シナリオ

Faith.

#√ドラゴンファンタジー #喰竜教団

タグの編集

作者のみ追加・削除できます(🔒️公式タグは不可)。

 #√ドラゴンファンタジー
 #喰竜教団

※あなたはタグを編集できません。

 ●
 腐った風が淀んでいる。

 数多のひとの骸の上で、竜人に刃を突き立てるおんなが居た。
 まずは自らに立ちふさがった男。それから子ども。そして女。刃を突き立てるたびに叫ぶ声も福音のように甘やかだ。
 やがて声を発しなくなった|いとおしくも尊き竜《・・・・・・・・・》の部位ひとつひとつを丁寧に切り離し、おんなは血と肉の海から取り出した三つの心臓をうっとりと見つめた。

 嗚呼、愛しい竜たち。
 強く気高く孤高で美しい真の竜。
 力を奪われ人に墜とされた、悲しくか弱きドラゴンプロトコル。
 失われたなら取り戻しましょう。姿も力も何もかも。
 わたくしはそれを成し遂げる為の天啓を星より得たのだから。
 肉の身を捨て、我が身とひとつになりさえすれば。ドラゴンプロトコルは再び真竜に至りて天を駆けることも叶うはず。

 ゆえに。肉体という枷を捨て、かりそめの命を捨て、わたくしとひとつになりましょう。
 今生の命など惜しむことはありません。怖れる必要もないのです。わたくしたちは必ずや真竜の時代を取り戻す。これはその為に必要な行為なのです。
 幾度否定されようと邪魔をされようと、わたくしは自らが信ずる道を征く。
 何を犠牲にしようと、どれほど茨の道であろうとわたくしは敬愛する竜たちの為に諦めない。
 この命も、どの命も、全て総て真竜たちに捧げましょう。

 ――嗚呼。この想いをきっと『愛』と。その道を征くことを『信仰』というのだ。


「マルシェに興味はあるだろうか?」
 √ドラゴンファンタジーに通じる異世界への扉の前で、ベネディクト・ユベール(ドルイド・h00091)が徐に問う。
 ドラゴンファンタジーはダンジョンの脅威に晒されつつも、ダンジョンで得られる遺物や宝物によって急速に技術を発展させてきた世界だ。当然、ダンジョン産の品を多く扱ったマルシェも多数存在する。
 そしてベネディクトが今回案内する『カプリスマルシェ』も、そういったマルシェのひとつなのだという。
 カプリスにあったダンジョンは既に封印されているが、その跡地で魔力を含んだ良質な鉱石が眠っていることが発見された。以来、カプリスでは魔鉱石の採掘とその加工技術を磨き発展させたのだと言う。
「火を内包するガーネットのランタン。水を抱くブルージルコンを飾った、水が湧き出る花瓶。植物の生長を助ける力を持つミントガーネットのサンキャッチャー。そんな加工品が多く出回る。それから……そうそう、宝石を加工した化粧品も有名なんだ」
 口下手かつ化粧品に然程明るくないベネディクトの、いまいち要領を得ない説明を代弁すると。
 ロンゲルというドラゴンプロトコルの一家が作っている、魔鉱石を加工した『宝石コスメ』が最近流行り出しているのだという。
 様々な宝石を溶かしこんだような煌めくネイルポリッシュ。
 ガーネットやロードクロサイトを中心とした華やかなリップグロスやスティック。
 モルガナイトやラベンダークォーツ、ムーンストーンなどの可愛らしいアイシャドウパレット。
 オパールやラブラドライトの色が遊ぶラメ。タンジェリンクォーツやローズクォーツのパウダーチーク。
 魔法を内包する宝石を粉にして作ったコスメは、まじないにも使える本格的なものだ。宝石そのもののカラーを宿すコスメたちは艶やかに彩ってくれると評判、とのことだった。
「気になる化粧品を試したり購入するも良し。魔法がかかった加工品を買うも良しだ。食べ物はないのだが、なかなか賑やかなマルシェだと思う。……ただ、な」

 ――それだけの案内なら良かったのだが。

「微かだが、風に異臭が混じっている。いきものの血と肉が腐った臭いだ」
 それは決して気のせいではない。
 何故ならば星が教えてくれたのだ。腐った風。倒れ伏し折り重なった死の上で、無惨に引き裂かれるドラゴンプロトコルたちの遺骸を。それを喰らう|何者か《・・・》を。
「おそらく喰竜教団の襲撃がある。ただ、ドラゴンプロトコルだけを狙ったというにしては、あの予知はあまりに犠牲で溢れていた。気になるのは『腐った風』だ。それが何かまでは私にはわからなかったが……広く被害が出るものであることは間違いがないだろう」
 風の正体まではわからなくとも、予知はひともドラゴンプロトコルをも巻き込む風が吹き荒れることを確かに示している。
 事前に阻止出来ればいいが、曖昧な予知は敵も星を詠んでいる証。先んじて避難を促せば、星が変わったことに気付いた喰竜教団は行動を変えるだろう。その先がどうなるかは全く未知の事態となる。
 ゆえに必要なのは警戒。そして、何かあった時に迅速に動けるようにしておくことだ。
「易いことではあるまい。だが被害を迅速に最小で抑え、来たる敵を迎え撃つ。恐らくそれが今は最善だ。……頼めるか」
 そう言って竜人たるベネディクトは琥珀の瞳に静かな怒りを燃やし、集った能力者たちを見渡す。

「教団というからには、きっと喰竜教団には強固な『信仰心』があるのだろう。信仰とは信じ尊ぶこと。そしてかたく信じることだ」
 喰竜教団が『真竜の為と』謡いながら、ドラゴンプロトコルそのものの命を奪ってでも、いずれ彼らを真竜に至らしめるに必要なこととかたく信じているのなら。それが決して揺らぐことがないのなら。
 これはきっと、信仰と信念のぶつかり合いになる。
「……成し遂げ、皆で無事に帰ってきてくれ」
 預けるように。背を押すように。ベネディクトは静かに告げて扉の先へと能力者たちを誘う。

 ――信仰とはなんなのか。今、その意味を問われている。

マスターより

開く

読み物モードを解除し、マスターより・プレイング・フラグメントの詳細・成功度を表示します。
よろしいですか?

第1章 日常 『ファンタジーマーケット』



 爽やかな水色が空を覆う、気持ちの良い快晴。
 深呼吸したくなるような新緑の風を吸い込んだなら、カプリスマルシェへと足を踏み出そう。
 ダンジョンマーケットは数多あれど、魔鉱石の加工品だけを扱うカプリスマルシェは少しばかり珍しい類だろう。
 入口付近に飲み物のスタンドがある以外は、マルシェには加工品の出店ばかりが立ち並んでいる。
 火を宿す赤い宝石を組み込んだランタンやカップウォーマー。水を宿す青い宝石を組み込んだ冷却装置やインテリア。
 風を宿す緑色の宝石は、土を宿すブラウンの宝石と組み合わせることで植物との親和性がぐっと高くなる。
 白い宝石は光を、黒い宝石は夜を宿す加工品と相性が良い。

 様々な加工品や装飾品、御守りの店が並ぶ中で、ロンゲル一家の出店は少しばかり異質だった。
 並ぶのはどれでも魔鉱石を特殊加工した宝石の化粧品。
 宝石と変わらぬ煌めきを持つコスメたちは、最近では女性を中心に少しずつ人気の広がりを見せている。
 宝石を加工するのは父の役目。様々な成分と宝石の粉を混ぜ合わせて化粧品を作るのは母の役目。
 そして綺麗な容器に詰めて、お客様にお渡しするのが娘の役目。
 どんな色が似合うのか迷ってしまったら、娘――マリ・ロンゲルに話を聞いてみるといい。彼女なら、きっと似合いの色を教えてくれるだろう。

 さあさ、カプリスマルシェははじまったばかり。
 皆はどんな宝石の煌めきに、心を掴まれる?
シルフィカ・フィリアーヌ


 サファイア。アウイナイト。エメラルド。ゴッシェナイト。サンストーン。シトリン。
 ロンゲル一家の宝石コスメの店先に並ぶコスメたちには、どれも元となった宝石の色と輝きがそのまま閉じ込められている。
 透明感のある宝石もさることながら、真珠や翡翠のようにまろい色と輝きも捨てがたく、色とりどりの宝石たちの輝きはどれもシルフィカ・フィリアーヌ(h01194)の心を擽ってやまない。
 宝石。コスメ。乙女ならば一度は焦がれるようなものがひとつになったとあらば、やはり一度は見ておきたいもの。たくさんの商品はどれも目を惹いて迷ってしまうけれど、マルシェや市であちこち目移りしてしまうのはもういつものことだ。
 ならばいっそ開き直ってしまえばいい。迷うことすら楽しんでしまおう。きっとマルシェの楽しみ方とはそういうものだと、シルフィカは柔くターコイズの瞳を撓ませて再びコスメたちへと目線を向ける。

 宝石コスメはどれもお試しが出来るのだという。一人何度でも、気になるだけ存分に。
 そんな気前のいいサービスに甘えて、シルフィカも存分に気になるコスメに手を伸ばす。
 いくつものカラーを集めたアイシャドウパレットは、まるで宝石箱のよう。じゅわりと血色感をプラスして清楚な透明感をくれる珊瑚のチークは、貝殻をモチーフにしたケースにいれられていて可愛らしい。
 試せば試す程どれも可愛くて欲しくなってしまうのがコスメの魅力。けれど全部を購入出来る訳ではないから、シルフィカは存分に迷って迷って。たくさん迷って。……やがて、ひとつを選び取る。
「これ、かな」
 選んだのは薔薇をモチーフにしたケースにいれられた、ローズクォーツのリップグロス。透明感のある淡く優しいピンク色は、きっとシルフィカの唇を特別可愛らしく彩ってくれる。
「ネイルポリッシュも気になるな」
 視線を向けた先は、様々な宝石で作った爪紅だ。綺麗に彩られた爪は見るだけで力が湧いてくるもの。まじないにも使えるほどともなれば、カラーから受ける印象だけでなく本当に元気だって貰えるかもしれない。
 けれども。
 ちらりと見た陳列棚には、それはそれは沢山のネイルポリッシュがある。宝石の数だけあるというのだから大したものだが。
「どの色がいいかしら……やっぱり、迷ってしまうわね」
 好きな色。好きな宝石。好きなモチーフ。選び基準ならシルフィカにもたくさんあるけれど、得てして基準というものはあればあるほど指を迷わせるものだ。それが好きなものあるのなら、尚の事!
「あの、お客様。なにかあたしで力になれることはありますか?」
 困り果てて小さく唸るシルフィカに気付いた少女が、控えめに声を掛けた。赤茶けた髪を高く結い上げ、宝石コスメで綺麗にメイクアップした少女。ゆらゆらと揺れる竜尾は、彼女がこの店の看板娘、マリ・ロンゲルであることを示している。
 彼女は、そう。確か、迷った時はおすすめを聞いてみてと初めに言っていたはずで。
「……ね、お嬢さん。良ければわたしに似合う色をおすすめしてくださる?」
 鮮やかな色でも淡い色でも、どちらでも大丈夫だからと。困った時はアドバイスを貰うのが一番と知っているシルフィカは、ふぅわりとマリに微笑む。
 そのお願いに「もちろん!」と二つ返事で応えたマリは、少しばかりに逡巡して。やがて、ひとつを選び取った。
「クンツァイトはどうでしょう。淡いラベンター色ですが、クンツァイトは多色性があって光の当たり方で青みのあるピンクや濃い紫色にも見えるんです。このネイルポリッシュも同じ性質を持っているんですよ」
 ほら、とネイルの瓶を光に透かしてみれば、確かに色が光で幾重にも揺らめく。
「お客様が先にお選びになったローズクォーツにも似て可愛らしいですし、お客様の髪色にもよく似合っていると思うんです。一度塗りなら淡い色を、二度塗りする濃い目の色で楽しめるのも魅力です。どうでしょう!」
 そう言って、マリはラベンダー色の小瓶を差し出してみせた。

 迷いに迷った買い物も、終えてみれば楽しくてあっという間だ。
 ロンゲル家の店での買い物を終え、シルフィカは改めてカプリスマルシェを歩く。他にも気になるものは色々あるし、……なにより。
「……」
 くん、と風をひと嗅ぎする。今はまだ、風に混じる香りにおかしなものは感じられない。けれども小さな異変も決して見逃さぬよう。シルフィカは静かに警戒を強めるのだった。

トゥルエノ・トニトルス


 魔鉱石とは、魔力や魔法を含んだ鉱石のことだ。
 魔力や竜漿が豊富な土地に長く在ったり、強力な魔力に晒されることで出来るもので、その用途は幅広い。
 そして魔鉱石は錬金術に於いても有用だ。その効果や効能は、|錬金騎士《アルケミストフェンサー》たるトゥルエノ・トニトルス(h06535)にとっても興味深いものであった。
 とあらば出向かぬという理由もなく、トゥルエノは早速カプリスマルシェの賑わいへと足を向ける。
 魔鉱石の加工品のみを取り扱うという少々特殊な市ではあるが、店の数も客足も決して少なくはない。加工品の数もまた然りで、魔鉱石を使った日用品や装飾品の数々が陽光を反射している。
 きらきらと輝くようなものは、トゥルエノにとっても好ましい。
 赤いランタン。青色のインテリア。効果の違うふたつの魔鉱石を組み合わせることで複合効果を作り出し、植物との親和性を増すもの。
 もとは違う効果のものを掛け合わせて他のものを作り出すというのは、錬金術にも似ている。そうとわかればトゥルエノの興味は様々な加工品のつくりへと向いて、あれにもこれにも目移りしてしまう。
 装飾品の出店を覗いてみれば、静かに鎮座する宵色のオニキスが艶やかにトゥルエノを出迎えた。
「ふむ……夜を宿す黒い宝石も良いよな」
 ちらりと思い浮かべるは可惜夜。何に使うのが良いだろう。どんな錬金の材料にしようか。悩み考えながらも何処か楽し気な様子で、トゥルエノは露店の軒先を風のように渡り歩いていく。

 そうして漫ろ歩くうち、辿り着いたのは一際賑わいを見せる露店だった。店を後にする客たちの手には、それぞれきらめく化粧品が握られている。それこそ、まるで宝石そのものような――。
「そういえば、宝石コスメ? というのが人気だとか」
 そう思い出して足を止める。世情に疎い自覚はあるが、人気がある品だと聞けば興味も湧くというものだ。
 丁度客が途切れたタイミングだったので、そうっと店先の商品棚を覗いてみると、思わず「ほう」と吐息が漏れた。
 化粧品にあまり明るくないトゥルエノであっても、ロンゲル一家が手がけた商品の美しさはわかる。宝石そのものといっても差し支えない色と輝きが、ここには化粧品として揃っているのだ。
「お客様、コスメにご興味がおありですか?」
 興味深げに宝石コスメを眺めるトゥルエノに、驚かせぬよう配慮された声音で少女が問いかける。この店の看板娘――マリ・ロンゲルだ。
「ああ、うむ。うつくしいな、と思っていた。もしよければ、何かオススメの品など聞かせて貰えないだろうか」
「そう言って頂けるとあたし達もうれしいです! うふふ、オススメならたくさん」
 親の仕事を褒められて嬉しいのだろう。頬を喜びにほんのりと染めて、マリは幾つかの化粧品に手を伸ばす。
「うちの宝石コスメはたくさんの種類がありますが、中でも一番なのがネイルポリッシュです」
 手に入った魔鉱石や宝石で一番最初に作るのはネイルポリッシュなのだという。顔に乗せる色にはある程度基準があるが、ネイルならばどんな色だってあっていい。だから最も種類がある品もまたネイルポリッシュなのだ。
「宝石にも色んな意味や効果があります。迷信とも言われますが、魔法を含んだ魔鉱石で作っているからこそおまじないにも使えるんですよ」
 例えばルビーは情熱を燃やして、やる気をアップさせてくれたり。ムーンストーンは月の力で病気をしにくくなったり。アクアマリンは心を落ち着かせてくれたり、ラピスラズリは周囲と自分を浄化してくれる。
 あまり強くはないけれど、そんな効果があるのだと、マリはいくつかのネイルポリッシュをトゥルエノの前に並べた。
「お客様の好きな色や宝石ってなんですか?」
「色合いは青や紫、暗色系が好みなのだが」
「でしたら、こちらはいかが? アイオライト、そしてタンザナイトのネイルポリッシュです」
 マリが差し出したのは美しいすみれ色のアイオライトと、『タンザニアの夜』という名付けられたタンザナイトだ。
 その神秘的な深い青は、どちらも美しい『夜』の色。トゥルエノが纏う色からも深い青が好きなのではないかと感じたマリのオススメだ。

 二つのネイル瓶をじっと眺め、次にトゥルエノは自らの手を見る。
 この青色を塗ったなら。ひそりと添えるようにカッコよくなれたら――良いものだろうなぁなんて。
 試してみるのも一興だろうか。

アン・ロワ


 カプリスマルシェの宝石コスメ。
 その名をアン・ロワ(彩羽・h00005)がはじめて見つけたのは、雑誌の小さな広告だったと思う。
 まるで空想を織りあげたようなそのコスメの写真は|乙女《アン》の心を大層擽って、その煌めきに夢を膨らませては『いつか』の機会を願っていたのだけれど。
 まさか、こんな機会がやってくるなんて!

 大賑わいのカプリスマルシェは、あちらこちらに魅力的な品が並んでいる。
 魔鉱石を使った日用品や宝石の指輪のお店だって大層気にはなったけれど、今日のアンの目的はたったひとつ。
「こんにちは!」
 迷いなくロンゲル一家の店に辿り着いたアンの一際元気な挨拶に、ロンゲル一家は揃って柔い笑みを向ける。
「いらっしゃいませ、お嬢さん。宝石コスメのお店へようこそ。なにか気になるものはありますか?」
「えっとね、ご相談があるのだけれど……できたら、おんなのこたちだけで」
 そっと声を潜めたアンに、ロンゲル一家の三人は顔を見合わせる。
「女の子たちだけ? コスメなら僕も相談に乗ることも……」
「だめ! 殿方には聞かせられないわ」
 首を傾げる父親に、アンは一生懸命首を横に振る。いつもならば「ぜひ!」というところだけれど、今回ばかりはそうはいかない。アンが今日、ひとりで此処に来たのはちゃんと理由があるのだ。
「あらあら。あなた、そういうことですからちょっぴり離れていてくださいな。ここは私とマリに任せて」
 アンの真剣な様子を感じ取った母親が、笑顔で店主である夫の背を店の反対側に押していく。その間に娘のマリはこっそりと、お試しスペースへとアンを呼んだ。ここならば秘密の相談だってしやすいというわけだ。

「それで、ご相談というのは?」
 母親とマリ、そしてアンだけになったお試しスペースで、母親がちょっぴり声を潜めて話を切り出す。
 女の子が『女の子だけで内緒の相談がある』なんて言うのなら、それは一大事だと二人はよく知っている。そしてきっと、宝石コスメがそんな女性たちの勇気や希望になるかもしれないことだって、コスメをたくさん扱ってきた二人は知っているのだ。
「あのね……あたしね、十八さいになったらね! およめさんにしてもらいたいひとがいるの!」
「わぁ、本当!?」
 乙女のときめきが溢れるアンの言葉に、思わずマリが身を乗り出す。
 恋や結婚のお話は年頃の娘にとってそれは興味津々はお話だ。もっと聞かせてと言わんばかりのマリを押しとどめながら、母親が頷いて続きを促す。
「そのときにね。『綺麗だ』って、だいすきなひとにいちばんに言ってもらいたいの。だからね、あと三年。ながもちさせられるように、この子たちにおまじないをかけることはできる?」
 空色の瞳で、ロンゲル家のふたりを見上げる。
 ……お化粧品には使用期限があるのだと聞いた。けれどカプリスマルシェにひとりで来られる機会はそう何度もあるわけではない。『ひとりで』などもっと少ないだろう。
 ひとりじゃないと買えない、ひとりじゃないと出来ない買い物をする為に、アンはこのチャンスを絶対に逃すわけにはいかなかったのだ。

「もちろん、出来ますよ」
 そんなアンの真摯な様子に、ロンゲル家のふたりは微笑みながら頷いた。
 本来宝石コスメは製造から二年程度で使用期限がくる。一度でも開封してしまえば、消費期限は半年から一年程度。
 けれども未開封のままを保てるならば、五年まで使用期限を延ばすことが出来るという。そのいらえに、アンの頬が嬉しさで林檎色に染まった。
「ほんとに?!」
「ええ、本当です。どの宝石コスメにおまじないをかけましょうか。欲しいコスメや宝石は決まっていますか?」
「ええ、もう決めてきたの! あたしちゃあんと調べてきたのよ!」
 こっそり宝石辞典を調べて見つけた恋の石。淡いピンク色の、幸せの象徴のような薔薇石英。
 薔薇彫刻の透明ケースに眠るローズクォーツのリップスティックを、アンは迷わず選び取る。
「ローズクォーツの口紅はいまのあたしには背伸びしすぎかもしれないけれど……でも、きっとね」
 あと三年と口にすれば短いけれど、アンにとってはあまりに待ち長い。
 けれども、ちょっとだけ思い直したのだ。それだけ時間があるのなら、きっと。
「あと三年したら、この口紅が似合うすてきなレディになるわ。きっとよ! ね、それってとってもすてきでしょう?」
「ええ、とっても! じゃあこの口紅はそれまで秘密の御守りね」
 そう言って笑顔を満開に咲かせたアンに、ロンゲル家の二人も心からの同意を込めて頷いた。

御剣・峰


 カプリスマルシェは、魔鉱石の加工品ばかりを取り扱った市だ。
 魔力を多く含んだ鉱石は魔法を宿す道具に使われ、宝石品質の鉱石はそのまま装飾品やまじないの触媒などに加工されることも多い。
 大体の魔鉱石の加工品はその美しさから石自体の色や形をしっかりと残しながら、装飾という形で飾られる。故に、宝石細工の類だろうかと問うた御剣・峰 (h01206)に、魔鉱石でちょっとした魔法を施した日用品を多く扱う店の店主は「おおむねあっているよ」と頷いた。
「なんとも華やかで目を惹くものが多いな」
「そうだろうね。魔鉱石は内側に魔法を含んでいるから、自ら輝くような石が多いから」
 炎を宿すアルマンディンガーネットが施されたカップウォーマーを並べながら、店主はほら、とひとつ商品を見せてくれる。
 真っ赤なガーネットの内側に、淡く揺らめく魔法の光があった。角度を変えても変わらぬ輝きは確かな魔法の証だ。魔鉱石に熱源を供給されているカップウォーマーは、真白の素材に細やかな金細工とガーネットを飾った繊細で上品なデザインだ。
 あまり華美なものは好まない峰だが、こうして職人がひとつひとつ、丹精込めて作り上げたものに対する印象は少しばかり別だ。熟練の職人の手による丁寧な仕事は、人の目を惹く美しさに溢れていて好ましい。
「折角だ。何か使える食器でもあったら買っていくか」
 礼を言って店主に品を返すと、峰はゆるりと立ち上がる。襲撃にまでは幾ばくかの猶予もあると言っていた。ならばせっかく訪れたマルシェを楽しまないのも損だ。
 ここには魔鉱石を組み込んだ食器を売っている店もあるという。ならば普段使い出来るようなものが望ましい。
 あまり華美ではなく、かといってシンプル過ぎず。カプリスマルシェならではの品があれば最高だ。

