シナリオ

すべての儚き野郎ども

#√汎神解剖機関 #天使化事変 #羅紗の魔術塔

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 #√汎神解剖機関
 #天使化事変
 #羅紗の魔術塔

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●√汎神解剖機関にて
 イギリス某所の森林地帯の深部に奇妙な草原がある。
 なにが奇妙なのかというと、ほぼ正確な正方形をしているのだ。
 世のオカルトマニアたちはその草原を『シェイデッド・スクウェア』と名付け、様々な説を提唱した。たとえば、『ケルト人の魔女の呪いによって、一帯の木が枯れ果てた』だとか。たとえば、『四角いUFOが着陸した』だとか。たとえば、『秘密教団が生贄の儀式をおこなうために森を切り開いた』だとか。
 二〇二五年三月某日にシェイデッド・スクウェアに訪れた者は、どの説よりも突飛で奇妙な光景を目の当たりにすることだろう。
 そこには天使たちがいた。
 もちろん、本物の天使ではない。謎多き風土病に罹患し、奇怪ながらも美しい異形の存在と化した少年少女たちである。
 彼らや彼女らは皆、不安げな顔をしていた。しかしながら、自分のことを心配している者はただの一人もいない。
「先生たち、どうしたんだろう? 『すぐに戻ってくる』って言ってたのに……」
「もしかして、どこかで事故にあったのかしら?」
「道に迷ったのかも?」
「僕たちで探しに行ってみようか」
「それはダメよ。行き違いになったら、迷惑をかけちゃうもの」
 純真なる天使たちは知らない。
『先生たち』が決して戻ってこないことを。
 そして、周囲の木々にいくつものカメラやマイクが仕掛けられていることも。

 シェイデッド・スクウェアから遠く離れた市街地。『ウェッサーマン病理研究所』なる施設内の一室。
 三方の壁に設置されたモニター群を白衣姿の一団が興味深げに眺めていた。
 言うまでもなく、モニターに映し出されているのはシェイデッド・スクウェアの天使たちである。
「さすがは天使だ。我々のことを疑うどころか心配している。こうなると、胸が痛むな」
 そう言った男の口元には皮肉な笑みが浮かんでいた。胸の痛みは微々たるもののようだ。あるいは完全に無痛なのかもしれない。
 他の者たちも痛みは感じている様子を見せなかった。
「しかし、もったい話ですねえ。せっかく集めたサンプルをあんな場所に放置するなんて……」
「しょうがないでしょう。各地の天使案件のデータから判断する限り、オルガノン・セラフィムの襲来は避けられない。だけど、あたしたちにはオルガノン・セラフィムに対抗する術はない。となれば、天使を隔離するしかないわ」
「だが、天使たちの死は無駄にはしない。オルガノン・セラフィムに捕食される様をしっかり記録し、今後の研究に役立てようじゃないか」
「うむ。あの子たちは科学の進歩のための生贄……いや、礎となるのだ」
「考えてみれば、こんな面倒なことをする必要はなかったかもしれませんね。あいつらは愚かなまでに利他的ですから、『研究のためにオルガノン・セラフィムに食われてください』と頼んだら、喜んで身を差し出してくれたんじゃないですか?」
「違いない。はっはっはっはっはっ!」
 さも愉快そうに一人が笑った。
 笑い声はすぐに全員分になった。

●√EDENにて
「……っていう内容のゾディアック・サインを見たんだー」
 √能力者の前で語っているのは、赤いバンダナを首に巻いたバセットハウンド。
 星詠みのイヌマル・イヌマルである。
 彼が得たゾディアック・サインによると、√汎神解剖機関の天使たちに危機が迫っているのだという。
 天使――それは善なる無私の心の持ち主のみを異形化させる風土病『天使化』に感染した人々のこと。ただし、すべての感染者が天使になるわけではない。大半の者は理性や良心を失って『オルガノン・セラフィム』なる怪物と化し、天使を捕食しようとするのだ。
『天使化』は根絶されたと思われていたが、今年の三月半ばほどからヨーロッパ各地で多くの感染が確認されている。それに呼応して動き出したのが秘密組織『羅紗の魔術塔』。羅紗魔術士と呼ばれる彼らや彼女らは汎神解剖機関と対立していおり、オルガノン・セラフィムたちを奴隷化して使役しようと企んでいる。そして、天使たちのことも狙っている。
「ゾディアック・サインが示した場所は、イギリスの山奥にある『シェイデッド・スクウェア』っていう野原だよ」
 と、イヌマルは√能力者たちに言った。
「そこにいる天使の子供たちをオルガノン・セラフィムや『羅紗の魔術塔』の手から守り、救い出すこと――それが今回の任務というわけ」

 そもそも、何故に天使たちが山奥にいるのか? それについてもイヌマルは語ってくれた。
「イギリスに『ウェッサーマン病理研究所』という施設があってね。天使化した子供たちが集められて、研究や実験がおこなわれていたんだ。だけど、そこの研究者たちは天使たちをシェイデッド・スクウェアに捨てちゃったんだよ。天使を傍に置いていたら、オルガノン・セラフィムや『羅紗の魔術塔』の襲撃に巻き込まれるかもしれないからね。ようはビビッたってこと」
 ウェッサーマン病理研究所は天使たちをただ捨てたわけではない。天使たちがオルガノン・セラフィムに捕食される様を記録するため、シェイデッド・スクウェアにいくつものカメラやマイクを仕掛けている。非人道的なおこないだが、彼らには彼らなりの使命感や大義名分があるのだろう。
「でも、そのカメラが撮るのは天使たちがオルガノン・セラフィムに襲われる光景なんかじゃなくて、天使たちを救う皆の雄姿だろうけどね」
 仲間たちへの信頼に裏付けられた予想をバセットハウンドの星詠みは口にした。
 そして、尻尾を振って、皆を送り出した。
「健闘を祈るよ! わおーん!」

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第1章 集団戦 『オルガノン・セラフィム』


●序幕
「皆でピクニックに行こう」
 そう言われて、天使たちはここに連れてこられた。
「すぐに戻るからね」
 そう言われて、天使たちはここに置いていかれた。
 連れてきてくれた/置いていった大人たちはまだ帰ってこない。
 その代わり、別の者たちが現れた。
 天使、怪物、半壊した人形、半壊した死骸――それらを無秩序にパッチワークしたかのような姿の存在。
 オルガノン・セラフィムである。
 鉛色の空に浮かぶそれらを見上げて、心優しき天使たちもさすがに言葉を失った。もっとも、それは恐怖が生み出した沈黙であり、嫌悪は抱いていない。もし、オルガノン・セラフィムたちが悲しみや苦しみを訴えたら、天使たちも我がことのように心を痛めるだろう。
 しかし、オルガノン・セラフィムを突き動かしているのは悲しみでも苦しみでもない。
 歪められた本能だ。
 その本能に従い、天使になれなかった者たちは襲いかかった。
 オルガノン・セラフィムにならなかった者たちに。
アリエル・スチュアート
山中・みどら
クーベルメ・レーヴェ
隠・帯子

●第一幕第一場
 天と地に異形の群れがいた。
 かたや、心を失った捕食者。空中に浮かぶオルガノン・セラフィムたち。
 かたや、心優しき被捕食者。地上で身を寄せ合う天使たち。
 食欲とは似て非なる本能に突き動かされて、前者が後者に襲いかかろうとした時――
「我が眼前の敵へと降り注げ、光よ!」
「迎撃! 曇り空を切り裂き、威光を示せっ!」
 ――二人分の叫び声が響き、二種の光が乱舞した。
 光のうちの一種は魔法によるもの。それらは豪雨さながらに降り注ぎ、稲妻さながらにオルガノン・セラフィムたちを打ち据えた。威力は稲妻に遠く及ばないらしく、異形の体躯に与えた傷はどれも小さい。しかし、数は膨大。一個体が受けた攻撃回数は三桁に達しているだろう。
 もう一種はレイン砲台から放たれたもの。√能力を用いた攻撃ではないらしく、オルガノン・セラフィムに与えたダメージは魔法の光のそれよりも更に低い。だが、彼らや彼女らを牽制し、混乱させることはできた。
 その混乱が静まらぬうちに、先程の叫び声の主を含む四人の女が林の中から走り出た。
「間一髪……と、言ったところかしらね」
 光の魔法を用いた娘――アリエル・スチュアート(片赤翼の若き女公爵・h00868)が天使たちを背にかばうような位置で急停止した。多くの者は、彼女の背にある翼に目が行ってしまうだろう。赤いグラデーションカラーがとても美しいから。そして、それが一枚しかないから。片翼のセレスティアル。
『気を抜くのは早いですよ。ここからが本番ということをお忘れなく』
 アリエルの肩の上で妖精が……いや、妖精型ドローンに搭載されたAI『ティターニア』が釘を刺した。
「気を抜いてるように見えるのだとしたら、あなたの認識能力に関するアーキテクチャを組み直す必要があるわね」
 アリエルが言い返している間に他の三人も配置についた。アリエルと同様に天使たちを背にして、他の二人と等距離を置き、残りの一人の対角線上に立つ。四人の戦士によって描かれた不可視の四角形。
「怪我はない?」
 上空のオルガノン・セラフィムに警戒の目を向けながら、金髪碧眼の少女が後方の天使たちに尋ねた。
 |少女人形《レプリノイド》のクーベルメ・レーヴェ(余燼の魔女・h05998)。レイン砲台から光線群を放ったのは彼女である。
「う、うん。大丈夫だよ……」
 と、天使の一人が戸惑い気味に答えた。
 別の天使が問いかける。
「お姉さんたちは誰なの?」
「見ての通り、もりのくまさんだよ」
 腰に銃と刀を帯びて、頭に熊の耳のような飾りをつけた女――山中・みどら(レンズの奥に潜むのは・h00207)が答えた。おどけた調子ではあるものの、その声は怒りを隠し切れていない。ここに天使たちを置き去りにしたウェッサーマン病理研究所の面々に対する怒りだ。しかし、目に表れているであろう怒りは完全に隠されている。大きなサングラスによって。
「私のほうは見ての通りの存在じゃない。とりあえず、『くまさん』とは一字違いと言っておこう」
 |載霊禍祓士《さいれいまがばらいし》の得物たる卒塔婆を手にした四人目の戦士が天使たちに自己紹介をした。無表情に、淡々と。
 彼女は|隠《なばり》・|帯子《おびこ》(🕷️・h02471)。十歳前後の女児のような容姿をしているが、その正体は獣妖である。
「一字違いって、どういうこと?」
 そう尋ねながら、みどらが大型拳銃『バリスコメット』を腰から抜いた。
 銃口を向けた先は空ではない。オルガノン・セラフィムの群れは次々と草原に降り立っていた。歪で大きな輪になって、みどらたちと天使の一団を包囲している。
「つまり、『くまさん』じゃなくて――」
 帯子は足を広げて上体を少しばかり沈めた。無表情をキープしているので判り難いが、力んでいるらしい。
 何体かのオルガノン・セラフィムが飛び出した。帯子の両横を素早くすり抜けて、天使たちへと襲いかかる……というイメージで動いたのだろう。
 しかし、天使の襲いかかるどころか、帯子の横をすり抜けることさえできなかった。
 蜘蛛のそれを思わせる大きな脚に行く手を阻まれたのだ。
「――『くもさん』ということ」
 そう、脚の主は帯子だった。力んだ末に小さな体の両側面から生やしたのである。
 左右に二本ずつあるそれらを威嚇するかのように広げながら、彼女は本来の腕で卒塔婆を振り回した。梵字の記された板が右に走り、左に戻り、その軌道上にあったオルガノン・セラフィムの頭部が『ぐちゃり』という不快な音とともに弾け散る。
 みどらの手元では別の音が発生していた。『バリスコメット』の発砲音だ。竜漿石製の弾頭が撃ち出され、オルガノン・セラフィムの手から伸びた爪を次々と弾き返した。
 だが、オルガノン・セラフィムの攻撃は爪だけでは終わらない。剥き出しの状態で体に絡まっていた|腸《はらわた》が解け、鞭のように撓り、蛇のように蠢き、みどら(と、その後方にいる天使たち)に襲いかかった。
「ナンタラ病理研究所とかいう施設の連中がやってることは人の道を外れてるように思えるけど、天使化の根絶や医療の進歩のためには有用なのかもね。それでも――」
 みどらは銃を持ってないほうの手を腰にやり、刀の柄を握った。
「――あたしゃ、自分の心に従わせてもらうよ」
 逆手抜きの斬撃。
 腸が断ち切られ、地面に落ちた。
 いくつかの腸はみどらの刀が届かぬ位置にあったが、それらもまた迎撃された。
 フェアリー型ドローンたちによって。
 いつの間にか、皆の頭上には帆船型のレギオンフォートレスが浮揚している。ドローンたちはそこから降下してきたのだ。
「私も従うわ。ノブレス・オブリージュにね」
 ドローンたちの主であるアリエルが宣言した。
「自国の民のために力を揮う――それが貴族の務めというものよ」
『ここは自国ではありませんよ』
 と、ティターニアが半畳を入れた。
『そもそも、√が違うのですから』
「細かいことを言ってないで、しっかり援護しなさい」
『√の違いを『細かいこと』と思っているのなら、あなたは基本的な教育を一から受け直すべきですね』
「ああ言えばこう言うんだから……」
 不満げに唇を尖らせながら、アリエルは電光の魔法『ライトニングレイ』を再び発動させた。
 稲妻の連撃に晒されるオルガノン・セラフィムたち。
 その猛攻が一段落した時、戦場は(レギオンフォートレスに陽光を遮られている場所を除けば)少しばかり明るくなっていた。天から降り注いだ何百何千もの稲妻が、また、最初にレイン砲台が乱射したレーザーが、鉛色の雲の大部分を削り取ったからだ。
「やっぱり、ピクニックは晴天でないとね」
 クーベルメが敵陣の一角に突進し、軍用シャベルを横薙ぎに払った。
 一体のオルガノン・セラフィムの首が胴体から離れて宙を舞った。バネ仕掛けの玩具のように。
 それが地面に落ちる前にクーベルメの姿は消えている。煙幕を発生させたからだ。
 煙幕に身を隠して、少女人形はまた一体の敵の首を刎ねた。重い一太刀ならぬ一|円匙《えんぴ》に込められているのは、この悪趣味な『ピクニック』を計画した大人たちへの憤り。
 そんな彼女とは対照的に帯子は淡々と(しかし、容赦なく)卒塔婆を振るい続けていた。
「みどらさんが言っていたように、キミたちのおこないは医療の進歩に有用なのかもしれないね」
 帯子が語りかけている相手はオルガノン・セラフィムの群れではない。四方八方に仕掛けられたカメラ越しに観戦しているであろうウェッサーマン病理研究所の者たちだ。
「とはいえ、進歩するための手段はあまりにも性急な上に重苦しい。まあ、それはキミたちに限らず、人間全般に言えることだけどね。彗星のように生き急ぐ人間たちの背をただ追うだけの私たちとの差を感じるよ」
「あたしゃ、その『差』を誇りにしたいね!」
 みどらが叫んだ。実は彼女は人間ではない。帯子が言うところの『私たち』の側――付喪神である。
「みんな! あたしに背を向けて、目を閉じなさい!」
 サングラス姿の付喪神は再び叫んだ。天使たちに向かって。
 次の瞬間、閃光が弾けた。
 √能力によって生じた閃光だ。目が眩むどころではない。直視した者に頭痛を起こさせるほどに激しい。
  それを浴びる位置にいたオルガノン・セラフィムたちは苦しげに身を震わせているが、みどらの狙いは彼らや彼女らだけではなかった。
「映像を見直す度に光に怯えるがいいさ! たわけがよぉーっ!」
 光で弱まったオルガノン・セラフィムたちめがけて『バリスコメット』を続けざまに発砲しながら、みどらはカメラの向こうの科学者たちに怒号をぶつけた。
「私も威嚇しておこうか……」
 帯子がみどらに倣った。
 カメラがあるであろう方向を見据えて――
「がおー!」
 ――可愛く吠える。
 ただし、可愛いのは声だけ。吠えた瞬間に|化術《ばけじゅつ》を解き、獣妖の真の姿を見せつけている。天使たちがみどらの言いつけ通りに目を閉じていたのは幸いといえよう。
「じゃあ、あたしも!」
 クーベルメが煙幕の奥から姿を現し、カメラの一つに向かって、あかんべえをしてみせた。
 そして、軍用シャベルを突撃銃に素早く持ち替えると、そのカメラめがけて連射した。

