Electric heart
●singularity
あなたがいない。
恋しい。
さみしい。
『I miss you.』
青緑の尾を揺らめかせ、切ない歌声で劇場内を優雅に泳ぐ。王子様への想いを歌い終えた人魚の姫は、音の余韻を引き連れてホログラムの気泡と共に、舞台へと沈んで行く。
鳴り止まない拍手。舞台袖から役者たちが姿を現し、観客たちへと頭を下げる。誰もが役者たちの歌に魅了され、この物語の結末に心の底から涙を流した。
ミュージカル『人魚姫』。人間に恋をしてしまった人魚の娘と人間の王子様との淡く切ない愛の物語を、歌とダンスで繊細に表現をしたそれが幕を閉じる。
人魚姫役と王子様役の役者が手を繋ぎ、一歩ずつ踏み出しては観客に向けて手を振ると、広いホールいっぱいに感謝を伝える拍手が再度響き渡る。晴れやかな表情を見せる役者たち、余韻に浸る観客たち、その誰もが舞台の終わりを惜しんだその時。
『――――I miss you.』
ガチャン、と音を立て手て照明が落ちた。辺りは闇に包まれる。
『あなたに会いたい。』
どよめきに包まれる中、寂しい、会いたい、と水底へと導く美しい歌声が、誰かを求める。美しくそれでいて切ない旋律だと言うのに、そこには何かが欠けていた。綿密に計算をされた歌声。それを舞台袖の奥で見つめる誰かがいる。
こぽり、声なき声が耳を支配したその時に、この場は電子の海と化していた。
●彼女曰く
「こんにちは。」
本を閉じ、あなたたちに視線を向けた女――雨森・衣鈴が口を開く。彼女の持つ本のタイトルは『人魚姫』。子供向けの本なのか、柔らかなクレヨンの絵が印象深い。
「人魚姫の物語をご存知でしょうか。」
衣鈴は閉じた本を横に置き、代わりにとあるミュージカルのパンフレットを手に取る。
「実は√EDENの豊富なインビジブルに惹かれて√汎神解剖機関から怪異が出現しました。」
彼女曰く、この地に現れた怪異は美しくも悲しい旋律を奏でる者だそう。今回はミュージカル『人魚姫』。を公演中の劇場内にて事が起こると、彼女は詠んだ。
「ですが、此度の件。聊か引っかかる部分もあります。なんでしょう……この怪異に心を傾けている者……それこそ魅了をされている者がいるのではないかと…。」
薄いパンフレットを捲ると、そこには役者の名前がずらりと並ぶ。役を与えられている者、いない者。この中からその人物を探すことは非常に困難ではある。衣鈴もそれは重々承知のようで、代わりにとミュージカルのチケットをあなたたち全員へ差し出した。
「ここに書いてある方々全員と接触をするというのは、非常に困難です。なによりも役者側で潜入をするには、膨大な時間も必要になります。そこにかけるだけの時間が足りません。ですから、客として不審な動きは無いかどうかを確認して下さい。」
ミュージカル『人魚姫』。海色が眩しいそのチケットには、公演日と席が記載されている。
「ですが、役者の皆さんは全員この舞台の成功を願っております。仕事に集中をするのも良いですが、普通に客としてミュージカルを楽しむことも忘れないようにしてください。もちろん、出来ればですが。」
中には此度の件を危険視する者もいるだろう。ミュージカルを楽しむことを前提に、怪異へと心を傾けている者を見つけ出すもよしと言った所だろうか。もちろんミュージカルを全力で楽しむと言うのも、客席側に座ると言う意味では他の観客と同じ。本来のミュージカルを楽しむ選択だと衣鈴は告げる。
「心を傾けている者。恐らく男性の方です。漠然としたもので申し訳ないのですが、何方か分かれば、対策も容易いと思うのです。」
「皆様どうかお気をつけて。人魚は美しくも、危険な生き物でございますから。水底へと連れて行かれませんように。」
衣鈴は頭を下げ、この場に居る者たちを見送った。
第1章 日常 『Go to see a play!』

この場を訪れた数多の者たちと一緒に、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は席に着く。
(ミュージカル、か……)
馴染みのない場所。√ウォーゾーンで育ったクラウスには、華やかな劇場とは無縁の生活を送ってきた。機械だらけの場所ではなく、見る物全てが珍しくも新鮮で、仕事ではあるものの僅かに胸を躍らせる。
開演を告げるブザー音が響いた。周囲を見渡していたクラウスも、舞台へと視線を向ける。幕が上がると同時に、落ち着いたBGMが流れ始める。舞台上ではきらきらと舞台を照らすライトを反射させた人魚たちの尾鰭が、優雅に舞台の上を泳ぐ。
(……凄いな。)
初めての光景。初めての場所。ここは地上だと言うのに、彼らのうつくしい歌声や見慣れぬ豪華な衣装、それから様々な演出も相俟って、深の底の人魚の国にいるのではないかとクラウスは錯覚をしてしまう。
人間に恋をした人魚。クラウスには、人魚姫の恋心はおろか恋愛感情と言うものを理解することが出来ない。しかし、心の底から王子を想う優しい歌声や、王子には届かない切実な想い、胸を締め付けるような愛を歌う姿。その歌声を聴いているだけでも、クラウスの胸の奥にも、ぎゅっと締め付けるかのような何かがあった。
夢中で見つめていた。見慣れない物というのもあるかもしれないが、それよりも彼女の想いや歌声から伝わる愛情に、クラウス自身もまた肌で感じるものがあったのだ。今は仕事中だというのに、その目的を思い出したのはラストの手前。
我に返った所で、クラウスは周囲を見渡す。場面は人魚姫が泡となり消える所だろう。舞台上で歌い上げていた彼女が、ホログラムの気泡と共にゆっくりと浮遊をする。人魚の娘は青緑の尾鰭を揺らめかせ、細い腕で自らの身を掻き抱く。舞台上では他の人魚たちが娘への想いを歌い、人魚姫は客席の頭上を泳ぐ。
皆々頭上を泳ぐ人魚に夢中になっているのだろう。クラウスも例に漏れず、人魚へと視線を向けていた。しかし、何がそうさせたのだろう。もしかすると、己の持つ第六感がそうさせたのかもしれない。クラウスの目は、人魚の娘から舞台上の名も無き人魚へと引き寄せられていた。
そこにもしかすると星詠みの言っていた男がいるのかもしれない。クラウスは見当をつけるべく、舞台の上の彼らをまっすぐに見つめるのだった。
茶髪に琥珀色の瞳、髭を整えた背の高い紳士。バルザダール・ベルンシュタイン(琥珀の残響・h07190)と、彼よりも濃い色合いの髪をおさげに結った小さな少女。継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)が並んで座る。
大と小。座ってもなお、その身長差は歴然としていた。バルザダールは、うつろが見やすいようにと開いたパンフレットを彼女の方へ寄せ、口を開く。
「うつろ君にミュージカルを見せたくて。歌が好きだろう?」
依頼であると言う事は重々承知をしている。けれども隣で、赤々と燃ゆる大きな瞳を不思議そうに見開き、バルザダールを見つめるうつろに、どうしてもミュージカルを見せたかったのだ。
表情の通りうつろはミュージカルを知らない。にんぎょひめ、みゅーじかる。と拙い音で彼の告げた単語を反復し、パンフレットをなぞるバルザダールの大きな指先へと視線を落とす。うつろの瞳には沢山の人魚と、悠々と泳ぐ魚たちが映り込む。
「……あぁ、『ミュージカル』を知らないんだね。所謂『歌劇』と言うものだ。歌いながら演技をする。劇と歌が合わさる事でまた違った魅力がうまれるのだよ。」
「『人魚姫』はハンス・クリスチャン・アンデルセンの書いた有名なお話しだね。」
「かげきに、あんでるせん。はじめて聞くような、言葉ばかり。琥珀おじ様は、ものしりさん、だね。」
バルザダールはパンフレットを閉じた。表紙は岩の上に座った人魚の娘が、王子への感情を歌う場面だろうか。濃厚な海の底を思わせる青色と、彼女の尾鰭のきらめきが目に眩しい。
「人魚姫……気に入ったのならうちにも本があるから後で読むかい?」
人魚の娘の尾鰭を見つめていたうつろの表情が、ぱっと弾けた。大きな瞳は人魚を映していた時よりも輝きを増し、彼の単語を反復していた拙い音よりも、それはもう嬉しそうに琥珀色の瞳を見つめる。
「えっ?にんぎょひめの、本……!」
うつろの、読みたい!の言葉とブザー音が重なる。前のめりの姿勢を見せていたうつろへと、バルザダールは穏やかな表情で人差し指を立て、舞台の方へと視線を向ける。その仕草の意味を、勿論うつろは知っていた。大人しく背凭れにもたれかかり、うつろもまた舞台を真剣に見つめる。
ミュージカルは順調に進む。海の世界を楽しむ明るくも弾む歌、人魚姫を思う優しい姉たちの旋律。それから不気味な魔女の曲に、人間の王子の爽やかな歌声。そこには惹かれるものがあった。それは、継いで接いだうつろだからこそだろうか。隣でミュージカルを純粋に楽しむバルザダールもきっとそうだ。時折、こぼれおちる真珠のような小さな音の波を受け、人魚と王子の切ない愛が舞台の上で紡がれて行く。
胸の奥から込み上げる、痛々しいほどの想い。声なき声で歌い上げる娘の、掠れた音。懸命に口を開いているのに、私は此処に居るのだと伝えているのに、音にならない想いは、終ぞ王子に届くことは無かった。
ふと、バルザダールは隣の少女を横目で見つめる。両目いっぱいに、海を携えた彼女が瞬きをしたその時に、ほろり。しずくがこぼれ落ちた。
「……泣いているのかい?」
初めての感覚に、涙を拭う事も忘れて、うつろは隣のバルザダールを見上げていた。静かに首を振る。悲しくないと、そうでは無いのだと、音にならない音を彼に告げる為に。
「かなしい、涙じゃ、ない。」
「はじめてのかんかく、これが……共感や感動?」
小さな手で初めての感覚を大切に、そっと包み込む。込み上げる感情を抑える手段は、幼いうつろにはまだ出来ないことだろう。感じたままを受け止め、音の代わりにしずくが落ちて行く。
「共感と感動。そうか……なら良かった。君を悲しませてしまったのかと不安になってしまってね。」
バルザダールは、そっとうつろの涙をハンカチで拭う。頭上では人魚の娘が宙を泳ぐ。ミュージカルもいよいよ終盤なのだろう。切ない歌が二人の耳に届く。胸元に添えた手をぎゅっと握りしめ、うつろはどの音も聞き漏らさぬようにと人魚の歌声に耳を傾けていた。
「あれ?」
不意にうつろの涙が止まる。彼女の視線の先には、人魚の娘を見守る数多の仲間がいた。それぞれがラストに向けて歌い上げ、人魚の娘の歌声を彩る。
「ん、何か違和感があったんだね。」
「今の、男の人の声……なんだろう、へんな感じ。」
「そう言う感覚は大事だ。これが終わったら、そちらに行ってみよう。」
二人は視線を重ねる。人魚の娘が想いを歌い終えるまで、もう暫し耳を傾けよう。彼女の声が、やっと音になったのだから。
品の良いスーツに袖を通し、ネクタイを締めた瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)は、申し分ないほどに丁寧な所作で席に着く。
この場のマナーは守り、観劇だけではなく仕事もこなす。当たり前のことではあるが、それを徹底することにより周囲からの信頼や信用を得ることも出来るのだ。それを示すかのように、兎比良は誰にも怪しまれることは無く、寧ろ周囲の客からも好意的な眼差しを向けられている。
お喋りはせず、まずは手元のパンフレットに目を通しミュージカルの予習を行う。このミュージカルに携わる者たちの名前を、視線だけでなぞり、せめて役名のある者の名前を頭の中に叩きこんでおこうという理由だ。それが後々に役に立つかもしれない。舞台が終わった後に、名前を知っていれば接触をすることも容易いだろう。そうこうしていると幕が上がる。
兎比良も人魚姫の物語を知らない訳では無かった。彼にとっての大切な妹が、物語を好んで読んでいたと言う事もあり、一度は目を通したことがある。物語の簡単なあらすじから結末までを思い返し、舞台上を注視した。
細やかな舞台上の小物や凝った演出、役者たちの歌声や裏方の者たちの動く気配。ミュージカルが動き出した。それらを耳や肌で感じ取り、兎比良はふと一つの疑問を思い浮かべていた。
(物語の人魚は、差し出された|犠牲《ナイフ》すら手にせず全てを受け入れた。)
場面は人魚の娘に自らの髪と引き換えに、海の魔女から貰ったナイフを姉たちが手渡す場面だ。娘はそれを受け取り、王子の元へと向かう。
(そんな人魚が得た魂の名を怪異が冠するとは、甚だ疑問でなりませんね。)
娘の投げたナイフが海を赤く染めた。周囲のライトもまた、赤い海を演出するように赤い色で染まる。舞台上には人魚と王子の二人だけ。人魚の娘が歌い終えた所で、兎比良は周囲の者たちと同じように拍手をし、華やかな舞台を楽しんだ。
しかし、これは仕事でもある。注意深く観察をする視線を休めることは無い。違和感はないか。人魚姫役の者に視線を送る者がいないか。星詠みの話では男性だと言っていた。特に男性の役者を中心に、視線を動かす。
「……。」
