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CLUE TO THE DARKNESS

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●WHITE JAIL
「本日は、お集まりいただきありがとうございます」
 √EDEN――東京・上野。
 言葉ほどにはありがたみのない口振りで、星詠みの少年――蛇塚・氷牙は淡々と切り出した。エレベータのない雑居ビルの四階に居を構えた探偵事務所の窓の外には、都会の陰と陽が同居する下町の風景が広がっている。
 集まった能力者たちを値踏みするように見やって、少年は続けた。
「台東区のとある総合病院の周辺で、奇妙な現象が多発しています。入院していた患者が突然姿を消しただとか、昨日まで元気だったのに亡くなったとか、帰って来たと思ったら様子がおかしいとか……つきましては、是非皆さんの力をお借りしたく」
 抑揚のない声色で『どうぞ』と口にして、少年は顔写真の添付された個人データ数点と、小綺麗な総合病院のパンフレットを一部まとめた紙束を能力者たちへ差し出した。
「それは今回の調査対象――即ち、何らかの事件に巻き込まれていると思しき入院患者、あるいは退院者のリストです。彼らの周辺で実際に何が起きているのかを探るために、まずは関係者への聞き込みをお願いできますでしょうか」
 問題の病院は2020年代に新設された地域医療の要であり、『ウェルビーイング』を標榜して院内にさまざまな施設を併設している。中でも、屋上に整備された庭園はかなりの力の入れようで、この時期は初夏の花を目当てに訪れる地域住民も少なくない。当然、そこには病院で働く医療従事者は勿論、入院患者の家族や親しい友人などの関係者も多数出入りしていることだろう。
 この環境を利用して事件の詳細な経緯や状況を把握することが、今回のミッションのファーストステップだ。
「この件について、現時点で√能力者の関与は不明です。ただ――火のないところに煙は立たない、といいますから」
 きっと、何かがそこにあるはず。
 宜しくお願いします、と慇懃に告げて、少年は能力者たちを送り出した。

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第1章 冒険 『事件関係者の家族や恋人からの情報収集』


姜・雪麗

 白く無機質なエレベーターの扉が開いた瞬間、午後の眩しい陽射しが目を射った。反射的に眇めた目がようよう慣れて、姜・雪麗は感嘆の声を洩らす。
「ほう……これは」
 都心のビル街を眼下に望む総合病院の屋上には、ある種の別世界が広がっていた。地中海スタイルの赤レンガを基調にしたペイヴメント、それを縁取るように続く花壇、蔓薔薇が這う緑のアーチ。初夏の色彩に彩られた屋上庭園の華やぎに、一瞬、ここが病院であるということを忘れそうになる。
(「建物の上だってのに見事な庭作りじゃないか。囲っちまう気持ちも、よくわかる」)
 野に咲く花の可憐は言わずもがなだが、こうして人の手が入ることによって輝く花の美しさもある。曲線の優美なフェンスに絡みついた大輪のクレマチスに目をくれて、雪麗は同じ色の瞳を細めた。花の美しさはいつの世も変わることなく、人の心を和ませてくれるものだ。だからこそ――ここでは陰気な顔をしている者の方がよく目立つ。
 さて、と周囲に目を配って、雪麗は踏み出しかけた足を止めた。庭園の端に、金網の格子から灰色の街路を眺めて俯いている人の姿が見える。
(「あの辺に当たってみるとしようか」)
 できるだけ話しやすく、違和感のない姿で。
 白い霧に包まれるように揺らいだ娘の姿は、音もなく一人の老婆へと変じた。近所の煙草屋の軒先に日がな一日座っている、皺を溜め込んだ世話焼きな老婆だ――思い悩んでいる人間からぽろりと本音を引き出すには、普遍的な人間の姿を装った方が都合がいい。
 静々と庭園の端へ歩み寄って、雪麗は言った。
「どうしたんだい。そんな顔して見てちゃ、花が枯れちまうよ」
 立っていたのは、薄青いスクラブに身を包んだ若い女性の看護師だった。こんな所でぼうっとしているからには休憩時間中なのだろうが、それにしてはその表情が重苦しい。医療従事者として時には無力感に襲われることもあろうが――果たして?
「すみません、ご心配をお掛けしてしまって。昨夜、担当している患者さんが急変してしまって……」
 自分にもっと何かできることがあったのではないか。
 そう、ぽつぽつと話してから、うら若き看護師ははっと我に返った様子で言った。
「なんて、すみません。こんなこと、お話するべきではないですよね」
 つい、と淡い苦笑いを浮かべて、女はぺこりと頭を下げると小走りに去っていった。その後ろ姿は、何かを偽っているようには見えない。
(「病院ぐるみ……というわけではなさそうだが」)
 であればいったい、ここで何が起きているというのだろう。
 もう少し調べてみる必要がありそうだと、雪麗は再び歩き出した。

薄羽・ヒバリ

 風薫る五月の庭は、輝くばかりの陽射しと花の香に包まれて心地よい。地域住民に開放された総合病院の屋上庭園は、多くの人で賑わっている。
「あのっ。お姉さん、この病院の看護師さんですか?」
 はきはきとよく通る声に呼び掛けられて、薄青のスクラブを身に纏った女性が足を止めた。淡いクリーム色の花弁を紅が縁取る薔薇のアーチの下に立っていたのは、波打つ白茶の長い髪を首の後ろで一つにまとめたうら若き少女――薄羽・ヒバリである。
 そうですけど、と応じた女に朗らかな笑顔を向けて、少女は言った。
「やっぱり! 実は私、看護学生してて、もうすぐここで実習を受けることになってるんですけど……」
 このところよく耳にする、病院絡みの奇妙な事件。その動向はずっと気掛かりではあったのだ。簒奪者の関与は依然として不明だが、人の生死が絡んでいるとなれば√能力者としては疑いたくもなる。そこへ丁度、この仕事が飛び込んできたものだから、自称『しごでき』ギャルとしては捨ててはおけなかった。
 そういうわけで、いつもより少しだけ地味なメイクと服で、看護師見習いを装い潜入した――というわけだ。一般人相手には話せないようなことでも、看護師を目指す後輩というていでなら、守秘義務に抵触しない範囲で何かしら教えてくれるかもしれない。
 人懐こそうな仕種の陰で相手の様子を具に窺いながら、ヒバリは表情を翳らせた。
「実は、この病院で患者さんが消えたとか、様子がおかしくなったとか……最近変な噂を聞くんです」
「えっ」
 単刀直入に切り出すと、看護師の表情が明らかに変わった。一瞬の動揺を見逃すことなく、ヒバリは畳み掛ける。
「実習が始まってからいろいろ起きてパニックになるより、心の準備的なことをしておきたくてっ! 本当に、話せる範囲のことでいいので……何があったか教えてもらえませんか?」
 このとおり、と顔の前で両手を合わせ、直角に腰を折る。看護師は予想外の頼まれごとに困惑していたようだったが、右へ左へしばし視線をさまよわせた後、潜めた声で切り出した。
「こ――ここだけの話ですよ。実は……」
 ぱちりと開いた黒い瞳に、星が光った。彼女の話を糸口に辿っていけばきっと、この病院の秘密に迫ることができるはずだ。