櫃石・湖武丸
吉住・藤蔵
道明・玻縷霞
逝名井・大洋

●第一幕第二場
『シェイデッド・スクウェア』という俗称を持つ奇妙な草原。
 そこはオルガノン・セラフィムたちの狩り場となるはずだった。
 だが、そうはならなかった。
 血が弾け、肉がちぎれ、骨が砕け、命を失った体が次々と地に倒れていく――その様は確かに『狩り場』と呼ぶに相応しいかもしれない。しかし、狩られているのはオルガノン・セラフィムのほうだ。
 そう、ここは√能力者の狩り場。
 そして、新たな狩猟者が加わった。
「おい、見てるんだろう? 御立派な研究に血道をあげてる意識高い系の皆様よ」
 カメラ群が仕掛けられた四方の林をぐるりと見回したのは、額から二本の角を生やした男――人妖の|櫃石《といし》・|湖武丸《こたけまる》(蒼羅刹・h00229)。その左腰から銀光が迸った。抜刀したのだ。
「お望みの映像が撮れなくて残念だったな。だが、嘆くことはない。俺たちのカッコいい戦い振りもなかなかの|見物《みもの》だぞ」
「いぇーい! 見てるぅ?」
 金銀のアクセサリーで身を飾った浅黒い肌の青年が湖武丸の横でピースサインを作った。
 シャドウペルソナの|逝名井《イケナイ》・|大洋《タイヨウ》(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)である。
 彼がカメラに向けた笑顔はとても無邪気なものだった。
 だが、目は笑っていない。
 その眼差しに含まれている殺気を感じ取ったのか、白衣姿の男――蛇神憑きの|吉住《よしずみ》・|藤蔵《とうぞう》(毒蛇憑き・h01256)がぼそぼそと言った。
「くれぐれも冷静に頼むだぞ」
 大洋と違い、そのぼんやりした目に殺気は皆無。声も気怠げであり、激情に駆られているような印象は受けない。
 時折、喉の奥から小さく発せられる『シャーッ!』という蛇の威嚇音さえ無視すれば。
 狛犬の付喪神である|道明《どうみょう》・|玻縷霞《はるか》(黒狗・h01642)はそれを無視できなかった。
「そう言う吉住さんこそ、冷静な行動をお願いしますよ」
 指先で眼鏡を押し上げつつ、彼は藤蔵に注意を促した。
「私は逝名井さんの子守りだけで手一杯なんです。吉住さんまで抑えなくてはいけない状況になってしまったら……」
「でえじょうぶだ。ちょっとばかしトサカに来てっけども、自分を見失ったりはしねえだよ。安心して、逝名井のお守りに専念するがええ」
「ちょーっと待って、待って! 子守りとかお守りとか、二人ともひどくなーい? ボクのことをなんだと思ってんだよぉ!」
 と、冗談めかした調子で抗議する大洋を無視して、玻縷霞は他の二人に声をかけた。
「私と逝名井さんは敵の相手をします。天使たちのことは櫃石さんと吉住さんにお任せしてもいいですか?」
「ああ、任された。道明も逝名井も好きに暴れろ」
 天使たちを守るための位置取りをする湖武丸。
「守りながらの戦いってのはしたことねえんだけども――」
 藤蔵が湖武丸に並び、√能力を発動させた。|警視庁異能捜査官《カミガリ》が得意とする『|霊震《サイコクエイク》』だ。
「――気張るべ」
『霊震』の範囲にいたオルガノン・セラフィムたちがよろけて膝をついた。転倒した者もいる。
 間髪容れず、大洋が躍りかかった。二丁拳銃を手にして。
「力を貸してね、弟ちゃん」
 主人格である『弟』の霊能力を利用して速度を上昇し、疾風のようにオルガノン・セラフィムたちの間を駆け抜けていく。もちろん、ただ駆けているだけではない。敵の横を通り過ぎる度に拳銃を押しつけてゼロ距離から発砲し、あるいは鈍器のように振り回して銃身を叩きつけている。
 一方、大洋ともにオフェンスを担当しているはずの玻縷霞は攻撃を仕掛けていなかった。オーソドックススタイルの構えを取り、敵の出方を待っている。
 それを警戒するほどの知性をオルガノン・セラフィムたちは持ち合わせていない。歪な体を撓め、勢いをつけてジャンプし、玻縷霞へと襲いかかった。
 異形の腕に癒着した奇妙な武器が次々と玻縷霞に振り下ろされ、突き出され、横薙ぎに払われる。
 玻縷霞はそれらを躱せなかった。いや、躱さなかった。あえて、その身に受けた。
 そして――
「お返しします」
 ――瞬時に反撃を繰り出した。
 二つの拳が百の残像を描いて荒れ狂い、オルガノン・セラフィムたちに打ち込まれる。一体の敵に拳が命中する度、その敵によって負わされた玻縷霞の傷が消え去った。√能力『|因果応報《マーシレスカウンター》』の副次効果。
 オフェンス陣の手が届かぬ場所から天使たちを狙うオルガノン・セラフィムもいたが、玻縷霞も大洋も目の前の敵だけを攻め続けた。ディフェンスへの信頼があってのことである。
 その信頼を湖武丸と藤蔵は裏切らなかった。
「怖かったり驚いたりで、とても理解が追いつかないだろうが――」
 オルガノン・セラフィムたちが伸ばしてくる刃物のごとき爪や鞭のごとき|腸《はらわた》を愛刀『鬼々蒼々』で弾き返しながら、湖武丸は天使たちに語りかけた。
「――この状況では、下手に逃げるほうが危険なんだ。じっとしておいてくれよ」
「う、うん」
 と、天使の一人が頷いた。
「おじさんたちのほうは大丈夫なの? ケガしてるけど……」
 天使が心配げに見た相手は藤蔵である。
 確かに彼は負傷していた。オルガノン・セラフィムの攻撃を躱し切ることができなかったのだ。
「なんてこたぁねえだよ」
 いつも通りのぼんやりした表情のまま、藤蔵は『霊震』を以て戦い続けた。痛みを感じていないわけではない。だが、耐えるのは容易であり、耐えていることを隠すのも容易だった。『天使たちを不安にさせてはいけない』という思いがあれば。
「お優しいねえ。住吉さんを気遣う天使ちゃんも、その気遣いに応えてあげる住吉さんも……」
 銃撃と格闘でオルガノン・セラフィムたちを蹂躙しながら、大洋が言った。茶化すような口振りだが、その口元を歪めている笑みは決して嘲笑ではない。
「ボクらが殺してるコレも優しい人だったのかな?」
「ああ。天使化に感染したからには優しい人間だったんだろう」
 なにを思ったのか、湖武丸が『鬼々蒼々』を鞘に戻した。
「カメラの向こうにいる奴らと違ってな」
 両腕をだらりと下げ、一歩だけ足を踏み出す。
 次の瞬間、彼の姿が消失した。

 鬱蒼とした森の中に湖武丸が現れ出た。
 別の√の同地点に移動したのだ(この√には正方形の草原は形成されていないらしい)。
 そこには湖武丸以外に誰もいなかったが――
「見えてるぞ」
 ――彼の目は捉えていた。
『霊能波』と同種の√能力『色即是空』によって。
 √汎神解剖機構の『シェイデッド・スクウェア』にいる敵影を。
「見えれば……届く!」
『鬼々蒼々』の柄に手をやり、一呼吸で抜き放つ。
 斬撃が水平に走り、周辺の木々が切り倒され――

 ――『シェイデッド・スクウェア』にいる何体かのオルガノン・セラフィムも胴体を両断されて地に転がった。
 そして、湖武丸の姿が再び現れ出た。複数の敵をまとめて切り倒した直後であるにもかかわらず、『鬼々蒼々』の刀身に血脂はついていない。当然だ。刀身が物理的に触れたのは敵ではなく、別の√の木々なのだから。
「はははっ」
 肩を揺らして笑いながら、湖武丸は四方の林をぐるりと見回した。最初にここに訪れた時と同じように。
 そして、決して天使になれない者たちに宣告した。
「次はおまえたちもこうしてやる」
「いいね。ボクもそれに参加するよ」
 大洋が戦闘の手を一瞬だけ止めて、カメラの一つにウインクを送った。
 ついでに銃弾に悪態を添えて打ち込んだ。
「|てめえらのケツをブチ抜いてやんよ!《I'mma peel a cap in their asses!》」
「おうおう。物騒な話してんな」
 藤蔵が呆れ顔を見せた。
「気持ちは判るけどもよ。天使の子たちもいるんだから、そういうのは程々にしとくべよ」
 天使たちはきょとんとしている。『お尻の|帽子を剥ぐ《Peel a cap》って、どういうこと?』とでも思ってるのだろう。
「ウェッサーマン病理研究所の職員たちがいかに憎むべき輩であろうと、殺してしまうのは得策とは言えませんね」
 血の気の多い仲間たちを玻縷霞が窘めた。冷静な声音に反して、その姿は凄惨なものだった。攻撃を受けては殴り返すという戦法を続けているため、全身が返り血に染まっている。
「研究所には天使化に関する貴重なデータがあるかもしれないのですから、まずはそれを聞き出すべきです」
「じゃあ、聞き出した後はなにをしても構わないってこと?」
 大洋が確認すると――
「もちろんです」
 ――玻縷霞は即答した。
「研究所を潰すなり、天使たちが受けたのと同等の仕打ちを加えるなり、御自由にどうぞ」
 そして、声にも顔にも感情を滲ませることなく、静かに付け加えた。
「なんなら、私も協力しますよ」
 