 目的の品を求めてマルシェを漫ろ歩いていると、やがて琥珀の瞳に飛び込んできたのは他の出店よりもややこぢんまりとした店だった。
 店番は老夫婦がふたりだけ。品数も多くはなかったが、主に食器を取り扱っているらしい。ご主人が切子細工のグラスを丁寧に拭き上げる傍らで、奥方であろう夫人は今も筆を持ってカップに絵付けをしている姿が印象的だ。彼女の前に並ぶカップはどれも温かな植物や花の絵が描かれていた。
 引き寄せられるようその店に立ち寄った峰は、並ぶ手作りの食器たちのあたたかみに思わず笑みを浮かべて店主に問いかける。
「手の込んだものが多いようだな。これらは全てお二人が?」
「ああ、いらっしゃい。そうだよ。硝子職人の息子が作ったグラスと、陶磁器職人の娘が作ったカップに、私が魔鉱石の加工と切子細工を。妻が絵付けをしとります」
「では普段使い出来るコーヒーグラスなどはないだろうか? できればペアになっている物が欲しいんだが、あったらそれをくれ」
 なんとも剛毅な注文に、老夫婦はゆっくりと目蓋を瞬かせる。つまり峰は、良い物を見繕ってくれたならデザインなどは任せると言っているのだ。こざっぱりした彼女らしい注文だろう。
 老夫婦は少しばかり相談したあと。桐の箱に入れられた二つのグラスを差し出してみせる。
 まろく丸みを帯びたタンブラー型のコーヒーグラスは、美しい格子の切子細工が全く同じく施されている。二つの魔鉱石を内包した底は厚く、まるで硝子の台座にコーヒーグラスが鎮座しているようだ。
「こちらはどうでしょう。ガーネットで耐熱性を上げ、サファイアで硬度を増したコーヒーグラスです。落としても簡単には割れませんし、冷たいコーヒーだけでなく温かいコーヒーを淹れても使用できますよ」
「ほう、それはそれは」
 魔鉱石というものは、峰が思っていたよりも便利で色んな使い方が出来るものらしい。
 まるで双子のように並ぶグラスを受け取って、峰はまじまじと眺めてみる。傍目には違いもわからぬ程に精巧に刻んだ細工に、底の二つの石の色が映し出されていて、そのまま飾ったってきっとよいインテリアにもなるだろう。 
「……いいな。店主、これをくれ」
「ほっほ、お気に召していただけましたか」
「ああ、包んでくれるか?」
 このグラスがあれば、いつものコーヒーだってカフェのようなお洒落な姿になるだろう。そうしたらきっと、気分だって上がるはず。
 先に出来た楽しみに目を細めた峰に、老夫婦もまた笑みを深めて丁寧に包んだグラスの箱を差し出すのだった。

クラウス・イーザリー


 草木繁る自然公園を会場としたカプリスマルシェは、確かな賑わいを見せていた。
 ひとりで。友人同士。家族で、恋人と、仕事仲間と。店員と客のやりとりで賑わうマルシェを、クラウス・イーザリー(h05015)は密やかに警戒しながら歩む。
(今のところ、何も変わったことはないか)
 ぐるりと会場を一周してみたが、今この時は平和そのものだ。注意深く風の臭いを嗅いでみたが、新緑の爽やかな香りがするばかり。『腐った風』には当てはまりそうもない。
 警戒は続けながらも、クラウスは改めて店先に並ぶ品々に目を向ける。魔力を内包した加工品は機械ばかり、という世界に生きてきたクラウスにとっては魔法がかった装飾品や日用品、まじないの類は目にするのも新鮮だ。
 気になるままにあれこれ手に取ってみれば、店主が快く加工品について説明をしてくれる。魔力を含んで内側から煌めくような魔鉱石を備えた品々は、見ているだけでも楽しかった。

「……折角だし、宝石コスメも見てみよう」
 たくさんのマルシェの露店の中で、一番の賑わいを見せる店の前で立ち止まる。カプリスマルシェの目玉となりつつある、ロンゲル一家の宝石コスメの店だ。
 メイクや化粧品のことはわからないが、名物ならば一目見るのも一興と、丁度人のはけたタイミングを見計らって店先を覗く。その品々を目にして、思わずクラウスから感心の声が漏れた。
 そこに並ぶのは、宝石そのもので作り出した鮮やかな化粧品の数々。情熱的なガーネットのリップスティック。淡いアクアマリンのアイシャドウ。スペサルティンガーネットのチーク。
 その一つ一つの名前や用途がわからなくたって、星の海を詰め込んだように煌めく化粧品を素直に綺麗だと思った。
「いらっしゃいませ! 何かお求めですか?」
 煌めきに目を奪われていると、快活に声を掛けられた。赤茶けた髪を高く結わえた店員の少女――マリ・ロンゲルだ。
 否、自分は、と首を横に振ろうとして、ふと。クラウスは誕生日が近い友人のことを思い出す。
「贈り物を見繕って欲しいんだけど」
「はい、構いませんよ! どんな方に贈るんですか?」
「友人なんだが、多分化粧はあまりしたことが無い。色白で赤い瞳の女の子なんだけど」
 そんな子に似合いそうな宝石コスメはあるだろうかと問えば、僅かな思案の後。マリが手に取ったのは、淡く少しばかりシルキーなピンク色のリップスティック。
「これはスミソナイトのリップスティックです。お化粧をあんまりしたことがないなら、リップスティックは一番簡単にはじめられるお化粧だと思うの。色白な方ならピンクが似合うと思うんだけど、淡くて照り感の強いスミソナイトなら派手じゃなく可愛く出来ると思うんです」
 どうでしょうか、と差し出してみせたそれは儚くも淡く輝いていて。クラウスは柔く口角を上げて頷いてみせた。

「またいらしてくださいね~!」
 元気に手を振るマリと、深く頭を下げるロンゲル夫妻に軽く応えて、店を後にする。手には小さな贈り物ひとつ。カーネーションが咲くリップスティックケースに収められた宝石コスメをしっかりと鞄に仕舞いこんでから、クラウスは改めてマルシェを見渡す。
 皆、楽しそうだ。こんな平和な風景を壊されるわけにはいかない。ロンゲル一家も買い物を楽しむ人達も、みんな守りたいと。
 誰かを救う為の戦いを続ける傭兵の少年は、また警戒と決意を深めていった。

楊・雪花


 ふわり、ほわり。
 まるで綿雪のように真白な少女がカプリスマルシェの賑わいを渡り歩く。
 魔鉱石の魔法の揺らめきを、宝石の煌めきを映し反射する白銀の尾を上機嫌に揺らして、楊・雪花(h06053)は魔法具や装飾品が並ぶ軒先を珍し気に眺めていく。
 喰竜教団が現れると聞けば放っておけない。雪花自身もドラゴンプロトコルであるがゆえに教団の存在や襲撃は他人事ではないし、他のドラゴンプロトコルが犠牲になるのだって嫌だ。僅かにでも力になれればと、カプリスマルシェを訪れたのだが――。
「でもその前に……せっかくのマルシェですから見て回らないと勿体ないですよね♪」
 マルシェの賑わいに心が躍るのだって事実。警戒はもちろんするけれど、せっかく訪れた魔鉱石の市を楽しまないのは損だ。
 魔鉱石はどれも美しく、加工された魔鉱石が道具に魔法を掛けつつも華やかに彩る様子は見ているだけでも楽しい。けれど年頃の女の子である雪花の一番の目当ては、やはりロンゲル一家が製作する宝石コスメ!
「こんにちは!」
「いらっしゃいませー!」
 わくわくに胸を躍らせて軒を潜れば、赤茶けた髪を高く結い上げて店先に立つ娘が快活に出迎えてくれる。彼女が看板娘のマリ・ロンゲルなのだろう。店の中では夫婦と思しき二人も穏やかに笑って接客している。
 商品棚に目を向ければ、思わず「わあ」と声が零れた。
 装飾の可愛らしい透明なケースの中に収められているのは、どれも華やかな煌めきを持つ化粧品の数々だった。
 『宝石と変わらぬ煌めきを持つコスメ』の噂は、雪花も聞いたことがある。けれどひとつの家族がひとつひとつ丁寧に作っているこのコスメは、未だカプリスマルシェだけで販売される限定品のようなもの。ゆえに実際に目にするのは初めてで。
 画面越しに見たそれよりも、陽の光を受けた本物はもっとずっと美しく見えた。細かな粉質のパウダーチークは薄紅のローズクォーツが可愛らしい。隣に並ぶ元気なオレンジサンストーンのそれは、頬に乗せれば健康的で温もりのある血色感と光沢を宿してくれるだろう。
 様々なカラーリングが並ぶネイルポリッシュは宝石をそのまま溶かし込んだようで、爪先を宝石で彩るなんて考えたら心も踊る。
 煌めく宝石コスメたちはどれも素敵で、手を伸ばしてみたくなるけれど。
 伸ばしかけた手を引っ込めて困ったように目線を沈ませる雪花に気が付いたマリは、そっと雪花に歩み寄る。
「お客さん、どうしました?」
「えっと……実は私、お化粧ってあまりしたことがなくてどれが自分に合うとかも分からないんですよね……」
 なにかアドバイスが欲しいのだと。正直にそう告げると、マリの顔がぱあっと華やいだ。
「もちろんです! お客さんは真っ白で綺麗だから何でも似合うと思うんだけど……そうね、それなら」
 雪花の顔立ちを両手の親指と人差し指で作ったフレームで覗き込んでから、迷いなくひとつの宝石コスメを手に取った。
「お化粧に慣れなくても使いやすいのって、やっぱりリップスティックかな。手軽だし塗るのもそんなにテクニック必要ないですから。なのであたしのおすすめは、このロードクロサイトのリップスティック!」
 はい、と手渡されたそれは、やわらかくも透明感のあるピンク色のリップスティックだ。実際に塗ってみたならば肌馴染みのいいオレンジがかったピンク色が唇に薔薇色を灯してくれるのだという。
「わぁ、可愛い!」
「でしょう! お客さん綿雪みたいに真っ白だから、あんまり派手な色よりは淡い色でお化粧した方が可愛いかなって思ったんです。良かったらお試ししてみませんか?」
「いいんですか?」
「もちろん! ささ、どうぞこちらへ!」
 お試しスペースの椅子に雪花を誘い、マリはリップをブラシに取ると慣れた様子で唇に乗せる。
 鏡を勧めながら、「宝石もお化粧も、ひとを勇気づけたり楽しくさせたりする魔法なんですよ」と楽しそうに笑うから。つられるように、雪花も薔薇宝石に染まる唇に柔い弧を描くのだった。

アンジュ・ペティーユ


 賑わいを見せるカプリスマルシェの店先を流し見ながら、手元のパンフレットに目を落とす。
 アンジュ・ペティーユ(h07189)のお目当ては勿論、このマルシェの目玉となりつつある宝石コスメだ。
 アンジュは他者の空想を宝石にし、その欠片を集める身。『宝石コスメ』とやらは手に入れておきたい気持ちだ。
 だってその宝石コスメはきっと、『宝石をそのまま化粧品に出来たら』なんて空想からはじまった試みに違いないのだ。ならば宝石コスメはまさしく『空想から生まれた宝石』なのだろうから。
 そんなの、集めたいに決まってる!

「うっわぁ。思ったよりいっぱいあるなぁ」
 けれども実際に店を覗いてみたならば、居並ぶコスメの数々に目を瞬かせる。
 透明なケースに入れられた宝石コスメたちは、まるでジュエリーケースに並ぶ宝石そのものだ。
 深い青紫色のアイオライトの煌めきは夜のとばりの色に似て。ターコイズの目が覚めるような鮮やかな青緑色は、きっと爪に乗せたら可愛らしいに違いない。
「こっちのガーネットも捨てがたい……というかガーネットいっぱいある」
 一口にガーネットと言っても、ガーネットという石は実に多種多様だ。真紅のロードライト。深い深い赤のパイロープ。ベリーのようなマラヤ。果汁滴るオレンジのようなスペサルティン。高い屈折率を持つ緑色のデマントイド。清涼感のあるミントグリーン。
 ガーネットを見ているだけでも随分迷ってしまえるようなラインナップに、アンジュは小さく唸り声を上げた。
 ……これは、店員のお薦めを聞くのが一番かもしれない。
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ! どうなさいました?」
 声をかければすぐに快活な少女の声が返る。赤茶けた髪を高く結い上げた竜人の店員の名札には、『マリ』と書かれている。
「普段使い用の宝石コスメが欲しいんだけど、どれも綺麗で迷っちゃって。オススメを聞いても良いですか?」
「ふふ、綺麗って言ってくれてありがとうございます! そうですね、欲しいコスメの種類って決まってたりします?」
 両親の仕事を褒められて、マリは嬉しそうに頬を染める。ならばと張り切る様子を微笑ましく思いながら、アンジュは鷹揚に頷いた。
「瞼を彩るとっておきが欲しくて。でもどれも好きな色で悩んでしまうの」
「わかります、あたしも自分で使う時はいつも悩んじゃう。じゃあお客様の好きな色って何ですか?」
「好きな色は、そうね。紫にピンク。あ、でもパステル系の黄色も好きだよ」
「紫にピンク、黄色……あ! でしたら丁度ぴったりのお色がありますよ!」
 アンジュが挙げた色を聞いて、ぴんとマリの竜尾が上向いた。アイシャドウの棚から迷わず一つを選び出すと、硝子の蓋を開けてアンジュに差し出してみせる。
「どうぞ、アメトリンのアイシャドウです」
 それは透明感のある淡い紫と黄色の二色のアイシャドウだ。
アメトリンは一つの結晶の中にアメジストとシトリンが生成することによってバイカラーになる宝石だ。その神秘的な色合いを見事閉じ込めた二色のアイシャドウをブラシでなぞるように取って、マリは自らの手の甲に引いてみせる。
「ほら、ひと撫でで綺麗にグラデーションしてくれるでしょう。ふたつの色が混ざり合った中間色はちょっぴりピンクっぽくて、これならお客様の好きな色を全部乗せられちゃう! どうでしょう!」
「わぁ!」
 ぱあっとアンジュの笑みが華やいだ。好きな色ならばどれでもきっととっておきになるだろうな、とぼんやり思っていたけれど。まさか、好きな色を全部叶えてくれる宝石コスメがあるなんて!
「とっておきをありがとう! これでお仕事も頑張れるきがするよ!」
 素直な謝辞を口にすれば、マリも嬉しそうに笑みを深めて頷く。大切に両手で包んだとっておきのアメトリンのアイシャドウは、陽の光を浴びて鮮やかに煌めいていた。

如月・縁


 カプリスマルシェは少々限定的な市だ。
 他の商品はないかわりに、ダンジョン産の魔鉱石の加工品という点で言えばこのマルシェはそこそこ高い知名度を持っている。
 魔力を含んだ鉱石は内で魔法が光を持って揺らめき、自ら輝くように煌めく。宝石品質や魔力の高いものはそのまま装飾品やまじないの品へ。それ以外は便利な魔法や効果を発現する魔法具へと加工される。
 その中でも、魔鉱石そのものを化粧品へと昇華させた宝石コスメは、珍しさも相まって近年少しずつ知名度を上げてきている。娘のマリ・ロンゲルがSNSや動画サイトなどで小さくも一生懸命に宣伝した効果が、今出てきているのだろう。
 そしてそんな宝石コスメに胸をときめかせる女性が、ここにひとり。
「魔鉱石の化粧品……! なんて女心をくすぐる商品でしょう」
 黎明色の長い髪を風に揺らす如月・縁(h06356)は、上機嫌にマルシェを往く。
 宝石も化粧品も、どちらもその美しさや楽しさでひとの心を掴むもの。それが一つに融合したとあらば、女心は存分にくすぐられてしまう。
 思わず、任務以上に張り切ってしまうかもしれない程に!

 目当ての店はすぐに見つかった。ロンゲル一家の宝石コスメの店はそれを買い求める客の楽し気な声で溢れているからだ。
 あれも綺麗、これも可愛い、試しに塗ってみてもいいか、なんて声が溢れる店は、カプリスマルシェではひとつしかありはしない。
 丁度人がはけたタイミングを見計らって店先を覗けば、そこはまるで宝石箱と錯覚するような煌めきに溢れていた。
 緑がかった黄色のスフェーンのアイシャドウは、光を存分に含んだ煌めきを反射している。シャンパンカラーのインペリアルトパーズのリップグロスは水に濡れたような艶めきを持つウォーターティント。陽の光を浴びる宝石コスメたちはどれも美しくて目移りしてしまう。
 一度端から端までをざっと流し見た縁は、商品を並べ直す赤茶けた髪の竜人の娘に声を掛けた。
「すみません。化粧品を買いたいのだけど、私の肌に合う物はあるかしら」
「いらっしゃいませ! お客さんに合うコスメ、ですか?」
 快活に出迎えた少女――マリ・ロンゲルは縁の言葉に首を傾げる。
「ええ、|こんな《ターコイズ》色の目に加えて、髪色が変わってしまうの。自分では似合う色が見つけられなくて、ぜひ目利きしてほしいわ」
「わぁ、朝焼けの空みたいな綺麗な髪ですね! 瞳の色も素敵、海のよう。そうですね、あたしのおすすめでよかったら……」
 縁の長い髪と海のような瞳をまじまじと見つめ、マリは顎に手を当て一思案。夜が明けるように色が変わる長い髪。海の色。色が揺らめく、ならば――。
「あ、いいものがひとつあります!」
 ぴんと閃いたマリが、アイシャドウパレットの宝石コスメをひとつ手に取った。透明ケースに収められたその宝石は――。
「ウォーターオパールのアイシャドウです。透明に見えますけど、ほら! 光を当てるといろんな色が浮かび上がってまるで光が遊んでいるみたいでしょう? そのまま使うもよし、ラメにしてちょんと乗せるのもきっと可愛いですよ!」
 髪色が光や感情で遊ぶのなら、コスメの色だって光で遊んでもいい。
 ウォーターオパールならば水に親和性の高い宝石だ。きっとのその瞳の色にも似合うだろうと、マリは鏡を持ってくる。許可を得られたならすぐにでも試し塗りを勧める勢いだ。
 それにこの宝石コスメは品質のいい魔鉱石を使っているからまじないにも使えるのだと聞いて、縁は目を丸くした。
 
 すっかり楽しくなってしまったマリが、「せっかくだからお客様にオススメしたいリップグロスもあるんです!」と背を向けた瞬間を狙い、縁は透光の花弁を放つ。
 風にそよぐ花弁は、危険が迫るのならきっとすぐに教えてくれることだろう。不穏な風だって、それに揺蕩う花弁はすぐに気づくはず。
 それまではまだ、この平和な買い物を楽しもうか。

捧・あいか


「ドラゴンファンタジーはいつもすごく賑やかね!」
 買い物で賑わうカプリスマルシェを一望して、捧・あいか(h03017)は笑みを咲かせる。
 √ドラゴンファンタジーは『活気』に満ちている世界だ。ダンジョンやモンスターという脅威に晒されてはいるものの、人々はそれを怖れながらも自らの糧とすることを選び取れるだけの強さがあった。
 強さは活力を生み、活力は活気を生む。そのお陰かどうかは定かではないものの、ドラゴンファンタジーにはとにかく祭りやマルシェといった催しものも多い。
 ここカプリスマルシェでも装飾品などの定番の商品もあれば、魔鉱石の特性を存分に利用した魔法具やまじないの道具のような珍しいものも並んでいる。声を張り上げて客を呼び込む商人の声も、吟味しながら選ぶ者たちの声も全てが活気、即ち『人の生きる力』で満ちていて、それがあいかにとってはとても心地が良かった。

 店先に並ぶ品々は、見ているだけでも楽しい。
 こっちのアイオライトのキャンドルホルダーは、キャンドルの光と相まって集中力を高めてくれるらしい。向こうの花翡翠を飾ったシュガーポットは、中の砂糖に花の香りを移してくれるのだとか!
 どれもこれも珍しくて楽しくて、マルシェを漫ろ歩くだけでも十分に楽しめる。けれど、そう。あいかにはちゃんとお目当ての品があって。
「そうそう! 宝石コスメ! どういう風なのかしら!」
 このマルシェの目玉になりつつあるお化粧品。『宝石と変わらぬ輝きのコスメ』と聞いたならば、ポップスタアであり何より年頃の娘であるならば気にならぬ方が嘘というもの。
 宝石のようなコスメでお洒落をしてステージに立てば、きっとあいかをより華やかにしてくれるに違いない。
「すいません、おすすめのコスメってあるかしら!」
 跳ねるような足取りでロンゲル一家の店に飛び込むと、居並ぶたくさんの宝石コスメたちに目を輝かせながら店員に声を掛ける。応じたのは赤茶けた髪を高く結い上げた竜人の娘――マリ・ロンゲルだ。
「いらっしゃいませ! お客様にお似合いのコスメですか?」
「ええ! それにお友達にも紹介してみたくて、使い方のコツとか、おすすめメイクアップも教えてもらえたら!」
「わぁ、喜んで! でしたらお客様、こちらにお座りになって!」
 お試しスペースの椅子を引いて、マリは嬉し気にあいかの顔立ちを両の親指と人差し指で作ったフレームから覗いた。あいかの雰囲気、柔らかな髪色、青空みたいな瞳。それらに似合うコスメを商品棚から選ぶマリの竜尾は上機嫌に揺れる。
「宝石コスメはつけすぎないのがコツ! 薄付きで十分発色してくれるし、どれも宝石のように淡い輝きを持ってますから」
「リップは艶々ぷるぷるになるグロスがいいかな。アヤナスピネルのはっきりしたピンク色が似合いそう」
「パウダーチークはピンクコーラルはどうかしら。大きなブラシでじゅわっと滲むように乗せるの可愛いですよ」
「アイシャドウは……迷っちゃう! 宝石箱のパレットはいかが? ダイアスポアのピンクブラウンを中心にブラウン系で纏めてちょっぴり目元に大人っぽさをプラスするんです」
 おすすめをしてもいい。しかも友人にも紹介すると聞いて、マリのやる気が大爆発。矢継ぎ早に次々コスメを持ってきては紹介するものだから、はじめはあいかも圧倒されていたけれど。なんだか段々楽しくなってきて、「あれはどうかしら」「これってどうなの?」なんて積極さが出てきたならもう乙女たちは止まらない。
 色々と試し終えて満足する頃には、すっかりあいかのフルメイクが出来上がっていたのだった。

「ふう、楽しかった! ……でも、楽しんでばかりもいられないわね」
 大満足のお買い物を終えて、マリたちロンゲル一家と別れたあと。人気の少ない木陰に身を隠したあいかは、オルカの幽霊たちを呼ぶ。
 この場所に訪れる不穏な陰。雑踏から隠れるよう、人目を避ける陰の足音。マルシェの外で、楽しんでいない音を。
「歌で響かせて」
 空に放ったオルカたちが人には聞こえぬ歌をうたう。遠い歌声は重なり、響き合って共鳴して。
 あいかはそっと、その歌に耳を傾けた。

ニル・エルサリス


「腐った風。喰竜教団の襲撃に備えて警戒、か」
 ニル・エルサリス(h00921)の唇から、小さく溜息が零れる。
 星詠みが予知した事件は広く被害を及ぼす可能性があるとされているものだ。喰竜教団の狙いはドラゴンプロトコルのみだが、此度は明らかに無差別性がある。
 被害が出るとわかっていて避難を促さないのがもどかしい。けれども星詠みから外れてしまえばその後の敵の行動の予測がつかなくなってしまい、どうなるかはもうわからないのも事実。
「なら、少しでも被害を軽くする為にも襲撃者の目星を出来る限り付けておきたいところね」
 迅速な対応は入念な下準備によってなされるものだ。客に扮してマルシェを巡回し、人の流れや道順、配置。その上で人々の表情や不審な仕草をしている者がいないかをさりげなく警邏することで得られる情報は多いはず。
 決してあからさまではなく、悪目立ちして台無しになどしないように。それを自らに言い聞かせると、ニルは賑わいを見せるカプリスマルシェへと足を踏み出した。