鉤尾・えの

 辿り着いた屋上庭園は、初夏の光に溢れていた。
 エレベーターの扉が開くとともに吹き込んできた風は、花と青葉の匂いをはらんで清々しい。楚々とした足取りで赤煉瓦の舗道に降り立って、鉤尾・えのは周囲を見回した。
(「確かに、話に聞いた通りの立派な庭園ですね……」)
 病院という場所柄、頼りになる|助手《ネコ》の手を借りるのは難しい。多少の心許なさはあるが、ここは単身、調査に繰り出す他にはないだろう。
 なんということはない市民の装いで、えのは花に縁取られたタイルの道を進んでいく。昼下がりの庭園には、休憩中の医療従事者をはじめとして入院患者やその見舞いの家族、清掃員や庭職人など、多くの人々が行き交っているようだ。
 なるべく人目に付きやすい庭園の中心で、円く整えられた花壇の縁にしゃがみ込み、えのは大きなため息をついた。こうして薔薇を見つめて消沈していれば、一人くらいはこちらを気遣って声を掛けてくる者があるかもしれない。
 五分、十分と時が経ち、果たしてその目論見は的中した。声を掛けてきたのは、作業服を着た清掃係の女性であった。
(「予想どおり、ですね」)
 わずかな休憩時間を過ごすだけの医師や看護師、ひと回りもすれば庭園を去る患者・家族とは異なり、清掃担当者などの業者はひとところに留まって作業を続ける。それだけに、塞ぎ込んだ様子で動かずにいる彼女の姿は殊更目についたのだろう。
「あの……どうかされましたか?」
 気づかわしげに問う声に、娘は眉根を寄せ、いかにも頼りのない表情を作って顔を上げた。
(「わたくしめ、これでも演技派でして」)
 人の感情の機微にはとんと疎いえのであるが、理解をしている|ふり《・・》はできる。猫を思わせる緑色の瞳にじんわりと涙を滲ませて、娘はよよと切り出した。
「よくぞ、よくぞ聞いて下さいました。わたくし、家族がこちらの病院に入院しているのですが、突然様子がおかしくなってしまって……あんなに穏やかな人だったのに、まるで別人のようなのです! もうどうしたらいいか……!」
 おいおいと声を上げて泣き出した娘を前に、中年の女性は驚いた様子を見せたが、その場を離れようとはしなかった。少々大仰だが、これで掴みはOK――後はいかにして、彼女から情報を引き出すかが、『妖怪探偵』鉤尾・えのの腕の見せどころである。

僥・楡

 五月も終わりに近づく初夏の空を背に、色とりどりの薔薇が咲いていた。周囲一帯を満たす花の香を胸いっぱいに吸い込んで、僥・楡はほのかに甘い息を吐く。
「いい季節ね」
 寒い冬が過ぎ、灼熱の太陽が照りつけるには少し早い、狭間の季節。頬を撫でて往き過ぎる風の爽やかな薫り、咲き誇る花の鮮やかさに包まれて、嫌な思いをする人間は多くないだろう。だからこそここでは、|目星《・・》がつけやすい。
(「入院しておかしくなるなんて、親しい人は心配よね」)
 各地で散発する、病院にまつわる奇妙な事件。入院中の家族の身に何かよからぬことが起きたなら、親しい人々の心中は穏やかではないだろう。それこそ、咲く花の色にも胸をときめかせる余裕などないに違いない。
 視線だけを左右に巡らせ庭園の様子を窺っていると、長く重苦しい溜息が微かに耳を掠めた。息遣いの来し方を振り返ってみれば、テラコッタタイルの道を辿った壁際のベンチに、年の頃なら十三、四の少女が一人座っているのが見えた。長い結い髪を垂らして地面と睨み合う姿を見れば、彼女の置かれた状況が決して喜ばしいものでないことは分かる。
 スニーカーの靴底を小気味よく鳴らして立ち止まれば、少女は落ち掛かる影の中でゆっくりと顔を上げた。
「素敵なお花が沢山なのに、暗い顔ね」
 隣いいかしら、と声を掛ければ、少女は微かに目を瞠り、どうぞ、と応じて視線を下げた。それはどこか人間離れした男の美貌を直視できずにいるようにも見えたが、構わずベンチの反対側に腰を下ろして楡は続けた。
「でも、分かるわ。アタシも親がここに入院してるんだけれど、最近なんだか様子がおかしくて……まるで別人になったみたい」
「えっ?」
 何気ない呟きを装った一言に、少女の表情が一変する。脈あり、と見て取って、けれどもいきなり食いつきはせずに男は言った。
「アタシの顔に何かついてる?」
「あ、……いえ、その…………うちも、似たような感じだったから……」
 びっくりして、と零して、少女は再び俯いた。ここまで来ればもう本題に入ってもいいだろう。膝頭を揃えて向き直り、楡は尋ねる。
「アナタも心配事があるのね。ここだけの秘密ってことで、お話してみるのはどうかしら。抱え込むとしんどいですもの、他人にしか言えないこともあるでしょう?」
 するすると息をするように紡ぐ言葉は嘘ばかりでも、それが事件の解決に資するなら是非もなし。誰がいつ、どんな時におかしくなったのかを聞き出すことができれば、事件の真相に一歩近づくことができるかもしれない。

香柄・鳰

 医療現場というものは、とにかく慌ただしい。
 台東区某所に位置するこの総合病院においてもそれは例外でなかった。外来患者で混み合うエントランスに立てば、香柄・鳰の霞む瞳にさえ、忙しなく行き交う医師や看護師たちの姿が見て取れる。人々のざわめきに耳を傾けながら、娘は深緑の長い髪を靡かせ、院内へ足を踏み入れた。
(「……姿を消した方々ですか。無事に戻って来て下さるといいのだけど……」)
 入院患者が姿を消してその後音沙汰もないとなると、些か悲観的な予測を禁じ得ない。何らかのケアが必要であるがゆえに入院している人間が、そのケアを受けることができていないのだから当然といえば当然だが――最初から決めつけて掛かるわけにもいかない。
 茫洋とした視界をものともせずに通路を進み、エレベーターを呼んで病棟へ上がる。エレベーターホールには面会者用のローテーブルとソファが二対ほど設えられており、すぐ向かいにナースステーションのカウンターが見えていた。
「すみません。少々お伺いしたいのですが」
 目の不自由な来訪者を装って――視力が軟弱である、というのは、嘘ではないのだが――カウンターの向こう側へ呼び掛けると、一人の看護師が早足にやってきた。にこりと口元に穏やかな笑みを浮かべ、鳰は言った。
「こちらの病棟に入院している方を探しておりまして。確か、お名前は――」
 事前に手渡された資料の中身は、改めて確認せずとも頭に入っていた。この病棟に入院『していた』はずの患者の名前を出すと、看護師は一瞬、動揺したように見えたが、構うことなく娘は続ける。
「以前、こちらで診てもらった際に、お庭でお守りの鈴を拾って下さってね。一言感謝を申し上げたいと思いまして……」
「あ……その方はもう、こちらには……」
「いらっしゃらないの? まあ……退院なさったの? いつ?」
「ええと……それはその、個人情報になりますので……」
「そう。そうよね……ごめんなさいね、無理を言って」
 どうしてもお礼がしたかったのに、としょげてみせて、鳰は引き下がった。もっとも部外者に容易く患者の情報を明かすわけにはいかないであろうから、ここまでは想定の範囲内だ。本題はここから、『部外者』が去った後の看護師たちの会話である。
(「さて、ここで何か聞けるかしらね?」)
 立ち話を始めた看護師たちからは死角となる位置に身を潜め、娘は息を潜める。果たしてその耳に届いた噂話の内容とは――。

ディナア・リドフ

「ここが……問題の病院ですか……」
 東京の雑多な街中に突如として聳え立つ、城のように大きな建物を前にして、ディナア・リドフは息を呑んだ。新しく小綺麗な病院は一般的には訪れる人々に安心感を与えるものなのだろうが、今回に限ってはそうとも言い切れない――何しろ話に伝え聞いているとおり、この病院にはさまざまな『曰く』があるのである。おっかなびっくり門を潜り、エントランスの自動ドアを抜けて、雪娘は一人、屋上庭園に直通のエレベーターのボタンを押し込んだ。
(「知らない方とお話するのは少々緊張しますが……」)
 曲がりなりにも√能力者、そんなことを言っていてはこの先が立ち行かない。気を抜くとすぐさま自信なさげに下がってしまう口角を強引に引き上げ、気合を入れるようにペちぺちと頬を叩いたその時、身体の浮くような感覚と共に乗り籠が停止した。開いた扉の向こうには、建物の下で見上げていた時にはまるで想像もしなかった緑の世界が広がっている。
「わ……!」
 想像以上に立派な庭園に、思わず素直な感嘆が洩れた。蔓薔薇の絡みつく緑のアーチ、テラコッタタイルが敷かれた遊歩道と、それを縁取る植え込み。コンクリートジャングルの只中にあるとは思えない空中庭園の色彩が、宵色の瞳を鮮やかに染めていく。平時であればゆっくりと花の名前でも確かめて回りたいところだが――生憎と今は、時間がない。
(「これだけ立派な庭園なら、お花のお世話をしている方がいらっしゃらないでしょうか……」)
 病院に出入りする人間は、何も医療従事者や患者とその家族、友人だけとは限らない。例えば造園に携わる業者――直接の利害関係者でない者からしか、聞き出せないこともあるのではないかとディナアは踏んだのだ。きょろきょろと周囲を見回しながら進んでいくと、案の定、遅咲きの藤棚の下にツナギ姿の男の姿が見て取れた。こくりと小さく喉を鳴らして覚悟を決め、少女はその背中に歩み寄る。
「とても綺麗なお花ですね」
「? はあ」
 どうも、と気のない返事をした男は、突然話し掛けられたことに驚きはした様子だったが、取り立ててこちらを警戒もしていない様子だった。いきなり本題に入っては怪しまれてしまうかもしれない――ここは慎重に会話を続けて、タイミングを見計らって切り出すべきだろう。
 この病院で診てもらった知人の様子が、おかしくなった。そう偽ってみたら、彼はいったいどんな反応をするだろうか?

