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水底の蛍火
●Accident
森が水底に沈むように蒼く翳った、さる初夏の宵の口。
昼日中にさんざめいていた陽光が落日と共に喪われると、山巓から降りてくる風は意外なほど冷ややかであった。枝葉の幾何学模様に切り取られた深い藍色の空には星が瞬き、森には金糸雀色のヒメボタルが乱舞する。夜気をなぞるようなゆるやかさを持って飛翔するその姿は、まるで浮世を惑わさんとしているかのようだ。
山の中腹に建てられた神社へと続く参道はゆるやかな坂道になっており、左右を紫陽花の低木と花の透かし細工で彩られた提灯が縁取っている。
この参道には毎年六月になるとヒメボタルが現れ、静謐な神域を揺蕩っては紫陽花で羽を休め、また森を廻ってゆく光景を目にすることが出来た。今年もその季節がやってきたのだ。
麓の通りでは夜市が開かれる。
これは祭りの際に立ち並ぶ夜店とは違い、古物や雑貨、紅茶やハーブティー、ハンドメイド品などを取り扱った露店であり、夜の蚤の市と言った方が分かりやすいだろうか。蛍の淡い光をイメージしたやわらかくてほんのりと薄暗い灯りの下で露店を巡るのは、ちいさな宝物を探しているようでなんだかわくわくするものだ。客の要望に応えて紅を刷いてくれたり、髪を結わえて髪飾りを差してくれる店もあるという。
暗い夜を押し上げるような祭りの夜店とは少し違う大人な雰囲気は、どこか気持ちを浮上させる妖しげな美しさがあった。
もちろん飲食できる夜店もあって、中でも古民家カフェでは紫陽花の低木に囲われた庭先で紫陽花を模したパフェや、バタフライピーで色が変化するドリンクなどを楽しむことが出来るようになっている。
そんな人々を茂みの奥から覗く六つの光。剣呑で、けれどどこか悪戯に輝く瞳はすぐ暗い森の奥へと消えてゆく。あとに残るは何も知らぬ人々の笑い声だけ。
それから――。
●Caution
「もう蛍の季節なんですねぇ」
白い頬に手のひらを宛がい、感慨深そうに口にした物部・真宵(憂宵・h02423)は「早いですねぇ」「ついこのあいだ、桜が咲いていた気がするんですけれど」と時が経つ速さに少し微苦笑を零している。
「今回は古妖絡みの事件です。……また? なんて、おっしゃらないで下さいね」
ちいさく笑いかけた星詠みは、手にした黒い革の手帳を開いて概要を説明する。
「現場はとある小さな山の中腹にある神社です。こちらには災いの鎌鼬『三巴』が封じられた祠があったのですが、どうやらそれが破壊されたようなんです」
祠を壊したのは近所に住む子どもたちらしい。この春に中学生に進級したばかりで多感な時期なのだろう、鬱屈とした思いに付けこまれたか古妖の口車に乗せられ、騙され祠に手をかけてしまった。
「三巴が麓に降りてくる刻限は二十一時。夜市が最もにぎわう頃合いを狙っているのでしょうね。ですから皆さんには宵の口あたりから夜市に向かってもらいたいのです」
つまり、夜二十一時までは各々自由に行動してもらって大丈夫、ということだ。
「麓の夜市から神社までの参道は二つルートがありまして。一つは正面に繋がる参道、こちらはゆるやかな坂道で、紫陽花の低木に彩られた美しい道になっているんです。もう一つは小川に沿うように登っていく参道で、とても浅くて水がきれいですから清涼を楽しむことが出来そうですよ」
正面の参道はヒメボタルが、小川沿いの参道はゲンジボタルが飛んでいることだろう。どちらのルートを辿っても蛍の光と紫陽花を楽しむことが出来る。だが古妖が暴れてしまえば夜市やそこに訪れる人々はもちろん、蛍や紫陽花にまで被害が広がってしまうことだろう。
「蛍の一生は短く儚いものです。せめておだやかに、やさしい時の流れのなかを泳いでほしいですから」
このちいさき命が刈り取られることがないよう、そして周囲の人々にも被害が及ばぬよう、どうか対処に当たって欲しい。星詠みはそう頭を下げた。
「夜市は最終日なんだそうです。ぜひわたしの分まで楽しんで来てください。戦いの前に英気を養うのは、悪いことではありませんから……ね?」
真宵はすこし頸を傾げて、可愛らしく微笑んだ。
これまでのお話
第1章 日常 『蚤の市をブラブラと』

「まあ、なんて素敵な夜市……!」
藍色の夕闇に沈んでゆくテントから零れ落ちる光の中を歩きながら、ライラ・カメリア(白椿・h06574)は胸の前でぎゅぅっと両手を握り締めて感動に打ち震えていた。抑えていなければ両翼が羽搏いて空へと舞い上がってしまいそうほど、夜の蚤の市というものは不思議な魅力がある。
人々の横顔を明るく照らす輝きに負けないくらい瞳をきらきらさせて、ライラは弾むような足取りで露店をひとつひとつ覗き込んでは、そのたびに笑顔を咲かせている。
大好きな紫陽花と、まだ実際には目にしたことがない「蛍」
(「そのどちらも見たくて来たけれど、正解だったわ」)
夜市は少し落ち着きのある雰囲気にまとまっており、なんだか自分が大人の仲間入りをしているような気持ちになったライラは、すこし誇らしげにむんと胸を張った。
通りの中ほどに差し掛かったときだろうか。花から花へと移ろう蝶々のようにあちらこちらの露店に目移りしていた空色の双眸が、ひとつの店に縫い止められた。ゆっくりと目を瞠る彼女の視線の先には、赤色がよく映える白無垢姿の女たちが客に化粧を施しており、その一角だけ赤い格子で仕切られ、まるでそう、見世のよう。
脳裏でひとりの花魁が笑った気がして。ライラは爪先をそちらに向けて歩き出す。
元々、メイクには興味があったから。
自分に言い聞かせるように、すこし高鳴る胸の鼓動を押さえながら格子からひょこりを顔を覗かせる。
「……わたしにも施していただけるかしら?」
可愛らしい客の登場に、白無垢の女たちは笑い顔を向けて大きく頷く。
大きな黒曜石の角が生えた鬼女がライラを席に案内すると、下半身が蛇の濡女が服が汚れぬようにと生成りのケープを首元に巻く。
「何かご希望はありますか?」
「お任せで! どんな風に仕上がっても嬉しいわ!」
普段はほんの少しだけナチュラルメイクをしているのだけれど、やはり出来ることが限られてくる。だからこそ人の手で施してもらえるメイクは仕上がりが楽しみで、クリスマスにプレゼントの箱を開けるってこんな気持ちなのだろうかとわくわくする思いで瞼を閉じた。
古民家カフェは、ともすれば満席の状態ではあったが、ライラは運よく庭先の席に腰を落ち着かせることができた。紫陽花の低木に囲われた席は、少し雨に濡れたような花の瑞々しい匂いがして、初夏の宵の気配も相まってかどこか妖しくて、どきどきした。
「ふふっ、美味しくて不思議なハーブティーね」
輪切りのレモンを一滴絞ると、七夕の夜空みたいな青色がゆっくりと濃くなって、さらに雫を落とせば淡い紫色へと変化する。それはライラの視界いっぱいに咲いている紫陽花のよう。
「まるで紫陽花を飲んでいるみたい」
すっきりとして仄かな淡いが、ひとくち含むごとに身の内に染み渡ってライラの心を軽く、ご機嫌にさせる。
景色を見つめるライラの目元は、透き通るような肌をさらに透明感に見せるピンクベージュのアイシャドウに彩られ、上下に乗せたゴールドのラメが瞬きをするたびに星がまたたくように煌めいていた。
唇に差した紅はベージュピンク系で、口紅の名前は「秘密の口付け」
ライラはこのひと時を味わうだけで、もう胸がいっぱいでたまらなかった。
「私たちって学校に縁がなかったよね」
セーラー服に身を包んだ女学生のグループとすれ違った桐生・彩綾(青碧の薫風・h01453)は、黒髪を後ろへ棚引かせながら歩く彼女らを眩しそうに見送ったあと、傍らの姉に向けてそう言った。
呼びかけられた桐生・綾音(真紅の疾風・h01388)は彩綾が見つめている視線の先を辿って、自分たちには覚えのない生活を送っている無防備な背中を見つけ、それから妹に視線を落とす。
「閉鎖された隠れ里だったからね。きっと育ち方が他とは変わっていたんだろうね」
「そうだね。あの子たちみたいな生活があったのかなって、想像するのも難しいかも」
彩綾は隠れ里を出たときの心中を思い出していた。
「里を出て、新しい世界に飛び込んだ時、不安だったよね」
慣れ親しんだ生活が一変して、また新たに関係を築いていかなくてはならない不安。それは、隠れ里の常識が通用せず、世間での「普通」が、自分たちの「普通」とは大きくかけ離れていたことを知ったときの不安に似ている気がした。
「鬱屈した気持ちになるのも、分かるなあ」
「そうだね。うじうじしていても仕方ないけど、気持ちが下がることだってあるよね」
古妖の封印を解いた学生は、妹より年下だという。
ここは自然に囲まれた大きな町で、自分たちの目にはじゅうぶん栄えているように見えるが、現地に住んでいる者たちにとっては退屈なところもあるのだろう。男子だと聞いたので、何か冒険したくなる思いが膨らんでつい魔が差してしまってもまぁ無理もない気がした。
「二十一時までは自由行動で良いみたいだし、夜の市を見て回ろっか」
「うん! 行こう、お姉ちゃん」
二人は大鳥居をくぐると、立ち並ぶ露店の光のなかへと飛び込んでいった。
「彩綾! 妖怪の店員さんに紅を差して貰おう!」
姉の張り切りように彩綾は少し目をまぁるくさせる。
綾音が指を差しているのは、見世のように格子で仕切られた露店で、隙間からちらちらと白無垢を着た女たちが覗き見える。興味はあったのでひとつ頷いてみせれば、笑みを浮かべた姉は手を取ってずんずん歩いて行く。
「この子、良いですか?」
顔を覗かせた綾音が問うと、下半身が蛇の濡女がにこりと笑う。
「ええ、どうぞこちらへ」
席へと案内された彩綾は言われるがままに丸椅子へと腰をかけ、両手を膝の上に揃える。ちょっとどきどきしていれば、ケープを首に巻かれて「かわいい服が汚れるといけないから」と微笑まれた。綾音は濡女とは反対側に立ち、にこにこしながら様子を見守っていた。
濡女との距離が近くて落ち着かなかったので睫毛を伏せた彩綾は、しなやかでコシのあるリップブラシが唇をなぞるくすぐったさに、すこしそわそわ。
「いいですよ」と声を掛けられそろりと目を開くと、差し出された鏡に映る自分の唇は、アプリコットピンクに彩られていた。口紅の名前は「花の恥じらい」
「彩綾は綺麗な長い髪だから、結ってもらったらどうかな。髪飾りを挿して貰えばきっと綺麗だよ」
「ああ、それなら阿修羅の旦那をお呼びしましょうかね」
「お願いします」
頭上で交わされる姉と濡女の会話に彩綾が口を挟む暇もないまま、髪結いの阿修羅が韋駄天の如く現れた。
「失礼するよ、お嬢さん」
そう言いおいて、多腕の阿修羅はすでにハーフアップに結われていたヘアゴムをすこし下げると、結んだ根元の髪を真ん中で分け、その間に毛束を通す。それから少しずつ髪を引っ張ってゆるめにほぐし、肩口ほどの長さのある後ろ髪も一つに束ねて、二つの結び目を隠すように蝶々の形をしたヘアクリップで挟み込む。そこからさらに小さな花の連なりが可憐に揺れる簪を添えるように挿しこむと、白無垢の女たちから拍手が沸いた。
「お姉ちゃん、ど、どうかな?」
「よく似合ってるよ、彩綾」
真っ直ぐな賛辞に、頬が緩む。
「お姉ちゃんはお願いしないの?」
「私は髪短いから結えるかなあ……でも髪飾りは欲しい!」
女の子はおしゃれにも気を配らなきゃ! と顔を輝かせる少女に、
「そちらのお嬢さんもお任せを」
阿修羅が自信たっぷりにウインクするので、今度は綾音の番だと彩綾と交代。
頬にかかる長い右の前髪を掬い、後ろへ流すようにゆるい三つ編みを作ると耳の後ろで一度結ぶ。それを隠すように後ろ髪をいくらか散らし、さらにそこへ彩綾と同じ蝶々があしらわれた花の髪飾りを挿しこめば、まるで耳元に咲いた花に蝶々が止まった風に見える。
そのあと濡女が綾音の唇にアプリコットベージュの紅を差せば、白無垢たちがまた華やぐ。口紅の名前は「ダリアの目覚め」
鏡を覗き込んで至極満足そうな姉を見て、 彩綾は満月みたいな双眸をゆるく細めて微笑んだ。
「いい夜だね」
暮れゆく古民家カフェの庭先で、バタフライピーのお茶を飲んでいるひとときはたまらなく幸せだった。
「この景色、守りたいね」
「うん。この美しい夜、守らないとね」
薄闇に包まれる紫陽花が風に触れてかすかに揺れている。やさしかった人たちのことを思い出しながら、彩綾は大きく頷いた。
テーブルの上には、二人で買い求めた紅と髪飾りが、淡い光を浴びてきらきら光っていた。
「上からだと、ひとの流れが見えておもしろいですね」
バルコニーの手すりに両手を置いた廻里・りり(綴・h01760)は、少し身を乗り出すようにして、蒼い影に沈んだ夜市を見渡していた。淡やかな光が人の往来によって遮られるたびに弱くなるさまは、まるで明滅する蛍のよう。
「あのお客さんが多いところって、もしかしてティーセットを買ったお店でしょうか?」
桜貝のようなつやつやした指先でりりが指差すと、庭先の紫陽花を見ていたベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)が指し示す方へとわずかに首を伸ばす。
「そうみたい。こうしてみると、本当に人気なお店だったのが分かるわね」
りりとベルナデッタは古民家カフェに入店する前に、茶器を取り扱う露店に立ち寄っていた。
露店には目が覚めるような赤色で統一された薔薇シリーズや、白磁に小さなお花が躍るイングリッシュガーデンシリーズなど様々なティーセットが並んでおり、他の物に目移りしてしまえば、その一瞬の間に売れていってしまうほどの盛況ぶりであった。
ひとつが売れれば店員が新たなシリーズを補充して、そういうことを何度も繰り返しているうちにりりとベルナデッタは、透明なガラスに押し花を閉じ込めたようなティーセットをポットと一緒に買い求めることに成功した。
ソーサーは金縁があしらわれており、カップのほうは取っ手が金になっている。花は一見どちらも同じように見えたが、どうやら本当に生花を閉じ込めているらしく、花の開き方や向きがまったく異なっていた。
「使うの楽しみです!」
夏にハーブティーを淹れて飲むときっと美味しいに違いない。大きな耳をぴるぴる震わせて破顔するりりに、ベルナデッタがやさしく微笑みながら「そうね」頷く。
