巨大魚の反乱
水族館の照明が、突如として赤く染まり。静かだった館内にはけたたましい警報が鳴り響き、観光客の悲鳴が波のように押し寄せる。
巨大回遊水槽の中央、水が荒れ狂う渦の中に——それは立っていた。
濡れた鎧のような青緑の身体、頭には海藻のように蠢く触手の冠、手にはトライデントが光せる異形の存在――ピスケスポセイドンシデレウス。
そして彼の足元に、尾を鎖で結ばれた二体のホホジロザメが海面から半身を突き出し、両足で一頭ずつの背に立ち乗りする姿は、まさに神話の具現のようであった。
「人の作りし箱庭の海に、我は怒りの潮を注ごう……!」
今や彼は身も心もポセイドン。
トライデントを振りかざすと、サメたちは水流をまとい、回遊水槽の縁を滑るように走った。いや、滑るというにはあまりに圧倒的。まるで水槽の海水が彼に従って押し寄せているようだった。
そのまま昇っていけば水上はイルカショーの巨大プール。
観客通路へと溢れる水が津波のように押し寄せ、水しぶきと共に現れたその姿はまさに——サーフィンする海神。
しかも、波は人工ではない。ポセイドン怪人が作り出す、高圧の水流とサメの筋力によって形成された能力による波だった。
「我が同胞よ! 人の傲慢に牙を剥け!」
サメたちは雄叫びのように水を裂き、鋭く旋回する。両足で立ち乗るポセイドンはバランスを崩すどころか、トライデントを掲げ速度を加え水の中を突き進む。
「なんだあれ……! 魚類の暴走じゃない……まるで意思があるみたいだ!」
スタッフの一人が呟く。だが、それは正しい。
渦巻くサメも魚たちも、全ての魚類が彼に突き従うのであった。
謎めいたゾーク12神の一柱『ドロッサス・タウラス』によって、変身の力を宿した「シデレウスカード」がばら撒かれる事件が予知されました。
これから説明する事件もその一つだと、|煽《あおぎ》・舞 (七変化妖小町・h02657)は言う。
シデレウスカードとは『十二星座』もしくは『英雄』が描かれたカードで、どちらか片方だけを所持している分には問題ありません。
「ですが、一人の人間の元に『十二星座』と『英雄』のカードが揃ってしまうと、所有者の身に事件が降りかかってしまうのです」
もし所有者が√能力者であれば、膨大な力を制御してカード・アクセプターになれたかもしれない。だが普通の人は、星座と英雄の力を併せ持つ怪人『シデレウス』となってしまい、常人には実現不能な『不可能犯罪』を引き起こし、混乱を広げてしまうので、カードに巻き込まれた人を助け、ばら撒いた犯人も退治してほしい。
「今回の事件は、某所にある水族館で起きました」
現在水族館は無法地帯。
通路のあちこちに水が溢れ水路のようになっており、自由になったなった魚たちが好き勝手に辺りを泳いでいる。
まさに魚による大反乱だ。
「『魚座』と『ポセイドン』のカードを手にした青年は、魚が好きな普通の人だったようです。ですが、今はピスケスポセイドンシデレウスとして魚たちを束ね、暴れているようです」
中でも厄介なのはサーフボードの如く騎乗している二匹のホホジロザメである。
「カードの影響でしょうか、サメは通常よりも一回り程巨大で獰猛になっています。皆さんにはまずこのサメを取り押さえて欲しいのです」
巨大化したサメは回遊水槽から飛び出し、今はポセイドンの元を離れ、ピスケスの力により自ら水を生み出し水族館の通路を自由に動き回っている。
そのせいか二匹の尾は、鎖で繋がっているようだ。
だが何もない宙まで水路を作り出し泳げるわけではない。あくまでも通路に水を満たし泳いでいるのだ。