舞台上を観察していた兎比良に違和感が走る。舞台上の男。人魚の娘が泡になる姿を見守る者たちの中にいる一人の視線が、他の者とは違う色を宿していることに気付いたのだ。
しかし今は立ち上がらない。声もあげない。それがこの場のマナーだからだ。人魚の娘が歌い終わり、幕が閉じるまではこの場に居る者たちと共に座り続ける。男の顔を忘れぬようにとしっかりと目に焼き付けよう。
人魚が歌い終わり、幕が閉じる。全てが終わった時、周囲は拍手の嵐に包まれる。兎比良も両手を叩き、彼らを讃えた。
まだやるべきことは残っている。拍手をした兎比良は、舞台上の男を探るべく席を立った。
誰よりも早く会場に着き、そして誰よりも早く劇場内へと足を踏み入れた橘・創哲(個人美術商『柑橘堂』・h02641)は、舞台が始まるよりも前に、この場所の地形の把握、役者たちの通る道。それから星詠みの言っていた男が誰なのかと念入りに把握をすることにした。
チケットを片手に指定された席に座り、海色のパンフレットを広げる。パンフレットの表紙は、人魚の娘が中央を位置取り、どこか遠くを見つめている物だ。人魚のそんな様子から、これが人魚姫の物語のワンシーンだろうということは容易く想像出来た。
ページを捲り、この舞台に携わる者たちの名前を一つ一つ確認をするふりをして、創哲は周囲の警戒を行う事にした。
周囲は同じように今回の呼びかけに応じた者たちや、純粋にミュージカルを楽しみにしている者たちが続々と席に着いている所だろう。少なくとも客の中に怪しい動きをする者はいないようだ。
(それにしても、こんなにも人が多いとは。アテをつけるのも大変だな。)
パンフレットに目を通しながら、改めて役者たちの名前を確認すると、そこには役名のある者から無い者までずらりと並んでいる。有名な役者であるのなら、顔と名前が一致するのかもしれないが、名前のない役ともなると一致をさせるのは難しい。一旦はパンフレットを閉じて、創哲はミュージカルを楽しむことにした。
「せっかくの観劇の機会だ、楽しまなきゃ勿体ねぇ。」
開演のブザーが鳴る。幕が上がると、舞台上では人魚の娘が美しい旋律とともに自らの感情を歌い上げる。ミュージカルを楽しむ傍らで、創哲は目を光らせていた。怪しい動きをする者はいないだろうか。人魚の娘が狙われないだろうか。先程も確認をしたが、今の所自身の周囲には不審な動きをする者はいない。そうなると、客席には怪しい人物はいないと推測できる。
周囲の拍手の音に合わせて、創哲もまた拍手を送る。客席にいないのであれば、舞台上か。眼鏡の奥の赤い瞳を細め、じっくりと彼らの顔を観察した。
どこかで見た事のある顔、初めてみる顔。物語も終盤だろう。人魚の娘が客席の頭上で浮遊し、青緑の尾鰭で悠々と泳いでいる。誰もが頭上の人魚に目を奪われている時、創哲は舞台上の人魚たちを眺めていた。
その時、舞台上の人魚のうちの一人。その中の男の目の色が変わったような気がした。もしかすると彼が今回の件に関して何か関わっているのかもしれない。創哲はその男の顔を忘れぬようにと焼き付け、幕が下りるのを待つのであった。
懐音・るい(明葬筺・h07383)はグッズを買う列に並び、ぼんやりと列の先を眺めていた。誰一人として列からはみ出ることもなく、そして順番を抜かす者もいない。全員が行儀よく並んで、自分の番を今か今かと待っている。
そんなるいも、彼らと同じように自身の番を待っていた。視線の先には海の底を思わせる青緑色のポスター。それがずらりと壁一面に貼られ、人魚の娘とこのミュージカルのタイトルである『人魚姫』の文字が中央に描かれている。なんとはなしに見つめていたそれがぼんやりとした思考に意識を与える。
(人魚姫の物語、いいよね。悲しいけれどきれいで。)
徐々に前へと進む。そう待たずして、るいの番もやって来るだろう。
(同じではないけどうちにも似たような存在いるし。)
普段はこのようなグッズを購入しない。けれども今日はカモフラージュもかねて、購入をすることにした。
細い指先が一番初めに手にした物は、人魚姫のポスターと同じ構図のパンフレット。此処にこの舞台に携わっている者の名前が記載されているのだから、一番に手に入れておきたいものだろう。
次は、と視線を動かす。特段購入をしてこなかったのだから、いざ何かを買うとなると悩みもするものだ。キーホルダー、スプーン、ボールペン。一体どれが良いのだろう。後ろで待つ者たちの視線も痛いが、気にしないでおく。
「……ぁ。」
悩む最中に声が漏れた。るいの瞳が捉えたそれは、銀のナイフだ。恐らくペーパーナイフだろうか、人魚姫に差し出したそのナイフが、他のグッズとともに並んでいる。
「……あれ、ください。」
何となく。何かの思い入れがある訳でもなく、何となく目についたから買った。たったそれだけの事だ。けれども目についたのだから、これも何かの縁だろう。王子を刺すことも出来ずに、海へと放られたナイフとパンフレットを抱えてるいは席に着く。
まずは予習もかねて、パンフレットを開くことにした。どこか気怠い視線で周囲を見渡し、椅子に深く腰をかける。膝上にはパンフレット。片足を組み、薄くて丈夫な紙を一枚一枚捲って行く。
るいの周囲には不審な動きを見せる者はいないようだ。視界の隅に人を入れることは怠らず、このミュージカルに携わる者たちの名前を何気なく見つめることにした。
開演までもう少しだろうか。時計を見つめたるいの手には、なんとなく手持ち無沙汰に手に弄っていた銀のナイフが握られていた。
映画には馴染みがある。しかし、ミュージカルは身近にない。仕事ではあるものの、初めてのミュージカルにほんの少しだけ緊張を交えた斯波・紫遠(くゆる・h03007)は、パンフレットを購入しながら、このミュージカルを楽しみにしている者たちに想いを馳せていた。
ここまで準備を整えて来た役者、スタッフ、今日という日を楽しみにしていた客。このミュージカルを思う者は数多といるだろう。仕事ではあるものの、そんな彼らと同じ気持ちで座席に腰を落ち着ける。
「もちろん怪しい人物も探しますとも。」
その呟きを拾う者はいない。この場に居る誰もが、舞台を楽しみにあるいは仕事で来ているのだから、紫遠の落とした言葉を拾い上げて踏み込む者はどこにもいないのだ。
海色の美しいパンフレットを開き、ページを捲って行く。物語のワンシーンを切り取ったページから、この舞台に携わった者たちの名前を指でなぞり、人魚姫という物語のあらすじを脳裏に浮かべる。
本に馴染みのない者でも、大まかなあらすじは知っているだろうか。紫遠もまた、人魚姫という物語を理解していた。
(恋は夢で、愛は現実って知り合いが言っていたな。)
一枚、また一枚とパンフレットを捲る。色とりどりの尾鰭で泳ぐ人魚たちが、パンフレットを鮮やかに彩る。写真だけでも飽きない作りになっているようだ。紫遠の双眸は、物語に携わる者たちの名前をなぞり上げていた。
(怪異はこの作品に惹かれるものがあったんだろうか……自分を投影したのか、それとも憧れか。)
まだ姿容も現わさぬ怪異。一体何がそうさせているのだろう。なぜ、人魚姫なのだろうか。疑問は尽きない。パンフレットの最後のページに目を滑らせる。そこには、銀のナイフが描かれていた。
(心を傾けている彼は溺れているところを助けてもらった王子様なのか……人魚姫の歌声が欲しかった魔女なのか。)
紫遠はパンフレットを閉じ、静かに瞼を伏せる。脳裏を埋め尽くすのは物語への疑問、憶測、頭の中でぐるぐると言葉たちが回る。人魚姫の物語をハッピーエンドと言う者もいる。もちろんバッドエンドと言う者もいる。この物語をどう彩るのか、怪異と誰かの物語がどう動くのか。
思考を遮断するように、開演のブザーが鳴った。紫遠は瞼を開き、舞台の上へと視線を向ける。
「ハッピーエンドになるといいんだけどな。」
頭に浮かんだ結論が、静かに落とされた。
青い薔薇の花言葉の一つに『奇跡』と『夢叶う』と言うものがある。一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は大輪の青い薔薇を抱え、受付へと運ぶ。今日の日のために、ここに来る前に花屋で作ってもらった物だ。
添えたメッセージカードは白色。薔薇と同じ青色で縁取り、ミュージカルの雰囲気にも相応しいシックな物を選んだ。
『舞台の成功と無事に終われることを祈って。』
青薔薇の花言葉も、このミュージカルにはぴったりだろう。満面の笑みを浮かべた伽藍から、メッセージの添えられた薔薇を受け取り、不審な部分はないかと入念に確認をした係の女性は、伽藍へと丁寧に頭を下げる。当たり前だが不審な物は入れていない。それが分かるやいなや、微笑みを浮かべ感謝の言葉を述べた。
ミッションその1はクリア。伽藍は心の中で呟き、グッズを購入する者たちの列を横目に、劇場内へと足を踏み入れる。今回は早々に席に着くことにしたのだ。
(ギリギリんなってバタバタしたくないし。)
早めに移動をしたお陰か、開演時間にはまだまだ余裕がある。伽藍は海色のチケットを指先で揺らしながら廊下で立ち止まる。周囲には誰もいない。皆々グッズの列に並んだり、開演までの時間をゆっくりと過ごしているのだろう。
「さて……クイックシルバー、分かってんね?」
伽藍の呟きが廊下に吸い込まれる。スマホの画面がばちり、と光ると、伽藍は目を細めた。薄暗い廊下では|その光《クイックシルバー》がやけに眩しく感じる。
「アタシは舞台を楽しみながら、なんか妙だなって人探す。君は舞台裏とか、アタシからは見えないとこ探して。」
眩い光が明滅を繰り返す。了解。と言った所だろう。画面に文字が表示されないのは、続く伽藍からの言葉を待っているからだ。
「えーっと、男の人だっつってたっけ?なんかぼーっとしてんな〜とか、心ここに在らずな感じとか……。」
とはいえ、本番中にぼんやりとしている者はさすがにいないだろうと、伽藍もそれは重々承知をしていた。言葉尻がやや萎むが、それはクイックシルバーも理解をしていることだ。しかし、本番中に何か不審な不審な動きがみられるかもしれない。客席からは見えない部分も、クイックシルバーなら確認をすることが出来る。
改めて咳払いをすると、伽藍は廊下の向こう側を見据えた。少し歩けば客席へと辿り着く。
「とにかく、ちょっとでも違和感あったら教えて。」
伽藍は柔らかい絨毯の上を歩き、海色のチケットを翻した。座席番号と案内図を照らし合わせ、自らの席へと向かう。
伽藍の言葉に、頷きを返すかのように画面上には稲妻が走った。クイックシルバーが動き出した合図だ。稲妻を見送り、伽藍はスマホの操作を続ける。画面の右上にはマナーモードのマークが表示される。
劇場内ではお静かに。
「スマホはマナーモードだから、報告は後でね。」
伽藍の呟きを拾った光が、どこかでばちん、と弾けた気がした。
劇場内は既に今回のミュージカルを楽しみにしている人々で溢れかえっていた。右も左も人だらけ。列がスムーズに進んでいるのは、係の者の誘導のお陰だろう。
「鮫ちゃんはじめて?」
楪葉・莉々(Burning Desires・h02667)は入場の列に並びながら、淡く大きな瞳を隣の彼へと向けては小首を傾げる。
「りりはこういうのよく見んの?」
そんな視線を受け、莉々の隣に並ぶ鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)は、僅かに顔を傾けて彼女の瞳を横目で見下ろす。
「私は何度も観たことあるよ!」
「おれははじめて~にんぎょひめの話もよくしらねーし。」
「人魚姫のお話はねー」
確かパンフレットに、と購入したパンフレットを袋から取り出した莉々は、じゃーん!とパンフレットを掲げて見せた。自身の目線の高さに掲げられたそれを見つめるレケは、じっとパンフレットを見つめ、そこに書かれていたあらすじをその場で読み上げる。
「悲恋?泡になって消える?ええ……なんで泡になんの?」
常からジト目がちな瞳が、更にじっとりと細められた。初めての物語、初めてのミュージカル。何もかもが初めてのレケの口はへの字に曲がり、物語の不思議さに首が90度に傾いてしまいそうな勢いだ。
「って!わわ、ネタバレっ。と、とにかく、みよう!」
「とりあえずみる〜。」
莉々は慌ててパンフレットをしまいみ、チケットに記載された座席番号と座席を見比べる。後ろをついて来るレケをこっち!と導き、無事に座席に腰を落ち着けた。
「楽しみ~!」
「楽しみ~」
楽しみだと二人が言葉を交わしていると、開演のブザーが鳴り響く。
幕が上がる。シーリングライトに照らされた人魚姫の表情が、舞台から少しだけ遠めのこの席からでもはっきりと見えた。ある場面では微笑みを浮かべて海の素晴らしさを歌い、ある場面では王子への想いを全身で表現をする。光を反射する衣装の美しさもさることながら、莉々は両手をぎゅっと握りしめ、人魚姫の世界の中へと入り込んでいた。
(ああ、声なくしちゃったぁ……。)
(も~王子様、気づいて~!)
