを止めた」
怪異と言って兄妹にピンとくるだろうか。エルは相変わらずだが、カイはじっと視線をラムネへ向けて傾聴の姿勢を崩さずにいた。ふと口の端を緩める。
「そんで、何やかんや弟妹は無事だったんだけど、……先生も弟妹も俺を怖がって、申し訳なくて、促されるまま施設を出た」
今でもあの時の目は覚えている。
にこやかに振る舞おうとして唇の端が痙攣している先生の顔。引き攣った表情のまま優しい言葉を吐き、ラムネの傍から離れるとほっと胸をなでおろして溜息を吐いた。子供たちに聞こえないように夜の時間に話し合う大人たちの声は恐怖で強張り、早く追い出すようにと怒鳴る人もいた。
人は、簡単に正義のヒーローにはなれない。圧倒的な暴力を前にして、生物は恐れを抱く。精神がまだ成熟しておらず、より生物的な感情で行動する弟妹達にとってラムネの存在は恐怖の象徴だった。怪異を退けて救った事実よりも、いつかラムネの力が自分たちに降りかかるのではないかと恐れる感情が上回った。
それも、仕方ないと言えた。施設に来る子供達は訳アリが多く、他人に対してひどく敏感だ。傷つけられないように振舞うことを覚えた子供も勿論いた。
不幸だとも、不運だとも思っていない。ただの事実だ。大丈夫。
「それで……?」
「迷惑かけてる、って苦しくてさ。俺も、生きるのを諦めようとした」
この瞬間に怪異に誘惑されたなら、揺らいでしまう自分もいたかもしれない。都合の悪い現実から逃げ、眠りの世界に逃げ込む。響きだけ聞けば甘美な誘いだろう。その実態がどれだけ醜いものだとしても、だ。
「けど。……でも、今は、生きなきゃいけない理由が出来たから」
どんなに怖がられていたって、あの施設は自分にとって必要な場所だった。守りたい弟妹がいて、一時でも守ってくれた先生がいて。そこの施設長が資金横領をしたと聞いたときはすごく驚いた。もうなくなるかもしれないから、卒業していった人たちに一報いれているのだと聞いて経営難を察した。子供相手に寄付を望む事はしなかったが、自分のやりたいことは決まっていた。
そこから高校を辞めて怪異狩りの道へ進むのは早かった。
夢があった。宇宙飛行士になりたかった。
いつか、見果てぬ空の先へ行きたかった。
大丈夫。
「いろいろあったけど、生きなきゃって思ってる」
弟妹のために納得して、この道を選び、生きている。生きる理由になっている。
だって、兄貴だから。
同じ兄の立場にいるカイの頭をくしゃくしゃに撫でてやると、控えめな笑い声が聞こえてきた。死の気配をすこしは遠ざけられたようだ。
「俺たち、まだ何も終わっちゃいない。いくらでも再出発できる」
それは君たちも同じだと、改めてカイと視線を合わせた。カイもまた、小さく頷いた。隣の妹の手を離さず、しっかりと握ったまま。エルはといえば、ようやく振り返って不思議そうに自身の兄と、兄と話すラムネの姿を交互に見ていた。
「だからさ、――大丈夫」
「……うん」
「大丈夫だ」
今はまだ、死ぬ時ではない。
第2章 集団戦 『被害者』

●
「ここはすごく明るくて素敵な場所なのね」
カトレーヌが笑っている。暗い暗い森の中、日の光も届かない場所でワンピースを翻し笑っている。半透明の体を躍らせて、素足で地面を歩いている。
彼女の目には現実が見えていないのだろう。茂る木々をすり抜けて、楽しそうに歩くカトレーヌは真逆の言葉を発していた。
「ずっとここにいたいわ」
彼女の足元には眠る体が転がっている。泥にまみれ、足先を喪った体が横たわっている。傍には倒れた車椅子が、茨に蝕まれ放置されていた。
もう、目覚める事はない。
●
深い森に入っていくと、青白い光がちらほらと見えるようになってきた。それが正しく明かりだと思える人はどれだけいただろうか。
ある光は背の高い男性の形をしていた。
ある光は幼い子供の形をしていた。
ある光は背の曲がった老婆の形をしていた。
インビジブルとなった彼等が再び自らの肉体に戻ることはもうない。甘い夢の中で現実を忘れ、冷たい地面の上で静かに命を消費していく。間に合う者もまだいるだろうが、それを捜索している暇はない。
こんな広範囲の森を虱潰しに探す方が無理というものだ。怪異の眠りへの誘いは街まで届いていた。みな森を目指したが、その道中で眠りに落ちた者もいれば、最深部まで辿り着いてようやく夢へ旅立った者もいる。
貴方達にいま出来るのは、根本を取り除くことだけ。より多くの被害が出る前に。
しかし、既に過ぎ去ってしまった人々を放置することも推奨されない。件の怪異である青薔薇の影響を受け、全てに害する敵になってしまうからだ。戦いが始まればそれだけ強く影響を受ける。青薔薇の対処中に背後から襲われてはたまらない。処理するのは青薔薇に向かう道中、出会う人達だけで構わない。
被害者となった彼等を、どうするかは個々人次第だ。
まだ攻撃性の持たない人々を相手にするか、もう堕ちてしまったしまった人々を相手にするか。
夢が夢であることを伝え穏やかに死を迎えさせるか、あるいは率直に死んだことを突き付けて消滅させるか。
勿論、どんな個体を相手にしていても力によって消すことも可能だ。通常のインビジブル個体と違って怪異の影響を少なからず受けているせいでヒト型を保っている。影響を受けているインビジブルが誰かは一目で分かるだろう。
選択の時だ。
●
エシラは木陰で一休みしていた。ぽかぽかと降る太陽の光が心地良く、思わずうたた寝してしまいそうになる。
ポケットに入れた不思議なクッキーとお喋りなティーポットから溢れる紅茶を口にしてもいいのだが、遊びに来てくれている小鳥たちを驚かせては申し訳ない。水色のワンピースに身を包んだ少女は木の幹に背を預け空を見上げた。
様々な小鳥のさえずる声を聞きながら、エソラは上機嫌に鼻歌を歌う。決して上手ではないけれど、歌は唯一自分を裏切らない。
誰も彼も、ここにはいない。私を叱る先生も、冷めた目で見る両親も、全く何も知らないで笑う妹も。
●
「こんなトコロでどうしたの?」
紫遠が声をかけた瞬間、目の前がぶわりと風が吹き抜けていくように変化した。鬱蒼とした暗い森が一変、日差しが良く通る明るい森になる。周囲を這いずっていた茨は消え、ふわふわと花が揺れて足元をくすぐった。あたたかな空気が肌を撫で、あまりの居心地の良さに眉を潜める。
都合の良すぎる空間だ。
声をかけた少女は驚いたように目を瞠り、頬を赤らめて両手で唇を隠した。紫遠が不思議そうな顔で見ていると安堵したのか肩の力が抜ける。
「分からないの。気付いたらここにいた」
「……思い出せない?」
「うん」
急に知らない所に放り出されたら困惑するものだが、少女は特に困った様子はなかった。
「なら、僕と話をしない? 話しているうちに何か思い出すかも」
「お兄さん、暇なの?」
くすくすと笑う少女はエシラと言った。十代も中頃だろうか、大人びた表情をすることもあればころころと少女のように笑うこともある。多感な時期だろう。足を掬われてしまいやすい年頃だ。
「好きな事は……歌、かな」
「へえ。それでさっき歌ってたんだ」
「……聞いてたの? いじわるな人」
年相応に表情を変えるエシラは問いかけた事には素直に答えた。好きなもの、嫌いなもの。大事な物、大事な人。
話にはよく出てくる人物がいて、その名前をアリスといった。頻繁に妹の話を出す彼女だったが、だからこそ思い出の話には一切出てこない存在が際立っていた。
両親だ。
彼女にとってもキーはその二人なのだろう。
「じゃあ、嫌だったことは?」
その問いかけで、初めてエシラは口を閉ざした。暫くの間無言が続き、次の話題に変えようかと紫遠が口を開いた所で、ちょうどエシラもぽつぽつと言葉を続けた。
両親が冷たくなったのは、妹のアリスが学校に通うようになってからだった。成績が出るようになり、習い事も出来るようになり、アリスはどんどん才能を開花させた。一方でエシラはどれもそれなりで、両親はアリスばかりを褒めるようになった。どれだけ頑張っても見向きもされない。
お姉ちゃんなんだから。
その言葉を聞く度に指先が冷える思いをする。妹がいないところで行われる叱咤はいつものことだったが、あまりにも間が悪かった。
「ここは……誰もいないから……」
景色が揺らぐ。地続きの記憶の先、自分がどうなったのかを意識せずにはいられない。目の前にあるのはあまりにも現実離れした光景で、深い森の中にこんな素敵な場所があるとも思えなかった。
「……私、夢を見てるの?」
「……そうだね。最期に見る夢だ」
ぼんやりとした目が遠くを見る。今や現実と夢とがまじりあった世界では何が見えているのだろうか。紫遠はそっと右手を差し出して、エシラの顔を見遣った。
「僕なら、君を送ってあげられるよ」
「……」
死んだ事実は覆らない。インビジブルの体が消滅したら、ただ世界に溶けて消えるだけだ。
それでも、生きてきた時間は生きている人々の心の中に残り続ける。いい姉で在り続けたエシラの存在は、きっとアリスの中に残るだろう。
「エスコートしてね、お兄さん」
「任せて」
精一杯笑ったエシラが紫遠の右手に触れると、砂が波にさらわれていくように静かに崩れて消え去った。手の中に零れた微かな光を包み込み、祈る。道行く先に光あれと。
●
シェーンには子供がいた。若い時に少しやんちゃをして、早い時期に出産をして、辛い事もあったけど子どもと二人幸せな人生を送っていた。
隣でうすぼんやりと笑う、顔の見えない男性の手を取りシェーンは笑う。遠くで遊んでいる子供の影を見ながら、この時間が続けばいいのにと願って。
家族揃って旅行に出かける。ずっと、憧れていたことだ。ようやくそれが叶ったのだ。
●陽炎の幸福
影が森を裂いていく。闇に反応して振り向いた人間の残滓が迫りくる闇に怯え形を歪ませた。関節を無視して大きく開かれた唇からは絶叫が響き渡る。人間の声帯から生み出される限界の高音と、辛うじて言葉の形を残したその叫び声は衝撃波となって周囲の木々を薙ぎ倒した。
深と静まり還った森は不気味なほどに暗く重たい空気を纏っている。
「君たちはもう死んだんだよ」
倒木の後ろから影を盾のように展開したアドリアンは人間の形を持ったままのインビジブル、犠牲者の足元まで瞬時に飛び出しナイフを突きつける。出来る事なら受け入れて自然と消えてほしい。それも叶わぬなら、多少強引でも直接攻撃して魂を掻き消す。躊躇っている暇はない。
「……君たちは死んだんだ。たとえそれが本心で望んだ事じゃない、不本意な結果だったとしても」
言い聞かせるように繰り返す。彼等にも、自分にも。既にいくつかの魂が死を突き付けられて溶けるように消えていった。取り乱し、否定し、変質しかけたインビジブル個体には直接手を下した。
アドリアンは目の前の人物へと視線を向ける。注意深く様子を窺い、その後の反応次第では身を引くか直接消すか選ばなければならない。せめて前者であれと、何度願ったことか。
「僕も本当は、君たちみたいな被害者には、せめて穏やかに死を迎えさせてあげたいけど」
あまり時間をかけてられない。三、二、一、とカウントし始めた所でぎょろりと人型の目がアドリアンを見た。固唾を飲む。
その魂はまだ若い女性の形をしていた。一層醜く歪んで淡く光ったかと思えば、先ほどの形相は嘘のように綺麗な人型へと収束した。透き通った体からもう敵意は感じない。
彼女の口がはくはくと何かを発するように動き、最期に寂しそうに微笑んだ。
「……なんだよ」
アドリアンの言葉を待たずにインビジブルは空気に溶けて消えていく。普段当たり前のように目にする半透明のインビジブルも、人の形を残していると違和感が強くなった。力を使うため当たり前のように力を借りているインビジブルにも、かつては人生があったのだと強く意識させられる。
最期にありがとうと言った彼女は、きちんと眠れたのだろうか。甘い夢に惑わされ、完全に堕ちる前に逝けただろうか。
「はー……、ほんと後味悪い」
例えばここで眠りに就いてみれば、彼女らと同じようにいい夢が見れるのだろうか。だとしても、受け入れられるものではないが。
ほんの少しだけ、明日の夢見が憂鬱になった。いい夢でも、悪い夢でも、きっとこの日を思い出す。
●
目が覚めると温かい場所にいた。
「もう、いつまで寝てるの? おはよう、トト」
右を向くと、仕方ないなあという顔をした母親が微笑んでいる。未だに眠気の中にいるトトを優しく撫で、起きるまで待ってくれた。
「今日は出掛ける日だろ? 早く支度しような」
左を向くと、張り切った表情で父親が仁王立ちしている。出掛ける準備はもう済んでいて、後はお前だけだぞと背中を叩いた。
じんわりと胸の裡があたたかくなって、笑顔がこぼれる。帰ってきたんだ!