 淡いひかりを放つムーンストーンのランプ。魔鉱石のさざれ石を集めた小瓶の御守り。炎を宿す武器飾りは、刃に火を灯してくれるのだという。
 魔法を抱く魔鉱石ならではの加工品は、確かに見ているだけでも珍しい。物珍しさに感嘆の吐息を零してばかりの者もいれば、目当てのものがあるのか商人と値段の交渉をする者もいる。
 そのひとつひとつに耳を欹てながら、ニルは露店を流し見て歩く客を演じて歩く。順路を漫ろ歩き、怪しいかもしれないと直感が囁いた者がいる店に足を止め、さりげなく商品を選ぶふりをしながら密やかな会話を盗み聞く。
(今のところは特に怪しい会話もなし……アタシに反応するやつもいない)
 一通りカプリスマルシェを巡ったところで、ひとまずのところをニルはそう結論付けた。
 基本的には買い物や商談を楽しむ者ばかり。喰竜教団が襲撃するならば、彼らのターゲットであろうドラゴンプロトコルのニルに特殊な反応を示す者が居ないかとも警戒していたが、今のところはそんな者もいなかった。
 ひとまずのところ今すぐに脅威があるわけではないと判断しても良さそうだ。警戒は続けながらも、一旦肩の力を抜いていいのかもしれない。

 であるならば、最後に確認すべきはドラゴンプロトコルであるロンゲル一家の店だろう。
 このマルシェの名物となりつつある宝石コスメの店の前は人が絶えず、故にこそ邪なものが紛れるのは簡単かもしれない。近くにいて損はあるまい――が。
「参ったわね……アタシ、オシャレ全般に疎いんだったわ」
 コスメと言われてもいまいちぴんと来ない。とりあえず傍に寄ってみたものの、鮮やかで綺麗なのはわかるが、シェーディングにハイライト、チークと言われても何がなにやら。
 とは言え、折角来たのに手ぶらで帰るのもちょっぴり寂しいのも事実。自分では選べなくても、記念に何か見繕ってもらうくらいはしたっていいかもしれない。
「すいません。宝石コスメが欲しいんだけど、オススメを見繕ってもらうことってできるかしら」
「いらっしゃいませ! もちろんですよ、喜んで!」
 ご希望の品はありますか、と快活にいらえたのは赤茶けた髪を高く結い上げた竜人の娘。この店の看板娘、マリ・ロンゲルだ。宣伝のため、本人も宝石コスメを使って化粧をしているのだろう。その華やかなかんばせにニルは目を瞬かせ……、やがてちょっぴりバツが悪そうに目を背ける。
「実をいうとオシャレには疎くて……。何を選んだらいいか」
「ふふ、でしたらお任せください! お客様はお肌も綺麗ですから、フェイスパウダーで整えたベースに単色のアイシャドウとリップだけでもきっと可愛いですよ!」
 おすすめを選ぶことに慣れているのだろう。ひとつ、ふたつ、みっつ。数多と並ぶ宝石コスメから迷わず三種を選び取ると、トレイに乗せてニルに差し出してみせる。
「これは真珠のフェイスパウダー、こっちはアクアマリンの単色アイシャドウ。それからピンクトルマリンのリップスティックです。どれもさっと塗るだけで、あまりテクニックもいりません。よかったらお試ししていかれますか?」
「えっ」
 おためし。考えていなかった。
 トレイに並ぶ宝石コスメたちは確かに宝石をそのままの光沢があって美しくて、けれどもそれを肌に乗せるとなると……どうやって塗ってみたらいいのやら。
「……やり方も教えてくれます?」
「もちろんですよ!」
 控えめながらもおずおずと返る是に、マリは笑みを深めてニルをお試しスペースの鏡の前に座らせる。
 そうして、パウダーの付け方やアイシャドウの乗せ方をわかりやすく解説しながら、ニルを華やかに彩っていくのだった。

ウイル・カサブランカ


 内に魔力を宿す宝石、魔鉱石。内側から魔力の淡い光を発するそれらは、今日の晴天を受けて内からも外からも煌めいてる。
 風で揺れるたびに瞬くようなそれらはまるで星のようで、ウイル・カサブランカ(h07159)は眩しそうに目を細めた。
 煌びやかな魔鉱石の加工品は、それを埋め込むに相応しい細やかな細工のものが多く、見目にも華やかでどれも目移りしてしまう。
 多分、元々。|宝石《いし》は好きだった気がする。過去の記憶がごっそりと抜け落ちているウイルは、自らの好むものすら未だ曖昧だ。
 まっさらな記憶で見知らぬ土地に立ち、途方に暮れた。けれども忘れてしまったものは致し方なしと前ばかりを向いて歩き始めたこの世界で、時折こうして過去の欠片に触れるようなことがある。結局思い出せはしないのだけれど、『自分の欠片』に触れるようなこういう発見は嫌いではなかった。

 ともあれ、目下の問題は思い出せない過去の記憶の方ではなく。
「うむ、困ったな」
 カプリスマルシェで一番の賑わいを見せる宝石コスメの店先で、棚に整然と並ぶ化粧品たちを前にウイルは腕組みをする。
 折角だからと立ち寄ったはいいが、ウイルはお洒落とは少々縁遠い。唯一の洒落っ気といえば白虹のような銀髪の毛先を淡紅に染めるくらい。それも狩りの時の返り血対策という始末。
 自らを美しく、或いは可愛らしく飾る為というよりは、戦化粧の分類になろうか。
 この宝石コスメたちは、そういったまじないにも使えるとのことだけれど。今ここでは、|本来の用途《・・・・・》で買うべきなのだろう。
 視線を向ければ、丁度品出しをしている竜人の娘がいる。上機嫌に鼻歌を歌う横顔はきらきらと輝いていて、きっと彼女もこの宝石コスメを使っているのだろう。彼女がきっと、この店の看板娘だ。名は確か、マリと言ったか。
 彼女に素直に教えを請おう。年長者の矜持など腹の足しにもならない。
「すまない、ひとつ口紅を選んでは貰えないだろうか」
「いらっしゃいませ、あたしで良ければ喜んで! 普段使い用ですか?」
「いや、めかし込む時用で」
「えっ!」
 即断即決にて問いかければすぐさま快活な応えが返る。『めかし込む時用』と聞いてそのアーモンドのような瞳を少女のように輝かせるマリに、乙女的な発想に至ったのだと気づいたウイルは小さく笑って首を横に振った。
「予定はないが、まあ気持ちだ。今よりももっと命を惜しむよう、失くしたくない『とっておき』が手元に欲しい」
「なるほど……命綱、みたいなものですかね」
 理由としては少し重いだろうか。けれどもすぐさま商品棚に並ぶ口紅をじいっと見つめて選び始める姿は、流石プロと言うべきだろうか。真剣に迷う眼差しは、ウイルにとっても何だか好ましい。
「ちなみに琥珀が好きだ。手数をかけて申し訳ないが、何かの参考になれば」
「琥珀? 琥珀、琥珀……あ、それなら『とっておき』がありますよ!」
 悪びれず楽し気に笑うウイルがくれた助言に、マリの竜尾がぴんと上向いた。すぐさま手を伸ばしたのは少しばかりの『特別』が並ぶ棚だ。そこから月桂樹の冠の意匠が施されたリップスティックを選んで、ウイルの前に差し出して見せる。
 蓋を開けてくるりと回すと、ケースから顔を覗かせたのは、赤。
「これはチェリーアンバーのリップスティックです。チェリーアンバーは赤みの強い琥珀のことで、ちょっと珍しいんですけど。ほら、深みと温かみがある赤色でしょう?」
 琥珀と言えば黄色や褐色のイメージが強いけれども、実は赤や緑色も存在している。通常の琥珀よりもやや希少性のあるチェリーアンバーは、仕入れの時に『絶対にリップがいい』と言ってマリが譲らなかったという。
 柔らかくあたたかい赤色は、きっとあなたの白虹のような髪にもよく映えるだろうと、胸を張って差し出すから。
 若者の眩しい笑顔につられるように、笑みを深めてウイルも頷いた。

「それにしても父上も母上も腕利きだな。マリも将来は職人を目指すのだろうか」
「はい! あたし、お父さんとお母さんが作ったこの宝石コスメも、それを選んでるお客様の顔を見るのも大好きなんです! だから今ね、ちょっとずつ修行させてもらってるんですよ」
 包んだ宝石コスメを受け取りつつ問えば、マリは力強く頷いた。今日一番に輝いた瞳が、きっと心からの願いなんだろうと物語る。
(その未来は必ず守らないとな)
 胸の内だけでそっと呟く。その為にこそ、今。自分は此処に居るのだ。

花七五三・椿斬


「わー! 此処が、カプリスマルシェ?」
 異世界の扉を潜った先。晴天の陽光を反射して煌めく市へと足を踏み入れた花七五三・椿斬(h06995)は、冴月の瞳を瞬かせた。
 あちらこちらで石がきらきらと瞬いている。店先を覗いては楽し気に品を選ぶ客たちと、客との交流を楽しみながら商品を勧める店主たち。その楽し気な声音と笑顔は鉱石の煌めきに負けない程で、わくわくが胸の中で大きく膨らんでいくのがわかる。
 肩に留まる紅椿飾ったシマエナガ――相棒の六花と顔を見合わせたら、そのわくわくはもう弾けて止まらないから。
「行こう、六花!」
 花天狗の少年は、思いのままに駆け出した。

 シラーの青い光が月光に似たムーンストーンのテーブルランプ。モスアゲートを飾った花瓶。夜を閉じ込めたラピスラズリの宝石箱。
 魔力を含んだ鉱石たちを加工して作った品々は、見目もその効果にも椿斬は興味津々だ。興味の赴くままに足を運び、店先を覗いては珍しい品に驚いて、店主の説明に目を輝かせる。
「僕、こういう場所も好きなんだ。賑やかで楽しくてさ」
 弾む足取りでマルシェを歩みながら、椿斬は相棒に語り掛ける。
 マルシェには人々の活気がある。ひとの営みの中でもこういった賑わいに身を置くことは好きだ。人々の笑顔がきらきらしていて、温かくて。
 玄冬の域にてひとり住まう少年は、その温かさがとても心地がよかった。

 さて、次はどの店に往こうかと視線を巡らせていると、不意に肩を居場所にしていた六花が飛び立った。
 慌てて追いかけてみると、相棒はとある装飾品の店へと舞い降りていく。そうして一声、椿斬を呼んだ。
「六花はこれがいいの?」
 追いついた椿斬を待っていたかのように、六花はリボンを嘴に銜えて見せる。その先には青い雪の結晶のような小さな飾り。
 銜えて離さぬ様子から、それが気に入ったのだろう。欲しいのかと問えば勿論とばかりに小さく跳ねるから、唱える否なんてありやしない。
 早速購入して六花の足に結んであげると、六花は嬉しそうに跳ね回る。
「あは! とっても可愛いや」
 それがあんまりにも可愛らしかったから、椿斬もまた楽しげに笑みを深めた。

 椿斬の肩に戻った六花は、つん、と彼を突いてみる。『君は?』と問わんとしているのを感じ取り、椿斬はくるりと視線を巡らせた。
「僕は……そうだなぁ。宝石のお化粧品、かな」
 果たして視線の先には、ロンゲル一家の宝石コスメの店がある。歩み寄れば、宝石そのものと見紛うばかりの化粧品たちが椿斬と六花を出迎えた。
「きらきらした大地からの贈り物をぎゅっと閉じ込めたみたい。僕、紅が欲しいな」
 欲しい色ならば決まっている。――けれど。
 居並ぶ宝石の化粧品は数多とある。加えて一口に『赤』と言っても、淡いものから鮮やかなもの、暗い赤まで様々だ。
 商品棚を彷徨う目線が、辿り着く場所を定められずに迷子になる。やがて困り果てて眉を下げる椿斬の小さな溜息を、聞き留めた者がいた。
「お客様、なにかあたしにお手伝いできることはありますか?」
 年若い娘の声に顔をあげれば、赤茶けた長い髪が目に入る。エプロンを身に着け、ゆらゆらと竜尾を揺らす娘の胸元には、『Mari』と書かれたネームプレートが光っている。
 明るい笑顔を向けるマリに、六花が椿斬の頬を小さな頭でもふ、と押す。相棒の後押しに椿斬は意を決して迷いを言葉にする。
「ねぇ、僕に似合うのはあるかな? 赤がいいんだけど、赤にも色んな種類があって……」
 一緒に選んではくれないだろうか、と。眉を下げる椿斬に、マリは敢えて強く自分の胸を拳で叩いた。
「まかせて! お客様はきっと鮮やかな赤が映えますよ。アイシャドウがいいかな……不透明もかっこいいけど、透明感のある赤がきっといいですね。定番ですとルビー、ルベライト、レッドスピネル……ああでもやっぱり、綺麗な赤と言ったらガーネットも外せませんね!」
 マリはあっという間に赤を選び取ると、椿斬の前に並べていく。どれも鮮やかな赤だ。その中でも一際椿斬の目を惹いたのは、真紅と呼ぶに相応しいひとつ。
「あ、これ……いいね!」
「それはアルマンディンガーネットですね! 魔除けの効果もあるんですよ」
 椿斬が手にしたのは真紅のアイシャドウ。静謐の玄冬に降る雪のような椿斬の目蓋の上に一筋引いたなら、雪景色の中で咲く真っ赤な椿のようにきっと鮮烈な印象を残すだろう。
「ありがとう、僕の宝物が増えたよ!」
 大好きな色を見つけられてほっと安堵したような、やわい笑顔で紅を抱き締めた椿斬に、マリも同じだけ嬉しそうに笑みを返す。
 宝石コスメがお客様を笑顔にしてくれること。それが何より嬉しいと告げながら。

ベルナデッタ・ドラクロワ
廻里・りり


 カプリスマルシェは魔鉱石を使った加工品ばかりが並ぶ市。
 このマルシェにある鉱石はどれも内側から淡く魔力の光を揺らめかせ、時に美しい装飾品やまじないの品。時に便利な魔法を宿す道具の動力として使われている。
 インクにきらきらの光を宿すオパールの万年筆や、愛らしいシトリンのネックレスなど、店先に居並ぶ心擽る品はたくさんあって、そのどれもが気になるけれど。
「今日は宝石コスメが見たくって!」
「まあ」
 意気揚々とマルシェを歩く廻里・りり(綴・h01760)に、傍らのベルナデッタ・ドラクロワ(h03161)はヴェールに覆われぬ瞳を丸くする。
「コスメに、興味があるの。りりが」
「そうです!」
「大きくなったのね。お母さんのリップをオモチャにして遊んで怒られていた、あのりりが……」
「なんでちっちゃい頃のこと覚えてるんですか!?」
 頬に手を当てて感心するベルナデッタに、りりは大慌て。りりが可愛らしい少女の頃の『女の子らしい背伸び』は、今から考えてもざっと十年以上前の出来事のはず。まさかそんなことを覚えているなんて思わず、りりは頬を恥ずかしさに染める。
「きれいなクレヨンだなって思ってらくがきに使っちゃったんですよね……すっごくおこられたのを覚えてます……」
「ラクガキのお姫様のドレスも悪くなかったはずだけど、今日はあなたのためのものを探しましょうね」
 懐かしむように目を細めて柔く微笑みながら、ベルナデッタはりりの手を取る。
 あの時、母のルージュや可愛らしいピンクのリップは艶やかで、ドレスを描けば本物のお姫様のそれのようにに描けたものだ。母親にはとっても怒られたけれど、あの艶やかさと滑らかさは今も忘れられないでいる。
 母親の化粧品というものは、幼い少女にとって『大人』というものの憧れや象徴だ。そうして時は経ち、りりも大人と言われるような年齢になった。そろそろあの時の憧れに手を伸ばす時だ。
 その店は、そんな憧れへの一歩を叶えてくれる店だから。

「わぁ」「まあ」
 宝石コスメの店先は、まるで宝石箱を開いて見せたかのようだった。宝石品質の魔鉱石に錬金術と特殊な加工を施して作られたというコスメたちは、宝石そのものと変わらない色と透明感、そして存在感を示している。
 ロードライトガーネットのリップスティックは鮮やかな赤紫色。唇に乗せればきっと目線を奪うだろう。
 オレンジサンストーンのパウダーは、目蓋に引いても頬に乗せてもきっと可愛らしい元気な印象を与えてくれる。
 存在しない色はないと言われる程にカラーが豊富なトルマリンのネイルポリッシュたちは、揃えて買ったならきっと毎日色を選ぶのが楽しくなる。
 どれもこれも見ているだけでも楽しい。けれども、ひとつを選ぶとなるとまた別の話なわけで。
 彷徨う目線は選びきれぬがゆえのもの。思えばりりは今まであんまりコスメを買ったことがなかった。――となれば、せっかくだもの。
「すいませーん!」
「はーい、いらっしゃいませー!」
 声を掛ければすぐに振り向いてくれたのは、年若いドラゴンプロトコルの娘。エプロンのネームプレートには『Mari』と書かれている。この店の看板娘だ。
「ちょっと迷ってしまっていて。よかったら店員さんのおすすめを聞いてみたいです!」
「わぁ、喜んで! 欲しいコスメって決まっていたりしますか?」
「アイシャドウが気になるんですけど、どんな色が似合うでしょうか」
 首を傾げるりりを、ベルナデッタは微笑みながら見守っている。マリはアイシャドウの棚をじっと見たあと。柔い笑みを浮かべて、改めてりりに向き直った。
「お客様は、そのアイシャドウを使ってどんな自分になりたいですか?」
「どんな自分?」
「ええ。コスメはなりたい自分に変身できるアイテムです。自分の為に明日可愛くなりたいとか、誰かの為に綺麗になりたいとか。お化粧はそういう夢や願いを叶えてくれます。そうして楽しい気持ちになったり、勇気を貰ったりするんですよ」
 だから教えてほしいと、マリは請う。りりのなりたい自分。なりたいイメージ。どんな願いだって笑ったりなんかしない。それを叶えるのが自分たちの役目なのだと真摯に告げるマリに、りりはそっと傍らのベルナデッタを見る。そうしたら、彼女もまた微笑んで頷いてくれるから。
「それじゃあ……わたし、大人っぽくなりたいです……!」
 勇気を出して背伸びの願いを口にしたなら、マリはとびっきりの笑顔で「任せて!」と胸を叩いた。りりの髪色と瞳の色をじっと見てから、ひょいひょいと選んだのはいつつのアイシャドウ。それをひとつひとつ、専用のケースに嵌めてりりに差し出した。
「どうせなら欲張ってパレットにしてみました。ローズクォーツの淡いピンク、ストロベリークォーツの濃い目のピンク。インペリアルトパーズのシェリーのようなオレンジピンク。締め色にブラウンダイヤ。そしてパールのラメです」
 コンパクトの中で花の形になった五つの宝石たち。試してみますか、と問われれば断る理由なんてなくて。ブラシで順に目蓋に乗せていけば――ほら。
「わぁっいつもよりおとなっぽくなりました!」
 鏡を前にしたりりが頬を上気させた。甘やかなピンク系で可愛らしく彩った目蓋。けれどもブラウンできっちり締めることで、大人らしい上品さが生まれている。
「マリの見立ては完璧ね、いつもより大人っぽくて華やかに見えるわ」
 共に鏡を覗き込むベルナデッタも、太鼓判を押して頷いてくれる。このパレットがあれば、可愛らしさも大人らしさも思いのままだ。
 ベルナデッタの言葉に何度も頷いたりりは、「この色をください!」と花のコンパクトを握り締めた。

「ベルちゃんはほしいものありますか?」
「ワタシ?」
 会計を済ませたりりに問われ、ベルナデッタは宝石コスメたちを見渡しながら思案する。アイシャドウもリップも悪くないけれど、この中で何か選ぶとするならば――。
「ワタシは……そうね。ネイルを探しましょう。爪先を飾るのは好きよ」
「ネイル? わたしもしてみたいです!」
 宝石そのものを使った色とりどりのネイルポリッシュに目を留めたならば、すかさず興味津々のりりも身を乗り出した。
「りりも一緒にやりたいの?」
「はい! 手元を見たときにかわいいとテンションがあがるって聞いたことがありますし、その日の気分で変えるのってたのしそうですよね!」
 そう言って、りりは無邪気な笑顔を向ける。そのかんばせが、幼き日に母のリップスティックに憧れた少女のそれに重なってしまったものだから、ベルナデッタは思わず柔らかに目を細めた。
 嗚呼、この子は本当に無垢だ。色んなことに好奇心旺盛で、純粋で、18歳という大人になった今も変わらずに彼女が持ち続けている彼女の良さだ。その純粋さが眩しい。
「ふふ、ずっと変わっていないところもあるわね」
「そうですか?」
「ええ。おしゃれしたい気持ちは伝染するものだもの。いいわ、ピッタリのものを探しましょう。めいいっぱい背伸びして遊ぶためのもの。沢山買って帰りましょうね」
 笑みを深めて、ベルナデッタはネイルポリッシュの棚に手を伸ばす。
 なんの宝石がいいだろう。どんな色なら自分にも彼女にも似合うだろう。二人で揃いのものを買ってもいいし、いくつか買って時折シェアしあうのも悪くない。
 一度塗れば淡く色づき、二度塗りすれば爪先が宝石に変わるネイルポリッシュは、きっと。塗るたび、手元が目に入るたび。二人のかんばせに笑みの花を咲かせてくれることだろう。

シルヴァ・ベル
八乙女・美代


 確かな賑わいを見せるカプリスマルシェを見渡せば、風に揺れた魔鉱石が陽の光を反射して煌めいていた。
 加工して嵌められたカップの中で。宝石品質のものは宝飾品やまじないの品として陳列棚で出番を待つ中で。そのどれもが美しい魔力の輝きを内包している魔鉱石は、店先を流し見て歩くだけでも心が躍る。
 けれど、この度八乙女・美代(h07193)の心を一番に揺り動かしたのは――。
「宝石コスメと聞いちゃ黙っていられないわ」
「ええ、わたくし達の商いにぴったりですわね」
 握りこぶしひとつ、ぎゅっと握る。不思議なコスメショップの店主である美代にとっては『宝石そのものと何ら変わりない輝きを持つコスメ』と聞けば見逃すわけにはいかない。
 その傍らでシルヴァ・ベル(h04263)もしっかりと頷いた。シルヴァもまた、不思議な宝飾品店『星の鍵』の従業員。宝石と名のつくものはやはり気になるもの。
 二人そろってロンゲル一家の宝石コスメの店を訪ねると、まるで宝石箱のように色とりどりの宝石コスメたちが整然と棚に並んでふたりを出迎えた。

 パールのフェイスパウダー。サンストーンのアイシャドウに、ファイアオパールのチーク。
 宝石品質の魔鉱石を加工して作られたという宝石コスメは、ケースに入れられていなければ宝石そのものと見紛うほどだ。
 宝石特有の透明感を残しつつも、鮮やかな色合いを消して損なわずに各種コスメに加工する技術は明らかに一級品と言えるだろう。その品質と出来に、美代の瞳がにんまりと細まる。
「折角二人で来たんだもの。コスメの選び合いっこしましょう」
「まあ。いいですわね」
 提案にすぐさま返るいらえが心地いい。ならば不思議コスメ店の店主としては、とびっきりのものを選んであげなくては!

