知らないかたち。
●しってはならない
始まりは無言電話からだった。何を聞いても答えない電話口の相手。それが何回も、何日も続いた。
次はカードの投函だった。深夜、ドアポストに毎日、白紙のカードが入るようになった。在宅時間に限って、毎日同じ時間に入る。
待ち構えて扉を開けていても誰も現れない。だが扉を閉めた瞬間、ドアポストへとカードが入るのだ。
そして、在宅中の深夜。
部屋に、男女ふたりが押しかけてきた。
警戒を怠っていた。ドアを開けてしまった。ぐっと手を突っ込まれ、閉められず、チェーンが断ち切られた。
そうして部屋に押し入られる。必死に追い出そうとしたが無駄だった。
二人はまるで自分の家みたいに、過ごし始める。
こちらを見ながら。こちらに話しかけないのに。
二人並んで、テーブルに座って。
勝手に冷蔵庫を漁り、勝手に料理を作り、二人並んでオムライスを食べながら。ずっと尻餅をついて怯える私を、眺めてくる。
「適合するかな!」
「適合するかしら?」
高笑いが聞こえて、それで。
「家族が欲しいのでしょう」
見透かしたような女の声が耳元で聞こえる。女が渡してきたそれは、天秤座のカード。
「家族になってさしあげましょう」
男の声は上機嫌だった。男が手渡すカードは、竪琴を持つ英雄――。
●おかえり。
「『おかえり』、諸君。どうかね、『シデレウスカード』の収集は。そろそろカードゲームでも出来る程度にはなってきたか? わたくしと一戦どうかね、アッハッハ!!」
冗談とともに笑う笑う怪人の姿――普段と異なり、翼まみれの異形ではない。
ディー・コンセンテス・メルクリウス・アルケー・ディオスクロイ(辰砂の血液・h05644)、怪人【錬金賢者・メルクリウス】は笑う。人間に擬態したか、長身かつ隆々とした体型の真っ白な男。
飄々とした言葉遣いだがその目、髪と眼鏡で隠された奥の視線は鋭いものだ。
「――さて。腹立たしいことこの上ない事件だ。標的の家に乗り込んで、直接「シデレウス怪人」へ成る事を要求する怪人ども……『ドロッサス・タウラス』の配下だったのだろう」
一部、過去形。指先がくるくる、宙をなぞる。星座だろうか――赤い爪がするすると。
「残念ながら……この男は。誘いに乗った」
軽蔑するような、声だった。やや唇を引き締める様子は、普段の薄い表情とは異なる明らかな嫌悪に満ちていた。
「家族が、欲しかったのだ。よくある話だろう? √マスクド・ヒーローにおける、本当に……よくある話……」
水銀蛇が鎌首を上げる。己に飛び掛かろうとするそれの首をひっ捕え制して、星読みは顔を上げた。
「彼は、ある家族を人質に取った。……怪人、シデレウスと化した青年の説得、人質の救出を頼む。どうしても駄目そうならば、武力行使だ。強化されていようが一般人、本気になりすぎるなよ」
とはいえ、生半可な攻撃でダメージを与えられるような相手ではない。手加減ではなく、単に「やりすぎるな」という忠告である――はずだ。
「なにぶん精神が不安定な相手のようでね……予知にない事が起きる可能性が高い。気をつけたまえ」
眼鏡の奥に見える銀色。眼窩に満たされた水銀、瞬き。怪人『メルクリウス』は深くため息をつく。
「まったく、家族の何が良いのやら」
ばちり。彼の頭部……怪人指令装置から、小さく爆ぜるような音がした。
●しってください
突然――そう、あまりに突然現れた怪人によって、ショッピングモールの中は大きな騒ぎになっていた。
捕えられているのは母親だろう。少女が泣き喚きながらそれに手を伸ばそうとして、彼女よりもやや年齢差がある少年に押さえつけられている。どうやら彼らは親子のようだ。父親の姿はどこにもない。母子家庭か。
「なって、くださいよ。家族に」
見てしまったのだ、彼は、その目で。あの怪人たちが、幸福に『演じる』姿を。
普通の家族が行いそうな、だが拙い劇を。
幸福の形はひとそれぞれ。
望まぬかたちを拒むのは、当然の話……。
第1章 冒険 『怪人との取引』

喚き声が聞こえる。
ショッピングモールの中は阿鼻叫喚にして、どうしてか、穏やかな竪琴の音に包まれていた。
シデレウス怪人と化した男の姿。傾いた天秤のような模様が彫り込まれた、騎士鎧のような装甲に身を包み。階段へと座り、己が持つ竪琴を奏でている。悲しみをあらわすような暗い曲――人質であろう女性は弦のようなもので捕縛され、彼の側で蹲っている。
「お願い……子供たちだけは……!」
「何度も言ってるでしょう。あなたたちが、俺の家族になってくれるなら、俺は、それでいいんです」
爪弾く指先は動きを止めない。「なる」というまで解放するつもりはないのだろう。優雅な音と逃げ惑う人々――頭がぐらり。
あの竪琴の音。――まともに、聞いてはならない。
喧騒の中、マギー・ヤスラ(葬送・h07070)に抱えられた寧・ネコ(鎮魂・h07071)は考える。
人は血縁の繋がりを、特に重要視すると聞く。ならば「あれ」は繋がりを求めており。「彼女」はそれを絶たれることを恐れ、新たなつながりを強要されていることに、困惑しているのだろう。
「家族かあ……わたしも家族がいなかったし、ちょっとわかる気がする」
ネコに語りかけるマギーを気にする野次馬は、誰もいない。皆、目の前で竪琴を弾き続ける怪人と、その人質となった女性へ視線を向けているのだ。
「そうよね、おかあさんやおとうさんがいてくれたらいいわよね……」
――人は。一定以上の期間を共に過ごした相手も、重要だと、そう定義する。だが|自分《ネコ》にはその機微がわからない――。孤独、焦燥、そういった感情。あれに接することに適しているのは、自分ではなく彼女だ。