●光のもとへ
「――おうまさんだ!」
きらきらと輝いた目をトゥルエノへ向けた子供は開口一番そう叫んだ。しなやかな体躯の黒い麒麟は、ぱちくりと瞬きをして頭を傾げた。否定してやってもいいのだが、きっとこの年頃の子供には何を言っても聞かないだろう。頭を下げ子供の目線に合わせてやると、子供は無遠慮によしよしと鬣を撫でる。透明な手はすり抜けた。
「やあ、幸いなる夢の住人よ」
「しゃべった」
「はは、我は此の森の奥に用があるのだが、共にどうだ?」
「いく!」
幼い子供にとっては動物が喋ろうがあまり関係ないのかもしれない。話を聞かせて欲しいと問うてみれば、一から百まで何でも喋る。トゥルエノの鱗を物珍しそうに触ってくるものだから、慎重に歩を進めなければならなかった。こうして人間の子供に気を使いながら歩くのは新鮮な経験でもある。
邪魔だてする者はひとりもいない空間で、一人と一頭はお喋りに興じた。
子供は言った。毎朝母親が用意してくれる朝ご飯が美味しいこと。食べていると父親が出掛けていくので寂しいこと。お友達が集まる園で遊ぶのは楽しいこと。お昼ご飯を食べると眠くなること。日向が温かくて気持ちいいこと。夕方になると友人たちとお別れしなくてはいけなくて辛いこと。夜は家族が揃うから嬉しいこと。
子供ならではの感性を、拙い言葉でトゥルエノへ伝える。ひとつ喋ればみっつ止まらず、どんどん話題は増えていった。
「そうか、そうか」
聞けば聞くほど、なぜこの子供がここにいるのか疑問が残る。確かに気分を暗くする気持ちを抱くことはあったようだが、それだけなのだろうか。
穏やかな足取りで数十分進んだところで、子供の足がぴたりと止まった。数歩遅れてトゥルエノの止まる。首を曲げて振り返れば、子供がぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……何が悲しくて泣く?」
「いないの」
ぐずる子供をあやすのは困難だ。頭を添えてやると、小さな子供の手がトゥルエノを撫でた。
「おかあさん……おとうさん……」
子供の見る先に視線をやれば、ぼんやりと陽炎のような影が二つ並んでいる。インビジブル体とは違う色を持つそれは、子供の見る夢に出てきた人影なのだろう。
「往くが良い。キミを置いて去る人達ではないよ」
その場で足踏みをし子供の背を押してやる。子供とよく似たかんばせを持つその二人が誰かは想像に易い。死んだ両親の元へ、今ならまだ旅立てる。
「刻が巡ればまた話をしよう。今度は、陽の当たる光景で」
「……うん! またね、おうまさん!」
子供は最後に満面の笑みで手を振った。走り出す足が消えていく。一生懸命振る手が溶けていく。靄のような二人はお辞儀をして、三人揃って透明になった。
もう見る事もないのだろう。叶わない約束だけが心に積もってゆく。
人の、なんと儚いことか。
●
アンディには夢があった。いつか生まれる子供の為に、絵本を描いてやりたかった。嫉妬に狂った同業者に愛用のペンを折られるまでは。
ケイトには希望があった。毎朝焼き立てのパンの香りに包まれながら、今日も一日穏やかな日になる事を願った。手を滑らせて皿を割るまでは。
アレクには何もなかった。だからこそ未来は広く開かれ、何にでもなれた。親友だと思っていた者に嘲笑われるまでは。
ここは墓場だ。現実から逃げた者たちの、最期の地だ。
●暴飲暴食
この中に能力者が混じっていれば、また違ったのかもしれない。しかし、一般人がインビジブルとなってしまえばもう最後。そこが人生の終着点だ。インビジブルから元の人間に戻る力をふつうの生物は有していない。
「ふむ、もう生きてる人間はいないんか」
漂うインビジブルは三者三様だった。どこか遠くを眺めて上機嫌に散歩をする老人。見えない何かを寄り集めて、空っぽの手のひらを眺めて笑う少女。存在しない赤子を抱き締めてゆらゆらと揺らしながら子守唄を歌う女性。影響を受けているインビジブルはどれも人型で顕現しており、それぞれの夢の中で自由に過ごしている。
こうして七々口の目に見えているのは、√能力者だからこそだろう。通常の海の生物たちの存在も見受けられるが、それよりも濃い色で街の住人のインビジブルが浮いて見える。
彼等にも生き方はあったのだろう。しかし、もはや人ではなく、いつしか怪物に落ちていくだけの身だ。現に彼等の纏う光には暗い色が混じっており、放っておけば人々に害する存在へと変貌する。
「じゃあ、良いや」
欠伸でもするように口を開けた。何かを食べる動作。
途端、暴食の手がぶるぶると震えだし肥大化していく。その名の通りに食物を喰らう口が肉を裂いて現れ、膨れ上がった肉塊が編み上がって腕を作る。周囲の善良なインビジブルを消費して空中に鈍色のフォークが生成され、重力にそって十本地面に突き刺さった。
「暴食さーん。食べちゃって?」
食事の最初は、いただきます。
敵意に反応した暗い光が一気に被害者を呑み込みと、全ての個体が夢から覚めて七々口を見た。反して、七々口はのんびり足を進め始める。目的地は勿論青薔薇の居座る最奥だ。濃い薔薇のにおいに鼻を引くつかせ、振りほどくように体を振った。
巨大なフォークを手にした腕が怨念をまき散らす被害者たちの頭を、首を、胴を、腰を、脚を捉え持ち上げる。元が非力な被害者たちが多少力を持ったところで適う相手ではないのだ。腕に攻撃したところで、七々口本猫には何の影響もない。少し目敏い男が七々口に飛びついたとて、他の魔手がハエでも払うように手の甲で振り払った。その先にはフォークが待ち受けている。
十五の口が飢餓を満たすべくガチガチと歯を鳴らしている。どんな味わいなのかは、暴食にしかわからない。
「それにしても辛気臭い森だなぁ……。昼寝しやすい森を所望するよ、オレは」
周囲の阿鼻叫喚には目もくれず、七々口は森の奥を目指す。薔薇の香りが濃い方へ。その先にこそ、確かな獲物が待っている。
●
レオは手を繋いだことがない。より正確に言えば、両手が塞がったことがない。
生まれると同時に母を失い、物心ついた頃には父の背ばかりを眺めていた。いつの間にか増えた家族に困惑していると、更に弟まで出来た。急に赤ん坊の世話を見ることになるなんて考えてもいなかった。
分からないなりに、家族だと思っていた。血は繋がっていなくとも家族だと。
そう、思っていたのは、自分だけだった。
もう何も見なくていいように物語の世界に籠るんだ。作られた物語だけが味方だった。
●陽光の揺り籠
救いの形は様々あれど、それが救いとなるかは受け取る当人の感じ方に依る。だからこそ、人は精一杯力尽くし、誠意を伝え、或る手段を以て救いたいという意志を伝える。例え望んでいた形でなくとも、その願いは伝わると信じて。
問、幸せな夢を見続ける事は救いだろうか。
自らの肉体を捨て、現実から逃げ、夢に耽り、眠り続ける。肉体という枷が存在し続ける限り、魂は肉体に囚われ肉体と共に朽ちていく。夢の終わりに待っているのは何も幸福の二文字ではない。たった一つ、死のみだ。
「こんな行為、救いだなんて到底呼べません」
血が滲みそうなほどに力強く拳を握り締めたレモンは、遠く存在を感じる青薔薇の方を睨んでいた。多くの人々がまやかしに呑まれ死んできた。皆幸せそうに笑っていたが、現実に生きているレモンの目には冷たい地面で転がる人間の体も見えていた。
せめて、死に向き合わせてあげたい。
彼等は現実から目を背け、どんな夢を見ていたのだろう。レモンの過ぎる道に現れたインビジブルは地面に座り込んで本を読んでいた。本の内容は霞んで見えない。夢の住人にしか、その内容は分からないのだろう。彼を意識して視界に収めると周囲がぼんやりと図書館めいた幻影を映した。
「……こんにちは」
レモンが声をかけると本を読んでいた男は驚いたように顔をあげた。
「驚いた。人がいるとは思わなかった」
「それはまた、どうして」
「ここは夢だろ?」
今度はレモンが驚く番だった。自覚している個体と出逢うのは初めてだ。
「……あなたの夢は、幸せですか?」
「……」
袖が地面で濡れないように手元に手繰り寄せながら、レモンは男の隣にしゃがむ。暫く無言の時間が続いたが、男が攻撃的な態勢を見せる事はなかった。何が描かれているかも不明な表紙に視線を落とし、口を閉ざしたままでいる。
静かな時間だった。じんわりと焦りがせり上がってくるが、声が届いたのなら最期まで見届けたい。
「要らなかったんだ」
男がようやく言葉にした。幼い頃、気が付けば父親と二人だった。いつしか知らない顔の母親が増え、その二人の間に子が出来た。兄になった男とは随分と歳が離れていて、父も母も弟にかかりきりになった。他人との子である自分と、二人の子である弟の間に溝ができた。
成長して、家を出て、一人で生活をするようになった。初めて働いて得たお金を持って実家に戻った時、そこに自分の居場所はないのだと気付いてしまった。
「……仕方なかったんだ」
「それは」
「仕方なかったんだよ」
諦めの声だった。遮られた声を呑み込んで、息を吐いて、立ち上がる。
「仕方なくないです」
諦念に塗りつぶされた男を見下ろした。レモンの装いに眩しそうに男が目を細める。
「あなたはただ、泣けば良かった。辛いと、寂しいと、苦しいと、自分を抱き締めてあげれば良かったんです」
全て、過去形だ。もう二度とそんな日は来ない。亡くなった人間は帰れない。
手を差し伸べる。レモンに出来る事は彼を見送る事だけだ。
太陽があった。一拍遅れて光が差し込み、幻想の花が咲き始める。
「……俺には勿体ない餞別だ」
男は最後までその手を取ることはなかったが、陽光に焼かれ溶けていく直前、ぽつりと胸の裡を零した。寂しかった、と。
「……いってらっしゃいませ」
疑似太陽が消える頃、そこにはもう誰もいなかった。
●
愛した女性がいた。誰よりも美しく誰よりも優しい、清い心を持った女性だ。
アレンの一世一代の告白はついぞ実ることはなく、彼女は別の男性と恋に落ち結婚した。当然、彼女が幸せであることが一番だ。自分が隣にいなくとも、彼女が幸福に満ちた人生を送るなら応援したい。
応援、したい。応援、するべきだ。応援、しなくては。
そんなアレンの元に泣きっ面で彼女がやってきた。やっぱり愛していたのは貴方だったと囁いて、アレンの首に手を回してキスをした。
どこまでが現実で、どこまでが夢?
●理想郷
夢想の先に楽園を求めた。
どうしようもない現実も、覚めない夢の中にいればそこが現実に成り代わる。夢が最後まで終わらずに続いたのであれば、それは現実なのではなかろうか。であれば、楽園の夢を見続ける事は必ずしも悪とは呼べない。
「カナトさん元気? 元気無くても良いけど」
「んー」
ふわふわと考え事をしていたカナトを現実へと引き戻したのは時雨の声だ。鬱蒼と茂る森は道らしい道もなく、せっせと草木を掻き分けて進むことになる。後ろをぶらついていたカナトは殆どの仕事を時雨に任せたままにしており、有り体に言えば楽をしている。
「現実を突き付けるのってイヤなお仕事だよねぇ」
「どう捌くか趣味が分かれるところですが」
二人の視界の先、うすぼんやりと光る縦長が立っている。あれが周囲に漂うインビジブルとは別物であることはこの道中でも伺えた。遠くのものは別の人達が対応してくれたようなのでスルーしてきたが、とうとうルート上に出てきたというわけだ。
「さて、どうしたものかなぁ牛鬼クン?」
「ふふん、最近のぼくは優しさに飢えておりますので。優しく現実を突き付けます!」
張り切る時雨は置いといて。伸び放題の茂みをものともせずカナトは青白い光の元まで駆けてゆく。未だ敵意は感じられない。どころか、多分こちらに気付いていないのだろう。これだけ分かりやすく接近しても見向きもしない。
傍についても尚も夢の中にいる男は虚空に話しかけていた。会話は成立しているようで、口を開いたかと思えば頷く時間があり、急に笑い出して何かを叩く動作をする。流石のカナトも後ろを振り返った。時雨と目が合う。
これどうするの?
どうにかして。
そんなやりとりが目でされた。首をひねったままでは何も進まないので、カナトは足を止め短く詠唱を唱える。
「縋りし愚者の」
「わっ誰かいる?」
「のっ、……え?」
声が届く距離だ。男がカナトの声に反応してカナトを見る。詠唱途中で止められた愚者火は不完全だったが、すごくこぢんまりとした火が様子を窺うようにゆらゆらと揺れている。
どう見ても目が合っている。溌剌とした青年はカナトを見て不思議そうな顔をした。その後ろに時雨の姿も見つけて体が斜めになる。
瞬間、周囲の景色が変化した。一陣の風が吹いたかと思えば、暗がりの森は一面青空の花畑へと変わっていく。ネモフィラの花々が咲き誇る花園は圧巻の一言に尽きる。このようなシチュエーションでなければ、感嘆の言葉のひとつでも出ただろう。
二人の目には今、二つの光景が映っている。現実のじめついた森。夢の枯れない花畑。二つの景色が重なって具合悪くなりそうだ。
「へぇ、これが楽園……」
「君たちも見に来たの? 綺麗だねって、妻と話していたんだ」
カナトに合流した時雨は男の隣にいつの間にか女性が立っている事に気付いた。それがインビジブルではない事もまた気付けた。カナトも同じものを見ていたが、しかめっ面をしている。それもそうだ、女性の顔がのっぺらぼうなのだから。
妻と呼ばれたものは、明らかにふつうの人ではなかった。男のようにディティールが細かくなく、人のアウトラインを描いて少し肉厚にしてみた女性のようなモノである。
言葉に詰まっていると、男は二人に向き直り静かに微笑んだ。
「それにしても、来客があるなんて。困るな」
空気が張り詰めた。明確な害意はないものの、敵対する意志はあるようで、先ほどの穏やかな声が一変した。
「成ってしまった貴方がたが行き着く先は一つ」
「断ると言ったら?」
「……いつか、キミは意志のない獣になる」
「ええ、ええ。ですから、穏やかに流れるまま還ることです」
言葉を交わしながら、カナトは蒼い愚者火を呼び出していく。救いとなるか、悪意となるか。全ては場の流れ次第だ。
時雨はといえば随分と落ち着いた様相で男の真正面に立っている。カナトに先を越された時に用意した絹索を手に、男に一歩近づいた。
「怖くはありませんて。ほら、五色の糸を握って」
「……これで救われると?」
「自我や執着を手放し眠るだけ。欲した通りでございます」
時雨が辛抱強く語り掛ける横で、カナトは傍に寄った。救いの道しるべがあるのなら、後は迷わぬように墓守をするだけだ。どんな結末になろうとも、ちろちろと火を弛ませる蒼焔は変わらない。ただ全ての事象を反射して映すだけの灯に過ぎないのだ。
男は目の前に差し出された糸を見下ろし、手を伸ばす。緩く握手をしたところ、突然強い力がこもった。
「やっぱり、俺は……!」
夢に似つかわしくない暗雲が立ち込めた瞬間、宙から金剛杭の雨が降った。
「未だ悟るに能わず」
声にならない声がする。もはや人の形を保てなくなった被害者が怨念を撒き散らし、眼前の男二人を巻き込もうと金切り声で叫ぶ。取り乱す男の前で、時雨は淡々と語りかけ、カナトは道の先を見据えて立っていた。
「先導は墓守さんがしてくださいます。残さず送ってくださるでしょう」
未練を見せた男の絶叫が響いた。彼に抗う術などなく、なりたての悪しき存在の非力さでは消滅するほかない。
後には何も残らなかった。黒い粒子が空気に溶け、夢の風景がゆっくりと消えていく。
「あれ、誰だったんだろう」
「はて」
踵を返したカナトは隣にいた女性を思い出していた。被害者の男を送るのに併せて残り火はとうに消えている。今頃あの男の道しるべに浮かんでいることだろう。
「楽園とは、何処にあるんでしょうね」
誰に問うでもない独り言。
時雨は先を目指し、カナトもそれについていく。暫しの間沈黙が降り。
「ぼくのこと引っぱたけるくらいには正気でいてくださいよ」
「どうしようかな」
なんでもないようにいつもの会話が再開した。
●
木漏れ日の下でうたた寝している。世話焼きの師匠とどんくさいマナ。童話のような世界にどっぷりと浸かったマナは、物語の中で眠気を感じて木に背中を預けた。
お昼寝にしてはあまりに眠い。昨日はそんなに夜更かししていないはずなのに。こんなんじゃ師匠に怒られちゃう。
起きたら何から始めようか。まだまだやりたいことはたくさんあって、この先もきっとやりたいことが増えていく。
耐えがたい眠気に襲われて、視界はブラックアウトした。
●言祝
一歩一歩、確かに前へ進んでいく。アリアを奏でながら進む道は時折来客が訪れる。漂う海の生き物たちは自由気ままに泳いでいるが、青薔薇の怪異にかどわかされた住人達は皆マリーの神聖竜詠唱を耳にすると、ふらふらと足を向けてしまうのだ。
夢の中にいてもなお、インビジブルと親和性の高い√能力者たちの声は届く。それが強い願いともなれば、訳も分からず吸い寄せられてしまう。夢という曖昧なものの中にいる住人たちは、その思考すらも簡単に塗り替える事が出来た。
広範囲に渡るマリーの力は多くの人々を惹きつけた。それはもしかすると、本人が想像している以上の数だったかもしれない。一人、また一人と増える度、心が締め付けられるような思いをした。彼等に自覚はないが、マリーは知っている。彼等がもう救われない存在であることを。二度とこの大地を踏むことがないことを。
ふと敵意を感じて振り返る。マリーが声をかける前に、激しい絶叫が響いた。鼓膜を強い音が叩く。キンキンと音が響いて頭が痛くなる。
そこにいたのは、マリーの見た目と同じ年頃の少女だった。目からボロボロと黒い涙を流し、何かに悶えるように呻き声を漏らす。マリーの事はもう敵としか認識出来ていないようだった。