「帰って飲むお茶が楽しみね」
世界に薄闇が這い出しても、夜市にやってきた人々の横顔は明るく楽し気で、たくさんの人がここに出会いを求めてきていることを肌で感じることができた。
星詠みが告げた時間にはまだ余裕がある。
「今の内に楽しんでおきましょう。守りたいものをよく見ておくのも大切だもの」
そう言って、椅子を引いたベルナデッタにつられたように、りりも大きな尻尾を横に流して腰かける。
「もうちょこっと時間がありそうですし、茶葉を探しに行くのもいいかも!」
「ええ、もちろん茶葉も見に行きましょう」
せっかく二人おそろいの素敵なティーセットを購入したのだから、新しくお迎えした茶器を可愛がるためにも、茶葉は必須。そばに紅茶やハーブを売っている露店もあり、比較的ゆっくり見れそうな雰囲気だったのはすでにチェック済みだ。カフェで甘味を味わってからでも遅くはないだろう。
「紫陽花のパフェとってもかわいい!」
運ばれてきた紫陽花パフェを一目見たりりは、口元で両手を重ね合わせて目を輝かせた。
透明なグラスにコーンやバニラアイス、ベリーヨーグルトに白玉と青いゼリーの層ができており、上には薄い紫色の紫陽花を模したきんとんが花開いている。周りを囲うように散らされたクラッシュゼリーは青色で、まるで水たまりのよう。ソフトクリームに小さな傘が刺さっており、食べるのがもったいないくらい可愛かった。
「ドリンクは……レモンで色が変わるんですよね?」
小皿に乗せられた輪切りのレモンを指で摘まんで、
「わくわくしちゃいます! ……えいっ」
グラスに数滴。
ぽとり、ぽとり。雨粒のように滴る果汁が、ドリンクの青を淡い紫へと変えてゆく。目をきらきらさせたりりは視線を持ち上げて、ベルナデッタに呼びかける。
「わぁっ、見ましたか? 本当に色が変わりました!」
「まるで笑顔が生まれる魔法ね。その茶葉もお迎えに行きましょうか」
かわいいりりの姿を見守っていたベルナデッタは、やわらかに、そして微笑ましそうに双眸を細めている。
確かカフェのレジ横でバタフライピーのハーブティーが売っていたはずだと思い出しながら口にした言葉に、りりが大きく頷く。
「ベルちゃんのは紫陽花そのままですね?」
「ワタシのは、紫陽花の練り切りにしたの」
陶器皿に盛られた練り切りは、まるで美術品のように美しかった。切り込みは繊細で寸分の狂いも乱れもなく、紫陽花のこまやかな花びらを見事に花開かせている。青い紫陽花と赤い紫陽花がちょこんと並ぶ皿をわずかに持ち上げると、りりのほうへと差し出して、
「さあ、青いはあなたがどうぞ」
ベルナデッタは口元にあわい笑みを乗せた。
「えっ、いただいていいんですか……?」
目をまんまるとさせてちいさく首を傾げると、ベルナデッタは「ええ」「美味しいものは一緒に共有しましょう」とやさしく言う。嬉しくって揺れそうになる尻尾を抑えたりりは、練り切りを指で摘まんで顔近くに持ってくる。
それを庭先で静かに揺れる紫陽花に重ねてみるように持ち上げて、それからたまらず吐息が漏れるような笑みをこぼした。
「紫陽花を見ながら紫陽花色を食べるって、なんだかぜいたく…っ」
二人は同時にぱくりとひとくち。
口の中に広がるやさしい白あんが、まるでお花のように甘く咲くのを感じながら、これまた二人同時に目口を綻ばせたのだった。
「蛍と紫陽花がいっぺんに楽しめるなんて、幻想的で素敵だねぇ」
薄闇が這い、蒼く翳った紫陽花の庭をぐるりと見渡した集真藍・命璃(生命の理・h04610)は、花色をしたあわやかな髪をふわりなびかせて振り返ると、月夜見・洸惺(北極星・h00065)を見つけて目口を綻ばせる。
「参道を歩くの楽しみだね」
古民家カフェの庭先からでも参道の入り口を示す大鳥居が見えた。あの先を行けば美しい蛍に出逢えるのだと思うと心が躍る。
「僕も蛍はあんまり見たことが無いから、とっても楽しみっ」
スレイプニルである洸惺は蛍に馴染みがないため、清流に棲みつくという蛍が一体どのような景色を見せてくれるのか、とてもわくわくとしていた。
夜空で瞬く星のように青い双眸をやわらげて、 命璃に笑いかける。
「命璃お姉ちゃんが大好きな紫陽花も満開だと良いね」
「うん!」
命璃は大きく頷いた。
「ごゆっくりどうぞ」
白く塗装されたアルミ鋳物のガーデンテーブルに並べられたスイーツを前に、命璃と洸惺は顔を輝かせている。
命璃が頼んだ紫陽花パフェは、ふちが波打ったグラスにコーン、バニラアイス、ベリーヨーグルト、白玉と青いゼリーの層が出来ており、その上にピンク色の交じった白い紫陽花を模したきんとんが、ちょこんと添えられている。
洸惺が頼んだ星空のパフェは、水色から深い青色へとグラデーションがかった夜空色のゼリーとブルーベリーアイスクリームに、天の川をイメージしたヨーグルトが細く流れており、星を模したアラザンがきらきらしていて、目にも鮮やかだ。
それから洸惺はバタフライピーのゼリーソーダを、命璃はバタフライピーの紅茶と、もう一品は店員からおすすめしてもらった紫陽花のアイシングクッキーを注文したので、テーブルの上はきらきら華やかでうんと心が楽しくなる。
ベリーヨーグルトのかかったアイスを一口頬張り、さっぱりとしたやわらかな甘さに笑みをこぼした命璃は、ふと思い出したように顔を少し横に向けて洸惺に問う。
「ねね、このヘアメイク似合っているかなぁ?」
髪結いの阿修羅には首筋がすっきりと見えるように結ってもらった。
少し巻いた髪をまずハーフアップに結び、結んだ根元の髪を真ん中で分け、その間に毛束を通す。残った後ろ髪は左右で三つ編みにして、結んだ髪と一緒に束ねると毛先をねじってお団子にして、花びらが連なる大きな簪で止める。
「ちょっぴり大人になった気分!」
きっとそうさせるのは夜の蚤の市の雰囲気も相まっているからだろう。
嬉しそうに笑う顔にはどこか照れ臭そうな色も見え隠れしているようで、やさしい気持ちになった洸惺は双眸を眇めると、
「すっごく似合ってると思う!」
笑顔で頷いた。
「簪で結えてもらっているから、命璃お姉ちゃんがいつもより大人っぽく見えちゃう。何だか不思議だねっ」
飾らない賛辞に嬉しくなって。阿修羅とどんな会話をしながらヘアメイクをしてもらったのか語りはじめた命璃。彼女は小皿に盛られていたレモンを手に取ると、果汁を数滴。この色が変わる紅茶も不思議だから、余計に気持ちが高揚するのだろうなぁ、と思っていた、そのとき。
「……あれ、レモン絞り過ぎちゃってない?」
洸惺の言葉に、ぴたりと止まる。
「あ、かけすぎちゃった」
視線を落とすと、それまで洸惺の瞳の色をしていた紅茶が、命璃と同じ色にまで変化しており、意識していなかった分、目を離した隙に別のものに入れ替えられたのではないかと思うほどだ。
「バタフライピーって、こんな風に色が変わるんだね」
「すっごくふしぎ! 飲んじゃうのが勿体無いね」
「うん。宝石みたいで飲むのは凄く勿体無いかもっ」
少しずつ味わって楽しみたいな。
ふたりきりの時間を、すこしでも長く想い出として残せるように。
(「蛍と紫陽花なんて正に風情って感じ」)
大鳥居をくぐると、そこは水底に沈んだお宮のようで、淡い光に磨かれた露店の合間を人々が深海魚のように巡っている。
祭り特有のざわめきはなく、どこか落ち着き払ってすらいる蚤の市の雰囲気を肌で感じた懐音・るい(明葬筺・h07383)は、蛍のいるという参道も他人を気にせず楽しめそうだと分かり、唇にかすかな笑みを乗せた。
特に蛍という生き物は生息地が限られている上に、目にする期間も短く、意識しなければ全く出会えないもので。
(「尚のこと楽しみ~」)
正面参道のヒメボタルか、小川沿いのゲンジボタルか、どちらのルートを選ぼうか考えながら、おだやかな人波に身を任せ露店を巡っていた、そのときだった。
「ママ、わたしこれがいい」
幼い子どもの言葉に視線を落とすと、赤い和柄模様の筒を手にした女の子が、傍らの母親に向かって背伸びをしている横顔が見えて。 るいの視線はその手にある|万華鏡《カレイドスコープ》に縫い止められた。
手のひらサイズのものから、少し大きなものまで取り揃えられており、一般的によく目にする赤い和柄模様の筒だけでなく、まるで水槽みたいな透明なものもあった。中のガラスやビーズは季節の紫陽花や朝顔をモチーフにしたものをはじめ、誕生石を使ったものから、誕生花を描くものまでさまざまだ。
(「いくつかあるみたいだけど、全部は流石になぁ……」)
ひとつひとつを覗いて、あわやかな灯りにかざしてくるくる回すと、廻るたび姿かたちを変えるきらきらの欠片がるいの目を楽しませる。
「お姉さん、オルゴールもあるよ」
目元から|万華鏡《カレイドスコープ》を離したとき、優しそうな笑みを浮かべた年配の女性が、るいのほうを真っ直ぐに見ていており、目が合うと彼女は奥のテーブルから小さな小箱を持ってきた。
「選択肢が増えたぁ」
嬉しいけれど、それは同時に悩む要素も増えたということ。
小さな木箱、硝子の箱、メリーゴーランド、ジュエリーケース。どれもこれもころんとして可愛らしく、澄んだ音色が心を洗う。るいは悩みに悩み、店主の女性も他の客も巻き込んでようやく、誕生花を描く|万華鏡《カレイドスコープ》と、水底を泳ぐお魚のような星模様の|万華鏡《カレイドスコープ》を、それからピアノの形をしたオルゴールをお迎えすることにしたのだった。
「悩みすぎて疲れちゃった」
古民家カフェのバルコニー、そのおひとり様用の席に着いて、ぐぐっと伸びをしたるいは、夜パフェに向き合い目元を和らげる。
紫陽花をイメージした青から紫へとグラデーションがかったゼリーは、夏の夜空のようでもあり、蚤の市からこぼれるやわらかな灯りがグラスに反射して星のように瞬いて何だか眩しい。
「うん、美味しい」
夜風にそろりと揺れる紫陽花を眺めていたるいは、冷たいソフトクリームを一口頬張って、その|万華鏡《カレイドスコープ》のように美しい瞳を嬉しそうに細くした。
「夜市だわ」
「ふむ、夜市か」
大鳥居の下。
ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)と神花・天藍(徒恋・h07001)は、仁王像のようにむんと二人並んで立っている。目の前には|涯《は》ての見えぬ通りに露店が建ち並び、淡い光をちらつかせた灯りが遊覧する人々の横顔をあわやかに照らしていて、常とは違う気配を見せていた。
「天藍は夜市、すき?」
問われた天藍は、むむと唇を結んで視線を夜空へと持ち上げる。
「ララはすきよ」
けれどララは、天藍が答える前に口を挟んだ。
「夜はいつも眠ってしまうから、あまり行ったことはないの」
擬態モモンガの尻尾をふわりゆらりと左右に揺らしながら、辺りの露店を物珍しそうに見渡しているララの表情は、どこかうきうきとした様子。夜の蚤の市は、祭りの夜店とは違い、どこか大人っぽくて、すこし妖しささえ思わせる。
「確かに子らは眠る時間だが、今宵くらいは羽目を外してもよいだろう」
ゆえにまずは貸衣装屋へ行くぞと、天藍は歩き出す。
「なぜ?」
ララが問いかけながら、そのあとを追いかける。
天藍はちらと彼女を一瞥したあと、
「浴衣を身に纏い夜市に興じるためだ」
口元にちいさく笑みを浮かべてみせた。
「……浴衣を? それは名案ね」
天藍の隣に並んだララは、弾むような足取りで貸衣装屋を目指した。
「ララはどんなのが似合うかしら?」
いざ到着してみると、想像していた倍以上の浴衣がそこにはあった。なにせハンガーにかけられてラックにずらりと並んでいるから、一見しただけではどのような柄があるのか全く分からない。
「お前、見立てて頂戴。メイクもしてもいいのよ」
近くに居た若い女妖怪に呼びかけると、彼女は低頭して、それからすぐ一着の浴衣とメイク道具を手に戻って来た。
春先のやわらかな草木のような若菜色と雪色がまじりあうようなグラデーションに、大輪の花が芽吹くような浴衣に身を包んだララを見て、天藍はうむうむと頷いた。
「ララよ、よいのではないか」
桜餅のようだぞ、と言いかけて慌てて飲み込んだのは、振り返ったララが、どこか緊張した面持ちに見えたからだ。
「どう? 天藍。……似合うかしら」
瞳ほど赤くはなく、けれど髪を彩る花ほど淡くはなく。やさしくて品のあるまろい色の紅を差したララは、普段とは一味も二味も違う、趣のあるレディに様変わりしていた。口紅の名前は「咲う夢」
「似合っておる」
しっかりとよく伝わるようにと大きく頷いた天藍を目にして、ララはすこし面映ゆそうに唇を引き結んで、それから可愛らしく微笑んだ。
通りに戻ると、暗さが一瞬目の前を覆うように感じられて、危うい。
天藍は傍らのちいさき手のひらをやさしく掬うと、きゅうっと握り込む。そのひんやりした手のひらに瞬いたララが視線を持ち上げると、天藍はこちらを見ず、前を向いたままゆっくり歩きだす。
「……迷子にならぬようにだ」
「あら? ありがとう」
「お前はちょろまかと動いてすぐに迷ってしまいそうだからな。他意はない」
「むう、ララはちょこまかじゃないのよ」
言葉を区切ったララは、にんまりと双眸を細くする。
「……でも……お前も迷子になったら大変だものね?」
意地の悪い言葉。けれど声音は嬉しそう。
天藍はちょいと肩を竦めただけで取り合わず、祭りへと駆けるララを決して離さぬよう背中を追った。
りんりんとかわいらしく転がる音色に二人の歩みが止まる。
「風鈴屋さんね」
涼やかな音色を奏でる風鈴屋は天井がなく、代わりに組まれた木枠に風鈴が吊るされていた。
「音だけでも涼を取ろうとは、まこと面白き考えよ」
海月に紫陽花、可愛く風と遊んでいる姿を仰いでいるララの横顔に、ふと天藍は呼びかけた。
「せっかくだから見てゆこうか。今宵の想い出にひとつ買うのもよいだろう」
パッと己へと視線を向けたララは、にんまり花眸をゆるめて頷く。
天藍が手に取ったのは真白き鳥が描かれた風鈴であった。他にも、とりどりの目にも鮮やかな風鈴があったのに、その素朴で、けれど美しい白に目が奪われたのは懐かしい姿に心が惹かれたからだろうか。
「その風鈴は、お前のような白い鳥が可愛いわ。凛と、祝を歌うよう」
ふいに聞こえたララの言葉に、ちいさく息を呑んで、それから天藍は頤を持ち上げる。どこか胸の奥が小さくうずくような痛みを払いのけ、ララが手にする風鈴に異彩の双眸を巡らせる。
