シナリオ

鬼をも殺す酒精の味

#√妖怪百鬼夜行 #マガツヘビ #マガツヘビの掟

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 #√妖怪百鬼夜行
 #マガツヘビ
 #マガツヘビの掟

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●Accident
 今日は藤祭りの宵宮だった。
 たまたま氏子総代の孫娘だったので手伝うことになったのだが、お神酒のチェックだの備品の数を数えたりといわば雑用である。藤も祭りも好きだが、氏子としてあれやこれやするのはあまり興味がない。しかし手伝えばお菓子作りの基本ツールを買ってくれるというので、ここはいっちょうやってやるかと重い腰を上げたわけだ。
 ――それなのに。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOONNNN!!!!!!》」
 腹の底を揺さぶるような絶叫が境内に満ち満ちている。
 母に口を塞がれ、扉を閉じた本殿の中でなるたけ身を小さくして隠れていると、ソレはほどなく何処かへ去って行った。突然現れた巨大なバケモノは、灯篭や藤棚をありったけ壊して、訳の分からないことを叫びながら裏山のほうへと消えて行ったらしい。アレがいつ戻ってくるかもわからないため、ただ震えて隠れることしか出来ずにいる。
「アレ、なに? 古妖?」
 口をふさぐ母の手を外して氏子総代である祖父に訊ねると、祖父は青白い顔のまま「おそらく」と頷いた。
「でも、見たことない古妖だった」
「アレはマガツヘビだよ」
 横から割って入ってきたのはこの社を護っている鴉天狗だった。彼は険しい顔をして錫杖を手に取ると、ゆっくりと立ち上がり本殿の扉に手をかける。
「君たち人の子は、隠れておいで。応援を呼ぶから、決して一人にはならないように」
 そう言い残して彼は危険な屋外へと飛び出してしまった。それに続くようになぜか妖怪だけが、我も我も出て行ってしまい、あとに残された人間たちは訳も分からず茫然とするだけ。
 幸い本殿は他の舎と廊下で繋がっているため、食料や飲み水に困ることはない。篭城することも可能なため、とにかく外からは見えぬ、それでいて外からの衝撃には強そうな場所で隠れていようとみなで話し合い、さっそく行動に移すことにした。
 そのときだった。
 バン、と大きな音が鳴って、きっとその場に居た全員が悲鳴を上げた。一斉に振り返るとそこには、扉を破壊して内に入ってこようとする先ほどのバケモノ――マガツヘビがいる。「ヒッ」母が短く息を呑んだので、そのまま口を塞ぎ悲鳴を抑え込む。下手に刺激しては逆効果だと思った。
 ソレは、本殿にいる人間たちを舐めるように見渡すと、大きな口を上けて――。
「ギャッッ」
 短く、悲鳴をあげた。
 ずん、と顎から落ちたマガツヘビは先ほどのよりは小ぶりだった。そして、よくよく見ればその奥に誰か立っている。境内に灯された灯篭の火を背にしているせいで姿かたちはよくわからない、ただ切り揃えられた長い髪が夜風を浴びて扇のように広がっている。
「……嘘でしょ」
 思わず呟いた。母が視線を落として、問うてくる。
「おいおい、たった一発で眠っちまったわけないよなぁ?」
 伏した小型のマガツヘビを素足で蹴りつけ、紫煙をくゆらせた煙管を口元に運ぶ。男の言葉に唸り声を上げた小型マガツヘビは、起き上がると同時に腕を振り上げ細い影に向かって襲い掛かる。
 身を翻すと、袖を通していないジャケットがひらりと踊る。くつくつと喉の奥で笑うそれは、八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅。
「おいお前ら。あとで働いてもらうからそこから動くんじゃねぇぞ。あとそこの酒、てめぇの命より大事に守んな」
 びし、と煙管でお神酒の樽を差した煙々羅は、小型マガツヘビを連れて外へと出て行ってしまった。

●Caution
「『マガツヘビの掟』というものをご存じですか?」
 物部・真宵(憂宵・h02423)はそう前置きしたあと、襲撃を受けた宵宮について説明を始めたのだった。半人半妖である彼女もよく知るものであったのだろう、星詠みの立場で語るその様子は常では考えられないほど切羽詰まったものだった。
『全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし』
 マガツヘビが蘇りし今、その取り決めが動こうとしている。
「なんと、古妖の側から一時休戦と共闘の提案がありました」
 幾つにも分かれた肉片の一つさえ強大な古妖。その総力を持ってしてもたった一体のマガツヘビが討てぬという。
「今回は古妖と共同戦線を張り、マガツヘビを撃破することが目的です」
 マガツヘビも√能力者だが、短期間で繰り返し何度も倒すことで、やがて蘇生しなくなるという。
「今回、協力することになっている古妖は八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅です。この煙々羅もまた、肉片のひとつ。バレンタインのときに依頼した古妖ですが……まぁ、こちらを憶えていることはないと思います」
 まさかつい最近、撃破の依頼をした古妖と共闘することになろうとは。別個体であるならば、あちらが変に突っかかってくることもないだろう。そのため、協力関係にある古妖を攻撃したり、機嫌を損ねるような言動は避けてほしい。
「煙々羅はとある神社の境内で応戦中です。宵宮の準備をしていた方たちは本殿に避難済みのため、避難指示などは気にせずに戦ってください」
 そして、どうも煙々羅はお神酒を気に掛ける様子があったとか。まさか戦闘中に呑むはずがないので、のちのち何かに利用するつもりなのかもしれない。
「もし煙々羅から何かしらの提案がなされた場合、それに助力してほしいのです。今はマガツヘビのことしか頭にないはずですので、こちらに危害を加えることはまずないでしょう」
 抵抗を感じるものもいるかもしれないが、√妖怪百鬼夜行に住まう者たちのためだと思い協力してほしい。
「わたしの想いも皆さんと共に在ります。どうか、どうかよろしくお願いします」

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第1章 ボス戦 『八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅』


凌・麗華

 鴉が鳴いている。
 群れとなって上空を旋回しているのは、天狗に呼びかけられた|同胞《はらから》たちだろうか。境内に続く大階段を上っていた|凌・麗華《リン・リー・ホワ》(不会放弃・h06251)は、杉の巨木が押し上げるような夜空を仰ぎ、額に手を翳す。おそらくはあの下に小型マガツヘビがいるのだろう、そうと察して残りの階段を一気に駆け上る。
 麗華が駆け抜けると、藤の青紫とピンクのグラデーションが大きく波打ち、やわらかくて上品な甘い芳香を揺蕩わせる。かくして開けた境内に躍り出た麗華の大きな赤い瞳に映り込んだのは、禍々しい気を纏った小型マガツヘビと対峙する八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅。
「呪拳の煙々羅かァ。格好いいじゃないか。嫌いじゃないね」
 白い髪を優雅になびかせ、踊るようにキレのよい格闘で小型マガツヘビと戦うその姿を見て、麗華は心が躍るのを感じている。目まぐるしく動き回っていたにも関わらず、煙々羅はすぐ麗華に気がついたようだった。彼は小型マガツヘビの額を蹴って大きく身を翻すと麗華の隣に着地して、それから「やっと来たか」と少し乱れたジャケットの襟元を胸前に引き寄せた。
「というわけで共闘と行こう」
「見た感じ、お前も拳法家のようだな」
「まぁね。そういえば酒が好きなのかい? だったら益々気が合うね」
「どうだかね」
 鼻で笑った煙々羅は、どこか楽し気な横顔をしていた。
(「と言って油断はできない。元は敵だろう。ちょっとは警戒しておこう」)
 心に留め置くことで、とっさの判断や反応が変わってくる。麗華は胸の内を悟らせぬよう表情には出さぬようにして、それからそっと煙々羅に問うてみせた。
「呪煙拳っての、見せてもらえないか?」
 小型マガツヘビが、敵が増えたことでなにやら興奮している様子。がりがりと闘牛のように地面を掻く仕草から視線を留めたまま、
「敵が小型マガツヘビの群れを纏ったら、アタシが引き付けるからそいつでドカンと頼むよ」
 そう提案する。煙々羅は「わかった」短く返答すると、すぐに煙化して呪詛を溜め始めた。その姿が掻き消える矢庭に小型マガツヘビに向かって走り出す麗華。己に向かってくる麗華を認めた小型マガツヘビはその身に同胞の群れを纏い始めた。悍ましい気迫が風とともに頬を掠めていく。
 油断できない強さだというのは、膚で感じている。ならば敵の攻撃を待っていては意味がない。
 攻撃は最大の防御。麗華は咆哮する小型マガツヘビに向かって飛び上がると、上空から大気を斬り裂くような急降下の蹴りで頭蓋をぶち抜いた。地面に着地した麗華は、そのまま後ろ蹴りで顎下を蹴り上げる。目に止まらぬ|疾《はや》さの|龍飛鳳舞《ロンフェイフォンウー》、直撃を喰らった小型マガツヘビが仰向けに倒れ込み、範囲攻撃の巻き添えを喰らったものも在る。まだ絶命に至らなかった個体が禍津ノ爪を振り払い麗華を狙うが、爪が裂いたのは彼女の残像である。
「さあ、自慢の拳を見せておくれよ、煙々羅!」
 楽し気な言葉に、どこかで笑い声が漏れ落ちるのを聞いた。
 瞬間。麗華の姿を捜していた小型マガツヘビは、自身の懐に何か白いものを見つけた。だが、見つけたときには既に己の胸部に拳が突き刺さっていることを知る。容易く肉を貫き、身の内から蝕む呪詛を撃ち込んだその拳――。
「ったく。調子の狂うやつが来たもんだ」
 小型マガツヘビから拳を引き抜いた煙々羅は、汚れを振り払いながらニヒルに笑った。

エレノール・ムーンレイカー

 やわらに棚引く藤の花、その幾層にも折り重なったグラデーションが灯篭の灯りに照らされるさまは実に美しかった。どこか妖艶めいた気配すら感じさせ、まるでどこぞへと|誘《いざな》われているかのようだ。
 本殿から少し離れた東門から神社内に潜り込んだエレノール・ムーンレイカー(怯懦の精霊銃士・h05517)は、そんな藤の花をゆっくりと眺めることも出来ぬまま、苛烈な戦闘音がする方へと駆けていく。
(「――なんというか、不思議な感じですね。かつて相対していた相手と共同戦線を組むというのも」)
 八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅。
 それはバレンタインに発生した辻斬り事件の元凶として戦ったばかりの古妖であった。当時の古妖とは別個体とはいえ、元は同じもの。性質は変わらぬであろう。
(「煙々羅さんはすでに神社の境内で応戦しているんでしたっけ」)
 とんとんっ、と軽い身のこなしで本殿の屋根まで駆け上がったエレノールは、探すまでもなく広い境内の中央で、小型マガツヘビと戦っている煙々羅を視認。双方まだこちらに気がついていない様子、なれば自分は煙々羅を後方から援護する形で支援しよう。
 そうと決めてすぐさま水の精霊の加護を受けたライフル型の竜漿兵器、水精の長銃「オンディーヌ」を手に体勢を低くすると、息を殺して狙いをつける。照準の奥で目まぐるしく動き回る小型マガツヘビが、大きく腕を振り上げた。降り下ろすまでのわずかな隙を突くように一発を撃ち込むと、それは掌を貫通して軌道をずらす。
 目の前を横切った素早い魔弾に、反射的に後方へと飛びのいた煙々羅は、的確に本殿の屋根上を振り仰ぐ。それからスナイパーよろしくオンディーヌを覗き込むエレノールが片手を挙げたのを見、口端を吊り上げるように笑った。
 だが小型マガツヘビは邪魔されただけでなく一撃を喰らったことに腹を立てたらしく、咆哮したのち踏ん張るような動きをしてみせた。見る見る内に総身に集まっていくのは黒き妖の火だ。エレノールはこの場に居ると本殿を巻き添えにしてしまうと判断するなり、すぐさま屋根上を駆け敵の意識を己に引き付ける。
(「――来る」)
 直感した瞬間のことだった。
 大地を掻き毟るような激しさでこちらに突進してくる小型マガツヘビが、エレノール目掛けて禍津ノ尾を振り払う。視界全てを埋め尽くすほどの巨大な尾を前に、|世界樹の恩寵《グレイス・オブ・ユグドラシル》を発動。世界樹の根源の力と完全融合したエレノールから放たれた聖樹の鎖は小型マガツヘビの尾を拘束、勢いを殺された巨体が今度は宙に浮き、空間を刈り取るような動きで瞬時に移動する。状況を把握できていない無防備な姿をさらした小型マガツヘビへと、至近から狙撃したエレノールは巨体越しに叫んだ。
「後方支援はわたしが行いますから、存分に暴れてください!」
 小型マガツヘビは捕らわれた尾を跳ねさせ、四肢に力を籠める。ぐぐ、と筋肉が膨張してあわや鎖が弾け飛ぶ――そうと思われた、そのときだった。
「――いいねぇ」
 パン、と乾いた音が境内に鳴り響く。
 瞬間、弾ける小型マガツヘビの頭部。噴き出した血が雨となって砂色の地面に花を描く。ぽつり、ぽつりと毒々しく。
 小型マガツヘビの側頭部へと呪煙拳を見舞った煙々羅は、絶命した獣を一瞥して満足そうに双眸を細くした。
「上出来だ」

