白夢の墜ちる星
●墜ちる夢
「――俺は一体何をしているのだろうな」
薄青の夜空を燃え盛る炎が明るく照らしている。幻想の花は無数の漁火となって夜に消えていく。煌々として輝く炎の光は空から降り注ぐ月星の光を殺していく。紅蓮の海と化した原野の中でその男――『外星体『サイコブレイド』』はただ星海を見上げていた。そんな男の頬を僅かな熱が撫でた。それはきっと風が運んだ、ただの熱波だったのだろう。それでも男は何故だか誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
「――俺はもうとっくに選択を間違えたのかもしれないな」
男の目に映るのは、かつて男が大切に想っていた者達の幻影が燃え盛る花畑の炎の中に沈んで行く光景だった。
●√汎神解剖機関支部前 喫茶『夜明け前の鴉』
「ん、巷で話題沸騰中のAnker殺しの件は知ってる? そう、『外星体『サイコブレイド』』って渋いおじさんが誰かしらのAnkerからAnker候補まで抹殺すべく派遣されて来たって話。この『サイコブレイド』自身が自分のAnkerを人質に取られてるって事情はあるっぽいけど……ま、だからと言って事件を見逃す訳にはいかないってワケで今回集まって貰ったんだけど」
√能力者達を集め、機関の経費により軽食を奢りながら今回の事件――予知の説明を始めた星詠みの贄波・絶奈 (星寂・h00674)はそこで一旦言葉を止めた。どうやって説明したものかと考える素振りを見せ暫くすると考えが纏まったのか再び説明を始める。
「今回、狙われたのは√汎神解剖機関の……『霊域指定地帯』そのもの。そこは機関に重要監視地域として管理されてる場所でまるで宇宙の中に取り残された花畑って感じの不思議な空間になってるらしいんだってさ」
そう言って絶奈がテーブルの上に並べた写真には、淡く輝く白い花畑とそれらを取り囲むように広がる、星海と呼ぶべき鮮やかな夜空が映っていた。予知の通りであれば間もなくこの場所が火の海へと沈むという。つまり、今回の目的はこの花畑を『サイコブレイド』らの襲撃から守る事だ。
「この場所が誰のAnkerなのか分からないけど、狙われてる以上はきっと誰かのAnkerになりえる場所って事だし、何よりこんな綺麗な場所が焼き払われるのも勿体ないし、そもそも機関の管理下だから勝手に破壊されても困るんだよね」
絶奈はそう言ってわざとらしく肩を竦めると、上着のポケットから手帳を取り出しその一部を破るとその紙片にペンを走らせ√能力者達に手渡した。それはその花畑への道標。襲撃の予測時刻まではまだ猶予がある為、先に花畑へと向かい襲撃に備えておいて欲しいとの事だ。
「機関の方でもまだその全貌が掴めてない異空間だけど絶景なのには変わらないから襲撃が来るまで自由に過ごしてればいいんじゃない? ああ、それと最後にもう一つ。その花畑は『白夢の園』とも呼ばれていてさ、誰かの心象風景が見える時もあるんだって。なんか面白そうだよね」
ま、一部の職員の噂だけどさ――そう付け加えて絶奈は√能力者達を見送った。
第1章 日常 『幻想の花園』

●白夢の園
√能力者達がその異空間に足を踏み入れたその瞬間、目の前に広がる光景はまさに星海だった。視界一杯に広がる紺色のキャンパスには銀砂の星々が散りばめられ燦々と輝き、靄の様な天の川が星々の間を横断するように流れている。そして、その光景に於いて尤も目を惹いたのはその夜空を地上から淡く照らす平原の白い花畑だった。この空間の正体は分からない。まるで夢のようだった。それでもそれらは確かに存在していた。風が吹き抜け、七色の花弁が空高く舞い上がって星になる。耳を澄ませば聞き覚えのある声が聴こえるかもしれない。目を凝らせば花畑から見覚えのある影が頭を覗かせるかもしれない。間も無く凶行により消えゆくとされるこの世界でキミ達はどう過ごすのだろうか。
●過ぎ去りし日々の面影に
その場所に足を踏み入れた瞬間、まるで投影機が映し出したかのようなパノラマに七色の流星群が降り注いでいた。無数の流れ星が銀砂の海を掻き分けて泳ぐその目下では広大な平原に咲いた白い花々が風に揺れ、まるで雪のような淡い光を散らしている。さわさわと囁くような風の音に誘われるようにクラウス・イーザリー (希望を忘れた兵士・h05015)は一歩二歩と無意識に歩み始めていた。
(すごい……)
まさに息をするのも忘れる程の衝撃だった。不思議な光景にはすっかり見慣れていたつもりではあったが、目の前に広がる光景はそれすらも覆す程の物だった。極めて現実感が希薄な世界――むしろ自分自身が幻であると錯覚する程の世界をクラウスは往く。宝石のような星が瞬いている。幽光を纏う白い花々が風に吹かれ手を振るように揺れている。
「なるほど……これはAnkerになるのも納得できる場所だな」
その全てに目を奪われながら、ふわふわと落ち着かない夢心地の気分で花畑を歩いていると、ふと声が聴こえた気がした。クラウスは白い花畑の中で足を止めていた。今のは気のせいだったのだろうか? ――いや、気のせいなんかじゃない。聞き間違える筈も、忘れる筈も無いアレは――
――クラウス
その名を呼ぶのは紛れもなく、幼い頃に死別した両親の声だ。心臓が激しく脈打つ。忘れていた筈の呼吸が乱れる。その声を頼りに振り返ればその先――白い花畑を隔てた先に懐かしき両親の姿があった。
「――――ッ」
返事をしたい。出来る事なら今すぐ駆け寄ってその手を握りたい。でも思考が上手く纏まらず、言葉も出ない。そんなクラウスの傍に気が付けば駆け寄って来る幾つかの影があった。
――ねぇ、クラウス。よかったら武器の手入れを手伝ってくれたり……
――アンタはまたクラウス君頼り? もう立派な一兵士なんだから少しは自分で……
――その話は後だ後。それよりクラウスも腹減ったろ? もう昼だし飯にしようぜ
それも見知った声だった。かつて兵士養成学園で共に過ごし、戦いの中でその数を減らしていった学友達の声。そんな彼らがいつかのあの日と同じようにクラウスと肩を並べ、楽しそうに談笑している。もうそこには無い筈なのに、その手は確かにクラウスの肩に触れていた。それはクラウスのかけがえのない記憶の中にある風景――だが、少しだけその記憶とは違う部分もある。クラウスを暖かく見守る両親は記憶よりも少し歳を取ったように見え、学友達はあの時よりも随分と大人びているように見えた。
(――ああ、きっとこれはありえたかもしれない世界の光景だ。彼らが死なず生きていたもしもの世界――そんな夢を見ているんだ)
彼らの声を聴き、彼らの姿を見ながらぼんやりとクラウスはこれが現実ではない事に気が付いていた。そんなクラウスにまた聞き馴染みのある、決して忘れる事は出来ないであろう声が聴こえた。
――ようクラウス! 最近のお前の活躍スゲーな! 俺も負けてらんねぇな!
まるで太陽のように笑うその人はクラウスにとってかけがえのない親友。あの時、クラウスを庇い命を落とした永瀬・翼その人だ。そんな彼もまた少し大人びて――それでも失う事の無いあの面影のままクラウスに笑いかけていた。
――なんだよ、まるで幽霊でも見たような顔は?
「いや違う……違うんだよ」
――おいおい、どうしたんだ? ……よし!じゃあ今日は俺の奢りだ!悩みがあるなら聞いてやるよ!俺に任せとけ!
これは夢だ。白夢が見せる幻だ。分かっている、分かっているけれど――クラウスは目尻が熱くなっていくのを感じていた。きっとこのままでは動けなくなってしまう。戦う事が出来なくなってしまう。この光景を振り払い、もうあの時が帰る事など無い現実を歩んで行かなければならない。――それでもこの世界を手放したくない。ありえたかもしれないこの幸せな時を享受していたい。相反するそんな二つの気持ちがせめぎ合い、気が付けばまるで答えの無い宇宙空間に独り放り出されたようにクラウスは白い花畑の中で立ち尽くしていた。
――たまには立ち止まってもいいんだぜ。少し休んだら……また歩き出せば良い。
懐かしい声が聴こえる。ふわりと風に舞った白い花びらが銀河煌めく夜空に吸い込まれるように消えて行った。
●Call me my name
「わぁ、すごーい!お花がいっぱいだ」
星海に咲く花を見て、まずパドル・ブロブ (ただちっぽけな雫・h00983)の口から零れた言葉はそれだった。星が彩るキャンパスには散光星雲が滲み、緩やかな運河のように流れ、平原を染め上げる白の花々は空の星々に共鳴するように淡く夜に浮かび上がっている。絶景……と、ただ形容するには不確かな奇妙さも残るその光景はこの場所が誰かの心の拠り所になりえる事をパドルに納得させるには十分なものだった。アレはなんだろう?向こうには何があるんだろう?周囲に気を張りながらも好奇心に突き動かされ忙しなく動くパドルの星を宿した青い瞳がふと人影を捉えた。
「んん?……なんだろう?アレは――」
風にそよぐ花畑の向こう側。それはパドルが良く知る――見間違える筈も無い人物。外星体調査局『D.E.X.』の調査官でありパドルの上司であるエイデン・ユルドゥズ――パドルがダンと呼ぶ男性だった。そのエイデンは白い花畑を隔てたその向こう側で真っすぐパドルへ向かってゆっくりと落ち着いた動作で手を振っていた。当然、彼はこの場所にいる筈も無い存在だ。だからこそ、その姿を見つけたパドルはその瞬間にまるで金槌で頭部を殴打されたかのような衝撃を受けた気がして思わず思考を止めてしまった。そして、次の瞬間には無意識のうちにそんなダンの下に向かって駆けだしていた。
「おじさん!?どうしてここに、まさか迷い込んだの!?」
群生する白い花の海を掻き分け、多彩の星屑を散らし。そうしてその近くまで辿り着いた所でパドルは立ち止まった。ここに来てパドルはそのダンが本人では無くこの空間――花畑が見せる幻である事に気が付いた。その事実にパドルはホッと胸を撫で降ろし、それと同時に心が痛んだ。ダンがあまりにも穏やかに笑みを浮かべていたからだ。その瞬間、パドルは表情すら変える事の出来ない程に力が抜けていく気がした。
(これは僕の心象風景――違う。――これは)
この空間は誰かの心象風景を映し出すと聞いていた。それならば見知った人物が出てくるのであればそれは自身の心象風景の筈。なのだが、パドルはこれが自身の心象風景――記憶では無い事を理解してしまった。何故なら、彼女はこのダンの笑みを知らなかったからだ。眼光鋭い紫の瞳、右眼を通る傷。その全てはこの人物がダンである事を証明していた。然し、そのダンが浮かべる優しく暖かいその笑みは決してパドルに向けられるものでは無かったのだ。
「ああ、そっか……きっとこれ、この人の……|僕の「融合者」《あの宇宙一大切な子》の記憶だ」
パドルは全てを理解する。今、自分が見ているこの光景は自分のでは無く、宇宙一大事なあの子の記憶。かつて|不定形生物《ブロブ》型外星体として地球を彷徨いその果てに出会った大切な存在。そしてエイデン・ユルドゥズ――ダンの娘だった彼女のものだ。そしてその娘の身体はパドルと融合し1つになっている。だからこの幻が見せているダンのあの優しい表情は自分に向けられたものでは無い。自分を介してあの子に向けられているものなのだ。そう理解してしまった。
「あ……はは……なんだか、気まずいな……」
いつも自分に向けている厳格な表情とは対照的に穏やかで優しく笑うダンを見ていられずパドルは思わず視線を逸らしてしまった。なんだか、あの娘とダンだけの大切な記憶を――見てはいけないものを盗み見してしまったかのような罪悪感。――本当はそれだけじゃない。何故だか不思議と胸も痛かった。心が痛かった。その理由は分からない。だけどちょっと寂しかったような気もする。パドルはそのままダンの幻影に背を向けたまま歩き出す。白い花畑は先ほどと同じく仄かに光を放ちながら右へ左へ踊るように揺れている。歩き続けながら夜空を見上げれば幾千もの星が瞬いている。