「ララはこれ。アネモネの風鈴よ」
「牡丹一華か」
顔のそば近くまで風鈴を持ち上げたララは、
「どう? ララの瞳みたいでしょう?」
自信たっぷりに胸を反らすので、天藍はなんだかそれがすごく眩しくって。
「ああ。……華やかで、見ているだけで心が弾みそうだ」
ゆるやかに、ほどけるような笑みをこぼした。
あたりを憚るような囁き声が、あちらこちらから聞こえてくる。
水底に沈んだように蒼く翳った夜市に足を踏み入れた目・魄(❄️・h00181)は、しかし己の装いに視線を落として、それから藍色の空を仰ぐ。
(「仕事着のまま、というのも風情がない、か」)
見やれば花魁姿の妖怪や、一本歯で颯爽と人波を抜けていく鴉天狗などが当たり前のように通りを往来しているので、魄の仕事着はお洒落な方ではあるものの、やはり夜市の中をゆくには少々無粋に思われた。
すこし通りを歩いていれば、黒い天幕が掛けられた店の前で、左目に黒い眼帯をした鬼の男性が煙管をぷかぷか吹かしており、目が合うと猫みたいに瞳を細くして笑いかけてきた。
「やぁ兄さん。浴衣や着物はどうだい? レンタルも出来るよ」
「丁度店を探していたんだよ」
掻き分けられた垂れ幕をくぐると、意外なほど中は広かった。
内に居た別の若い鬼が背の高い魄を頭のてっぺんから爪先まで見て、一度顎を撫でるような仕草で思案したあと、ハンガーラックから一着を手に取った。
霞色の生地で仕立てられたそれは、よく見ると裾と、右胸から袖にかけて竜胆の花が銀糸であしらわれており、香が焚きしめられているのか、白檀をベースにした|麝香《じゃこう》の甘く優美な香りがした。深海に浸したような鉄紺色の帯を締め、黒い羽織りを肩にかければ和装の色男の完成だ。
「こういうのはあまり選ばないな」
姿見の前に立ち、後ろ姿を確認しながら魄は零した。
しかし、店の人が似合うのではないかとせっかく勧めてくれたのだから、その思いを無下にするわけにもいくまい。着ないという選択肢ははなから無かった。
「このままお買い上げさせてもらっても?」
「もちろんです」
低頭した青年は、おまけに、と言って着物と揃いの色柄の扇子を一本持たせてくれた。それを帯に差し込み天幕を出ると、さきほどの眼帯の鬼が口端を吊り上げるようにして笑い「お買い上げありがとうございました」と大仰らしくお辞儀をして、見送ってくれた。
かすかに甘い匂いがするのは、そう遠くない場所に甘味でも売っているのだろう。 魄はゆるやかに流れていく人波に抗わず、身を任せるようにひとりのんびりと歩を進めていた。
露店は見るだけに、と思っていたが、なかなかどうして興味が惹かれる物があり、いっそ目移りしてしまうほど。気がつけば品を吟味している自分がいる。
大きな額縁の上に並べられたアクセサリーはどれも少しくすんだ真鍮を使っており、そのためか宝石の美しさをひと際輝かせるように思われた。タンザナイト、ブルートパーズ、アクアマリン、アイオライト。辺りに咲く青い紫陽花をイメージしているのか、青色の宝石が多く、また買い求めていく割合も一段多いようであった。
やさしく掬うように手のひらに乗せたのはイヤーカフス。
折角なので竜胆の装いに合うものをと、立てかけられたアンティーク調のスタンドミラーを覗き込み、耳元に寄せてみせる。淡い灯りを浴びて落ち着いた光を散らす銀髪の隙間から、ちらちらと顔を覗かせるアンティークゴールドのそれは、魄の耳元を派手過ぎず、かといって控えめになりすぎない適度な彩りを見せる欠片となった。
「あらお客さん、お似合いですよ」
「もしお時間あるならメイクなんてどうです?」
「阿修羅を呼んで来させるのでヘアメイクもできますよ」
わっと周りに集まってきたのは角隠しを被った白無垢の女妖怪たちだ。魄が「どうも」「まぁ、まだ時間はあるかな?」なんてやわらかに対応していれば、あっという間に赤い格子で区切られた一角に連れ込まれてしまった。
(「弄り慣れているとはいえ、身内とは違って拒否しずらい気もするね」)
白無垢と阿修羅を前にして、人好きのする余所行きの笑みを浮かべていた魄は、これも何かの縁だと椅子の背もたれに身を預ける。
「まあ、下手なものでなければ好きにして構わないよ」
脚を組み、睫毛を伏せる。
左耳の後ろで結わえたエクステを手にした阿修羅は、それを三つ編みにしてくるりとねじってお団子にすると、べっ甲のU字コームで留め。鼻にかかるほど長い前髪は、後ろに撫でつけるようにして額を出し、幾らか顔回りの毛束を落とす。
白無垢は白皙を保護するように粉を軽く馴染ませると、瞼の上にシャンパンゴールドのグリッターを乗せていく。
目を閉じ身を任せている魄は、いま己がどのような姿になっているのか分からない。けれど、それは逆を言えば無関心とも言えた。ひじ掛けに肘を突き、ゆったりとくつろぐような姿勢でただ時が流れるのを待つだけの魄に、白無垢がちらと視線を落とすが、他の客とは違う気配を感じつつも言葉にも態度にも出さず、硝子細工に触れるような手つきでただ静かに彼の肌に化粧を施していくのだった。
――するり。
指の背でやわく撫ぜるような風を頬に感じた香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は、澄みきった透明な風の匂いがこの土地の清らかさを表しているのだと分かり、口元に笑みを刷く。
「夜はまだ涼しいですね、ガクト様」
数歩前を歩いていた九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)は呼びかけに頸だけで振り返ると「確かに」とひとつ頷く。すん、と鼻を鳴らして藍色の空を仰げば、鳰が「お足元にはご注意を」そっと囁く。
「私よりも鳰の方が足元に気をつけなさい」
視線を落とし、仄かな淡い灯りの中でゆらり視軸を揺蕩わせる鳰にそう促すと、鈴を転がしたような笑いが返ってくる。
「あら、夜こそ私の得意分野ですよ」
陽光が隠れてしまえば光は絞られる。|日《ひ》なかの世界は賑やかで、あちらこちらに散りばめられたきらめきを追うのに忙しいが、夜のとばりが下りてしまえば、分散された意識も研ぎ澄まされる。
だが、ガクトは聞いているのかいないのか。戦いに暮れるばかりでずいぶんと力強くなってしまった――ならざるを得なかった鳰の手のひらをやさしく掬い、ぎゅっと握り込む。
「これでよし。行こうか」
歩幅を狭くしてゆっくりと踏み出すガクトに小さくまたたき、それからこぼれるような笑みを浮かべた鳰は「はい」「ガクト様」あとを追いかけた。からんと嬉しそうに鳴った靴音が夜市の密やかな空気にとろけていく。
人の賑わいは喧騒を生むものだ。
意識せずとも人の多さを肌が感じている。けれど溢れる人々の声はどこか落ち着いていて、その声音の温度は一定だ。小さい子もいるはずなのに。
「色んな店が並んでいるね」
辺りを窺いながら零したガクトに頷いてみせたとき、鼻先を掠めた覚えのある香りに鳰の歩みが止まる。
「……あら、これは」
そちらに顔を向け、自身の予想が当たっていることに気が付いた鳰は、繋いだ手を軽く握り返して、それからガクトを仰ぐ。
「申し訳ありません、一軒お付き合い頂いても?」
「んー? 付き合って欲しい店? いいよ、何処かな?」
「こちらの茶葉屋へ行きたいのです」
空いたほうの手で指し示した帆暖簾には「茶」の文字。奥には淡い光をやさしく照り返す瓶や茶筒、急須や湯飲みが木のテーブルと棚にずらりと並び、確かに瑞々しい新茶の匂いが鼻先をくすぐっている。
「貴方様にお出しする茶葉を仕入れたくて。お好みを聞いて選べたらと」
鳰がどこかわくわくした面持ちで言うものだから、通りから店内を覗き込み「色々あるみたいだね」と顎を撫でていたガクトが背筋を伸ばす。
「私の為のお茶かい? いつも私の事が一番だね」
「それは当然、主の為の一杯ですから」
胸を張るようにこっくりと頷いた鳰。彼女はそれが至極当然、それこそが己の誉れだと言うかのよう。
「嬉しいが、鳰も飲んで気にいるモノが良い。それに、お店に出す新しいお茶を探すのも良いね」
きっぱりとした言に、すこし目を瞠った鳰は「ふふ」とちいさく、口元に手を添えて笑いを零す。どうしてこの人は、いつもこんなにも嬉しい言葉をくれるのだろう。
「……それも素敵。では2人で選びましょうか」
「そうだね。――邪魔するよ」
半暖簾をくぐった店内はどこを見ても木製で、ぶら下がった橙色の電灯があたたかく茶葉を照らしていた。すう、とちいさく空気を嗅げば、茶葉の様々な|馨《かおり》がして、心が凪ぐ。
「矢車菊入りの紅茶に接骨木入りの花茶、湯の中で花咲く中華茶まで!」
様々な国の、様々な茶葉の匂いに満ち満ちた店内は、あっちにもこっちにも興味がそそられる品ばかりで鳰の表情がやわらにほどけていく。
硝子のティーポットに花開いた鮮やかな中華花を試飲させてもらったふたりは、同時にほうっと心休まる吐息を漏らす。
「花が咲く中国茶、綺麗で良いね」
飲む者の目をも楽しませるかわいらしくも華やかな中華茶は、人を喜ばせようとするもてなしの心を感じられる。
しかし鳰が一番に求めているのはガクトのための一杯。
「素晴らしい品揃えですが、どれが気になりますか?」
問われたガクトは自身の茶屋処、その棚に並ぶ茶のことを思いだしながら辺りを窺う。
「うちは主に日本茶だが、紅茶や異国茶を少し取り入れるのも喜ばれるかもね」
その言葉に「ふむ」と思案する仕草をみせた鳰は、くるりと振り返ると可愛らしい缶が並ぶ紅茶の棚と、それから眼前にもっとも華やかに飾られた中国茶を交互に見る。
「紅茶と中国茶を仕入れましょう」
大きく頷いて張り切る彼女の横顔を見て小さく笑ったガクトは、ふと思い出したように自身も店内をぐるりと見渡す。
「んー、ここには藤茶はあるかな?」
藤茶と聞いて、鳰は、はたと頤を持ち上げた。
「そういえば、他店では見かけませんね」
「私の藤で作ったお茶も良いが、よそ様の藤茶はどんな味がするか気になるね」
「ガクト様のお茶は絶品ですが、他も気になるのは同意です」
「私の藤茶を気に入ってくれて嬉しいよ」
言葉に笑みを浮かべた鳰は「お店の方に伺いましょう」と、近くに居た店員を呼び止め、商品を問う。すると店員は「おや珍しい」と少し目を丸くして、棚の端のほうに置いてあった缶を片手に戻って来た。
「うちで取り扱っているのはこれだけなんですよ」
白い円柱の缶に、ラベルシールが貼られているだけのシンプルな商品は、かえって好感が持てた。その藤茶もひとつ買い求め、二人は楽しみを持ち帰ることにした。
「私が先に用事を終えてしまいましたが、ガクト様がご覧になりたい所はありますか?」
半暖簾をくぐりながら彼のほうを仰ぐと、ガクトが「私かい?」頸を傾げる。それから顔を上げ、いちど辺りを見渡して、それからあるものを見つけてゆっくり頷く。
視線の先にあるのは、ハンドメイドの雑貨が並ぶ店だった。ネックレスのように連なった星のガーランドが宵の風にちらちら揺れて、細々した雑貨があわやかな光を散りばめている。
店に飾るものがあるといい。そうと聞いた鳰は向かいの、様々な作家が手がけた、一つとして同じものはない作品ばかりを集めた店舗へとガクトを案内する。
「どれもお店にあれば華やぎそうですね」
通りに面したテーブルを覗けば、額縁の上に飾られたブローチやネックレス、ピアスに指輪といったアクセサリーがきらきら目を楽しませる。かと思えば隣の和箪笥を棚代わりにした一角には行燈型のライトに照らされた和風人形やお手玉、手毬に万華鏡といった和雑貨が並べられており、ガクトの意識はそちらに向いていた。
「これも手作り? 皆手先が器用だね」
親指サイズのミニ下駄を手のひらに乗せて、小指の爪ほどしかない木でできたひよこの根付けを摘まんでしげしげ眺める。そろりと赤い布地の上にそれらを戻していたガクトの瞳に、根付けと同じ、まるでひよこがぷかりと泳ぐようなそれを見つけた。
「あぁ、鳰、お手」
まるで忠犬を呼ぶような呼びかけにも関わらず鳰は、
「お手? はい」
素直に己の手を差し出す。
その手のひらに乗せられたのは、ころりとした巾着袋。すこし凹凸のある、けれどさらりとした手触りはちりめんだろうか。両手で戴くように胸前に持ち上げた鳰は、わずかに頸を傾げている。
「之は波千鳥柄かしら、可愛いらしい」
初夏、暑さが来る前の、まだすこしだけ涼しさを感じ入る淡い空のような朧花色のそれ。白い千鳥がふんわりふわふわまばらに飛んでゆく姿が愛らしく。思わず目元がゆるむ。
「可愛いのがあってね。鳰に似合いそうだから」
「……私に?」
ちょいちょい、と店員を手招きしたガクトは、鳰の言葉も待たずに支払った。紫陽花柄の紙袋に包まれていくそれを見守り、ふたたび手のひらに戻って来たその感触を確かめながら、蝋燭の火がゆるやかにとけていくように、心があたたまるのを感じている。
「まあ……有難うございます。こんな頂いてばかりで、いいのかしら」
独語のように思わず、といった風に零れた言葉を、しかしきっちりと耳に拾っていたガクトはその大きな手のひらを、ぽん、と鳰の頭にやさしく乗せる
「鳰にご褒美だよ」
波と、水と、それから千鳥。
浮世はどうにもまだまだせわしくて、これからしばらく荒波が続くだろうけれど。
――ともに乗り越えていこう。
たとえその波がどれほど血なまぐさくても、ふたりなら、きっと。
ぴこぴこ。
黒兎のお耳が頭の上で揺れている。
「わぁっ……蚤の市だ~!」
朱色の大鳥居をくぐったその先に広がる夜市を目の当たりにしたエメ・ムジカ(L-Record.・h00583)は、薄暗い宵闇のなかにあってもきらきらと光を散りばめる宝石のように赤い瞳を輝かせて、ぎゅうっと両手を握り締めていた。
「古物やアンティークの露店もいっぱい!」
どきどきして少し震える足を、なんとか強く前へと踏み出しながら人波に乗ったムジカの視界には、家具や洋服、楽器に園芸品など様々なものが映り込んで、意識があっちへこっちへふらふら忙しい。
(「目がいくつあっても足りないよ!」)
中には自分と同じようなぬいぐるみもたくさん居て、嬉しくなってしまう。仲間だーっとそのお手手を繋いで上下に振ると、露店の店主が微笑ましそうに笑ってくれた。
(「そういえば……こういうの、ジゼルがとっても好きだったなぁ……」)