「このサメが合流してしまうと、ポセイドンが強化されてしまいます。動きも素早くなってしまいますが、逃げられてしまう可能性も出てきてしまいます」
どこかに隔離したり、動けないようにしてもいいでしょう。
「サメは確かにカードの力で強化されていますが、壁や強化ガラスを壊したりすることはできません。大きいので大変ですが、何とかおさえることは可能なはずです」
その後は、暴れているポセイドンをおさえ。シデレウス化した人を助けてあげてください。
騒ぎが収まれば、シデレウスカードをばら撒いてた『エンリカ・シジカ』が様子を見に現れるので、彼女を倒せばこの事件は解決します。
「水族館の中は、殆どの場所が水没していますので、館内の移動方法や動きやすい服装で挑む方がいいかもしれません」
そう言って、舞は案内を終えるのであった。
第1章 冒険 『巨大戦!』

●水族館無法地帯
かつて静寂と秩序の支配していたこの場所は、今や水と混沌に呑まれている。
閉じられた人工の海、ガラス越しの展示はすでに崩壊した。
プールの縁も、展示エリアの壁も、その境界線はとうに意味を失い、水が自由になった。そして、魚たちもまた――解き放たれた。
光を失った館内で、かつての「展示物」たちは好き勝手に泳いでいる。
アロワナが非常灯の赤をまといながら天井近くを巡り、ナマズが床の案内板に体を擦りつけ眠り。カクレクマノミの群れがチケットのもぎり台に入り込み、泡のカーテンを作っていたり。
自由を得た魚たちの様子は幻想的で――だが、それは“制御なき美”だ。人が決めた観賞ルートも、音声ガイドも、ここにはもう存在しない。
魚たちは水族館という檻から解放され、海にも似た無秩序の王国を作り始めていた。
その反乱の中心に、眷属化し互いの尾を鎖で繋がれた2匹の巨大なサメがいる。
彼らは水を吐きながら、館内を暴れ回り、水路となった通路を猛進していた。
その進行方向、闇に包まれた一角に潜んでいたのは|ベニー《Benny》・|タルホ《Taruho》 (冒険記者・h00392)だ。夜目の効く彼女は、ミミズクの尾羽がしっとりと濡れても、今はそれどころではない。
照明が落ち暗闇と化したそこは、まさに彼女にとっての領域とも言えよう。
鉤爪の足を構え、壁際に身を潜めるベニーの頭上、水音と共に気配が揺れる。
「さてはて、鮫さん達の追い込み漁ですか。精一杯頑張ってみましょう」
人には見えないが、今は退魔道具によって仮初の実体を持ち、水槽の上を漂う|誉川《ほまれかわ》・|晴迪《はるみち》(幽霊のルートブレイカー・h01657)の姿があった。
既に館内をぐるりと巡り、サメを水揚げ出来そうなあたりはつけてある。
「とはいえ私は見えないユーレー。お肉で鮫さん達の気を引くことも出来ませんので──後ろから驚かせて差し上げましょう」
そうまるで宙を泳ぐかのように身を翻すと、晴迪の放つ|霊震《サイコクエイク》が、水面を揺らし始める。
細かく広がる振動は水とサメのひれとを振るえさせ、背後から『見えない何かが追ってくる』ような錯覚を植え付けて。
音の震源は上下左右、常に変化し、2匹のサメを焦らせ、誘導していく。
そして――水を切る勢いでサメがベニーのいる暗がりに突入した、その瞬間。
「今だ!」
彼女の着ていたマウンテンパーカーが宙を舞い、視界を覆う。次いで、暗闇の中から放たれる鉤爪の一閃。猛禽類の誇る鋭い爪がサメの横腹を裂き、水と血の飛沫が弾ける。
けれど、その一撃では止まらない。
怒りと混乱のサメは突進を続け――晴迪の霊震がさらに煽る。
視覚に頼れぬ恐怖が背後から襲い掛かってくれば、彼らはもう止まれない。逃げ場のない狭い通路、水面から飛び出したサメの行き着く先は――。
ごおおんっ!!
