|雀狸《じゃんたぬ》、蛇を討つ
「ポンじゃ」
かたん、と静かな音を立てて牌が倒れる。
黄ばんだ畳の部屋。ちゃぶ台を無理やり改造した雀卓の上を、三つの牌が滑る。
發・發・發。それを我が物にした老爺は頑なに|發《リューハ》と呼ぶが、さておき。
「ちっ……」
右手に座る男が舌打ちしながら、山から一枚を自模る。
その顔には疲労と、僅かな警戒心が滲む。
「ロンじゃ」
捨て牌を眺め、にたり、と笑った爺が、ぬるりと手牌を倒した。
發のみ。1000点。絶望するほど地味な上がりだった。
「おいジジイふざけんなよ! お前|箱下《持ち点マイナス》だろ!? なんで役牌のみなんだよ!!」
「ふぉっふぉっふぉ、次が儂の親番じゃからかのぅ……」
余裕綽々の笑みを浮かべ、爺はもそもそと洗牌を始める。
次局、南四局。役満直撃でも逆転トップには届かない点差。
そんな負け確に等しい老人が嬉々として牌を積み直す姿は、どこか不気味に映る。
「……儂の連荘、始まるぞぃ……!」
その瞬間だった。
外から誰かの叫び声。次いで何処かで瓦が砕ける音。
何事かと飛び出せば、見えたのは異様な禍々しさを放つ黒鱗。
――マガツヘビだ。
誰かが呟くと、皆が同じ“掟”を頭に浮かべる。
怪しげな老爺も同じ。
手にしていた牌を卓に放ると、顕現した強大な古妖へと歩みを進める。
その最中、老爺は大きく形を歪めていく。
獣の耳、うねる毛並み、鋭い爪――その正体は、古妖・隠神刑部。
「……儂の親番……」
怒りとも悲しみともつかぬ呟きを零して、古狸の首領は災厄に挑む。
神聖なる遊戯を妨害した罪。その罰を払わせるために。
●星詠みの語るところによれば
「――まあ、化け狸の親番の仇はどうでもいいんですがね」
|獺越《おそごえ》・|雨瀬《あませ》(流るる語り部・h05081)は、呆れたような苦笑を浮かべ、語り出す。
「妖怪の世界には知らない奴はいない、絶対の掟ってもんがありましてね」
ある者は歴史の教科書から。
ある者は古の石碑から。
ある者は親が聞かせる昔ばなしから。
ともすれば、誰から教わったのかも定かでないのに、なぜか皆、知っている。
「全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし」
それが『マガツヘビの掟』だ。
「まさか“全てのあやかし”が古妖まで含めているとは、信じがたい話でしたが」
既に|石蕗《つわぶき》中将なる古妖から、共闘の申し出がされているくらいだ。
人を喰らう狂暴さ故に封じられた彼らの振る舞いとしては、異質とさえ言える行動。
それこそが、マガツヘビという存在の強大さを示している。
「――という訳でしてね、この|私に降ってきた予知《ゾディアック・サイン》にもご協力願えればと」
今回の舞台は、古くから妖と人が入り交じる町――|八狸塚《やたぬきづか》。
山間の盆地にひっそりと広がる田舎町で、狸に由来する言い伝えが幾つかあるようだが、それはさておくとして。
この八狸塚に出現したのが、小型の“マガツヘビ”たち。
……そう、“たち”だ。
マガツヘビ本体の鱗や肉片から生まれた、黒く、重く、禍々しい蛇たち。
八狸塚に現れたそれは大きさこそ人間ほどに縮んでいるが、それぞれが本体と同じ顔、同じ声、同じ能力を持つという。
「ざっくりと言ってしまえば、|大将《ボス》級の古妖が群れ成してる訳です。厄介でしょう?」
そして、忘れてはならないのが本体も近くに存在していること。
知能こそ愚鈍とされてはいるが、それ故にマガツヘビは無限とも噂される妖力をためらいなく振りかざし、辺りに甚大な被害を及ぼす。
「唯一の救いは、“短期間に何度も倒せば、やがて蘇らなくなる”という性質でしょう」
それを実現するための古妖との共闘。
此度の戦いでも、隠神刑部は肩を並べて戦ってくれるはずだ。
「なんせ、ご立腹ですからね。牌を積み直す前に蛇が降ってきたもんで」
刑部もまた数多に分かれた肉片の一つだが、その力は並の妖怪の比ではない。
上手く扱ってやれば、戦いを優位に進められるだろう。
「刑部と一戦交えたことのある方もいらっしゃるかもしれませんがね、まあ厄災を鎮めるまでの間、暫し目を瞑っていただけると助かります」
雨瀬は両手を合わせ、頼み込むようにして語り終えた。
第1章 ボス戦 『隠神刑部』

夕暮れが町を薄く染めていた。
商店街に流れる小狸饅頭の甘い匂い。
信楽焼じみた置物。
軒先に吊るされて揺れる狸面。
その幾つかは本当に瞬きをするとか、しないとか。
ともかく平穏な、いつも通りの八狸塚の日常。
それを破壊する、黒い影。
ざらついた鱗で地を滑り、ただならぬ邪気で土を冒す。
恐ろしき古妖、忌まわしき愚鈍の獣、マガツヘビ。
その小さな切れ端。肉片や鱗が、主と同じ形を成したもの。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
「――来おったな!」
災厄の咆哮に応じて叫び、闘志溢れる古狸は“伐折羅”の姿と化して剣を振るう。
邪悪な|腕《カイナ》と神罰の刃の応酬。
幾度かの打ち合いの末、黒鱗が崩れ去るのを見送った狸は、一つ大きな息を吐く。
「……やれやれ、骨が折れるのぅ」
そのまま身を捻って狸の姿に戻ると、刑部は“こちら”を一瞥して言った。
「これ、そこの。そこのお主、あれじゃろ、戦える口じゃろ?」
角はなく、けれども芯のある問いかけ。
「まさか見物に来ただけ、とは言わせんぞ。儂ひとりでは、些か手が足りぬ」
にたり、と笑う。
古妖・隠神刑部。その表情には、どこか嬉しげな気配すらあった。
===============================
√能力者&刑部vs小型マガツヘビという2対1での戦闘です。
刑部の√能力は、指定があればそれを、
なければ√能力者が使うものと同じ能力値のものを使用します。
小型マガツヘビの√能力は、下記の通りです。
POW:マガツカイナ
【腕】による近接攻撃で1.5倍のダメージを与える。この攻撃が外れた場合、外れた地点から半径レベルm内は【霊的汚染地帯】となり、自身以外の全員の行動成功率が半減する(これは累積しない)。
SPD:マガツサバキ
60秒間【黒き「妖の火」】をチャージした直後にのみ、近接範囲の敵に威力18倍の【禍津ノ尾】を放つ。自身がチャージ中に受けたダメージは全てチャージ後に適用される。
WIZ:マガツイクサ
【小型マガツヘビの群れ】を纏う。自身の移動速度が3倍になり、装甲を貫通する威力2倍の近接攻撃「【禍津ノ爪】」が使用可能になる。
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「狸さん、助太刀しますよ!」
凛と響いたその声は、八狸塚の夕空に柔らかく溶けていく。
春物のワンピースを揺らしながら現れた少女――|竜宮殿《りゅうぐうでん》・|星乃《ほしの》(或いは駆け出し冒険者ステラ・h06714)。
その佇まいには、育ちの良さと秘めた勇気が仄かに滲み出ているが。
(「さすがに、ここであの格好は……」)
少しばかり恥じらうようにして、星乃は己の装いに目を落とした。
彼女の裏の顔――“冒険者ステラ”としての正装、ビキニアーマー。
今日、それに休息を与えてきたのは、間違いではないはずだ。
(「あれでは、浮くというか……場違いに映ったでしょうね」)
ふと、視線を上げて見渡す町並み。
初めて訪れた√妖怪百鬼夜行は、何処か懐かしく、それでいて異国の夢のよう。
瓦屋根に甘い匂い。吊るされた狸面。商店の格子戸が軋む音。
その合間を抜ける風の中に――冷たく悍ましい、不穏の気配が交じる。
「むぅ、まだまだウヨウヨとしておるのぅ」
狸こと隠神刑部の呟きに、はっと我に返る。
“星乃”として此処に来たのは、マガツヘビなる災厄を討ち祓うため。
「して、如何にする。娘御」
目を細めて問う刑部の声は、古妖らしい強大な圧を宿していた。
けれど、星乃は怯むこともなく、真っ直ぐに答える。
「空を飛べる姿への変身をお願いします」
星詠みからの報せによれば、マガツヘビの攻撃は地上に向けるものばかり。
ならば、上から叩けばいい。理屈は単純、だが効果的だ。
「空か……わしゃ狸じゃからのぅ。あまり得意な方ではないんじゃが」
「そうなのですか?」
「うむ。まあ、出来ぬことはないがの」
顎下の毛を撫でながら唸る刑部。
不意に威圧感が抜けたその姿は、不思議と顔なじみの老人のように思える。
なればこそ、か。抑えきれない好奇心が、星乃の口を衝いて出た。
「では、得意なのは何ですか?」
「そうじゃな……」
にたりと笑った刑部の輪郭が揺らぎ、恰幅のよい狸は何かに変わっていく。
しなやかな肢体、挑発的な仕草、艶やかな声――。
「たとえばこういうの、とか(はぁと)」
「…………っ!」
星乃は顔を朱に染めながら、一歩後ずさった。
「か、からかわないでください!」
「ふぉっふぉっふぉ……刺激的すぎたかの!」
満足げに笑った刑部は、今度こそ巨鳥の姿へと変じ、空へ舞い上がった。
まったく、何が「得意な方ではない」だ。瞬きにも満たない一瞬で翼を作り上げておいて。
「……遅れを取るわけにはいきませんね」
星乃もすぐに詠唱を開始する。
「私の勇気が彼方へ駆ける風となる――未来示す道標となれ! 轟嵐竜顕現! ひた疾れ、バーストストリーム・ドラゴン!!」
声が空気を震わせた刹那、雲間を裂くようにして現れたのは翡翠の鱗を纏う飛竜。
その体躯は優雅にして雄壮な存在感を放ち、大気切り裂く咆哮と共に風を巻き起こす。
星乃は一息、胸元に手を当ててから竜に飛び乗り、夕空を翔けた。
眼下に映るのは、のたうつ黒蛇――小型のマガツヘビたち。
零れ落ちた滓にすぎないそれは、凶悪な妖気を放ち、じわじわと地を侵している。
「いきますよ、狸さん!」
「応とも!」
答えた刑部が、鳥の姿から羽根の矢を射ち出す。
それは正確無比な軌道を描き、地上に突き立って蛇の逃げ道を断った。
絶好機。逸するわけにはいかない。
星乃は竜の背を蹴って跳び、轟嵐竜の竜巻の吐息を受けて疾風と化す。
「ゲイル・スパイク――!!」
繰り出す疾風迅雷の蹴りは、その疾さゆえに制御も難しい。
しかし、刑部の羽矢が敵の動きを封じている今なら、狙いを外す恐れはない。
神罰の如く地を穿つ一撃。風鳴りと共に生じた衝撃波が駆け抜け、邪蛇の欠片たちは悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされていく。
その暴風は、当然ながら彼女の服の裾にも容赦なく――。
「ひゃあっ……!?」
慌てて押さえる星乃。
その傍らに降り立った間の悪い狸が、にんまりと笑みを浮かべた。
「風踊り、裾にまぎれて、花の色……ふむ、蛇退治を成した暁には、花見酒で盛大に祝うとするかのぅ。ふぉっふぉっふぉ」
「た、狸さん! もうっ……!」
頬を紅潮させて抗議する星乃に、古狸は老獪な笑い声を響かせるばかりだった。
「うるせえ! 戦いに来たに決まってんだろ!」
共闘を促す古妖・隠神刑部の呼びかけに、|葦原《あしはら》・|悠斗《ゆうと》(影なる金色・h06401)は荒々しく応じた。
目の前の狸とは初めましての間柄だが、以前、別の古妖と刃を交えた経験はある。
(「ムカつく野郎だったな……!」)
今思い出しても腹が立つ。おかげで“古妖”という存在そのものに、どうしても良い印象を持てない。
共闘の申し出など「冗談じゃねえ」と蹴っ飛ばしてやりたいところだったが――。
マガツヘビなる災厄が、√EDENにまで迫ろうとしていると聞けば、話は別だった。
(「ヒロトの世界に手を出す野郎は、何だろうと容赦しねえ」)
|シャドウペルソナ《もう一つの人格》である悠斗にとって、主人格を想う気持ちは何にも勝る。
古妖への嫌悪感すら今は押し退けて、為すべきはただひとつ、蛇退治。
そんな悠斗が、金の瞳でまず見据えたのは――マガツヘビではなく、如何にも古ぼけた狸の置物。
「ありゃ、アンタの親戚か?」
「かもしれんのぅ」
揶揄うような悠斗の問いに、刑部もしたり顔で応じた。
やはり、化かし合いなら狸に軍配が上がる。
舌打ちで返す悠斗。それに笑い声を零しながら、古妖も問い返す。
「……して、小僧。あれが儂の血族だとすれば何なんじゃ」
「別にアンタと関わりがあろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいが……少し話を聞いてやろうと思ってな」
自ら振った話題を袖にして、悠斗は置物に近づくと手を伸ばす。
ひんやりとした陶器の感触。重みはあるが、汚れひとつなく丁寧に扱われてきたことが窺える。
恐らくは、父から子、子から孫へと、長く大切に受け継がれてきたのだろう。
ならば――。
(「マガツヘビの野郎のこと、何か知ってたりしねえか?」)
“全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし”。
古より連綿と受け継がれてきた掟は、過去に何某かの大きな争いがあった証左。
その記憶に触れれば、悪蛇の弱点に迫れるかもしれない。
(「……頼む。ちょっとした事でも構わねえ。教えてくれ」)
悠斗は祈るように目を閉じ、掌を通じて狸の置物の“過去の所有者の記憶”と交わる。
その真摯な姿勢を、隠神刑部も黙って見守っていた。
指先に微かな震えが走る。
置物をなぞる掌が、時の流れを巻き戻していく。
闘争、憤怒、絶望、苦痛、誓約、不撓――様々な感情と記憶の奔流が胸を打つ。
それを受け止め、両眼を見開いた悠斗の手に現れるのは、鏖戦の鎖鋸。
「なんぞ分かったのか」
「……ああ」
それは求めていた答えではなかった。
けれども、ひとつだけ確かな真実は得た。
「確かに、あの野郎は全てを懸けてでもぶっ潰さなきゃならねえみてえだな」
見渡した八狸塚の町並みに炎の幻影が重なる。
その凄惨な光景を、此処や√EDENで再び現実のものとする訳にはいかない。
「おい、タヌキジジイ! 俺が前張ってやるからしっかり援護しろよ!」
悠斗の怒声と呼応するように、黒き影が姿を現す。
人ほどの大きさの黒蛇――本体から零れ落ちた滓でしかないそれでさえ、溢れる妖気は地を蝕むほど。
「てめぇが……」
思わず漏れた声と共に、悠斗は|鏖戦チェーンソー《託された想い》を強く握り直す。
そして、迷いなく踏み込む。
初撃は正面から叩きつけるように浴びせかけ、続けざま斜めへと斬り裂く。
「喰らえ!」
刃が鳴り、火花が散る。だが――マガツヘビは一歩も退かない。
(「……効いてねえ……!?」)
斬撃は確かに命中している。なのに、手応えがない。
その理由は、古の記憶からすぐさま明らかとなった。
黒蛇を包むように燃え上がる炎。
轟き渦巻くそれが裁きを下すまで、マガツヘビが滅ぶことはないのだ。
「……知ったことかよ、まとめてブチ抜いてやるぜ!!」
抗う術は他にない。
悠斗はチェーンソーを振るい続ける。怯まず、退かず、連撃を叩き込む。
刃は音を立てて軋み、深く深く、黒鱗を削ぎ落す。
それでも――邪悪な気配は萎むばかりか、さらに膨らんでいく。
「退け、小僧!」
刑部の声が飛んだ。
悠斗は瞬時に状況を察し、跳ねるようにして距離を取る。
その動作が終わらぬうちに刑部の両掌が地を打ち、印と呪の詞が地に満ちた。
「……破ッ!!」
神にも通じるその力に、戦いを見守る狸の置物が揺れ動く。
そして、次の瞬間。
それは意志を持つかのように宙を舞い、黒蛇の頭を後ろから強かに殴りつけた。
――直後、響き渡る咆哮。
マガツヘビの禍々しい尾が、稲妻のように振り下ろされる。
本来、それは“悠斗”を狙った一撃だった。
だが――。
「間抜けを化かすのは、狸の得意技じゃて」
ほくそ笑む刑部。その視線の先で砕ける、狸の置物。
神通力によって悠斗と誤認させられたそれは、身代わりとなって一撃を受け、かつての無念を祓うように役目を果たした。
一瞬の静寂。それを裂いて唸る、縁由を断つ鎖鋸。
悠斗が地を蹴り、黒蛇の懐へと踏み込む。
「喰らいやがれ……ッ!!」
凄烈な一撃に引き裂かれる黒鱗。斬り刻まれ、擦り潰される禍の瘴気。
内に宿した炎も尽き、マガツヘビは爆ぜるように地へと崩れ落ちた。
「危ない所だったな、小僧」
「……うるせぇ。っつうかジジイ、他人様の置物壊してんじゃねえよ!」
「あんなもんその辺に腐るほど転がっとるわい。全く、口の減らん小僧じゃの」
言葉こそ粗雑だが、その声音は少しだけ柔らかく。
古妖の笑う声は、夕暮れの町に緩やかに響いた。
夕空の下、コツンと足音を響かせて。
八狸塚の町角に現れたのは、長閑な田舎を刺激する|華やか《ハイカラ》な姿。
白茶のウェーブヘアに、センス良くあしらわれた帽子と風切羽の髪飾り。
すらりと伸びた脚を覗かせるのは、レトロフューチャーなデザインのワンピース。
まるでショーウィンドウからそのまま飛び出してきたような出で立ちだ。
けれども、口を開けば仄かに滲むポンコツ感が、彼女の本質をふわっと漂わせる。
「おじいちゃん、おまたせ~」
まるで遊びに来たかのような軽やかな声音に、一戦終えたばかりの隠神刑部が視線を上げた。
鋭い古妖の目が、|薄羽《うすば》・ヒカリ(alauda・h00458)を捉える。
だが、それも次の瞬間には、ふっと緩んで。
「助かったわい。危うく儂が毛皮の襟巻になるところじゃったわ」
「またまた~。そんなこと言って、おじいちゃんまだまだ余裕っしょ?」
「抜かせ。もう足も腰もガタガタよ。若い娘御の前でなかったら座り込んどるわい」
「ふーん? じゃあ、来たのが私でよかったね!」
小気味良い調子で冗談を投げ合う二人。
本来ならば交わることのない√能力者と古妖は、今一時、肩を並べて立つ。
敵の敵は味方という訳だ。
そして討つべき敵は、路地裏からぬるりと這い出てくる。
マガツヘビ。闇の如き鱗に覆われた異形の災厄。
その本体から零れ落ちた、滓の一つ。
妖気を撒き散らして迫るそれに、しかしヒバリは臆することなく、明るく告げる。
「それじゃ、いっしょにあの蛇やっつけちゃおっか!」
「ほう? 儂はてっきり、おだてるだけおだてて帰るつもりかとばかり」
「ちょっとひどくない!? ホントに遊びに来たとでも思ったの?」
小さく頬を膨らませながら訴えた後、ヒバリは宙に指を滑らせてバーチャルキーボードを展く。
「できるギャルはね〜、困ってる人を放っておかないの!」
「そういうもんかの?」
「そういうもの! 忘れちゃダメだからね、そこんとこよろよろっ!」
ぴしっと片手を掲げて、キメ顔で宣言。そのままキーボードを叩けば。
「CODE:Fire、起動っ!」
瞬間、ヒバリの背後からふわりと浮かび上がるのは二機のレギオン。
専用カスタムの証として“Type.H”の形式名を与えられたそれは、様々な攻撃手段を搭載した、戦場を翔ける小さな戦士。
「じゃ、派手にいこっか!」
主命を受けて飛び立つレギオンは、あっという間にマガツヘビを挟み込んで砲口を向け合う。
ともすれば相討ちどころか、町並みにさえ破壊を撒き散らしかねない構え。
だが――ヒバリは出来る女だ。少なくとも、それの扱いに関しては。
左耳を補う風切羽が僅かに煌めき、戦場の流れを読んで砲弾の軌道を弾き出す。
それはさながら、目には映らぬ海原越える風を、渡り鳥が容易く掴み取るように。
「よーし、やっちゃえー!!」
高らかな声に続く一瞬の閃光と衝撃。
超電磁砲から放たれた渾身の一撃が、前後からマガツヘビを貫いて爆ぜる。
「おじいちゃん!」
「任されたぞぃ!」
空から返る刑部の声。
その身を天に躍らせた古妖は、十二神将を象った姿へと変じて、剣を振り下ろす。
重い、重い一撃。呻くマガツヘビの姿が、舞い上がった土煙の中へと沈む。
その傍ら、ヒバリは目を輝かせて。
「えっ、えっ!? おじいちゃん変化もできるの!? やばっ、ちょー動画に撮りたいんですけどっ」
言うが早いか、すぐさま録画を開始する。
「ほどほどにするんじゃよ、これでも一応は企業秘密なんじゃから」
とぼけたように返す刑部――だが、その目が、ふっと鋭さを取り戻した。
「伏せいッ!」
咄嗟に叫んだ声が、ヒバリの反応を一拍早める。
煙の中から伸び上がる影。小型マガツヘビの黒く禍々しい|腕《カイナ》。
異様に長いその腕がしなり、風を裂く速度で襲いかかってくる。
強靭な筋力と悍ましい妖気を宿した一撃は、当たれば肉も骨も抉って穢すだろう。
しかし。
「ちょっと、今撮影中なのに~っ!」
悲鳴交じりに肩を竦めながら、ヒバリは反射的に手を振った。