すた、と床に降りるネコ。にゃあとも鳴かずにゆったり歩き、周囲の様子を探るため、ざわめく野次馬どもをかき分け、人の海へと溶け込んでいく。
しばらく、その悲しげな竪琴の音色を聞いていたが……前を塞ぐ野次馬へと声をかけ、ゆっくりと騎士の前へと出るマギー。それを見て、演奏を止めた騎士の怪人。
ヘルムの奥にある表情を窺い知ることはできないが、彼女は微笑みながら、彼へと声をかけた。
「ねえ、わたしじゃ『そのひと』の代わりにはなれない?」
人質の女性を見て、彼女が言う。その言葉を聞いて、ぴくりと、怪人の指が動いた。
――うろつくインビジブル。√EDENより数は少ないとはいえ、使い魔たるネコにも見えるもの。騒動に興味を持つもの、そうではないもの。だがその場に危険な気配を放つものは居ない様子だ。
興味ありげに立つぼんやりとした影、その前へと座り、ネコはにゃあと鳴く。
あの男について、なにか知っていないか、と。インビジブルもまた、まともな言葉を話しはしない。だが意図を理解してはいるようだ。何を考えているのだろう。何を思っているのだろう。インビジブルの隣へ座り直すネコ。共に、彼らの様子を見る。ちょうど、マギーが前へと出たところであった。
「……何と?」
冷えた声だ。悲しげな、それでいて、やや警戒した様子の。突き放すような言い方ではない、話を聞くつもりはあるようだった。
「家族がほしいもの同士、仲良くできるんじゃないかと思うの」
ひとりぼっち。花瓶に生けられた一輪の花のような。けれど、その人はちがう。
皆で咲いている花を切って。同じ花瓶に生けても、あなたは違う花でしょう。それもきっと、素敵な彩りになるだろうけれど。それを許してはならないから、彼女は「ここ」にいるのだろう。
マギーの慰める声に、怪人はまた静かに、竪琴に手を伸ばした。
「家族『だけ』が欲しいわけじゃない」
「ええ、わかってる。けれど……家族って、見てくれがそれらしくなくたって、お互いが想いあってさえいればいいと思うの」
戻ってきたネコが、マギーの脚にすり、と体を寄せた。ゆっくりと首を振り、竪琴の男へと視線を送るネコを抱えて、彼を優しく撫でて。
|あなた《ネコ》とわたしみたいに。彼も、そういうひとをみつけられたら、きっと、幸せだと思う。けれど。
「……返せない。きみでは代わりにならない……すまないね」
彼が視線を向けたのは、肩を震わせる『子どもたち』だ。ゆったりと、演奏は続く。
人質を加害する気はない様子だが、それは『謝罪』してみせた。
それだけでも、少しは察せることがある。彼が考える理想の『かたち』が何なのかを。
ネコを撫でながら、マギーはその竪琴の音色に耳を澄ます。優しく、悲しい。やさしくて、かなしい……。
あまりにも緩慢に、蝕まれる心――彼の得た√能力か。ネコには何の影響もなさそうだ。マギーだけを、狙っている。
……不可視の猫がみている。きんのひとみでみている。それだけで癒えるような、指のささくれのような、心の痛み――。
家族。家族とは、なんだったか。家庭とは、いったいどのようなものだっただろう。クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は、過去を、記憶を手繰り寄せ、思い出そうと目を伏せる。
よく、わからない。彼の故郷は戦と共にある|世界《√》だ。いつか見た赤も、今は色褪せて黒に近く。
新しく加わっていく赤も、混ざって酸化してしまえば結局、同じ色になっていく。
失ってから時間が経てば、温もりも、その声も忘れていくのだ。耳に残っていたはずの優しい声も、悲鳴も。もはや、記憶に、耳に残ってはいない。
家族という存在に、羨ましさが無い訳ではないが。他人から奪おうとは、思わない。求めて、手に入れて、それでどうするのだ。どうしたいのだろう、目の前の怪人は。
竪琴の音色をなるべく意識しないよう――脳にじわり滲むそれを気に留めぬようにしながら、シデレウス怪人へと歩み寄るクラウス。一瞥すらすることのない彼へ、クラウスは穏やかに話しかけた。
「……家族になってくれって言ってるけど。君は、どうして家族が欲しいのかな」
事情を聞き出そうとするクラウス。だが怪人は演奏を止めない。察せるところはあるのだ、欲しがるということは、失った、元々いない。そのどちらかだろう、と。
「おれの事を知ってどうするんだ」
冷めた、感情のない声色だ。自分に少し似ている、気がする。
もしも。彼に家族が居ないならば。
「俺もそうだよ。家族がいないから、羨ましいんだ」
音色は悲観に満ちて、指は止まらず、弦を弾く。甘い音色よ。確かにその音がクラウスをとらえる。とらえるが、染み込もうとするそれを拒む。
「家族を欲しがるなら……しっかり選ぶべきだと思う。彼らじゃない」
だから、人質の解放を。……言外に滲ませる意図をわざと汲まず、怪人は静かに首を振った。何の意図があるのか。そうではないと言いたいのか、呆れか。
表情の見えない騎士鎧、その奥に秘められているのは一体何なのか。
「よく知らない人と家族になるのは、まだ早いと思うんだ」
「そういう家族の『かたち』も、あるだろう? この世界には」
そのような視野の広さ、今はただの言い訳だ。
「……なあ。なんでお前は、家族がほしいの?」
それは単刀直入な、少年の疑問であった。それが相手のためになるか、寄り添えるかはともかくとして、誰しもそれを疑問に思っているのだから、橘・明留(青天を乞う・h01198)だって当然そう聞いた。
事情があるのなら、それを聞き出さねば説得は始まらない。不安定な状況にある相手をある意味で煽ることになるとしてもだ。
「何度目かね」
竪琴の演奏はまだ止まらない。穏やかだが、じわりと染み込んでくる不快感。