「ここはきれいなところだけど………あんまり長い間いたくないかも」
物憂げにパドルは白夢を往く――ダンのあの優しい表情を忘れられぬままに往く
●とあるベルセルクマシンの追憶
漆黒のキャンバスに散りばめられた星屑が煌めいている。星雲の大河を七色の星が滑り落ち、その先の地表では宇宙の闇に浮かび上がるように白い花々が揺れている。それらが一望できる小高い丘の上に少女と見間違えんばかりの麗しい見目をした少年。真紅・イサク (生きるとは何かを定義するモノ・h01287)は立っていた。
「……これが『霊域指定地帯』、か」
霊域指定などと仰々しい名称に比べ随分と綺麗な場所だと目の前の不可思議な光景を眺めながらイサクはイチゴ、キウイ等々――様々な具材をクリームとパンで挟み込んだフルーツサンドを齧っていた。口の中に広がる甘みと酸味が程よく調和したその味に冷静沈着なイサクの頬も僅かに緩む。そんな彼の眼下に広がる広大な平原に敷かれた白い絨毯の様な花畑はこの空間にそよぐ風によって不規則的に波立っておりそれはある種の大海原にも見えた。
「夜空の下、幻想的な白い花が咲き誇る平原……か」
以前、この空間『白夢の園』について説明を受けていたイサクはその際に提示された様にまずはその風景を楽しもうとキャンピング気分で、実際に食べ物まで持ち込んで敵の襲来までの間、ゆっくり過ごそうと考えていた。その考えは正解で暫くの間はこの幻想的な空間でゆっくりと過ごせていたイサクだったが、そのうちにふとまた別のとある不可思議な現象に見舞われる事となった。気が付けば、その幻想的な風景は一変し、イサクにとっては最も馴染み深い風景に変貌を遂げていた。
「これは√ウォーゾン?――いや、これは」
それは今の√ウォーゾンより昔――過去の光景だ。そしてその光景こそイサクにとって殊更に印象深いものだった。その光景は彼の記憶領域に保管されている記憶のどれとも一致しないものだったからだ。そうなればその光景はイサクが製造されるよりも以前という事になる。この空間は時に誰かの心象風景を映し出すという。そうであるならば今のこの風景はイサクを構成する何かに影響を受けたものなのだろうか。とにかくこの現状を把握せねばとイサクが指針を切り替えると見知らぬ声が聴こえた。それは見知らぬ戦闘機械兵のものだ。まるで投映機に映し出された映画を見るように現実感の欠如したその光景を眺めていればそれはどうやら2機の戦闘機械兵がどこかの工作室で何かを話しているようであった。
『人間社会への調査は、必要だ』
『ドクトル・ランページとは別派閥とは言え、我らも研究成果を見せねばな』
聞こえてくる会話の断片はどれもイサクにとっては重要なものばかりだった。イサクの正体は見た目こそ人間そのものだがその身体は金属細胞等で構成されている。それは人間組織の内部に潜入・破壊工作を目的としたベルセルクマシンであるという他ならぬ事実からイサクとは取っては切れぬ関係を持っていた。だとしたらこの会話は自分の出生(製造)に関わるものなのではないか?先ほどまでの希薄な現実感と打って変わって、こびりつくような嫌な現実感に苛まれながら気が付けばイサクはその2機の動向にすっかり意識を向けていた。そしてその2機はやがて部屋の中央に位置するテーブルの上に一つの計画書を広げた。
――『内部潜入・破壊工作用金属細胞型ベルセルクマシン』
イサクの想像はその計画書に記されたその文字によって肯定された。今、イサクが見ているこの光景こそイサクがベルセルクマシンとして製造された工程であった。当然それは過去の事。プログラムベルセルクの喪失によりAIの支配から逃れた今のイサクには問題視する必要も無い筈だった。
「霊域が見せる幻想――だとは理解していますが……」
計画書に添付されたのちに深紅・イサクとなるベルセルクマシンの姿が写された青写真。それが視界に映った瞬間にイサクはまるで胸の奥底から何か得体の分からない感情が込み上げて来る気がした。自分の中の定義が揺れたような気がした。
「これがこの土地の力――」
イサクはこの白夢の園の美しく、そしてその残酷な一面を垣間見た。
●幻想ロマンチカ
―――――ようこそ、この澱みと腐りに溢れる世界へ
その言葉の通り、橋本・凌充郎 (鏖殺連合代表・h00303)にとって世界とは腐り澱んだ見るに堪えない代物だった。だからこそ、そんな世界を彼は頭に被ったバケツ越しに俯瞰した。ならばその全てを潰してしまおう。それこそがこの世界の在り方だ――そう考えていた。
押し上げられた墨色の空には燦々たる星が浮かんでいる。黄薔薇、藤紫、雪白の色。鮮やかな星が七色の光芒を引いて地表で揺れる白い花畑目掛けて落ちていく。それを眺める凌充郎の隣には黎明色の髪を風にさらさらと靡かせながら一人の女性が立っていた。
「わ!星空……すごいですね!」
瞬く星に瞳を煌めかせる女性――如月・縁 (不眠的酒精女神・h06356)は凌充郎に寄り添うように、その手を握りながら月夜の光にように穏やかな笑みを浮かべていた。緑にとってこの|√汎神解剖機関《世界》はそれ自体が未知の領域だった。正直を言えばこの場所に向かうまでのその間、不安と緊張でその心は満たされていた。だが、凌充郎と歩調を合わせ、その隣で寄り添いながら彼に導かれるその間にすっかりとその不安と緊張は溶けて消えてしまっていた。彼の隣にただ居るだけで自然とその表情は和らいでいった。
「世界は澱みと腐りに溢れている。――――そのような世界にも、この様な場所があるというのは救いだ」
凌充郎は白夢の夜空を見上げながら低く落ち着いた声で朗々と語る。そんな凌充郎の横顔を緑は僅かに見つめると、ふわりと微笑み凌充郎の視線を追いかけながら言葉の続きを待った。
「全てがまだ腐りきっておらず、澱みに汚されてもいない―――――貴様の手を取って、この場所を見せる事が出来たのは僥倖だった」
そう言い終わり、凌充郎がその視線を緑へと向ければ彼女は凌充郎の顔を――そのバケツ越しに覗き込むようにただ微笑みを浮かべていた。そんな緑の表情を見た凌充郎はなんとも言えない感情が込み上がってくるのを感じていた。この様な心境の変化はなんともいかんしがたい。ただ、なんとなくジッとしていられない感覚に襲われた。
「―――――少し歩くか」
「はい、ご一緒します」
そう静かに言葉を交わすと二人は並んで白い花畑を往く。風が吹けば花々が波の様に揺れ、舞い上がった花弁が星の明かりを浴びて小雪のように煌めき踊る。ふと、緑が立ち止まるとそれに合わせて凌充郎も立ち止まる。
「このお花も初めてみました。なんて名前だろう……?」
緑はしゃがみ込むと白い花々を覗き込む。その花は陽の光を浴びた新雪のように細やかな輝きを帯び、白い布のようにふわふわと揺れている。その中の一輪の花を手折り、そっと鼻先へそれを近づければ微かに甘く、すーんとした香りを仄かに漂わせていた。どこか落ち着く香りだった。知らない筈なのにどこか懐かしい香りだった。緑はその花を持ったまま立ち上がるとそれを凌充郎の胸に飾るように差し出した。
「お礼、のつもりです……依頼とはいえ、こんな幻想的な場所にご一緒できて嬉しいから」
――親愛なる貴方へ感謝を込めて。月灯りのように笑う緑に凌充郎はその手を握ったままに暫くただその顔を見つめていた。
お礼は既に得ているというのに――揺蕩う月のように美しく、舞い散る花のように儚い緑のような存在がこのような世界で穏やかな時間を享受できる事自体が凌充郎にとってはある種の福音だった。かけがえのない救いだったのだ。そんな自分がこれ以上、彼女から何を受け取れるものか。その僅かな間、沈黙を保つ凌充郎を緑は優しく見守っていた。きっと凌充郎さんは不器用な人だから。でもお互いを想う気持ちが一緒なのは知っている。だから緑はただ凌充郎に微笑み掛けていた。そんな折に凌充郎は緑が差し出したその花を受け取った。壊してしまわないようにそっと受け取った。緑のその微笑みを、その意思を無碍にしたく無かったからだ。そうしてまた手を繋ぎながら白い花畑をゆっくりと歩いているとふいに緑が声を出した。
「そういえば心象現象もあると聞きましたが、凌充郎さんは何か見えましたか?」
緑のその言葉に凌充郎の思考はまるで静かな水面に波紋が広がるように移ろいだ。心象風景というのであるならば恐らく自分のそれはろくでもない。そんなものは彼女と歩くには相応しくない。だから凌充郎は見えざる景色を否定した。
「―――――ン。俺には、視えないよ」
「何も見えませんか?」
「―――――ああ、何も。 ――――視えなくて、いいのだ」
そんな言葉は言外の意味を重く含んでいるように響く。そんな彼の横顔に緑は秘密めいたものを感じ取っていた。視えなくていいと言ったその言葉。きっとそこには何か隠れているのだろう。だからこそ、緑はそれ以上、追及するような事はしなかった。
(――いつか教えてもらえるのかな)
今はそれでいい。眠れぬ夜も彼と一緒なら安らぐ事ができるから。この空気感に酔いしれたい。ただ、それだけで良かったのだ。
「―――――さァ、もう暫くこの世界を味わおうじゃないか」
「そうですね。せっかくこんなにも綺麗なんですもの」
この世界に濁りはいらない。純粋な二人の時間だけがあればそれで良い。星が降る夜を二人はその手を固く結んだままに往く。
●幻影追いし面影
吐き出す白い息が宙に消えていく。その先に広がる白夢の花畑は緩やかに波立ち、小雪の様に煌めく花弁が夜空へと昇って行く。もし一言でこの光景を表すのなら――絶景って言葉が似合うんだろう。そんな事を思いながら見上げた視線の先には銀色の夜空に七色の流星が泳いでいた。まるでアクアリウムの様な空の中で幾つもの光が揺蕩っていた。――なんだか手を伸ばせば掴めそうな星空だ。久瀬・千影 (退魔士・h04810)はぼんやりとそんな事を考えながら夜空に手を伸ばす。まるで硝子玉のようなターコイズブルーの星。それを手の平のひらに収めてギュッと握り締めればあっけなく空を切った。拳を開けばその中には何も無い。そんな空っぽの手のひらに千影は苦笑した。
「――周りに誰も居なくて良かったな」
なんて安堵の言葉を零せば、白い吐息となって消えていく。
「少し歩くとするか」
千影は歩いた。燦々と星降る花園を往く。銀砂を塗した夜空、淡く揺らめく純白の花。何処まで歩いてもその景色は変わらない。まるで時が止まってしまったかと錯覚する程に変わり映えのしない景色の中、時折吹き抜ける爽やかな風が肌を撫でるその感覚だけが僅かに時の流れを感じさせた。せっかくの機会だ、写真でも撮ってやろうか――なんて懐から取り出したスマートフォンはうんともすんとも反応を示さない。霊障に対応していない以上、霊域に指定されているこの場所に於いてそれは当然とも言えるのだが。
「このポンコツめ……」
撮影を断念した千影はそうスマートフォンに言葉を返して懐へと仕舞い込む。この特殊な状況下で正常な機能を期待していたという訳ではないが、不思議とそれは野暮な事をするなというこの空間の意思のような何かを千影は感じていた。尤も、それもただの思い違いかもしれないが。そう苦笑しながら歩いていた千影は突然その歩みを止めた。――何かが背後にいる。
(他の√能力者か?――いや、少なくともこの近くには居なかった筈だ。だとしたら敵か?)