その瞬間、空間がきらりと揺れる。
現れたのはガラス板に似た形状のバリア――Def:CLEAR。
マガツヘビの腕を真正面から受け止めたそれは、凄まじい衝撃に蜘蛛の巣状のヒビを走らせながらも、砕けることはない。
「……危なっ! でも、ギリセーフ!」
「アウト寸前じゃろが! 何を悠長に構えとるんじゃ!」
刑部の怒鳴り声と共に空気が震え、巨大な神像の姿で振るう剣が宙を薙ぐ。
霊力を含んで放たれた斬撃に浮き上がるマガツヘビ。
そこへすかさず、ヒバリのレギオンが追撃の超電磁砲を浴びせ掛ける。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
轟く断末魔の咆哮。
宵の空に溶けゆくそれを追って、邪悪な蛇の欠片は形を失っていく。
後に残るのは、僅かな焦げ臭さと、荒れて凹んだ地面だけ。
「ふぅ……ナイスファイト〜、おじいちゃん」
「ナイスじゃないわい。焦らせおってからに」
「そんなに心配してくれてたの?」
ヒバリが茶化すように顔を覗き込むと、刑部はふいと視線を逸らす。
「目の前でやられたら面倒なだけじゃ。これで貸し一つじゃぞ」
「はいはい。そういうことにしといてあげる」
くすりと笑って流すヒバリ。
けれども、まだ気は抜けない。
周囲を這い回る邪な気配が、また一つ近づいてくる。
「次もいけそ? おじいちゃん」
「……あんまり爺を当てにするでないぞ、娘御よ」
そう言いながらも構えた隠神刑部の肩には、古妖たる気迫が漲っている。
それに負けまいとヒバリが宙をなぞれば、レギオンが獲物を狩るべく、再び空を翔けていく。
夕空の下に、光の風が弾けた。
「うん、あたしでよければっ!!」
共闘に応じるエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)の声は、陽の名残と共に町へ溶けていく。
青髪を揺らしながら駆け寄って来るその姿には、古妖への恐れや躊躇いなどない。
なぜなら、それ以上に恐ろしいものが、平穏を脅かしているのだから。
(「それだけ、やっかいな敵ってことなんだよね」)
――全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし。
√妖怪百鬼夜行に伝わる古の掟を思い浮かべれば、路地の陰から災厄が“うにょん”と姿を現す。
黒く禍々しい異形、マガツヘビ――その本体から零れ落ちた欠片。
肉片やら鱗やらの僅かな一片でしかない小型マガツヘビは、ただの滓にしては重すぎる邪気を纏い、咆哮を響かせる。
凄まじい圧迫感。けれども怯むことなく、エアリィは傍らに問う。
「刑部さん、神通力で攻撃をお願いしてもいい?」
「そりゃ構わんが、お嬢ちゃんはどうする気じゃ」
「あたし? あたしは――こうするのっ!」
きらりと掲げた精霊剣。
勇ましくも、どこか儀式めいた優雅さすら滲ませて、エアリィは何事か囁きだす。
風がざわめき、六つの気配――火、水、風、土、光、闇の精霊たちが周囲に集い始める。
少女の呼びかけに応じたその存在を感じ取ってか、刑部もふっと笑みを浮かべた。
概ね、理解は出来たのだろう。青髪の少女が古狸に何を求めているのか。
「よぉし、行くぞぃ!」
刑部は腰の酒壺をぐいと傾けると、口元を拭って両掌を合わせ、印を組む。
一方のエアリィも左手に精霊銃を構え、魔力の弾丸を立て続けに乱射する。
そうして牽制を重ねる最中、続けられる詠唱は銃声の中に紛れて。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》
敵意に反応し、吼え猛る黒蛇。
己の分身たちを呼び寄せて身に纏い、より強大な禍津の相を成したそれは、嵐の如く荒れ狂う。
撃ち掛けられた礫も敵の威容に悉く慄いて逸れ、届くことはない。
だが。
「|天地《あめつち》二界の理、今ぞ我が身に通じて八百万の力を顕現せん! ――破ッ!!」
刑部の両掌が地を打つ。
神通力が奔流となって爆ぜ、近場に佇んでいた石灯篭が持ち上がる。
その巨大な質量を勢いよく叩きつけられれば、さすがの黒蛇もよろめいた。
「今じゃ!」
刑部の呼び声に応えるようにして、エアリィが跳ねる。
軽やかにして鋭く。跳躍と同時に、身体に纏った世界の原初が迸る。
「あたしに力を……!」
剣が空を裂き、疾風のように加速したエアリィは、まさに流星の如く黒蛇へと突進した。
魔力の奔流を収束させた斬撃は、マガツヘビの頑強な鱗すらも紙のように切り裂き、その身から確かな手応えを奪い取る。
「やったか!?」
刑部の声と共に、削ぎ落された黒鱗が宙に舞う。
しかし。
その蛇は、まだ動く。
裂けた皮の下、より禍々しい力が蠢くようにとぐろを巻く。
瞬間、牙を剥き出しにした黒蛇が繰り出すのは、唸りを上げる禍津ノ爪。
見た目以上に重く、鋭く、恐ろしいまでに速い一撃。
それはエアリィの魔力を糧とした防護を破り、精霊の加護たる防壁も貫いて。
最後の守りたる結界にまで――爪痕を残す。
間一髪、直撃は避けられた。
けれども、守りの大部分を貫通した衝撃は、エアリィの身体にも伝わった。
「い……」
「い?」
「い、痛ーい!! 痛いものは痛いよーーっ!!」
首を傾げた古妖まで吹っ飛ばそうかという絶叫。
そんな悲鳴すらも、戦う力に変えて。
「痛かったけど、負けないんだからっ!」
エアリィは再び加速する。
精霊たちの力を借り受けて風を裂き、マガツヘビの懐へと果敢に飛び込む。
フェイントを交え、左右に跳ぶように疾走しながら回り込み――そして、刹那。
魔力と意思の結晶が織りなす一閃が、黒蛇の核を貫いた。
衝撃の後、ひときわ大きな咆哮が響く。
災厄の片鱗は巨体を震わせて、それからゆっくりと崩れ落ちていく。
彼方にうねる黒き災厄の影。
遠目に眺めるだけでも、肌が粟立つほどに押し寄せてくる威圧感。
全身が警鐘を鳴らしていた。あれは絶対にやばいやつだ、と。
「ひええ……」
|雪月《ゆきづき》・らぴか(えええっ!私が√能力者!?・h00312)は肩を窄める。
けれども、その怯える姿は次の瞬間には一転、がらりと変わって。
「……でも、でも、あんなヤバそうなの、みんなで倒さなきゃダメだよね!」
声に宿る明確な意志と決意。
「お、おお。そうじゃのう」
乱高下するテンションに、少々面食らったような声で応じる隠神刑部。
古妖とらぴかの視線は程なくかち合い、一瞬ばかりの空白が生まれる。
「あ、あ……えっと、えっと、はじめましてっ!」
「うむ」
古妖と√能力者、相容れぬ立場ではあるが、それはそれ。
初見の二人には因縁などない。迷わず共闘の道を選び取ったらぴかの第一声に、古妖の返事は短くも肯定の響きを含む。
そして、らぴかは語る。マガツヘビという災厄を討ち祓うための作戦を。
「……なんじゃと?」
流石の刑部も、目を瞬かせる。
だが、らぴかの眼差しに迷いはない。
怯えながらでも、前に出る覚悟は――ある。
「よーし、頑張っちゃうよ!!」
軽く頬を叩いて“雪月魔杖スノームーン”を構えれば、眼前に姿を晒したのは小型のマガツヘビ。
本体から零れた滓でしかないというのに、それが纏う妖気は空気を歪ませるほどに重苦しい。
思わず息を飲む。けれど、退かない。怯まない。
「こいこい集まれ吹雪の力っ! ズバッと一発れっつごー!」
振りかざした杖を銀白の風が包む。
そのまま放つ左の直突きは、蠢く蛇に刺さって黒々とした鱗を削いだ。
しかし、マガツヘビも黙ってはいない。
吠え猛りながら同胞たちを飲み込み、より速く、より鋭く。
その禍々しい爪が宙を裂いて振るわれれば、らぴかも思わず身を引いた。
「ひええええええ!」
声を張り上げて飛び退く。だが、そのまま逃げ腰にはならない。
遠巻きに円を描くように動き、常にマガツヘビの視界に入り続けるよう立ち回る。
そう、らぴかが告げた作戦とは、己を囮にして時間を稼ぐこと。
(「その間に……お願い、狸さん!」)
祈る想いでちらりと視線を向ければ、古妖は唸りながら印を組み、溜めた力を解放すべく目を見開く。
「……今じゃ!」
刑部の掌が地を打ち、戦場の空気がびりりと震えた。
迸るのは万事を自由自在に成し得る、神の通力。
すぅ、と音もなく道端の石灯篭が浮き上がる。まるで見えない巨人が掴み取ったかのように、軽々と宙に舞ったそれは、小型マガツヘビの脳天へと叩き込まれる。
「わわっ!?」
衝撃音と蛇の悲鳴に、らぴかも驚愕を溢れさせた。
ぐらりとマガツヘビの体躯が傾く。
それはすぐさま体勢を立て直したが、憤怒に満ちた双眸は、もはや世界を正しく映してはいない。
「今のうちに畳みかけるんじゃ!」
刑部の声に背を押され、らぴかは杖をぎゅっと握り直す。
「じゃ、じゃあ……もっかい、れっつごー!!」
再び銀の吹雪が杖を包む。
地を蹴って、低く跳ねるように駆け出したらぴかは、マガツヘビの側面に滑り込む。
勢いのまま左の突きで一閃。続けざまに二撃、三撃と畳みかける。
素早く、力強く、迷いなく。
「これでっ……どうだぁ!!」
渾身の一突きがマガツヘビの鱗を砕き、その身を地へと打ち伏せれば。
「雪風強打サイクロンストレート!!」
響く決め台詞。
しかし、その猛々しさも瞬く間に萎んで、らぴかはその場にへたりと座り込む。
「ふひい、小型でこれとか……本体はめっちゃやばいよねぇ……」
「うむ。それはもう、やばいぞ」
とぼけたように応じつつも、古妖は微かに笑って続ける。
「じゃが、お主のような者がおれば、必ず討ち滅ぼせるはずじゃて」
「そ、そう? じゃあ、もっと頑張っちゃおうかな……えへへ♪」
煽てられるのは悪い気分ではない。
疲労と達成感に揺れるらぴかの笑顔は、夕空の下で希望の灯火の如く煌めいた。
はてさて、八狸塚の町中にふらりと現れたのは|語り《騙り》の社神。
「本来なら対立する古妖と一緒に戦う展開になるとはねい」
|夜白《やしろ》・|青《せい》は(語り騙りの社神・h01020)は何処か楽しげに言って扇子を弾く。
敵対する者同士が、巨悪を前に手を結ぶ。
物語としては実に王道で熱い展開。心が躍るというものだ。
とはいえ、これはただの作り話ではない。
現に今、災厄と呼ぶべき異形が目前に存在し、それを倒すために並び立つ者がいる。
青の視線は、彼方に蠢く黒影から、傍らの古妖・隠神刑部へと移る。
(「まぁ、敵とは言っても、物の見方というか立場が違うだけだしねい」)
だからこそ手を取り合うことも出来る。
そんな古妖とは異なり、迫る脅威には交渉の余地もない。
地を割るような咆哮と共に、小型のマガツヘビが姿を現す。
欠片に過ぎぬはずのそれは、本体にも劣らぬほどの禍々しさを放っていた。
「これはこれは……」
青はゆるりと扇子を閉じ、足を軽く踏み鳴らす。
瞬間、空気が僅かに揺れる。
騒めきが失せ、世界の全てが演者の一挙手一投足へと集中する。
「それでは語ろうかねい、蜃が見せる真のごとき幻を」
青の言葉に呼応して、刑部も腰の酒壺を煽り、印を組み始める。
二者の術は形こそ違えど、向かう先は同じ。
狙いは目の前の異形、小型マガツヘビの蠢きを封じること。
「かつて、神の庭を荒らした蛇ありき――」
青が御伽噺で紡ぐのは、網のように広い縄の幻影。
無数に張られたそれが何を狙ってのものかは、さすがに愚鈍の獣と言われるマガツヘビにも理解できる。捕らえられるわけにはいかない、と動くのは自明の理。
だが――。
「……せいッ!!」
隠神刑部が地を叩き、神通の力を放つ。
狸の置物へと宿ったそれは、重い音を立てて蛇を殴りつける。
その一瞬で、するりと揺れ動く縄の幻影は、マガツヘビの視界から消え去った。
――否、本当に消えたわけではなく。見え方が変わっただけ。真が偽に、偽が真に。
「さて……」
まぼろしの一つは成った。
化かして惑わす狸の後は、語りて縛る青の仕事だ。
「さあ、おはなしの続きを始めようかねい」
扇子を叩いて調子よく、騙る説話はでっちあげの大法螺なれども、ただ一つ限りの真実を含む。それは即ち、マガツヘビという災厄の終焉。
幻影の縄がうねり、黒々とした体躯に絡みつく。
「どんなに速かろうと、動けなければ意味はないねい」
微かに笑う青の前で再び刑部の神通力が炸裂すれば、理外の事態に怒り狂ったマガツヘビは内なる炎を燃やし、禍々しい尾の一撃で全てをひっくり返そうと目論む――が、しかし。
その眼には青も、刑部も映らない。狸に化かされ、世界を正しく認識できなくなったマガツヘビは只一匹、真実に気付けないまま、もはや抵抗とさえ呼べない無駄な足掻きを繰り返すばかり。
そうして、ふたつの“まぼろし”が打ち立てた舞台の上で踊る哀れな邪悪を、青は暫しの間、じぃと見つめる。
やがて、一際凄烈な炎を燃やしたマガツヘビは、嬉々として勝利の咆哮を上げた。
彼の世界の中では、尾の一撃で青も刑部も粉砕したことになっているのだろう。
けれども現実は真逆。マガツヘビの尾は縛られて微動だにせず、その身は狸の神通力によって限界に至り、崩壊を始めた。
「……さて、めでたし、めでたし――とは、まだ早いかねい?」
締めくくる言葉の最中、現れた新たな気配に青は鋭く目を向ける。
舞台の幕は当分降りそうにない。
語り部は次の章へと頁を捲り、また新たな物語を騙り始めた。
災厄が迫る八狸塚の空に、突如として響き渡る声。
「フハハハハハ!」
琥珀色の双眸を輝かせ、高らかに哄笑するそれは科学の天才にして眉目秀麗、完全無欠を自称する“魔王様”。
その名も、|皮崎《カワサキ》・帝凪《ダイナ》(Energeia・h05616)。
颯爽と現れた彼を迎えたのは――古妖・隠神刑部の、実に渋い面構えだった。
「……なんじゃ、お前」
「お前、ではない! 魔王ダイナ様だ!」
力強く言い切る帝凪に対し、刑部は重たい溜息で応じる。
「はぁ……」
帝凪の漲る自信に反比例していく妖怪のテンション。
なんだか妙な奴が来おったぞと、そんな眼差しを受けても自称魔王が気にするはずはなく。
「貴様が何者であろうと、何を思っていようと、この俺の前では些末事。だが、科学は万人に平等であり、技術は他者に活用されてこそ輝くのだ!!」
「つまり、なんじゃ」
「喜んで力を貸してやろう! 礼はいらんぞ! フハハハハ!」
「……ほんで、結局のところ何をしてくれるんじゃ? 技術がどうとか言うからにはあれか、儂らに麻雀の全自動卓でもくれるんかの?」
「麻雀? そんなもの名前しか知らん! だが、よくぞ聞いた!!」
刑部は「しまった」と顔をしかめたが、時すでに遅し。
「貴様のために持ってきたようなものだぞ! 有り難く受け取るのだな!」
帝凪が指を鳴らせば、虚空から落ちてくるのは――電磁ハンマー。
それは命中した方向へ重力を発生させ、対象を押し潰すという。
「俺の自信作の一つだ! ……ただし、欠点が一つだけある!」
「なんじゃ」
「重過ぎて俺には持てん!!」
「…………」
沈黙。数秒。
「……なんだ、なにか言いたいことがあるなら言ってみよ!」
「おぬし、あれじゃろ。実は阿呆じゃろ?」
「フハハハハハハ!!」
冷たい視線も笑い飛ばしてしまう、鋼のポジティブシンキング。
刑部の眉がぴくりと動いたが、もう呆れてツッコむ気力も湧いてこない。
「……要するに、儂に投げろというわけか」
「当然だ! 貴様の神通力で、意のままに操ってみせよ!!」
「儂、思うんじゃけど」
「なんだ!」
「自立移動とか追尾飛行とか、そういう便利な機能を何故つけなんだ?」
「これはハンマーだぞ!」
「だからなんじゃ」
「ハンマーは飛ばん! 手で握り、振るうものだ!!」
「でも、お主持てんのじゃろ?」
「フハハハハハ!!」
噛み合っているようで、どこまでもズレている。
そんな問答の最中――八狸塚の空気が禍々しく歪む。
黒き蛇影。空を裂く咆哮。
姿を現したのは、小型とはいえ、災厄そのものであるマガツヘビ。
その邪悪な気配は背筋を鋭く撫で上げ、視線を一瞬で釘付けにする。
だが、帝凪は動じない。……いや。
「まさかとは思うが、お主」
「何がまさかだ」
「動けん、とか言わんよな?」
「動けないのではない、動かないのだ!! なぜなら、俺は魔王だからな!!」
さも当然と言い放ち、召喚詠唱に集中する帝凪のそばにまた一つ、二つと電磁ハンマーが落ちる。
今の彼にはそれしか出来ないのだ。
「……まったく、近頃の若いもんは……」
毒づきながらも、刑部の掌には神通力の波が走る。
それは近場にある最も殺傷力の高い物体を探し求めて――件の電磁ハンマーへと辿り着いた。少なくとも、武器としては使えそうだと判断されたらしい。
「どれ、やってみるかの……ふんっ!!」
刑部が軽く唸りながらも鎚を持ち上げれば、その狙いを定める最中に魔王が嬉々として叫ぶ。
「重心右寄り、三十度でカーブ軌道! あと五秒で発射だ!」
「……喧しい奴じゃな」
とはいえ、口から出まかせを述べているのではない、とは思える。
隠神刑部は指先で印を結び直し、練り上げた神通力で電磁ハンマーを放り投げた。
獣の咆哮の如き唸りを上げて空を裂き、飛来する重鎚の先に居るのは、群れと一体化して動きの鋭さを増した小型マガツヘビ。
その俊敏な動きを予知したかの如く――直撃。
黒鱗が砕けて、邪悪な咆哮が迸る。
だが、電磁ハンマーの真骨頂はここから。命中した方向へ重力を生むその鎚が、マガツヘビの体躯を圧迫し、軋ませ、悲鳴すら捻り潰す。
そこに到来する第二、第三の矢――改め、鎚。
魔王と古妖からの贈り物は、ぶつかり合って破滅の鐘のごとく鳴り響きながら、敵を地に沈めていく。
「オーラス親番の大逆転、見たかったです……」
「……お、おお! そうか、わかってくれるか、儂の悔しさ!」
「もちろん! ゲームの邪魔をされるのは嫌よね、わかるわかる!」
そんな会話で以て古妖・隠神刑部と打ち解けた二人の√能力者。
片や、|不忍《shinobazu》・|ちるは《chiruha》(ちるあうと・h01839)。
片や、|クーベルメ《Kuhblume》・|レーヴェ《Loewe》(余燼の魔女・h05998)。
まるで娘――いや、それは孫と呼ぶ方が相応しいか。
ともかく理解ある二人に挟まれて、感涙に咽ぶ隠神刑部はもはや単なる好々爺。
とても傍若無人な古妖とは思えない。
(「……頭では分かってるんだけど……」)
クーベルメは笑顔を浮かべながらも、ふと考える。
朗らかな空気で言葉を交わして居られるのも、共に立ち向かうべき災厄が在る限り。
共闘、つまり同盟関係は今だけの一時的なものに過ぎず、いつかは終わってしまう。
それならいっそ、|此方《√能力者》の益となるように利用してやるべきなのだろうが、しかし。
(「もっと仲良くなれないものでしょうか」)
じぃっと刑部の目を見上げて、ちるはも思う。
一時、手を取り合うことが出来たのなら、決して分かり合えぬ相手ではないのでは。
多くの妖怪たちが人間と交わって在り方を変えたように、古妖とも――と望むのは無謀だろうか。
もちろん容易いことではないだろうが、何事も積み上げるのは地道にコツコツと。
まずは悪事の手を止めてまで共闘を訴えた古妖に、此方も誠意を見せるのだ。
そう考えたから――という打算の帰結ではなかったのだが。
しかし、刑部としては寄り添うように無念を理解してくれたことが余程嬉しかったのか。二人の娘の手を取っては幾度も頷き、遊戯が中断されたことを嘆き、それから……大きなため息を一つ吐いて、背中を丸めながら言った。
「まあ、罰が当たったのかもしれんのう」
「罰、ですか?」
「そんな悪いこと……」
してるなぁ。古妖だもんなぁ。
クーベルメは二の句に困り、先んじたちるはに後を託す。
「儂、酷いことしてしまったし」
「そんなに心当たりが?」
「ほら、安手で一局流したり……」
「……あぁ……」
それは罪深い。あまりにも罪深い、發のみ千点。
「あやつは逆転狙える二着目じゃったし、なんか打牌強めになっとったし……きっとあれじゃろな、勝負手入ってダマでテンパっとったんじゃろうなぁ……」
「それは……」
「流されたら怒るじゃろ? それで自分が同じような目に遭って文句を言うのものぅ」
「……でも、刑部さん」
努めて理解を示すように、ちるはは続ける。
「同卓の方が何かするのならまだしも、マガツヘビは何の関係も無くはないですか?」
「それは……そう、じゃのう」
確かに。ちるはの言う通りだ――と、思えば沸き上がる怒り。
「やっぱり|あいつ《マガツヘビ》居らなんだら儂の大逆転勝利だった訳じゃな!」
そうだ、とは言い難い。
言い難いが、一戦控えているところで落ち込まれるよりは良い。