……狙われているのは、自分だけ。他者を害する気はないようだが……。音に集中しないよう、自身の心を守るために、強く、下ろしたままの拳を握る。
「お前には家族がいないの?」
竪琴の音色。ぴん、と弾いた指先が一瞬、止まった。
「俺もさ、今はいないよ。死んじゃったから」
「よくある話か」
なぜ、だなんて、野暮なことは聞かずに。明留に視線を向けず、演奏を再開しようとする怪人。
さみしいけど。いないんだから、受け入れなきゃしょうがない。
受け入れること。受け止めること。現実を見ること。必要なのは、少なくともその3つ。だが彼が、この怪人がそれらの事柄と向き合っているようには、明留には思えない。
「そんな力ずくで言うこと聞かせてさ、ほんとの家族になれると思ってんの?」
それは、至極当然な言葉だった。だからこそ、怪人にとっては――四散したガラスを浴びるかのような。
「……成る程」
ヘルムの奥に、眼光が見えた気がした。荒々しく奏でられた竪琴の弦。放たれる音波。悲鳴を上げた周囲の人間たちへ明留が呼びかける。
「下がってて! 野次馬なんてしてる場合じゃないよ!」
これは、ヒーローショーなどではないのだ。展開されるは霊雨慈雨、側で漂っていたインビジブルたちが形を見せ、混乱する民衆を外へと追い立てていく。だが、それでも残っているのは……捉えられている女性の、『家族』だ。
「……誰かにつらい思いをさせて築くしあわせがいいことだとは、俺は思えないよ」
強く、強く拳を握る。手の平に痛みが走っても。
だって、そうだろ。幸せのかたちは、人それぞれ。ひとつの形にこだわる必要は、ないんだ。
かいぶつめ。
やさしい、やさしい、かいぶつ。そうでもなければ、こんな場所になんて来ない。あの竪琴の音色を聞くこともなければ、笑ってくだらないと唾棄しても良かっただろう。それでもなぜ、ここに来たのか、そこで眺めているのか。静観か、諦観か。曖昧な中。
上手い説得など出来ない。だがいざとなれば前に出てやると、暗がりに潜み、思考の隅に最終手段を置いておくのは。それが満戯・夕夜(愛しき桃を護る蜘蛛・h05468)の優しさか。
優しい化け物は優しいだけ。化け物であることは変わりなく。優しい怪人だって同様、怪異も、災厄も、何もかも……人間だって。
手に入らないものほど美しく見える。某怪人曰くだが、『|太陽《英雄》に焦がれるからこそ、|虫《怪人》は地を這う』のだとか、云々。そんなことはどうでもいい。
ただそこにあるのは、演奏に耳を傾けてしまうのは、同調してしまうのは。
温かそうで、楽しそうで、優しそうで……。あの輪の中に己も入れるのでは、入れてもらえるのではという錯覚。だが己はかいぶつである、化物である。排他されるべきもの。
人間のままならば、望みはあったのか。だが|化物《異端》になったら結末は決まっている。
排除、淘汰、封印、殺害。ありとあらゆる手段で人間は、異端を封じ込めようとする。√汎神解剖機関の常識。そして、√マスクド・ヒーローにおいても。話の通じない『悪』は、そうされる運命にある。
それでも焦がれるのだ。日輪に。陽のもとに。あの輪の中で踊れるのなら、愛されるのなら。
弾かれた弦は観察者たる彼をも|視る《捉える》。観衆を害することのない怪人、|それ《観衆》らが既に居なくなった今――彼は『異質な存在』を敏感に感じ取った。
向けられた甘ったるい敵意、奏でられる音が脳を揺らす、揺らす。
ああ、わかった、わかったとも。出ていってやろう、お前の前へと。
「……化物同士仲良くしようじゃないか」
未練ったらしくしがみついている俺と。もっと憐れで、馬鹿な身の程知らずと。
さてはて、お前は同等かね、そのあわれで、みじめで、足掻かねばならない立場よ。
怪人は、視ている。竪琴の音はまだ止まない――さて、暫し耳を傾けてやろう。
人々への危害が目的ではない。あくまで彼は、『家族』を求めている。それも、いびつな望みだと理解しておきながら。竪琴の音色を浴びながらディランは怪人を、騎士を見つめる。ショッピングモールの中、不釣り合いに居座る男を。
「(こうした手合いを操るには、自分の意思で動いていると思わせつつ、心の隙間に付け入るのが定石ですが……)」
好都合な相手だ。ディラン・ヴァルフリート(|虚義の勇者《エンプティ》・h00631)の思考は半ば、シデレウス化させた怪人たちのそれに似ているが、正義という大義名分がこちらにはある。今は自分たちだけに向けられているこの竪琴の音色、いつ野次馬どもに……そして、未だ逃げず蹲り泣きすする子供達に向かうか、分かりはしなかった。
前へ出ることも、その音色を浴びることも厭わない。この程度の精神干渉、どうにかしてみせるとも。
「――あなたを……否定する気は、ありません」
否定、拒絶、同情。浴びてきたものを優しく撫でるような言葉に、怪人は肩をすくめる。ああそう、とでも言いたげに。
「欠落に焦がれる気持ちは……よく分かります」
それが事実かどうかは置いておき、怪人が焦がれているのは確実なことだ。√能力者と同様、この怪人も、家族という欠落を有している。けして埋まることがないであろう欠落を。ここで、埋まらぬことを決定付けてしまった「それ」を。
ディランの言葉は続く。
「あなたの望み……その正当性を誤解されるのは、惜しい事です」
ああ、だが虚義、虚義だ。そうだろう? 優しいことば、寄り添っておきながら、いつだって突き放せるように。
けれどそれこそが正しい応対。いつ狂うか分からない相手に対し、親身になりすぎればどうなるか……よく、理解している。
正解だ。正解が過ぎて、あまりに残酷だ。幸運なのは『彼』が、怪人が、それに気付いていないこと。
正当性。正しさ。求めた言葉!