早乙女・伽羅
野原・アザミ
西園寺・つぼみ

●第一幕第三場
 昼なお暗い林を抜けると地獄であった。春の草の香りが血臭に変わった。正方形の草原で三人の√能力者は足を止めた。
「ひどい……」
 三人のうちの一人である野原・アザミ(人間(√妖怪百鬼夜行)の|載霊禍祓士《さいれいまがばらいし》・h04010)が呟いた。怜悧な印象を受ける顔を微かにしかめ、形の良い眉をひそめている。
 そこでは他の√能力者たちが激闘を繰り広げていた。
 激闘の相手は、異形の存在であるオルガノン・セラフィムの群れ。半数近くが倒されて屍を晒しているが、残された約半数は同族の死に臆することなく、爪を伸ばし、あるいは|腸《はらわた》を振り、あるいは体に癒着した奇妙な武器を用いて、√能力者と戦い続けている。草原の中心で身を寄せ合っている天使の少年少女たちを食らうために。
 アザミの『ひどい』という言葉は目の前の惨状に対する感想ではない。高見の見物を決め込んでいるウェッサーマン病理研究所の面々を評したのだ。
「世界中の科学者だの研究者だのが全部そうだとは思いたくないけど……絶対に頭おかしい……狂ってる」
 静かな声に『ミシリ』という音が重なった。武器である卒塔婆を無意識のうちに強く握りしめたのだ。
「騙して連れ出して、わざと襲わせて、自分たちだけ安全な場所で覗き見してるとか、気持ち悪過ぎる」
「ホント、研究者を気取ってるなら、研究対象たるオルガノン・セラフィムにビビッてちゃダメよね」
 散弾銃型のガンライフルを手にした娘がアザミの独白に同調した。
 元・人気モデルの西園寺・つぼみ(無貌のモデル・h00957)だ。
 彼女もまたアザミと同じように眉をひそめているのかもしれないが、表情を確認することはできない。花模様が縫い込まれた|面布《かおぎぬ》のようなものに隠されているのだから。
「揃いも揃って、タマなしのチキン野郎だわ」
 悪態に『ガシャリ』という小気味よい音が重なった。散弾銃型ガンライフルのポンプをスライドさせたのだ。
「おっと、失礼! 今の言葉は品がなかったわね。聞かなかったことにしてちょうだい」
「ああ。なーんにも聞こえなかったとも」
 三人のうちの黒一点である|早乙女《さおとめ》・|伽羅《きゃら》(元警察官の画廊店主・h00414)が猫のように耳を伏せてみせた。
 いや、『ように』の部分は必要ないかもしれない。人妖の猫又である彼の頭部は猫そのものであり、二本足で直立している大きな体躯も猫の特徴を多く残していた。ただし、普通の猫と違って、尻尾は二本ある。猫種がメインクーンなので、どちらの尻尾もボリューム満点。被毛をなびかせて揺れているそれらは、伽羅の尻にくっついた別の小動物のようにも見えた。
「カメラの向こうのタマなし……いや、紳士淑女の皆様と違って、こちらの仲間は頼れる奴ばかりのようだな。とはいえ、もう少し人手が欲しいところだ」
『人手』を呼ぶべく、伽羅は√能力を発動させた。
 それに応じて頭上の空間から滲み出るように現れ出たのは長方形の物体――額縁に納まった絵画である。描かれているのは、赤子を抱いた黒衣の聖女とそれを取り囲む有翼の乙女たちだ。
「聖母ならびに天使の皆様。どうか、この不信心で罰当たりな猫めに御慈悲と御力添えを賜りたく……」
 宙に浮かぶ絵画に伽羅は恭しく助力を乞うた。
 すると、絵画は閃光を発して消え去った。
 代わって現れたのは、絵画の中にいた聖女と天使たち。
 聖女は黒衣の裾をたなびかせ、天使たちは翼をはばかたせて、周囲に散開した。そのうちの何人かは白い煙の軌跡を残している。振り香炉を手から下げているのだ。
 彼女たちを見送りながら、つぼみが伽羅に言った。
「天使を以て天使を救うってわけ?」
「今回の任務は胸糞が悪いからな。こうでもして美しい光景をねじ込まないと、気が保たないかもしれないだろう」
「うーん。美しいのは認めるけど、あの天使さんたちって、あまり強そうな感じしないよね」
「同感です」
 アザミが頷いた。
 そして、澄まし顔で伽羅に意見を述べた。
「どうせなら、『我が子を食らうサトゥルヌス』のような絵のほうがよかったのでは?」
「おっそろしいことを言うもんじゃない。あんな絵を具現化したら、天使の子たちに強烈なトラウマが残るだろう。そもそも、あの聖母や天使はべつに戦力として召喚したわけじゃないんだ。彼女たちの仕事はカメラを一つ残らず見つけ出すことさ」
「あ? そーなんだ」
 つぼみが意外そうな顔をした。
「てっきり、あの煙が出てるやつで敵をバシバシ殴ったりするのかと思った」
「バシバシ殴るのは私たちの仕事ですね」
 絶対に『バシバシ』といったレベルでは済まないであろう卒塔婆を構え直し、アザミが歩き出した。
 伽羅とつぼみがそれに続く。
 他の√能力者たちと戦っていたオルガノン・セラフィムが三人に振り返った。
「はじめましてー。私たちは先生の代理で皆を迎えに来たの」
 天使の少年少女たちに向かって、つぼみがオルガノン・セラフィム越しに語りかけた。もちろん、『先生』たちに関する真実を告げたりはしない。
「もう大丈夫だから、安心してね」
「私たちはあなたたちを傷つけたりしないし、傷つけさせもしない」
 と、アザミも優しい声を投げかけた。
「だから、そこを動かないで。怖かったら、目をつむって耳を塞いでいなさいね」
「いえ、たとえ怖くなくても、目も耳も塞いどいたほうがいいよ。ここからは大人の時間。子供には――」
 つぼみの顔を覆い隠す面布が更に別の物に覆い隠された。√能力によって瞬時に創造された面だ。霊的加護を有したそれには、所有者の能力を上昇させる効果もある。
「――ちょっと刺激が強いから」
 面布と面で顔を二重に隠した元モデルは散弾銃型ガンライフルのトリガーを引いた。
 銃声が轟く……かと思いきや、轟く間もなく、別の不快な音が響いた。いかなる仕掛けによるものか、銃口から撃ち出された弾丸は音響兵器さながらに指向性の音波を走らせたのである。
 音波を浴びた一部のオルガノン・セラフィムの動きが鈍った。
 その虚を衝いて、アザミが突進した。
「この変なパッチワークお化けには御大層な名称があったはずですが……まあ、どうでもいいですよね」
 力の限りに卒塔婆をスイングしながら、『御大層な名称』を持つ敵たちの間を駆けに駆ける。通り過ぎた後に残るのは無数の肉塊。|解《ほど》けたパッチワーク。
「何者だろうと、祓ってみせます。全身全霊で」
 豪快な戦い振りであるが故に多数のオルガノン・セラフィムの注意を引くこととなったが、アザミにとってはそれこそ望むところ。敵が自分に寄ってくれば、その分だけ天使たちに向かう者が少なくなる。
 乱戦の中で流れ弾ならぬ流れ爪や流れ腸が天使たちに飛んでいくこともあったが――
「ちょっとキモいから、素手で触れるのは抵抗があるんだけどねえ……」
 ――その都度、つぼみが射線上に割り込み、爪や腸を右の掌で受け止めた。掌には傷一つついていない。√能力『|逆位相周波《アンチ・フェーズ》』で敵の攻撃を無効化したのだ。
「二人とも、そんなに嫌うなよ」
 と、伽羅がアザミとつぼみに言った。
「彼らとて、善良な人々だったんだ……いや、善良である。今もだ」
『逆位相周波』と同種の√能力でつぼみをサポートしつつ、伽羅は自分の言葉を訂正した。
 当然、サポートだけでは終わらない。
(『善き人間でありたい』と祈りながら暮らしてきたであろう人たち……彼らの意思に反して、このような状況を長引かせていい理由はどこにもない)
 腰に下げているサーベルを抜き放つ。それは√妖怪百鬼夜行の官給品。法の執行者を務めていた頃からの古い相棒。
(我々に彼らを救う手立てが他にない以上――)
 元・警官の猫又は地を跳ねるようにして、一体のオルガノン・セラフィムに襲いかかった。
(――速やかな討伐を目指すしかあるまい)
 標的となったオルガノン・セラフィムは異形の口を大きく開き、異形の牙を剥き、異形の舌を踊らせた。食らいつこうとしたのか、あるいはただの威嚇なのか。どちらにせよ、開かれた口が閉じることは二度となかった。
 サーベルが水平の銀光を引いて走り、|顎門《あぎと》を上下に断ち切ったのである。豆腐でも切るかのように易々と刃が通ったのは、伽羅の筋力が√能力『|昼行燈《カミソリ》』によって倍増しているからだ。
 伽羅は止まらなかった。振り返りざまにサーベルを突き出し、別のオルガノン・セラフィムの口に刃を抉り込む。更に旋回し、三体目のオルガノン・セラフィムの顔をまた上下に両断。常に頭部を狙った。一太刀で倒すために。
(顔というのはその人の|為人《ひととなり》や人生を表す大切な表紙も同然だが……赦してくれ)
 心苦しかった。しかし、だからこそ、躊躇しなかった。人間だった頃の面影が微塵も残っていない『表紙』をただひたすらに斬り裂き、あるいは刺し貫いた。
「あら? 伽羅が召喚した天使さんたちもきっちり仕事をしてくれたみたいよ」
 音響弾による制圧射撃で敵を牽制しながら、つぼみが伽羅に声をかけた。
 聖母と有翼の乙女たちはそれぞれが空中の一転に静止し、眼下の木を指し示している。そこにウェッサーマン病理研究所のカメラが仕掛けられているということだろう。
「よし」
 オルガノン・セラフィムたちへの攻撃を続けつつ、伽羅はサーベルを持ってないほうの手を振った。篭手に仕掛けられた対インビジブル用の糸が勢いよく飛び出し、カメラに絡みつく。そこで手首を一捻り。カメラは輪切りにされ、幾片にも分かれて地面に落ちた。
「記録など残させぬ。子供たちのことも、俺たちのこともだ」
 同じ要領でカメラを壊し続けながら、伽羅は怒りの言葉をぶつけた。物理的にも心情的にも遠く隔たったところにいる研究者たちに。
「おまえたちは大した成果も得られず、貴重なサンプルもすべて失うのだ。なんのために技術があるのかを忘れ、己の好奇心に愚かしくも正直な馬鹿どもめ。いかに無駄なことをしたかを思い知って嘆くがいい」
「この子たちが天使なら、あなたたちは悪魔だわ」
 アザミもまたカメラに向かって言い捨てた。囁きに近い声なので、カメラのマイクは拾ってないかもしれないが、そんなことは気にしていない。『悪魔』たちに人の道を説いて聞かせるつもりなどないし、説いて聞かせても無駄だということも判ってる。
 だからといって、怒りを表明をしなかったわけではなく――
「おっと! 狙いを外してしまいました」
 ――わざとらしく卒塔婆を空振りさせ、その衝撃波でカメラを破壊した。
 その行動の代償として、一体のオルガノン・セラフィムに無防備な背中を晒すこととなった。
「おねえちゃん! あぶない!」
 天使の一人が叫んだ。
「言われなくても判ってますよ。でも、ありがとう」
 アザミは素早く振り返った。件のオルガノン・セラフィムが繰り出してきた爪を卒塔婆で受け、続いて伸びてきた腸を飛び退って躱し、次の瞬間にまた前進して距離を詰め、『禍祓大しばき』の一撃を相手の脳天に叩き込む。
「こら。目を塞いでおくように言ったでしょ」
 と、叫びを放った天使に注意したのはつぼみだ。
 その天使が目を閉じたことを確認すると、つぼみは顔をカメラに向けた。伽羅とアザミによる破壊を免れた最後のカメラ。
 それを通して、彼女は研究者たちに宣告した。
「この子たちは全員、私たちがもらってくわ。べつにいいわよね?」
 そして、√能力で創造した面を消し去り、面布をめくりあげ、カメラに見せつけた。
 素顔を。
 為人や人生の断章すら記されていない白紙の表紙のごときそれを。
「いいですとも」
 研究者たちに代わってアザミが答え、またもや卒塔婆の衝撃波でカメラを破壊した。
「よーし、もう大丈夫。皆、目も耳も開けていいわよ!」
 天使たちにそう言いながら、つぼみは面布を下ろし、研究員たちを戦慄させたであろう素顔を再び隠した。
 

第2章 ボス戦 『ジェーン・ドゥ』


●幕間
 ウェッサーマン病理研究所のモニタールームは混乱に陥っていた。みどらの閃光に昏倒する者、湖武丸の殺害予告に恐怖する者、伽羅の激語に動揺する者、つぼみの素顔に驚愕する者、大洋の悪態に憤慨する者、帯子の真の姿に呆然とする者……。
 しかし、時間が経つにつれ、皆の感情は集約されていった。
 √能力者たちに対する怒りへと。
「なんなんだ、あの乱入者どもは!?」
「口振りからすると、『連邦怪異収容局』や『羅紗の魔術塔』ではないようですね」
「汎神解剖機関かもしれんな。『羅紗の魔術塔』よりは御しやすい連中だから、交渉の余地もあるだろうが……偽善に酔う層がいるのが厄介だ」
「もしかしたら、シェイデッド・スクウェアの秘密も嗅ぎつけているかもしれないわね」
「だとしても、問題はありません。法的に何重にも防護策を講じていますから、私たちが罪を問われることはないはずです」
「そもそも、糾弾される謂れがない! 我々は誠実なる学究の徒だ! 科学の進歩のためにすべてを捧げた奉仕者だ! むしろ、賞賛されるべきであーる!」
 自称『誠実なる学究の徒』が怪気炎をあげると、他の者たちは一斉に拍手をした。



 惨烈を極めた戦いはオルガノン・セラフィムの全滅という形で終わった。
 しかし、勝利に酔いしれる√能力者はいなかった。
 後味の悪い戦いだったから。
 天使たちを安全な場所まで送るという仕事が残っているから。
 そして、新たな敵が現れたから。
「ここで出向研究員として働いていたのは何年前だっけ? いやー、懐かしいわー……と、言いたいところだけど、建物が跡形も残ってないから、懐かしさなんて感じようがないわね」
 楽しげな独り語りとともに林の中から歩み出てきた美女。
 それを『新たな敵』として認識できたのは、タイトなミニのニットワンピースの上に白衣を羽織るという堅気離れした出で立ちのせいではないし、傲岸不遜な気質を強調したかのような濃いメイクのせいでもない。左半身の肌をびっしりと埋める数式や図式は異様だったし、右手の中で鈍く輝くメスも不気味だったが、それらのせいでもない。
 ただ、本能が告げたのだ。
 この女は敵だ、と。
 危険な存在だ、と。
「あら? ごめんなさい」
 女は√能力者たちに目を向けた。
「思い出に浸っちゃって、自己紹介するのを忘れてたわ。私はジェーン・ドゥ。よろしくね」
 あきらかに偽名である。
「『羅紗の魔術塔』のアマランス・フューリーとの契約に基づいて、オルガノン・セラフィムたちの回収に来たのだけれど……あなたたちが一匹残らず殺しちゃったみたいね。まったく、困ったもんだわ。でも、許す。うん、許してあげる」
 ジェーンはにっこりと笑った。本人は寛大な笑みを浮かべているつもりなのかもしれないが、√能力者の目には尊大な笑みとしか見えなかった。
「けーどーもー! その代わり、そこにいるサンプルたちは私が持って帰るわよ。異存はないわね?」
 語尾に疑問符こそついているが、それは確認でも質問でもなかったようだ。
 その証拠にジェーンは√能力者たちの返答を待つことなく、|天使《サンプル》たちに話しかけた。
「あなたたちだって、私と一緒に来たいでしょ? まあ、べつに来たくないっていうのなら、それでもいいのよ。ただし、あなたちがそんな選択をしたら、ここにいる親切なお兄さんやお姉さんはみーんな殺されちゃうけどね。人間災厄たる私の手で!」
 私心なき者には効果覿面の脅迫である。他者の命が人質にされたとなれば、天使が取る行動は一つしかない。
 少年少女たちは歩き出した。自分たちをサンプル呼ばわりした人間災厄に向かって。