「オーラスの仇、取りましょう。こつこつ削って八連荘、です」
「おお!」
「……良い感じでまとまったようね!」
成り行きを見守っていたクーベルメが宣えば、刑部は威勢よく十二神将の姿に巨大変化して構えた。
それと合わせるようにして姿を現す小型マガツヘビ。
どうやら一匹ではない。刑部と√能力者が肩を並べていると察して、あちらも群れを成したか。
「でも、かえって都合がいいわね!」
一網打尽にしてやれる。その為の手段もある。
「航空攻撃に巻き込まれないよう注意してね!」
呼びかけるや否や、空を制すクーベルメの部隊が下した天罰は鉛玉と爆炎の雨。
邪悪な|腕《カイナ》も届かぬところからのそれに、地を這う蛇は悶えながらも逃れようとするが。
すかさず射線を交差させたのは、ちるはに随伴する砲台。
先程までとは一転、スンと真顔で口を結んだまま行われる掃討支援は冷徹無比。
淡々と追いやられていく蛇たちは、一所に集まって速さを鋭さを増した巨大な一匹に変じようとするも――其処に怒りを振り下ろすのは神像と化した隠神刑部。
クーベルメの航空部隊が落とした補給物資から|酒《アルコール》を拝借して呷り、気合をつけて繰り出される大剣の一振りに、蛇は再び散り散りとなる。
その一瞬を、二人の√能力者も確りと狙っていた。
「今よ、チャンス!」
猛るクーベルメに応じて高度を下げ、航空部隊が小型マガツヘビに融合していく。
肉体を乗っ取るに等しいその行為がもたらすのは反応の低下。そして内なる異物に抗わざるを得ず、速度を大きく落としたマガツヘビたちを纏めて捻じ伏せるのは、ちるはの|不忍術 伍之型《シノバズノゴ》。
敵のお株を奪うように地を滑り、放つ嵐の如き蹴撃はマガツヘビの“滓”でしかないものたちを擦り潰して。
「ロンじゃ!!」
刑部、怒りの一撃。
大神像として放つ役満級の破壊力の前に、まず一つ目の仇は討ち果たされた。
爆音と土煙。それは裏通りを突き抜ける頼もしき風。
「八狸塚にやーっとお仕事でこれったてのに……」
|華応《かおう》・彩果|《さいか》(報酬応相談速い安い安全何も聞きません!運搬は華応堂へ!・h06390)は溜息一つ吐いてから、喉まで出かかった悪態を押し込める。
相棒たるライダー・ヴィークルのタンデムシートには道中で拾った小狸が一匹。
明らかに戦力外のそれを、袖すり合うも他生の縁と助けたからには、あれこれと愚痴っていてもしょうがない。
「まずは人命……? 妖命? まあどっちでも。救えるものは救わなきゃね?」
言い聞かせるように呟いてスロットル全開。狭い道も巧みなコーナリングで抜けていく。
スピードを落とすわけにはいかない。
振り返れば――地を滑るように迫り来る、禍々しく邪悪な影。
恐ろしい。どうにもならないという相手ではないが、しかし切った張ったを得意とする身でも無し。
ならばと機動力を活かしての避難活動。適材適所だ。
それは彩果に限った話でもなく。
『本作戦の目標はマガツヘビ本体と眷属の撃退および民間人の保護』
喋る人力車の付喪神。
もとい、サイボーグの|ボーア《Vore》・|シー《C》(ValiantOnemanREbelCyborg・h06389)は任務の確認を終えて、持ち場に着く。
『目標地点に到達。作戦を開始します。自身の戦闘能力を考慮し、民間人の保護を優先します』
言うが早いか、一悶着あったらしい家屋の名残から、衝立を量産して並べていく。
熟知していると言えるほど単純な構造であれば、手際は常人のほぼ二十分の一。
そうして、敵の進撃を遅らせる工作に勤しんだり、場に溶け込んで現地民の警戒を解くべくボディを人力車に模してきたりと、裏方の心遣いが垣間見えるのは搭載された機能ゆえか、はたまた唯一の生体部品たる脳の生来の性質なのか。
問う者もいなければ語ることもない。ただ黙々と時間稼ぎの創作に勤しむ。
そんなボーアのもとへと、徐々に近づいてくる爆音。
“初めて聞く音ではない”から警戒する必要はない。それでも手を止め、車輪を動かしてその場を離れていけば、荷台に二人ほど乗せたところで騒がしさの主と合流。
「取りこぼしはないよね!?」
『ありません』
端的なやりとりの合間に救助者を受け渡す。
輸送は彩果に任せても叶うだろう。ならば――。
『盾になります』
「は!?」
驚愕しても問う暇はない。
スピードを落とすわけにはいかない。
そうして遠ざかっていく大型バイクを背に、ボーアは再びバリケードの作成に戻って時間を稼ぐ。最終的には、己を擲つことさえ辞さない構えで。
「……民間人は守らなきゃな」
仄かに発露する人間性。
それはマガツヘビにとって無価値だが、しかし脅威ではある。
――後方で轟音が響いた。
マガツヘビが暴れているのだ。家屋を砕き、地を抉り、壁となるものを悉く壊して。
そこから遠ざかっていくことに何も思わないわけではないが、しかし。
まだスピードを落とすわけにはいかない。
せめて拾い上げたものたちを、安心できるところに届けるまでは、と。
そう思いながら走り続けること暫く。
並走するようにして現れたのは――蛇でなく、狸印の二輪車たち。
「刑部サンのお仲間ね!?」
張り上げた声に肯定が示され、預かっていた命が次々に引き取られていく。
手伝いを頼んでおいて正解だった。
後は――。
「かかる火の粉くらいは振り払っておかないとね……!」
スライドしながらブレーキをかけて反転。
彩果はそのまま乗機を蹴りつけるようにして跳び上がり、流星の如く落ちる。
不意を突かれたマガツヘビの身体が半ばから折れて、砕けた。
案外、脆い。必死に逃げるまででもなかったか? いやいや、まさか。
「倒せるだけ倒してはおきたいけど……」
どこまでやれるだろうか。
再び相棒へと跨った彩果に、禍々しい気配は妖の黒火を称えながら近づいていた。
その足音は静かに、けれど確かに、八狸塚の路地に響いた。
「親番の仇と聞けば――捨て置くわけにはいきません」
詠うように囁き、柔らかく微笑む女が一人。
黒髪を覆う白の被衣、その下には艶やかな紅と深藍の装束。
「これも妖怪の掟、親番が不慮の事故で流れた者にはよくしてやれと……お爺さまが、言っていたような気がします」
微かに響く鈴の音と合わせて、妖しげな気配が揺蕩う。
そうして、女――|九段坂《くだんざか》・いずも(洒々落々・h04626)は一転、茶目っ気たっぷりに。
「なんちゃって❤︎」
片目を瞑って宣えば、古妖もまたニィと悪戯な笑みで応じた。
「そりゃあ話の解る爺じゃ。もしや儂の知り合いだったりせんかの」
「かもしれませんね。――隠神刑部さん?」
冗談を交わす最中に、ふと鋭さを増す視線。
いずもと刑部の邂逅は、これが初めてではない。
「いつだかはお世話になりましたね」
「はて、お主のような器量よしを世話したことなどあったかのぅ」
「うふふ、またまた……」
すっとぼけているのか、どうなのか。
真実は狸の腹の中。それが白であれ黒であれ、これから一時、手を結ぶことに変わりはなく。
「まさか共闘なんて考えもしませんでしたが……」
「そうじゃな。しかし、背に腹は代えられぬ」
――全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし。
古より伝わる掟の前では全てが些事。むしろ、これを好機と捉えて。
「歴戦の古妖の戦いぶり、間近で確と見させていただきますね」
「それは張り切らんわけにもいかんのぅ。……儂も見せてもらいたいものじゃが」
「何をですか?」
「とぼけるんじゃないわい。“そんなもの”担いどいて」
刑部の――古妖の目が、いずもの背負い太刀を見据える。
くすりと、笑みが唇を彩った。
それも束の間、現れたのは黒く蠢く異形。
本体から零れ落ちた欠片、小型のマガツヘビ。
咆哮が大気を震わせると同時に、いずもは足を一歩引いた。
だが、それは退却の動きではない。刹那に呼吸を整え、眼差しに一閃の鋭さが宿る。
「一切衆生のため、お役目、全うさせていただきますね?」
囁きに世界すらも息を潜めて。
飛びかかる黒蛇。咆哮と共に叩きつけられる禍々しい爪。
それを紙一重で受け流す刃。
微細な足さばきと腰の捻り、妖刀が放つ独特の気配が空間を斬り裂き、敵の軌道を逸らす。
そこからの流れは淀みない。
抜いた刹那に終わる、それが九段坂の剣。刃が閃き、マガツヘビの胴を裂く。
「…………?」
手応えはあった。けれども、断ち切れてはいない。
悪蛇に揺らめく妖の火。黒き命の灯火は、因果を先送りにしてまで他者の破滅を願う呪いの焔。
「化け物じゃの」
「あなたが言います?」
「抜かせ」
その貌の下にどれほどのものを秘しているのか。
探る気はない。けれども解ってはいるのだぞ、と。
そう言わんばかりの眼差しを向けた刑部が呪符を千切る。途端に眼前の空間が歪み、煙の中から姿を現したのは刑部配下の化け狸たち。
それは一瞬にして姿を変える。
「あら……なんだか、わたくしに――」
似ているような気が、と指摘する暇さえも与えないように、化け狸たちは次々に太刀を抜き放つ。
「暫し耐えよ。さすれば……」
「ええ。ならば、わたくしが合わせましょう」
八狸塚を囲む山の向こうに陽が沈んでいく頃合い。
誰そ彼時。紛れるにはうってつけの時間。
「さて……どれが本物のわたくしか」
矮小なる頭脳でも見破れるものならば、どうぞ。
その言葉を合図に、いずもと、彼女と似た姿の化け狸たちが一斉に踏み込んだ。
紅と藍が翻る。虚と実が入り混じる。
乱戦。どの斬撃が本物か、どの動きが偽物か。
見極めようとする最中にも刃は煌めく。
それでも、マガツヘビは堪えた。
咆哮を上げ、黒蛇の身をくねらせ、押し寄せる敵意に耐えた。
――六十秒。
一瞬のように短く、永遠のように長い時間。
地獄と等しい時の流れを経て、荒ぶる咆哮と共にマガツヘビが巨大な尾を振りぬく。
視界に捉えた『いずも』を叩き伏せるため。
しかし。
炸裂した一撃は、影法師を打ち払ったに過ぎなかった。
本物は真逆。哀れな背を見て笑い、音もなく斬る。
気づいた時には遅い。太刀は鞘へと戻り、女は密やかに佇むばかり。
「……おっかないのぅ」
呟いた刑部が手を合わせる。
悼むつもりはないが、しかしそうしたくなるほどに、哀れ。
刻限に至ったマガツヘビの身体は真っ二つに切り裂かれて、断面から噴き出した黒い霧の中に沈んでいく。
第2章 ボス戦 『マガツヘビ』

陽が沈み、夜が来る。
八狸塚の住人たちは一先ず災厄から逃れた。
後に残るのは深い井戸の底のような気配。
冷たく、暗く、恐ろしく、何もかもを飲み乾してしまいそうな――。
「……ここからが本番じゃな」
隠神刑部の呟きが静寂に染みて、遠くで何かが崩れる音がした。
瓦が砕け、壁がひしゃげ、地面が軋む。
見上げる程の強烈な“圧”が世界を轢き潰していく。
忌まわしき愚鈍の獣。無限の妖力と矮小なる頭脳の持ち主。
黄泉返りし強大な古妖・マガツヘビ。
それを目の当たりにした者は本能で感じるだろう。
とても適う相手ではない。立ち向かえる相手ではない、と。
だが――。
「全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし。……いや」
刑部は酒を呷り、一歩進み出る。
「妖だろうと人だろうと、何者であろうと区別なく。“全て”を以て立ち向かうのじゃ」
ただそれだけが、|世界《√》に遍く破壊を齎す災厄への対抗手段。
なればこそ、自身もまた“ひとかけら”に過ぎない刑部は、√能力者たちに呼びかける。
「――本気で参るぞ。お主ら、もう一局つきおうてくれるよな?」
===============================
引き続き、隠神刑部と共闘します。
力を合わせ、あらゆる能力や作戦を駆使し、マガツヘビを撃退しましょう。
刑部の√能力や、その使用については前章と同じです。
===============================
敵が強大であればあるほど、恐怖もまた大きくなる。
「ひええええ!」
らぴかは腰が抜けそうなほど慄き、“雪月魔杖スノームーン”で地面をついた。
――ヤバい。これはほんとにヤバい。
禍々しく濁った空気が頬を撫でていく。
黒く蠢く影が大地を蹂躙するたびに、泣き叫ぶような音が響く。
その中心に在るのが忌まわしき愚鈍の獣。
黄泉返りし災厄、マガツヘビ。
「こんなヤバいのとやりあえるって――テンション上がるかもっ!」
涙が零れそうなくらい揺れていたピンクの瞳が、一転して闇を切り裂くように煌めく。
「うひょー! 燃えてきたー!!」
叫びとともに杖を掲げる。
急落から一瞬で暴騰するらぴかの情緒は、もはやジェットコースターの如し。
「……だいじょぶかのぅ……」
傍らに立つ古妖・隠神刑部が心底不安そうに呟く。
ともすれば孫を案じるようなそれに、らぴかはまたこそこそと耳打ちをした。
戦術の共有だ。終わればひとつ、深呼吸を挟んで。
「蛇退治っ、やっちゃうよー!!」
裂帛の気合と共に、らぴかはマガツヘビへと向かっていく。
恐怖など忘れ去ったかのように猛然と駆けて、まずは一発。
「とりゃあーっ!!」
勢いよく振り抜いた魔杖、その先端に拵えた球体が蛇の腕を打つ。
漆黒の鱗に白い亀裂が走り、花弁が砕けるようにして舞った欠片が消えていく。
だが――それはマガツヘビにとって、人間が羽虫に腕を刺されたくらいのもの。
生まれるのはごく僅かな違和感と、猛烈な苛立ちだけ。
「糞が!!!」
邪悪の怒声が響く。
蛇の腕が天を裂くように振り上がり――。
「やらせんぞ!」
それより一瞬早く、刑部が動いた。
小さな小さな神像に化けた古妖は、手にした剣でマガツヘビの掌を突く。
痛みなどあってないようなものだ。
けれども、そんな小馬鹿にしたような攻撃だからこそ、許せるはずはなく。
「邪魔すんじゃねぇ!!! 糞が!!! 糞糞糞が!!!」
荒ぶるマガツヘビの視線と怒りの矛先は刑部に移る。
その隙を、らぴかは見逃さない。
「くらえーっ!」
間合いを大きく取りながら杖振って、飛ばすのは身の内から湧き出る“れいき”。
霊と冷、二つを強く含んで交じり合う気が、マガツヘビの腕に纏わりつく。
仄かに白く煙る霊雪は、冷や水を浴びせるようにして気勢を削いだ。
そこへ、さらなる杖の一撃!
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
怒り狂ったマガツヘビが叫ぶ。
「ちょろちょろちょろちょろとうぜえ!!! 糞うぜえ!!! 糞共が!!! 纏めて叩き潰してやる!!!」
咆哮と共に振り上げられる|腕《カイナ》。
もはや狙いを定めることすらないそれは、マガツヘビの眼前を砕き、大地を呪う。
「ひええええっ!」
さすがにらぴかも全力で逃げた。土煙を蹴立て、瘴気を抜けるように走る。
けれども、その最中にふと振り向いて。
「やーい、矮小なる頭脳ー! ……えーっと、低俗ー! 愚昧ー! 卑劣ー!」
「……なんだかわからねぇが俺をバカにしただろ、テメェ!!」
曲がりなりにも大学生の身分であった女子の大きな罵声に対して、長きにわたり封印されていたマガツヘビのおつむは察して余りあるほどに悲惨。
浴びせられた言葉と“れいき”を、完全には理解できないまま挑発と感じて吼え猛る。
それから猛然とらぴかを追っていけば……禍々しい巨体は、自らの腕で呪った“霊的汚染地帯”を瞬く間に踏み越えて。
刹那、潜んでいた刑部が再び身を翻して、マガツヘビをぶすりと刺す。
「――痛ってええええええええ!!」
今度は場所が悪かったのか、悶える蛇の巨体がぐわんと揺れた。
「きたきた繋がるコンボチャンス!」
見出した絶好機。らぴかの魔杖にピンク色の氷刃が咲く。
暗夜の下に掲げたそれは、さながら夜桜の如く鮮やかに。
「まず、ひとつ!」
斬撃がマガツヘビの黒鱗を裂く。
そして間髪を入れずに、両腕で“元気”いっぱいに握りしめた杖を振りかぶれば。
「もういっちょぉ!」
大上段からの斬り下ろしが邪悪を深々と抉るが、それもまだ序の口。
氷刃が形を変えて槍の姿を作る。
鋭く、長く、さらに傷口を奥深くまで貫くそれを突き刺して――。
「からの、れいきーっ!」
凝縮された“霊力”に身体を侵されたマガツヘビが、寒さで震えるように悶える。
しかし、らぴかの情緒のように激しい攻撃はまだまだ終わらない。
魔杖がまた姿を変える――今度は鎌だ。魂を斬り裂く、鋭く湾曲した氷鎌。
「刈り取っちゃうよっ!」
疾風のような横薙ぎが禍々しい蛇の腕を斬りつける。
その凄まじい切れ味と刃の煌めきが与える“恐怖”に、マガツヘビは声すら失って怯んだ。
あと一押し。ここまで来たら、勢いに任せて攻め切るしかない。
魔杖が巨大な氷の斧へと変じる。
らぴかはそれを高く掲げ、敵の傷から覗く底知れぬ闇を見据える。
――全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし。
それが妖の世界に掟として残る理由が、視線の先からひしひしと伝わってくる。
なればこそ、全力で振り下ろすのだ。
邪悪を断ち切るために――!
「これで、おしまいだよっ!!」
炸裂する断斧の一撃。
天をも貫くほどの咆哮が響き、マガツヘビがのたうち回る。
それに巻き込まれぬようにと遠ざかれば、近づいてくるのは小さな神像。
「変形連鎖トランスチェイン! ……決まったね☆」
杖を左手で振って宣えば、元の姿に戻った刑部も親指を立てて応じた。
まだ、少し頬が熱い。
迂闊だった。風に煽られた裾が翻り――その奥を見られてしまった。
けれど、この場に“星乃”の装いで出向くと決めたのは、他でもない自分自身。
配慮が裏目に出たことで、誰を咎められるわけでもないのだ。
ならば、旅の恥は搔き捨てとでも考え、頭の隅へと追いやって。
「……狸さん。雪や氷、冷気を操れる姿になれますか?」
「冷気じゃと?」
隠神刑部がきょとんとした目を向ける。
視線を合わせてから言葉を切り出すまで、星乃に若干の逡巡があったことは――理由に察しがつくので、|古妖《おとな》として見ないふり。
「どういうことじゃ?」
「あれがマガツ“ヘビ”と名乗るなら、蛇の性質に引きずられる部分があるのではと」
「……成程」
ふむ、と刑部は渋く頷いた。
仮に見立ての通りならそれで良し。そうでなくとも、敵を知る一端にはなる。
「やってみる価値はありそうじゃな」
「はい。あとは、お酒や煙草のヤニも効きそうだと思うのですが……私、まだ15なので……」
「十五! はぁ~……若いとは思うとったが……」
目を丸くした古狸が、しげしげと星乃の顔を見て唸る。
「……あ、あの……」
あまり見つめられると、また顔が真っ赤になってしまいそうだ。
星乃は手で視線を遮るようにしながら、さらに作戦を詰めるべく案を述べる。
そうして諸々のすり合わせを終えれば、いよいよ蛇狩りの時。
「私の願いが輝き煌めく結晶となる――未来示す道標となれ!」
星乃の周囲で微かに光の粒子が煌めく。
竜宮殿の血筋に由来する竜召喚術。
此度、喚び寄せるのは――。
「彩氷竜、顕現! 舞い上がれ、ダイヤモンドダスト・ドラゴン!!」
裂帛の叫びに応じて現れるのは、美しき蒼白金の竜。
それは氷と光を司り、ただ其処に在るだけで世界が透き通るように冷えていく。
邪悪な妖気で一面を穢すマガツヘビとは、まさに対極の存在のようだが。
「蛇に負ける竜は居ないと証明しましょう!」
号令一下、ドラゴンの咆哮とともに凍り付いた空気が砕けて散り、無数の光粒が星の如く煌めきながらマガツヘビへと降り注ぐ。
だが、それは美しいだけのものではない。
一つ一つの礫が鋭利な刃と化した、氷の息吹“フリージング・タキオン”。
「|峨旺旺旺!!!《GAAAAAA!!!!!!》」
竜の猛撃に鈍重な巨体が揺れる。
黒鱗が軋み、霜が表面に貼りつくように広がっていく。
そこに――もうひとつの冷気が加わった。
「この装いであれば……今のわたくしは、まさに極寒の体現者でしてよ」
「え……ええっ!?」
驚く星乃の視線の先、艶やかに立つそれは刑部の化けた雪女。
白い肌に黒い髪。目を奪われるほどに美しく、視線を逸らせなくなるほどに妖しく。
その手から舞う淡い雪煙は、瞬く間に凄まじい吹雪となってマガツヘビを襲うが――。
(「な、なな、なんでそんな着崩してるんですか……!」)
靡く雪女刑部の着物は|開《はだ》けて、肩から鎖骨まで、文字通り雪のような肌が露わに。丈も随分と短く、星乃のワンピースなど比較にもならないほど。
同性の目から見ても何だか恥ず――いや、そもそも刑部は女性ですらない!