九段坂・いずも
七々手・七々口
アダルヘルム・エーレンライヒ
ルイ・ラクリマトイオ

 藍色の夜空の下を連綿と続く灯篭、そのあたたかな灯りに照らされた藤の花が静かに揺れている。鼻先をくすぐる品のある甘い香りに混じる微かな鉄の臭いは、参道の大階段を上るにつれて濃くなってきた。
 頬のそば近くを流れて行った風に血の匂いを感じた九段坂・いずも(洒々落々・h04626)は、ひらりと手で払うような仕草をしたあと、そのまま指先を顎に添えてうっとり微笑む。
「この神社には秘蔵のお酒があると聞きました」
「お神酒があるんだったか?」
 先立って歩いていたアダルヘルム・エーレンライヒ(月冴ゆる凍蝶・h05820)が頸だけで振り返ると、殿のルイ・ラクリマトイオ(涙壺の付喪神・h05291)が双眸を優し気に細めて笑みを刷く。
「古妖の方も気にかけるほどのお酒……となると、やはり気になってしまいますね」
「俺はこの地出身ではない故に掟については知らんが、旨い酒と平和の為なら共闘あるのみだ」
 頬に大きな傷跡が残っているアダルヘルムは、一見すると歴戦の騎士特有の冷然な面差しをしていたが、微笑うと表情がぐっとやさしくなって親しみを感じさせた。
「掟? あー、あったねそんなもん。……最近まで知らんかったけど」
 三人の話に耳を傾けながら面倒臭そうに階段を上っていた七々手・七々口(堕落魔猫と七本の魔手・h00560)は、あくびを一つ。酒と聞いてやっては来たが、さてその|件《くだん》の酒は果たしていつ口にできるやら。
「これはひとつお手伝いするしかありませんね。きっちり働いて、ご相伴に預かれることを願いましょう」
「藤を眺めながら勝利の盃を掲げる為にも、先ずは邪魔者に退場して貰うとするか」
 いずもとアダルヘルムが二人揃って最後の一段へと足をかけた。そのあとを、穏やかな表情を浮かべたままついていくルイ。
(「いずもとアダムヘルムが先陣切ってくれるらしいし、オレはのんびり行こうかね。今日はスロースターターな気分だし」)
 七々口は何だかいつもよりだらだらした様子で階段を上りきって、それから開けた境内を見て――「うわぁ」半目になった。
 確かに上りきる前から分かってはいたが、境内は想像を上回るほどの荒れ模様であった。噎せ返るような血の匂いが辺りに充満しており、ここで絶命したのだとはっきり分かるほど、獣の形を作るように玉砂利がどす黒く染まっている。
「今度は団体さまかぁ?」
 巨体の獣の顎下を拳で突き上げ、そのまま身を翻して地面に着地した八尾白組舎弟頭・呪拳の煙々羅は、四人の姿を目にするなり煙化する。どうやら時間が惜しいのか、すぐに呪詛のチャージに入ったようだった。
「煙々羅さん、何かいいものを見つけたそうで。独り占めなんてこと、言いませんよね?」
 いずもが揺蕩う煙に呼びかけると、少しの間を挟んだあと、天から降り注ぐような笑い声が辺りに広がった。
「何を言ってるのかと思えば、もしかしてお前ら酒が目当てか? 俺はあれを呑むつもりはねぇよ」
 四人は思わず目配せする。
「いける口なら上等。――とにかく今はこいつらだ」
 笑い声が途端に低くなる。
 獣――小型マガツヘビは一気に増えた敵を視認すると、天に向かって吠え始めた。まるで仲間を呼び集めるかのように。すると、幾らも間を置かず境内を囲う塀の奥から一体、社務所の屋根上を飛び越えて現れたのが二体、自分たちを包囲するように牙を剥く。まだ距離はあるのに、まるで膚を舐められているような生温かさが頬を撫でていき、張り詰めた緊張感が耳鳴りを寄こす。
「そうですね。まずは、なすべきことを着実に」
 慌てず、そして決して焦らず。
 穏やかな表情を保ったままのルイは、場に居る味方全員に|再帰《さいき》のリーシュを接続することでこれを戦闘の合図とした。
「折角のお酒なのですから、「勝利の美酒」としていただきたいものです。美しい藤の花を見ながらでしたら尚のこと、美味しく感じられるでしょう」
 願いが込められたリーシュによって、命中率と反応速度が1.5倍に強化されていくあたたかな力を感じたいずもは、
「支えがあると違いますね」
 艶っぽくウインクをひとつ。
 そして、そのまま妖刀「山丹正宗」を引き抜いたかと思えば、
「さて、先陣はわたくしが務めましょう」
 風を切るように走り出す。そこへ並走するのは大剣型竜漿兵器を手にしたアダルヘルム。
「先陣、失礼しますね?」
「ああ、いずも殿。先陣は任せたぞ」
 細いヒールを物ともせず、瞬く間に小型マガツヘビへと一気に距離を詰めたいずもは、懐に飛び込む矢庭に素早く一閃。刃が翻った瞬間すらその瞳に映りはしない。
「九段坂の剣は刹那の剣、抜いたら最後、御首頂戴」
 きらりと奔った光が獣の首を静かに薙いで、天を駆ける。切っ先が鞘へと納められたとき、まだその首は繋がっていた。意識もあった。
 しかし。
 ずるる、と視界が大きく流れる。意識とは別に傾く世界、獣に残された手段は瞬きだけ。同胞を――もはや己を殺されたと言っても過言ではない分身を前にして、別の獣が咆哮しながら黒き妖の火を溜め始める。
 だがそこへ、呪詛をチャージし終えた煙々羅の拳が振り抜かれる方が速かった。高濃度の呪詛が込められた拳によって脳を揺らされた獣が、ぐわんぐわんと頭部を揺らしてよろけている。そのときアダルヘルムは、別の獣がこちらに向かって駆けてくるのを見た。あちらも総身に纏うものは黒き妖の火。
「煙々羅殿、次は暗殺者の煙をお願いしたい」
 すれ違いざま煙々羅へとそう呼びかけたアダルヘルムは、返事を聞く前に獣に向かって駆けていく。小型マガツヘビもわき目も振らず大地を揺らして、その尾を大きく振りかぶった。アダルヘルムは禍津ノ尾が自身に届くより先に、無骨で巨大な大剣型竜漿兵器を手にしたまま天高く飛び上がる。
 それは、優れた膂力によってドラゴンさえも叩き斬る一撃。
 上空から小型マガツヘビの眉間を串刺しにするようにして着地したアダルヘルムは、獣の背に乗り上げた煙々羅と目があった。彼は首裏に刺した毒針仕込みの煙管を引き抜くと「えげつないな」とどこか他人事のように笑う。二人はどちらからともなく、弾かれたようにすぐさま獣から距離を取ると、いちど境内の様子を見渡した。素早く二体は処分できたようだ。すでに残滓すら消えたものもいる。
「ルイ殿の支援には感謝だな。敵を格段に倒しやすくなった」
「お役に立てたなら、何よりです」
 二人の会話を聞いていた煙々羅は、どうやらルイのリーシュが己にも効果をもたらしていたことに、今さら気がついたようだった。「ああ」「どうりで」いつもと違った手応えに納得した風に唇を尖らせる。
 ルイによって支えられた戦線は好調であった。
 獣が駆けまわれるほどに確かに境内は広くはあったものの、一般人が隠れている本殿や周囲のまだ無事な藤棚やご神木にはいっとう気を配っていた。すべてを守ることは難しくても、避けられるのであればそれに越したことはない。
 そんなルイの慈愛に満ちた思いとは裏腹に、七々口は斃れても斃れても群がってくる獣たちをみて、あーやだやだと眉根を寄せていた。
 とは言え、のんびりだった七々口もルイのフォローによって「いつもよりキレッキレよ、キレッキレ」と自負している。使用する√能力は|いずれ死に至る《タイダ》。まずは最も近い一体を対象として怠惰を纏うと、効果によって小型マガツヘビの行動速度が三分の一に減少。
「あら、七々手さんたら粋ですね。鈍いマガツのヘビがもうっと鈍くなるなんて」
 悪戯っぽく笑ういずもの言葉を聞いて、ちょいと肩を竦めた七々口の背後からぬるりと伸びた怠惰な魔手が、魔搥で獣の胴をぶん殴る。投げ出された小型マガツヘビが、体勢を整えるなり群れを纏いはじめたのを見、他の魔手たちが一斉に防御の構えを取った。別の個体も――まだ頭をふらふらさせている。
「敵多くて、めんどーっすなぁ……」
 魔手たちが一丸となって禍津ノ爪の受け止めたのを見上げている七々口は、煙々羅が煙化していることに気付いて、ふと閃いた。魔搥の力で無気力にさせたさきほどの敵を、ひとつの束にした魔手たちを使って打ち出したのだ。
 ゴルフクラブよろしく獣を打てば、鈍くて重たい打撃の音と共にそれは呪煙拳の範囲に飛び込んでいく。突然脇からすっ飛んできた小型マガツヘビもろとも獣を貫いた拳から、血の花が飛ぶ。
「ナイスショーット」
「七々口殿の手腕も見事なものだ。鮮やかに飛んでいく敵を見るのはなかなかに爽快だぞ」
 ぱちぱちと拍手するいずもと、額に手を翳して伏す獣を見るアダルヘルム。
「おい、こらぁ!」
 髪を振り乱して振り返った煙々羅は思わず叫んだが、三人は楽し気に笑っている。ぎりぎりと歯を食いしばって三人を指差しながらルイの方を見た煙々羅に対して、ルイはただ春風のように爽やかに笑っただけだった。

香柄・鳰

 ――なんて美しい。
 夜空の下で絢爛に咲き乱れる藤の花を前にして、香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は感嘆の溜息をついた。許されるのであれば、この見る者全てを圧倒させる絶景をいつまでも眺めていたいものだ。
(「藤は我が主と縁の深い花。そのお祭の場を、藤棚を壊すだなんて……マガツヘビでなくても放っておけませんね」)
 徐々に近付く戦闘の音に耳を澄ませた鳰は、階段を一気に駆け上って行った。
 境内に辿り着いて真っ先に鼻先を掠めたのは、新緑の瑞々しい香りを掻き消すほどの生温かな鉄の匂いだった。空気は淀み、風すらも侵されているように思う。朧に宙を彷徨う双眸をわずかに細めた鳰は、こちらに近付いてきた気配のほうへ的確に振り返る。
「初めまして、煙々羅殿。妖怪ではありませんが、少々個人的な感情もありまして助力致します」
「腕に自信がありそうなやつが来たな」
 √ウォーゾーン出身である鳰の風貌は、まさしく場慣れした剣士といった力強さと勇ましさを感じさせる。なにせ常に傍らにある玉緒之大太刀の存在感といえば、小型マガツへビも警戒して牙を剥くほどだ。
「マガツヘビに黒火が発現したら、呪拳の準備をお願いしても宜しいでしょうか」
 こちらを威嚇している獣の方へと向き合いながら、傍らの古妖に問う。
「その間の時間稼ぎは致します」
「わかった。いいぜ」
 素直な返答に対し、一つ頷くことで示した鳰は、抜刀した玉緒之大太刀を後ろへ引いた状態で地を蹴った。一つに結われた長い髪と袂がなびいて、波打つ暇すらないままに疾く駆ける。
 獣が充填を始めたのを見、煙々羅もまた同じく煙化して呪詛を拳に溜め始める。
 鳰は一、二、三と跳ねるように大胆に、それでいて一気に飛び込むと、その勢いのまま太刀で獣の腹を斬り込んだ。後ろから遠心力を利用して水平に薙いで、そのまま刃を流すように懐に潜り込む。
 接近した瞬間、|鵙《モズ》を発動。
 真夜中に咲き乱れる藤の如き色をした双眸で獣を捉える。狂刀に変化した玉緒之大太刀を翻すと、そのまま切っ先を肉に当て全身の力を使って押し上げるように胸部をずぶり深く深く突き刺した。
「ギャアアア!!」
 悲鳴を聞きつつ肉から刃を引き抜いた鳰は、後方へ大きく飛び退き、からがら振り抜かれた禍津ノ尾を回避する。それでもなお尾が伸びてくるのを察知して手斧を投げれば、それは辛うじて踏ん張る足を大地に縫い止める一手となった。
 それだけではない。
 数瞬遅れて獣を襲ったのは傷口から全身に広がる金縛り、さらには科学熱傷の状態異常。縫い止められた手斧からではない、突き刺された胸部から駆け巡る。熱傷と金縛りに苦しめられ、躯体を折り曲げるようにして手を突いた小型マガツヘビが、荒い呼気を繰り返していると。
「前座の時間は終わり。――煙々羅殿、どうぞその拳をお見舞いしてさしあげて」
 藤棚を背にした鳰の背後から、煙が舞う。それは夜空で徐々に人の姿を形作っていく――そう思う間に上空から大地を抉るほど苛烈な拳が叩き込まれた。骨が砕けるような音を立てて地にめり込んだ小型マガツヘビ、その頭部が激しく損傷しているのを見た煙々羅は、「また一体」満足そうに唇を吊り上げた。

尾崎・光
八百夜・刑部

「あー……やられているね」
 尾崎・光(晴天の月・h00115)は破壊の跡が生々しい藤棚を見渡して独りごちた。幸い雨は降っていないため泥にまみれたりの汚れはないが、それでも己の意志とは関係なく散らされた花びらが地面を覆い尽くすさまは無残なものだった。
「終わった後に立て直しできればいいのだけど」
 枝が折れた藤の花をひと掬いして、そっと灯篭の足元に添えてやる。これ以上の被害が出ぬよう、なんとか境内の藤棚にも気を配らなくては。
 ――それにしても。
(「お酒は八岐大蛇の故事にでも倣う予定でもあるのかな」)

「おーす、八尾白組」
 拳に付着した血を払いのけていた煙々羅は、ずいぶんと間延びした声に呼びかけられ怪訝に振り返る。妙な呼びかけに疑問を覚えたのだろう、マイペースな足取りで近付いてくる眠たげな面立ちをした男――八百夜・刑部(半人半妖(化け狸)の汚職警官・h00547)を認めて、すぅっと瞳を細くした。
「系列団体組抜けした裏切者が助けに来たぞっと」
 隣に並び立てば、煙々羅は刑部の頭の天辺から足の爪先までじろりと眺め、それから鼻で笑う。
「組抜けして未だ五体満足か。ずいぶんと運が良いやつだな」
「煙々羅とはちょっと前に殴り合いして以来か」
「あ? てめぇ、その面見せんの初めてじゃねぇのかよ」
 身体ごと振り返って胸倉を掴んできた煙々羅に、どうどうと両手で制する。
「まあ聞け。お前の親分の弟と、この前ヘビの件で共闘してな。とりあえずこの件が終わるまでは手を組んでやるよ」
「お前正気か?」
 組を捨てた|刑部《兄》を決して許してはいない彼の前に姿を現したのか。
 そう言外に問われたのが分かり、刑部は苦く笑う。ちょうどその時、視界の端に境内に到着した光の姿を見つけた。しかもタイミングが良いのか悪いのか、塀を飛び越えて侵入してきた小型マガツヘビも同じく目に映る。今はここで揉めている場合ではない。
(「言うよりも行動で納得させるのが早いか」)
 そう思う間に、光は素早くこちらへと合流した。
 光は、なぜか刑部に喧嘩を売っているような煙々羅の姿を目にして、ぱちりと瞬きをひとつ。いささか疑問に思いながらも事情を聞いている暇もない。さほど態度には出さず、ただ必要なことだけを訊ねた。
「古妖でも手間取る相手なら、こちらは足止めついでに削らせて貰っても?」
 問うと、煙々羅は舌打ちをして、それから刑部の胸倉から手を離す。二人が纏う空気に何か因縁のような危うげな気配を察しながらも、光は古妖が頷いたのを見て、さっそく幻影術を使用。
 光自身や刑部、そして煙々羅の幻影が、灯篭の仄かな灯りの中で形作られると獣はぐるっと短く喉を鳴らしてみせた。一気に増えた数に警戒したのだろう、大地を踏み締める四肢に力が籠る。
 ――来る。
 三人がほぼ同時に察した瞬間。後ろ足で地面を蹴り上げ、両腕で地面を掻くような激しい動きで突進してくる小型マガツヘビ。最後の一掻きで頭上に飛び上がった獣が、空を覆い隠すような太腕を振りかぶる。
 しかし、煙々羅は腕が降り下ろされるより早く、身を翻した。煙々羅の次の行動が分かった刑部は、獣の視線が天へと向いた隙を突くように、妖力で生み出した電磁警棒でその顎を殴りつける。ぎょろりと視線が下に落ち、獣が刑部を見る。だが彼は構わず、続けざまに放った対妖怪ネットランチャーで巨体を捕縛。小型マガツヘビの爪をもってしても裂けぬ頑丈なそれに引き倒され、巨体が地に落ちた。
 しかし刑部はまだ止まらない。ネットに捕えた獣を、今度は肩に背負うようにして思い切りぶん投げたのだ。念動力によって容易く巨体を持ち上げられた小型マガツヘビは、二転三転好きなように投げられてしまい、ついには腹ばいになって、だらりと舌を出す。
「俺を忘れてんじゃねぇの?」
 夜の暗がりから聞こえた笑い声。
 小型マガツヘビが、ぐぐっと上体を起こそうとしたその時。後頭部に鋭くて冷たいものが細く走った。それはじわじわと熱を持ち、瞬く間に身を内から穢していく。
 獣の背に着地した体勢のまま、毒針仕込みの煙管を引き抜いた煙々羅は、己の背中で動くものを見て、すぐさま離脱。それは光が作った己の幻影を薙ぎ払い、空を掻いた。間一髪の回避に煙々羅は吐息を漏らす。そして視線を持ち上げると、正面に自分が居て――厭そうに顔を歪めた。刑部が化けているのだ。頭の悪い獣は、どれが本物だと言わんばかりに地団駄を踏む。
 そんな光景を前にして、光は周囲に揺蕩う蒼い蝶を手招きする。
「おいで」
 呼び声に応じた蝶は指に止まり、それは霊力を纏う青白く冴えた刃に戻る。霊剣「蒼白めた蝶」を手にした光は、幻影に紛れて未だ絶命に至らぬ獣へと迫りゆく。渾身の力をかき集めて、めちゃくちゃに振り抜かれるカイナを右掌で無効化すると、光はその流れのままに柄へと指を添え――次の瞬間。
「ガッ……ア……?」
 瞬きよりも速い居合の一閃で、太い腕ごと獣を断つ。
 切っ先を鯉口に乗せ、すらりと納刀。その無駄のない流るる水のような静かな挙措の背後で、ずしんと落ちた地響きひとつ。
「これでちっとは信じたか?」
 変化を解いた刑部が、沈んだ小型マガツヘビを見やったまま煙々羅へ問うた。
「別にヘビの件が完全に終わったら、また殺り合うのはやぶさかじゃないが、それはそれ。掟は大事なんだろ? だから手は貸す、今はな」
 眉根に皺を寄せていた煙々羅は少し考える風に刑部を睨みつけていたが、終ぞ何も言いはしなかった。それが答えなのだろう。