通りに面して置かれたコモードの上。並べられたアンティークの雑貨をひとつ手に取ったムジカは、いま眠り続けている自身のAnkerを思い出す。
(「アンティークや古物には夢がつまってるんだって、いつも買い込んでたっけ」)
自身がぬいぐるみの付喪神であるのと同じで、どんなに小さなものにも、人の想いはこもっている。だから古い物には時々不思議な力が宿るものなのだと彼女は楽しそうにムジカに話して聞かせてくれた。あのやさしい時間を、ムジカはずっと憶えている。
未だ眠り続ける彼女だけれど、彼女に何かお土産を買っていきたい。目が覚めたときに、夜の蚤の市に行ったんだよって、今度はムジカがお話ししてあげたいから。
安らかな表情で、今にも起き出してきそうなくらい静かに眠り続ける|エルフの少女《Anker》を想い浮かべながら、ムジカはてくてく夜市を散歩する。
すれ違うひとの表情はやさしく、それからあたたかで。あの山へと続く参道、その奥で古妖が息を潜めているなんてなんにもも知らず。楽しそうに笑っている。
この人たちを悲しませたくないなぁ。きっと彼女もそう思うはず。そんな風に時おり物思いにふけったりして気ままに身を任せていると、宝石眼に小さな花瓶が移り込む。
立てかけられた鏡の前に置かれたそれは、白地にアメジストがあしらわれており、ハートの形になっている。一輪挿しでとても小さいけれど、これも立派なアンティークだ。しかもアメジストは彼女の瞳とお揃いの色。
(「……そうだ! 眠ってるあの子の傍に飾ろう」)
起きた時に、その瞳に映るものが少しでも美しく、彩り溢れる世界であるように。素敵な景色のなかで目覚められるように。
そんな願いを込めて、花瓶を両手で持ち上げたムジカは、花がほころぶような笑みを浮かべて店員に近付くと、そのお耳をぴょこぴょこ跳ねさせながら、
「これください!」
満面の笑みで差し出した。
割れぬようしっかりと包んでもらった花瓶を大事に冒険鞄に入れて、大冒険を終えたあとみたいに、ほくほくした面持ちで店を後にしたムジカは、通りの真ん中できょろりと辺りを見渡してみる。
右を往けば妖怪が身支度を整えてくれる露店がある。左を往けば茶葉や陶器の食器が売られた露店が続いている。その先に、古民家カフェがあるはずだ。
(「そういえば、ハーブティーがあるんだっけ?」)
藍色の空を見上げて思い出したムジカは、むんと胸を張るとカフェを目指して歩き出す。夜市に居るだけなのに、一歩踏み出すごとに身体はまるで羽のように軽くなって、なんだか楽しくなってくる。雰囲気ってすごい。
(「――次は、ジゼルともこれたらいいな」)
きっと目を輝かせて喜ぶに違いない。その瞳は美しいのだろうなぁ。考えれば自然と口元に笑みが浮かぶ。
ムジカはそんないつかの未来を想像しながら、足取り軽やかに夜市の中へもぐりこんでいった。
ぴこぴこ跳ねる黒兎の冒険は、まだ始まったばかり。
そこは水底に沈んだお宮のようだった。
まろい光を零すだけの灯りはちいさくて、か細く、頼りないけれど、それが宵闇のなかで商品を広げる露店の妖しさをいっそう掻き立てるように思われた。
明るい内の祭りとは違って、闇の中に浮かび上がるあたたかな色をした灯籠、露店から漏れる照明に、人々の囁くような談笑は夏祭りのそれとは違い、ずいぶんと落ち着いており、薄暗いとはいえ怖さを感じるより先に好奇心をくすぐられる。
すれ違う女学生たちがエディブルフラワーを散らしたカキ氷を頬張っているのとすれ違った饗庭・ベアトリーチェ・紫苑(或いは仮に天國也・h05190)は、引き剥がした視線を隣を歩く渡瀬・香月(ギメル・h01183)へ持ち上げる。
「香月さんは、探す物決まってるんですか?」
問われた香月は、積み上げられた古書に埋もれるようにして座っている小鬼店主から紫苑のほうを振り返ると、藍色の空を見上げるような仕草をして「そうだなぁ」と自身が経営している飲食店のことを考える。
「そういう紫苑は?」
「髪飾りを探してみようと思ってます!」
胸に掛かる柔らかな金の髪を、金属に酷似した指先で掬うように持ち上げると、青い双眸をゆるめた香月が微笑う。
「髪飾り、いいね。紫苑は綺麗な長髪だから、ヘアアレンジも色々出来そうだよな」
それに、見ているほうもきっと楽しい。
自分のことのように笑ってくれる香月の言葉に、紫苑の目口もやわらかくなる。口元に手を添え「ふふ」ちいさく笑った紫苑は、すこし冷たさを感じる宵の風にさらわれる髪をそのまま遊ばせながら、
「ヘアアレンジを楽しめるのは長髪の特権ですよ」
自慢するように少し胸を張った。
(「とは言え、普段そこまで凝ってないのですが」)
にこにこしている香月に、そこまで言う必要はないだろう。紫苑は胸の内に零すだけにしておいた。
髪結いの阿修羅が商う露店は、格子や金屏風、大衣桁に通された振袖などが空間を作っているためか、ここが野外であることを忘れてしまう。
「芍薬の花って華やかで綺麗だよな」
紫苑が椅子に腰かけ櫛を通してもらっている横で、彼女が手のひらに乗せている芍薬の簪を見ていた香月が「そういえば」と前置きしたあとに、
「芍薬って牡丹と違いが分かんなかったんだけどさ、芍薬の方が良い香りがするんだってな」
そんな風なことを言った。
紫苑は瞠目して、簪と香月を交互に見る。
「えぇ~、牡丹と芍薬って全然違いませんか?」
牡丹は葉に切れ込みがありツヤがなく、芍薬は葉に切れ込みがなくツヤがある。花弁が一枚ずつ散るのが牡丹、椿と同じように花ごと落ちるのが芍薬。
すらりと説明が出来るのは自身に憑いた『神』の影響なのだろうか。
「牡丹には、ほとんどの品種に香りがないんです。でも芍薬には香りがあって……」
「薔薇みたいな香り?」
「そうです! 華やかな香りがするので香水にも使われてるんですよ、ピオニーって言えば分かりやすいかもしれません」
簪は工芸品のため、あしらわれた芍薬から甘く華やぐ香りを楽しむことはできないけれど。
「紫苑にピッタリだと思う」
すっきりと結い上げ、さらしたうなじに後れ毛を幾らか落としたまとめ髪。そこに差し込まれた芍薬の簪は紫苑によく似合っている。自分を彩るこの美しさがあれば、気分も上がると言うものだ。
香月は眩しいものを見るように目を眇めた。
「紫苑めっちゃ綺麗ー!」
二人が喋っている間に慣れた手付きでヘアメイクをしてみせた阿修羅の早業に二人は感嘆。ぱちぱちと拍手すれば体格のよい阿修羅がすこし背を丸くして笑う姿が、なんだか可愛らしく見えた。
滅多に髪をアップにすることがないので、宵に吹き抜ける風がうなじに当たってスースーするのがこそばゆい。どこかそわそわした面持ちで椅子から立ち上がった紫苑が鏡で後ろ姿を確認していると、隣からひょっこりと覗き込んできた香月が鏡越しに目が合うとにこりと笑う。
「この簪が一番似合うのは、きっと紫苑だと思う」
いつもとは少し印象の違う、それでもいっそう美しくなった紫苑の姿をやさしく見つめ、香月は感じたことをそのまま、素直に言葉にした。
飾らない真っ直ぐな賛辞を浴びて、頬がぱっと熱くなる。むずむずするように唇を引き結んだ紫苑は、けれどゆっくりと弧を描いて、それからお辞儀をひとつ。
「ありがとう、ございます」
視線を鏡に向けると、自分でも見ていて恥ずかしく思うくらい照れていたので、紫苑はそれを見なかったことにした。
「お待たせしました! 次は香月さんの番ですね」
髪結い処を出た紫苑は、後ろからついてくる香月を振り返る。彼は再びの思案を始めると辺りをきょろりと見渡して、それから少し先に見える通りを指差した。
「あっちのアンティーク系の店に行ってもいい?」
「もちろん。Gimelで使う物を探しているんですか?」
「キャッシュトレイを探そうかなって」
幾つかのアンティークショップを覗き込みながら、ひとつひとつ手に取って吟味する。香月曰く、店はそこまでシックではないから、それに合う物が欲しいらしい。
確かにシック系よりナチュラル系に近いかもしれない。記憶の中のカフェダイニングバーを思い描きながら話を聞いていた紫苑は、艶消しされたアンティークゴールドのキャッシュトレイを見つけた香月が店主を呼び止め、やり取りするその横顔を盗み見て。
(「それでも。私から見れば、かなり大人な雰囲気なんだよなぁ」)
それをわざわざ彼に言ったりはしないけれど。
キャッシュトレイを二枚買い求めた香月が嬉しそうに笑っているから水は差したくない。紫苑は唇に笑みを刷いたまま「良かったですね」と小首を傾げて笑いかけた。
香月と紫苑が二階に上がる途中、ちょうど四、五人のグループとすれ違った。もしやと思えばバルコニーのテーブル席が空いたらしく、店員が片付けを終えたところであった。こちらへどうぞ、と案内された席はバルコニーの中央、庭先の紫陽花を一望できる特等席。通りも見渡せるので、やわらかな灯りの中で開かれる蚤の市が|涯《は》てにまで連なっているのがよくわかる。
景色を眺められて嬉しく思っていると、正面に座った紫苑が両手で開いたメニュー表と睨めっこしていることに、気が付いた。その眼差しは真剣そのもの。
「パフェとゼリーソーダ、美味しそう……」
独語のように零れた言葉につられて香月もメニューを開く。
「俺はバタフライピーのお茶とパフェにしてみようかな」
とんとん、と人差し指で示すと、すこし身を乗り出して覗き込んだ紫苑が「なるほど」と頷いて。それからパタンとメニュー表を閉じる。
「私は両方頼みます! すみませーん」
屋内に居た店員を呼び止めた紫苑が二人分の注文を行うと、それは思っていたより早く来た。お喋りしていれば、時間が経つのがあっという間に感じられただけかもしれないけれど。
鮮やかな青色をしたバタフライピーのドリンクには小皿にレモンが添えられており、紫陽花のパフェは透明なグラスにコーン、バニラアイス、ベリーヨーグルトに白玉と青いゼリーの層ができて、見た目も爽やかで美しい。上には薄い水色の紫陽花を模したきんとんが、ちょこんと添えられており、葉っぱの形をしたアイシングクッキーが抹茶アイスに刺さっている。
紫苑はテーブルに並べられたスイーツとドリンクを画角に捉え写真を数枚取ると、アイスが溶けてしまわぬうちにぱくりと一口。
冷たいバニラアイスが口いっぱいに甘さを花開かせ、つるりと喉を滑り落ちていく。パフェを味わう紫苑の一方、七夕に星が煌めく夜空みたいな美しいドリンクにレモンを数滴絞った香月は、見る見るうちにじんわりと初夏の宵のような空色に変じていく様子を目の当たりにして、目を輝かせていた。
「色が変わるドリンクって、アトラクション感あっていいよな」
「化学反応だと分かっていても素敵ですね」
バタフライピーに含まれるアントシアニンがレモンやライムといった酸性に反応してリトマス紙のように色が変化する。頭でそうと理解していても、やはり実際に目にすると楽しく思う気持ちは止められない。
「香月さん、梅雨メニュー出したりしないんですか? 食べに行きますよ」
ふと思い出したように、クッキーを指で摘まんだ紫苑が問うと、ちょうどドリンクを一口含んでいたところであった香月がぱちぱち瞬き。嚥下して、カップを置くと、
「メニューはいつも旬の物って考えてはいるけど」
視線を宙にやる。
「梅雨メニューも面白そう、考えてみるか」
すると意識はたちまち店のことに集中してしまう。
例えばこの紫陽花のように色取り取りのゼリーをグラスに浮かべたゼリーポンチなど、きっと見た目も涼やかで綺麗だろう。しゅわしゅわと泡がはじけるソーダは気分をリフレッシュしてくれるに違いない。青、赤、紫といった単色だけのものも、それぞれの紫陽花を表していて並べるだけでも可愛いのではないだろうか。
「紫陽花といえば。花言葉は移り気だそうですね」
庭先の青い紫陽花を見やり、視線のみを香月に向けた紫苑が口にする。
「因んでマイブームってありますか?」
顔ごと振り返って、それから自分は食べ歩きだと言った。
「でも常にブームでした。自分で言っておきながらなんですが、改めて考えると、難しいですね」
「食べ歩きいいじゃん。俺のマイブームは麺だな。サッパリ冷やしうどんとか、パスタとかもいいな」
「麺いいですね~。冷やし中華と共に冷製パスタとかどうです?」
「冷製パスタ美味そうだなー!」
「でしょう? それなら『はじめました』の、のぼりも出しましょう!」
「それも良いな! 冷製パスタ始めてぇなー!」
二人の会話は止まらない。
まるで滾々と湧く泉のように次から次へと話題が溢れて、盛り上がって、楽しくって。パフェがすっかりなくなっても、一杯のドリンクを大事に飲みながら交わされる楽しいお喋りは、しばらく続いたのだった。
第2章 冒険 『七色龍の眠る川』

朱色の大鳥居をくぐった先、太鼓橋を二つ越えると正面に分かれ道がある。
そのまま真っ直ぐ進むと、左右を紫陽花の低木に彩られたゆるやかな坂道と浅い階段が交互する参道があって、等間隔に並んだ赤い灯籠は光を抑えて足元を照らしてくれる。
ヒメボタルは紫陽花やその奥に広がる鎮守の森を飛翔し、時折ふわりと花で羽を休めたりする。背の高い木々で切り取られた狭い宵空や森の隙間には、龍や鯉、金魚の姿をしたインビジブルたちが泳いでいて、時折ヒメボタルはそれらをくぐってふわりと天高く舞い上がる。それからゆっくりと時間をかけて空から地上へ戻ってくる様は、まるで雪のようでもあり、そして星が落ちて来るかのようでもあり幻想的だ。
左の遊歩道へ向かうと、鎮守の森を流れる小川に出る。川沿いの参道は透かし彫りの竹灯籠が並んでおり、こちらも紫陽花の低木が境内まで続いているので道に迷うことはないだろう。
小川は七色龍が眠る本流から枝分かれしたものらしく、水底には七色に光る鱗のような石がある――という噂があったりする。もしかすると川面を飛び交うゲンジボタルとは違う輝きが見つかるかもしれない。
どちらのルートを選んでも、大鳥居横のテントで配っている紙提灯を持って進むことが出来る。暗さが不安であれば貰っていくと良いだろう。お金は必要ないが、境内に入る手前に回収用の木棚があるので、火を吹き消してそこに返却するだけで大丈夫だ。
まだ辺りは蒼く、水底のよう。夜市で火照った身体に触れる風は心地良く、元より小さかった喧噪はもう届かない。互いの靴音、布擦れ、吐息だけが聞こえてきそうな静けさのなか。
――さぁどちらに往く?