(「もう……もう、狸さんったら!」)
なんだか良く分からないまま心の内で抗議する星乃。
けれど、刑部から目を逸らしても氷の連撃は緩めない。
竜の息吹と狸の吹雪。
重なる二つの力は、マガツヘビを激しく攻め立てて――。
「|旺旺旺旺旺乱悪悪悪悪!!《OOOOORAAAAAAA!!!!》
怒り狂ったマガツヘビが腕を振るう。
動きは幾らか鈍っても、その質量は絶対。
叩きつけられた掌に大地が抉り取られて、穢れた土が“霊的汚染地帯”を作り出す。
邪悪に染まった地はマガツヘビを優位にするものだ。
星乃はすぐさまドラゴンと共に汚染地帯の外へと抜け出した――が、刑部の方は一歩出遅れた。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
猛るマガツヘビが剛腕で薙ぐ。
町並みも一纏めに破壊していくそれは、刑部を捉えて吹き飛ばす。
「……ぬおっ!」
「狸さんっ!」
すぐさま竜の翼を翻して後を追う。
土砂と瓦礫に埋め込まれるような形で居た刑部は、変化の術で自由を得て逃れるが、手痛い一撃を受けた身体の消耗は否めない。
「そのまま、少しだけじっとしていてください」
星乃は刑部を制しつつ、ドラゴンに治癒を促す。
柔らかな羽ばたき、煌めく白銀の光。
淡雪に包まれるような優しい祝福は、刑部の傷を塞ぎ、痛みを和らげていく。
「……助かったわい」
「いえ、助け合いは当然のことですから」
マガツヘビを討ち果たすという目的のために結ばれた共闘関係。
たとえ一時のものであっても、今の隠神刑部は仲間だ。
「しかし、助けられて終わりとはいかんの!」
古妖にも矜持がある。それを見せつけてやるとばかりに、再び雪女に変じた刑部が放つのは先の攻撃を上回る猛吹雪。
「ゆくぞ、お嬢ちゃん。もう一度じゃ!」
「はい! 私たちも行きましょう、ダイヤモンドダスト・ドラゴン!」
喚び声に応じた蒼白金の竜が空を駆ける。
宙に煌めく身体は戦意で震え、輝く氷の息吹が刑部の雪と交じり合う。
「喰らえぃ! 天地震わす我らが冷酷なる――」
「白光の如き氷霜の息吹! 竜の――いえ、妖と竜の力、その身で味わいなさい!」
凄烈に迸る凍気。
マガツヘビが上げた苦悶の咆哮すらも凍てつかせるようなそれは、八狸塚に漂う禍々しい気配すらも祓い、浄めていく。
大地が鳴く。
禍々しい瘴気が戦場を覆い尽くしていく。
その中心に――忌まわしき愚鈍の獣、マガツヘビの本体が蠢く。
そして、もうひとつ。
迫る邪悪と呼応するように、古妖・隠神刑部の気配も鋭く研ぎ澄まされていく。
「……本気、だね。うん、わかった!」
エアリィは刑部の前に立ち、大きな瞳で真っ直ぐに見つめて言う。
「刑部さん」
「なんじゃ」
「あたしに60秒の時間をちょうだい」
「時間を稼げということか」
「うん。それに見合うだけの結果は出してみせるから」
少女の声に満ちる静かな決意。
隠神刑部は僅かに沈黙した後、ひとつ息を吐いてから頷く。
「よかろう。お主の覚悟、儂が買うたぞ」
言うが早いか、刑部は呪符を手に何事か呟く。
その瞬間、地から跳ね出るように現れたのは無数の化け狸。
「六十秒。如何なる手段を使っても稼いでみせよう――ほれ、いくぞ!」
ぱん、と刑部が手を打つ。
それを合図に化け狸たちは刑部と似た姿を取り、マガツヘビへと駆けていくが――。
「刑部さん!」
「今度はなんじゃ!」
「3体だけ、ここに残してもらっていい?」
「お主がそうしろというのなら!」
賭けると決めたらとことんまで。
刑部の指示に応じて、三匹の偽刑部がエアリィの傍に立つ。
「ありがとう。それじゃ……やるよ!」
右手に握る精霊銃を敵へと向けて、牽制射撃を撃ち掛けながら。
始まるのは、六界の使者との対話。
火、水、風、土、光、闇――六芒の魔法陣のもと、集う精霊たちの力を十全に借り受けなければ、エアリィの目論見は果たせない。
無論、そのような状況とは関わりなしに戦場は動く。
マガツヘビは襲い来る化け狸たちに咆哮を浴びせて、そのまま塒を巻くと黒き火を尾に宿した。
「……腐れ蛇め。貴様も同じ構えか」
力を溜めて一気に放つ。
奇しくもエアリィと同じ狙いのもと、マガツヘビも暫しを耐え抜く姿勢に入る。
その最中、刑部に変じた化け狸たちが各々攻撃を仕掛けるが、災厄の巨体はびくともしない。
鉄壁――いや、興奮が痛みを遠ざけるように、今のマガツヘビはあらゆる攻撃を攻撃と感じないのだ。
そして、時は満ちる。
「――突撃っ!!」
エアリィは叫ぶやいなや、守りについていた三体の偽刑部を伴ってマガツヘビに迫る。
六属性の力は臨界点に達して、解き放たれる寸前。
だが、マガツヘビも咆哮と共に尾を振りかざす。
瘴気が爆ぜ、空と大地が悲鳴を上げた。
黒炎と化した妖の火を揺らめかせて、狙うはエアリィ。
強大な力の気配を感じ取り、それが放たれる前に潰そうというのだろう。
ならば、逃れるべきか。――いや、引き下がっては溜めた力も失ってしまう。
賭けるしかない。
「――っ!」
三体の化け狸たちが前に出る。
偽刑部だったそれは手を取り合って巨大な壁に変じ、マガツヘビの凄烈な尾を受け止め、砕かれる。
「ごめんっ……でも、これで決めるから!」
風が巻き起こる。精霊たちが囁く。
エアリィは討つべき敵を見据えて、一気に解き放つ。
「あたしの限界を超えた一撃を――もってけぇぇええええっ!!」
光の奔流となって撃ち出される六属性の魔力。
|六芒星精霊収束砲・零式《ヘキサドライブ・エレメンタル・ブラスト・ゼロ》。
極限の魔砲が、マガツヘビを貫く。
先に力を振るったそれは苦痛に喚きながら、巨躯を捩って悶絶した。
継戦を望む刑部の言葉を鼻で笑って、悠斗は吼える。
「あったりめーだろーが! こっからが本番だッ!」
戦場に響き渡る闘志。
金の瞳が見据えるのは、マガツヘビ本体の首、ただ一つ。
それが放つ邪気は、先の小型のそれとは比べ物にならないほど。
だが、程度の差があっても手の内は既に知った。
「タヌキジジイ! さっき、敵に狸の置物を俺だと誤認させてただろ? アレ、応用できねぇか?」
「……何を思いついたんじゃ」
「置物でもアンタの子分でも何でもいい。使えるものを全部、俺に見せかけてくれ。それが出来りゃ、だいぶ動きやすくなる」
「お主を楽させるために身を切れとな?」
「っ、そうはいってねぇだろうが!」
「冗談じゃよ」
ニヤリと笑って、刑部は続けた。
「阿呆を化かすのは儂の十八番じゃ、やってみせよう。お主も気張れよ、小僧」
そのまま呪符を取り出して念じ、術を走らせる。
即座に現れた無数の化け狸たちは、指示に応じて全て“葦原・悠斗”の姿へと変わった。……同じ顔がずらりと並んでいる様は、些か不気味な気さえするが。
「よし、行くぜ!」
ひとつ気合を入れて駆け出せば、化け狸たちも後を追って走り出す。
音もなく八狸塚の路地を巡り、低く構えながら邪気の合間に紛れ込んで。
(「……狙うなら目か、腹か……薄めの鱗の下の皮膚か。とにかく柔らけぇとこだ」)
思案しつつも間合いを詰めていく。
やがて、幾つもの“偽悠斗”の一つが先陣を切り、マガツヘビの腕に刃を突き立てた。
巨体が揺らぎ、呻き声が漏れる――というような、ありふれた反応は返らない。
沈黙。それが意味するところを、悠斗は知り得ている。
「ノータリンの蛇野郎が燻ってるうちに、一発でも多く浴びせとけ!!」
今は痛みに悶えなくとも、時が来れば必ず苦しみを味わうことになる。
黒蛇を滅びから遠ざけている妖の火。
それが一際、燃え盛る時こそが――。
「テメェの最期だッ!」
一時的に超強化された瞬発力を武器として、悠斗はハチェットを勢い任せに振るう。
皮膚を突き破って抉り、腹をこれでもかと言うほど切り刻み、猛然とマガツヘビの巨躯を駆け上って、血と同じ色に染まった目を刺し貫く。
一撃加えた後にはすぐさま離脱。或いは斬りかかると見せかけるだけで化け狸と入れ替わり、真の悠斗が何れなのかと悩むであろう敵に、決して的を絞らせない。
「テメェの弱点はなぁ、もうとっくにバレてんだよ!」
「――|峨旺旺旺!《GAOOOOOO!!》」
苛立ち交じりの咆哮。
巨体が震える。マガツヘビの尾がうねり、その先に宿した焔が激しく燃え盛る。
力を溜め切ったのだ。
だが、それを打ち下ろすべき相手は――どれなのか。
「糞!!! 糞糞糞糞糞が!!!」
怒りを露わにしたところで状況は変わらない。
裁きの一撃そのものを無とする訳にはいかず、マガツヘビは尾を振り下ろす。
それは幾つかの葦原・悠斗を捉えたが、その中に本物はいない。
「気は済んだか? 済んだなら――ブッ潰れろッ!!」
真なる悠斗の刃がマガツヘビの腹へと突き立てられる。
刹那、それを合図としたかのように、この六十秒の間で刻まれ穿たれた全ての傷から、黒い霧のようなものが噴出した。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
禍々しい巨躯が跳ね上がり、のたうち回る。
そうして押し寄せる苦しみに悶えるマガツヘビの姿を、悠斗は「ざまあみろ」とばかりに冷たい金瞳で見据えていた。
いつ如何なる|世界《√》であっても、挨拶は肝心。
「好きな言葉は|立直一発ツモ《パッツモ》裏3、シンシアよ」
よろしくね、と差し出された手を、古妖・隠神刑部はそっと握る。
やはり雀士に悪い人はいない。……人というか、妖だけれど。
細かいことはいいのだ。
シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)の言を受けて、刑部はニヤリと口元を歪めながら答えた。
「好きな言葉は|純全《ジュンチャン》三色一盃口じゃ。よろしく頼むぞ」
そうして、牌を知る者だけに通じ合う挨拶を交わした後。
「うわぁ……ずいぶんと、賑やかに巻きつけてるのね」
シルバーグリーンの瞳が、巨大なマガツヘビを取り巻く小蛇の群れを見やった。
まるで瘴気そのものが蠢いているような、嫌な質感。
けれど、シンシアは顔をしかめることなく、むしろ困ったように肩を竦める。
「少しなら耐えられそうだけど……全部の相手をするのは、流石にしんどいわね」
「そうじゃのう」
「刑部さん」
「なんじゃ?」
気安い態度で古狸は次を促す。
その軽やかさに、シンシアは微笑みながら言った。
「接近戦はちょっと苦手なの。なるべく向こうの注意を逸らしてもらえるかしら?」
「ふむ……」
「筋引っかけくらいでいいのだけれど」
「なんじゃ、そんな小手先の技でええんかの」
刑部が口の端を吊り上げる。
瞬間、空気が歪み、厳かな気が霧のように巻き上がった。
それは神にも通ずる力。
「どのくらいの時間が必要かの。半荘くらいか?」
「二局分くらいで充分よ」
「ほう……ならば、お手並み拝見といこうかの」
言うが早いか、刑部は敵に向かいながら、近場にあるものを操って次々と投じる。
その対応に追われているうちは、マガツヘビも大胆に動くことはできないだろう。
「よし……これで落ち着いて詠唱できるわね」
シンシアは魔導書を開く。
古代の叡智と呪文が書き記されたその一行を、指先でなぞるようにして。
呟き始めた言葉は、雪崩の如き高速詠唱。
けれど、どれだけ急いても乱れぬのが魔術師の御業。
麻雀の役を連ねるよりも難解な言葉を、すらすらと述べる様は正しく立て板に水。
そうして願うのは、天。
空が瞬く。輝きが集う。
それは星。それは導き。|世界《√》を放浪する淑女の道標。
静かに降り注ぐ。未だ単なる煌めきにすぎないものを、変える一言は。
「――光あれ」
それが引き金だった。
空が裂ける。無数の流星が、天より降り注ぐ。
邪悪な闇を切り裂き照らす“|Stellanova《ステラノヴァ》”。
魔法の星雨は、一粒で一匹の小蛇を剥ぎ取っていく。
「これだけ撃てば……そのうち届くでしょう?」
声の裏には確信めいた響き。
乱舞する光の雨は、間もなくマガツヘビの本体にまで届く。
「|――峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
断末魔とまではいかない。
しかし、確かにそれは、災厄にとって“無視できぬ痛み”だった。
マガツヘビは身を捩り、のたうち回って苦痛に呻く。
その様子を魔導書を開いたままで見守っていれば。
「やるのぅ」
一仕事終えた刑部が感心するように唸った。
「あれだけ降らせれば充分かの?」
「まさか」
一度和了ったくらいで、はい終わり、なんてことがあるはずもない。
「親番には無限の可能性があるのよ? このまま畳みかけて目指しましょう、八連荘!」
「そりゃあ、大きくでたのぅ!」
刑部は楽しげな笑いを響かせる。
だが、二人は本気だ。
マガツヘビが箱下に沈むまで、魔術と妖術は止めどなく炸裂するだろう。
『本体の襲来を検知。これより迎撃に加わ――』
「あのう、そこの方」
マガツヘビ本体へ向かおうとするボーアを、柔らかな声が呼び止めた。
彩果も大型バイクに跨ったまま、声の主へと視線を向ける。
そこにいたのは、一人の女。
どことなく優雅な佇まい。まるで人力車でも待っているかのような様子に、彩果は眉をひそめる。
だが――連れ立って行こうとした仲間は、随分と調子よく返した。
「ん? べっぴんさん、俺たちの手を借りたいって?」
「ええ。その……そちらの方の素敵なバイク、ちょっと乗せていただけませんか?」
「いいぜ」
即答。
あまりにも自然な反応に彩果は目を丸くしたが、そもそも、女――いずもが指している“バイク”はボーアのものではない。
ないが、しかしそんなことにはお構いなしだ。
「狸爺やズボラ女より、お岩さんといっしょの方がやる気も出る」
「……あぁん? きれいなおねーさんだろうが!」
誰がズボラじゃい! と一発蹴りつける姿が奇しくも証明になりかけているのを、指摘するものは居らず。
「ウフフ……わたくし、お岩さんというよりは“くだん”なのですが」
「妖怪も幽霊も同じようなもんじゃろ」
「確かに、どちらも似たようなものですね……」
ふふ、と笑ういずもの目が、余計な口を挟んだ古妖・隠神刑部を射抜く。
話の腰が折られてばかりではそうもなろう。じろりと睨まれて狸が閉口すれば、仕切り直しとばかりにいずもは彼方を指す。
「ちょっとそこまで……マガツヘビの頭の方に向かいたく」
「どうぞ?」
改めての回答も迅速果敢、即断即決。
彩果は後部座席を叩く。大型バイクのそれは、いずも一人を乗せるには充分すぎる。
「“死なば諸共、一蓮托生”ってね。それでよけりゃどうぞ? お代は後で!」
「ええ、では……」
いずもがちょこんと腰掛けるや否や、彩果のバイクは爆音響かせながら一足先に遠ざかっていく。
後に残されたのは、機械と古狸。
「……爺さんよ」
「なんじゃ、ポンコツ」
「酒があったらありったけくれ」
「酒? 機械のくせにヤケ酒か?」
「違えよ。蛇退治は酔わせて斬るが相場だろ?」
昔々から伝わる話だからこそ、昔々から討つべしと定められた相手には効くはずだ。
自信を持って語るボーアに、刑部も酔わせた相手を想像してか、ニヤリと笑う。
「成程。……そういうことなら、好きなだけ用意してやるわい」
刑部が手を打つ。
次の瞬間、どこからともなく現れた無数の化け狸たちが、これでもかと言わんばかりに大きな甕を並べていく。
路地を縫うように駆けていく最中、彩果といずもの鼻を強烈な香気がくすぐる。
甘く、濃く、どこか熱を帯びた匂い。すぐに酒だと分かる香しさ。
より強く香る方へと進めば、見えたのは甕を放り投げる狸軍団の姿。
ボーア謹製、即席の酒爆弾を抱えた爆撃部隊だ。
「ぶち込めぶち込め! 一滴も残さずぶちまけてやれ!」
気炎を吐くボーア。
無造作に投げ込まれた甕が爆ぜるたび、刑部配下の化け狸たちは跳ね回り、煽り立て、戦場を引っ掻き回す。
「投げ込まれてるのは……お酒、ですか?」
「そうみたいね。まーた変なこと思いついたんでしょ」
バイクのハンドルを操りながら、彩果は後ろに座るいずもを見やって言う。
「ははあ、八岐大蛇は酔いて睡ると言いますが――」
マガツヘビの目が光った。
怒りに染まるそれは、面倒な酔客すら慄くだろうという狂気を孕んでいるけれども。
「禍津の蛇の炎でようく燃えそうです、ね!」
恐れるに足らずと、いずもは一蹴。
その気配を察知してか、マガツヘビはさらに激怒する。
地を揺るがす咆哮。気を抜けば二輪も軽く持っていかれてしまいそうだ。
「しっかり掴まってて!」
「ええ」
たおやかに頷くいずも。
それを確かめた彩果は、先ほどまで荷台に預けていた“一期一会”を握りしめる。
使い切りの、自作の刀。折れること前提で創られた、一度限りの魔刃。
それもまた――死なば諸共、一蓮托生だ。
フルスロットルで駆けるバイクが尾を伝い、黒き鱗の胴を跳ね上げる。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
魂をも揺さぶる絶叫。
本能に恐怖を植え付けようとする、邪悪の咆哮。
合わせて振り下ろされる禍々しい腕を――居合の一太刀で斬り飛ばして、避ける。
これで刃はおしゃかだ。あとはエンジン全開。目指す地点は、すぐそこに。
その時。
「彩果! べっぴんさんとしっかりやれよ! ASAP!」
忽然とやってきたボーアが吼えた。
ボディユニットから跳躍したそれは、空中で姿勢を変え、火花を散らしながらマガツヘビの眉間へ――。
「突撃ッ!!」
急降下した塊がマガツヘビの頭蓋に直撃する。
咆哮が一瞬途切れ、蛇の巨体がのけ反る。
爆音。白煙。衝撃。
その合間に紛れ込むようにして、ボーアは姿をくらます。
「|できるだけ早く《As Soon As Possible》、ね」
彩果はエンジンを吹かす。
いずもを乗せたまま、敵の肩口から跳躍。いよいよ、喉元へと迫る。
「ご利用ありがとうございました、綺麗なおねーさん? 後は、お任せしますよっと」
その声に、いずもはそっと目を閉じた。
「お任せください。あの首、|両断《おと》してみせましょう――」
鞘の中で、山丹正宗がわななく。
血を求める刀の鼓動が、いずもの掌に熱を宿す。
風が走る。
巨大な蛇のうねりを切り裂くように、バイクが宙を舞う。
さすがの彩果も全身を緊張させながら、喉元目掛けて角度を合わせる。
その背に身を預けたいずもは、靡く被衣を絞り、静かに鞘を握った。
怒り狂うマガツヘビは身体に黒い火を宿している。
それは敵意ある者を裁く獄炎のはずだが――程なく、マガツヘビ自身を焼くことになるだろう。
「――行きます」
確信に満ちた静かな囁きと共に、いずもは飛ぶ。
彩果のバイクから軽やかに跳躍し、災厄の頭上へ。
流れるように鞘が外れ、白刃が黒炎を反射して煌めく。
妖刀・山丹正宗。
|件《くだん》の血を引く者が振るう、怪しき異なるものを斬る刃。
刹那、マガツヘビの瞳がいずもを捉えた。
空気が限界まで張り詰める。その瞬間、山丹正宗が喉元をなぞる。
「|峨旺旺旺!!!《GAAAAAA!!!!!!》」
一太刀浴びせても首は繋がったまま。
血しぶきさえ上がることなく、マガツヘビが腕を振り上げる。
「いずも!」
呼び声に目を向ければ、唸る二輪から伸びる手。
縋るように掴み取り、先ほどまで己が在った場所に舞い戻る。
一蓮托生。二言はない。断ち切れなければ、終わりは揃って迎えるべきだ。
もっとも、易々と終焉を甘受するつもりもないが。
猛然と離脱を図る彩果の運転は、背を空にしている時よりも幾分か鋭さを増す。
一つ間違えればコントロールを失ってクラッシュ。
そんな極限にあって冴え渡るアクセルワーク。
酔いの回ったマガツヘビの腕では、捉えられるはずがない。
そして――刻限が訪れる。
弾ける皮、吹き上がる黒霧の如き飛沫。
蛇の巨体が激しくのたうち回り、呻き声が轟く。
そのままマガツヘビの体躯から距離を取るバイクのもとには、迷彩を解除したボーアや、配下たちを纏めてきた刑部が合流を果たす。
――かくして、“九段坂下り”は成った。
欄干、鴨川、京の空。
突如として塗り替えられる八狸塚の歴史。
一夜の幻。此処は今、かの有名な“五条大橋”。
「ほんだら行こか」
古妖・隠神刑部に呼び掛けた、諸々の仕掛け人は四国讃岐に名だたる化け狸の血族。
名を、|屋島《やしま》・かむろ(半人半妖の御伽使い・h05842)と申す少女。
故郷と同胞を愛する半人半妖のそれもまた、今一時、誇りある狸の姿に化けの皮を一枚被る。太刀を佩いて笛を吹き、飛燕の如き身軽さで飛び回るのは――牛若丸。
「ウチが牛若なら|刑部《そっち》は弁慶や」
「何ぞ、若いくせして古臭いもん好きなんじゃのぅ」
「ええやんか別に」
むっと不服を露わにする様は|青さ《若さ》の証か。
くく、と笑い声を零してから刑部も姿を変える。
白袈裟で覆った頭に下腹巻、蛭巻の薙刀を構えてドンと仁王立ちする様は、牛若こと源義経の郎党、武蔵坊弁慶その人。
かくして始まるのは五条大橋の決闘、ではなく。
伊予と讃岐の化け狸大決戦、というわけでもなく。
「……なんや、変な感じやな」
かむろは頬を掻く。
まさか、ほんの少し前に争った相手と、こうして肩を並べることになるとは。
「まぁ、事情が事情や。讃岐屋島の大爺ちゃんに代わって助太刀したるけん。気張りや、伊予の」
「言われんでも」
応じた刑部の眼差しにも、ほんのりと滲む老爺の温かさ。
それに気づく間もなく迫る災厄。
忌まわしき愚鈍の獣、マガツヘビ。
「覚悟しぃ蛇っころ!」
かむろ牛若丸の手に舞う扇が風を裂く。
何する暇も与えない先制攻撃。出鼻を挫かれたマガツヘビが呻けば、その瞬間にかむろの姿は消えて。
次に現れるのは足元。いや喉元。或いは背後。
跳ね回り、視界の外から外へと移るそれを止める手立てはない。
苛立たしげに咆哮ひとつ。橋桁を震わせて、蛇は蜷局を巻くと尾に黒い火を宿す。
「立ち往生、ではあるまいな」
呟く刑部弁慶の言う通り、マガツヘビが狙うは暫しの忍耐を経ての反撃。
幾戦幾万の矢を浴びても、その本懐を遂げるまで命の火は灯り続ける。
「如何する、屋島の」
「付き合うたる義理はあらへん」
力を溜め切るまで待つ必要もなければ、溜め切った後の一撃を受ける理由もない。
欄干を蹴り上げて再び肉薄。蛇の身体にこれでもかと太刀傷を刻み込めば、負けじと弁慶も薙刀を振るって。
散々斬りつけてやること、きっかり六十秒。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
怒り心頭のマガツヘビが遂に牙を剥く。
もっとも、襲い来るのは牙でなく尾。
禍々しい焔を宿したそれを振り上げ、繰り出す一撃は禍つ神の裁きの如く。
「――ほっこげな」
鈍間な蛇の尾っぽ如きに、あの牛若丸が捕まるはずがない。
伝え聞いた源平合戦の英雄。その力を信じればこそ、蛇の尾は宙舞う幻影を掠めることすらなく、叩きつけた“マガツサバキ”は橋を砕いて鴨川に飛沫を上げる。
「今や、弁慶! かましたってや!」
「よかろうて、どかんと一発!」
大薙刀が嵐を起こし、凄烈な斬撃がマガツヘビを裂く。
轟く悲鳴。それまでに浴びた傷の痛みも一斉に押し寄せて、悶える悪蛇へと閃くは千本目の太刀。
「京の五条の橋の上……狸二匹、今宵限りの競演や!」
交錯する刃が悪を断つ。
幻影幻術に溢れた戦場で唯一、真なる痛みに、マガツヘビはのたうち回った。
もう一局。否、もう一曲。
夜はこれから。ギャルの本気もまだまだこれから。
「オッケー! んじゃ、私もちょーお仕事モードでいくから!」
継戦を望む隠神刑部に溌溂と返して、ヒバリは笑顔を向ける。
「ちゃーんとついてきてね。おじいちゃん!」
「応とも」
古狸の視線は頼もしい戦友を見るようでもあり、危なっかしい孫を見守るようでもある。
その心地よさが今宵限りでなければ、とも思いつつ。
宙に開いたバーチャルキーボードの上で指を躍らせて、レギオンに命じるのは“CODE:Blast”。
派手な花火を打ち上げてやるのだ。
爆破属性の炸裂弾で狙うのは勿論、黒い妖火を燈して力を溜めるマガツヘビ。
「そんなところで管巻いちゃって、もしかしておねむな感じ?」
「……管じゃなくて蜷局じゃな」
「あれ、そだっけ?」
些細な誤解は「てへっ」と軽く舌を出して誤魔化して。
「若いのぅ」
「おじーちゃんもまだまだいけるってところ、見せたばっかりじゃん?」
「そうはいうても、やっぱり若者とは肌のハリ感とか違うんじゃ」
「……肌のハリ?」
ヒバリはまじまじと刑部を見やる。
急に社会人十年目くらいのOLみたいなことを言って――というか。
「おじいちゃん、肌っていうか毛並みじゃない? 気にするの」
「あ、やっぱりそうかのぅ。なんせ儂、封印されとるもんじゃから」
この辺りもぼさぼさで、と呟きながら頬の横辺りを撫でまわす刑部。
なんだか猫の毛繕いみたいだ。
なんて思ったり思わなかったりするくらいの、場違いな平穏は、ここまで。
力を溜め始めてから六十秒。
憤怒と怨嗟を糧として、遂にマガツヘビが本領を発揮する。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
轟く咆哮。
炸裂弾の爆発も、濛々と立ち込める爆風も吹き飛ばして、唸る蛇尾が裁きを下す。
「おじいちゃん、動かないで!」
咄嗟の一言に刑部が従えば、一息で強引に間合いを詰めて来たマガツヘビの尾が、透明なバリアを激しく打ち叩いた。
爆煙に遮られてろくに索敵も出来ないであろう状況からの強烈な攻撃。
それに抗う“Def:CLEAR”も相当なものだが、相手もさすが、災厄の如き扱いをされる古妖だけはある。
「やばー! こうならないように遠くから撃ってたのに」
「儂らには百歩の距離も大股一歩。スケールの違いじゃな」
「悠長に感心してる場合じゃないでしょー、もう!」
窘めるように言ってから、ヒバリは表情を崩す。
「でもでも……えっへへ、これで借りは返せた感じ?」
「なんじゃ、そんなこと気にしとったのか」
「えー!?」
「若いのぅ、狸に化かされおって」
くく、と笑う刑部。
年の功か、やはり一枚上手なのは否めない。
「そんなに余裕あるならバリバリ働いてもらうからね!」
「ほぅ。何かしてほしいことでもあるんかの」
「蛇退治以外にないでしょ!」
言うが早いか、ヒバリは再びレギオンへと命令を下す。
近場からの砲撃にマガツヘビが呻いた。
今の直撃弾だけではない。先送りしていた被弾の痛みが、今になって纏めて訪れているのだ。
「おじいちゃん、今っ!」
「よしきた!」
ぱん、と両手を合わせた刑部が印を組む。
逆立つ毛並み。迸るのは神にも通じる力。