井碕・靜眞

 町の喧騒がやけに遠く感じる。
 敷地内に足を踏み入れたとたん、薄い膜を張ったような隔たりを覚えた井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は、背骨の折れるような溜息を吐いた。
(「……正直、ひどくやりにくい」)
 現場に到着するなり、ポケットに突っ込んでいた手袋を取り出すと五指に通しながら、塀に巻き込まれる形で崩壊した藤棚を一瞥した。乱れた玉砂利は大岩でも落ちたのかと思うほどに凹んでおり、その図体のでかさを窺い知る。
(「まぁ、向こうが憶えていないのなら好都合。なんでもない顔をするのは得意だ」)
 本殿の裏側から境内に入り込んだ靜眞は、壁の向こう側で息を殺している複数の気配に血の匂いが一つもないことに気がついた。|アレ《・・》は、一応気にはかけているのか、はたまた偶然か。
 開けた境内で戦う古妖たちを本殿の角から盗み見ながら、腰に提げたホルスターのスナップボタンを人差し指で弾く。この世の禍々しさを固めたような禍津の獣に視線を縫い止めたまま、靜眞は引き抜いた拳銃をゆっくり構える。
 呼吸は無理に止めず細く繰り返し銃口を持ち上げると、古妖煙々羅に威嚇する獣に向けて引き金を引いた。
 矢庭に夜のしじまに乾いた音が立ち、それは獣の意識を数瞬ばかり静止させるに至った。視界の端から飛んできた弾丸が、小型マガツヘビの肉にめり込んだのを見て、煙々羅が真っ直ぐと靜眞の方を向いたが、そのとき靜眞は拳銃をホルスターに仕舞い、特殊警棒へと持ち替えながら駆けだしていた。
 真下に振るうことで伸ばした警棒を持ち上げ、獣の横っ面へと叩き込む。振り下ろした形のまま、今度は下から振り上げて反対の頬へと連撃を叩き込めば、直撃を喰らった獣が横向きに倒れ込む。
 だが、バネのように跳ね起きた巨体が群れを纏い、図体のでかさからは想像もつかぬほどの速さを伴う急襲を仕掛けてくる。覆いかぶさるように爪で襲い掛かってくる獣に対し、殺気と呪詛を撒き散らして速さを相殺する。
 気がつけば群れを一気に押し薙いでいく靜眞の姿に、軽快な口笛をひとつ吹いた煙々羅は、身に纏う煙の羽衣を創造すると、獣の目元を覆うように泳がせた。小型マガツヘビは邪魔な衣を裂くように剥がし、すぐ視界を明らかにするが、靜眞はもうそこには居ない。代わりに現れた煙々羅に眉間を突かれ、巨体が膝から崩れ落ちる。
 大人しくなった獣を見て、死んだのかと訝し気に眉根を寄せた靜眞が、踵をわずかに浮かせたとき。眼前を禍津ノ爪が横切って行った。長い靜眞の前髪を数本掠めた爪は、そのまま大地に落ちて、今度こそほんとうに静かになる。働いた第六感が、命を救ったのだ。「間一髪だな」「いや、髪の毛が当たってんのなら違ぇか?」楽し気に笑う古妖にうんざりする。
 煙る呪拳の動きは確かに速い。おかげで得意分野でこんな獣を鎮圧出来たのだから、今夜ばかりは正直助かった。感心することでもないのだが。
「できれば、これ以上悪させずに大人しくしていてもらいたい」
「なんでだよ」
「……なにって、対処するのが面倒だからですけど」
 特殊警棒を縮めて、腰に戻しながら辺りを窺う。
 しばらく様子を窺ってみたが、遅れてやってくる個体はもう居ないようだった。あらかじめダメージを負ったものが、最後まで粘っていたのだろう。煙々羅もまだ余力があると見える。
 ふと視線を感じて振り返ると、すぐ近くに古妖の顔があって思わずのけ反った。
「なぁ。お前、どっかで会ったか?」
 煙々羅が至近から顔を覗き込んでくるので、靜眞は小蝿を払いのけるような仕草をして身を引いた。
「さぁ、あなたの気のせいでしょう。自分達は、はじめまして、ですよ」
 だって前回に会った煙々羅は、きっと今もあの古びた家屋の|裡《うち》で封印されているのだから。

第2章 ボス戦 『マガツヘビ』


 静謐な空気が夜を流れていった。
 煙々羅は裏山の方を仰いで少し考える風な仕草をしていたが、それもわずかな間で、颯爽と本殿に向かっていく。彼は内から棒を差し込んで押さえていた扉を、両手でバンと押し開いた。
「ぎゃーー!」
 マガツヘビがやってきたのだと人間たちが叫び散らして逃げ惑う中、ひとりの少女だけが、扉の近くに立っていた。どうやら境内の様子を窺っていたらしい。
「あ、あの……」
 恐々と話しかける十五、六歳ほどの少女に煙々羅が視線を向け、それから縄で結ばれた大きな樽を顎でしゃくる。
「神酒はあの樽ひとつだけか?」
「まだ、あります」
 そう言って彼女が指差したのは三方に乗せて神前に供えられたお神酒である。蓋の付いた徳利のような瓶子を見て、納得したように頷いた。何やら、お眼鏡にかなったらしい。それからこちらを振り返ると、血で赤く染まった指先でお神酒を指して彼は言う。
「お前ら、能力色々持ってんだろ。だったらその能力を利用して神酒をマガツヘビの莫迦に浴びせてやれ」
「……これ、八塩折之酒じゃないですよ」
「んなこと、わかってるよ。でも酒に酔えば足もフラつく、判断も鈍る。弱った隙を突く――そういうの、得意だろ?」
 にやりと不敵に笑った煙々羅の顔を見て、少女はうっかり余計なことを言いそうになって、そっと口元を押さえた。
(「この人、封印されたこと……憶えてるのかな」)
 封印を解いた人間の顔なんて、一々憶えてはいないだろうけれど。何となく気まずくなって一歩引く。
「そこの樽はまだ残しとけよ。とりあえず小せぇやつから使ってけ。取り回しがきくだろ。――てめぇらが呑んで酔っ払うんじゃねぇぞ、呑むのは莫迦を倒したあとだ」
「……呑めるんだ」
 うっかり反応してしまい、慌てて口を押さえる。恐る恐る窺うと、煙々羅は視線を少女に流して口角を上げた。
「ガキは何か食いモンでも用意してな。あとはそうだな……囃し立てる役とかな」
「え、わたし神楽なんて出来な――」
 ――ドン!
 それは、立っていられないほどの衝撃だった。大地が揺れる激しい音に、心臓が縮み上がる。煙々羅が煙化して外に出ていくその背中を追いかけると、手に杉の巨木を握り締めた獣――マガツヘビが境内の中央に陣取っていた。ここで何が行われたのかを空気で察したのか、天を仰いで叫び声を上げる。
「出てこい虫けらども! 王劍『天叢雲』を此のマガツヘビ様に差し出せ! 王劍の主にふさわしいのは、この俺だ!」
 わめきながらぶん投げた杉の巨木が藤棚を巻き込んで塀に激突した。崩れ落ちる瓦礫を一瞥しながら煙々羅がわざとらしく溜め息を吐く。
「うるっせーな、んなデケェ声出さなくても聞こえてんだよ。莫迦は耳まで莫迦なのか?」
 煙々羅の挑発にしか取れぬ言に、少女はいっそ気を失ってしまいたい気持ちになった。だが自らがマガツヘビの眼前に姿を現すことで注意を引き付け、こちらへ意識が向かぬように逸らしてくれていることに気が付いた。偶然かもしれないけれど。
 今の内にと少女は慌てて神前に献供していた瓶子を持ってくると、机の上に並べて蓋を取っていく。
「とりあえず、これを使ってください。わたしたちはこのまま隠れていますので、気にしないで。……どうか、お願いします」
 少女――ユキはそう言って、頭を下げた。
「自信があるやつは使え! ねぇならてめぇが出来ることをやんな。煙々羅さまがサポートしてやるよ。嬉しくて涙がでるだろ?」
 せっかく身が引き締まる思いであったのに、聞こえてきた言葉に思わずため息が漏れてしまうのも、まぁ無理はない話であった。
刻・懐古
狗枷・ほどろ

「おや、煙の君か」
 毛むくじゃらのお巡りサンがずいぶんと張り切っているので何事かと思えば、連れられやって来た先の神社で、バレンタインに一戦を交えた顔と出くわした刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)は、ぱちぱち瞬いた。
「おうおう、やってんなァ。マガツヘビの野郎のお陰でこちとら休めやしねぇ」
 ごつい手を頸に当ててぼきぼきと軽快に骨を鳴らす狗枷・ほどろ(雲遊萍寄に揺蕩う獣・h06023)の口角はやや上向いている。愚痴を垂れているように見えて、その実どこか裏のある気配が滲んでいるのは気のせいか。
「今回は俺に付き合ってもらうぜ、懐古さんよォ」
 今度こそはっきりとしたにやり顔を浮かべたほどろの耳が、ぴくりと何がしかの言葉を拾いあげる。二人揃って声がした方を振り返れば、本殿の内からそれは聞こえるようだった。
「あとは、これも使ってください!」
 ごとごと、わいわい。せわしない物音と人の話し声はどこか抑え気味だ。
 戸を開いた本殿の内から、ちらちらと覗き見える、これまた見覚えのある少女の顔に、懐古は再び瞬く。「おや?」と思う間に、のしのし歩きはじめたほどろのあとをついて行くと、少女――ユキは懐古とほどろを認めて「あっ」と短く声をあげた。それから慌てたように、頭を下げる。
 此度の作戦について手短に説明を受けた懐古は、ユキが机上に並べた瓶子をひとつ手に取ると「なるほどねぇ」と誰に宛てるでもなく呟いた。
「神酒ぶっかけ作戦かァ、面白ぇじゃねえか」
 対してほどろは瓶子ではなく、神棚の前に並べられていた樽のほうへずんずん歩いて行くと、彼の図体に見合った中樽をひょいと担ぐ。
「面白ぇけど、勿体ねぇな」
 なにせ神に供える酒だ、さぞ美酒に違いない。それをマガツヘビにくれてやらねばならぬのだから、惜しむ気持ちが顔を出すのもまた無理からぬ話だ。
 ぽかんとした顔で見上げるユキに、懐古は涼し気な笑みを浮かべて手にしていた瓶子を戻す。
「こっちの犬のお巡りさんはね、そこのマガツヘビのお陰でどうも引っ張りだこのようで、満足に酒を飲めていなくてご立腹なんだ」
「なる、ほど?」
「あれに酒をくれてやるのは確かに勿体無いが、今回は毒としてくれてやろうじゃないか」
 背後で粉塵が巻き上がる。二人は目配せすると、どちらからともなくその場から離れた。
 殺気立つ獣とは別の気配を感知して、煙々羅が振り返ると、ちょうど中樽を担いだほどろと、懐中時計を片手にした懐古がこちらにやってくるところであった。二人を認めた煙々羅はマガツヘビの眉間を蹴って宙返りすると、二人のもとで着地する。
「おいおい、んなでけぇやつ持ってきたのかよ。樽は置いとけっつったろ。お前らも酒目当てか?」
「――は? 酒目当て? ったりめぇだろ。忙しくて何日飲めてねぇと思ってんだ!」
 煙々羅の言葉にぴくりと耳を動かしたほどろは牙を剥いた。その迫力ある言葉に半目になった煙々羅が少しのけ反る。
「知るかよ」
「余った酒は飲めんなら、余分なことしねぇで手短に済ませてやるよ」
 荒々しい言ばかりを喚き散らす獣を見上げ、ほどろは琥珀色の瞳を細くする。ずいぶんと好き勝手に暴れてくれたようで、境内はめちゃくちゃだ。倒された藤の花びらが時おりマガツヘビの動きに伴って巻き上げられて、空へと散らばっている。
 懐古は煙々羅を手招いた。素直に近付いてきた古妖の耳に顔を近付け、こそりと囁く。
「すまないが、囮を頼めるかい? しばらく動けないがね。危険だと思ったら行動して構わないよ」
 分かった、と短く返答した古妖に頷きを返した懐古は、手にした満月を模した懐中時計から時を忘れるほどの高揚感を解き放つ。それは自らと煙々羅の身を包み、ふたりは一時的な行動不能状態に陥った。
「おいおい、なんだぁその姿は。そんなところで突っ立ってるだけで、俺に勝てると思ってんのか?」
 さきほどまで挑発するかのように攻撃を仕掛けてきた煙々羅が、とたんに動かなくなったので、気を良くしたマガツヘビが笑いを漏らす。手を突いて歩くたびに地鳴りにも似た響きが足裏から這い上がってきて、まるで縫い止められたように動かない懐古と煙々羅。
「おい、大丈夫なんだろうな?」
 さすがの古妖もマガツヘビの攻撃をまともに受ければ大ダメージだ。視線のみを寄こして問うてきた古妖に懐古は唇に微かな笑みをのせる。
「実際、喰らってみれば分かるよ」
 そう言い終わらぬ内に小型マガツヘビの群れをまとった獣が、疾く突っ込んできた。巨体が図体に見合わぬ速度で真っ直ぐに駆けてくる姿は、迫力があるものだ。懐古と煙々羅はその場から一歩も動けない状態で、振りかぶられた禍津ノ爪を真正面から受けることとなった。
 夜を斬り裂く鋭い一掻きが、細い躯体を分断する――ことはない。
「……あ?」
 なぜならば。
「僕は肉弾戦は好まないのだけど」
 たしかに振りかぶった。爪は肉体を掻いた。そのはずなのに、懐古と煙々羅の身体には、およそ獣の一撃を喰らったとは思えぬ状態で、むしろ無傷といって差し支えない。
「一度くらいなら受け止められたようだね」
|秉燭夜遊の伴は望月《ヘイショクヤユウノトモハモチヅキ》
 その高揚感を得た者はたしかに行動不能に陥るが、防御力が十倍に跳ね上がり、さらには毎秒負傷回復状態になる。
 マガツヘビの攻撃を耐えてみせた懐古を見て、また能力の効果を身をもって体験した煙々羅は、すぐさま煙の羽衣を創造。マガツヘビにカウンターのごとく跳ね返すと、獣の意識はもう二人にしか向いていないのが、遠目からでもよくわかった。
 マガツヘビの死角にそろりと回り込んでいたほどろは、二人が作ってくれた隙を見極めると、屈強な全身に御霊犬神の神力を纏う。
 瞬間。大地を蹴って一気に獣へと間合いを詰めたほどろは、気配を察して振り返ったマガツヘビの口へと狙い、紫電の一閃――ではなく酒樽を用いた神酒の一閃をぶち込んだ。
「ガアッ!」
 強烈な近接攻撃を喰らって、獣の頭部が後ろにのけ反る。とたん辺りに広がる、芳醇な香り。
「あぁ、本当に勿体ねぇなぁ」
 反射的に繰り出された獣の爪を身を低くすることで掻い潜ったほどろは、懐古と煙々羅の無事を確認しに駆け寄りながらも、頭をぐわんぐわんさせているマガツヘビを尻目に見て愚痴をこぼした。