そよ、そよ、と囁くように吹く宵の風が猫宮・リオ(モノクロ世界のチェシャ猫・h00209)の首元を彩るリボンを微かに揺らす。辺りに人気はなく、気が付けば喧騒も聞こえず、砂利を踏む己の足音だけが耳朶に触れる静穏の中を彼はひとり歩いていた。
左右に連なる紫陽花は濃い葉との明暗により淡い色をしているのだろうなと察しはするのだが、真実どのような色をしているかまではモノクロの世界に生きるリオには分からない。呼吸をするみたいにゆっくりと明滅を繰り返す蛍の淡い光さえ、彼には届かない。
(「色が見えたなら、もっと楽しめる風景なんだろうな」)
真っ直ぐに伸びる参道、鳥居と紫陽花を画角におさめたままスマホを手にじっと待つ。気配を殺し吐息を薄くしていれば、森の奥からふわふわ飛んできたヒメボタルの光がひとつ、ふたつ。そのままさらに待っていると、揺蕩うインビジブルに乗って無数の蛍がやってきた。リオは獲物を狙うハンターのように両目を細めると、画角にもっとも写り込んだ瞬間を狙い、シャッターボタンを連打。
「……こんなもんか?」
画像をチェックしても、見たままのモノクロを捉えただけなのでリオには良し悪しが分からない。ピンボケはしておらず、鳥居も紫陽花も蛍もおさまっているので、まぁこんなものだろうと彼はスマホを仕舞うと、のんびりした足取りで参道を歩き始めた。
空を仰げば木々に切り取られた宵の虚空はまだ明るく見えるのに、ひとたび視線を落とすと森の奥は闇が塗りこめられたように暗く、だからこそ蛍の光がよく見えた。連なる赤い灯籠は光が抑えられているので邪魔にはならず、返って光の共演が儚く交じり合うようで美しい。暗いなかを歩くことに慣れているリオは手ぶらで参道を進んでいるため、だからこそそんなわずかな光によく気が付いた。
(「荒んだままだったら来なかっただろうなぁ」)
紫陽花のガクに止まって羽を休めるヒメボタルを、そうっと覗き込んでみれば、光の明滅が己の呼吸とシンクロするのが面白い。思わず吐息が漏れるような笑いを零してしまったので、ヒメボタルは驚いてしまい飛び立って森の奥へと消えてゆく。
たとえモノクロの世界であっても心持ちが違うだけで、こんなにも世界の見え方は変わるものなのか。
(「なんか、ちょっとくすぐったいような?」)
胸の内側をやわらかい羽根で撫でられているような気持ちになってリオは唇を引き結ぶ。今自分は変な顔をしているのだろうなぁ。ひとりで良かった。誰に見られているわけでもないのに気恥ずかしくなって頬を掻くと、気を取り直して再び歩を進める。
きっと、変わったのは世界ではない。この世界を見ようとする自分が変わったのだと、それはリオ自身気が付いている。
見える世界は相変わらず白と黒で、ちっともカラフルなんかじゃないけれど、それでもこの心には確かに「色」がある。こんな自分に色を、理由を、それから心を救ってくれた小さな天使を想う。無意識に伸びた指先が首元の鈴に触れた。
ちりり、と清らかな音色はまるで天使の笑い声のようで、自然口元に笑みが浮かんだ。リオはアイスブルーのリボンを指先に絡めるようにいじりながら、空を仰ぐ。
(「こんな風に過ごせる日が増えたなら、もっとアリスは喜んでくれるかな。今度またどこかにお出かけ連れてってあげないと、また拗ねちまったら大変だ」)
その時はどこへ連れて行こうか。とっておきのスポットを探しておかないと。リオはこれからを想像するだけで何だか楽しくなってきて、その足取りが軽いものになっていることに気が付いていなかった。
水族館の水槽をまぁるく切り取ったような青い紙提灯を、右へ左へ揺らしながら懐音・るいは参道をひとり歩いていた。
触れてしまえば、ぴりりと破れてしまうのではないかと思うくらい薄い和紙には、熱帯魚のような小魚のシルエットがぐるり一周するように描かれている。
「かわい」
ふふ、とちいさく笑みをこぼしたるいは、あわい光を揺らめかせながらゆるやかな坂道を登ってゆく。
何かが頭上を横切った気がして、ふと視線を持ち上げると、ちょうど鯉の姿をしたインビジブルの群れが蒼い宵空を駆けていくところであった。ないはずの水面の模様が空に掛かっているように思えたのは目の錯覚だろうか、それとも光が見せた幻だろうか。透き通った空気を何の警戒もなく横断する群れを、しばし歩みを止めたまま仰いでいる。
鯉が通り過ぎると、次に現れたのはちいさな金魚であった。ひらひら、ひらり。尾ひれを揺らし、風に踊らせ、夜気をなぞるように揺蕩って。まるで危険はないからこっちへおいでと呼ばれているように、鯉のあとをついていく。
宙を泳ぐ姿が見られるのは、インビジブルの良さなのかもしれない。水の中でしか生きられない鯉や金魚が空を駆け、森を横断するなぞ常ならばありえない御伽の話。
(「空を泳ぐ、なんて表現もあったりするけど正にそうだもんね」)
水の中と空とどちらが気持ちが良いのだろう。
そんな風に考えてみるのもまた楽しくて、るいは最後尾の金魚が森の奥へと消えてゆくまでじっと見つめていた。
視線を参道へと落としたとき、少し先に紫陽花の低木が右側だけ途切れていることに、気が付いた。不思議に思って近付いてみると、森の奥へと小路が出来ており、その先はすこし切り開かれている。円を描くような空間にはベンチがあり、なるほど神社に向かう者たちのために作られた休憩所だと知る。
「お誂え向きとはこのことだね」
しかも空間をぐるりと囲うように紫陽花が植わっている。奥に広がる森にはヒメボタルの光も見えて、光景をゆっくり楽しむには持ってこいのベストスポットだ。るいは口元に笑みを刷くと、ベンチに腰掛け、中の火が和紙に触れぬようそっと紙提灯を折り畳んで持ち手を離す。
紙袋から取り出したのは夜市で購入したばかりのオルゴール。ピアノの形をしたそれは、どうやら屋根を持ち上げることで音が鳴るようであったので、一度木々の隙間から誰かいないかを確認してから、そろりと開いてみる。
ゆっくりと回転するシリンダーが櫛歯を弾くと、ちいさく音が鳴る。瞼を閉じて耳を澄ませてみると、眼裏に真白の花が開くようなやさしくて可憐なメロディーがるいを包んだ。
パッヘルベルのカノン。
本来ならば同じ旋律を追いかけるように演奏されることから「永遠」「繰り返される美しさ」といった意味合いが込められている。クラシック本来のハーモニーは味わえないけれど、オルゴールならではの愛らしさがあっていいものだ。
カノンのメロディーが森の囁きのように宵のなかを流れてゆくと、ふわり、ひらり、金魚のインビジブルたちがるいのそばちかくによってきた。どこからさらってきたのか、内にヒメボタルを閉じ込めて、周囲をほのかにあわく照らし、まるでちいさなコンサートのよう。揃って風にそよぐ紫陽花も観客に見えてくる。るいは両の掌にオルゴールを乗せて、光と蒼のコンサートをしばらく楽しむことにした。
「じゃあね」
屋根を閉じるとインビジブルやヒメボタルたちが名残惜しそうに散っていく。ふわふわしたそれらに手を振ったるいは、紙提灯を掲げて参道へと戻って行った。
ふたつの光が、じぃっと宙に留まっている。
ひとつは白々とした星の川が架かる夜空の光。もうひとつはころりと太った真ん丸のお月さまの光。ふたつの紙提灯は持ち主が逡巡しているために、その場をふよりふよりと揺蕩っていた。
「左の川沿いも捨てがたい……」
むむむと眉間にちいさく皺を寄せた桐生・綾音は事前に仕入れていた情報を思い出していた。
このまま左へ行けば、七色龍が眠る本流から枝分かれしたという小川に当たり、水底には七色に光る鱗のような石があるという。その噂の真相を確かめたい気持ちが己をわくわくさせる。
けれど――。
「キラキラな風景をみたい!!」
ぐっ、と拳を作った綾音の言葉に桐生・彩綾は頷いた。
「そうだね、私もキラキラ見たいなあ」
「だよね。それじゃあ行こうか。彩綾、足元に気を付けて」
一度妹の足元を照らし、躓いてしまいそうな小石でもないかと探した綾音は、安全を確認するとゆっくりとした歩幅で歩きだす。そのあとをついて歩き、すぐ肩を揃えるようにして隣に並んだ彩綾は、鳥居をくぐった先、左右に紫陽花の低木が真っ直ぐ連なる参道を目にして、顔を輝かせる。
「すごい! ずっと紫陽花と灯籠が続いてる」
「終わりが見えないね。木も高くて空があんなに遠い」
上空を見上げると、木々によって細く切り取られた藍色の空は雲もなく、ちかちかと星が瞬き、風も火照った身体を冷ますようにやわく流れていく。
木々が鬱蒼と茂っているからこそ闇は濃く、暗さを増すのだろうが、それゆえヒメボタルの光の美しさを際立たせるように思われた。いちど足を止めた二人は紫陽花の葉の上で羽を休めるヒメボタルを見つけて、そうっと近付いていく。
「綺麗だねえ」
感嘆の声を漏らした綾音は、ヒメボタルを驚かせないように声量を抑えて微笑んだ。そういえば、と視線を木々の奥に広がる光の波に向けたあと、妹を振り返る。
「一説によると、蛍は人の魂の光なんだって」
「確か、非業の死を遂げた人の怨霊が蛍に変わった、なんて話があるよね」
「うん。真実かどうかは定かじゃないけどさ、守りたいよね」
夏の訪れを報せるあわい光。短い一生を精いっぱい光り、照らし、人々に安らぎをくれるこのちいさな輝きがいつまでも続くように。
そうっと笑いあえば、葉に止まっていたヒメボタルがふわりと飛び立った。二人は揃って光を見上げ、追いかける。
ちか、ちか、ちか。さよならを告げるその明滅はリズムが短くて、今度は彩綾が思い出したことがあり、綾音を見る。
「そういえば、ヒメボタルって、光るリズムが短いんだって」
「へえ? 小さいからなのかな」
「だから一生懸命光ってるように見えるんだろうね」
「そうかもしれない」
光が群れに混じってしまい、もうどれがさっきのヒメボタルか分からなくなってしまった。再び歩き出そうとした、そのとき。「あ」と声が揃う。
「龍が通り過ぎたよ!」
「龍が通り過ぎた!」
二人は同時に互いの方を振り返って言った。それから笑いあって、再び空を仰ぐ。
木々の上をゆったりとした動きで横断する龍が、胴体をゆるりくねらせながら宵空を泳いでいく。そのあとを追いかけるように鯉や金魚が尾ひれをふわふわひらめかせて、近付いてきたヒメボタルをぽぉんと空へと跳ね上げた。
龍は時おり旋回して空中のヒメボタルをさらい、空へと巻き上げ、何にもなかったかのように再び泳いでいく。
「ここでしかみれない風景なんだね……」
きらきらと降りそそぐヒメボタルの光が、綾音と彩綾の輪郭を浮かび上がらせる。いまここに在るのだと、まるで証明するかのように。
「彩綾、追いかけてみようか」
楽しいことを思い付いたと言った風に笑みを浮かべる綾音に、彩綾は目を丸くする。龍を仰ぐと、その頭は参道の先へと向いていた。このまま追いかければ自然と社に到着するだろう。
「お姉ちゃん、手繋いでくれる?」
返事はなかった。だけどその代わり、温かな手のひらが、この手を取って、自分を導いてくれる。
姉の背中を追いかけながら思い出すのは、生まれ故郷の夏。緑の多い所であったので水は清らかで数え切れないほどの光が舞っていた。閉鎖された村ではあったけれど、自然は美しかったように思う。
「蛍の数は村の方が多かったかもね」
「お姉ちゃんも思い出してたんだ」
振り返った綾音は少し目を細めるようにして笑うと、龍を仰ぐ。その眼差しは、まるでもう手が届かなくなったものを見るみたいに、なんだか寂しくて。
「蛍の舞う村の中で過ごした日々はもう戻ってこないけどさ、ここにも同じ景色があるんだよね」
場所は違うけれど蛍の輝きに優劣はなく、ひとしく美しいいのちの光なのだ。
「ここの風景はかならず守ってみせる」
「……うん。村はもうないけど、せめてここの風景は守りたいよね」
村では見れなかったインビジブルとヒメボタルの共演を見上げて、この景色は自分たちで守るのだと、互いの手をつよく握りしめた。
「紙提灯も借りたからね、早速レッツゴー!」
おー! と片腕を上げた集真藍・命璃のあとを、慌てて月夜見・洸惺が追いかける。二人の手には紙提灯が握られており、命璃は自分と同じ髪の色をした紫陽花の花が青空の下で咲く柄を、洸惺は空に天の川が架かる夜闇に咲く紫陽花の柄を手にしている。
「転ばないように気をつけてね」
呼びかければ、顔だけで振り返った命璃が笑う。
「転ばないよ。大丈夫っ」
言うなり、彼女は浅い階段に爪先をぶつけてしまい、つんのめる。とっさに腕を掴み、引き寄せることで転ぶのを阻止した洸惺は、ほう、と安堵の吐息を漏らすと、気まずそうに唇を引き結ぶ命璃の顔を覗き込んだ。
「ほら、危ないからゆっくり行こう? 蛍は逃げないよ」
「そうだね。助けてくれてありがとう、洸惺くん」
「うん。足元、気を付けて」
命璃の爪先を照らし、その足がしっかりと階段を踏み締めて角度を覚えたのを見、洸惺もまた階段を一段登る。階段は浅く、そして奥行が広かったためにずいぶんと登りやすくなっていた。
「紙提灯ってすごいんだね」
二つ揃えるとやさしい光が倍になって明るくなる。けれどやさしい光源のおかげで、まるで社へ向かう二人を歓迎するかのように飛び交うヒメボタルのあわい光を邪魔せず、こうして楽しめるのだから不思議だった。
頷こうとして、ふと命璃のほうへ視線を巡らせた洸惺は、ぱちりと瞬きをひとつ、ふたつ。瞳を真ん丸とさせているのは、彼女の髪に幾つかのヒメボタルが止まって、羽を休めているのを見つけたからだ。いつの間に? 集会所でお喋りするみたいに、交互に明滅する光を見つめ「ああ」と納得する。
(「明るい理由は紙提灯だけじゃないかも」)
一体何匹止まっているのだろう? 歩きながらでは数えるのが難しくて、ぴかぴか光るそれを見ないふりして苦笑いを浮かべていれば、とつぜん命璃が立ち止まり、それから紫陽花のほうへと近付いていく。
「ねね、ヒメボタルさん留まってくれないかなぁ?」
花を照らすように、あるいは降りしきる雪のようにふわりふわふわ舞うヒメボタルにそうっと指先を差し出してみる。急に現れたおおきな生き物に驚いて数匹が森の奥へと消えてしまったけれど、じぃっと待っているとガクに隠れていたひとつの光が、そろりと顔を出した。二人の呼吸に合わせて明滅して、それからふわっとゆっくり飛び立って。
「わ、わ、わ!」
「命璃お姉ちゃん、しぃー!」
ちいさな光が、命璃の白い指先にそうっと止まる。くすぐったくって思わず吐息が漏れてしまいそうになったけれど、ぐっと堪えて目線の位置まで持ち上げる。
「わぁ、とってもキレイ!」
「うん! まるで指輪みたいだね」
軽く曲げた関節の根本を彩る光は、指先を彩るシトリンのよう。
溢れる笑顔で顔を見合わせた二人は、しばらくして飛び立ったヒメボタルが金魚のインビジブルと共に森の奥へと消えてゆくのをいつまでも見つめていた。
それから。
(「ところで命璃お姉ちゃんは、いつまでヒメボタルさんと隠れん坊しているんだろう?」)
このまま黙っているのも何だか気が引けてきた。
急に居心地が悪そうにそわそわし始めた洸惺に気が付いた命璃が、むぅっと両目を細くして顔を覗き込む。「どうしたの?」と問えば「えっと」「うん」と煮え切らない。逡巡したのち、洸惺は指先で彼女の頭を指差した。