 コスメ店の店主たる矜持を胸に張り切った美代の目線が、リップが並ぶ商品棚で留まる。シルヴァにはリップを選んであげたい。小さな唇を艶やかに、可愛らしく彩るようなものがいい。
 彷徨う細長い指先がまず最初に触れたのは、燃えるようなルビー。
「ルビーのリップも色鮮やかで素敵だけれど。普段使いしやすいものがいいかしら」
 燃えるような赤は、情熱的で大人っぽい印象を作り出すのに最適だ。だけれど彼女には少々色が力強過ぎるだろうか。赤はここぞという勝負所に使って欲しいような気もするから、普段使いにはあまり向かないかもしれない。
 つい、と逸れた指が次に向かったのは可愛らしい印象のピンクのリップたち。
 ローズクォーツは定番の売れ筋商品。シャンパンガーネットのシェリー色は大人への背伸びが出来るだろう。アヤナスピネルの鮮やかなピンク色も、パパラチアサファイアの柔らかな薄紅色も、どれもシルヴァには似合いそうだ。
 なかなかひとつに決められず、どうせなら数本纏めて買うのもいいかしら、なんてよくばりが脳裏に過り始めた時だった。
「……あ、このリップなんて素敵ね」
 ふと目に留まったのは、可愛らしい苺色。苺ドロップのようなストロベリークォーツのリップスティックだ。ケースも苺をモチーフにしたもので、見た目も可愛らしい。
 一言店員に断ってから試し用を手の甲に引いてみると、淡いピンクに赤がグラデーションがかって見える。苺と名付けられるにも納得だ。
 これならばきっとシルヴァのかんばせを華やかに彩ってくれる。それでいて派手過ぎない色合いはお出掛けの時にも気軽につけていくことができそうだ。
 笑みを深める美代の傍らで。シルヴァは店の看板娘マリと共に、美代へと贈る『とっておき』を探していた。

「お連れ様への贈り物ですか」
「ええ、美代様にはアイシャドウパレットを差し上げたいんですの」
「でしたら宝石箱のパレットはどうでしょう!」
 此方ですと案内された棚には、小さな宝石箱が並んでいた。ぱかりと蓋を開ければ、いくつもの宝石コスメが散りばめられたパレットが顔を出す。
 温かみのあるオレンジブラウンのジャスパーをメインに、スモーキークォーツで目尻を締めて、ダイヤモンドの輝きを乗せる上品なブラウンパレット。
 アクアマリンの淡い水色とタンザナイトの夜色、そしてスフェーンの煌めくラメを乗せる夜と月のような夜空のパレット。
 様々な宝石コスメを詰め込んだパレットは、まさしく宝石箱だ。いくつもの宝石箱を開けてみせるマリは、まるで宝石商のよう。なんだか同業者みたいな親近感が湧いて、シルヴァは小さく笑みを零す。
「華やかな装いのかただから目を引くお色がいいわ。パープルはどうかしら?」
 傍らでリップを吟味している美代をちらりと見る。長身に艶やかで長い黒髪。白い肌はきっと鮮やかな色が良く似合う。
 赤も悪くはないけれど、瞳の色と同じでは少し目元の印象がぼやけてしまうかも。そう思えば、やはり品と艶を持つパープルが合うのではないかと思える。
「あちらのパレットを見せてくださる? そう、アメジストドームのような」
 いくつかのパープルの宝石箱の中で、シルヴァの目に留まったのはアメジストだった。シルヴァの言う通り、アメジストドームをイメージして宝石を当て嵌めていったのだという。
「外側のグレーは黒真珠? それとも黒曜?」
「黒真珠です。パール特有の艶めきもちゃんと残っていますよ」
「内側の白は水晶でしょうか」
「ご名答です! 透明感のある細やかなラメなんです」
「中央のパープルの上品なお色はどう出していますの?」
「濃淡様々なアメジストを織り交ぜているんです。淡い方からブラシでなぞるだけで綺麗なグラデーションが描けますよ」
「まあ、職人技ですわね」
 つい、と指先でなぞって手の甲に試してみれば、色付いた先から陽光を反射して煌めいている。華やかで粉質も良い。そしてなにより、アメジストドームは商売繁盛の縁起物だ。
「決めました、これにいたしましょう」
「うん、これにしましょ」
 |宝石箱《パレット》を両手に抱えたシルヴァがそっと笑みを深めれば、同じタイミングで美代の声も華やいだ。どちらも丁度贈り物が決まったよう。
「妖精さんは――、マ!」
 シルヴァが可愛らしい宝石箱を抱えていることに気付いて、美代が驚きの声を上げた。シルヴァもまた、美代が手にする可愛らしい苺模様のスティックに気づいて目を丸くする。
「ふふ! この宝石箱はアイシャドウパレットなんです。美代様にこちらを」
「アラアラ! それじゃあアタシからはこれを妖精さんに!」
 互いの手にある贈り物を交換する。妖精のシルヴァには大きいサイズのリップスティックは、マリが魔法をかけたならあっと言う間に小さな手に馴染むサイズにしてくれるサプライズも嬉しい。
「美代様からの贈り物、とっても素敵! 嬉しいわ。おでかけのとき、すこし背伸びをしたいことがありますの。大事にしますわね」
 リップを両手で大事に握り締めたシルヴァに、美代は満足げに頷いた。そうして今度は、自分の手の中にある小さな宝石箱をぱかりと開く。
「マァ、素敵なアイシャドウ。これをアタシに?」
「ええ」
 現れたアメジストドームのアイシャドウパレットに、ぱちくり、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせ――。
 やがて、柔らかに破顔した。
「こうやってコスメを選んで貰ったのって初めてかも。こんなに幸せな気分なのね」
 今までコスメ店の店主として、訪れた客人にコスメを選んであげることは幾度もあった。使用する者たちの願いが叶いますよう、勇気の後押しになりますようにと願いを込めて、選んであげた。喜んでくれる客人と約束を交わし、去っていく背中に幸せを祈りながら見送った。
 それを今、はじめて体験する側になった。胸の奥で生まれた嬉しさと幸福がじわじわと広がって、くすぐったいようなあたたかさが唇に笑みを咲かせた。
「嬉しい。とっても嬉しいわ。ありがとう、大切につかうわね」
 絶対よ、約束よと繰り返す美代が、本当に嬉しそうに笑う。何より大切な宝物みたいに、大事に大事に|宝石箱《パレット》を胸に抱えながら。

九鬼・ガクト
香柄・鳰


 魔鉱石の加工品ばかりを扱うカプリスマルシェは、小規模ながらも確かな賑わいを見せていた。
 自然公園の一角を使って行われるマルシェには三十程の露店が軒を連ね、訪れる客や仕入れの交渉をする商売人などが思い思いに品を眺めて歩く。
 ひとりで気ままに歩くもの。友人同士や恋人同士で楽しむ者も居れば、家族連れだっている。その誰もを歓待するように、魔法を含んだ魔鉱石の加工品たちは、陽光を反射してきらきらと煌めいていた。
 ここにこの後、襲撃がある。はじまりは『腐った風』。広く被害が出るものと推測される『風』の被害を最小限に抑え、襲撃者を撃退せねばならない。その為の下見は十全に行わなければならない、が。
 それは、それとして。
「後々の仕事は忘れてはなりませんけれど……今はマルシェを楽しみましょう」
「んー、そうだね。今この時のひと時も大事な事だよね」
 うつくしく微笑む香柄・鳰(h00313)に、九鬼・ガクト(h01363)も鷹揚に頷いた。
 襲撃者への警戒は怠ってはいけない。風の匂いについても注意しておくべきだ。だが、ある程度の猶予があるのもまた事実。そして基本的に、マルシェやそこに並ぶ商品というものは一期一会であるならば、少しばかり楽しんだってバチは当たるまい。
 |ガクト《主君》のくれる首肯に、鳰はつややかに目を細めた。

「賑わっていますね、ガクト様」
「ああ、賑やかで人が多いね」
 かすんだ鳰の視界でもわかる程に、往来はマルシェを楽しむ人で溢れていた。ある程度整理された並びではあるものの、区画内で自由に商品を広げる露店と人は、明瞭な視界であっても時折先を見通しにくい。
「鳰、迷子にならないように」
「はい、大丈夫です」
 不要な心配かもだけれどと言いながらも己を気遣う主君に笑み咲かせて頷き、鳰は器用に人波を泳いでいく。
 淀みない動きに小さく笑みを浮かべながら、ガクトもまた気ままにマルシェをそぞろ歩き。
「それにしても、この目にも彩溢れる品々のなんと眩い」
 心の赴くまま、主の歩むまま。呼び込みの声に店先を流し見ながら歩めば、どこに行っても色とりどりの魔鉱石が煌めき出迎えてくれる。
 赤。青。黄。淡い緑に|透明《カラーレス》。色も形も様々なひかりが絶えぬ光景は、まるで宝石箱の中に迷い込んだかのようだ。
「ほら、ガクト様。この花瓶は水が湧くのだとか。ガクト様のお店にも良さそうですね」
 手に取った花瓶は、水の魔力を抱くブルージルコンを飾った硝子製。ブルージルコンを美しく魅せるよう金で装飾を施したそれは、花をいれればたちまちに水が満ちるのだという。ガクトの営む茶屋処にあれば、水替えの必要なく生花を飾っておくことが出来るだろう。
「んー、宝石の色と種類で効果が変わると。水が湧く花瓶、お店に置けばお客様が驚くね」
 興味を惹かれたガクトも足を止め、店先の品々をまじまじと見つめる。
「この赤い宝石は火を。この青い宝石は水を。なるほど、仕事の時に役に立つね」
 どうやらここの魔鉱石に宿る魔力は、大体が色によって属性が大別されるようだ。時折例外はあるものの、欲しい属性や効果は石の色を見ればある程度目星がつけやすいのは有難い。
 仕事に使うのならば、どんな効果がいいだろう。茶を淹れる時に茶器を温めておけるような受け皿や、茶が冷めにくい急須などはどうだろう。
 思案を重ねながら真剣に品定めをし出したガクトに気付き、鳰もまた一思案。主の品定めの邪魔はしたくない。それに深い思案に耽る彼は没頭してしまうことがある。ならば鳰にとっても今は、小さなチャンスだ。
「もし、お店の方。根付があれば見せて頂いても?」
「根付? ああ、いいよ。装飾品の類は店の端にあるんだ、こっちだよ」
 そう言って店の反対側へと向かう店主を追って、鳰もそちらに向かう。
 霞んだ視界に飛び込む光の種類が変わったことに気づいてそっと手を伸ばせば、細い鎖のネックレスが触れた。
 魔鉱石の中でも宝石品質のものは装飾品になることが多いらしい。感触は確かに細やかな仕事を感じさせるものだ。ここの店主は腕の良い職人なのだろう。
 種類も多くあるとのことで簡単な希望を聞き取る店主に、ひとつ、ふたつ。鳰は思い付く希望を告げる。
 店主が見繕ってくれた根付に触れて確かめれば、硬質で冷たい石の感触と繊細な細工を指先に感じ取った。
 はじめに触れたのは龍。龍は強さや知恵、保護の象徴だ。次は鶴。長寿や平和、幸運の象徴。次は、複雑な花の形。店主に問えば蓮だという。蓮は純粋さや困難を乗り越える力を表しているのだったか。
「……あら、これは招き猫の根付」
 確かめた姿形は、前足を高く掲げて人を招く猫。商売繁盛の縁起物だ。店を営むガクトにぴったりやもしれない。
 しかし、だ。招き猫を掘った石の不思議な色合いに、鳰は小首を傾げる。明瞭ではない視界には淡い緑や青紫の飴玉のようにも見えるが、それが何なのか鳰には判別がつかない。
「もし。この石は一体……?」
「ああ、それはエンゼルフェザーフローライトだよ。石花蛍石とも言うんだがね」
 曰く。エンゼルフェザーフローライトとは、|蛍石《フローライト》に天使の羽根に似た白い内包物が見られる特別なフローライトなのだという。
 白い花のように見える|内包物《インクルージョン》が特徴で、光にかざすと淡い藤色や緑色の空に純白の羽根がふわふわと浮かんでいるかのように見える石だ。
 朧の視界では決して見えるはずはないのに。なぜだろうか。石の中で風で空に翻る天使の羽根を見た気がして。
「……素敵、此方を頂けます?」
 気づけば、そう口にしていた。

「……おや?」
 品定めに耽っていたガクトが、ふと顔を上げた。いつのまにやら傍らにいた鳰が居ない。
 まさか迷子になったかと慌てて周囲を見渡――す間でもまでなく。同じ店の反対側で、店主と話している鳰を見つけて安堵の息を吐く。
 随分熱心に話しているから、気に入ったものでもあったのかもしれない。ならば邪魔をするのも無粋かと、再び品定めに戻ろうとすると。
 
 トントン。

 背中を指先で突つく気配。振り返ればガクトに憑く艶やかな『死神』が、何やら指を差している。
「んー? コスメ?」
 こくりと、黒衣の|死神《おんな》が頷く。指差した先は、ドラゴンプロトコルの親子が営んでいるという宝石コスメの店だ。警戒を兼ねて周囲にいたのだが、どうやら彼女の興味を惹いたようだ。
 未だ鳰も店主と話しているし、どうせすぐ傍の店だ。問題もなかろうと彼女の望むままに軒を潜る。
 ロンゲル一家の宝石コスメと言えば、宝石品質の魔鉱石を加工した、宝石そのものと変わらぬ色と光を宿した化粧品としてカプリスマルシェの名物になりつつある。
 宝石にも化粧品にも然程明るくはないガクトでも、その物珍しさは理解が出来た。宝石の輝きを身に纏うことが出来たなら、と。想像したことはあっても実現出来た者はどれだけ居ただろう。
 ファンシーダイアモンドのラメ。『ない色は無い』と言わしめたトルマリンのネイルポリッシュ。アイオライトサンストーンのアイシャドウ。
 背中の『死神』が上機嫌に棚を指先でなぞり――、やがて、艶めくリップスティックのひとつで指を止めた。
「コレが欲しいのかい?」
 手に取った口紅は正しく深紅と呼ぶに相応しい、ピジョンブラッドルビーのリップグロス。確かめるように問えば、『死』を体現するおんなは上機嫌に唇で弧を描いた。
 望むならばと店主に会計を頼もうとして、ガクトはふと手元に広がる品々に目線を落とした。長い前髪の下の瞳にも鮮やかに映るそれらの内、目に飛び込んだひとつも摘まみ上げて店主を呼んだ。
 購入した口紅を受け取って上機嫌の『死神』を連れて元の店に戻ると、丁度鳰も買い物を終えて戻ってくる。そうしてすぐさまガクトの傍に寄ると、笑みを浮かべて彼を呼んだ。
「ガクト様、宜しいでしょうか」
 すぐに頷いてくれるガクトに鳰が差し出したのは、買ったばかりの招き猫の根付。
「之は風の加護ある根付なのだとか。お守りとしてお納めくださいますか?」
「んー、可愛らしいね。ありがとうね、何処かに着けておこう」
「ええ、ぜひ!」
 二つ返事で是を唱え、すぐに身に着けてくれることが嬉しい。根付は現代ではストラップにしていることが多いが、嘗ては帯に下げた巾着を落とさないようにするものだったという。店主から聞いた知識をそのまま披露すれば、心得たとばかりにガクトは根付を帯に絡めた。
 彼の帯から揺れる石花蛍石の招き猫を見て、鳰は満足げに笑みを深める。渡したいものは無事に渡せた。そろそろ警戒に戻ろうかと提案しようとすると。
「鳰、お手」
「? はい、何でしょう?」
 まるで飼い犬にでも告げるかのような言葉を唐突に告げるガクトに、鳰も素直に応じる。両手を差し出してみせれば、その上にぽん、と軽い何かが乗せられた。
「この小瓶は?」
「爪紅だとさ。碧と藤で綺麗だったから」
 それは|紫水晶《アメジスト》と|翠玉《エメラルド》を混ぜたネイルポリッシュだ。二つの石は決してすべて混ざり合わず、美しいマーブル模様を描いて瓶の中できらきら揺れて。
 思わず鳰は、綺麗ないろ、と小さく独り言ちた。
「鳰は綺麗な顔だから化粧する必要性は無いだろうし。ネイルなら武器を持つ時に映えるだろ」
「ま、勿体ないお言葉! でもね、ガクト様。化粧とは外へ向けてだけでなく、己を鼓舞する為でもあるのです」
 身を飾るものには力がある。勇気を出して踏み出す為に、綺麗な化粧をしたり。自分を鼓舞する為に、好きな色を身に纏ったり。
 たったそれだけのことと、笑う者もいるだろう。けれど美しく飾った己を、爪を見た時に。「今日は化粧がうまくいった」だとか、「好きな色のネイルが目に入るたび、元気を貰える」だとか、そんな小さな嬉しさが自分を鼓舞する力になるのだ。
「だから、そう。こんなうつくしい色が爪先に乗っていたら、戦場でも心強いでしょう」
「んー、なるほど。化粧とはそういう意味もあるんだね」
 知らなかったと頭を掻くガクトに、笑みを向けて頷く。
 ガクトの言う通りだ。鳰が刀を握るたび爪先にこの色が塗られていたならば、きっと力を貰えるに違いない。だって、忠心を捧ぐ主から賜った爪紅だもの。
「いつも仕事してくれているご褒美だよ。喜んでもらえてよかった」
「まあっ、ボーナスですね? ふふ! 有難うございます、大切に致しますね」
 一度確かめるように胸に小瓶を抱き、そうして大切そうに小瓶をしまった――その時だった。
 
 風の匂いが、変わった。

第2章 集団戦 『鉱石竜「オーアドラゴン」』




 ――ふふ。

 微かな女の笑い声を聞いたのは誰だったろう。
 透光の花が。オルカの歌が。警戒する者たちの琴線が。一斉に警告を発する。
 顔を上げた能力者たちの間を、突如風が吹き抜けた。

 異様な程に甘い匂いがする。まるで熟れ過ぎて腐り落ちた果実が弾けたような、くらくらする程に甘ったるい――腐ったかのような、風。

 嗚呼。これは毒だ。毒の息吹だ。

 ひとたび吸い込めば目眩を覚え、ふたつ吸い込めばそれはもっと酷くなる。込み上げる吐き気と痙攣で立っていられなくなる頃には|甘さ《どく》は全身に巡り、やがて苦痛を感じる間もなく意識と呼吸が閉ざされる。
 はじめは抵抗力の弱い者から。やがて大人へと。
 幾度も吹き付ける毒の風は瞬く間にカプリスマルシェ全体へと広がり、一般人も能力者も一切の区別なくそこに居る人々へと襲い掛かった。
 ひとり、またひとりと膝を着き、胸を抑えて倒れていく。ドラゴンプロトコルは特に巡りが早いのか、症状が出る速度が顕著だ。

 異変に気付いた者たちが逃げ出そうと駆けだして、今度は悲鳴があがる。
 いつのまにか鉱石竜オーアドラゴンの群れが、カプリスマルシェ全体を囲いこんでいる。
 近づく者を威嚇し、一歩ずつ包囲網を狭めては明らかな敵意を向ける。たったひとつ合図があれば、オーアドラゴンはその牙を人々に向けるだろう。

「きゃあああ!!」
「ママ、マリ、僕の後ろへ!!」
 混乱の渦中にあるマルシェの中から、更なる悲鳴が風を裂いた。ロンゲル一家の宝石コスメの店が、いつの間にか鉱石竜に囲まれている。腐った風によって身動きも儘ならない中、父親は次々現れる鉱石竜たちから家族を庇っている。
 ドラゴンプロトコルであっても彼らに戦う力はない。ひとたび襲い掛かられたならばひとたまりもない。

 ――ふふ。ふふふ。

 どこからか女の笑い声が響く。
 誰一人、『腐った風』の中から逃がしはせぬと。笑い声に呼応するように鉱石竜の群れが嘶いた。

 けれども女には誤算があった。
 既にマルシェの中には能力者たちが紛れている。異変を警戒し、為すべきを為さんと準備を整えていた者がいる事を彼女は見通せなかったのだ。
 すべきことは三つ。
 毒を孕んだ『腐った風』を抑えること。
 鉱石竜の包囲網を崩し、人々をマルシェ会場の外へと逃がすこと。
 ロンゲル一家だけを狙う鉱石竜の群れを排除し、彼らを助け出すこと。

 風の影響は能力者たちにも及ぶだろう。ドラゴンプロトコルには巡りが早いかもしれない。
 それでも、己が出来ることを為し、人々を護る為。

 いざ、駆けろ。
アン・ロワ
ウイル・カサブランカ


 たった今まであんなに楽しそうで、笑い声や活気に溢れていたのに。
 腐った果実のように甘ったるい風が吹きつけるたびに、笑い声が悲鳴や苦悶に変わる。
 周囲を取り囲む鉱石竜は何者かに操られているのか、それとも腐った風に|誘導されるように《・・・・・・・・》誘われてきたのか。普段は坑道に現れて鉱石を貪る鉱石竜たちはマルシェの商品棚に並ぶ魔鉱石には目もくれず、攻撃性を露わにして人々の脱出を阻む。
「やだ、やだ、来ないで!!」
「マリ、ダメだ!」
 そして宝石コスメの店では、風をまともに受けた一家が胸を抑えて膝をついていた。呼吸のたびに襲う眩暈と吐き気。視界がぐるぐると回りだして立っていられなくなった母を支える父もまた、足元が覚束なくなっている。
 ロンゲル一家を取り囲む鉱石竜の包囲網は一歩ずつ縮まって、その度のバキバキと一家の夢の集大成が音を立てて壊れていくのを見ていられなくて、マリは何度も悲痛な叫びをあげた。
 父と母の努力の結晶が。求める人を笑顔にする魔法が、全部、全部壊されてしまう。大粒の涙がマリの瞳から零れ落ちた……その時だった。
「マリ、鼻と口を布で覆え! 皆もだ!」
 混乱しきった状況を切り裂く光のように鋭い声をあげたのは、買い物をした後もさりげなくロンゲル一家の傍にいたウイル・カサブランカだった。
「案ずる必要はない、退路は開く! 私達を信じろ」
 混迷に陥った人々を落ち着かせるような冷静で力強い言葉。冒険者として、或いは狩人として培った経験で状況を即座に判断したウイルは、まずは声を張るべきだと断じた。声は呼び水になる。それを証明するかのように、赤い髪の少女が躊躇いもなく店に飛び込んだ。
「光よ、照らして!」
 鉱石竜とロンゲル一家の間に割り込んで、一家を背に庇った少女――アン・ロワは一心に祈りを捧げる。
「天高く御座しますもの、巡りゆくものよ、在るべきかたちへ――どうか」
 毎日欠かさず繰り返した祈りの言葉。あの日見た『神様』への真摯な祈りと信仰が力となって、胸の前で組んだ両手から|暁降《エスポワール》のひかりを溢れさせる。
「君はさっきの……」
「ええ! あたし、みんなを助けにきたわ!」
 驚く父親の声に、アンは太陽のような笑みを咲かせて振り返る。敵意を剝き出しにする鉱石竜を前にしてもアンの空色の瞳には決して恐れはない。
「さっきのお嬢さん、君も危ない……!」
「ううん、だいじょうぶ! あたしのちからはちっぽけで、伸ばした腕が抱き締められるのはほんの少しかもしれないけれど。それでも、あたしにだってできることはあるわ」
 アンは決して俯かない。
 どれだけアンが小さく立って。武器を振るうような力がなくたって、アンには|祈り《ひかり》がある。
 アンの|祈り《ひかり》は諦めずに立ち向かうための勇気をくれる光であり、恢復の光であり、アン自身の信念のひかり。希望や未来を信じ守るひかりだ。
 アンがその光を失わない限り、近くで戦う仲間のみんなやロンゲル一家、店主や客たち。彼らに襲い来る穢れた風や暴虐を退けることが出来る。腐った風に苦しむみんなを助けてあげることが出来る。そして、みんなの幸いがたくさん詰まったこの店も、職人の魂や想いが宿る品々だって癒して守ることだって出来る――!
「マリたちはあたしに背伸びする勇気をくれたわ。だから、今度はあたしがお返しする番」
 小さな背に家族三人を庇って、アンはロンゲル一家と一家の夢が詰まった化粧品を光で照らし続ける。
 ポシェットに大切にしまった『三年後の約束』が、アンにどれだけ勇気と希望をもたらしてくれたろう。その嬉しさと勇気を、今度は一家に返してあげるのだ。
「誰一人とて傷つけさせない! それが、あたしなりの戦い方よ!」
「ああ、それでいい。自分なりの戦い方を知っているやつは強いぞ」
 力強く言い切ったアンの言葉を、駆け込んだウイルが継いだ。
 鉱石竜が振り下ろした尾を振り抜いた大剣で相殺し、返す刃で弾き飛ばしたウイルの髪が白虹に煌めく。
 能力者たちは動き始めている。マリたちの傍に駆け寄る能力者たちもいる。マリ、ロンゲル一家、マルシェの人々。気掛かりは山とあるが、まずは己が最善を最速で成さねばならない。ならば今、大得物を担いだウイルがすべきは――。
「ここを任せてもいいか?」
「いいわ、まかせて!」
「ありがとう。私の武器は少しばかり大きくてな」
 振り回せばきっと商品にも当たってしまう。アンの光は壊れた商品だって恢復できる光だが、出来る限り一家や職人たちの『夢の結晶』を壊したくはない。故にウイルは袖で口と鼻を覆い、駆け出した。
 脳裏に思い浮かべるはマルシェの全体配置。人の流れ。導線。そこから最も効率的な避難路を導き出す。最も大きな通りに連なり、逃げ道もわかりやすいのは全てのはじまりにして終点。すなわち入場門だ。
 読み通りに鉱石竜の包囲がやけに分厚いそこに、ウイルは狙いを定めた。
「美しき青の鉱石竜よ、今からお前を討つ!」
 走りながら宣い、防具を脱ぎ捨てて屠竜大剣を|前《盾》に構え、ウイルは躊躇いなく一体へと自ら体当たる。
 鈍く重い衝撃がぶつかり合う。鉱石に覆われた尾は重く鋭い。金属と鉱石が擦れ合う嫌な音を間近で聞きながらも、ウイルの表情は至って冷静だ。
「|大剣《おまえ》は対竜特化の得物だろう、しっかり耐えてくれ。頼む」
 飛ぶことも叶わぬ小さな野良の地竜であっても竜は竜。こんな相手に折れては屠竜の名折れ。だが、ウイルはきちんと知っているのだ。
 この世界に訪れてからずっと手にした相棒は、ただの地竜如きに押し負けるような鈍らではないということを。幾多の狩りを共に乗り越えてきた日々が、それを証明しているのだから――!!
「砕け散れ!」
 加速の力も借りて初撃を受け、弾き、大きくバランスを崩したオーアドラゴンの隙を狩人は見逃さない。
 ここまで満たした条件の全てが力となり、剣気となって溢れた瞬間。渾身の力で振り下ろした大剣が、相棒の信頼に応えるように地竜を両断した。