※マスターより
 幕間前半部のウェッサーマン病理研究所のくだりはPCは見聞きしていません。念のため。
 
アリエル・スチュアート
クーベルメ・レーヴェ
隠・帯子

●第二幕第一場
 ハーメルンの笛吹き男に|誘《いざな》われたかのように天使たちはふらふらと歩き出したが――
「ストォーップ!」
 ――クーベルメ・レーヴェ(余燼の魔女・h05998)が立ちはだかった。
「知らない人についていっちゃダメでしょ!」
「で、でも……」
 天使の一人が反駁しかけたが、クーベルメは最後まで聞かなかった。
「大丈夫! 信じてちょうだい。私たちはこんなやつに殺されたりなんかしないんだから」
「そう、殺されたりしない」
 アリエル・スチュアート(片赤翼の若き女公爵・h00868)がクーベルメに並び、天使たちにウインクした。
「それにあなたたちも絶対に守る。さっきも言ったはずよ。自国の民のために力を揮うのが貴族の務めというものだとね」
『私も言ったはずですよ。ここは自国ではないと』
「黙ってなさい、ティターニア」
 口の減らないAIを一喝して、女侯爵はクーベルメとともに振り返った。
 天使たちを背にかばう形でジェーン・ドゥと対峙し、槍のような武器を構える。『ような』がつくのは、その穂先に刃が備わっていなからだ。
「あなた、アマランスのお姉さんと契約を結んだとか言ってたわね。彼女なら、目の前で二回死んだのを見たことあるわよ」
『うち一回は公爵がとどめを刺してましたね』
「はぁ?」
 ジェーンは眉を八の字にして、嘲りと呆れの視線を返した。
「何回殺しても生き返る相手を一回だけ殺したからって、そんなことが自慢になるとでも思ってるの? おめでたいコーシャク様だこと」
「そうやって憎まれ口を叩いていられるのも――」
 刃のない槍『グリモワールランス』をアリエルは頭上に突き上げた。
「――今のうちよ!」
 空に浮かんでいた帆船型レギオンフォートレスが船首を下方に傾け、ジェーンめがけて突撃した。迫力はなかなかのものだが、√能力による攻撃ではないので、たいした威力は望めないだろう。
 ジェーンもそれが判っているのか、回避する素振りも見せず、冷笑を浮かべてレギオンフォートレスを仰いだ。
「隙あり!」
 アリエルが地を蹴り、再び『グリモワールランス』を突き出した。今度は前方に。
 レギオンフォートレスに気を取られていたジェーンはそれを躱すことができなかった。刃のない穂先が左肩に命中。しかも、一度では終わらない。瞬時に引き戻され、また突き出され、同じ場所に命中した。
 一方、レギオンフォートレスは体当たりをフェイントで終わらせ、ジェーンの頭を掠めて通過して再上昇した。彼女をからかうかのように。
「ちっ……」
 舌打ちととともに√能力を発動させるジェーン。
 彼女の前面に『グリモワールランス』に似た武器が出現し、ミサイルさながらに飛翔して、アリエルに命中した。自身が受けた攻撃を複製する√能力だろう。
 その様子を見ていた天使たちに動揺が走った。アリエルが傷を負ったことに耐えられなくなったのか(もしかしたら、ジェーンの身さえ心配しているかもしれない)、何人かはジェーンに投降するためにまた歩き出そうとしている。
 しかし――
「……伏せて」
 ――静かながらも断固とした声を聞いた瞬間、歩き出そうとしていた天使たちもその場に留まっていた天使たちも一斉に身を伏せた。
 そして、小さな嵐が起きた。
 嵐の中心にいるのは|隠《なばり》・|帯子《おびこ》(🕷️・h02471)。体の両側面から生えた蜘蛛の脚を凄まじい勢いで振り抜き、薙ぎ払っているのだ。
 脚に殴打された挙げ句に衝撃波を受け、ジェーンは体をよろめかせた。だが、すぐに反撃に転じた。
「ふん! 力任せの大技ね。知性を感じさせないわ」
 と、馬鹿にしておきながら、発動させた√能力は先程と同じ。左右二対の機械の脚を備えたバックパックを背中に出現させ、『力任せの大技』と評した攻撃法を臆面もなく模倣した。
 帯子は、それを容易に躱せると思っていた。
(上手く攻撃することはできないはず。天使たちを避けつつ、雑魚散らしの技を私一人に向かって放たなくちゃいけないんだから……)
 しかし、甘かった。脚は澱みなく動き、天使に触れることなく、帯子だけを叩きのめした。複製元である帯子の√能力『|八重垣《やえがき》』は範囲内の敵のみに作用する技だ。ジェーンは天使を敵と見做していないのだから、巻き込んでしまう恐れはない。まして、天使たちは帯子の指示に従って身を伏せている。
「単純な技だけあって、簡単に扱えるわね」
「それはどうかな?」
 攻撃を受けた帯子が瞬時に体勢を立て直し、相手の懐へと飛び込んだ。
 ジェーンは回避できなかった。機械の脚を大振りしたため、バランスを崩していたのだ。
「こういう技で攻めれば――」
 帯子の拳がジェーンの脾腹に打ち込まれた。
「――君みたいな付け焼き刃を試みる半端者を食える」
「その付け焼き刃を食らった奴が偉そうなことを言ってんじゃないわよ」
 ジェーンがすさかずメスで帯子の腕を斬り裂いた。血が派手に飛び散ったものの、√能力による攻撃ではないので、致命傷には程遠い。同じ理由で帯子の攻撃もさして効いていない。
 仕切り直しとばかりにジェーンは飛び退った。
 帯子のほうは動かなかった。彼女が動くまでもなく、別の者たちがジェーンを追ったからだ。
 轟音とともに出現したその助っ人たちは戦闘機の一団。
 それらの機銃掃射を浴びて、ジェーンはたちまちのうちに蜂の巣となった。だが、死んだわけではない。弾痕だらけになった白衣を翻し、メスを手裏剣のように投擲した。戦闘機部隊の召喚者であるクーベルメめがけて。
 メスはクーベルメの左腿に突き刺さった。その研ぎ澄まされた薄い刃が与えたのは物理的なダメージだけではない。どのような原理が働いたのかは判らないが、本人の頭上に文字列が次々と表示されていく。
「なんなの、あれ?」
 首をかしげるアリエルに対して、ティターニアが推測を述べた。
『個人情報を公開してしまう状態異常を付与されたのではないでしょうか?』
「『苦手なもの:ネズミ』か……」
 文字列の一つを帯子が声に出して読んだ。
「嘆かわしいわねえ」
 と、ジェーンが大袈裟にかぶりを振ってみせた。
「可愛い|ネズミ《マウス》たちが医学や生命科学の発展にどれだけ寄与しているのか知っているのなら、嫌ったりはできないはずよ」
「ネズミの話なんか、どーでもいいでしょ!」
 怒りにまかせて突撃銃を連射するクーベルメ。
「私の情報だけ公開されるなんて不公平じゃない!? そっちも情報をぶちまけちゃいなさいよ! たとえば、この場所のことか!」
「この場所?」
 と、銃撃を巧みに避けながら、ジェーンは聞き返した。
「さっき、『建物が跡形も残ってない』とかなんとか言ってたでしょうが」
「あー、はいはい。そのことね」
 美貌に酷薄な微笑を浮かべ、人間災厄は語り始めた。
「数年前まで、ここにはオーベンドルフ記念病院という施設があったのよ。でも、病院とは名ばかりのこと。診療は受け付けていなかった。そもそも、麓までの道は通じていないんだから、患者が来るはずもない。職員もヘリで行き来していたほどだから」
「これ以上はないってくらい怪しい施設ね!」
 アリエルが『グリモワールランス』を振り回し、ジェーンを攻め立てた。
「どうせ、ろくでもない研究だの実験だのをしていたんでしょ!」
「半分は正解ね」
『グリモワールランス』に似た武器を生み出して反撃するジェーン。
「確かに研究や実験をしていたけれど、決して『ろくでもない』ものなんかじゃない。それなりに有意義な結果を出したわ。そして、その結果から得た資金や人材を利用して、オーベンドルフ記念病院は新たな組織に発展解消したのよ」
「もしかして、その組織というのは――」
 帯子が尋ねた。『八重垣』を放ちながら。
「――ウェッサーマン病理研究所のこと?」
「そうよ」
 ジェーンが頷いた。複製の√能力で応戦しながら。
「ウェッサーマン病理研究所が設立された以降はかかわってないけれど、オーベンドルフ記念病院では色々と楽しませてもらったわ。そう、何百体もの|ネズミ《マウス》を切り刻んだものよ……うふふ」
 彼女が言うところの『ネズミ』が本物のネズミでないことは明らかだった。
「許せない!」
 クーベルメが叫んだ。
「『人命は地球より重い』って言葉を知らないの!?」
「知らないわね」
 と、ジェーン・ドゥは言い切った。
 そして、微笑を消し去り、澄まし顔で述べた。
「地球より重い命なんてあるわけないでしょ。地球がなくなったら、そこにある命もすべて失われてしまうんだから」
 