そこに合わせるのは、科学の産物。
「これ使って!」
ヒバリが放ったのは|特殊合金の板《HIDEAWAY》。
防弾性に優れるそれは守りに使うのが主流だが、バリケードにさえなるほどのものなら、使いようによっては。
「蛇だって真っ二つ!」
「どぉりゃああ!!」
気合一閃。神通力で操られた金属板はマガツヘビに食い込み、回転鋸のように激しく回って漆黒の鱗を削り落とす。
最も固いところを越えれば、その下に在るのは薄い皮と柔らかい肉。
「|峨旺旺旺!!!《GAAAAAA!!!!!!》」
マガツヘビは悶えて苦しみ、のたうち回る。
それを尻目に、ギャルと古狸はハイタッチを交わして。
「イエイっ! ナイスコントロール!」
「どストライクじゃの。……じゃが、まだ一投目。空振り三振に打ち取ってやらねば」
「任せて!」
ヒバリが早くも次弾を手にして言えば、古妖も応えないわけにはいかない。
再び溢れ出す神通力。
そして、二人の合わせ技はマガツヘビを切り刻み、もはや忍耐のしようもないほどに追い詰めていく。
夜の闇が深くなるにつれて、瘴気もまた密度を増していく。
「……奴は先程までの滓より遥かに手ごわい。油断なく立ち向かおうぞ」
古妖・隠神刑部の低く響く声が、張り詰めた空気をさらに引き締める。
それを聞いたクーベルメ・レーヴェは、知らず息を呑んでいた。
「私たちだけでも、|古妖《あなた》たちだけでも、勝つことは難しい相手なのよね」
「然り。奴はそれだけの強敵じゃ」
頷く刑部。そこに滑り込む、軽やかでどこか胡乱な第三の声。
「でも、皆んなで力を合わせたら負けはしないよう」
語るのは、|夜白《やしろ》・|青《せい》。
それは刑部らを鼓舞する騙りではなく、真を述べているはずで。
「隠神刑部さん、こちらこそ続けてお願いするねい」
「応とも。共にマガツヘビを退けようぞ」
言葉のやりとりが終わると同時に、戦場の空気が動き出す。
「それでは語ろうかねい、妖精と妖怪のおはなしを」
扇子が一度、ぱちりと音を立てて閉じられ、青の|語り《騙り》が始まる。
立ち尽くしたままで口ずさむのは“御伽語り・妖妖”。
程なく語り部の周囲には、絵巻物から抜け出たような妖怪の幻影が次々と現れる。
「数で上回るは戦いの常道だからねい」
「うむ。ならば、儂も総動員じゃ。出ぃ、小狸ども!」
刑部の撒いた呪符が宙で弾ければ、姿を見せたのは無数の化け狸たち。
仄かに奇妙な雰囲気を漂わせる夢と現は、二体一組となって整然と布陣する。
「妖怪と狸のツーマンセル。いいじゃない」
クーベルメが、僅かに口元を綻ばせた。
その瞳には、幾許かの逡巡を経て見えた勝ち筋が映る。
「色々考えたけれど、あれは大きくて強いだけで、戦い方は小型と同じなのよね?」
「そのはずじゃが」
「だったら、さっきと同じ戦術で行くわ。……“同じだけど、同じじゃない”から」
「……?」
「刑部さん。あなたの強さも戦い方も、さっきのでよく分かったもの。お互いをより知った今なら、もっと的確な援護が出来るはずだわ」
確信に満ちた宣言。
その心強い姿勢に、刑部もニィと笑って親指を立てる。
「期待しておるぞ。……よし! 皆の衆、行くぞぃ!」
咆哮の如き刑部の号令一下、化け狸と妖怪の幻影たちが一斉に駆け出した。
それに合わせ、空ではクーベルメの航空部隊が円陣を描くように旋回を始める。
「刑部さん! お酒、一番いいのにしておいたから!」
「ほう、そりゃ助かる!」
クーベルメの呼びかけに豪快な笑い声を返した刑部は、景気づけの一杯を呷るとマガツヘビへと向かっていく。
その瞬間、戦場に満ちる妖気が一段と濃く、鋭くなった。
一度は離れたはずの“滓”――小型マガツヘビたちが本体へと再び吸収されていく。
禍々しい巨体が不釣り合いな速さを得て、鋭利な爪は小手調べとばかりに大地を抉り取る。
その矛先はすぐさま化け狸たちへと変わり、凄烈な一撃が振るわれた。
だが、それを迎え撃つのは青が喚んだ幻影たち。
爪が一体を裂いた瞬間、同じだけの力がマガツヘビの体躯へと逆流する。
己の攻撃を、そのまま己の身に返され、予期せぬ激痛に苦悶の絶叫が轟く。
「|峨旺旺旺!!!《GAAAAAA!!!!!!》」
「此方の被害を抑えつつ、彼方には倍増した力で傷を負わせる。一石二鳥だねい」
狙い通りと頷く青は、尚も止めどなく語り続ける。
「立て板に水とは、まさにこの事じゃな」
刑部が感心したのも束の間、マガツヘビの身体に大きな爆炎が上がった。
クーベルメの航空部隊による一斉掃射だ。
曳光弾に先導された砲撃が、夜闇も蛇の黒鱗も纏めて裂く。
その指揮官たるクーベルメ自身もまた、試作レイン砲台“ウェザーブレイカー”を操り、後衛から援護射撃を撃ち掛けた。
「食らいなさいっ!」
発射されたレーザーが、マガツヘビの側面を穿つ。
夜空にこだまする古妖の咆哮。悶える体躯が地を揺るがす。
反射、集中砲火、連携攻撃。
幾重にも連なる攻め手に、マガツヘビは確実に力を削がれていく。
しかし、邪悪は滅びるまで決して止まらない。
失った力を取り戻すかのように全ての残滓を取り込んだマガツヘビは、重厚な鎧を纏ったように禍々しく膨れ上がり、戦車のような走破力で戦場を猛進する。
その腕が振るわれるたびに、大地は穿たれ、瘴気は地表を這い、八狸塚は霊的汚染地帯へと変えられていく。
邪気の上にあっては、マガツヘビの方が有利。
だが、それでも前線の陣形は崩れなかった。
「もう少し……もう一押しで、止められる!」
クーベルメが短く叫ぶ。
声はすぐさま通信機を通じて天に飛び、次なる指令を与えていた。
「航空支援部隊、目標に向けて――突撃!」
高空で旋回していた機体が、合図と同時に急降下を開始する。
照準はマガツヘビの胸元。
機影が突風のように駆け抜け、溶けるようにして敵の体表に突き刺さる。
融合。それは敵を無力化する一手。
己以外のものを取り込んでしまったマガツヘビの巨体が震える。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
咆哮を上げ、足を踏み鳴らして抵抗するも、動きの鋭さは失われていた。
それでも、と。マガツヘビは剛腕が振るう。
刹那、これ以上の被弾も汚染も許さぬと飛び出した妖怪の幻影たちが、総力を結集して攻撃を跳ね返す。
「そろそろ“〆”だねい」
「刑部さん、今!」
青の囁きが地に溶けて、クーベルメの叫びは夜空に突き刺さる。
「応ッ!」
返す声と共に、巨大な神像と化した隠神刑部が宙を舞った。
航空部隊が投下していた補給物資から、とびきり上等な酒を取って飲み乾して。
気合満点。夜を裂くような霊光が直剣に集い、白く煌めく光輪を纏う。
「――斬っ!!」
振り下ろされる刃。
古妖・隠神刑部の全力を賭した凄絶な一閃は、マガツヘビに耐えがたいほどの傷を負わせ、再封印へと追い込んでいく。
禍々しい蛇の巨躯から滲む瘴気が、抜け殻と化した町を重たく覆い尽くす。
淀んだ空気に月光は霞み、夜気の中でただ、圧倒的な“それ”だけが蠢く。
マガツヘビ。忌まわしき愚鈍の獣。
ぬらりと地を這う災厄の本体を、魔王は見下すように見上げていた。
「ほう……流石に中々のものだな」
呟きに恐れはなく、口元は楽しげに綻んで。
「だが、俺の身体もだいぶ温まってきたところだ! 喜べ、マガツヘビとやら。この魔王ダイナ様が直々に相手をしてやろうではないか!」
「なんじゃ、少しは働く気になったのか?」
電磁ハンマーの射出台として酷使された古妖・隠神刑部が、肩を叩きながら言う。
魔王は――態度はそのままにくるりと反転して、狸の大将を次のように評価した。
「それにしても貴様、なかなか悪くない頭脳の持ち主だな!」
不遜も不遜。隠神刑部も数多の化け狸を束ねる首領であり、その身は強大かつ凶悪であるが故に幾つもの肉片に分割されて封じられている。一時の共闘関係が結ばれていなければ、今頃恐ろしいことになっていたかもしれない。
それを証明するかのように、刑部は魔王を鋭く見据えた。
だが、続く言葉が空気をがらりと変える。
「貴様が熱を上げていた麻雀とやらにも興味が湧いた!」
「お……おお! そうか! 麻雀が気になるか!!」
「うむ! この戦いが終わったら——いや、戦い終わる前にいうべきではなかったな!」
妙なフラグが立ちそうな気配も哄笑で吹き飛ばす。
魔王のそれに刑部も声を重ねて、ほんの僅かに邪気も晴れたような気がした。
「では――出でよ、我が血族!」
一頻り笑いを響かせた後、刑部の声が地を震わせ、数十の化け狸たちが闇を切って現れた。
帝凪はその出陣を満足げに見届けながら、口角を吊り上げる。
「お主、働くんじゃなかったのかの?」
「配下の自主性に任せるのも、魔王たる者の務めである!」
「……そうかい」
また何かにつけて自分は動かないつもりではないのか。
刑部が半眼で訝しむ中、帝凪は風を払って腕を前に突き出した。
「狸どもよ、自由に戦え! 好きに暴れろ! お前たちの後ろには、この魔王がついているのだぞ!」
その声と共に、両掌から迸る電流。
マガツヘビが俄かに巨躯を竦める。その一瞬を狙って、化け狸たちが跳びかかる。
尻尾で視界を塞ぎ、足元を掬い、牙で食らいつく。
だが――。
黒き火が、蛇の体内に灯る。
瘴気が濃密に収束し、禍々しい音を立ててマガツヘビの身に纏わりつく。
「まずいのう、一度退がるか」
「何を言う! 魔王の辞書に撤退の文字はない!」
刑部を振り切るようにして、帝凪は堂々たる声と共に、一歩、また一歩と災厄へ近づいていく。
巨蛇が放つ瘴気は鋭く、肌を刺すほど冷たい。
だが、帝凪は揺るがない。決して怯えたりしない。
「必ず勝てる戦いよりも、勝てるかわからぬ戦いの方が……燃えるだろう?」
覚悟を示す、ひとすじの笑み。
無謀とすら思えるその姿を、化け狸たちを退かせた刑部が臣下のように見守る。
そして、時間にして六十秒ほどが過ぎた頃。
「来るぞ、魔王殿!」
帝凪を狙って放たれる“それ”は、全てを叩き潰す破滅の一閃。
天より降る裁きの一撃、禍津ノ尾。
「――不敬である!」
尾が叩きつけられると同時、雷が咆哮を上げた。
帝凪の全身から迸る光が、直撃した尾を遡って、マガツヘビへと一閃を返す。
空気が震える。瘴気が爆ぜるように裂け、夜闇が眩い稲光に灼かれる。
|逸出二の矢《ディナイド・アロー》。
それは魔王の“絶対”を示す、栄光のカウンター。
帝凪が受けたはずの傷は一瞬で癒し尽くされて消え、破滅を齎したはずのマガツヘビが全身を焦がして呻く。
ぐらり、と。巨体が揺らいだ。
「よし……狸ども、今こそ見せてやれ!」
帝凪の号令と共に、化け狸たちが雪崩のように突撃する。
その様子に刑部が目を細め、ふと呟く。
「さすがは魔王殿。もう狸どもを操るのもお手の物じゃの」
「ふははっ、褒めても電流くらいしか出んぞ! それともまたハンマーが欲しいか!」
「いらん」
即座に拒絶を示す刑部を笑って、帝凪は掌に再び電流を凝縮する。
光は脈動し、火花は熱を孕み、まるで命のように鼓動を刻む。
「そろそろ仕留めさせてもらおうか!」
言うが早いか、帝凪の腕が閃光を撃ち出した瞬間、それは蛇へと突き刺さって。
マガツヘビが悲鳴にもならぬ絶叫を上げ、のたうち回る。
数十の化け狸がその隙を逃さず飛びかかり、全力で叩きのめしていく。
「アレとてめぇと何が違うってんだよ」
ポケットに手を突っ込んだまま、男が吐き捨てた。
その声音に軽さはあるが、言葉には棘と毒が滲んでいる。
向けられたのは、古妖・隠神刑部。
黙して応じるその視線は鋭く、深い。
「ほらな。それだよ、|それ《・・》。……結局はてめぇも古妖って奴じゃねぇか」
「……確かに、儂も暴虐の限りを尽くして封じられた身よ」
「そいつが“掟”だの“共闘”だの、随分と虫が良すぎる話だな」
男は刑部に詰め寄り、獣が牙剥くような笑みで続ける。
「敵の敵は、ってか? ……敵はどこまでいっても敵だろ」
刑部はわずかに目を細めた。
「お主の言う通りじゃ。して、如何する。マガツヘビの前に、儂と一戦交えるか」
一触即発の空気。火花散らす眼差し。
張り詰めた沈黙が数秒、戦場を支配した――が。
「……ま、今殺すか、後で殺すかの違いって事で」
男は――|禍神《カガミ》・|空悟《クウゴ》(万象炎壊の非天・h01729)は、ふっと笑う。
拳を交えるべき時は必ずやってくる。
だが、今此処で優先すべき敵を見誤るほど、空悟は愚かではない。
「よろしくな、狸ジジイ」
口にする言葉は馴れ合いからは程遠いが、それで十分。
踵を返して見据えた先、拳を向けるべき相手は蠢く異形の闇。
忌まわしき愚鈍の獣、マガツヘビ。
黒き瘴気をまとい、這いずるその姿は、まさしく“災厄”そのものだった。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
「……うるせぇな」
眉根を寄せて呟けば、空悟の強靭な肉体から黒炎が迸り、形を成す。
例えるなら夜天の下に揺蕩う星。
けれども其処に希望の煌めきはなく、ただ淀んだ殺意だけが滲み出す。
「――消し飛べ」
囁きと共に放たれる黒い弾丸。
空を裂いて鋭く飛んだそれは、マガツヘビの巨躯に突き刺さると同時に、凄烈な黒炎へと変貌した。
爆風と衝撃が八狸塚の町を駆け抜け、炎が大気を巻き込んで吼え猛る。
敵を焼き尽くし、味方には“触れれば焼く”防壁を纏わせる――|奔星《ハシリホシ》。
マガツヘビは低く呻き、堪らずその巨体を蜷局に巻いた。
其処に気勢を上げて襲い掛かる者たちが在れば、空悟は声を張り上げる。
「これじゃ蛇っつーより蟻に集られるトカゲだなぁオイ!」
嘲りを隠そうともしない台詞に、マガツヘビの双眸が殺意を湛えて空悟を射抜く。
禍々しい巨躯には黒い妖の火が宿り、解き放たれる瞬間を待ち侘びて揺れ動いた。
――狙い通りだ。
空悟は歩を進める。空気が爛れ、瘴気が肌を舐めても、その足取りに迷いはない。
災厄の姿がより鮮明になっていく。
至近距離。危険極まりない。だからこそ、空悟は踏み込む。
その死線こそが己の居るべき場所であれば――。
「来いよ、トカゲ野郎」
狂い咲く侮蔑の笑み。轟く咆哮。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
マガツヘビの尾が撓り、空悟を叩き潰そうと振り上げられて。
「消えろ」
刹那に閃く右の掌底。
撫でるように密やかなその一撃が、マガツヘビに宿る|妖火《√能力》を掻き消す。
さすがの古妖も理解が及ばず、戦場を静寂が満たした。
それでも――何故、と思いはしても、何が起きたのかは明白。
忍耐の末に放つはずだった反撃を防がれ、怒り心頭のマガツヘビが腕を振り上げる。
「上等だ」
空悟は一歩も退かず、それを迎え撃つように構えた。
視線が軌道をなぞる。指先が空気の微振動を拾う。
武具と等しいほどに鍛え上げた鉄壁の肉体、その脈動と呼吸を完璧に重ね合わせる。
死地で磨いた経験を糧として、殺到する衝撃と暴力に真っ向から挑む。
力を殺すのではなく、逸らすのでも、弾くのでもなく。
ただ、“受けるべくして受ける”。
それ以外の無駄を削ぎ落とし、芯で受け止め、重さを地へ流す。
足が土へと沈む。反動が骨に響く。呼吸が詰まる。
だが、崩れない。霊的な汚染が広がることもない。
すべてが噛み合った一瞬。
マガツヘビの剛力は空悟の両腕にぶつかり――止まった。
「……んだよ、随分軽い拳だなぁ? ダイエットにでも成功したかァ!?」
吐き捨てたその一言が、災厄の思考も視界も塗り潰す。
憤怒、憎悪、殺意。それら全てが、今は空悟という男ただ一人に向けられていた。
そうして、荒々しくも丁寧な“お膳立て”は済んだ。
これを信頼などと言うつもりはない。だが、僅かな応酬の中に猛者たる気配を覗かせた隠神刑部が、この瞬間を逃すはずはないと断言できる。
(「きっちり決めろよ、狸ジジイ。でねぇと、トカゲと纏めて鍋にブチ込んで食っちまうぜ?」)
心の内で笑い飛ばせば、降りて来たのは雷鳴の如き音。
十二神将の巨像へと変じた隠神刑部が、天を裂いて剣を振るう。
霊力と妖力が交じり合うその一閃は、空悟が唸るほど壮絶にマガツヘビを断つ――。
掟ひとつで手を取り合えるのなら。
(「共にマガツヘビを討ち滅ぼした隣人を愛せよ……なんて」)
そんな総意の掟もあればいいのに。
叶いそうもない希望を抱いて、ちるはは隠神刑部を見つめる。
じぃ……っと。
じぃぃぃぃぃぃぃ……っと。
「……な、なんじゃ? どうかしたか?」
「おじいちゃんが言っていました」
「何をじゃ?」
「えっちなおねえさんの変身が得意な御仁は信頼できる、と」
瞬間、刑部は口にしていた酒を盛大に噴き出した。
幸いにも明後日の方を向いたから、ちるははこれっぽっちも濡れていない。
深刻なのは刑部である。首をひねって咽込み、呼吸もままならず。
そんな哀れな姿は――もはや単なる“たぬきのおじいちゃん”だった。
「大丈夫ですか?」
「だいじょぶじゃがだいじょぶじゃないわい!」
刑部は口元をじょぶじょぶさせながら訴える。
けれども、心なしかちるはが“しゅん”としたのを見るや、背を丸めて。
「いやなに、ちょっとビックリしただけじゃ……」
取り繕うように言うと、恐る恐る続けた。
「……して、なんじゃったかな」
「えっちなおねえさんの変身が得意な御仁は信頼できる、と」
「お主の爺様はなんちゅうことを教えとるんじゃ」
「む、おじいちゃんは立派なおじいちゃんですよ」
そう言われては共闘相手の身内を咎めるわけにもいかず。
刑部は唸り、咳払いを一つ。それから意を決して問い直す。
「儂が、その、|女子《おなご》に化けるのが得意だとして」
「得意ですよね? さっきちらりと見え――」
「うむ得意じゃ。得意でよろしい。得意だから、何じゃ?」
「|双忍の術《・・・・》、です。刑部さん、私といっしょに双忍の術しませんか?」
語るちるはの声音は穏やかで、大きく揺らぐことはない。
けれども、それが真剣さを帯びたことは刑部にも伝わった。
「双忍、とな」
「はい。私が刑部さんになったらおっきくなるので攻撃がばーんですし、刑部さんが私になったら小回りが利いて機動がびゅーんですよ」
「ばーんで、びゅーんか」
「ばーんでびゅーんで、どかーん、です」
およそ戦いとは縁遠いような、ふわふわとしたちるはの雰囲気に思わず口元を綻ばせながらも、刑部はゆっくりと深く頷いた。
「要するに……あの間抜けを化かしてやろうということじゃな」
「はい」
「わははは、そら愉快じゃのぅ」
心から楽しげに笑った後、古狸は悪そうな顔で言う。
「儂も八百八の眷属を束ねた隠神刑部。変化に応じなんだら、狸が廃るというもの」
「では……」
「うむ。一つ、やってみるかの」
言うが早いか、印を組んで念じた刑部の姿が煙に包まれる。
そして、現れたのは――鏡で映したような、ちるはと瓜二つの姿。
「まずは儂が合わせる。お主の思うがままに駆けよ」
語り口だけに名残を留める“刑部ちるは”がそう告げた。
外見は双子のように揃えていても、言葉に宿すのは百戦錬磨の老将の響き。
他方、本物のちるはは頷くだけで言葉を発さない。
戦いに身を置くとき、彼女は驚くほど無口になる。
けれども、それは自分以外を捨てているわけではない。
己を平らかに保てばこそ、他の動きや息遣いから掴み取れるものもある。
「では――ゆくぞぃ!」
刑部の呼びかけで双つの影が跳ね、マガツヘビへと向かっていく。
同じ髪、同じ声音、同じ仕草。けれども、どこか背負う気配が違う。
その差すら“計算された違和感”として放ちながら、先に動いたのは、本物のちるは。
無言で滑るように接近し、ぴたりと立ち止まる彼女の肩先に随伴するのは、淡い黄褐色の浮遊砲台。
操手の思念に応じて“くるり”と、舞うように優雅な動きで回転したそれは、ちるはが微かに首を傾けた“その先”に照準を合わせて――炸裂。マガツヘビの胸元に光が閃く。
災厄の巨躯が揺れ、呻き声が風圧を齎す。
ちるはの姿は朔月のように、ふっとかき消える。
直後、マガツヘビの視界の左上――。
「こっちじゃよ、間抜け」
空中から舞い降りたのは、術で姿を変えた刑部ちるは。
その足元が唸り、ちるはの柔らかなシルエットに不釣り合いな衝撃が、滑空の勢いも加えて叩き込まれる。
衝突と共に地が裂け、災厄が仰け反った。
だが、目の前にいたはずの刑部ちるはもまた、姿を消す。
残されたのは、まるで夢から醒めたばかりのような虚脱感。
「化かされるとはそういうことじゃて」
刑部ちるはの声にマガツヘビが振り向く。
しかし、其処に姿はなく、真のちるはの気配は背後に。
「――と、後ろから娘が攻めると思ったら大間違いじゃ」
側面から襲い来る刑部ちるはの砲撃。
そちらに目を向けた瞬間、マガツヘビの思考に過るのは再びの死角からの攻撃。
だが――真のちるはが現れたのは“真正面”。
眉間に炸裂した痛烈な蹴りに絶叫が轟く。
右と思わせて左から――というような読み筋が通じない。
何処から来るのか読めない。何が本物で、何が幻なのか。
「コンビ打ちにひっかけリーチじゃ。|汝《なれ》の矮小な頭で読み切れるはずがなかろう」
「……チーム戦です」
「ん? ああ、コンビ打ちじゃと“サマ”になってしまうか。こりゃ失敬」
せせら笑う刑部ちるはの背に、真のちるはの姿が重なる。
正しく双忍。正しく双影。
時にすれ違い、時に背を預け、時に全く同じ挙動を見せ――そしてすぐ消える。
気配は全てが本命に見え、どれもが囮に思える。
明確な殺気が向かってこないのに、全方位から殺意が香る。
波のように押し寄せる情報は混濁して、マガツヘビをぐらつかせる。
「|峨、峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GA、GAOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
とうとう堪らなくなったのか、それは叫び声を上げて蜷局を巻いた。
禍々しい鱗で全てを覆えば、完全防御の姿勢の合間に黒い妖の火が燈る。
「次、です」
小さく呟いたちるはの姿が歪む。
やがて形を整えたそれは、堂々たる狸の老将・隠神刑部に良く似た古狸。
双忍の術、第二幕。
「……まだまだやるぞぃ!」
本物の隠神刑部が霊気に包まれていく。
衣が舞い、骨が鳴り、やがて示されるのは十二神将の巨像。
マガツヘビに影を落とす、その剣は神の裁き。
重く、鈍く、けれども裂けるように鋭い一閃。
続けざま叩き込まれるのは、ちるは刑部なりの神通力を含めた一打。
Wちるはが|疾風迅雷《びゅーん》なら、W刑部は|剛力無双《ばーん》。
堅い守りを破るべく、双つの隠神刑部は全力を攻勢に傾ける。
その最中、マガツヘビが忽然と吼え猛った。
ぶわりと広がる瘴気の波に、“刑部”の姿を纏ったちるはの動きが、一瞬だけ鈍る。
そして――黒くうねる異形の尾が、刹那に振り抜かれた。
直撃。
吹き飛ばされた“刑部”の身体が、地を跳ねるように転がっていく。
それを見た“刑部”――本物の隠神刑部が、叫ぶ。
尋常ならざる殺気を孕んだ咆哮が夜を揺らす。巨体が跳躍し、剣を構える。
もはや、化かすも化かさぬもない。
今宵限りとはいえ、孫のように気にかけた娘を傷つけるのならば。
封印された隠神刑部の僅か肉一片の身であれども、古妖の意地と誇りをもって叩き伏せる――その一意だけ。
「ようもやってくれたのう、このクソ蛇めッ!」
十二神将の剣が霊力を帯びて燃え上がる。
刃に合わせて込めるのは、化け狸の頂に立つ神通力の極み。
宙を裂いて振るわれる剣が、雷鳴のように唸る。
神罰めいた一撃が下る。
それは、大技の後の隙を埋められずにいたマガツヘビを、凄烈に斬り裂く。
「――ちるはッ!」
崩れ落ちる災厄に目もくれず、刑部は瓦礫の間を掻き分け、駆け寄る。
元の姿に戻っていた娘は、指先だけで小さく“ばーん”と示してみせて。
「安く振り込んで、高く和了って、ばんばんざいです」
「ふざけたことを抜かすでない!」
刑部は声を荒らげながらも、すぐさま呪符を出して配下の小狸を数匹喚び寄せる。
それらは薬籠から湯気の立つ煎じ薬やら軟膏やら包帯やら何やらを取り出すと、ちるはの傷を手際よく癒していった。
古来より伝わる東洋医学と、妖怪流の“化”学を混ぜ込んだ合わせ技のようだ。
「お主にもしものことなどあったら……儂ゃ、お主の爺さんに祟られてしまうわい」
「それは……大変です」
おじいちゃんVSおじいちゃんなど、万が一にも起こらないでほしい。
ちるはは僅かに声を震わす。
刑部はふぅ、とため息をついて、その頭をぽんぽんと撫でた。
「まぁ、尾っぽでぶん殴られた割には大したことなさそうじゃな」
「……はい」
小さな声で返事をしながら、ちるははそっと目を閉じる。
大きく厚く、もさもさで柔らかな掌の温もりに、心地よさに、暫し身を預ける。
これが一夜の夢でなければ。永く続くものであったならば。
――どれほど、よかったことか。
第3章 日常 『麻雀しましょう!』

マガツヘビは斃れた。
禍々しい蛇の躯体に残るのは、√能力者たちと隠神刑部の奮闘の跡。
それはもう動かず、鳴かず、邪悪な瘴気もほとんど消えている。
後は、|見えない怪物《インビジブル》となるだけ――のはずだった。
澱の如き肉塊の中心から、沸々と泡が立つ。
空気がまた濁りはじめ、八狸塚に悲鳴のような音が響く。
肌に刺さるような圧が、地面の下から噴き上がってくる。
「……彼奴め、まだ終わっとらんな」
隠神刑部が呟くと同時、マガツヘビの傷痕にインビジブルが集まりだす。
死後蘇生。√能力者ならば誰しもが理解する現象の一つ。
だが――早すぎる。
戦いの終わりを確信していた全員にとって、それは信じ難い光景だった。
緊張が走る。ある者は息を呑み、ある者は武器を構え直す。
そんな√能力者たちを前にして、隠神刑部はすっと背筋を伸ばした。
眉間には深々と皺が刻まれ、眼光に“覚悟”が宿る。
「已むを得ん。少々、荒っぽくなるぞぃ!」
刑部が印を組み、迸る妖気が天に立ち昇る。
衝撃、閃光、轟音。
そして――忽然と地から湧き出す、巨大な麻雀牌の塔。
…………。
……。
気が付くと、そこは畳の部屋だった。
見上げれば少し低めの天井。見回せば真新しい障子戸。
「おぉ、目ぇ覚ましおったか」
声の方に振り向くと、卓に着いた刑部が湯呑を啜っていた。
脇には小狸たちがちょこんと座り、牌や点棒を整えている。
一体、何がどうなったのだろうか。
疑問が噴き上がるより早く、刑部は口を開いた。
「お主らは今、儂が持つ八百八の秘術の一つ、|九蓮狸燈《チューレンポントウ》の中におる」
……は?