詠櫻・イサ

「じゃ、そっちは宜しく頼んだよ」
 分かった、というようにゆらりと尾を振って、|骨の魚《インビジブル》は泡沫を纏い、宙を泳いでいく。さて、とホールの隅からエントランスを振り返って、詠櫻・イサは呟いた。
「それじゃ、こっちも始めようか」
 一見すると明るく開放的な病院を取り巻く、不気味な行方不明事件――なんともきな臭い話だ。それが簒奪者の仕業かどうかはさておいても、放っておいてよいものではない。
(「妙なものが絡んでいなければいいがな」)
 絶えず移ろう花色の瞳が妖しく光ったかと思うと、幾重にも屈折する白い虹が少年の姿を大人のそれに変える。それらしいネームプレートをつけた白衣を纏っていれば、ぱっと見はこの病院に勤める医師にしか見えないだろう。
 混み合った通路を堂々と抜けてエレベーターで屋上に上がると、なるほど話に聞いていたとおり、そこには東京の只中とは思えない空間が広がっていた。遮るもののない空を仰ぐ開放的な庭には何種類、否、何十種類という花が咲き誇り、吸い込む空気さえも仄かに甘く感じさせる。
(「……あれにしようか」)
 無駄なく走らせた視線で認めたのは、緑鮮やかなパーゴラの下のベンチに座した女だった。服装からして、この病院の看護師だろう。さりげなく歩み寄って足を止めると、イサの気配に気づいたのか、彼女は声を掛けるまでもなく顔を上げた。
「休憩かな? お疲れ様」
 努めて優しげな声と微笑みで告げると、若い娘は微かに目元を染めて、どうも、とだけ応じた。どうやら疑われてはいないらしいと踏んで、イサは同じベンチに腰を下ろし、堂々と口にする。
「しかし、あの噂には参ったね」
「え……」
「あの噂だよ。君だって知らないわけじゃないだろう? お蔭で患者が激減してるとか――まあ、無理もない話だけど」
 具体的な『噂』の中身には言及しないままで、続ける。口ごもりつつも頷いた彼女が、内部の人間として何かを知っているのは間違いない。
 被害に遭った患者の共通点や、事件の前兆、時間帯――聞き出したいことは山ほどある。病院として何らかの記録を残しているなら、それを確認できれば手っ取り早いのだろうが。
(「ここが腕の見せどころ、だな」)
 演技もなかなか骨が折れるが、こればかりは已むなし。ここでどれだけ上手く話を合わせて情報を引き出せるかが、事件の今後を左右することになるだろう。

水無瀬・祈
ジュード・サリヴァン

 東京都・台東区。
 下町から繁華街、オフィスエリアまでさまざまな顔を持つ街の一角に、その病院はあった。聳え立つ総合病院の堂々とした佇まいを見上げていると、そこはかとない緊張感が込み上げてくる。
「行こうか、祈君」
「ひゃい! あ……」
 突然、掛けられた声に驚いて、思わず舌を噛んでしまった。慌てて背筋を伸ばし直し、水無瀬・祈は傍らに立つ男へ向き直る。
「はい、ジュードさん。俺めっちゃ頑張ります!」
 魔祓いの一族の末裔として異能捜査官見習いになり早一年が経とうとしている中、初めて調査に同行させて貰えるとなれば気合も入ろうというものだ。それも敬愛する彼、ジュード・サリヴァンと同行するのだから、どうにかして役に立ちたいと思うのは自然の流れだろう。
 いかにも張りきっている――言い換えればやや気負いの透ける祈の姿を微笑ましげに見つめて、ジュードは言った。
「そう張りきられると、俺も格好悪いところは見せられないな。だけど君にとっては初めての潜入調査だ。大丈夫だから、自然体でね」
「はい!」
 深呼吸一つ、祈はジュードの後について入口の自動ドアを潜った。天窓から射す光が明るいエントランスホールは、大勢の患者や医療従事者で混み合っている。
「√の異なるここで、俺たちの身分を証明できるものはない。つまり、まずは皆の信頼を得るところからだね」
「なるほど」
 壁に備え付けられたボタンは、ほどなくして最新式の小綺麗なエレベータを連れてくる。乗り込んでわずか十数秒、チン、と軽やかなチャイムと共に開いたドアの外には、総じて灰色がかった外の世界とはまるで別世界のような空間が広がっていた。視線は前を向いたまま、さりげない会話を装ってジュードが口を開く。
「俺たちの設定は、『入院する予定の家族を抱える人物』だ。そのつもりで話を聞いていこう。祈君なら、誰に声を掛ける?」
「はい、ええと……」
 視線だけを廻らせて、祈は庭園の全景に目を配る。休憩中の医師や看護師、花見にやってきた一般の市民、清掃員――屋上庭園にはさまざまな人々が混在していたが、その設定で話を聞くならば。
 車椅子の患者と付き添いの看護師を一瞥して視線だけを振り向けると、視界の端で男が小さく頷くのが見えた。そしてごく自然に足を踏みだすと、ジュードは目標の二人に話し掛ける。
「こんにちは、素敵な屋上ですね」
 こんにちは、と朗らかに応じたのは、若い女性の看護師だった。車椅子に乗っていたのは高齢の男性であったが、年齢のためかこちらはかなりぼんやりとして見える。
 一度接触したら最後、やり直しは利かない。慣れた風に世間話を装って、ジュードは続けた。
「実は、家族がこちらに転院をと勧められたんです。四季の花の香が届く場所でならきっといい療養になると思って、我々も前向きに検討を進めていたんですが……」
 徐に声を潜めれば、何事かと釣られるように看護師を息を詰める。少しだけ気を持たせるように間を置いて、男は言った。
「最近、こちらの病院でおかしなことが起こると噂に聞いたんです。もしご存知のことがあったら、お聞かせ願えませんか?」
「おかしなこと、と言うと……」
 そう言って、看護師は困ったように視線を逸らした。立場上、無理はないだろう――この病院の関係者なら、職場に悪い噂が立つことをよしとはしないだろうし、上から口止めされている可能性もある。だが彼女が心ある医療従事者ならば、家族を安心して預けたいという患者側の心情を無視することもできないはずだ。それにたとえ直接的な話は聞けずとも、その表情から読み取れる情報は多い。
 もう一押しとばかりに、祈が重ねた。
「どうにかしたくて、縋るような思いで下見に来たんですけど、なんか……ただの噂だとは思いますけど、突然姿が消えるなんて話聞いたら、やっぱちょい不安で」
 できるだけ不安そうな表情と仕種で俯くと、看護師はますます困った様子で首を傾げた。
「ええと……ご家族の方が転院をご検討されているんですよね。失礼ですが、お二方は……」
「あ――俺ら、同じ家で暮らす家族ですよ。この人は俺の、兄貴みたいな人で」
「シェアハウスをしているんですよ。家主の奥方がもうずっと眠ったままで……彼女は花が好きだから喜ぶだろうと話し合っていまして」
「薔薇、好きですもんね」
 ごく自然に会話が続くのは、ジュードの技量のせいではない。それも勿論あるにはあるが、一番の理由は、語られる話の内容が決して嘘ではないからだ。何気なく起動したスマートフォンのカメラに、身を寄せ合って咲く薔薇の花群を収めて、祈は言った。
「写真、撮ってもいいかな。せっかくなんでジュードさん、薔薇の前に立ってくれません?」
「俺が入ったら邪魔にならない? 祈君が写った方が喜ぶと思うよ、ほら」
「え、俺じゃ似合わないって……」
 半ば本題を忘れて言い合っていると、くすりと笑み零す気配がした。撮りますよ、と申し出た看護師は、薔薇を背に二人の写真を何枚か撮ってくれた。そして画像を検める二人の会話を、しばし黙って聞いた後。
「……あの」
 実は、と切り出す声に、二人の捜査官は耳を欹てる。いったいこの病院で、今、何が起きているというのだろう――。