それにしては敵意を感じない。そんな疑問を浮かべたまま、千影はゆっくりと後ろを振り向いた。
(コイツは――)
そこに居たのは、現在社会では見掛ける機会は限られてるであろう着流し姿の子供だった。千影の持つ無銘刀と同じぐらいの長物だろうか。それを収めた鞘袋をその子供は引きずるように持っていた。見覚えがある――というよりかはもはや懐かしいと思える感情。その子供が引きずる鞘袋はその子供の年代が運ぶには些か重すぎる。その事を千影は“知っていた”。あまりにも良く知っていたのだ。
気が付けば、千影は息をする事も忘れていた。まるで金縛りにあったかのように足が動かない。いや、実際には動かせたのかもしれないがそんな気は微塵も湧かなかったのだ。自分と同じ色をした瞳が真っすぐ見つめてくる。深く清らかな黒色の瞳。ずっと見続けていれば眩暈がするようだった。恐ろしい程に無言の時間が流れる。千影の息を飲む音だけがやけに響き渡っている。ふと、その子供の唇が微かに動いている事に気が付いた。それは声にはならなくて、耳にも届かない。――だが、その唇の動きは。役目に縛られたままのその子供は――幼き頃の千影は千影自身に向かって確かにそう言っていた。
『どうして?』
次の瞬間には|その子供《幼き頃の千影》の姿は消えていた。まるで最初から何も無かったかのように星は瞬き、呑気に花は揺れている。忘れていた呼吸を取り戻し、新鮮な酸素が肺の中に流れ込む。大丈夫だ問題ない。特に身体的に異常は無かったが先ほどの|子供《幼き自分》の言葉――唇の動きが確かに告げていたあの言葉だけが頭の中で反響する。
「今のは……幻か?それとも夢か?――俺はこの光景に浮かれていたのか」
|あの子供《いつかの自分》の「どうして」と|千影《今の自分》の「どうして」。二つの疑問が頭の中で交錯する。その言葉の意味はなんだ。あの姿を見た理由はなんだ。あの子供が自分に伝えたかった事はなんだったのか。答えは見つからない。出す事が出来ない。今はただその疑問の意味を噛み締めて、千影は白い花びらが舞い上がって行くのを追いかけて夜空を仰ぐ。もう一度、もう一度だけあの星に手を伸ばす。そうして伸ばした腕はあの時と同じように空を切る。
「俺は――」
そう呟いて開いた手のひらを見つめればそこには空虚だけが取り残されて。そこにふわりと舞い落ちた白い花びらは体温に融ける様に消えていく。
●眠れる君から眠れぬキミへ
白い絨毯の様に草原に広がるその花畑の真ん中に二人の姿があった。花畑の中で立ったままでいるのは黒江・式子 (〝眠れぬ茨棘いばらの城砦〟・h01354)。花畑の中で眠るように座っているのは清水・衣奈だ。式子の影は絡まるように衣奈の影へと結びつき、更に周囲を警戒するように伸びている。二人は逃亡者だった。とある心霊事件に巻き込まれ自身の影を怪異に憑りつかれた挙句に濡れ衣で今でも諸外国の組織に追われる日々を送っていた。あの事件のせいで眠り姫の様に眠り続ける衣奈を護り続けていた。そんな事件から早くも12年の月日が過ぎようとしている。式子は隣で眠る衣奈の横顔を見つめたまま、あの日の記憶に想いを馳せる。普通の大学生として日々を謳歌していたあの頃。衣奈の姿はあの日と変わらぬまま、後輩だった式子の方がすっかり年上になってしまった。
視線をふと衣奈から外せば、まるで天象儀の様な夜空に極彩色の流星の橋が架かり、煌めく星々の光を受けて地表の花畑は雪白に輝き揺れている。この景色を先輩にも見せてあげたかった。そんな事を考えながら式子の視線は再び眠るように目を閉じたままの衣奈へと向けられる。
「――|清《しー》ちゃん先輩」
そんな筈は無いと知りながらも、返事が返って来る事を期待して殆ど無意識にそんな言葉が零れ落ちる。当然返事は無い。――私は何を期待しているんだろう。こんな簡単に奇跡が起きるのならこんなに苦しむ事なんて無いのに。式子の生気の無い瞳は寂しそうに歪み、昏く影を落とす。とにかく今は汎神解剖機関から委託された業務をこなさなければ。そう衣奈から視線を外した瞬間、懐かしい声を聴いた。
『|式《しー》ちゃん』
忘れる筈も無い。聞き間違える筈も無い。それは確かに清水・衣奈の声だった。幸せだったあの頃と同じ様に式子を呼ぶ声だった。――どうして、どうして、どうして。ハッと何かから醒めるように式子は振り返る。式子を呼ぶその声の主の為に。然し、衣奈は眠ったままだった。彼女はまるで人形のように眠り続けてるだけだった。
「幻――ですか」
この空間は誰かの心象風景を再現する。式子はすぐにその事に思い至った。むしろ、その事に関しての懸念は常に抱いていた。だからこそ今の声の正体は式子の記憶から再現されたものなのか。もしくは衣奈の閉ざされた意識の奥底から汲み上げられたものなのか。いずれにせよあの衣奈の声は現実のものでは無く幻である事は理解していた。その筈だった。なのに――
「……|こらえてよ《勘弁してよ》。私達を苦しめんといて。」
高い場所から落ちる時ほど絶望は深い。式子の心境はまさにその通りだった。悪戯に懐かしさを刺激して、その優しい声が余計に心を傷つける。叶うかも分からない光景を見せられて、救いの無い現実を見せ付ける。ただ一言、その一言だけだったのにそれは式子の胸に深く深く突き刺さり、夢想という刃で残酷に引き裂いた。――それでも。例え幻だったとしても。懐かしい衣奈のその声は式子のある種の想いも奮い立たせていた。
「|清《しー》ちゃん先輩……いつか、必ず――」
静かに眠り続ける衣奈の横顔を見つめ、手を胸に当て深く呼吸をすると式子は空を見上げた。空想が泳ぐその夜空のその奥には一際大きな星が燦々とただ瞬いている。ふと、爽やかな風が頬を優しく撫で、懐かしいあの声がまた聞こえた――そんな気がした。
●交差する幻想
――気が付けばそこは異界だった。
「ここはどこだろう?」
近森探偵事務所の上司である近森・明人と行動を共にしていた遠藤・周次 (近森探偵事務所の後輩・h00643)の視界は一瞬のうちに塗り替えられていた。草原を覆う白い花畑にまるで天象儀のような空模様。夜空と花畑を一緒に閉じ込めたアクアリウムのような世界に周次は立っていた。困惑が無かったと言えば嘘になるが周次は極めて冷静に周囲の状況を確認する。似たような状況を体験した事もある。明人を通じて似た様な話を聞いた事もある。問題があるとすればそんな場所に1人で放り出された事だ。
「やれやれ……まさか明人さんじゃなくて僕が迷子になるなんてね」
そんな言葉を呟きながら懐からスマホを取り出す。それは予想してた通りに使用できる状態で無かった。そして周囲を見渡したとて永遠に夜空と花畑が広がるばかりで建物も人の影すらも見当たらない。さて、どうしようか?地上で揺れる白い花を調べても小雪のように細やかに煌めくそれは種類すら分からず、頭上に広がる夜空もまるで芸術品の様に鮮やかな紋様を描くばかりでその配置はまるでデタラメだった。分かった事と言えば何も分からないという事だ。
「ダメだ、さっぱり判らないや。……もう少し調べてみようか」
此処で立ち尽くしてばかりでも仕方が無い。明人もまずは行動だ!などと言っていた気もする。だからと言って無計画に行動すればいいと言う訳でも無い為、まず周次は通った道が判断できるよう――元の場所に戻れるように目印を残す事にした。そしてもしも明人もこの世界に来ていた場合の事も考え明人に向けてメモを残す事にした。周次は懐から手帳を取り出すとその1頁を破り、簡単にペンを走らせるとそれを目立つ場所に置き、風で飛ばされないように小石を重石代わりにする。
「明人さんこれに気が付くかな……うん、やる時はやる人だし信じよう。それじゃあ……進んでみようか」
そうして周次は宛の無い旅路へと踏み出した。定期的に花畑から白い花を摘み、その花びらを目印として散らしていく。こんなにも綺麗な花を千切る事に躊躇いはあったが状況が状況なだけに仕方が無い。そんな罪悪感を抱きながらも先へと進んで行く。相変わらず景色はファンタジーの様な星空と花畑が続くばかりだったが、やがてその中にポツリと浮かび上がる様に一軒の建物が建っていた。しかもそれは不思議な事に見覚えのあるものだった。
「あれ? あそこに見えてるの、うちの事務所かな?」
それは周次にとって馴染深い近森探偵事務所。当然、それがこの様な場所にある筈は無い。実に妙だ、さては何らかの罠ではないだろうか。そう警戒しながら近づくほどにその輪郭はハッキリとし、記憶の中の事務所と一致する。だからと言っていきなり中に踏み込むのもどうかと考えた周次は事務所の窓――カーテンも閉まっていないその窓からこっそりと室内を覗き込む。――それは不思議な空閨だった。事務所内はやはり見覚えのあるレイアウトで、差し込む夕日で深い憂愁を秘めた色と光で満ちていた。そして何よりそれは他ならぬ|原初《別世界》の風景だった。
「一体これは……?」
周次の意識はすっかり事務所内の風景に釘付けになる。疑問、哀愁――様々な感情が入り混じる。そしてその事務所の中の人物――それもまた周次にとって馴染深い人物であった。
「あれは章人先輩……じゃないね。あの人は……」
その人物は近森・明人だった。五年前に姿を消した近森・章人と瓜二つの人物。そしてその隣にいるのもまた遠藤・周次……自身と全く同じ姿の人物だ。
「明人さんの隣にいるのは……僕?――いや、あれは僕じゃない。多分……」
自分に瓜二つのその人物。なんとなくだがその人物は自分では無いと感じた。章人とそっくりな明人と同じように、彼もまた自分とそっくりな別の誰かだと感じた。そんな章人とそっくりと明人と自分にそっくりな誰かが馴染ある事務所の中でいつかのあの日と同じように談笑を続けている。そんな光景を呆然と眺めているうちに哀愁とは違う感情が周次の中に生まれた。
「……なんか見たらダメなものを見た気がする」
きっとその光景は見るべきものでは無かった。そしてこの場所に明人さん本人が居ないのは不幸中の幸いだった。そう思うのは自分の我儘だろうか?もしも立場が逆だったらあの人はどう思ったのだろうか?僕は――
(見えたのが先輩だったら……でも、その隣に僕じゃない僕がいたら……)
きっと、今の関係は変わってしまうだろう。それはほんの僅かな変化かもしれない。でも、確かに今のままではいられない気がする。なら明人さんはどうだ?明人さんだったらどうするだろうか?――色んな感情が絡み合い、堂々巡りの思考が重く身体にのしかかる。結局、どれほど考えてもその全ては自分の想像でしかない。そうであるのなら――
「これは僕の我儘なんだろうな。――はぁ……とにかく、早くここから出なきゃ……」
周次は探偵事務所の窓から離れる。そうして事務所を背に向けたまま歩き出す。決して振り返りはしない。振り返ってはいけない気がしたからだ。1人、幻野を往く周次を白い花達が見送る様に揺れていた。
第2章 集団戦 『EGO』

●エゴイズムの慟哭
その怪物は突然この世界に染み出した。羽の生えた卵の様な怪物『EGO』。それは人の「自己」から生まれ人の利己主義な感情を餌に育つと言う。それが何故この『白夢の園』に現れたのかは定かでは無い。この空間に漂う感情を求めて来たのか、Ankerを狙う襲来者の差し金か。どちらにせよ、けたたましい奇声を上げながら宙を飛び交うその怪物がこの場所を破壊し始めるのは間違いないだろう。この未知の空間で破壊活動が行われればどの様な現象を引き起こすか分からない。場合によってはこの場に居る全員に影響を齎す可能性もある。つまり、今この場であの不格好な『EGO』を退けなければならないのだ。
――今、白夢の空で悪夢が産声を上げている
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
こちらは怪物『EGO』との純戦となります。戦闘中で無い『EGO』はこの地域一帯に対して無差別に破壊行動を行います。また、付近に√能力者やAnkerがいる場合にも同様に無差別に攻撃を行います。可能な限り、この花畑一帯の被害を抑えながら『EGO』の殲滅を行って下さい。
また、Ankerの方が優先的に狙われるという事はありませんが、常に攻撃の対象になる危険性を孕んでいます。戦闘能力の有無に関わらず、慎重な行動を推奨します。
●幻炎の契り
幻影の花畑に異形の叫びが響き渡る――にも係わらず脳裏にはまだあの両親の――学友達の声が鮮明に残っている。何よりクラウス・イーザリー (希望を忘れた兵士・h05015)はまだ学友達の幻影の残照の中に居た。今、彼らから目を逸らせばもう二度とその姿を見る事は叶わないかもしれない。それでも、クラウスはその幻影を振り払って走り出した。この白夢に滲み出た悪夢を討ち払う為。そしてこの場所を守る為。Ankerだから――そんな理由を抜きにしてもクラウスはこの美しい場所を破壊される事を忍びないと思った。
「……俺が相手だ」
武器を構え、クラウスは宙を飛び回る『EGO』の群れの前へと飛び出した。それは『EGO』等の注意を自分に引き付ける為。そしてそのクラウスの狙い通りにその卵の怪物達は一斉に身体の大半を占める大口の中から覗かせる大きな目玉をぎょろりと向けた。
GYAAAAAAAA!!!!!!!