櫃石・湖武丸
吉住・藤蔵
道明・玻縷霞
逝名井・大洋

●第二幕第二場
「地球のほうが人命よりも重いのは自明の理。『地球』を『人類』に言い換えれば、あなたたちみたいな凡俗にも共感できるかしらね? 人類の生命活動は個々の命の犠牲によって成り立っている。大の虫を生かすためには小の虫を殺さなくてはいけない。そこにいるサンプルたちも――」
 |帯子《おびこ》の指示に従って地面に伏せている天使たちに向かって、ジェーン・ドゥは顎をしゃくった。
「――小の虫よ。無為に生かしていたところで、なーんの役にも立たない。でも、被験体として活用すれば、天使化の根絶、|新物質《ニューパワー》の獲得、人類の延命延いては再活性化のための大きな足掛かりになるかもしれないわ」
 そして、ジェーンは優しく笑いかけた。
『小の虫』たる|天使《サンプル》たちに。
「あなたたちの命なんて重くもないし、尊くもない。人類の進歩のために我が身を捧げた時に初めて重さや尊さが生じるのよ。命に意味を持たせることができた上に人類に貢献もできるし、おまけにこのヒューマニスト気取りの√能力者たちもここで死なずに済む。いいこと尽くめでしょ?」
 天使たちは返事をしなかった。その代わり、一人また一人と立ち上がった。ジェーンの主張を微塵も疑っていないようだ。
 しかし、無垢なる少年少女たちが歩き出すより先に――
「俺はとても傷付いたぞ!」
 ――悲痛な叫びが場の空気を変えた。
 |櫃石《といし》・|湖武丸《こたけまる》(蒼羅刹・h00229)の叫びである。
「なんで、あんな女について行こうとするんだ? ここまで頑張って守ってきたのに、俺たちは用済みだってことなのか……悲しい……悲しいすぎる……」
 湖武丸は涙を袖で拭った。
 もちろん、嘘泣きだが。
「うんうん。判る。判るよぉ。悲しいよねえ」
 咽び泣く(振りをしている)湖武丸を見ながら、|逝名井《いけない》・|大洋《たいよう》(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)が何度も頷いた。
 そして、天使たちに視線を移し、諭すような口調で言った。
「ガキども、冷静になりなぁ? ボクがこのおねーさんなら、おまえらをゲットした後、一秒も迷わずにボクたちを皆殺しにするね」
『このおねーさん』であるところのジェーンに二丁拳銃を突きつけ、にっこりと笑いかける。
「私がそんな冷血漢に見える? 心外だわー」
 二つの銃口の先でジェーンは涙を袖で拭った。
 もちろん、嘘泣きだが。
 一方、湖武丸は泣き真似をやめて、天使たちに言った。
「おまえたちの気持ちは判ってるよ。俺たちが負けると思ってるわけじゃなくて、自分たちのせいで俺たちが傷つくのが嫌なんだろう?」
「そのお気持ちはとてもありがたいです」
 と、|道明《どうみょう》・|玻縷霞《はるか》(黒狗・h01642)も語りかけた。
「しかし、あなたたちは大事なことを忘れています。自分が犠牲になれば、他者が助かる――それで終わりではありません。あなたたちがその行動を取ることで悲しむ他者もまたいるのです。少なくとも、ここに駆けつけてきた人たちは悲しみます。私たちが傷つくことであなたたちが心を痛めるのと同じように……」
「傷つけないってば! サンプルを渡してくれたら見逃してあげるって言ってるじゃなーい!」
 ジェーンが泣き真似をやめて割り込んできたが、玻縷霞はなにも聞こえないような顔をして言葉を付け足した。
「見た目は違っていても、気持ちは同じなのですよ」
「俺たちの戦いっぷりは見てたよな?」
 と、湖武丸が言った。自信に満ちた声音で。
「だから、もうちょっと信じてほしい」
 天使たちは無言で顔を見合わせた。目線による意思の交感。
 数秒後、皆を代表するかのように一人の天使がなにか言いかけたが――
「ご……」
「ちょっと待った」
 ――湖武丸が押し留めた。
「言ってほしい言葉は『ごめんなさい』じゃなくて『お兄さんたち、頑張れ』だ」
「もしくは『おじさんたち、頑張れ』でも構いませんよ」
 と、玻縷霞が言った。あきらかに|吉住《よしずみ》・|藤蔵《とうぞう》(毒蛇憑き・h01256)を意識している。
「道明のほうが俺よかずっと年上なんだけっどもな。まあ、どうでもいいけどよ」
 藤蔵はジェーンを見据えた。おなじみのぼんやりとした目付きで。
「人間災厄なぁ……普通に身内にいるし、珍しいもんでも怖いもんでもねえべよ」
「言っておくけど、私はそんじょそこらの人間災厄とは違うわよ。どんな災厄を体現しているのか知れば、あなたもきっと恐れずにはいられないはず」
『どんな災厄なんだ?』という問いを引き出すための誘い水なのだろうが、それに応じるほどのサービス精神を藤蔵は持ち合わせていなかった。
「興味ねえだよ」
 のそりと足を踏み出す。力なく垂れた両手に武器は握られていない。
 その無造作な動きと無防備な姿になんらかの脅威を覚えたのか、ジェーンは咄嗟にメスを投擲した。
 それは鈍色の直線を宙に引き、藤蔵の肩に突き刺さり、クーベルメが攻撃を受けた時と同様に文字列を頭上に浮かび上がらせた。
 だが、藤蔵は動じない。
「おお、メスをこういう風に使う手もあるんだべなあ」
「ただのメスじゃないわ。私の√能力の作用によって、対√能力者兵器に変わっているんだから」
「対√能力者兵器ってことは√能力者限定だべか?」
 深く刺さったメスを藤蔵は引き抜き、投げ捨てた。眉一つ動かさずに。
 その様をジェーンは見ることができなかっただろう。
 なぜなら――
「そんじゃあ、こいつには効かねえなあ」
 ――両者の間に巨大な蛇が出現し、視界を遮ったからだ。
 蛇神憑きである藤蔵が召喚したその大蛇の目にジェーンは射竦められた。それによって生じた隙は一秒にも満たないが、大蛇にとっては半秒でも充分。閃く電光のようにジェーンへと襲いかかり、新たなメスを握っていた手に太い体を絡みつけながら、無数の数式が走る左側の首筋に牙を突き立てた。
「なんでもかんでもおめえの思い通りになるわけじゃねえ。それを学ぶべな」
 と、藤蔵が忠告している間に大蛇は消え去った。もちろん、ジェーンに与えた傷までは消えていない。その傷から流し込まれた毒も。
「でも、なにを学んでも無駄だよねえ」
 大洋がジェーンの正面に立った。
「だって、学んだことを活かせる機会がないじゃん。ここでボクたちに殺されちゃうんだし」
「フッ……」
 ジェーンは鼻で笑ってみせた。本人は余裕たっぷりに振る舞っているつもりなのだろうが、顔色がそれを裏切っている。毒の影響で少しばかり青褪めているのだ。
「あなたたちごときが私を殺せるとでも? 甘く見られたものね」
「そっちこそ、甘く見てるんじゃないの? ボクたち『警視庁公安部第69課』のことをね」
 自分が属する部署の名を大洋はわざわざ口に出した。その行為が√能力のトリガーだからだ。
 彼を中心とした半径二十メートル強の空間が一変した。鉄格子に囲まれた監獄へと。
「この『|第69監獄《シックスナインヘヴン》』の中でではボクこそが主人公! だもんで――」
 二丁拳銃を乱射する大洋。そう、それはまさしく『乱射』だった。狙いもなにもあったものではない。真正面にいるジェーンに向かって撃ち出されたのは最初の一発目だけ。それ以降は発砲の度に銃口がぶれ、四方八方に弾丸がばら撒かれた。
「――攻撃は百パー命中しちゃうんだよね!」
 鈍くも軽やかなパーカッションが続けざまに鳴り響いた。弾丸が鉄格子にぶつかった音……いや、鉄格子にぶつかって跳ね返った音だ。
 そして、跳弾と化した小さな鉛の殺し屋たちは奇跡のようにジェーンへと収斂し、彼女の胸に飛び込み、重くも尊くもないであろう命を削った。
 しかし、藤蔵がそうであったようにジェーンもまた動じなかった。
「フッ……面白い芸当だこと。見せ物としては百点ね」
 またもや、鼻で笑っている。銃創だらけになりながらも高慢に振る舞う姿はどこか滑稽に見えなくもなかったが。
 滑稽さを自覚していないであろう人間災厄は反撃のために√能力を発動させた。アリエルや帯子にも見舞った複製の√能力だ。大洋の二丁拳銃に似た拳銃が彼女の手の中に生み出され、間断なく火を噴いた。こちらは乱射ではなく、連射である。銃弾群はワンクッション置くことなく真っ直ぐに飛び、何発かが大洋に命中した。そう、『何発か』だけ。全弾命中とはいかない。
「それはかなりピーキーだから、アンタには使いこなせないよ」
 と、悪戯っぽく笑う大洋の後方で藤蔵が再び蛇神を召喚し、ジェーンに襲いかからせる。
 その戦いを天使たちは固唾を呑んで見守っていた。流れ弾ならぬ流れ√能力が当たる恐れはない。湖武丸と玻縷霞の指示に従い、安全な距離を置いている。
「言ってほしい言葉のことは覚えてるよな? あの言葉で俺たちは数倍強くなるんだ」
 湖武丸に発破をかけられ、天使たちは口々に叫び出した。
「お兄さんたち、頑張れ!」
「頑張れー!」
「頑張ってぇーっ!」
 玻縷霞の言葉を真に受けたのか、『おじさんたち』と言っている者もいる。
 それらに声援に紛れて、玻縷霞の声も飛んだ。
「この子たちは私と櫃石さんが責任をもって守りますので、吉住さんと逝名井さんはなにも気にせず存分に戦ってください」
「おう」
 蛇神の攻撃を見届けながら、藤蔵が小さく頷いた。
「はいはい。任せてちょーだい」
 大洋もまた頷いた。
 そして――
「ボク、良いコのお守りをするよりも悪いコと遊ぶほうが性に合ってるからね」
 ――『悪いコ』たるジェーンに跳弾の嵐を浴びせた。
 

西園寺・つぼみ
早乙女・伽羅
野原・アザミ

●第二幕第三場
(天使たちを連れて別の√に移動することができれば、手っ取り早いんだが……)
 耳をピンと立て、二本の尻尾を無意識にゆっくりと揺らしつつ、|早乙女《さおとめ》・|伽羅《きゃら》(元警察官の画廊店主・h00414)は思考を巡らせていた。
(しかし、天使たちが√間を移動できたとしても、ジェーンもまた移動して追ってくるだけのことか。他√に侵入している簒奪者は珍しくないからな。それに天使化が感性症のものだとしたら、√汎神解剖機関以外の世界に感染が広がってしまうかもしれない)
 ジェーン・ドゥを油断なく睨みながら、彼は結論を声に出した。
「退避は無理。君を倒すしかないというわけだ」
「そうね。倒すしかない。だけど――」
 ジェーンが肩をそびやかした。
「――倒せるわけがない。そのモフモフの尻尾を巻いて逃げることをお勧めするわ」
「いやいやいやいや。この状況でその発言はないでしょう」
 と、呆れ声を出したのは、巻けるような尻尾など持っていない西園寺・つぼみ(無貌のモデル・h00957)だ。
「そういう台詞は私たちをもっと追い詰めてから言うべきじゃなくて?」
 もっともな指摘である。むしろ、追い詰められているのはジェーンのほうだ。全身に傷を負い、顔は血の気を失い、逆に白衣は血に染まって赤くなっている。常人ならば、とっくに死んでいるだろう。
 しかし、常人ならぬ人間災厄は現実を受け入れず、つぼみの指摘も無視して、妥協案を提示した。
「まあ、どうしても手ぶらで帰ることができないっていうのなら……|天使《サンプル》を分けてあげてもいいわよ。一体くらいならね」
「『一体』じゃない。『一人』だ」
 と、伽羅がすかさず訂正を求めた。
「それと『サンプル』と呼ぶのもやめろ」
「……え? なんでよ?」
 目を丸くしてジェーンは問いかけた。伽羅の怒りを煽っているわけではなく、『サンプル』という言葉を咎められている理由が本当に判っていないらしい。
「やれやれ」
 と、人間性に難のある人間災厄を冷ややかに見つめながら、野原・アザミ(人間(√妖怪百鬼夜行)の|載霊禍祓士《さいれいまがばらいし》・h04010)が溜息をついた。
「あんな純粋な子供たちのことをサンプル呼ばわりするなんて信じられませんね、まったく……言語道断です。おっと! 日本人でもない変質者のあなたには『言語道断』なんて言葉、難しすぎて理解できませんよね?」
「誰が変質者ですって?」
 ジェーンがまた問いかけた。丸くなっていた目が吊り目に戻っている。
 一方、アザミの目は冷ややかなままだった。
「子供たちを拐かそうとしている輩が変質者でなくて、なんなんですか? もしかして、『言語道断』だけじゃなくて『変質者』という言葉も知らないとか? なんなら、意味を説明してさしあげましょうか? それとも、もっと分かりやすい言葉で言い直してあげましょうか?」
「あらあら。毒舌だこと」
 ジェーンは薄く笑った。
「でも、怒らせようという意図が見え見えよ。そんな単純な挑発が私に通じると思ってるの?」
「通じているようにしか見えませんが? こめかみをピクピクと痙攣させながら『効いてない』なんてアピールをしても滑稽なだけですよ。感情に任せて怒鳴り散らしたほうがまだ可愛げがあるというものです。もっとも、あなたに可愛げが加わったところで、『変質者』が『ちょっと可愛い変質者』に変わるだけですが」
 澄まし顔でまくしたてるアザミ。
 笑みを浮かべたまま、それを受け止めるジェーン。
 目には見えない火花が両者の間で散っている。
「うわあ……」
 女と女の静かながらも激しい戦いに気圧され、伽羅が僅かに身を退いた。ピンと立っていたはずの両耳は限界まで伏せられている。
 つぼみのほうは『いいぞ、もっとやれー』とばかりに拳を振り、アザミを応援していた。
「さて、この√の怠惰な警察に代わって、変質者を懲らしめるとしましょうか」
 卒塔婆を構え、アザミがジェーンに突進した。舌戦はもう充分と判断したのだ。挑発していたのは憎しみをぶつけるためではない(いや、そういう目的も含まれていたかもしれないが)。相手の意識を天使たちから少しでも遠ざけるためである。
「本当に口が悪いわね! 親の顔が見てみたいわ!」
 ジェーンの叫びに呼応して、彼女の手の中のメスが変形した。クリケットバットに似た対√能力者兵器に。
 アザミが卒塔婆を振り抜いた。
 ジェーンもクリケットバットを振り抜いた。
 両者は同じように左の脇腹を打たれ、同じように吹き飛ばされ、同じように受け身を取り、同じように立ち上がった。相違点は、アザミの上に文字列が表示されたこと。|藤蔵《とうぞう》やクーベルメも被った情報公開の状態異常。
「あら? 当のあなたも親の顔を知らないのね」
 文字列に目を走らせたジェーンが口元の冷笑を更に憎々しげなものに変えた。
「個人情報を勝手に公開するなんて、変質者に相応しい技ですね」
 アザミは澄まし顔をキープ。
「口喧嘩はその辺でやめておいたほうがいい。アザミが相手では分が悪すぎるぞ」
 と、伽羅がジェーンに忠告した。若者を諭す老人さながらに懇々と。切々と。
 しかし、人生の先達としての親切はそこまで。
 次の瞬間には――
「もっとも、腕ずくの喧嘩でも勝てやしないだろうけどな」
 ――サーベルを手にして駆け出していた。√能力『|昼行燈《カミソリ》』で速力を強化して。
 ジェーンはクリケットバット型の対√能力者兵器を刀剣に変形させて応戦の構えを取った。だが、それを振るう間もなく、伽羅が懐に飛び込んできた。
 サーベルの刀身が跳ね上がり、その銀色の軌跡を赤い血飛沫が追った。逆袈裟の一太刀を浴びたジェーンの血。
 数秒遅れてジェーンの剣が水平に走り、またもや血飛沫が散った。今度は伽羅の血。だが、傷はジェーンのそれより浅い。
「猫だけあって、すばしこいわね」
 深手をものともせずにジェーンは新たな攻撃を仕掛けた。相手の背後に素早く回り込み、刀剣をメスに戻して一閃させる。
 伽羅の尻尾が削ぎ落とされた……ように見えたが、それは錯覚。実際は被毛をごっそりと持って行かれただけだった。
「こいつを切り落とされてしまっては困る」
 くるりと回って、ジェーンと対峙する伽羅。尻尾から切り離れて舞い散っていた無数の毛が風圧で吹き飛んだ。
「『ふさふさの尾を愛でられぬ』と嘆き悲しむ友がいるのでな」
 サーベルの刀身が再び踊った。√能力『|肢解ノ極《シカイノキワミ》』の斬撃。
 それを受けたジェーンが体勢を崩すと――
「いいなー。伽羅のお友達にあやかりたーい」
 ――つぼみが銃器を発射した。対オルガノン・セラフィム戦で使用した散弾銃型ガンライフルではない。標的に振動を伝える特別仕様の銃『シヴァリングハート』である。
 振動を受けたジェーンはダメージこそ被らなかったものの、体勢を更に崩して、たたらを踏んだ。
 そのタイミングでつぼみが追撃。
「はい、指ぱっちん!」
 指先を弾いて小気味よい音を鳴らすと、またもや不可思議な振動が発生した。
 今度の振動は√能力によるもの。ジェーンはダメージを被った挙げ句、無様に転倒した。しかし、一方的にやれたわけではない。倒れざまにメスを投擲している。それは対√能力者兵器と化して、つぼみの肩に突き刺さり、アザミの時と同様に個人情報を詳らかにした。
 だが、元・人気モデルたるつぼみは動揺することも恥じ入ることもなかった。
 それどころか、堂々と胸を張ってみせた。
「こんなものが公開されたからって、なんだっていうの? べつに痛くも痒くもないわよ。お天道様に顔向けできない生き方してるわけじゃなし」
 そして、顔面を覆い隠している|面布《かおぎぬ》の端を摘み、ちらりとめくり上げる真似をした。あくまでも真似であり、本当にめくったわけではない。
「まあ、私、顔ないんだけどねー!」
 静寂が世界を領した。とても重い静寂が。
 伽羅は再び耳を伏せ、アザミは困ったように眉を寄せている。ジェーンまでもが毒気を抜かれたような顔をしている。
「あら?」
 つぼみが首をかしげた。
「小粋な自虐ジョークで場を和ませようかと思ったんだけど、滑っちゃったかしらん?」
「滑ったというか……その種の冗談はリアクションに困ります」
 と、困り眉のアザミが言った。
「ちょっと、あなたたち!」
 ジェーンが我に返り、立ち上がった。呼びかけた相手は√能力者たちではなく、天使たちだ。アザミの挑発に乗せられて戦闘だけに集中していたが、ここに至って自分が劣勢であることをようやく悟り、天使たちにまた意識を向けたのだろう。
「この不毛な戦いの原因が自分たちだってことは判ってる?」
 咎めるような言葉をジェーンは天使たちにぶつけた。本当は言葉で揺さぶるよりも実力行使で片付けたいのだろうが、それは難しい。彼女と天使たちとの間には|湖武丸《こたけまる》と|玻縷霞《はるか》が立ちはだかっているのだから。
「あなたたちが私に従ってくれたら、これ以上、誰も傷つかずに済むんだけど?」
 そんなわけはない。仮に天使たちが承諾しても、√能力者はそれを黙って見過ごすわけはないのだから、どうあっても戦いは避けられないだろう。
 にもかかわらず(そして、√能力者たちに再三再四言い含められたにもかかわらず)、天使たちはジェーンの言葉を真に受けたらしく、迷いの表情を見せていた。愚鈍とも言える。意思が弱いとも言える。だが、首尾一貫しているとも言える。どこまでも利他的だからこそ、この少年少女たちは天使化に感染したのだ。
 しかし、彼らや彼女らの優しい逡巡が愚かな決断へと変わるまで待つことなく、つぼみが行動を起こした。
「こらこらこら!」
 現役時代に磨いたセンスに√能力『|羞花閉月《ファシネイト・オーラ》』を重ねてポージングを決め、カリスマ的な存在感を発揮。天使たちの意識は彼女に釘付けになった。
「怪しい人の言うことを聞いちゃダメでしょ! いかのおすし! ……ってのはイギリスにはないかもしれないけど、先生たちに似たようなこと教えてくれなかったの!?」
「そうです。こんな頭のおかしな変質者に騙されてはいけません」
 と、アザミも天使たちに訴えた。ジェーンに卒塔婆を突きつけながら(今のジェーンの姿は確かに『頭のおかしな変質者』としての説得力に溢れていた。顔は青褪め、髪は乱れ、白衣は血塗れの襤褸雑巾と化しているのだ)。
「それに私たちの身を案じる必要はありません。絶対に殺されたりしないから、安心してください」
「本当に?」
 と、天使の一人が不安げに問いかけると――
「ふふっ……」
 ――伽羅がマズルマスクを外して、猫らしい微笑を口吻に刻んだ。
「君たちはとても優しいのだね。俺たちがひどい目に遭わぬようにと思ってくれるのだから。でもね、ようく考えてごらん。おじさんたちが、あの人に負けると思うかい?」
「思うわよ」
 天使たちに代わって、ジェーンが答えた。
「そいつは大間違いだな」
 伽羅はウインクを天使たちへの置き土産にして、ジェーンに向き直った。
 そして、駆け出した。
 三歩までは二足走行。
 それ以降は四足歩行。
 |猫《メインクーン》に変身したのだ。
 メインクーンは大型種として知られているが、変身後の伽羅の姿は『大型種』という言葉で片付けられるものではなかった。
 虎並みの大きさである。
「な゛ぁーっ!」
 濁った咆哮を轟かせながら、虎サイズのメインクーンはジェーンに頭からかぶりつき、自身の首を勢いよく跳ね上げた。
 ジェーンは顎門から解放されると同時に宙を舞い、そして、真っ逆様に落下した。
 地面に叩きつけられた瞬間――
「おっきな猫ちゃんにじゃれついてもらえるとか、逆に御褒美じゃない?」
 ――つぼみが指を鳴らし、√能力の振動をぶつけた。
「……がっ!?」
 血を吐くジェーン。
 立ち上がろうともがいた末に上体だけを起こした時、死神が悠然と迫ってきた。
 アザミという名の死神だ。
 彼女はもう澄まし顔ではなかった。
『ざまあみろ!』とばかりに笑っている。
 ジェーンは咄嗟になにごとかを叫ぼうとしたが――
「よい変質者は死んだ変質者だけです」
 ――アザミが笑顔のままで死刑宣告をするほうが早かった。
 卒塔婆が力いっぱい振られた。
 つぼみのフィンガースナップのそれに勝るとも劣らぬ良い音を立てて、ジェーンの首がへし折れた。