第2章 集団戦 『暴走インビジブルの群れ』


●闇に紛れて
 ――とある患者家族が曰く。
『絶対に何か、おかしいんです。お兄ちゃん、病気ではあったけど、元気だったのに……あんなに急に死んじゃうなんて、あり得ないです』
 ――また別の患者家族が曰く。
『正直、父は出歩けるような状態じゃなかったんです。身体中、病気で……なのにふらっといなくなってしまって。いったい、どこに行ってしまったのか……」
 ――とある造園業者が曰く。
『死亡率が高いっていいますけど、余命宣告をされてもう長くないって言われてたのに、急に元気になったって人もいるらしいですよ。ただ、退院した後トラブルを起こしてるなんて噂もありますけど……』
 聞き込みから得られた情報を総合すると、医師や看護師の多くは事件のことを把握してはいるものの、関与しているとは言えないようだ。一方で患者の急死や失踪といった事象が発生しているのは事実であり、その多くが、回復の見込みのない怪我や病気を患っていたということも分かっている。
 そして――とある看護師が曰く。
『患者さんがいなくなった、っていうのは、本当です。でも、何が起きたのか私たちにも本当に分からないんです。朝になったら、消えてしまっていたんです……』
 何かが起きるとすれば、夜。
 ひとけの失せた病棟で何が起きているのかを確かめるべく、能力者たちは深夜の院内に忍び込む。果たしてそこに待ち受けていたものとは――。

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 第二章 補足
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 第二章では、院内への潜入~『暴走インビジブルの群れ』との戦闘を扱います。
 夜の院内に潜入すると、どこからか現れた暴走インビジブルが襲い掛かってきますので、これを撃破してください。
 インビジブルの撃破後、どのような行動を取るかを記載いただくことで、三章の展開に影響が出る場合がございます。

 プレイングの受付期間につきましては、マスターページの記載をご確認ください。
 皆様のご参加をお待ちしております。
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薄羽・ヒバリ
僥・楡
鉤尾・えの
詠櫻・イサ

 五月も終わりの残照が西の空へ飛び去って、夜の帳がすっぽりと都心のビル街を包み込む夜。
 面会時間が終了し、スタッフや業者の出入りも一段落した病院の周辺は、静寂に沈んでいる。その只中、病院の敷地をぐるりと囲むフェンスの外から中の様子を窺う人影が一人、二人、三人――四人。
「さてさて、それではここからは、猫さん方にもご協力願いましょう」
 足元にまとわりつく妖怪猫たちを撫でて、鉤尾・えのは微笑した。彼女の|能力《ちから》を以ってすれば、予め現場付近に即席の探偵事務所を建てておくのも、お手伝いの猫たちに調査をさせておくのも容易いのだ。
「わたくしめは先んじて、院内に潜入いたします。猫さん方はその間に、建物の構造を調べてくださいまし」
 宜しくお願いしますね、と数匹の猫を送り出して、娘は静々と夜の病院に向き直る。中へ入ってしまっても、一見何の変哲もない猫とならば連絡を取りあうのは難しくないはずだ。
「では皆さん、参りましょうか」
「はぁい。ふふ、可愛い助手さんだこと」
 ゆらゆらと揺れる猫の尾が植え込みの隙間に消えてしまうのを見送って、僥・楡は言った。時間が遅いこともあってか、防犯カメラの死角から入り込んだ敷地に人の姿はほとんどない。
「それにしても、ここで何が起きてるのかしらね。弱いものを狙って悪さをしてるのがいる……ってことかしら?」
「うーん、どうなんだろね。情報が少なすぎてなんとも言いづらいけど……」
 ぴんと立てた人差指をリップの唇に寄せて、薄羽・ヒバリが応じる。姿を消した人、事件が起きる時間帯、頻度、傾向などの手掛かりはいくつかあるものの、それらはいずれも断片的で、一つ一つのピースをつなぐにはまだ情報が足りない。鍵となる何かを見つけ出すためにも、今はとにかく行動あるのみだ。
 物陰から物陰へ、人目を忍んで素早く移動を繰り返し、能力者たちは通用口から建物内に忍び込んだ。ひとたび扉が閉まってしまうと、外界から隔離された院内はいっそう暗く静かで、一種異様な空気に包まれる。
「夜の病院ってやっぱ雰囲気あるね~」
「そうね。怪談話をするにはまだ早い季節なのが惜しいわ」
 ヒバリの呟きに、冗談めかして楡が応じた。医師や看護師たちがそのプライドを懸けて目の前の命を救うべく奔走する、医療の最前線は患者たちにとって希望そのものだ。しかしそこにあるものは、必ずしも笑顔と喜びばかりではない――癒えることのない傷や病に苦しみ、死にゆく人々が、そこには否応なく存在する。非常灯の蒼い灯りが照らす通路の先には、生と死の境界が曖昧になる場所と時間が静かに横たわっているのである。
 通用口の周辺に、人の姿は見えなかった。警備室の明かりは煌々と灯っているものの、中は無人で近くに気配もない。ただ――。
「確かに独特の雰囲気だな。……それに」
 薄暗い通路の先へ目を向けて、詠櫻・イサが言った。
「どうやら歓迎されているようだ」
「? この音……!」
 失くして久しい左耳を補う風切羽に手を当てて、ヒバリははっと息を詰めた。最新鋭のステルスプログラムで人や機械の目は掻い潜れても、世界を漂う『彼ら』の目は躱せない。
 一見すると不気味なだけで何もない暗がりを、満たした空気がわずかに揺らぐ。揺らぎは次第に大きな歪みへと変わり、赤黒く透き通った魚の形をとって顕現する――生き物と呼べるかどうかも定かでないそれの名を、能力者たちは知っている。
「やば! 暴走インビジブルじゃん!」
「暴れてるのはこいつらか」
 ぎょろぎょろと蠢く目玉を剥いて襲い掛かるのは、暴走インビジブルの群れ。あちゃあ、と広げた右の掌をヒバリが口許に寄せる横で、イサは妖艶な笑みを浮かべた。
「餌に食らいつく鯉みたいな奴らだな――もしかして、こいつらが患者の生命を食らってるのか?」
 右手に握った漆黒の剣をひと振りすれば、蛇腹状の刃が鞭のように波を打つ。真っ直ぐに突っ込んでくる真紅の魚群の勢いはともすれば気圧されてしまいそうなほどであるが、イサはまったく動じない。相手が向かってきてくれるなら、返り討ちにするだけ――かえって手間が省けるというものだ。
「お前らには捕まらないよ」
 しなる蛇腹剣で紅い魚を一匹打ち払い、まるで隠れ鬼をするように、少年は纏う泡沫と闇に紛れる。目標を見失って彷徨う魚群の後背を突いたのは、楡だった。
「駄目よ、病棟で暴れるなんて――眠っている方もおられるんだから、静かにしておきなさい」
 能力者たちの潜入が一般のスタッフの目耳に入ったら、面倒事は避けられない。騒ぎを聞きつけられる前に、可及的速やかにインビジブルたちを排除しなければ、今後の探索に支障をきたすことは必至だ。銀鎖の揺れる青い煙管から淡い花香の煙を吐いて、男は冷ややかに告げる。
「ね、邪魔しないでちょうだいな」
 大口を開けた魚の牙が、眼前に迫る。しかし鋭いその先端が肉を抉るよりも早く、まじないを込めた組紐が緋色の胴を縛り上げる。引き寄せた魚の顎を力一杯蹴り上げれば、暗い紅色は透明度を増し、世界に融けて還っていく。
 懐に隠し持った拳銃に慣れた仕種で弾を込め、えのは言った。
「話が通用しない|霊《ひと》が相手ならば、対処に迷うこともありません」
 片目を瞑って狙いを定め、狙うのは群れの中でも大きな一体。ここはあくまで通過点――長らく彼らにかかずらっている時間はない。敵の突撃が来るより先に、撃ち落として見せる。
 一発、二発、撃音と共に銃が跳ね、空の薬莢が硬質な音を立てる度に、昏い紅色が散逸する。それでも討ち洩らした数体を仕留めるのは、ヒバリの役目だ。
「レギオン、GO!」
 闇に浮かべたバーチャルキーボードで、撫でるように打ち込むコードは『Chase』。タン、と軽やかに押し込んだエンターキーをトリガーにして、30体ものレギオンがヒバリを中心に展開する。
「レーザー砲、一斉照射! いっくよ――って、うひゃっ!?」
 最後の足掻きであったのか、それともそれが、彼らの断末魔であったのか。雨と降り注ぐ光線に貫かれたインビジブルの身体が、爆ぜた。波状に広がる真紅の汚染を咄嗟に展開したエネルギーバリアで防いで、ヒバリはそろそろと目を開ける。
「あ――終わっ、た?」
 目の前には、非常灯の明かりに照らされた無機質な通路が続いているのみ。まるで最初から存在などしていなかったかのように、暴走インビジブルの群れは姿を消していた。はあー、と盛大に息をついて、ヒバリは脱力する。
「うう、まーじでオバケじゃなくてよかった~!」
「ふふ、よかったわね。でも――あの子たちも、何もないのに暴れたりはしないでしょうに」
 くすくすと声を立てて笑いながら、楡は魚たちの跡を振り仰ぐ。彼らはいったい、何だったのか――病院の調査に乗り込んできた能力者たちを邪魔者と見たのか、それとも他に何かの目的があったのだろうか?
 黒い剣を納めながら、イサは飄々と口にした。
「こいつらを放った黒幕が、この病院のどこかにいるのかもしれないな」
「そうですね。しかし、一般のスタッフは与り知らぬこととなると……院内でも強い権限を持つ職員しか入れない場所などに、何かがあるのかもしれません」
 いつの間にか足元へ忍び寄っていた妖怪猫を抱き上げて、えのが言った。
「猫さん方も戻っていらしたことですし、いざ探索と参りましょう。しかし――亡くなる方もいれば急に元気なる方もいるとは」
 人体実験の類いでないといいですねえ。
 ぽつりと零れたその言葉に、元々軽くはない空気がもう一段重くなる。そうね、と続く道の先を見やって、楡は言った。
「ここで何が起きているのだとしても、事件の原因にはちゃんとお灸を据えてあげなきゃね」
「勿論! それで、患者さんに何が起きてるのか見極めよっ!」
 固めた拳を突き上げて、小声ながらもヒバリは意気込んだ。目の前に続く通路の先は、静かな暗がりに続いている。