「――――――」
怪物の咆哮が轟く中、クラウスは脳裏に彼の親友の面影を思い浮かべる。先の幻の中でもあの日と変わらぬ太陽の様な笑みを浮かべたあの姿を。すると、クラウスの周囲にチラリと炎の羽根が舞い、その中から太陽のような光を纏った鳥の幻影が現れた。それはクラウスと共に戦うと言わんばかりにその周囲を果敢に飛行する。
「さぁ、行こうか」
そうして臨戦態勢で挑むクラウス達に怪物『EGO』達はまるで分裂するようにその数を増やし、一斉に飛び掛かるようにして迫って来た。クラウスは迫り来る怪物達から距離を取る様に後方に飛び退き、その手のひらを怪物達に向ける。そして、畳みかけるように呪文を唱えると魔力がその手のひらに集中し、魔導手袋に刻印された魔法陣を溶媒として放たれた魔法が広範囲の怪物達を纏めて爆散させる。
「何体か撃ち漏らしたかな。――任せたよ」
宙で飛散する爆炎、その中から致命を逃れた複数体の怪物が手負いの獣の如くに飛び出してくる。そうしてクラウスに迫る怪物を滑空する幻影の鳥が火炎弾で撃ち落とした。燃え上がり爆散する怪物の残骸の中を抜け、高く舞い上がった鳥はそのまま再度火炎弾を掃射し、遠方の怪物の群れを次々と撃ち抜いていった。数は大分減らした――だが。
GYA!! GYAAAAAAA!!!!!!!
それでも依然として残る怪物の群れは地表目掛けてがむしゃらに突進を繰り出した。クラウスはそれを敢えて避けずにエネルギーバリアを展開して正面から受け止めた。何かがぐしゃりと潰れる音と何かが軋む音が入り混じる。クラウスの機動力から言えば怪物達のその闇雲な突進など容易く回避する事が出来た筈だ。にも拘わらずクラウスはそれをしなかった。――この白い花畑を護る為に。
(――あの声や姿は幻だ。そんな事は分かってる……それでも)
それでもクラウスは身を挺してでも花畑を護る為に動いていた。何故だか彼らの居場所が奪われてしまうような気がしたから。彼らはもう存在しないというのに。それでも体は無意識に動いていた。――この想いはなんだ? 自分はどうしてあんな行動を取ったのだろうか? 花畑を守るという依頼の為? それとも彼らの居場所を護りたいという私情なのだろうか?分からない、分からないが――
「それでも俺は――戦わなきゃいけないんだ」
クラウスのかざした手のひらの先――怪物『EGO』の身体が爆散した。
●絆断ちの星将
怪物『EGO』の襲来。真紅・イサク (生きるとは何かを定義するモノ・h01287)は即座に臨戦態勢へと移行していた。無数の怪物が放つ無数の感情を浸食する卵――イマーシブルエッグ。それらが着弾するよりも早くイサクは詠唱を行った。
「雨は軍勢となり、戦闘領域を支配する。震える光は刃を作り、空隙そのものとして形を成す。生じた両断の具象は、揺らぎとなるのだ」
――|天雨の軍勢・両断し刃となる空の光芒《レインレギオン・イオンスライサームーブメント》。イサクが操るイオンスライサーから生成された真空波はまるで燕の様に宙を滑空する。そうして、その進行先に存在するイマーシブルエッグをその発生源である怪物『EGO』その本体ごと真っ二つに両断した。
「さて、無差別に破壊するのは、止めてもらおうか」
イサクにはこの場所を守る使命があった。それとして、この幻想的な場所が|彼《か》の悍ましい怪物に破壊されるのも癪であったし、何よりそれ以上に心象風景――過去の記憶すら再現するこの場所を破壊されるのが勿体無いと感じていた。つまり、完璧に防衛を成功させる必要がある。そうして、イサクはこの花畑一帯に対しての防衛線を展開していた。『EGO』の狙いは広域に至る。その狙いを先んじて阻止する為に花畑へと意識を向ける『EGO』。着弾し爆発しそうなイマーシブルエッグ。それらに狙いを定めて攻撃を行使する。
「それ以上の狼藉は許さないよ。――逃がしはしない」
まるで自身の四肢を操るように精密に――的確にイオンスライサーを駆使して放たれる真空波は夜を翔け怪物達を切り刻んで行く。1体……2体……次々と屠られ夜空に融けるように霧散し闇の水底へ沈んで行く。そんな光景を眺めながらもイサクは次の展望を考えていた。まだまだ続くこの戦いのその一手先を見据えて。
「さて――この後、サイコブレイズは姿を現すのか。はたまた別の簒奪者が現れるのか」
どちらにせよ次が本命だ。この段階で敵に後れを取る訳にはいかない。僅かにでも戦況を有利な状態へと持ち込めるよう、この先の事を見据えながら丁寧に、そして着実にイサクは怪物『EGO』を屠りつつ花畑防衛を遂行した。
●快刀乱麻を断つ
あの姿が、あの声が脳裏に焼き付いて離れない。自問自答にも近い思案に耽るその最中、ふと目を凝らせば視線の先の空間から何かが染み出しているのが見えた。ジュクジュクと不快な音を鳴らしながら姿を現すのは極彩色の蠢く肉塊。ギチギチと粘着性のある皮膚を突き破るような音に次いでまるで羽化のようにその肉塊の背に翼が姿を現してくる。それはまるで歪でグロテスクな空を飛ぶ卵。その怪物は肉体の大半を占めるパックリと開いた大口から覗く大目玉を右へ左へ忙しなくギョロギョロと動かして、自由に喜ぶかのように金切り声を上げて宙を舞っていた。
「――出やがったか」
久瀬・千影 (退魔士・h04810)はいつかの幻想を振り払い、冷静に周囲を見回した。出現した怪物――『EGO』は一匹だけでは無い。その時には既に千影を取り囲むような形で数匹もの『EGO』が宙を漂っていた。だが、焦燥も怯えも今は無い。かつての自分なら見せ付けられるこの悍ましい光景に眉を顰めていただろう。それはいつまで経っても慣れないものだと思っていた。――だが、案外何とかなるもんだ。千影はただ、静かに目の前の現実を見つめていた。
「よう、雁首揃えてお出ましか? その醜悪な面。よっぽど性根が捻じ曲がってるように見えんなぁ」
そんな挑発混じりに、千影は堂々と怪物達の正面に立つ。ギョロリと宙に浮かぶ単眼が一斉に千影へと向けられた。ぬめりけのあるギラギラとした目玉には不敵な笑みを浮かべる千影の姿がまるで鏡のように映り込んでいる。
――GYAAAAAAAA!!!!
「うるせぇな」
大気を震わせる耳を劈くような絶叫。悲鳴とも怒号とも言えぬ奇妙な狂乱の音を奏でる怪物はミチミチと生々しく分裂しながら、その全てを以て千影に向かって襲来する。先ほどの数倍にも膨れ上がった怪物の群れ。その殺到を前に千影は怯むそぶりも見せず背負った鞘袋に手を伸ばすと無銘刀を引き抜いた。それはあの幻影の引きずっていた物と同じ打刀。何度も捨てようとしたが、結局今ではすっかり手に馴染んでいる。意識を深く沈める――深く深く精神の水底に沈むように。すると無銘刀が仄かに夕闇のような薄紫色を纏っていく。
「瞬きしてる暇はないぜ」
『EGO』が肉薄する。それに合わせ踏み込み、刀を振るう。それは一瞬だった。刀身はまるですり抜けるように『EGO』の肉体を切断し、文字通りに真っ二つにする。それで終わりでは無い。怪物は次々と千影に向かって殺到する。それよりも早く千影はその軍勢の中へ飛び込み刀を振るった。――紫閃。それはまるで流星のようだった。目にも留まらぬ速さで繰り出される斬撃は怪物達に己が斬られた事すら気が付かせない。宙を奔る神速の刃に触れた怪物達がその絶叫ごと両断されて墜ちていく。怒り狂う怪物がついに千影を捉えその歪な翼で殴打する――だがそれは無情にも空を切る。残像――怪物がその事に気が付いたのは自身の身体が二つに分離した後の事であった。刀身に滴る血を払えば黒々と瞬き宙に散り、千影は周囲へと視界を巡らせた。
「だいぶ減らしたが――まだ随分と残ってやがる」
だが、それでも『EGO』は大幅にその数を減らした。すると俄かに千影の視界の一部を極彩色が彩った。『EGO』の群れの一匹の翼がその極彩色の輝きを強めていたのだ。千影は思わず目を細める。その怪物はゴキゴキと不快な音を掻き鳴らしながらその姿を更に歪な物へと変化させたからだ。内側から膨れ上がるように肥大化した怪物の翼がまるで触手のように蠢いている。そんな成長体へと変化した怪物を前に千影は静かに無銘刀を鞘へと納めた。
「――――――」
精神を研ぎ澄ませる。波風1つ無い明鏡止水の水面に再びその意識を鎮めていく。鞘に納めた刀の鯉口を切り、柄に手を掛けたまま腰を落とす。呼吸一つ。――時間が緩やかに感じる。まるで世界がスローモーションになったみたいだ。変貌を遂げた怪物がゆっくり、ゆっくりと千影に迫って来る。それを千影はただひたすらに待った。更に近く――もっと近くだ。そしてその瞬間が訪れた。
――燕返し。壱の閃、鞘から抜き放たれた斬撃が迫り来る怪物の巨体を一文字に切り裂き、悲鳴すらも搔き消した。間も無く放たれる弐の閃。それは半月の弧のように瞬いて憐れにもまだ己の運命に気が付かない怪物を悉く打消し、白夢の花畑を吹き抜ける風のようにどこまでも奔った。その間、刹那(凡そ1秒)。静寂の底に沈んだ幻野に刻を告げる鐘の音のように刀を鞘に納めるその音だけが木霊する。さらさらと蛍火のような花が揺れる。燦々と空の星々が流れる。周辺の怪物の気配を消え失せ、花畑には千影がただ一人存在していた。
「――大体片付いたか」
気配を探れど、もうそこには何も残っていない。地上には花が、夜空には星がただ踊っているだけだ。息を吐き千影はおもむろに空を見上げる。天蓋を飾りたてる幾千もの煌めく綺羅星。ふと、それに手を伸ばしてみてもその手のひらの中は空っぽだった。
●怪物殺しと女神の祈り
夜空に奇声が響き渡る。煌めきが折り重なり、調和するその風景にはよほど相応しくないものだ。
「――――さて、おでましか」
如月・縁 (不眠的酒精女神・h06356)と共に花畑を歩んでいた橋本・凌充郎(鏖殺連合代表・h00303)は夜空に滲み出た極彩色の怪物達と縁の間を隔てるようにして立ち止まる。そして縁もまた、凌充郎の傍らで先ほどまでの朗らかな微笑みとは違う、鋭く凛々しい表情で怪物『EGO』に視線を向けていた。
「出てきましたね――それにしても、すごい声。耳がおかしくなりそうです」
けたたましく鳴り響くサイレンの様に断続的に続く耳を劈くような怪物の叫びに縁は眉を顰める。ビリビリと大気を伝わり震える振動はなんともし難い不快感を泥のように纏わり付かせた。ふと、縁が凌充郎の横顔に視線を向ければその頭部を覆うバケツはただ真っすぐに怪物達を見据えている。
「相も変わらず、貴様等怪異は澱み、腐りをもたらす。この静謐に満ちた小綺麗な場所をも踏みにじり、穢し、腐らせ、深淵へと引き摺り込んでいく」
低く、響くその声の奥底に在るのは怒りか、それとも純然たる殺意か。だが、緑にはその言葉に込められた意味は読み取れた。彼がこれから何を成そうとするのかも伝わっていた。だからこそ縁も凌充郎と共に行こうとする。
「せっかくの美しい場所なのに……破壊される前になんとかしないといけませんね」
「――――ああ、ならばやるべき事はただ一つだ。破壊される前に奴らを悉く破壊し尽くす。――――手間をかける、如月縁。自らの安全確保を第一に動け、いいな」