訝しむ√能力者たちを他所に、刑部は続ける。
「古妖の復活を阻止するには封印する他ない。儂はマガツヘビの死骸の上に“奇妙建築”を築き、封印の下地を作り上げた。あとは“魂封じの宴”と“贄”を以て、封印を完成させればよい。そうすれば、あの異様な再生速度も抑えられようて」
その声に交ざって、卓の上では洗牌の音が響いている。
「宴とは、ずばり此処で儂と麻雀を打つことじゃ。卓を囲んだ者にしか味わえぬ、ひりつく感覚と勝負の面白さ……それが九蓮狸燈の妖力を高め、強い封印の礎となるじゃよ」
刑部がそういうなら、それはそれでよい。
しかし、“贄”となると――。
「それは儂でええじゃろ」
積み上げた牌を手に取りながら、刑部はあっさりと口にする。
「儂もまた、隠神刑部を封印すべく分割された肉片の一つに過ぎん。マガツヘビと共に封じられたところで、隠神刑部という存在が消滅する訳ではないからな」
小狸の一匹が「うえー」と小さな声で嘆いた。
「仕方ないじゃろ。“全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし”じゃ。為すべきことを為せるものが為す。今回は――そうさな、儂が東家の親番というだけの話よ」
そう言って、刑部はゆるりと牌をつかみ、音もなく卓に置く。
そこにあったのは、|發《リューハ》。
刑部は、ニヤリと笑った。
「さぁて、まずは誰から相手をしてくれるんじゃ?」
===================================
そういうわけで刑部と麻雀を打ちます。半荘真剣勝負です。
ルールは大体、ゲームやネット麻雀と同じだと考えてください。
(ローカル役で上がりたいんじゃ! とかでもOKです)
POW/SPD/WIZの選択肢は特に気にしなくて構いません。
狙う役や戦術をプレイングにしつつ、刑部と語らって頂ければと思います。
「麻雀ってあれだよね、同じ柄を揃えて……」くらいでも大丈夫です。
優しい刑部おじいちゃんが教えてくれます。
基本は刑部と√能力者の対決で、小狸は邪魔しないように場を回します。
連携される場合は2vs2になったり1vs3になったり。
大事なのは楽しめたかどうかで、勝敗はさほど重要ではありません。
===================================
真新しい畳の香りが、緊張する胸の奥へと静かに染み入る。
早くも顔が熱くなっているが、しかし星乃は問わねばならない。
麻雀とは。麻雀とは――!
「あ、あの……麻雀って確かあれですよね!? 女性は負けたら服を脱がないといけないゲーム!!」
真剣勝負の空気を明後日へと吹き飛ばす発言に、堪らず刑部がひっくり返る。
「ど、どこの誰からそんなこと教わったんじゃ!?」
慌てて起き上がり、背を擦りながら言った刑部に、星乃は安堵の溜息を零して。
「……え、脱がなくても大丈夫なんですかっ? よ、良かったです……」
呟いたのも束の間、またハッとした顔で問う。
「……ということは、男性が負けたら血液を抜かれるというのもデマなんでしょうか……?」
「なんちゅうか……儂はお主が悪い男に騙されんか心配になってきたぞぃ……」
刑部はしみじみと遠い目で言った。
それはさておき。
お察しの通り、星乃は麻雀初体験である。
軽く基本を教わり、卓に着けば意気込みは充分だが。
(「最低限、勝負にはなるようにしないと……」)
勝敗は問わずと言われても、これがマガツヘビ封印の儀式であるからには、格好くらいつけておきたいところ。
経験者の刑部が白けてしまわないようにするには――やはり、使えるものは何でも使うしかない。
星乃は俄かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと開いた右の瞳に宿るのは、竜漿を糧として燃ゆる炎。
世界の視え方が変わり、刑部の動作や視線、牌への些細な触れ方に“焦点”が当たる。
(「……今、ほんの一瞬だけ悩んでから牌を切りましたね……」)
そうして出てきたのは、既に星乃の河に捨てられている牌。
ただそれだけでは、僅かな疑いに過ぎないが――星乃の右目は針の穴ほどの隙から確信を得た。
(「この局、狸さんはあまり調子が良くなさそう……ということは、攻めるチャンス!」)
刑部から手牌に、そして“狸印の麻雀役一覧表”に目を移す。狙えそうなのは……。
(「タンヤオ、は出来て……二個ずつのが多いから、えっと、七対子とかいう……あっ、でも七萬が三つになったから……えっと、えーっと……」)
ツモに応じて臨機応変、と言えば聞こえはいいが、悪く言えば行き当たりばったり。ころころと狙いを変えるのも、しかし初心者ゆえに致し方のないところ。
ハチャメチャな捨て牌が却って、刑部の読みを乱す材料にもなる。
「……あっ、ロン! ロンです!」
「なんじゃと?」
思考時間1秒で捨てた牌に声がかかり、目を丸くする刑部の前に開かれる星乃の手牌。
「タンヤオ、三暗刻と……ドラが3! ……で、点数が……」
「子の跳満、12000点じゃな」
刑部がいそいそと点棒を支払う。
まさかの大物手直撃に、星乃も心なしか鼻息が荒くなる。
だが――そうは問屋が卸さない。
一局単位で見ればラッキーパンチが入ることもあろうが、半荘通してみれば経験者との実力差は歴然。
「儂の勝ち、じゃの」
オーラスを終えて、星乃に取られた分の倍以上を取り返した刑部が酒を呷る。
その笑みの――なんとまあ、悪いことか。
星乃は思わず、はっと顔を上げた。
忘れてしまいがちだが、相手は古妖・隠神刑部。
仮にも勝負事で決着をつけて、何もないはずがない――!
「や、やっぱり脱がないと……!」
「だから違うわい!」
思わず胸元を押さえた星乃に、刑部が思い切りツッコむ。
そして――ぱしん、と。獣の掌が、星乃の手を優しく掴んだ。
「初めての割にはよう打った。筋は悪くなかったぞ」
「……そう、ですか」
「うむ」
力強く頷く刑部。
何だか別れを惜しむようなそれに、星乃も微笑みを返して。
「……私は別の|世界《√》の人間ですから、古妖がどうとかは、よく解りませんが」
この一時、肩を並べて戦い、膝を突き合わせて遊んだ“狸さん”のことは。
「嫌いではありません、よ」
「そうか。……まあ、妙にしんみりしてきたところなんじゃが、儂の肉片って結構軽率に蘇っとるから、またすぐに何処かで会うかもしれんがの」
刑部は冗談めかした口調で、でも少しだけ寂しそうに手を離して。
「達者でな」
「……はい。ありがとうございました」
星乃も一礼すると、次の対局者に場を譲る。
今日という日の出来事を、決して忘れないと胸に誓いながら。
八狸塚のマガツヘビを完全に討ち滅ぼすこと。
それが星詠みに告げられた使命である以上、空悟には“完遂”の二文字しかない。
その為になら、どんな手段でも取る覚悟がある。
「……つまり、だ」
刑部にバチバチのメンチを切りながら、空悟はまた牙剥く獣の如き笑みを浮かべて。
そのまま――腰を九十度に曲げると、大声で叫んだ。
「麻雀のルール教えてもらって良いですかッ!?」
「ほぁっ……?」
突然の舎弟めいたムーブに刑部も目を白黒させる。
後で殺す、などと宣っていた相手が態度を豹変させたのだ。その反応も当然と言えば当然。
しかしながら、空悟は決して古妖の軍門に下った訳ではない。
これはあくまでもマガツヘビ封印のため。
それに必要な麻雀を、しっかりとこなしてみせるため。
(「いずれぶっ殺すってのは変わりねぇ。今日だけだぜ、狸ジジイ」)
まさに面従腹背。
習うが、しかし負けてやるとは言っていない。
経験者だろうが構わず叩き潰して、吠え面かかせてやる。
空悟は内心でほくそ笑む。
だが――。
「テメェ狸ジジイ! 今日麻雀を始めた初心者を容赦なく引き潰しやがって、糞糞糞が!!!」
「初心者の自覚があるならもっと丁寧に打たんかい」
刑部は手牌と捨て牌を示しながら、呆れたように言う。
「ほれ、この發はションパイ……一枚も場に出とらん牌じゃ。出とらんということは、狙っとるかもしれん確率も上がるわけじゃ」
「つっても、それ捨てなきゃ上がれねぇじゃねぇか!!」
「そういう時は上がらんのじゃ。相手を上がらせないようにするのも、戦術というものじゃよ」
「それで上がれねぇまま終わったらどうすんだよ!」
「その時は諦めるんじゃ」
「ハァ!?」
「そういうもんなんじゃよ、麻雀は。何も出来んまま、なんか負けてしもうた……ということもある」
「……チッ!」
とんでもない運任せの遊びだ。
自らの意志で選び取ったものならともかく、ただ流れに身を任せるしかないという状況を甘受しなければならないとは。
「こんなんで本当に封印なんか出来るのかよ」
「出来るとも」
荒れる空悟を平然と受け流した刑部が言って、自分の手牌を倒す。
「ツモ。2000、4000じゃ。これで終了じゃな」
「ふざけやがって。狸ジジイ、次は――」
そう言いかけて、空悟もさすがに思いとどまった。
「……次、はねぇんだったな、今のテメェには」
「うむ。惜しいことじゃが」
「本気で生贄になるなんて言ってんのか? 実はテメェが完全復活するための儀式なんじゃねぇのか?」
「わはは、そうであったらよかったのだがのぅ」
刑部は牌を混ぜる手を止め、障子戸の向こうを眺める。
「信じられんかもしれんが、しかし云うた通りよ。儂はこの身を以てマガツヘビ封印の要になる。それ以上のことは何もないわい」
「……どうだかな」
どれほどの言葉を重ねても。完全に証明する手立てはない。
それがあるとすれば――封印の完成だけだろう。
「さて、敗者がいつまでも居っては先へ進まん。お主はここまでじゃ」
「そうかよ。……ま、それはそれとして、だな」
空悟は牌山を見つめる。
戦いの幕は下りた。この勝負に続きはない。
静かに息を吐いて、目を細める。
牌の感触。音。視線の読み合い。
理不尽と戦略が混ざり合う、奇妙で、熱のある時間――。
「楽しかったぜ、麻雀」
呟いた声は、牌の音と共に奇妙建築の中へ溶けていった。
「……エッ?」
突如告げられた“封印の儀=麻雀”に、悠斗の声も裏返る。
「麻雀って……アレだろ?」
「アレじゃよ?」
「待て待て待て待て! 俺麻雀わからん! やったことねえ! ギャンブル漫画でしか見たことねえ!」
困惑の極み。戦場では荒々しく振る舞っていた悠斗も、雀卓を前にして年相応の青年に戻る。
無理もない。敵はハチェットで叩き斬れば済むが、相手が麻雀牌ではそうもいかない。
「なんじゃ、意外と遊んどらんのか?」
「……意外と、ってどういう意味だよタヌキジジイ!」
「いやなに、坊主くらいの年頃なら学業もそっちのけで、友人の家にたむろして徹マン三昧でもおかしくなかろうと――」
「ヒロトはそんなことしねぇよ!」
いやほんと、そんなダメ学生になっちゃダメだ。
ちょっとゲームで夜更かしするくらいなら許してやるが、単位? なにそれ美味しいの? みたいなことを言い出すような爛れた大学生に堕ちるのはダメ……絶対にダメ……っ!
悠斗は独り言ち、何度か首を振る。
そんな青年を見て笑いながら、刑部は尚も問う。
「漫画で見たというなら、すこーしくらいは知っとるんじゃろ?」
「……あれだろ、なんか〇とか鳥とか文字が書いてある牌を並べて……」
「うんうん」
「ポンとかチーとか言って……」
「うんうん」
「……棒みたいなやつ全部取られたら死ぬ……的な……」
その瞬間、刑部は派手に障子戸を破って転がった。
「点棒取られて死ぬわけなかろう! そりゃどんな悪魔の麻雀じゃ!」
「え……死なねえのか? ……そっか……そりゃそうか……」
項垂れる悠斗。そこに浮かぶのは、生来の真面目さと繊細さ。
刑部も思わず心配そうな表情を作る。
だが、マガツヘビ封印の儀式を止めるわけにはいかない。
今日が初体験の麻雀初心者だろうが、此処に居合わせたからには打ってもらわなければ――!
というわけで、刑部のゆるゆるレッスンのもと、いざ対局!
だが――。
(「軽く説明は受けたが……やっぱりわかんねえ!」)
リーチ? ツモ? だから何だと言うのだ。
カンチャン? ペンチャン? メンタンピン? はあ?
ちょっとした用語が多すぎて理解が追い付かない。
思考は完全に迷子。とはいえ、まさか刑部に泣きつくなんて出来るはずがない。
(「こうなったら……俺は雰囲気で打つ!」)
隣の小狸が切った牌を真似て捨て、刑部がポンしたら負けじとポン。
上がれなくても振り込んでも気にしない。
打っていればチャンスだって転がり込んでくる。
(「〇のやつが1から9まで集まって……白いのが3つか」)
あとはひとつだけ浮いてる|緑の鳥《一索》が、もうひとつ来れば。
いける。……いけるよな? いけるはず。いけるだろう!
「リーチ!!」
「ロン! 18000じゃ!」
「……で?」
「で? じゃないわい! お主の点棒を、今の点数分だけ儂に寄越せ!」
「はああああっ!? ジジイ、てめぇぼったくりだろ!」
「そういうルールじゃ!!」
「古妖のくせにルールとか語ってんじゃねぇよ!」
やいのやいのと声を荒らげる二人。
騒がしい。けれども、不思議とイヤではない。
どんなに酷い結果になろうとも、二人の対局は途中で投げ出されることもなく。
結果は――無論、悠斗の負け。大負け。タコ負け。
「ド初心者に負けるわけにはいかんからの」
飄々と酒を呷る満足げな刑部に対して、悠斗は腕を組んで唸る。
「――なあ、タヌキジジイ」
「なんじゃ、もう一局やるか?」
「ちげーよ」
ぶっきらぼうに言いながらも、悠斗は刑部を正面から見据えて続ける。
「……その、あれだ……今回は助かった」
「なんじゃ藪から棒に」
「ジジイだけじゃ勝てなかっただろうが……ジジイが居なけりゃ勝てなかった」
小型マガツヘビとの前哨戦。本体との決戦。
そして、後始末としての封印の儀式。
平然と「生贄になる」なんて、カッコつけたこと言うのは腹立たしいが、しかし事実は事実。素直に認め、感謝しても罰は当たるまい。
だが。
「次に敵同士になったら、手加減はしねえぞ。絶対ぶっ倒してやるからな」
不敵な笑みに滲むのは、青年の意地と誓い。
「……ふん、楽しみにしとるぞ」
刑部もふてぶてしく笑い、悠斗の拳と拳を突き合わせる。
楽園の√能力者と、妖の世界を乱す古妖。
決して相容れないはずの二人は、しかしこの時、確かに互いを認め合っていた。
「贄、ですって……?」
シルバーグリーンの瞳が驚きと戸惑いに揺れる。
奇妙建築たる和室の中を、東風が吹き抜けていく。
「そうじゃ。しかし、気にするでない。事情は先程申した通りじゃからの」
此処に居る隠神刑部は、数多ある封印された肉片の一つにすぎない。
マガツヘビ封印の儀に身を捧げたとて、またどこかで情念を得た別の欠片が蘇るだろう。
「全ては掟のため。まぁ、偶然にも儂にお鉢が回ってきた……そうさな、親かぶりのようなもんじゃろ」
隠神刑部は神妙な面持ちで頷き、障子戸の向こうを見やる。
暫しの沈黙。
災厄を退けた先に待ち受けていた切なさに、誰もが言葉を失っている。
――と、思いきや。
「今の|刑部さん《あなた》と麻雀が打てるのは、これが最初で最後だと言うのですね……!?」
ずっこーん。
物理的にではないが、卓の端で小狸たちがひっくり返る音が聞こえた気がした。
「……お主、まさかとは思うが。実は“それ”が本命だったとか言わんよな?」
刑部の疑念に、シンシアは微笑んで答える。
「細かいことはいいじゃない」
刹那、その瞳に宿るは、淑女の仮面の下に隠されていた――雀士の煌めき。
「打たなければ始まらない。打たなければ終われない。そうなんでしょう?」
「うむ。その通りじゃ」
「だったら――」
ひらりと花が舞い落ちるようにして卓に着き、シンシアは刑部を見据えて言う。
「あなたの胸を借りるつもりで、全力で打たせていただきますわ」
かくして始まる、一夜限りの半荘勝負。
東家にシンシア。北家に刑部。南と西には数合わせの小狸。
「――リーチです!」
タンッ、と小気味良い打牌からシンシアが口火を切る。
役無しのペンチャン待ち。加えて上がり牌の三筒は既に三枚見え、だが。
「ツモ!」
滑らかな手つきで手牌を倒す。
立直、門前清自摸和。30符2飜、1000オール。
「幸先が良いのぅ」
「まだまだ、これからですわ」
アガリこそ最大の防御。
怪しさ満点の河も堂々と突っ切り、場況の悪さも力強く切り拓く。
棒テン即リー全ツッパ上等。目指すは八連荘。
刑部からのリーチが入っても、早々に降りて流局を狙うなんて真似はしない。
そして自らの手で掴み取るのだ。ツモ、ツモ、ツモ――!