「貴方は今、どんな夢を見ているのかしら?」
ここまで怪異に汚染されてもなお、彼女は夢を見るのだろうか。もはや幸せな表情すらも見えない。明らかに辛そうな声と表情で何事かを呻いている。
彼女の怨念は確かにダメージを与えはするが、まだなり立てなのだろう。耐えられない程ではない。マリーは嘆く少女の元へと足を向け、根気強く話しかけた。
「自分が分かるかしら? ここが何処か、わかる?」
言葉らしい言葉は帰ってこないが、声を被せる事はなかった。会話は成り立たっていないが、返事を待ってあげると何事かを話している様子はある。声は聞こえているようだ。
「自分がどういった状況かもう解からないだろうけれど、そろそろ夢から覚める時間だよ」
頭に手を伸ばし髪を撫でつける。犠牲者となった少女の声はどんどん小さくなり、周囲に怨念を撒き散らす事もなくなった。項垂れるように腕から力が抜け、ゆらゆらと漂うクラゲのように脱力している。
「……夢は、終わり。ゆっくり眠るんだよ」
通常、インビジブルは時間をかけてゆっくり薄れて消えていく。しかし怪異の影響を受けた彼女たちは違う。その場で、すぐに溶けていく。
何も残らない少女の前で、マリーは静かに目を閉じた。せめてこの先の旅路が、困難のない幸せな道であるように。
●
レンは古本屋に来ていた。隣に最愛の人を連れて、趣味の読書の為の本を選んでいた。穏やかなBGMを聞きながら、誰かに愛されてきた本を手に取り会話に興じる。
平日の昼下がりにこんな時間を過ごすなんて早々ない。いつもならあの煩い上司がメッセージのひとつやふたつ入れてくるものだ。世話焼きすぎるあの人の気持ちも分からないでもないが、休日真っ盛りのこちらにも気を使ってほしい。
「どうしたの?」
リリが不思議そうな顔で見た。
「なんでもないよ」
レンは軽く肩を竦め、この本はどうだろうと真白い背表紙を手に取った。
●黄昏の導者
鼻の良い夕陽には最短ルートが何処なのかもすぐに理解出来ただろう。薔薇の香り、混じる人のにおい、踏み荒らされた大地の質感。それらすべてがゴールを教えてくれる。
それでも、夕陽はその道を選ばなかった。夢へと堕ちる人が増えていく中で、巫女として、人に寄り添うと決めたから。
彼等に出会ったのは偶然か、それとも運命か。人に寄り添うと決めた夕陽の気持ちに応えたのかもしれない。おおよそ、街から森の奥へ真っ直ぐ向かっていたら出会う事もなかった人々だっただろう。怪異に影響を受けているインビジブルが多い中で、彼等は悠然と歩いていた。影響を受けたインビジブルかと身構えたところで、二人は顔を合わせると森の奥へと歩いていく。
まるで、導いているようだった。時折足を止め、しかし決して触れることは出来ず遠ざかっていく。見えなくなることはないが、手を伸ばしても届かない。
夕陽と同じくらいの背丈の少女は長髪を揺らし、足元を気にしながら歩いている。
長く平たい日本の尾を靡かせた男性は、隣の少女を気にしながら歩幅を合わせている。
怪異がもたらす夢なのだろうか。
ふと、視界の端に青白い光が映った。足元が黒い靄で覆われたそれが犠牲者なのだと理解する。益々疑問が積もるものの、夕陽がやることは決まっている。
「こんにちは。君はどんな夢を見ているの?」
「夢……? ああ、そうか……そうだよな……」
彼は少し照れ臭そうに笑った。
「大した事じゃないんだ。本当に」
朝起きるのが憂鬱だった。昨日上司に怒られて、少し凹んだ。いつもなら寝てしまえばすぐに忘れられるのに、今日に限っては頭に残り続けどん底まで落ちてしまった。そんなちょっとした罅が怪異によって押し広げられ、此処まで来てしまった。
「なにかボクに出来る事はある?」
「そうだなあ……。残してきた妻に、リリにありがとうって伝えてくれる?」
男は夕陽ではなく少し上を見ていた。ふわりと空気が変質し、夕陽の目にも男の夢が映り込む。立っていたのは、素朴な雰囲気の女性だった。彼の記憶ではしっかりと姿が残っているらしく、透けていること以外は人間がそこに立っていると錯覚してもおかしくはない。
男は愛おしそうにその幻想を見つめ、溜息を吐いた。
「私はこの後どうなる?」
「……現実を認め眠りに就く。そうすれば、旅立てるよ」
彼の願いはきっと未練になる。残してきた人がいるならなおさらだ。怪異の影響を受けたインビジブルを放っておいたら、いつかはこの先も生きていく大事な人達の枷となる。
強い願いは希望にも、呪いにもなりうるのだ。目覚めの悪い選択肢なら、とらない方が良い。選べる選択肢があるうちに、出来る方を選ぶ。
「きちんと伝える。だから、おやすみなさい」
「宜しくね」
寂しそうに笑った男がまばゆい砂となって風に攫われていく。街の方へと流れるそれが、どうか、想い人の所まで届くように。
前を見ればあの二人が待っていた。どうやらまだ、先は長そうだ。
●
暖かな場所にいた。ふんわりと柔らかいベッドに腰掛けて、腕の中で眠る赤子の為に歌を歌う。我が子の為の子守歌は沢山練習してきた。前までは自信のなかった歌だったが、こうして歌う事に憧れがあったのだ。
レティシアは歌う。不幸な事が何もない世界に終止符が打たれる時まで、ずっと。
●舌足らずの鎮魂歌
森の中はしんと静まり返っていた。街に漂っていた物悲しさを濃縮した重たい空気が肌を撫でる。時折聞こえてくる笑い声が少しだけ不気味だった。
「これ以上被害が出ないように、急いだ方がよさそうですね」
「ええ。全部を見て回っている余裕はなさそうだわ」
街から見ても森の範囲は広そうであった。視界の悪さも相まって、一人一人を探していては被害者が増える一方だ。足取りの重たいりりは周囲を見渡しながら、時折見かける人だったものに祈りを捧げる。後の事は、元凶を取り除いてから考えるべきだ。どこに誰がいたのか、しっかり覚えて進んでいかなくては。
ベルナデッタも辺りを見渡し溜息を吐いた。鬱蒼と茂る森は、いるだけでもなんだか気が滅入ってくる。
「手が届くモノだけに絞りましょうか」
「はい。そうしましょう」
小さな手鏡を手にしたベルナデッタはその鏡面に触れぬように縁をなぞり、両手で支えて命を吹き込む。此処にいるのは似たような境遇の者達ばかりだ。夢に惑わされ、自分を見失い、甘い果実を毒だとも気付かずに頬張ってしまった。夜露の鏡に眠るあの子の記憶と共に、仲間たちの元へと繋ぐ淡色の輝きが零れ落ちた。光の道は途中で枝分かれし、それぞれ自分を見失った者達の所へと縁を繋ぐ。
夜露の鏡の力を借りながら、二人は森の奥へ奥へと足を運んだ。途中、黒い涙を零しながら襲い掛かってくる被害者と出逢う事もあったが、りりの炎焔が彼等を焼いた。天に向かって昇る炎が、せめて救いの道になる事を願いながら。
「りり、止まって。静かに」
それから暫くして、ベルナデッタがりりの服の裾を引く。言われた通りにりりが足止め耳を澄ませると場違いな歌が二人の元に届いた。
「……行ってみましょう?」
「そうですね」
進路から少し逸れた場所にいたのは、一人の女性だった。腕に何かを抱くようにしてゆらゆらと体を動かす様は母親のようにも見える。彼女は倒木に腰掛けたまま、子守歌を口遊んでいたのだ。聞こえてきた声の正体は彼女だろう。
「……こんにちは。少し、お話しませんか?」
りりが声をかけると、女性は驚いたように顔をあげる。その瞬間、二人を妙に温かい空気が包み込んだ。ベルナデッタが警戒態勢を見せるが、それもすぐに解かれる事になる。
そこにあったのは、室内の光景だ。いつの間にかうっすらと透けた木の床が一面に広がっていて、女性が腰かけている物が木からベッドへと変わって見える。正確には、幻想のような半透明の景色と現実の景色が混じっているのだが、夢の主である彼女の影響が強い場所は夢の景色の方が上回っているようだ。
りりとベルナデッタは一度目を合わせ、女性に向き直る。
「こんにちは。ごめんなさいね、煩かったかしら?」
「いいえ。素敵な歌だと思いました」
幻のベッドに腰掛けるか悩んで、ふと気付く。女性が抱いているものに視線が吸い込まれる。
そこには、――何もなかった。
「あの……」
「この子が好きな歌よ。よく泣いてせがむのに、今日はいいこね」
女性の慈愛に満ちた眼差しが腕の中の空間に注がれる。彼女はそこに赤子がいる事を迷わず信じ切っているのだろう。二人の目には明らかに空白しか存在しないそのスペースを女性の手のひらが撫でる。
まずは話を聞いてみよう。
こみ上げてくるものを噛み殺したりりは微笑んで女性と会話を試みる。彼女は快く話をしてくれた。
若い頃に結婚した夫婦だったが、長らく子供を授かれずにいた。何度も医院に通ってアドバイスを受け、試行錯誤を繰り返しながら日々愛を育んでいた。そしてついに念願叶って子を授かったのだという。腕の中にいる赤子は努力の末に産まれた愛の結晶なのだ。
しかし、二人の目にはそれが虚実であることは明白だった。実際の赤子は何らかの理由で命を落としたか、そもそも恵まれなかったか。
「……ねぇ、あなたが見ている景色には、矛盾がありませんか」
「矛盾?」
穏やかさの中に一抹の困惑を混ぜた女性が首を傾げる。
この女性にとって、今は幸せなのだろう。子を望んだ母の姿がそこにはある。しかし、これを現実のものとして受け入れてはならない。辛い事も、悲しい事も、全部生きてきた証なのだ。
「わたしには、あなたがどれほど辛かったのか、寂しかったのか、わかりません」
女性の腕に触れると、彼女は少し緊張した面持ちを見せた。表情は強張っている。
「でも、大切な思い出もあったはずです」
子は一人では授かれない。彼女の傍に長く寄り添い、一緒に戦い、最期の時を許すパートナーがいた筈だ。
「やめて……」
「痛み。悲しみ。逃避。夢……」
「やめて!」
ベルナデッタが腰を屈め、座ったままの女性と目線を合わせる。明らかに視線を逸らした女性の前で、ベルナデッタは真っ直ぐに見つめたまま声を紡ぐ。
「人生と切り離せないもので、あなただけのもの。誰のモノでも代われない」
彼女はとうとう、空っぽの手で両耳を塞いだ。
「どうか、その現実を受け入れて。代わりに、あなたの大切な思い出を抱いて逝けますように」
「何か託したい事があれば置いていって。ワタシたちが覚えているわ」
甘い夢から覚める時、苦痛を感じない人はいないだろう。はらはらと涙を零した女性は、何度か呼吸を繰り返し、恐る恐る二人を見た。幸せな夢への来訪者が夢を蝕み現実を露呈させる。気付きたくなかった。気付いてしまった。
けれど、絶望ばかりではなかったのかもしれない。
「……」
幸せな夢が崩れいくのにあわせて、女性の体も桜が散るように崩れていく。
「ごめんなさい」
消えゆく中、彼女は笑った。
「先にいくわ。二人で、あなたを待ってる。……そう伝えて」
「ええ。確かに受け取ったわ」
もう、返事はなかった。光の続かない森だけが、二人の前に広がっているだけだ。
●
サリィはエルの手を引いていた。今日は家族揃ってお出かけの日。毎日仕事で忙しい二人は、よく休日を合わせて街歩きに出掛けていた。特別な事はない。その日常の風景がそもそも特別なのだと知っている。
「カイ、今日の昼は何が食いたい?」
「んー、焼き立てのパンとか」
もうお兄さんになったカイはマルクの隣を歩いていた。流石に親子だからといって手を繋ぐような事はない。よく似た顔立ちの二人が並んでる姿をいつまで見れるのか、サリィは少し先の未来の事を考えて二人の背を眺めていた。
仲の良い家族だった。夢の中では、ずっと。この先も別れを知らない家族なのだ。
●祈りの梯
顔立ちで、すぐに分かった。
「……こんにちは」
声をかけて、思い知らされた。
「あら? こんにちは。旅の人かしら。ほらエル、カイ、ご挨拶して」
「こんな所まで珍しいね。是非ゆっくりしていってくれ」
強い風が吹きつけたかと思えば、目の前には街の風景が広がっていた。全てが半透明で出来たそれは、彼女たちが見ている夢なのだろうとすぐに推測できる。ラムネがつい先ほどまでいた街並がそのまま映し出されているのだから余計だ。実体としてある木々を無視して出来上がった街は錯覚を起こす。
何より、目の前にカイとエルが立っていた。エルはにこにこと見せた事もない笑顔で母親と手を繋ぎ、カイは父親の隣で興味深そうにラムネを見ている。
彼等二人が半透明な事が、そして両親が子供達に違和感を特に感じていない事が、ひどく空しい。
「……二人も、一緒だったんだな」
「あら、知り合い? どこかでお会いしたの?」
何も知らない両親は不思議そうにしていた。
これから、二人の子供のこと、自分達の身に起こったことを説明しなければならない。ちらりと両親を見遣るとそれぞれが幸せそうに笑っていた。彼等にとって、このなんでもない日常の風景が幸せだったのだと分かる。例え経験がなくとも、子供達が楽しそうに笑っている風景や実際に本人たちが両親の事を大好きだった姿を見れば、ぼんやりと想像は出来た。
このまま放っておけば幸せな夢のままなのかもしれない。
しかし、それは彼等がいつか、愛した子供達を害する日が来てしまう可能性を放置することと同じだ。
「……突然の事で驚くと思う。でも、話を聞いてくれるか」
あまりにも真剣な表情でラムネが言うものだから、顔を見合わせたカイとエルの両親はひとまず頷いた。
突拍子もない話で二人は困惑した表情をしていた。手を繋いだままのエルの顔を見て、母親は彼女を抱き上げる。そこにいる事を確かめるように、すっかり成長して重たくなってしまった娘を抱きしめた。父親の方も神妙な顔をして話を聞いている。少なくとも、冗談だと笑い飛ばすような夫婦ではなかった。
話し終えても暫く沈黙が続いた。ラムネは彼等の反応を待つしかなかった。言える真実は伝えたが、それを受け入れるための時間があまりにも短すぎる。それでも信じて待つしかないのだ。
「エルは……」
ぽつりと、母親が呟いた。彼女はしっかりとエルの顔を見ている。
「ここにいるエルは幻で、私達は……死んでいて、エルとカイはまだ生きてる。そうなのよね?」
「……ああ」
絞りだした声は震えていて、信じられないと言外に滲み出ていた。本当ならば嘘だと跳ね飛ばしたい真実を、彼女は母親だからという事実だけで受け止めようとしていた。全ての親がそうだとは限らない。しかし、彼女はまさしくエルとカイの親なのだ。
妻の肩を抱いた父親は夢の中のカイを手招いた。不都合な事実は届かないのか、カイは不思議そうな顔で父親の横に収まる。家族四人が揃って並ぶ、微笑ましい光景になるはずだった。もう二度と見る事はない光景だ。
「見知らぬ方に急に頼む事ではないんだが、いいかな」
穏やかな声に努める父親がラムネを見て困ったような顔をした。
「二人のことを頼みたいんだ。引き取ってくれとまではいわない」
聞けば頼れる親族はないそうだ。街には孤児院がないから、どこか生きていける環境に紹介するところまで手を貸してほしいと。
「カイはもう立派なお兄ちゃんだ。でも、まだまだ甘えたい年頃だろう?」
困ったように笑う姿は、どこか痛々しかった。そう振舞おうとしている所を指摘するのはあまりにも野暮だ。ひとつ、頷く。
「……あの。俺、ゴーストトーカー……ええと、少し変わった力を持ってて」
「ふふっ、そうね。こんな所で出会ったのも、きっとその力のお陰ね」
両親ともに気にした様子はなかった。今まさに不思議な体験をしている所為だろう。無意識に身構えて力の入った肩から力が抜けた。もしかしたら残酷なことをしようとしているのかもしれないという不安がそうさせたのだろう。彼等両親に対しての不安感か、子供達に二度両親の死を味わわせる罪悪感か。
「カイとエルに、会いたくないか?」
でも、そうできる選択肢があるのなら、伝えない理由はない。拒絶されようとも、選択肢が初めから用意されていないよりは選べた方が良い筈だ。突然迎えた、予定外の死。普段から愛された家族とはいえ、伝えたかった言葉は想像しているよりもはるかに沢山残っただろう。
「会えるのか?」
「多分。少しだけ」
怪異の影響を受けた彼等がどこまで生前の体を維持できるかは分からない。全てはやってみなくては分からない状況だ。術者との距離が空いたら消えてしまう可能性もある。全ては、彼等の想いとラムネの力次第だ。
両親には恐れられ、施設でも守ろうとして怖がられ、受け入れられなかった力。それが、今は役に立つかもしれない。
幻の兄妹を優しく撫でた夫婦は顔を見合わせて頷いた。言葉は必要ないのだろう。
「お願いします。私達を、あの子たちに会わせて」
「勿論、無理があってはいけないが……」
頭を下げる二人からは覚悟が感じられた。子を想う親の、なんと強いことか。
「……。わかった」
ラムネは祈る。彼らがどうか苦しまずに、安らかに眠れるように。そして、――最期に、出会えるように。
一迅の風が幻を消し去った。夢を夢と、死を死と認識した彼等の世界が崩れさったのだ。その中で二人の姿ははっきりとまだ残っている。
「急いだ方が良い。俺はここまでだ」
「ありがとうございます。そちらも、お気をつけて」
夫婦は深々とお辞儀をすると、ラムネにはもう目もくれずに走り出した。彼女たちがどうか辿り着くようにと、見えなくなるまで背中を追った。
時間がない。けれど、彼等が別れを告げ、受け入れるだけの時間は過ぎる事を願って。
●
トウヤは常々、此処ではない何処かへ行きたいと考えていた。古臭い考えに縛られた両親に、立派な後継ぎになる事を期待され生きていく。憧れた街に行くことも許されず、興味が出た芸術に没頭することも許されず、ただ二人の子供として生きていく。
これが絶望と呼ばずしてなんと言えるだろう?