クラウス・イーザリー
楊・雪花


 腐った風が吹く。
 眉を顰める程に甘く、甘く、内側からどろりと溶かすような容赦のない毒の息吹が、幾度となく吹き付ける。
 たった数度の呼吸で目眩がして、楊・雪花は思わず近くの商品棚に手をついた。ゆっくりと内臓をかき混ぜられているような気持ち悪さがある。
 この毒は無差別だ。人であろうが竜人であろうが等しく命の終わりへと誘う。けれども明らかにこれは、ドラゴンプロトコル用だと気づいたのは雪花もまた竜人であったがゆえ。
 周囲の人々に比べても、妙に毒の症状が出るのが早い。√能力者という特殊な力を持つからこそ多少なりともマシ、なのだとは思うが。最も苦しげなのは戦う力も特別な能力も持たないロンゲル一家だ。
「ここにはマルシェを楽しんでいた人達がたくさんいるのに……」
 あんなにも笑顔と活気に溢れていたカプリスマルシェが、たったひと吹きの風で苦悶と悲鳴に変わってしまった。次々と膝を着き、苦し気に呻く人々を出来るだけ早く此処から逃がさなければ、あっという間にここは地獄になる。
 ギリと唇を噛んで、雪花は己の膝を叱咤する。こんなところで呻いていてはダメだ。今すぐに行動しなければ――!

(なりふり構わない手段を使ってくるな……)
 時を同じくして風の正体に気づいたクラウス・イーザリーは、ガスマスクを身に着けながら眉を顰める。
 目的とするドラゴンプロトコルのみではなく、その場にいる全てに影響を及ぼす毒。相手が誰であろうと関係がない、無差別極まりない手段だ。
 だがその犯人が喰竜教団だとするならば、無関係な人々を巻き込むことに何の罪悪感もないのだろう。彼らにとってドラゴンプロトコル以外の種族は虫けらも同然。慮ることなど馬鹿らしいとでも言いたいのか。
 憤りを感じながら、クラウスは脳裏に親友の面影を思い浮かべる。想いは太陽のようなあたたかな光を纏う鳥の形となってクラウスに添う。
 毒の耐性はあるが、それでも身の内をゆっくりと混ぜられているような吐き気と眩暈が苦しい。だが、それでも自分のことに構っている暇はない。人々を救う為、クラウスは駆け出した。
「道を作ります、ここを脱出して下さい!!」
 詠唱を簡略化した魔法を全力で放って毒の風を散らしながら、クラウスは声を張り上げる。
 そのまま武器を構えて鉱石竜の群れへと突っ込み、対多を主眼とした攻撃を主軸に据えて武器を振るう。背に庇った人々の為の突破口を作らねばならない。誰かの笑顔の為に戦うのがクラウスにとっての当然であり信念なのだから……!

 その時だった。
 パキリ、と。蒼穹に冷気が凝結する。迸る冷気は玄冬に似て、その真下で白き竜の翼を広げた少女――雪花が両手を空に掲げている。
「私も、みんなを守ります……!」
 その両手を、一気に振り下ろした。
 雪花の力を存分に乗せた氷の槍が、クラウスの眼前に居た鉱石竜の群れへと一斉に落下する。轟音と共に降り注いだ槍は樹氷のように聳え、鉱石竜たちを地に縫い留める。そこに、一筋の道が出来た。
「道が出来ました! 急いで、でも慌てずにこちらへ!」
 道が再び閉ざされる前にと、雪花は落ち着き払った声で人々へと声掛け誘導をする。たとえ自分も苦しくたって「大丈夫、大丈夫」と何度だって声を掛ける雪花に励まされた人々がひとり、またひとりと脱出する様子に安堵しながら、クラウスは毒に侵されて地に臥せった男を急いで担ぎ上げた。自らに添う鳥に不死鳥の炎が如き癒しの力を届けながら、細い道を走る。
「頑張ろう。一人でも多くの人を無事に連れ出せるように」
「ええ!」
 擦れ違いざま掛けた声に、しっかりとしたいらえが返る。そうして頷きあった二人は、人々を支えながら脱出を支援するのだった。

御剣・峰
如月・縁


「あの女、考えうる限り最悪の手を選んだな」
 憤りを露わにしているのは、御剣・峰も同じだ。
 対象無差別の毒の風。その場から逃がさないようにする鉱石竜たちの包囲網。その上で狙いであろうドラゴンプロトコルのロンゲル一家を包囲する周到さ。
 そのどれも気に入らない。教団が敬愛するドラゴンプロトコルに真正面から襲い掛かるのならまだ話も分かる。だが、このなりふり構わなさは違う。絶対に、違う。
 そちらがそのつもりならば、良いだろう。その策を真正面から食い破って、喰竜教団を統べる女の喉元に牙を突き立てるのみだ。
「どけ、トカゲども。私は今怒っているんだよ」
 琥珀の瞳がにじり寄る鉱石竜たちをねめつける。だがその言葉を解すことのない鉱石竜たちは、ただ峰を己に敵対するものとだけ定めた。
 一瞬の沈黙とにらみ合い。その火蓋を切ったのは一陣の風だった。
 毒の風が吹き荒れた瞬間、鉱石竜が雄たけびをあげて尻尾を振り上げる。退く気などないと悟った峰もまた迅速果敢に踏み込む。
 鍛え上げた直感と目で攻撃の軌跡を先読みし、身体能力の天井を取り払う程に自己強化を重ねると、振り下ろされた鉱石の尾を峰は躊躇いなく両手で受け止めた。
 本来ならば指の骨が砕けてもおかしくない程の衝撃を感じながらも、力任せに尾を握り砕く。苦悶の叫びをあげて態勢を崩した鉱石竜の懐に容易く入り込むと、強化を拳に一点集中して鉱石竜の頭を殴り砕いた。
 連撃は雨霰の如く鉱石竜に降り注ぎ、その拳が止まる頃には鉱石を纏う竜は採掘されたかのように鉱石を砕かれ地に転がるよりない。
 まさしく蹂躙。それでもなお、峰の怒りは収まらない。
「私は今頭に来ているんだ。失せろ、トカゲども。死にたくないならな」
 低い声音と覇気に鉱石竜が少しばかりたじろいだ。だが、それだけ。鉱石竜たちは退かない。竜たちの目的は|誰も逃がさないこと《・・・・・・・・・》。それさえ果たせたならば、あとは『風』が吹いてくれるのだから。
(ちっ、毒の風が……)
 幾度目かの風に峰は口と鼻を服で抑えた。風をどうにかしなければ、いずれジリ貧になって此方が総崩れになる。その前に人々を外に逃がさなければ。
 再び峰が構えを取った、その時だった。遥か高みより、|透光《クリスタル》の花弁が降り注いだ。
 
「けほ……すごい風」
 幾度となく吹き付ける風に、如月・縁は思わず両の袖で口元を隠す。
 甘ったるい毒を孕んだ腐り風は、吸い込んだ先からまるで臓腑をゆっくりとかき乱すかのようだ。言いようのない気持ち悪さが吐き気と目眩となってこみあげて、立っていることすら困難にする。
 この毒はよく出来ている。獲物が逃げないようまず移動する力を奪う。その上で深く体内を蝕んで、意識と呼吸を失わせていくのだ。『決して逃がしはしない』と、その毒自身が邪悪に笑っているようだった。
 出来うる限り早く此処から人々を逃がしてあげなければいけない。吹き付ける毒の風。周囲を包囲する鉱石竜。そしてロンゲル一家。対処すべき大事なことは同時に三つもあって、けれどもその全てに一気に対応できるわけではない。
 ならばあれもこれもと手を伸ばそうとするのではなく。共に戦う仲間を信じ、縁は自らの得手を以て事態の対処に当たるのがきっといい。
「……私ができることはこの『風』をどうにかすることですね」
 己が力を見極めた縁は、地を蹴って高みへと飛んだ。太陽を背に、両手を組んで祈る姿は女神が如く。そうして願いから生まれた透光の花弁が、ぶわりと風に舞った。
 花弁は陽光を反射して煌めいてひかり、その度に風の毒を浄化する。まずは鉱石竜を撃破する能力者へと花弁を。次いで、おそらく回復が早いであろう大人たちへと花弁を差し向ける。
「皆さん大丈夫ですか? 動ける方は具合の悪い方を助けてあげてください」
 大切なのは被害を最小限に抑えること。その上で、人々を素早く脱出させることだ。花弁が舞う距離には限度がある。ならば出来るだけ動ける者を増やし、互いに支え合って脱出してもらうのがきっといい。
「こっちだ! 包囲の一部を崩した、来い!」
「皆さんあちらへ! 誘導します!」
 風を浄化してもらったことで動くことへの心配がなくなった峰が、数体の鉱石竜を纏めて殴り砕きながら声を張り上げた。その隙を逃さぬよう、縁は花弁を人々に添わせ先導させる。
 
 誰一人とて失わぬよう。喰竜教団への怒りを胸に秘めながら、二人は己が出来る最善を全力で成すのだった。

シルヴァ・ベル
八乙女・美代


「ああ、嫌ね。人が楽しくしてる所を邪魔するなんて」
 美しくないわね、と。長い髪をばさりと後ろに追い遣って、八乙女・美代は眉を顰めた。
 さっきまであんなに楽しそうだったマルシェが見る影もない。苦しむ声。助けを呼ぶ声。悲鳴。何かがぶつかる音。何かが壊れる音。そんなもので溢れてしまって、『来る』とわかっていたとしても皆が楽しんでいた祭りを台無しにされたという気分は拭えない。
 鉱石竜たちの包囲は厚く、一体何体がここに呼ばれているのかわからない。それだけ誰も逃がす気がないのだろうが。逆に考えれば『包囲している』ということは、包囲から抜ければ『腐った風』の効果は弱まるとことに他ならない。
 ならばすべきこともまた単純だ。己が得手を活かして鉱石竜の包囲を突破し、人々を逃がせばいい。考えるべきは順序、そして配置だ。
「美代様。皆様のことはわたくしが」
 美代が何か口にするより早く、状況とすべきことを理解したシルヴァ・ベルが美代の前に飛んできて頷いた。
「任せていいかしら。それじゃあアタシは敵の注意を惹いて、みんなを庇いましょ」
「……お気をつけて」
「ふふ、アリガト! でも大丈夫よォ、アタシってば美しいだけじゃなくて強いから!」
 強気な笑みにバチンとウィンクひとつ。任せなさいと胸を張って、美代は包囲を狭める鉱石竜の群れへと立ちはだかる。
「さあさ、綺麗なドラゴンちゃんたち。アタシと少し遊びましょ」
 禁じられた遊びをはじめよう。
 思い描くは大地を揺るがす巨容。嘗ては国造りの神とも呼ばれし|大太法師《ダイダラボッチ》の姿。
 手っ取り早く目を惹きたいのなら、方法はシンプルだ。大きな姿で、目立つように暴れてやればいい。八尺様である美代の長身と美しい容姿はそれだけでも十分に目を惹くが、それが過剰であればある程目を向けずにはいられぬ筈――!
 大太法師の姿にとって、野良の鉱石竜など人形と変わらない。雄たけびを上げた鉱石竜を一体掴んで別の鉱石竜にぶつけるように投げ飛ばし、腕を振って薙ぎ払う。
 身を丸めてゴロゴロと転がる回転攻撃も、今の美代にとってはキャッチボールのボールを拾うのと大して変わらない。自ら飛び込んできた鉱石竜を両手で受け止め、手の中で竜から鉱石が零れかけているのを察して出入り口とは逆方向に投げ飛ばした。
 舞い散る鉱石は美代の為の煌めきを残して砕けていく。そのうちに鉱石竜が、一歩、二歩と後退る。
 生物の本能として、己より大きく賢い生き物へ襲い掛かるべきではないと悟ったのだろう。だが、それを見逃す|大太法師《みよ》ではない。
「あら~? このアタシを放って何処へ行こうというのかしら」
 無視などさせてやらない。
 鉱石竜たちが後退った先には未だ人々が、そしてシルヴァが居るのだ。絶対に、鉱石竜の目を奪い続けなければならない。
「目を離す暇なんてあげないわよ!」
 その声と、地に叩きつけるような踵落としの轟音は。手分けする為に離れた妖精の少女の背を押した。

 美代が敵の注意を惹きつけている間に、シルヴァは膝を着く人々の中へと飛び込んだ。
 風は今も幾度となく吹き付けている。耐性のない一般人にとってこの風は劇薬に等しい。吸い込んではいけないと理解しているが、呼吸を止めることなどそう長く出来るものでもない。甘ったるい|香気《どく》を吸い込んだものからひとり、またひとりと苦し気に膝を着く姿は、それだけで人々の脳裏に容易く絶望を描く。
 だから、まずシルヴァがすべきは『腐った風』を無力化し、それが出来ると人々に証明すること――!
「皆様、すぐに治しますわ」
 恐怖に塗れた人々の前で、シルヴァは祈り、希う。
 天へと掲げた両手が導くは、暁天に翔ける陽の光。力強い陽を苦しむ人々へと導いたならば、ひかりはそっと人々を温めて身を蝕む毒気を払う。
「もう大丈夫です、すぐに治りますわ。伝承にもある通り妖精は嘘をつきませんの」
 安心させるような柔い笑みと優しい言葉で伝えたなら、わかりやすい『治癒魔法』の効果と相まって絶望と苦しみに染まっていた人々の表情もまた安堵へと変わっていく。
 治してもらえた、という自覚が生まれたならば、胸に芽生えた不安も和らぐはずだ。そうしたならば、幾分か動きやすくなるはず。
 それを齎してくれた妖精の女の子が傍に居てくれるのならば、尚更立ち上がる力になるだろう。
「ここから脱出しましょう。みなさん、わたくしに着いてきてくださりますか。大丈夫、大丈夫ですよ。頼もしいお方が守ってくださりますからね」
 シルヴァの治癒によって再び立ち上がった人々を先導して、シルヴァは飛ぶ。
 美代が守ってくれる方へ。あの方がいる限り絶対に鉱石竜の追撃などさせないからと。繰り返し、安心させるように声を掛け続けたならば、人々の足にも少しずつ力が戻っていく。
 幸い、美代が先に道を作ってくれていた。おかげで避難を妨げるような障害物はない。必要ならば念動力を使って荷物や屋台を退ける準備もあったが、今のところは不要のようだ。
 今は逃げることに集中しようとシルヴァは前を、美代は敵を見据える。一人でも多くを、一秒でも早く無事に脱出させる為に。

トゥルエノ・トニトルス


「やはり訪れたな」
 吹き荒れた風の、腐り落ちた果実のような風に喰竜教団の襲撃を知る。『腐った風』とは如何様なものかと警戒していたが、次々と膝を着く人々の様子を見るに毒であることは明らかだ。
 それを悟った瞬間、トゥルエノ・トニトルスはオーラを身に纏い自身の護りを固めた。
 広く被害が出るかもしれないとは事前に聞いていた。だが、ひともドラゴンプロトコルも関係なく命を奪う毒の風の使用を厭わないとは思わなかった。
 ――否、ドラゴンプロトコル以外を虫けら同然と嘲笑う者たちならば、そこに他にどんな死が介在しようがお構いなしということか。
 状況から分析出来てしまう敵の思考が腹立たしい。ともあれ、怒りも今は腹に収めてすべきことを迅速に成さねばならない。
 元凶を当たるのは他の者達に任せて、トゥルエノは急ぎロンゲル一家を救出すべく地を蹴った。

 宝石コスメの店は鉱石竜の群れに包囲されていた。中から戦う音ややわらかな光が溢れていることから、先んじて戦う者たちもいるのだろう。だが、それでもまだ群れの壁は厚い。
「鉱石竜の群れ……このような状況でなければ興味深い存在ではあったのだろうけれど」
 確か、鉱石を主食とする野良の地竜だ。石を食って生き、身体に鉱石を生やすという謎めいた生態は、平時であればトゥルエノにとっては大層興味を惹かれる存在だ。
 だが、この地竜たちは違う。操られているのか導かれているのかは定かではないが、明らかな意思と狂暴性がある。そうなった鉱石竜には言葉は届かず、故に救いたいのならば屠るしかないとトゥルエノは瞬時に断じた。
(数の多さも厄介そうだな。速さと処理速度を求めるのであれば……)
 毒の風は今も幾度となく吹き付けている。ここにも浄化の光を溢れさせる仲間がいるが、一番の狙いであろう一家を昏い思惑の外へと、一分一秒だって早く脱出させねばならない。
 ならば今此処で選び取るべきは、最速の紫電。
「鳴り響くは雷音――」
 バチリと弾ける音と共に、手にした詠唱魔導槍に紫電が宿る。その音に鉱石竜たちが振り返る頃には、もう遅い――!
 最速で突き出された帯電武装が一体を串刺しにすると、そのまま力任せに槍を薙ぎ払う。数体纏めて吹っ飛ばすと、休む間もなくトゥルエノはさらに踏み込んだ。
 鉱石竜の中で厄介なのは尾だ。鉱石がハンマーのようにも剣のようにもなる尾を膂力のままに振り回す攻撃は、決して油断してはならない。小さくとも相手は竜なのだ。
 当たればただの怪我では済まない一撃を、トゥルエノは細かく踵を返し、時折空中に身を躍らせて身躱しながら槍を振るう。
 その身軽な攻撃に翻弄されて、狙いを定められない鉱石竜の背後を取って雷槍を突き刺せば、そこに大きく道が出来た。
「逃げるぞ、早く」
 急ぐ時程言葉は端的でわかりやすい方がいい。
 よろよろと立ち上がった一家の道を守らんと、トゥルエノは更なる紫雷を武器に纏わせる。包囲を抜けられるだけの隙を作り続けるのが己が使命。仲間に先導された家族が逃げ切るまで群れを抑え道を作るのだ。――とは、いえ。

「全て片付けるのも吝かではないがな」

 雷撃一条。
 飛び出してきた鉱石竜を落雷が如き速度と威力で串刺して、トゥルエノは鉱石竜たちを静かに見据えた。

花七五三・椿斬


 突如吹き抜けた風が運ぶ、過熟して腐り弾けた果実に似た甘ったるい匂い。それをひとたび吸い込めばくらりと揺れた視界に、花七五三・椿斬は瞬時にその正体を理解する。
「くっ……この風……毒か!」
 腐った風。なるほど、確かに臓腑を腐らせる程の濃密でいっそ息苦しい程の甘さは、そう例えるに相応しかろう。
 最も悪いのは、この風が人もドラゴンプロトコルも区別なく猛威を振るっているということだ。無差別の毒の風など洒落にもならない。その上での鉱石竜たちの包囲。
 ――誰も逃がさない。等しく死に堕ちた上で、竜人たちを解体して己が身のひとつとなりましょう、と。喰竜教団は、そう言っているのだ。
 このままではドラゴンプロトコルたちも街も危険だ。時間をかければかける程、事態は悪化し死が溢れてしまう。
「何とかしなきゃ! 僕はまだ未熟だけど……守ってみせる!」
 胸に過る未熟という名の青さを振り払って、椿斬は武器を手に駆けだした。

 ドラゴンプロトコルであるロンゲル一家は、鉱石竜たちによって特に厚い包囲に囲まれていた。毒は無差別であっても、やはり一番の狙いは彼らなのだろう。
 能力者たちの助けを借りて脱出を図る一家のもとに駆け寄ると、椿斬はすぐさま彼らに己の力を防護の膜として纏わせる。椿の香りがふわと彼らを包むのを確認すると、椿斬は宙へと躍り出た。幾度となく吹き付ける『腐った風』が、またしてもカプリスマルシェを襲ったと同時、吹雪を身に纏った白銀が華羽団扇が破魔の力を纏う。
「これ以上、毒を広げさせる訳にはいかないんだ!」
 渾身の力を込めて椿斬は団扇を振るった。
 それはまさしく古の伝承に語られし芭蕉扇の如し。巻き起こった破魔の旋風が毒の風ごと一家を追っていた鉱石竜を吹き飛ばしていく。
 一気に清浄になった空気に一家がようやく大きく息を吸った。冬の冴えた朝のような空気で肺を満たして安堵する彼らを見て、自分だって出来ることがあると知る。
 未熟かもしれない。出来ないことの方が多いかもしれない。けれど、それでも出来ることがある。嗚呼それならば、自分に出来る最善を為すまでだ――!
「行って! 絶対に守るから!」
「ありがとう! きみも気を付けて!」
 後方から弾丸のように飛来した鉱石竜を受け止めて、椿斬は一家に叫んだ。せき込みながらも必死に声を返したマリに頷いて、椿斬は風の霊力を込めた衝撃波を鉱石竜に叩き込んだ。
 美しく砕けていく鉱石の破片の中に、もう椿斬の姿はない。吹雪を隠れ蓑に風から風へと飛び移る少年は、椿鬼と胡蝶侘助を閃かせて次々と鉱石竜を斬り払う。
 目蓋に引いた|くれなゐの紅《アルマンディンガーネット》が椿斬に勇気をくれる。だから、もう椿斬は躊躇わない。
「……絶対、諦めない!」
 腐った風を破魔の風で打ち消して、椿斬は胡蝶侘助を一閃する。『勝利』の石言葉を冠する紅を引いた花天狗を止められるものなど、もうここにはいやしない。