香柄・鳰

 静まり返った夜半の院内では、床を踏む足音さえよく響く。
 非常灯の淡い光が点る通路に闇色の衣を靡かせて、香柄・鳰は潜めた息をついた。
(「病院内のスタッフたちの多くは関与していない――ということには、少しだけ安心しましたが……」)
 地域の医療を担う総合病院とそこで働く人々が、組織ぐるみで悪事を働いている。そんな最悪の事態も想定していただけに、正直なところほっとした。だがそれでも事件が起きている以上、裏で糸を引いている何者かが存在しているのは間違いない。唇を一文字に引き結んで、娘はナースステーションの明かりを避け、闇を縫うように進んでいく。元より朧なその双眸に昼夜の別はなく、暗がりを進むことには何の苦もなかった。
(「ならば、後は我々の出番ですね」)
 向かう先は、急性期の患者のための病棟だ。何かが起きるとすれば、何かしらの原因で重篤な状態にある患者の傍と、鳰はそう踏んだのだ。
 しかし――一般病棟を出て隣の建物へ移ろうかという正にその時、事態は動いた。
「!」
 ゆらり、夜の空気が揺らぐ気配と共に、隠すつもりもない荒々しい殺気が全身に突き刺さる。すかさず低く身構えて腰に帯びる太刀の鯉口を切ると、柄飾りの鈴がしゃらんと清かな音を立てた。五感を研ぎ澄ませながら、娘は迫りくる『何者か』へ語り掛ける。
「ここは病院ですよ。お静かに……と言いたいところですが、仕方ありません」
 静かな夜を騒がせるのは本意ではないが、言って聞いてくれる相手ではないのだろう。なれば――ここは疾く終わらせるのみ。
 抜き放つ刃の剣圧が弾丸のように宙を裂き、爆ぜた。視界を泳ぐ輪郭のない紅色が瞬時に散開し、そして再びうようよと集まってくる。
(「暴走インビジブル……ですね」)
 彼らがなぜここに現れたのか正確なところはまだ何も分からないが、歓迎されていないことだけは確かだ。
 水中で泡を吐くような哭き声、漂う尾が生み出す空気の揺らぎ。色のない音と風は、鳰に多くのことを教えてくれる。適切な距離は保ったまま、返す刃で一体、二体と浮遊する紅を撃ち落とし、娘は胸の前に太刀を構える。残すところは、あと一匹――大口を開けて飛び込んでくる異形の魚の巨大な牙は、夜色に霞む瞳の中でもはっきりと視えた。
「――そこ!」
 鋭い牙のその奥にある本体を目掛け、構えた刀の柄を押し出す。しかしてその切っ先は確かに、標的の喉を捉えた。
 ふ、と短く鋭い吐息とともに薙ぎ払えば、紅色の靄が散り散りとなって消えていく。空気の乱れが次第に収まり、無音の夜が戻ってくる。他に襲ってくるものの気配がないことを確かめて、鳰は無言のまま太刀を鞘へ納めた。
(「いったい、何が起きようとしているのでしょう……!」)
 ぱたぱたと誰かの足音が近づいてくるのに気づいて、娘は咄嗟に反転した。病棟と病棟の間の雑然とした物置場へ身を潜めると、スクラブ姿の看護師が一人現れてきょろきょろと辺りを見回し、『なんだったのかな』と一人ごちては去っていった。可能な限りスマートな対処に努めたつもりだが、物音にでも気づかれたのだろう――それ以上何を警戒するでもないその様子から、事件に関与しているとは思いがたいが。
「…………ふう」
 乱れた前髪を手櫛で整えて、鳰は聳え立つ救急病棟を仰いだ。並んだ窓を点々と浮かび上がらせる蒼白い光の中には、今この瞬間も生と死の狭間で戦っている人がいるのだろう。
(「ヒトの死は、唐突が本質」)
 人間というのは都合のいい生き物だ。『自分は今日、死ぬかもしれない』なんて、考えながら過ごしている者は多くない。回復が期待できない傷病に身を侵されることの痛み、苦しみは計り知れないが、だからこそ――旅立つまでの時間は、大切に過ごしてほしいと思うのに。
「……ままなりませんね」
 ぽつりと寂しげな呟きを初夏の夜の気だるさに残して、娘は再び歩き出す。人の命を弄ぶ『何か』がそこに潜んでいるのなら、見逃がすわけにはいかないのだ。