ルイ・ラクリマトイオ
九段坂・いずも
七々手・七々口
アダルヘルム・エーレンライヒ

「ふむ、酒浴びせると。なんか勿体ないなぁ……」
「神話に倣うなら頷ける話だが、大量の酒をデカブツにくれてやるとは
やはり勿体無く思うような……」
 勿体ないと感じているのは七々手・七々口とアダルヘルム・エーレンライヒも同じであった。少女がかき集めてくれた神酒は、きっとこの日のためにと丹精込めて醸造された逸品に違いない。それを供えるどころか、味わうでなく酔わせるために使うとなると、酒を嗜む身としてはいささかの抵抗が生まれるのも仕方のないことだった。
「はぁ、まあやるけども。……でもやっぱり勿体ないなぁ……」
「だがまあ、それがマガツヘビの弱体化に繋がるのであれば」
 ぐちぐちと零す黒猫が、するりと人に化ける。
 前線は九段坂・いずもが、フォローはルイ・ラクリマトイオが再び担ってくれるらしい。ならば七々口は魔手たちと合わせて八つ分の怪力を駆使して、あの獣に瓶子を投げつけまくってやろうではないか。机上に並べられた瓶子を競うように手に取った七々口は、思い出したように馴染みのほうへと振り返る。
「オレ動けねーし、アダルヘルム守ってー」
 七々口が全力で投げればかなりの威力が出るだろうが、なにせその代わり身を守る術がなくなってしまう。ゆえに漆黒の大盾を所有するアダルヘルムに一声かけると、彼は快く頷いた。
「七々口殿よ、護りが必要なのでれば、俺が出よう」
 地面に大盾を突き立てるように構えたアダルヘルムに満足して、七々口はブンと腕を振りかぶった。すると、背の魔手たちもそれに倣って、次々投擲。白い瓶子の弾丸は、想像よりずっと速くマガツヘビの顔面に直撃して、割れた破片が液体と共にぱらりと獣の身体に降りかかる。
「テメェ! 何しやがる!」
 それまで煙々羅と格闘していたマガツヘビの首がぐるんっと七々口の方を向くが、彼より背の高いアダルヘルムが視線を遮るように背に庇う。
「下手な砲弾よりは威力が出るとは、凄まじいな」
「んー、もっとドバッと浴びせたいなぁ。めんどくなって来た」
 小さい瓶子でちまちま投げるのは、どうにも手間がかかる。七々口は背後を振り返ると、扉に隠れるように境内の戦いを覗いていた少女に声を掛ける。
「ねぇ、ユキだっけ?」
「ふぁい!」
「あの樽以外にも酒の樽ないの? ちと軽過ぎて投げごたえがないんだけど?」
「一応、ありますけど……」
 ユキが躊躇っているのは、おそらくは煙々羅が樽は取って置けと言っていたからだろう。何せ中樽ひとつすでに持っていかれている。逡巡しかけたものの、ユキは本殿奥を指差した。首を伸ばして覗くと、壁際に幾つか並べられている。七々口は「もらっていくよー」と軽い口調で魔手に運ばせると、外に出るなり全力投球。
「ガハッ……!」
 それは煙々羅の拳で顎下を突き上げられていたマガツヘビの横っ面に命中した。牙に突き刺さって割れた樽から、どくどくと口内に酒が注がれていく。
(「今様のオロチ退治の物語が「めでたし、めでたし」で結ばれるよう。この「身」は惜しまず使いましょう」)
 ルイは壺の付喪神だが、あいにく満足させられるほど容量はない。
 ゆえに、アダルヘルムの大盾と七々口の酒樽砲の豪快さに紛れ、瓶子を片手に跳躍。彼は本殿前の階段から天に向かって高く高く飛び上がると、マガツヘビの口に瓶子ごと突っ込み、お酌する。
「どうです? お味は」
 何か喋っているようだが、樽と瓶子の神酒が勢いよく喉を滑り落ちていくせいで、まともな言葉にならないようだった。マガツヘビは半ば反射的にルイを払いのける仕草をしたが、付喪神はひらりかわす。
 思うようにいかない体に苛立ったのか獣が天に向かって咆えている。
「オン アボキャ ベイロシャノウ――」
 ちょうどその時、いずもは浄化の真言を三度唱えていた。智拳印を結んで高速詠唱。未来予知による先手の行動妨害「|よって件のごとし《コール・オール・イット》」は、その時になればきっと発動する。
(「これで霊的汚染は防げるはず」)
 あの獣がいつマガツカイナを放っても、これで一度だけその行動を必ず失敗させることができる。いずもは頬に掛かる黒髪を払うと、大きく振りかぶった状態の七々口を見やる。
「七々手さん、ちゃんとわたくしは避けて投げてくださいね?」
「あ、予め謝っておきます。間違えて前線組に当てちゃったらごめんね!!」
「そうならないようにぜひ気を付けてくださいな」
 言い終えぬ内に、いずもは背負い太刀を抜刀。気配を察した獣の視線が己に向いた瞬間太刀を構え、大木の如し|腕《かいな》を頭上から受け止め、そのまま力を流していなそうと試みた。しかし、硬い筋肉に刃が弾かれてしまう。
 走った衝撃により五指が開き、零れ落ちる太刀が灯篭の灯りを受けてきらりと光る。
(「危機一髪、わたくし――もしかしてまずいですね?」)
 世界が、時の流れがゆっくりに見える。
 いずもは太刀の切っ先が地面に突き刺さるのを視界の端で捉えながら、正面のマガツヘビがにやりと笑うのを見た。敵の間合いに在るいずもに向けて、腕が振るわれる。
 だがそこへ、颯爽と駆け出したアダルヘルムが間に割って入ると、不落の城壁もかくやといった大盾でマガツヘビの一撃を受け流した。「よって件のごとし」のおかげで勢いの削がれた一発とて、さすがのアダルヘルムも身体が後ろへ少し滑る。
「アダルヘルムさん、助かりました。さすがです」
 いずもは思わずといった風に安堵の吐息を零す。衝撃を分散してもなお躯体が押しやられるのであれば、直撃を受けていればどうなっていたか。
 彼女の目を見てしっかりと頷きを返したアダルヘルムは、難なくその一撃を抑え込みながらも、
「見ろ、面倒な酔っ払いが己こそが王劍に相応しいなどと世迷言を吐いてるぞ」
 などと煽るものだから、マガツヘビの怒りはぐんぐん上昇する。びたんびたんと尾で大地を叩き付ける仕草に、少し離れた場所にいる煙々羅が呆れた顔で天へと視線を向けていた。
 一方、ルイはいずもの刀が弾かれたのを見てすぐ、|付喪八百万の儀【牙筆】《バンブツヲシルスモノ》 を使用。ルイの身体は瞬く間に神筆・歓喜天牙へと変化した。
『私を武器として使ってください』
 よりにもよって得物を取り落としてしまうという失態をおかしてしまい、じっとりと冷や汗が滲むのを覚えたいずもは、己の耳に届いたルイの言葉に気がついた。
『先刻のいずもさんの刀捌きは軽やかで、冴えざえとしていて。そのような方にお手に取って貰えるのは光栄です』
「ルイさんがそんな素敵な業物でいらっしゃったとは」
「|歓喜天《ガネーシャ》が人の世を記すべく自ら折ったという牙、どうぞ存分にお使いください」
「歓喜天――聖天ですか!」
 手に取ると、それは妙に手に馴染んだ。手のひらで何度か感触を確かめながら、マガツヘビへと再び向き合う。
「オン キリク ギャク ウン ソワカ。――加護を頂けるよう、共に祈っていただけますか?」
「もちろん」
 いずもは駆け出した。艶やかな黒髪が波のように翻る。マガツヘビはちょうど黒き妖の火を溜めているところで、今もなお樽をブン投げる七々口に激昂しているようであった。
 だが範囲攻撃の禍津ノ尾をそう簡単に放させるものかと、獣の攻撃より速く大剣で先制攻撃を仕掛けたアダルヘルムの一撃が、マガツヘビの首を斬り付けた。嫌な音を立てて噴き出す血が己に触れてしまう前に砂塵を纏いて、さっさと退く。
 瞬く間に消えたアダルヘルムと入れ違いに獣に迫るは片手槍大のルイを手にしたいずも。彼女はマガツヘビの背後に回り込むと、尾に乗り上げそのまま一気に背中を駆け上った。そしておそらく心臓があるであろう胸部の直線状に牙を突き、一気に穿つ。
「ギャッ!」
 肩を跳ねさせ、犬が飛沫を払うような仕草でいずもを振り落としたマガツヘビはバランスを崩して数歩よろける。そこへ煙々羅の呪煙拳が脳天に落とされ、巨体がついに尻もちをついた。
「酒と落ち合う約束をしている。生憎阿呆に構ってる時間は無いのでな」
 目を回している巨体の獣を見上げたアダルヘルムが大剣を振り払いながらそう言うと、マガツヘビは喉の奥で悔しそうに唸った。

八百夜・刑部

「ク、ソ……てめぇら、なんだってこんなことしやがる……」
 マガツヘビは手で顔を覆うと何度か咳き込み、酒臭い息を吐き出しながら呻いた。
 巨体に対して酒の量が足りないのか、マガツヘビが振り回す尾は明確に煙々羅を狙っている。にもかかわらず境内一帯は酒の匂いがきつくて、嗅いでいるこっちが酔ってしまいそうなくらいだ。
「さー、こっからが本番か」
 首裏に手を当てて独りごちた八百夜・刑部は、少女が集めた瓶子を手に取って開けた場所にまで下りていく。すると、遅いとでも言うかのように煙々羅がこちらに一瞥を寄こしてきた。
「そんじゃアドバイス通りやってやるか」
 今やりますよといった具合に刑部が特務刑事課応援要請を行うと、その場に高速機動隊のスカイシャークが十匹、スナイパー部隊の鎌鼬が五体、特殊機動部隊の手長足長四組八人が瞬く間に現れた。
 刑部と手長足長はスカイシャークの背に乗って上空へと飛び立ち、マガツヘビの頭上から雨を降らせるように酒を落としていく一方、鎌鼬は遠距離から瓶を撃ち抜くことで酒を浴びせかけ、あらゆる方向からマガツヘビへと酒を浴びせてゆく。
 がふっと酒臭い咳を零したマガツヘビは、しかしすぐ空を見上げて刑部たちを捉えると、右腕の筋肉を隆起させて下から突き上げるような拳を振り抜いてきた。曲げた肘の内側に引っ掻けるような形で、刑部をスカイシャークごと打撃しようとしたのを見、鎌鼬はすぐさま狙撃して二の腕に弾丸を命中させたが、それでも勢いは止まらない。
 なんとか急降下することで直撃は免れたが、攻撃が外れたことで瞬く間に辺りに広がる霊的汚染。地獄から吹き上げる黒い炎のようなそれを尻目に見やりながら、鎌鼬たちが援護してくれているその隙に刑部はふたたび空へと上昇、汚染地帯を回避する。
「ちったぁ効いてきたか?」
 しのぐ屋根もないこの場所では文字通り酒を浴びるしかなく、気持ちが悪いのかマガツヘビは何度か身震いして酒の雫を払っていた。
「おい犬じゃねぇんだから、それやめろ。図体のでかさをわかってねぇのかよ」
 飛んできた雫を煙化して避ける煙々羅が文句を垂れている。直接何か指示を出したわけではないが、相手は伝説に残る頭が悪い蛇。きっと、煙々羅もさきほど出した暗殺技が効くと踏んでいるのだろう。
(「オレ達がカトンボみたいに飛び回ってりゃ、こっちにしか意識向けんだろ」)
 刑部があえて視界に入るよう目の前を飛び回って拳銃を発砲すれば、マガツヘビの意識が上に向く。小蠅みたいに、ぶんぶんと顔の近くでうろちょろする刑部に、獣が咆えた。
(「弟の組のモンだ、一応頼りにしとくぞ」)
 ちらと地上を見やれば、もう煙々羅の姿はない。マガツヘビが腕を振り上げ、めちゃくちゃに暴れだそうとした瞬間。
「あんまり駄々こねてっと、まじでガキに見えるぞ」
 刑部と同じ高さまで跳ね上がった煙々羅が、マガツヘビの後頭部に毒針仕込みの煙管を突き刺した。ガ、と短く呻いた獣が反射的に振り返って背後を見るも、そこには藤棚に同化してゆく煙があるばかり。聞こえるのは夜風に乗った古妖の笑い声と、スカイシャークが夜空を駆ける音だけ。

香柄・鳰

 |身動《みじろ》ぎすると木片が折れる音がした。次瞬、仄かに香り立った甘やかなそれは、まるで散らされてゆく藤の物言わぬ悲鳴のように思えて胸が苦しくなる。
(「ああ……、藤棚が更に傷つけられてしまって」)
 本当に神経が通っているのかと疑いたくなるほどに、わがままに振舞われるマガツヘビの尾が、壊された藤棚に追い打ちをかける姿は我慢ならない。
 香柄・鳰は補充された瓶子を片手に取ると、どこか威風すら感じさせる足取りで階段を下りて行き、腰の物に手をかけた。
「武器にだってどの主に傅くか、選ぶ権利があるのですよ。花ひとつ丁寧に扱えない者が何かの主になれるなどと思わない事ね」
 景色を透かす煙となっていた煙々羅は、鳰の気配を正しく感じ取ったようで「おお怖い」茶化すように喉奥で笑い、するりと人の形に戻っていく。
「あんたはそのまま戦った方が良さそうだな」
「武器に過ぎない私が出来る事はそう多くはありません」
「そうかい。まぁ好きにやんな」
「煙々羅さんがサポートして下さるんですよね?」
 すると煙々羅は今度こそはっきりと声に出して笑った。両目を細くして、悪戯でも思いついたみたいに悪い顔をする。
「俺のサポートが必要には見えねぇけどなぁ?」
 古妖はくつくつ笑うと煙化してその場から掻き消えた。それからふっとマガツヘビの眼前に現れたかと思えば、酔いのはじめにふらりと頭部を揺らす獣の意識を翻弄する。
 妖の火を溜めつつも荒れ狂う獣をからかうように飛び回る古妖の気配に、かすかに目元を和らげた鳰であったが、しかしまるで踊っているかのように地ならししているマガツヘビへと、鈴の音ひとつ共にして距離を詰める。
 頭上の煙に気を取られていたこと、さらには鳰が一気に間合いへと飛び込んだことで、マガツヘビはその玲瓏たる殺気に気付くことはなかった。煙が目に滲みるのか、あるいは皮膚を濡らす酒が目に入ったのか、ぎゅうっと目を瞑ってぐるぐる唸る獣の懐に潜り込むと、そのまま真一文字に刃を奔らせた。細い傷口から血が躍るより早く、今度は胸部に切っ先を突き立て、刃を捻って抉るように深く押し込む。
 ギャッと短く悲鳴を上げたマガツヘビが、払い除けようと尾を後ろへ大きく引いた。裁きを下す巨大な尾が風を切る音を耳にした鳰は、振り払われる一瞬の間をついて後方へ飛び退く。
 片手で地面に手を突きスピードを緩めて止まった鳰であったが、すぐ低い体勢のまま刀を払う。その一振りは斬属性の弾丸となり獣の巨体へと射出、その硬い皮膚に着弾した瞬間にそれは衝撃波となってマガツヘビの肉を刻むように細く鋭く傷つけていった。
 すぐに身を起こして返す刀でひと薙ぎすれば、呪詛をチャージしていた煙々羅がマガツヘビの背後から呪煙拳を叩き込んで挟撃。背骨が折れるような軋みを鳴らして、のけ反った獣が痛みを叫ぶ。
 瞬間。
 それまで器用に指の間に挟んでいた瓶子を、手のひらで抱くように握りしめた鳰はマガツヘビの面へと投擲。開いた大口に、すこんっと入り込んだ瓶子から、どくどく神酒が喉元を滑り落ちる。
「たんとお召し上がりくださいな、次に味わえるかは分かりませんからね」
 獣が咳き込んだ瞬間、吐き出された瓶子が地面に落ちて、割れてしまった。それを踏みつけて咆える獣は、しかしどうにも酒臭くて、あまり威圧感を感じられない。
 りん。
 鳰の鈴が鳴る。それはまるで、破滅までのカウントダウンのようだった。