「さて、邪魔者はとりあえず排除できたけど……」
 ジェーンの死体など一顧だにせず、つぼみは天使たちを見やった。
「あの子たちのことが心配だわ。あんなんじゃあ、普通の生活に戻ることができたとしても、ワルい大人の餌食になって野垂れ死に一直線よね。なんか、考えるだけで頭痛くなってくる……」
 自分たちが頭痛を引き起こしていることを知らないであろう異形の少年少女は穢れなき眼差しでつぼみを見つめ返すばかり。
「だからといって、ここで見捨てちゃったりしたら、√能力者としての顔が立たないよね。まあ、私、顔ないんだけどねー!」
「信用のおける施設に入ってもらうのがよいのでしょうけど――」
 と、アザミが言った。自虐ジョークはスルー。
「――それが一番かと問われると、難しいところですね。本当は、天使だなんだと扱われるよりも普通に生活させてあげたいのですが……」
「この√の常識で考えれば、『信用のおける施設』というのは汎神解剖機関以外にないのだろうな」
 伽羅も意見も述べた。
「とはいえ、俺個人としては汎神解剖機関もあまり信用できぬ。この√において必要があって存在していると理解はするが、やはり……」
 伽羅は言葉を途中で切り、身構えた。
 つぼみとアザミも武器を再び手に取り、警戒の目を四方に巡らせた。
 敵が一掃されたはずのこの場所に異変が起きたのだ。
 

第3章 集団戦 『被害者』


●幕間
 姿が見えるより先に声が聞こえてきた。
 苦しげな呻き声が。
 悲しげな泣き声が。
 痛々しげな叫び声が。
「タ、助ケテ……」
「痛イ! 痛イヨォー!」
「ヤメテクレ……モウ、ヤメテクレ……」
「オカアサン、ドコニイルノ?」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
 そして、地面のそこかしこから黒い靄のようなものが沸き立ち、次々と半透明の人影へと変わった。
 それらの影は数十体に及んだ。パジャマ姿の男児がいる。腰の曲がった老婆がいる。吊るしのスーツを着た青年がいる。学生であろう少女がいる。見るからにホームレスの老人がいる。
 どの影の顔も黒く塗り潰されているが、√能力者たちはそこに表情を見たような気がした。
 苦悶の表情を。
 悲哀の表情を。
 絶望の表情を。
 そして、憤怒の表情を。
 √能力者たちはジェーン・ドゥの言葉を思い出し――
『ウェッサーマン病理研究所が設立された以降はかかわってないけれど、オーベンドルフ記念病院では色々と楽しませてもらったわ。そう、何百体もの|ネズミ《マウス》を切り刻んだものよ……うふふ』
 ――この影たちの正体を確信した。
 彼らや彼女らは皆、ウェッサーマン病理研究所の前身組織であるオーベンドルフ記念病院で『マウス』として扱われた者たちの幽霊なのだ。死後もこの地に囚われ、ずっと悪夢を見続けてきたであろう魂の群れ。√能力が飛び交ったことで活性化し、このような形で具現化してしまったのかもしれない。
「ドウシテ、俺ガ死ナナキャイケナカッタンダ?」
「死ニタクナカッタ……死ニタクナカッタ……」
「アンタタチモ死ンジャエ!」
「死ンデヨ? ネエ、死ンデヨ?」
「死ネェーッ!」
 泣きながら、呻きながら、叫びながら、幽霊の集団は√能力者たちと天使たちにゆっくりと迫り始めた。オルガノン・セラフィムがそうであったように理性や良心はもう残っていないのだろう。



※マスターより
『被害者』のイラスト(セーラー服姿の少女)はあくまでもイメージと考えてください。本文に記されている通り、実際は老若男女いろんなタイプの『被害者』がいます。
見下・七三子
柳檀峰・祇雅乃

●第三幕第一場
「死ネ!」
「死ネ! 死ネ!」
「死ネ! 死ネ! 死ネ!」
 怨念に凝り固まった幽霊の群れが迫り来る。
 恐怖に身が竦んで当然の状況だが、√能力者たちは気丈さを失わなかった。
「ひぇぇぇーっ!?」
 いや、失っている者もいた。
 黒いスーツに革手袋という物々しい出で立ちに相応しからぬ柔和な顔立ちをした娘――|見下《みした》・|七三子《なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)。こう見えて、実は改造人間である。
「なんで、わたしたちを殺そうとするんですか? 化けて出る相手を間違ってますよぉ」
「そんな理屈が幽霊に通じるわけないでしょう」
 おろおろするばかりの改造人間を窘めたのは、身の丈が二メートルほどもある四十歳前後の女。
 |柳檀峰《りゅうだんほう》・|祇雅乃《ぎがの》(おもちゃ屋の魔女・h00217)である。
「どんなに理を尽くして説いたところで、この人たちは成仏できやしない。だから――」
 フャイヤーパターンが躍るレザースーツを着込んだ偉丈夫ならぬ偉丈婦は幽霊たちをしっかと見据えた。
「――力ずくで逝かせるしかないわ」
 その眼差しには怒りの炎が燃えていた。もちろん、怒りの対象は目の前の幽霊たちではなく、オーベンドルフ記念病院/ウェッサーマン病理研究所である。幽霊たちの中に年端のいかぬ子供の姿があることが怒りを更に重いものにしていた。玩具屋を営む祇雅乃は子供好きなのだ。
「我が肉体よ! 我が意に従い、姿を変えよ!」
 怒号にも似た詠唱とともに√能力が発動し、ただでさえ大きな祇雅乃の体がより大きくなった。大きさだけでなく、形も変わった。鷲の前半身と獅子の後半身を有した幻獣に。そう、グリフォンに。
「――!」
 この世の文字では表記不能な奇怪かつ雄々しい咆哮を嘴から発して、グリフォンは一体の幽霊(それは男児の幽霊だった)へと飛びかかった。そして、鋭い爪を持った前足を振り抜き、その幽霊の首を撥ねた。一撃で仕留めたのは、苦痛を長引かせぬための慈悲か。
 宙を舞う首と地に残された小さな体が同時に消滅した。
 それを見届けたグリフォンは翼をはばたかせて低空飛行し、別の幽霊に向かっていく。
 彼女の戦い振りを前にして、七三子も覚悟を決めた。あるいはやけくそになっただけかもしれないが、闘志に火がついたことに変わりはない。
「やるしかありませんね……」
 七三子はスーツの懐中から仮面を取り出し、顔に装着した。
 亀裂の入ったその仮面は√マスクド・ヒーロー(や√EDENの特撮ヒーロー番組など)でよく見かけるような代物だった。しかし、ヒーローを思わせるデザインではない。ヒーローの敵たる悪の組織の戦闘員が着けているようなシンプルな仮面だ。
「いきます!」
 柔和な表情を亀裂入りの仮面で覆った改造人間は一体の幽霊めがけて突進した。√能力『ブレイキング・ブースト』で加速し、革手袋に包まれた拳を繰り出す。
 強烈な一撃を鳩尾に食らい、幽霊は雲散霧消した。
 七三子は続けて別の幽霊(少女の姿をしていた)に殴りかかろうとしたが――
「来ルナ!」
 ――その幽霊が叫んだ途端、体が硬直した。金縛りの√能力。
 動けなくなった七三子に近寄ってゆく少女の幽霊。
 しかし、数歩も進まぬうちに消滅した。背後からグリフォンが飛来し、左胸を背中から嘴で刺し貫いたのだ。
 少女の消滅と同時に七三子は金縛りから解き放たれた。
「ありがとうございます!」
 新たな敵に狙いを定めたグリフォンに礼を述べつつ、自身もまた別の幽霊に攻撃を仕掛ける七三子であった。
 