縁を自分の闘争に巻き込む事は忍びない。だからこそ、縁に魔の手が伸びる前に奴らを殺し尽くす。縁に告げた思いやる言葉の奥の奥に秘めた、怪物に対する滾る程の殺意を燃やし両手の銃器を握る拳に力を込める。そんな凌充郎に応えるように縁は仄かに香る|酒精女神の槍《アテナ》を構えて周囲に意識を張り巡らせた。霊域一帯には数多の『EGO』が姿を現している。然し、先の√能力者との戦闘で着実に数は減っている様子だった。
「どうやら、他の方の戦いの成果は着実に出てきているようですね」
「――――ああ、そのようだな。――――周囲の能力者による敵の排除は進んでいる。それならば――――」
――残りを迅速に片付けるのが得策だ。
「――――行くぞ」
「お任せください!」
戦線に飛び出して行く凌充郎の背を見送りながら縁は|酒精女神の槍《アテナ》を掲げる。
――どうか貴方に『加護があらんことを』
透光の加護――彩度の高い、透き通るような宝石の如き光の糸が展開し、駆ける凌充郎の身体にふわりと接続する。感覚が冴え渡り、身体が軽くなる。そんな感覚と共に凌充郎は更に早駆ける。――殺す。――殺す。――殺す。研ぎ澄まされた殺意は獄狼の化身と成りて咆哮する。地響きの様な地を這う重厚な叫び。聴く者全ての心さえ揺るがす叫びは迫り来る怪物共の生と死の境界すら曖昧にする。
「凌充郎さん! 左から敵です!」
縁が叫ぶ。周囲の状況に気を張り巡らせていた縁は正面の怪物の群れから逸れた。或いは、他の戦場から免れた怪物が凌充郎の視界外から近づく事に気が付いた。凌充郎の背を護っていた縁は誰よりも早くそれに気付き凌充郎に伝えた。そんな縁の声に即座に身を翻した凌充郎の構えた銃口は間も開けずに怪物に向けて炎を吐いた。響き渡る重厚な銃声はブヨブヨとした白濁の醜い肉塊に大穴を穿ち脳漿の如き液体を撒き散らさせた。それと同時にその怪物の身体が爆散し醜悪な臭気を吐き出した。一種の神経毒だ。それを凌充郎はまともに浴びる。
「凌充郎さん――」
縁は祈る――そしてその祈りが通じたかのように撒き散らされた臭気を祓う様に花々の心地よい仄かな香りが漂った。それは|女神《縁》の贈り物。凌充郎の携えた赤石を収めた香袋。それに秘められた祈りの芳香が怪物の神経毒から凌充郎の身を守ったのだ。僅かに残る怪物の残骸を外套で振り払い、凌充郎は再び正面から迫る怪物共に立ち向かう。
「――――問題ない。――――怪物共め。――――耳障りだ。ここで、文字通りに静かにさせてやろう」
怪物に向けられる二丁の銃。|故絶やしの拳銃《ハンドキャノン》と|果絶やしの特装長銃《ヘビーライフル》の|牙《照準》が怪物達に|突き立てられる《狙い定められる》。そして開幕する鏖殺の交響曲。発火炎が激しく明滅し火花の様な光を撒き散らし、輪唱の如き銃声を咆哮の様に轟かせる。それは暴虐と狂乱の嵐。死を齎す弾丸が絶え間無く掃射され、熱を帯びた空の薬莢がカラカラと大地に降り注ぐ。巻き込まれた怪物共は次々とその肉を穿たれ、砕かれ、食い破られて肉片と化していく。嵐が過ぎ去った後。後に残されたのは静寂と――凌充郎に駆け寄る縁の姿だった。
●眠れない夜に見る夢
白夢の空に染み出した歪な卵。生物の歪な感情を具現化した怪物『EGO』は白い花畑の中で眠る清水・衣奈と彼女を護る様に立つ黒江・式子 (〝眠れぬ茨棘いばらの城砦〟・h01354)の周囲を不気味に啼きながら浮かんでいた。そのブヨブヨとした肉塊の如き身体の大半を占める大口から覗く怪物の目玉。その不愉快な視線を向けられながら臨戦態勢を整えた式子は怪物を警戒しつつも、人形の様に動かない衣奈へと視線を向ける。
――これは私のエゴだ。|彼女《衣奈》の為と宣いながら結局、彼女をこんな場所にまで連れ出して危険に曝している。この有様をエゴと言わずしてどうするというのか。
「――そんな事、分かっとる」
式子は己の不甲斐なさを噛み締め、その上でその全てを受け止める。そんな葛藤など、とっくの昔に擦れ切れる程に繰り返した。何度も何度も、永遠の責め苦の様な時間の中に居た。彼女が自分の事を恨んでいるのならそれで良い。恨み言でも叱りの言葉でも構わない。その言葉が何であろうと、幻で無いのなら。
「――もう一度貴女の声が聞けるのなら、私は……!」
――例え歪んだエゴだとしても、私はそれを貫いてみせる
直前に聴いたあの優しい声色を塗り替える様に、遠く遠く――遥か昔に聴いた色褪せないあの日の声が式子のその名を呼んだ気がした。
「ごめんなさい先輩――少しだけ手伝って貰います」
運命を紡ぐ糸針――式子がまるで指揮者の様に手を振るえば、それに呼応する様に式子の影の茨が弾ける様に地面を這い摺り、衣奈の影へと絡みつくとその衣奈の身体がふわりと浮かび上がる様にして立ち上がる。茨を手操り本来動く事の無い衣奈の身体を動かすその様はまさに〝人形遣い〟。式子にとっては最も忌むべき通り名だ。そんな彼女らに他の個体よりも一際大きく醜悪で歪な極彩色の翼を持つ『EGO』がその翼をまるで腕の様にしならせ式子達へと襲い掛かる。
「先輩――」
咄嗟に式子は自らが操る衣奈の身体全身に自らの茨を巡らせ、少しでも敵の攻撃の衝撃を和らげようと行動する。自分はどれだけ傷付こうか構わない、せめて先輩だけは――そんな祈りにも似た式子の行動は功を成し衣奈の身体は怪物の殴打に曝されながらもそれを寸前でいなす様に躱しその身体に傷が付く事は無かった。安堵する暇は無い――次はこちらの番だ。茨を操る式子の手が旋律を奏でるように動けば、衣奈の足元に影の茨が広がり周辺に浮かぶ怪物達の影を補足する。捉えてしまえばこちらの物だ。影から飛び出した茨が浮遊する『EGO』らに絡みつきその身体の自由を奪い取った。ミチミチと肉を締め付けるような生々しく湿った音。影の茨を振り払おうと暴れていた『EGO』達だったがそのエネルギーを茨に吸い取られ、その抵抗が徐々に弱まって行く。茨に囚われ、そんな姿を晒す歪な卵達の前に躍り出たのは式子だ。その手には手元まで伸ばした茨の影を鞭の様に握っている。
「終わりにしましょう。――いいえ、貴方達は私達と同じく、ただ不運だっただけです」
振るわれた茨の鞭が撓り風を斬る。黒い影は白夢の放つ蛍火の様な灯りに照らされて、夜空に弧を描き『EGO』の身体を打ち砕くと弾け、次から次へ夜を渉る様に宙を奔り『EGO』達を屠って行く。
――私はこのエゴを越えていく
●近森探偵事件簿――白き夢と悪夢の卵
近森・明人 (近森探偵事務所の名探偵・h00272)は事務所の後輩――遠藤・周次 (近森探偵事務所の後輩・h00643)の姿が消えている事に気が付いた。最初はトイレか?――と的外れな事を思い浮かべたが、現状――霊域指定地帯『白夢の園』に居るという状態からその真相に気が付いた。
「マズいな……周次が巻き込まれてるのか……待ってろ周次!急いで向かうぞ!」
未知の空間、周次の姿が消えた事。これから推測するに間違いなく周次もこの場所のどこかに居る。そしてこの一帯には何処から湧いたのか卵の様な化け物があちこちに浮いている。状況は戦う術の無い周次には危険極まり無い状態。事は急を要する。明人は急いで周次と合流すべく花畑を駆ける。夜空には遠に流れる青白い天の川、七色の星が踊り、地表では蛍火の様な穏やかな明かりを灯した白い花が静かに揺れている。平時であればのんびり観光するのも悪くない。そう思える程の絶景の中には見覚えのある建物がぼんやりと浮かび上がる様に立っている。薄暗い非常階段――その階下に誰かが佇んでいる。明人はそれに一瞬目を奪われそうになるが今はそれどころではないと頭をぶんぶんと振って走り続ける。
「なんかあの花畑に居た気がするが……無視だ無視!それよりも今は周次だ! おーい! 周次どこだー!?」
そう叫びながら走る明人の視線の先、メモが置かれている事に気が付く。それを拾い上げればそのメモは周次の書置き。そしてその先には明らかに人工的に白い花びらが撒かれていた。
「流石周次だ。しっかり目印を残してくれてるぜ。つまり……あっちに居るって事だな!それにアイツの事だ。あの怪物に気が付いて隠れるか逃げるかしてる筈だ。……よし。なら暴れてやるか。俺が目立てば敵の注意も引けるし周次も俺に気が付くだろ。我ながら名推理だな。そうと決まれば善は急げだ!化け物共!俺が相手だ!」
そうして明人は周次の残した目印を辿りながら果敢に怪物『EGO』に挑んで行く。
一方その頃。周次は明人の推理通りに怪物『EGO』の群れの真っただ中に居た。突然、空間に滲み出す様に姿を現した醜悪な怪物。それらの視線から逃れるように周次は花畑に紛れる様に身を屈めながら遠くから唖然と怪物を眺めていた。
「何だ……あれ?」
ブヨブヨとした質感の卵の様な身体から大きな羽。大きく裂けた口の中からは大きな目玉がぎょろりと覗いている。明らかに味方では無い――明らかに怪物だ――そう確信する周次は身を屈めたままジリジリと後退する。この開けた花畑の中に紛れ続けるのは無理がある。絵画の様な空を彷徨う怪物の目を盗み、身体を翻し反転すると出来るだけ花畑の中に身を潜めつつこの場所から離れる。そう考えた周次の足は止まる。――逃げる事など無理だ。既に周次を取り囲むようにして無数の怪物が徘徊している。どう考えても対抗手段の無い自分がこの包囲網を抜ける事など出来る訳が無い。
「……囲まれてるし、逃げるのは無理っぽいね」
諦観。恐怖――というよりも、こんなものか。という拍子抜けな感情の方が色濃かった。足から力が抜けていく。そんな周次の背中にぞわりと撫でる様な悪寒が奔った。残された力を振り絞り、振り返れば醜悪な怪物とその視線が交差する。獲物を見つけ歓喜するかの様に怪物『EGO』は叫ぶ。それは周囲の怪物達と共鳴し、次々と叫びは伝播し耳を劈く様な不快な交響曲が花畑に木霊する。
「死んだら、先輩のところに行けるのかな……」
生きて近森・章人と再会する事はどうやら叶わなそうだ。ならせめて、死後には彼と逢えるだろうか。諦観の息を零し、空を見上げれば星々がまるで夜景の様に眩しく瞬いている。ふと、そんな周次を呼ぶ声が聴こえた気がした。聞き覚えのある馴染深い声。
「あれは近森先輩、じゃない……明人さんの声だ」
それは確かに周次を呼ぶ明人の声だった。そしてその声の先へ視線を向ければ、次々と怪物を薙ぎ倒す明人の姿があった。自分を助けに来てくれたのだろうか?自分が彼のAnkerだからだろうか?どちらにせよ、今まさに明人は周次の名を呼びながらこちらに近づいて来ている。ふと、周次は自分の身体に力が戻って行くのが分かった。
「ああ、そうだ。僕は先輩を探さないと――こんなところで死ぬわけにはいかない」
周次は再び生きる覚悟を決める。|先輩《章人》の為――明人の為にも。
「――明人さん!」
「おお!その声は周次……ってヤバ、敵に囲まれてるじゃねぇか……!このピンチを切り抜ける為の華麗な推理……なんてしてる場合じゃねえ!」