その隣で肘置きに肘を置き、頬杖をついているレケもまた海の世界の物語に親近感を抱いていた。辺りは深海を表現するかのような深い紫色に包まれ、おどろおどろしい魚たちの影が劇場内を泳ぐ。そこには鮫の姿も見えた。
(声を無くして足をもらって。)
レケは自らの足をその場で動かす。足首を動かすバタ足。そこにあるものは、尾鰭などではなく二本の足。人間の足だ。
(なんかしんきんかん。)
(おれはうみからあがるのに、声無くしてねーけど。自分であがってひとの形になったし~。)
「……あっ。」
思わず、声が漏れた。舞台の音楽にかき消されて、この場でレケの声を聞き取った者は莉々しかいないけれど、レケは慌てて口を塞ぐ。
「……?鮫ちゃん?」
人魚の娘が、声なき声で自らの事を語っている場面だ。そんな折に、隣からの僅かな声が耳に届いた。莉々は、口を押えるレケを不思議そうな顔で見つめ、小声で告げる。
「お手洗いなら、そっと行ってきても大丈夫だよ?」
「大丈夫。」
「そう……?」
莉々の視線が再び舞台へと戻った時、レケは口元を押さえていた手を外す。そこには、にんまりと弧を描いた口があった。僅かな隙間から、尖った歯が姿を覗かせる。
(足。そーだ足!手がだめなら足で幸いぶちこめるようになればいいだけじゃん!)
笑みが深まる。暗い劇場内でレケの笑みに気付く者はいない。長い服の袖を口元にあてがい、それはそれは楽しそうに笑い続ける。
(これでおれをシバくあいつをだしぬける。気付かせてくれたにんぎょにかんしゃ~。)
その胸中を隣の莉々は知らない。レケとは裏腹に、前のめりの姿勢で息を飲み、王子と人魚の行く末を見守っていた。
「……おうじだめじゃん!」
その一声で莉々の意識が現実に戻って来る。前のめりになっていた身を戻し、レケの言葉に何度も頷く。
「もーほんと王子様!」
「私の王子様も早く現れて欲しいけど、全然なんだよねぇ。」
今度は莉々が腕を組む番だ。
「兄がスパダリすぎるからぁ。」
脳裏に浮かぶのは自身のことを溺愛している黒髪の兄。確かに兄を支えたいとは思っているものの、その兄が莉々比ではあるが王子様以上に何でも出来るのだから中々に難しい。
「えー、スパダリ?」
しかし、隣のレケからは疑問の声が上がる。
「あー、りりにとってはそうよなー。おれからみればシスコンだけど〜。」
「シスコン?!」
莉々は慌てて口を両手で押さえた。観客たちは皆、舞台の上に釘付けのようで、二人の会話は聞こえていない。さり気なくも周囲に気を配っていた莉々は、皆と同じように舞台に視線を向ける。
ラストの場面。人魚姫が泡になるシーンだ。舞台上では人魚たちが歌い、人魚姫を見送っている。そんな中、莉々は一つの違和感を見つけた。
その違和感をレケに告げるまで、あと数秒。
(……ミュージカル、初めてだな。)
祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は周囲に溶け込むように気配を消す。楽しむことはもちろん大切だ。しかし、今日は仕事で来ている。座席へと腰を落ち着ける者たちの流れに逆らい、スニーカーを履く足は立見席へと向かっていた。
この場にはラムネしかいない。元来楽しむことを目的としてはいないが、一人というのは都合がいい。バーへと寄りかかり、舞台上の彼女たちを真っ直ぐに見つめる。
本当に、都合がいい。これは仕事。仕事なのだと頭ではわかっている。けれども、ラムネの胸の中心が、じくじくと膿み始める。ラムネ瓶を透かした双眸は、目的を遂行するべく忙しなく動いているというのに、この目で見た景色を、瞳が捉えた舞台を、壊れた映写機のごとく何度も何度も繰り返し映してしまう。正確には映像すらもこの脳は認知をしていない。
呼吸が乱れる感覚。悲しい歌声ばかりが耳を通じて、自らの胸の中心に落ちて行く。自身が感じていること。それは――――。
『I miss you 』
塗りたくった青色のペンキが、鋭い爪で剥がされて行く。
旋律に乗せられた感情が、痛いほどに分かる。突き刺して、抉って、折角覆い隠したはずのそれが、こうやってぐちゃぐちゃに剝がされて行く。気は抜いていない。今日は仕事で来ているのだから。
しかし、ラムネの眉間は知らず知らずのうちに、皺を刻み込んでいた。呼吸が乱れるのは、この胸が痛むから。胸が痛いのは、この歌があまりにも美しいから。
――あなたがいない。
――恋しい。
――さみしい。
「……違う。」
ラムネは自らの胸に手をあてがい、深く吸っては吐いての呼吸を繰り返した。海の底から陸へと向かうための息継ぎ。そうして呼吸が整ったその時に、ようやくこの場で流れる悲しい歌声に、そして己の心の声に耳を傾ける。
恋しいのも、悲しいのだって。ラムネがただそう想っているだけ。自分が勝手に想って、勝手に秘めているだけ。本当は――――。
「大切な人に迷惑かけたくないし、ウザがられたくないから。」
心は、そこにあった。
ラムネは小さく息を吐き出し、思考を振り払う。分かる。分かるんだ。己は人魚の姫ではないけれど、その言葉も心も全て。だからこそ仕事に集中をしようと、膿んだこの胸にもう一度、ペンキを塗り重ねた。
まっすぐに舞台上を見つめると、人魚の娘が宙を泳いでいた。まるで海の底のようだ。そんな底で揺蕩う自身は、と。彼女の尾鰭を追いかける。
人魚の娘に心を傾けている者は一体誰なのだろうか。ラムネの瞳が尾鰭から舞台上の彼らを捉える。ああ、きっと。そいつの目は酷く澄んでいるのかもしれないな。だなんて、ぼんやりと思考を重ねていた。
そう、例えば。|弾ける水《ラムネ》をおおう透明な瓶のように。
第2章 集団戦 『献身の歌姫』

舞台は無事に終わり、辺りは拍手の嵐で包まれていた。そんなとき。
『――――I miss you.』
ガチャン、と音を立て手て照明が落ちた。辺りは闇に包まれる。
『あなたに会いたい。』
どよめきに包まれる中、寂しい、会いたい、と水底へと導く美しい歌声が、誰かを求める。美しくそれでいて切ない旋律だと言うのに、そこには何かが欠けていた。星詠みの言葉の通り、新たな幕が上がったのだ。
綿密に計算をされた歌声が、劇場内には響く。それと同時に透明な尾鰭を持つ歌姫たちが現れた。誰かが叫び、辺りは混乱の渦にのまれた。
一目散に逃げる者、恐怖で動けない者、母親とはぐれた子ども。そんな者たちを襲う歌が数多と齎される。しかし、この歌には欠けがない。『あなたに会いたい。』と告げる完全なる歌声の主はまだこの場には居ないのだろう。
舞台上には役者がまだ残っている。まずは混乱するこの場をどうにかするべく、あなたたちは動き始めた。
幕が閉じた。否、幕が上がったと言うべきだろうか。会場を明るく照らすライトが落とされ、完全なる歌声を合図に透明な尾鰭を持つ人魚たちが現れる。ワイヤーでつるされた芸術などではなく、正真正銘の怪異であり、この場に居る者たちの脅威となる者だ。消え逝く世界の最後まで、その歌声を響かせた歌姫達の霊。舞台上で歌う人魚のごとく、その感情を歌い上げる歌姫が劇場内に数多と現れる。
客席を舞台というには聊か心許ない。未だ逃げ遅れた者や、この場で惑う者も多く残っているからだ。
「これは単純に敵を退ければいいと言う問題ではなさそうだね。」
「ほかの人達の、ひなんゆうどう。ぜんぶ、やらなきゃ……だよね。」
バルザダール・ベルンシュタインと継歌・うつろは席を立ち、その場で会場全体を見渡す。うつろは暗闇に慣れぬ目を擦り、逃げ遅れた者たちの姿を捉える。仲間がいるとはいえ、全員をこの場から避難させることも、そして目の前の敵を退けることもしなければならない。圧倒的に手が足りない。
「私は観客の誘導に回ろう。」
「琥珀おじ様?」
擦っていた目を、バルザダールへと向ける。自身よりも上にある顔をしっかりと視界にうつすことは出来ないけれど、バルザダールは恐らくこちらを見ている。うつろはそんな彼の瞳を見つめようと目を凝らした。
「うつろ君は君の力で敵を観客や演者に近づけないようにしてくれるかい?」
「うん、わたしは、敵とたたかう方がいい。」
「ああ、頼んだよ。」
うつろは強く頷き、一歩。また一歩と敵を引き付けるべく客席を小走りで駆ける。そんな小さな背を見送り、バルザダールは背筋を伸ばして後方へと向かった。
(まわりの人達から、敵をとおざける、やり方もある?)
逃げ惑う人々の流れに逆らいながらも劇場内の中央で、うつろは立ち止まった。
(……できるかな。)
自分に敵を引き付けることが出来るのだろうか。不安ばかりが胸の内側をぐるぐると駆け巡り、最悪の事態が頭の中に浮かびそうになる。スカートの裾を強く握りしめ、頭を振る。
「ううん、やってみせるんだ。」
嫌な予感や考えを振り払い、うつろは大きな瞳で周囲の人魚たちを捉える。この言葉が力になりますように。歌にはならない音を届ける片手の拡声器へと、自らの願いを込めて。大きく息を吸って、肺一杯に酸素を取り込む。吐き出す時には叩きつけるように。
「わたしは、逃げない……!絶対、絶対に……!」
うつろの『うた』は、強大な言葉の羅列となり敵へと撃ち出された。
(これは、ほかの人を傷つける『うた』じゃない。守るための『うた』で、琥珀おじ様の信じる気持ちに、むくいる『うた』。)
数多の人魚たちと対峙をするうつろの後方では、バルザダールが避難誘導に徹していた。彼の所作はさることながら、このような場面でも取り乱すことは無く、琥珀の温かさを備えたまま逃げ惑う人々に近付かず、けれども遠すぎず、うつろを視界の隅から外すこともせずに、彼らに優しく声をかける。
そのお陰か、混乱をした者は落ち着きを取り戻し、バルザダールの示す方へと足早に逃げて行くことが出来た。
「落ち着いて焦らず脱出を!大丈夫貴方達は我々が守る安心して逃げなさい。」
バルザダールの耳にもうつろの『うた』が届く。
(敵をうつろ君に任せてばかりも居られないからね。)
「頼んだよ、私の眷属達……。」
片手の魔杖を赤い絨毯の床に叩きつける。杖と絨毯のぶつかる僅かな音を受け、|金緑石の儕《アレキサンドライト》がバルザダールの周囲に現れる。吸血鬼の眷属。昼のエメラルドに夜のルビーとも呼ばれるアレキサンドライト。それらで出来た蝙蝠の群れが羽搏いた。
「集団吸血は敵に。治療音波は怪我をした人がいた場合は優先して……よろしく頼んだよ。」
バルザダールが再び魔杖を打ち鳴らすと、蝙蝠たちが己の役目を全うするべく劇場内を飛ぶ。昼のエメラルドは観客の治療へ。夜のルビーは人魚の群れへ。彼らを見送り、バルザダールは羽織ったコートを翻す。その目はうつろをしかりと捉えた。
拡声器を片手に数多の人魚と対峙をする姿。彼女に任せた以上、彼女に背を預けて共闘をすることはしない。あくまでも、バルザダールはうつろの負担を減らすべく立ち回るのみだ。
ふと、うつろの視界にバルザダールの眷属である蝙蝠たちがちらつく。怪我をした観客の治療を行っているのだろう。拡声器を握る手に、力がこもる。
(琥珀おじ様の期待に、こたえたい。)
自らに役目を与えてくれた彼の、そして彼の想いを守るために。うつろは眼前の敵をおおきな瞳で見据える。そこには、うつろの覚悟があった。息を吸って。
「こっちに来るなァァァ!!!」
小さな身体を使って思いっきり叫び、うつろの『うた』を受けた透明な人魚たちは、何かに叩きつけられるように身をくの字に曲げたまま、遠くへと吹き飛ばされた。バルザダールへの想いが、不思議とうつろに力を与える。自らの限界を超え、言葉が人魚たちに重くのしかかる。言葉と言う圧力を、打ち付ける波の如く放ち、はっきりと呟いた。
「わたしは、逃げない。」
避難誘導の傍らそんなうつろの姿を見つめては、静かに眦を緩めたバルザダールが、小さく魔杖を打ち鳴らした。
暗闇の中、逃げ惑う人々を見渡し、クラウス・イーザリーはゴーグルをかけた。暗視機能のついたそれは、自身の視界を明瞭にする。これがあれば、避難誘導もスムーズに出来るだろう。
(まずは一般人を逃がすべきか……?)