分厚い水槽の壁に、2匹のサメが激突した。
水が爆ぜ、天井の照明がひとつ火花を散らして落下し、あたりは濁った水と割れたガラスに満ちる。
一瞬の静寂。
それでも、サメはまだ動いていた。体を震わせ、ふらつきながらもその瞳は闘志を失っていない。ピスケスポセイドンの加護のおかげか丈夫なのかもしれない。
鎖の音が、再び通路に響く。
「……しぶといな」
「鮫さんたち、まだやる気満々ですね」
ベニーが濡れた羽根を払いつつ呟き。晴迪は、弱っているようですがと嘆息した。
ここは無理せず次の機会を……。
二人が姿を隠すのと同時に、サメが再び吠えるのであった。
●水没回廊暴走鮫
破壊された水槽から流れ出した水は、通路を満たし、館内の区画という区画を飲み込み、割れた天井からも水が降り注ぐ。
ウミヘビがベンチの隙間に入り込み、クラゲが割れたチケットカウンターの上でふわふわと舞っている様子だけ見れば和む部分もあるが、ここは違う。
暗くなった館内で、尾を鎖で結ばれた二頭のサメたちが、鋭く光る瞳をギラリと光らせる。
「サメのポセイドン合流を阻止。なるほど、つまり『サメから機動力を奪えばいい』という話ですね」
事態を把握した|彼岸花《ひがんばな》・|此方《こなた》(機械に咲く憐花・h04470)はサメを追い込むのに適した強固な大水槽へと位置どると身構えた。
(「ここまで水浸しになってしまったら、復旧が大変だろうな……」)
水の溢れる通路をゴーグルの暗視機能をオンにし、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は、水没を避けるようベンチの背や水槽の案内板などを足場に。
ガントレットのワイヤーが甲高い音を立て、水没寸前の鉄骨へと突き刺さる。
クラウスは空中を跳ねるように移動しながら、紫電を帯びた弾丸を、サメたちへ撃ち込み弾けさせる。
水飛沫が爆ぜ、蒸気が立つ。
全身を襲う紫電にサメたちは、怒りに燃えながら跳ね上がり、クラウスを目掛けて突進してきた。
「どこからでも掛かって来い!」
いつでも電撃鞭を振るえるよう手を伸ばしながら、クラウスはワイヤーを巻き取り、空中で一回転。
ギリギリでサメたちの突進をかわし、その背びれに電撃鞭を振るった。
「これ以上好きにはさせない」
暗がりを先回りしていた|狗狸塚《くりつか》・|澄夜《とうや》(天の伽枷・h00944)は、『|魂呼《タマヨバイ》・|管狐《クダギツネ》で呼び出した管狐達の索敵でサメの動きを捕えていた。
水音を切り裂くように、澄夜が〈十二神字図符〉を展開。
符から絡み合う梵字を成し、龍の文字が浮き上がれば立ち上るよう龍神が姿を現し、咆哮をあげた。
龍神はその力で水を繰り、轟く。
その一撃は、水流をねじ曲げ、突進していたサメたちを強引に横へ押し流す。
「クラウス殿、今だ!」
澄夜の声に、空中のクラウスが応じ、電撃弾を放ち、さらにサメたちの動きを削ぎ、大水槽へと叩き込む。
「……今が、収穫時」
此方がそっと呟き、手にした種子弾を水面へ、サメのヒレや尾目掛けて撃ち込む。
「枯れ落ちろ、花に喰われて!」
種子は一気に芽吹きサメの身体に根付き『|略奪もまた木花の在り様《デモンシード・クライシス》』を見せる。
サメたちのヒレ、尾、背中に――吸い付くように絡みつき、その体力をどんどん奪っていく。
ヒレが動かない。
尾が水を掻けない。
先ほどまでの暴走とは一転、サメは成すすべなくただ水面を漂うしかできない。
「種というものは、石さえ砕きながら根を挿すもの。柔らかい肉ならば、より容易い」
水中を支配する機動力を奪われ、サメたちは苦悶の唸りを上げた。
「速さを奪えば、力も霞みます」
此方の声は冷たく、だがどこか悲しげだった。
だが、サメたちはまだ諦めず、暴れようとすれば此方が芽吹かせた種子は更に木花を伸ばし、咲き乱れる締め付ける。
「お眠りなさい」
容赦なく、だが慈悲を帯びた声が、静かに終わりを告げる。
水が震える。