「……経緯を、聞かせて頂けるでしょうか?」
得られた寄り添う言葉。……籠絡した。男が演奏を止める。ディランを見る。ああ|忌刻《ロア》よ悪性よ! 甘ったるい『毒』こそが、彼の求めた言葉だったか。
そうしてようやく男は、語り始めた。
「家族はおれを捨てたんだよ」
第2章 冒険 『シデレウスカードの所有者を追え』

音色に乗せて語る男、曰く。
「父はいなかった。いいや居たともろくでなしが。ろくでなしを母が養っていた。家長は母――趣味のいい、ね」
美しい音に合わせて……弦を爪弾く指先は『怪人』由来のものではない。これは『彼自身』の実力である。そこに、√能力に限りなく近い能力が乗っているのだ。
「まあ、ろくでなしは死んだ。どうしてかって? 毒殺だよ――母親はそれで刑務所送り。母は、残されたおれのことなんて考えていなかった」
それが突き刺さって、ちっとも心から抜けやしない。心を蝕む毒を癒してくれたのは、母に英才教育の一環として与えられていた、竪琴の音色。だがその趣味は経済面を甚だしく圧迫する。結局辞めて、音楽からは離れた。だというのに。
「また、こうして、弾けている」
騎士は立ち上がる。天秤の鎧、傾いたそこに乗っているのは深い傷。
奏でる音は、おまえたちの『トラウマ』を、『記憶』を呼び起こす。
それでも。
「もっと聞かせてくれ。何故、『おれの選んだ家族』ではいけないのかを」
ライブラトリスタン・シデレウス。毒に侵され、家族を求める。イゾルデは、もう来ない……。
彼は、√能力者を『試す』ことにした。
「そっか。さみしかったんだな、おまえ」
涙があふれそうになる。今は、涙を隠す雨など降ってはくれない。だからこそしっかりと目を見開き、前を向いて、直視する。現実と。|彼《怪人》本人と、対峙する。
「おまえはきっと、家族がいる時からさみしかったんだよな」
橘・明留(青天を乞う・h01198)は、幸福『|だった《・・・》』。家族の存在、当たり前の日常、それが崩れて初めて、幸福を失ったことを知った。『不幸になった』のではない。失った、のだ。
失うことと、元から持っていなかったこと。その間には深い溝が存在する。飛び越えることもできないほどに、遠い。それでも歩み寄ろうと、声を届けるために喉を精一杯に開くことは、無意味ではない。
……明留の側に立つインビジブル。霊雨慈雨、明留を取り囲み彼を見つめるように。感情の読み取れない影たちはただ、寄り添っている。まるで、雨に濡れるひとへ、傘をさすように。
「そこの女の人はさ、ほんとの家族がいるんだ」
おまえじゃない。悲しいことかもしれないけど、さみしいだろうけど、おまえじゃないんだよ。言い聞かせる声は震えている。
「……本当の、家族」
怪人の見つめる先で、乞うように彼を見るふたりの子ども。母が「良い」と言えば、母子ともども「家族」にするつもりだった。だが、彼らの様子はどうだ。自分は、『これから』を、考えていただろうか。
「そんな人をかたちだけ家族にしたって、たぶんおまえ、ひとりのときより、もっとさみしくなるよ」
彼らは怯え、震え、ただ……√能力者たちの、明留の説得を。今にも泣き喚き、暴れだしそうになるのを抑えて、聞いているのだ。
苦しんでいる。明留も、親子も、この怪人も。
この場で共有できる「ひとつの苦しみ」と、「みっつの悲しみ」。それを囲うインビジブルたちは、それを理解している。優しさを知る彼らは、共に寄り添う。
「なあ、もうちょっと考えてみない……?」
怯え、すすり泣く『家族』の声が止まることはない。
ただ――怪人の持つ竪琴の弦が、ぷつりと一本、切れた。
くらやみだ。眼光を覗き見ようとしても、その目はどこまでも暗く、見えはしない。そんな中で優美に奏でられる音楽。燦然と輝く竪琴の音色、一本だけ弦が切れたそれを奏で続ける怪人。
己の過去を表すかのような憂鬱な響き――。
「僕は口下手だから、あまり上手くは言えないけど」
向き合うべき『過去』がある。この音を聞かなければならない。受け止めなければ、ならない。試されているのなら。
「僕はもう弾けないけど、心に刺さる音色なら」
もっと近くで聴いていたい。たとえそれが『共感せよ』という、半ば命じられるかのような音色であったとしても、聞いてやりたいのだ。和田・辰巳(ただの人間・h02649)は怪人の奏でる楽曲に、耳を傾ける。
「……昔住んでいた場所には。僕を恨む人も多いだろう」
何が起こったのか。辰巳は何を思い、考え、そして、どのような理由で恨まれることとなったのか。彼は、深くは語らなかった。
「でもここには、僕を受け入れてくれた人がいる」
それは彼の恋人や友人、それだけではない。家族じゃなくても、与えられる温かさもあるはず。
彼らのあたたかさに――そう、どれほど小さな熱であったとしても、彼は触れてきたはずだ。小さくとも……蝋燭の火は確かに、くらやみを照らすのだから。深淵であるほど、火は、煌々と輝くのだ。
「勝手に共感してごめんなさい。でも僕は貴方の音色、好きだな」
音楽も、練習して上達していく。彼もまた、血の滲むような努力をもって、あのうつくしい曲を奏でることが出来るようになったのだろう。
誰かと仲良くなる事もきっと、それと同じだ、と。
「僕は和田辰巳。良かったら、僕と友達になってくれませんか」
ただの人間は、寄り添う。歩み寄る。手を伸ばす。
その手を静かに見つめるヘルムの奥には確かに――光が、ある。
手を取ることはしなかった。然し、それは無意味な行動ではない。
弦が一本、切れる。
今生に|心的外傷《トラウマ》などない。記憶はさながら、積まれた日記帳。それを今、「崩した」彼にとって、思い起こす記憶というものは遥か過去のものだった。
ディラン・ヴァルフリート(|虚義の勇者《エンプティ》・h00631)とは『|空っぽ《エンプティ》』である。紛い物である。紛い物なりに、思い起こせるような記憶|は《・》ある。
丁寧に張られた巣を台無しにしてくれた英雄諸君よ。自己犠牲をも厭わぬその性根よ。
それを誉れ高きことだと手を叩き喜ぶものたちよ。
国ひとつ喰らえたはず、ひとびとなど容易く、この手におさめられたはずの、すべて。
トラウマなどではない、ただの苛立ち。不気味さ。嫉妬。
……|己が存在《・・・・》を否定してみせたものたちに感じた不愉快さ。その存在を肯定しようとしたものが『いた』こと。
それを、心的外傷などと呼べるのか?