世界を広げるための手段を奪われ飼い殺しにされる。なぜ、自分は生まれてきてしまったのか。なぜ、この親の元に産まれてしまったのか。
生まれて嘆き、夢に堕ちる。ここならば諦めた夢も手放した自我も手に入れられる。
●夢幻の幽霊
世界から拒まれたという事実を理解することは痛みを伴う。
誰だって幸せな夢を見たいと願うだろう。真っ当に純粋に生きるには世の中障害が多く、順風満帆な人生を送っていたとしても帰り道でたった一本違う道を選んだだけで異界に落とされることもある。生きとし生ける者の足元には、常にぱっくりと大きな穴が用意されているのだ。
ここにいるインビジブルの元となった住人達が、皆が皆同じ気持ちで訪れたわけではないだろう。本当に夢を望んで足を運ばせた者もいれば、怪異により強い影響を受けて負の感情が膨れ上がり誘き寄せられた者もいる。
覚めぬ夢の中で暮らす事が幸せなのか。あるいは、望まぬ夢から抜け出す事が幸せなのか。様々な可能性を考え始めてはキリがなく、また、その答えを玻縷霞は持たなかった。決めるべきは個々人であり、当事者でない自分が決めるべきではない。
ただ、ひとつ見逃せない事実があるからここにいる。
「警視庁異能捜査官として、その脅威を取り除かなくては」
浅く息を吐き、眼鏡の弦を押し上げる。
ここに来るまで幾人か被害者を相手にしてきた。彼等に共通して言える事は、深く夢の世界に浸かっているという事だ。幸せな世界への希望が大きいほど、つまりは現実への期待値が低いほど、怪異の影響深度は早く深まる。もはや自分がどんなものに成っているのかもわからず、訪れる生物を攻撃するナニカになり果てた。
だからこそ、玻縷霞の力が活きる。怪異の√能力に影響されていればされているほど、彼等自身の魂が√能力に侵食されているほどに同位体と判定されやすい。玻縷霞の持つ力、神凪は触れたものを無効化出来た。害する者になりたての被害者たち相手ならばそれだけでも十分脅威だ。
そして、彼等が死を望みこそすれ、他者に死を望んではいないと願っている。彼等が自分の意と反して他者を攻撃するものに成り果てたというのなら、その力で誰一人傷つけないようにするためにも役立つ力だ。
玻縷霞の進む先に黒い靄が揺れている。通常のインビジブルと比べて怪異に強く影響を受けた個体は黒っぽく見えるのは僥倖だった。彼等が気付いて振り返る前に距離を詰め、攻撃を仕掛けてくる前に無効化する。何が起こったのか理解するよりも先に、一思いに天へ送る。その繰り返しだ。
「……何故でしょうね」
遠く、黒く淀んだ靄に足元を染めた青年を見た。年代からして今の玻縷霞の見た目よりも少し若いくらいだろう。彼はどこか遠くの方を眺めたまま佇んでいる。目からは光が失われ、もはやそこに彼の意思は存在していないとすぐに知れた。
彼が死を選んだ理由は終ぞ分からないままだ。言葉を交わす事も不可能な青年の何を理解できようか。
なのに。
「何もかもを捨てて、此処でない何処かへ……」
何故か、理解出来る。
自分の居場所を見つめるでもなく、遠くばかり見る青年にかつての自分が重なって見えた。√エデンへ流れ着いた頃の、記憶のない、五感さえもない、無欲の自分。全てを何処かへ落としてきてしまったのか、あるいは奪われてしまったのかは分からないが、何もない事だけは痛いほど突き付けられた。
天罰か。あるいは、然るべき罪への罰か。ぽっかりと空いた穴に詰め込まれていたのは、絶望と呼べるほどの深い闇だけだった。
「……」
踏み込む。青年が気が付く。
「神凪」
普段は口にする事もない言葉が口から洩れた。確実に発動させる意識がそうさせた。悲痛な叫び声をあげた青年の被害者の音波をかざした右掌が霧散させていく。残照すらも全て消し去って、後には何も残らない。木々を傷つける事さえ彼には出来なかった。
彼は誰かを傷つける声になる前に、勇気を出して声をあげるべきだったのだろう。もはや推測の域を出ないことをいくら考えても仕方がない。また息を吸い込み怨嗟を吐き出す前に、腰を捻り左肩を引いた。拳を握る。
「許せとは言いません」
前に出た足が力強く大地を掴む。軸足に体重を乗せ、捻りを加えた左拳が真正面に放たれた。無感情なまま口を開いた青年の心臓部を的確に貫くが、インビジブル体ゆえに確かな感覚は訪れなかった。奪う感覚すらなく、青年の魂に穴が開いて揺らいでいく。
死んだと思わせるにはこれが一番効果的だった。√能力を纏わせた拳はインビジブルにもダメージを与えるが、それ以上に本人の死んだというイメージが彼等の体の崩壊に繋がる。人間の形をとっている彼等にとって心臓を貫かれる事は致命傷に違いない。その意識がそのまま力になる。
「どうか、安らかに。お眠りなさい」
拳を戻し、解く頃には、青年の体は散り散りになりゆっくりと空気に溶けていく。再びインビジブルに戻る事もなく、彼は消えていくのだろう。
この先、まだ似たような人達が漂っている。森の重たい空気は、玻縷霞の体をさらに重たくさせるのに十分だった。
●
日の差す街を歩いている。香る焼き立てのパンのにおい。騒がしい子供達の元気な声。空高く飛び交う渡り鳥。高い目線で見渡せる世界は、何を感じても新鮮だった。
これは夢なのだろう。ウィリアムはなんとなく思う。
軽快な足取りで進む道は整えられてはいるものの凹凸も残り、長時間歩くには向いていなかった。体が老いまともに歩けなくなってからはろくに外に出もせずに、揺れる椅子の上で窓の外を眺めたものだ。
これは走馬灯なのだろう。ならば死神が来るまでは、満喫するとしようか。
●死生の番人
健康が一番。そう謳う商品は世の中に数多く存在する。共感を得るフレーズだからこそ生き残ってきているのだ。誰しもが最終的に辿り着くところに存在するのだろう。人生において長く付き合うものは自身の体であり、身体が抱える痛みもそのまま感情に直結する。
多くの人々を見てきた彰にとって、人の一挙手一投足を見る事は当たり前のクセになっている。だからこそ、目の前のインビジブルの挙動が見た目よりも随分老人くさく、年齢不相応の動きをしているのだと気付けた。
彰はつい先ほど、妙にウロウロと歩き回っているインビジブルを見かけて声をかけた。どこか一所に留まる傾向にあった夢中の被害者と比較して奇妙な動きだったからこそ警戒したが、今ではその理由がなんとなく察せられた。
夢の中では、どうやら自らの人生すらも思い通りになるらしい。年老いた筈の体は若返り、はたから見る分にはとても生き生きとしている。常日頃から人を見てきた彰だからこそ気付けた動作のクセに違和感を覚え、彼との話の中で見た目年齢以上の経験をしていることも引き出せた。
「じゃあ、次は何をするつもり?」
彰は幻想の街のベンチ――実際は深い森で突出した木の根だが――に並んで座って男の様子を窺う。特に変わった事もなく、特別な事も起こってはいない。ならば、このなんでもない現状こそが彼にとって望んだ事になる。何気ない日常。当たり前のように享受してきた日常は、身心の衰えによって容易く崩壊することを彰は知っていた。
彰の目から見てまだ若い男は質問の応えを探してうんうんと唸っている。強い欲求があればすぐにでも口にしただろうに、彼は悩むばかりで答えが出ない。
やはり、予想した通りだろう。
「いま、こうして自由に歩き回れるだけで満足?」
「そうだねえ」
時折出る間延びした年寄りらしい受け答えも予想を補強してくれた。
自覚はなくとも、彼は理解している筈だ。この代わり映えのない日常が幸せであり、今の自分はもうその幸せを受け取れない立場にあることを。現実の自分はもはや何時間も立って歩くことも出来ず、ただ死神がいつ訪れるのかわからない不安に苛まれながら生きるしかなかったのだと。そうでなければ矛盾する。怪異の夢の力が思っているよりも無能でない限り。
証拠をひとつひとつ集めていくように、彼が生前どんな人間だったのか情報を集めていく。相手が人間だろうとインビジブルだろうと、ヒアリングは丁寧に。
「なら、そろそろ出発する時間かな」
「……」
彼はその言葉を聞いて彰を見た。口を閉ざしたまま暫く視線を投げかけた後、ゆっくりと空を見上げる。彰の目には鬱蒼と茂る森が日差しを遮ってしまい、薄暗い景色しか見えていないが、彼には確かに青空が見えているのだろう。
「やっぱり、そうかあ」
その目は、どこか寂し気に見えた。
彰は死を恐れた事がない。訪れるべき時に訪れるものである。今まで歩いてきた道程を振り返り悲哀を感じた事もなければ、儘ならない現実に怒りを感じ憤った事もない。ゆえに、死を嘆く人々への共感はどうしたって出来ない。
ただ、それでこそ出来る事がある。同じ様に寄り添い痛みを感じる人は、時にその痛みが中心となって相手を退けてしまう事がある。加えて、深く共感する事は自らの精神を死に近づける事でもある。傍で支えて送り出す役目を持つ生者が、死者に引きずられてしまっては元も子もない。
ただそこにいて、送り届ける。これほど相応しい役目もないだろう。
「遺したいものはない?」
「そうだねえ。全部、おいてきちまったからね」
よいしょと立ち上がった青年は、いつしか腰の折れ曲がった老人の姿へと変わっていた。随分とこなれているのか、夢の中でも確りと愛用の杖をイメージして体を支える。思っているよりもずっと夢を楽しんでいる様子のご老体に彰は少し笑った。
終わりへ向かう道は一人でしか歩けない。手を引いてあげる役目は自分ではない。
「迷子にならないようにね」
「ほっほ、なあに、時間はある。辿り着けるさ」
実際の所、あまり長く留まられては困るのだが。彰は軽く肩を竦めるに留めた。急かしたところでいい結果は得られないだろう。
「いってらっしゃい」
彰も立ちあがり、すっかり目線が下になってしまった老人を見下ろす。しっかりと背筋を伸ばし、姿勢を正して彼の背を見送る事にした。
ゆっくりと歩き出す姿はひどく遅く、それでも確かに進んでいる。最期に多くの話が出来た事は、彼にとって後腐れなく進む糧になるだろう。人生を振り返るような物語は、やはり彼がどこかで終焉が訪れようとしていることを察したからかもしれない。
徐々に薄れていく後ろ姿を見つめたまま、彰は彼が消え去る最期までその場に立っていた。目を閉じ、深く礼をする。向かう先はそれぞれで、彰は進むべき道への歩みを再開した。
●
ジェームズは笑った。家族で遊園地に行く予定だったのに、彼が風邪をこじらせてしまったせいで行けなかった遊園地に皆で来れたからだ。
シェルティは空を見上げた。いつか写真で見た真っ白な雪景色を堪能してみたかった。雪のカーペットに身を投げて、透き通った空を見るのが夢だった。
サムは追いかけていた。童話のような世界に憧れた彼の目の前を猫たちが歩く。映画のような世界に飛び込んで、帰り道を失った。
名前を挙げれば限りなく、両手ではすっかり足りない程だ。ここには夢が溢れている。
●送り火
死、とは。知性を得た人類のみならず、期限のある生命は須らくそれに恐れを抱く。概念を知らぬ子どもぐらいだ。
さて、理解出来たとて、受け入れらるかはまた別の話である。亡き想い人を一生胸に抱えて生きる人間もいれば、明日目が覚めたらもうすっかり一人で生きていく決意を固める人間もいる。名前だけ知っている有名人の訃報を聞いて涙する人間もいれば、とんとお世話になった恩人の葬式で涙ひとつ落とさぬ人間もいる。
他者の死に対しての向き合い方は人それぞれだ。しかし、多くの人にとってその存在がなかったことにはならない。もう日常に存在しなくとも、ふとした瞬間に亡き人の好物を思い出す。別れる恋人には花をひとつ教えておくと言われるように、日々を過ごす中で故人の触れた物は必ず記憶のどこかを刺激するのだ。
夜を何度越えようとも、例え全くの他人だったとしても、死の理解とは複雑なものだ。完全な理解には至らない事もままある。
他人ですらそうなのだから、己なら猶更だろう。
全ての生命は死後、見えない怪物と化す。こうして死後を語れるのは、直接インビジブルを見ることのできる√能力者ならではだ。殆どのものが自覚のないまま透明な海のいきものとなってふわふわと空中を漂い、ある瞬間に体が解けて溶けていく。
この森に惹きつけられた住人たちはその道理から外れてしまった。死後もなお人型を保ち、幸福な夢の中で暮らし魂を怪異に汚染されていく。体はとうに朽ち果て養分となり、魂はいつしか怪異の一部となって無作為に生命を脅かす。
「……さて」
《悪役》ならば、どの道を選ぶか。目についた奴に片っ端から赤い雨を降らせてやるのが正解か。はたまた、誰にも構わず青薔薇への道を進めば正解か。
ただ力の限りを振るうのは主義じゃない。理解もなく一度死んだ人間をまた殺す気にはならなかった。趣味じゃない。では素通りするか。それもまた、違う。
ザネリは思案しながらも大分奥まで進んできた。青薔薇のにおいは既に濃く、周囲を漂っていた海のいきものたちはとっくに姿を消していた。代わりに存在するのは大量の人、人、人。夢へ浸かる彼等はそれぞれに違う夢を見ていて、こんなにも傍にいるのに全く別の方向を向いていた。虚空へ話しかける人、楽しそうに一人で笑う人、静かに絵を描いている人、見えない誰かと手を繋ぐ人。
足を止めた。
「百灼いて、どうか」
目が合った。子供に干渉した瞬間、目の前が異常なほどに明るくなった。その光景が遊園地であると、どこからか鳴る軽快でいて不明瞭な音楽と回るメリーゴーランドが示していた。不定形の靄と手を繋いだ子供はぽかんとした表情でザネリを見上げ、親代わりとでもいうのか靄の手を引いた。
彼が声が出す前に、蠍の火が子を灼いた。
「百灼いて、どうか」
見下ろした。倒れたままの女を認知した瞬間、周囲が雪景色へと一変した。はらはらと舞い散る白い氷の結晶たちは肌に触れても冷たさを齎さない。この女が望んだ夢がどんなものなのかは理解出来なかった。倒れたままの女は微動だにせず、しかしその顔色は血が通っていて眠っているようにも見えた。
彼女が動き出す前に、蠍の火が女を灼いた。
「百灼いて、どうか」
横切った。もはや元が何かも分からない縦長の影。男性なのか、女性なのか。子供なのか、大人なのか。辛うじてそれが人間であると認識できる程度のものだ。時折半透明の魂が揺らいで元の形を作ろうとするが、真っ黒に染まった被害者の魂が元の形を思い出す事はなかった。
それが見えなくなる前に、蠍の火が魂を灼いた。
暗い森に火が灯る。ザネリを中心にポツポツと灯が増えていく。この火が漂う彼等にとって救いと見るか、脅威と見るかは分からない。分からなくても構わない。