サメたちの巨大な体が、怒りのまま暴れようとするが、その周囲には淡く澄夜の管狐達による妖焔が漂い、動きを牽制する。
自由が奪われる。終わりの気配に、サメたちは悲しそうに叫んだ。
その中心、尾を結ぶ鎖に向かってクラウスはスタンロッドを振り下ろし、衝撃と共に紫電の奔流がロッドに、そして鎖からサメたちへと流れ込んで。
彼らを繋いでいた鎖は砕け、痺れたサメたちは目を回したかのように浮かび上がり、動きを完全に止めた。
サメたちの息は、まだある。
「……治療できれば、また泳げるさ」
水の匂いと、雷の焦げた匂いの混じる中、三人はサメたちを静かに見下ろした。
澄夜は短く息を吐き、此方は木花を解く。
「悪くない子たちでした。ですが、利用されるわけにはいきません」
その通りだ。これ以上、体に負担が掛かれば元に戻ることだって無理かもしれない。
「本来は悠々と河や海原を泳ぐ存在を狭い施設に留める……それ自体は人のエゴであるのは確かだな」
「今回の怪人は元々魚が好きな普通の人だったらしいし、こうやって魚が傷付く事態は辛いだろうな……」
澄夜とクラウスは、それぞれ思いを口にし怪人になってしまった青年のことを考える。
「今回の青年も、心の何処かで魚達への罪悪感があったのやも知れぬな」
澄夜はゆっくりと、周囲を見回した。
他の氾濫した魚の反乱軍は、比較的自由に過ごしやすい場所でのんびりしている。
だが、このままではいずれこの場所もダメになってしまう。
そうならない為にも、次はポセイドンを止めなくては……。
第2章 冒険 『シデレウスカードの所有者を追え』

●波濤魚喚海神王
イルカショープールは、異様な静けさが満ちていた。観客席には誰もいない。
代わりにそこにいるのは、かつて魚を愛したひとりの青年が変貌した姿――ピスケスポセイドンシデレウス。
静かに立ち尽くしていた。肩で揺れる髪が、濡れたまま風に翻る。水面をじっと見つめるその目は、もうかつての温もりは無い。
「……戻らないか、我が牙どもよ」
かつて青年は、水族館に来るたび、目を輝かせていた。
でも、それと同じくらい、心の中にはずっと引っかかっていたのだ。水槽のガラスの向こう、自由を奪われた魚たちを見るたびに。
――閉じ込めたのは、僕たちだ。
ポセイドンは手にした槍をゆっくりと掲げた。
水が叫ぶように唸り、プールの中心に巨大な渦が生まれる。ポセイドンの足元から巻き起こった水流はイルカプール全体を飲み込み、やがて高く聳える波へと姿を変えた。
その波の中から次々と現れる魚たちは、すでに彼の眷属――異形の水の軍勢である。
矛盾している。自由を与えると言いながら、従えていることに。ポセイドンは気づいていない。
「この世界を、魚たちの手に返そう……」
水飛沫を浴びながら、彼は小さく笑う。どこか切なげで、けれど迷いのない表情で。
水しぶきが空を裂き、光が乱反射する中、ポセイドンは再び槍を構える。
水族館という舞台が、いまや海と化すその時が迫っていた。
●波割王還夜戯曲
かつて歓声に包まれた場所は、今や海と化していた。
イルカショーのプール、 ステージ中央。水の渦を従えて立つのは、かつて魚を愛した青年――ピスケスポセイドンシデレウス。
世界を海に、魚たちの手に返さんと水が唸る。渦が拡がり、観客席までもが呑まれていく。
その上空。ミミズクの翼をなびかせ、屋根の開けたところよりベニー・タルホ(冒険記者・h00392)が滑空していた。
「あれが……ピスケスポセイドンシデレウスなのか。ずいぶん苦しそうな目をしてる……」
空中にとどまり、ベニー・タルホは静かに目を閉じる。
「こんな形で自由を与えるなんて……魚達に対して罪悪感を抱いた彼は、慈悲深い人物なのだろう。なのに……」
次の瞬間、彼女の周囲に白い霧が立ち上るように、インビジブル気配が揺れる。
「来て……君たちの声を、どうか彼に……」
ささやかな降霊の祈りは、水族館の水槽の中で命を終えた魚達へと届く。