――マナーの悪い観客からの喝采が、思考に響く。静かな竪琴の音色をかき消したそれに、今だけは感謝すべきか否か。
ともあれこの悪性には、蓋をすべきである。ぱたりと閉じられた日記のように。欠陥品の蓋とはいえ、観客の声は遠くに去った。
あの時も今も。普段通りに空っぽを演じればいい。
この器に善性なんてものを……あの音色、それが入り込む余地がないほどに満たしてみて、ただ演じればいいのだ。
「家族とは……選ぶだけでなく、相互の関係性ですから。強いて選ばせても長続きはしません」
当然の言葉を紡ぐ。たとえば、幸福な政略結婚など、指折り数えていくつになるか。
このように脅して得られた婚姻が長続きするわけはないだろう。
物語のようにうまくいくのか? それは、それは……夢あふれる思考で何より。しかし叶わぬ未来だ。
「選び合える相手を探す他無い、という事です」
孤独に寄り添おうとする者を探せばいい。それでは「代わり」となってしまわないか。だが現状よりも、ずっと「良い結果」が得られるだろう。ならばその手段、使わぬ手はないのだ。
「勿論……お力添えしましょう。縁を結ぶ事には慣れています」
それが悪性との縁か、善性との縁かは置いておこう。ぷつり、弦の弾ける音。
同類ではない。
「あの優しい世界に愛を感じて、恋焦がれている訳ではないのだな」
自分には確かに、『その世界』の記憶がある。幸福を感じ取り、焦がれることができる場所がある。そこに行けば、少なくとも自分は満たされるのだ。……その時点で、彼と満戯・夕夜(愛しき桃を護る蜘蛛・h05468)の間には隔たりがある。
寄り添うことはできない。否定することは、出来る。
「お前が選んだ家族ではいけないわけじゃない。お前は選んだ|だけ《・・》で、家族になれていないのが問題だ」
選び、取った。だがそれが、もがき苦しみ離せと言っているのだ。今のお前は、噛みつき暴れる動物を手放さぬ子どもだ。その平行線に文句を言うには、まずその|平行線《天秤》を傾ける必要がある――。
「家族になりたいなら手段は選ばず、その女に「はい」と言わせれば良い。そうすれば口約束でも、お前たちは家族だ」
言わないから、困っている。悲しんでいる。なぜ、人質として……『子ども』ではなく、『母親』をとらえたのだ?
それこそお前の「失敗」だ。逆ならば、その理不尽な取引も成立した可能性があるというのに。
「それが出来ないのは何故だ、お前は家族に何を求めている」
……半ば、夕夜は理解しているのだろう。求めているもの。温かさだ。熱だ。得られなかった幸福だ。理想のかたちを得ようと――欠けた自分の心に、ぴったりとあてはまりそうな「もの」を探したのだ。
結局それは実を結ぶことなく。彼自身を蝕む毒も、治る手立ても今のところ無く。
「何が。……何が、足りないと、言いたいんだ」
怪人が口を開く。困惑ではない。ただ、確認したいだけだった。幸福を知る彼に。己の回答が正しいのかと、聞きたかった。
「|熱《恋》だよ」
それこそ――焦がれるような。
愛して、愛される幸福を知っている。その優しさや暖かさも、心地よさも、重みも。
最期。冷え切った悲しさすら、喰らえば美味いことだって、識っている。
それへの理解は求めない。平行線でいい。ただ……それでもぷつんと、弦の音。
何故、か。
納得いく答えは出せるだろうか。彼も、己にも。正解のない問題に対してのその思考、ナンセンスなのかもしれない。
だが彼は話を聞く姿勢を見せた。何本も弦が切れた竪琴を手に、それでも演奏を続ける怪人。力に訴えかけることなく対話ができるというのなら、それに越したことはない――クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は、怪人と確りと向き合う。
ああ、悪夢だ。想起するのは、いつもの光景だ。家族は潰れたざくろ。親友という陽は落ちて。友人は紙切れや金属片となって帰ってくる。最悪、言葉だけ。それが彼の日常になっていた。
見慣れている……見慣れていようが、苦しみを覚えぬわけではない。幸か不幸か? 不幸だ。
俺は|まだ《・・》大丈夫だ。
その言葉と思考に、どれだけの「信用」があるのだろう。希望という概念を持てない彼の、「まだ」、なんて。
「……相手の意思を無視して、無理矢理家族にしても、幸せになれるとは思えない」
それでも、家族が欲しいのだろう。幸福な家族に憧れた、それが今の彼が、怪人と化してしまった理由なのだから。方法が問題なのだ。ただそれだけ。|彼《怪人》は……まだ、それを認められない。
その事実を何度叩きつけても、彼は折れない。
「家族なんて、お互いに求め合って初めて良いものになるんじゃないのか」
一方だけが求めては、それは、正しい「かたち」にならない。
……埋まらない|概念《欠損》だ。彼には、想像することしかできない。この怪人が求めているのは、幸福かつ|希望《・・》のある未来。
「……人生経験に乏しい俺には、そんなことしか言えないけど」
無理矢理に求めて解決することならば。とっくの昔に、すべてが解決していることだろう。
相手を理解しようとすることとは、また別の問題だ。相手を理解する上で必要なのは、ただ知識を蓄える事ではない。様々な経験と思考を重ねてこそ、理解の証は生まれる。
怪人は思考する。己の理想とクラウスの意見の共通点を、かたちを探す。
……ぷつり、弦が切れる――。
お説教なんてできる立場じゃないけど。だって、同じ場所に立っているわけじゃない、立てているわけじゃない。
けれど彼の寂しさは、よくわかる。マギー・ヤスラ(葬送・h07070)は、演奏を止めた怪人を見つめていた。弦が切れ、まともに奏でることができなくなりつつあるそれと共に、怪人もまたマギーを見ている。
「あなたは……棄てられたと思っているの?」
さいしょから、ひとりぼっち。寄り添ってくれるあの子も、結局は|他人《他ネコ》。なんて。だからこそ、マギーは思う。
「だから、見捨てないおかあさんがほしいのね」
……それが、彼の求めた『かぞくのかたち』だった。