明人の名を呼ぶ周次の声。その声の先には怪物達の包囲網、その真ん中に周次が居た。そしてそんな周次に対して怪物は既に距離を縮めている。どうこう考えている暇など無い。そう思うよりも先に明人は周次に向かって駆けだしていた。鬨の声を上げ、気合十分に花畑を駆ける明人。勢いのままに地面を蹴りつけ跳び上がる、そこから放たれた強烈な飛び蹴りは周次に接近する一匹の怪物を見事に粉砕した。
「周次!俺の後ろに居ろ!」
「うん、分かったよ明人さん」
周次はその言葉の通りに明人の背後へ移動する。今の自分にあの化け物相手にやれる事など無い。ならばせめて明人の邪魔にならない様に大人しく守られておこう。そう考え周次は懸命に身を屈めた。そんな周次の盾となるように明人は次々と迫り来る怪物達を迎え撃つ。明人の華麗な|柔崩剛脚《マーシャルアーツ・コンビネーション》が怪物を沈め、時には怪物を羽交い絞めにし他の怪物の攻撃を凌いだらそのまま勢いよく放り投げて空中の敵を撃墜する。そんな明人の奮闘を見ながら周次はふとこんな事を思った。明人さんみたいに力があったら、僕自身で先輩を探しに行けるのに――
気が付けば周囲の怪物はすっかり片付き、そこには以前と変わらない幻想的な風景がそのままに在った。以前と違う所と言えば周次と明人、その二人が揃っているという点ぐらいだろう。
「ふぅ……なんとかなったみたいだな」
周次の絶望とも言える状況を明人はたった一人で覆した。そんな明人がなんだか眩しく思えた。本当はそんな事を思ってはいけないと分かっているのに――欠落というものがあれば、僕も明人さんのようになれるんだろうか……そう思ってしまった。そんな周次の振り向き、明人はどこか安心した様に周次に手を伸ばす。
「大丈夫か、周次」
「――ああ、大丈夫だ。助かったよ明人さん」
そんな明人の手を周次は取り、立ち上がる。
第3章 ボス戦 『外星体『サイコブレイド』』

●墜ちる夢
怪物の消え去った白夢の園。再び、静寂に包まれたその地に1人の男が降り立った。殺し屋『サイコブレイド』――星降る夜を背に外套を風にたなびかせながら三つ目の男は集った√能力者達を見回した。一同を前にして男は何処か自嘲気味に嗤う。
「なるほど。先の妙な連中はお前達が片付けたのか。――まぁいい」
男は片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方の腕で武装サイコブレイドを構える。やる事はもう分かっているのだろう? そう言わんばかりに眼鏡越しの双眸と額の翡翠色の瞳が√能力者達を見つめている。
「俺は殺す為に戦う。お前達は生かす為に戦う。それだけの単純な話だ」
男は当初の標的であるこの『霊域指定地帯』そのもの以外にも殺すべきAnkerがいる事を察知していた。ふと、男の脳裏に己のAnkerの存在が過る。目の前の連中はAnkerを守る為に戦っている。それに対して自分はどうだ?――いや、何を言っても言い訳に過ぎぬ。今はただ、己の罪を遂行するだけだ。
「大切な者を守りたければ俺を殺せ。さもなくば俺がお前達の大切な者を殺す。――さぁ、行くぞ」
剣呑な状況には到底場違いな淡い花びらが宙を舞う。漆黒のキャンパスに白銀の線を引き、この戦いは|愈々以《いよいよもっ》て最後の夢を見る。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
※この最終章の目的は『外星体『サイコブレイド』』の撃退です。
その際の『サイコブレイド』生死は問いません。
また、『サイコブレイド』は優先的に√能力者を狙う為、戦場に居るAnkerが狙われる事はありません。
ですが、Anker自ら前線に飛び込むなどの行動を行った場合は戦闘の余波に巻き込まれる危険性はあります。
●大切な人々に告ぐ
「……ああ、わかっているよ」
淡々と告げられた『サイコブレイド』の言葉にクラウス・イーザリー (希望を忘れた兵士・h05015)は短くそう返す。その男がなぜ望まぬ戦いを繰り返すのか、クラウスはその理由を知っている。守りたいものの為の戦い――負けられないのはクラウスも同じだ。
「この場所も他のAnker達も殺させない」
「ならば、俺を止めてみろ。――さぁ、行くぞ」
刹那。クラウスと『サイコブレイド』の視線は宙で斬り結び。それを合図に二人はほぼ同時に飛び出した。先手を取るのはクラウス――姿勢を屈め勢い良く迫る『サイコブレイド』を視界に捉えたまま素早く詠唱を行う。構えた魔導手袋の魔法陣に魔力が流動し、全力を込めた魔法が放たれる。花畑を駆けるのは水と風の混成魔法。それらは花々の頭上を吹き抜ける様にして『サイコブレイド』目掛けて翔けて行く。
「――あくまでこの地を傷付けまいとするか。――甘いな」
クラウスの放った魔法。それをその男は正面から武装サイコブレイドで受け止め斬り払った。そしてそのまま態勢を変えると急速にその移動速度を緩めていく。彼の得意とする暗殺の構え――ハンターズ・ロウだ。クラウスはその姿を見失わない様にと意識を集中させるが『サイコブレイド』の気配はまるで世界に溶け込む様に薄まって行き、視線を外そうとする『サイコブレイド』の動きを追う事はまるで陽炎を追う様にどこか不確かなものに思えてしまう。だがそれでもクラウスはその足下の花々の動きなどから動きを予測し、そのギリギリまで『サイコブレイド』を追い続ける。だが、その追跡もふとした瞬間に途絶えてしまう。
(見失った!――だったら)
クラウスは突然足を止め、その視線をぐるりと周囲を見回す様に巡らせる。相手の姿を見失った以上、闇雲に動く必要は無い。然し、動きを止めるという事は即ち相手にとって好機である事にも変わりはない。『サイコブレイド』は当然その機を逃すまいとクラウスの背後からその凶刃を迫らせる。クラウスはその襲撃に気づく事は出来たが回避は間に合わない。――クラウスの突然の停止。それに関して『サイコブレイド』は何か策があるのではないかとそのクラウスの行動に対して警戒していた。然し、その上でその策ごと打ち砕かんと『サイコブレイド』はクラウスに対しての襲撃を敢行した。『サイコブレイド』にとって、最も予想外だったのはそのクラウスが攻撃を回避するそぶりを見せず、自身の身体でその攻撃を受け止めた事だった。
「――何故避けん」
「さぁ、なんでだろうね……」
クラウスの右肩に深々と『サイコブレイド』の放った刃が深々と喰い込み、その傷口からはドクドクと鮮血が流れ出す。意識が飛びそうになるほどの鋭い痛み――思わず顔を顰め、声を上げそうになるがそれを痛みごと押し殺し。そして動きの止まった『サイコブレイド』の腕を逃がすまいとしっかりと自らの腕で捉えて捕縛する。――本来のクラウスであればここまで自分を顧みない戦い方はしなかっただろう。ならどうしてこんな事をしたのか?そんなクラウスの脳裏に過ったのはあの|幻影《両親や学友》の姿や声だった。ありえたかもしれない未来の彼ら。共に過ごした時間は短く、それすらもただの幻想だったのかもしれない。それでも――
(俺は――あの人達が存るこの場所をどうしても守りたかったのかもしれないな)
太陽のような光を纏った陽の鳥がクラウスに寄り添うように飛ぶ。まるでその背を押す様にふらりと散った不死鳥の炎がクラウスの負った傷をみるみるうちに回復させていく。傷の治ったクラウスは『サイコブレイド』の腕を掴んだまま、もう片方の腕――魔導手袋を男に向ける。
「あなたの事情は知っている。それでも――この場所を壊す事は許す事はできなさそうだ」
放たれるクラウスの魔法。『サイコブレイド』は寸前で捕縛を振り切る後方に飛び退く。どうやら致命傷は免れた様だが――『サイコブレイド』の腕からはドクドクと血が流れだしていた。
●雷鳴鼓動し刃を断つ
真紅・イサク (生きるとは何かを定義するモノ・h01287)と『サイコブレイド』は白夢の園で対峙する。その剣吞な雰囲気とは打って変わって、白い花々は呑気に風に揺れ、夜空では数多の星がながれ続けている。そんなパノラマを背に、二人は短く言葉を交わす。
「その通り。今は君の願いを叶えるわけにはいかない」
「ああ、そうだろうな」
「こちらは守るべきものを守る」
「俺は殺すべきものを殺す」
「シンプルな状況だーー始めようか」
その言葉を合図に『サイコブレイド』は後方に飛び退き、一気に片を付けようと自らの武装であるサイコブレイドに宇宙エネルギーを充填させる。イサクはその動きからその男の狙いを察すとそれよりも早く先手を打つ。
「雨は軍勢となり、戦闘領域を支配する。暴威を振るう風と水の属性を主とする災禍。其に枷を着け、御する事で自在の武器とせよ」
|天雨の軍勢・枷により成される気象災厄の完全調和《レインレギオン・パーフェクトウェザーディザス》――気象を操る。人智では到底成し得ないそれをイサクはその威力を精密に調整する事により完全に制御する。瞬く間に星空を暗雲が覆い隠し、地響きの様な雷鳴が轟き始める。瞬間、一際眩い閃光が世界を白く塗り潰し猛烈な落雷が『サイコブレイド』を襲う。
「気象すら操るとは――実に厄介な事だ」
落雷に曝された『サイコブレイド』は宇宙エネルギーの充填を一時中断すると落雷から逃れるべく素早くその場から離脱し、瞬時にイサクの姿を視界に捉えるとその落雷を阻止すべく外套から取り出した投げナイフの数本をイサクに向けて投擲する。そんなナイフを雷撃が即座に撃ち落とす。その内の一本のナイフがその雷撃をすり抜け、イサクの頬を掠め飛ぶ。だがイサクは一切微動だにせず『サイコブレイド』の行動を監視し続けていた。
「させない。君は必ず止めてみせる」
「やはりそう簡単にいかぬか。ならば――」
小手先の技では通用しない――そう判断した『サイコブレイド』は充填した宇宙エネルギーを解き放ち、イサク目掛けて疾走しながら外宇宙の閃光を解き放つ。目も眩む様なまるで極彩色の不可思議な閃光。だが、その行動も予測の範囲だとイサクは即座に落雷を一斉に解き放ち、白夢の園――霊域指定地帯その全域に広がる外宇宙の閃光を抑え込む様に展開する。イサクが制御し紡ぐ気象災害――その中を身を焼かれながらも『サイコブレイド』は猛進する。
「ボク達は生かす為に戦う……か」
そんな『サイコブレイド』の姿を見ながらイサクは彼が発した言葉を繰り返す。――その通りだ。彼の言い分は間違っていないし、彼の事情もよく分かっている。――ならばこそ、今は相容れる事は出来ないのだ。
「――決着を、着けようか」
『サイコブレイド』は全身を焼かれながらも今もなおイサク目掛けて突き進む。そんな彼に対しイサクは正面から対峙し、迎え撃つ。ある種の敬意を彼に向けながらイサクはその指を鳴らせば、一際莫大な落雷が『サイコブレイド』の身体を撃ち抜いた。
●夢に墜ちる夢
悪夢は過ぎ去り、白夢の園には再び穏やかな時間が流れている。
「凌充郎さん、怪我はありませんか?」
燦々と星の光が注ぐ花畑を駆け、如月・縁 (不眠的酒精女神・h06356)は橋本・凌充郎 (鏖殺連合代表・h00303)へと駆け寄った。僅かな沈黙の後――低く響く声が縁に届く。