ベニーの周囲に、かつてここに居た魚たちが現れる。水中を泳ぎ、跳ね、ただ本能のままに生きる姿。
「……!?」
ポセイドンの槍先が揺れる。心のどこかに残っていた彼の後悔が、水面ににじむ。
刹那、水飛沫の狭間を駆ける気配と共に、霜を帯びた足音が響く。
鴉羽で水面を滑るよう駆け、|狗狸塚《くりつか》・|澄夜《とうや》 (天の伽枷・h00944)が撃ち込むのは、|神域《シンイキ》・|雪月花《セツゲッカ》。
「姓より欠けたる神、蝋梅に微睡む貴方様を乞い願う」
白銀の光が放たれ、ポセイドンの足元に着弾した霊氷弾は、凍てつく波となり神域を広げる。
足元を凍らされ、動きを止められたポセイドンは唸った。
「貴様ら……人の傲慢を正当化する気か……!」
「否。魚達の扱い、それは確かに人の傲慢が造り出した業だ。貴殿の願い、想い。それは尊いもの。だが、生息域も食事も異なる彼等をどう支える。何より、大事に思うのなら何故私達に差し向けた」
魚たちが人を憎む証は、この場には存在しない。
「貴殿の怒りは正しきもの……だが、その刃を向けるべきは誰だ? 己が血を流さぬ王に、誰が傅くと思う?」
「違う、私はっ……!」
動揺と共に声を荒げ、ポセイドンは水流を上空へと向け放った。
生き物のようにうねる水流に、ベニーと澄夜は更に上空へと飛び、波を躱し。その波の隙間をすり抜け、ジェットパックで空中をダッシュしながらクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は放ったガントレットのワイヤーで、一気に身体を引き寄せる。
波と水飛沫を切り裂いて突進しながら、小型無人兵器『レギオン』を放ち、群がってくる魚群をレギオンミサイルで牽制しながらポセイドンの正面へ。
「悪いけど、大人しくして貰うよ」
距離を詰め、電撃鞭を撃ち出す。ワイヤーがポセイドンの腕を絡め取り、槍を震えないよう締め付ける。
「君には君なりの想いがあるから、こうやって戦っているんだろう。だけど、その想いは歪んでしまっているかもしれない」
「ぐっ……!」
「カードが形を歪めてしまったんだ。だから、俺達が止めなければ……!」
電撃が走り、ポセイドンの動きが止まり、その手から槍が静かに落ちた。
「海王の名を借り受ける者よ。太古の昔、世界は殆どを海で覆われていたと聞く……汝が望みはその再来か。ならば……私はその浅慮を止めねばならん」
澄夜は更に神域を広げ、ポセイドンの半身を氷に閉ざしている。
「今という刻は、今を生きる者たちのもの……往きた時代に縛られていては、海すら腐ろう」
空からベニーの声が響く。
「あなたのしてきたこと、間違っていたとは言いません」
彼女はゆっくりと降下しながら、そっと視線を合わせた。
「けど……魚たちを従えるその姿は、あなたの優しさじゃない」
サメの尾を鎖で繋いだり、魚を意のままに操るのは、彼の本意ではないはずだ。
「これと比べれば水槽の中に居た時の方が自由に泳ぎ回っていたと言えるのではないですか?」
もちろん、水族館での暮らしが、自然そのままの姿だなんて言うつもりは、ベニーにもない。
この人口の海には果てがあり、野生下における生存競争の厳しさが存在しないのだから。
「この世界に完全な“自由”なんてない。でも、あなたの怒りが終わる場所を、私たちは知ってる」
揺らぐインビシブルの魚たちが、静かにポセイドンの周囲を泳ぐ。
小さく、尾を振り、まるで昔のように――。
「あの子たちは、怒っていない」
そして、きっと感謝もしていないだろう。だがそれは敢えて言葉にしなくとも、彼には分かっているはずだとベニーは見守った。
「……魚たちは……もう、怒っていないのか……そうか……」
深く吐く息と共に、どこかにポセイドンの戦意が散っていく。
クラウスの電撃鞭から流れた電気が、青白く紫電を放ち、ポセイドンが痺れで動きを鈍らせたところを狙い、カードの1枚を奪う。
青く揺らぐそれは『|魚座《ピスケス》』、彼に高い共感力を与え結びつけていたもの。