自分自身をも慰めるように。尻込みしてしまう気心を、自分自身を勇気づけながら。優しい声色で、怪人へと肯定を促す。
頷けば、認めれば楽になれる。それひとつが救いになる。これを、見捨てられたくないことを肯定することは、つらいだろうけれど。
「わたしには生まれた時から親はいない」
天涯孤独の身だ。影に咲く一輪の花だ。
「だけど、自分を守れるのは自分だけなんだって気が付いたから、ひとに求めるのはやめたの」
それが、マギーの強さ。強かに根を張り、うつくしく咲く。
趣味とは――それも音楽、竪琴。富裕層でもなければ、極めることの難しい分野だ。それを丁寧に弾くことができる彼の手は、音楽を愛しているからこその手。
……母への思いは、まだ存在する。音楽を与え愛してくれた母への想い。求めるものが『イゾルデ』であっても、その根底には。
このような、心を蝕む毒じゃなくて。癒す薬に。あなたの竪琴の音色には、その力があるのだから。
家族を求めるあまりに、自分で自分を、見捨てないで。あなたの、たったひとりの家族を。
「『あなた自身』を、どうか大切にして」
こんなことで、おしまいにしてはいけないの。
「……おれ、自身」
復唱する怪人。己の手を、指を見つめる怪人。震えるその手をぐ、と握る彼。
もはや……『知らないかたち』ではない。知っていたのに。見ないふりを、していた……。
ぱつん、ぷつん、弦が切れて弾ける音がした。
第3章 ボス戦 『『ドロッサス・タウラス』』

幾つも弦の切れた竪琴では、まともな曲は奏でられない。彼の演奏は徐々に効力を失っていく。
次にぷつんと切れたのは、母親を拘束していた弦だった。飛び出そうとする彼女を止めるような挙動もなく――親子が抱き合う姿を、ライブラトリスタン・シデレウスは静かに眺めていた。
そこへ突如、轟音が鳴り響く。
どこからか落下し、着地の衝撃で床を粉砕した巨体――ドロッサス・タウラス――!
「凡人め。やはり生半可な輝きの『星』では役に立たん!」
心地よい音色の代わりに響く怒声。苛立った様子で睨みつけ、今にも突撃してきそうなドロッサス・タウラスを見て、『怪人』が動いた。
「下がって」
小さく呟くライブラトリスタン・シデレウス。
残った弦を、自身の全力を込め、強く……弾く!
放たれる音波。ドロッサス・タウラスの体へと、浅くはあるが無数の傷が刻み込まれた。それと同時……怪人・シデレウスへの変身が解け、青年が床へと膝をつく。
その手には二枚のカードが確りと握られている。天秤は傾き壊れ、もはや何も計れはしない。それでも手放すつもりにはなれない。
しかし彼は、このカードを使い続けることを選ばなかった。
「ぬぅッ……! 貴様ッ、最後まで軟弱な!!」
ヒステリックに叫ぶドロッサス・タウラス。だがそれへの返答はせず、怪人であった青年は√能力者たちに振り返る。ヘルムで見えなかった顔は――優しそうな表情をした若い男。
「こんなことじゃ、罪滅ぼしになんてならないって理解してるよ」
唇を噛んで……それでも、そうしたかった。一矢報いたかったのだ。
頼むよ。
小さな声と共に、彼は√能力者へ思いを託し、離れていく。
良いヤツじゃないか。託されてやるわけじゃあないが。絆されたわけでもない。
それでもこの場から離れないようにしている時点で、善性があるというべきか、それとも災厄らしく自由だと言うべきか。ともあれ牛。お怒りのようで……。
「なんでこの牛に誑かされたんだ?」
欠伸を噛み殺す満戯・夕夜(愛しき桃を護る蜘蛛・h05468)。もっとも、あの青年の劣等感や欲を刺激したのはドロッサス・タウラスの直属の部下だろう。
人の弱さを理解できるか。それに寄り添うか。どちらも『人間的』な思考を持っていれば、理解が出来たかもしれない。だが夕夜にとって、立ち去ろうとする彼への興味は薄い。
眼前、その巨体をもって聳え立つドロッサス・タウラスへと意識が向いているのだから。
「人間とは軟弱なものよ――貴様も、|人の形《・・・》をしている以上、そうだと知るがいい!」
「人ねえ。化物同士の戦いだろ」
災厄であることは既に見破られているようだが、それでも夕夜がやることは変わらない。
「――殴って、斬り裂いて、引き千切って」
分かりやすい、至ってシンプルな話――突っ込んできた足元を蹴り上げ牽制する。
強靭な足腰を持つドロッサス・タウラスにとって、それは痛手にはなりはしない。だが僅かに気を取られたその隙、振るい上げられた棍棒を蜘蛛脚が絡め取る。
「締め上げて、吊るす」
「ぬゥッ……!」
――だが、力任せに捕縛を抜け、棍棒が振り下ろされた。一見粗暴に見える一撃であったが、双方冷静だ。
腕を狙うそれ、僅かに夕夜の肌に一筋、傷をつける。『外さなかった』という事実を作らせるために。振り抜かれるバス停がドロッサス・タウラスの胴体を強かに打つ。
互いに距離を取り、バス停を床に立ててふんと鼻を鳴らす夕夜。
「強い方が喰らって、弱い方が喰われる」
別の個体――正確には、分け身の一匹である牛は、そんなに|美味しく《楽しく》はなかったが。
今回の牛、なるほど多少の歯ごたえはあるか。
受け入れられた。多少なりとも、彼は現実を受け入れる覚悟ができたのだ。
怪人と化してしまった原因そのものは取り除けずとも、棘が刺さったままだとしても。それを認め、傷口へと手を伸ばす勇気を、棘を抜こうという勇気を与えられたのだ。
「ありがとう」
クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は離れようとする背後の気配に声をかけ、眼の前の牛と――巨躯と対峙する。
任された。彼が立ち直るために必要なのは、彼の心の持ちようだけではない。
……この場を、彼へと深く棘を打ち込み、『怪人』を作り上げたドロッサス・タウラスを許すわけにはいかない。ここでこの怪人を打倒し、後顧の憂いを断たねばならないのだ。
「この期に及んで人間の心配か、小僧!」
鼻息を荒くする様は、まさしく牛のようだ。心中でドロッサス・タウラスの様子をそう評しながら、クラウスが起動するはフレイムガンナー。火炎弾での狙撃が、油断していたタウラスに命中する!