「成程。お主は“勝つ麻雀”なんじゃな」
「ええ……!」
これは勝負だ。勝たなくてどうする。
安手も積み重ねれば点棒の山。気付けば、刑部との差は早くも一万点以上。
だが、シンシアの雀風の真骨頂は――。
「刑部さん。私の好きな言葉、忘れていませんか?」
「……まさか」
またしても安目の愚形から上がって、シンシアがドラ表示牌の下を捲る。
「――|立直、一発、門前清自摸和《パッツモ》、“裏3”。6000オール、ですわ」
小狸たちが騒めく。
長い長い東一局の嵐は、刑部の持ち点を豪快に攫っていく。
とはいえ、刑部も黙ってはいない。
「ツモじゃ。タンヤオ、ドラ1で500、1000じゃの」
安目でシンシアの親番を流すと、その後も危険牌を確実に止め、鳴いての一発消しや海底ずらしなどで地道に守り、自らの親番まで耐え凌ぐ。
「さすがね、刑部さん」
シンシアが勝つ麻雀なら、刑部のそれは負けない麻雀。
打ち手の技巧が冴え渡る。
とはいえ、麻雀は守って点数の得られる遊戯ではない。
「ツモ! 1000、2000!」
一盃口込みで華麗に上がって刑部の親番を流し、南入。
そんな戦いの最中、洗牌の合間に、シンシアがぽつりと尋ねる。
「“九蓮狸燈”、良いネーミングね。刑部さん、アガったことは?」
「ふむ……五回くらいかのぅ」
「五回!? 私は聴牌までが一回あるくらいかしら……」
「なぁに、対局数が多いだけじゃよ」
刑部は笑いながら牌を積んでいく。
確かに試行回数が増えれば、単純にそれだけチャンスも増えるが――。
(「やっぱり油断はできないわね」)
一撃で戦況を大きく変える役満という可能性は、ゼロにはならない。
万が一にも備えるとすれば、やはり攻めて攻めて、点差を広げていく以外にはない。
そうして、シンシアの大幅リードで迎えた南四局。
勝負の最終局。シンシアは好配牌に小さく微笑んだ。
形が良い。ツモも良い。
あっという間に、くっつきのイーシャンテン。流れは、来ている。
(「これは……もらいましたわね」)
表情には出さずとも、自信を持って打ち進めるシンシア。
一方で、刑部の狙いを整然とした河から読むとすれば。
(「染めてる……|萬子《マンズ》の清一色? それとも混一色……?」)
おおよそを掴むことはできるが、まだ断定はできない。
ここでシンシアが引いたのは――。
「……っ」
ションパイの東。危険牌だ。
(「手を崩せば降りられるけれど……」)
果たして、それで良いのだろうか。
刑部が自力で上がるか、テンパイしていれば連荘。まだ勝負は続く。
しかし、シンシアが上がってしまえばゲーム終了。勝敗は決する。
それが明白であるのなら。
(「ここで押せずして何が淑女か……!」)
恐らくは一般的な辞書と異なるルビが振られているだろう言葉を胸に、シンシアは強く東を打ち抜いた。
刑部は――上がらない。鳴きもしない。
いける。勝てる。
シンシアは勝利を確信しながら、次の手番を待ち侘びて――。
「――ツモじゃ」
刑部が手牌を開く。
やはり萬子の染め手だ。左から1112345678999……。
「……うそ」
「嘘ではないぞぃ。もちろん、化かしてもおらん」
ツモ牌の五萬を添えて、刑部は宣言する。
「16000オールじゃ」
親の役満、九蓮宝燈。それも同色九面待ちの、いわゆる純正。
卓上に静寂が落ちた。
誰が見ても明らかな“奇跡”。
その余韻と衝撃に流されるようにして、次局はあっさりと流局で終わった。
最終的な着順は――トップ目、隠神刑部。
序盤からの積極果敢な攻勢でリードを築いていたシンシアを一撃で捲り、僅かに上回った。
「やられましたわ……」
シンシアは倒れ込むようにして天井を見上げ、呆然と呟く。
けれども、胸中に去来するのは不思議な満足感。
「……いいものを見せていただきましたわ、刑部さん」
「こちらこそ礼を申すぞ。至極の一局は皆で作るものじゃからな」
「ええ……」
それが今宵限りの運命とは――惜しい。
「刑部さん」
「なんじゃ?」
「……やっぱり、また打ちましょうね」
此処ではない何処かで。
独り言のようなシンシアの呟きに、刑部は深く深く、頷いてみせた。
「麻雀はおじいちゃんに教えてもらったんです」
「ちるはの爺様よ、でかした!」
心の底から感嘆を示す刑部に、ちるはは思わず微笑む。
狸もおじいちゃんなのに子供のようだ。
けれども、それは古妖で、戦友で、封印の贄で。
頭の中を色々なものがぐるぐると巡る。
マガツヘビの強大さ。隠神刑部の立場。妖の掟。
(「……もし、次にまた会うとしたら」)
その時は――その時は。
わからない。けれどわかる。わかりたくもないけれど。
ただ一つ断言できるとすれば、今は、今しか無い。
だからこそ、目一杯楽しむのだ。
この奇跡のような一時を。
「……ツモ。立直、断么九、平和、ドラ2。3000、6000です」
「おお……」
唸る刑部の前に示された手牌は、これぞ麻雀という基本形。
いわゆる“メンタンピン”だ。
オタ風を切り、三元牌を切り、么九牌を切り……両面で待つ。
まるで考えずともそうすべきと身体が覚えているような、素直で無駄のない打ち方。
「爺様に教わったと聞いたときゃ、もっと偏屈な打ち方でもするのかと思うたが」
「……おじいちゃんのイメージが損なわれている気がします」
「孫に“えっちなおねえさんの変身が得意な御仁は信頼できる”なんて言う爺じゃろうが」
どう転んだら好印象になるんじゃ、と笑う刑部が手牌を倒す。
「ツモじゃ。發のみ1000点」
「そんな上がり方していると、また罰が当たりますよ?」
「儂、古妖じゃから。どっちかと言えば実は罰当てる方なんじゃよ」
「まあ、それは怖いですね」
「怖いじゃろう?」
ニヤリと悪い顔を作る刑部だが、ちるははくすくすと控えめに笑うばかり。
久々の手積みも相まって、気分はほっこり。実家のような安心感。
とはいえ、勝負の方はお互い手加減無し。
ちるはが好牌先打――価値のある牌を先切りして放銃のリスクを下げれば、刑部も現物を打って手堅く守りに入る。
「守っているばかりでは勝てませんよ?」
「しかしのぅ」
二枚切れの西を手に入れ、代わりに安牌を切った刑部は――流局が決まると鼻を鳴らす。
「抜け目のない相手には、どうしても慎重にならざるを得まいて」
「……読まれていましたか」
手牌を開ければ、ちるはの待ちはオタ風の西単騎。
元より価値の低い牌だ。ましてや残り一枚しかないとなれば、単純に上がれる確率も低いのだから、それで待つ意義は薄い。
“だからこそ意味がある”。刑部の手が高目の良形にでもなった時、或いは安全な牌が手元になくなった時。場に二枚出ている字牌は切る牌としての優先度が高まる。
麻雀の戦術や駆け引きとしては、比較的簡単な思考の部類にはなるのだろうが……。
「こういうの、すきですよ」
「奇遇じゃな。儂もじゃよ」
ふふふ、と静かな笑い声が奇妙建築の和室に響く。
その穏やかな気配に、数合わせで入った刑部配下の小狸さえも楽しげな声を漏らす。
そのまま終わらずにいられたら、とさえ思う。
けれども時は経ち、親番は巡り、東一局は南四局へと移っていく。
「一応は儂がトップじゃが……」
その差はごく僅かの接戦熱戦大激戦。
オーラスに全てを賭け、ちるはと刑部は口を噤む。
牌が擦れあう僅かな音だけが響く。
「……リーチ」
先制したのは、ちるは。
だが、僅かに遅れて刑部も追っかける。
「アガリで決着をつけなんだら、つまらんよな?」
「そうですね」
大事なのは勝敗でなく、面白さ。
どう転んでも怨みっこなしの捲り合い。
麻雀の女神が微笑んだのは――。
「……ロン、です」
刑部の捨て牌を見て、ちるはが手牌を開く。
リーチのみ。ロン上がりで13――。
「2600点です」
「……裏が乗ったか」
ゆっくりと露わになった裏ドラが、ちるはをトップへと押し上げる。
「幸運じゃったの」
「それももちろんありますが……」
この一枚が乗るところに生き方が現れているのだ。
ちるははひとつ息を吐いて、それから同卓者と麻雀そのものに頭を下げて。
そのまま、刑部の手をぎゅっと掴む。
「どうしたんじゃ?」
「いえ……おかえし、です」
温かな|心配《頭ぽんぽん》への、ささやかなおかえし。
そのまま少し引き寄せてみれば、ちるはの姿は刑部へと縋りつくようにもなる。
「ありがとうじゃよ、ちるは」
「はい」
穏やかな声が終わりを告げていた。
交わるべきでない二つの道は災厄を前にして絡み合い、そしてまた再び、別々の方へと進んでいく。
けれども、交わった奇跡そのものが消えるわけではない。
「……また、どこかでの」
「……はい」
その言葉に込められた想いは、同じと信じて。
牌が積まれ、妙に神聖な空気が漂う。
「はええ……」
雰囲気に呑まれて囁き、それから目を輝かせて。
らぴかは期待と好奇心に胸躍らせながら、言った。
「こんなことなら通ってる雀荘で雑談ばっかしてないで、麻雀もしておけばよかったよ!」
「……ん……んん?」
刑部が俄かに首を傾げる。
それに、らぴかはハッとして。
「あ! でもでも、コンピューター相手の脱衣麻雀はまあまあやったから、ルールは大体わかるよ!」
「……だつ……なんじゃて?」
何か聞き捨てならない言葉を聞いたような。
さらに首を傾げて四十五度。
渋い顔で唸る刑部を余所に、らぴかは「頑張るよ!」と気合を入れた。
そんならぴかだから、リーチのみロン上がりで1300点、なんてしょっぱい上がり方は目指さない。
「やっぱりでっかい役狙いたいよね! ゲームのコンピューターみたいに役満ばっかりは上がれないだろうけど!」
「……そりゃ、あれじゃろ」
イカサマ――というか、そういうゲームではそもそも麻雀を真剣に打ったりしていない。
化かされているようなものだ。
なんて、刑部は喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
そんなことをいちいち言うのは野暮というもの。
それに、今は大事な儀式の真っ最中。目の前の勝負に集中して――。
「ポン! ……ポン! ポン!」
「狸くらい鳴くのぅ」
「だって、同じ牌が三つ揃ってるのって……良いよね、見た目が!」
ご機嫌ならぴかは山から自模った牌を置き、手牌を倒す。
対々和、ドラ3。2000、4000。
「おお……」
「ね! しかもドラが乗ったら大きい!」
「確かにのぅ」
暗刻でも明刻でも、それがドラ牌ならドラ3確定。タンヤオに合わせるだけで満貫だ。
見た目だけではない、順子では得られない満足感がそこには確かにある。
あるのだが、しかし。
「……あれ?」
ふとしたタイミングから、らぴかはまるで上がれなくなってしまった。
それもそのはず。何か動きがあるたびに表情が揺らぎ、挙句の果てには「あっ」とか「おっ」とか「きたきた……!」とか「ひええ……」とか、声を出してしまうのだ。
刻子推しという情報も相まって、狙いはそれなりの率でバレる。刑部は当然振り込みを回避しようとするし、数合わせの小狸だって分かりやすい上がり牌には手を掛けてくれない。
「あと一個なのに……!」
「なぁにが、あと一個なんかのぅ」
「……はっ!?」
「もしかして、気付いとらんかったんか?」
「……そんなに顔に出てた?」
「声にも出とる」
「うひゃあー!?」
言ったそばから、この反応。
心理戦の面もある麻雀では致命的な弱点だ。
「コンピューターは顔色まで読まんじゃろうけど」
「うぅ……」
自分自身でも気がかりなところはあった。
あったが――同時に「そんなに!?」とも思う。
(「頑張って我慢しよう。……うん、そうしよう!」)
起伏の激しさは、裏を返せば立ち直りの速さでもある。
らぴかは新たに誓いを立て、見るからに「私はもう喋りません」と言いたげな真一文字の口を作って、対局を続ける。
続けるのだが、しかし!
「あ……あわ……はわわ……」
明らかな動揺。
らぴかの手牌には対子の白。そして、既に鳴いた後の中と發。
舞い込んできた大三元チャンス。しかも残りの白はまだ見えていない。
平静を保っていられるはずがない。
(「おねがい、おねがいおねがい、おねがーい!」)
ギブミー白。ギブミー振りこみ。ギブミー32000点。
それを決めればトップ確定だ。
らぴかは強く祈る。祈りは――口から出るまでもなく、モロバレ。
「ロン、1000点じゃ」
「わぁー!?」
すてーん! と横転するらぴか。
「そ、そんなぁ~~! 私の32000点がぁ……!」
「惜しかったのぅ。じゃが、儂は面白かったぞぃ」
刑部は堪えきれずにくつくつと笑う。
その様子を見る限り、封印の儀式としての麻雀勝負は、しっかりと成功を収めているようだった。
「ええと、同じ絵を揃えていくんだよね? ね、刑部さん、あってる?」
「うむ。なかなか飲み込みが早いのぅ」
緑の瞳を丸くしながら小首を傾げるエアリィに、隠神刑部は目を細めて頷く。
マガツヘビ封印の儀式――という名の麻雀大会。
何となく名前くらいは聞いたことがある、というようなエアリィが、きらきらと好奇心に満ちた顔で「おしえてーーっ!!」と身を乗り出してくれば、刑部もそれに応えて最低限を丁寧に教え込む。
ほのぼのとした、老爺と孫の交流を思わせる光景。
それに一役買っているのは、間違いなくエアリィの天真爛漫な気質だろう。
古妖であるはずの隠神刑部も、もはや単なる好々爺にしか見えない。
そんな和やかな空気のまま、古狸流のレクチャーを暫し経て。
「よーし! がんばっちゃうよー!」
腕をぐるぐる、気合十分。卓に着いたエアリィは、いよいよ実践対局に。
齢十歳の頭脳はスポンジのように知識を吸収して、ルールや頻出役の把握は既にバッチリ。
「んーと、これがこーなって……」
牌を並べ替えながら「むむむ」と唸ったり、待ち牌が来て表情をぱぁっと明るくしたり。
勝負の面では些か隙とも言えるが、しかし初々しい打ち方には数合わせの小狸たちも思わずほっこりして。
「……ううん……」
一転、渋い顔を作るエアリィの手牌は少々悩ましい状況。
ツモ牌含めた14枚に浮いたものが見当たらない。
ちらりと河も眺めてみるが、捨て牌込みで考えても打ち手で判断が分かれそうなほど。
「ゆっくり考えてええんじゃよ」
真剣な眼差しを刑部も微笑ましく見守る。
だが、エアリィはそれほど時間を掛けず、中張牌に手を掛けた。
「えーと、そろいそうな時は……リーチっ! って、言えばいいんだよね?」
確認を取りながら曲げた牌は、選んだ理由を完全には言語化できないもの。
迷った時の決め手は|風の囁き《第六感》。これと感じたものを、えいやっと放る。
理詰めで打つ経験者とは真逆の、天啓のような打牌。
だが、これが――意外と当たる。
「……あっ! ロン!」
「なんじゃと?」
思わぬところでの発声に、驚く刑部の前で開かれたエアリィの手は――。
「立直、平和、三色同順、ドラ2……跳満じゃな」
「すごい?」
「結構すごいぞ。ほれ、お主の点じゃ」
「やったーっ♪」
12000点の直撃。点棒を移動する最中に弾ける無邪気な歓声。
打牌の手つきもまだまだ覚束ないが、何やら素質を感じさせる一局。
「ね、刑部さん。これ、たのしいねっ!」
春を飛び越え、初夏の陽だまりのように眩しい笑顔に、刑部も不思議と笑って頷く。
「……あ、その牌、貰うよーっ♪」
高打点の勢いそのまま、エアリィが鳴いたのは白。
さらに続けて、中。そして、發は場に一枚も見えず。
(「……こりゃ不味いのぅ」)
さすがの刑部も眉をぴくりと動かす。
まさかまさかの大三元? そんな香りがしてくれば、多少なりとも緊張や期待が窺えるものだが。
(「こやつ……にこにこと、なんちゅう手を……」)
焦る刑部を余所に、エアリィは楽しげに続ける。
手つきからして聴牌が入っているのは間違いない。
(「後は、来るのを待つだけ……」)
笑顔の中に垣間見える鋭い視線。
祈るように掴んだ牌は――望むものでなく、エアリィはゆっくりと河に捨てた。
次の瞬間。
「ロンじゃ。満貫、8000点じゃ」
黙聴を決めていた刑部がそっと手牌を開く。
稼いだ点の半分以上を取り返される振り込み。
だが、エアリィは一切顔を曇らせず、笑顔を返した。
「えへへー、残念っ」
「……若いのに、大したもんじゃの。悔しかったり腹が立ったりせんのか?」
あまりに無邪気な反応に、刑部がぽつりと呟く。
けれども、エアリィは問われることすら考えていなかったような顔で。
「ん? 笑う門には福来るっていうでしょ? だから、笑顔で楽しんでいれば、いつかは勝てるっ♪」
自信たっぷりに胸を張る。
「こーみえても、あたしは強いからっ!」
自負するのは麻雀の腕ではなく。
もっともっと大きな、言うなれば在り方のようなものか。
そんな心構えは立派でも、やっぱり熟練の打ち手には敵わない。
半荘終わってみればトップ目は刑部。エアリィは惜しくも及ばず、二着。
しかしながら、高打点の上がりに役満未遂。
見せ場は充分に作ったし、何よりも――楽しく麻雀を打つことができた。
「またやろうね、刑部さんっ!」
「うむ。次も負けんぞぃ」
笑顔で別れるための再戦を誓って、エアリィは場を次の対局者に明け渡す。
卓上を過ぎていく東からの風は、とても清々しい余韻を残していった。
「麻雀ねぇ。アプリでしかやったことねぇわ」
じっと赤い瞳で雀卓を見つめて、ボーアは独り言のように呟く。
マガツヘビ封印の儀式――という触れ込みで始まった、刑部主催の麻雀対決。
先んじて他の√能力者たちが熱戦を繰り広げている間、待機観戦以外の選択肢のない者たちは暇を持て余していた。
ボーアもその一人である。
機械の身体に人の自我を宿す彼は、その人間性を仄かに発露させながら卓を眺め、不意に「雀牌や卓はこんな風なのか……」などと考え込む。
そして程なく――ハッと閃いたように身体を揺らして。
「あー、彩果。お前の手持ちで使えそうな端材、分けてくれ」
「? あるけど」
呼びかけた相手、同僚たる運び屋の女はあっさりと了承した。
曰く――“ほんのちょっぴり運が悪い”らしい彩果は、それ故に“こんなこともあろうかと”と言うための様々な布石を用意している。たとえば穴の開いた垂木、たとえば端切れの束、たとえば鉄屑同然の機械部品、たとえば、たとえば、たとえば――。
「……何するつもり?」
「まあ見てろって」
貰うものさえ貰えればいいとばかりに、ボーアは同僚を袖にして作業を始めた。
基本的なDIY知識と、工兵としての経験、それから機械と対極にあるはずの“勘”を用いて、あっという間に作り上げていったのは、半自動卓に牌を備えた一組の麻雀セット。
「……何だかんだ器用だよね、|ポンコツ《ボーア》」
呆気に取られたように彩果が言っても、当の本人は“ついで”の作業に夢中。
ほんの一瞬で出来上がった“牛のキーホルダー”を、静かに佇む同僚ではない女へと手渡す。
『べっぴんさん。こちら、つまらないものですがお納めください』
「……あら、かわいい。いただいてしまっていいのですか」
『ええ』
「では……ありがたく頂戴いたしましょう」
いずもは微笑み、受け取ったそれを懐にしまい込む。
果たしてどういうつもりであったのか――見ない聞かない言わないが社是の彩果が問うことはない。
そんなやり取りの最中、隠神刑部の方は一勝負に決着がついた。
「さて、次は誰じゃったかの」
「俺だよ俺」
ボーアが言って進み出る。
つれて彩果が、さらにはいずもが並び立つと、隠神刑部は三人をしげしげと眺めて頷く。
「成程、次は麻雀三銃士というわけじゃな」
「……三銃士?」
訝しむ彩果に、刑部はニヤリと笑って指をさす。
運賃は安いが打点は高い!
最速にして最強の運び屋――華応・彩果!
変幻自在に一刀両断。
その牌捌きは名刀の切れ味――九段坂・いずも!
卓上を掌握し、全ての点棒を呑み込む。
反逆の麻雀サイボーグ――ボーア・シー!