「命璃お姉ちゃんの髪にね、ヒメボタルさんが止まってるんだ」
「……へ? 髪の毛?」
ぽかんとした命璃は視線を上に持ち上げてみたけれど、角度のせいで全く見つからない。コンパクトミラーを取り出した命璃が頸を捻って頭部を確認すると、まるで初めからそうであったかのように光がちかちか頭にくっついている。ぶん、ぶん、と頭を振ってみたけれどヒメボタルが飛んでいく気配もなくて、ただ風を混ぜただけ。
「なんで!? ちっとも飛んでくれないよっ!? 洸惺くん取ってぇ!?」
「うーん。そうだね、そうだよね」
そうは言いつつも、無理に追い出してしまうのも可哀想だ。じとーっと半目になって見つめてくる命璃に、洸惺はたまらずふきだした。
「……決して見てて楽しいからとかじゃないよ?」
面白がってる、絶対。
でもその楽しそうな顔を見ていると怒るのも違う気がして、命璃は仕方ないなぁとミラーを仕舞う。
「命璃ちゃんの髪は休憩所じゃないんだけどねぇ」
そんなに居心地がいいのだろうか。それとも髪を結ってもらったときになにか良い匂いのするものでも塗ってもらったから、花と間違えられているのだろうか。真相は分からないけれど、これも一つの貴重な体験。
「うーん、このまま一緒に行っちゃう?」
「うんうん。そのまま一緒にレッツゴー!」
きっと社に着くころには厭いて空に戻っていくだろう。それまでのお供と思えば、なんだか楽しくなってくる。
「じゃあ、改めてヒメボタルさんとレッツゴー!」
ずんずん歩き始めた命璃のあとを、半歩遅れて歩き出した洸惺は、そのちいさな後頭部を見て、漏れそうになる笑いを噛み締める。
(「うーん、やっぱりチカチカしてて面白いかも? 笑っちゃいそうになるけど、ここは我慢……!」)
唇をもごもご引き結んで、洸惺は爪先を蹴るように足を前に踏み出す。スキップするように軽やかな足取りの命璃にいやな思いはさせたくないから。それでもやっぱりうずうずする気持ちは抑えきれなくて、ああ、楽しいなぁって心から思う。こんな風に過ごせる日々がいとしくて、たまらない。
宵空を泳ぐ金魚の群れが、共に舞うヒメボタルをそうっと下へ撫でておろす。
ふわふわ、ちかちか。
二人のもとに降り注ぐように、ヒメボタルたちが舞い降りてくる。それはまるで、祝福するかのように美しい光の光景だった。
(「此方のほうが静かそうだ」)
太鼓橋を渡り切った目・魄は、白い和紙に菖蒲が咲く紙提灯を軽く持ち上げ、その先の細道を照らすと独りごちた。
夜市で済ませた装いそのままの姿で、当て所なく人波に揺られるように散策していれば、自然と足は朱色の大鳥居をくぐっていた。
森に呑まれたような遊歩道は入る者の心を少し躊躇わせるほどの昏さに満ちていた。足元にちょこんと置かれた透かし彫りの竹灯籠の火は、頼りなく揺らめいて心許ない。
まるで幽世への入り口のようだ。
にもかかわらず、冷たくて透明な水の匂いがずっと香っている。魄は紙提灯をゆらゆら揺蕩わせながら遊歩道を道なりに進んでいった。前も後ろも誰もいない。インビジブルもなりを潜めたように見えはしなかった。
見上げた宵の空は遠く、切り取られたように辺りは静かで、だからこそせせらぎがよく聞こえてくる。
小川には噂があった。
七色龍が眠る本流から枝分かれしているために、その水底には七色に光る鱗のような石があるという。それはきっと家にいるあの子が好きそうだと思った、だから魄はこちらを選んだ。ただ、それだけ。
さほど広くもなく、かといって狭すぎるということもない。緑の濃い香りの中で、耳朶をやさしく撫でていく水の音が、いっそうの涼しさを寄こしている清らかな水面を、じぃっと覗き込んでみる。
上から窺う程度では七色の光を見つけるのは難しい。なにせ川面を撫でるように勝手気ままに飛び交うゲンジボタルが数多にいる。
一度背筋を伸ばすと、森に儚く染み渡る蛍の景色を眺めてみる。
このちいさきいのちの光は初夏の訪れを報せる風情ある光景なのだろう。綺麗だ。でも魄にとって蛍はそれ以上でもそれ以下でもない。視界に映るものの、ひとつというだけ。
森に入ってずいぶんと風が冷たくなったように思う。夜市に在っては人々の体温で幾らか温められていたのか、頬を、髪を悪戯にくすぐっていくそれらは心地良く、思わず歩みも止まる。
紙提灯を川面に伸ばし、目を眇める。ゆらゆら淡い光で水面をなぞり、不思議に光る鱗はないかと探してみると、これと言ったものは見つからない。せめてひとつ、ふたつくらいは持ち帰りたいものだ。欲張りだと言われてもかまわない、子が気に入ってくれればそれでいい。
まだ水温の低い冷たい水に指先を浸し、触れたその小石を摘まんでみる。他の小石とぶつかりあってまろくなったそれは、紙提灯の灯りを受けて少し黄みがかった色を反射させた。子と共についてきた黒猫又の瞳に似ている気がして、放るのがすこし躊躇われる。
(「さすがに見つからない、か」)
立ち上がり、ぐぐっと背筋を伸ばした魄は、見つからないのも一興、と置いた紙提灯を持ち上げ遊歩道に戻ろうと踵を返した。
そのとき。
左眼が魄の意思とは関係なく独りでに動いた。
視線があちらこちらを巡るようにぎょろりと動き回ったかと思うと、ある一点で止まる。義眼として埋め込んだ百目鬼の眼が捉えるほうへと近付いていくと、ゲンジボタルが魄に驚いてさぁっと波を割ったように飛び立っていく。
暗くなった川面に手を差し込み、拾ってみると、光に照らすまでもなく角度によって色を違える小石が三つ。一つが割れて三つになったのか、あるいは共に身を寄せ合って流れ着いたのか。
「良く見つけたな」
親子みたいな大きさをした大中小のそれらを掌に載せ、口元に淡く笑みを乗せる。紙提灯に翳してみると、濡れてちかちかと瞬く白い輝きの奥から、雨に濡れた紫陽花のような藍、秋の夕暮れのような赤、夏の陽射しを浴びた海のような青といったあわい光が移ろっている。
「いい土産が出来た」
満足したら、安堵がやってきた。
なくさぬよう大事にしまい込み、先をゆく。
魄の表情がやわらかくて、やさしく見えたのは、家で待っている子のことを思い出しているからか。あるいはゲンジボタルが見せる束の間の夢幻だったのか――。
「わぁ……!」
二階建ての町屋と競うように屹立する朱色の大鳥居を前にして、ライラ・カメリアの唇から感嘆がまろび出る。高まる興奮を抑えきれず真白の翼はぱたぱた羽ばたき、その微風によって淡い白金の髪がやらわに広がれば、華奢な体躯をいっそう小さく見せた。
この鳥居をくぐった先に待ち受けている景色は、どのような表情をしているのだろう。想像するといやが上にも期待は高まってゆく。むんと胸を張ったライラは、清掃の行き届いた美しい石畳をこつこつ鳴らして歩き始めた。
(「……太鼓橋って素敵だけれど、渡るのがちょっと難しいのね」)
指先で欄干をなぞるように、湾曲した橋を往く。傾斜はあまりきつくないものの、ライラはハイヒールを履いているので、気を付けなければつるりと踵が滑って転んでしまうのだ。ゆえに、いつでも掴まれるように欄干を伝い、どきどきした気持ちで足が震えてしまわぬよう慎重に天辺まで上って、それから恐々と下ってゆく。
(「小川沿いの参道だと、七色に光る鱗のような小石が見つけられるかもしれないのよね」)
小川は七色龍が眠る本流から枝分かれしたものらしいので、静謐な鎮守の森を流るるその光景を目にしてみたい。分かれ道が近付くと、そわりそわりと心が揺れる。
「でも、わたしは真っ直ぐ進みたいわ!」
思わず声に出してしまい、ライラはぽん、と右手で口元を抑える。幸い辺りには誰もいなかったので意気込みを拾ったのは、参道を吹き抜けていく宵の風だけ。再び現れた大鳥居をくぐったライラは、すぐ目の前に広がった光景にその歩みを止めた。
鬱蒼と茂る木々が左右に拡がり、真っ直ぐに伸びる石畳の階段が天上へ導くように、上へ上へと続いている。石畳を彩るように咲いた青い紫陽花は、灯籠の淡い光を浴びて宵闇の中で静かに佇み、いたずらに羽を休めるヒメボタルたちにくすぐられて幽かに揺れる。
水底に沈んだ青の世界をやさしくてちいさな光が飛び交っている。まるで遥か彼方の宙で瞬く星々のように。ちか、ちか、と己のいのちを輝かせて水底を照らす、その美しさを目にした途端、ライラの眦に透明な珠がぷくりと浮かび上がる。
「ああ……これが「蛍」なのね……」
ずっと、ずっとこの目で見ることを夢見ていた。蛍という儚い生き物が、懸命に瞬き世界を照らす「本物」の光を間近で見てみたかった。それがいま、真実叶ったのだ。
はあ、と落ちる吐息は花の溜め息のように甘く、悩ましく。ライラは人差し指の背でそっと眦を拭いながら、歩を進める。森から流れてきた金魚の群れが、まるで泣いているお姫様を慰めるかのように、ライラの髪を、頬を撫でていき、尾ひれをゆらめかせれば空へとさらわれたヒメボタルたちが、地上にふわふわ舞い降りてくる。
「綺麗……」
静かに落ちてくる雪片のように、あるいは空から降り注ぐ星屑のような淡い光に目を眇めた。そのとき、ちょうど木々の上空を龍が横切っていくのが見え、思わず立ち止まる。宵の空を透かしたインビジブルは回遊するお魚みたいに群れを成し、木立ちの|涯《は》てを目指して泳いでいく。
(「ふふ、今日ここに来られて本当に良かったわ」)
社へ導く紫陽花に目を細めて微笑うライラは、一度自分が辿ってきた道を振り返る。もう喧騒は届かず、風の囁きと己の吐息しか聞こえはしない。怖いくらいの静けさだけれど、不思議と心は凪いでいる。
(「皆さんに――大切な友達にも見せたいくらいだわ」)
この景色をほんのひと時でもひとりじめしていることに、すこし罪悪感を覚えてしまうものの、それ以上に心を弾ませるのは逢いたかった光を見つけられたからだろうか。
「あら」
鼻先を舞ったひとつの光が、その場をふよふよ漂う。それはライラが歩き出すと少し先をゆき、ライラが立ち止まるとその場に止まる。
「ふふ。もしかして道案内をしてくれるの?」
ふわりふわり、ちかり、ちかちか。
ヒメボタルはまるで「こっちだよ」と言うかのようにライラの数歩先を飛んで、それは社に辿り着くまで続いたのだった。
透き通った風が木下闇の奥から流れてくると、煽られた枝葉が擦れて幽かに鳴る。幾重にも織る森の囁きは参道を束の間賑やかにさせた。
葉擦れの音に耳を澄ませながら石畳を歩いていたエメ・ムジカは、それまで覗き込んでいた紫陽花から視線を上へと持ち上げると、左右に拡がる木々に細く切り取られた宵の空を仰ぐ。
ちょうど、空に架かる虹のように半透明のインビジブルの群れが上空を横切っていくところだった。おおきな龍に寄り添うように、ちいさな鯉や金魚たちが美しい尾ひれをひらめかせて、木々の|涯《は》てを目指している。
星明りに照らされたように参道を明るくさせるのはヒメボタル。数え切れないくらい無数にゆるりと飛翔するちいさないのちは、宙で瞬く星のようにゆらゆら舞って、気まぐれに下りてきたインビジブルたちに戯れ、さらわれ、空に昇っては、ふたたび地上を照らすために戻ってくる。
ふわり、ふわり。
星屑が落ちてきたような光を、両手で掬う。掌に舞い降りてきた光は、ぴかぴか明滅すると、迎えに来たもうひとつの光と共に宵闇に飛び立った。
「きれい」
ムジカはほう、と感嘆の吐息を漏らす。
この短い季節を揺蕩ういのちの輝き。流れ星が静謐な神域を満たしていくような瞬き。
(「ひと夏の儚い命が流星のように光を灯してゆくのは、まるで夢のようだね」)
夢のような光景はひどくやさしくて、あたたかくて、せつなくて。命の短さを思えば胸がぎゅうっと苦しくなるけれど、いまを懸命に生きる姿を嘆くのは違う気がして。
心奪われる景色をムジカは赤い宝石眼に閉じ込めるみたいに見つめている。いつかこの光の美しさを教えてあげる、その時の為に。
(「生命燃ゆる命灯の|奇跡《まほう》」)
呼気のリズムで明滅する光に目尻をやわらげる。こんなに美しく光る綺麗な眩さとともに過ごせる僥倖に胸があたたかくなるようで、また唇から吐息が漏れ落ちた。
「神さまだってきっと……心安らぐ想い出になるんだろうなぁ」
美しいからこそ光は強く輝き儚く灯るのだと想うと、それまで胸の奥底に眠らせていた侘しさがムジカの心を過ぎる。ひとしずくの涙が落ちると、それは凪いだ心に波紋を描いて、閉じ込めていた一瞬一瞬を呼び覚ました。眼裏に映る景色はムジカの記憶をざらつかせるので、五指がかすかに震えてしまう。
命を燃やす姿が、亡き大切な人の姿と重なってしまった。重ねて、しまった。
苦しくなって、たまらず吐き出した息と一緒に追い出そうとするけれど、大切なものも一緒に逃げてしまいそうで、ムジカは慌てて口を引き結ぶ。
その時ふらりとひとつの光がムジカの鼻先に止まった。びっくりして目をぱちくりさせると、上下する長い睫毛に驚いたのか、ふわりと飛び立ち、眼前をふわふわ舞う。そうっと指先を差し出してみる。光はすこし呼吸をするみたいに何度か瞬いたあと、ムジカの指の背に止まってくれた。
「……もしかして、慰めてくれてるの?」
ヒメボタルはゆっくり瞬きするみたいに光っている。
ふふ、と唇の隙間から笑いを滲ませたムジカは「優しいんだね」泣き笑いするような顔で言った。
顔を上に向ける。下を向いたって欲しいものはそこにない。前を向く。振り返っても通り過ぎた日々には戻れない。
だったら。
(「ひと夏の綺麗な世界を、ちゃんと守れるように、がんばろう 」)
ムジカは歩き出す。
この美しい世界を、その手で守るために。
「ふふふん」
ララ・キルシュネーテはご機嫌だった。
ふかりとしたももんが尻尾は左右に大きく振れて、耳はぴこぴこ揺れている。それは朱色の大鳥居をくぐり終えてもまだ続いていた。
「いい雰囲気ね。ララ、こういう所すきよ」
二つ目の太鼓橋の天辺に差し掛かったとき、ララは半歩後ろをついてくる神花・天藍のほうを振り返る。アネモネの花眸をにんまりと細めてはしゃぐ雛鳥に「危ないぞ」と一言。そのちいさき躯体が転げ落ちぬよう、背に触れるか触れないかのあたりに手を添えて「前を向かぬか」顎でしゃくってみせる。
しかし、そんな心配も何のその。
「ララの故郷にね。……パパの友達の神社にも大きな鳥居があったの」
懐かしいわ、と噛み締めるように、ララは先ほどくぐった鳥居を仰ぐ。
「天藍はどうかしら」
足元に気を配っていた天藍は問われてはじめて気が付いた、といった風に視線を持ち上げる。
朱くて太い柱、反りかえる笠木にしなだれかかる枝葉は青く濃く、今では見上げなければその天辺も見えないくらい屹立する大鳥居。ふいによぎるのは遠い過去に置き去りにしてきた懐かしさ。
「そうであるな、とても懐かしい光景ではあるな」
だが。
懐かしさは、同時に心をざらつかせた。砂を噛んだような不快が舌の上に広がって、苦い水が頬の内側に滲んでくる。
(「我にとって、それはあまり思い出したくもないものなのだ」)
ささやかな幸福すらゆるされなかったあの場所を。咒いで侵し、毀してしまったあの景色を。
――思い出して、何になる?