井碕・靜眞

 禍津の獣は、びたんびたんと尻尾で地を叩き、四肢をめちゃくちゃにして怒りを撒き散らしていた。その拍子に巻き上げられた塵埃が景色を濁すので、井碕・靜眞は目に入らぬよう軽く腕を持ち上げ、その隙間からマガツヘビを窺い嘆息する。脳裏に過ぎるは古妖の笑い声。思い起こすだけで頭痛がしそうなくらいの自信は果たしてどこから湧いてくるのだろう。
((援護してもらえる分は、返しますよ」)
 本殿前、階段下の背の高い堅牢な石灯篭の裏に背を預けて、欅が落とす濃い陰のなか目立たぬように靜眞は控えていた。
 煙々羅はカミガリのほうを一瞥したが、近付いてくるわけでもなく、また話しかけるでもなくマガツヘビの間合いから離れようとはしなかった。恐らく、先ほど共闘した短い時のなかで靜眞の戦闘スタイルを把握したのだろう。
「オラどうしたデカブツ。よちよち踊ってんのか?」
 煙々羅が挑発しながら頭部を小突くと、炯々と輝く瞳が古妖を追いかけ、追従するよう拳が奔る。巨体が寄こす一撃は間合いが広く、それは煙々羅を通り越して場所を移動していた靜眞のもとにまで届くほどだった。
(「はぁ……?」)
 よもやこちらにまで及ぶと思わなかったが、軌道は読めたので第六感も使い何とか回避。頭上を掠める近さで通り過ぎて行った腕は周囲を汚染して、空気を淀ませる。
 環境耐性もあるので多少は凌ぐことができるだろうと、彼はそのまま身を少し屈めるようにして駆け、木蔭に潜り込む一瞬の間に古妖に視線を向けた。カミガリの半ばやけくそで睨むような一瞥を寄こされた煙々羅は、知らぬ存ぜぬのとぼけ顔でするりと煙化すると浮上していった。獣の意識を上に持ち上げて、足元には気が向かぬようにフォローしてくれたのだろうが、考えても仕方なし。
 靜眞は狙撃ポイントに到着すると、それまでとは変わり、殺気を放って獣の意識を己に引き寄せる。皮膚を舐めるようなじとりとしたそれに気付いたマガツヘビが頸だけで振り返り、それから拳銃を片手に握ったカミガリを見る。身体ごと捻って向き合ったマガツヘビは、彼と目線を等しくするようにぐぐっと上体を低くして、それから身の内に凝る火を見せつけるように、
「次はお前かァァァ」
 と言った。
 微動だにせず眼差しを細めただけの靜眞は、拳銃を持ち上げると銃口が付き付ける先を見ずに引き金を引く。発砲された弾丸はマガツヘビへ着弾することなく通り過ぎ、本殿の階段下に下ろされた酒樽に命中。続けて、二発、三発と撃ち込めば木製のそれは内から破裂するように四散して、溜まった神酒が雨のようにマガツヘビに降りかかる。
「またこれかっ……! くそっ……!」
 とっさに腕で庇うも、その行動すらワンテンポ遅れている。じわじわと遅効性の毒のように身体を蝕む神酒は獣の身体を着実に満たしていた。
 ゆえに靜眞はその不意を突くように足元から這うような霊能震動波を奔らせ、巨体に霊震を浴びせかける。足のつま先、手のつま先から脳へと駆け巡る揺れは、酔いの回り始めた獣によく効いた。
「システムが計測できる最大震度がどれほどか、知ってますか?」
 拳銃を握る腕を下ろし、獣を仰ぐ。だが獣は答えない。答えられない。きっと彼の言葉を正しく解することも出来ないのだろう。
「……ああ、デカブツなら普段はそういう不安もないのか」
 酒臭いうめき声に、呆れが滲む。
「二日酔いより厳しいでしょうけど、胃液なんかはぶちまけないでくださいね」
 ホルスターに拳銃を仕舞ったカミガリは獣に背を向け言ったが、古妖の一撃を腹に叩き込まれて身体を二つに折り曲げた獣を尻目に「聞こえてないか」その場をあとにした。

凌・麗華

 割れた破片が口腔を傷つけたまま残っていたのか、陶器の欠片と一緒に血の塊が吐き出された。静謐な夜を不浄に満たしたそれはどこまでも鉄臭くて赤黒く、境内の土をたちまち穢して、しゅわしゅわと煙を立てている。
 その光景を目にした凌・麗華は「おお」と目を真ん丸とさせていた。
 煙々羅が口にした作戦は、麗華も耳にしたことがある神話そのものだった。件の神話にはあまり詳しくはないのだが、酒を呑ませて酔わせるというのは実に単純でわかりやすい。そしてやることもシンプルだ。
(「酒をあいつにぶっかける。で、殴り飛ばす!」)
 まともにぶつかっていれば、あの巨木のような腕や尾が簡単に打ち砕けたか分からない。小細工もまた作戦だ、どうせアレは怒り狂って暴れるだけなのだから、何をしようがもはや関係がないのかもしれないと、この短時間でマガツヘビに対する認識がかたまっていく。
「なぁ、煙々羅。暗殺者の煙を使ってもらえないか」
 ぐわんぐわんと頭を揺らして何がしかの恨み言を口にしているマガツヘビから距離を取り、こちらにやってきた古妖にそう呼びかけると、彼は「わかった」短く返事をした。
 古妖が再びマガツヘビに向かっていくのとほぼ同時に、麗華は用意された瓶子を手に取り|聴勁《チョウケイ》を発動。それは麗華の身の内に宿る知られざる我流功夫の真髄、聴勁の技が覚醒し、マガツヘビの動きを見極めるために常より感覚が鋭くなる。
 獣が纏う気が視覚化されたように、黒いそれが流れ蠢くのを感じている。古妖が先制を取って夜空へと跳ね上がったかと思えば、毒針仕込みの煙管を両手に握って全身の力を使い、獣の肩口に押し込んだ。次瞬、振りかぶられる拳が風を切って眼前を横切っていく。
 しかし、麗華はそれをあえて受け止めた。
(「ふうっ、危ない」)
 完全に躱すことも出来たが、麗華が居た場所はちょうど壊れた藤棚の付近だった。もしあれが外れていれば、この藤棚の周囲一帯は土地ごと汚染されていたことだろう。
 覚束ない足取りで古妖へと迫るマガツヘビの動きを、縫い止めたように視線で追いかける。ぐらぐら、ふらふら、安定しない巨体は見当がつかずいっそ危険ではあったが、麗華はきちんと動きを追い続けたままだった。
(「見えた!」)
 地を蹴る。華奢な身体は瞬く間に獣に向かってぐんぐん迫り、一度手を突いて項垂れようと頭部が下がったマガツヘビの横っ面に酒をぶっかける。
「グ、……」
 無意識に、口の周りに付着したそれを、ぺろりと舌がなめ取って、獣は「またこれだ!」「畜生畜生!」と吐き捨てた。どこか呂律も回らなくなってきている様子が伺える。
「残念ながら酔拳は練習中だ。シラフで悪いが、酔っ払いの相手をしてやるさ」
 巨体の動きが明らかに鈍くなったのを見計らい、麗華は|象形拳:蛇《ショウケイケンヘビ》をお見舞いすることに決めた。
「目には目を、蛇には蛇をってね」
 何もかも一絡げにして破壊すればいいと言わんばかりに振るわれたマガツカイナを見て麗華が動く。
 滑るような歩法で獣に接近すると足技による牽制、のちに蛇のような両腕の動きでマガツヘビの腕を絡め取って受け流す。なめらかな身のこなし、撫でるような手のひらの動きでするりといなされ、獣が瞬く。
 そして。
「アタシの全力、受けてみな!」
 両手で象られた牙のような両拳が、マガツヘビの顔面にガブリと噛みついた。振り払おうと顔を持ち上げ左右に振り回すが外れず、むしろそうすることで己の脳がいっそう震えるものだから逆効果。「ぐえ」と気持ちが悪そうな声をあげたところに、古妖の呪煙拳が後頭部に叩き込まれるものだから、さすがの巨体も沈むしかなかった。
 肉に突き刺していた拳を引き抜くと、麗華は宙がえりをひとつして地面に着地。ゆっくりと立ち上がりながら呻く獣を見て、おそらく次で仕留められるであろうことを直感する。
「美味い酒をたらふく浴びてるんだ、贅沢な最後じゃあないか」
 双眸を細めるようにして、彼女は笑った。

エレノール・ムーンレイカー

「もう同じ手には乗らねぇぞ……」
 ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返すマガツヘビは、自身の肉体から流れ出る血液より、躯体に降りかかる酒のほうが厭わしいのか、ずいぶんと警戒心が強まったようであった。
 しかし、エレノール・ムーンレイカーの目には、たとえ心が警戒していても彷徨う視線の揺れ幅や、大地を踏む爪先がどこか覚束ない不安定なものに見えたので、今回の作戦は無駄ではなかったのだなと察することができた。
 彼女の手には追加補充された瓶子が一本。すこし大きなものだったので、これを一気に流し込めば今の獣には十分効くだろう。
 ふらふらと揺れる巨体の周りを、煙化して飛び回ることで注意を引いている古妖を盗み見る。
(「……煙々羅さんの挑発で彼にヘイトが向かっているようですし」)
今の隙にと彼女は目くらましの魔法が織り込まれたミラージュケープと潜伏者の外套による効果で気配を消し、巨体の死角に回り込むような形で手水舎の影に身を隠す。
「くそ……くそが……あぁ気持ち悪い!」
 臭い臭いと喚きながら、マガツヘビが両手をばたつかせて煙を振り払う。その様子を鼻で笑った煙々羅は、からかいながらも呪詛をチャージしていたのか、マガツヘビの胸部に呪煙拳を叩き込んだ。すると、巨体が吹っ飛び、仰向けに倒れる。エレノールはその瞬間、手水舎の影から一気に駆け出して巨体に接近すると、衝撃で思わずといった風に大きく開かれた口へと瓶子をぶち込んだ。
「ぐあっ」
 全量流れ込んだのを見、獣の身体を蹴って間合いを取る。エレノールがその場から退くのと入れ違いに、人の形に戻った煙々羅が前に出て、マガツヘビの視界に姿を見せる。
「てめぇかぁぁぁ!」
「はいはい、俺だよ俺」
 ずれたジャケットを肩に羽織り直す煙々羅が、面倒臭そうな声音で答えている。彼が作り出した煙に紛れるように本殿へと戻ったエレノールは、新しい瓶子を手に取った。
 煙々羅が挑発するたびに獣は|怒《いか》る。怒れば口数は増えるし、動作も増えて、それが余計に酒を巡らせる。マガツヘビは口端から漏れる酒臭い呼気を繰り返しながら、あえぎ、うめくだけ。思考が定まらなくて、己の目的すら、きっと忘れている。
 それは直感だったのか、なぜだかエレノールの姿を見つけたマガツヘビが、彼女を捕まえようと腕を伸ばしてきた。だが、第六感による回避に専念すれば、その一撃を避けることは難しくなく、獣の大きな手のひらは空気を掴むだけ。
 それが、頭にきたらしい。マガツヘビが黒き妖の火を溜め始めた。じっとしていても、あたまがぐらぐらしていても、まだ身の内にかき集める集中力はあったようだ。巨体ゆえに繰り出される禍津ノ尾は近接といえど広範囲。
 ゆえに、
「痺れなさい!」
 エレノールは叫んだ。
 両目に浮かびあがった魔法陣がまばゆく輝いたかと思うと、次瞬、獣の巨体がびくんと跳ねたのを最後に、とつぜん硬直する。それから細かな電流でも流れているかのように小刻みに震えだして、顔が天を向いた。
 エレノールの|黄金色の魔眼《パラリシス・アイズ》を喰らい、マガツヘビの攻撃は空振り、顎から落ちるように獣が伏す。ごろんと腹を見せるように仰向けになったその無防備な隙を狙い、彼女はだらしなく開いた口に二杯、三杯と瓶子を逆さにして、どんどん胃を酒で満たしていく。
「や、やめ……げぇ」
 いよいよ苦しくて、まともに喋れなくなったようだ。起き上がろうにも、うまく四肢に力が入らぬのか、突いた手は地面を滑るばかり。
「分解、再構成、そして――具現せよ!」
 ようやく酩酊状態になったことを知ったエレノールは、即座に|戦闘錬金術《プロエリウム・アルケミア》にて、鍔部分に紫薔薇の意匠が施された、刀身も紫色の大型のダガー「ヴァイオレット・ローズ」を発現させる。片手に握り締めると同時にマガツヘビへ駆けた。
「こっちに……来るなぁっ!」
 獣は尾を振り払おうとするが、それより早く、エレノールが地面に突いた獣の手を足場にして頭上高く飛翔する。夜空で美しい銀色の髪をなびかせ翻ったエレノールは、そのまま落下を利用して刃を獣の肉に深く突き立てた。
 たちまち巡るは強烈な麻痺毒。傷口から一気に全身を駆け巡るそれは、もはやマガツヘビがどうこうできるものではない。回避が出来なかったが最後、酒精と麻痺毒の合わせ技を喰らったことでついには自由を奪われたマガツヘビは、その場に蹲るように崩れ落ちる。エレノールはもうひと薙ぎして、追い打ちをかけた。
「――煙々羅さん、呪煙拳で思いっきり叩き潰してあげてください」
 その様子を眺めていた古妖は、エレノールの隣に立つと「はいよ」と一声残して煙化すると、ふわりゆらり獣に近付いていく。
 ぜぇぜぇと、もう呼吸をすることしかかなわない獣が、古妖を見る。ふるえる視軸は朧気で、もはやきちんと視認できているのかすらあやしいところだ。だが古妖はそれに構わず、ふっと人型に戻り、
「酒は美味かったか?」
 マガツヘビの眉間に拳を叩き込んだ。
 いやな音が立つ。
 獣が短く呻いて、それから巨体が激しく身もだえた。マガツヘビは何度か口をぱくぱくさせたがどれも言葉にならず空気を噛むだけ。
 そうして最後には、静かになった。