「――そういうことじゃな」
「いや、どういうことだよ」
堪らず突っ込むボーアに、彩果も乗っかる。
「ていうか、麻雀で“運び屋”って、褒めてなくない?」
「ものすごく振り込む人みたいですね」
いずもが涼しい顔でさらりと言い放ち、卓上がにわかに騒がしくなる。
「それっぽいじゃねーか」
「……はあっ!? 言ってくれるじゃないの、ポンコツが偉そうに!」
やいのやいのと賑やかにやりあう二人。
それをいずもと共に見守って、刑部は満足げに頷き、手を叩いた。
「まあまあ、どうせなら、勝負はこれでつけようではないか」
示すのは勿論、ボーアから提供された手製の麻雀セット。
「いいわね。何だかんだ好きなんだよねー。結構やってたりもするし」
彩果がニヤリと笑えば、ボーアも不遜な声で宣う。
「じゃ、一局打とうか」
「いいよ、打とうよ。折角だしね」
「そうですね。でないと、出られませんものね。お言葉に甘えて一局、失礼いたします」
「……なんじゃって?」
彩果に同調したいずもの台詞に、刑部が首を傾げた。
出られない? はて……。
「……あら? ここが√妖怪百鬼夜行に伝わるという、“アガらないと出られない部屋”……では、無いのですか? え? 違う?」
何処か遠くから、鴉の鳴く音が聞こえてくる。
――さておき、戦いの火蓋は切られた。
東一局。
北家の席に座る彩果は、僅か3巡目で捨て牌を曲げた。
「リーチ!」
同卓の三人が俄かに騒めく。
その気配に、彩果も口元を歪める。
(「麻雀は速度。速さは強さ。……どんだけ綺麗な手を組もうが、高めを狙える手になろうが、結局はアガれなきゃ勝てないのよ」)
なればこそ、押せる時に押す。
それが私の打ち方だ――と、そう言わんばかりに仕掛けた先制攻撃。
上手く転がっても1000、2000点ほどの手。おまけに愚形の待ちだが、構うことはない。
「ツモ!」
一発は成らずも、立直自摸で30符2飜。500、1000。
だが、点数以上に大きいのは刑部の親番を流したこと。
「最初から飛ばすじゃねぇか」
「さすが、バイク乗りはスピード命ということでしょうか」
皮肉とも称賛とも取れる仲間二人の言葉に、彩果は自惚れることなく気を引き締める。
(「私はほんのちょっぴり、運が悪いから……!」)
速攻で稼ぎ、局を進め、他家に大きく上がられても『こんなこともあろうかと』と耐え凌ぐだけのアドバンテージを築き上げておく。
それこそが唯一、自身が勝利するための道と決めて突き進む|彩果《カモ》は――暫しの後に訪れる結果を、まだ知らない。
東二局、親はボーア。
だが、卓上の空気は明らかに、ひとりの女によって支配されていた。
「さて……ここからが本番ですわね」
いずもの金色の瞳が、ほんの僅か細められる。
ただならぬ気配。そこまで配牌が良かったのか。
訝しみながらも手を進め、ボーアがリーチをかければ、刑部も追っかけてリーチ。
いわゆる二軒リーチの厳しい状況。
彩果は速攻で攻めを諦め、現物を払って守りに移る。
押せる時に押す。裏を返せば、押せない時は押さない。
諦めの速さもまた肝心。だが――。
「カン」
静かな声が、卓に落ちた。
いずもが手牌を倒す。親リーチ後のカンに、どうしてか攻めている二人の方が息を呑む。
しかし、本当の恐怖は――ここから。
「ポン」
「カン」
いずも、さらに続けての鳴き。
「……おいおい、随分荒れた場になりそうだな?」
捲られた新ドラを見つめて、ボーアが零した言葉に下手人は微笑む。
「荒れているのではありませんのよ。荒らしているのです❤︎」
「正気か?」
「ええ。……ウフフ、これが九段坂家直伝、カン麻雀でございます……ということで、カン!」
「おいおいおいおい」
サイボーグの声音にさえ焦燥が滲む。
当然だ。ボーアと刑部はリーチ済。大して明槓とポンを仕掛けたいずもは、聴牌してもリーチはできない。
アガっても裏ドラは捲れないのだ。一方で先の二人にはその権利がある。事と次第によっては、ドラだけで二桁に及ぶかもしれない。
“どちらかといえば不利になる”行為を平然とやってのける。
恐ろしや、九段坂のカン麻雀。
その異様な圧力は――不幸の星のもとに、不運の波を呼んだ。
「……ロン、ですね」
「えっ」
マジかぁ、と顔を顰める彩果の前に開かれるいずもの手牌。
対々和、三槓子、ドラ――9。
「三倍満、24000です」
顎下をハンマーで殴られるレベルの激痛。
暫し硬直した被害者は、僅かに稼いだ点棒をあっという間に削り取られて一転、ラス目に落ちてしまった。
だが、これすらもまだ、嵐の序章に過ぎなかったのだ――。
荒れ狂った東二局が、流れを変えた。
ボーアは重たげに腕を組み、目を伏せていた。
(「デジタル打ちは性に合わねぇし、奉納試合みたいなもんだし……」)
刑部を慮って發には頼らず、どうせなら見た目の綺麗な役を狙うか。
そう、軽く思っていただけなのだが……。
(「……イケるな」)
この一局、配牌にもツモにも無駄がない。
「リーチ」
努めて平静を保ち、卓に1000点棒を放り出す。
沈黙が一段と色濃くなり、刑部も、いずもも、彩果ですら、何かを感じ取って身を硬くした。
そして――。
「ロン」
「えっ」
またしても食われる羊となった同僚には一瞥もくれず、ボーアは静かに牌を開く。
そこにあったのは、まるで工芸品のように美しく整った、萬子の么九牌。
「立直、門前清自摸和。平和。純全帯么九。二盃口。清一色。……また三倍満、だな」
刑部が小さく目を見開き、いずもが口元を押さえる。
彩果に至っては、魂が抜けたように項垂れていた。
なぜなら――彼女の点棒は、ボーアの爆発で一気に吹き飛び、
箱下、すなわち破産へと叩き落されたのだから。
「……マジ、か……」
か細く呟く彩果。
だが、ボーアは彼女に目を向けることもなく、淡々と点棒を受け取った。
「これが、麻雀の|現実《リアル》だな」
冗談ともつかない低い声。
東三局の決着は、もはや半荘での順位を決定づけたような気がした。
その感覚は誤りでなく、その後の五局はすぐに終わった。
荒れに荒れた卓上。
卓を囲む四人の間に、奇妙な静けさが訪れる。
「凄まじい半荘だったのぅ。まさか、三人で寄って集ってになるとは……」
「人聞きの悪いこというなよ。アレが勝手に振り込んだんだから」
「アレとか言わないでくれる!? っていうかポンコツ、なんで私のチーにポン合わせてくるのよ! あんな、ちょっかいかけられなかったらねぇ――!!」
「まあまあ……」
宥めるいずもだが、積極果敢の槓でドラも裏ドラも盛りに盛った彼女が一着。
刑部は二着で、ボーアが三着に甘んじたのは難しい手を狙ったがゆえ。
四着の彩果は――もう、そういう星のもとに生まれたとしか、言えなかった。
刑部の唐突な麻雀宣言に困惑する者も少なくない中、魔王様は格と懐の深さの違いを見せつけた。
「成程、概ね理解した! 天才だからな!」
それだけの理由と台詞で卓に着き、琥珀色の瞳を爛々と輝かせて牌の山を築く。
導入のスムーズさは√能力者と対局を繰り返す刑部も大助かり。
基礎知識のレクチャーも不要となれば、早速の実戦に臨む以外ない訳だが――。
「ツモだ!」
堂々とした発声で帝凪が見せつけた手牌は、混沌呼ぶ魔王様の振る舞いとは対極の秩序だった並び。
筒子の二三四が二組に、萬子と索子の二三四が一組ずつ。そして雀頭にも中張牌、索子の七。
「|立直、断么九、平和《メンタンピン》、門前清自摸和、三色同順、一盃口である!」
「ほう、跳満か」
刑部も点棒を支払う最中、思わず唸る華麗で高めの役構成。
「こういう遊戯は美しく勝たねば意味がない!」
高らかに宣言する帝凪のそれは美学。容易くは曲げられず、貫き通すもの。
故に、燦然と自らを輝かせることもあれば、自縄自縛の大きな枷になることもある。
「ロンじゃ!」
安全よりも理念を追求して放った魔王の危険牌に、刑部がすかさず反応して手牌を倒す。
そこにあったのは、四種の風牌の暗刻と三元牌の中。
「|四暗刻単騎待ち《スッタン》、字一色、大四喜じゃ!」
「なんだとっ!?」
ダイナ様の反応は完全に“どんでん返しを喰らった悪役”。
思わず立ち上がって――けれども、その表情は怒りどころか歓喜に沸く。
「本当にこんなことがあるのか! 貴様の今生の運を全て使い果たすような確率だぞ!」
「ない、とは言えない以上、あるんじゃなぁ、これが」
「そうか……そうか! いや、確かにその通りだ! 0%でなければ、今此処で起こるという可能性を決して否定はできないな!」
笑い声を響かせながら帝凪は何度も頷き、そして高揚したテンションのままで隣の小狸から支払い用の点棒を借り受けた。
「借金漬けの魔王様というのも、中々見られる光景ではなさそうじゃのぅ」
「フハハハハ! ……なぜトビ終了にしなかったのだ!」
「その方が面白いじゃろ?」
「それはそうかもしれん!」
意見を合致させた二人は、さらなる愉悦を求めて牌を積み上げる。
「――ときに、貴様のオリジナルは人を誑すのをやめる気はないのか?」
勝負の最中、ふと訪れた沈黙を破るように帝凪が言う。
「俺も他人にとやかく言える経歴ではないが、行き着く先が敵対だけというのもつまらんだろう!」
「そりゃそうかもしれんが……」
たん、と牌を打って刑部は続ける。
「仮に儂がそういう想いを抱いたとしてじゃ、幾つに分かれたかも定かでない肉片の、ほんの一つが根本に影響するはずはなかろうて」
「そうとも限らんのではないか?」
「……そうかのぅ」
打牌に集中しているのか、どうなのか。
徐々に口数が減る刑部を暫し眺めた後、それ以上が返らないと見た帝凪はアガリの宣言と共に手牌を倒して言う。
「まあ、俺の興味は、次に会う貴様からも研究の着想を得られるか、それだけだ!」
「次の儂か」
「ああ。その時が来るまでに、先程貴様が言っていた——全自動麻雀卓の設計でも考えておこう!」
「おお!?」
予期せぬ提案に身を乗り出す刑部。
だが――天才の頭脳を甘く見てはいけない。
全自動麻雀卓。
そうだ。“全自動”だ。
帝凪の脳裏に浮かぶのは、全てを全自動で進める麻雀卓。
洗牌や配牌は勿論、手牌を組むのも打牌を行うのも全て機械。
卓上に牌の山がせり上がり、それをNPC雀士が自動で取得して牌を切り、血も涙もない冷徹な計算で牌効率を追求して、ただひたすら、勝手に行われる対局。延々と、永遠に。
プレイヤーの介在する余地はない。ないというか……。
(「……これのどこが面白いのだ?」)
見ているだけではないか。
顧客が求めるものとのズレに気付かないまま、帝凪は解決策を思案する。
凡百ならば此処で「本当にこれでいいのか?」と問うだろう。
だが、帝凪は科学の天才、完全無欠の魔王様。
故に議論や確認は一足飛びで、刑部に尋ねたのは。
「まずはド派手な演出の実装からだな! 意見をくれ!」
「……演出……?」
ぽかんとした刑部の頭の中でも、また見当違いの方向に話が進んでいく。
そうして誕生するのが、音や光による様々なエフェクト機能を備えた、観戦専用完全全自動麻雀卓……になったのかどうかは、ここではまだ分からない。
断言できるのは、帝凪の麻雀もまた、マガツヘビ封印の儀式にしっかりと貢献した、ということだけである。
「も~、麻雀って! そういう遊びはママから禁止されてるんだけどっ」
呆れたように口を尖らせながらも、ヒバリはちゃっかりと卓に着く。
瞳には隠しきれない悪戯な光を湛えて。
「でもでも、マガツヘビの封印に必要ならしょーがないかあ」
「うむ。これも世界を守るためじゃからな」
向かいに座った隠神刑部が、したり顔で頷く。
それが同調というより、どこか唆すような響きを帯びているのは、気のせいではないだろう。
二人は視線を交えて、どちらからともなく茶目っ気たっぷりに笑い合った。
共闘を経て、すっかり打ち解けたような、和やかな空気が漂う。
「んじゃ、おじいちゃん。私に麻雀教えてっ」
「言われんでも、たーっぷり叩き込んでやるわい」
「えーっ、あんまりハードなのはダメだよ? 初心者には優しく!」
めっ! と指でバツ印を作るヒバリ。
刑部はすっとぼけた顔を浮かべつつも、丁寧に、牌の扱いから教え始めた。
「……ん〜、駒を使ったポーカーみたいな感じ?」
「ま、似たようなところはあるかの。柄の種類や組み合わせで決まるわけじゃから」
「オッケー!」
今度は〇のサインを作って、ヒバリは説明用に広げられた牌を適当に集めた。
「しごできギャルの私にかかれば、ルールの把握もちょー余裕!」
「ほんとかのぅ? ……ん?」
からかうように笑いかけていた刑部の表情が、次の瞬間ぴたりと止まる。
「……それは何を考えて集めたんじゃ?」
「え?」
目をぱちくりと瞬かせるヒバリの手元には、筒子の1と9が三枚ずつ。
さらには白が四枚と、なぜか索子の8が四枚。
三暗刻ないし四暗刻も狙える形ではあるが、このままではリーチもかけられない。
「強そうな絵柄を揃えればいいんでしょ? ……えっうそ、違うの!?」
「……うーん……確かに形は強そうなんじゃが……」
絵柄が強いとか弱いという話ではない。
刑部は説明をロールバックして、もう一度。
「――というわけなんじゃが」
「……これじゃダメなの?」
「ダメというか……足りてないんじゃ。まだゴール3歩手前くらいじゃぞ」
「そうなの!?」
「そもそも何でこうなったんじゃ?」
「え、このおっきい丸は強そうだし、小っちゃい丸が9個集まったのも強そうだし……」
「8索は?」
「なんかビームとか撃ちそうで強そうじゃない?」
「ビーム……?」
もしや、ドローンが2機描いてあるようにでも見えているのだろうか。
刑部は精一杯の想像を働かせながら、さらに問う。
「この白は?」
「これって何にも書いてないから、ジョーカーとかオールマイティとか、そういうのじゃないの?」
「そういうのじゃあないのぅ……」
じーっと、刑部の視線が突き刺さる。
「……しごできギャルはどこ行ったんじゃ?」
「……しごできギャルはいま|オフ《休み》なの! 蛇退治大変だったでしょ!」
「ほーん……?」
「おじいちゃん、なんでそんなニヤニヤするの!?」
少しばかり顔を赤らめて抗議するヒバリに、刑部はしげしげと無言のまま見入った。
それは慈しみ、愛おしむような眼差しで。
そうして、三歩進んでは一歩戻るくらいのペースで、チュートリアルを終えた後。
迎えた実戦の場で――当然ながら、ヒバリは刑部の胸を借りる形となる。
「ロンじゃ。2900点じゃよ」
「ちょっとー! 私ももう少しで上がれそうだったんだけど!」
「早い者勝ちじゃよー?」
「も~っ!」
しぶしぶ点棒を渡したヒバリは、山牌を崩してまた混ぜる。
がらがらと転がり滑る牌の音が、卓上に賑やかな空気を戻していく。
そこに、ふと訪れた、暫しの沈黙。
ヒバリは間隙にふっと微笑み、ぽつりと零した。
「……私ね、おじいちゃんと一緒に戦えてすっごく楽しかったんだ〜」
それは、つい先ほどの共闘を、もう懐かしむような声音だった。
「普段バチバチにやり合ってる妖怪と肩を並べて戦える機会なんてそうそうないし? おじいちゃんヤバい強いのに、お茶目で可愛くて優しいし?」
「儂は古妖じゃぞ。お茶目で可愛いところはあるかもしれんが、優しくはないわい」
「はいそれ嘘でーす。今だって、優しく麻雀教えてくれてるでしょ」
「お主から点棒毟り取ってるがの」
「そこはじゃあ、もう少し手加減して!」
むっと膨れっ面を作って、またすぐにヒバリは表情を崩す。
その笑みに滲むのは、心の底からの楽しさと、それからちょっぴりの切なさ。
「……これでお別れとか嫌だから、また麻雀教えてね」
「また、か」
かたん、と刑部が牌を静かに置く。
その仕草には、どこか柔らかな響きがあった。
「……対局相手が増えるのはいいことじゃからな。また機会があれば、いつでも教えてやるわい」
「ほんと!?」
「うむ」
短く答えながら深く頷く。
それから刑部はニィっと悪そうに笑って。
「ま、儂と勝負になるまでには、そーとー時間がかかりそうじゃからのぅ?」
「あー! そういうこと言うんだ!」
今に見ていろと、ヒバリは対局に集中する。
最終、南四局。
配牌は上々。真剣な眼差しで牌を見つめ、指先でそっと並びを整える。
対する刑部もまた、無言で牌を打ち続ける。
焦らず、堅実に。このままいけば、刑部の勝ちは動かない。
だが――そう簡単にいかないからこそ、麻雀は麻雀なのだ。
「……おじいちゃん、これだけは覚えていてね」
ふいに囁かれたヒバリの声に、刑部が眉をひそめる。
「何をじゃ?」
「私、風を読むのは――けっこー得意なんだ」
それは、弾道計算のように緻密な分析ではない。
数字にも論理にも還元できない、もっと原始的な直感。
けれども確かに、彼女の左耳に宿る風切羽は告げていた。
卓上をそよぐ、目には映らない微細な流れを。
この一手を掴め、と。
ヒバリは山へ手を伸ばす。
指先に触れた牌の重みが、すっと手に馴染む。
「はい、ツモ!」
迷いなく告げる、朗らかな声が静かな卓上に弾んだ。
次の瞬間、倒された手牌に並んでいたのは――東、南、西、北。
四つの風牌を、三つずつ。見事なまでに揃った暗刻の列。
その端で一つだけ佇む|鳥《一索》に、同じ柄のツモ牌を添えれば。
「……えーと?」
首を傾げるヒバリに、刑部は暫し言葉を失って。
それから、ぽつりと呟いた。
「四暗刻、大四喜……ダブル役満じゃな」
「何点?」
無邪気な問いに、刑部は苦笑いを浮かべながら答える。
「子のダブル役満じゃから16000、32000の64000点じゃが、32000点取られるのは親の儂じゃな」
最後の最後で炸裂した、ヒバリスペシャル。
刑部は呆然と卓上を見下ろすしかないが――。
「えっへへ、これならリベンジに会いに来てくれるっしょ?」
南風のように温かな笑みを向けて言うヒバリ。
渋い顔をしていた刑部も、それに目を細めて答えた。
「……もちろんだとも。絶対に、ぜぇーったいにリベンジしてやるわい!!」
戦場を駆ける可憐な獅子は今、あるものに心を囚われていた。
マガツヘビの封印? いや、違う。それは勿論、重要だが。
儀式としての麻雀? いいや違う。それも当然、備えてはきたが。
(「……小狸、可愛くない?」)
言い知れない胸のときめきを感じながら、立ち尽くすクーベルメの視線の先には二匹の小狸。
どうやら何度かの対局を終えた麻雀卓を掃除しているようだ。点棒を片付け、牌を綺麗に拭き上げ、卓に落ちていた塵を払い、刑部にお茶を出して。
(「……えっ、えっ、可愛くない?」)
どうしても目が離せない。
戦場で見かけた時は、妖怪軍団とタッグを組んで勇敢に戦っていたりしたのに。
奇妙建築たる和室の中をぽてぽてと歩く姿からは、覇気でなくマイナスイオンしか出ていない。
(「お、お礼とか言った方が良いよね……ね……?」)
マガツヘビ戦では多少なりとも世話になったのだ。
何も不思議なことはない。不自然ではない。
そのはずなのに、クーベルメは何故だか妙に緊張して。
気付いた時には、まるでブリキの人形のように片腕をぎこちなく振っていた。
(「~~!!」)
声にならない動揺。
作戦開始からそれなりの時間も経ち、予期せぬ不調でも起きたか。
頭の中が真っ白になり始めたクーベルメの――その足元にぱたたたと駆けて来たのは、一匹の小狸。
「何か用ぽこ?」
「ぽこっ!?」
予定外の語尾がクーベルメのツボを射抜く。
ぽこ……そんな……そんな、たぬきだからって、そんな……。
「どうしたんだも?」
「だもっ!?」
不意を突く二匹目の登場。このままでは身が持たない。
クーベルメは荒れ狂う心を抑えて、いつも通りの自信に溢れた表情を笑顔に変えて。
「さっきはありがとう。一緒に戦ってくれて、心強かったわ」
どうにかこうにか、お礼の言葉を絞り出せば、狸たちも相好を崩す。
「こちらこそありがとーぽこ」
「うちのぎょーぶさまがお世話になったんだも」
(「はぁぁぁぁ……!」)
なんと出来た子たちだろうか。
感激するクーベルメの心の中で、ミニクーベルメが野砲を打ちまくって暴れ倒す。
その勢いはとうとう欲望の壁を破壊するに至り、戦地で活躍する少女人形の口からは思わず本音が零れ出た。
「あ、あの……ちょっと、撫でさせてもらっても、いい……?」
「も? なでてくれるんだも?」
小狸は満開の笑顔を咲かせながら、おずおずと頭を差し出してくる。
こうなったらもう突撃しかない。
クーベルメは微かに震える手を小狸の頭に置いて、ゆっくりと左右に動かした。
ふわふわと柔らかくも芯のある毛の感触。
「……あったかい」
「ぽへー……」
目を細めた小狸はされるがまま。
それどころか、もう一匹も空いている方の手に頭を預けてくる。
なんということだろうか。
「ここが楽園なのね……」
もうどこにも逃げられない。
かくして、クーベルメは暫しの間、平穏と安寧を甘受した。
「……で、なにしとるんじゃお前たちは」
「も?」
問われた小狸たちは、クーベルメの両隣に座り込んでいる。
どうしてもその温もりを手放せなかった少女人形と、甘やかされたい小妖怪たちの利害が一致した結果だ。
「別にいいじゃない。取って食べようってわけじゃないんだから。ね?」
「ぽこ」「だも」
そうしてすっかりと打ち解けた小狸たちは、クーベルメがくれたチーズケーキ味の糧食を頬張り、もっきゅもっきゅと美味しそうに味わっている。
「……まあ、別にええんじゃが」
目下の最重要事項はマガツヘビ封印の儀。
つまり、麻雀だ。
「お主、打てるんかの?」
「大丈夫よ、ルールは何とか覚えてきたわ!」
「初心者っちゅうことじゃな」
「そうね……! カードゲームなら得意なんだけどね~」
「それならまあ、やっとるうちに覚えるじゃろ」
素質ありと見たか、刑部は余計な説明を加えずに洗牌を始めた。
クーベルメもそこに加わり、新しく呼び出された小狸が数合わせとして卓を埋める。
程なく始まった対局は、戦前の予想に反してクーベルメが先手を取った。
「チーよ!」
上家の小狸が捨てた二索を鳴いて、カンチャン待ちのテンパイ。
愚形の安目だが、親番は刑部。さらっと流してしまうだけでも価値はある。
(「カードもスキルの発動タイミングを逃さないのが大事だし……」)
ずっと私のターン! ほど強いものはない。
チャンスを逃さず手番は渡さず、そんな積極的な食い仕掛けは、一先ず実を結ぶ。
「ツモ! えーっと……」
「300、500ぽこ」
小狸のフォローで点棒授受をこなして、さらに次局。
「ポン! ……ポン! ツモ!」
「自風と中で700、1300だも」
「おねーちゃんつよいぽこ」
可愛い応援団も味方につけたクーベルメは、着実に点を積み重ねていく。
――が、しかし。
「ロン! 満貫じゃ!」
刑部からの直撃。数度のアガリで稼いだ点が一気に奪われる。
やはり経験の差は埋めがたいのか。
「……こうなったら」
立っている者は親でも使え。
使える予備素体はどんどん使い倒せ。
「集合!」
号令一下、集まったのは|少女分隊《レプリノイド・スクワッド》を形成する12体のバックアップ素体。
「おねーちゃんがふえたぽこ……」
目を丸くする小狸をひょいと抱えて、クーベルメの手牌を見た分隊は各々に演算を行っていく。
「刑部さん、これって反則だったりする?」
「……ま、別にええじゃろ。儂の手牌を覗いたりするんでなければな」
「そんなことしないわ」
分隊を呼んだのはあくまでも思考するため。
本体よりは少々ぼんやりしているが、それでも。
(「三人寄れば文殊の知恵ってね」)
クーベルメは不敵に笑い、分隊と顔寄せ合って思案に耽る。
(「ここは思い切ってドラを切るのよ」)
(「それを捨てるなんて……まず字牌を切るべきよ」)
(「自風牌はまだ一枚も切られてないのよ? ここから混一色だって狙えるわ」)
(「混一色……?」)
(「役牌と一種類の数牌で揃えることだも」)
(「それなら鳴いていくのもアリよね」)
(「ポンよ、ここはポンして攻めるしかないわ」)
(「そうね、ポンしてリーチ、これよ!」)
(「何言ってるの、ポンしたらリーチはできないでしょ」)
(「あっ……」)
「……初心者が増えただけじゃない!」
残念ながら、1を13回掛けても1にしかならない。
何が文殊の知恵だ。これでは船頭多くして船山に上るではないか。
クーベルメは頭を抱えながら牌を打ち、またすぐさま刑部に振り込んでしまった。
(「私が増えてもダメね……いっそ変身した狸さんが紛れてくれてたら、頼りに……」)
そんな邪なことを考えて、ふと気付く。
(「役牌と一種類の数牌で揃えることだも」)
(「……あれ?」)
明白な違和感。ふと見回せば一匹足りない狸。
「整列! 番号!」
「1」「2」「3」「4」「も」
「ストップ!!」
両手を広げて遮り、見据えた“クーベルメ”の後ろに覗く尻尾。
「……狸さん?」
「も?」
「なーにをやっとるんじゃ……」
呆れ加減の刑部に言われると、変化を解除した小狸は恥ずかしそうに頭を擦った。
彼は彼なりにクーベルメの役に立ちたかったのかもしれない。
それとも遊びたかっただけか。
いずれにせよ、麻雀対決は刑部に軍配が上がった。
「参りました~」
両手を挙げて白旗を振り、一息ついたクーベルメは笑う。
「でも、楽しかったわ! 次は負けないんだから、絶対またやりましょ!!」
「次……うむ。また次があれば、いつでも受けて立つぞ」
刑部はどんと胸を張り、最後に一つ握手を求めた。
…………。
……。
かくして、マガツヘビ封印の儀は成った。
「此度の共闘、√妖怪百鬼夜行の妖として感謝致すぞ」
きりりと勇ましい表情で宣う刑部が呪符をかざすと、√能力者たちは光に包まれる。
暫くして、視界が戻ってくると、見えたのは八狸塚の町並み。
どうやら奇妙建築の外に出たようだ。
町にはマガツヘビの暴虐が刻まれているが、幸いにして人的被害はない。
多少の時間はかかっても、住人たちは元の暮らしに戻っていくだろう。
それは√能力者たちも、そして古妖も同じ。
隠神刑部が此処で見せた顔は数多の横顔の一つに過ぎず、どこかで再び蘇ることがあれば、あれはマガツヘビのように悪逆非道な振る舞いで世界を脅かすのだろう。
誰しもが理解していることだが――しかし。
…………。
……。
「――八狸塚には狸の守り神様が居ってねぇ」
「ほれ、あそこ。あのでっかい麻雀牌の塔があるでしょう」
「マガツヘビが――そう、あのマガツヘビよ。あれが町を荒らした時、妖怪や人間と手を取り合って戦った狸さまが、あそこに眠っとるんじゃ」
「その狸さまに奉納するため、八狸塚ではよく麻雀大会をやってるんです」
「どうです? あなたも一局、打って行きませんか?」
こうして八狸塚が麻雀の町になるのは、また別のお話。