水無瀬・祈
ジュード・サリヴァン

 夜の病院というものは、控えめに言ってあまり気持ちのよい場所ではない。
 かすかに湿気たリノリウムの床を非常灯の明かりが淡く照らし出す暗がりには、昼の間にこの場所で起こった悲喜交々の残滓が淀んでいる。そしてその静けさの奥には、まるで異物のような何者かの『気配』があった。出入り口の監視カメラと警備員の目さえすり抜けてしまえば、探索それ自体に然したる難はないものの、この事件の裏に何者かの悪意が介在しているならば、真相を突き止めようと乗り込んでくる能力者たちを野放しにしておくとは考えにくい。
 病棟の端に位置する階段の下で、水無瀬・祈は踏み出しかけた足を止めた。
「ジュードさん」
 呼び掛ければ、数歩先の踊り場からジュード・サリヴァンがこちらを振り返る。訝るように眉をひそめて、少年は天を仰いだ。数階建ての病棟を貫く階段の天井は、暗く沈んで到底見通すことはできないが――。
「ここ……なんか臭う」
 周囲一帯に漂う消毒液の匂いを言っているわけでは当然ない。身体に宿した狗神が唸る時、そこには確実によからぬ『何か』が潜んでいる。ああと応じて暗がりに目を配り、ジュードは言った。
「祈君、構えて」
「…………」
 返事の代わり、詰襟の腰に佩いた脇差に手を添えて、祈は体勢を低く身構える。一見、なんの変哲もない夜の暗がりに生まれた、奇妙な揺らぎ――それが、目に見えぬ者たちの生み出す波紋に他ならないことを、少年は経験上よく識っている。
「見えてんだよ」
 チャリ、と金属の擦れ合う微かな音がした。長さのある太刀は天井のある屋内で振り回すには、向かない――故に抜き放った脇差で、祈は虚空へ斬り掛かる。そしてその刃は、透き通った魚の腹を確かに捉えた。
 音もなく斬り払う刃に、もはや隠れる意味はないと悟ったのか。吹き抜けの天井を回遊する禍々しい真紅の魚たちが、不気味な姿を現した。入れ替わるように闇に融けた祈に代わって、ジュードはスーツの裏から取り出したソードブレイカーを手に構える。
(「さすがにここで銃は使えないからな」)
 深夜の病棟で発砲などしようものなら、上から下から病院関係者が集まってきて大騒ぎになることは避けられない。赤黒い身体を次々に顕現させるインビジブルの群れを数えて、ジュードは言った。
「援護しよう。手順は任せるよ」
「はい!」
 暗闇の中で、明朗な声が応じた。水と霊気をその身に纏って闇から闇へ奔りぬけ、祈は向かい来る緋色の魚たちを叩き斬る。捜査官としては見習いでも、幼少の砌に叩きこまれた魔祓いの技術に曇りはない。たとえ慣れない得物でも、不都合はなかった。
(「好きに動いて構わないんだ」)
 無防備を晒した背中は、尊敬するジュードが守ってくれる。前を任せてくれる信頼には、同じだけの信頼と実力で返すのみだ。
 一匹、二匹、三匹と、斬り捨てた魚の紅い鰭が宙を舞っては消えていく。討ち洩らした最後の一匹もジュードの掌に阻まれて、その牙を届けることは能わない。
 まるで初めから存在などしていなかったかのように希薄なインビジブルの気配が完全に消えてしまうのを確かめて、ジュードは言った。
「……行ったか。これっきりではなさそうだけどね」
 当面の危険は去ったと見ていいだろう。速やかに排除した甲斐あって、どうやら院内のスタッフなどに気取られた様子もない。役目を果たした脇差を腰の鞘へ納めて、祈は男を振り返った。
「あの、ジュードさん。俺、昼間看護師さんが連れてたじいちゃんのところに行ってみたいです」
「ほう。それは、どうして?」
「あのじいちゃん、年齢のせいかもしれないけどだいぶ弱ってたから……何事もなければそれでいいんですけど」
「……そうだね。例えば体の弱った人の魂そのものが狙い――ということもあるかもしれない」
 もっともそれも一つの可能性には過ぎないが、特段、確かめない理由もない。ただ一つ確かなことは、この病院を取り巻く『事件』がこれで終わりではないということだ。
 目配せを一つ交わしてそれからは言葉もなく、捜査官たちは再び上り階段を踏み出した。

姜・雪麗
ディナア・リドフ

「驚いたよ。こんなとこで会うとは思ってもみなかったねぇ」
 何もない暗い天井を仰いで、姜・雪麗はぽつりと言った。特段、抑えた声というわけでもなかったが、ひと気の失せた夜半のロビーではその呟きを聞き咎める者もない。ちらりと傍らへ視線を流して、儚げな見た目に依らず老獪な笑みで娘は続ける。
「それにしても、君も案外心配性だね。夜の病院に一人っきりってのはまあ、いい気分じゃなかろうけども」
「ご一緒いただけて心強いです。お恥ずかしい限りですが、暗いところはどうも……」
 淡いブルーのゆったりとした袖口で恥じ入るように口許を隠し、ディナア・リドフは応じた。旧知の二人が屋上庭園の調査でばったり出くわしたのも何かの縁だ――それに荒事に至る可能性も考慮すれば、探索は一人より二人の方がやりやすい。
 からかうような眼差しを一つ、行く手に続く通路の先へ視線を戻して、雪麗は独り言のように続けた。
「しっかし、話を聞く限りじゃ化け猫の仕業にも思えるね。行灯でも置いときゃ、油を舐めに出てくるんじゃないかい? なんて――」
 その名に違わぬ雪白の横髪の下で、形のよい耳がぴくりと振れた。暗く気味が悪いということ以外にはなんの変哲もなかったロビーの空気が微かに変わり、時を経るごとに歪みを増していく。
 来たね、と呟いて、雪麗は足を止めた。視線を上げれば高い天井にはいつの間にか、昏く紅い輝きを帯びた半透明の魚たち――インビジブルが、ぐるぐると泳ぎ回っている。
「言ってりゃ魚の大群のお出ましか。ちょいと通らせては……くれないみたいだね」
 ただの人間の仕業とは考えにくい|事件《ケース》で、邪魔が入るのは想定の範囲内だ。さて、と小さく肩を鳴らせばその傍らで、ディナアが静かに両腕を広げた。
「ここは私が……できるだけ穏便に終わらせましょう」
「そうだね。夜勤のスタッフの耳にでも届いたら事だ」
 目の前のインビジブルたちを倒して終わりの仕事ならば話は易いが、そうではないのだ。探索を継続しなければならない以上、派手な立ち回りは避けたい。その点、ディナアの|能力《ちから》はこの場にうってつけだった。
 任せるよ、と一言投げて、雪麗は青い中華服の腕を組む。短く、けれども確かなその信頼に応えるべく、ディナアは動き出した。漂う魚たちの気を引くようにわざと目の前を横切って手近な通路に潜り込み、そして軽やかに反転する。
「醒めない夢を、あなたに」
 伸ばした指先にちらり、はらり、白銀に輝くものが舞い落ちる。音もなく降り出した雪の粒子は次第にその密度を高め、群れを成して泳ぐ魚たちを終わりのない眠りに誘っていく。
「……おやすみなさい」
 六花の礫が一瞬、きらりと輝いて消えた。それと時を同じくして、緩慢に鰭を動かしていた魚たちの姿もまた闇に融けていく。しかし――まだすべてが潰えたわけではない。
「そぉれ飛んでけ、我が紋よ」
 軽やかに唱える言の葉に乗せて、雪麗は指先に生み出した獣面の紋を放つ。わずかに残った個体が吐き出す暗紅色の穢れも相殺されて、二人に届くことはなかった。跡形もなく消えたインビジブルたちの跡をまじまじと確かめて、ご苦労、と大仰に雪麗は言った。
「邪魔が入ったとなると、こいつはますますキナ臭いねぇ」
「ええ……いなくなったり亡くなった方々に、共通店はあるんでしょうか。例えば、何かを奪われた……とか? 今の時点では、推測に過ぎませんけれど」
 掲げた腕を下ろしてディナアは入り込んだ通路の先を見やる。その先には、フロアの案内図と『ICU』の表示が見て取れた。
「こいつらの出どころよりは、患者が何処かに行くってのが気になるね」
「そうですね。夜中の内に姿を消すとのことですが……」
 あるいは今夜もまた、この病院で何かが起きようとしているのかもしれない。
 無言のまま頷き合って、二人は冷ややかに光る床を踏み歩き出した。行く先は病棟か集中治療室か――いずれにせよ、探索はこれからが本番のようだ。