屈強な肉体である。その一発だけでは当然、倒れはしない。負傷を積み重ねるために、暴虐な振りかぶりでこちらを狙ってくるタウラスを往なしながら冷静に狙撃していく。
「小癪なァッ!!」
確実な攻撃で何度も撃ち抜かれ燃え上がる己の体に対し、タウラスは厄介そうに炎を払う。そして、徐々にクラウスとの距離が詰まっていく――!
振りかぶられた棍棒を真っ向から受け止め、怪人の腕が立てたぱきりという確かな音と、己の関節が軋む音を聞きながら。掴みかかってこようとするもう一方の腕を見切り、クラウスは再度距離を取る。
互いに怒りを根源にして戦っている。しかし冷静に立ち回っているのは間違いなくクラウスだ。戦意へと昇華された戦い方。人の想いを、願いを利用し、怪人に仕立て上げたやり口。気に入らない。
天秤に乗せられた互いの重み――ドロッサス・タウラスの闘気は確かな重さだ。だが、クラウスと√能力者たちの思いは、それを遥かに上回っている。
狩衣に、静かに袖を通す。和田・辰巳(ただの人間・h02649)は前を見据える。怒りのまま、苛立ちのままに力をふるい続ける怪人を見る。
傷つく事を恐れずに立ち上がり、前を向いた男が居た。それのどこが軟弱なものか。
怪人と、簒奪者と比べれば当然能力は劣るだろう。だが。
「人間を舐めるな」
そうだ。『人間』として、どこに不足があるというのか。その在り方を、簒奪者たるドロッサス・タウラスが評価するなど、おこがましいにも程がある――!
「こちらの事情も、貴様らのような弱き者には分かるまい!」
「戯言を」
小さく吐き捨て、辰巳は床を踏みしめる。伸びる影は死の呪いだ。それがどのような意味を成すか、察せぬドロッサス・タウラスではない。|影《ブラフ》へと視線が向く――その瞬間。
彼の上空へと飛ばした式神から、大量の自販機が降り注ぐ!
「ぬおぉっ!? 何ッ……なんだ、これはッ!?」
頼まれた。頼まれたのだから、全力だ。召喚するには些か物騒かつコミカルだが、落下してくる自販機……その威力たるや計り知れない!
自販機と己を超圧海淵流にて飛ばし距離を詰め、ドロッサス・タウラスが顎を打っている隙に足元へ。背後へと抜けるすれ違いざま、その足へと細工をしようとしたが――。
「甘い、わァッ!!」
「ッ……!」
……これらは、√能力ではないのだ。限界がある。床へと打ち立てられた棍棒が、久々理と札を切り裂いた。
だがただの『人間』として、ここまでの事をやってのける者などそうそう居ない――!
ならばと戦法を変える辰巳。地上から自販機を乱立させ、本人に巻き付ける事が叶わぬならばと自販機へ張り巡らされる久々理と|火雷《爆弾》。ドロッサス・タウラスを囲うように、逃げ場は『上』にしかない状況へ追い込み……起爆!
爆音と共に火柱が上がる。さながら牛の丸焼きだ。タンドールめいた形を作る自販機の山。
それを腕で打ち崩し、煤だらけになりつつも脱してきたドロッサス・タウラス。
「貴様……小馬鹿にしおって……!」
ぎりと、聞こえるほどの歯軋りの音に、辰巳は肩をすくめる。
「これが、人間が出来る全力の「一部」だ」
ああ、一部だ。些か√能力者ではなければ可能か怪しいものはあるにしろ。驚くべきことだが――辰巳にはまだまだ、策がある――。
演技だ、偽善だ。義のある、善だ。
「意思を……行動で示す。大切な事です」
静かな肯定。それは空っぽな己を、善で満たしてみた末の言葉だ。
「後は、引き受けましょう」
この言葉も、心の底から寄り添っているわけではない。だからこそディラン・ヴァルフリート(|義善者《エンプティ》・h00631)にしか出来ないことがある。彼が青年へどんな態度をとっても、演技に過ぎない。だが、それはある種、青年を刺激しないという点で大いに意味があるのだ。
実行犯も気掛かりではあるが……ひとまずの獲物は目の前にいる。
「どいつもこいつも、|何故《なにゆえ》たった数人のために、ここまで動くのだ!!」
ドロッサス・タウラスが半ば叫ぶように吐き捨てる。たった数人。そう、ディランにとっても数人である。こちらが『掌握』した人数を、タウラスはご存知ではないのだ。
それゆえ、そんな事をこちらに聞かれてもと、ディランは何も返答せず――本当に、聞かれても困るので――腕を振るい殴りかかってこようとするタウラスの初動を挫いてやることにした。
飛葬殲刃、念動力にて操られる剣たちがタウラスを牽制する。多少の傷で止まることはないが、その勢いは落ちた。その隙にと発動するは|叛刻《ロア》――|盤面を砕く者《リベリオン・オーダー》。瞬時に巨大化した竜爪が文字通りに、床を派手に砕く!
「――これは!」
ドロッサス・タウラスは強大な簒奪者である。インビジブルの動きには当然過敏なまでの反応を見せる。己の力の源、そのひとつなのだから。己が簒奪せしめていたインビジブルの一部を持っていかれる感覚……そして存在感を増すディランの気配。
「――う、おぉおオォオ!!」
覇気を示すかのように叫び、その拳を地面へ打ちつけたドロッサス・タウラス。周囲に広がるは眩いばかりの星々。視界を鈍らせるそれだが、タウラスの気配はあまりにも巨大なものだ。
己の持つ力、そのありったけを用いて感覚を研ぎ澄ませ、鈍る視界の中、タウラスの放つボディブローを受け流すディラン。打ち込まれるは竜勁、雷の如き一撃がタウラスの装甲を穿つ!