「―――――多少の怪我なら問題ない範疇だ。貴様こそ、無理はしていないな?如月縁」
「はい、凌充郎さんのお陰で私は――大丈夫なら、よかった。安心しました」
安堵し、胸を撫で降ろす縁。そんな彼女の黎明色の髪を撫でる様に凌充郎の手が触れる。そして二人が向けた視線の先には1人の男――『サイコブレイド』が立っていた。眼鏡越しに向けれらる翡翠色の視線――二人を見るその視線には何処か憂いが帯びている様にも思われた。
「――――さて、サイコブレイドとやら。単純な話と言っておきながら、貴様こそややこしい感情を抱えているようだが」
一時の静寂。風がそよぐ。そんな凌充郎の問いに『サイコブレイド』はただ自嘲気味に薄い笑みを浮かべるばかり。然し、縁はそんな『サイコブレイド』の僅かな表情の変化を見逃さなかった。それはやはり憂いを帯びた夜の色。そんな彼の内面はどんなものなのだろうか。ささやかな好奇心――気が付けば縁もまた『サイコブレイド』へと問いかける。
「妙な連中、って……EGOはサイコブレイドさんの手下じゃなかったようですね」
「あのような奇怪な部下を持った覚えは無い」
「――貴方は今回の事にあまり積極的で無い様に感じられます。何者か……誰かが貴方にそうさせようと仕向けさせているのではないでしょうか?……サイコブレイドさん、貴方はどんな事情があるのですか?」
「……さて、どうだろうな。例え何者かの命令であろうとなかろうと、俺自身の判断である事に変わりは無い。さぁ、お喋りはお終いだ。さっさと始めようじゃないか」
でも――と言い掛けた縁の肩に手を触れ、凌充郎が一歩前へと足を踏み出す。
「如月縁。貴様の言わんとする事は分かる。――――だからこそ今は退けぬのだ。――――お互いにな」
「凌充郎さん……ええ、分かっています」
「サイコブレイド――――せいぜい気を楽にするがいい。お互いにお互いが邪魔なのだ。ならば、壊し、潰し、踏みしめ、乗り越えるしかない。お互いに殺す為に、殺すしかないならば」
戦線に立つ凌充郎は自らの得物を構え、相対する『サイコブレイド』もまた己の得物の切先をお互い差し向ける様にまるで示し合わせたかの様に同時に構える。静寂。星降る夜にただ白い花々が漣の様に揺れている。
――――さぁ、殺し合おうか
戦いの火蓋は音も無く切って落とされる。『サイコブレイド』は姿勢を低く、刃を構えた状態で花畑の中を駆け抜ける。舞い上がる蛍火の様な花びら、その中で『サイコブレイド』の気配が夜に融ける様に消えていく。だが、凌充郎はそれを許さない。——|死喰らいの等活《ビーステッド・カッティングエッジ》。断続的に響く薬莢、星明かりに煌めく薬莢が空を舞い、麻痺弾が『サイコブレイド』を捉えて風を斬る。そしてその弾丸を『サイコブレイド』の刃が斬り落とす。数発の麻痺弾薬がその肉体に直撃するが『サイコブレイド』は怯む事無く距離を詰め、凌充郎へと飛び掛かろうと迫る。だが、そんな彼を一本の矢が掠め咄嗟に『サイコブレイド』は後方に飛び退いた。矢の飛来した先――その先に見えるのは宝赤の竜爪弓を構え弦を引き絞る縁の姿だった。まるで神話を模した絵画の様に凛々しく花畑に立つその姿には紅玉が星の様に瞬いている。
「遠距離の援護ありか。少々手が余るな、早急に勝負を決めるしか他あるまい――」
「――――同感だ」
2人の連携を洗練された動きで凌いだ『サイコブレイド』に息を吐かせる間も無く凌充郎が斬り掛かる。轟音響かせ駆動する刃――回転ノコギリを軽々しく振るい、一合二合三合……幾たびも『サイコブレイド』と斬り結ぶ度に花火の様な火花を激しく散らしながら大立ち回りを演じている。だが、次第にその形勢は凌充郎へと傾いていく。先ほど縁の放った弓矢――それに秘められた毒と撃ち込まれた麻痺弾がここに来て『サイコブレイド』の動きが僅かに鈍らせる。にも拘わらず激烈な剣戟の応酬は続き耳を劈く金属音を響き続けていた。その激しい戦いを縁は目で追い、その手に握る弓の弦を引き絞る。凌充郎は自分を守る為に前に出た、ならそんな彼を後ろから守るのもまた自分の役目だ。深呼吸――祈りを力に変えてその弦を弾く。
「凌充郎さん!」
「――――よくやった」
激しい剣戟の最中、針に糸を通す様に狙い澄まされた|射止《アルク》が『サイコブレイド』へ放たれる。それを『サイコブレイド』は咄嗟に身を退いて避けようとするが凌充郎は決してそれを許さない。必ず喰らい付く――肌を裂く様な鋭い気迫を纏い、踏み込んだその姿勢から放たれた薙ぎ払う様な刃の切先は確かに『サイコブレイド』の身体を一文字に裂き、夜空には煌めく真っ赤な葡萄酒が飛び散った。
●御伽噺の醒めぬ夢
星が堕ちる。目の前の望まぬ鏖殺にひた走る男と自分の姿が黒江・式子 (〝眠れぬ茨棘いばらの城砦〟・h01354)には重なって見えた。
(嗚呼――この人は先輩の手を取る事が出来なかった私自身だ)
あの運命の日。その手を掴み損ねて別離した、少しでも違っていたらあり得たかもしれないその世界線。目の前の男はそんな世界線の自分なのだ。呼吸浅く――胸の鼓動が早まって行く。まるで堰を切ったかの様に感情が流れ込んでくる。別離の寂寥、違えた悔恨――とりとめの無い感情の奔流が心を乱す。気がつけば式子は募る感情のままに眠り続ける衣奈を抱き寄せていた。
(先輩、私は――)
あの頃のまま、時間の止まった衣奈に触れるその感触。自分の体温が伝わる様にこの想いも伝わればいいのに――衣奈のその寝顔を見ながら伝えたいと願い続けた筈の言葉はこの期に及んで言い出せない。せめてもと一抹の想いを乗せて衣奈の柔らかい髪に口付けを――いつか、本当にその言葉を伝えられるその日まで彼女を護る為、式子は改めて『サイコブレイド』と対峙する。どれだけ傷を負おうとも決して退けぬ戦いに身を投じるその男はそんな式子を待っていたかの様に静かに佇んでいた。
「しーちゃん先輩――|ちったかし待っとってや《少し待っていて下さい》」
式子と衣奈、二人の身体を包む様に影の茨が絡み覆っていく。衣奈はまるで揺り籠で眠る幼子の様に茨の繭に包まれ、式子はそんな眠り姫を守る為。|竜《茨の城》の如く静謐に揺るがぬ意思を以て『サイコブレイド』の前――|眠れぬ茨棘の城砦《ネムレヌイバラノシロ》として立ち塞がった。
「この期に及んで何も言い訳はするまい。――お前の全力で己の大切な者を守ってみろ」
これから自身が行う事に関して弁明など何も無いとでも言わんばかりに『サイコブレイド』は口数少なくその刃を構えた。男は全てを一撃で終わらせんと、その刃に外宇宙のエネルギーを収束させる。
「地球の童話はご存じで? あらゆる活動エネルギーを休止させる茨棘の城砦――炎の揺らめきさえ止まる眠りの呪いをご堪能ください」
――閃光。式子と『サイコブレイド』が大地を蹴ったのはほぼ同時だった。影の茨を纏った腕、外宇宙のエネルギーに満ちた刃。その二つが真正面から衝突する。極彩色の眩い閃光――それに喰らい付く様に茨の腕が伸ばされれば四方に散った影が閃光を飲み込んで行く。急激に収束する閃光、それに反比例する様に式子の腕を覆う茨の影は増強し膨張していく。
「全てを飲み込む影か――多少、見くびっていたようだ」
外宇宙のエネルギーを糧とし膨張したその茨棘の大腕を式子は『サイコブレイド』目掛けて振り下ろす。吸収したエネルギーを、想いを乗せて叩き落す。それをまともに受ける事は致命的だと判断した『サイコブレイド』は咄嗟の判断で攻撃を中断し防御の構えを取った。振り下ろされる腕と『サイコブレイド』の盾代わりの刃が衝突すれば明滅する火花が飛び散り、男の靴底は僅かに沈む。だが、それで終わりでは無いと式子は茨棘の腕を何度も何度も――そのエネルギーを使い果たす事も厭わない勢いで叩き付ける。
「先輩……もう少しだけ、堪えてください」
その苛烈な攻撃を『サイコブレイド』は匠に弾く様に何度も何度も受け止めた。然し、繰り返される攻撃に次第に追い詰められていき、ついには耐え切れずに防御を崩されたその瞬間、強烈な打撃が『サイコブレイド』の身体を捉え大きく後方に吹き飛ばす事に成功した。それでもなお立ち上がる『サイコブレイド』――それでも吐血し大地に零れたその血潮が受けたダメージの大きさを物語っていた。
●夢違えの相棒
怪物『EGO』を退けたのも束の間。お互いの無事を喜び合う時間も無く、近森・明人 (近森探偵事務所の名探偵・h00272)と遠藤・周次 (近森探偵事務所の後輩・h00643)はAnker暗殺事件の実行犯。『サイコブレイド』と対面していた。その見るからに手練れといった洗練された雰囲気。明人はその視線を外す事無くジリジリと周次と『サイコブレイド』を隔てる様に移動する。
「周次、危ないからちょっと離れてろよ……あー、離れすぎもマズいか。適当にいい感じのとこに居てくれー」
「適当にって、そういう曖昧な指示が一番困るんですよ。……だけど分かりました。明人さん、どうか無理はしないでね」
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ? パパッと華麗に解決してやるよ」
二転三転した結果、曖昧な結論に着地した明人の指示に困惑しながらも、周次は適切にその指示の内容を整理し行動を取る。明人の言おうとしている事は理解できる。それに戦えない自分が近くに居ては彼に負担を掛けてしまう事は想像に容易い。ならば彼を信用し、自分はその場から離れる事が賢明だ。だからと言って明人の事が心配じゃないという事では無い。一先ずとして周次は明人と『サイコブレイド』。二人の姿が見える場所まで移動する。その間も明人は『サイコブレイド』に最大限の注意を払う。だが、その男の目的であるAnkerの周次がその場から移動を始めても男は一向に動くそぶりは見せなかった。
「さぁて……サイコブレイド。これで正々堂々一対一の戦いだぜ」
臨戦態勢を取る明人。目の前の『サイコブレイド』についてはある程度の情報は握っている。明人の探偵脳細胞に記されている情報によれば今回の一連のAnker暗殺事件について『サイコブレイド』はとある事情から己の意思とは反して何者かにより強制的にさせられているらしい。それは人質にされているという『サイコブレイド』のAnkerという存在。もし自分が周次を人質に取られたとしたら――そう考えると目の前の『サイコブレイド』は明人にとって十分に情状酌量の余地があった。
「奴の事情を考えるとちっとばかりやりにくいな……だが倒さないことにはこっちがやられちまうし。悪いがとりあえずぶっ飛ばさせてもらうぜ!」
「ああ、当然だ。こちらも容赦する気は無い。――さぁ、行くぞ」
そう言い終わるやいなや『サイコブレイド』は姿勢を落とす。暗殺の構え――男の存在が見えている筈なのに途端にその気配が希薄になる。そしてその一瞬、気が付けば次の瞬間には明人に向かってその凶刃が振り落とされていた。それを明人は打撃で弾く、そしてその隙を逃さまいと追撃を加えようとした頃には既に男の姿は消え、いつの間にか背後から刃が迫ろうとしていた。