良好となった視界の中で瞳を動かし、いまだ舞台上に残る役者たちの存在を認めた。彼らも気になる。しかし、客席の手も回っていないのは、はっきりと見てわかる。逃げ惑う人々を放置するわけにもいかない。クラウスは避難誘導へと舵を切るべく、その場で願う。
不死鳥の加護。
クラウスの腕には不死鳥のような鮮やかな光を纏う鳥が現れた。親友ならこういう時にどうしたか。頭の中に思い描いた願い。その願いを呪文のように心の中で唱える。
『観客達を無事に逃がしたい。』
その願いに応えるかのように、クラウスの腕で羽を休めていた不死鳥が上空へと飛び、周囲の人々へと籠を齎す。恐怖で動けないまま立ち竦んでいる者、母親を探す子ども、彼らにもあたたかい加護が与えられて行く。
「落ち着いて!こちらから逃げてください!」
クラウスの声を聞き、加護を受けた者たちが顔を上げる。不死鳥の加護が正しく効いているのだろう。恐怖で動けなかった者は、クラウスの声を聞くやいなや何かに背中を押されたかのように走り出し、また母親とはぐれた子どもも母親を探すべく出口を探す。そんな彼らを導くのはクラウスの役目だ。不死鳥の加護を受けた者たちよりも先に、重い扉を開いて声をあげた。
「こちらです!皆さんこちらへ!」
クラウスの声が、彼の周囲に居た者たちの標となる。自力で動ける者は急いで出口から外へと逃げたようだ。加護を受けた者の中にも、自力では動けない者。避難をするまでに時間のかかる者もいる。既に逃げた者たちの背を見送り、クラウスは劇場内を見渡す。見渡した先、逃げる途中で転んでしまったのだろう。杖を探す一人の老婦人がいた。
クラウスは老婦人へと駆け寄り、優しい声色で話しかけた。老婦人を落ち着かせることを優先に、通路に投げ出されたままの杖を拾い上げて彼女に手渡す。
「もう大丈夫。逃げましょう。」
「ああ、ありがとうございます。」
彼女の歩く速度に合わせ、けれども人魚たちが来ても大丈夫なように警戒は怠らず、エネルギーバリアで歌声を防ぎ、クラウスは老婦人の手を引き外へと避難をさせる。
「ここまで来れば安全です。」
「助かりました。ありがとうございます。」
クラウスは老婦人に別れを告げ、再び劇場内へと戻る。まだまだ動けない者もいる。そんな者たちを助けるべく、不死鳥の加護を重ねるのだった。
逃げ惑う人々、透明な尾鰭を持つ人魚の群れ。悲鳴の最中で楪葉・莉々は片頬を膨らませる。
「折角の観劇の余韻を台無しにする怪異はお仕置き!って、言いたいけど……。」
莉々の視界には出口へと向かう人々がうつりこむ。人々は我先にと押し合い、時には転びながら出口を目指しているようだ。このままでは怪我人も多く出るだろう。
(でもそのためにも、お客さんや役者さん達を安全に避難させることが優先!)
「りり、どーしたい?たおしにいくのでも、こまってるひとたすけるのでも~。」
莉々の頭上から鮫咬・レケの緩やかな声が聞こえた。莉々を見下ろす瞳は、どこか爛々と輝いているようにも見えるが、この暗闇の中、莉々にはその色を伺う事は出来ないかもしれない。
「私はまずは一般の人達を助けるよ!」
真剣な表情を浮かべたままで純粋な一声をレケに向け、気合いを入れるべく拳をぐっと握る。
「おれもつきあう~。」
「りりが助けてる間はおれがちゃんと守っとく。りりが怪我なんかしたらおれがシバかれることになるからな~。」
莉々に何かあったら、きっと莉々を溺愛している彼女の兄が黙ってはいない。それを想像するだけでも、背中に何か嫌な汗が流れてしまうような、そんな心地だ。レケは首を振り、莉々の兄を頭から振り払う。
(そゆことはないように気をつけとこ。)
そんなレケの心中を知らない莉々は、観客を助けると言う純粋な眼差しを向けたまま、劇場内の東側へと駆け出す。
「うん、鮫ちゃん、行こっ。」
混乱をする観客たちを誘導するべく声をあげながら走る莉々。視界の悪い中で、莉々は立ち竦んだままの少女を見つける。
「大丈夫、こっち!」
もう大丈夫だと少女を担ごうとした刹那。
「……っ!」
莉々の前には透明な尾鰭を持つ嘗ての歌姫達の残骸、人魚の群れが立ちはだかった。恐怖に顔を歪め、今にも泣きだしてしまいそうな表情を晒す少女から、人魚を隠すように莉々は一歩だけ前に踏み出す。
「りりんとこには行かせない~。おれとあそぼ~。」
間延びした声をあげ、すかさずレケが人魚の群れと莉々との間に入り込んだ。長い袖で口元を隠し、笑みを隠さぬ瞳で人魚を見つめる。
「にんぎょひめ~、おまえにはかんしゃしてる!おれとあそぼ~。」
彼女の身体には指一本触れさせるわけにはいかない。そんなレケの背中を見つめる莉々は強く頷き、少女を軽々と担ぎ上げた。
「私、力持ちなんだよっ。」
もう大丈夫!と明るく声をかけ、莉々はレケの横をすり抜けて出口へと向かう。
(悪い人魚は、鮫ちゃんやみんながやっつけてくれるしね!)
去り際にレケの瞳を見つめ『任せたよ!』と小さく呟く。そんな莉々の背中を見送り、レケは口元から袖を外した。
「おまえの話を見たから、おれの話もきいて?」
莉々が隣にいる時よりもずっと口角は上がり、尖ったサメの歯が口からにんまりと覗く。爛々と輝く瞳を隠すこともせず、レケは間延びした口調でゆっくりと語り始めた。
「まっくらなうみにしずんだきらきらの財宝は、だれにもみつからないうみのしんぴ~。」
暗い劇場内に海水が満ちる。
「怪異になるまえのおれ~。」
むかしむかしから始まる|海の話《ムカシノハナシ》を、レケが語れば語るほどに周囲の暗さが増す。周囲では不気味な魚たちが泳ぎ、深海への恐怖が人魚たちを襲う。最早その場は海の底。光の中を泳いだ人魚には不釣り合いな場所。物言わぬ沈没船を住処とした深海魚たちが姿を現し、嘗てのレケを再現した。
しかし、絶望の中で最後まで歌い続けた歌姫は、深海の中でも屈することはしなかった。光の届かないこの場所に、希望を齎す歌声を響かせる。透明な旋律はレケの胸を焦がし、幸福感を与えた。胸の奥が熱い。重力を感じていたはずの肉体が解放され、このまま一歩を踏み出すと空をも飛べそうな。そんな軽やかで、あたたかくて、不思議な心地。
「おれにしあわせなきもちくれんの、へんなかんじ~。みんなこんなのかんじてたんだぁ~。」
顔を天井に向け、長い服の袖で自らの瞳を覆い隠す。あはは、と吐き出された声が掠れる。
「おもろ~。」
歪んだ口元ばかりが見えていたそこで、漸くレケは視界を覆う袖を外した。うっそりと垂れ下がり、幸福に浸る眉。瞳孔を見開き、今にも飛びつかん勢いで人魚を見つめる。
「みんな、大丈夫!」
そんな折に、誘導を続ける莉々の声が耳に届く。忘れようとする力で観客たちの心を癒し、役者の方へと向かっているようだ。
(あ、っと……りりにこのかおみせなようにしとこ。)
そうしてレケは再び人魚の群れに向き合った。
そんなレケの表情を背後に、莉々は舞台上へと辿り着いていた。
「もう大丈夫!こっち!」
明るい声で役者たちを落ち着け、莉々は渦中の男を探す。忘れようとする力のお陰で、役者たちもまた徐々に心が癒されているのだろう。治療に徹する中、不意に一人の男が立ち上がった。人魚の姿。ラストの場面で人魚の娘と共に歌い上げていた一人だろう。男は虚ろな目で観客席を見つめる。
「あの、大丈夫?」
恐る恐る声をかけた莉々には目もくれず、男は客席の人魚の群れを見つめたままだ。
『こんな歌じゃない……もっと完璧で完全な歌を…僕だけに向けた歌を……。』
この男が心を傾けている男だろう。莉々は肩から下げた鞄の持ち手を握りしめ、深呼吸を繰り返す。
一歩、また一歩とぶつぶつと呟く男へと近付き、彼の背へその手を伸ばした。
劇場内に悲鳴が響く。透明な尾鰭を持つ人魚たちが群れを成し、劇場内を泳いだ。それだけならば幻想的な光景なのだろう。しかし、人魚たちは音なき歌声で周囲を破壊し、観客たちを精神的にも物理的にも追い詰める。
「凄く良い舞台だったのに余韻ぶっ千切ってきたな。それだけあの怪異も感銘を受けたってことかい?」
「あの人魚たちも美しい声だけど、ゆっくり聴けるときなら……。こんな状態じゃなかったらもっと良かったな。」
斯波・紫遠と懐音・るいは舞台の余韻を振り払い、座席から立ち上がる。
「それは無理なことなんだろうけど。」
「それもそうだね。舞台上も気になるけど、この混乱なら一般人の避難誘導を行った方がいいかな?」
紫遠の言葉にるいは頷き、気怠い仕草で一歩を踏み出す。我先にと出口へと向かう者たちは押し合い、その場で動けない者たちは立ち竦み、親とはぐれた子どもは涙を流す。けれども人魚の群れは、そんなことなどお構いなしに声をあげた。
昔々に力尽きるまでその声で皆を掬い上げた彼女たちが、今度は彼らの脅威となり立ちふさがる。
「ごめんね、お願いできる?」
先に避難誘導へと向かったるいの後ろで、紫遠は√能力である金魚たちを呼び出していた。その中でも一番大きなその子、『ぷく』が身を震わせ、紫遠の指示を待つ。
「先に行った彼女と一緒に、一番近い非常口へ送ってあげて。」
くるりとその場で宙返りをした『ぷく』は、他の金魚を引き連れてるいの後ろを泳いだ。
「さてと。その間に僕は、彼らに危害が加えられないように怪異と対峙しようかな。」
相棒である無銘【香煙】を片手に、紫遠は人魚の群れと向き合う。
一方その頃、真っ先に避難誘導へと向かったるいの後ろで、紫遠の金魚たちが補助をするべく付き従う。
「さっきの人の……?」
振り返ると見慣れぬ金魚が並ぶ。るいは彼らへと問うと、その中の一匹がくるりと宙で舞った。肯定だろう。このままるいをサポートするのだと言わんばかりに、るいの後ろにいるものだから、るいもそのままにしておくことにした。
視界の悪い中を歩み、るいはその場で立ち竦む女性へと声をかけた。
「大丈夫。私たちがいるから。」
やわらかい口調で言葉を紡ぎ、女性を落ち着かせる。そうしていると、女性も徐々に落ち着きを取り戻し始めたのか、恐怖に染まる瞳を揺らがせながらも、るいの言葉に頷いた。
「この金魚たちが、出口まで案内してくれるから。」
彼女の誘導は後ろに付き従う金魚たちへと任せて、るいはその背を見送ることにした。まだまだ手を必要としている者たちは数多くいるのだ。
「さてと……。」
暗闇の中で周囲を見渡す。先程からすすり泣く声が耳に届いていたからだ。幼い声色。時折、母親の名を呼ぶ声が混ざる。途中で母親とはぐれてしまったのだろう。るいが泣き声を頼りに足を進めると、座席と座席の間に蹲っては泣く少女を見つけることが出来た。
「もう大丈夫よ。」
両目に大粒の涙を浮かべた少女が、るいの方へと視線を向ける。母親だと思ったのだろうか、一瞬だけ表情を明るくさせた少女は、るいの顔をしっかりと確認するなり再び表情を曇らせてしまう。