第3章 日常 『鬼神殺し飲み比べ勝負』


「うそ、ほんとにやっつけちゃった……」
 境内を盗み見ていたユキが呆然として呟くと、それまで出来るだけ境内から遠い壁際で縮こまっていた母たちが、どっと駆け寄ってきた。
 団子になって扉裏に隠れつつ境内を覗き見る人間たちの方を振り返り、片眉を吊り上げた煙々羅は、しかしすぐ獣の方に向き合うと、何を思ったか骸を引っ掴んでぶん投げたではないか。投げられた先は境内を囲う塀のそば、ちょうど納札所が設けられたあたりである。むしろ納札所を破壊する勢いだった。何なら少し柵も壊れた。
「ちょっ……と、何してるんですか?」
 ユキが飛び出して行って古妖のもとへと駆け寄るので、祖父や母が引き留めようとするが、間に合わない。本当はものすごく嫌だったが二人も恐々古妖のもとへと近付いていく。
「ちょっと離れてな」
 言うが早いか、煙々羅はマガツヘビの骸を中心として、瞬く間に奇妙建築を拵え始めた。壁は白くそれ以外は朱色で彩られた瓦屋根のそれは、まさに神社のそれと同じである。まばたきする間にどんどん大きくなる社、ユキはぽかんとした。祖父と母も後ろで全く同じ顔をしている。
 ちょうどその時、空を飛んで鴉天狗たちが戻ってきた。参道の階段からはたくさんの妖怪たちが一斉に駆け上ってきて、その気迫といったら少し怖いくらいだ。中にはちらほらと人間の姿もある。
「ああ、やっぱりこうするしかないのか」
 建造されていく社を見て、鴉は吐息をひとつ。古妖はフンと鼻を鳴らして、それからユキたちの方を見た。
「オラ、さっさと準備しな」
「……なにを?」
「酒盛り」

 古妖曰く、今は骸のマガツヘビだが、すぐに復活しようとするらしい。それをさせぬために、魂封じの宴を行う必要があるのだ、と。
「それが酒盛りで良いんですか?」
 はじめに古妖が目をつけていた大きな酒樽。つまり酒はこの宴のために必要不可欠なものであったのだ。魂封じの宴が盛り上がれば盛り上がるほど、マガツヘビの復活速度を抑えることが可能になる。
 そして最後に。
「俺がこの身を社の中に埋め込むことで封印が完成ってわけだ」
「え」
 ユキが絶句する。
 人間たちは驚いたように瞠目したが、妖怪たちはどこかで察していたのか沈黙を保っていた。顔を見合わせる。どこか複雑な気持ちではあるものの、かといって他に最良の封印があるわけでもなし。
「おいおい、酒盛りするっつーのに辛気臭ぇ顔すんなよな」
 うんざりしたように唇をひん曲げた古妖は、あらかた奇妙建築を作り終えると一言。
「当然、俺も呑むからな」
 にやりと笑った。

 宵宮であったことも幸いして、酒はもちろん食べる物には困らなかった。参道沿いで夜店を出すはずだった者たちが、階段を何往復もして境内に持ち運び、辺りは醤油の香ばしい香りや、肉が焼ける匂い、カステラの甘い香りが漂っている。
 壊れた藤棚は応急処置を施され、瓦礫は簡単に撤去。藤の花は安心したように静かに夜風に揺れていた。
「ええと……みなさぁん。いまから魂封じの宴をはじめまぁす!」
 宴が始まる――。
刻・懐古
狗枷・ほどろ

 軽やかな笛の音が夜のあいだを流れてゆく。
 いつの間にか境内には山車が運ばれており、太鼓や鉦の音が打ち鳴らされ、面を被った踊り手が舞う。お囃子は麓の町にまで響き渡って多くの見物客を引き連れた。
 たちまち騒がしくなった境内の様子を一望して、それから納札所の脇に建造された社に目を留めた刻・懐古は黄昏を映した瞳をわずかに細める。
「マガツヘビを倒して一件落着、めでたしめでたし――というには些か靄も残るが、致し方なし」
 本人が納得しているのだから、外野が口を出すのも野暮なことだ。機嫌を損ねて、そっぽを向かれてしまえば困るのはこちらなのだから。
「お、漸く酒が飲めるな」
 酒樽の蓋を木槌で叩いて鏡開きを行っている氏子総代を見、嬉しそうに顎下の毛を撫でた狗枷・ほどろはその方へと歩き出したが、いちど足を止め懐古の方を振り返る。
「ま、盛大に見送ってやろうや」
 口端をわずかに持ち上げたほどろにつられて、目口を和らげた懐古はゆっくり頷いた。
「ああ。とびきりの酒盛りで見送ってやろうじゃないか」

 藤棚の前に設えられた床几に腰かけ、白浅口の盃に注がれた酒を一口含む。
透き通った酒は清らかな水のごとく喉を滑り落ちて、戦いで火照った身体を慰めるほどに旨かった。
「仕事終わりの酒は旨いねえ」
「桜の次は藤の花見酒っつーのもまたオツだな」
 ほどろがふかしていた煙草は白くくゆって、灯篭のあたたかな灯の中をぷかぷか浮かんでは、とけるように消えてゆく。
「う~ん、楽しくなってきた」
 どこかふにゃふにゃした笑顔を浮かべている懐古は、隣で片膝を組んで座るほどろの裾を引き、
「ほどろ、ほどろ、カステラをもっと食べたいよ、もってきておくれ」
 にこーっと無邪気に、カステラの屋台を指差した。ちょうど夜店で買ったつまみのイカを咥えたところであったほどろは、目を眇めるようにしてかぶりを振る。
「懐古、お前はほどほどにしとけよ、酒弱ぇンだから」
「食べすぎ? 腹をこわす? なあに言ってるんだい、今食べなきゃいつ食べる」
「いや、言ってねぇよ」
 ほどろの言葉が届いていないのか、懐古は両手で頂いた盃をぐいっと一息で呑み、ほんとうに水でも飲んでいるのかと思うくらい、一杯また一杯とすいすい飲んでいく。
「あーあー、完全に出来上がってンなァ……」
 煙管を片手に紫煙をくゆらせるほどろは、しかし今日くらいは放っておくかと見ないふりをする。
(「俺も酒飲みてぇし」)
 さらさらと夜風になびく藤棚を見上げて傾ける盃の風流なこと。盛りを迎えたこの花は間もなく散るであろうから、刹那の花見を今はゆっくりと味わいたかった。

 別に自ら騒ぐつもりは毛頭なかった。
 そりゃあ酒は呑むつもりでいたが、だからと言って「絡み酒」を喰らうとは想像だにしなかったのだ。
「煙々羅さんよ、僕は古妖の歩んできた道にも興味あってねえ。ふふふ、君の話をじっくり聞きたいなあ」
 ずずいと顔を近付けてくる酔っ払い|付喪神《懐古》に、古妖は半目になっていた。社前の階段に腰かけ、適当に酒を呑んでいたら、ふらりよろりと近付いてきた懐古が隣に座り、林檎飴をマイクがわりにこちらに向けてくるから始末に負えない。
「お前、酔いすぎじゃねぇか?」
「酔ってる? ははは、君ももっと飲んで、いっぱい話すといいよ!」
 たまたま近くを通りがかった子どもに手つかずだった林檎飴を譲ってやり、それから抱えていたカステラの紙袋を開けると、古妖に向けて差し出した。
「ほら、カステラどうだい? 清酒に優しく甘いものも合うよ」
「……遠慮しとく」
 懐古の様子にどこか引き気味の煙々羅は、口元に盃を寄せながら「よくわからんやつだ」一言零して酒を呑む。
 ちょうどその少し前。
 花見酒を堪能していたほどろは、ふと隣に座っていたはずの懐古の姿がないことに気付いた。
「……消えやがった」
 どこぞでくだを巻いていやしないかと、聞き耳を立てながら視線を走らせると、社の前に古妖に絡む付喪神を見つけて、大きなため息を吐き出しながら立ち上がる。
 のっしのっしと大股で二人のもとに近付いて行ったほどろは、
「……ほらその辺にしとけ」
 懐古の首根っこを引っ掴んで持ち上げた。
「ああ、ほどろ、邪魔しないでくれよ」
 慌ててカステラの紙袋を抱きしめ、ほどろを振り返って懐古は唇を尖らせる。だがそれに構わず、大きな毛むくじゃらは回収したへろへろの懐古を再び床几に戻そうとしたのだが――。
「う~ん、ほどろの毛はふさふさだねえ」
「おーい、お前あんま毛いじくんじゃねぇ!」
 ほどろの言葉もむなしく、懐古は欠伸をひとつ。
「……ねむたくなってきた」
「はあ?!」
 名を呼ばうも返事はなく。
 懐古はふさふさな毛むくじゃらに頬を寄せて、夢のなかへと遊びに行ってしまったのだった。
「はァ……こいつ抱えたまま帰んなきゃなんねぇのか……」
 まさか持ち上げたが最後、眠ってしまうとは。
 ほどろは空いた手でがしがしと頭を掻くと、途方に暮れたように宵宮のただ中に立ち尽くしていた。しかし、起きる気配がないと分かると腹の底から全て吐き出すような溜息をつく。
「俺ァまだ呑み足りねぇんだがなぁ」
 未練が残る犬神の言葉は、お囃子に掻き消されて誰にも届かなかった。

凌・麗華

 橙色の灯りが、ひしめき合う人々の顔を照らしている。まるで温められているようなやさしい光のなかを凌・麗華はひとり歩いていた。
 立ち並ぶ夜店からは焼き物や菓子の匂いが漂い、射的やヨーヨー釣りをして遊ぶ子どもたちの笑い声がお囃子に交じって宵宮を盛り上げているように思われた。
 つい先ほどこの場でマガツヘビが暴れ狂っていたとは到底思えぬ祭りの様子を、麗華は眩しそうに目を細めて眺めている。
 祭りが賑わうのはいいことだ。最終的に古妖の身を使って完成させる魂封じの宴だとしても。
(「……倒して終わりっていうような相手じゃないだろうからな」)
 煙々羅ははじめからそのつもりだったのだろうか。詮無いことを考えては、かぶりを振る。
「好啊、煙々羅がその気なら辛気臭いのは無しだ。盛大にやろうじゃないか」
 麗華は神酒を振舞っているユキたちのもとへと近付いていくと、盃を受け取り、それからむんと胸を張った。
「これでも酒には強い方なんだ。幾らでも持ってきな!」
 くすくす笑うユキは「いいのがありますよぉ」と、テーブル下のクーラーボックスから取り出した一升瓶を気前良く譲ってくれた。一言礼を口にした麗華は、それを小脇に抱えて社の方へずんずん歩いて行く。
 目的の人物は、一升瓶を抱えて仁王立ちする麗華を見て、炙ったイカを噛んだまま半目になった。
「古妖ってのは敵だと思ってたが、なァに昨日の敵が今日の味方ってのも武侠の道にはよくあることでね。良い戦いを見せてもらった」
 一升瓶と盃を古妖の隣に置き、一度その場から離れた麗華は、焼いた牛肉や焼き鳥を載せた皿を両手に持って戻ってきた。
「アタシで良ければ酌をしてやろう」
「いや……」
「あぁん、断るってのかい? いいじゃないか、さあさあ」
 麗華は肉料理を置いて腰を下ろすと、親指の腹を使って瓶蓋を開け、一升瓶を古妖に向かって傾ける。
「……これで二人目だぞ」
「なんだい?」
「なんでもねぇ」
 はーっと溜め息を吐いた煙々羅ではあったが、大人しく自身の盃を出し、はじめの一杯を受け取った。それに満足した麗華は、自分の盃に注ごうとしたのだが。
「おら、貸せ」
 煙々羅が一升瓶の首を掴み、奪う。少し目を丸くしたものの、麗華はその意味に気付くと、盃を差し出し「気が利くねぇ」と破顔した。
(「縁ってのは快いものでもあり寂しくもあり」)
 古妖に酌をしてもらうなど、後にも先にもないだろう。
「|雖是一面之緣,卻難以忘懷《ほんの短い出会いでも、忘れがたき思い出になった》。」
 境内の様子を何とはなしに眺めていた古妖が、耳慣れぬ言葉にちらと一瞥を寄こす。それには応えず、盃に唇を寄せた麗華は、この酒の味を忘れぬようにと、瞼を閉じてゆっくりと味わった。
 ――このひとときを楽しもう。

八百夜・刑部

(「なるほどな、分身を幾らでも作れる古妖だからこそのやり方だな」)
 マガツヘビの骸を閉じ込めた社は色合いこそ神社と統一されてはいるが、やはり複雑怪奇に建造されたためか、どこか異彩を放っている。
 古妖を封じたものなど、この√妖怪百鬼夜行で見つけられないほうがきっと難しいのではないだろうか。別段珍しくもないとはいえ、厳かな神域によりにもよって古妖が建てた社が併設されるのも妙な光景だと思い、八百夜・刑部は嘆息した。
 上にはすでに連絡をしてある。さきほどの応援要請で現場に駆け付けたスカイシャークたちも今日はあがりということで宴に参加させ、すでに出来上がっている妖怪たちに交じって盛り上がりに貢献させている。
(「そういえば最後にアイツに会ったのはヘビの封印前の戦闘中か」)
 つい先日の出来事を反芻しながら歩む刑部の視線は、絡み酒をシッシッと追い払う古妖に向いていた。いちど爪先が向くと無意識に足は動き、その言葉もまた躊躇いもなく口をつく。
「お前の親分は戻って来たか?」
 少し距離を開けて立ち止まった刑部の言葉に、煙々羅の眼差しがぎょろりと寄こされる。寄せていた盃から酒を一気にあおると、己の脇に置いて、それから嗜虐的な笑みを唇に乗せた。
「それを聞いてどうする」
「……まあ素直に応えちゃくれんか」
 知ってたと言わんばかりに空に視線をやった刑部を古妖が鼻で笑い、それから一升瓶を持って酒を注ぐ。会話をするつもりはないのだろうと「邪魔したな」背を向けた刑部は、その場から離れるために足を踏み出した。
「仮に知ったとして、今さらお前の中で何かが変わるのか?」
 背中に投げつけられた煙々羅の問いに、いつもは眠たげなまなこがゆっくりと見開かれてゆく。なにか言葉を口にしようとした刑部であったが、しかし唇を引き結ぶと、片手を上げそのまま宵宮の人ごみに紛れて去って行った。
「――逃げ続けるのが救いになるのかね」
 こぼれてきた藤の花びらが浮かぶ盃を、煙々羅はひとくちで飲み干した。

 眩しい。
 煙々羅の言葉を耳にしてから、宵宮の、宴の灯りがひどく目に滲みる。もしアレが素直に答えを寄こしていたら、そのとき自分は何を感じただろうか。
 此度の大事件。その身を使いマガツヘビを封じる手段を取ったのが、あの煙々羅だけではないはずだ。ならば――。
(「全く、またオレだけ何事もなく無事に生きて帰っちまいやがった」)
 ひとり木に背を預け、遠くから宴を眺めることにした刑部は、晴れぬ霧の中で行き先を探しているような気持ちになりながら思案している。右に進んでも左のほうが良かったのではないか、こちら側を手に取ったがあちらのほうが最善だったのではないか。そんなことばかり浮かんでは弾けて、刑部のこころに染みを作っていく。
(「警官になって昔の縁を流そうとしても背負わなきゃいけない」)
 もう、刑部はそんな場所に立っている。どれほど願っても過去へは戻れないし、ほつれた糸をほどいても癖のついた紐は真っ直ぐにはかえらない。
(「誰かの業だけが増えていくなぁ」)
 酒を口に含む。
 名水のごとき清らかだと聞いたが、今の刑部には味がわからない。酒精が罪のように身の内に降り積もるだけ。
「楽になりてぇなぁ」
 本心が口からまろびでても、それをかなえてくれる人は|神社《ここ》には居なかった。

九鬼・ガクト
香柄・鳰

「ガクト様、此方ですよ」
 宵宮の喧噪や機具が唸る賑わいのなかで、主の声を探すように振り返った香柄・鳰の唇は常よりやわくほころんでいた。どこか曖昧に揺れる眼差しも今は微睡むように笑んでおり、足取りすらも軽やかに見えてくる。名を呼ばれた男は辺りに流していた視線を彼女に戻すと「今行くよ」と透き通るような返事を投げて、気配が感ずる距離まで近付いていった。