「五分五分かと……思っていましたが」
冷めた眼差しが、タウラスを見ている。金色の瞳が眩しそうに細められ。
「それ以上になったようです」
――ディランの口元には、笑みのひとつも浮かんではいない。
「……おい、何してんだよお前」
傷を負ってなお、それでも√能力者たちへの敵対心を剥き出しにし続けるドロッサス・タウラス。
橘・明留(青天を乞う・h01198)は不遜な態度を崩さぬ怪人を強く睨みつけ、そして吐き捨てるように声をあげる。
「その人は自分で自分の傷を乗り越えたんだぞ。寂しい過去と、つらい現実と向き合って決めたんだ」
自分たちの言葉で意識が変わったとしても、決定したのは彼自身だ。変わろうとしたのは、彼なのだ。
たとえ助言があったとしても。手を差し出したものがいようとも。己の意思で乗り越えた、第一歩。
「それがどうした! 現実から逃避し、求めた先が力であったのだ。この一瞬で、それが変わるとでもいうのか!」
「変わろうとすることが、一番大切だって言ってるんだ! お前には分からないだろうけどさあっ!」
吼えるタウラスへ返答する明留。
どれだけ恐ろしいものを眼の前にしていても、逃げはしないという覚悟がそこにあった。
「お前に軟弱呼ばわりする資格なんて――ないんだよ!」
自らドロッサス・タウラスの懐へと飛び込んでいく明留。力強く振りかぶられる棍棒――直撃だ。
怪人の腕から異音がした。腕が折れるほどの一撃だが、その少年らしい細い体は、打ち付けられた金棒をしっかりと受け止めていた。
「ぬ、ぉおっ!?」
――非時青果。咲き誇るは青い橘、花弁が散る、ドロッサス・タウラスを包み込みその活力を奪っていく。
それと同時、明留の体へと走る激痛……! 歯を食いしばり、耐性があろうとも体を蝕み一瞬でも呼吸を奪う痛みを堪えながら。
痛くとも、怖くとも、ぶっ倒れてなんていられない。証明を、するんだ。
「凡人にだって――できることは、ちゃんとあるんだッ!」
ドロッサス・タウラスの巨体を強く、強く突き飛ばす。そうして生まれた距離と隙。
明留は振り返り、戦いを見守っていた青年へ息を切らしながら声をかける。
「援護ありがとう。……大丈夫だから」
強がりだ。相当な痛手だ。彼の体にはあまりにも重い一撃だった。けれど、話したいことはまだある。不安げな表情をする青年に、笑ってみせる。
「俺みたいなバカの話も、ちゃんと最後まで聞いてくれて嬉しかった」
……唇を強く結び、ただ静かに頷く青年。
「あとからケガの手当もするし……いまは安全なとこにいて!」
そう言って彼は、前を向く。棍棒を支えにして立ち上がる、ドロッサス・タウラス――。
「……些か、侮っていたようだな――」
その眼光には未だ、強き光が宿っている。
「……ありがとう、あのひとたちを解放してくれて」
満身創痍のドロッサス・タウラスを前に。その強い意思の宿る瞳は目の前の彼に向けられているが、語りかけているのは背後の青年だ。
あなたはほんとうは強いひと、優しいひと。マギー・ヤスラ(葬送・h07070)は分かっている。いや。彼を、そう評している。
「きっとこれからだって歩いていける」
あなたの足で、ゆっくりとでも。一歩、一歩と、踏みしめていけば大丈夫。
「――ッその足で、どれだけの人数を踏むことになるのか! 見ものだな――!」
ドロッサス・タウラスが割り込み叫ぶが、そんなことはマギーにとっても、青年にとっても、どうだっていい。あんなものの言うこと、聞かなくていい。
「ちゃんとその気持ちは受け取ったから。だからいまは……わたしたちに、任せて」
優しい言葉を紡ぎ終わるや否や。彼女の周囲にインビジブルが集まりはじめる。餌を撒かれた小魚が寄るように。いいや小魚だけではない、大型の魚から、人型のものまで……!
|インビジブルたち《ともだち》が、彼女の体を糧にする。
……わたしは還り、わたしは孵る。
喰らい尽くされる苦痛など。むしられるはなびらとおなじ。インビジブルが己を啄む。噛みつき喰らう。己という存在を、その透明な腹の中におさめていく。
――息絶え。現れるは、巨大な胎児である。未だ産声を上げることもない、羊水の海で泳ぐ赤子――。
身じろぎをするその仕草、無邪気に手を伸ばす先へと溢れる羊水。毒性を持つそれが、ドロッサス・タウラスへと襲いかかる!
「ッぐ……ウ……斯くなる、上は……!」
蝕まれる苦痛。
怒りんぼうの牛さんは羊水に浸しましょう。傷が濡れると沁みるでしょう?
優しい海も、あなたにとっては毒だもの。
「オォオオオ――!!」
アクチュアル・タウラス――最後の気力を振り絞り、全身を金属で覆われた牡牛へと変身するドロッサス・タウラス。その口から吐く星炎は、マギーの……胎児の羊水を蒸発させるには至らない。
彼は毒の中、羊水の中で揺蕩うことしかできない。蝕まれ続ける肉体、腐食する体――星界の力はどんどん奪われていく。
ゆっくりと、母の腹を触るように手を伸ばす胎児は、善意も悪意も知らない。ただ目の前の『牛』と戯れることだけを、教えられたのだから。
――ひとの悲しみや苦しみを悪用するあなたは。
赤ん坊からやり直すの。
……絶命の声は羊水の中、かき消えた。
静まり返る空間で……赤子はくるり、羊水の中でまわって笑って。溶けるように、消え去った。
●現実
夢だったのだろうか。目の前で起きた光景に、√能力者たちの戦闘に唖然としていた青年。
マギーの姿は、もうどこにもない。……かけらひとつ残さず、食われたのだ。彼女はきっとすでに、どこかの√で蘇生を果たしていることだろう。
夢ではない現実。荒れ果てた空間、疲弊している体がそれを物語っている。指先が痛む。きっと久々に、竪琴を奏でたから――。
……未だ彼が握りしめていたカード。
花びらのようにひらりと二枚、床へと落ちた。