「お母さんとはぐれたの?」
「……うん。」
「そっか。なら私が一緒に探すよ。」
諭すように静かに、そして少女に目線を合わせたるいに、少女も安心をしたのだろう。曇った表情が僅かに晴れ、涙で濡れていた瞳が落ち着く。
「だからほら。」
このまま少女を一人にさせる訳にはいかない。るいは、逸れないようにと少女に片手を差し出すと、少女は小さな手でるいの手を握り返す。子ども特有のあたたかさが、るいの掌に伝わった。
「思っていたよりも、重い攻撃をしてくるんだね。」
香煙を振るい、最後の一体を退けた紫遠は周囲を見渡す。金魚たちは無事に女性を出口へ導いたようだ。しかし、依然として周囲は視界が悪い。
「アリスさん、この会場の電源復旧をお願いしてもいいかな?」
『……ご自分の足で行って下さい。』
「……そう言わずに。アリスさんが頼りなんだよ。」
『この場所そのものが、あなたには理解出来ない構造でしたか。』
「そう、そういうことにしといて。」
『AIに頼るしかないだなんて、使えない探偵ですね。』
「はは……よろしくね。」
アシスタントAIのIrisとの会話を終えると、視界が徐々に開けて行く。紫遠の使ったアシスタントAIのアリスさんのお陰で、電源が徐々に復旧しているのだ。少女と手を繋ぎ、極力人魚の群れに接しないようにと闇に紛れるようにして歩んでいたるいの足元も、ゆっくりと橙色の光が灯り始めた。
「……まだ人魚はいるから、なるべく出会わないようにこっちをあるくよ。」
「うん。お姉さんありがとう。」
「どういたしまして。」
少女の手を引き、壁際に添って避難を進めるるいと、人魚たちの攻撃を受け止める紫遠。
(キミの寂しさは伝わるけれど、共感するには何かが足りない。)
明るくなった劇場内で二人は各々の役目を全うする。
「キミはナニに恋焦がれているんだい……?」
人魚を斬った紫遠の呟きが、歌姫の悲鳴と共に劇場に落ちた。
小型のライトで周囲を照らし、視界を確保した瀬条・兎比良は、自らの近くにいた者たちから誘導を行う事にした。
(物理的な手段とは明確な目的がありそうですが……。)
兎にも角にも、今は避難誘導が先決だ。
「皆さん、落ち着いて下さい。私はこういう者です。」
兎比良はスーツのポケットから|警視庁異能捜査官《カミガリ》の証である手帳を取り出し、観客たちを安心させた。その手帳のお陰か、表情を青くさせていた者は安堵の息を吐き出し、またある者はなにか出来ることはないかと申し出る。
「動ける者は助けが必要な人と共に誘導灯へ。未だこの場は混乱しておりますが、落ち着いて行動すれば大丈夫、安心してください。」
「貴方は必ず無事に避難することが出来ますから。」
人魚の泡影が小夜啼鳥の歌の歌を歌い、兎比良の周りにいた者たちの周囲に、泡影を齎す。どよめいていた人たちの表情が引き締まり、彼の周囲にいた者たちは力強く頷く。|【物語】「心無き物の狂想曲」《ディアアンデルセン》、兎比良の√能力だ。泡影のお陰で各々、冷静さを取り戻したのだろう。人魚の群れを避けながらも、動けない者たちに手を貸し、落ち着いて避難を始めたようだ。
そんな様子を、視力と暗視で補強した義眼越しに兎比良は眺め、周囲を見渡した。
(人魚の歌は、何も悲しいだけのものでは無いでしょう。)
人魚の歌には様々な物がある。そして様々な意味もある。実際に結末の一つとして、人魚姫は風の精となるのだから、何も悲しいだけの物ではないはずだ。
明瞭になった視界で、兎比良は舞台を見上げた。舞台上にはまだ役者が残っている。その中に冷静ではあるものの、行動をしていない者がいないかと目星をつけていた。
人魚から逃げるように舞台の隅へと移動をしている役者の中に、ふと一人の男性が目につく。先ほども感じた違和感が、兎比良には駆け巡る。
「……彼は。」
その男は、√能力者である仲間の手当ても受けずに、他の役者からはぐれ、舞台の中央へとゆっくりと移動をし始めたではないか。兎比良は一部始終を視界に留めるや否やその場から走り出していた。男が何かを企んでいる。|警視庁異能捜査官《カミガリ》としての勘が、兎比良を突き動かす。
舞台袖へと回り込んでいる暇はない。客席から舞台上へと近付き、兎比良は男へと話しかけていた。
「君、早く避難を。」
『こんな歌じゃない……もっと完璧で完全な歌を…。僕だけに向けた歌を……。』
男はぶつぶつと何かを呟く。
『誰にでも心を向ける偽りの人魚なんかじゃない。僕のために向ける完全なる歌を、完全なる旋律を……!』
突如、視界が開ける。この場に居る誰かが電源を復旧させたのだろう。兎比良の視界には、眩しさにひるむことなく、虚ろな目で劇場の奥を眺める男の姿が映り込む。
「……。」
舞台上と舞台下。二人の男が対峙をする。己の片手は懐に。彼の手は――――。
逃げ惑う人々を見渡しながら、橘・創哲はカンカン帽を軽く持ち上げる。
「怪異たちによる第2幕が始まっちまったようだな。」
あとは役者たちを見送り、観客が席を立つ。それが終わればこの舞台も大成功で終わったというのに、残念ながら物語は次のステージへと駒を進めてしまった。
元々話には聞いていたが、周囲は暗く視界が悪い。この場で見渡すだけでも、逃げ惑う人々は我先にと押し合い、ちょっとした段差に躓いて動けない者まで出ているようだ。状況はよろしくない。
(この状況で爆弾を使うと、パニックが加速しそうだ。)
物体が勢いよく破壊される姿に『美』を見出している創哲だが、状況からして爆弾を使うということは難しいと判断をした。それならばまずは避難誘導を優先させよう。創哲は周囲を見渡し、動けなくなっている者を探した。
先程、階段で転んでいた男性がいた筈だ。視界が悪い中、その男性が視界から消えた場所へと慎重に向かう。椅子と椅子の間、通路に面したその場所で男性が蹲っていた。どうやら足を捻ったようで、痛みに顔を歪ませている。
「大丈夫か?」
「ああ、足を捻ったみたいで……動けないんです。」
「歩くのは無理そうか……。」
「はい……。」
申し訳ないと言わんばかりに眉を下げた男性の肩を組み、創哲は男性の身体を支えて立ち上がる。これならば、ゆっくりではあるが男性を出口へと連れて行くことが出来そうだ。
「大丈夫だ。出口付近まで運ぶぜ。」
「ありがとうございます……!」
二人は出口へと向かうべく、ゆっくりと一歩を踏み出す。しかし、そんな創哲たちを遮るかのように人魚の群れが現れた。
「簡単には通してくれないか……。」
創哲は懐を漁り、ガラス細工の果物を人魚の群れを目掛けて投げる。被害は最小限に。そうしなければ、他にも逃げている者たちがパニックに陥る可能性があると考えているからだ。創哲の投げたガラス細工が人魚へと命中をすると、小規模な爆発が起こる。
「凍えちまいな!」
更に追い打ちをかけるように葡萄型のガラス細工を投げると、もくもくと冷気を放ち人魚たちを凍らせて行く。フローズン・グレープジェラート。創哲の√能力の餌食となった人魚たちは、尾の先から凍り付き、軈てその場で動かなくなってしまった。
今のうちにと支えた男性を出口付近へと連れて行き、創哲は別の場所へと向かう。
混乱をしている者。どこに行けばよいのか、どうすれば良いのかと分からないままにその場で右往左往する女性が目に留まった。創哲は混乱の色を見せる女性の肩を掴み、動きを止める。目をぐるぐるとまわしそうな勢いで創哲を振り返った女性は、漸く創哲の存在を認知したのか、まわる頭を落ち着けて彼と向き合った。
「落ち着け。あっちが出口だ」
「あ、ありがとうございます……!」
その一言で女性は駆け出す。この場はまだ混乱の色を見せている。創哲は避難誘導をするべく、動けない観客を探すのであった。
「しっかし暗いなァ。」
一文字・伽藍は劇場の上空から、避難をする者たちの様子を見下ろしていた。先程の人魚はこのような景色を見ていたのかと、ぼんやりと思考してみたが、地上で逃げ惑う人々の顔まではしっかりと見ることが出来ない。誰がどこに居て、どんな動きをしているのか。避難の邪魔にならぬようにと空中浮遊をしたものの、ここからの景色はあまりよろしくなかった。
「クイックシルバ〜電気どうにかならない?」
伽藍の声に応えるかのように、小さな光が弾ける。地上から見上げた人々からしてみれば、その光は一番星の輝きにも見えるのだろうか。伽藍の傍らで煌き続ける|銀光《クイックシルバー》が、彼女の周囲で跳ねた。おおむね、出来るか分からないと言う事を伝えているのだろう。伽藍に異を唱えているようにも見える。
「出来る出来るやれば出来る。」
そんなクイックシルバーの動きから、適当な返事で応える伽藍は、その場でひらひらと片手を振ってみせる。足元の人魚たちは、上空潜む伽藍には気付いていない。
「あとちょっと人魚に|念動力《釘打っといて》。」
上空で組んでいた足を元に戻し背筋を伸ばす。伽藍の準備は整った。銀の光で弾けたクイックシルバーも、準備が整ったことを悟ったかのように彼女の周囲で大人しく浮遊する。
「さあて……。」
瞼を閉じて深呼吸。
「人魚姫の舞台は終わり、こんどはアタシの番だ。」
刹那、口の端をつり上げ、青薔薇の瞳を見開いた。
「観客の皆々様、お耳を拝借!」
「出張❥ガランChanneL!未公開確定の激レア回だぞ!」
クイックシルバーの光がドローンの代わり。ちかちかと弾け、空中に浮遊したままの伽藍を派手に彩る。逃げ惑う人々も伽藍の声に気付いたのか、その場で立ち止まり上空を見上げていた。
「緊急事態だからこそ「落ち着き」が大事、はい深呼吸〜。」
大袈裟に両肩を揺らして深呼吸。演出はこのくらいオーバーでないと、見ている者に伝わらない。吸って吐いてを繰り返し、地上の誰かを指で示してウィンク。
「そこに伽藍ちゃんの歌でオールOK!今日の気分はアタシ次第!」
「選曲は切ない恋の歌でどう?」
混乱を見せていた者が、伽藍の世界に引き込まれて行く。転んで泣き喚いていた者、恐怖に動けない者。海の青よりも深くて鮮やかな色が印象的なステージでは、小さなライヴが始まろうとしていた。|解釈一致/プラス《エモーショナルプラス》。レゾナンスディーヴァである伽藍が歌い上げる一曲。切ない恋の歌に、伽藍の指示を乗せる特別な一曲。
誰かの怪我は癒え、足首を捻って動けなくなっていた者は、自力で立ち上がることが出来るようになった。これがこの場限りの伽藍の歌だ。
「あとは冷静に避難よろしく!」