アリエル・スチュアート
西園寺・つぼみ
クーベルメ・レーヴェ

●第三幕第二場
「シェイデッド・スクウェアか……」
『死ネ!』と叫び続ける幽霊たちを見ながら、クーベルメ・レーヴェ(余燼の魔女・h05998)が呟いた。この忌まわしき場所に与えられたロマン溢れる(?)俗称を。
「結局、オカルトマニアが思い描いてたような不思議な出来事はなにもなかったのよね。あったのは科学の……いえ、『科学』だなんて言葉では決して許されない凄惨な人体実験の現場だけ」
 悲しげで虚しげで苦々しげな声。√ウォーゾーンで非人道的なものを見慣れた|少女人形《レプリノイド》であっても、オーベンドルフ記念病院/ウェッサーマン病理研究所の所業は許容できないらしい。あるいは見慣れているからこそか?
「まったく、科学者の面汚しよね」
 と、ここにはいない元凶たちを西園寺・つぼみ(無貌のモデル・h00957)が扱き下ろした。
「でも、|面《つら》を汚されちゃった真面目な科学者さんたちに共感するのは難しいかも。私、面ないからねー」
 場をなごませるための自虐ジョークも忘れてはいない。
「お二人ともお辛いかもしれませんが――」
 ジョークなど聞こえなかったような顔をして、アリエル・スチュアート(片赤翼の若き女公爵・h00868)が二人に声をかけた。いつになく貴族らしい口調で。
「――どうか、お力を貸してくださいな。民たちをこの苦しみから解放するために」
「判ってるって」
 つぼみが手をひらひらさせて答えた。
「もとより、そのつもりよ」
「右に同じ」
 と、クーベルメが頷いた。
「では、まいりましょう」
 決意に顔を引き締めて前に進み出るアリエル。
 その肩でAIのティターニアが電子音声を発した。
『公爵、あえて問いますが、あの幽霊たちも自国の民と認識するのですか?』
「ええ、するわ」
 いつもの口調でアリエルは即答した。
「私たちの√の大ブリテン島に相応する国でおこなわれた非道の被害者――それは間違いなく自国の民よ」
『そうですか。ならば、√違いと指摘するのはもうやめておきましょう』
「いや、最初からそうしなさいって話よ!」
 AIに怒鳴りつつ、無刃の槍『グリモワールランス』を頭上に突き上げる。
 そして、それを振り下ろし――
「――」
 ――高周波音めいたものを口から発した。呪文の高速詠唱だ。
 無数の光線が天から地へと落ち、幽霊たちを次々と撃ち抜いた。オルガノン・セラフィムにも用いた√能力『ライトニングレイ』である。
「ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
 幽霊たちの絶叫。それは光線を受けたことによる悲鳴であると同時に反撃の咆哮でもあった。痛ましくも狂おしい金切り声が不可視の刃となり、アリエルの体を容赦なく斬り裂いていく。
「……っ!」
 アリエルは微かに顔をしかめて呻きを漏らした。しかし、この誇り高き公爵は自身が被った傷に苦悶しているわけではない。目の前にいる『自国の民』たちの苦しみを思い、悲しみを嘆いているのだ。
 思い嘆いているからこそ、戦いに手は抜かない。帆船型レギオンフォートレスに砲撃を指示し、フェアリー型ドローンたちにはミサイルを発射させている。
 それらは√能力による攻撃ではないので、時間稼ぎにしかならないが――
「ここがあなたたちの最期の舞台というわけね? こんなにも醜くて、こんなにも悲惨なあなたたちの……」
 ――稼いでもらった時間を活かすべく、つぼみが幽霊たちの前にゆらりと立った。『醜くて悲惨』などと評したが、その声に侮蔑は込められていない。
「美しさも、尊厳も、名前すらも奪われて……哀れね。でも、だからといって、他者を引きずり落としていい理由にはならないわ」
 |面衣《かおぎぬ》で隠した顔を幽霊たちに向けたまま、つぼみは元モデルらしい優美な所作で腰を屈めた。
「さあ、終わりにしましょう。この振動が――」
 地面にそっと手を触れ、√能力『|双振砕波《タイムラグ・レゾナンス》』を発動。
「――あなたたちの残滓を解き放つ。恨みの残響など、静寂の中に沈めてあげる」
 不可思議な振動が地を走り、『ライトニングレイ』を浴びて傷を負っていた幽霊たちが無数の光の粒子に変じた。
 粒子群が散り消える様を見ながら、つぼみは言った。
「罪なき者を巻き込もうとする手――それを断ち切るのもまた美の仕事よ」
「うわー。自分のやってることを『美の仕事』と言い切れちゃうんだ。なんか凄いよね」
 呆れ半分感心半分といった顔でクーベルメが言った。
 彼女の視線を面衣で受け流しつつ、つぼみはすっくと立ち上がった。腰を屈めた時と同様、その動きはどこまでも優美。
「傲慢と謗られても結構。あの幽霊たちを止める誰かが必要だから、私がやったまでよ。醜さを知ってなお、美しく在ろうとする者としてね」
「その揺るぎない自信を分けてほしいもんだわ」
 呆れ半分感心半分の顔を感心一色に変えたクーベルメであったが、すぐに緊張感を取り戻し、幽霊たちに向き直った。
 その様子を横目で見つつ、つぼみはアリエル(と、ティターニア)に囁きかけた。
「私が分けるまでもなくない? この娘、十二分に自信家だよね?」
「ノーコメント」
『ノーコメント』
 異口同音に答えるアリエルとティターニア。
「あなたたちは離れていてね! 危ないから!」
 と、自信家の少女人形は天使たちに注意を促した。
 そして、幽霊が密集している場所に狙いをつけて――
「|砲撃《フォイア》!」
 ――レイン砲台から数百条もの光線を発射した。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
 蜂の巣にされた幽霊たちの絶叫が響く。
 √能力でもあるそれらを躱しながら、あるいは躱し切れずに受けながら、クーベルメは第二射の準備を始めていた。文字通り身を裂くような金切り声を浴びているにもかかわらず、その表情は自信に満ちている。
 しかし、それはポーズに過ぎない。外見からは判らないが、ぎゅっと閉じた口の中では必死に歯を食いしばっているのだ。心を鋼にして、耐えているのだ。
(すべてを消し去って終わりにしましょう。光と音が止んだ後、この地に悲しみを残さないように……)
 決意の言葉を心中で紡ぎながら、光線群を再び発射。
 そこに別の光線群が加わった。
 アリエルの『ライトニングレイ』だ。
 二種の光線に射抜かれた幽霊たちが消滅していく。
 両方の光線を受けてもかろうじて生き残った者(幽霊が『生き残った』というのもおかしな話だが)いたし、どちらかの光線を回避することができた者もいたが――
「美の仕事を完遂しないとね」
 ――つぼみが『双振砕波』でとどめを刺した。
 だが、無傷の幽霊はまだまだ残っている。
「こうも数が多いと……」
 アリエルが『グリモワールランス』を操り、光輝く魔法陣を宙に描き出した。
 彼女が口にしなかった言葉の後半部分をティターニアが推測した。
『さすがに気が挫けそうですか?』
「そんなわけないでしょう」
 と、力強く否定したアリエルであったが、その後に否定を重ねた。
「いえ、確かに気が挫けそうね。だけど、あくまでも『気が挫けそう』であって、『気が挫けた』じゃないのよ」
 光の魔法陣が消失すると、アリエルの傷もまた消えた。回復の√能力だったのだ。
「そう、どんなに挫けそうでも、絶対に挫けたりしない。ノブレス・オブリュージュの精神を姉様から叩き込まれたのだから」
 新たな一群にめがけて、女公爵は『ライトニングレイ』を放った。
 矜持に裏打ちされた誓いの叫びとともに。
「あなたたちを苦しみから解放してみせるわ! 一人残らず! 一人残らずね!」
 

早乙女・伽羅
野原・アザミ

●第三幕第三場
 憎しみと悲しみに魂を支配され、哀れむべき被害者から恐るべき加害者になろうとしている幽霊たち。
 彼らや彼女らと√能力者との激闘が繰り広げられている中、野原・アザミ(人間(√妖怪百鬼夜行)の|載霊禍祓士《さいれいまがばらいし》・h04010)は深呼吸をした。静かに。大きく。ゆっくりと。
 そして、卒塔婆を一振りして血糊を払った。
「私が引き受けた仕事は天使たちを保護すること。どこぞの人でなしどもが過去にやらかしてくれた案件の後始末は含まれていなかったはずでけどね」
 当人の声は穏やかだったが、卒塔婆が風を切る音は怒りの咆哮に似ていた。あるいは悲しみの慟哭に。
「こういう情景には慣れたくないものだ……」
 |早乙女《さおとめ》・|伽羅《きゃら》(元警察官の画廊店主・h00414)がぼそりと呟いた。アザミと同じように幽霊たちに目を向けているものの、両耳は伏せられている。
「俺が斬り捨てたオルガノン・セラフィムたちも、彼らと同じように叫んでいたのだろうな。それが俺に聞こえなかっただけで……」
 しかし、感傷にふけっている場合でないことは伽羅自身がよく判っている。
 意思の力で耳を立て、サーベルを構え直した。
「とても、やり切れないが――」
「――やるしかありませんよね」
 アザミが後を引き取り、再び卒塔婆を振った。
 咆哮/慟哭に似たその音に対抗するかのように、青いリボンをつけた少女の幽霊が甲高い声で叫んだ。
「死ネェーッ!」
 地面で鈍色の光が跳ねた。亡きジェーン・ドゥが手にしていたメスだ。
 リボンの少女の念によって操られているであろうその凶器は伽羅の顔面めがけて一直線に飛び、そして、突き刺さった。
 顔面ではなく、咄嗟に翳された左前腕に。
「……すまない」
 自分を傷つけた相手に伽羅は詫び、メスが刺さったままの腕を水平に振った。すると、彼の前面に一枚のキャンバス画が出現した。描かれているのは、恨めしげな形相で叫ぶリボンの少女(モデルとなった幽霊と違って、顔は黒塗りになっていない)。自分が受けた攻撃を複製する√能力『|Trompe-l'œil《騙し絵》』の産物だ。だが、伽羅の目的は敵の技を複製することではない。この絵は悲劇と惨劇を忘れぬための記録。実体化した記憶。負の記念。
「慰めにもならぬ、ただの偽善かもしれないが――」
 静かに思いを吐露する伽羅の横からアザミの姿が消えた。
 リボンの少女に向かって駆け出したのだ。
「――忘れはしない。君たちという存在がいたことを俺が覚えておく」
 伽羅が語り続けている間にアザミは一気に距離を詰め、卒塔婆を振るった。
 直撃を受けたリボンの少女が飛散して消えた。
 返す刀ならぬ返す卒塔婆で別の幽霊を叩き潰す間もアザミは無言。だが、なにも思っていないわけではない。なにも感じていないわけではない。
(ここにいるのは被害者たち。でも、救うにはもう遅すぎました。ならば――)
 振り抜いた勢いをそのままに半回転して、また別の幽霊を叩き潰す。
(――私にできることは一つだけ)
 四体目と定めた相手は、枯れ木のように痩せ細った老人。だが、卒塔婆を振るう前に先手を取られた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
 威力を有した絶叫。
 それはすぐに二重唱になった。松葉杖をついた青年の幽霊が加わったのだ。
 凶器とも言える金切り声を真正面から受けたアザミであったが、必死に耐えた。痛みではなく、耳を塞ぎたいという衝動に。
 そして、反撃。
 二人に突進し、卒塔婆を右から左へ振るう。すかさず、左から右へ。二回攻撃にして範囲攻撃でもあるその√能力『|禊祓《みそぎはらい》』によって、即席のデュオは塵と化して消えた。
「もしかして……」
 悲しげな声が背後から聞こえた。
 距離を置いて見守っている天使たちの一人が発したのだ。
「この人たちも、あのジェーンっていう女の人も……僕らのせいで死んじゃったの?」
「いいえ。違います」
 アザミは振り返ることなく、即座に否定した。
「違います」
 念を押すように繰り返しながら、卒塔婆を振るい続ける。胸の中で静かに燃え上がっているのは怒りの炎。この状況に(自分たちにはなんの責任もないにもかかわらず)胸を痛めている天使たちと違って、ウェッサーマン病理研究所の面々は罪悪感など抱いていないだろう。いや、そもそも、犠牲者が幽霊となって現れ出たことさえ知らないはずだ。
 伽羅もまた怒りを覚えていた。
 同時に自戒の念も抱いていた。
(俺は|彼奴《きゃつ》らとは違う……と、高見の見物気分でいてはならぬ。あのジェーンという女のような狂人ではないのだと驕ってはならぬ)
 心中で独白しながら、幽霊たちに切り込み、切りつけ、切り捨てていく。
(この人たちの未来を摘み取ったという一点においては、彼我に違いなどないのだから)
 サーベルが一閃する度に幽霊たちは傷つき、あるいは消滅したが、半透明の体に生じた傷口から血が噴き出すことはなかった。代わりに伽羅の心が血を流している。胸のうちにいるもう一人の伽羅が断罪の刃で自身を斬り裂いている。
 だからといって、サーベルを振るう手が鈍ることはない。哀傷の思いに負けて戦いを放棄するような青臭さはずっと昔に失ってしまった(彼は見た目よりも長命なのだ)。
 しかし――
「来ルナ!」
 ――腰の曲がった老婆の幽霊に叫びをぶつけられると、体が心を裏切って硬直した。
 それは金縛りの効果を持つ叫びだったのだ。
(動け!)
 自分に近付いてくる老婆を直視しながら(金縛りの状態なので、もとより視線は逸らせないのだが)、伽羅は自身の体に命じた。
(動いてくれ! せめて、一太刀……)
 その思いが通じて体が動き出す前に、あるいは老婆が更なる攻撃を仕掛けてくる前に、一つの影が両者の間に割り込んだ。
 アザミである。
「申し訳ありませんが、『来るな』と言われて『はい、そうですか』と従うつもりはありません」
 卒塔婆が唸り、老婆は跡形もなく消し飛んだ。再び『来ルナ!』と叫ぶ間もなく。
 代わりに別の幽霊――クルーカットの少年が叫んだ。
「死ネェーッ!」
 それはリボンの少女も用いたポルターガイスト現象の√能力。アザミの側面に向かって、メスが飛んだ。
 だが、今度は伽羅が割り込み、右手を伸ばして射線を遮った。メスは肉球に触れた瞬間、突き刺さるために必要なスピードを失って落下した。√能力を無効化する√能力だ。
「もういい」
 左手に持ち替えていたサーベルを素早く右手に戻しながら、伽羅は地を蹴り、たったの二歩でクルーカットの少年に肉迫した。
「もういいんだ」
 サーベルの刃が少年の左胸に滑るように沈み込む。
「もう眠っていいんだ」
 少年は眠った。安らかな寝顔でも浮かべていれば、√能力者たちにとって少しは慰めになるかもしれないが、その顔は最後まで黒く塗り潰されたままだった。
 他の幽霊たちはまだまだ眠るつもりはないらしい。いや、眠りたくても眠れないのだろう。
「あなたがたがこの場所に囚われている限り――」
 アザミは卒塔婆を地面に突き刺し、空いた右手を羽織の袖口に引き込めた。
 そして、一体の幽霊に飛びかかった。眠りをもたらすために。
「――なんの救いも訪れないのですよ」
 袖口から再び現れ出た手は注連縄を握っていた。幽霊を足払いで牽制し、注連縄を絡まらせて動きを鈍らせ、左手に装着した縛霊手で殴打。幽霊は眠りについた。
 その後方で伽羅が別の幽霊を斬り伏せつつ、地に突き刺さったままの卒塔婆を二本の尻尾で弾き上げた。
 宙で弧を描いて降下したそれをアザミがキャッチし、新たな幽霊へと叩きつけた。
(せめて、魂が浄化されますように……)
 胸のうちで祈る。言葉には出さない。無意味だと判っているから。胸のうちで祈ることもまた無意味だと判っているが、さすがに心の声までは止められない。彼女は人間なのだ。
 広義の意味で人間である伽羅も心を御すことができずにいた。意識しているわけでもないのに警察官時代の記憶が脳裏に蘇ってくる。被害者の遺族たちの恨めしげな顔。『あんたたちにとっては事件なんて日常なんだろう。だから、そんなに醒めた態度をしていられるんだ』という非難の言葉。
(そうだ。日常だった。日常ゆえに慣れた。否応もなく……)
 思いが過去に飛んでいる間も、『日常』を奪われた幽霊たちを次々と仕留め、その非日常から解放していく。
(怯んで動けなくなれば、下手人を取り逃してしまう。助けられるものも助けられなくなる。それでは志した意味がない。だから……慣れるしかなかった。慣れるしかなかったんだ)
 無意識のうちに呟きが声に出た。
「こういう情景には慣れたくないものだ……」
 数分前に誰かが同じことを呟いたような気がしたが、その『誰か』を伽羅は思い出せなかった。次に呟いた時も思い出せないかもしれない。実は何百回となく呟いてきたのかもしれない。
「私たちは慣れていますが――」
 アザミが淡々と言った。
「――あの子たちは違います。慣れてしまう前に終わらせてしまいましょう」
「そうだな」
 アザミと伽羅は戦い続けた。
 惨劇に慣れていない純真なる天使たちのために。
 