第3章 ボス戦 『剣聖『比良坂・源信』』


●暗がりのその奥
 暴走インビジブルたちの妨害をいなし、夜勤のスタッフたちの目を盗んで、能力者たちは探索を継続する。彼らの存在が影響しているのかどうかは定かでないが、今のところ病棟内で目立った騒ぎや不審な動きは起きていないようだ。
「後は……ここだな」
 屋上庭園の真下、院長室と書かれたプレートが貼られた扉の前に立ち、能力者たちは顔を見合わせた。一般の医師や看護師が関与していないとなると、少なくとも一般の病棟や外来患者が出入りするフロアに何かがあるとは考えにくい。一般人が容易に入れないという点で、院内でこの部屋以上に怪しい部屋はないだろう。
 そこで、思い切って踏み込むべきか否かを話し合っていると。
「こんな夜更けに、何か用かね?」
 不意に背後から呼び掛けたのは、壮年の男の声だった。
 振り返るとそこには、黒い和装に身を包んだ男が一人、立っていた。しかし、目が合ったその刹那――。
「……!!」
 男の全身から立ち昇った底冷えのするような殺気に、能力者たちの背骨を悪寒が駆け上がる。一振りの刀を帯びて立つその男がこの病院の『院長』でないことは、火を見るよりも明らかであった。
「鼠が、何を企んでいる?」
 剣聖『比良坂・源信』――その佇まいは、対峙する者を畏怖せしめる。抜き放つ刃は非常灯の光を浴びて、ぎらりと禍々しく光った。
水無瀬・祈
ジュード・サリヴァン
薄羽・ヒバリ
ディナア・リドフ
姜・雪麗
鉤尾・えの
僥・楡
香柄・鳰


 抑えるつもりは微塵もない殺気と、優れた使い手に特有の威圧感に、空気がひりつく。
 たらりと背筋を冷たいものが伝うのと共に、一瞬で張り詰めた身体が緩やかに弛緩していくのを感じて、ディナア・リドフは押し殺した息を吐いた。
(「院長先生に見つかって怒られたのかと思いました……」)
 ただでさえ夜の病院というものは何が起きても心臓に悪いというのに、まったく人騒がせな輩がいたものだ。
 敵味方共に一歩も動かず睨み合う、焼けつくような沈黙を破ったのは――彼女。
「はい」
 スッと片手を顔の高さまで上げて、薄羽・ヒバリが一歩前に進み出る。こほんとわざとらしい咳払いを一つして、少女はキッと目の前の男を睨みつけた。
「ここにいるみんな、多分一緒のことを思ってるだろーけど、これだけは言わせて――それは、こっちのセリフ!」
 びし、と行儀も何もなく男の顔を目掛けて人差指を突きつけ、ヒバリは大きく声を張る。ここは神聖なる病院だ。そこに物騒な長物を提げて闊歩しているものがあるとすれば、異物はそちらに他ならない。
 そうさと皮肉めいた笑みで、姜・雪麗が後を継いだ。
「散々っぱら見て回ったけど、何処も綺麗で鼠一匹出るようには見えなかったけどねぇ。見てくれだけならお互い様じゃないかい」
「まったくだ。院内に相応しくないものを持っているのは貴方も同じだと思うけれど」
 そう言って、ジュード・サリヴァンは小さく肩を竦めた。
「……話し合いで証明させるつもりはなさそうだね」
 物腰は至って穏やかながらその青い瞳は、わずかも笑ってはいない。敵の実力は相当なものだ――この場の誰もが、男の静かな佇まいから洩れ出でる強さを感じ取っていた。同じ得物を扱う水無瀬・祈と香柄・鳰にとって、それはますます顕著であったかもしれない。
「もしかして、お前と院長がグルなのか? てか……」
 なんつー殺気だよ、と、喉の奥で呟いて、少年は小さく喉を鳴らした。腰に帯びた刀の柄に手を掛けたはよいが、研ぎ澄まされた刃のように真っすぐで、ある意味曇りのない殺意に、握る手の指が強張る。一方、鳰は霞む眼差しで、動じることなく男を見据えていた。
「つまらないことをお尋ねになるのですね。何を企んでいるのか、とは――病院に来たら、やることはひとつでしょう?」
 握る刀の柄で、鈴がしゃらんと澄んだ音を立てた。夜に映える真白の刃を抜き放って対峙する敵へ向け、娘は冷ややかに微笑む。
「悪い箇所を探し当てて、取り除くのですよ」
 一触即発の睨み合いが、殺し合いに変わる瞬間だった。穏やかに目を伏せたかに思われた『剣聖』の双眸が再び世界を映したその時、これまで纏っていたそれがまるで遊びか何かであったかのような、凄まじい闘気が立ち昇る。抜き身の刃を手に一分の隙もなく立つその姿は、阿修羅と呼ぶに相応しい。
「鼠だなんて、失礼しちゃうわねぇ」
「そうですとも! 相当な使い手とお見受けしますが夜目は利かない方でしょうか?」
 双子のように唇を尖らせて、僥・楡と鉤尾・えのが口々にぼやいた。ここは人が命を繋ぐ場所――侵入者という点では変わらずとも、どちらが異物かは言うまでもない。浅葱の袖を翻して胸の前に両手を組み、えのは拗ねたように続ける。
「此処におりますのは鼠ではなく、夜闇に紛れる『猫』でございます!」
 ちらりと八重歯を覗かす笑みで喚び出すのは、悪い人間を喰いものにするウルタールの猫。闇の中から抜け出るように現れた猫たちは長い尾でするりとブーツの踝を撫で、老いた剣聖へと向かっていく。
「さあさあ猫さん方、お遊びの時間ですよ!」
 軌道の読めない動きで神速の突きを掻い潜り、猫たちが一斉に敵へ飛び掛かった。手足にかぶりついたそれを男は力任せに振り払ったが、その爪と牙は何度でも繰り返し襲い掛かってくる。
「猫は相手が素早ければ素早いほど狩りに夢中になるもの。動けなくなるまで遊び相手になっていただきますよ!」
「小賢しい真似を……」
 じろりと睨む眼差しで猫の群れを牽制し、男は後ろ跳びに飛び退いた。しかしそれを追うように、楡が仕掛ける。
「!」
 空中から繰り出されるひと突きを低い姿勢ですり抜けて、そのまま滑り込む。スライディングの要領で掛けた足払いは躱されたが、本当の狙いはそこにはない。そのまま背後へと回り込んで反転、楡は刀を握る男の腕を青い組紐で絡めとる。
「お互い病院に似合わない者同士、仲良くしましょうよ。ここから一緒に出ていく手伝いもしてあげるわ、ちょっと力業にはなっちゃうけど、許してね?」
 告げる言葉ほどには優しくなく、勢いをつけて振り被った拳で、楡は男の横面を殴り飛ばす。
 しかし敵も然る者。ぎりぎりのところで上体を逸らして直撃をかわしながら、男は衝撃の方向へ敢えて飛び、叩きつけられる寸前で壁を蹴って着地する。あらと芝居がかった仕種で首を傾けて、楡は言った。
「どうやら、こちらも手加減は不要のようね」
 数の上では能力者たちの圧倒的な有利だが――これは些か、長い戦いになりそうだ。