「お越し頂き有難うございます」
 己が主と仰ぐ九鬼・ガクトを藤棚前の床几に導いた鳰は「ささ、どうぞ」と彼を先に座らせると、自身は立ったまま一度境内の方を振り返った。
 彼女の口から語られるは、ほんの数刻前に始まったマガツヘビの悲劇とその結末。
「元々は相対する敵とはいえ身を以てマガツヘビを封じようというその覚悟や良し。――ならば皆で送り出せればと」
 ひっきりなしに人々が往来する宵宮に視線を向けたガクトは「へえ」と短く、それでいてどこかやわらかい響きのいらえを返した。
 この宵宮、引いては宴会がマガツヘビを封ずるための儀式であるという。
「んー、なかなか面白い儀式だね」
 何も知らぬ者が目にすれば、きっと常と変わらぬ祭りに映ったことだろう。
「なるほど、そのマガツヘビを封じる為に自身を犠牲にですか。その覚悟は素晴らしい」
 大勢の人が飲み食いをしていて、件の古妖がどこに居るのか姿は直接見えはしなかったが、それらしい気配は何となく察している。対角線上に見える背の高い社を認めながら、ガクトは顎下をするりと撫でた。
「それしか無いとはいえ、普通では怖くて無理でしょう」
 身を投じた社の中でどのようなことが起こるのか、きっと外部の者には分からない。古妖ただ一人だけが味わう感覚を、我々は知ることすら出来はしないのだ。
 あの社の姿かたちは、古妖のほんのちいさな気まぐれだったのかもしれない。おそらくは今後の一生に残り続ける魂封じの場を奇抜に見せず、色を合わせるなど、なかなかどうして憎いことをする。
「この宴の時間だけは楽しかったと思う様な時間になると良いですね」
 主の言葉に首肯した鳰は、それからゆっくりと甘く香る藤棚のほうを振り仰ぐ。
「それに此処の藤は見事でしょう? 是非我が主にお見せしたくて」
 夜風に一斉に靡いて揺蕩う藤の花を見上げたガクトは、袖内に手を通しながら、塗りこめられた夜のなかで、灯りに磨かれたように咲く姿に口元をやわらげた。
「神社の藤は何処か神秘的な感じがするけど、藤は何処でも咲くからね」
「ふふ、そうでしたね。藤とは本来野山に咲き、巻き付いた木を締め倒してしまう程に力強い。此の藤の神聖さは手入れする人の想いがあってこそでしょう」
 この藤にもきっと神様が宿っているのかもしれない。そんな思いが自然と湧くほど、花は美しかった。頬をくすぐる藤の花に、触れるか触れないかの近さで掌を持ち上げた鳰は、淡く笑む。
「豪華に咲き誇る藤棚も魅るのも良いけど、ひっそり咲く藤も良い」
 思えば人の手によって、こうした藤棚を多く見られるようになったが、誰かに管理されている花も、それゆえの美しさがある。けれど主の言うように、人知れず伸び伸びと自由に咲く花もまた、生命の息吹を感じられる美しさがあって、どうにも甲乙つけがたい。
「鳰はどんな藤が良いかい?」
「私ですか?」
 不意に問われ、鳰は瞬く。
「私は……ガクト様の茶屋処の藤が、いちばん」
 けれど彼女はすぐふわりと、いっとう美しく微笑んだ。
「ん? 私の店の藤?」
 藤の花にも負けぬほど可憐に微笑う鳰を見て、ガクトは僅かに首を傾げて繰り返す。それから砂に水が滲み込むようなゆるやかさで言葉を咀嚼したガクトは、ちいさく頷いた。
「それは嬉しいね。あの藤は私が丹精込めて育てたからね」
 美しさに優劣をつけるのは野暮だが、人には好みがある。それは何か琴線に触れるものであったり、馴染み深いものであったり――あるいは思い出であったり。
 吹雪みたいにはらはらと散る花びらが季節の終わりを告げている。それはどこか物悲しくもあり、さみしい気持ちにさせるけれど、だからこそまた来年この花を見たいのだと思わせる。
「んー、肉? これは酒の匂いかな? せっかくだからお酒でも飲もうか」
 すこし風向きが変わって、香りが二人のもとに滑り込んできた。すん、と鼻を鳴らしたガクトが、藤から視線を外して立ち並ぶ夜店のほうを見た気配を察し、鳰もまたその方を振り返る。
「ああ、どこかでお肉を焼いているのでしょう。何か召し上がりますか?」
 ユキたちに貰った神酒が手元にあるのだが、いかんせん呑むのが主ひとりとはいえ量が少ない上に、つまみはまだ未調達であった。これしきで酔いつぶれることはないだろうが、共に何か食べぬと身体にはよろしくない。
「お酒ばかりではお体に障ります」と、ひとこと言いおいて、さっさと夜店の方へと歩いて行った鳰は、人ごみをするする縫うように歩いて、和酒と串焼きを買い求めてすぐ戻ってきた。
「さあどうぞ、鶏はお好きかしら」
「鳥は好きだよ、有り難く頂こう」
 酒と皿を床几に置くと、鳰はようやく自身も腰を落ち着かせることにしたのか、裾を巻き込まぬよう手で整えながら浅く座る。
「私はお酒を頂けるまであと少し足りませんからね。今夜はお茶で我慢します」
 鳰は齢十九であった。ガクトももちろんそれを知っているので、頂くならお茶かジュースだろうと踏んでいたのだが、彼女が選んだのはあたたかい茶。残念ながら湯飲みではなかったけれど、摘み立てなのかひときわよい香りがする。
「そうだね、来年は一緒に藤を観ながらお酒が呑めるね」
 楽しみですと頷く鳰を見ていて、ガクトは「ああ」「そういえば」と何か思い出した風に盃を置いては、ごそごそ探す素振りを見せ始めた。
 ひょいと主の指先に摘ままれたそれは小さな瓶。
「あら、その瓶は?」
 ガクトは答える前にぽんっと小気味のよい音を立てて蓋を開けると、小さな口を傾けて中の液体を、鳰が両手をあたためるようにして持つコップの中に一滴垂らす。それから自身の盃にも一滴。
 ひとつ、ふたつ。雫が落ちると漂う藤の香りに、鳰はちいさく息を呑んだ。主を窺うように視軸を向けると、彼は蓋をした小瓶を床几に置いて、再び手にした盃を微かに揺らす。
「藤を濃縮したシロップさ。んー、微かに藤の馨がするだろう?」
 口元に持ち上げる拍子に香りが立つ。生花とはまた違った藤の香りは、鳰の胸をいっぱいにさせた。
「まあ素敵。ふふ……流石ですね。藤を楽しむことに長けておられる」
 ああ、なんて善い時の過ごし方だろうか。
 魂封じの宴をこのように楽しんでよいものかと、心のどこかで思ってしまうけれど。どうせあの古妖は鬱陶しそうに唇をひん曲げて「辛気臭ぇ顔すんなっつったろ」と追い払うに違いないのだから。

 藤の薫りがする酒を一杯、また一杯。
 主が盃を干せば鳰が注ぎ、そんなお酌する彼女にガクトはほわほわとまろく笑って。そうして藤棚を、笑い声の絶えぬ宴を、二人一緒に眺めている。
「カステラの匂いがするね」
 またもや気まぐれに変わった風が、今度は砂糖とたまごの甘い匂いを連れてきた。
「……あらあら。藤以外の甘い匂いが。後で買いましょうか」
「そうだね。後でオヤツでも食べようかね」
 ――でも今は、ゆっくりと。
 ――もうしばらくは、このままで。

 言葉は少なくとも心地のよい二人だけの宴は、夜が更けるゆるやかさに身を任せるように、静かに静かに続いていったのだった。

姜・雪麗
七々手・七々口
九段坂・いずも
アダルヘルム・エーレンライヒ
ルイ・ラクリマトイオ

「藤祭りってのは此処かね」
 穢れを知らぬのではないかと思えるほど白く透き通る髪を揺らして参道の大階段を登りきった姜・雪麗(絢淡花・h01491)は、眼前に広がる宵宮の光景を前にして「おお」とわずかに瞠目する。
 きょろりと視線を巡らせると、切れた人混みの隙間から見慣れた顔触れが一瞬だけ目に映ったので「ちょいとごめんよ」と、自身の角が当たらぬよう気を付けながら流れに逆らってゆく。
 賑わいの隙間からひょこりひょこりと顔を覗かせる見覚えのある角に気付いたアダルヘルム・エーレンライヒは、その大きな身体を使って少しの空間を作ると、駆けつけた雪麗を皆のもとへと案内した。
「無事にマガツヘビ退治も済んで一件落着、だろうか」
 アダルヘルムの言葉に雪麗が目を丸くする。
「おや、アイツが出てたのかい。そりゃ遅れちまって悪かったね」
 雪麗に此度の事件の概要と、この宴の本当の理由を簡単に説明することにしたのだが、理解の早い彼女は得心がいったとばかりにしきりに頷いて、それからマガツヘビと戦ったという四人を改めて見た。
「大きな怪我もなく、なによりです。なんてったって……少しの怪我なら美味しいお酒で治ります♡」
 目立った怪我はなさそうだと、ちょうど雪麗が思っていたことを、両手を揃えて双眸を細めた九段坂・いずもが口にした。彼女の言葉に頷きを返したのはルイ・ラクリマトイオで、彼は本殿前で神酒を振舞うユキたちを見、祭りで行き交う人々を見、それからあちらこちらで宴を楽しむ者たちを見て優しく笑む。
「無事にマガツヘビ退治も済み、酒宴で賑やかさを取り戻し、戦の空気をはらう……よろしいではありませんか」
「ええ。華々しく送りましょう」
 古妖の申し出を断る理由はひとつもないのだから。
 己を使うことで魂封じの宴を完成させるつもりだと口にした古妖の笑い顔を思い出しながら、いずもは眩しいものを見るような眼差しで、少しのあいだ社を見上げていた。

「さてさて、宴の時間。いや、酒の時間だねぇ」
 いつの間にやら、するりと元の猫姿に戻った七々手・七々口が嬉しそうにヒゲを揺らすと、嫉妬な魔手が七々口の盃を持ち、残りの魔手たちが徳利を持ちあげ準備万端。
「魂封じの宴とはいえ、煙々羅殿はしんみりとした雰囲気は好まんだろう」
 その傍らで深く頷いたアダルヘルムが、魔手に酒を注いでもらった盃をゆっくりと高く持ち上げると、
「故に――呑むぞ」
 今日一番の笑みを浮かべて言った。
「みんなお疲れー。かんぱーい」
「お疲れ様」
 音頭を取る七々口に合わせて「乾杯」と声を揃えた彼らは、それまで突き合わせていた盃を口元に寄せると、ぐいと一口。戦いでまだ火照りを残した身を内側から冷やすような清らかさが喉を滑り落ちていき、鼻腔を抜けていく果実のような香りがいっぱいに満ち満ちて、誰からともなく至福の声がまろびでる。
「うまー」
 はやく呑みたくてたまらなかった七々口は、はじめの一口にたいへん満足して、さあもう一杯とお酌を頼む。背にした藤棚なんて知ったこっちゃないと、二杯、三杯とすいすい呑んでいく姿に微苦笑を浮かべたルイは、ひらひらと夜風に揺れて花びらを散らす景色を眺めながら盃を傾ける。
「藤の花の美しさと甘い匂いがあれば、肴は……いえ、美味しいモノはあるに限りますね」
 様々な夜店からかき集めてきた串焼きや肉料理が盛り付けられた、たくさんの皿に視線を落としてはおかしそうに笑う付喪神。アダルヘルムが口端を持ち上げるようにして淡く笑い「美しき藤の景色に美味い酒と料理。完璧だろう」と、どこか胸を張ったように口にするのも無理はないほどに豪勢だ。
「これも、お三方と煙々羅氏の活躍あればこそ。お疲れ様でした、よろしければお酌を……と、美しい女性からの方がよろしいですか?」
 気を遣ったルイではあったが、そんなことは気にしなくていいとばかりにいずもが自身の杯を差し出した。ルイはにこりと笑うと徳利を手にしたが、それが空であることに気付き、別の徳利を持つも、それもまた空。「おや?」と思いながら並べられた徳利をすべて手に持ったがなんと全てが空である。
「にゃははー、お酒のお代わりくださーい」
 水でもあおっているのかと思うほど、ひとりで何本も徳利を空けているのを偶然目にしてしまったユキが、びっくりした表情を浮かべて固まっている。けれど彼女はすぐ我に返ると、どこぞへと駆けていき、それから台車を使ってまだ鏡開きをしていない酒樽を一つ丸ごと持ってきてくれた。これには五人も沸き立つというもの。何せ気になっていた神酒を、たらふく呑めるのだから期待はうなぎのぼりだ。
「代わりと言っちゃなんだが宴は盛り上げさせて貰おうかね。こちとら酒盛りは得意中の得意と来たもんだ」
 張り切る雪麗の背後で、藤が棚引くように花を揺らす。暗い夜の中であたたかな光に包まれた藤と、抜けるような白さをした雪麗の対比はまことに美しい。
「藤の花を背景にする姜さんは、よくお似合いです。美人がもっと美人に見えますよ」
 お待ちしていました、といずもが微笑みながら盃を掲げると、ゆっくりと唇に弧を描く雪麗が、艶やかな黒髪を彩る藤の花びらを見つめて「それは君も同じだなぁ」と思いつつ、言葉の代わりに同じように盃を寄せる。
「今ばかりは無礼講だ。注いでもらった礼に俺も杯に注いでやるぞ。さて、誰からいこうか」
 酒樽から柄杓で掬った酒を片手にアダルヘルムが振り返れば、真っ先に手を上げたのは七々口だった。しかし阿吽の呼吸でお酌をしていた嫉妬な魔手が尖った指先をぴんと立てて、それから威嚇するように五指で空気を掴んでぶるぶる震えている。アダルヘルムはそれを見なかったふりをして、七々口の盃を酒で満たした。
「――お前らよぉ。それはわざとなのか?」
 不意に訪れた、いささか掠れた男の言葉。
 はて、と五人が揃って首を巡らせると、大きく脚を開き、片肘を膝の上に突いて、もう片方の手で盃を手にした古妖が、じとりとした眼差しでこちらを窺っていた。目が合うと古妖は眉間に寄せた皺を深くして、己が座っている場所の、真横の大きな床几台で酒盛りする五人を端から端まで見渡して、それからもう一度「わざとか?」と問うた。
「たまたま空いているのがここでして」と朗らかに笑うルイに「どうだか」と鼻を鳴らした煙々羅は、細く切った肉を咥えて咀嚼する。その横顔を見てふと思いついたように立ち上がったのはアダルヘルムだ。彼は荷台に乗せられたままの酒樽の脇に立つと、古妖の名を呼ばう。
 ちらとこちらを見た煙々羅に視線で問われたアダルヘルムは呑み比べをしないかと提案した。否、それはもはや挑むような態度といっても過言ではない。
「呑み比べだぁ?」
「あら、飲み比べなんて……わたくしも混ぜていただいても?」
「もちろん。いずも殿も是非」
「飲み比べるなら、酌も給仕もやってやるからよ」
 素っ頓狂な声をあげる古妖をよそに、いずもと雪麗が楽しそうだと腰を浮かせては、さっそく準備に取り掛かる。手際のよい二人の行動に「おい」「まだやるとは言ってねぇぞ」と古妖も思わず腰を浮かせたが、そこをとっ捕まえるようにアダルヘルムとルイが両脇から捕獲。帰るのを嫌がる犬みたいな古妖をずるずると引きずって、己たちの床几台へと無理やり押し込める。
「ウフフ、ええ、無礼講ですから手加減いたしませんよ」
「すでに出来上がってんだろ、お前」
 煙々羅が思わずつっこむほど、いずもは気持ちのいい赤ら顔である。だがアダルヘルムは気にしたふうもなく、快く頷き、まず手元の杯を空にした。
「手加減は不要とな。――ふは、臨むところだ」
「聞けよ。くそっ、酔っ払い共め!」
「まぁまぁ、呑みねぇ」
 酒樽の脇に立ち、柄杓を手にした雪麗が全員の杯と盃を満たしていく。
「こんな手弱女共に飲み負けちゃあ呑兵衛の名が廃るだろう」
 そんな風に煽れば、男達も火が点くというもの。
 杯が乾けば雪麗が注ぎ、杯が満ちればまた乾杯。一杯、一杯を消費するでなく、味わうように胃に落としていく姿に、七々口はにやにや笑い、ルイは「時々何か口にした方が良いですよ」と料理を勧める。
 呑み比べといっても、気がつけばただ酒を楽しんでいるだけになってきて、もう誰がどれだけ呑んだかなんて分からなくなった頃。
「酒肴に困っちゃいねぇが」
 ふと、古妖の盃に酒を注いでいた雪麗が、視線を巡らせる。
「折角なら戦いの話が聞きたいねぇ」
 あのマガツヘビとどのような戦いを繰り広げ、勝利を手にしたのか。
「褒めそやしてやるから存分に聞かせておくれよ。武勇話なんてのは語るほどに場が盛り上がるってもんだ」
 自身の杯にも酒を注ぎ、荷台に寄りかかるように取っ手に肘を突く。傾けた杯からフルーティーな香りがして、さぞ旨い酒が呑めそうだとにやりと笑う。
「私は今回は攻め手には加わりませんでしたので……その代わり、皆さんの活躍をしかと見ていましたよ」
 口火を切ったのはルイだった。
「ことに七々手さんの樽砲台に、アダルヘルムさんの堅牢な守り、そしていずもさんの大立ち回り! 皆さんの見事なことと言ったら」
 にこやかな表情のまますいすいと盃を重ねていくルイの表情は、常とまるで変わらない。御伽使いの本領とばかりになめらかな緩急をつけて語られる言葉に、皆は自然と耳を傾ける。
「ルイ殿の援護やいずも殿の切り込み、七々口殿の豪快な攻撃。どれも非常に頼もしかったな」
 うんうんと大きく頷くアダルヘルムが言葉を次ぐも、けれど自分のことになると「別に俺のは武勇伝と呼べやしないが」「盾役として攻撃を引き受けていたな」となんとも控えめだ。
 すると、くわっと両目を大きく見開いたいずもが、思い出したようにルイの方へと少し上体を伸ばすように近付けて唇を尖らせる。
「ルイさんがこんな業物だなんてわたくし知らなかったんですから。驚きましたよ、聖天の忘れ形見とは」
「そんなに驚かせてしまいましたか?」
 軽快に笑うルイは、どこか嬉しそうだ。その隣で、酒で湿った口元を舌で舐めながら「武勇伝かー」と思案していた七々口は「んー」と少し悩む素振りを見せたあと、
「ヘビゴルフは面白かったし、樽投げるのは楽しかったかねぇ」
 と、のんびりしたいらえを寄こした。戦いのシーンを思い出しながら、自分がやったことを、仲間にやってもらったことを一つずつ思い出していく。
「アダルヘルムにゃあばっちし守って貰ってたし、ルイの援護にも大助かり。いずもには……」
 いちど言葉を区切った七々口は、そこではじめて我に返る。
「当ててなかったよね?」
 いずもの方を振り返って確認すると、彼女はじとーっとした半目で猫を見つめている。
「わたくし当たりそうだったんですが?」
「いやぁ?」
 首を傾げてすっとぼける。
「冗談ですよ。――七々手さんは真面目に不真面目、といったところでしょうか」
「いや、オレだけ遊んでた訳じゃないよ? 大真面目よ。大真面目」
 ねぇ? と魔手たちに同意を求めると、なぜか嫉妬以外の魔手たちからの反応が鈍い。「嘘でしょ」と零せば、嫉妬な魔手が慰めるように七々口の口元に焼いた肉を運ぶ。
「そうだな、姜殿よ。マガツヘビを煽るのはなかなかに楽しかった」
 しまいにはアダルヘルムがそんな極めつけを口にするものだから、酔いどれ雪麗の頭に浮かぶ光景はなんともおかしなことになっていた。
 樽で飛び出すにゃんこ。
 蛇に絡まれながら煽るアダルヘルム。
 ルイと二人三脚で立ち回るいずもの姿。
 どれもこれもが愉快痛快、この目で拝んでみたかったものだと酒を一杯。
「……そいつは楽しい戦場だったろうねぇ」
 しみじみとした口調で酒をなめる雪麗の正面で、半目のまま微動だにしない古妖が一言。
「全然楽しくなかった」
 恨みたっぷりに吐き捨てた言葉は、酔っ払いたちの耳には届かない――。