ばちばち、と弾けては人魚の群れを退けるクイックシルバーのお陰もあり、ドローンの空中ショウよりも激しく、そして美しい舞台が出来上がる。先程までここで泳いでいた人魚にも負けじと劣らず、しかし誰かの記憶にしか残らない激レアな舞台になった事だろう。❥ガランChanneLにはもちろん、アップはされない。君たちだけの歌だ。
劇場全体が明るさを取り戻す。仲間の誰かが電源を復旧させたのだろう。浮遊をしたままの伽藍は振り返り、舞台の上を見下ろした。そこには虚ろな目でどこかを見つめる男がいる。
「どこの誰だか知らないけど、寂しいっつーから会いに来たのよ。」
先程の笑顔はどこへやら。常の表情を取り戻した伽藍は空中から地上へと足を落ち着け、握った拳を大きく振りながら舞台上を目指す。
「|面《ツラ》くらい拝ませてくれない?」
男の元まであと数歩。
立見席で見守っていた祭那・ラムネの目にも、劇場内の異変がうつりこむ。最初は誰かの悲鳴だった。次に確認できたそれは、透明な尾鰭。ホログラムの魚の群れよりも大きな姿で、劇場内を優雅に泳ぐ嘗ての歌姫たちの末路がそこに在る。
人魚の群れは音なき歌声で周囲の物を破壊し、観客たちを恐怖の底へと陥れる。目の前の脅威に怯える観客たち。逃げ惑い、我先にと出口へと向かう少年が足をもつれさせ、廊下に転がる。獲物を見つけた人魚が、透き通る声で歌いあげながら転がった少年の元へと泳ぐ。
神へと捧ぐ歌。過剰なほどの多幸感を与え、歌声が光り輝く円環の旋律へと変化を遂げる。恐怖に青ざめた少年は母親の名を呼ぶことすら出来なかった。その場で震え、ただただ人魚を見上げる。
それはラムネのマスクド・ヒーローとしての本能だろうか、それとも彼自身の性だろうか。気付いた時には、ラムネの身体は人魚と子どもの間に割り込んでいた。考えるよりも先に身体が動いていたのだ。ラムネは人魚に背を向け、少年を抱きかかえるようにしてその身を守る。
しかし、歌声を可視化した光りを背に受けた筈のラムネの身体は、傷一つ負っていない。守るための壁。夏空の青よりも澄んだオーラを身に纏い、ラムネは少年ごとその身体で護ったのだ。
「大丈夫、怖くないよ。」
少年の顔に恐怖の色が滲む。声すらも発することの出来ない少年は、声を奪われた人魚の如く口をはくはくと動かし、ラムネの服の袖を掴む。『たすけて。』唇は確かにその形をかたどっている。音なき声を聞き届け、ラムネは少年の背を撫でた。
「大丈夫。俺がいる。一緒に出口まで行こう。」
誰一人傷つくことのないように。強い思いを胸に秘め、ラムネは少年の背を撫でていた手で、彼の小さな手を握り立ち上がった。だがまだ安心は出来ない。ラムネの後方では少年を狙っていた人魚が、立ち上がったラムネの姿を見るや否や、再び音なき歌声を響かせる。
「おにいちゃん……!危ない!」
口を動かすことしか出来なかった少年の叫びが、ラムネの耳に届いた。少年を抱きかかえたままで咄嗟に後方へと飛び退き、ラムネは少年の黒い瞳を見つめる。
「っと、危ない。ありがとうな。」
「う、うん……。」
「俺はこの人魚を退治するから、君はそのまま出口まで走るんだ。」
「で、でも……。」
「大丈夫。君なら出来る。」
「……わかった。おにいちゃんも、あとで必ず来てね。」
「もちろんだ。なんたって兄ちゃんは、ヒーローだからな。」
自らの親指を胸に当て、笑いながらとんとん、と叩いてみせた。先程まで恐怖の色を宿していた少年の瞳に、一筋の光が差し込む。少年は強く頷き、ラムネに背を向けて力強く腕を振っては走り出す。
「――いこう。雨はあがるさ。」
微笑みを携えたラムネは、周囲に不可視の光を齎す。これでもう大丈夫だろう。ラムネは真っ直ぐに人魚を見据え、今度は自身に蠱惑的な香りを纏わせた。
香りにつられた人魚の群れが、次から次へとラムネの元に集う。これでいい。この身は彼らを護るための盾となるのだから。
『 I miss you.』
この気持ちは、誰かを傷つけるためのものであってはならない。ラムネは胸の裡でそう想う。
「だから、誰も、その言葉も、気持ちも。」
「傷つけることのないように。」
――俺は護りたい。
ラムネの覚悟は、出口へと駆けだした小さな背中へと、誰にも見えない一筋の光を齎した。
第3章 ボス戦 『エレクトリック・マーメイド』

虚ろな目をした男が舞台の上で立ち竦む。
「偽りの人魚など必要ない……。」
照らされたばかりの劇場内でノイズが走る。
「この劇場に必要なのは、完璧で、完全なる|人魚姫《diva》だけだ。」
ぴしり。舞台上、何もない空間に亀裂が走り、そのすき間から白く、細い指先が覗いた。
あなたがいない。
恋しい。
さみしい。
『I miss you.』
白い指が亀裂を裂くと、ホログラムの泡と共にうつくしい人魚が現れる。深海を滲ませた蒼く豊かな髪を靡かせ、甘やかな目元で男を見つめる。慈しむ視線。たったひとりの王子様へと手を伸ばし、細い腕で首を抱きしめる。
『ああ、やっと会えた。会いたかったわ。私の王子様。』
「僕もだよ。完全なる歌姫。君の歌声を聞いたあの日から、会いたくて会いたくて仕方がなかった。」
美しい声であるというのに、そこには何かが足りない。会いたかったと言う唇は旋律ばかりを紡ぎ、ただただ会いたかったという単語をなぞらえているにすぎないのだろう。
機械の歌姫。その歌声は完全で、完璧で、一寸の狂いも無かった。
「ミュージカルにノイズは必要ない。彼女こそが、この舞台に相応しい。」
「ノイズになる感情を伝える歌声よりも、たった一人を想う彼女の完全なる歌声の方がずっといい。」
『王子様、あなたの思うままに。』
「僕は彼女を完全なる者にする。僕に会いたいと願う彼女へ居場所を与えて、僕だけに感情を傾ける歌声を、それを彼女に齎すんだ。」
「僕と彼女だけの舞台を、ここで……!」
『あなたが望むのならば。』
人魚の口から齎される完全なる旋律が、周囲を電子の海へと変えて行った。
舞台上で自らの為の『人魚姫』を演じる男と怪異。名も無き役のその他大勢。それが彼に何かしらの執念を与えてしまったのだろう。歌に余計な感情はいらない。完全でなければならない。男は必要以上にその言葉を繰り返していた。
劇場の中心からその様子を眺めていたバルザダール・ベルンシュタインは、自らの顎髭を撫でながら首を傾ける。
「感情が歌に必要がないと言うのは極論ではないかね?完全な旋律を奏でるだけが|歌姫《diva》ではないだろうに。」
人と人とが織りなすからこそミュージカルとしてなり立ち、だれか一人でも欠けてしまえば、物語は彩らない。たとえ、役に名前が与えられずともだ。
「人が集まって作られるミュージカルだ人に寄り添わなければ意味などない。」
男の考えは、いささか疑問が残ってしまう。顎髭を撫でていた手をおろし、バルザダールは杖を片手に歩む。
「琥珀おじ様」
人魚の群れと対峙していた継歌・うつろが、群れを退け、ゆっくりと一歩を踏み始めたバルザダールの元へと駆け寄る。
「ひなんゆうどう、ありがとう。」
「どういたしまして。うつろ君もありがとう。」
拙い単語で感謝を告げるうつろの瞳が、舞台上の二人へと向けられた。王子様と人魚姫。ミュージカルとは違う結末。結ばれた二人が、舞台の上で新たな物語を紡ごうとしている。
「……あれが、完全なる|歌姫《ディーヴァ》?」
うつろとは真逆の色。海の底を映し出した甘い瞳はただ一人、舞台上の|名も無き役者《おうじさま》を見つめては歌う。彼女の王子への愛が、劇場内を電子の海へと誘う。つけたばかりの明かりが海の底に遮られ、ノイズまじりの深海魚がうつろの目の前を通り過ぎて行った。
「なんだろう。」
口から吐き出した言葉が、泡となる。バブル・パルティータ。電子の海を作り上げた人魚姫の力の一つだろう。彼女の語る物語は声を失くした人魚と魔女との場面だ。うつろの声もバルザダールの声も消えてはいないが、海中で酸素を吐き出すがごとく言葉が泡となり、上空で弾けて消える。
自らの口から吐き出された気泡を大きな瞳で追いかけ、うつろはぎゅうっと胸元を握りしめた。
「心の、うちがわが、すごいモヤモヤする。」
「感情がノイズ?かんぺきな、歌声?」
気付けば、うつろは人魚の元へと足を向けていた。
「ちがう。」
歩く度にこの足は悲鳴をあげない。けれどもこの胸が、胸の内側のその奥が、そうじゃないと叫んでいる。
「感情は、ノイズなんかじゃない。たくさんの感情があるから。こんなに、すてきな、ミュージカルになったんだよ。」
うつろの目には、確かな光が宿る。幼い彼女の感じたまま、心の裡で燻る感情。この感情をなんとたとえるのだろう。うつろは立ち止まり、バルザダールを振り返る。
「……琥珀おじ様は、どう思う?」
振り返ったうつろの目が、強い光を宿していたから。赤々と燃ゆるきらめきを受け止め、バルザダールは優しく頷いた。
「人魚とは原来人を惑わすもの。その人魚の娘が恋をして愛ゆえに消えた物語に感情がいらないとは言わせないよ。」
背筋を伸ばした紳士が、立ち止まったうつろの隣に並ぶ。舞台上の彼らの物語は、幕が上がりきる前に止めなければならない。
「うつろ君。君の『うた』を、私に聞かせてくれるかな?」
「わたしの声、わたしの|幻歌《うた》……ちゃんと、きいてね?」
『いいや、いいや、|感情《ノイズ》はいらない。』
舞台の上へと近付くバルザダールとうつろの言葉を聞き、男が頭を振る。あくまでも感情はノイズだと言い張る男は、二人に人差し指を向ける。
『人魚姫、彼らを捕らえろ。』
「仰せのままに、私の王子様。」
途端、電子の人魚の髪が翠色の触手へと変化を遂げた。まるで深海の魔女のような髪。生き物のように蠢く髪がうつろを捕らえようと素早く伸ばされる。
「今から|歌姫《diva》が『うた』うのだからね。邪魔はさせないさ。」
そうはさせないと咄嗟に反応をしたバルザダールが杖を高く掲げる。
「束の間の星を降らすとしよう。星よ降り注げ。」
瑠璃の流星群。バルザダールの扱う古代魔術の一つ。ラピスラズリの輝きを持つ瑠璃の流星群が、周囲に降り注ぐ。うつろへと伸ばされた触手が、瑠璃色の流星群によって潰されて行く。幸運の意味を持つ聖なる流星群。その星が、うつろの道を拓く。
(琥珀おじ様、ありがとう。)
既に準備を整えていたうつろは、バルザダールへと視線を向ける。
(完全な歌には、不完全な『うた』を。)
目の前の電子の人魚のように、感情が乗らずとも旋律を紡げるだけでも羨ましい。自らの口は、彼女のような完全な歌を紡ぐことは出来ない。瞳の色彩とは裏腹に、うつろの喉が徐々に鈍色へと染まって行く。
(だから、かんぺきな歌声を、わたしの『うた』で壊すよ。)
降り注ぐ流星群へ、幸いを齎す星へ、自らの『うた』を乗せて。電子の人魚へと落とされた瑠璃色の流星群が、徐々に鈍色へと姿を変える。流星群に触れていた触手も、徐々に色彩を失い、失った端から灰の如く脆く崩れてしまう。