「あんたが選べば、また戻れるよ。俺たちがその証明だ」
そして――。
氷が解ける音と共に、ポセイドンの表情が緩み、崩れるように静かに膝をつく。
舞い散る破片の中より澄夜が手にしたのは、もう1枚の『ポセイドン』のカード。
「貴殿の望みが尊いものであるならばこそ……どうか、今に目を向けてほしい。これもまた、人の祈り。赦されぬ想いも、赦す心も」
そうすれば違う形で、共に歩める道を見つけられるのではないだろうか……。
重ねられる言葉に、波が穏やかに凪ぎ、水底へと反乱が去っていく。
びしょぬれになったステージには、ただ魚を愛した青年が座り込んでいた。
――ようこそ、おかえりなさい。
第3章 ボス戦 『エンリカ・シジカ』

●潜影雷迅静閃徒
優しい声に、青年はただ静かに頷き、倒れ込む。ようやく戦いは終わった――そう思われたその時だった。
「……失敗、ですか」
澄んだ声が、天井の上から降ってきた。鋭く、冷たく、そしてどこか愉快そうに。
高い足場に佇む女がいた。ヒールの先がコンクリートを打ち、短い髪が風に揺れる。
「魚座と“海王”の組み合わせ。理想的だと思ったんですが……人の情、というやつは厄介ですね」
口元を仮面で覆った女――『エンリカ・シジカ』が、大型円刃を手の中で弄ぶ。
「ですが、これだけの混乱を起こせたのなら、手法としては悪くありません。似たような素材は、まだ多く眠っていますから。今度は更にカードを巻き散らし実験体を増やしてみましょうか」
そして視線をこちらに向ける。
「さて、あなたたち。そのカードを、返していただけますか? 勝手に持ち出されては困りますので」
バチン――!
一瞬で雷が走る。周囲の空気がねじれ、非金属すら裂く特異電磁場が渦巻く。
その瞬間、彼女の姿はもう視界の外――残像だけが、プールサイドを駆け抜けていた。
「排除対象……と判断します。依頼遂行のために」
無慈悲な声と共に、雷の刃が宙を裂こうとしていた――!
●雷刃疾駆電光戦
イルカプールで雷光が閃くと同時に、空気が裂けた。
「大人しく返す訳にはいかないな。これ以上の被害を防ぐためにもカードは渡せない
排除されるのは、お前の方だ」
鋭くクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)が見あげる中、『エンリカ・シジカ』は無言で義腕を振るい滑らかに変形させ。形を失ったはずの装甲が、内から光を宿して弓の形を取った。まるでそれは、青い死神が殺意を奏でる。
翠に煌めく矢が、エンリカの掌から放たれた。音すら置き去りにした稲妻の射撃、『サンダーペネトレイト・verキングフィッシャー』が空を射貫く。
異様な速度とともに、複雑に撓る雷光が、プール上を飛ぶベニー・タルホ(冒険記者・h00392)に、一直線に突き抜け翼を掠める。
同時に、エンリカの姿が残像に変わった。義腕から生まれた雷が身体全体を包み、超加速する彼女は視界の端でちらつく幻影にすらならない。
――来る。
単純な戦闘能力を比べたなら、悔しいが敵の方が格上だ。
「しかし地の利、天の時は私に味方している。ここが満々と海水を湛えたプールであり、そして水を操るポセイドンと対峙した直後だからこそ取れる手がある!」
ベニーはその一瞬に、身体を弾丸のように跳ね上げた。水飛沫が弧を描き、尾羽根が夜の空気を切る。
「っ……速っ!」
雷矢はベニーを正確に捉えたまま、螺旋状の閃光をまとい軌道を変える。振り払っても無駄だ。追跡型、しかも電磁拘束付き。射たれたら最後、逃げ切るだけでは終われない。
「なら――!」
ベニーは左手でパーカーの内側を探る。湿った空気、そして襲い来る雷の刺激の中、指先が冷たい金属に触れた。
抜き放ったのは、D2D特製の精霊銃。照準は、追撃してくる雷ではない。エレメンタルバレット『|星旄電戟《セイボウデンゲキ》』で水面だ。
「星よ、お願い!」
トリガーが引かれ、雷の弾丸がプールの中心を撃ち抜いた。
ズドン!!