低い声が歌を紡ぐ。もはやタイトルも思い出せない子守歌を口遊むと、蠍の火がまたひとつ増えた。あかるく燃え続ける真っ赤な火が、怪異によって魂だけの存在にされた被害者たちを横取りしていく。帰り道を喪った者達にとっては、青薔薇よりも光る蠍座の方がまだマシなのかもしれない。真実は誰も知らない。終わりだけが等しく与えられた。
「……あかるいな」
あまりにも多くの火が灯っている。
道のように続く蠍の火の先へ、いつか訪れる日が来るのだろう。そこが正しく終わりで、ほんとうの幸なのか、未だ解らない。きっと目を離したすきに、目の前に急に現れて突き落としてくるのだ。予想も出来ない未来の瞬間を、想像するのは難しい。
「嗚呼、そうだな」
この先もきっと解る日は来ない。どいつもこいつも、置いていくばかりで、誰も教えちゃくれなかった。
一歩足を進めると、森を照らしていた火は消える。誰も導いてくれやしない。
第3章 ボス戦 『眠る乙女』

●
青薔薇が咲いている。
森にぽっかりと開いた空間があった。華奢な装飾が施された寝台が静置してあり、一人の少女が眠っている。彼女がどこから来たのか誰も知らない。ただこの森全体を揺り籠として、夢の世界を築いている。
一歩足を踏み入れると、今まで微動だにしなかった青薔薇がずろりと地面を這った。ひとつ、またひとつと増えていくとうつくしい少女を守るように篭を作る。誰にも彼女の眠りを妨げる事を許さない。否定するものをすべて排除するために。
とうとう眠りは死を望まぬ貴方達にも影響を及ぼした。ぼんやりと見えるのはどこの景色だろうか。波の音が聞こえたかと思えば、激しい花火の音が全てを消し去る。砂浜に足を取られたかと思えば、いつの間にかコンクリートの上に立っている。あらゆる幸せな夢から構成されたその幻覚は、貴方達を強制的にでも夢の世界に突き落とそうと誘った。もはやこの距離では、夢に囚われてしまえば抜け出す方法もないだろう。
貴方達は青薔薇の香りを振り払い、現実を認め生きていかなければならない。眠りの乙女を維持する青薔薇が全て枯れ果てたその時が、美しい怪異の終わりの時だ。
●獄炎の檻
「ああ、やっぱり。なんでか知らないけど、テメェを見ると無性にイライラする」
地を這うように咲いた青薔薇を踏み抜いた七々口は苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。青薔薇はただそこに咲くだけだ。返答がある筈もないが、そもそも返事を求めた言葉ではない。
街の傍にある恵みの森を陰鬱に変え、その奥で堂々と咲き誇る青薔薇が気に食わない。
奥に踏み込むと一層強く充満した、青薔薇が振りまく濃い花の香りが気に食わない。
取るべき選択肢は決まっていた。故に、燃やす。
「――我が身を門とし、来たれ」
七々口の足元に小さな炎が灯った。
「世界を燃やす憤激の炎よ」
黒猫を囲うように炎が渦を巻くと、徐々にその勢いを増していく。中央に閉じ込められた七々口は炎の壁の向こう側、全ての怒りが集束する先へと視線を投げる。生まれていくのは獄炎の津波だ。門たる七々口を中心とした、七々口が認識する世界の全てを燃やし尽くす憤激の炎。一度点いた怒りの火は収まるところを知らず、数百メートルにも及ぶ範囲を炎の舌で舐めていく。
大罪深化【憤激魔猫】。
より深く、より深淵へ憤怒の魔手と繋がった。青薔薇に対して抱いていた憤怒の感情が魔手との結合を以て更に過激に燃え上がる。全てを焼き尽くす炎は、青薔薇が七々口へと齎そうとした、眠りの乙女にとって都合よく解釈された幸福の夢すらも焼き尽くした。
全てを、焼くのだ。
それが掴めない概念だろうと変わらない。七々口が露わにした怒りを拒絶出来るものなど、その場には存在しなかった。鼻腔を抜ける青薔薇の嫌な臭いも、歩く度に目につく青薔薇の茨も、この森にもたらされた陰鬱な気配すらも全て焼く。
「死ぬのも生きるのもそいつの自由だろうが」
火炎の波が収まった時、七々口の周囲一帯には何も残らないのだろう。そんな時が来るとして、まだしばらくは先だ。沸々と湧いた怒りの感情は未だ衰えるところを知らず、怒りを燃料にして燃え盛る炎に衰退の兆しはない。眠りの乙女がいる限り再生し続ける青薔薇は再生した瞬間から憤激の炎に囚われ燃え尽きる。この一帯に咲く花の運命はもう変えられない。
「それを少しでも曲げようとするのが気に食わないんだよなァ、オレは」
怪異が滅びるまで。憤激の魔猫は大罪を犯す。
●月夜が齎すものは
ただ青薔薇を愛でるだけであったなら、どれだけ良かっただろう。周囲に充満する青薔薇の濃い香りでは誤魔化されない腐臭が現実を知らしめる。美しい花の影には今まで誘惑されて朽ちていった人々の遺体が転がっていた。奥に進むほどに原型を留めず、異様なまでに腐敗している。青薔薇が咲くための養分となっているのだろう。怪異がこれほどまでの力を持ったのも、数々の犠牲の上に咲き誇ったからだ。
奥に進めば進むほどに、アドリアンの怒りはヒートアップしていった。眠りというものは本来であれば体の疲れを癒したり、退屈な時間を潰したり、現実から逃避して夢を見るのを求めたり、人々にとって大切なものだ。アドリアンにとってもそれは変わらない。危険が伴っていても睡眠欲への誘惑には抗わないようにしているほどに、不可侵であるべき、神聖な時間とも言えた。
どれだけの犠牲者を出せば気が済むのか。怪異にどんな思惑があれ、許されることではない。眠りという大切なものを利用し、誘惑し、幸せな夢へと落として目覚めなくする。どれだけ本人が幸せな思いをしていようとも、現実では冷たい土の上で命を終えるのを待っているだけだ。純粋に破壊を楽しむような怪異に比べ、質が悪いと言えるだろう。逃げる事も叶わず、人間に備わっている欲求を刺激して死へと誘う。あまりにも冒涜的である。
「絶対に許さないからな」
アドリアンが静かに怒りを滾らせるその後ろを、青薔薇の棘を払いながらマリーが歩いていた。
つい数刻前、ずんずんと奥へと進んでいくアドリアンを遠くから見かけたマリーは犠牲者の可能性もあると思い声をかけた。其処に至るまで生身の人間が歩いていることはなかったが、万が一というやつだ。案の定同じ目的で森を訪れた同業だったので同行している。
「眠る乙女さえ倒せば、事件解決ね」
攻撃が不可能なマリーにとってアドリアンの存在は有り難かった。
ふとマリーが足元を見ると細い枝のような腕が伸びている。思わず足を止めるが、いつ亡くなったものかもわからない人間に出来る事は今はなく、数秒黙祷して足を進めた。見て見ぬふりは出来ない。幸せな夢の齎すものの結果をしっかりとこの目で見て記憶していく。助けてあげたかった人達の末路と向き合っていく。
景色が開けると同時、森に似つかわしくない眠りの揺り籠が目についた。既に到達していた√能力者によって燃やされ尽くしている箇所もあるが、まだ青薔薇は健在だ。燃える範囲を青薔薇で抑えながら、枯れる傍から新しい青薔薇が咲いていく。星詠みが言っていた懸念はこれなのだろう。青薔薇の生命力がどこから来ているかなど想像に易い。急速に肉体を奪われた魂にどれほどの影響を齎すのかは定かではないが、早急に処理すべきであることは理解出来た。
「暗黒よ」
足を止めたアドリアンが眠りの乙女をねめつける。
「月光よ」
傍でマリーが魔力回路を起動し、導きを与える。
「防御は任せて。援護します」
光も届かぬ深い森で、マリーが繋いだ月光の縁が二人を結ぶ。攻撃をしないなりにも戦い方があるのだ。花を擡げて動き出す青薔薇を見遣り戦闘態勢を整える。一方で、軽く頷くだけに留めたアドリアンが漆黒の影から大量の草刈り鎌を召喚させた。植物を刈るには最適な形だ。アドリアンの抱く怒りの感情に合わせて形成された鎌は、即座に青薔薇へと向かって繰り出された。併せてアドリアンも灼熱の炎を両手に宿し踏み込む。
光有る処に影は在る。強い光であればあるほど、影は濃く刻まれる。アドリアンの灯した破壊の炎はまさしくそれを体現していた。自らをも焼き尽くさんとする炎は今では有難い。その熱が怒りの炎を更に強め、青薔薇の齎す闇雲な睡魔を打ち払ってくれる。
あまりにも無防備に、アドリアンは青薔薇の群れに飛び込んだ。構わない。全てを跡形もなく消し去れば済む話だ。
その後ろ姿を追いながら、マリーは動線を塞がないように注意深く仲間の動きを見てサポートに入る。真横から飛び掛かろうとする青薔薇の注意を引き付け時間を稼ぎ、アドリアンの攻撃範囲内へと誘導する。難しい役割ではあったが、物量だけの青薔薇に対しては単純作業にも近かった。戦いはここだけで起こっている訳ではない。それがとても頼もしかった。届くかどうかは分からないが、せめて微かにでも力になればと回路の接続を広げる。いつもよりもずっと戦いやすいフィールドへと、不可視下で整えていく。
「幸せな夢……。それはとても魅力的ではあるけれど、私はその夢に溺れる訳にはいかないの」
暴君と化したアドリアンを見守るマリーは眠る乙女へと視線を投げた。彼女がいま、何を想っているか表情からは読み取れない。ただ全力でその怪異を排除するだけだ。
「君がどんな夢を見てようが構わない」
眠りの乙女は青薔薇が咲き続けるまで存在する。同じ状況下にある乙女だけが生き続けているのは、青薔薇が彼女を生かしているからだ。周囲で燃え盛る炎にも、働き蜂のように律儀に守り続ける青薔薇にも目もくれずに自分の夢の世界に浸り続ける乙女に声は届くのだろうか。それでも、この怒りはぶつけなければ収まらなかった。
「でも、誰かを巻き込むのは決して許されていい事じゃない!」
咆哮と共に炎が猛る。一瞬生まれた闇が彼の持つ焔の威力の高さを物語った。微かに灯る月光の力すら炎の明かりに呑み込まれる。確かにその一瞬、空間を支配していたのはアドリアンだった。
青薔薇が果てる。焼土を乗り越えて再び花を咲かせようとする小さな芽を、アドリアンは踏み潰した。
●夢喰い
茨の森で眠る姫。眠りを目覚めさせる定番と言えば、王子様の口付けだろうか。
「まるで御伽噺のようだね」
眼前に開けた光景への感想を紫遠は口にした。もう少しライティングを明るくした方がそれっぽくなるか。ここが御伽噺の世界だったなら、どれほど良かっただろう。めでたしめでたしで終われる物語は、現実ではそう多くない。この物語は今最悪の結末へと向けて描かれている。全てを道連れにする茨が、眠る乙女の望む最高のエンディングへ向けて咲き誇っていた。
柄に手をかけ引いていく。乱の刃紋が焼き付いた直刃が姿を見せた。漆の鞘と刃の隙間から、小さな火種がぱちりと音を立てる。
「この炎は夢とは対極にあるようなものだからね。キミたちにはちょっと厳しいかな?」
声に呼応するように、ぱち、ぱち、と火花が散ると一気に炎が立ち上がった。怨讐から成る炎は暗い森では随分と眩しく見えたが、その重さは周囲のシチュエーションにはよく似合っている。眠りの気配から見える朧げな光景が炎に触れた途端に溶けて消えた。幸福な夢を喰らうのは、また同じ夢である。ただし、こちらは悪夢だが。
夢。希望のある言葉だ。しかし夢を望みすぎて破綻した者もいれば、夢に魘されてろくに眠れない者もいる。いい夢ばかりではないのが、現実だ。
例えば、自分はこの世に居ないことになっていたり。
例えば、力に目覚めて死ねなくなっていたり。
「いい夢ばかりじゃないでしょ?」
青薔薇は怯む様子など見せず、紫遠へとその茨の蔦を投げかけた。スピードと物量で抑え込む青薔薇の戦い方は多くの犠牲を吸い込んだ上で成り立つ作戦だ。どれだけ消耗しても、この森に蔦を伸ばせば養分がいくらでも転がっている。嫌が応にでも意識させられた。
ならば、同じだけ茨を切り落とし、炎で燃やし、消し去るだけ。これ以上の犠牲が出る前に、根源を断ち枯らすのみ。
紫遠は眠る乙女へ視線を向けた。怨讐の炎が周囲を燃やし、次から次へと攻撃を仕掛ける青薔薇を焼く。時折炎を突破してくる夢守を香煙で切り払った。彼女はどんな夢を見ているのだろう。青薔薇のお陰で昏々と眠り続ける事の出来る乙女の見る夢は、さぞ現実に存在する苦難が無い世界に違いない。炎が燃やす幻影を見るが、その目は無感情だ。色褪せて見えるその夢を焼き断つことに抵抗はない。
「『醒めない夢』が無いことなんて随分前から知っているし、『明けない夜』も無いんだよ」
この深い闇に包まれた森すらも、いずれ、眩しい朝が来る。そのためにいる。
●偽りの薔薇は零度に溶ける
青薔薇の濃い匂いが充満している。増殖の一途を辿る青薔薇に対抗している同業たちは多いが、ぽっかりと空いた真円の中心地にいる眠りの乙女は青薔薇の籠の中に閉じこもって未だ眠りに就いていた。全てを枯らし、彼女に与えられる養分が無くなるまで対抗し続けなければならない。炎煌めく戦場に手を貸す必要はなさそうだ。自分達は自分達の出来る所で出来る限りを尽くせばいい。
「ひとの思い出を奪って、上書きして、望まない方を死へ誘うなんて、許されていいことではありません」
「ええ。夢見ることを選んでいない人だっていたはずだもの。連れていってはいけなかったわ」
我関せずと眠り続ける乙女を見遣ったりりの目頭に力が入る。
生きている限り、人生というものには山も谷も存在する。平坦な道など在りはしない。辛い事も、悲しい事も、生きていれば必ずついてくるものだ。同時に、幸せな事も、大切にしたい事も同じようについてくる。全ての経験が折り重なって、初めて感情が生まれ、性格が生まれ、三者三様の素晴らしいきらめきを持った生き方が生まれてくる。誰がどんな道を歩こうとも、それを他人が勝手に奪うことなどあってはならないのだ。
思わず拳に力が入る。今すぐにでも青薔薇の群れの中に飛び込んで、今まで出会ってきた沢山の人達の無念をぶつけてやりたい。しかし、無鉄砲に戦いに赴く事は無謀な事だ。意識して力を抜いて、深呼吸をして、この暗い森には存在しない夕暮の飴に指を添えた。
隣で、ベルナデッタも無感情に乙女を見下ろした。
星詠みが言うには、青薔薇の犠牲者たちは全てそれぞれの思う幸福な夢を見ているそうだ。ただしそれも完璧ではなく、犠牲者たちの為の空間を作り、本人たちに望む夢を構築させ、出来た場面で乙女が彼等の幸せだと思う方向へ誘導するもの。つまりは、幸せの定義を眠りの乙女が勝手に決めつけて「ほら、幸せでしょう?」と語りかけているのだ。