ニル・エルサリス
捧・あいか


 女の笑い声と共に、幾度も吹き付ける|『腐った風』《毒の息吹》。ひとつ吸い込めば目眩を覚え、ふたつ吸い込めば吐き気を覚え、それは見る間に酷くなっていく。
 ひともドラゴンプロトコルも区別なく襲う毒と、マルシェ全体を包囲する鉱石竜の群れ。その上で、標的であろうドラゴンプロトコル――ロンゲル一家を絶対逃がしはしないという、店への襲撃。
 同時多発的に起こった事件は人々に混乱と恐怖を齎し、このままでは誰も逃げられないうちにマルシェには笑顔ではなく死が蔓延ることとなる。
 ――けれど、それを良しとしない為に此処に来たのだ。

 事態を把握した途端、能力者たちはそれぞれ行動を開始した。
 全てを一人で同時に解決できる必要も、全てを一人で背負う必要もない。集った仲間たちと己の得手を活かして事に当たれば、解決できぬ問題などないのだから。
「……まずやることは……毒の風を抑えること……!」
 右手にマイクを握り締め、捧・あいかはしっかりと前を向く。あいかは|歌手《シンガー》だ。いつだってあいかの真ん中には『歌』があって、己が得手と問われれば迷わず答える唯一だ。
 皆を歌で笑顔にしたいといつだって願っている。だから今、皆が苦しくて不安で怯えている今こそ、『歌』を力に変える時だ――!
 ブギウギフォンに指を躍らせて、A・カペラ音楽魔法陣を起動する。歌う曲はすでに決まっている。
「今歌う曲は、|月明かりの涙《ネヴァー・フォーゲット》!」
 展開した音楽魔法陣から鳴り響くオケに、マイクのスイッチをONにする。マルシェ全体に、そこにいるすべての人に届くように。腹の底から声を出して歌の世界を描こう。

 ――月の涙を見たことはある? ふるえる空に怯える誰かに、そっと寄り添う小さな欠片。
 
 描き出された空に浮かぶ月が流す涙。宇宙に零れ落ちた雫はひかりを浴びて煌めいて、やがて空を流れ出す。
 誰かの願いを背負い、いつか燃え尽きるその日まで空を駆け続ける|月の涙《願いの星》。弧を描いて空を渡る星にあいかが願うのは、風。
「お願い、腐った風を追い返す追い風を!」
 あいかの歌から放たれた願いを受け取って、星が一際強く煌めいた。
 風が、吹く。涼やかで清涼な夜の風が、腐り落ちて甘ったるく澱んだ風ごと包んで追い払っていく。
 倒れ伏した人々が、大きく息を吸った。体内に巣食った毒すら攫って行く風に救われて、胸の苦しさが幾分やわらいだのだろう。顔を上げる彼らの目に映ったのはあいかの花咲くような笑顔と。それから、美しき氷の竜だった。

 あいかが歌を奏でるのと時を同じくして、ニル・エルサリスもまた己がすべきことを胸に決めていた。
 ニルもドラゴンプロトコルだ。無差別でありながらドラゴンプロトコルには|よく効く《・・・・》ように出来ているらしいこの毒の風は、少々苦しい。目眩も吐き気もぐるぐると巡る。それでも行動不能にまで陥らないのはニルが√能力者であることに加え、仲間たちの支援もあるからだろう。ならば、動かぬわけにはいかない。
 兎にも角にも、先ずは被害を最小限に抑えることを考えなければならない。少女が歌で風を呼び、毒を攫うというのなら。ニルがすべきこと、出来ることは人命救助だ。出来ることならすばやく大勢を運び出せる手段であれば尚良しだ。
「なら……迷ってる暇はないわね。ごめんなさい、何かあったら手伝いを頼めるかしら」
「いいわ、任せて!」
 手近な能力者――あいかにそう問いかければ、完結且つ明瞭ないらえが返る。委細を聞かずとも「任せて」と告げる少女の頼もしさに頷いて、ニルは己が力を解放した。
 
 パキリ。ニルから溢れ出した冷気が足元を凍り付かせる。一度閉じた瞳をゆっくりと開けば、その目は既に竜眼と化し。巻き起こった冷気の嵐がニルを包み込む。白い肌は凍り付く音と共に竜麟と氷気に覆われていき、程なくして吹雪が解けた頃。
 そこに立つのは気高き真竜、一頭の氷葬竜であった。
 |氷葬竜《ニル》はぐるりと視線を巡らせると、近くに置いてあった大型の荷車を咥えて人々の傍にそっと置く。
 これならば一度に多くの人々を運搬できるし、自力での退避が難しい人も安全圏まで一緒に護送することが出来る。この姿では竜漿の消費が激しく、どの程度動けるかという確証はないが。既に協力は取り付けてある。ならばあとは、実行するだけだ――!
「みなさん、この荷車に乗ってください! 動けない人や子ども、お年寄りを優先してあげてくださいね!」
 あいかの誘い導かれて、よろよろと立ち上がった人々は協力し合い荷車に乗り込む。そうして周囲の一団を全員荷車に乗ったことを確認すると、ニルは荷車を再び咥えた。
 目指すは仲間の能力者たちによって開いた包囲網の穴。そこに、一直線に飛び込んだ。

 ニルが人々を救助している間に、あいかはすぐさま願いを弾丸に込める。月の涙が背負う願いはそう長い時間は持たない。まだ願いが効いているうちに、あいかはピストルを構えながらロンゲル一家のもとへと走る。
 襲い来る鉱石竜を躱し、必死に逃げる一家を追い縋る鉱石竜の群れに逆風を吹かせる弾丸を撃ちこむ。着弾と同時に吹き荒れた逆風は鉱石竜を吹き飛ばし、その間に少女は一家を連れて包囲網の外へと駆ける。
「ここから先はきっと大丈夫です、もう少し離れていられますか?」
「ありがとうございます、だい、じょうぶです……」
「助けてくれてありがとう!」
 夫に支えられた妻が息苦し気に頷く傍らで、マリが涙ながらに頭を下げた。ドラゴンプロトコルとはいえマリたちロンゲル一家は何の力もないただの一般人だ。能力者たちの助けがなければ命はきっと無かった。
 けれど幾人もの能力者たちが駆けつけてくれた。ロンゲル一家だけではなくて、マルシェに居た全員を救おうと奮闘してくれて、家族も家族が作ったものも、マルシェに出店している人々も、彼らが作った作品も、それを楽しんでくれるお客さんも。全てが大切なマリは、幾度も、幾度だって頭を下げた。
「マリ、顔をあげて。大丈夫。私、歌謡スタアの前に√能力者だから……こうやって助けたいもの、守りたいと思う世界や人を救いたいと思うの……!」
 歌も、ピストルも、秘密の力も。全部をかけて救う事。それを望むことは、途方もない夢だろうか。それでも『諦め』なんて文字はあいかの辞書には存在しないから。あいかはもうひとつの力を使う。そうして三人を救いたい、救ってみせるから。
「元気を出して! みんなできっとあなたたちもお店もマルシェも救ってみせるから。もう大丈夫!」
 言葉は力となって広がって、ロンゲル一家のみならず周囲に居た人々全員にポジティブな気持ちと元気を分け与える。
 溢れてやまない元気な気持ちを分け与えて、皆を笑顔にすることが出来るなら。それがあいかの幸せだ。
「ありがとう……お嬢さん、歌手なのね。あのね、……あのね! ライブの時、メイクアップアーティストが見つからなかったら私を呼んで! とびっきりのステージメイク、してあげる!」
 一生懸命に叫んで、マリは大きく手を振った。家族を支えながら、自分に出来るお礼はそのくらいしかないけれどと胸を抑えながら。

 意地汚くも追い縋ろうとする鉱石竜を、試作型戦略拡張アタッチメント『S.K』に換装した精霊銃で薙ぎ払ったニルが、彼らの背を守る。
 仲間たちと協力したことで、竜漿を使い切る前に人の姿に戻れたことは僥倖だった。気絶もせずに、まだここに立っていられる。
「避難もあと少しで完了するわ。でも、鉱石竜が残ってると後を追われかねないから」
 愛用のガントレットをしっかりと装着して、ニルは随分と数の減った鉱石竜たちを真っすぐに見据える。後顧の憂いなど残さない。ここで、全て断つ為に。
「制圧しましょう」
「ええ!」
 互いの愛銃を構え、ニルとあいかは未だうごめく悪意に照準を合わせた。

廻里・りり
ベルナデッタ・ドラクロワ


 ひと吹きの風が、平和を無遠慮に崖下へと蹴りだした。
 転がり落ちた平穏は甘ったるい毒の風に背を押され、人々を苦しませ、逃げ惑う人々を逃がさぬと逃げ道を鉱石竜が包囲して、真っ逆さまに|崖下《じごく》へと落ちていく。
「ひどい……どうしてお店が狙われているんでしょう?」
 混迷の最中、廻里・りりは宝石コスメの店を包囲する鉱石竜の群れへを見て、まぁるい耳をぺたんと下げた。
 喰竜教団がドラゴンプロトコルを狙うことは知っている。けれどだからって、ここまでする必要はあるのだろうか。
 毒はドラゴンプロトコルのみならず全ての人々に影響を及ぼしている。つまりこれは無差別テロに他ならない。その上で周囲を包囲し、逃げ道を塞いだ。更には狙いであろうロンゲル一家を取り囲むなんて、まるで二重の檻だ。
 ――いや、もしかしたら。混乱する人々が多ければ多いほど、脱出というものは困難になるものだ。逃げ場を探して惑う人々の中では自由に動くことも儘ならず、そうこうしているうちに毒は体内を隅々まで侵し尽くす。
 そうすれば後に待っているのは静寂と、虐殺。それを確信して、|あの女《・・・》は笑っているのだ。
「とても、嫌な笑い声ね。この状況下で楽しそうだわ。悪趣味なこと」
 三重の檻という過剰な程のトラップ。それを施し笑う女への嫌悪に、ベルナデッタ・ドラクロワは形の良い眉を顰めた。
 悲鳴と苦悶。涙と怒号。そんなものを愉しむ精神性が理解出来ない。この世のなるべく多くの|モノ《友》の幸せを願う彼女にとっては、人々の幸福を壊すものこそを嫌悪する。此度の喰竜教団など、その筆頭のようなものだ。
「ど、どうしましょう、ベルちゃん……!」
 混迷しきった状況に、おろおろと動揺を隠せないりりがベルナデッタの袖を引く。事態は同時多発的だ。手を付けるにしたって何から対処したらいいのか迷ってしまう。迷っている間にも事態は進む。だからこそ、困り果てたりりはベルナデッタのかんばせを仰いだ。
 くるり、ベルナデッタはすばやく視線を巡らせる。既に周囲を取り囲む鉱石竜への対処に向かう能力者たちが見える。包囲網に穴を開ける役目は彼らが担ってくれるだろう。宝石コスメの店にも何人も走っていく者が居る。あちらもきっと大丈夫だ。
 ならば、手が足りないのは。
「……ワタシ達は来客たちを逃がしましょう」
「……そう、ですね。まずは避難を優先させましょう!」
 手が足りないのは、人数の多い来客たちの避難だ。この周囲にも未だ『腐った風』に苦しむ人々が居る。出来る限り全員を救いたいと願うのならば、きっと今、二人がすべきことはそれなのだろう。
 すべきことが定まれば、おのずと自らが出来ることがわかってくる。
 だからもう、りりが惑うことはない。人々が安全に避難する為にはまず、この毒の風をどうにかしなければ――!

「さあ、願いを届けて!」

 超常の光がりりが組んだ両手から溢れる。放たれた光が空へと昇り、花火のように散った。燦きを宿した星々の幻影が宙から、願いを叶える為に降り注ぐ。その光へと、りりはそっと祈った。
「毒をはらむ風が癒しの風になりますように」
 ちっぽけなりりができることは多くはない。けれど、何も出来ないわけではない。少しでも出来ることがあるのなら、それを積み重ねていくことが大切だとりりは知っているから。
 |星穹《りりが灯すひかり》が吹き付ける『腐った風』を包み込む。ひとつ、ふたつ。星が瞬くたびに風の毒は性質を反転させて癒しの風へと変わりゆく。花の香に似た涼やかな風が、りりの髪を揺らした。
「あなたたち、りりの周りへ」
 りりの周囲が癒しの風で満ちるのを見届けて、ベルナデッタは膝を着く人々を支え起こす。
 声を出して指示をすることは大切だ。混乱した人々にとって冷静で具体的な言葉は理解がしやすい。言われるまま、人々はりりの傍によろよろと歩み寄る。
 そこでようやくまともな呼吸が出来ると気づいて、彼らは幾度も深呼吸をした。彼らはきっともう大丈夫だ。
「りりの周りで呼吸を整えて、さあ。走るわよ」
「お手伝いできるかたは、動けないかたを支えていただけるとたすかります!」
 自力で動ける者が増えたことで、互いに支え合うことが可能になる。けれど癒しの風があって尚、自力で立ち上がれる者が居た。老婆と幼い子どもたちだ。
 元々免疫力が然程強くないのだろう。毒の巡りが早かった彼女たちは、癒しの風を一生懸命に吸い込みながらも、未だ立ち上がれるまでに回復していない様子だった。
「この子たちは……歩けなさそうね」
「任せて! アステちゃん、手伝ってください!」
「あなたは|宵闇《ヴェスペール》に乗って頂戴」
 老婆と子ども達の傍に、りりとベルナデッタの友が寄り添う。星を抱く夜空のようなライドスライムが二体。任せてとばかりにぽよんぽよんと跳ねた。
 くにゃりと低くなってくれたアステと宵闇に老婆と子ども達を乗せてやれば、ようやく準備が整った。
「ベルちゃん。逃げ道の確保はベルちゃんにお任せしちゃいますね」
「ええ、りり。進む道は任せて」
 寄せられる信頼に頷いて、ベルナデッタが先頭に立つ。その指先に、ちりりと炎が灯った。
「……火……?」
「そうよ。でもこの炎はあなたたちには火の粉さえ熱くないわ。大丈夫」
「おねえさんも……あつく、ない?」
「ワタシの心配をしてくれるの? 優しい子ね」
 宵闇の背に揺られ、ベルナデッタを見つめる少女の髪をそっと撫でる。少女のような純粋な優しさをもつ子の命も、幸福も、奪われて良い謂れなど無い。
「|黄昏《クレピュス》、いくわよ」
 名を呼べば影が蠢いた。それを了承と受け取って、少女人形は前方を塞ぐ鉱石竜の群れへと駆ける。
 薄紅の瞳で魅了出来た鉱石竜はそのまま足止めし、瞳で捕らえられなかったものは影から現れた腕が捕らえる。それすら逃れた竜へと、指先に灯った炎を差し向けた。
 だが、竜は怯まない。焔など鉱石の前には熱が足りぬとでも言うように。
「鉱石竜、もしかして炎は平気と侮っているかしら?」
 そんな甘い思考を見抜く、薔薇色の瞳。
「いいえ、燃やすわ。この炎はね、ワタシが焼いてしまいたいものだけを、燃やすの」
 燃えるだとか、燃えないだとか。そんなものは関係がない。
 燃やすとベルナデッタが願ったものを、この炎は焼き尽くすだけ。言葉に呼応するように一気に火力を上げた炎に叫び絶命した鉱石竜には、もう目もくれていなかった。
 道を拓くのがベルナデッタの役目。りりが守る人々を無事に逃がす為に、縛って、燃やして。繰り返して。
 炎と影の中で、薔薇のような少女は踊る。

九鬼・ガクト
香柄・鳰


 ――ふふ。
 
 どこからか、おんなの笑い声と共に風が吹く。
 それは愛し子に対するように甘やかで、艶やかで、慈愛に満ち溢れた――死神のような声。
「んー、何か甘い匂いがするね?」
「はい。宜しくない匂いですね」
 スン、と鼻を鳴らした九鬼・ガクトが唇を引き締める隣で、香柄・鳰も唇から笑みを消した。
「なるほど。熟れ過ぎた果実? というよりは、腐った臭いだね。コレは毒の風、毒が流れているね」
 そうガクトが言い切ってしまえるのは、後ろの|死神《おんな》が嬉しそうにしているからだ。上機嫌に足を揺らす死神には毒の風など甘露と変わらない。甘さを味わうように風を吸って艶やかな紅を差した唇で舐めずりをしている。
 甘く、甘く熟して、熟しすぎて腐り落ちたような、眉根を顰めざるを得ない香りだ。甘さは過ぎれば苦味となり、苦味は過ぎれば苦しさになる。そうして風と共に臓腑に入り込んだ|甘さ《どく》は、内側から獲物を腐らせるのだろう。しかも、ひともドラゴンプロトコルも一切の区別なく、だ。
 悪趣味だこと、と小さく呟いた鳰の声音には、温度はなかった。
「ガクト様はあまり深く息を吸われないようお気をつけください」
「んー、ありがとう。鳰もするんだよー」
「はい、では私も」
 鳰が袖口より取り出した手巾を口に当てる。どれほどの意味があるかは未知数だが、それでもやらぬよりはずっといい。

 市場は混乱していた。無理もない。ただ楽しいばかりの祭りが突如として逃げ場のない檻と化したのだ。毒ガス室に放り込まれたのと同じ。だが、|だからこそ《・・・・・》能力者たちはここに来ているのだ。
「奴らはロンゲルご一家のお店を狙っているようです」
「んー、あぁ宝石コスメの亭主達を狙ってるんだね」
 戦場を掌握するコツは、如何に素早く戦況を把握するかだ。
 味方の状況、数、能力。敵の配置、動き、攻撃能力。嘗てそれらの判断を得意とし、采配を行い、一度は将軍まで上り詰めた男が此処に居る。それは紛れもなく、教団にとって誤算であっただろう。
 短い時間で狙いと戦場を把握した男は、隣に立つ自らの『刀』と共に思索を巡らせる。
「あのお店には仲間たちも居たはず……ならばご家族の脱出は彼らにお任せして。我々はその後の路を用意しておくのは如何でしょうか」
「そうだね、他の人や家族の脱出は任せてしまおう。それからこの毒の空気は……」
 後ろを見る。後ろの子は今も堪能するように風を味わっている。のど越しを楽しむ様子すら見られるから、余程この風は|死神《かのじょ》にとって死に満ち溢れて美味いのだろう。
「……この風美味しいなら全部吸っといで」
 小さな許可を出せば、彼女は『いいの?』とばかりに笑みを咲かせてガクトの背を離れた。鼻歌まで聞こえてきそうな軽い調子は、まるでご馳走を前にした猫のようだ。
「死神の御方は何処かへ行かれたので?」
「んー、彼女は食事に行ったよ?」
 任せても問題あるまい。不思議そうに首を傾げた鳰にそう答えれば、淡く霞がかる鳰の瞳が彼女の背を目線で追い。
「ま、まあ私如きの心配は不要でしょうし……」
 何故だかしどろもどろになった。「そうだね」と答えたガクトは、のらりくらりと笑うだけ。
 こほん、と咳払いで気を取り直すと、鳰はガクトの前に膝を着く。臣下が、主にそうするように。
「この外側の包囲網の突破と、街の方々の救出をしたく。どうぞ行動の御許可を」
「いいよー。じゃ鳰、私達はアレを始末しに行こうかね?」
 至極軽い調子で与えられた許可。返事の代わりに刀の柄に手をやれば、チキリと金属質な音が響いた。

 駆け寄るは宝石コスメの店に程近い包囲網。
「動ける方はご一緒に。あぁ、あなた様はどうぞ無理をなさらず、少しばかり失礼」
 仲間たちの行動が周囲にも影響を及ぼしているおかげで、歩ける者が増えているのは僥倖だ。それでも抵抗力が弱い者や、元より弱っている者の回復には少しばかり時間がかかる。
 足が悪いのであろう老人を、鳰は難なく担ぎ上げると近くの物陰まで連れて行ってやる。礼を言う老人に「力はちょっとある方ですから」と笑みかけると、すぐさま鳰は踵を返した。
 目指すは最も手近な道。教団であるが故にドラゴンプロトコルであるロンゲル一家の周囲の包囲は殊更に手厚いようだった。仲間たちの活躍もあって数を減らしてはいるが、それでもまだ厚い。
 駆けよれば新たな敵を察した鉱石竜たちの目線が、殺気を孕んで二人に集中する。その動きのたびに、全身を覆う鉱石が眩く煌めいた。
「……まあ、硬そうな竜」
「んー、キラキラとした綺麗な竜だ」
 平時であればそれも美しいものとして愛で、観察したかもしれない。だが今これらは明確な敵であり、その鉱石は身を護る強固な鎧だ。それでも、二人に気負いなどひとつも無かった。
「皆さんは戦闘が落ち着くまでは隠れていて下さいな」
 後をついてくる人々に鳰がかける言葉は、いつだって落ち着き払っている。余裕すら感じられる所作と笑みが人々に安心感は確かなもので、頷いて物陰に隠れる人々を確認してから鳰は地を蹴った。

 何を穿てばよいのか。刀の切っ先を向ける先を既に定めた鳰に迷いなど無い。
 鯉口を切る音と共に大きく踏み込み、玉緒之大太刀を抜き放つ。戦い慣れた神速の居合は狙い外すことを能わず、鉱石に覆われた竜を一閃の元に斬り払う。
 返す刃で飛び掛かる鉱石竜を薙ぎ払い、足を止めることなくさらに踏み込む。その背では、ガクトがハチェットを手に後の先を取り続けていた。
 振り抜かれる尾の予兆の瞬間を感じ取る才能は、嘗て培ったものであろうか。相手が攻撃を届かせるより早く駆けて、その尾を斬り落としてすぐさま影へと溶ける様は流れる水のようだ。
 だが、数とは優位であり脅威である。後の先を取り続けるにしても数体同時に攻撃されるのであれば、時に、取り損ねる。
「鳰」
 だから呼んだ。
 竜の尾が襲い来るよりも早く届く、大太刀の切っ先を。
 いらえは割り込んだ影と刃先と尾がぶつかり合った硬質な音。刃先をずらして慣性のままに攻撃を受け流せば、刃を返し叩き斬る方が早い。
「毒の風だけでなく、我が君を傷つけようとは許しがたい」
 その声には微かな怒り。刃に神気が宿る。
「疾く退きなさい!」
 上段から勢いよく振り下ろされた刀から衝撃波が飛んだ。三日月の如き斬撃は周囲の鉱石竜を纏めて斬り払う。
 その陰から、藤刀に持ち替えたガクトが飛び出した。眼前に、一際大きい鉱石竜が咢を開いている。それが彼らの親玉なのだと見抜いたガクトに躊躇いはない。大将首がそこにあるならば、迷わず狙うが将であろう――!
「そこだな」
 鉱石竜がいくら頑丈であろうと生物である以上弱点が全く存在しないものは存在しない。例えば鱗の継ぎ目。関節。或いは内側。
 反撃の構えを見せる鉱石竜斬れ味鋭い刀が、見定めた場所を斬り刻んだ。
「やっぱり切れ味が良いと竜でも良く斬れるね」
 ドサリと鉱石竜の首が落ちる。鉱石が石畳を跳ねたのを最後に、鉱石竜たちが遂に後ずさりを始めた。ようやく彼らも、恐れというものを思い出したらしい。
 刀の刃零れを確認してから鞘に収めたガクトは、一息ついて鳰を見る。彼女はまだ、刃を収めてはいない。
「んー?」
「……? はい、何でしょう?」
「怪我なくね?」
「あら、私は何とでも。御身が最優先です」
 笑う姿は艶やかで、妖艶であった。
 