「うおっ!? あぶねぇ! くそ……啖呵を切ってみたのはいいが……強いな……」
『サイコブレイド』のその一撃一撃はさほど重くは無い。だが、その変幻自在とも言える太刀筋……その動きは明人を以てしても全く読む事が出来なかった。繰り出される男の連撃――明人は咄嗟の判断でそれを防ぎ続けるがその攻撃のタイミングの読めなさに次第に対応が間に合わなくなりつつある。その光景を周次は遠目で見守っていた。その激しい攻防に周次は何がどうなっているのかいまいち状況が掴めないでいた。然し、次第にその形勢が傾いている……そんな気配を感じ取る。
「明人さん、もしかしなくても苦戦してる?」
その事に気が付いた時。周次は冷や汗がジワリと滲み出すのが分かった。胸が詰まりそうだ。このままではいずれ……そんな嫌な予感を振り払おうとしてもそれは脳裏にこびりついて離れない。――どうしよう。なんとか……なんとかできないか?そんな試算を何度も何度も繰り返す。そして、気が付けば周次は二人が戦いを繰り広げるその場所に向かって飛び出していた。そんな事も知る由も無く、明人は押されながらも懸命に『サイコブレイド』の攻撃を凌いでいた。
「このままじゃヤバいな……こういうときは推理……って、そんなヒマも与えてくれないか……」
こうなれば相打ち覚悟で攻めに転じるしかない――そう判断を下したその瞬間。
「アンタ、Ankerを狙ってるんだろ! 僕がそのAnkerだ、狙うならこっちからだろ!」
周次がそう叫びながら2人の戦いに割り込む様に入って来る。
「うおっ!? 周次!? お前何やってんの!? 離れろって言っただろ!?」
予想外の展開に思わず明人は攻撃の手を止める。それは『サイコブレイド』も同じだった様で周次の乱入に困惑しその攻撃が止まっていた。二人の視線は同時に周次に向けられる。周次はやけになってこの様な行動を取った訳では無い。明人が倒れればどの道、周次も共倒れだ。そうであるなら今自分が取れる最善策はたとえ危険だろうと明人を援護する事だ。二人の戦闘を観察し、ここぞというタイミングを見計らい戦いに割り込んだのだ。そしてその思惑は見事に的中し『サイコブレイド』の容赦ない猛攻を中断させる事に成功した。
「明人さん、今です!」
「え、今!? お、おう!!」
周次の呼びかけに明人は混乱から引き戻される。それは『サイコブレイド』よりも早く――身体を翻した明人は足を踏み込んだ。ここで漸く『サイコブレイド』の意識が再び明人へと向けられた。だが、もう遅い。放たれた明人の強烈な蹴りは『サイコブレイド』の腹部を完全に捉え命中する。骨が軋み折れる音――『サイコブレイド』はくぐもった声を上げ、吹き飛ばされる様に後方に飛び退くと膝を地に着いた。『サイコブレイド』は武装の刃を地面に突き立て立ち上がる。そして明人と周次に一目向けるとそのまま何処かへ立ち去ってしまった。
「……なんとかなったのか?」
「なんとか、なった……?」
その時、周次が膝から崩れ落ちる。
「周次っ!? 大丈夫か!?」
「はは、安心したら力が抜けて……」
緊迫した表情を浮かべた明人だったが、地面に座り込みそんな事を口走る周次にその表情は和らいだ。そして安堵した様に息を漏らすと、その手を周次に向けて差し出した。
「なんとか倒せたが……もう無茶しないでくれよ、周次」
「うん、分かったよ。でもそれは明人さんも同じだよ」
「んー?なんの事だろうなぁ」
「はは、そういう所だよ。明人さん」
白夢の園。淡き灯火が揺らぐ夜空の下。二人の笑い声が響き渡った。
●白夢のその先へ
空を切ったその手のひらの上には何も無い。そんな空っぽの手のひらに久瀬・千影 (退魔士・h04810)は思わず苦笑する。|子供《あ》の頃の自分が呟いた『どうして?』の言葉の意味。それに気が付いてしまったからだ。あの日――それはいつ頃の事だっただろうか?桜が咲いていたのか蝉が鳴いていたのかそれは曖昧だ。然し、あの日。刀を握って怯えていた事は覚えている。死ぬのが怖かった。刀を捨てて逃げ出したかった。怪異を斬る――そんな役目を。そんな役目を負った家系に生まれた事を呪った。いつ死んでも可笑しくないそんな日常が理解出来なくて――そもそも理解などしたく無かった。だからそんな現実から目を逸らし、ただ大人になるのを望んでいた。――大人になれば違う道を選べると思っていたからだ。
「それが、この結果だ」
千影は天を仰ぐ。夜霧に濡れた漆塗りの空に煩いくらいに星が瞬いている。蛍火纏う花々が身を寄せ合い、涼やかな風がそれを優しく撫でている。逃げ出したい――そんな願いも今は遠く。千影は今も|此処《戦場》に居た。そんな矛盾を抱えた自分を見て、|子供《あ》の頃の自分は今の自分に『どうして?』と聞いたのだろう。
「――さぁ、なんでだろうな」
その答えは見つからなかった。もしかしたら一生分からないままなのかもしれない。――もしかしたら答えは存外簡単で。この景色を好き勝手にされるのが気に入らなかったから――なんて言うのは格好付け過ぎだろうか。そんな事を考えていると微かな足音が千影を呼んだ。
「よぉ、待っててくれたのか、オッサン。顔に似合わず優しいね」
「――面の事は言ってくれるな。これでも結構気にしているんだ」
「そりゃ悪いな。――それじゃ、始めるとするか」
何を想いながら其処に存るのか。どこか黄昏るかの様に佇んでいた『サイコブレイド』と改めて千影は対峙する。交わす言葉は最低限で良い。今は語らずともお互いにやるべき事をやるだけだ。千影と『サイコブレイド』は示し合わせる訳でも無くお互いに得物を構える。そして、先に動いたのは『サイコブレイド』だった。姿勢を落とし夜を駆ける姿勢。それは『サイコブレイド』が最も得意とする暗殺の構え。気配を殺し極限まで希釈されたそれは目視しているとしてもその存在が朧の様に霞んでいる。
「確かに疾ぇけど……視えてるぜ、オッサン」
夜に霞む『サイコブレイド』。常人であればその動きを捉える事など不可能だっただろう。然し、千影の右眼はそんな不可能を可能とする。夜を流星の如く駆ける『サイコブレイド』を千影は捉え続けていた。瞬間、『サイコブレイド』の姿が消えた。まるで世界から消失したかの様にその気配ごとすっかり消え失せてしまった。――それでも千影には視えている。
白夢に空気を断ち切るような音が響き渡る。本来死角である場所から振り下ろされた刃を千影は刀の鞘越しに受け止める。僅かに靴底が沈む。
「今のを止めるか」
「温い鍛え方はしてねぇもんでな」
筋肉の繊維が軋む音が聞こえる。まるで正面から車両が衝突したかの様な衝撃。それを千影は力任せに押し返す。――からの踏み込み。『サイコブレイド』の態勢が僅かに崩れたその一瞬。千影は鯉口を斬る。全ての動作は一呼吸の下に行われ、そして放たれた斬撃は数合に渡る打ち合いの中で火花を散らす。息を吐かせぬ疾風怒濤の連撃――その最後の一撃が男の得物「サイコブレイド」を弾き返す。
(――ま、この程度で根を上げるとは思っちゃいねぇけど)
手に伝わる衝撃。手応えは十分にあった。――だがそれでもまだ足りない。千影のその予想通りに攻撃を弾かれ態勢を崩されても『サイコブレイド』はなお踏み止まった。それだけに留まらず、男はそのまま反撃に転じ渾身の力で刃を振り下ろす。それを千影はその右眼で捉えていた。刀身はすらりと鞘へ滑り落ち、その指を鯉口に掛ける。風を斬り、迫るサイコブレイドの刃――その刃渡りには薄っすらと青白い一筋の線が浮かび上がっている。千影の『異能』は確かにそれを捉えていた。風が凪ぐ、音が消え去る。まるで時が止まったかの様な世界の中で千影と『サイコブレイド』その二人の視線だけが宙で斬り結ぶ。カチリ――まるで時計の秒針の様な音が響いた。抜き放たれた白銀の光と外宇宙の色が混ざり合う。刃を手に交差する様にすれ違った2人の頭上に真っ二つに切断された刃の半身が弧を描き半月の様に舞っている。それは『サイコブレイド』の得物だ――終わらない。二人が振り向くのは同時。『サイコブレイド』は己の武器が折れても戸惑いなど微塵も無い。確固たる意思のそのままにその折れた刃を千影に向ける。それを千影は――鞘を投げ捨て素手のままに迎え撃つ。
「――なんだと?」
それは隙とも言えぬほど僅かな隙だった。千影のその行動により僅かに生じた疑問の隙。その一瞬に千影のその拳は『サイコブレイド』に届いた。
――柔らかな風が吹いている。白い花々は呑気に揺れている。
「――どうして止めを刺さない」
『サイコブレイド』は白い花畑の中で空を仰ぎ倒れていた。その傍らにはそんな男に背を向けたまま同じく花畑の中に座り込む千影の姿があった。
「俺が斬るのは敵だけって決めてるからな」
「――それは可笑しな事を言う。この俺が敵では無いと?」
「アンタは敵だけど……何か事情があったように見えた」
暫く沈黙が続いた。――然し、それは何処までも穏やかな時間に感じられた。
「――武器は失ったが、それでも俺はお前を殺す事ができる」
「だが、まだ動けねぇだろ」
そんな千影の言葉に『サイコブレイド』はこれは一本取られたなと笑う。千影は既に『サイコブレイド』に敵意を向けていない。何故だか敵意を向ける事が出来なかったのだ。刃を交えたその間にその男が抱える何かに感づいていた。そしてそれは『サイコブレイド』も同じだった様で、既に己の敗北を悟り、そんな軽口を叩きながらも既に殺気は完全に消え失せていた。そんな男は起き上がろうとするが、先ほどの千影の一撃が相当効いたのだろうかくぐもった声を上げて起き上がれないでいた。
「――これは随分と手酷くやってくれたものだ」
「アンタ相手に手加減なんかできねぇからな。――――寝転びながらで良いんだけどさ。見えるか、星」
千影のその言葉に『サイコブレイド』は大地に身を委ねたままに天を仰ぎ見る。その視界には何処までも――永遠に続く星空が広がっていた。
「……アンタがぶっ壊そうとした景色。どうだ?案外、悪くねぇだろ?」
空に蛍火の花びらが舞い上がる。色彩が滲む青黒い夜には思い思いに星が翔け、白銀の線を引いている。透ける様な夜空の向こう側にはどうやら宇宙の中身が見えている様であった。それを千影と『サイコブレイド』はまるで星に導かれるかの様に見上げていた。
「――皮肉なものだな。星を渡る俺にとってアレは常に身近に在った物だ。――久しく俺はあの美しさを忘れていた」
「そりゃ良かった。――で、まだやる気はあるのか?」
「――休戦だ。今はもう少しだけ、この星を見ていたい」
「ああ、それで良い。――今はそれでいいんだ」
千影は夜空に浮かぶ星に手を伸ばす。その手が星を掴む、その瞬間に星は夜空を滑り落ち燦々とした線を引いて薄靄の様に流れる星海へと飛び込んで行った。行先を失った千影のその手はまたしても空を掴んだ。だが、それで良い。『今』はそれでいいのだと千影は何処か懐かしそうに笑う。
――今この夜空に悪夢は消え去り溶けていく