(「いまは、己の咎を突き付けられるだけの記憶でしかない」)
雛鳥がさっさと歩いていってしまうので、天藍は安堵した。己の頬に手を当て、むにむにほぐす。
「……?」
「ララ? どこへゆく」
何かを見つけたのか、太鼓橋を渡り終えた雛鳥が道を逸れたことに気付き、天藍は仕方なく駆けた。
「……天藍、何か光っているわ。何かしら」
その歩みは止まらず、どんどん森に呑まれた遊歩道を奥へ奥へと進んでいく。あっちに、なにか光るものがある、と指差して。
「ほらまた、あそこにも」
夏宵に現れた光は、天藍にとって救いであった。ララの意識が景色から蛍に移ったのだ。これでもう、話を掘り返されることはないだろう。天藍は安堵の面持ちでララの傍らに並び立つと、清らかに通り過ぎていく空気に混じった水の匂いにひとつ頷く。
「小川が近いな。もっと近付いてみるか」
「天藍、あぶないかもしれないわよ。だって、もしかするとお星様が落ちてきてしまったかもしれないんだもの」
「星……?」
歩き出した自分の袖を引っ張り止めるララの言葉に、はたと瞬きした天藍が振り返る。
「まことそなたは面白き感性をしておるな。だが、あれは蛍というのだ」
「ほたる……?」
はじめて言葉を耳にしたといった風に目をまんまるとさせたララは、袖を摘まんだまま、無数に光り飛び交う蛍のほうを向き、それから「あの光が?」反対の手で指差した。
「ああ。蛍は最近、数を減らしているらしい。……そうか、あの常春の世では目には出来ぬのだな?」
「ララ、見たことないわ」
「ならば蛍狩りと往こうか。だが、騒いではならんぞ?」
「わかったわ」
ゲンジボタルの黄緑色のちいさな光が小川に降りそそぐと、まるで宙の星々をとかしたみたいな瞬きが宵闇の中で輝いている。光って、消えて、また光って、消えて。気まぐれに繰り返すいのちの輝きに、ララは溜め息をひとつ。
儚い命の光を追いかけるように、どんどん小川に沿って森の奥へと進んでいくと喧騒は遠くなり、やがて聞こえなくなってしまえば、耳朶に触れるのは、あちらこちらからざわめく木々の囁きと二人の足音、それから川のせせらぎだけ。
「みて。星の海の中にいるみたい」
不思議とゲンジボタルたちは二人の周囲から逃げてはいかなかった。
「ララ、はしゃぐのはよいが、転ばぬように……」
夏の夜の夢のように美しい光景を目の当たりにして心躍らせるララは、青く透かし出された枝葉の下で、きらきらと囁く地上の天の川のほとりで、蛍火と一緒にくるり、くるりと舞ってみせる――その手に天藍を握り締めて。
「天藍もほら、一緒に」
「もう廻っておる」
半ば振り回されるように、遠心力に身を任せる天藍は半目になっていたが、しかしこうも楽しそうな姿を目にしてしまうと。そして、己もその中に在るのだと自覚してしまえば何だか面映ゆく感じて、こそばゆい。けれど不思議と心は凪いでいた。
「案外、楽しいものだな」
疾うにないと思っていた。
あの頃のように、こんな自分が童のように、はしゃぐことなんて。
蛍の光と戯れる雛鳥に合わせて、くるくる踊る。何のステップだって踏んでやいないけれど、掌から伝わってくる熱が、漏れる笑い声が、火照る身体を撫でる宵の風が、蛍火の中で踊るふたりを主役に引き立てる。
「!」
とつぜん、アネモネの花眸が見開かれた。瞳が寄る。
「なんと。蛍が鼻先に止まっておるぞ」
天藍が言えば自覚したララは、くすぐったさを我慢できなくなってしまった。
「くしゅん!」
意外とエネルギーを使うくしゃみによって驚いたゲンジボタルがふよよと空へと昇っていく。その軌跡を見上げながら、ララは残念そうな声を出した。
「……逃げちゃった。蛍って儚いわ……あら天藍」
視線を落とすと、足をもつれさせた天藍が変な形で止まっている。
「大丈夫? 支えてあげるわ」
未だ繋がったままの掌で、ぐいと引っ張ると、あっという間に天藍の背がしゃきりと立つ。「うむ……」おなごの手に軽々と持ち上げられてしまったのがすこし複雑な天藍は「すまんな」口をもごもごさせて礼を言った。
まだ時間はある。
もう少しだけ、この束の間の景色を楽しむことにしよう。二人にとって瞬きとひとしいくらいのこの一瞬を、いつか思い出せる日がくるように。
ざくり、ざくり。
砂利を踏み締める音が、やけに響く。
時おり透き通った風が吹いては葉擦れを起こして眠たげに森が囁くけれど、それも止んでしまえばまた二人分の足音と、透明な水が流れていくせせらぎだけが聞こえる世界に取り残される。
「竹灯籠、以外と明るいですね」
「ええ。さすがに顔までははっきり見えないけれど、ね」
廻里・りりとベルナデッタ・ドラクロワは肩が触れあいそうなくらい身を寄せると、どちらからともなく顔を近付けて笑いあった。他に参道を往く者はいないけれど、なんとなく声のボリュームを落として、囁くようにお喋りしてしまうのはなぜだろう。
「大きい声で話すと、蛍を驚かせてしまいそうだものね」
しぃ、と唇に人差し指を添えるベルナデッタの仕草に、りりも真似して、しぃと人差し指を立てる。
竹にはひとつひとつ違った模様が彫り込まれてあった。
「とってもかわいいですね!」
季節感を出すためなのか、花は紫陽花、菖蒲、躑躅、芍薬といったものばかりであり、あとは夏の風物詩である海や天の川、浮き輪なんてものもあって賑やかだ。
「影絵のよう……だけど、あれとは逆なのね」
竹灯籠は光で形を作り、道を照らし描いている。ほのかで優しい火がちらちらと揺れているのを覗き込んだりして。
「この子は花火の模様かしら? まるで明かりの花畑みたいだわ」
蛍の光を邪魔せず、けれど参道を往く人々の足をためらわせない間隔で置かれた竹灯籠は、奥へ奥へと導くように続いている。時々ゆるく曲がり角になっているので、そのときは少しどきりとしてしまうけれど、それもすぐ見つかった。
これなら迷う心配もなさそうだ。
ほう、と安堵の吐息を漏らしたベルナデッタではあったけれど。
(「……迷わ、ないわよね?」)
ふいに過ぎった不安を言葉にはせず、自分の胸の内だけで吐き出した。りりはこちらを見上げてはきょとんとして。そのあどけない眼差しに、わざわざ陰りを落とす必要はないだろう。
己の片手を、りりに向かって差し出したベルナデッタ。りりは、そのすらりとした綺麗な指先を見て、それから淡い薔薇色が溶けた硝子の瞳を見つめて、ぱちぱち瞬き。
「今日も手を繋いでいきましょうか」
ベルナデッタの言葉に、りりの表情は暗がりの中にあっても分かるほど、ぱぁっと輝いた。花が咲うように頷いたりりは、その掌に己のものを重ねて嬉しそうにぎゅうっと握り締める。
「そうですね、手をつないで行きましょう!」
あえて紙提灯を借りずにやってきたため、二人の目は次第に闇に慣れると、ささやかな光ですら眩しく感じるほど感覚が鋭くなったように思われた。だから森の奥からふよふよとした淡い光がひとつ、ふたつ、みっつと現れたときは、まるで競うように気が付くことが出来たのかもしれない。
ほんわりとまろい光はおだやかで、やさしい瞬きはその反面、力強くも感じられた。それはきっと、蛍という短い一生を後悔せぬよう懸命に生きる証だと知っているからなのかもしれない。
「こんなに小さな体で、こんなにも明るいのだもの」
紫陽花の葉やガクに止まって羽を休める光を指差したベルナデッタは、もう一度唇に指を立てる。
「ほら、紫陽花にとまっているわ」
それから足音を消して、気配もなくして、そうっと紫陽花に近付いていく。
そろり、そろそろと接近する二人に気付いていないのか、呼吸のリズムに合わせて黄緑色の光がゆっくり明滅。青く透かし出される紫陽花は、まるで蛍火の耳飾りをしているよう。
「紫陽花が光をまとうのもすてき……」
ほう、と思わず感嘆の吐息を漏らしてしまう。「あ」と思ったときはすでに蛍が飛び立ち、ふんわりとした光は空に向かって舞い上がる。それから雪片のようなやわらかさで降りてきた。
「まるで光の雫がおちるみたい。こんな景色を風情があるっていうんでしょうね」
現実を忘れてしまうくらい美しい光景を前にすると、瞬きするのが惜しくなるんだ。りりはどこかふわふわした気持ちになって、夢見心地の眼差しで蛍の光を眺めている。
「あれ?」
川の水面を撫でるように低く飛翔するゲンジボタルたちを眺めていると、りりの瞳に蛍火とはまた別の、光をとかしこんだ水面の輝きとは違うきらきらしたものに、気が付いた。
「あ! ほら! 光ってます!」
りりに言われて、ようやくベルナデッタも川底から囁く光を見つけることができた。顔を見合わせあった二人は、手をつないだまま小川のほとりにまで近付くと、水面をそろりと覗き込む。
「川には龍が住むと言うけれど、あれはそんな誰かの忘れ物なのかしら?」
この小川にまつわる噂を思い出していたベルナデッタの横で、スカートの裾をまとめてその場にしゃがみこんだりりが水面に指先を伸ばすので、転ばぬよう繋いだ掌に力を込める。
「気を付けて」
「はい!」
ちゃぷちゃぷ、と波を掻き分け、きらめきのひとつを手に取った。掌にころんとしたその小石は、虹色に輝く綺麗な忘れ物。
「……でも」
りりは首を巡らせる。
「けっこう忘れて行っちゃってます……おっちょこちょいさんですね?」
なぜか二人がいるほとり、その川底にはあちらこちらにぴかぴか、ちかちか瞬く虹色の光がたくさんあって。それは蛍の光に負けないくらい、ここにいるよって、教えるみたいに。見つけてって、手を振るように。二人に笑いかけている。
ベルナデッタもその一欠けらを捕まえてみる。りりのまぁるいお月様みたいな小石とは違って、ベルナデッタのそれは花びらみたいな形をしていた。
「持ち帰って、いいのよね?」
「持ち帰ってしまいましょう!」
噂は本当だったんだって、自慢しなくては。
七色小石を虚空に翳してみると、葉の幾何学模様に切り取られた宵空を龍のインビジブルがゆるり飛んで行くのが視界に映る。驚いて顔を見合わせた二人は、それからどちらからともなく笑い声をあげたのだった。
水底に沈んだ森の|涯《は》てで何かが光った気がして、香柄・鳰は頤を持ち上げ振り返る。けれど、夜市の賑々しい露店の灯りが朧の視界を射せば、それも幻であったかと自信がなくなる。
「んー? どうかしたかい?」
九鬼・ガクトに問われ「いえ」短く首を振った鳰は「気のせいだったようです」口元に笑みを刷き、それから手を伸ばしかけていた紙提灯の持ち手にそろり指先を添えた。
紙提灯は色取り取りなだけでなく柄も様々で、初夏の季節を描いたものが多く並んであった。せっかくだからと借りることにしたのだが、いざどれを選んでもいいとなると悩んでしまう。
「虫は光ある所に集まるというし、近くでホタルが見れるかもしれないね」
「まぁ」
口元に手を添えて、くすくす笑う鳰は、それが真実起これば、さぞ美しい光で溢れるのだろうと想像し、とても素敵なことだと笑みを深める。
主には紫紺色の和紙に白々と咲く|苧環《おだまき》が描かれたものを、自身には鳩羽色の和紙に菖蒲と蛍が描かれたものを手に取って。ガクトの元に戻った鳰は肩を並べて鳥居をくぐる。
冥府の入り口もかくやといった昏さが立ち込める入口をひとたび進めば、すぐに鼻先をくすぐったのは清らかな水の香り。透き通った風が吹けば足元を照らす竹灯籠のまろい光がちらちら揺れて、紫陽花の葉を青く透かし出す。
「嗚呼。今、光りましたね」
紙提灯を下げ、小川が流れる方へと視軸を巡らせた鳰の言葉に、ガクトが「本当だ」額に手を翳しながらその歩みを止めた。
ちかり、ちかり。
森から飛翔してきたそれは、ゆっくりと明滅する。まるで訪れた二人を歓迎するかのごとく姿を現した蛍火は、もう数え切れないくらい。水底の宵闇を揺蕩い、川の水面を撫でては星を溶かし込んだようなきらきらを描いて心を慰める光景に、息を呑む。
この目にも識れる蛍火は、なんと静かでうつくしいのだろう。感動で言葉もない鳰の様子を横目で見ていたガクトは、ふと地上の天の川を覗き込んでみた。
「そういえば」
何かを思いだすような仕草で、顎に丸めた手を添える鳰。
「彼らは水くらいしか摂らず、数週間でその命を終えるそうですよ」
ああ、と視線を虚空へ滑らせたガクトは、ふわふわ勝手気ままに飛び交うゲンジボタルを見渡して、それからゆっくり背筋を伸ばす。
「光るのはオスが殆どらしいね」
あのちいさな瞬きは、たった数週間の為の、命懸けのプロポーズだと思うと、この無数の光の見え方も変わってくる。輝きのひとつひとつが誰かに宛てた想いとするならば、それはなんて情熱的な光景だろうと鳰の胸は少しむず痒い。けれど同時に、至極シンプルで潔いその生き方は、いっそ羨ましくもある。人として生を受け、荒波に抗いながら戦い抜いてきたから、そんな風に眩しく思えてしまうのだろうか。ただ幸運に生かされ、たまたま生き残ってしまった自分とは命の燃え方がずいぶんと違うのだな、と感傷がよぎるも、ふるりと追い払う。
「ガクト様も、蛍を儚いものとお思いになりますか?」
問いは、自然と鳰の口をついていた。
「人では出来ない生き方。儚さゆえの美しさ、と言う人もいるだろうね」
ガクトはそれを深く気にせず、ただ問われたから答えただけ、と言った気軽さで返答を寄こす。常と変わらぬ声音になぜか安堵した鳰は、主から視軸を外すと、小川を照らし舞う蛍火を見つめて、ぽつりと言った。
「私は……寧ろ、迸る生命力を感じます」
「生命力の強さ?」
肯くと「なるほど」「鳰らしい」とガクトが幽かに笑う。
「私はダラダラ型だから、鳰は一瞬を見逃さないだろうね」
例えば参道に入る直前のあの一瞬。森の|涯《は》てで、いのちが刹那に輝いたのをガクトも見ていた。あれを見逃さなかった鳰だ、彼女ならきっと、どんなに小さな|瞬き《声》であっても掬い上げ、道を切り開いてゆくのだろう。たとえこの世界から目を逸らすように、見ないふりをしているのだとしても、その手はひとしく差し伸べられるのだと不思議な確信がある。
「またまた! そう仰って確り見留めているのが貴方様ですのに」
ふふ、と笑い声を漏らす鳰の表情はやわらかい。この少女がそんな風に咲う機会がもっと増えればいいと思う。