櫃石・湖武丸
吉住・藤蔵
道明・玻縷霞
逝名井・大洋

●第三幕第四場
「憎イ!」
「苦シイ!」
「許セナサイ!」
 幽霊たちの怨嗟の叫びは止んでいない。
 この世に在り続ける限り、止むことはないだろう。
「長くて怖い夢を見てるんだね?」
 幽霊たちの顔――黒く塗り潰された目鼻なきそれらを|逝名井《いけない》・|大洋《たいよう》(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)が見回した。
「大丈夫。すぐ楽になるから」
「ええ。楽にしてさしあげましょう。√能力が飛び交ったことが原因でこの方々がこうして顕現したのだとしたら――」
 |道明《どうみょう》・|玻縷霞《はるか》(黒狗・h01642)がスーツを脱ぎ捨て、シャツの袖をまくり上げた。
「――終わらせるのが私たちの義務というもの」
 義務を果たそうとする彼が幽霊へと向ける眼差しは、強い戦意を示すと同時に深い慈悲に満ちていた。
 しかし、慈悲を読み取れるだけの理性は幽霊たちには残っていない。読み取れたとしても、慈悲に感謝する良心も残っていないだろう。
「死ネ!」
「死ネ! 死ネ!」
「死ネ! 死ネ! 死ネ!」
 激しい憎悪を放射しながら、玻縷霞を始めとする救い手たちへと迫っていく。
「死ね?」
 と、救い手の一人である|櫃石《といし》・|湖武丸《こたけまる》(蒼羅刹・h00229)が聞き返した。
「被害者だからってなにをしてもいいわけじゃないし、なにを言ってもいいわけじゃないんだよな。酷い目に遭わされたことには同情するが――」
 仄かに青い霊気が全身から立ちのぼる。
「――だからって、他人様を同じような目に遭わせるなら、同情はおしまいだ。なあ、吉住?」
「うんにゃ」
 同意を求めた湖武丸にすげない答えを返したのは|吉住《よしずみ》・|藤蔵《とうぞう》(毒蛇憑き・h01256)だ。
「おしまいってこたぁ、ねえべさ。俺は最後まで同情するだよ」
 そう言った藤蔵であったが、戦う意思を放棄したわけではないらしい。懐中から武器を取り出している。それはジェーン・ドゥの武器と同じ。そう、メスだ。手付きから察するところ、扱い慣れているという点でもジェーンと同じ(あるいはジェーン以上?)だろう。
「同情してるからこそ、酷えことをさせるわけにはいかねえ。即刻、鎮めてやるべよ」
「意見の一致を見たようなので、やっちゃおうか」
 大洋がウエスタンショーのパフォーマンスさながらに二丁拳銃をくるくると回転させた。
「切り込み隊長ならぬ撃ち込み隊長のボクが先陣を切っちゃっていいかしらん?」
「いや、まずは俺が露払いをしよう」
 湖武丸の体から煙のように昇っていた霊気が頭上で雲に変わった。
 そして、雷鳴を轟かせた。
 何条もの紫色の稲妻が雲から迸り、幽霊たちを撃ち抜いていく。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァーッ!」
 雷鳴の残響に幽霊たちの絶叫が重なった。もちろん、ただの叫びではなく、範囲攻撃の√能力である。
 湖武丸も他の三人もその絶叫を浴び、体のそこかしこを切り裂かれた。
 誰一人として怯まなかったが。
「悲しい声だねえ」
 大洋が拳銃の回転を止めて、幽霊たちに向かって飛んだ。いや、実際に飛んだわけではない。飛ぶような速度で疾走したのだ。対オルガノン・セラフィム戦の時と同様、主人格たる『弟』の霊能力を用いて。
 その速度を維持したまま、敵陣深く吶喊。至近距離から幽霊に銃弾を撃ち込み、また別の幽霊にも撃ち込み、また別の幽霊に……。霊能力によって威力も上昇しているので(また、湖武丸の稲妻を受けた相手を優先的に狙っているので)、どの幽霊も一撃で仕留めることができた。
「地獄ニ堕チロォーッ!」
 大洋の攻撃範囲外にいた幽霊が吠えた。
「なんと言われようと――」
 大洋に続いて、玻縷霞も幽霊の群れに飛び込んだ。武器は手にしていない。手にする必要がない。手そのものが武器なのだから。袖まくりした両腕が、白い被毛に覆われた獣のそれに変じているのだから。
「――このままにすることこそが地獄ですよ」
 目の前で展開している『地獄』を終わらせるべく、狛犬の付喪神は獣の腕(前足?)を縦横無尽に振るった。大洋がそうであったように、湖武丸の稲妻で手負いとなった者を狙っている。
 玻縷霞と大洋の攻撃目標の選択肢はすぐに増えた。
「数が多いから、片っ端から送ってやらんとな」
 湖武丸がまた稲妻の嵐を見舞ったからだ。
「腰のものは抜かないのですか?」
 獣の拳で幽霊の顔を叩き潰し、あるいは爪で幽霊の首を切り裂きながら、玻縷霞が湖武丸に問いかけた。
「ああ」
 湖武丸は頷き、腰に差した愛刀の柄を軽く叩いた。
「こういうことに刀は使いたくなくてな。それが俺のポリシーってやつだ」
「ヤッパってのは『こういうこと』にこそ活かせると思うけどもな。まあ、人それぞれかもしんねえが……」
 ぼそぼそと言いながら、藤蔵が数本のヤッパならぬメスを続けざまに投擲した。無造作に見えて、狙いは正確。投じられたすべてが命中した。しかも、一本一本が複数の標的を傷つけている。
「ア゛ア゛ア゛……」
 絶叫の√能力を放っていた何体かの幽霊の声が途切れ、『ひゅー』という木枯らしのような音に変わった。喉笛をメスで切り裂かれたのだ。
「ありがとう、吉住さん。悲しい声が少しでも減るのはありがたいよ」
 藤蔵に礼を述べつつ、二丁拳銃を撃ち続ける大洋。
 そのすぐ傍でメスが光った。藤蔵のメスではなく、ジェーンが使っていた武器である。幽霊が念動力で操っているのだ。
 メスは矢のように飛び、大洋の脇をすり抜けた。標的は、背を向けた玻縷霞。
 しかし――
「つれないなあ。ボクをスルーしないでよー」
 ――大洋が咄嗟に発砲し、メスを銃弾で打ち砕いた。
 その破砕音を背中で聞いた玻縷霞が瞬時に振り返り、地を駆け、念動力を使っていた幽霊の左胸に獣の爪を突き立てた。
 心臓を抉り抜かれた幽霊が消えた途端、またメスが飛んだ。今度のそれは藤蔵の攻撃である。
「残酷なやり方かもしれねえが、首を切っちまったほうがすぐに逝けるべよ」
 自分の投げたメスが幽霊の喉笛を裂くところを見届けて、藤蔵は新たなメスを投擲した。
 そして、付け加えた。
「普通の人間ならなぁ」
「普通の人間なら……」
 玻縷霞が復唱するように呟き、メスとは別方向に走り、そこにいた幽霊――かつて『普通の人間』だった者に死という救いを与えた。

●終幕
 戦闘中の行動で天使たちを大別すると、二つに分けられる。√能力者たちを不安げに見守っている者たちと、恐ろしげに顔を伏せている者たちだ。
 しかし――
「終わったわよ」
 ――西園寺・つぼみの声を聞くと、後者の天使たちも顔を上げた。
 彼らや彼女らの前に立っているのは√能力者だけだった。幽霊はもういない。オルガノン・セラフィムたちとジェーン・ドゥの死骸は地に散乱しているが。
「結局のところ、人を人たらしめているのは姿形ではなく……」
 早乙女・伽羅が異形の死骸群を見渡して述懐したが、途中で言葉を切った。
 やり切れない彼の気持ちを汲んだのか、クーベルメ・レーヴェが前向きな発言をした。
「まあ、今は任務の無事と天使たちの無事を喜びましょうよ」
 努めて明るい声を出す彼女とは対照的に藤蔵は――
「……」
 ――むっつりと押し黙り、両手を合わせていた。その行為に意味があるかどうかは当人にも判らない。それでも手を合わせずにはいられなかったのだ。
 湖武丸と玻縷霞も同じように黙祷を捧げているが、大洋はそれに加わっていない。
「ねえ、ガキンチョども」
 と、天使たちに呼びかける。
「ボクの代わりに幽霊ちゃんたちやセラフィムちゃんたちの冥福を祈っておいてよ」
「どうして、お兄ちゃんは祈らないの?」
 天使の少女が尋ねると、大洋はニヤリと笑ってみせた。
「優しいおまえたちに優しい人の役回りがあるように、悪いボクには悪いおまわりさんの役回りがあるんだよ」
「……?」
 少女は訝しげに首をかしげたが、それ以上はなにも訊かず、十字を切り、両手を組み合わせ、深く頭を垂れた。
 他の天使たちもそれぞれのやり方で祈りを捧げている。
 その様子を見ながら、アリエル・スチュアートが誰にともなく問いかけた。『自国の民』を心配する口振りで。
「やっぱり、この子たちの面倒は汎神解剖機関が見ることになるのかしら?」
「そうでしょうね。不安は拭えませんが、今は機関を信じるしかありません」
 と、同じく心配げな調子で答えたのは野原・アザミだ。
「でも、私たちの連絡先を教えるくらいは問題ありませんよね?」
「べつにいいんでねえか」
 そう言いながら、藤蔵が天使たちに目を向けた。
「そのほうがこいつらも心強えだろうしな」
「天使はそれでいいとして――」
 湖武丸が口を開いた。
「――ナントカ病理研究所の連中はどうする? もし、なんらかの残業で対処するっていうのなら、つき合うのは吝かじゃないぞ。残業手当ありなら尚更だ」
「当然、残業手当ては出しますとも」
 シャツの袖を戻しながら、玻縷霞が言った。
 それを聞いて、湖武丸はニヤリと笑った。先程の大洋と同じように。
「そういえば、道明は病理研究所について『御自由にどうぞ』って言ってたっけか」
「じゃあ、御自由にやっちゃおう。ボク、残業だーい好き」
 大洋も再び笑った。
 玻縷霞はにこりともせずにスーツを拾い上げて土を払うと――
「では、行きましょうか。このようなことが二度と起こらないように……」
 ――湖武丸と大洋を促して、その場を後にした。
 大洋が言うところの『悪いおまわりさんの役回り』を果たすために。
 

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