地鳴りのような爆音とともに、着弾点から水柱が噴き上がり、帯電効果が濡れた水面に走り、雷矢の軌道を狂わせた。
翠雷が水の導電に引き寄せられ、エネルギーを霧散させた。
「星の巡りが悪いようですね……星座の名を持つカードを手放したせいじゃないですか?」
その言葉と同時に、ベニーの鉤爪が煌めいた。跳ね上がるように接近し、電撃を纏った鉤爪が一閃。
だが、エンリカはもうそこにいなかった。
背後から、別の雷が唸りを上げる。
浮かび上がる大型の円刃、翔雷のチャクラム。『サンダーハント・verピーコック』は、空中で軌道を描きながら、クラウスへと殺到する。遠隔操作されたその刃は、生き物のように自在に舞い、逃げ場を潰してくる。
そして、翔雷のチャクラムが作った死角から展開される特異電磁領域によって、空間が圧縮され、空気が重く。稲光が放射状に走り、獣の咆哮のように唸った。
だが、クラウスの表情は変わらない。冷静で、静かで、そして揺るぎない。
淡い青光と共に『決戦気象兵器「レイン」』を起動。高周波で震えるそれは、現象を制御する。
空間が塗り替えられた。半径数メートルの範囲に、極小のレーザーが一斉に降り注ぐ。文字通り豪雨のように、しかし一発一発が殺意の詰まった光子が。
エンリカの円刃が、進路を変えてクラウスを守るように回転する。だが、それでも彼は止まらない。
「……排除されるのは、お前の方だ」
爆発と閃光の隙間を抜け、クラウスは前へ出た。その脚は迷いなく、精密に計算された間合いを突き詰める。円刃が迫るたびに身体を捻り、弾道を見切って躱し、時に兵装で受けて雷の火花を散らす。
そして一歩、踏み込む。
手にしたスタンロッドが、疾風のように閃いた。義腕を狙って叩き込まれた一撃。
「ッ……!」
エンリカの動きが鈍る。義腕の駆動部が一瞬だけ熱を帯び、動作が一拍遅れる。
その一瞬の硬直。逃すベニーではない。
「せーのっ!」
軽やかな声とともに、ベニーが飛び込んでくる。再び水面を利用し、跳ね上がった水滴が、星のように輝く。
その中心を突き抜け、雷光纏った鉤爪が、空を裂いた。
「次は逃がしませんよ――!」
二人の攻撃が、交錯し爆発と共に、一際大きな水柱があがる。
「どういうつもりで怪人を増やしているのかはわからないけど、平和に暮らしていた普通の人が無理矢理歪められるのは許せない」
降りかかる飛沫で濡れた前髪を拭うように払い、クラウスはエンリカへと視線を送った。
「その目論見、何度だって阻んでやろう」
閃光と爆音の渦。その中心で、エンリカは翔雷のチャクラムを再び構え直した。
●双影迅滅雷葬乱
ステージ上の『エンリカ・シジカ』は全身ずぶ濡れで、大量の血も流したが、その目はまだ戦うことを諦めていなかった。
「早く終わらせて、鮫を治療したいところです。首謀者の方には悪いですが、お互い死しても生き返る身です、えげつなく行かせていただきましょう……!」
|彼岸花《ひがんばな》・|此方《こなた》(機械に咲く憐花・h04470)の声はあくまで淡々としていた。焦りも怒りもなく、ただ目的に最短で至るために。