井碕・靜眞

 墨を流したような夜だった。
 拝殿の|流造《ながれづくり》の屋根下から夜空を見上げていた井碕・靜眞は視線を落とすと、境内を雀のようにちょこまかと動き回るユキを見つけて、目元をやわらげる。
 古妖から共闘を持ちかけられたと聞いたときは、さてどんな魂胆かと思ったものだが。終わってしまえば古妖自らを利用するという。あちらの星詠みが予知したときから、決めていたことなのかもしれない。
(「……まぁ、そういう方法なら、特に文句もないですよ」)
 ――だって、大人しくしてくれるんでしょう?
 社前の階段に腰を掛け、後ろの段に肘を突いて盃を片手に夜空を仰いでいる古妖に向けて、カミガリは胸の内でゆるり問うた。

 この神酒のアルコール度数は、十五度らしい。
 酒に弱くはない、けれどさほど酔えたためしもない靜眞が、この小さな杯で頂いても、きっと今夜もその酒精がこの身に巡って酔いを齎すことはないのだろう。
 ――いっそ酔えたら、もっと楽だったのだろうか。
 喧騒の奥に何か聞こえた気がして、かぶりを振っても。ほら、別になんともない。正常な視界は、更ける夜の中で酒を酌み交わし顔を赤らめて笑いあう妖怪たちを真実映す。
 酒は多少ならおいしいとは思える。ならば自分は、まぁまぁそれなりなんだろうと改めて自覚したところで、靜眞は夜店の灯りに誘われるように人波に紛れていく。
 意外なことに、するりと買えてしまった。もしかしたら能力者たちには融通を利かせてくれたのかもしれないな、と思いながら人気の少ない藤棚のほうへ近付いた。
 さらさらと夜風になびく葉擦れの音が幽かに聞こえるのが心地良い。焼き串を小さく食み、それから一杯を大事にするように酒を味わう。
 夜の闇の中にあっても、藤棚のあわい紫が綺麗で。この街に似合うやわらかさだと思った。こんな風に嗜むのも悪くない。

「で、呑むだけ呑んだら寝るんですか、あなた」
「あぁん?」
 その態度は輩のそれではあったが、別に酔っ払っているわけではなさそうだ。古妖の前で歩みを止めた靜眞は彼が背にした社を間近で見上げ、それから視線を煙々羅に落とす。
「いくら柱のなかに封印されるとしても、二十四時間働きづめってワケでもないでしょう」
「さぁねぇ。目覚めかけてるヤツと闘い続けてるかもしれねぇなぁ?」
 口角を上げた古妖に「そうですか」と至極どうでも良さそうに一言いい捨てたカミガリは、ふと境内のほうを頸だけで振り返る。
「たまに様子は見に来ますよ」
 まだうろちょろしては、あれやこれやと給仕の手伝いをしている少女を認めて、彼女が泣いていた二月の夜を思い出す。
「ユキさんのことも気になりますし」
 古妖も境内に視線を向けたらしかったが、彼が口にした「ユキ」が誰のことか分からぬようだった。「ふうん?」と興味のなさそうな返事を寄こす煙々羅を盗み見て「まあ、そうか」とひとり納得する。
「その時は、酒でも供えますか? あなたと違って、多少気を遣えますから」
 階段を登った先、扉の前には少しのスペースがあるようだった。そこならば邪魔にはなるまい。視線で問うと、古妖は薄く笑った。
「好きにしな」
 盃を傾け、一息に呑み干す。その姿を目にして、階段脇の手すりに背を預けた靜眞も杯を傾けた。
 どうせ家に帰っても寝るだけだ。この宴が終わるまでは、もうすこしだけ付き合おう。
(「これも、仕事だから」)
 空になった古妖の盃に徳利を差し出してやると、彼は数瞬カミガリの顔をじっと見つめていたが、吐息が漏れるような笑いをこぼし、己のそれをゆっくり伸ばした。

エレノール・ムーンレイカー

 エレノール・ムーンレイカーは、わずかに眉をひそめ神妙な面持ちで神酒の酒樽を見つめていた。
(「わたしは一応、未成年なのでお酒は飲めません」)
 なので古妖の言う酒盛りをすることは実質不可能である。とは言え、 エレノールひとりが呑めずとも、敷地内には既に出来上がっている妖怪や人間たちで溢れかえっているので、魂封じの宴が失敗するということはあり得ないだろう。その、はずだ。
(「どうしようかな」)
 思案しながら宵宮の景色を眺めていると、首を伸ばして立ち並ぶ屋台を覗き込んでいるユキの背中を見つけて閃く。
 喧騒と雑踏にエレノールの足音は掻き消され、近付いていく気配なぞ人混みが邪魔をする。ゆえにか後ろからとんとん、と肩を叩いて名を呼ぶと、ユキは幽霊にでも触れられたかと思うくらいの反応でびくーっと飛び上がった。
 恐々振り返るユキの瞳に「まさかそこまで驚くとは」と、これまたびっくりしたエレノールのぽかん顔が映り込んでいる。ユキは自分の肩を叩いたのが彼女だと分かると、表情をへにゃりと情けなく崩して、さっき妖怪に驚かされたのだと力なく笑った。
「そうだったんですね。ちなみに、どんなふうに?」
「肩を叩かれて振り返ったら、のっぺらぼうでした」
「ああ、なるほど……それは災難でしたね」
 想像するとちょっとおかしくて、口元に手を添えたエレノールが笑いを噛み締めていると、ユキは「いいんです」「一思いに笑ってください」とうなだれ笑っている。するとそのとき、喧騒のなかにあってもハッキリと「ぐう」とお腹が鳴るのが聞こえて、瞬きを繰り返す。
「もしかして、ユキちゃんはまだ何も口にしていないんですか?」
「そうなんですよ。あちこち手伝って、気付いたらもうこんな時間で」
 祭りは時間を忘れさせた。きっと彼女は率先して、みなの手伝いをしていたのだろう。マガツヘビが神社で暴れたのは偶然の出来事だし、結果的にこの土地を守ることになっただけで、だからといってユキが身を粉にして動かずともよいのだけれど。
「良かったら、一緒に夜店を回りませんか? わたしもこれからなんです」
「えっ、いいんですか? わぁ、ぜひ!」
 まさか彼女のこんな笑顔を目にする日が来るとは思いもしなかった。
 エレノールとユキが連れ立って歩くと、まるで友人同士で宵宮に遊びに来たような雰囲気だった。
 歳が近いため話しやすくもあったのか、共に夜店を巡って鈴カステラを頬張り、ひとくちサイズにカットされた林檎飴をしゃくしゃく食べるユキは、古妖の封印を解いて己を責めていた人物と同じとは思えぬほど、ふつうの女子学生であった。
 ふたりで藤棚を眺めながら聞く近況は凪いだ日々で、まだつらく思うこともあるけれどやっていけそうだと彼女は笑う。それを、とても眩しそうに目を細めて見つめるエレノールは、この笑顔を守ることができたのだと実感して、胸が熱くなるのを覚えていた。
「お姉さんのほうは?」
 白いわたがしをぱくっと頬張って、舌の上で溶けていく砂糖にまろい笑みを浮かべたユキが問う。その言葉に少しだけ微笑んだエレノールは、ユキから藤棚へ視線を滑らせ、風にそよぐ花を見上げながらやさしく言った。
「まあ、いろいろ忙しいけれど元気にやってます」
「元気がいちばんですよねぇ」
 まるでどこか自分に言い聞かせるように口にしたユキも藤を見上げる。
 それから二人は静かな、けれど楽しい時間を共有するように、あたたかな祭りを過ごしたのだった。

 母にも何か食べ物を持っていく。そう言ってユキはエレノールに深く頭を下げると、軽やかな足取りであっという間に人混みに紛れて見えなくなった。
 振っていた手を下ろしたエレノールは、宴会で盛り上がる床几台スペースのほうへと近付き、その熱気のなかをひとり歩いてゆく。地肌なのか酒の所為なのか分からないくらい顔を真っ赤した妖怪の集団や、まだ若い男女のグループ。人も妖怪も入り乱れて酒を喰らう姿は、ちょっと驚くほど豪快だ。
 酔っ払いに捕まらぬよう足早に見て周ったエレノールは、最後に古妖がいる社へと近付いて行く。ひとりで盃を傾けていた煙々羅は、エレノールと目が合うと肩を竦めてみせた。まるで、ようやく落ち着ける、とでも言うかのように。
「お前はまだ呑めねぇのか」
「そうなんです。酒盛りを手伝えなくてすみません」
 いちおう気にはしていたので謝ってみると、古妖は声を出して笑い、それから目の前で溢れかえるほどの酔っ払いを指差した。
「あれで十分だろ。お前が呑めなくても失敗しやしねぇよ」
 そんな言葉をかけられてしまい、ああ、少しだけくるしくなる。
 共闘は今宵限り。
 けれどエレノールは――。
(「彼に仲間意識を多少、持っていた」)
 持って、しまった。
 なぜだろうか。敵でなければ思いのほか言葉が通じたから? 共に戦うのは、とても動きやすくて違和を感じなかったから? 挙げても挙げても、答えは見つからない。
 だからなのか。
「あなたが古妖でさえなければ、もう少し仲良くできたかもしれませんね――」
 エレノールはつい、そんなことを口にしてしまった。
 一瞬、この喧しさに紛れて言葉は届かなかったのではないかと期待したが、古妖の視線は確実に己を捉えている。その眼差しを正面から受け止めたエレノールは、ちいさく息を呑んで返答を待つ。
 しかし、フッと笑った古妖は酒をあおると盃を置き、ゆっくりと立ち上がる。階段を登って行く背中を目で追いかけると、古妖は扉の取っ手に片手を伸ばし、それから彼女の方を振り返った。
「あんまり素直に受け取りすぎるのも、危ねぇんじゃねぇの」
 じゃあな、と一言残して扉を開けた煙々羅は、まるで自宅の玄関にでも入っていくような気軽さで社の中に進んでいく。
 「あっ」と短く声を漏らしたエレノールは、しかし閉じた扉が施錠する音をはっきりと耳にした。次いで、すうっと浮かび上がる呪符が、ぴっちりと閉じられた扉の隙間を塞ぐように覆い隠してしまう。
 そんな風に何とも呆気なく封印は完了してしまった。
「――次に会う時は、また敵同士ですね」
 最後のその一瞬まで瞬きをこらえて見守っていたエレノールは、心の中ですこし寂しげに想いながらも、彼が残した盃を手に社に背を向けて歩き出す。
 マガツヘビの封印が完了したのだと、せめて氏子総代には伝えておこう。奥歯をぐっと噛み締めながら、一歩一歩あるいて行く。前を向いて、今だけは後ろは振り返らずに。

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挿絵イラスト