「もし今回のミュージカルが……あなたの為の、ものがたりだったら。」
これがうつろの『うた』だ。呪い、災い。バルザダールの流星群とは真逆の意味を持つ、戦う為の『うた』。うつろはそう認識をしている。
この物語は彼らの物ではない。鈍色の喉を晒し、それでも『うた』う少女の胸にも、確かに届いたものがあったから。あの時の涙を、そしてこの感情を大切に大切に、自らの胸に染みこませて行く。
「きっと、わたしは、感動しない。」
戦う為だけの『うた』がバルザダールの耳にも届く。しかし、バルザダールはその『うた』を否定はしない。この『うた』も、バルザダールにとっては誰かを守ろうとするための、やさしい『うた』に聞こえるからだ。少なくともバルザダールから見たうつろは、そのような優しさを備えた少女のように思う。
「私にとっての|歌姫《diva》はうつろ君だからね。」
「歌が歌えなくても『うた』で誰かを守ろうとするそんな素敵な歌姫だ。」
幸運が鈍色に染まる。人魚の髪も、身体も徐々に呪いに侵されて行くのだろう。
しかし案ずることはない。うつろの一歩後ろで杖を掲げたバルザダールは、あらたな瑠璃色を幼き少女の周囲に齎した。
歌声も音も何もかも、生身だろうが機械だろうがなんだっていい。懐音・るいは気怠げに開いた瞳で舞台上の男を見据えていた。
好みは人それぞれであり、彼の傍らにいる人魚を好む者や、彼の思想に賛同する者もいるのだろう。ただ、今のるいは賛同が出来ない。
「それで周りを巻き込まないでほしいかなぁ。結局は自分の思う“完璧”ために他者を害してるってコトだし。」
欠伸を噛み殺し、ヴェールを纏う。人魚の歌声により、電子の海と化したこの場から自らの気配を消す。
「それにさ、完璧って聞こえがいいけど裏を返せばそこから成長もなーんにもないのと同義じゃない?」
客席と言う海の底で、るいの声が木霊する。文字通り、男へと向けられた言葉はあぶくとなり、男の前で弾けて消えた。
「舞台に立っていた役者には成長がある。偽りの人魚が本物に変わるときもくるかもしれないのにね?」
「あの者は私を害するようだ。守ってくれるかな?」
『もちろんよ、私の王子様。』
男の一声に、電子の人魚は胸元から短剣を取り出す。王子を貫く事の出来なかった刃。海を赤く染めた刃。その刃が海の底で身を潜めたるいに向けられる。
一本目は頬を掠り、二本目と三本目はるいの足元へと突き刺さる。爪先で床を蹴り、咄嗟に飛び退いたお陰か、残りの二本をなんとか躱すことは出来たが、頬を掠めた一本がるいの頬とヴェールを裂いていた。
一を描いた傷口から、じんわりと血が滲む。手の甲で頬を拭うと、口紅よりも濃い紅が掠れた。裂けたヴェールが電子の海の中で揺蕩う。人魚の尾鰭のごとく海の底を泳ぐシルエットのままに裁断の槍を構え、るいは跳躍する。
「正当防衛だよ。」
これは正当防衛だ。先に仕掛けた相手から、自らの身を守るための刃。難破船の影から飛び上がったるいは、裂けたヴェールを靡かせて人魚へと矛先を向ける。振りかぶった槍が電子の人魚の肌に一本の線を引く。同じように鮮血を浴びせることは出来ないが、線を引いた箇所からノイズが滲みだした。これでおあいこだ。
「お返し。」
「キミが完璧ならば去り際も美しくあるべきだと思わない?」
「戯れ事を……。」
次の一手が来る前に、るいはヴェールを深く被り身を隠す。身を潜めることは十八番だ。海面から深海へと飛び退き、再び姿を消したるいは、先程まで自らが立っていた場所に素早く戻っていた。
そこには短剣が二つ。鈍色の輝きをもつそれを拾い上げ宙へと放る。去り際は美しく。彼女を美しく彩るのならば、貫くことの出来なかった短剣がきっといい。
るいの瞳が人魚を捉える。放った短剣が手元に戻った時、電子の人魚の喉を目掛けて銀のナイフを二本投げた。
「……一人で勝手にやってろ」
一言、たったの一言を吐き捨てる。
表情を動かさぬままでクラウス・イーザリーは武器を構えた。クラウスの胸中には、もやもやと蠢く『不快』という明確な感情が浮かび上がる。
「自分の欲望で他人に迷惑を掛け、努力して技術を磨いた役者達の演技を『ノイズ』と決めつける姿勢は不快だな。」
自己中心的な考え、そして努力をして勝ち取ったその座を、心のない言葉で蔑む。それはクラウスにとっては不快で仕方がなかった。だからこそ、武器を構える手に惑いはない。目の前の標的を狙うべく、クラウスは走り出す。
後方から駆けたクラウスが、舞台上の男と向き合う瀬条・兎比良の横を通り過ぎた時、静かな言葉が吐き出される。
「自分が欲しい言葉だけを与えてくれる"お姫様"とやらは、さぞ魅力的な事でしょうね。」
懐に伸ばした手は、一般的な小型リボルバーを握りしめた。銃口を男に向け、舞台上へと素早く飛ぶクラウスを視界の隅に留める。
「文字通りの|ご都合主義《エクスマキナ》ではありませんか。それで舞台役者とは聞いて呆れます。」
――――√能力展開。
|【物語】「赤き王の夢」《レッドゾーン》。舞台上がチェス盤へと変貌を遂げる。駒は全部で四体。クラウスと兎比良、男と電子の人魚。二対二のフェアな戦いだ。
最初の一手。後方から駆けたクラウスが舞台上へと飛びあがり、舞台の上がチェス盤へと変わると同時に人魚の懐へと踏み込む。光刃剣を抜き、勢いそのままに人魚の腹部へと斬りつける。クラウスの素早い動きに反応をし損ねた人魚は、まともにその刃を受けたものの、咄嗟に自らの髪を触手へと変形させ、クラウスの光刃剣に絡み付いた。
「こちらにも居ますよ。」
その言葉が人魚の耳に届いた頃には、クラウスの光刃剣へと絡みついていた触手が嫌な音を立ててちぎれていた。硝煙の立ちのぼる拳銃を片手に、兎比良はさらに引き金を引く。
兎比良の射撃のお陰で、明確な隙が出来た。これが好機とばかりにクラウスは触手の髪へと手を伸ばし、右の掌で翠色に輝くそれに触れる。
「助かったよ。ここからは俺が。」
クラウスの右手が触れた先から、翠色に輝いていた髪の毛は豊かな海色へと戻り、生き物のように蠢いていた触手が波打つ髪へと戻る。ルートブレイカー。クラウスの右手で触れた物は、その能力を無効化されてしまう。そんな能力だ。
なすすべのなくなった人魚は声なき声をあげようにも、口からは泡ばかりが吐き出され、兎比良の展開した盤上の力も相俟って誰が見ても電子の人魚の不利を悟ることができる。
『私の人魚に……!』
|男《キング》が動く。しかし、その足元に銃弾が撃ち込まれた。明確な牽制。人魚へと攻撃を向けながらも、男に当たらぬようにと正確に銃弾を撃ち込んでいた兎比良からの警告でもある。
「決して逃がしません。」
電子の人魚と対峙をするクラウスが、柔らかな肌に傷を残す。傷口からノイズが走り、人魚の口からこぼれる音に乱れが生じた。
『王子様、ノ、こころの、ママニ。』
「機械の歌声も生の感情が込められた歌声も、それぞれの良さがある。どうして他を否定して、独り善がりの舞台を作り上げようとするんだ……。」
ノイズ混じりの人魚へと駆け寄る男へ、すかさず兎比良が牽制を行うと男は怯み、足を止める。
「人魚の誇りを身勝手な欲望に挿げ替える、そんな醜悪な物語は見るに耐えない。夢から覚めて、現実で罪を償っていただきますよ。」
人魚の力を無効化するクラウス。怯んだ男を捕縛する兎比良。物語をなぞらえたチェスは、クラウスと兎比良の手により、|勝利《チェックメイト》の宣言への一手を告げられることとなる。
ノイズが走り、空間に亀裂が生じる。亀裂から這い出た美しき電子の人魚。彼女の歌声が、劇場内に響き渡ると同時に、周囲が電子の海と化す。
「りり、あれはいい王子? だめ王子?それともにんぎょひめにくるわされた王子~?」
海の底を思わせる劇場内、男へと手を伸ばした楪葉・莉々の後方から、役者たちを避けて鮫咬・レケが緩やかな足取りで近付く。はっ、と我に返った莉々が伸ばしかけた手をおろし、レケへと真剣な表情で答える。
「あの人は王子様じゃないし、あれは童話の人魚姫なんかじゃない。」
鞄を握る手に、力がこもる。
「人魚姫の姿をした災厄、怪異だもん。だから、本物の人魚姫と王子なら幸せかもだったけど。」
「でもであえたにんぎょひめはしあわせってやつか~?」
「このままじゃ幸せどころか、みんな不幸になっちゃうと思う。」
ひょいっと役者を飛び越え、レケは莉々の隣に並ぶ。真剣なまなざしで男と人魚を見つめる莉々と、表情にどこか楽しさを滲ませたレケ。対照的な表情の二人が、言葉を交わす。
「たしかに、きれーな見た目してても災厄は災厄だもんな。」
「りり、いっしょにがんばろ~。」
「うん、だから倒そう、鮫ちゃん!」
莉々の言葉を合図に、レケは人魚へと向き、一歩を踏み出した。
「りりが攻撃かけやすいようにおれがしとく~。」
「うん!鮫ちゃん!ありがとう!」
人魚へと歩むレケの背を見送り、莉々は戦闘態勢を整える。彼のように先に向かうことも出来るけれど、一人よりも二人だ。ここはレケに任せて、自分はタイミングを見計らう。
(にんぎょひめのうたよりも、おれのことばのほうがたぶんつよい~。)
自らの元へと歩み寄るレケを、電子の人魚の甘い瞳が捉えた。豊かに揺蕩う海色の髪が、徐々に翠色へと変わる。その姿は水底で歌う人魚姫というよりも、深海で人魚の娘から声を奪った魔女のようだ。電子の海と化したこの場が、不気味なほどによく似合う。
その姿を捉えたレケの両の口角が緩やかにつりあげられた。先程の笑みとは異なるもの。柔らかさを携えた口元を晒し、レケは電子の人魚へと優しく言葉をかける。
『なぁ、それはほんとにおまえのおうじさま?』
人魚の一寸の狂いもない旋律とは違う、言葉の力。ただ、ほんの少し優しく声をかけただけ。それなのに誰もが狂ってしまう。ああ、おかしいな。
レケを狙っていたはずの蠢く触手の髪が、足元へと勢いよく叩きつけられる。レケの言葉による問いかけが、電子の人魚の攻撃を狂わせたのだ。
「わ、きれーな髪してたのにそんなうねうね。それじゃーわるいまじょっぽい~。」
(今なら……!)
人魚の攻撃が逸れた。今ならば思いっきり叩きつけることが出来る。後方で準備を整えていた莉々が、鬼デコ卒塔婆を片手にレケの横をすり抜ける。自分流に可愛くでこった卒塔婆。最強にかわいくて、最強に頑丈で、最高に強い、これが乙女の武器だ。振り被るとリボンが波打ち、かわいいシルエットを演出する。今日は小さな鮫のぬいぐるみも付けて来た。これならば、なんだか勝てる気がする!
「えいっ!」
莉々が電子の人魚へと殴りかかった瞬間。
――ドン!!!