 そうして暫しの後。鉱石が石畳を跳ねる音を最後にマルシェを囲んでいた音が止んだ。
 風はもう甘い匂いを名残りすら残してはおらず、包囲網を打破しきったことで人々は安全に脱出していく。

 あとに残ったのは猟兵と、面白くなさそうに唇を尖らせたおんなが一人――。

第3章 ボス戦 『喰竜教団教祖『ドラゴンストーカー』』



 風が止んだ。
 鉱石竜による包囲網は打破され、甘い匂いは名残りすら消えて。ロンゲル一家をはじめとした人々は無事に避難を終えることが出来た。
 あとに残ったのは能力者たちと、面白くもなさそうに溜息を吐くおんなが一人。

「嗚呼、なんてこと。能力者たちが来る前に終わらせるつもりでしたのに、もう紛れ込んでいるなんて」

 その吐息に混ざるのは先程の甘さ。恐らく、取り込んだ真竜に毒の息を吐くものが居たのだろう。風を操り毒を届けていたのは彼女本人に他ならない。
「忌々しい能力者たち。わたくし共の言葉に耳を傾けないばかりか、わたくし達の崇高な使命を何度も何度も邪魔をして。だからこうして厳重に場を整えましたのに台無しです」
 かつん、かつんと、ヒールが石畳を鳴らす。
 そうして地に落ちていた赤珊瑚の口紅を手に取ったおんなは、そこに残る竜の力の残滓を感じ取って笑みを深めた。躊躇いなく自らの唇に紅を引けば、恍惚とした表情を浮かべる。
「お可哀想なドラゴンプロトコルの皆様。人に堕ちて、こんな微かな力しか引き出せないようになってしまったなんて、あまりにおいたわしい。皆様もそう思いませんこと?」
 ――嘗て、この世界は竜に覆われていたという。
 現在確認されている天翔ける竜の大半が|死後の姿《インビジブル》だが、その威容は今も人々を惹き付け、世界に魔力を供給し、竜の魔力を浴びて生まれ育った者の血液に竜漿という恩恵を齎し続けている。
 確かに竜という存在は、この√ドラゴンファンタジーに於いて無くてはならない存在なのだろう。インビジブルになってもこれほどに世界に影響を与える生き物など、どのくらい居るだろうか。
 それに比べて、ドラゴンプロトコルはどうだろう。記憶と力を奪われて人の姿に堕とされ、竜の姿を取り戻せる時間は膨大なインビジブルを消費して尚僅かでしかない。
 その上で戦う力すら持たないドラゴンプロトコルは、さぞかし誇りを傷つけられているだろうと。
 ――おんなは、本気でそう思っているのだ。
「ですから、か弱き姿に堕とされたドラゴンプロトコル様を弑して、その遺骸をわたくしの肉体に移植することで、いつか『強き竜の力と姿』を取り戻して頂くのです。どうして皆様には、その素晴らしさがご理解頂けないのでしょう?」
 おんなは心底不思議そうに首を傾げる。なにひとつ、自らが掲げた教義を疑っていない。いや、疑っていては教祖など出来るはずもないのか。
「ふふ。けれどもよいのです。理解されなくとも、阻まれようとも、それは試練。わたくし共の信仰はいささかも揺らぎはしません。だってわたくし共は、心の底から真竜様たちを愛しているのですから」
 巨体な大剣を軽々と振り上げて、意思以外のすべてを簒奪した肉体で埋め尽くしたおんなは美しく微笑んだ。

 おんなの名はドラゴンストーカー。喰竜教団の教祖を名乗る、簒奪者だ。
楊・雪花


「喰竜教団の方とはどうあっても相容れませんね」
 恍惚としたドラゴンストーカーの言葉に、楊・雪花は呆れと共に大きな溜息ひとつ吐いた。
 本当はひとつでなんか足りやしない。何度だって同じことの繰り返しだ。他人の意見は人はおろかドラゴンプロトコルの意見だって聞きやしない。いい加減、反抗も呆れに変わるというものだ。
「まあ、ドラゴンプロトコル様がおひとり。お待ち下さいませね、今わたくしがひとの身体という軛から解き放ってさしあげます」
「ドラゴンプロトコルの一人として言いますが……私は全然あなたの言う様なことは望んでいませんからね!」
「ああ。どうして? ご心配なさらないで、痛みはないよう一瞬で終わらせますから」
「もう……!」
 似たようなことは以前だって言ったはずなのに、この女ときたらひとつも覚えちゃいない。いや、もしかしたらはじめからひとつも聞き入れる気ないのかもしれない。
 理解など不要。立ち塞がるのならばそれもまた試練と、ドラゴンストーカーは言う。天啓を受けたと宣う女の身勝手な解釈は厄介かつはた迷惑に他ならない。
 だからきっともう、言葉では伝わらないのだろう。ドラゴンストーカーには既に心に決めた芯がある。決して揺らがぬそれを教義と呼ぶのなら、ドラゴンプロトコルである雪花が言うべきことはもう、ひとつだけだ。
「真竜としての力が少ししか出せなくても。記憶がなくなってても」
 手にした精霊銃に氷気を込める。同時に、戦闘補助スマホをタップひとつで起動した雪花はドラゴンストーカーを見据える。
 大剣を振りかぶりながらも、慈愛さえ感じさせるようなドラゴンストーカーの表情は薄気味が悪い。きっと雪花が何を言おうと、『それは真竜であった頃を忘れているからだ』とでも言うのだろう。
 だからこそ『否』と言わねばならない。ドラゴンプロトコルの、雪花の幸せが『今』か『昔』かなんてドラゴンストーカーが決めるべきではないのだ。
 そして、雪花の答えはもう決まっている。

「今の私は毎日幸せなのでお引き取りください!」

 心からの叫びと共に迷わず引金を引く。弾道計算された弾丸は放たれた先から氷結していき、ドラゴンストーカーが振り上げた大剣とぶつかって剣を一気に凍り付かせる。

 さながらそれは、氷の蕾が花開くが如く。

ウイル・カサブランカ


 凍り付いた剣の重みに振るう腕がぶれる。簒奪した竜の膂力を以てしても尚バランスを崩したドラゴンストーカーの隙を、狩人の瞳は見逃しはしない。
 一直線に突き出された突撃槍に大剣を弾かれて大きく後退ったドラゴンストーカーは、忌まわし気に槍の主――ウイル・カサブランカを睨んだ。
「言葉を借りよう」
 舌打ちをしたドラゴンストーカーが口を開くよりも早く、凛とした声音で告げる。
「"お可哀想なドラゴンストーカー様。幾度も斃され『強き竜の力と姿』は遠退くばかりでおいたわしい"」
「なんですって?」
 自身が宣った言葉を使った痛烈な皮肉に、ドラゴンストーカーの眉が跳ね上がった。皮肉とは、その言葉が事実に即すれば即する程に相手の心を抉るものだ。
 どうやら随分深々と突き刺さったようだと確信して、ウイルは唇に笑みを佩く。
「御託を並べているが、力を欲しているだけだろう。崇めるなら自らが其れになる必要はないのだから」
「それは違います。わたくし共は心から真竜を敬愛し、崇め奉り、その御威光を再び取り戻さんと……」
「いいや、違うな。いくらそうでないと言い張っても、お前の利己的な行動が全てを物語っている」
 嗤いながら、ウイルはシールドとランスを分離し構えて腰を落とした。
 なにが違うというのだ。どんな天啓があったか知らないが、やっていることは虐殺と簒奪。それだけだ。奪った肉体のどこに、真竜へと至る兆しがあるというのだ。
 再び真竜へ至ることを願うドラゴンプロトコルだっているだろう。だが、少なくとも今此処に、それを望む竜人たちはいやしなかったのだ。
「マリは両親のような職人を目指すと言った。それが彼女の欲す未来。他の皆にも望む未来があるだろう。手前勝手な|理想《信仰》なんざ糞食らえだ」
「まあ、随分好き勝手に仰いますね」
「お前程じゃないさ」
 首を傾げるおんなとの対話を断ち切った。これ以上は無駄だ。対話による相互理解などハナから期待しちゃいないが、無意味な問答を重ねる程にウイルは暇ではない。
 買ったばかりのリップを一度握り締める。これはマリの両親が為した夢であり、マリが望む未来そのものだ。それを踏み躙る女をどうして許してやれようか。
 盾を構え、槍を腰に溜めながらウイルは駆け出す。
「虫けら如きに我らが信仰を理解出来ないのは致し方ありません。であれば、疾くその口を閉じて頂きましょうか!」
 真向から迎えたドラゴンストーカーの大剣が振り下ろした大剣を盾で受ける。特大の衝撃と重量が襲ったウイルの右腕で、何かが折れる音がした。
 力なく垂れ下がった腕に勝利を確信して笑みを深めたドラゴンストーカーは、再び大剣を振り上げようとして、気づく。

「こっちの腕はくれてやる」
 |狩人《ウイル》の目は、槍は、まだ、

「私はお前が嫌いだ」

 死んでなどいない――!!

 √能力にまで昇華された神速の槍が、ドラゴンストーカーを真っすぐに貫いた。同時に施される癒しが盾を持つ腕を復活させる。
 そうして治ってしまえば、この女はウイルの何ひとつだって喰えやしないだろう。
 
「"お可哀想に"」
「この……っ」
 よろめいて笑みの消えたドラゴンストーカーの嗤うように、ウイルは目を細めて鋭い皮肉を口にするのだった。

シルヴァ・ベル
八乙女・美代


 皆の活躍によって解かれた包囲網から、人々が脱出していく。互いに声を掛け合い、動けぬ者には積極的に肩を貸し、支え合って行く姿に、シルヴァ・ベルとや八千代・美代は一先ず安堵に胸を撫でおろす。
 全員が無事に逃げ切れたようだ。これで周囲を巻き込む心配もない。
「そうしましたら、あとは……」
 振り返りドラゴンストーカーを見据えるシルヴァの指先が、ついと天の星を差す。許せない。ここまでしてしまったあの女を許してはいけない。ゆえに。
「お仕置きです」
 一気に指を振り下ろす。
 不意に自らに落ちた影に気付いたドラゴンストーカーが見上げれば、夜の魔術にて呼び寄せたこがねの墜星が視界を埋め尽くした。
「くっ!!」
 咄嗟に振り上げた大剣で受け止めたが、隕石ひとつが齎す重量と衝撃はいくら竜の膂力を|借り《簒奪し》ても足りやしない。足元の石畳が割れて、バランスを崩したドラゴンストーカーに星は容赦なく降り注いだ。
 爆発と、轟音。
 土煙晴れぬ中、シルヴァは冷ややかに爆心地を見据えて口を開く。
「喰竜教団の手に落ちたかたは、だれも『真竜になりたい』とは言わなかったでしょう」
 次第に晴れ往く土煙の中、シルヴァが見据える一点にドラゴンストーカーは居た。美しい髪を振り乱し、膝をついて尚おんなは未だ健在であった。その体力と頑丈さこそ、彼女がドラゴンプロトコルより簒奪した肉体の力であったのだろう。
 誰一人として、命を奪われることを望まなかったはずだ。誰一人として、喰竜教団の掲げる教義を信じ抜いて命を預けたわけではなかったはずだ。ゆえに、彼女の身体はきっと、嘆きと怒りと死で出来ていた。
「理想の姿とは自身が強く願って初めて成立する像で、他者に決められるものではないの。そしてわたくしたちやロンゲル家の皆様が商うもの――宝飾品や化粧品、装いとはそうした理想に近づくための品々ですわ」
「それ、が……なんだというのです。真竜様がたが再び御降臨あそばされた時は、そんなもの。わたくし共がいくらでも真竜様がたにご用意してさしあげましょう」
「アナタ、本当に話が通じないのねえ」
 隕石を受け止めてひしゃげた腕を竜化させ、シルヴァをねめつけたドラゴンストーカーの視線を遮るように、美代が躍り出た。
「ちょっとアタシと踊りましょうか。少し踏みつけてしまったらごめんなさいね」
 |足払い《ステップ》で一気に距離を詰め、鋭く放った注連縄はシルヴァを狙うドラゴンストーカーの竜化腕をきつく締め上げる。
 あの竜化部位は竜化暴走の危険性を孕んでいる。好き勝手などさせやしないと、渾身の力で振り払おうとするドラゴンストーカーを、歪みより喚び寄せた巨大な手足がさらに抑えつけて動きを封じる。
「わたくし共の教義を……この信仰と愛を、理解できない分際で……っ!!」
「あらまぁお口が悪くなってきたこと。でもね、よく聞きなさい」
 縛り上げる注連縄を振りほどこうと暴れるドラゴンストーカーを『嗜虐』の両手で押しとどめながら、美代はまるでダンスを誘うように顔を寄せる。
「信じるのは自由よ。でも理想を人に押し付けるのは違うわ。自ら真竜に至ることを望んでいるならともかく、アナタが踏み躙ってきた人々はそうではなかったのでしょう?」
「ドラゴンプロトコルの皆様は忘れていらっしゃるだけですわ! 真竜であることの素晴らしさを、それに再び至ることの尊さを!」
 ――それは、美代とシルヴァの問いに頷くのも同じことだと、きっとドラゴンストーカーは気づいていなかった。
 幾人居たのだろう。自らの命を投げ打ってまで、真竜に至りたいと望んだ者は。
 そもそも敬愛するはずのドラゴンプロトコルの意思を、この女はどの程度聞き入れたというのだ。
 自らの天啓と教義に酔い痴れて、きっと。ただの一度だって、聞きやしなかったはずだ。

「アナタがやってるのは真竜のためでもなんでもない。ただの自己満足。寧ろ真竜への侮辱じゃなくて?」
「……言わせておけば!!」
 激昂し、無理矢理にも『嗜虐』の拘束を解こうとするドラゴンストーカーを、美代とシルヴァは静かに見つめる。二人の目に映るのは、女が引いたルージュの唇。
 宝飾品や化粧品が持つ意味を、この女はわからないと言った。引いた紅に残る竜漿を感じ取って蔑んだ。
 宝飾品や化粧品というものは、身に着けた人に自信や勇気を与えてくれるものだ。それを作る者、販売する者は手に取った人々がただ笑顔になってくれるよう願うものだ。
 その意味がわからないのならば――。
「わたくし、お化粧品については美代様にはかないませんけれど、似合う似合わないは分かります」
 もう一度、夜の魔術を編み上げながら。シルヴァは硝子のような瞳をすっと細める。
「……踏み躙る側のあなたには、その珊瑚の紅は、とても釣り合いが取れる品ではありません」
「妖精さんの言う通り。アタシ達が扱うものは理想に近づくための願いが込められた品なの」
 それまで浮かべていた笑みを消し、美代は再び地を蹴った。|美意識《嗜虐》の一歩は、一瞬の顕現で万物を踏み潰す月夜の戯れ。
「紅珊瑚の紅。気安く扱わないで頂戴」
 低い声と共に振り上げた巨大な両腕が、こがねの星と共に降り注いだ。

如月・縁


 包囲網を解き、人々が無事にマルシェを脱出していく。
 誰一人として怪我はない。毒の名残りに苦しむ者も、マルシェの程近くに大きな病院があるとのことだったから、すぐに治療して貰えるはずだ。
「ロンゲル家の皆様をはじめ、無事に避難が出来てよかった」
 安堵に胸を撫でおろした如月・縁は、彼らの無事を祝う間もそこそこに暁天の色の髪を靡かせて振り返る。
 なにを為すにせよ、どんな大義があるにせよ。縁は関係のない他者を巻き込むことが何より嫌いだ。女神とは穏やかに、艶やかに微笑んでいるもの。だが今この時の|女神《縁》は、珍しく怒りを露わにしていた。
 ――嗚呼。疾く、確実に。教えてやらねば。

「ねぇ、|お美しい方《ドラゴンストーカー》」
 問いかけたいらえが返るより早く、|酒精《アルコル》の香り纏う槍が変じた竜爪弓から放たれた矢が赤珊瑚の口紅を持つ手のひらを真っすぐに射貫いた。
 あの美しい赤は嘆く人の為のものではない。ましてドラゴンプロトコルの為と謳いながら命を奪い続ける簒奪者の為のものでは断じてない。あの口紅は、それを喜び笑う誰かの為のものだ。
 |おんなの《誰かの》指から転げ落ちた口紅を拾い上げて、縁は大切に握り締める。
「|教義《ヘリクツ》も|信念《ワガママ》も各々の自由であるのは認めます」
「あら。ご理解頂けますの?」
 手のひらを貫いた矢を引き抜きながら、女は笑う。皮肉もわかっているだろうに、まるで理解されないことに慣れているかのように鮮血を散らして柔らかな笑みを浮かべる姿に、縁は薄気味の悪さを感じざるをえない。
 それでも、|仕込みは済んだ《・・・・・・・》。
「真竜がツギハギで創り上げられるという|ご立派《失礼》なご高説、痛み入ります」
「……わたくしは天啓を得たのです。あなた方にとってわたくし共が受け入れられぬ存在だというのならばそれで結構ですわ。わたくし共も、虫けら如きに用はありませんから」
 ドラゴンストーカーの笑みが一瞬引きつった。竜人以外を見下すその高慢を隠しもしない様子に、少しずつ余裕を失いつつあると知る。それを決して見逃さず、縁は言葉を畳みかけていく。
「本当に、|崇高《いいかげん》で胸が痛みます。そろそろ御自分を見つめる時です」
 必要な時間は十分に稼いだ。そろそろ種明かしの時だ。

「なにを、……っ!?」
 怪訝に眉を顰めたドラゴンストーカーの視界がくらりと揺らいだ。先程射貫かれた手のひらから痺れが広がっていくのを自覚して、ドラゴンストーカーはたたらを踏む。
 その様子を、女神は冷ややかに見つめた。
「……毒が効いてきましたか?」
「毒、ですって?」
「ええ。あなたも教祖なら民草の痛みを知るべきでしょう?」
 自分が何をしたのかを、この女は身を以て知るべきだ。ここに居た人々にも、敬愛するはずのドラゴンストーカーにも、何をして、どんな苦しみを受けて、どんな恐怖を与え、何を諦めさせようとしていたのか。
 ――苦しんで知るがいい。

クラウス・イーザリー


 毒に喘ぎ、少なくない傷を負ったドラゴンストーカーは、それでもなお闘志を失ってなどいない。
 ギラギラと野望の火を消さぬ丹力は立派ではあろうが、それだけだった。
(理解したいとも思わないし、こっちの行動を理解してもらおうとも思わないな)
 冷ややかに、端的に。クラウス・イーザリーはそう断じた。
 この女がどのような『天啓』とやらを賜ったのかは知らない。だがそれを妄信し、決して疑わず、誰の言葉にも――信奉するドラゴンプロトコルたちの言葉ですら――耳を貸さないのならば、元より説得など無意味。徒労に終わるのが目に見えている。
 かといって能力者たちも、喰竜教団に何か言われた程度で退いたりはしない。結局、戦うしか道はないのだ。これは信仰と信念のぶつかり合いに他ならない。

 ならばはじめから問答など無用。即座即決にて自らの行動を定めたクラウスは、高速化した詠唱で全力の魔法をドラゴンストーカーに叩きつけた。
 振り上げた大剣で魔法攻撃を受けてみせたドラゴンストーカーの前で、爆風が弾けた。それを隠れ蓑にして、クラウスは一気にドラゴンストーカーに肉薄する。
「ちょこまかと、人間風情が……!!」
「大剣だと小回りが利かなくて大変か?」
「ご冗談を!」
 慇懃無礼な口調が保てなくなってきているのは、徐々に余裕を失いつつある証拠だ。今まで幾度も能力者たちに計画を阻まれ、インビジブルに返されては復活してきた記憶がなまじあるからこそ、過去の失敗を繰り返したくないという焦りが生まれている。
 その焦りを利用するのだ。
 常に至近距離を保ち、見せかけと牽制を巧みに使い分けて変幻自在に刀を振るうクラウスは、おんなの焦燥を加速させる。軽い挑発にも易々と乗ってくるのがいい証拠だ。
(もう一押し)
 ドラゴンストーカーの余裕を奪い去る一手が必要だ。その機を、クラウスは冷静に見定める。
「虫けらがわたくし共の崇高な使命を何度も何度も邪魔をして……!! どうしてわたくし共の使命がご理解頂けないのでしょうか、この世界はこんなにも竜の恩恵で出来ているというのに!」
「どうしてもなにも、な」
 嗚呼、このおんなは本当に理解出来ないのだと。
 嘆息と共に、クラウスの刀を弾いてボコボコと急激に竜腕へと姿を変えるドラゴンストーカーの左腕に、困った人に差し伸べる為のクラウスの右手が差し出され、触れた。
 
「……は?!」

 その瞬間、竜化の最中だったドラゴンストーカーの左腕の変化が一瞬にして解かれた。全ての超常を否定する力への理解が及ばぬ間に、クラウスはすぐさま低く腰を落とす。

 居合一閃。

 ドラゴンストーカーの左手が手首から吹き飛ぶ。
「生きたまま人を斬ったら痛いだろう。殺してしまったら周りの人が悲しむだろう」
 それは至極当たり前のことで。誰もが知っていることで。
 ドラゴンストーカーと喰竜教団が、忘れてしまったこと。
「それだけのこともわからないくらい、自分の考えを信じているんだね」
 声音はいっそ憐れみを含んでいた。迷わず、ひとつのことを信じ抜ける姿勢はある意味羨ましい。
 けれど大切なことを忘れてしまっては信仰も地に落ちるのだと。それをわからない自分では居たくないから、クラウスは再び地を蹴った。

アン・ロワ


 喰竜教団。
 真竜の復活を掲げ、その方法として彼らはドラゴンプロトコルの遺骸を自らに移植することを選んだ。そうすることで、いつか人に堕とされた竜たちは真竜の姿を取り戻して再び大空を舞うことも叶うのだと。
 彼らのことを聞いた時、アン・ロワの胸にまず浮かんだのは怒りと怖さだった。どうしてそんなことをするのだろうと思った。それと同時に、そんな残虐な方法を妄信し、実行してしまうことに恐怖を抱いた。そうして次に覚えたのは、悲しみ。
「あたしとあなた。信じるものは、しるべにするものはおなじのはずなのに」
 傷を負い、膝を着いたドラゴンストーカーの前に立つアンは、悲し気に眉を下げていた。胸の前に宝物のように抱く書の表紙には、一頭の竜が描かれている。
 おなじ、という言葉に、苦悶の表情を浮かべていたドラゴンストーカーに笑みが戻る。
「まあ、まあ! あなたは真竜様の御威光を知る同志でしょうか! 素晴らしい、こんなところで同胞で出会えるなんて!」
 目を見開いて笑うおんなの顔に、正気など何処にもなかった。彼女の中心には真竜と自らが得た天啓があり、真竜への愛と信仰しかないのだ。
 愛するものの為に突き進む。その先にうつくしい未来が見られると信じ切っている。それしかないから、きっともう止まれやしないのだとわかってしまった。だから。
「……ううん、きっと。いちばんに救われたいのは、あなた自身なのね」
 悲し気に告げたアンの言葉に、ドラゴンストーカーの笑みが凍り付いた。