怪異だからこそ本意は分からない。だが、例えそれが本当に幸せな夢を見てほしいという善意から齎されたものだとして、その善意がイコール正義とは限らない。確かな形があるものならば言い切れただろうが、幸せの定義ほど曖昧で変わりやすいものはない。
「黄昏」
影が、蠢いた。ベルナデッタの呼び声に応えた。
「いきましょう、りり」
「はい」
戦場へと足を踏み入れると、途端に周囲の景色がぼやけて見えた。青薔薇の齎す夢の残滓が混ざり合って漂い、りりとベルナデッタにも影響を及ぼす。
それは遊園地の夢だった。それは自宅の夢だった。それは街中の夢だった。あらゆる夢の断片がうっすらとした幻影となって顔を見せる中で、ハッキリと輪郭が見える青薔薇が花をもたげる。鋭い棘のついた茨を引き摺り、新たな敵へと花弁を開いた。
「青い薔薇、とってもきれいですね」
りりの手の中には、赤い薔薇が一輪咲いていた。
「でも、ごめんなさいね。ワタシたちには青薔薇の夢は必要ないの」
ベルナデッタは爪先で地面を二回叩く。
赤い薔薇がりりの掌から零れ、ベルナデッタの黄昏で黒く染まった地面へと落ちると一層薔薇の香りが濃く広がった。二人を中心として広がっていく願いを支えるフィールドに合わせ、青薔薇が侵入した途端に黄昏がそのガクを二つの刃が挟み落とし、代わりに赤い薔薇が咲いていく。青を赤に。暗闇から黄昏に。
ふと、りりの前を幼い子供が過った。誰かの夢の断片だ。頭では理解していても、思わず目が離せなくなる。
「……でも、幸せな夢は、いつでも、いつまででも見ていたいという気持ちもわかるんです」
「……」
赤薔薇を落として空になった掌に先ほどの光景が重なる。失ってしまった大事なもの。もう二度と戻ってこないもの。それが再び手の中に返ってくるのだとしたら、全てを投げ打ってでも叶えたい気持ち。
「わたしだって、」
「だめよ、りり」
ベルナデッタの掌が、りりの掌の空白を埋めた。りりが見たであろう幼子の姿を目で追いながら、ベルナデッタはもう片手をりりの目の前に翳す。冷たい熱がりりの掌を通じて伝わってくる。視界が遮られてはっと息を呑みこんだ。
「その夢に溺れてはいけないわ」
ゆっくりとりりの視線がベルナデッタへと向いて、夢の世界から剥離する。しっかりと視線が交差してからベルナデッタは薄く微笑んだ。
「受け取ってきた思いを忘れないで。帰る家を思い出して」
ワタシを置いていかないで。
整った唇がそう口にした。
「……うん、そうですね」
添えられただけのベルナデッタの掌を今度はりりが強く握る。
「ベルちゃんがついていてくれるので、とっても心強いです」
黄昏さんもと付け足すと、ベルナデッタはくすくすと笑った。
二人手を繋いだまま、狂う青薔薇を視界に収める。ここからは根気勝負だ。増え続ける青薔薇の終息が訪れるまで、夢への誘いに対抗し続けなければならない。青薔薇の濃い香りが常に二人を誘惑する。目の前に広がる夢の断片たちは二人の足元にぽかりと口を開けて引き摺り込もうと仕掛けてくる。
「帰ったら、いつもよりゆっくり、お茶を飲みましょう。今日のワタシたちの幸せは、きっとそういうものだわ」
ベルナデッタの言葉に今度はりりが笑った。未来を語れることもまた、生きている者の特権だ。
甘い誘惑を振り払うように首を振り、ベルナデッタの手を強く握ったりりは真っ直ぐ前を向く。
「さあ、夢の終わり。目を覚ます時間ですよ」
青薔薇が咲き誇るか、赤薔薇が全てを散らすか、二つに一つだ。
●そして空には虹が架かる
どこかの童話で語られた世界が広がっていた。空中に星屑のランプが浮いていて、魔法のティーカップがソーサラーと一緒にテーブルの上で踊る。 ラウンドテーブルの上にはあわせて四人のスペースが作られていて、その内の三つに人のような影が座っていた。
どこか西洋の街並で作られた世界が広がっていた。レンガ造りのオシャレな家には丸形のガラスが嵌められていて、庭先にはお手製のブランコもある。玄関へ続く短い階段には腰の曲がった老婆が杖を持ったまま腰掛けていた。
「これは……誰かの夢見た理想か」
トゥルエノは周囲をぐるりと見渡した。人間たちが夢見た幻想の断片たちがうっすらと視界に映し出されている。夢を見ている間はどうやら青薔薇も大人しく、隙を見てはトゥルエノを眠りへと落とすべく薔薇の香りを絶え間なく届けた。
トゥルエノには取り戻したいような過去はない。
トゥルエノには現実を塗り替えたい程の夢想もない。
儘ならないからこそ現実であり、世界とはそういうものだ。特に独りでは手の届かないものは多いだろう。誰かと共に在る事で得られるものは増えるが、なおも儘ならない事は世の中には多い。足掻いて、藻掻いて、みっともなくても手を伸ばして。その軌跡こそが尊い現実の物語となる。
その末に、眠る日が来るのなら抗う事もなかっただろう。
眠りも、終わりも、本来あるべき姿であったなら抗い続けるべきではない。今歩んでいるこの青薔薇の道が終わりへの道だとして、逸れることは運命に反することなのだろう。
「しかし、なあ。まだ、我には此処にいたい理由があるのでな」
朧げな夢想の景色も咲く花々も、摘み取ることは悪だろうか。だとして、止まる理由にはならないのだが。
スティレット型の端末を空へと掲げたトゥルエノは目を細めて青薔薇を見る。霜の降りた茨は相変わらずトゥルエノを狙ってはいたが、夢へ落ちるまでの時間で十分に事足りた。この暗い森の中を照らす一条の光が天を貫く。
「もう少しだけ、待ってくれ」
それは、運命であるべき眠りを齎す乙女へと投げかけられた言葉だった。
木々の深い葉を貫いて、光の雨が降り注ぐ。眩い針が青薔薇の花弁を、茨を、その身体の全てを貫いて焼いた。恵みの雨とは言うが、この雨が青薔薇に対して恵みを齎すことなど出来やしない。
次は、眠りの乙女が空へと昇る番だ。トゥルエノにとっては等しく、願う存在でもあった。
キミのもとにも光があるように、と。
●毒を喰らえど銭は無し
文字通り茨道を進んできたカナトと時雨を迎えたのは、大きな青薔薇の籠と眠りの乙女の姿だった。随分と削られてきているとはいえ、まだその勢いは衰えを見せない。多くの犠牲の上に成り立った巨大な花園は、その犠牲たちの力を余すところなく使い尽くすつもりなのだろう。送り届けてきたインビジブルたちが多く残っていたとしたら、全て悪意のある犠牲者となって背後から挟み撃ちになっていたと想像するに難くない。
ところで。
「ねェ、時雨君」
「なーに」
「こんな暗い森の奥までわざわざ足を踏み入れた訳だけど」
今に芽吹こうとする青薔薇の蕾を足元に見つけたカナトは勢いよくそれを踏み抜いた。花開く前に潰した花弁は靴裏の跡をしっかりと残してその場にへたれる。一つ一つは特段強い植物という訳ではないようで、現状に至るまでにどれだけの時間と犠牲を費やしたのか考えると頭痛がしそうだ。
眠りの乙女をぼんやりと眺めるカナトの横顔を、時雨は嫌な予感と共に横目で見遣った。
「目的対象は青薔薇、とは言え森の奥に訪れる目的は? ……ねぇ、」
「死にに来たわけでは無いでしょうに。それとも、良い夢を見ていたいの?」
時雨の問いかけにカナトは答えなかった。解答することを放棄し、カナトは青薔薇に近付いていく。光の届かない森の奥でも、自身の影だけは一層濃く、カナトの遂行せよとの言葉に呼応してその体を這い上がり、薔薇を刈り取る大鎌を形成した。首よりも細い薔薇の茎を落とすのは簡単だ。加えて、特定の空間に存在する物質を自在に引き寄せる力もある。
時雨よりも前に出たカナトは、大鎌を掴んだ手をだらりと下げたまま振り返る。
「眠りに誘う呪いがこもった棘だってネ」
返事がなかったので曲刀の用意を済ませた時雨が目を細める。時雨の目の前で、青薔薇から放たれた棘の向きが一斉に切り替わった。
「……はあ」
呆れの嘆息と共に肩を竦めた時雨の前、カナトの目に映るのはより濃く咲いた、この場に咲くはずのないネモフィラの楽園だ。青薔薇の香りが更に濃く空間を占める。全てを引き寄せる事の出来るカナトには、じわりじわりと青薔薇の祝福がしみこんでいった。いくら耐性があるとはいえ、自ら毒を招き入れるようなことをすればどうなるのか、予想はついただろう。
好奇心は猫をも殺す。
青薔薇の姿が消え、カナトは大鎌を振るうのをやめた。周囲を望むのは何の変哲もない街並だ。頭を垂れた青年が見えた。意識がぼんやりと霞がかって、これが夢なのだという認知が出来なくなる。妙な高揚感と幸福感。何故それを感じるのかも分からないまま、受け入れてしまいたくなる。
さて。
一方で、時雨は順調に花を狩っていた。それこそ日曜日の暇なお父さんが雑草取りに励むように、暴れ狂う青薔薇の頭を刈り落とす。時折眠りの乙女へと視線をやるが、青薔薇の心臓とも言える彼女を容易に危険にさらす事はないようだ。この戦いの終結は、どうやら青薔薇全てを枯らした時にこそ成立するらしい。
「あの人の能力は信頼してはいます、が……」
そして視線を少しずらす。ちゃんとやる事はやっているようだが、どう考えても全力ではない。ように見える。役割を果たしているだけえらいと評せるが、それはそれ。これはこれ。今回はどうもイマイチ信用できない。
何ならその感想は的中した。
吸引機だった男が作用を喪い、青薔薇の棘が時雨目掛けて飛んでくる。既に夢に落としたカナトへはもう用無しになったのか、二人で処理していた大量の青薔薇が一気に雪崩れ込んできた。当然、全てを避けることなど不可能に等しい。
「この……ボケナス!」
まず一つ目に爪を剥ぐ。痛い。血が跡を引いているが、勿体ぶらずに四角い人差し指の爪を捨てた。ジンジンする痛みが柔らかい微睡みへの誘いを乱してくれる。
次に二つ目。身体を捻り、狙いを定める。引いた腕をぴたりと止めて、思い切り絹索を投擲した。狙いは迷うことなくカナトの頭。青薔薇の注意がこちらに向いているからこそ、第一層を突破してしまえば止めるものは何もなかった。
すごく、いい音がした。木魚を叩いたらきっとこんな音がする。
立ったまま微動だにしなくなったカナトが絹索に頭を殴りつけられ、はっと再び息を吸い、咽た。
「夢とは妄想です」
急な頭の衝撃は軽い脳震盪をカナトに齎したが、時雨は構わず言葉を続ける。
「嘆くのは結構。堕ちるのも結構。しかしながら、業は己のもの。巻き込むなど言語道断です」
カナトが振り向く。時雨と目が合う。
夢から覚めたカナトの目には、結局暗くしみったれた森と妙に鮮やかな青薔薇が映るばかりだ。すぐに目覚めてしまえる昏い森の中、カナトは短く息を吐く。
「嗚呼、やっぱり」
こんなところではすくわれないのか。
「妄想する莫かれ」
カナトのボヤキは時雨の言葉に重なって誰の耳にも届かなかった。
ザクザクと青薔薇の層を刈り崩した時雨がカナトへ近付きむんずとその顎を掴む。
「ねぇ、正気じゃないでしょ。ぼくの有難い説法聞いてた?」
「ン? もう一回よろしく」
「殴ります」
ノータイムの拳が繰り出された。絹索と同じ場所を追撃し、カナトの体は一瞬宙を浮く。ごろごろと青薔薇の刈られた中を転がりながら、終点でカナトは見えない空を仰いだ。なんだかんだ、命は続いている。夢は夢でしかなかったのだ。
無慈悲にも、青薔薇は再び香りを振りまく。その夢にはもう、誰も溺れやしない。
●亡い物ねだり
濃い青薔薇の香りを抜けると、そこには見覚えのある家屋があった。ふわりと鼻腔をくすぐるのは食事の匂い。遠く見える空は夕暮れに染まっていて、夕陽は帰ってきたのだと思った。
玄関の扉を開けると、音に気付いたのかパタパタと駆け足の音が聞こえる。曲がり角を抜けた先から顔を出したのは母親だ。
「おかえり」
鈴の音のような軽やかな声で笑って夕陽に声をかける。遅れてゆっくりとした足取りで顔を見せたのは父親だ。
自分の意思に反して口が動く。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
特に変わったところのないふつうの家族。出掛ける時はいってらっしゃいと送り出すし、帰ってきたらおかえりと出迎えてくれる。日々の何でもない話をしながら、食卓を囲み談笑する。
ありふれた、よくある家庭だ。
場面は変わる。
「ねえ、こっち見てみようよ」
「はあ……仕方ないな」
好奇心旺盛な友人は戸惑う夕陽の手をとって、許可なんて得る前に走り出す。こういう、ちょっと強引なところも嫌いではなかった。何にでも興味津々で無鉄砲。時に大変な事態を引き起こすが、変わり映えのない日々に彩りを添えてくれた。
「付き合えよ」
夕陽の背を叩く先輩だってきっと同じだ。なんだかんだと文句を言いながら付き合ってあげる。世話焼きだとか、お人好しだとか、本人に言ったら嫌な顔をされるのだろう。胸の中に秘めておく。
「もう、待ってよ」
ぐいぐいと手を引かれながら野を駆け山を駆け生きていく。
ああ、なんて。
なんて幸福な悪夢なのだろう。
母は死んだ。命と引き換えに夕陽を産んだ。
父との間に違和感がある。もう会えなくても分かる。記憶にない顔で、記憶にない言葉を発していた。
友人や先輩だってそうだ。勝手に記憶の中に入り込んで、いて欲しいと願う気持ちから幸せの形を捏造する。青薔薇と眠りの乙女が見せた世界は確かに幸福と形容出来る世界だった。
だからこそ、地獄だ。
「ありがとう、夢を見させてくれて」
「 」
手を引いた友人が振り返る。懇願するような顔で名前を口にした友人の姿が掻き消えた。景色が崩れ落ちていき、暗闇の森が返ってくる。ただ一人ぽつんと立ち尽くしていた夕陽は青薔薇が蝕む森へと、現実へと戻ってきた。
「さようなら」
夢を不要と思う強い気持ちが夢を殺した。
この夢に溺れていれば、家族も友人も思いのままだったのだろう。しかし、果たしてそれはそのまま幸福と名状していいのだろうか。現実の全てをなかったことにして、都合のいい夢の中で都合のいい設定に囲まれてヘラヘラと笑って生きていく。それは、今まで歩んできた道の全否定だ。
現実に生きる事を選ぶというのは、失ったものを受け入れるということだ。いなくなったことを嘆き、失ったことに悲しむことはあっても、巻き戻しを願うことはない。都合の悪い出来事をなかったことにして、歪な道を歩み続けることはない。
「神火清明」
夢から帰った夕陽に気付き、青薔薇が再び荊を這わせて香りで誘う。
「しつこいな。それは、ボクには必要ないものだ」
もはや惑うこともない。護符から興った火が青薔薇を包み燃え盛る。不快な臭いをまとめて焼き、夢諸共塵と化した。
●夢を以て夢を制す