鈍い音が辺りには響き、もくもくと砂煙が舞う。砂煙はそのまま莉々の姿を覆い隠した。
「…………あっ。」
もくもくと煙る中、レケは長い袖で自らの口元を隠し、中心にいるであろう莉々を思う。
(りりの攻撃、痛そ。)
徐々に煙が薄れて行く中でレケの瞳に映り込んだものは、舞台上にぽっかりとあいた大きな穴と、穴を見下ろしながら腕を組む莉々の姿だった。
「鮫ちゃん……!この舞台、脆いかも!」
「やっぱあの兄でこの妹感~。」
一瞬だけ、破壊神という言葉が口から出かけたが、レケの脳裏には莉々の兄の清々しい笑みが過ぎり、何とかその言葉を飲み込んだ。
「物語の人魚姫は、悲しくも美しいラストだったけど、王子様を誑かそうとする悪い人魚はお仕置きだよ!」
穴の中を覗き込みながら、莉々は卒塔婆を片手に腕を振るう。卒塔婆らしからぬ鈍い音と、空気を切る重たい音が周囲には響く。莉々の卒塔婆の音を聞き、電子の人魚を追いかけようとした男も足を怯ませたようだ。
穴の中からは翠色の触手が、莉々の卒塔婆を封じるべく伸ばされる。しかし、咄嗟に間に入り込んだレケが、身を犠牲に莉々を触手から守る。
(けがさせたらあとでシバかれるし~。……いや、ふたりででかけたってだけでシバかれそう。)
「鮫ちゃん、ありがとう……!人魚はこの下だね。このまま飛び込んじゃおう!」
「にんぎょひめ~まってろ~」
武器を構えたまま、二人は穴の中へと飛び込み、電子の人魚を追い詰めるのだった。
「色んなモンに迷惑かけてくれた割に、二人して楽しくやってんじゃねぇかよ。」
「なるほど、魅了されていなければ彼が怪異に惚れ込んだ感じか。」
未だ舞台上に残る僅かな役者たちの避難を終え、斯波・紫遠と橘・創哲は男と人魚を視界に留める。もうこの電子の海という舞台に、一般人はいない。ここに居るのは√能力者だけだ。
仲間のうちの一人が電子の人魚を舞台の下へと押しやった時、これ好機とばかりに二人が動く。
「観客は掃けただろうし、オレの『ガラス細工』を本格的に使うとするか。」
「生憎キミたちにハッピーエンドは用意してあげられないんだ、ごめんね。」
あれほどまでに狂いの無かった旋律にノイズが走り、電子の海と化したこの場所にもほころびが現れ始めていた。すでに電子の人魚と対峙をしていた者たちが、彼女の力を削ってくれたのだ。
「流石に好いた人が殺される様は見せたくない。」
舞台上の大きな穴へと落ちた人魚を助けようと動いた男。その身を、電子の人魚から引きはがすように紫遠は細かい煙のようなレーザー。『煙雨』を男と人魚の間に放つ。
『お前も邪魔をするのか……!』
男の足は穴から紫遠へと向く。怒りのままに拳を握り、紫遠の攻撃の妨害を試みた。しかし、並みの一般人なら兎も角、紫遠は√能力者だ。それも狗神憑きの妖怪探偵でもある。
「お兄さんにはあまり力を使いたくないんだよね。」
電子の人魚は一旦、創哲に任せて紫遠は【狗神】の宿怨を身に纏う。軽々と男の首根っこを掴んで客席へと男を放り投げた。手も足も出ないとはこのことだろう。男は紫遠に掴まれた身を丸め、次に来るであろう衝撃を受け止めるので精一杯だ。
客席へと落ちた男を確認した紫遠は、満足そうに頷く。これならばこちらの攻撃に巻き込まれることもない。そして皆の邪魔にもならない。それぞれが思う存分、電子の人魚と刃を交えることが出来るだろう。
「まぁ好みなんて人それぞれだからとやかく言う気はないけどね。」
痛みに身悶える男は、客席から舞台上の紫遠を見上げた。そこに苦痛の色が滲む。
「感情をノイズだなんて滅多な事は言うもんじゃないよ。」
自らの身を持って、それを示そう。穴から躍り出た人魚が、数多の攻撃を受けてぼろぼろになりながらも、声なき声で二人へと立ち向かう。
中途半端に切られた髪の毛は豊かな海色から翠色、灰色と、この場に現れた時の美しい姿を保ってはいない。そんな人魚の姿に紫遠は目を細め、自らもまた怨讐の炎を纏わせた身で人魚の懐に飛び込み、喉元を狙う。声なき声をあげていた人魚の歌声が、壊れたラジオの如くノイズばかりを拾い上げ、不快な悲鳴をあげた。人魚の喉元からは白炎がじりじりとたちのぼり、ノイズばかりを晒すそこを焼いて行く。この力を使えば使う程に、紫遠の身もまた重さがのしかかってくるのだ。
「綺麗なビジュアルしてやがるが、もっとイカしたアートにしてやんよ!」
紫遠が電子の人魚へと一撃を食らわせている間、アタッシュケースからガラス細工を取り出し、人魚の尾鰭へと転がす。舞台上に広がる穴の方へところころと転がり始めたガラス細工は、林檎の形だ。硝子の林檎が人魚の尾鰭へと触れた瞬間、紫遠を巻き込まない程度の派手な爆発が起きる。
「いつもより豪勢に振舞ってやるぜ!」
両手に一杯のガラス細工を抱え、創哲は一定の距離を保ったままそれらを投げた。林檎、みかん、桃。最初は丸い果物を。狙いを定めてバナナやパイナップルの形のガラス細工を投げる様は、舞台上で作品を生み出す一人の芸術家の姿を色濃く現す。
芸術は爆発と言う。言葉の通り、ランダムに投げた爆弾が、時間差で爆発をして行く様は、一種の芸術のように思えた。派手な爆音が響き、足場が少しずつ崩れる。うつくしい人魚は創哲の作品の一部となり、爆ぜてはノイズを走らせる。
紫遠に当たらない分、爆弾は創哲自身にも襲い掛かる。爆ぜた火の粉や爆風の餌食になりながらも、創哲は作品を創り続けた。痛みに表情を曇らせることもなく、終始楽し気に笑う姿は美術商として、この作品に価値を見出したからだろうか。
「終幕は派手な方が良いだろ?」
舞台上の作品に巻き込まれぬようにと紫遠は下がり、客席の男へと視線を向ける。口調は常の如く、そこに厳しさはない。けれども鋭さはあった。
「今キミが彼女に感じているものだって大事な感情で、ノイズなんかじゃないだろ。」
「琴線を震わすのはいつの時も感情なんだから。」
実際に自分の胸の裡だって、誰かの感情が触れることもある。触れたいと思うこともある。それを知る紫遠の言葉に、男は舞台上を眺めて唇を噛みしめていた。
舞台上で繰り広げられる演舞。仲間たちが踊り、そして歌い、各々が電子の人魚と男へ言葉をかけていた。そんな折に一文字・伽藍は上空から周囲を見渡し、電子の海と化したこの場所に感嘆の息を漏らす。
「ワォ、海ん中っぽい。プロジェクションマッピングみたいなやつ?」
完全にあちらの手の内。そんな心地にさせる。しかし、言葉を紡げば泡となり、上空へと立ち昇っては弾ける様が面白い。口の中の酸素をふっ、と吹きかけ、小さなあぶくを作りながらも、伽藍は客席に投げつけられた男を見下ろす。
「ノイズとはまた随分な言われよう〜。誰かを想うことなんて、ノイズだらけだと思うけど?」
伽藍の存在に気付いた男が真っ直ぐに伽藍を睨みつける。
「ワァ、こわい。」
上空で胡坐を組んだまま、さして怖がる様子もなく表情だけは、貼り付けたかのような笑みを浮かべる。怖い怖いだなんて、思ってもいないのに両腕を摩る。しかし、貼り付けただけの笑みはすぐに戻り、冷めた視線を男に向ける。
「あのさー。恋心は複雑なんやぞ、知らんのか。」
「じゃなきゃ世の中、あんな沢山のラブソングは生まれないわな。」
客席で動けないままの男を見下ろしたまま、上空で立ち上がり言葉を続ける。男の言い分には伽藍自身も、思う事は山のようにあるのだ。舞台役者よろしく、劇中に投げかけるかのような男のセリフは聞き捨てならない。その人の感情を否定するのも胸糞悪い。
「っつかさァ、アンタ王子様だってんなら、人魚姫の|感情、葛藤《ノイズ》を否定すんのはどうなの?」
ここが上空でなければ、今頃劇場内にヒールの音が響いていたに違いない。がつん、と片足を空に打ち付けてしまう。男の言葉が心の内側で燻り、自らの感情が表情と言葉と脚に乗る。不機嫌です。気に入らない。様々な感情が入り乱れ、伽藍の言葉は次第に熱量を増す。
「王子様への恋心で生きて消えたんだ、ノイズなんてあるに決まってる。ただ愛しいだけで終われるほど、恋は生易しいもんじゃなくってよ。」
息継ぎをすることすら忘れて、伽藍は自らの胸の中のもやもやを吐き出す。酸素があるのだから息継ぎなんぞなくとも良い。兎に角気に食わない。ああ、気に食わない。
「電子音声だって作者の熱が乗んだぞ。それさえない歌声が完全とか、笑わせんな。」
頭も腹も煮えたぎって仕方がない。自らの色はこの場を染め上げる青緑よりも澄んだ夏色だというのに、今の気持ちは真っ赤な太陽だ。ぎらぎらと照りつけ、男を燃やし尽くすそんな色。
「……ってことで。」
気に入りません。だなんて表情を隠しもせずに、客席で伽藍を見上げる男へと人差し指を向けた。
「伽藍ちゃん個人的に気に食わねェので、アンタらの魂と脳みそグッラグラにしてあげる。」
ばちん!電子の海から現れた|閃光《クイックシルバー》が爆ぜる。
――|解釈不一致!《エモーショナルマイナス》
男へと捧げる歌は、何もかもがぐらぐらの不安定さを示すラブソング。魂が、感情が、そこから生まれるものがノイズだというのなら、そのノイズを最後まで聞いて行け。耳を塞ぐことは許さない。自身を中心に声を張り上げ、重厚な音を届ける。耳から入り込んだ音で脳髄を揺さぶり、男の魂に叫び続けた。
「これが、ハードでロック、ノイズまみれのラブソングだ!」
怒りを乗せた伽藍の眼差しに熱がこもる。これが生きている歌、生きている曲、そして感情という熱だ。
伽藍の歌声が深海を震わせ、電子がほつほつと弾けて行く。幻想的な世界に不釣り合いなロック。重い歌声で、人魚の作り上げた夢を塗り替えて行く。
負けじと声を張り上げる電子の人魚の歌声は、既に透明感を失い古いカセットテープを思わせるレトロな歌声へと色を変えていた。声と声、歌と歌。感情を排除しろと命じられた者と、心のままに歌う者。
伽藍の邪魔をする者は誰もいない。歌が詠唱代わりの|羊の数え歌《カウンティング・シープ》で、クイックシルバーを散らしたのだから。伽藍の周囲を走る光が、電子の歌声を捌いているなど誰が思うのだろうか。
「皆々様、お耳を拝借!」
男へと向けていた指を高く掲げ、人差し指をくいっと曲げてクイックシルバーへとラストの合図。眩い光が舞台上で明滅を繰り返し、曲の終わりと同時に爆ぜる。
完全なる王子への愛も、ノイズまみれのラブソングの前では永遠を誓えなかった。
後方から舞台上へとラムネが駆け寄った頃には、男は舞台下の客席――安全な場所へと避難をさせられていた。客席で痛みに身悶える男を見つめ、ラムネは口を開いた。
「ここは貴方方だけの舞台じゃない。努力をして立った役者さんたちの、お客さんたちの。みんなで作り上げるはずだった舞台だ。」
握った拳に力がこもってしまうのも、立見席で舞台を眺めていたラムネだからこそだろうか。人魚姫の舞台に魅入る者たち、憧れに瞳を輝かせる者、そして自らも確かに感じた感情。ラムネは男を庇うように、背へと隠す。対峙をするのは電子の人魚、ただ一人だ。
「あくまでも自身の考えだから、押し付ける気はないけど。」
「その人たちのことそっちのけでさ。好き勝手やるのは……よくない、んじゃないかな。」
背後で呻き声をあげる男の声を聞き、男がまだ生きている事に安堵をする。それはそれ、これはこれだ。今回は仕事で来ているのだから、任されたことはきちんとこなす。
「悪いけど、歌姫さんには眠ってもらう。」
電子の海を作り上げた歌姫が、中途半端に切られた髪の毛を揺蕩わせ、ラムネに襲い掛かる。豊かな海色は先の戦いで途切れ、生き物の如く蠢く翠色も力がない。深海の魔女へと姿を変えても、大切な王子様である男を守るべく、電子の人魚は自らの身を犠牲に立ち向かう。その姿は、ヒーローたるラムネにどこか重なるかもしれない。大切な者のために力をふるい、たった一人の王子様のために声をあげる。
ちくりとラムネの胸が痛んだ。電子の人魚の触手をオーラで弾き、軸がぶれぬようにと両足で踏ん張る。
(本当に好きなのであれば、……歌姫を眠らせることに心が痛むけれど……。)
(けど、……だめだ。)
ここで電子の人魚、歌姫である彼女を眠らせなければ、男だけではない。他の者まで巻き込まれてしまう可能性は十分にある。ラムネは、頭では理解をしているのだ。この場で情に流されてしまうこと。それが命取りになるのだということも、充分に理解をしている。なによりも、この舞台を作り上げた者たちの笑顔も、夢も、己のエゴで真っ新にはしたくない。
「だからせめて……。」
オーラで弾いた触手を右手で掴み、左手は空に掲げる。電子の海に淡い光が齎される。己の魂の断片、雨上がりの白焔。輝き、そして翔ける翼――――天槍アルカンシェル。
「この槍撃を以って葬送の手向けとする。」
白い焔の如く翼を広げ、幸いを齎す。無力化の右手でぼろぼろに崩れ落ちる歌姫を固定し、ラムネはその心臓を目掛けて槍を突き刺した。
激しいノイズの音が周囲に響き渡る。劇場を壊さぬようにと立ち回ってはいたが、これが歌姫の抵抗だろうか。電子の海がノイズと共に消えて行くのと同時に、辺りは小刻みに揺れ、砂煙が舞い上がり舞台がゆっくりと崩れ落ちて行く。
事の行く末を見ていた男が喚き、静かに涙をこぼす。人魚への心は本物だったらしい。背後から聞こえる声に耳を傾けたラムネは、そっと瞼を閉じた。
全てが終わった。幸いにして役者も観客も、そして男も皆無事だ。この場に訪れていた者が男を確保し、男はしかるべき対応を受ける事だろう。
崩れた舞台や砂まみれの客席を見つめながらも、役者たちは笑みを浮かべていた。
『また最初から始める良い機会になりました。』
もちろん誰もが前を向けるわけではない。けれど、再びこの場に笑顔と夢が咲くようにと願い、そして復興の手伝いをするラムネには、初めて人間の足を手に入れた人魚のように、期待と不安の入り交じった姿が眩しく見えていた。
そういえば、あの言葉には他の意味もあるらしい。
嘆き悲しんで恋焦がれる音よりも、復興に向けて前を向く人々には、この音が相応しいだろうか。
『|I miss you!《また見に来てね!》』