「あたしね、一度だけかみさまにお会いしたのよ。やさしくておおきな御姿。あたしのなかには思い出しか残っていないけれど……」
 聖書を抱き締めて、アンは思い出を辿る。たった一度だけの邂逅は、それでもアンの中にあたたかくて優しい光を灯すのには充分だった。
 あれはきっとかみさまだったのだと信じられるくらいに神々しくて、温かくて。その温かさを誰かに分けてあげたくなるくらいに慈愛に満ち溢れていた。
 アンはあの時きっと、『かみさま』の魂に触れたのだ。
「すがたかたちを変えたって、彼らのうつくしい魂は決して色褪せることはないの。だから、祈るの」
「ええ、共に真竜様の復活を……!!」
「ううん。すべての竜たちが、人々が、しあわせになりますようにって信じるの」
 誰かを犠牲にする道ではなく。
 嘆きと哀しみの骸の上に成り立つ復活ではなく。
 ただ、彼らのしあわせを祈る。真竜の姿であろうとも、ひとに堕とされたドラゴンプロトコルの姿であろうとも、彼らの魂はなにひとつ変わっていないはずだから。

 ――そう信じて祈り続けることを、信仰というのだ。

「……あなたもはじめは、そうだったのでしょう?」
 天涯の力を解き放った。
 揺蕩う夢の中でアンが出会ったかみさま――即ち偉大なる竜がその姿を現す。突如現れた偉大なる威容にドラゴンストーカーが言葉を失った。
 現れた真竜に、アンは両手を伸ばす。触れた硬質な鼻先からは、どこか懐かしい木々の香りがした。

 彼女の淀みも、信じるものも、すべて、すべてを抱き締めてあげたい。
 許されないことをしたとしても、それでも。愛することを忘れてはいけないんだと知っているから。
 
 真竜の抱擁がドラゴンストーカーを包む。どうかあなたの救いが見つかりますようにと、祈るように。

九鬼・ガクト
香柄・鳰


 真竜の抱擁は溶けるように消えて、ドラゴンストーカーは悲し気に眉を下げた。けれどもすぐに大剣を握り直す。
 闘志は消えていない。少なくない傷を負って能力者たちを睥睨するおんなは、薄く笑みを浮かべた。
「ああ、矢張り真竜様はうつくしい……わたくし共が救ってさしあげなくては……」
 ぶつぶつと呟く様はもはや幽鬼にも似る。信仰に取りつかれたおんなは、もはやそれを達成することに囚われて道など見えてはいないようだった。
「んー、あの女性が毒を風に乗せたりした真犯人かな?」
「はい、彼女がこの騒ぎの元凶のようですね」
 左手首から先が吹き飛び、氷と槍に穿たれ、毒に侵され、刀傷と墜星のダメージを負いながら。それでも不気味に笑うおんなを静かに見据えて、九鬼・ガクトが問えば、香柄・鳰がやわらにいらえる。
「鳰、彼女は何が言いたいんだい? 何が悲しいのかね? ドラゴンプロトコルが人になった事? 力がなく、ドラゴンになるには力を沢山使わないといけない事?」
 沸き上がる疑問のまま、ガクトは深く首を傾げる。『|真竜《トゥルードラゴン》』というものがこの世界に於いて強大な存在であったことはわかる。それが何らかの理由によって力と記憶を奪われ、人の姿に堕とされたのがドラゴンプロトコルという存在であることも記憶している。言ってしまえば弱体化ではあろう。
 その程度は様々で、能力者や騎士として活躍できるだけの力があるドラゴンプロトコルも居れば、ロンゲル一家のように戦う力などほとんど持たない一般人も居る。
 恐らく、力ある存在である真竜が人に堕とされたということが気に入らないのだろうということは理解出来る。だからと言って、当人が望みもしないことを強要する理由にはならない。そもそも方法に理論も根拠もない。
 行き過ぎた信仰は、やがて力を持たないドラゴンプロトコルという存在を『可哀想』だと位置づけるに至った。
「そんなこと誰が決めたんだろうね。んー、彼女の価値観なのかな?」
 顎に手を当てながら、ガクトは思索をそう結論付けた。どんな天啓を得たのかはしらないが、ガクトにはそれが理に叶っているとはお世辞にも思えない。そしてその結論に至ったのは鳰も同じ。
「ガクト様がお耳を傾ける必要は御座いません。言葉が通じぬ相手とはこの様な者を言うのでしょうね」
 対話はほぼ無意味だと断じる。平行線は平行のまま。決して交わることもなく、また互いの意思は相手の言葉などでは曲がることもない。相手が信仰に準じるというのならば、こちらは信念を貫き通すまで。これは結局、信仰と信念のぶつかり合いに他ならないのだ。

「ご高説をどうも。考えを変えて頂こう等とは思いませぬ故、ご安心下さいな」
 鋭くおんなをねめつけて、鳰はガクトの前に立つ。淡く霞む瞳には像を結ばずとも、鳰にはおんなの薄ら笑いが透けて見えるようだった。狂気に陥った者の顔は、総じて似ている。そんなものにかける慈悲は、ない。
「お前はこの街の信仰を望まぬ者と、何より我が君に害をなしました。其れだけで斬るに値する」
「あら、まあ。ですがこれは必要なことなのです。だってドラゴンプロトコル様が、そこにいたのですもの」
「……本当に無意味ですね」
 言葉を掛ける意味がない。同じ言語を使っていても、意思疎通がまるで出来ない。会話が成立しないとはこうも気持ちが悪いものか。

 その時だった。ふわりと豊かな赤が空に舞う。死神が毒の食事を終えて戻ってきたらしい。思いがけないデザートに満足した死神は、ガクトの肩で頬杖をつきながら『ふふっ』と笑みを零した。
 そんな独り善がりな奴いるよね、という声が聞こえてきそうな、小馬鹿にしたような笑い方にガクトも小さく笑う。
 そんな死神の目が、ドラゴンストーカーが紅を差した唇に留まった。死神に贈った赤によく似ていて美しい色ではあったが。唇に手をあて、死神はガクトに問うように覗き込む。
「んー、紅は君の方が良く似合うよ」
 意図を察していらえたガクトに、死神のおんなは大層嬉し気に笑みを深めた。
「ふふ、死の君はご機嫌なよう」
 仲睦まじい二人に目を細めた鳰は、大太刀の柄に手を当てる。
 かの御前と主を退屈させては従者の名折れ。なればこそ剣舞で魅せるが花というものだ。
 鳰が臨戦態勢に入ったのを見届けて、ガクトは改めてドラゴンストーカーへと向き直った。
「正直私には興味が無い話だ。君が何を説こうと何をしようと。でもめんどうくさそうなので……」
 チキ、と藤斬の鯉口が成る。それは合図。あとは言葉があればいいだけ。
「鳰、斬り刻もうかね?」
「承知致しました、それでは」

 ――いざや参らん。

 はじまりは風切り音。遠慮なくハチェットを投げつけた。それをドラゴンストーカーが弾くのははじめから計算の内。牽制の間に鳴り響く鈴の音に気を取られている隙に、鳰は既に刀の間合いにまで踏み込んでいる。大剣を降り戻す暇など、与えはしない。
 咄嗟に左腕を竜化したのは、ドラゴンストーカーが歴戦の証でもあったろう。だが、それが何かするより、鳰が刀を振り下ろす方が早い――!
「この身は主のもの。貴方から何一つ頂くものはありません。そして、その身体の何一つ貴方のものでは無い」
 ドラゴンストーカーの左腕が飛んだ。その腕すら誰かのものだったのだろう。もしかしたら、骨の一つ、爪の一つまで全て違うドラゴンプロトコルのものを継ぎ接ぎしたのかもしれない。この腕ひとつで、一体何人の竜人たちが犠牲になったろう。
 返すことは出来ずとも、せめて解き放とう。この不快な呪縛から。その思いを汲むように、ガクトが躍り出た。
 綺麗に切断された腕は、また継ぎ接いでしまうかもしれないから。
「そうだね、鳰は私の従者。私は……貴女のモノじゃない」
 二度とこの女のもとに戻らぬよう。藤斬が弔うように千々と斬り裂いた。

花七五三・椿斬


「良かった……無事に逃がすことが、できたのかな」
 脱出する最後のひとりの背中が遠ざかっていくのを見送って、花七五三・椿斬は安堵に胸を撫でおろした。
 大きな怪我を負ったものや、最悪の事態にまで陥った人は誰もいない。毒の影響や鉱石竜につけられた傷も、ここを離れれば遠くない場所に病院があるというから安心してもいいだろう。
 ならば、あとは。
「君だけだな」
 目蓋の上を彩るくれなゐに励まされるように、華団扇を手に振り返る。す、と細めた目線の先には、諸悪の根源たるおんな――ドラゴンストーカーが居た。

「あなたもわたくし共の道を阻むのですか? まあ、どうして彼らの救済を阻むのでしょう」
「竜達の想いを勝手に決めつけて、彼らの大切なものを破壊するのはやめるんだ」
 なにも理解していないのはどちらだ。信奉する竜の想いを無視して、『忘れているだけだ』と踏みつけて、挙句命まで奪う。
 それは一体誰の為なのだと問うならば、きっと。答えは、彼女自身の為に他ならないのだ。
「ああ、行ってしまいましたね。追いかけませんと」
「いいや、行かせない。君の一部になんてさせないよ」
「ふ、ふふ。あなたに出来るでしょうか?」
 薄気味の悪い笑い。正気を失った目に見据えられて、嫌な汗を感じるけれど。目蓋に熱を感じる。雪白に煌めく破魔の紅は、美しきアルマンディンガーネットから作られている。
 これを渡す時、マリは言っていた。『ガーネットの石言葉は、真実。情熱。そして友愛と勝利なんですよ』と。
 ――ああ、それなら。
 
「おいで、僕と共に征こう」

 椿斬を中心に、六花の吹雪が突如舞い上がった。
 周囲を急激に冷やし、足元が凍る程の冷気の中から舞い出てきたのは、雪狐。次いで雪猫。シマエナガ。雪鴉、雪兎、白熊。
 次々と現れる氷結の友は延べ120体にも上る。
 ひとりでは無理でも、雪斬はひとりではない。能力者の仲間がいる。そしてこんなにもたくさんの雪の友達がいる。
 ひとりではないから、戦える――!!
「いくよ、みんな!!」
 椿斬の声に応えるように、雪の友たちは一斉に声を上げた。すばしっこいものたちはバラバラに動いてドラゴンストーカーを攪乱し、視界を塞ぐ。膂力のある白熊がドラゴンストーカーを囲って牽制している隙に、椿斬は華団扇を力いっぱい扇いだ。
「吹き飛ばしてやる!」
「……こ、の!!」
 放たれた風は氷雪を纏い、刃の如き霊力の衝撃波となってドラゴンストーカーを吹き飛んだ。満身創痍の身体では踏ん張りもきかず、無様に宙を舞ったおんなは着地ばかりはと必死に身を翻す。
 片手を失った状態では満足に振れない大剣を怒りのままに振り上げれば、オーラを纏った椿斬の掌底で受け流し、影に潜む血椿の鬼神が振り上げた大太刀がドラゴンストーカーの大剣を弾き飛ばす。

 簒奪した竜の肉体を用い、本来の彼女以上の力を引き出して戦うドラゴンストーカーは、確かに強いのだろう。
 だが、椿斬は決して諦めない。友と共に、ひたすらに真っすぐに挑み続ける。
 ロンゲル一家の、マリのあの笑顔も、優しさも、全部。宝石より美しいかけがえのないもの。だから。
「絶対! 傷つけさせない!」
 勝利の紅を差した花天狗の、破魔の刃が閃いた。

アンジュ・ペティーユ
捧・あいか


「否定されて試練ね、無敵すぎて呆れちゃう」
 腰に手をあてて、捧・あいかは深く溜息をついた。
 聞く耳を持たないにも程がある。ドラゴンストーカーとの会話にはもはやどれほどの意味があるのか疑問だ。肯定以外の会話は成り立たず、否定すれば「これも自分たちに課せられた試練なのだ」と陶酔するばかり。
 この無敵ぶりと前向きさは、ある意味羨ましい気もするが。それでも、。
「でもね、あなたがどんなに受け入れたくなくても、あなたの信奉する教義は否定させてもらうわ」
 ぎろりと、まるで竜眼のように。狂気を宿すドラゴンストーカーの瞳があいかをねめつける。
「悪いけど、私の出会ったドラゴンプロトコルの人は、決して真竜への回帰を望んでいない。ほんとうに素晴らしく支持されるものなのかしら?」
 喰竜教団の目的と主張は、ある意味明解だ。
 本来の力と記憶を奪われ、か弱い姿に堕とされたドラゴンプロトコルを殺し、その肉体を自らに移植する。そうすることでいつか、彼らは真の姿を取り戻す。
 |真竜《トゥルードラゴン》とはこの√に於いて重要な存在だ。その大半がインビジブルになったとて、彼らの魔力は世界に影響と恩恵を及ぼし続けている。生きた竜は珍しくなってしまったが、ドラゴンプロトコルたちが真竜の姿を取り戻せば世界の有様は変わるのだろう。
 確かにわかりやすい。けれども、と。あいかの傍でドラゴンストーカーを見つめていたアンジュ・ペティーユは思う。
「その気持ちも分かるんだけど、でもやっぱり人間は人間で自分の居場所を守るだけでも精一杯なんだ。誰が強くて誰が弱いだなんて、明確に作らない方がいいよ」
 場所によっては、明確にしておいた方が良い所もあろう。けれど種族まるごとを個人の見解で勝手に強いだの弱いだのと分け、断じ、それを望まぬ相手に押し付ける。そんなものは許されるべきではないのだ。

 正気ではない笑みを浮かべていたドラゴンストーカーから表情が消えた。喰竜教団そのものの否定は、いつもの調子であれば笑い飛ばしただろう。理解出来ずとも構わないと一蹴したろう。
「言わせておけば。わたくし共の志のみならず、真竜様まで侮辱するのですか……っ」
 だが今は、能力者たちによって追い詰められている状態だ。左腕はもがれ、身体のあちこちに浅くない傷を負っている状態では、感情の沸点も低くなるのは道理だった。
 |だからあいかは畳みかける《・・・・・・・・・・・・》。
「そうまで言うなら、『真竜』のチカラ、見せてちょうだい」
「その言葉、後悔させてさしあげましょう!!」
 怒りに囚われているならば、|挑発《・・》も容易い。激昂したドラゴンストーカーが呼び寄せたインビジブルの群れに己を食わせている。
 嗚呼、彼女は気づきもしないのだ。真竜降臨の儀を誘発すること自体が、あいかの狙いであったことなど。
 展開せしは『|望むなら、ただ一人の物語《ネクスト・ステヱジ》』。あいかの為のスペシャル歌謡ステージが周囲の景色を塗り替えていく。
 それを反撃の意思だと、ドラゴンストーカーは受け取った。だからこそ薄く笑う。
 真竜へと至ってしまえば、外部からのあらゆる干渉を受けなくなる。この命一度は尽きようとも、此処に居る能力者を一掃することは容易いはずだ。そうして綺麗に|掃除《・・》をしてから先程のドラゴンプロトコルたちを追えばいい。
「真竜様の威光を、身をもって、知るが、い」
「いいえ! 身を以て知るのはあなたの方!」
 ドラゴンストーカーの儀式が完成するより一足早く、あいかのステージが完成した。その瞬間、あいかは真竜へと変じようとしているドラゴンストーカーへと一直線に走る。
 ここまで、すべてがブラフ。
 |右手《・・》が届く距離まで駆け寄ると、あいかは驚きの表情を浮かべるドラゴンストーカーに笑み返した。
 ステージの力も借りている、外すことなど能わぬ無二の奥の手。

 ただ、触れるだけでいい。
 全ての能力を無効化するその力の名を、『ルートブレイカー』という。

 真竜へと至ろうとしていた儀式がここにきて霧散した。
「な、あ、ぁ、アァァァァァ!!?!?!」
 僅かも竜に至れぬまま、ただインビジブルに身を捧げた満身創痍の身体だけが取り残されて、ドラゴンストーカーが絶叫した。
 真竜降臨の儀が奥の手であったのはドラゴンストーカーもまた同じ。至ってさえしまえば絶対的な勝利が約束されていたはずだったのに、その期待も自信も、真竜に至れるという事実までもが粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
 勝ち筋より勝ち方にこだわる彼女にとっては、|この切り札《ルートブレイカー》はよく効いた。思い上がりもずたずたに砕かれて叫び続けるドラゴンストーカーの隙を、先程より詠唱を続けていたアンジュは見逃しはしなかった。

 空想より生み出された宝石たちが次々と炎へと変じていく。
 ガーネット。ルビー。赤珊瑚。アンデシン。ルベライト。レッドダイヤモンド。宝石コスメの店で見た赤色の宝石たちはどれもアンジュの想像力を掻き立てた。
 今ならば宝石のように美しく輝く炎がアンジュの周囲に展開している。詠唱する時間は十分にあった。移動できないという制約も難なくクリアできた。数多の宝石の炎は、アンジュの指先の号令を待つばかり。
「強いいきものを取り込んで、更に強くなるっていうのも理解出来ちゃうんだよね。その信仰が揺らがないのもそう」
 なにもかもがわかってしまうから、アンジュにとってドラゴンストーカーとは少々やりにくい相手だ。それでも、わかってしまうからと言ってその凶行までもを許せるかといえばそうではない。
 ――だから。
「見過ごすわけにはいかないんだよね……!」
 突きつけた指先の合図に、|空想宝石の炎《ウィザードフレイム》が一斉に放たれた。
 
 その輝きは、さながら太陽の如く燃え盛って。

廻里・りり
ベルナデッタ・ドラクロワ


 あいしている。
 わたくしは本当に、心の底から真竜様たちをあいしているのだ。
 だからその御姿を取り戻して差し上げたいのだ。力も姿も奪われて、人の姿に堕とされてしまったドラゴンプロトコルたちを再び、強く大きく美しいあの御姿に戻して差し上げたい。
 拒絶するのは、真竜であった頃の記憶を奪われているからに他ならない。元の御姿を取り戻したならば、きっと皆は喜んで空を駆けてくださるだろう。
 |だってそれが、彼らの本来の姿なのだから。《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》

「愛。そう、そういう愛もあるわよね」
 薄墨のヴェールの下、ベルナデッタ・ドラクロワは思索を巡らせる淡い薔薇色の瞳を細める。
「まるで共感はできないけれど、ええ、そういうこともあるわ」
 それが『愛』であることは理解が出来る。『愛』とは様々な形があるものだ。見る者を魅了するような美しい愛もあれば、目を背けてしまうような残虐な愛もある。
 それはわかる。だが、それだけ。
 つい、と目線をあげれば、最早満身創痍となったドラゴンストーカーがようやく立ち上がったところだった。
「理解できないの。お前がワタシたちを理解できないのと同じように。……ああそう、分かり合えないという一点で分かり合えるわね」
「……」
 ドラゴンストーカーは答えない。ただギラギラと怒りだけが燃える瞳だけが、ベルナデッタの目線と火花散らすように交錯する。
「竜の力も姿も、そのひとたちが望んでいないのなら。勝手に押し付けるのって、きもちわるいです」
 胸の前でぎゅっと手を組んだ廻里・りりも、凛とした意志を宿した夜色の眸でおんなを見据える。
「本当にそれって愛なんでしょうか? ただの自己満足ですよね?」
 りりは理解が出来ない。それを愛と呼んでいいものかもわからない。りりにとってそれは愛ではなくて、思いや理想の一方的な『押し付け』だとしか思えないのだ。
 愛とは相互理解があってはじめて成り立つのではないのだろうか。だって父も母もそうやって愛を育んで、りりという愛の結晶が生まれて。『愛』とはそういうものではないのだろうかと。りりは幼くも純粋な気持ちでそう思うのだ。
「あなたのわがままで、くるしい思いをしたひとがいっぱいいます。からだを奪われて、自分がのぞまないことをさせられるのだってそう」
「りりの言う通り。気に食わないのはね、相手の意思なんて気にしないことよ。それが正しいと信じて、同意も得ずに押し付けて」
 そうして命までもを奪われた。ドラゴンプロトコルであるというだけの、ただ平和に生きていただけの一般人が、だ。何人も、何人も、ドラゴンストーカーの身体が意思以外の全てを簒奪した亡骸で埋め尽くすまで。否、もしかしたらもっと。
「……許されないことよ」
「そう。あなたがしたことは、許されることではありません!」
 静かに首を横に振ったベルナデッタの傍らで、りりが力強く言い切った。
 信仰は凶行を許す言い訳になりはしない。関係のない人々を巻き込むことだって、無辜のドラゴンプロトコルの命を簒奪することだってなにひとつ、許せるわけがない――!
「さあ、黄昏。さあ、りり。縛って、焼いてしまいましょ」
「いきましょう、ベルちゃん! 黄昏さん! 計画も試練も失敗! おかえりいただきましょう!」
 りりの指差した先に向かい、青い鳥が飛んだ。

「わたくしは、わたくしの、信仰は……!」
 既に斃れる寸前。それでもドラゴンストーカーの瞳だけは、今もギラギラと。いっそ眩しい程の光を放っていた。握り締めて放さなかった大剣を振るう力を求め、最後の力を振り絞って右腕を竜骸合身を施す。
 もう何度阻まれた。もう何度失敗した。その度に簒奪した竜の遺骸は消え続けている。このままでは果たせない。このままでは愛する真竜たちを|救えない《・・・・》!!

「わたくしの、あい、は、」

 渾身の力で振り下ろした大剣は、されど二人に届くことはなかった。
 りりとベルナデッタが放った鳥籠と|黄昏の名残り《ディ・クレピュスクル》に捕らえられて、ぴくりとも動かない。剣を振りかぶった体勢のまま動かぬドラゴンストーカーの瞳に最後に映ったのは、美しき魔法の炎とあおいとり。
 熱が、爪が、その身を包み込んだと認識した瞬間、ドラゴンストーカーの意識はぷつりと途絶え、やがて炎の中でゆっくりと倒れて消えていく。
「……でもね、りり。ワタシ、世界をひっくり返しても守りたいものがある気持ちだけは否定できないの」
 その姿を最後まで見届けてから、ぽつりとベルナデッタが口を開いた。
 ドラゴンストーカーが消えた場所から目を逸らさぬままのベルナデッタの表情は、りりにはなんだか少し悲し気に見える。
「あの女のやり方はひとつも許さない。尊重しない。けれど、信仰は本物だったわ」
 残虐で、唾棄すべきやり方だった。目的の為なら無関係の人間すら巻き込むことを厭わない狂気は、決して許されるべきではない。
 それでもあの女は一度だって、この凶行を『自らの為』とは言わなかった。ひたすらに『真竜様の為』と言い続けた。戦いの最中でさえ、自らの死を悟った瞬間でさえ、女は真竜を愛していると言い、誰に理解されずとも真竜の為にこの道を征くと決めた心を曲げなかった。
 どれほど歪んでいても。どれほど狂気に塗れていても。それでもそれは確かに、本物の『信仰』だった。
「良くも悪くも、強い思想は過ぎれば毒ね」
「なによりも守りたい、たいせつなものがあるのは、すてきなことだと思います。でもそれは、他のひとを巻き込んで踏みにじっていいことにはならないはずです」
 静かに息を吐いたベルナデッタに寄り添い、りりもまたドラゴンストーカーが居た場所を見つめ思いを口にした。
 そこにはもう何もいない。インビジブルさえも、今は。
 ただ静寂があって、大きな被害が出なかったマルシェの店や品々が静かに主の帰りを待つばかり。
 きっとここはすぐにでも賑わいを取り戻すだろう。誰の命も失われず、誰も悲しみに溺れず、彼らが愛し作り出したものは全てここにある。

「たいせつなものがこわされない世界が、ずっと続くといいですね」

 信仰とは信じ尊ぶこと。そしてかたく信じること。
 信じて祈るのならきっとこんな平和がいい。そう告げて優しく笑ったりりに、ベルナデッタは柔く笑み返すのだった。

挿絵申請あり!

挿絵申請がありました! 承認/却下を選んでください。

挿絵イラスト