「貴方様、先ほど我々のことを鼠と仰いましたが。貴方様の方こそ、忍び込んだ鼠さんなのでは――いえ、今のは鼠さんに失礼でした」
 取り消します、と淡々と口にして、ディナアは続けた。
「こちらで何をされていらっしゃったので? 目的は何でしょうか」
 問えば男の頑なな口角が、微かに上がった。それは、とても不愉快な嗤いだった。
「貴殿ならば、そう問われて素直に答えるのかね?」
「まさか。聞いてみただけですよ」
 微かに眉根を寄せて応じ、ディナアは白い息を零した。|雪娘《スネグーラチカ》の吐く息は、あらゆるものを凍らせる。足元から凍てつく空気は床を滑って、意志持つ雪が男の足元に纏わりつく。
「互いの目的ぐらいは聞く耳がないものかねぇ」
 あらぬ方角から発せられた声に反応して、剣聖が反転する。壁際の観葉植物の傍らで悠然と立ち、雪麗は言った。
「お前さんの目当てが患者どもって話なら、こっちが灸を据える側になるだろうけどね。刀を通じなきゃ話もできないってことなら付き合うが、生憎と切り合う腕の持ち合わせもなし」
 雪の束縛を強引に振り切って、男は鋭い踏み込みから一閃、銀の刃を薙ぎ払う。しかしその切っ先が女の喉を捉えることはなかった。
「何?」
 ばっさりと断たれたプランターの樹がわさわさと床に転がって、中から姿を現したのは一匹の白鼠。あら、と些か緊張の抜けた表情で瞳を瞬かせ、ディナアが言った。
「皮肉が効いてますね」
 化けて、戻って、また化けて。畳み掛けるように襲い来る斬撃をひらりはらりとかわしながら、雪麗は敵の注意を引きつける。口八丁に手八丁、攪乱するのが彼女の役目――打撃を与えるのは、相方の役目だ。
「躱すに徹するとはいえ肝が冷えるねぇ! ディナア、こいつの頭を冷やしてくれるかい」
「ええ、冷え冷えの頭にして差し上げましょう」
 成果を引き出せるに越したことはないが、たとえ有益な情報が得られずとも目の前の敵は倒さねばならない。この男を討てば少なくとも、患者が突然姿を消すという怪奇現象じみた事件には一旦の終止符が打たれるはずだ。
 空中に音もなく結晶した鋭利な氷柱が、剣聖を閉じ込めるように周囲の床へ突き刺さる。細身の身体を取り巻くように展開した光のキーボードへ両手の指を添え、ヒバリは檻の中の男を睨みつけた。
「治療が必要な人たちを狙って悪さをするとか、まーじで許せない! ぱぱっとやっつけて、みんながゆっくり休める病院を取り戻そ!」
 今度のコードはB・L・A・S・T――Blast。羽根のように軽いタッチで少女の指が光の羅列をなぞり、付き従うレギオンの群れが散開する。放射状に広がったその銃口が狙うのは、目の前の敵ただ一人だ。
「せーのっ!」
 中指の先で押し込んだ決定キーを合図に、無数のレギオンが弾丸を放つ。それは雨あられと降り注いで敵の眼前で爆ぜ散り、朦々と白い煙が周囲一帯に充満した。
「ちょっと派手にやりすぎー? でもでも、敵を倒せればオーケーっしょ!」
 |奪《と》った、と思った。それだけの集中砲火を浴びせたはずだった。が――。
「っ!?」
 煙る視界の中で、何かが光った。次の瞬間、立ち込める白煙を切り裂いて、目の前に輝く刀身が現れる。ぎゃっ、と思わず悲鳴を上げて、ヒバリは咄嗟にエネルギーバリアを展開した。弾かれた刀を構え直すと、男はすぐさま追撃の構えに入ったが――。
「ふふふ、……素晴らしい殺気と剣気ですこと」
 研ぎ澄まされたその剣撃を、ただいなしてしまうのは惜しいというもの。刃の生み出す微かな風鳴りを便りに、繰り出される斬撃を構えた刀の腹で受け、鳰は言った。
 一連の経緯を想えば私的な感情は封じて事に当たるべきなのであろうが、神域にまで達した達人の剣を前にしては、高揚感を禁じ得ない。素早く周囲の状況に注意を配って、鳰は鈴音の刀を握り直した。
「一般の方がそう来られないならば、遠慮は不要ですね」
 十、二十、三十。
 四十、五十。
 相手の呼吸を着実に読んで、時が満ちるその時を待つ。そして、
(「――今!」)
 六十を数えて敵の刃が腹を裂かんとした、刹那。鳰は視界の隅を泳ぐインビジブルと、己の位置とを入れ替えた。霊瘴の塊と化した魚の身体に囚われて、男の動きが一瞬、鈍る。その隙を、菫の瞳は見逃がさなかった。
「ハッ!」
 短く鋭い呼吸と共に、浴びせた太刀が剣聖の背を捉える。戦の行方を量る天秤は、俄かに傾き始めていた。


 交える刃は、時に言葉以上に雄弁に物事を語ってくれる。
 浅からぬ手傷を負ってなお、敵の刃は鈍らなかった。それどころかますます苛烈に襲い来る太刀筋の速さ、鋭さに、祈の掌には汗が滲む。
(「明らかに、格上――」)
 剣士としての実力も、未熟な自分では到底及ばない。勝てるのか? そんな単純で、けれども抱くべきでない疑念が脳裏に過り、知らず知らず奥歯が鳴る。
「大丈夫だ、祈君」
 泥沼に陥りかけた思考を引き戻してくれたのは、ジュードの声だった。腑抜けかけた腕にもう一度力を込めて、受け止めた刃を押し返し、一旦退いて距離を取る。通路の対角線上に立つ標的を視界の外にやらぬようしっかりと見据えたまま、ジュードはきっちりとしたシャツの襟元を緩めた。
「今までの日々を、信じて」
「……はい!」
 積み重ねた努力は、決して己を裏切らない。深々と息を吸い込んで腰を落とし、祈は身構えた。右手の太刀と、左手の脇差――共に歩んできた二振りも、先程までよりずっと手に馴染む気がする。
「魔祓いの水無瀬がひとり、祈。……行きます!」
 静謐な音色と共に、水を纏い、床を蹴って飛び出す。達人級の敵を相手に易々と小技が効くとも思っていないが、剣士の軸は足にある。そこを水で絡め取れば――どうだ?
 身に纏う水が細く、けれども激しい流れとなって、鎖のように剣士の足元に絡みつく。受け損なえば命はない神速の突きを交差した刃で辛くも止めて、少年は声の限りに叫んだ。
「ジュードさん!!」
 彼の役に立ってみせる。
 そう、心に誓ってここへ来たのだ。たとえ腕の一本や二本捥がれたところで退きはしない――受け止めてみせる。尊敬する捜査官の先輩のために道を拓くこと、それが今の祈にできる最善なのだ。
 不退転の覚悟で立つ少年の背を見つめて、ジュードは動いた。
(「無駄にしてはならない」)
 祈が決死の想いで創り出した隙だ。この機を逃すわけにはいかない。冷たい床を踏み切って、刃を挟んで対峙する二人の間を縫うように抜け、その手のナイフを振り被る。
「終わりだ!」
 簒奪者、とて同じ人間なれば、臓器の位置は変わらないはず。背中の左側を目がけて二度、三度と繰り返し刃を突き立てると、剣聖と謳われた男の威容がぐらりと傾いだ。肺に届くまでの深手だ――膝を折った男に、これ以上の抵抗は叶うまい。
 袴の裾を叩いて呼び寄せた猫を胸に抱き、えのはつかつかと男の元へ歩み寄った。
「あなた様のような方がこんな不釣り合いな場所にいる理由に、俄然興味が湧いてまいりました。さあさあ、この病院で何が起こっているのか、洗いざらい吐いてもらいますよ!」
「もう一度だけ訊こう。いったい、何を企んでいる?」
 瀕死の男の前に立ち、ジュードが重ねた。しかし敵はただ、不敵な笑みを浮かべるだけだ。この期に及んでもやはり、語る理由はない、ということらしい。
「折角の腕前なのに、残念」
 しょうがないわねと諦めの息をついて、楡は言った。
「次があるならステキな仕事を探してちょうだいな」
 大仰な振りもなくただ素早く、鋭く突き入れた拳が、そこにある命の灯を吹き消した。簒奪者の肉体は徐々に透き通り、|不可視の怪物《インビジブル》と化して世界に融けていく。
 ふいーと仰々しく額の汗を拭って、ヒバリが言った。
「これにて一件落着? は~、早く帰ってメイクオフしなきゃ~」
「待ってください。その前に、院長室に入ってみませんか?」
 恐らくは患者たちの失踪に関与していたのだろう悪の芽は摘んだが、謎はまだ何も解明されていない。
 そうね、と瞳を瞬かせて、楡は院長室の扉を見やった。
「わざわざ邪魔立てするってことは、見られたくないものでも置いてるのかもしれないわ」
「そいつは一理ある。鬼が出るか蛇が出るか――ってね」
 こつこつと踵の音を響かせて扉の前に進み出て、雪麗は触れた掌に力を込めた。両開きの重たい扉がゆっくりと部屋の内側へ沈み、能力者たちを迎え入れる。
 一見すると、室内の様子に変わったところはなかった。しかし整頓された棚や机の引き出しを皆で漁るうちに、誰かがあっと声を上げる。
「この、カルテは……?」
 机の一番下の引き出しに、なんということはない資料に紛れて保管されていた一冊のファイル。表紙にも背表紙にもなんの記名もされていないそのファイルには、見憶えのある患者たちの名前が書かれたカルテが挟まっていた。顔を寄せ合ってその内容に目を通し、しかして能力者たちは戦慄する。
 まあ、と露骨に眉を寄せて、えのが言った。
「そうでなければと思いましたのに。……嫌な予感が、当たってしまったようですね」
 それは、ここ数週間に及ぶ実験の記録。消えた患者たちに対して行われた、ある種の『人体実験』の記録に他ならなかったのである。

 ――To be continued?

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