青薔薇が満ちる園で、彰は一人立っていた。目の前を過る幻影の数々もどこか他人事。あまりにも影が薄いものだから存在しないものと同等であった。それはつまり、青薔薇の香をもってしても彰に相応しい幸せな夢が形成されていないことを示している。
「……考えたことなかったなぁ」
自分にとっての幸せな夢、とは。その疑念を持つ隙もなく、彰は毎晩悪夢を見ている。夢と言えば蝕むものであり、毎夜押し寄せる不安や悪意の象徴でもあった。夢の中に幸せが存在するということ自体が疑わしい。もしそうなら見せてほしいものだが、現在も幸福な夢は訪れてくれやしない。
だからといって、悲観することは特になかった。悪夢とはかれこれ長い付き合いになるが、これを不幸だと思ったことはない。なんだったら、今こうして幸福な夢に誘惑し肉体を喰らおうとする青薔薇への対抗手段にもなっている。幸せな夢を駆逐するのは、同じく夢なのだ。
根底にある、幸福な夢を享受できる身分ではないという意識もまた、害する幸せな夢を寄せ付けないために一役買っていた。
周囲では夢に呑まれて足を止める者、夢の光景を見つめて嘆息する者、自ら夢に飛び込んでみて叩き起こされる者、様々いた。幸福な夢をはじめから拒絶する者もいたが、誰もが青薔薇の恩恵の指先には触れられているらしい。彼らは一体、どんな夢を齎されているのだろうか。その一端を知る事すら、彰には出来なかった。
「さて、それじゃお仕事と行こうか」
眠りに落とせないと気付いた青薔薇の群れは物量で押し込む方向に舵を切ったらしい。たった一人の人間を閉じ込めるための揺り籠にしては随分な量の花を咲かせてひしめき合っている。予想通り、広く場を掌握しながら鎮圧していく手法なのだろう。ひとつひとつの戦力が高くなく、数は無限にも近く用意できるのであればそれが一番制圧しやすい。単純明快だ。
故に、対策も簡単だ。
「分かるよ。物量は正義だよね」
要は上回ればいい。日差しも通らない暗い森には困らないだけの影がある。己の影、木の影、薔薇の影、その全てだ。まずは自身の掌握している範囲の影に霊力を流し励起させる。自らの影へと霊力が凝縮し、漆黒の槍へと変貌させた。同時に自らの影と接地している影へ霊力を流し込み支配下に置く。より広く、より多く、青薔薇を呑み込むほどの影を作り出していく。
全てを同等にする必要はない。青薔薇を抑える役目を持つものと、青薔薇を刈り取る役目を持つものとに分ければ効率よく戦える。
彰は影で出来た槍を手にし、周囲へ支配権を広げながら足を進めた。攻撃範囲に入ったのか、彰に反応して襲い来る青薔薇は周囲の青薔薇とまとめて薙ぎ払い根こそぎ持っていく。再生能力こそ高いが、地盤から取り除けば多少時間は稼げた。
「結構多いなあ。時間かかりそうだ」
感想と言えばそんなもの。どうにも性分らしく、街で誘惑され死に向かう人々を見て、森で既に抜け殻となった人々を見て、この期に及んでまで怪異に対して特に感情はない。人間らしいといえば嫌悪感を抱くこととか。あるいは怒りを感じることとか。推測は立つものの、だからといってそれらの感情を自分が持つかと言えば話が違う。ただ仕事をこなしていくだけ。
ふと、目の前を透明な子供が過った。きっと誰かの夢の中の住人なのだろう。結局、彰には馴染まずにすぐに霧散して消えてしまう。幸せな夢の住人は、幸せな夢の中でしか生きられない。この、生ぬるいぬかるみのような夢には入って来られないのだ。
「……別に、夢に逃げたいと思うことだって悪いことだとは思わないよ」
一瞬目が合った子供は彰を責めるような目をしていた。現実からの侵食が、彼等の幸福な夢を壊す。現実を受け止めきれずに逃げた人も中にはいたのかもしれない。これ以上現実に目を向けさせるなと、現実から逃れさせてほしいと訴える目だった。
それが真実なのかどうか、もはや知る手段もない。青薔薇の齎す都合のいい夢がそんな目をさせた可能性だってある。望むか、望まざるかに限らず、現状では全てがまやかしのもとで成立した眠りと夢だ。
「でも、それは誰かが強制してそうさせるものじゃない」
命の取捨選択を奪われて辿り着くべきものではない。幸福な夢を見せるという性質上考えられる、怪異による害意の一切ない憐憫や救済だとしても、強制されるべきことではないのだ。
命の終わりを決めるのは、その命を燃やして生きる生物の特権である。
「いい加減に――無差別に人を引き込む夢は終わりにしてもらわないと」
誰もが自分自身に持つ権利を奪う怪異は排除する。あまねく影の支配者となった彰は淡々と青薔薇の首を落とした。眠りの乙女を取り巻く青薔薇ももう僅か。この槍が、怪異の喉元に届くまであと少し。
●母たる手のひら
レモンはここか何処かも忘れ、茫然と立っていた。現状がどうなっているのかの意識はあるが、それ以上に看過できない事が起こったのだ。青薔薇の香りで満ちていた空間が、徐々にその色を薄れさせ、馴染みのあったものへと変わっていく。
なんと声をかけたものか数回口を動かしたレモンはそのまま閉ざし、静かに帽子の鍔に指を掛けた。視界の半分を鍔で埋めると、前方に立つ人間の足だけが見える。最初こそ半透明だったその人影は徐々に色を獲得し、もはや現実と同等の濃さを以て顕現した。しっかりと地面を踏みしめ立つ人間のことを、ただの幻と処理するにはあまりにも惨い。
「元気な頃の母さんに会えるだなんて、良い夢ですね」
声に出さないと、呑まれてしまいそうだ。ここは深い森の中で、決して見知った街ではない。目の前にいる人物は幻で、決してもういない母さんではない。
分かっている。分かっている、けど。
「……嘘でも夢でも良いや」
レモンの足が一歩ふらつく様に前に出た。鍔をあげ、両の瞳が女性を捉える。紛れもなくそこにいたのは母親で、次に口にする言葉を先読みしてか彼女は腕を広げて待っている。
「お願いだから、一度だけ抱きしめて? ねぇ……」
嗚呼、なんて都合の良い夢だろう。こうやって多くの人を招いて、夢を見せて、永遠の眠りを齎してきた。
温かな夢に包まれて死ねる。人は死を迎えた後、誰かにその様を報告することなど出来ない。死の淵に際して経験することは人生において一度きりであり、また、心意気を準備することは出来てもそれ以上の対策はとれない。だからこそ、死への恐怖が生まれ、死ぬ時は眠るように痛みなく死にたいと望む声も上がるというものだ。それが自らの望む幸せな夢だというのなら、それ以上望むものもない。
幸せのひとつのかたち、だと言われても納得いくだろう。
レモンにはすべてを否定しきることは出来ない。現実の残酷さは誰にでも等しく口を開けて待っていて、レモンもそれを知っている。どれだけ気を付けていても急に足元が崩れ落ちて絶望の淵に立たされることもあれば、誰かの陰謀に巻き込まれて望まなくとも残酷な道を歩まなければならないこともある。
学友も、母さんも、死んだ。父さんは壊れた。僕は両腕を喪った。
辛い現実を直視しながら生きていける程に強い人間はそう多くはない。積り重なった死にたいという気持ちがあるラインを越えると実際に足を踏み外してしまう。日常をただ無難に送っているだけの人生でさえ、ちょっとした事で気分が落ち込むことはあるだろう。誰もが感じたことのある、ネガティブな感情から解放されたいと思うのは罪なのだろうか。
死んだら、楽になれる? 確かにそうかもしれない。痛みを感じる肉体はなく、意識もその先を紡がない。
死んだら、解放される? 確かにそうかもしれない。いつか来る苦痛の種が芽吹くことは二度と起こらない。
「それは確かに……魅力的に感じます」
腕の中で、レモンは呟いた。この温かな温度に微睡み、目を閉じてしまえばもう二度と辛い出来事は起こらない。何故か、分かる。この先の未来は明るいもので、幸福な毎日が待っているのだと直感が囁く。
レモンの手が、母の手腕触れた。
「――でも、僕」
抱きしめる温かな腕をゆっくりと確実に解いていく。母の腕に抵抗はなく、レモンの望みを叶えてあげようとしているようだった。
「喪ってから得たものも、沢山あるんです」
離れ往くレモンの体を母の柔らかい手のひらが撫でた。レモンの輪郭をなぞるようにして、あなたは今ここにいるのだと、言葉なくとも教えてくれる。無機質な手を握った母の手は、どこまでも温かかった。
レモンの言葉を待っている。
すぐにそう理解して、体の中を熱いものが込み上げた。それが血なのか魔力なのか、判断はつかない。ぽつぽつと言葉にするレモンの声を、母は優しく微笑んだままゆっくり頷いて聞いている。
生きるのも死ぬのも、まだ同じくらい怖い。生きているうちはどんな出来事が訪れようとも受け入れるほかないのだ。未来で待っているのが必ずしも明るいものばかりではない。かけがえのないものを喪う怖さは体の芯に刻み込まれている。これから先も置いていかれることが、怖い。何かを喪うことが、怖い。だからと言って、これ以上の喪失を避けるために死を受け入れることもまた、怖い。
二つを天秤にかけた時、レモンのこれまでの足跡が同じ重さの恐怖に差をつけた。
生きることで、貰ったもの。気付けば喪った両腕は沢山のものでいっぱいになっていた。これらを手放して、なかったことにしてしまう方が怖い。様々な道が交わり出会ったものも、誰かの思いやりから貰ったものも、全部全部大事だから。例えどれだけ現実が残酷でも、それと同じくらい温かいものがあると知ったから。偽物の両腕でも、まだ喪いたくないものを抱えて歩いていける。
息を吸った。母の手に触れる指に力がこもる。
「例え夢でも、母さんに会えてよかった」
ゆっくりと皺の多い手の甲を撫でる。
「だから」
手放した。
「ありがとう、さよなら」
戦いの音が聞こえる。炎の爆ぜる音。鋭い刃の風切り音。現実に戻ってきたのだと理解するのは簡単だった。
「素敵な夢をありがとう、と言うべきですか?」
絞り出た声は震えていて、目の前にいる眠りの乙女は霞んで見えた。
「ちょっと待ってくださいね……涙止まらなくて……あぁ、もう!」
彼女は、何を想ってこんな夢を見せているのだろう。彼女もまた、喪うのが怖くて、喪いたくなくて、喪わなかった世界を作り上げたのだろうか。誰かにとって救いとなり得る夢ではあるが、到底これを救いと認めてはならない。
ただ、どうしても考えてしまう。
「望んだ夢で満たすのは、あなたなりの優しさだったんですか?」
返事はない。青薔薇の茨が渦を巻いて、彼女を閉じ込めてしまう。
「いえ……戯事です。忘れてください」
彼女の思惑が何であれ、レモンのすべきことは変わらない。幸福な夢が彼女の優しさだというのなら、これがレモンの優しさだ。
●覆水盆に返らず
欠落ゆえに力を得る。ではその欠落を埋められた時、能力者は果たしてどうなるのだろうか。
未だ誰も解を持たないその問いに、いま挑戦するのは憚られる。そもそも欠落を埋める程の力があるのかと言えば謎ではあるが、睡眠欲を失った筈の玻縷霞は懐かしい感覚を覚えて瞬いた。最も、人ならば誰しもが持つ感覚ゆえに懐かしいと定義づけはしたものの、記憶も感覚もない玻縷霞にとっては初めての感覚と言っても過言ではない。だが、覚えて帰る必要はないだろう。この眠気に身を任せてはいけないことだけ分かっていればそれでいい。
抗わなければ。しかし、人とは知っている危険にのみ身構えられるというものだ。これが眠気だと理解する一瞬の間に青薔薇の香は準備を終えていた。
見知らぬ光景が広がっている。覚えのない景色が見える。
「ここは……?」
臨戦態勢を崩さぬまま、周囲を警戒して玻縷霞は視線を巡らせた。
まず光のグラデーションが目に入った。温かな日差しが木々の隙間を抜けて地面を照らしている。随分と整えられた道は明らかに人の手が入っていた。この幻覚の中に往来がないのは都合の良い夢だからだろうか。視線を滑らせている間にも、風が吹き抜けて鳴る木々のざわめきが耳に届く。その隙間を縫って、遠くから小鳥の鳴き声が届いた。
穏やかな場所だ。そんな陽だまりに、二つの狛犬の像が並んでいる。
「 」
「 」
話し声がした。確かに何かを話しているが、その声色も音も、会話の内容すらうまく頭に入ってこない。この日はどんな会話をしたのだったか。訪れる人々の出迎えを済ませ、談笑を挟み、一日を終える。
何の他愛もない平穏な日々。永遠に続くと信じて疑わなかった日々。
「あの、日々……?」
会話の内容なんて知る由もない。この景色なんて見た覚えもない。何かが続くと信じたことも、ない筈だ。
それなのに何故か、今回こそ明確に懐かしいと感じた。玻縷霞の記憶に存在しないこれらの時間を自分のものだと誤認する意識が確かに存在する。どれだけ記憶を探っても出てこない幻想の夢。見た事もない神社の雰囲気に、漠然と望郷の念が浮かび上がってくる。
一つ考えられるとすれば、この幻覚は欠落した玻縷霞の記憶なのかもしれない。
「それならば、理解出来ます」
ここに至るまでに出会った者達に共感を覚えたように、幻覚で記憶が呼び起こされるとするのならあり得る話ではあるだろう。すぐにでも引っ張り出せる記憶の鎖に繋がっていない、奥底に沈んだ思い出すらも青薔薇は暴いてしまうのか。怪異とはやはり、人智を越え深刻な影響を齎す可能性のある造物だ。そうして奥底の欲望を掻き立て、鎮めていたものを抉り出し、死の眠りへと誘う。
この世界に居さえすれば、喪った半身を取り戻せる。
「……ですが、私には必要のない記憶です」
欠落ゆえに力を得る。何故なら、その欠落こそがかけがえのないものであり、取り戻せないものだからだ。こんなまやかし一つで埋まるほど、安いものでは決してない。
それにもう、理解している。まやかしは所詮まやかしであり、本能が孤独を叫んでいる。目の前に対の姿があったとしても、ブリキの半身に興味はない。既存のどの場所に訪れても、ついぞ半身の存在は感じ取れなかった。
話は、そこで終わりなのだ。玻縷霞にとって、もはや終わった話に過ぎない。
「すみませんが、帰らせていただきます。今の私の場所に」
神獣の力が体を巡る。眷属の片鱗の力が血と共に全身を巡り活性化する。初めに髪の色が白く染まった。肌を埋める白い毛皮が喉元から這い上って顔面を変える。唇が大きく裂け、鋭い牙が顔を覗かせた。変化する過程であらゆる感覚はヒトという生物から捕食者へと変貌を遂げ、まやかしの感覚を塗り替えていく。もはや人間の名残はどこにもなかった。骨格すらも変化させる神威の力を頭部へと集中させ、白い狼の頭へと挿げ替えた。
眼前の光景を捨て、静かにある人を思い浮かべる。優しい笑顔で迎えてくれる、太陽のような人。この幻惑で満ちた暗い森の中で、眩しい太陽が現実へ導いてくれる。