伸ばした腕が滑らかに変化していく。血管のように蔦が絡むように伸びうねり、|突撃槍・編草堅盾《ルートブレイク・アイビーシールド》を形成し、〈アイビー・ウィップ〉を伸ばしイルカのショーに使うボールへと絡めると身体を引き上げる。
瞬く間に此方は空中へと跳躍した。浮遊から落下に転じる、極めて単純な自由落下だが、直下のエンリカにとっては、十分な奇襲だった。
エンリカは咄嗟に特異電磁領域を広げ、『サンダーハント・verピーコック』で捕縛しようとする。
無数の大型円刃〈翔雷のチャクラム〉が空中に舞い上がり広がると、超高速の回転とともに此方を追尾するように牽制を開始する。その回転は空気を焼き、鋭い金属音が周囲に鳴り響き。
空中の此方に向けて放たれた翔雷のチャクラムが連続で放たれ、斬撃と電撃の雨が降り注いだ。
しかし直撃寸前、此方の右腕でもあるツタの先端が鋭く尖り、エンリカの攻撃を否定するように貫いていく。
「行け!」
刹那、|狗狸塚《くりつか》・|澄夜《とうや》(天の伽枷・h00944)の足元から影が走り、真白の霊狐〈従霊狐「月白」〉が飛び出し、飛び回るチャクラムの軌道を爪で弾き、子猫の妖〈従霊猫「火車」〉が火炎をぶつけ、半機半妖の機獣妖・夜雀〈従機妖「終夜」〉が急降下し襲う。
従う彼らが円刃を絡め取り、ひとつ、ふたつ、誘導を狂わせて。
「漸く脚本家のお出座しか、だが丁度良い。台本の苦情を直接言わせて頂こう。賠償は不要だ、『手土産』もある事だしな」
澄夜が静かに告げる。ひらり、と一枚のカードを宙に投じ。魚の如く宙に躍らせ、見せつけると、懐にしまい込み、電霊化した仮想の神霊「大虬」をその身に。
「古屋転じて電屋、我が手に捉えるは蝕みの神が尾」
青年から目を逸らさせ、挑発するように『|偽神・大虬《ギシン・ミツチ》』へと化した。
「排除されるのは、お前の方だ」
突き出した此方の槍先より生成された〈デモンシード〉が横から、雨あられとばら撒かれ、エンリカに撃ち込まれ種子は花を咲かせ行動を阻み。
「祝砲銃声の一つでも差し上げたいところだが、代わりに神毒を授けよう」
影を断ち、風が裂けた。澄夜は間合いを詰め、腕を引く。その手に宿るは、装甲をも蝕む神毒の一撃――神蝕・滄暝。
踏み込む澄夜に颯雷のスパイクが浴びせられるも、白銀の軌跡は止まらず、円刃をも火車が妖火で軌道を歪める。
直後、澄夜の一撃がエンリカの胸を、音もなく貫き、戦場が沈黙する。
「此れは無辜なる青年の痛みと……魚達の命の重みだ。地獄道を覗いてくるが良い、外道よ」
澄夜は低く呟き、エンリカは崩れ落ち。その義腕が小さく火花を散らして動きを止めた。
「平和に暮らしていたものが、壊されるのは見ていられません」
静かな目が、今は静寂を取り戻した壊れた水槽を見やる。そこには、小さな魚たちが、何事もなかったかのように泳いでいた。
彼らは動けるだけの水があれば生きていける。だが、その幸せは見ているものには分からず。どれだけ魚を愛するものにも、分からない。
|彼ら《サカナ》の心も自由も、結局は|彼ら《サカナ》のものなのだろう。
誰のものか、小さく深い息が零れた。
命は、縛られるためにあるのではない。
静けさの戻った水族館に、再び秩序が戻っていくのであった。