ふわり、そろりと二人のそばに光が寄ってくる。ひとつが近付けば、ふたつ、みっつとそれは増え、次第に紙提灯や竹灯籠の灯りに負けないくらい、互いの顔がはっきりと分かるほどの輝きがガクトと鳰を包み込む。
慣れてきた目に映る蛍火は、その輪郭がとけあうほどに広がって。それが無数の光を意味していることに気が付いた鳰は、そうっと指先を持ち上げてみる。
「鳰」
ふいに名を呼ばわれ視軸を持ち上げると「ほら」と指差された先は己のほう。頸を傾げると、視界の端が一際強く輝いていることに、遅れて気が付いた。
「ホタルが髪飾りになってて似合ってるよ」
鳰は気に入られてプロポーズされたみたいだね、とからかう主につられて、鳰がちいさく噴き出す。
「あらあら。蛍が見初めて下さったのかしら、なんて! ふふ」
笑いを零してしまったので、当然身体は揺れてしまう。それなのに蛍はまだ離れず、じぃっと鳰の髪でぺかぺか光っており、それはまるで笑ってくれる鳰の様子を嬉しい嬉しいと喜んでいるように見えてくるから不思議だった。
「ほら、ガクト様の肩にも」
「んー? 残念ながら私はメスでは無いよ?」
肩に止まったゲンジボタルへ人差し指を差し出すと、光はそろり浮き上がって、ふわふわ指の背へと移ろった。そのちいさき光に顔を近付けた鳰が、
「だめよ、この方は私の主様です」
ぷんと拗ねたように、けれどどこか誇らしげにわざとらしく言えば、ふよよ、と光が浮かび上がる。
「本当の番を探しにおいき」
「本当の運命の子に逢えると良いね」
やさしい言葉に送り出されたゲンジボタルは、ふたりの間を行ったり来たりすると、未だ鳰の髪に止まっていた光を連れて、瞬きの奔流にとろけるように消えて行った。もうどの光がさっきの子なのか分かりはしない。いずれ尽きる光だとしても、せめて共に眠る相手が見つかればいいなと思う。
小川沿いは涼やかで、じっとしていれば肌寒いほどの清らかさが肌を撫でてゆく。川幅も狭く、岸までひとっ飛びで行けてしまいそうな浅瀬ではあるが、やはり流れ着いた石も多くあるので足元に全くの危険がないとも言い切れない。
ゆえにか、鳰は主の下駄が小石を踏んで滑ってしまわぬよう、整備された遊歩道の真ん中を歩いてもらい、自身は小川のほうに立ち安全を確保。どんな時でも主第一の見上げた従者根性に、ガクトは口を出さないでいるけれど。
「鳰、私は大丈夫だよ? それに、もう少しこちらに来なさい。鳰も危ないのだからね」
「万が一の備えですよ。それに主より安全な道を通るわけには……」
なにもど真ん中をひとりで歩く必要はないのだからと、ガクトは鳰の腕を引き、自身に寄せ――それから瞳にあるものを映して歩みを止める。
「んー? 鳰ちょっと待ってなさい」
「……と、とと? どちらに?」
腕を引かれたかと思えば、今度は置いて行かれてしまう。しかもガクトは足場の悪い川原をひょいひょい越えて小川に近付くと、その場にしゃがみ込み浅瀬に手を伸ばす。
心配そうな面持ちで主の行動を見守っていた鳰は、くるりとこちらに振り返って、水滴を幾つか払いながら戻ってくる彼の手が何かを掴んでいるのを目にし、まばたきをひとつ。
「ガクト様、一体何を見つけたのです? ……まぁ!」
問うたものの、鳰はすぐにそれが何なのか理解した。
主の大きな掌にすっぽりと、むしろこぢんまりと佇むのは七色に光る鱗のようなそれ。
この小川には噂があった。七色龍が眠る本流から枝分かれして流れるこの小川の水底には、七色に光る鱗のような石があるという。
ガクトが掌に乗せているのはまさしくその小石そのものであった。
親指と人差し指で挟むようにつまみ、宵空に翳してみる。蛍火と二人の持つ紙提灯、それから竹灯籠の様々なあわい光を幾重にも浴びた小石は、今日一日で目にしたどの色とも違う輝きを放って、二人の目を楽しませる。
「とても綺麗だ」
「ええ、本当に。蛍とはまた違う光で……まるで、シャボン玉の様ですね」
鳰の手に小石を乗せてやりながら、ガクトは幽かな吐息と一緒に笑っている。
「シャボン玉、可愛い表現だね」
褒められた鳰は、気恥ずかし気に、それでもいっぱい嬉しいのだというように両目を細くした。
「これ、お店に置いたら映えるかな」
「いいですね、きっとお客様にも喜ばれるでしょう」
だったら一番目立つところにおいても良いかもしれない。案外、商売繁盛のご利益があったりするのではないだろうか。なにせ七色の龍など縁起が良いに決まってる。
もしなかったとしても、自身の店に訪れてくれた人々が束の間楽しんでくれたなら、それだけでもじゅうぶんだ。
広げた懐紙に小石を乗せて丁寧に折り畳むと、少し考えてから先ほど購入したばかりの鳰の巾着にそれを預けることにした。
宝物の中に、宝物が入っている。
そう思うと、何だか楽しくなって、目口を綻ばせる鳰は店に帰るのが何だか待ち遠しくなったのだった。そんな鳰を、やさしく見守っている主がいるとも知らず――。
ゆるく巻いた後れ毛が宵の風に煽られてくすぐったい。
桔梗色の和紙に白々と天の川が架かるように花びらが散った紙提灯を、こちらの足元を照らすため少し低く落した渡瀬・香月が振り返る。くすぐったさに漏れた幽かな吐息を拾ってしまったようだった。
「足元、平気?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
暗い宵闇のなかに在っても伝わるように、はっきりと口角を上げた饗庭・ベアトリーチェ・紫苑は、二人の間で揺れるあたたかな光に目を眇めては、時折濃く落ちた影を一瞥して、結い上げてもらった髪が崩れていないか確認する。
「静かだなぁ」
思わず零れ落ちたといった具合に香月が言うので、紫苑は持ち上げた視線を小川の方に向ける。
耳朶に触れる控えめな川のせせらぎは、その穏やかさを物語っていた。ゆえにか、水面に近付いたとしても星のように瞬くゲンジボタルの光を安心して眺めることができるのは僥倖と言えた。竹灯籠も参道を迷わぬよう、けれど光源を控えめにしているおかげで、水底に沈んだ森や小川を薄ぼんやりと照らし、一層の静けさを演出しているようだ。まるで世界に香月と紫苑のふたりきりなのではないかと錯覚させるほどに。
「賑やかなのも好きですが、こういう雰囲気も大好きです!」
なんだか嬉しそうに、けれど蛍が驚いてしまわぬように声量を抑えた紫苑の心弾む言葉に、香月からやさしい笑みが返ってくる。
低く飛び交う光が水面に写り込むと、どちらが本物の蛍なのか分からなくなるほどに、流れる川は澄んでいて美しい。飛翔するさまがあまりにゆるりとしているものだから、時の流れすらひどくおっとりとしてしまったのではないか――そんな風に感じられて、香月と紫苑はそれまでの日々がどれほど音に溢れ、忙しないものであったのかを実感した。
「三途の川ってこんな感じ?」
もちろん見たことはないんだけど、と笑いながら付け加える香月に、紫苑が口元に手を添え吐息を漏らすように笑った。
「そういえば、三途の川って花畑のイメージはあるのに、天候や時間帯って人それぞれな気がしますね」
満開の花が|涯《は》てまで広がっているのに、空の色や空気の温かさを語る者はあまり聞いたことがない。彼岸に対する思いが情景の移ろいを変えてしまうから固定化されていないのだろうか。
「何だかこうして眺めていると、蛍って空から落ちてきた流れ星の迷子みたいですね」
ゆるり飛び交う蛍の軌道を、人差し指でなぞる。見上げた藍色の空は木々に小さく切り取られて、幾何学模様の額縁に飾られているみたいだ。香月が空を仰ぐと、ちょうど一匹の蛍がゆるゆる降りてくるところだった。
「ふふ。七色龍は三途の川より天の川のほうが好きなのかもしれません」
だから迷子の星たちがさみしくならないように、水底から鱗石を瞬かせて、仲間がいるからこっちにおいでと呼んでいる。
紫苑の人差し指に止まり、おだやかに明滅する星の迷子を見つめていると、本当にそうではないかと思えてくるから不思議だった。香月はひどく眩しいものを見るように、目口を綻ばせる。
「そういえば、鱗石は龍から剥がれ落ちたものなんでしょうか」
七色に光る鱗のような石があるという噂。あまりにも魅力的だからこそ、そんな伝説が生まれたのか。あるいは本当に龍がいたからこの時代まで語り継がれてきたものなのか。
「どっちなんだろう?」
龍が先か、鱗石が先か。それはなんだか鶏が先か、卵が先か、の問題に似ている気がして、想像は膨らむばかり。終わりの見えない話は、いつまでも語ることが出来そうなくらい楽しくて、二人の心をやさしく包む。その真相を確かめるために、始まりの語り部を、龍が空を泳ぐ時代を覗きに行くことは出来ないけれど、その輝きの欠片を一緒に見つけることができた。その事実が胸をあたたかくさせる。
「なんだか天の川みたいだな、この川って」
水面に飛んで行った蛍につられて浅瀬に寄る。覗き込むと星の光を溶かしたみたいにきらきらした瞬きが流れてゆくのが美しく、すこし言葉を呑みこんでしまう。風も穢れを知らぬのかと思うほどに透明で、葉擦れすら清らかに響かせる。
ちかり、ちかり。と蛍が呼びかければ、呼応するように水底の鱗石が囁き返す。地上の天の川を覗き込んでいた紫苑は「そうだ」という香月の閃き声に気が付いて、頬に落ちてきた髪を耳にかけながら顔を上げた。
「七夕の時期だし、なにかお願いごとしてみる?」
「あ、確かに。もう七夕なんですね……!」
この無数の流れ星たちと合わせたら、願いが叶う確率も二倍になるかもしれない。それに七色龍のご加護もあるかもしれないのでは?
なんだかちゃっかりしている自分たちに気が付いた二人は、顔を見合わせて笑いあう。
「本当は『世界平和』とか格好良く言えたらいいんだけど、俺はまだ『皆が美味いもの食えますように』ぐらい、かな」
その願いは、飲食店を経営している香月らしいなと紫苑は思った。
自分の手が届く範囲の願いを想うなら、身の丈に合っている、ということではないだろうか。それに生きる上で食は重要なものだ。ただ今この瞬間を生き永らえるためになにかを口にするのではなく、食物を美味しくいただき身も心も満足して明日を生きる力をつける。
「あとはそうだなー」
視線を虚空に向けて、思案するように唇を尖らせた香月は、思いついたことを全部そのまま言葉にするみたいに指折り数えていく。
「『最高のレシピが思いつきますように」とか『もっと料理の腕が上がりますように』とか?」
「いいと思いますよ」
人の願いや想いの形に正解はないのだから。
香月のそれは、やさしい願いの形だと、紫苑は双眸をやわらに細める。
(「私も世界平和を願える程、ヒトができていません」)
自身の在り方を思えば、その願いは何て――そう、呑気なのだろうと思う。祈るだけで平和が訪れるならば、きっと自分は|こう《・・》はならなかった――なんて考えたところで、詮無いことなのだけれど。
(「全世界を願うより、私の周りの人が幸せになってくれたら、それでいい」)
指を絡めて、握り込む。掌に閉じ込めた想いを誰にも踏みにじられないように、そっと、そうっと、強く。小さいけれど、贅沢でしょう? 七色龍が飛んだかもしれない宵空を見上げて微笑う。
その美しい横顔を盗み見ていた香月は、ふと思いついたことがひとつ。
(「紫苑ともまた美味い物食べに行けますように」)
ふわふわ目の前を横切っていった蛍のはぐれ星が空へと昇っていくのを見上げながら、願う。その時は、こんな風にさみしそうな笑顔なんかじゃなくて、鏡越しに目が合った時みたいに可愛く笑ってくれたらいいな、と。
「なんか、結局食べもののことばっかりになっちゃったな」
人差し指で頬を掻く。
「香月さんらしいですね。でも、悪いお願いじゃないと思います」
「自分らしくいられるのって、大事だもんな」
うんうん、と頷く香月を見上げていると、紫苑はふと、彼のために何か料理を振舞うことが出来ればいいのになぁという小さな想いが芽吹くのを感じ初めていた。けれど香月は本職。紫苑は人並みといったところ。さすがに一般人の自分が店を持つ主に手料理を振舞うのは勇気がする。
(「というより、畏れ多い……」)
「神様に頼ってばかりもいられないから、行動すんのも大事だよな」
まるで心を見透かされたみたいに言葉が降ってきて、どきりとする。
紫苑がそろりと顔を上げると、香月は宵空を仰いでいた。どうやら自分が願ったことを反芻しての、自身に向けた言葉、なのだと思う。
「紫苑、今度また食べ歩きしにどっか行かない?」
ぱっ、と視線を落として、名案だと言わんばかりに輝くような笑みを向けた香月に、紫苑の瞳も輝く。
「もちろん! 喜んで!」
こんな風に真っ直ぐな気持ちを向けてくれるのならば、思い切って手料理を振る舞ってみようか。「行動するのも大事」だと言ってくれた彼だから、きっと食べてくれるに違いない。
紫苑はなんだかわくわくする気持ちを抑えるように「そろそろ行こうか」歩き出した香月の隣にそっと寄り添う。
ちいさな流れ星たちは二人の背中を押すように、ちかり、ちかりとやさしく瞬いて天の川にとろけていった。
第3章 ボス戦 『災いの鎌鼬『三巴』』

風が笑っている。
人を小ばかにするように、惨めだ、情けない、小心者だと後ろ指を指すように、鼓膜を突いて離れず木霊する。
風鳴りがそんなふうに聞こえるのは心に疚しさを抱えているからだろうか。社務所の影に隠れて境内の様子を窺っていた男子中学生たちは、互いの顔を見合わせては何度も溜息を吐き、自分たちの起こした悪事を思い返して悲観する。
何とか自分たちで止められないだろうか。そう思い、やってきたのだが――。
渦を巻きながら、激しく吹き上がった風が森の奥から現れた。まだ芽吹いたばかりの青い新緑を巻き添えにしたつむじ風は、三匹の獣を吐き出し掻き消える。
陰気で暗い打巴、乱暴で凶暴な斬巴、腹黒で残忍な薬巴。
鎌鼬の兄弟古妖を目にしてしまえば、奮い立たせた心も萎む。
「どうしたらいいんだ……」
震える声が、ぽつりと落ちた、その時。
鎌鼬の兄弟古妖たちが一斉に参道を振り返る。その小さな鼻をひくつかせて、宵闇の奥から近付いてくる気配を知ると、瞳に剣呑な光を宿して身構えた――。