――嗚呼、早く逢いたい。
狼の嗅覚は青薔薇の香りの濃淡をも嗅ぎ分ける。濃い薔薇のにおいは狛犬の像から漂ってきた。たかが幻だと理解してしまえば、幻想の光景は容易く揺らめく。談笑する彼等の背後に、ぼんやりと青薔薇が咲き誇っているのが見えた。
もはや躊躇いはない。霊力が籠った掌は、夢の中の狛犬ごと青薔薇の茎を引き千切った。崩れ往く過去の情景を振り返ることもなく、帰るべき場所に帰るため玻縷霞は進む。あの日の幻はもう、作られることもなくなった。
●灼き尽く白皙
雨が降った後の空はどんよりと重く、まだ乾き始めたばかりの道路はいつもよりも黒色に染まっていた。雲間に隠れていた太陽は燦々とした日差しを落とさないまでも雨の日の痕を残さぬようにじんわりと空気を乾かして、役目を終える前に訪れた夜がその後を継いだ。月は淡く世界を照らすばかりで、さまざまに含んだ湿気を奪い去る事はない。
この独特の空気感を知っている。なおもじっとりとした湿度が肌を舐め、夜だというのに妙に残る暑さに汗が出る。粘度の高い液体は肌を伝い落ちていくことはなく、露出した肌をうっすらと覆って不快感を煽っていた。夏の日は気紛れに虫の声が耳に届き煩わしささえ呼び起こさせる。
愛用のライターを握る手が震えた。
遠い日のじっとりとした夏の夜が、目の前に広がっている。
何かを発しようとした唇が震え、結局声も出ずに閉じられた。これはなんだ。ここはどこだ。全ての解は出ているのに、思考は忙しなく答えを求めて彷徨っていた。周囲を見渡すまでもない。見た覚えのある光景が森の涯、もはや全ての木々を消し去って現実の世界に馴染んでいた。
息を吸い、吐く。これは青薔薇の怪異からのひどい贈り物で、これを退けなければ明日はない。夢から出る方法は定かではないが、夢だと認識出来ているうちに全てを終わらせてしまえばいい。原因は青薔薇の香りによる幻覚だ。怪異が齎す夢への誘いは相手が誰であろうと平等に訪れただけの事。ならば、どこかにある筈の青薔薇を排除してしまえばいい。
一歩、前に出た。
「 ちゃんは、わたしのこと好き?」
出た、筈だった。
何処から現れたかすら認識出来ないまま、スカートを揺らしてそう楽しそうに女は言った。ザネリの目の前で彼女は楽しそうな空気を纏い夏の夜に花を添えている。女を認識した瞬間、夢はより濃く存在を確立させた。じっとりとした水のにおい。濡れた草木の香りが混じってなんだか泥臭い。蒸した空気が二人を包み込み、現実と遜色のない世界が広がる。
ああ、今日は声まで聞こえやがる。
「 ―――」
そうボヤキたかったのに、違う言葉が口から出た。何も答えずに、自嘲して夢を笑って、終わらせる筈だったのに。口が勝手に言葉を紡ぐ。手で抑える事も出来ない。女に釘付けだ。
あの日と同じ言葉が繰り返される。あの日と同じ事を伝え、あの夜と同じように、ザネリはまともに動かない指を必死に動かした。
ああ、白い指だ。
気付けば手袋も、コートも、溶けるようにいなくなっていた。悪役を名乗るにしてはあまりに不格好すぎる。あの相棒たちがいなければ、ただの非力なガキでしかない。認識はさらに夢へと影響を与え、いつしか己の輪郭すらもはっきりと分からなくなってくる。俺は、誰だ。俺は、確か。
「ずっと一緒にいようって、約束したもん」
真っ暗な夜の河原で女の指がひどく眩しい。細い指先がザネリの輪郭をなぞって、ただしい形に変わっていく。あの夏の夜にふさわしい形に変わっていく。
ただ女が好きにするのをぼうとした頭で眺めながら、結局同じ色をした夏服から目が離せない。
夏服の白いシャツが、俺は今も好きになれない。
今をきちんと認識しながら、体は女の好きにされている。この広い世界では絶対的に成し得ない、たったふたりきりを求めた女はザネリを見遣り、静かに唇を歪ませた。体が、動かない。
「だから、一緒に往こう、ね」
ぱしゃん、と、音が鳴る。踊る様に足先を水につけた女が川の流れを裂いて奥へ奥へと進んでいく。この川がどんなものか、ザネリは理解していた。体が引っ張られると足が前に出て川へと入る。視覚に、聴覚に、夢を流し込まれた男はこの時全ての感覚を幻惑の中へと運び込んだ。夏のせいで多少は生温くなった水温は、それでも比較して随分冷たい。水分を含み始めると体が余計に重たくなる。
女の両手が伸びた。いっとう近くなった顔を見て、ああ、こんな顔だったとどこか他人事のように思う。次の瞬間には体が倒れ、水面が近付き、ざぶんと水が跳ねた。ただしくふたりになりたがった女と共に、深い水の中へと呑まれていく。
世界が歪んでいる。ごぽり、空気の泡が口から溢れて、零れていく命の終わりを数えているようだった。
くるしい。つめたい。
うごかない体に絡む、女の手だけが妙に熱を持っていた。
ザネリは、この後どうなったかを知っている。どうしてか自分だけが助かり、多くの人間が住まう世界にひとり取り残された。何故助かったのか、未だに答えは出ていない。
じわりと体を蝕む欲求は怪異の力だろうか。これが幸福な夢を齎す怪異の贈るプレゼントだとするのなら、身を任せれば答えを知る時がきっと自ずと訪れるのだろう。
知りたい。
「 ちゃん」
……いや。
水の中、全てが歪み、夏服に身を包んだ女の髪もまた揺れた。本来なら何も見えないだろう夜の水の中でも、女の顔がハッキリと見える。
満足、している。
「――――」
また空気が唇から逃げた。今までに見せたことのないような顔をして、女も苦しいだろうに水の中、ひどく満足そうな顔をしていた。薄い唇は弧を描き、両目すらも何か言いようのない感情を含ませて細められた。ここがハッピーエンドの世界ならば、辿る未来はただしいふたりきりの世界の訪れになるのだろう。
理解、できる。
認められない。
「――クソが、」
声が出た。気道を水が流れ込んで塞ぐが構いやしない。呼吸の出来ない苦しみさえも無視して、自らの意志で声を出す。そうでもしないとこの川の流れと同じように濁流が意識を呑み込んでしまいそうだ。
物語が終わる時、そこに大抵悪役はいない。身を任せ、滅びてしまえばきっと幸せなエンディングへと辿り着けた筈だった。
認めたくない。
力の入らなかった指先が跳ねる。自らの形を意識して、自分が何者かを思い描く。
「俺が恐れた女は、こんな満足そうな顔で死んだってのか?」
頬を、熱が舐めた。
火を。
水を、空気を、女を、全てを、焼き尽くすための火を。
自らをも灼いて蠍の火が巻き起こる。決して灯る筈のない水中でも蠍の火は渦を巻き、幻覚によって齎された水分を跡形もなく蒸発させていく。驚いたような女の顔は何かへと表情を変えたがついぞ見る事は叶わなかった。夢の世界を拒絶するように熾った火は見境なくすべてを焼く。最後にあったのは、たった一人ザネリの姿だけだった。
青薔薇の香りが戻ってくる。じっとりとした空気は森の陰湿な雰囲気へと入れ替わり、近くで屑になっている青薔薇の焦げたにおいが鼻腔を潜り抜けた。
そうだ、まだ生きている。
「こんな死に様は、名悪役に相応しくない」
幕を下ろすべき夜は今じゃない。
●誰が為のさいわい
景色が変わって、辺りを見回したラムネはふと気付く。自らの掌がうっすらと透けているのだ。よくよく見てみると、手のひらだけでなく自分の体、服までもが半透明になっており地面が見えた。此処に来るまでに何かひどく消耗してはいない。ならば、これは、すでに夢の世界に入ったという事なのだろう。
「もーいーかい」
「まーだだよ!」
子供の声が耳に届いて振り返る。先ほど歩いてきた道のりが消え去り、広いとは言い難い庭園がそこにはあった。
この風景には見覚えがある。もうずっと前に旅立ったあの施設だ。決して豊かとはいえない場所はあの頃、所々雨漏りをして壊れたものは壊れたまま放っておかれる場所だった。庭の木にぶら下がっていた手作りのブランコは縄が切れて久しい。風雨に晒されたベンチは座ると前後にがたがた揺れた。
目の前の光景はあの頃と全く同じではなかった。ピカピカのベンチは二つ並んで揃えられて、座面は汚れひとつない。ブランコは丈夫な縄に変えられてゆらゆらと揺れている。施設の方も、ぱっと見でしかないが剥がれていた外壁が元通りの姿をしていたため修復されているだろうことは容易く想像できた。
ここは、恵まれた施設だ。悲しい目に遭った子供達がもう二度と辛い思いをしないように心を込めて作られた場所だ。
「こっちこっち!」
「待ってよ~!」
弟妹たちの賑やかな声は明るく、身にまとう衣類も一人一人小綺麗なものを身に着けていた。膝に穴の開いたパンツも、何度も着てよれたシャツもここにはない。
ベンチに座る子供達はお互いのおやつを交換して、口いっぱいに頬張っている。ぽろぽろとクッキーの欠片を零しても地面に齧りつく必要などないのだ。喉を潤す水も十分に用意され、午後のおやつの時間を楽しんでいる。
怖いことはなにもない。飢えることも乾くこともない。ましてや、寒さに震えることもない。
ラムネがいる方へと走ってくる子供が見えて、思わず手を伸ばした。
「鬼さんこちら」
彼はするりとラムネの手を、身体を、すり抜けていく。驚きに目を瞠ったラムネがすり抜けた子供を追って振り返ると、そこには別の場所が広がっていた。
これは、先ほど見た風景だ。
「今日の夕飯は何がいい?」
「あたし、シチューたべたい!」
優しい声が風に乗って届いて、自然と目はそちらを向く。記憶に新しい家族の姿がそこにはあった。母親と手を繋いだエルは楽しそうに前後にゆらゆらと手を揺らしながら、頻繁に母親の方を見上げて話しかける。転びそうになっても母親がしっかりと手を繋いでいるものだから、すっかり安心しているのだ。危ないことなんて何も知らない、無知で無邪気な子供の姿だった。
同意を求めて振り返ったエルの視線の先にはカイがいる。どうやら買い物帰りのようで、両手でいい匂いのする紙袋を抱えていた。顔を覗かせたバゲットがその中身を焼き立てのパンだと教えてくれる。
「昨日もシチューだったじゃん」
「ははは、エルは本当にシチューが好きだなあ」
豪快に笑うのは父親だ。カイの隣でしんがりを務め、家族みんなを見守っている。何かあった時にすぐ手が届く位置だ。
「また来週ね」
「ええー! じゃあグラタンにする!」
目に光を灯していなかったあの少女が、今では生き生きとしていた。不安げにしていた少年は穏やかな陽気に欠伸をしている。お互いがいる事が当たり前の家族が、ゆっくりとラムネの方へと歩いてきていた。見た事はない光景なのに、当たり前のようにこれが当然なのだと信じさせてくれる。喪ったこと事態が夢なんじゃないかと思わせてくれる。
目と鼻の先まで近付いた所で、ラムネは息を呑んだ。このままではぶつかってしまう、と意識したところでエルと母親がすり抜けていく。目を見開いたまま真っ直ぐ前を向いて固まっていると、今度はカイが通り過ぎていった。
ここに、ラムネの存在はない。誰の瞳にもラムネは映らない。
けれど、それでも良いと思えた。護りたいと願った人達がみんな幸せで、辛い事は一切なく、当たり前の日々を過ごしていけるのだから嬉しかった。例え自分のことではなくても、彼等の存在を見ているだけで胸がじんわりと温かくなる心地がした。
ここで、終わりにしてもいいのかもしれない。
みんな、幸せで、温かくて、――。
――ぱちん。
振り被った右手が自らの頬を叩いた。そこまで強い力ではないが、じんじんと頬が痛みを主張する。幸福な夢において存在してはいけない感覚だ。だからこそ、有効である。
「……しっかりしろよ、俺」
これは、夢だ。決して現実ではない。現実では、今も弟妹達がひもじい思いをしながら暮らし、カイとエルはこれから先二人きりで生き抜いていかなければならない。自分だけがこの光景を見て満足している場合ではないのだ。これは、ただの自己満足に過ぎない。
弟妹たちに、本当にこの通りの生活をさせるため。
カイとエルのこの先の未来を護っていくため。
「まだ、何も終わってない」
夢を見てるだけではなく、自らの足で進み、自らの手で掴み、行動していかなければならない。
かみさまは、奇跡なんて起こしてくれやしないんだ。いつまでも祈り、待ち続けても降りてこない奇跡は必要ない。
「全部、俺が――何とか、したい」
この幸せな夢にさよならを。
己の魂を揺らし、炎が灯る。顕現させるは魂の欠片、『アルカンシェル』。幻の幸いではなく、本物の幸いを掴むための一槍。既に青薔薇の大半は枯れ、再生の目途は立たなくなってきていた。多くの仲間が夢に呑まれながらも立ちあがり、仲間の手を借り、青薔薇の勢いを削っていく。時に炎が地面を舐め、時に鋭い刃が青薔薇を刈り取り、ついにその時が迫っていた。
眠りの乙女へと肉薄した仲間たちを援護しながら、ラムネもまた彼女のもとへと足を運ぶ。背後にラムネを呼ぶ声がしたが、振り返る事はなかった。懐かしい弟妹たちの声を、寂しそうな兄妹の声を、振り切って進む。輝き翔ける翼は暗い森を鮮烈に照らした。
全ての夢が、幸福だったとして。
誰かが待つ現実を、誰かが望んだ生命を、終わらせていい理由なんてどこにもない。
「さあ、目覚めの時だ」
白焔が尾を引いて、眠りの乙女を彼方への夢へと送り届ける。ここにいる全ての人達へ、どこかで帰りを待つ人々へ、幸いが訪れるようにと願って。それはなにも、眠りの乙女も例外ではなかった。たとえ怪異だったとしても、彼女が贈る夢は幸せに満ちていた。ならば、同じ様にさいわいの夢へ。覚めることのない、幸福へ。
眠りの乙女を護っていた青薔薇が全て枯れ、再生せず、穿たれた槍は何にも止められずに眠りの乙女を貫いた。瞼を震わせた彼女は薄く唇を開けると吐息を零し、解けるように体が薔薇の花弁へと変わっていく。肌から剥がれ落ちた花弁は透けるような白から青へと変わり、地面へ落ちる頃にはさまざまな炎に呑まれ塵ひとつ残らず消滅した。
森のすぐ傍の街で、静かな葬式が行われていた。全ての元凶が取り除かれ、残された人々が状況を呑み込む頃には嗚咽が街のあちこちから聞こえてきた。すぐに受け入れるのは難しい。しかし、人々は生きている限り前に進んでいかなければならない。時間は止まってくれないのだから。
そうして、街の人々は街全体で魂を送るための葬送をすることにした。小さな壇上には溢れるほどの花が添えられ、故人の好きだった食べ物や飲み物、玩具など、様々な物が鎮座している。
去り行く仲間たちを背に、花を手向けたラムネは数秒黙祷した。どうか、安らかに。安寧と、幸いあれと祈って。
うまれて嘆き、ゆめに堕ち、されども人はうつつを生きていく。